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Aug 11, 2006
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カテゴリ: 劇評
現在形の批評 #39(舞台)

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「TOKYO SCAPE」 bird's-eye view 『girl girl boy girl boy』-

7月29日 ART COMPLEX 1928 マチネ

バーズ・アイ・ビュウ


この夏、東京が京都で


7月26日から8月6日までの2週間、「TOKYO SCAPE」と題して東京の6劇団が京都の4劇場で公演した。演劇の東京一極集中化に一石を投じることがこのフェスティバルの根幹だという。もっとも、具体的にその理念を各劇団の当日パンフレットから引用すれば、「(東京の劇団による地方公演が)一過性の公演の連続」に終わるだけでは果たして「本当に交流は進んでいる」と言えるだろうか、また東京一極集中化は「日本の文化を支える背景を脆弱化」させてしまう。「まずは互いの存在を知り、表現の多様性を広めるべき」であることを参加劇団達の共通認識として抱いたという。そして、なぜ京都で公演することになったのかは風琴工房主宰で、今フェスティバルディレクターの詩森ろばが、「京都の演劇の創作環境の素晴らしさとそこから生まれた作品の数々を尊敬しているから」と述べている(「TOKYO SCAPE」チラシより)。確かに、京都は90年代半ばから新たな演劇都市として多数の劇作家や劇団を輩出している地であること、古都京都の文化風土の歴史性に東京の完全なる都市文化を持ち込むことでどんな化学変化が起きるのかを試してみることは双方にとって新たな発見となるであろう。私は3つの劇団(bird's-eye view、restーN、劇団桃唄309)を観ることができたが、中でも特に興味深かったbird's-eye viewについて以下、触れていくことにする。


bird's-eye viewの『girl girl boy girl boy』(7月29日 ART COMPLEX 1928)は、かなりポップな空間が形成されていることが開場した劇場内へ足を踏み入れればすぐに了解できる。対面式の客席、演技フィールドとなる舞台真ん中には、4対のマネキン(男女2対ずつ)と、それらを囲むように天井からは格子状に編まれたビニールチューブが伸びている。加えて、グラデーション鮮やかに設定された青や緑といった暖色系の照明が既にある種の世界を形作っている。まずこの視覚的なスタイリッシュさがこの劇団の持ち味にしていることが伺える。作品内容も一言で言い表せばドライな明るさとでも言えるくらい、あくまでもスタイリッシュである。


12の断章からなるオムニバス形式のこの舞台作品に貫かれているのは、舞台写真から当初予想していた抽象的なものとは大きく異なる<笑い>であった。しかし、表層的には全てただのショートコントの寄せ集めのように見えるが、そこに含まれている核は意外にも私達、若者が抱える人間の問題に加えて演劇的考察も可能にさせるほどに深いものを感じさせるのだ。テーマは分かり易いほどに明らかで、コミュニケーションの不在と集団創作という2つの問題を探ることができる。前者は人間の問題として、後者は演劇の問題としてである。


プロローグは、外国人の「私達の住む世界はあまりにもありきたりすぎる」というナレーションによってこの舞台は始まる。テーマが明らかであるというのは、例えば2つ目の『ゴニョゴニョ』と題されたショートストーリーを例にすると、これは、近くで話す人間の声が全て「ゴニョゴニョ」という雑音にしか聞こえないが、ある程度の距離さえあれば正常に相手の話す言葉が理解できる、という不条理な設定の基、人間同士の会話のズレと困難さを描いた作品である。先述の、ただのコントのように思われるというのは、その会話のすれ違いが全て笑いに収斂して観客を楽しませるためなのだが、近づけば言語不明瞭になるという一点に注視すれば、個々に持っているパーソナルスペーをが侵されることの拒否を意味しているだろうし、そのことは結果として警戒心の強い人間性がうまく反映されている。このようにして、以下ショートストーリーはこういった変奏曲のようなものが続いていくのだが、見落としてはならない重要な3つのストーリーを挙げておかねばならない。すなわち、5つ目の『逆意味』と8つ目の『マイムマイム』、そして9つ目の『自分当て』の3つである。


『逆意味』という作品は、好きな女子を体育館裏に呼び出して告白しようとする男子が、思ったことと正反対な言葉しか口にできない人間であっために事がうまく運ばないというもの。しかし話のオチは、その女子が同じく逆の言葉しか話せない別の男子の告白(好きじゃない)には素直に答えるというものである。ここでは、思った意志を声に出して発語するという言葉の意味性は問題ではなく、有効性を持つのは誰がしゃべったのかという点である。すなわちこの話で女子は、結局外見で相手を判断しただけであって、言われた言語を受け止め、さらに自分で反芻し、その結果断るにしても相手を傷つけまいとする誠意や人間関係を円滑に運ぶといった「大人の対応」が徒労でしかないという言語コミュニケーションの無意味製をドライな感覚で描き出している。


『マイムマイム』は職員室へとやってきた新任教師がこれまた翻弄される話である。新任の体育教師と他の教師達は、電話を取ったりロッカーに荷物を入れたり、お茶を<普通>に飲めるのだが、社会科担当の新任教師だけはそれができない。なぜならば舞台はマネキンが取り除かれた後の素舞台であって、もちろん実際には職員室のドアも電話もロッカーもないのだから。現実的には素舞台という誰が見ても明らかに舞台には「何もない」ことは了解しているため社会科教師はお茶を飲むことも電話をすることもできない。だが、同じ条件でも他の人物はマイムをすることで演劇的に「本当の」物事に触れ、感じ取ることが出来る。つまり、各々の拠って立つ位相を相容れなく個別に信じ入るが為のすれ違いが生じているのだ。コミュニケーションの困難さと共に、果たして何が「リアル」と呼べるものなのかという先に触れた2つ目の演劇の問題が加味された話として一歩発展させられている。


最後の『自分当て』とは、登場人物それぞれがキーワード(名刺)の書かれた帽子を被り、他者との会話から推測して自分のキーワードは何かを当てるゲームである。キーワードは「スイカ」「カブトムシ」「浴衣」といった夏に関連したもので、この作品部のみ本番当日まで「リアル」にテーマもキーワードも知らせていないようで、完全にアドリブで進行してく点は他とは異なった趣向をみせていた。楽しそうに遊ぶ俳優達のまさにナマの個性が遺憾なく発揮される所であり、なるほどこのゲームで主導権を取っていた俳優はその他でもボケ役として話の中心人物として機能している等、俳優としての力量が露呈される。『マイムマイム』は、社会科教師が現実世界を生きているにせよ、劇場にいて、衣装を着て、観客の多数の目に晒されているという作品設定上の非日常性は首肯した上で進んでいく。そういった約束事は虚構世界に生きる他の教師役にも当てはまる。しかし『自分当て』は舞台に立つという非日常性のとば口を前提にしつつも、前提のすれ違いがない所に、演劇の遊戯性が最も現れていた箇所として注目できるし、この劇団が集団創作という手法で作品を創造しており、ここにはその創作過程の一旦を垣間見ることができるという点で重要となっているのである。「私達の住む世界はあまりにもありきたりすぎる」とは彼ら自身の日々感じていることであり、遊びという演劇の根源的特性で以ってそのありきたりな日常に斜めの切り口を入れることで噴出する思わぬ不思議さや奇妙さを追求しているのだ。だから、作品がドライで明るいのである。


舞台のラストは登場人物の一人が物質化してしまい、他のマネキンと共に持ち運ばれて終わる。コミュニケーションが成立しなくなった世界に生きる人間はあたかも記号や物と同義であるという意味である。良くも悪くも社会を駆動させるのは、無意識をも含めた原初的な人間の存在や、それがもたらす人間同士の関係性(それを最も濃密化して表現するのが演劇である)であるが、表層的な差異のみが情報として流通し、そこから善悪や区分といった記号のみが判断基準へと転換して久しい今日の気分というものを、この作品のようなドライで明るい作風はうまく反映させている。だだし、補足しておきたいのは、集団創作というやり方は、俳優同士の隠れた個性を発見し、その俳優自身に適応した台詞を見つけることができるという利点があるが、どこまでいっても基点は自分自身でしかない。年月が経てば経つほど、鮮度という名の集団創作の要が薄くなってくるとうことは言っておきたい。人間がこの作品の登場人物のようにロボット化してしまった時、バリエーションはおのずと限界を迎えることになるのだから。


最後に演劇の東京一極集中化について。それは何も今に始まった事ではなく、60年代後半の小劇場演劇の勃興期とその隆盛は新宿という闘争の場と連動して胎動したのであり、80年代以降の所謂ポップな同時代的感性を反映した演劇も東京が発信地であった。その頃から劇団と劇場の数が飽和状態になって今に至っているのだが、その根源を求めれば、つかこうへいブームが起きた70年代中盤以降であることは周知の通りである。関西で言えば、遅れること数年、80年代に入ってからオレンジルームを中心にして小劇場ブームが起きた際、やはり影響を与えたのはつかこうへいであった。こうして現代演劇史を俯瞰してみても、いつもムーブメントは東京から地方へと広がってきたのである。


大阪に住んでいる私の実感として「エンタメの大阪」、「芸術の京都」という印象が強くなっている。今回「TOKYO SCAPE」で6劇団が京都を選んだのが正解だと思われるのは、劇場の廃館と設立が目覚しい大阪よりも、京都の地が育んだ歴史に寄り添うように落ち着いて熟成されてきた「芸術」を感じ取ったことにあるからだ。まだまだ地方公演するには経済体力のないのが若手劇団の宿命だが、企画に乗って単に地方公演を敢行し、一過性に消費されて終わることだけは避けたいという意志が今回の京都公演には感じられた。パンフレットの文言は信じても良いだろう。





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Last updated  Apr 13, 2009 03:53:44 PM


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