東方見雲録

東方見雲録

2026.08.28
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カテゴリ: ランドスケープ



使用開始日    2010年10月15日
意匠図案説明   早稲田大学大隈講堂と都電をデザインしました。
開設場所     〒169-8799 東京都新宿区大久保3-14-8

大久保



地域名や現在でも残る町名が生まれたのは、江戸時代に遡ります。
天正19年に西大久保村と東大久保村に分かれ、慶長7年には西大久保村の西部エリアが百人町と命名されました。

江戸幕府が倒れ、明治22年になると町村制度が施行され、分かれていた東大久保村、西大久保村、大久保百人町が合併されて大久保村になりました。
大正元年には、大久保町に改称された一方、大久保百人町エリアが分かれて百人町となります。

昭和7年には淀橋区ができ、東大久保は1丁目~3丁目まで、西大久保は1丁目~4丁目まで、百人町は1丁目~4丁目に区画されました。
戦後の昭和22年3月に、新宿区ができます。


江戸時代から明治時代にかけて、大久保から早稲田のエリアは藪や森、田園が広がっており、日中でも人気が少ないエリアでした。
現在のような人出はまったくない、自然と田畑が広がる場所だったのです。
早稲田では稲作が行われていましたが、大久保村は畑作が主流で、野菜などの栽培が盛んでした。
・・・・
明治時代から大正時代の大久保

田畑を耕さなくなった農民たちは、植木職人として庭造りの仕事に従事したり、種樹の培養の仕事などに携わる人が多く見られたりしました。
培養や植木の仕事が選ばれたのは、実は大久保の地では江戸時代より、つつじの培養を行っていたため、所縁があったからです。
江戸時代から培養されていたつづじは、明治16年頃にはつつじ畑ができあがっていました。

しかし、この地に甲武線が通ることが決まると邪魔になったため、明治36年に日比谷公園につつじを売却したという歴史も残されています。
こうした歴史もあり、大久保が市街地化していった際の地主の多くは、つつじを培養していた花屋であったといわれています。

明治18年2月1日には新宿駅が開業しますが、この時代の新宿は住宅も商店もほとんどない寂しい場所でした。

交通の便がよくなり、駅が集まったこともあり、原料や商品の物流がスムーズになったことから、大久保町や新宿の発展へとつながっていったのです。
引用サイト: こちら

つづじ









都電
都電荒川線
早稲田~三ノ輪間の約12.2kmを、およそ53分で運行する都電荒川線。明治44年(1911)に開通し、現在、東京都に唯一残る路面電車です。

都民の足として活躍するほか、レトロなチンチン電車は鉄道ファンや観光客にも人気。新宿区内の停留所は、早稲田と面影橋(おもかげばし)の2つです。

こちら


染の王国・新宿

引用サイト:新宿区染色協議会   こちら


関連日記:2022.06.02の日記 戸山公園 フィールドミュージアム   こちら
関連サイト:戸山相談所「染織り講座」から水元「耕作体験」に   こちら







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Last updated  2026.08.28 00:00:06
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