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ララキャット @ Re:烏来老街にいく(11/26) New! へえ、現地語で話しかけられましたか? …
Oct 6, 2024
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カテゴリ: カテゴリ未分類
2020年、コロナ禍のもとで行われた東京オリンピックで、台湾に住んでる人たちが狂喜乱舞したできごとがありました。

王貞治はご存知の通り台湾の王仕福を父に、日本人の王登美(旧姓:當住)を母に生まれましたが、国籍は今でも台湾のままです。
つまり日本のオリンピック聖火ランナーに台湾人が選ばれたと云うこと。
王貞治は台湾では誰でも知ってる台湾のヒーロー。
それを知ってるから、TVで開会式を観ていた台湾人はみんな喜んだのですね。


開会式のエピソードでは、もうひとつ有ります。
オリンピックなど国際スポーツ大会で、台湾は「中華台北 チャイニーズタイペイ(Chinese Taipei)」を名乗り、国旗ではなく梅をモチーフにした専用の旗を使ってます。
「一つの中国」問題をめぐり、中国と台湾との間で繰り広げられた外交戦の結果考え出された措置です。


ところが、この開会式TV中継で、NHKの和久田麻由子アナウンサーが「台湾です!」と「台湾」と云う名を連呼したのです。
最後まで「チャイニーズ・タイペイ」とは呼びませんでした。
台湾メディアが速報で流し、台湾が歓喜の声で包まれた瞬間です。
台湾の人々はNHKを国際放送でよく見ています。
またNHKが日本の「公共放送」であることもよく認知してます。
その公共放送アナウンサーが「台湾」と云う言葉を発したのが、私たち日本人からしたらアタリマエのことが、台湾の人たちには特別なことと映ったのです。
日本のオリンピック委員会も同様の心配りしてました。
台湾を「チャイニーズ・タイペイ」で呼ぶことはオリンピック委員会で決まってることなので覆せませんが...
選手団の入場順は日本語で国名を記した五十音順で実施されます。
なので「チャイニーズタイペイ」は「チ」の順番、チェコに続く107番目なのですが、実施された順番は「台湾」の「タ」、大韓民国の次、タジキスタンの前の104番目で入場させたのです。
2011年に発生した「東日本大震災」に対し、台湾は世界一高額となる250億円超えの義捐金を寄付してくれました。


それは1999年に台湾のほぼ中央に位置する南投県集集鎮を震源としたマグニチュード7.3の大地震です。
震源地の地名をとって「集集地震」と名づけられたこの地震では、死者2,000人、負傷者8,000人超えの大被害をもたらし、台北でさえビルが倒壊するなどまさに台湾を壊滅させるような大地震だったのですね。
この震災にいち早く駆けつけたのが日本の救助隊だったのです。
145人の警察庁や消防庁などの救助隊は台湾政府が台北に用意したホテルを断って、発災翌日には現地で行方不明者の捜索などを開始したのです。
瓦礫の下から生存者を探し出し、助からなかった遺体には整列・敬礼して弔意を示しました。


空港職員は総立ちで敬礼して見送り、さらに機長が「この飛行機には、日本の救援隊が乗っておられます」とアナウンスすると機内は拍手に包まれたと云います。
1894年(明治27年)からおこなわれた日清戦争は、1895年に日本側の勝利と見なす「日清講和条約(下関条約)」の調印によって終結しました。
この条約によって清(中国)は台湾を日本に割譲せざるを得なかったのですね。
ところが清の政策は、台湾の一般民衆に全く知らされずに決められたことで、突然に自分たちの住む土地が割譲され、国籍が日本になるという知らせを聞かされた台湾住民は動揺しました。
こうして抗日運動が台湾各地で勃発するのですね。

一方で日本統治によって、鉱山の開発や鉄道などの建設、水道設備など衛生環境の改善、全土に学校の創設、農林水産業の近代化などで台湾人の生活水準は向上しました。
1945年(昭和20年)には衆議院議員選挙法が改正され、台湾から衆議院議員が選出される道も開かれたのですが、日本の敗戦で実現に至ってません。
日本の統治により台湾人の教育水準は向上し、就学率、識字率ともに世界最高水準を達成したのです。


日本統治の初期段階、日本の出先官庁である台湾総督府の第3代総督"乃木希典"は、軍事行動を前面に出した強硬な統治政策を打ち出し、台湾人の抵抗運動を招きました。
そうした日本の政策を一変させたのが日露戦争で満洲軍総参謀長を務めた英雄"児玉源太郎"でした。
乃木希典と云えば日露戦争で愚策を続けて日本兵を大勢死なせた張本人、対する児玉源太郎はその乃木のやり方を180度改めさせて日本を勝利に導いた人物です。

1898年(明治31年)、児玉源太郎が第4代台湾総督として就任すると、内務省の官僚だった"後藤新平"を民政長官に抜擢し、台湾の硬軟双方を折衷した政策で台湾統治を進めていく方針に切り替えたのです。
そして台湾に日本の法律をそのまま当てはめるのではなく、台湾独自の法律を適用して民族の違いを吸収させようとしたのですね。
民政長官に抜擢された後藤新平はよくご存知ですよね。
1923年(大正12年)におこった「関東大震災」後、山本権兵衛首相を総裁とした「帝都復興審議会」の創設により、大きな復興計画が動きだしました。
この震災を理想的新都建設の好機と考えた後藤は「復興は単に一都市の問題ではなく、日本の発展、国民生活の根本問題」「地震は何度もくる。今後、大きな被害を出さないため、公園と道路をつくる」との信念に基づき、復興に関する国・自治体の権限全てを集約した特設機関「帝都復興省」の設立や、41億円復興計画などを立案しました。
これによって、江戸時代以来の東京市街地の大改造を行い、道路拡張や区画整理などインフラ整備も大きく進んだのです。
そんな後藤新平が台湾で行った政策に「漸減策」と云うのがあります。
時代は遡って1757年以来、清が行なってきたヨーロッパ諸国との交易に話が飛びます。
ヨーロッパ側で中国貿易の大半を握っているのは「イギリス東インド会社」です。
東インド会社は1773年にベンガル阿片(アヘン)の専売権を獲得して、同社は中国への組織的なアヘン売り込みを開始し、中国人社会で一気にアヘンが浸透してしまったのですね。
これが清とイギリスの間で行われた「アヘン戦争」につながるのです。
結局、アヘン戦争はイギリスの一方的勝利に終わり、イギリスへの香港の割譲など清にとって不平等条約とも云える南京条約を締結するしかなくなったのです。

アヘンの蔓延は台湾でも同じことでした。
東インド会社と同じく、当時、台湾を統治していたオランダ人もアヘンを台湾に持ち込んでいたからです。
これが後藤新平をしてアヘン根絶への道を歩ませることになります。
後藤新平の「漸減策」はアヘンを専売にして、登録した中毒患者にのみ販売。
新たな中毒者の発生を防ぎ、50年ほどかけてアヘン中毒者を根絶すると云うものです。
つまり、いきなり全面禁止では隠れてアヘンを使うものが増えるだけで根絶にはほど遠い。
なのでアヘン販売を政府の管理化に置いて、そこでコントロールしようと云うものです。
後藤新平の指揮下、生アヘンを阿片煙膏と呼ばれる「吸うアヘン」に加工する工場を建設。
近代的な大量生産ラインを組んだので、アヘンの加工コストは下がり、台湾総督府にはかなりの金が入ることとなったのです。
さらにアヘンだけでなく、塩や樟脳(しょうのう)も専売制にして、台湾の財政樹立を図りました。
ついには台湾は1914年に、日本本国からの資金援助なしに財政を維持できる財政独立を達成してます。
台湾の経済事情の変化も、アヘン根絶を後押ししました。
1920年代後半になると、台湾経済の発展とアヘン中毒者の漸減により台湾財政における阿片専売の収益はかつてよりもずっと縮小しましたが、逆に台湾の工業が発達するにつれて「中毒者ではない労働者」への需要が増えていたのです。
1928年、台湾総督府は漸減策の根拠となっていた阿片(アヘン)令を改正。
アヘン中毒患者治療専門施設の「阿片矯正院」を設置します。
こうして漸減策は「自然減を待つ」から「積極的に中毒者を治療して減らしていく」と方向転換。
結果として約16万人もいた台湾のアヘン吸引者が、日本敗戦後の1946年6月10日、最後の中毒者の治療が終了し台湾の阿片は根絶されたのです。
最後の中毒者は、陳桂英、女、26歳と記録に残っています。
また後藤は製糖業の育成にも努めました。
「5000円札」で有名な新渡戸稲造を1902年に召喚し、彼を臨時台湾糖務局局長に任命したのです。
新渡戸が製糖事業の指揮をとった結果、1902年には50万トンあまりだった生産高が、3年後の1905年には130万トン近くに激増します。
さらに1940年代には生産量が国内消費量を上回り、過剰生産になるほどまでに発展。
ついに台湾は砂糖の産地として世界に名を轟かせるまでになったのです。
台湾の人口は1896年の約260万人から、1943年には約658万人と2倍以上も増加しました。

日本の教科書には、日本が台湾を近代化するために何をしたか載ってませんが、台湾の教科書には衛生環境が改善されたことやインフラが整備されたことなどを具体的な数字を交えて載せてます。
日本統治時代の日本人との絆を台湾の人々は今も忘れないでいてくれるのです。


最後に台南郊外にある道教の「鎮安堂 飛虎将軍廟」のことを。
この飛虎将軍廟はなんと毎日「君が代」を流していることで有名です。
なんで? それは飛虎将軍廟が1944年(昭和19年)の台湾沖航空戦で敵機グラマンに体当たりして戦死した杉浦茂峰少尉を祀る廟だからです。

太平洋戦争末期近くアメリカ軍は、フィリピン攻略戦の前哨戦として台湾各地に航空決戦を挑んできました。
杉浦少尉はこの日、アメリカ軍に零戦で挑みましたが、多勢に無勢、しだいに味方の損害ばかりが増えていきます。
自身の零戦も敵弾を受け尾翼より発火し、爆発寸前の危機。
そこでグラマンを避けるため急降下をしていたとき、地面を見たら何と下は海尾寮と云う大部落。
このままでは自機の爆発で村が大被害に。

杉浦少尉の決断はひとつしかありませんでした。
もう一度、自機を立て直して上空に舞い上がること。
しかし、そこにはグラマンの大群。
機体損傷の激しい自機では討ち取られるのが目に見えて分かってるのですが、何としても村の被害を食い止めなきゃなりません。
そして、ついにグラマンとともに運命をともにしたのです。
自身の命とひきかえに村を守ってくれた杉浦少尉に感謝をこめて、村人が建立したのが飛虎将軍廟だったのです。





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Last updated  Oct 6, 2024 05:14:52 AM
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