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May 24, 2007
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カテゴリ: 劇評
現在形の批評 #62(舞台)

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アルディッティ弦楽四重奏団+ケージ+白井剛  『アパートメントハウス1776』


5月18日 伊丹アイフォニックホール ソワレ


アルディッテイ


見事なイメージの共有が生み出すコラボレーションの形

異なる芸術ジャンルが一つ所で共演する、所謂コラボレーションという方式の多くが成功しないのは、顔合わせの新鮮さだけしか考えない理念なき単純さが、組み合わせの新奇さ以上の何ものも生み出さないからである。しかし、アルディッティ弦楽四重奏団+ケージ+白井剛という取り合わせの成功はそうではなく、まさに「ハーモニー」を奏でるが如く身体・楽器から遊離したイメージ群が観客の想像力を刺激するからである。両者の間の親和空間の形成とその維持の一点に向かって、観客をも含めた場の全体が投企するかのようであった。したがって、この舞台はコラボレーションの一つの在り方を示した。


白井剛が登場してからの第二部は私の予想を裏切るものだった。クラシックに知悉しているわけではない私にとって、それでもアルディッティ弦楽四重奏団による第一部が興味深かったのは、舞台真ん中で向かい合って演奏する彼らから、身体性の強さに気付かされたからである。四人は演奏開始の音合わせはもちろんのこと、観客席にまで聞こえるくらい終始、呼吸を合わせる。ピンと張り詰めた空気を作った身体が、流れような旋律を持たない激しい曲調の演奏を行う。それ故、何度も叩き付けられるように引かれた弦はとうとう切れてしまう。もちろんこのダイナミズムさは選曲に拠る所が大なわけだが、それを抜きにしても四人の身体+楽器から感得されるファナティックなパッションと、時に訪れる夜の海のような寡黙さとの見事なコントラストは圧巻である。そのために、いつしか我々は微動だにすることなく集中を彼らへと注ぎ続け、字義通り固唾を飲んで対峙する姿勢になるのだ。


その後の第二部は、そういった緊張の中を白井剛が如何様に分け入って行くかが注目点となるのは当然だろう。鍛錬された姿態から導き出される審美的フォルムを、ただただ生音をバックに披露するという安易な手法を採るとは思ってはいなかった。しかし、少なくとも音楽(演奏者)を身体と拮抗するという意味で異なったベクトルと捉え、その間から透けて見える白井剛というダンサーの個性をその都度即興的に模索し、生きる様を提示するのではないかとは思っていた。しかし、白井剛が行ったのは演奏者+観客と「溶融」するというものであった。


白井剛の身体は内向的なものとして存在した。場に存在する諸要素とあくまでも並列的に対置しようとする身体。高次のイメージへ奉仕する身体とでも言おうか。ちょっと内気な身体ながら、でも好奇心といたずら心に溢れた子供のような無邪気さが感じられる。白井の行動は、子供が舞台上をちょこまかと動き回っていたずらをするようなものであった。その過程の内に、開かれた外部へと場に居合わせた者を誘うに至った点は白眉であった。


具体的には、演奏の高低・リズムに連動させて身体を動かせたり、演奏者の間に入り込んで指揮者の真似事をしてみたり、時に演奏者に触れてみたりといったものだ。おずおずとした性格を打ち負かしてしまう、「好奇心といたずら心に溢れた無邪気」な子供心は、しだいに場全体に瀰漫しゆきやがて和ませ、笑いすら生み出す。冒頭で記した「ハーモニー」たる所以は、白井剛の無邪気なトリックスター性にある。だが、決して場を掻き乱すのではない。子供なら誰でも抱く壮大な夢―大空への飛翔―への憧れという純粋さを、空間に存在するありとあらゆる人・モノに一陣の爽やかなる風を吹き込ませるように伝播させるやさしさに似たものだった。


この舞台では浮遊するガス風船が重要なアイテムであり、「大空への飛翔」のシーニュの立役者として登場する。初めは、ひもに括り付けられた紙ヒコーキの質量に負けて床に付いてしまうが、やがて均衡を保って上空へ浮かんでゆく。その後方の壁にはケージの五線譜が投影されている。映像は滑走路を走る飛行機から、上空を浮遊する映像に変わる。そこに羽ばたく格好をした白井剛と弦楽四重奏団の演奏が加わる。ガス風船、映像、身体、音楽がミックスされた時の見事なタブローは美しく感動的ですらある。おそらく舞台の肝は、飛躍するイメージの共有を完遂するこの一瞬間の親和空間の形成にあると言って良い。


そもそも第一部の硬質さと、第二部の親和空間とで構成される舞台自体に絶妙な緩急が認められる。決してどちらかが単独で主張することはない。音楽とパフォーマンスが溶融して表現されるシンフォニーの妙味がある。コラボレーションの目的とは、閉塞した個々のジャンルを再び開かれた地平へ押し出す過程であり、極めて自己内省的な思索作業が根底にある。単なる足し算では得られないイメージの創出を達成したこの舞台は、それに加えて音楽演奏、コンテンポラリーダンスへの問いとしてそれぞれの領域へと還元されるだろう。


しかし、どうにもならない動かし難い事実があえて気になっている。上演空間は「劇場」ではなく、冠せられた「ホール」の名に相応しい三階席まで含めた収容人数約500人の中規模空間である。張り出した舞台はプロセニアムアーチのような固定した印象を薄めてはいるものの、前に座った観客の頭が邪魔にならない十分な傾斜角と座り心地の良い椅子、ウッド長の落ち着いた印象を与える色彩、果てしなく高い天井には瀟洒な照明機材が設えられている。これは小劇場ではありえない、このような空間にさほど好んで出入りしていない者にとっては、筏帆船にいるかのような居心地の良さは新鮮であった。それだけに、空間が発する高級さにこれまで記述してきた事柄を先導されたのではないかとの思いを正直感じる。


もちろん、舞台内容と空間は必然的な関連性がある。高い天井ぎりぎりまで昇ったガス風船が照明の光を反射して美しく輝く光景はこの空間だから実現できたものである。しかし、立派な装置と内装を施された劇場が、白井剛とアルディッティ弦楽四重奏団による完成度の高い「セッション」を、客席の向こうで綺麗に円環を閉じる「高級芸術」へと過剰に仕立てているのであれば、私たちはそれをただ享受するしかなくなる。


だから、白井剛が今回のコラボレーションを、自らが属するジャンルへの自己内省的な視線=批評眼を持って臨んだかどうかを、今後の作品で注視する必要がある。





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Last updated  Aug 14, 2009 05:59:55 PM


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