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演じる俳優を見て私が思ったのは、『真剣10代しゃべり場』に出てくる若者の姿である。主張したいことは山ほどあるのに、人前でうまく会話できず、ディスコミュニケーション状態から脱しきれないもどかしさに汲々するあの若者である。繰り返す動作はそれの証左ではないかと。テレビで見たために余計にそう思う。『ユリイカ』2005年7月号において岡田がなぜ「だらだらしたノイジーな身体を」舞台に上げるかについて、「日常における身体は、演劇の身体としてじゅうぶんに通用するだけの過剰さをすでに備えている」と述べている。つまり、俳優訓練を行い、観客を非日常へと誘う身体をわざわざ措定する必要性がないという訳である。日常身体そのままで十分何事かを成し得るということなのだろう。目指す目論見は、日常身体同士が織り成す日常的反応をつぶさに観察することにより、人間を表層的に把握しようというものである。しかし、私はそれでは駄目だと思う。なぜなら、舞台で何かをするということ自体、演じることから逃れられなく「つぶさ」な人間性が表れることなどないからである。創られた=表現としての身体がどう現実を照射し且つ隠された真実を露呈させるか、それこそが舞台で何事かをするということである。「言語」と「身体」の不一致を目指したと岡田は言うが、それこそ2つをバラバラにすればするほど、限りなく現代人の身体的特徴を逆証するという「表現」へ繋がっていくのではないだろうか。( 現在形の批評 #20岡田の舞台で行われることは常に、身体の単純動作、言い間違いや繰り返しをも含めた長々とした長文の言語である。これは、全てが「過剰さ」で出来た世界であり、それはパソコン上で溢れる情報過多にも似た、何事をも体現することは困難で回りくどいという「今」という時代を生きる人間関係の姿と同一である。この舞台が『目的地』と比べて一目瞭然なのは、その過剰さが消え、まるで正反対であるという点だろう。一人の台詞がひたすら長い点は同じでも長い「間」があるが為に余計に冗漫さを感じるのだが、言語の洪水のような過剰さに反作用的に働くこの「間」がある種のバランスを取っている。身体は同じ動作の繰り返しとは打って変わって一つの動作、例えばかがむという動作なら、ゆっくりとかがみ込みながら台詞を喋り、最終的にその体制を大事に保存する。そして別段『目的地』のように、プロジェクターに投影された「文字」が舞台背景を取り巻く状況について説明するといったこともない。