現在形の批評

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Feb 24, 2009
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カテゴリ: 劇評
現在形の批評 #92(舞台)

演劇計画2008

2月15日 京都芸術センター 講堂 ソワレ


床面の軌跡が語ること


寺田みさこと鈴木ユキオが舞台袖からゆっくりとした足取りで入ってくる。照明が限りなく落とされた中で、微細な動きをしばらく展開する二人を見ながら、私は彼らの足元で起こる変化を発見する。それは、身体の重心移動や回転といった足への負荷を掛ける動きによって、力が地面へ伝わった時に顕著に表れる。力学的ベクトルに伴って地面が盛り上がるのだ。当初、床一面柔らかな生地のシーツに覆われていて、それがズレたのではないかと忖度した。しかし、それ以後も床面に着目していると、人物がただ歩くだけでも足跡が付いているようで、やがて舞台前面でも明瞭にそれが確認できた。この時点で、ここはキメ細やかな砂で覆われ且つきれいに舗装された場所であることが了解したのである(横一列に部分的に舗装した為か、継ぎ目のようなものがあるが、それもまたシートのそれに見えたのだ)。


この付けられる跡は、人が動き、倒れ、転げ周り、床面を蹴り上げることに合わせて痕跡を留め、そしていつ付いたのかすら分からない既にある跡と合わさってまた新たな軌跡が作られてゆく。増殖する砂跡は、一度付いたならば消えることがない。もちろん、再び均してしまえば消すことはできるだろう。また、上記に記したように別の跡と合わせることでその姿は変化するという意味での消失はもちろんある。だが、それら一切は、過去に付けられた跡があって可能となるのであり、一度付いたら再び作用が及ばない限りそこに残っていることが肝要なのである。なぜならば、軌跡を付けるダンサーのムーヴメントのつながりは、前の動きを次の瞬間には全く目の前から消し去ってしまうことで展開してゆくのに比べ、強固なものとしてそこに在り続けるからである。そもそもこの儚い消失の運命は、舞台芸術が内包する性質であり、そうであるからこそ何を残せるのかという問題と軸を一にするはずだ。つまり、床面のあとは時間と存在の痕跡であり、登場するダンサーや音楽家、人間存在の明示化であるのだ。不安定な揺れ動きをも含め、身体の存在感を描き留めようとする願いのようなものが、砂の軌跡のよって成される。この空間はライティングフィールドなのである。それはまた、出演者である寺田家(寺田敏夫・みさこ・ちはる)の実の父娘の関係を基底としながら、娘の結婚というフィクションの物語をない交ぜにして、出来しては消える時間と記憶の再現という不可逆性への甘美な所望を、ある種ファンタジーに乗せて描く作品世界と通低する。


舞台の砂漠世界に関しては、1月に観たM_Produce『寿歌西へ』を想起した。この作品では、宙吊りのリヤカーの下から果てしなく流れ出る砂線が、全てのもの・ことを均一的に差異がなく、また実感のないものの謂いとして表現されていた。掬ったところで指の間からさらさらと零れ落ちる実感のなさという現実感を前提としながら、『blue Lion』ではその上で存在を描き付けようとするより能動的な強さが認められる。茫漠とした砂漠から我々は始めるしかない。何もかも枯れ果てた砂漠に放り出されることが、寂寞と孤独という絶望ではなく、そこから何かを構築する手がかりにできないかと。そこから始めようとするのが想像力の意志でもあるはずだ。


そうすると、真っ白い積み木のような小さな四角柱の道具が登場人物達によって様々に床面に並べられたり、組み合わされてゆくシーンを、同時並行で映し出される都市の映像と合わせて見た時、その作業が都市建設そのものであると捉えることができる。また、それらが建設される床面の多数の跡が、照明の明度によってゴツゴツと硬い岩肌のような印象を受け、まるで都市国家建設のための地盤形成のように思われた。一切が砂漠地帯を一から自らの生活空間を形作って変質させてゆく近代化の過程として私は受け止めた。だが、都市の映像の横で、オリの中の動物を映し出した映像が並列する時、再び人間存在の不確かさが顕現する。置かれた多数の白い物体は、照明の当たり具合によって、長い影を放射して存在感を示す一方、それを置いた、つまり都市空間を創造した人間は、都市空間によって侵犯され閉じ込められてしまった我々の似姿に思われる。この時のオリの中の動物とは、都市の中に閉塞する人間を、見られ観察されるそれと同義として示しているのだろう。その視線、自縛からいかに逃れることができるか。倒れた鈴木ユキオの身体を取り囲むように白い物体が並べられ、そこから立ち上がるシーンは一つの要諦である。ピタリと囲まれた中、立ち上がる鈴木は、いくつか倒してしまう。シーンの美しさや身体能力の高さを見せるなら一つも倒さずに行うべきだろう。だが、それほどまでに我々の身体を拘束している都市なるものだとすれば、自らの手で作り上げてきたものの自壊と共に身体の回復があることもまた考えられるのではないだろうか。私はこの舞台での物語性の美しさよりも、空間とモノとが関係する以上のような身体の在り方の別角度からの思考提示が興味深かった。


以上のように考えた私だが、終演後の、場所を移しての演出家フォーラムの席での松田正隆の発言は、それを軌道修正するものとなった。彼は、床面に置かれる物体、動物園のオリ、バイオリニストの父・寺田敏夫が去った後、娘みさこがバイオリンを抱えて横になるシーンや、人と人が抱き合う行為といった様々なシーンに偏在する「囲み」を同じくキーワードにして語った。松田は、愛の意志表示である抱擁も人を囲うことであり、婚姻という旧来の制度のみならず、あらゆる物事が拘束性を帯びた囲みで成り立っている世界を内側から脱構築し、ズラすことによって新たな地歩を築こうとする囲みの肯定をこの舞台から感得したと話した。確かに、我々都市生活者を覆うモノと情報過多で溢れる現代の様相を均一的な砂漠に喩え、その中から立ち上げ(破壊)を図ったとしても、結局の所止め処なく流れ込むそれらの渦から逃れることはできないだろう。床面の紋様や音楽、照明、映像といった要素が身体性を脅かす都市の無尽蔵な情報と見做すことも不可能ではなく、そのように見るならば、舞台全体が箱庭空間のように見えなくもない。人間の存在証明を描き付けるために跡を付けることが希望と書いたが、それは翻って言えばたった一人であったとしても自らの軌跡=足跡は何をするにしても残ってしまうという不自由さの自縛的な囲みから逃れられないということでもあるだろう。松田の意見を基にすれば、その自縛的な囲みに気づくことが非常に肝要なのではないか。鈴木の囲まれた四角柱からの逃れは、単なる都市という外部からの脱出ではなく、自らと同一地平のものとして都市を捉え、壊して否定するのではなく自らを明瞭に認識するための謂いとして捉える思考というべきか。だとすると、内部からのズラしとは、無意識裡の内に忘却していた私性自体が孕んで止まない囲われ者という前提を顕現化する所から始まる。床面に描かれた軌跡と身体との関係とはそういうものなのだろう。





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Last updated  Apr 30, 2009 10:22:07 PM


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