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荒覇吐と瀬織津姫(1) 考古学者で言語学者の川崎真治氏は、1991年に、六興出版より出版された『謎の神アラハバキ』で次のように述べておられます。「アラハバキ神は、父が天の神で、母が地の神である。これらの神のつながりこそ、『東日流(つがる)外三郡誌』の神髄であったのである。問題は、上古の日本に、アラハバキ神という『神』が実在したか否かにある。存在証明が言語学的に、神話学的に、文化人類学的に、民俗学的に、はたまた考古学的になされれば 『東日流外三郡誌』の記事のかなりの部分が『真の歴史』といえるのである」 東日流外三郡誌によりますと、津軽には阿曽辺族という種族が平和に暮らしていたのですが、岩木山が噴火して絶滅しかかったところに津保化族というツングース系の種族が海からやってきて阿曽辺族を虐殺し、津軽は津保化族の天下となりました。その後、中国の晋では恵王(けいおう)帝の公子が殺されるといった内紛が生じ、晋に追われて公子の一族がやってきて津保化族を平定したのですが、その頃神武天皇に追われた長髄彦の一族もやってきたのです。長髄彦はこの公子の娘を娶り、両民族は混血融和して「荒覇吐族」と言うようになったというのです。ところで荒覇吐とは、もともとは民族の名『アラハバキカムイ』であって神の名ではなかったのですが、『荒覇吐族が信奉する神』ということから後に神の名に転じたという認識になっています。この神は伊勢神宮だけでなく、出雲大社の摂社や美保神社、武蔵国一の宮・氷川神社、武蔵国総社・大国魂神社など、日本な重要な神社に『隠れ神』として祀られています。特に東京都や埼玉県にはたくさん祀られていた伝承があり、江戸城内にもあったようです。荒覇吐は、日本神話最初の神である天之御中主神と同一神であるともされています。 ところで蝦夷(えみし)という呼び方は大和朝廷による蔑称であり、自称は『荒覇吐族』であるとしています。ところが、この荒覇吐の原点は、今のアラビア半島のイエメンにあり、しかも古代アラビア語でのアラハバキは、最高の神の意味であったというのです。そのアラハバキが古代インドに渡ると、弱者を襲って喰らう悪鬼神とされました。中国に渡ったアラハバキは道教と習合し、日本に入ってきたのは弥生時代であろうと推定されています。日本に入った荒覇吐は、密教と関連することで大日如来の功徳を得て善の神へと生まれ変わり、大日如来の強大な力をそのままに、国家を守護する神に変えられていったとされます。荒覇吐族は、荒覇吐神と荒覇吐姫神の二神を信仰していたのですが、その荒覇吐神のビジュアルイメージとして、いつしか遮光器土偶ではないかとされていったのです。現在、青森県つがる市、JR五能線の木造駅は、亀ヶ岡石器時代遺跡から出土した遮光器土偶の形をした迫力ある駅です。 当時の東北地方に住んでいたとされる蝦夷の人たちは、今の関西から山陰地方にまで勢力を伸ばしていたようです。それの傍証として、神話ではありますが、蝦夷人のリーダーとされた長髄彦が神武天皇と戦って敗れ、津軽に逃亡していることが挙げられます。しかし長髄彦が津軽に逃亡したとはありますが、どうもその時点で、蝦夷の人全員が津軽に行ったのではないようです。畿内に残った蝦夷人の多くは大和人に追われ、じわじわと関東、そして東北地方に逃れて行ったようなのです。彼らが信仰していたらしい荒覇吐神や荒覇吐姫神は、その名から言っても夫婦神であろうと考えられています。しかもこの二柱の神は、古事記や日本書紀以前にその名がみられるという、古い神なのです。その上この神は、皇祖神である天照大神の先祖の神の一柱ともされているのです。ところで、日本神話の神武東征と東日流外三郡誌に、次の同じような記述が見られます。つまり東日流外三郡誌には、畿内で神武天皇軍に敗れて津軽へ逃亡した安日王・長髄彦の後裔が、荒覇吐神と荒覇吐姫神になったと言われ。出雲や陸奥には鉄鉱石があったことから、荒覇吐神は産鉄の神(荒吐=アラフキ神、金屎の神)とされたというのです。これについて、三春町史に、『安日彦に続くのが荒覇吐の神々(五代)であった』という記述があります。ここでは、安日王・長髄彦の後の神が、荒覇吐神と荒覇吐姫神であったと説明しているのです。しかし東日流外三郡誌では、安日王・長髄彦が荒覇吐神と荒覇吐姫神を祀っていたとしていますから、これは明らかに矛盾しています。ただ日本神話によると、長脛彦は神倭伊波礼昆古命(カムヤマトイワレヒコノミコト)、のちの神武天皇という神と戦っているのですから、両者ともに神であること自体は不自然ではないのかも知れません。しかしこのように東日流外三郡誌と三春町史の間に矛盾があっても、神であることでは一致している、と考えるべきなのかも知れません。このように長脛彦は荒覇吐神と密接な関係があるとされることから、長脛彦の住んでいた跡、つまり長脛彦一族の生活の地を示唆するのが、今も残されてる荒覇吐神を祀った神社であると考えてもよいのではないかと思います。 その後の遣唐使が、改めて荒覇吐神を日本へ持ち帰ったとき、荒覇吐神は大元帥明王とされたそうです。この大元帥明王は、全ての明王の総帥であることから大元帥の名を冠したと言われます。ちなみにこの大元帥の『すい』を読まず、単に大元(たいげん)や大元(おうもと)神社と呼ばれるのが普通です。京都の吉田神社(京都市左京区吉田神楽町三〇)と同じ場所に、大元宮という名で大元神社の本宮があります。ただし吉田神社本宮の第一殿には健御賀豆知命(たけみかづちのみこと)が、第二殿には伊波比主命(いはいぬしのみこと)が、第三殿には天之子八根命(あめのこやねのみこと)が第四殿には比売神が祀られており、荒覇吐神は祀られておりません。また一方の荒覇吐姫神は、後にその名を瀬織津姫という美しい名に変えられ、天照大神の荒御魂として伊勢神宮での一柱の神とされています。なおこの2柱の神は、夫婦神と考えられながらも、同一の行動をとった様子がありません。そのためにまず荒覇吐神について述べ、しかるのちに荒覇吐姫神について述べたいと思います。ちなみに、幕末まで続いた三春藩秋田氏は、その先祖を長髄彦としており、その菩提寺が高乾院ですが、その山号を安日山としたことから、このことを誇りとしていたことが感じられます。 <font size="4">ブログランキングです。 <a href="http://blog.with2.net/link.php?643399"><img src="http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/72/0000599372/67/img25855a93zik8zj.gif" alt=バナー" height="15" border="0" width="80"></a>←ここにクリックをお願いします。</font>
2020.10.20
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9 鉄道事故 ところで、鉄道の事故は、決して少なかったわけではありません。ただそれらの全部を載せることは難しいので、いくつかを取り上げてみたいと思います。 明治四十二年六月十二日、奥羽線赤岩信号所、いまの福島市大笹生字赤岩から発車した列車が、急勾配の第十三号トンネル内において、蒸気機関車の動輪が空転を頻発していました。その際、後部補助機関車内の機関手および機関助手は蒸気により窒息し、昏倒してしまったのです。異常に気づいた本務機関車の機関手は非常制動をしようとしたのですがブレーキが効かず後退し、そのまま列車は赤岩信号所構内に入って脱線転覆したのです。木造の客貨車は粉砕され、乗客一人が死亡し、二十七人が負傷、職員は三人が死亡し三人が負傷しました。後に、米沢駅構内に、この事件の慰霊碑が建立されています。 昭和十年十月二十七日、磐越東線の川前駅と江田信号所間において、豪雨のため土砂が崩壊し、これに乗り上げた列車が転覆して落下しました。翌々日の二十九日付『常磐新聞』に、記事が記載されています。『磐越東線・開通以来の大椿事・汽車川前渓谷に転覆・死傷者数拾名を出す』『廿七日午後六時廿二分平驛着豫定の磐越東線より二〇旅客列車が約三十分遅れ川前驛を發車五時五十分ころ小川郷驛間夏井川第一鐵橋を通過して間もなく折柄の豪雨で線路が浮いている處へ爆進して来た為め機關車、郵便小荷物緩急車、二三等混合列車、三等車の四輛が脱線し折り重なって数十尺下の闇の河中へ墜落し、乗客死傷者数十名を出し小川郷驛に一先ず収容した。小野新町よりは醫師、看護婦、在郷軍人、青年團員等を乗せた救援車を出し、一方川前驛前永山徳一氏所有の別荘に死傷者を収容、應急手当を加えている。死傷者は左の如くである。(以下略)』 昭和24年7月5日に下山事件が、そして同じ月の15日に三鷹事件が、翌月の17日には松川・金谷川事件が立て続けに発生しました。この三つの事件は、国鉄三大ミステリー事件とされて、いまだにこれらの事件の真相は明らかにされていないのです。この最初に起きた下山事件は、行方不明になっていた国鉄総裁下山定則氏が常磐線綾瀬駅付近で 轢死(れきし)体となって発見されたもので、当時のGHQの指示により、下山総裁が国鉄職員の大量整理案を発表したことで、労働組合が反対闘争を盛り上げていた最中の事件でした。この事件は、他殺か自殺かの議論を巻き起こし、労働運動に大きな打撃を与えたのですが、事件の真相は不明のまま捜査が打ち切りとなっています。 次に起きたのが三鷹事件で、国鉄の中央本線三鷹駅構内で起きたもので、無人列車が暴走、脱線転覆して六人が死亡した事件です。この事件で単独犯として死刑判決が確定した運転士の竹内景助元死刑囚は、その後に無実を訴えて再審請求をしたのですが、予備審査中に病死してしまいました。遺族が申し立てた第二次再審請求で、東京高裁は令和元年七月にどの請求を退けました。弁護団は異議を申し立てたのですが棄却され、令和五年三月、最高裁に特別抗告をしている事件です。 そしてその年の八月十七日、東北本線の松川駅と金谷川駅の間で、青森発上野行列車の機関車と客車五両が脱線した列車往来妨害事件は、いわゆる松川・金屋川事件といわれるものです。現場はカーブの入口の場所で、当時は単線でした。ここで、先頭の蒸気機関車が脱線して転覆したのち、後続の荷物車二両、郵便車一両、客車二両も脱線しました。この事故により、機関車の乗務員三人が死亡しています。現場検証の結果、転覆地点付近の線路継ぎ目部のボルトおよびナットが緩められ、継ぎ目板が外されていたことが確認され、さらにレールを枕木上に固定する犬釘も多数抜かれており、長さ二十五メートル、重さ九百二十五キロのレール一本が外されており、ほとんどまっすぐなまま十三メートルも移動されていました。周辺を捜索した結果、近くの水田の中からバールとスパナがそれぞれ一本ずつ発見されたのです。明らかに人為的な事件です。この事件は、下山事件および三鷹事件に続く鉄道事件として世間の注目を集め、事件の翌日には、当時の増田甲子七内閣官房長官が「三鷹事件などと思想底流において、同じものである」との談話を発表し、政治的事件であることを示唆しています。捜査当局は、当時の大量人員整理に反対した東芝松川工場、いまの北芝電機の労働組合と国鉄労働組合構成員の共同謀議による犯行とみて捜査を行ったのです。事件発生から24日後の9月10日、元国鉄線路工の少年が傷害罪で別件逮捕され、松川・金谷川事件についての取り調べを受けました。少年は逮捕後9日目に松川・金谷川事件の犯行を自供し、その自供に基き、9月22日、国鉄労働組合構成員5名および東芝労組員2名が逮捕され、10月4日には東芝労組員5名、8日に東芝労組員1名、17日に東芝労組員2名、21日に国鉄労働組合構成員4名と、合計20名が逮捕者の自白に基づいて芋づる式に逮捕・起訴されたのですが、無実を示すアリバイなど重要な証拠が捜査機関により隠されていたことがのちに判明、死刑判決から5回の裁判を経て逆転無罪が確定し、事件そのものは闇に葬られてしまいました。なお昭和25年9月、現場近くに『殉難之碑』の除幕式が行われ、そのかたわらに、三春町の石材業・鈴木宗兵衛が地蔵尊を建立しています。 他にも当時の国鉄では松川事件と類似した列車脱線事件が発生しています。 『国鉄三大ミステリー事件』とされた事件の一年前の昭和二十三年四月二十七日、いまの福島市町庭坂の奥羽線赤岩〜庭坂間で、脱線転覆事件が起き、三名の死者が出ました。脱線現場付近の線路継目板が二枚、犬釘六本、ボルト四本が抜き取られていました。犯人は分からないまま、庭坂事件と言われました。 そして、『国鉄三大ミステリー事件』の起きた二カ月前の昭和二十四年五月九日の予讃線事件は、愛媛県難波村の、予讃線の浅海(あさみ)駅と伊予北条(ほうじょう)駅間で起きた列車転覆事件で、機関助士一名が即死、機関士二名と乗客三名が負傷しました。この年に発生した松川・金谷川事件と同様の手口であり、なんらかの意図を持って行われた鉄道テロであると言われていたのですが、これらの事件の真相は明らかにされぬまま、これまた未解決の事件となっています。 昭和二十六年五月十七日に発生した『まりも号脱線事件』は、根室本線の新得駅と落合駅間を走行中の急行列車『まりも号』が、北海道上川郡新得町郊外で脱線させられた未解決の事件です。何者かがレールを故意にずらし、脱線転覆を図った列車往来危険事件であることは間違いのない事件でした。これには専門的な知識や技術が要求される犯行であるため、当初は内部犯行の容疑が掛けられ、約六百人の国鉄および労働組合関係者が捜査対象となったのですが、これも未解決に終わっています。 このような事件が続発しながらも未解決に終わったことについては、当時の世界の情勢を見てみなければならないと思います。昭和二十四年、中国大陸においての国共内戦で、中国共産党軍の勝利が決定的となり、朝鮮半島でも三十八度線を境に親英米政権と共産政権が一触即発の緊張下で対峙していたのです。このような国際情勢の中、戦後の日本占領を行うアメリカ軍やイギリス軍を中心とした連合国軍は、対日政策をそれまでの民主化から反共の防波堤として位置付ける方向へ転換したのです。いわゆる逆コースです。いまも多くの識者の間では、これらの事件が日本の共産主義者を壊滅させるため、占領軍の関係者の陰謀による一連の事件と考えられているのです。 平成二十三年三月十一日、宮城県牡鹿半島の東南東百三十キロメートル付近を震源とする大地震が発生しました。マグニチュードは、昭和二十七年のカムチャッカ地震と同じ九・0で、日本国内観測史上最大の規模でした。しかも直後に襲った大津波、加えて東京電力福島第一原子力発電所事故による、放射能拡散の大災害が発生したのです。これにより、東北を結ぶ常磐線は、大津波に加えて放射線による大きな被害を受け、広範囲で不通となりました。しかも富岡〜浪江間は長期間にわたって帰還困難区域を含んでいたため、運転再開には至りませんでしたが、富岡町、大熊町、双葉町の一部のエリアで避難指示が解除され、令和二年三月十四日には、富岡駅〜浪江駅間が再開して全線の運転が再開されました。九年の時を経て、ようやく全線が開通したのです。しかし被害を受けた駅周辺の避難指示は解除されたものの、周辺一帯は放射線量の高い帰還困難区域のままです。 一方の東北新幹線は、福島駅と白石蔵王駅の間を走行していた十七両編成の『やまびこ223号』が脱線、この十七両編成のうち十三号車以外の十六両が脱線してレールから外れたのです。また、一部の車両がレールから大幅にずれて傾くなどの被害が確認されたほか、電柱や架線、高架橋の橋脚など約千百ヶ所が損傷しました。それでも三月十五日には東京駅と那須塩原駅間が再開、同二十二日には盛岡駅と新青森駅間が再開、四月七日には一ノ関駅と盛岡駅間が再開、四月十二日に那須塩原駅と福島駅間が再開して『なすの』が郡山駅まで延伸、山形新幹線も東京までの直通運転を再開しています。また東北本線も、これに合わせるように復旧し、四月二十九日には上野駅から本宮駅間が再開、五月五日には福島駅まで、十日には仙台駅までの運転が再開されました。これなどは、やむを得ない鉄道の事故であったのかもしれませんが、これに対応したJRおよびその社員、そして大きな被害を受けた私鉄の関係者の皆さんの努力には、頭の下がる思いがあります。
2024.05.10
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郡山の長者伝説 郡山には、何人かの長者伝説が残されています。特に有名なのは虎丸長者です。伝説ですから本当にそこに住んでいたとは言えませんが、今も郡山の中心部に、虎丸町、長者などの地名があるのです。 虎丸長者の伝説は、『昔、八幡太郎義家が後三年の役の際、長者宮というところにさしかかりました。ところが夕刻、ものすごい大雨になったので、義家は虎丸長者に一晩の宿を頼んだのですが、長者は義家の申し出を断わってしまったのです。仕方なく義家は、北方の仮宿というところで一夜の宿をとったのですが、このまま喧嘩別れにしておいては不味いと思い、虎丸長者に妥協策を提案したのです。しかし虎丸長者は、反抗的姿勢を隠さなかったので、義家は虎丸長者屋敷に向けて火矢を射掛けたのです。屋敷はたちまち火に包まれ、焼野の原と変わってしまいました。そののち焼け跡には、誰が書いたのか、『黄金千杯米千杯、朝日さす夕日かがやく三つ葉うつ木の下にある』という木の板が掲げられたと伝えられています。恐らくこれは、虎丸長者が蝦夷征伐の軍勢への協力依頼を拒否したであろうとすることが伝説化したものと思われます。 東和町史にも、虎丸長者の伝説が載せられています。しかし現実に、二本松市杉田字長者宮から発掘された建物跡から、炭化米が出土しているのです。そして、『ここは虎丸長者の館跡で、そこにあった米倉が焼かれてしまった』という伝説になっているのですが、ここで出土した炭化米は、火災のため焼かれて炭化したものと考えられています。なお借宿という地名が長者宮の近くにあり、郡山の伝説との繋がりが感じられます。 大槻町には花輪長者の伝説が残されています。平泉に逃れた義経に会うための長旅の途中で供の小六を失って困り果てている静御前たちを、花輪長者がお世話をしたと言われています。しかも大槻町には、『花輪』『花輪前』などの地名や、南川に架かる『花輪橋』など花輪長者に由来する地名などが残されています。 逢瀬町には、中丸長者の伝説が残されています。この名に関しての地名はありませんが、その場所が今の浄土松公園であるというのです、それは日本のカッパドキアと言われるキノコ岩が林立する公園かその周辺に住んでいたとされています。 大満長者が岩城国赤津村に住んでいた、とあります。しかし赤津村が現在の湖南町赤津であるとすれば、岩代国が正しいことになります。ただし岩城国(磐州(ばんしゅう))と岩代国(岩州(がんしゅう)は、明治元年(1869)になって陸奥国より分立していることから、この伝説は、明治に入ってから作られたものかも知れません。ブログランキングです。 ←ここにクリックをお願いします。
2017.01.16
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(田村三代記 上の巻 初段目、以後田村三代記を略) 星砕(ほしくだき) 嵯峨天皇の御代であった。都に大異変がおこった。王城の 北西の空に三尺(一メートル)もあろうという巨星が突如 出現し、昼夜ともなく煌々と輝き、それが砕け散った。そ のうちの一つが丹波と播磨の国境に落ち、そこに剣と鏑矢 を持った童子が座っていた。それを抱き上げた丹波の管領 は都に行き、帝に奏上した。やがて星丸と名付けられた童 子は立派に成長し、帝に田村利春の名を頂いた。 この書き出しは、昔話に言う「むかしむかしあるところに」という常套手段と同様に考えてもよいのではあるまいか。しかしこのような書き出しにしたことは、田村麻呂の出自が関係すると思われる、 田村麻呂の先祖は、後漢の最後の皇帝・献帝の子といわれる石秋王の子の阿知使主(あちおみ)で、応神天皇の時代に中国大陸から日本に帰化したと伝えられるがこれも伝説の域を出ない。その後坂上氏は大和高市(奈良県高取町)を本拠とし、いくつかの系統に分かれたが、後、大陸からの文化、新知識をもって渡来する人々の監督的な立場となりこれらをまとめることによりある程度の勢力に発展していったといわれている。ここに出てきた星丸、つまり田村利春は、田村麻呂の祖父の坂上犬養をモデルにしたものと思われる。犬養は聖武天皇にその武才を認められたことから、武人としての坂上氏が台頭してくる。天平宝字三(七五九)年、犬養は東大寺領政策を主導した造東大寺司の長官に任じられた。 田村麻呂が献帝の後裔とされることについては、倭が百済の要請により派兵しながら敗れ、百済から多くの難民が渡って来たことと関係があるのかも知れない。しかも田村麻呂の娘の春子は桓武天皇の妃となり、葛井親王を産んでいることなどを考えれば、このような立派な家系からの出自をこのように星が砕けるという形にしたことが、なんとなく理解できるような気がする。つまり『やんごとなきお方』の誕生であったのである。もっともこの田村地域には、これに該当するような伝説は、残されていない。しかし奈良市東南の虚空蔵寺にある大和志料の延喜十九(九一九)年の文書には、『大同二年頃に明星が零落した地に弘法大師が伽藍を建立し』とあるという。また神亀五(728)年十月、流星が断散して一部が宮中にも落ちた事件があったから、それに関連してこのような書き出しになったのかも知れない。 (上の巻 二段目) ところがあるとき、帝の逆鱗に触れた利春は、越前国の三国が 浦に流された。配流先で枕を交わした美しい下女が懐妊、見て はいけないと言われた繁井が池の産屋を覗いたところ女性は大 蛇であった。大蛇は子供を残して消えたが、その子は大蛇丸と 名付けられた。 (遠藤本 二段目には) 越前国の三国が浦、しけいが池、大蛇丸 (鈴木本 甲初段目には) 越前国の三国が浦、繁井が池の産屋に近づくと振動雷電、池の 逆巻く中、産屋を覗く。 天平勝宝九(七五七)年に反藤原仲麻呂のクーデター計画(橘奈良麻呂の変)が実行されようとした時に、クーデター派は、仲麻呂派の数名の要人・武人を飲酒に誘い、決起に邪魔が入らないようにしたが、それに誘われたなかに苅田麻呂が含まれていた。このときの苅田麻呂の行動が帝の逆鱗、という表現になったとも考えられる。また、ここに出てくる越前国の三国が浦と推定できる場所に、福井県坂井市三国町がある。 (上の巻 三段目) しばらく後、都に毒蛇が出て人々を取って食うので帝は大蛇丸 に退治するよう命じ、名を利光とされた。毒蛇を退治した後奥 羽が乱れたので、帝は十八歳の利光に鎮守府将軍を与えた。出 立した利光が白河の関に着いたとき、多くの大名たちが迎えに 来て鷹巣城に入りこれを鎮圧した。 (渡辺本 初段目には) 駿河国乱の淵、十三頭の大蛇、三頭の大蛇・翁となり降参。 (渡辺本 二段目には) 三千余騎、三春田村城に入る、鬼神の住家なし。 宝亀元(七七〇)年、道鏡追放にも功があった苅田麻呂は正四位下に叙せられ、陸奥鎮守将軍に任じられて多賀城に赴任した。そして宮中武官としてエミシ征伐に二回参加し、功により正二位中納言没後正一位大納言を贈られた。 この苅田麻呂については、大熊に乗って阿武隈川を渡り、屯田(みやけだ・郡山市田村町御代田)に行ったという伝承がある。この御代田には舘、外城、雀宮(鎮の宮)など、城館に関連する地名が残されている。なお田村町御代田の阿武隈川畔に、字御熊野という地名がある。 また国見山という山は郡山市中田町上石にあるが、ここでは田村麻呂の父の苅田麻呂が征伐に来た話になっているので、宮城県刈田郡に近い伊達郡国見町の阿津賀志山(国見山)を指しているのかも知れない なお文政五(一八二二)年、新井白石の『五十四郡考』の補遺を記した白川(ママ)藩の広瀬曲の現地調査によれば、『田村郡中 三代田村(御代田)数畝之地 土俗伝称 田村麻呂降誕之所 於 今除 租税若干』(田村郡のうち三代田村の数畝の土地を、田村麻呂の誕生の地のゆえに税が免除されている)と伝えている。 (上の巻 四段目) 奥羽を鎮めた利光は七ッ森で御狩の触れを回すと、宮城、国府、 名取、柴田、刈田、伊達、信夫、白河の諸大名が集まり、その 後大酒宴が開かれた。そのとき九文屋長官の下女の悪玉を見そ めた利光は、酒宴が終わると、この度の礼として錦巻物を取り 揃え、美濃上品五十疋と黄金百両を悪玉に下された。すると悪 玉は感謝しつつも 「綾錦はいりません。貴方様の形見を下さいませ」 と願った。 将軍は二本の鏑矢のうち乙矢(矢に取り付けた羽根の向きによ り分けられる矢の種類の一つ。筈から見て羽軸の部分が羽の右 側にある矢。通常甲矢・ 乙矢 を一組(一手)として用い、甲 矢を先に射る)を分けて下さると、嬉しげに頂戴して名残惜し そうに御前を立って九文屋さして帰っていった。二十一歳になったとき、利光は上洛した。そして上洛すると、 日の本将軍に任ぜられた。 なお応永元(一三九四)年、十三湊の三春秋田氏の祖と言われる安東氏は、『日之本将軍』に任ぜられている。 (遠藤本 四段目には) 七ッ森、三千五百余騎。勢子四万八千。九文屋水仕の悪玉、若 菜引。 (鈴木本 甲三段目には) 七ッ森、諸大名武士・勢子五千余騎。 (鈴木本 甲四段目には) 九門屋水仕の悪玉、水菜引。 (渡辺本 二段目には) 三春九門屋水仕握玉、美目能きが・・・。 ここにでてきた七ッ森という地名であるが、宮城県黒川郡大和町に、笹倉山、松倉山、撫倉山、大倉山、蜂倉山、鎌倉山、遂倉山と標高二〇〇~五〇〇メートル級の小さな山が七つ並んで美しい景観を見せている所がある。また大滝根山の麓に広がるなだらかな一帯で、滝根、大越を中心に小野、船引、三春にまで広がっていた所を七里ヶ沢と称していた。この七里ヶ沢と推定される地域の中の田村市船引町屋形、朴沢、堀越集落(旧・七郷村・七ッ森と関連する地名か?)に、お人形様という風習が残されている。身長約四メートル、刀を差し、なぎなたを持って両手を広げ、悪者の侵入を防ぐ魔除けの神である。現在はこの三ヶ所にしか見られないが、昔はもっと広い範囲で行われていたという。その身体の大きさなどから推定して、ちゃちなコソ泥に対応したものとも思えない。大悪党の大武丸に対抗した風習であったのかも知れない。 田村麻呂の母の出身地と伝えられる所として郡山市田村町田母神がある。また田を守護する神から来た地名であるということから、田村麻呂の子孫が散らばってその神を祭ったことに由来するとも説明されている。ここを七ッ森のモデルとしたものであろうか。 ところで後に続く話から類推するに、阿口陀媛とは一夜だけの契りであったことを表しているように思える。なおここに出てくる悪玉(田村三代記)、阿口陀媛(田村地域)、飽玉(岩手県紫波町)、阿久多摩(秋田県仙北郡荒川村面日)阿久玉姫などの名は、苅田麻呂の妃・阿久和姫の名をもじった名とも推測できる。これは田村三代記において、『田村麻呂』が『田村丸』とされたのと、同義であろう。また九文屋の所在地であるが、渡辺本の二段目には、『三春九文屋の水仕(下女)・悪玉、根芹、美目能き女』とある。しかしこれに関する伝承は田村地域にはない。ただし『三春・州伝寺の本尊は丈六の阿弥陀如来座像で、阿口陀媛による信仰が篤かった』という伝承があり、これを示唆するものなのであろうか。ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2011.11.11
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三 つ の 結 末 2 これが自主的に出されたものか、藩側の工作によるものかは傍証が無く不明であるが、少なくとも一揆参加者を出した村では、厳罰を免れるために半免辞退を申し出ざるを得ない状況が醸成されていたと考えられる。苗代田村が十二月二十五日に出した次の願書は、それを物語っている。 乍恐以書付奉願候 一 御領内一同半免に成し下され恐れ入り存じ奉り候。当村百姓共の儀、 半免念願の筋申し上げ候所存にて御座なく候得共、安積より大勢押し かけかれこれと脅かし申し候につき、驚き入り、是非なく一揆にまか り出で申し候。右御用捨のところお除き下されたく願い奉り候。恐れ ながら御上様御立ち遊ばされ候上、村方にも別して貧窮の者共取続ま かりなり兼ね候はば、何分にもお慈悲を以て相立ち候様お救い下され たき旨、御百姓共願い奉り候につき、恐れながら右の趣書き付けを以 て申し上げ候。 以上 苗代田村名主 伊藤長左衛門 吉田兵右衛門様 こうした動きが軌道に乗り、藩は自信を持ったと思われる。ただし本宮組と同様の願いが、他のすべての組から出された訳ではないらしい。例えば小浜組の上長折村惣百姓が翌寛延三年一月に出した願書には、『この度半免御用捨成し下し置かれ、有り難く存じ奉り候。何分にも惣百姓共相立候様に仰せつけられ下し置かれ候はば、有り難く存じ奉り候』と記しながら、半免御用捨辞退については一言も触れていない。こうした村には弾圧の脅しがかけられたのであろう。 第一の結末にあたる山根地方に対する処分は、このように過酷なものであった。こうまで過酷な処分に至った理由として、藩の都合により新検地を実施したこと、実施した村に対して行われた年貢増徴、そしてそれよる不公平の是正という極めて経済的色合いが強かったということが上げられるのではあるまいか。さらに付け加えるならば、戒石銘の曲解というこれまた情緒的な、しかしながら政治的な、一揆側としては決して見逃すことのできない問題を取り上げたことにあったのかも知れない。封建支配の厳しい二本松藩では、自分たちのために死んだ善右衛門を祀ることができなかった。宝暦四(1754)年建立された供養塔の碑面には三十三所供養塔とあるが、実際には善右衛門の供養塔であるという。そして250年目の正木善右衛門の供養祭が、ようやく平成十二(2000)年十一月になって行われたのである。だがいずれ、一揆の結末は悲しいものだということは百姓たちの心に深く浸透していくことになる。 第二の結末は、大槻組の五箇郷に対する処分と冬室彦兵衛についてである。まず五箇郷に対する処分は三人が村替えになっただけであり、山根地方とは大きく異なったことが上げられる。これは冬室彦兵衛が大槻組の一揆総代を説得、帰村解散させた後二本松藩に出頭、穏便な処置を願い出て許されたことに関係があるのであろう。彦兵衛は商人とは記録されているが何をどのように商っていたかは不明である。しかし一市井人である彦兵衛がこのような大役を受けたについては、城出入りの商人であったことが考えられる。そして彼の取扱商品の一部が、藁工品など農家の作る物であったと考えれば、五箇郷での百姓の動きをいち早く察知、藩に報告したと想像できる。少なくとも安積の動きが、山根地方より二〜三ヶ月早かったということが、このことを示唆しているのではあるまいか。つまり藩としての重要な情報源であったということである。彦兵衛はこの功績により名字帯刀が許され、冬室彦兵衛保秋を名乗るようになるのである。この五箇郷の軽い処分と彦兵衛への過大とも思える温情、そして針道組に対する過酷とも言える処分との差には、際だったものが感じられる。なお彼の顕彰碑が本宮市仁井田の坂道の途中にあり、大要次の文が記されている。 積達騒動鎮定之遺跡 『寛延二年の稲作は、平均四分作という不作にもかかわらず、年貢割付は例年通りのため、農民たちは作況を調査して、年貢を軽減する旨の嘆願をしました。藩では役人を派遣して調査にあたりましたが、わずかの軽減にすぎず、毎年の不作続きに餓死者も出ていることから、不穏の形勢がつのり、安達東部や北部で一揆が起まました。 このような状勢の中で、安積一揆は大槻から始まり、約一万八千の群集がこの地(仁井田下の原)に結集し気勢をあげました。 この碑には、これらの騒動に際し、流血することなく鎮定し、藩と交渉して農民の願いを実現するに至るまで中心となって活躍した 冬室彦兵衛 の名が刻まれ、当時の世情をしのぶことができます。』 昭和六十三年七月 本宮町教育委員会 第三の結末は岩井田昨非である。 一揆は昨非の説得もあって鎮圧されたが、反昨非派の批判は高まる一方であった。ついに昨非も病と称して出仕遠慮の意志を固めたが、宝暦三(1753)年に罷免された。またこのとき責任者であったとして、勘定奉行諸田兵四郎が閉門追放された。これにより藩政改革は失敗のうちに終了したが、実際には改革により新設された税や諸制度はそのままで農民の負担は改革前よりは重くなったのである。以後、昨非は詩作の生活を送り、宝暦八(1758)年三月十四日病没した。二本松市竹田台運寺の高台に、臨終のとき詠んだ一編の漢詩を刻んだ墓石の下に眠っている。享年、六十歳であった。 天生異人 (天生人と異なり) 名曰希夷 (名に曰く希なる夷と) 有濟世才 (濟世の才有り) 不得其時 (其の時を得ず) 唐虞忽焉 (唐虞忽焉) 沈淪所宜 (沈淪宜しき所) 死葬此山 (死して此の山に葬るべし) 月冷風悲 (月は冷たく風は悲しむ) 天生(テンセイ)=生まれつき、生まれつき身についていること。天賦。 希(キ) =まれ 夷(エビス) =未開人 濟世(サイセイ)=世を救う。世の弊害を除き人民の困難を救うこと。 唐虞(トウグ) =中国古伝説上の尭・舜の二帝をいう。尭の姓を陶唐氏 といい、舜の姓は有虞氏という。 忽焉(コツエン)=たちまち。突然。 沈淪(チンリン)=深く沈む。零落する。落ちぶれる。 (以下、郡山歴史資料館・柳田春子さん解釈)(世が世であれば天下を治めたであろう自分も、その時勢に巡り合えずむなしくこの山に葬られるのである、 悲しいことよ。 筆者訳・「希夷」は昨非のこと)。 なお昨非の名は、【昨非今是】からとったものであろう。『大辞泉』には、次のようにある。 〔補説〕 陶潜の帰去来辞「実迷 レ途其未レ遠、覚 二今是而昨非 一」による。 昨日誤りだと思ったことを今日は正しいと思うこと。是非判断が相対的なものであることをいう。今是昨非。 ついに昨非は、故郷の土を踏むことは出来なかった。不調に終わった改革が、その理由の一つであったのかも知れない。この漢詩に、故郷へ戻ることが叶わなかった昨非の望郷の念が感じられる。 終 ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2015.02.11
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橋本姓の皆さん もう大分前のことになります。土蔵の片付けをしていたのですが、その時、何やら表彰状のようなものが出てきたのです。薄暗い土蔵の窓の下に持って行って見ると、そこには「宮内省」の文字が見えたのです。明るい部屋に持って行って見直すと、 故 橋本正茂 特旨ヲ以テ位記ヲ贈ラル 大正七年十一月十八日 宮内省 そしてその横には、 故 橋本正茂 贈正五位 大正七年十一月十八日 宮内大臣従二位勲一等 子爵波多野敬直宣 (宮内省印)とあったのです。 額縁の裏を開いてみると、橋本神社建立記念という裏書きのある小さな社の前での集合写真が出てきました。今は亡き父の妹に見せると、私の祖父やその従兄弟たちの写真であることが分かりました。聞き当たってみると、それは三春大神宮の一隅にあったのですが、その後それがどうなったかを宮司にも聞いてみたのですが、世代が代わった所為もあってか、「知らない」と言われてしまったのです。 この贈位書の下段にある「史蹟」には、次のように載っていました。ただし省略文です。『大和国橋本城主ノ橋本正員ハ後醍醐天皇ヲ奉ジ、楠木正成トトモニ湊川ニテ忠死、ソノ子正家ハ楠正秀トトモニ千剣破城(ちはやじょう)ニ敗レ、其子贈正五位故橋本正茂(はしもと まさもち)ハ奥州ニ下ッタ。ソノ後正茂ハ北畠顕家ニ従ッテ上京奮戦シタガ顕家戦死ノ後、田村輝定ノ軍ニ属シテ賊軍ニ抗戦スルコト十有余年。正茂ハ朝廷ニ勤王シテ終始忠節ヲ尽クシタ。其ノ功績ニ因り今般贈位ヲ賜フ。祖先ノ徳ヲ尊奉シ茲ニ後裔一族ニ此表ヲ賜ルモノ也。 大正拾年十一月十八日 贈位故橋本正茂公奉告祭事務所 この「史蹟」によりますと、田村輝定は田村郡守山(いまの郡山市田村町守山)の領主でしたから、子どものころ、私の住んでいた田村郡三春町とも関係があったのかも知れません。 私は早速、この『橋本正茂公奉告祭事務所』のHPを開いてみました。しかし古すぎるのか、ヒットしませんでした。それでもこの経緯を知りたくて、宮内庁に問い合わせてみようと思いましたが、流石にそれは畏れおおく、思い留まったのです。 そして現在、郡山市西田町土棚字内出152の1の高野神社に、橋本正茂が祀られています。この橋本正茂および高野神社の橋本廟について、ここでのお名前は控えさせて頂きますが、深く研究をなされている方が宇都宮におられます。やはり『橋本さん』、という方です。 橋本姓の皆さん。 ひょっとしてこの南北朝時代に生きた橋本正茂が、私たちの先祖かも知れません。ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2014.09.16
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虎丸長者 私たちの住んでいる郡山に、隠された埋蔵金があるというのですが、次のような話、皆さんもお聞きになったことがあると思います。そうです。虎丸長者の埋蔵金伝説です。いま郡山に虎丸町や長者がありますが、実際に、ここに虎丸長者が住んでいたかどうかは分かりません。しかし虎丸長者は、郡山に住んでいたと伝えられています。では虎丸長者とは、どのような人であったのでしょうか。その言い伝えから、探ってみました。 如宝寺の寺伝によりますと、郡山の有力者であった虎丸長者が都に上り、第51代・平城天皇より馬頭観音像を賜って帰郷した。大同二年(807年)、虎丸長者は、いまの郡山市中町に庵を結び、徳望が高かった笹久根上人を招いた。笹久根上人は馬頭観音像を守り本尊として観音堂を建立して壮大な伽藍を建て、楼閣には金銀を散りばめて壮観を極め、荘厳な開眼供養を行ったのが如宝寺のはじまり、と伝えられています。虎丸長者はこの如宝寺に、大きな金蔵や米蔵を置き、さらに郡山のあちこちに屋敷を構え、力持という所には米蔵を造り、現在の郡山商工会館周辺にあった皿沼では、下女が皿を洗っていたと伝えられています。ちなみに大同年間は天変地異の多い、不思議な年であったようです。仙台地方にも、『秋風や大同二年の跡を見ん』という句が残されているそうですが、何かこれと関係があるのでしょうか。意味は分かりません。 永保三年(1083年)、後三年の役の際、源義家、つまり八幡太郎義家が兵を率いて長者宮というところにさしかかりました。ところが夕方、ものすごい大雨になったので、八幡太郎は虎丸長者の大きな屋敷に一晩の宿を頼んだのですが、長者はこの申し出を断わってしまったのです。八幡太郎は、虎丸長者が何故断ったのかを密偵を入れて調べさせました。そして分かったことは、虎丸長者は、八幡太郎の敵である奥州の安倍氏に加担していたということでした。怒った八幡太郎は、虎丸長者の屋敷に火のついた矢を放ったのです。屋敷はたちまち火に包まれ、焼野の原と変わってしまいました。ところが八幡太郎に攻められると予測していた虎丸長者は、如宝寺の蔵から金などを運び出し、ある場所に埋めて隠して逃げてしまったのですが、後で隠し場所が分かるようにと書付を残しました。それが『黄金千杯米千杯、朝日さす夕日かがやく三つ葉うつ木の下にあり』というものでした。そののち焼け跡には、誰が書いたのか、この言葉が書かれた木の板が掲げられたと伝えられています。ところがこの虎丸長者伝説の噂を聞いた、二本松藩主の丹羽長国によって、如宝寺の敷地内で、埋蔵金の発掘調査が行われたのです。しかし、出てきたのは埋蔵金ではなく、大量の焼米だけだったそうです。このような言い伝えは、日本における他の埋蔵金伝説の類型と、まったく同じ内容となっています。なお郡山市内には、虎丸、長者などの町の名が残っていますが、市役所のある朝日は、市役所がここに移転した頃に付けられたものですから、虎丸長者の伝説とは関係がないことになります。 この虎丸長者の伝説と同じような話が、今の二本松市に残されています。二本松市字長者宮に居を構えていた米長者は、八幡太郎への供応を拒んだために滅ぼされたというものです。このあたりは、郡山の虎丸長者伝説とまったく同じです。なお、福島民報・昭和五十二年一月二十六日の地名の由来によりますと、『郡山を追われた虎丸長者は、二本松市杉田に移ったのではないか、とも言われている』とあります。財宝は、いまの二本松市字郡山台に埋めたとされており、こちらも実際に、二本松藩主丹羽長国が、幕末に探索したとの記録が残されているそうです。丹羽長国は『黄金千杯 漆千杯 朝日さし 夕日輝く木の下にあり』という話を信じ、杉田村の農民多数を使って長者宮の土地を掘ったのですが、厚さ十センチ程の焼き米が多量に出土しただけで、何もなかったとのことです。それにしても焼き米が出土したということは、実際に火事があったという証拠になります。それにしても、郡山の虎丸長者も二本松の米長者も、大規模な火災に遭っているようなのです。この共通した事実から、似たような伝説になったと思われます。 日本における長者伝説は、別名『朝日夕日伝説』とも言われます。長者、豪族の屋敷跡に黄金を埋めたという伝説で、多くはその財宝のありかを『朝日さし 夕日輝くそのもとに 黄金千杯朱瓦万杯』などの口伝えの歌をもって示唆する類型のものがほとんどです。また長者が田植の際に時間が足りずに扇で日を招き返したために、罰があたって没落した、または死んだというような話を伴っているのも特徴的です。これは稲作における太陽信仰の存在を考えさせられます
2022.11.20
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手長足長 和漢三才図会に長脚(あしなが)国・長臂(てなが)国の記述があり、そこには「長脚国は赤水の東にあり、其の国人長臂国と近く、其の人常に長臂人を負ひて、海に入つて魚を捕ふ。長臂国は『にんべん+焦』僥国の東にあり、其の国人海東にありて、人手を垂るれば地に至る」とあるそうです。県内に、足長の神の例は少ないのですが、手長の神は各地に多いようです。中でも有名なのは新地町の手長明神で、その伝説が新地町に残ります。『昔、山に長い手を持った仙人が住んでいました。動物が好きで老いた鹿と白狼をかわいがり、この山に腰をかけいつも四方を眺めていたそうです。ある日腹が空いたので東の海に貝があるのを見つけ、食べてみるとおいしかったので毎日食べるようになりました。捨てた貝殻が積もって丘のようになったのが貝塚です。この巨人を手長明神として祀り、山を鹿狼山と呼ぶようになりました。この貝塚は小川貝塚遺跡です』 新地町には明治20年代まで手長明神を祀る神社がありましたが、現在は近くの二羽渡神社へ合祀されています。また相馬市山上にも手長明神があって附近には貝塚があり、参詣者は貝殻を納めるのが例とされています。 手長・足長については日本書紀の中に、神武天皇が葛城(奈良県)の土蜘蛛を誅し給う条があり、『土蜘蛛の人と為りや身短く手足長く、侏儒(しゅじゅ・背丈が並み外れて低い人)と相類す』とあるそうです。本来土蜘蛛とは、上古に天皇に恭順しなかった土豪たちのことであり、日本各地で記録されているのですが、単一の勢力の名ではなく、勿論、蜘蛛とも無関係です。 もともと土蜘蛛の名は、先住民族の或る者に対してつけられた貶称で、恐らく彼らが穴居していたための名であろうと推定されています。大和の人々は『遠き国の人ども』と言い、土着勢力を人間以下の存在、つまり土中に棲む蜘蛛のたぐい、妖怪のたぐいとして分類していたのです。そして天皇の支配下に入った土蜘蛛のみが『土蜘蛛』のレッテルを外され、『人間』として扱われることになったのです。土蜘蛛は足が長いという意味で、八握脛(やつかはぎ)とも呼ばれていました。 日本武尊が八槻郷(棚倉町)の八人の土蜘蛛に八本の槻弓・槻矢を放ち、これを討ったという話が残されており、それためここを矢着、八槻と呼ぶようになったそうです。この話にでてくる棚倉町の八槻都々古別神社の祭神は、日本武尊です。そして近くの八溝山からは金が産出していました。当時、大量に武器を必要としていた大和が、金・銀・銅・鉄などの鉱物資源を求めて日本武尊を全国に派遣して探していたとも考えられます。ただし日本武尊は個人ではなく、大和人の集団を意味したとも説明されています。 日本武尊は八槻郷に入る前、房総半島の北で八握脛という悪者と戦っています。つまり土蜘蛛です。この悪者たちが日本武尊に抵抗するため巣穴から出て留守にしている間に馬に乗った兵士たちが茨を穴の中に入れ、そこへ八握脛たちを追い込んだところ、穴に逃げた彼らは皆その茨によって死んでしまったといわれます。この神話から、現在の茨城県の名が出来たとされています。ブログランキングです。 ←ここにクリックをお願いします。
2015.11.06
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伊勢神宮には「波波木(ははき)神」が祀られているが、その祀られる場所は内宮の東南、つまり「辰巳」の方角、その祭祀は6、9、12月の18日(これは土用にあたる)の「巳の刻」に行われるというのである。「辰」=「竜」、「巳」=「蛇」だから、蛇と深い関わりがあると容易に想像がつく。ちなみに、「波波木神」が後に「顕れる」という接頭語が付いて、「顕波波木(アラハバキ)神」になったという 荒覇吐姫神は、荒覇吐神と対の神と考えられ、古事記や日本書紀以前にその名がみられる古い神である。この神は皇祖神・天照大神の祖型神の一神でもある。伊勢神宮では内宮の荒祭宮の神、つまり荒覇吐姫が瀬織津姫がと呼ばれる伝承があり、御敷地に祀られていてその守護神になっている。天照大神の荒御魂であるとされている。伊勢国度会郡の『子持山縁起』の冒頭の荒人神の部分にも『荒覇吐姫』と記され、終わりの部分に『伊勢神宮の荒垣の内におはします、即ちあらはばき是なり』とあるらしく、瀬織津姫命を『荒覇吐姫』と言っている。 やがて北日本へ進出して来た大和は、水神でもある荒覇吐姫の名を大和風に瀬織津姫命と変え、エミシの人々を稲作に誘導するための道具とした。エミシの人々を支配下においた大和は、土着の悪い神としてこの男神の方を封印した。そのために残されたのが瀬織津姫という名の女神であったと考えてみたい。 大分県宇佐市の宇佐神宮伝承では、同社の比売大神(3女神)を分祠したのが安芸の厳島神社であるという。この厳島神社の分社が鹿児島県出水市にあり、宗像3女神が祀られている。しかもこの3女神のうちの1神・多岐津姫(タキツヒメ)の代わりに瀬織津姫(表示は瀬織津比売命)の名がある(ほかの2神は、市杵島比売命と田心比売命である)。また青森県下北郡『佐井村誌』下巻には、宝永2年(1705)の再書写ではあるが、『箭根森神社再興後記』が収録されている。ここには、八幡3神の祭神説明が、次のように書かれているという。 神功皇后 気長足姫ト申本朝十五世女帝是則仲哀 帝御后応神天皇御母后香椎大明神 天照大神分身瀬織津姫命 応神天皇 再誕誉田天皇トモ又胎中天皇トモ 比女大神 応神帝御后 ●事神秘也 ここでは神功皇后のみ長い説明がなされているが、このなかに『天照大神分身瀬織津姫命』とある。瀬織津姫命が『天照大神分身』と記されているのは、『日本書紀』や『倭姫命世記』などに『天照大神荒魂』と記述されていたことを踏まえたものと思われる。 宮城県大崎市の荒雄川神社の境内案内によれば、同社の主神は瀬織津媛尊とされ、『嘉応2年(1170)に、藤原秀衡が鎮守府将軍となった時に、奥州一の宮とし』たと書かれているという。瀬織津姫命は、安倍氏の末裔・藤原秀衡(奥州藤原氏)によって信奉されていた。 郡山市西田町土棚の見渡神社(水分社・ミマクリシャ)社伝によると、天牟羅雲(アマノムラクモ)その他二神を祀っていた河内国の水分社を楠氏の臣橋本某が崇敬していた。寛永元(一六二四)年三月、その水分社を子孫の橋本清九郎がこの地に勧請した、とある。楠木正成ゆかりの『河内国の水分社』とは大阪府南河内郡千早赤坂村水分にある建水分(たけみまくり)神社のことと推定され、同社の祭神名の中には瀬織津姫命が含まれている。三春町史にも、見渡神は『本来は神渡(かみわたり)の名で開発農業神として祀られた土地神』と記されているが、この神渡の表記で想起されるのは、諏訪湖の『御神渡(おみわたり)』である。丹波民話 (囲炉裏夜話)によると、諏訪湖の水神もまた瀬織津姫命である可能性が高いという。 瀬織津姫命を祀る神社は、次のように分布している 北海道 5 青森県 2 岩手県 36 宮城県 7 秋田県 3 山形県 6 福島県 10 茨城県 4 栃木県 2 埼玉県 5 千葉県 3 東京都 13 神奈川県 1 山梨県 2 新潟県 11 長野県 10 富山県 14 石川県 4 福井県 2 愛知県 16 三重県 18 岐阜県 7 滋賀県 19 京都府 20 大阪府 6 兵庫県 20 奈良県 18 和歌山県 13 鳥取県 25 島根県 11 岡山県 25 広島県 13 山口県 6 香川県 8 徳島県 9 愛媛県 9 高知県 6 福岡県 12 長崎県 2 大分県 4 宮崎県 6 鹿児島県 2 また瀬織津姫命が関連するとされる県内の見渡神社は、次のように分布している。 田村地域 29 二本松市 1 (資料5 参照) この瀬織津姫命は桜と瀧とのそばに多く鎮座している。しかも瀧の名は、不動滝が典型的である。不動明王は天台宗の布教の流れから水神の上に被せたものとされ、瀬織津姫命と一体化している。加えて覇吐(ハハキ=ハハカ)の『ハハカ』が桜の古名であるということから、水神の化身としての桜神たる瀬織津姫と、絶妙に重なってくる。三春の滝桜の近くには不動滝があり、滝不動尊と柴原神社(三渡神社)が祀られていることにも興味を引かれる。ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。この大震災のなか済みません。2011年3月21日、一日平均アクセス数が75になりました。ありがとうございます。
2011.03.21
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樅の木は残った 『樅ノ木は残った』は、小説家山本周五郎による歴史小説で、江戸時代前期に仙台藩伊達家で起こったお家騒動、いわゆる『伊達騒動』を題材にしたものです。『伽蘿先代萩(めいぼくせんだいはぎ)』などで、従来は悪人とされてきた原田甲斐を主人公とし、江戸幕府による取り潰しから藩を守るために尽力した忠臣として描き、新しい解釈を加えたものです。この小説は、昭和四十五年に放映されたNHKの大河ドラマになっていますので、ご記憶にある方も多いと思われます。 ここに出てくる伊東七十郎重孝の先祖は、郡山最初の領主・伊東祐長からはじまったとされています。そして戦国時代になって、安積にあった伊東氏は、仙台・伊達氏の麾下に属していましたが、天正十六年(1588年)、郡山の夜討川合戦の際、倍する勢力の常陸の佐竹、会津の蘆名、それに白河、須賀川などの連合軍の攻撃に苦戦し、伊達政宗の命運も危うくなった時、伊東祐長より14代目の伊東肥前重信が政宗の身代わりとなって僅か20騎で突撃し、須賀川の家臣の矢田野義正に討ち取られて壮烈な戦死を遂げたという武功ある家柄でした。伊達家では、その討ち死にをした地に『伊東肥前之碑』を建ててその武徳を永久に顕彰することとしたのですが、その碑は現在、富久山町久保田の日吉神社に移されています。この神社は、この合戦の際の伊達軍の前哨基地であったとされる所です。 伊東七十郎重孝は、この伊東肥前重信に連なる伊東重村の次男として、仙台に生まれました。儒学を仙台藩の内藤閑斎、さらに京都に出てからは陽明学を熊沢蕃山、江戸にては兵学を小櫃(おびつ)与五右衛門と山鹿素行に学んでいます。その一方で七十郎は、日蓮宗の僧の元政上人に国学を学び、文学にも通じていました。また、武芸にも通じ、生活態度は身辺を飾らず、内に烈々たる気節を尊ぶ直情実践の士であったとされます。 さて本題の伊達騒動は、江戸時代の前期に仙台藩で起こったお家騒動です。黒田騒動、加賀騒動とともに、日本三大お家騒動と呼ばれる事件の一つでした。仙台藩3代藩主の伊達綱宗は遊興放蕩三昧であったために、大叔父にあたる一関藩主の伊達宗勝がこれを諌めたのですが聞き入れられず、やむを得ず親族と家臣との連名で、幕府に綱宗の隠居と嫡子の亀千代の家督相続を願い出たのです。そこで幕府は、21歳であった綱宗を強制的に隠居させ、それを継ぐ4代藩主に、わずか二歳の亀千代を伊達綱村として相続させたのです。 ところが幼い綱村が藩主になると、一関藩主の伊達宗勝と仙台藩家老の原田甲斐が実権を掌握し、権勢を振るっての専横の限りを尽くすようになったのです。伊東七十郎は伊達家の安泰を図ろうとして、権勢を振るう伊達宗勝を討つことを本家筋の伊東重門と謀ったのです。しかし仙台藩の家老であった伊東重門は、二歳の藩主・伊達綱村の後見役となっていた伊達宗勝と岩沼藩主の田村宗良に、叛逆をしないという誓書を書かせるのには成功したのですが、まもなく重門は病に倒れ、後事を分家の七十郎に託して死去したのです。ところが、この伊達家を乗っ取ろうとした伊達宗勝に対し、これを阻もうとした七十郎の計画が事前に漏れて、捕縛されてしまったのです。 七十郎は、入牢の日より33日の間絶食をして抗議したのですが、許されることはありませんでした。処刑の日が近づいたのを知った七十郎は、『人の心は、肉体があるから物欲に迷って邪道に陥る危険がある。本来人に備わっている道義の心は物欲に覆われ、微かになっている。それゆえ人の心と道の心の違いをわきまえ、煩悩にとらわれることなく道義の心を貫き、天から授かった中庸の道を守っていかねばならない』と書き残しています。この言葉の出典は中国の書経(しょきょう)であり、彼の教養の深さが十分に伝わるものとされます。こう書き残した四日後の寛文八年(1668年)四月二十八日、七十郎は死罪を申し渡され、『我が霊魂、三年の内に逆賊を滅すべし』と絶命の言葉を残して、米ヶ袋の刑場で処刑されたのです。 七十郎は処刑される際に、処刑役の万右衛門に「やい万右衛門、よく聞け。われ報国の忠を抱いて罪なくして死ぬが、人が斬られて首が前に落つれば、体も前に附すと聞くが、われは天を仰がん。仰がばわれに神の御魂が宿ると知れ。われは三年のうちに疫病神となって必ず伊達宗勝殿を亡すべし」と言ったというのですが、それを聞いての恐れのためか、万右衛門の太刀は七十郎の首を半分しか斬れなかったという。そこで七十郎は斬られた首を廻して狼狽する万右衛門を顧みて、「あわてるな、心を鎮めて斬られよ」と叱咤したと言われます。気を取り直した万右衛門は、2度目の太刀で七十郎の首を斬り落としたというのですが、同時に七十郎が言った通りに、体が天を仰いだといわれます。その後の七十郎の一族は、御預け・切腹・流罪・追放などとなっています。七十郎の遺骸は、いまの仙台市若林区新寺の阿弥陀寺に葬られました。後になって処刑役の万右衛門は、七十郎が清廉潔白な忠臣の士であったことを知り、阿弥陀寺の山門前に地蔵堂を建て、七十郎の霊を祀ったとも伝えられています。 のちになって七十郎の遺骸は、伊東家の菩提寺である、いまの仙台市若林区連坊の栽松院に墓が造られました。法名は鉄叟全機居士です。栽松院は、仙台藩初代藩主伊達政宗の祖母の久保姫、(のちの栽松院)の菩提供養のために、慶長八年(1603年)、政宗が建立した位牌寺で、ここには多くの伊達家臣の墓もあり、この地に残るシラカシの古木は、伊達政宗が毎日遥拝した樫の木と伝えられています。七十郎の死の三年後の寛文十一年(1671年)、原田甲斐の弁明が退けられ、伊達宗勝一派の施政が咎められることになりました。そこで不利な立場に立たされた原田甲斐は、仙台藩老中の酒井雅楽頭の屋敷の控えの間において、背後から突然、伊達宗勝の側であった伊達安芸に斬りつけました。不意をつかれた伊達安芸は、負傷しながらも刀を抜いて応戦したのですが、深手を負ってその場で絶命しました。 騒ぎを聞いて駆けつけた柴田の聞役・蜂屋可広(よしひろ)が原田甲斐を斬り、その後になって、伊達兵部は土佐に流されました。その結果、七十郎の名誉は回復されてその忠烈が称えられ、四代藩主の伊達綱村により伊東家は再興したのです。 いま七十郎の墓石の中央の戒名が刻まれている部分が少しくぼんでいますが。ここには当初は、『罪人』であることが刻まれていたのですが、名誉が回復された後に削り取られ、改めて戒名が刻まれたと伝えられています。 七十郎の墓に並んで、父・重村と兄・重頼の墓もあります。のちにこの裁断を下した板倉重昌は福島藩に転封され、いまの福島市杉妻町の板倉神社に祀られました。福島市では、重昌の訃報が届いた一月七日に門松を片ずける習わしが、今も続いています。なお明治三十年、仙台市太白区向山の愛宕神社境内の神門の前、愛宕山東登り口の改修工事中に伊東七十郎の遺骸が発見されました。遺骸は、伊達一族の菩提寺である裁松院に葬られていたのですが、明治四十年に発見された場所に、二百四十回忌の招魂碑が建立されました。しかし後にこの碑は愛宕神社に移されています。 この伊東七十郎の死により、世間は伊達宗勝の権力のあり方に注目し、また江戸においては、文武に優れ気骨ある武士と言われていた七十郎の処刑が、たちまち評判となりました。そして伊達宗勝一派の藩政専断による不正や悪政が明るみに出ることとなり、宗勝一派が処分されることで伊達家が安泰となり、七十郎の忠烈が称えられたのです。また、当時の人々が刑場の近くに七十郎の供養のため建立したいまの仙台市青葉区米ヶ袋の『縛り地蔵尊』は、『人間のあらゆる苦しみ悩みを取り除いてくれる』と信仰され、その願かけに縄で地蔵尊を縛る習わしがあり、現在も毎年七月二十三、二十四日に、縛り地蔵尊のお祭りが行われています。さらに昭和五年になって石巻市北村に七十郎神社が創建され、その霊が祀られています。 なお七十郎には2人の息子がいましたが、兄の重綱は父の七十郎の跡を継いで大阪の陣で活躍し、仙台藩成立後は、家老となっています。いずれ伊東七十郎は、郡山とは深い関係のあった人でした。 この伊達騒動を扱った最初の歌舞伎狂言は、正徳三年(1713年)の正月、江戸・市村座で上演された『泰平女今川』ですが、その後の重要な作品として、安永六年(1777年)に大阪で上演された歌舞伎『伽羅先代萩』と、翌安永七年、江戸・中村座で上演された歌舞伎、『伊達競阿国戯場(だてくらべおくにかぶき)』、さらに天明五年(1785年)、江戸・結城座で上演された人形浄瑠璃、『伽羅先代萩』の3作が挙げられています。現在、歌舞伎は伝統芸能の一つとして、昭和四十年に重要無形文化財に指定されています。なおこの時の仙台藩主の伊達綱村は、参勤交代などで郡山を通った時には、七十郎の三代前と思われ、しかも伊達政宗の身代わりとなって戦死した伊東肥前重信の碑に、必ず足を止めてぬかずいたと言われます。これには、七十郎の功績を讃える気持ちもあったのかもしれません。 ところで、山本周五郎の『樅ノ木は残った』に戻ってみます。 お家騒動の発端以後、ひたすらに耐え忍ぶことを貫き通した原田甲斐。私利私欲のためでもなく、名誉のためでもなく、ただただ伊達藩とそこに属する人々を守るために、彼は進んで悪名を被り、そうすることで黒幕の懐深くへ入り込む。甲斐にとって更に修羅場なのは、かつて甲斐と親しくしていた者たちが、非業の死を遂げていくことである。伊達兵部は、自分の邪魔をする者に対して、容赦することはなかった。部屋住みだが甲斐と親しかった伊東七十郎は、彼と絶交した後、兵部の暗殺を計画するが、家来の鷺坂靱負の裏切りにより捕らえられる。そして七十郎の一族は、共々罪死する。原田甲斐は道を違えて以降、この血気盛んな若い志士の七十郎とは、最後までわかり合うことができず、甲斐もまた、七十郎の死を止めることができなかった。 このNHKの大河ドラマ、『樅の木が残った』において伊東七十郎役を演じたのは、伊吹吾郎でした。いま、船岡城址公園の遊歩道を『樅の木が残った』の舞台となった『樅の木』を目指して行くと、左手に『伊東七十郎辞世の碑』があります。『いつの世でも、真実国家を支え護立てているのは、こういう堪忍や辛坊、人の眼につかず名も表れないところに働いている力なのだ』 著者の山本周五郎が一番伝えたかったのは、この一文にあったのかも知れません。
2023.08.14
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平賀源内は、どこで三春駒を知ったか?③ 落札した三春駒が手元に届くと、私はよく観察してみました。植物でできたとされる『たてがみ』や尻尾はほとんど残っていませんでしたが、その香炉の胸部には、五島美術館の図録と同じく、『奥州・三春大明神・子育之馬』とあり、腹部には『安永三年・正月元旦・平賀鳩渓・謹摹(も)造』とありました。私はここの『謹摹造』に注目しました。『謹』は恐れ敬っての意味であり、摹という字はなかなか見つかりませんでしたが、『摹造』は手本どおりに造る、の意味だったのです。とするとこの香炉は、源内(鳩渓)の指導によって造られたということになります。ですから、私の手元にあるものを含めて複数あることについて不思議はないのですが、よく見ると図録にあった香炉の写真と私の手持ちの香炉とに若干の形に違いがありました。これは、源内の皿などは主に型取りで製作されているようですが、三春駒の香炉に限って言えば、板状にした粘土を成形して形を作る『板作り』によって作られたと思われることから、一体ずつ形に差が出たと考えられます。私はそれを持って、『さくらカフェ』に行ってみました。「ああ、これが本物なのね」 オーナーの浜崎明美さんが、繁々とそれを見ていました。私がこれを持って、「これから資料館に行ってみる」と言うと、いかにも残念そうに、「店が休みだったら一緒に行ってみたい」と言っていたのです。 資料館では、所蔵していた『三春駒の香炉』を出して、私を待っていてくれました。そこで早速、資料館のそれと比較してみたのです。資料館の『三春駒の香炉』は、たてがみや尻尾も残っていて、私のものより少し大きく、特に首の長さに差異がみられました。残念ながら私が手に入れた香炉や資料館にある香炉は、弟子の誰が作ったかまでは確認することができませんでした。それにいまは見つかってはいませんが、もし源内が作った見本的な『三春駒の香炉』が見つかれば、これら『三春駒の香炉』の原型となる筈です。弟子たちが文字列まで正確に『摹造』しているのですから、原型には『奥州・三春大明神・子育之馬』とあったと思われます。いずれにしても、『源内焼』として多くの陶器を残した源内が、その出所を明らかにするこのような文字を刻んだ陶器は、これ1点のようなのです。源内は、なぜこのような文字を刻んだのでしょうか。それを考えると、源内が『三春駒の香炉』を作った前提として、どこかで三春駒を見たと推測できます。しかも本物の三春駒には、『子育之馬』とは書いてありません。『子育之馬』とは、当時の商標として普及していたのでしょうか。もしそうであったとしても、『三春大明神』となれば、そのような神社があることを知らなければ書けない筈です。 さてここからは私の想像です。奥州秋田の角館へ行った源内は、先祖から伝えられていた話を思い出したのではないでしょうか。例えば、源内の遠祖となる平賀三郎国綱が伊達政宗に仕えており、その政宗の正室が三春出身の愛姫であり、愛姫の家系は田村麻呂の末裔であるとのこと、そしてそれに付随する田村麻呂と三春駒の伝説。その伝説とは、京都東山の音羽山清水寺に庵をむすんでいた僧の延鎮が、田村麻呂の出兵にあたって、仏像を刻んだ残りの木切れで100体の小さな木馬を作って贈ったというのです。延暦十四年(795年)、田村麻呂はこの木馬をお守りとして、奥羽の『まつろわぬ民』を討つため京を出発しました。そしてその途中となる、田村の郷の大滝根山の洞窟に、大多鬼丸という悪人どもの巣窟のあるのを知り、これを攻めたとされるのです。ところが意外に強敵であった大多鬼丸を相手にして、田村麻呂率いる兵士が苦戦を強いられていたのです。そのようなとき、どこからか馬が100頭、田村麻呂の陣営に走り込んできたのです。 兵士たちはその馬に乗って大滝根山に攻め登り、大多鬼丸を滅ぼしました。 ところが戦いが終わってみると、いつのまにか、あの馬100頭の行方はわからなくなっていたのです。翌日、高柴村で、村人の杵阿弥(きねあみ)という者が、汗びっしょりの木彫りの小さな駒を一体見つけて家に持ち帰り、それと同じに99体を作って100体としたのですが、高柴村が三春藩の領内であったので『三春駒』と名付け、100体の三春駒を子孫に残したというのです。後に、杵阿弥の子孫が、この木馬を里の子供たちに与えたところ、これで遊ぶ子供は健やかに育ったので、誰ともなしのにこの三春駒を『子育木馬』と呼ぶようになったというのです。 そして同じような話を、源内が仕えていた博物好きの高松藩主・松平頼恭(よりたか)から聞いていたと思われます。頼恭(よりたか)は正徳元年(1711年)五月二十日に、陸奥国守山藩主・松平頼貞の5男として誕生しました。その守山藩領には、田村麻呂の生誕に関わる伝説もあったのです。高松藩の第4代藩主・松平頼桓(よりたけ)の養子となった元文四年(1739年)に、頼桓(よりたけ)が死去したため、頼恭(よりたか)は29歳での高松藩の家督を継ぎ、第5代の高松藩主となっていたのです。源内は、自身の先祖から伝えられてきた話と、高松藩主の頼恭(よりたか)から聞く話とを融合できたことなどから、自分の仕える松平頼恭(よりたか)の出里である守山を経て江戸に戻ろうとしたのではないでしょうか。そして守山の北にある三春に入って町を見聞したときに聞いていた三春駒というものに遭遇、その謂われを聞いて土産に購入し、その姿を『奥州・三春大明神・子育之馬』という来歴とともに焼いたのではないかと考えています。このように来歴を記した作品は、数多くある源内焼のなかでも、これ一個と思われるのです。ともかく異常なほど多くの事物に関心を持っていた源内ですから、考えられないことでもないと思っています。 そもそも地元にある三春駒には、『奥州・三春大明神・子育之馬』などとは書かれていません。それなのに、源内が『三春駒の香炉』の胸に『三春大明神』と刻み、さらに『子育之馬』と刻んでいるのです。これは三春に『大明神』があり、町では三春駒を『子育之馬』と言っているのを知ったからではないかと私は思っています。なぜなら源内と言いども、これらのことを、江戸や四国に居ては知ることができなかったと思われるからです。つまりこの文字こそが、源内が三春に来て、町の佇まいや三春駒を見て知って書いたということを示唆する証拠ではないかと思えるのです。ちなみに、元禄二年(1689年)に、3代三春藩主の秋田輝季が、三春の貝山字岩田より神明宮として現在の神垣山に遷し、以来、三春ではシンメイサマと呼ばれるようになりました。これは神明宮の通称ですが、尊んで言う称号が『大明神』なのです。源内はこの称号である『三春大明神』と刻んだものと推測できるのですが、この文字こそが、源内が三春に来たということを示唆するものと思っています。なお現在の三春大神宮は、明治に入ってからの改称です。ともあれ、『三春駒の香炉』が作られたのは、今からほぼ180年前になります。そんな古い時代に、平賀源内はどこで三春駒を知ったのでしょうか? 私はこれらのことから、平賀源内は三春へ来たと想像していますが、皆さんはどう思われますか。 ところで、平賀源内の時代から約100年後の天保九年(1838年)に書かれた臼杵藩(大分県)の江戸藩邸日記に、『秋田様御国ニて出来候由三春木馬、此度左衛門尉様御手ニ入候由、右ハ左衛門尉様より御奥様ヘ差シ上ゲ候』とあります。ここに出てくる左衛門尉は、中津藩(大分県)の前藩主の奥平昌高のことで、臼杵藩主の稲葉幾通の正室の父親になります。この記録から、父親が娘に三春木馬、つまり三春駒を贈ったことから、その頃には三春駒が江戸で販売されるなどしていたであろうことがうかがえ、同時にそれが贈答品として意識されていたことが知られます。この頃には、三春駒は全国的に知られるようになっていたのかもしれません。
2024.11.10
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阿 尺 と 安 積 国造(くにのみやつこ)は、律令制が導入される以前の地方官で、軍事権、裁判権なども持ち、実質的にその地方の支配者でした。訓のみやつことは御奴(みやつこ)の意味とも解されます。国造の下に県(あがた)があり、かなり整備された国県制があったとする見解もありますが、国造制の実態や中小豪族との関係で不明な点が多く、律令制以前の地方支配の実態は明確になっていません。しかし大化の改新(大化二・646年)以降、国造は主に祭祀を司る世襲制の名誉職となり、従来の職務は郡司に置き換えられていきました。 阿尺国造が治めた阿尺国は、律令制下の評(郡)に転じたものに始まるとされています。 続日本紀によりますと、和銅6(713)年5月2日条で『畿内、七道の諸国は、郡、郷の名に好字(漢字二字の嘉き字)を著(つ)けよ』と命じる地名嘉字使用令が出ましたので、その時点で阿尺は安積という文字に変えられたものと思われます。 さて現在、JR東北本線宇都宮駅の二つ北、烏山線と分岐する地点に宝積寺駅があります。これは栃木県高根沢町宝積寺にある駅で、『ほうしゃくじ』と読みます。積が『しゃく』なのです。 そこから調べてみましたら、宝積寺(ほうしゃくじ)という古い読みの寺が、京都府乙訓郡大山崎町の天王山中腹にある真言宗智山派の寺にありました。この寺は山城国(京都府)と摂津国(大阪府)の境に位置し、古くから交通・軍事上の要地であった天王山の南側山腹にあったのです。寺伝では神亀元(724)年、聖武天皇の勅願により僧・行基(ぎょうき)が建立したと伝えられています。 さてこの阿尺国の阿尺、『あしゃく』だったのでしょうかそれとも『あしゃか』だったのでしょうか? もし『あしゃか』なら安積につながるのですが、『あしゃく』ではちょっとつながりにくいと考えていました。しかし地名嘉字使用令が出された713年よりたかだか11年後の724年に建立されたこの京都府の宝積寺の読みから、『安積』と文字を変えた時点では宝積寺(ほうしゃくじ)と同じ読みの『あしゃく』であったのではないかと想像していました。 この宝積寺、実は福島県にも4ヶ寺ありました。福島市舟場の宝積寺には、伊達晴宗(政宗の祖父)の墓があり、会津若松市小田山の山麓にある宝積寺の地蔵尊の錫杖の頭には、十字架がついているそうです。その他にも、同じ文字と読み方の寺が、喜多方市と伊達郡桑折町にもあるのを見付けたのです。 ところが後に、『さか(積)』は通常『しゃく(尺)』の転訛であるということを知りました。そのこともあって、いつの間にか安積が「あさか」と読まれるようになったのだと思います。ということは、『積』という文字は『しゃく』と読むのが当時の常識? であったのかも知れません。ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2015.02.01
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帰国を許されたゴローニンは、日本での体験を書いて出版した。やがて、その蘭訳本が輸入され、馬場佐十郎らが翻訳して遭厄日本紀事(そうやくにほんきじ、岩波文庫本では『日本幽囚記』)と名付けられた。 この年、【中川五郎治はシベリア抑留中に種痘術を学び、ロシ ア語の種痘書『ヲスペンネクニガ』を日本に持ち帰った】 この年、【幕命で箱館に来ていた馬場佐十郎が、箱館奉行所に 提出させられていた中川五郎治の『ヲスペンネクニガ』を筆 写して江戸に戻り、翻訳をはじめた】 文政五(一八二二)年、【馬場佐十郎死去。『遁花秘訣』と題さ れたわが国最初の種痘書は、刊行されるには至らなかった】 文政六(一八二三)年、シーボルト来日、長崎で牛種痘を実験 したが、失敗した。 文政七(一八二四)年、【中川五郎治は箱館などで牛種痘を試 みて成功した。後に医師になる箱館の白鳥雄蔵も彼から種痘 を受けた。なお確証はないが、五郎治は自分の出身地である 川内村で牛種痘を実施したという口伝がある】 この年、【下守屋村疫毒騁□人多斃】(文儀墓碑銘より) 文政八(一八二五)年、【下守屋村で再び疱瘡が流行】 この年、【麻疹果行竟施薬者数万民頼只安】(文儀墓碑銘より) 薬を要する者が大変な数に達した。疱瘡で死んだ遺体を乗せた大八車がひっきりなしに集落を駆け巡り、おびえた領民たちは祈祷を行い、疫病よけの赤いたすきを掛けて集落を捨てて山に逃げこんだ。そこでは牛糞を焼き煎じて飲んだが効くはずもなく、せいぜい祈祷所を設けたり神仏に祈ることくらいのことしかできなかった。(HP・三かく運動の小話)妙見山の飯豊和気神社は、このような病気から逃げ登るのには格好の山であったかも知れないし、逆に健常者を隔離する事になったとも考えられるこの折熊田文儀は二本松藩より月俸を受けることになったが、下守屋村の伝承による文儀の顕彰碑(実際は霊符つまりお守り)は、このとき建立されたものかも知れない。 天保元(一八三〇)年、中国から種痘書が渡来した。大村藩で は古田山を種痘山とし、そこに隔離して人痘種痘を行った。 天保四(一八三三)年、【『三葉目』の年代から押すと、熊田文 儀らはこの年に牛種痘を実施したことになる】 ただこの実施に際して、ちょっと気になることがある。それは明治の初年、牛肉食に驚いた庶民が、『牛肉を食べるとモーと鳴く、とか角が生える』と忌み嫌ったにもかかわらず、それから三十年も前の牛痘苗接種に、特に抵抗した様子が見られないことである。これにはよほど前もって、その有効性が話され受け入れられていたとしか、考えようがない。 天保十一(一八四〇)年、【中川五郎治に技術を示唆された白 鳥雄蔵が秋田藩医・斎藤養達に入門、牛痘苗の開発に成功し、 秋田藩各地で接種を行った】 白鳥雄蔵自身は、仙北地方(いまの秋田県横手市地方)で実施した。日野鼎哉と白鳥雄蔵により、京都で種痘に関しての中川五郎治の噂が拡がった。しかしそれにもかかわらず、何故かこの種痘法が全国に普及しなかった。この点に関して吉村昭氏は、中川五郎治が金儲けに走って人に教えず、自分だけの収入源にしようとしたためと推定している。 天保十二(一八四一)年、シーボルトの門人・伊東圭介が『英 吉利国種痘奇書』として漢訳書に訓点をほどこして発刊した。 弘化四(一八四七)年、【初代・熊田文儀死去】 嘉永元(一八四八)年、会津藩の佐藤元萇と中村二州寛敬が牛 種痘を実施。 嘉永元年あるいは三年とある種痘実施は、(中略)まだモーニケ来朝前であるため牛痘接種法を彼から学んでおらず(中略)これらの事実から見て、会津での嘉永元年または三年実施説は少し早いように思われる。 (福島県医師会史) (注)大文字は筆者 嘉永二(一八四九)年、オランダ軍医で蘭館医のオットー・モ ーニケが、牛種痘に成功した。 嘉永三(一八五〇)年、【馬場佐十郎が訳したが死去したため、 草稿のままであった『遁花秘訣』は利光仙庵の手で翻訳し直 され、『魯西亜牛痘全書』と改題してはじめて出版された】 嘉永五(一八五二)年、【七月二十九日、相馬中村藩で、藩医 半井宗玄が種痘を行った】 この種痘の結果、『効果見るべきものあり』という記録が残されたが、宗玄が行った種痘法が長崎で学んだ草野方昌によって得たモーニケ苗が長崎から入ったものなのか、またはさきにロシアから中川五郎治が持参して仙台まで広まったという牛痘苗が函館から入ったものなのかは、今後の研究課題である。 (福島県医師会史) (注)なおこれについて仙台図書館で調べたが、『種痘法 が函館から入った』という資料は、見つけることが できなかった。 大文字は筆者。 安政二(一八五五)年、奥州東白川(福島県)の菊池淳信は自 分の友人に接種した。 安政三(一八五六)年、吉村二州寛敬、馬島瑞園、宇南山宙斉 らが、会津若松城下および南会津郡で実施した。 安政四(一八五七)年、【二代目熊田文儀が牛種痘を実施した】 明治二(一八六九)年正月、磐城植田(福島県)の小宮山岱玄 が、種痘の免許を受けた。 二月、 須賀川(福島県)の薄井杏庵が、種痘の免許を受け た。 秋 三春(福島県)の伴野貞順が、種痘の免許を受けた。 明治三(一八七〇)年四月、政府は大学東校に種痘館を設置し、 太政官達をもって全国府県藩に布達して種痘を受けることを 奨励した。 明治四(一八七一)年、福島県の命令により、県内全域で種痘 を実施した。種痘を受けた者は、千余人を超えた。 六月、 常葉(福島県)の白岩玄泰が、種痘の免許を受けた。 十二月、北会津郡大戸村字雨屋(福島県)の秋元秀斎が、種 痘の免許を受けた。 明治九(一八七六)年五月、政府は天然痘予防規則を定め、強 制接種制度を発足させた。 昭和五五(一九八〇)年、WHOは総会で『世界天然痘根絶』 を宣言した。
2008.03.22
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平賀源内の各地の美術展② 『源内の指導』とはどのようなことを言うのかは不明ですが、源内が指導して三彩の交趾(こうち)風の陶器を開発したことが明らかにされはじめているそうです。交趾とは安南・サイゴン地方で、いまのベトナムのことですが、一般に交趾焼と称しているものは、中国南部の広東などで焼かれたもので、土は柔らかく暗色を帯び、緑・黄・紫色のいわゆる『三彩の交趾釉』がほどこされています。源内焼の特徴的意匠のひとつは地図皿です。日本で初めて地図を意匠に取り入れた焼き物で、ユーラシア・アフリカ大陸、南北アメリカ大陸、日本列島のものなどもあります。日本地図の皿はとても精緻で、幅広い階層の知識欲を満たしてくれるものでした。ただ箱書きなどから、これらが天明2年(1782年)以前から存在していたことが推定されています。ちなみに現在、香川県さぬき市志度の平賀源内記念館には、テレビの『なんでも鑑定団』の中島誠之助さんが、「1,000万円の価値がある!」と判定されたのが、南北アメリカ大陸を描いた『二彩万国地図皿』です。この絵皿には南北アメリカ大陸がドンと描かれていますが、大陸の上には「亜墨利加」などの様々な漢字が半島の先まで細かい漢字で、また太平洋の波も細かく浮き出ています。「お皿を見て楽しんでもらう」ために源内は源内焼を考案したと言われています。その他の器種としては、硯のそばに立てて塵やほこりなどを防ぐ小さな衝立(ついたて)である硯屏(けんびょう)鉢・蓋付き碗・銚子・盃・水滴・香炉・鈴などが見られます皿や鉢などに比べて目立って少ないのが香炉であり、この少ない香炉の中のひとつが、『三春駒の香炉』だったのです。 当時、源内が天草代官に提出した陳情書、『陶器工夫書』によれば、オランダにはじまる東インド会社のアジア進出で開かれた航路によって、中国製の珍しい陶磁器がヨーロッパに向けて盛んに運ばれていたのですが、その中国の清が、1757年、制限貿易を開始したのです。当時、清には大量の銀が存在していました。乾隆帝は制限貿易によって銀の国外流出を防ごうとし、貿易港を広州一港に限定し、さらに公行と呼ばれる特権商人を設置し、貿易を特権商人たちに独占させました。銀の国外流出を防ぐとともに 貿易による利益を清朝が独占したのです。そのため中国での陶磁器の生産が減り、代わりに日本へ中国写しの陶器の注文がもたらされたのです。それを知った源内は、陶土を産出する天草の土に着目し、「日本での製陶の技術向上をはかり、陶工を増やして器の形、模様の指図をする人さえ得られれば、日本刀や蒔絵のように万国に勝る立派な陶器が出来る。それによって輸出が増え、外国産の陶器に日本人が大金を使う必要もなく、永代に亘って我が国の国益に貢献する。」と話していたそうです。 源内の陶器は技術的に優れていたこともあって、その見事な陶器で、幕府老中の田沼意次をはじめ、諸国の大名たちや豪商を魅了したと伝えられています。このようなこともあって、源内焼の作品には、寒山寺図や山水図、蓬莱山図・遊船図など中国を意識したものが多いのですが、日本の『三彩・天ノ橋立図』などの長皿や鉢なども残されています。このような源内の弟子のひとりに、自身の甥である堺屋源吾がいました。特に源吾の手に成る陶器が多く残されており、それらには『志度舜民』『舜民』『民』などの銘の物があります。また判明しているもうひとりの弟子は、やはり志度浦生まれの赤松光信で、源内に交趾焼を学んで大阪や長崎などでその製品を販売し、好評を得ています。彼はのちに志度浦に戻り、志度焼を起こしています。 安永2年(1773年)、源内が45歳の春、いまの埼玉県秩父市の中津川村の付近で金の採掘に挑戦し、その後、その山での、鉄山の開発願が幕府代官の前沢藤十郎あてに差し出しています。中津川の集落には、源内自身が設計したという非公開ですが、『源内居』という建物が残されています。ところでその年の7月、源内は、鉱山採掘の技術指導のために秋田の角館を訪れていますが、そのとき、小田野直武と会っています。一説には、宿の屏風絵に感心した源内が、作者である直武を呼んで会い、西洋画の陰影法や遠近法を教えたというのです。その後源内は、小田野直武を江戸に呼び寄せました。そしてその縁によって、小田野直武は、杉田玄白や前野良沢の解体新書の挿絵を任されています。直武は源内に西洋画を学んだのちに、秋田蘭画と呼ばれる一派を形成しています。蘭画とはオランダの絵のことです。また源内の薬品展示会で親しくなった蘭学者・杉田玄白は、彼の著書の『蘭学事始』の中で、源内を『天性の才人』と讃えています。この『解体新書』の出版は、日本国内に蘭学が広まる大きなきっかけとなったのです。 前述の五島美術館で開かれた『源内焼〜平賀源内のまなざし展』での図録『源内焼』によると、『この三春駒の香炉は個人蔵』とあり、これと『同じものでやや小型のものが他に1点ある』とありました。掲載されていた三春駒の写真の胸には『奥州・三春大明神・子育之馬』とあり、腹部には『安永3年(1846年)正月元旦・平賀鳩溪・謹摹造』とありました。さらに調べていたら、令和元年、兵庫県宝塚市の鉄斎美術館で『富岡鉄斎と平賀源内展』が開かれており、そのパンフレットには、こうあったのです。『富岡鉄斎(とみおか てっさい、1837年1月25日(天保7年12月19日)〜1924年(大正13年)12月31日)は、明治・大正期の文人画家、儒学者で日本最後の文人と謳われる。鉄斎美術館は、近代文人画の巨匠・富岡鉄斎と交友を結んだ清荒神(きよしこうじん)清澄寺(せいちょうじ)の第37世法主・坂本光浄の『宗美一体』の理念とその遺志を継承して、約1世紀にわたって蒐集されてきた鉄斎作品を広く公開展示しています。鉄斎が愛蔵していた品に、色あざやかな三彩を施した源内焼の『子育馬香炉』があります。源内焼は江戸時代中期、発明家・平賀源内(鳩渓)の指導によって讃岐国志度(香川県さぬき市)で製作されました。胸部に「三春大明神」と彫られていることから、福島県三春地方に伝わる三春駒を象ったものであることがわかります。はじめ平賀源内が製作し、のちに工芸品として普及したようです。使用した形跡があるので、富岡家でも使われていたのでしょうか。鉄斎による箱書きも遺っています。』 鉄斎をも魅了した『三春駒の香炉』。私は時を経ずして、これがヤフオクに出品されているのを知りました。しかしそう安い物ではありません。買うかどうか迷いました。そこで私は、三春歴史民俗資料館に、もし源内焼の『三春駒の香炉』の所蔵がなかったら、買って寄付をしたいとメールをしたのです。ところが資料館から、『実はすでにそれを所蔵している』との返事があったのです。寄付をしようとした気持はしぼみましたが、逆にどうしても欲しくなりました。そこで、意を決っしてヤフオクで落札をしたのです。
2024.11.01
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平賀源内の三春駒の香炉① ある日、私が歴史好きなのを知っている友人が、三春の『さくらカフェ』に平賀源内の作った三春駒の香炉を模したものがあると知らせてきました。カフェのオーナーの浜崎明美さんが、「日下部先生が、平賀源内の三春駒の香炉のあることを知って作ったものの一つだ」と言っていたと、その友人は話してくれました。平賀源内と言われた私の頭には、日本で初めて、手を繋いで輪になった人々に通電して、感電を体験する百人おどしの実演を行ったというエレキテル、そして土用の丑の日には鰻を食べることを普及した、江戸時代中期に活躍した人であると直ぐに浮かびました。ところが調べてみると、それだけではありませんでした。薬物学者、蘭学者、発明家、美術家、文芸家であり、さらには地方特産品を集めた展示会の開催、世評の風刺から浄瑠璃の戯作、滑稽本の著作に化学薬品の調合、さらには西洋油絵の制作、石綿による防火布や源内織りなどの織工芸品の製作、それと地質調査、鉱山開発、水運事業等々ありとあらゆる分野に先鞭をつけ、それらを企画開発した多技・多芸・多才な顔を持ち、後年、日本のレオナルド・ダ・ビンチと呼ばれたというのです。その源内が『源内焼』という陶器を作り、しかも『三春駒の香炉』を作ったというのですから驚かされました。 さっそく私は、『さくらカフェ』に行ってみました。すると浜崎さんは、「日下部さんは、三春の資料館に源内焼の三春駒があることを知って、何度か見に行って、それを模刻したようです。資料館の三春駒のしまってある箱には源内作とあったことから、日下部さんは源内の真作と思っていたようでした。ウチにあるのは日下部さんがよくできたから飾ってくれと言って持ってきてくれたものです。」と話してくれたのです。『さくらカフェ』には、小さな源内焼の『三春駒の香炉』の模刻品が飾られていました。つい昨年(令和5年)に亡くなられた日下部正和氏。いったい何が、日下部氏をこれの製陶に駆り立てたのでしょうか? もし、それを知ることができれば、源内が『三春駒の香炉』を作ろうと思った動機を知ることができるのではないか、私はそう思ったのです。 日下部正和氏は三春の出身で陶芸歴50年、その作品には数十万円の値がつくこともあるという抹茶の茶椀の他、自由な作品の名手として知られ、三春町込木(くぐりき)に游彷陶房(ゆうほうとうぼう)工房を構えて、彼が作った無煙薪窯を使っての作品の制作や、ワークショップの主催などしていました。しかしワークショップのほとんどを海外で開催していたため、海外のファンも多く、中国、台湾、シンガポール、オーストラリア、トルコのキプロス島、さらにはサンフランシスコから訪れて来ていた方々もいたそうです。その日下部氏に、平賀源内が作ったという『三春駒の香炉』の模刻品を作らせた理由が知りたいと思ったのですが、すでに亡くなられた方に聞くわけにもいきません。私は、東京に住むという日下部氏の息子さんのフェイスブックに、コメントを入れてみました。直ぐに返事は来ましたが、『父の資料については全く知りません。もともと片付けが苦手の人間でしたから、資料を、ただの紙コップも紙ごみも一緒にしていた可能性が高く、もしあったとしても、私が紙ごみとして一緒に捨ててしまっている可能性が非常に高いです。お役に立てず申し訳ありませんでした。』というものでした。残念ながら私は、源内の作った『三春駒の香炉』を、日下部氏がどのような思いで作ろうと思ったのか、その心の内を知ることができなかったのです。 三春駒は、青森県の八幡馬(やわたうま)、宮城県の木下駒と並んで日本三大駒のひとつと言われ、郷土色の強い玩具です。昭和29年に日本で最初に発行された年賀切手は、この三春駒の絵でした。ところが、この『三春駒の香炉』の作者の平賀源内は、享保13年(1728年)に、四国の高松にあった松平藩の志度浦、いまの香川県さぬき市志度に生まれた人です。このような人が、どこで三春駒を知り、香炉という形ではあっても、何故これを作ったのか? 私はどうしても知りたいと思ったのです。色々と調べていると、平成15年に、東京世田谷の五島美術館で『源内焼〜平賀源内のまなざし展』が開かれたのを知り、ネットでその図録を手に入れました。するとそこには、平賀源内が作ったという『三春駒の香炉』の写真も掲載されていたのです。しかしその躯体に施された模様に、私は首をひねりました。その胴にある模様は鳥の足跡のような形のもので、いま私たちが見ている三春駒の模様とは大きく違うのです。そこで私は、デコ屋敷に張子人形作家の橋本広司さんを訪ねてみました。なおデコ屋敷とは、今も4軒の作家の家々が、木製の三春駒、三春張子と呼ばれる人形や張子の面などを作り続けており、数百年の伝統を守って今日まで伝えている集落で、その各屋敷が所有する人形の木型は、福島県の重要文化財に指定されています。広司さんはそのような広司民芸を経営するかたわら、古くからの木型などを集めた資料館も持っていたのです。「いやー、そういうものがあるとは、薄々話には聞いていたが、本当にあったんだない。」彼はそう言ってしばらく図録を見た後、自分の資料館に案内してくれました。そこには古文書や木型などの他、古い三春駒もありましたが、源内の描いた模様と同じ模様の三春駒はありませんでした。彼の話によると、「昔は、三春駒を作っているウチがもっとあって、各工房がそれぞれに絵付けをしていたがら、その頃の仲間の家で作っていた模様かもしれない。しかしこういう物があるのだから、昔はこのような図柄が一般的であったのかもしんに〜な」とのことでした。この模様の出所は、見つけることができなかったのです。ただ彼は、「江戸時代に、浅草などで売ったこともあったという話を、先祖がしていた」との話を聞かせてくれたのです。金龍山浅草寺を中心とする浅草周辺は、かつて江戸随一の賑わいを見せる遊興地だったと言うから、すでに商売に向いた地であったのかもしれません。 『源内焼』は、先覚的なデザイン、鑑賞を重視した高い芸術性と斬新な三彩釉の使用といったところにその特色があり、元文3年(1738年)に、讃岐国志度浦で開窯したとされる志度焼を基礎に、宝暦5年(1755年)になって、『源内の指導』によって発展したとされる陶器が、源内焼と呼ばれるようになったとされます。しかし近隣の諸窯のうち、類似する意匠や焼成技法のある屋島焼などとの混同も認められることから、さらに調査研究の必要な状況にあるというのです。源内焼の特徴は、技術的には桃山時代以降の日本の陶器に影響を与え続けた中国の華南三彩と同系列の軟質の施釉陶器(せゆうとうき)であって、緑、褐色、黄などの鮮やかな彩色を特徴としています。 精緻な文様はすべて型を使って表され、世界地図、日本地図などの斬新な意匠の皿などが試みられていますが、しかし、皿や鉢など限られた器に偏る、という指摘もあります。それは陶土の可塑性や型成形の技術的な制約も影響していると考えられています。ともあれ、展覧会の図録にある写真だけでも、数え切れないほどあるのです。種々の仕事をしながら、これほど質の高い陶器を作っていたのですから、ただ驚かされるばかりです。
2024.10.20
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福島県の金銀鉱山 福島県内には、次のように多くの金銀鉱山がありました。 金谷川鉱山(金) 福島市金谷川 福島市近郊には、金を掘った鉱山が多くありましたが、その中の一つでした。 松川鉱山(金) 福島市松川町 鎌倉時代の発見と伝えられ戦国時代は会津の蒲生氏によって経営されました。大正の初めに再開されたのですが昭和18年の金山整備令により設備を撤去し、 休山となりました、現在は製錬所跡が残されています。 半田銀山(金・銀) 伊達郡桑折町・国見町 大同年間に採掘が始まったと伝えられますが、本格的に操業を始めたのは慶長3年(1598)とされています。石見銀山(島根県)、生野銀山(兵庫県)とならんで日本三大銀山に数えられました。幕末以降は民間人が経営しましたが、 昭和45(1970)年に閉山しています。銀山といっても銀ばかり掘っていたわけではなく、金、鉛、亜鉛なども生産していました。なお、ハンダ付けの「はんだ」(錫と鉛の合金)がこの半田銀山に由来するという説もあありますが、定かではありません。 名称不明(金) 二本松市太田字金山 高玉金山(金・銀) 郡山市熱海町玉川字横道 天正元(1573)年、会津・芦名氏による開坑と伝えられています。日本三大金山の一つで、最盛期には日本一の産出量を誇り、佐渡(越後)・串木野(薩摩)と並び、日本三大金山と称せられました。江戸中期に一時衰退、明治になって再開されましたが、昭和51(1976)年に閉山。平成8(1996)年に観光化され、坑内をトロッコで探索できるようになりました。 高旗鉱山(金、旗は竹かんむりが上に付く) 郡山市三穂田町富岡 この鉱山は旧会津領主蘆名氏により開発され、その後蒲生氏の、さらに二本松藩主丹羽氏などの所領を経て、明治維新まで稼働しました。時期は明らかではありませんが、戦後しばらくの後に閉山されました。 玉井鉱山(金・銀) 郡山市逢瀬町多田野 金・銀を目的に昭和28年頃盛んに探鉱されて日立鉱山に売鉱したのですが、現在は休山となっています。 日山鉱山(金・銀) 郡山市湖南町中野 詳細は不明ですが、現在は坑跡とズリが残っています。 赤取根鉱山(金) 須賀川市狸平 現在は閉山とされていますが、詳細は不明です。 名称不明(金) 須賀川市塩田字金山 ここの開坑は南北朝時代と伝えられ、第二次大戦後の昭和20年代まで細々と採掘が続けられていた。しかし現在は閉坑しています。 黄金沢鉱山 西白河郡表郷村金山 天正年間の発見と伝えられ後に佐竹藩によって栄え一時3000軒もの長屋があったと伝えられています。明治になって採掘が再開され大正・昭和と稼働したのですが、現在は鉱山事務所跡と坑跡が残されています。 黄金嶺鉱山(金) 西白河郡表郷村金山 この金山地区には、黄金嶺鉱山の他に、真船、大島、大沢、中丿沢などの鉱山がありました。天正年間の発見と伝えられ、後に佐竹藩によって栄えました。一時は、3000軒もの長屋があったと伝えられています。明治になって採掘が再開されましたが、今は鉱山事務所と坑跡が残されています。 石川町では砂金も採れたことから、金田川、小金塚、金堀などの地名があります。(日進堂印刷所 ふくしま手帳)また八溝山でも金が産出したといわれます。 石ヶ森鉱山(金) 会津若松市一箕町石ヶ森 蒲生秀行により慶長8年金山として開発され、江戸時代には大いに栄えました。明治時代に入って、廃山となりました。 朝日鉱山(金) 会津若松市大戸町・門田町 江戸時代から金を採掘されたと伝えられ、会津三大金山の一つに数えられたのですが、江戸後期には衰退してしまいました。 桧原鉱山(金・銀) 耶麻郡北塩原村桧原金山 慶長10(1605)年、修験中堂坊により発見されてから多くの金堀人足が入り、桧原村は大いに栄えました。 加納鉱山(金.銀) 耶麻郡熱塩加納村石ヶ森 明治末期には全国的にも注目されたのですが、大正末期には衰退し。昭和47年に閉山しました。 黒森鉱山(金) 耶麻郡熱塩加納村 昭和10~13年頃、大規模に探鉱されましたが発展を見ず、休山となって現在に至っています。 赤羽根鉱山(金・銀) 耶麻郡西会津町赤羽根山 江戸時代から金山として開発されたのですが、五万洞・三十両・山口・銀鉛沢・野沢などの各鉱山を包括した名称です、 昭和15~16年ころは福島県屈指の金・銀・銅鉱山でしたが、鉱量枯渇等により昭和19年頃に休山になりました。 軽井沢銀山(銀) 耶麻郡柳津町軽井沢銀山 永禄元年村民松本左文治により発見(別説だと後の元和年間に軽井沢の農民、治右衛門が銀鉱を発見)されました。天正3年頃銀山として繁盛をきわめ、明治時代には全国的にも有名な大銀山でしたが、明治24年~25年、閉山となりました。最盛期には100戸の家々が軒をつらね、銀が100貫とれた年は櫓が建てられ、「月が出た出た銀山峠 煙でよごれて化粧なおし 月が出たよだ銀山峠 さぞや馬子さんあかりかろ」という踊りがたったといわれます。 田子倉鉱山(金) 南会津郡只見町 江戸時代の採掘記録が残る鉱山です。明治時代、再び採掘が始まりましたが、戦後、電源開発による田子倉ダム建設が開始され、坑口がダム湖南西奥の満水湖面より20mの高さに位置してしまい休坑となりました。 この他にもあったかとは思いますが、その昔、大和政権が大仏建立のための金箔作りなどに喉から手が出るほど必要としていた『金』の一部が、福島県でも掘られていたということになるのかも知れません。いずれにしても、これ以外にも金鉱山があったのかも知れませんが、その調査不足につきましては、御容赦をいただくのみです。ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2015.05.06
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三、 宮 城 県 宮城県も伝説が少なくない。戦場となった胆沢が仙台領であり、政宗の孫が立藩した一関にほど近いこととを考え合わせれば、当然のことと思われる。その伝説の最初は、田村麻呂の父、苅田麻呂からはじまる。この言い伝えは宮城県に苅田郡という郡があることによるものであろうが、丁度、福島県の田村地域に多くの田村麻呂生誕伝説が伝えられていると、まったく軌を一にするものと思われる。「田村麻呂の父の坂上苅田麻呂は、苅田郡の生まれです」 (宮城県苅田郡) 昔、この辺りは七里ヶ沢(宮城県)と称し、大多鬼丸が支配していました。そして田村麻呂の父の刈田麻呂がエミシ征伐の折り、宮城郡利府郷に宿陣した時、九門長者の娘阿久玉姫を愛しました。 阿久玉姫は元々京の人で,父親の知り合いで多賀城の近くの九門長者を頼ってきていました。彼女は観音様に,悪い人に逢ったら醜い女,良い人に逢ったら美人に見えるように祈願し旅立ちました。朴沢(仙台市泉区山の寺二丁目)の亀の子石に近い水田に湧く鏡ヶ池(現在はない)で旅の汚れを落として化粧をしたので阿久玉姫の化粧水と呼ばれ、その坂を化粧坂(坂としてではなく地名として残っている)というようになりました。 (仙台市泉区) 山ノ寺=千熊丸(田村麻呂の幼名)は大菅谷保の佐賀野寺(山の寺の前身)で学問をしました。 (仙台市泉区山の寺二丁目にある龍門山洞雲寺) 田村麻呂が参籠から戻ったところに、童子が一匹の葦毛の馬をひいてきました。長谷寺の清浄上人のもとからで戦いの時は必ずこの馬に乗るようにとのことでした。田村麻呂はこの馬に乗って征夷を成し遂げました。ところが陸奥国三迫というところで、この馬が死んでしまいました。仕方なく石の唐櫃に納めて葬りました。するとこの墓が七日にわたって光り輝き、異香が薫じたので不思議に思って墓を掘ったところ、金色の馬頭明王が顕れました。 (気仙沼市) 桓武天皇の延暦二十年(八〇一)、大伴駿河麻呂将軍によって一度平定された東北のエミシ、悪路王高丸・俗称箟岳丸(ののだけまる)は、当時の国府多賀城を攻略しました。箟岳丸はその勢いをかって京都までのぼろうして駿河の清見ヶ関(静岡県)付近まで攻め進んだところ、朝廷もこれに驚き、武勇無双の坂上田村麻呂を征夷将軍に任命、エミシをこの山で攻め滅ぼしたのです。 (宮城県) 今の北上川筋には、昔は二股川と大関川の合流した川が流れていました。田村将軍がこの地へ来たとき、先に服従した者たちが人柱を作り、橋となって田村麻呂の渡河を助けたと言われます。それでこの地を鬼橋というようになりました。 (登米市東和町鬼橋) 一の矢当り、二の矢当り、三の矢当り=三ヶ所とも登米市東和町という所にあります。田村将軍に追われた賊どもが順に将軍の矢に射すくめられた所といわれています。 (登米市東和町鬼伏) 鬼伏=相川の奥で将軍に追い詰められた賊どもが降伏したところと伝えられます。付近には水喰(みずはみ)という所もあり、賊が逃げる途中に水を呑んだ所といわれています。 (登米市東和町鬼伏) 悪徒(党)原=田村将軍に反抗した賊どもが住んでいた所といわれ、現在は悪戸と言われています。 (登米市東和町) 耳取=悪徒原から追い出された賊が耳を切り取られた所だと言われています。 (登米市東和町耳取) 鱒淵馬頭観音=さらに追われた賊は鱒淵の山に登りましたが、ついにここで退治されました。田村麻呂はこの地の他にも石巻の牧山、嶽山、栗原の小迫、八戸の蝦夷を平らげたので奥羽は平和になりましたが、鬼神と言われたエミシでも人なのだからと言われて、これらの七ヶ所に寺を建立してその霊を弔いました。奥州七観音といわれるのがこれです。葦毛の名馬の働きがあったので馬頭観音を祀りました。それが鱒淵の馬頭観音です。 (登米市東和町鱒淵) エミシの首領・大武丸と征夷大将軍坂上田村麻呂が戦い、鬼と呼ばれていた大武丸が首をはねられました。その場所を鬼切辺と呼び、鬼首の地名が生まれたとされています。 (大崎市鳴子町) 桓武天皇の御世、奥州の大嶽丸という鬼神が伊勢の国まで攻め上ったとき、田村麻呂が征夷大将軍に任ぜられ、鈴鹿御前の力を借り大嶽山にて大嶽丸の首を切り落としました。その首が飛んでいったところが鬼首(おにこうべ)です。また、この物音に目をさました仲間の鬼神たちがあわてて逃げ出しましたが、田村麻呂はその後を追って行き、鬼神の一人を切って埋めた所が浅水の長谷観音です。鬼神たちはさらに東へ逃げました。 (大崎市鳴子町) 長谷寺(ちょうこくじ)=赤頭(あかがしら)と呼ばれたエミシの首領が、気仙郡佐狩郷赤崎小田の地にいて、鎮守府将軍の田村麻呂と一戦を交えました。成敗された赤頭の首を埋めた墓の上に田村麻呂はお堂を建て、十一面観世音菩薩を安置したのが、現在の猪川町にある竜福山・長谷寺(創建八〇七年)と伝えられます。それから九〇〇年が経った宝永元(一七〇四)年に、寛応法印が寺内から発掘したという赤頭の歯、三三枚が寺宝として現存しています。それは鬼の牙といわれています。 田村麻呂は駿河麻呂将軍の祀られた白山権現の宝前で、勝ちどきをあげ背中より一本の矢をとりだして、これを東辺・箟宮の塚に立て刺し、『東夷ふたたび蜂起せずんば枝葉を生ぜよ』と、七日七夜の祈念をしました。ところが不思議にもその鏑矢に枝葉が生じましたので、これを箟岳(ののだけ)と称しました。 (桶谷町)ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2011.09.11
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三春戊辰戦争 8:戊辰戦争に於いての三春は、裏切り者(狐)ではない−1 世上言われる三春狐という謗りは、会津や二本松藩が自己の敗戦の理由を他に転嫁しようとしたことなどにあるのではないかと思っています。例えば二本松藩は、無主となっていた白河領を預かっていたことに一つの理由があったと思われます。そのため奥羽列藩同盟が平和同盟であったときから、そして攻守同盟に変質してからも、白河城の攻防戦において多くの奥羽諸藩の援軍を二本松藩は受けていたのです。そのために、援軍を出した藩でも、多くの死傷者出していたのです。これらの命に対しての二本松藩の義理は、大きかったと思われます。それが、二本松藩を戦いに駆り立て,遂には白虎隊に先立って少年たちを戦場に送り込む結果になったのではないでしょうか。 戊辰戦争において、三春藩が戦ってくれれば、という話を聞くことがあります。しかし五万石の三春藩は、そんなに強力な戦力を持っていませんでした。全兵力はわずかに250余名とされていたのです。それにも拘らず、三春に至るまでの戦いに於いて、一般の領民も含めて、死傷者は0であったいう事実は、むしろ褒むべきであったとさえ思えるのです。 なお、この戦争の結果である会津藩と庄内藩の処分については、対照的なものがありました。会津藩に対する処分は、『斗南3万石に転封』というものでした。斗南は元々南部藩時代より米農家以外は金・銭での納税が認められていた土地柄で、実際に年貢として納められた米は7310石だったそうです。この収容能力を遥かに超える所に移住した旧会津藩士と家族は、飢えと寒さで病死者が続出し、そのため斗南を離れ、日本全国や海外に去る者もいたのです。一方の庄内藩に対する処分(17万石から12万石に減封)は、西郷隆盛らによって寛大に行われているのです。 奥羽越列藩同盟から新政府に恭順した久保田藩・弘前藩・三春藩は功を労われ、明治2(1869)年には一応の賞典禄が与えられました。しかしそのいずれも、新政府側からは同格とは見なされることはなく、思うほどの恩恵を得られなかったとも言われています。この戦後の仕置きを不満とした藩や藩士の数は多く、後に旧秋田藩領では反政府運動が、また旧三春藩領では自由民権運動が活発化しているのです。 この戊辰戦争は、福島県内に深い傷を残しました。その深い傷を次の言葉が表していると思っています。 曰く 仙台抜こうか会津を取ろか 明日の朝飯や二本松 会津猪 仙台むじな 三春狐に騙された 二本松まるで了見違い棒 (違い棒は二本松・丹羽氏の家紋) 会津・桑名の腰抜け侍 二羽(丹羽)の兎はぴょんと跳ね 三春狐 に騙された。 馬鹿だ馬鹿だよ二本松は馬鹿だ 三春狐に騙された。 会津猪 米沢狸 仙台兎で踊り出す。 会津猪 仙台むじな 安部(棚倉藩主)の兎は よく逃げた。 会津猪 米沢猿で 新発田(新潟県)狐に 騙された。 これらのはやし言葉の中で動物になぞらえられて出てくる県内の藩は、会津猪、三春狐、二本松兎、棚倉兎ですが、このはやしと類似したものに『会津猪 米沢猿で 新発田狐に騙された』というものがあります。狐とされた藩は、三春の他に新発田もあったのです。ここで問題にしているのは、三春狐です。それは今でも、奥羽列藩同盟の側であった人たちから三春の人はずる賢いと言われ、排斥される場面があるからです。たしかに三春狐の出てくる句を見てみると三春は騙した側となっていかにも悪者となっています。しかしそれは、どんなことだったのでしょうか? まずその前に、これら動物の意味するところを見てみたいと思い、三省堂の大辞林で調べてみました。 猪:思慮を欠き向こう見ずにがむしゃらに突進する。 (会津) 狢:アナグマの異名。狸のこと。 (仙台) 兎:実際の役には立たない策略。(兵法) (仙台・二本松・棚倉) 狸:表面はとぼけているが、裏では策略をめぐらす悪賢い人 のこと。 (米沢) 猿:小利口な者をののしっていう語「︰︰真似」「︰︰知恵」(米沢) 狐:狐は人をだましたりたぶらかしたりすると俗にいうことから、 悪賢い人、他人をだます人。 (三春・新発田) 動物になぞらえられたこれら意地悪な歌は、内容から言っても同盟側が自嘲的に歌ったものとは考え憎く、新政府側が敗れた側の奥羽越列藩同盟諸藩を揶揄して歌ったものと思われます。それにもかかわらず「三春狐」のみが悪くそして長く伝えられたのは、敗れた奥羽越列藩同盟側が敗戦の憂さをこの戯れ歌に託したからではないでしょうか。しかしより小さな守山藩には、揶揄される言葉はありません。それは後ろ盾としての、大・水戸藩がバックあったので遠慮をしたのではないでしょうか。それらを考え合わせれば、同盟側諸藩が敗北の痛みを癒すのに、三春藩は丁度よい地域的位置(会津藩の隣の二本松藩の隣)と五万石という規模にあったことからかも知れません。 ものを書くことで歴史を辿ってみると、今までに理解していたこととは逆のことに突き当たることや、新しいことに遭遇することは決して珍しいことではありません。例えば私は、こんなことを経験しています。 私の会社は家庭用品の卸売業を営んでいました。それもあって、二本松市のお得意先の小売店の結婚式に招かれたことがあったのです。そこでたまたま隣に座った二本松商工会議所の方と雑談をしていたのですが、私が三春出身であることを知ると、「二本松藩は馬鹿だった。もし三春藩と一緒に恭順していたら、あんなひどいことにならなかったろうに・・」と言われたのです。 ——二本松なのにそう考える人もいるんだ。 そう思うと私は返事に詰まり、黙ってしまいました。 またこれに関連することで、神山潤氏著『歴史〜みちのく二本松落城〜』の『田舎武士の目』に、次のような記述がありました。『いまはどうか知らないが、(第二次)大戦までは、二本松の人は三春の人との縁組みを避けた。三春の者は嘘つきで、信用できないという言葉を、私が二本松に疎開していたころにもよく聞いた。会津の人ならすぐ信用するが、三春の人は信用しないのだ。その当時の怨みが、そんな風に長く尾をひき消えずにいるということも、辺鄙な土地に住む人間感情の微妙な点であろう。確かに二本松は、三春の裏切りによって、ひどい目に遭った』 次にもう一つ、中島欣也氏著『裏切り〜戊辰、新潟港陥落す〜』の『あとがき』から引用させて頂きます。『しかし裏切りとは何なのか。戊辰戦争の新発田藩は、それに該当するものだったのか。それは、「けしからぬこと」で一刀両断できるものなのか。またそれが、けしからぬ裏切りだったとしても、それを責めることのできる人がいるのか。 非難というものは、その相手の立場に自分の身を置いてみる、とまではいかなくても、最小限相手の物差しを知り、その行動を検証したうえで、行なわれるべきものであろう。それを避けて通っていながら先入観や固定観念だけで非難が定着するのはおかしい。そう私は思うのである』 戊辰戦争の時期に歌われたこの戯れ歌に、どれだけ多くの歳月、そして多くの三春の人々の心が痛めつけられたか? それが今に至るまで続き、何の検証もされず、さらに今後も歴史的事実として継承されて行くとすれば、これほど悲しいことはありません。そんなことを考えているうちに、この戦いの本質と思えることが、『2001年 ドナルド・キーン著 明治天皇・上巻 249ページ』に記載されているのを見つけたのです。次に転載してみます。『北(奥羽)における政府軍の数々の勝利は、常に事態が収拾されたという保証を伴って天皇に報告された。或いはこの時期、天皇の関心はこれら軍事的問題から逸らされていたかもしれない。間近に迫る即位と江戸下向の旅、いずれも遠隔地での戦闘より直に天皇の心に響く出来事が控えていた。しかし、明治天皇が紛れもなく気づいていたように、幕府復活の脅威が永遠に葬られるためにも、相次ぐ反乱はことごとく鎮圧されなければならなかった』 この記述から考えられることは、戊辰戦争の現場で起こった三春狐や新発田狐という中傷が新政府本来の意図を隠蔽する材料に利用され、その上悪いことは、戦いの総括をしなかった結果として『官軍・賊軍』という未了の課題を今に引きずらされた、ということなのかも知れません。ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2015.02.05
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橘為仲と郡山の小学校 1984年、郡山の歴史(郡山市 不二印刷)が出版されていますが、その30頁に次の記述があります。『かって、郡山の地名は、橘為仲のよんだという『陸奥の芳賀の芝原春くれば吹く風いとどかほる山里』の歌の『かおる山』から出たと言われ、芳山の字を当てていた。しかし現存する『橘為仲朝臣集』の歌のなかには、この歌はない。かりに為仲にその歌があったにしても、『かおる山』が訛ってから郡山になったというのは当たらない。郡山の名は郡衙の所在地というところから出たと考えるべきであろう』 しかし2004年にル・フロジュから刊行されている『郡山の歴史』からは、この部分が除かれています。その理由の記載はありませんが、恐らくこの歌が『橘為仲朝臣集』にないことによるものと思われます。私も『橘為仲朝臣集』をはじめ関連する文献に当たってみましたが、見つけることができませんでした。 そこで郡山図書館や奥羽大学図書館で『橘為仲朝臣集』など関連文書を調べてみましたが、やはりそこにその歌はありませんでした。ところが郡山歴史資料館に保存されていた『郡山市誌 一編・第十六章 口碑伝説』に、この歌があるのを見つけたのですが、これは明治44年以降に書かれたものだそうですが、何か実在するから写したものとしか考えられません。そこには、次のように記されていました。『又昔橘為仲陸奥ニ下リタル時此地ニ至リタルニ山桜盛リニシテ花ノ香旅ノ衣ヲ打ツ其時ニ為仲歌ヘツラク 陸奥の芳賀のしの原春くればふく風いと丶かほる山里コノ歌ノかほる山ノヲ転ジテ里トナシかほり山ト号シ後ニ郡山ノ文字ヲ用ヘシゾ』 これで明治44年頃まではさかのぼれたのですが、1000年も前の歌ですから、原本がある筈です。そこで郡山図書館や奥羽大学図書館で『橘為仲朝臣集』など関連文書を調べてみましたが、やはりそこにその歌はありませんでした。 為仲の父の義通は後一条天皇の「乳母子」であるという間柄から、天皇の近臣として仕え、天皇の崩御の際には素服を賜ったほどでした。為仲の生涯は華麗で、20歳ころの長元8(1035)年に『賀陽院水閣歌合』で方人を勤めたのをはじめとして高陽院で開催された歌合に参加し、『和歌六人党』と称された歌人の一人ではあったのですが、いわゆる追加メンバー的な存在であったようです。政治的にも六位蔵人・式部少丞、駿河権守、皇后宮少進、淡路守、皇后宮大進、五位蔵人・左衛門権佐、叙従四位下・蔵人。越後守を歴任し、承保2(1075)年の秋、「陸奥守」に就任しています。 1211年頃に成立したとされる鴨長明の無名抄に、『ある人いはく、「橘為仲、陸奥守にて下りける時、五月五日、家ごとに菰(こも)を葺きければ、怪しみてこれを問ふ。その所の庄官、『この国には、昔より今日、菖蒲(あやめ)葺くといふことを知らず。しかるを、故中納言御館(たち)の御時、「今日は菖蒲葺くものを。尋ねて葺け」と侍りければ、この国には菖蒲なきよしを申しけり。その時、「さらば安積の沼の花かつみといふものあらん。それを葺け」と侍りしより、かく葺きはじめける』とぞいひける。中将御館とは、実方朝臣なり』 とあるといいますから、為仲が郡山を通ったということの傍証となるのではないでしょうか。 為仲は陸奥守在任中いくつかの歌を残していますが、『橘為仲朝臣集』に安積山や山ノ井を使った歌が3首残されていますから、この歌の存在を想像させるものがあります。調べてみると、西行の筆で佚名(いつめい)家集切と言う行方不明になっている部分があるそうですが、実はそれは為仲集切であって、この他にも落丁の部分があるそうです。すると『陸奥の芳賀の・・』という歌が、この行方不明の部分から発見される可能性があると思われます。 私がこの歌にこだわったのは、ここに市内の小学校の名が隠されていると思うからです。それは芳賀小学校、薫小学校、芳山小学校、橘小学校です。しかしこの名を見て考えさせられました。昔の人はこれらの小学校に、なんと典雅な名を付けたのか! と。 小学校の名称の変遷は、次の通りです。 芳山小学校=M33・郡山第二尋常小学校。 S16・芳山小学校に。 橘 小学校=T3・郡山第3尋常小学校。 T15・橘小学校への改称が却下される。 S16・橘国民学校。 芳賀小学校=S3・1928・設立。 薫 小学校=S30・橘小学校分室。 S31・薫小学校として独立 そして、驚くべきことを知りました。橘為仲が、あの采女伝説の主人公・橘諸兄(葛城王)の11代目にあたるというのです。1984 郡山の歴史2004 郡山の歴史 ル・フロジュ小学館古典文学全集会津・仙道・海道地方諸城の研究私の郡山歴史考http://blogs.yahoo.co.jp/asakayama1000/MYBLOG/yblog.html?m=lc&p=1 HP・やまとうたよりkamoltd.co.jp/kakegawa/syoubu.html 伝統園芸植物花菖蒲ブログランキングです。 ←ここにクリックをお願いします。
2017.03.01
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三春の戊辰戦争 1:三春藩への論難と反論 皆さん。『三春狐に騙された』という戯れ歌をご存知でしょうか。そしてこれを、どういう風にご記憶でしょうか。 これは戊辰戦争の際、三春藩が奥羽越列藩同盟を裏切ったとされることを揶揄して言われてきた言葉です。この言葉に三春の人たちは、どれだけ長い間傷つけられてきたことか。私も、その中の一人でした。そんなこともあってネットを検索していましたら、次のような部分がある長文の論文を見付けたのです。『征討軍は、いよいよ三春から二本松へ侵攻することになるが、ここでとんでもない事態が発生する。三春藩五万石の露骨な裏切りである。それは、「恭順」でも単なる「降伏」でもなく、明白な裏切り行為であった。最大の被害者は二本松藩であったが、二本松藩だけでなく奥羽諸藩では三春藩の裏切りを「反盟」という言葉で記録に残している。 三春藩の防衛最前線は、小野新町であるが、このポイントには二本松藩と仙台藩からそれぞれ約50名から成る応援部隊が派遣されていた。同盟間のこういう形は随所に存在したが、小野新町は三春藩領であるから三春軍が第一線に立つのは当然である。同盟間でも、当然の“礼儀”或いは“スジ”としてその形は守られてきた。ところが、小野新町の戦いに於いては、三春藩は藩兵を第二線に引かせていた。そして、征討軍が迫ると真っ先に逃亡、二本松兵、仙台兵が矢面に立って戦闘態勢に入るや、二本松兵、仙台兵に向けて発砲したのである。二本松・仙台藩は、この衝突だけでそれぞれ7名の戦死者を出した。』 くどいようですが、この主張は昔の話ではありません。今からつい3年ほど前の話なのです。 ところで三春町史第3巻近代1の5ページに、次の記述があります。『会津猪 仙台むじな 三春狐に騙された 二本松まるで了見違い棒』この歌にある三春狐をどうみるか。歴史の大河に竿をさし、小舟をあやつる船頭が無理せず、臨機に接岸させた所が安全であればそれでよい。判官びいきの感傷と義憤は一方の見方で、百年後の三春町民が判断すればよいことである。 この三春町史については、今になれば誰が書いたかは分かりませんが、私はとんでもない無責任な文章だと思っています。こんなことを三春町史に堂々と載せているから、冒頭のような誤解をされるのではないでしょうか。三春町史の奥付を見ますと、昭和50年11月とあります。その年は戊辰戦争後107年後の年であり、将に100年後の町民我々に、「お前ら勝手に判断せい!」とでも言っているようなものです。なぜ107年後の歴史家が三春町史を編纂する時点で三春の『裏切り説』の検証をしなかったのか。なぜ町民に、三春狐とはなんであったかを総括して見せなかったのか。大いに疑問を感じています。 そしてそれに上乗せするような出来事が、2014年の11月にありました。それは、『三春猫騒動(お家騒動)』の展示が行われていた三春歴史民俗資料館でのことでした。名は伏せますが、いずれ私がライスレークの家で、「三春が裏切り者ではなかったという話をする積もりです」と言った時、「それを話すと、かえって(当時の他の藩の人に)冷や水を浴びせられることになるから・・・」と言って言葉を濁したのです。私は町を背負って立つような文化人の反応に、「これでは駄目だ」という思いに愕然としたのです。この三春町史が出版されてから、すでに40年経っています。「これでは、あと60年経って200年になってもこの汚名を払い除けられないな」と思ったのです。私が現代の歴史家に望みたいことは、三春が裏切り者であったらあったと明確にすべきであると思うのです。そうすれば町民の側にも覚悟ができるでしょう。そして違うなら違うと説明すべきです。そうすれば町民も、前向きに考えられるでしょう。いいかげんにして置くことが、一番悪いと思っています。ともかく知り得た間違いを訂正せず、噂を否定しないことは、認めたということになるのではないでしょうか。 例えば、ウィキペディア『二本松の戦い』には、大山柏(大山巌の次男)の見解として、『三春藩が用いた策略は悪辣ではあるが、外交のマキャベリズムとして妥当なものである』と載せられているのです。私には不満が残りますが、むしろこのようなことの方が、正当に検証しようとする姿勢が見える気がします。 三春裏切り説に関して、反論めいたものがいくつかweb上にアップされています。そのうちの2点を、書き出しておきたいと思います。ところが何とその一つは、私の書いた『三春戊辰戦争始末記』が紹介されており、しかもそれは、つい最近ミクシィ上で見つけたものだったのです。http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=1304319&id=10307505 ただしこのURLをクリックすると、なぜかこのURLの最後の5の次に2006が表示されて開くことができないのですが、2006を消してクリックすると大丈夫です。日付は2006年10月21日とあり、『読んでおきたい基礎文献』の中にあったのです。これは私が書いたものに対する、しかも名指しでの肯定文でしたので、それがどなたのものであったのか是非知りたいと思ったのですが、生憎アップされた方がミクシィを退会なされている現在、残念ながら知る術がありません。やむを得ずご本人の許可を得ず、以下に引用させて頂きました。 『三春戊辰戦争始末記 橋本捨五郎 裏切りと今でも罵倒されている三春藩。だが、史実はどうであったのか? 地元の郷土史家が小説形式を取りながら、地方史や口伝などを丹念にリサーチし、その実体に迫る本。 驚いた事に新政府軍公式記録である「復古記」と、薩摩藩の軍事史料である「薩藩出軍戦状」そして二本松藩の基礎文献である「二本松藩史」の裏づけが取れてしまっており、逆に「仙台戊辰史」の捏造・改竄を証明してしまった形となってしまった。 「無いものは無い」のであり、それを「有った」とするのは問題ではないか? 著者の意図は、130年以上も経ちながら、未だに感情論で左右される事への連鎖を経ちたいという、ヘーゲル哲学に於ける「ジン・テーゼ」を見出そうとする姿勢は、イデオローグ汚染されている中央学“怪”や、利権塗れの“痴呆”史会に、爪の垢を煎じたい気分である(毒) 歴史の女神 クリオが誰に微笑むかは言うまでも無い! 自費出版という事で残念ながら絶版! 但し、ウエイブ上では公開されています。感情論ではない、知識共有を望む方は御覧あれ。』 それからもう一つ。『二本松狐と三春狐〜狐の蔑称は誰が為?』という論文が、2005年のHPにアップされていました。長文ですので、『1 はじめに』だけを著者の了解を頂いた上で、そのまま転載いたします。『二本松と三春、共に戊辰戦役で明暗を分けた藩である。 片や、新政府軍の猛攻撃を受けて崩壊に及び、片や降伏後に新政府軍の先鋒として藩の存続が保たれた。共に『明治維新』に巻き込まれ、二本松藩は奥羽越列藩同盟の犠牲となり「武士道の誉」と称えられたが、三春藩は生き残ったものの「裏切り者」として現代でも罵倒、侮蔑の対象として蔑まされる対象とされてしまう。三春の行為を揶揄する言葉として「会津猪に仙台むじな三春狐にだまされた二本松丸で了簡違い棒(丹羽氏の家門[×]を表す)」「会津桑名の腰抜侍二羽(丹羽・二本松藩の意味)の兎はぴょんとはねて三春狐にだまされた」「馬鹿だ馬鹿だ二本松は馬鹿だ、三春狐に騙された」という唄を与えられてしまった形となる。 しかし、「狐」の蔑称は三春だけのものであるのか?それならば幕末維新期に掛けてのバトル・ロワイヤルで「狐」にならずしてどのように生き残れればよかったのか?三春が二股膏薬の汚名を被り、二本松が武士道を通したと言う評価は正当だと言えるのか?二股膏薬は他にもいなかったのか? 歴史小説家や研究家が語る「三春は卑怯な裏切り者だ」という法官贔屓な文言をここでは頭の中から一切排除し、自国領土を戦火から救うにはどのような行動を取れば最善であったか。この二つの藩から眺めて考えてみたい。そして、周辺大国(新政府、会津、仙台)のエゴイスティックな動きも含めて、「狐」の称号は誰が持つべきなのか、考えていこうと思う。』 三春に対して、このようなエールが送られて来ているのです。誠にありがたく思っています。三春の、特に文化人たちが理論武装をし、このような自虐史観から町の人を救ってくださることを願って、このレポートを何度かに分けて載せたいと思います。ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2014.11.26
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あ と が き 取材のためとは言い、二度までも渡米することになるとは思いもしなかった。 私が六十二歳で実質的なリタイアをしたとき、何故かペンを握っていた。文学についての素質も経験も、何もかもなかった私がである。それでも私は、若いときに我が家のルーツを調べ書いたことがあった。しかしそれは単なる素人の調査であり、自分のノートに書いただけであるから、人の目に触れることはなかったのである。それなのに、こんな大仰なことを書きはじめたのは、こういうことが原点にあったからかも知れない。 私は自分の生まれた土地をテーマにして歴史のものを書こうとしたとき、あのルーツ調べの手順が参考になった。そして書きはじめてからそう長くはない時間の中で、私はいくつかのものを書き上げた。鎌倉時代、南北朝時代、戦国時代、江戸時代、そして戊辰戦争。これらのことを自分の感覚で、そしてこの地方から見直してみたものである。 ところでこの小説の主人公・勝沼富造を知ったのは自分のルーツを調べていたときであったから、大分以前のことである。それにもかかわらず本格的に彼を調べはじめたのは、二年ほど前のことであった。当時の古い紳士録の「三春」の項に、「福島県移民の父・勝沼富造」とあったのを思い出したからである。私は自分の「地方の歴史」というテーマの中で、彼が幕末から昭和にかけての歴史の証人であるということを、感覚として確認していた。 そこで調べはじめてみると、「福島県移民の父・勝沼富造」と紹介されていた人物にもかかわらず、資料は皆無という状況であった。辛うじて若干の資料が、富造の姉の嫁ぎ先である三春の湊家に残されていたのみであった。そしてその中に書かれていたたったの一行、「彼が日本人最初の末日聖徒イエス・キリスト教会の会員であった」という記述を見つけて、郡山にある教会に行ってみたことから調査の突破口が開けた。敬虔な教会員である高橋亮氏が、積極的に協力してくれたのである。 そのような中でハワイに行くことになったのは、富造の娘の清水(きよみ)さんが一〇二歳でご存命であったことを知ったからである。入院中のこともあって面会は叶わなかったが、富造の孫に当たる Thomas Katsunuma 氏やGeorge Suzuki 氏と会うことができた。そして高橋氏のご紹介により、ブリガムヤング大学ハワイ校教授のGreg Gubler氏やハワイ大学ヒロ校教授の本田正文氏、さらには私のお会いした翌年の二〇〇三年に亡くなられたハワイ島移民資料館長の大久保清氏などのご指導を頂き、多くの資料を得ることができた。 富造の出身地である福島県や三春にまったく残されていなかった資料が、英文ではあったが、ここハワイに数多く残されていたことが感激であり、私の創作意欲を刺激することになった。「マウナケアの雪」、それがこの小説の題となった。富士山より高いハワイの高山、マウナケアに雪が降るということに、私は驚いたからである。東北は雪国である。三春にもまた、雪が積もる。そこで富造夫妻の望郷の念を、マウナケアに降る雪になぞらえてみたのである。なおケアはハワイ語で雪を、マウナは山を意味するそうである。 それから二年後の今年、私はユタ州ソルトレークやサンフランシスコ、そして再びハワイを訪れた。前回行かなかったアメリカ本土で取材の補強と富造の足跡(そくせき)を追い、その景色を見てみたいと思ったからである。ソルトレーク、ローガン、オグデン、プロボ、そしてサンフランシスコを歩いた。ローガンではコナンさんやニッキさんの尽力で富造の滞在していたアムッセン氏の末裔に会い、当時の写真を手に入れることができた。またハワイでは、この本に昔の勝沼家の家族の写真を掲載することの了承を得た。そして多くの方々の大きなご協力のお陰で、無事取材を終えることが出来たのである。 最後にお世話になった皆様方のお名前を書き添えさせて頂き、私の感謝の気持ちとさせて頂きます。 皆さん、本当にありがとうございました。(上 ホノルル・ヌアヌ霊園。 左下 勝沼富造 右下 ミネ夫妻の墓) お世話になった方々 (敬称略・順不同) 湊耕一郎 富造の親戚 福島県三春町 Thomas Katsunuma. 富造の孫 Hilo. Hawaii George Suzuki. 富造の孫 Honolulu.Oahu Hawaii Committee of Atomic Bomb Survivors 高橋亮 高崎健康福祉大学専任講師 埼玉県熊谷市 佐久間真・藤井典子 三春町歴史民俗資料館 福島県三春町 山口篤二 茨城県古河市 故・大久保清 Hilo. Hawaii Hawaii-Shima Japanese Immigrant Museum. 本田正文 University Of Hawaii. Hilo Campus Hilo. Hawaii Greg Gubler, Ph.D. Laie. Oahu Brigham Young University. Hawaii Campus. Norman D, Shumway. Directors of Hosting. Salt Lake city, Conan P. Grames. Lawyer, Salt Lake city. Chad A. Grange. Lawyer, Salt Lake city. Nikki Davis Lawyer Salt Lake city, Tab A. M.Thompson. Family History Library, Salt Lake city. Van C Gessel Dean,College of Humanities Professor of Japanese Provo. Utah Colleen Amussen Carl Amussenの曾孫 Logan, Utah Masato Sugiura San Francisco ブログランキングに参加しました。是非応援して下さい。←これです。
2008.07.16
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朝鮮通信使と高柴デコ屋敷の張子人形 日本では平安時代の中期以降、女性の救済を説く法華経の普及により、普賢菩薩が主に貴婦人たちからの信仰を集めました。その普賢菩薩は、蓮華座を乗せた六牙の白象に結跏趺坐(瞑想する際の座法)して合掌する姿で描かれるのが一般的です。つまりすでにこの頃から、象の存在が知られていたことになります。記録によると、応永十五年(1408)に最初の象が日本に来ています。このこともあってか、室町時代以降になると、社寺建築などで、柱の外側に突出した部分に象などにかたどった彫刻などが見られるようになります。ところで、この生きた象が来る前に、象牙のほうが先に輸入されていたので、はじめは“ゾウ”とは呼ばず、“キサ”と言われました。キサとは木目(もくめ)のことで、象牙には木目のような模様があるので、キサの名で呼んでいたと言われます。 郡山市西田町高柴のデコ屋敷に伝わる、古くからの和風の張り子人形の中に、『唐子(からこ)』や『象乗り唐子』などの古い木型で作られた人形があります。私はこの『唐子』という名称から、古代中国の『唐』という国をイメージしていました。ところがある時、知人が、「この『象乗り唐子』はおかしい。象の大きさに対して人物が大き過ぎる。これを作った人は、本物を見ていないのではないか」と言い出したのです。『象乗り唐子』について私は、「これを作った人形師は、象を見ていたとは思う。ただし人物を強調するためにか、もしくは芸術性を強調するために、デフォルメを加えたのではないか。しかも『象乗り唐子』の人形をはじめとして、この他の唐関係の人形の着物のガラともなれば、実際には見ないで、話だけ聞いて画くのは、とても無理だ」と思えるのです。デコ屋敷にはこの他にも、唐人姿、筥をもつ若聚、筥をもつ女など、唐関係のものらしい古い人形が残されています。しかもそれら人形の着物のガラが、どう見ても日本的ではないのです。 こうなれば、何らかの証拠が必要です。まず年代ですが、もともと高柴のデコ屋敷では、今から約350年前にはじまったと伝えられているようですから、1650年頃になるのではないかと思われます。この時期になると、出雲の阿国が創始した「かぶき踊り」が人気を博するようになり、それをまねた遊女や女性芸人の一座が次々と現れました。これらを「女歌舞伎」といい、京だけではなく、江戸やその他の地方でも興行され流行しました。しかし「女歌舞伎」は風俗を乱すという理由で、寛永六年(1629)前後から禁止令が出され、次第にその姿を消していきました。この「女歌舞伎」の禁止により、前髪のある成人前の少年が演じる「若衆歌舞伎」に人気が集まりました。これは少年の美貌を売物としたもので、エロティックな歌詞による踊りなどを見せていたようです。しかしこれもまた風俗を乱すという理由で、承応元年(1652)に禁止令が出されました。そしてその直後に現れたのが野郎歌舞伎です。これは男性だけで演じられるもので、現代の歌舞伎に連なるものとされています。デコ屋敷では、この時期に人形を作り始めたとしていますが、相次ぐ歌舞伎などへの締め付けを嫌って逃れ、この地で、人形という形で生き残ったとも考えられます。 高柴の張子人形は、江戸時代に三春藩領だった高柴村(現在の郡山市西田町高柴)で作られはじめました。しかし一説に、三春藩7代の秋田倩季(よしすえ)(宝暦元・1751年~文化十・1813年)が江戸から人形師を招聘し、高柴にデコ屋敷を作って保護したとも伝えられています。しかしそうであるとすれば、デコ屋敷がいう1650年頃と秋田倩季の時代は、100年以上の差がつきます。この年代の差についての確証は、見つかっておりません。ところで、『象乗り唐子』の話に戻ります。 寛永二十年(1645)、田村氏の次の三春城主であった松下長綱が、二本松城主の加藤明利とともに来日した朝鮮通信使の饗応を命じられています。この役どころは大変光栄なことであるとされていましたが、それにかかる費用の全額は、担当藩持ちでした。三春藩としても大きな出費であったと思われます。このことを知ったのは、二本松領守屋村、現在の三穂田町下守屋に残されていた古文書からです。そこには朝鮮通信使接待の費用確保のために、百姓たちに特別の献金を求める文書が残されていたのです。すると当然、二本松領内の守屋村のみが負担させられるわけがありませんから、その他の村でも要求されたものと思われます。またこのようなことは、三春藩でもあったものと思われます。 徳川幕府は、派遣されて来る朝鮮通信使の行列を各藩に命じて警備させ、宿泊などでの饗応をさせるのが例となっていました。このことについて三春町史には、『藩主・秋田安房守盛季が明暦元(1655)年八月の徳川家綱襲封祝賀の際、水戸、会津、前橋、小浜藩などとともに第6回朝鮮通信使の三島〜江戸間の往復警備を命ぜられ、さらに彼らを参観し拝謁した』という記録が残されています。これは、デコ屋敷が成立したのではないか、とされる1650年頃に近いのです。この時、秋田盛季は、遠江国舞坂(静岡県浜松市西区舞阪町)まで、三春藩士の大網源之進らを派遣しており、盛季自身も、朝鮮人の曲馬の上覧に陪席しています。 三春町史によりますと、明暦元年(1655)の第6回目の朝鮮通信使が徳川家綱襲封祝賀に来た時、『二十一日、秋田安房守盛季、参観す。韓使往還道中。鞍馬皆具を出し護送すべき旨を仰出さる。(略)来時三島より府迄。帰時府より三島迄は水戸中納言頼房卿。保科肥後守正之。酒井雅楽頭忠清(前橋)。酒井讃岐守忠勝(小浜)。松平伊豆守信綱(忍)。安部豊後守忠秋(壬生)。松平下総守忠弘(姫路)。本多能登守忠義(白河)。真田伊豆守信之(松代)。松平大和守直矩(村上)。堀田上野守正信(佐倉)。安部備中守定高(岩槻)。松平淡路守利次。安藤右京進重長。松平出雲守乗久。井上河内守正利(横須賀)。鳥居主膳忠春(信濃高遠)。秋田安房守盛季(三春)。朽木民部少輔稙綱(奏者番)に課せらる。物頭市川九左衞門勤ル』とあり、また、第9回となる享保四(1719)年の朝鮮通信使については、徳川吉宗襲封祝賀の際に、『秋田頼季、朝鮮通信使来日につき遠江国舞坂まで大網源之進らを遣わす。秋田頼季、朝鮮人曲馬上覧の節、田安御門番非番ニ候共、右之節は主水正相勤候様可仕旨被仰付候』とあります。 正徳元年(1711)の第8回朝鮮通信使の時には、二本松藩と三春藩もこれを警備接待しています。三春の儒学者平野金華(元禄元・1688年〜享保十七・1732年)が二十二歳のとき、この朝鮮通信使の接待役を命じられており、通信使と詩文の応酬をしております(HP御酒之寝言屋家頁(ごしゅのねごとやホームページ))。金華は江戸に出て医を学んでいましたがやがて儒学者を志ざし、荻生徂徠に師事して儒学を収めました。その後三河刈谷藩、現在の愛知県刈谷市城町に仕官しましたが、晩年は郡山市田村町にあった守山藩に仕えています。第8回の朝鮮通信使の一行は475人であったといいます。この人数もさることながら、この時の通信使は将軍に献上するために象を連れてきたのです。ベトナム生まれのこの象は、中国人の商人が献上したものでした。箱根では新しく象小屋を建て、象の好物の笹や野菜などを準備して象を迎えています。その後この一行は、小田原、平塚、保土ヶ谷、神奈川、川崎で宿泊して江戸に到着することになります。三春藩はこの神奈川宿から江戸までの区間を担当しました。この日本では見たことのない珍獣を引いての行列は、否が応でも市井の注目を集めました。一般民衆が押し掛けるように集まり、沿道は大混雑であったと言われます。 また別の記述には、『享保十三年(1728)、ベトナム国王から時の将軍吉宗のところに象が献上されてきました。さらにその後の天正三年(1575)と慶長元年(1596)にも、やって来ているのです。ただ1408年と1575年の象については、1650年以前のことになりますから、1728年では遅すぎます。ですからデコ屋敷にある唐関係の人形とは、関係がないと思われます。しかし1655年に来た象については、どうでしょうか。 この象の来た頃を年代的に見ると、デコ屋敷の本家恵比須屋の先祖に元右衞門か権六という方がおりますので、私はこの二人か、もしくはどちらかが象を見た、と想像しています。藩主が朝鮮通信使の応接を賜わったことを知った彼らが江戸へ行き、一般町人の混雑の中で見ていたとも考えられます。この人形のデフォルメ説の傍証ともなり得る人形が、朝鮮通信使が通った福岡県福津市津屋崎に残されています。この人形は、三春人形とは逆に人より象が小さいのです。津屋崎の人形師は、確かに実物を見ていた筈と思われるのですが、それでもこのような人形に仕上げているのです。参考までに、次のHPをご覧になってください。http://blog.goo.ne.jp/magpie03/e/5e92b1a001fcff2b44d5e4f11c9ba052 また唐子人形以外にも、『岡山県邑久郡牛窓町(おくぐん・うしまどちょう)で毎年十月第四日曜日に素戔嗚神社の秋祭りに奉納される舞楽風の踊りに、『唐子踊り』と呼ばれる踊りがあります。これは朝鮮李朝期の衣装である唐装束をまとった幼い子ども二人により踊られるものです。カンコという小太鼓、横笛、それと今となっては意味のわからない囃子に合わせて、踊るものです。十月の牛窓町紺浦(こんのうら)の氏神である素戔嗚神社の祭礼の折、地区内の4箇所で奉納されています。文献などから少なくとも江戸時代末には踊られていたことが分かっていますが、その最初は分かりません。寛永十三年(1636)以後、朝鮮通信使の一行は、毎回牛窓港に寄港ないし停泊していましたから、この踊りは、おそらく朝鮮から伝承し、稚児舞となったものと考えられています。 この他に、現在も伝承されている朝鮮通信使伝来とされる芸能は、この牛窓町の唐子踊りと鈴鹿市東玉垣町の唐人踊りがあります。しかし最近、地元の研究者などから、踊りのしぐさや衣装から判断して、愛知県豊川市に残る笹踊りが、朝鮮通信使の由来ではないかとの主張もありますが、まだ広く認められてはいません。また牛窓町の唐子踊りは、「今年(こんねん)初めて日本に渡り、日本の帝(みかど)は通りません。こころ、よかん、こころ...」という不思議な口上で始まるそうです。異国風の衣装、特異な舞、そして謎の口上。それを解く鍵が、「唐子踊り」という名です。唐子は韓子に通じ、朝鮮の子となるからです。この他にも、東京、金沢、名古屋、川越、土浦、和歌山、鳥取、二宮などで唐人踊という名称の芸能があったということが分かってきています。 一九八七年十月十八日付の朝日新聞の『祭りの周辺』、『唐子踊り』に、次の記述がありました。『(唐子踊りの)写真を見ると、三春人形のそれとそっくりであり、この人形の題名を「唐子踊り」とすることに全く問題はない。牛窓の「唐子踊り」は、上述のように、その由来はほぼ明らかであるが、どのようにしてこれが三春人形に取り入れられたかは明らかでなく、土人形など他の人形にも類例を見ないようである。絵巻物にでも描かれたものを模したものであろうか。今後の解明を待つ他はないが、いずれにせよ、現在も伝承されている古くからの踊りがそのまま三春人形の題材となっていることはきわめて興味深い。三春人形の世界はまことに奥行きが深く、当時の文化全般を広く反映していたといっても過言ではなかろう。』・・・実に意味深い記述です。 明治に入ってから、高柴のデコ屋敷の人形に使用される染料に制限が加えられたりしたことなどにより衰えはじめ、ダルマなどがわずかに制作されるまでに縮小されてしまいました。これを復興させたのが、大阪のコレクターである本出保治郎氏であり、当時田村中学の教諭であった高久田修二氏でした。須賀川出身の高久田修司氏は安積中学を卒業後、東京商科大学を中退、第二高等学校理科乙類に入学したのですがこれも中退、改めて東北帝大法文学部国文学科を卒業したのち三春の田村中学の教師として赴任した方です。修二氏は新制田村高校になるまで奉職した異例の経歴の持ち主です。修二氏は教師として三春に長く住むうちに、気息奄々としていた高柴のデコ屋敷の張り子人形や三春駒を掘り起こしたばかりではなく、画僧 雪村周継についても深く研究をされていました。ちなみに、晩年の雪村が住んだ雪村庵が三春町に隣接した西田町大田字雪村にありますが、県指定重要有形文化財に指定されていたそこの本尊の木造大日如来坐像が、昭和五十五年に盗難に遭ってしまいました。残念ながら、いまだ戻っておりません。 この本出保治郎氏や高久田修二氏に力づけられた高柴の人々と故小沢太郎氏が、この復興に力を注いだのです。現在では色鮮やかな張り子人形が、多種類制作されており、デコ屋敷では、これらの制作工程を見ることができます。デコ屋敷に残されているこの他の多くの張り子人形の古い木型にも、解明されていない古い歴史があるのではないでしょうか。私は田村高校七回生ですが、三春の歴史と文化こよなく愛したこの先生を、私たち生徒らは、「ガラさん」と呼んで慕っていたことを付け加えておきます。 ところでこの原稿をチェックしていた10月31日、後世に残す価値のある歴史的資料を対象にしたユネスコ(国連教育科学文化機関)の「世界の記憶」(旧・記憶遺産)に、朝鮮通信使と古代石碑群『上野三碑(こうずけさんぴ)』(群馬県)が登録されたことをTVニュースで知りました。日本時間、31日未明に発表されたそうです。もちろん私の切り口とは異なりますが、よかったと思っています。ブログランキングです。 ←ここにクリックをお願いします。
2017.11.15
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源義経北行伝説 日本を襲撃してきたジンギスカンは、1162年から1227年の人で、義経は1159年から1189年の人です。ですから、兄の源頼朝の追討から逃れて北に向かった義経が、北海道を経て大陸に渡りジンギスカンと名乗ったと考えるのに、たしかに、そう不自然な時期とも思えません。ところでジンギスカンについては、生れ年や前半生が不明な点が多いことや、モンゴル民族が元来文字を持たなかったため文献が残っておらず、口伝・口承による歴史伝達など裏づけ部分に不明なことが多く、この説の決定的な否定の材料に乏しいことも事実です。特にジンギスカンの約十年の空白期間、何をしていたのか特定できず、義経がその時期日本で活躍していたことなどがこの説をややこしくしているのです。 源義経は日本史の上で極めて人気が高く、その人気ゆえに数々の事実と確認されない逸話や伝説が生まれました。室町時代以降になると、いわゆる『判官びいき』から生まれた『義経不死伝説』が『御曹司、島渡り』説話と結びついて成立しました。この『義経北行伝説』の『あらすじ』は、文治五年(1189)閏四月三十日、平泉の藤原秀衡が源頼朝の命により、源義経を討ち取るため襲撃をしたが、義経は平泉の高殿から姿をくらまし、奥州の各地を転々と逃亡したのち津軽の三厩から北海道に渡り、さらに大陸へ渡って蒙古に着き、蒙古名ジンギスと名を変えてカン、つまり王となって中国からヨーロッパを席巻したというものです。しかしこれはお話ですので、まず事実を追ってみたいと思います。 義経は兄の頼朝と共に平家を打倒したのですが、兄との間が不仲となり、藤原秀衡を頼って平泉に入ったのですが、文治三年(1187)、秀衡が病没しました。秀衡の嫡子の泰衡は頼朝の圧力に負け、500騎の兵をもって10数騎の義経主従を衣川舘に襲いました。多数の泰衡勢を相手にした弁慶は、義経を守って堂の入口に立って薙刀を振るって孤軍奮闘するも、雨の様な敵の矢を身体に受けて立ったまま絶命し、その最期は『弁慶の立往生』と後世に語り継がれることになります。吾妻鏡にも、館を泰衡の兵に囲まれた義経は一切戦うことをせず持仏堂に籠り、まず正妻の郷御前(さとごぜん)と4歳の女の子を殺害した後、自害して果てたとあります。享年、31歳と伝えられています。また、『岩手県姓氏歴史人物大辞典』に、『先祖が奥州藤原秀衡の三男藤原忠衡の子孫が、北海道に居住』と書かれています。つまりこれは、姓氏に関して見る限り、忠衡に近い血脈の人物が蝦夷に逃れたことになります。そしてまた、『中尊寺建立供養願文』には、奥州藤原氏が大陸系の民族である粛慎(しゅくしん)や挹婁(ゆうろう)とかなり親しく、しかも藤原氏に従順だったのではないかと思わせる記述があるというのです。ちなみに粛慎とは、中国東北地方及びロシア・沿海地方に住んでいたとされるツングース系狩猟民族であり、挹婁とは、ロシア沿海州から中国東北地方東部にかけて住んでいた古代民族です。これらの事実が、『義経北行伝説』の伏線になっていると思われます。 『義経北行伝説』は、江戸時代中期の歴史学界でも、林羅山や新井白石らによって真剣に歴史問題として議論され、徳川光圀が蝦夷に探検隊を派遣するなど、重大な関心を持たれていました。寛文七年(1667)には、江戸幕府の巡見使の一行が蝦夷地を視察し、アイヌのオキクルミの祭を見て、アイヌ社会ではオキクルミがホンカンサマと呼ばれ、大男で強力無双の従者サマイクルに関するものがあり、その屋敷が残っていたと証言しました。オキクルミは、アイヌ伝承の創世神話における英雄神でアイヌ民族の先祖とされる神とされていたのですが、ホンカンサマは、『判官様』が転じたもので、そのホンカンサマは、樺太やシベリアへ向かった、との伝承もあったと報告しています。これが義経北行説の初出であり、その後に出た『義経記』は広く流布して本格的に読まれるようになり、浄瑠璃、歌舞伎、狂言、読本などにも盛んに取り入れられていくのですが、こうしたなかで、『義経不死伝説』と『御曹子、島渡り』説話が互いに結びつき、義経は自刃したとみせかけて実は蝦夷地に渡ったという話になっていったと考えられています。 寛文十年(1670)、林羅山・鵞峰親子が幕命で編纂した『本朝通鑑』には、『俗伝』の扱いではありますが、「衣川で義経は死なず、脱出して蝦夷へ渡り子孫を残している。」と明記され、その後も新井白石も同じようなことを論じています。徳川光圀の『大日本史』においても、注釈の扱いながら、泰衡が送った義経の首は偽物で、義経は逃れて蝦夷で神の存在として崇められているという生存説として記録されているそうです。そして嘉永五年(1852)、シーボルトがその著『日本』で、義経が大陸に渡ってジンギスカンになったと主張したので、その説への関心は一層高くなり、近藤重蔵や、間宮林蔵、そして幕府の通詞をしていた吉雄忠次郎など、かなりのインテリ層に信じられていきました。 このように、義経が蝦夷地に入ったという説はアイヌの間にも広まっており、その上、千島、もしくは蒙古へ逃げ延びたという話もあり、新井白石はその著書『読史余論』の中で、「吾妻鑑を信用すべきか。」と言って幾つかの疑問点を示しながらも、義経の蝦夷地入りを紹介し、更に蒙古に入ったという説も付記しています。明治の初期には、アメリカ人教師グリフィスがこの話に影響を受け、その書『ミカド 日本の内なる力』でこの説を論じたので、現代人が想像する以上に、源義経北行説は深く信じられていました。明治十三年(1880)に、『日本奥地紀行』を著したイザベラ バードも、『義経は蝦夷に逃れてアイヌ人と長年暮らし、十二世紀の末に死んだとの説を信ずる人も多く、義経はアイヌの祖先に文字や数学と共に、文明の諸学芸を教え、正しい法律を与えたと主張している。』などと和人からの伝承を記しています。このようなことが長崎出島にいたオランダ人の医師のイサーク ティチングに翻訳され、欧米に紹介されたのです。 大正の末、アイヌ研究家で『義経=ジンギスカン説』と『日本ユダヤ同祖論』の提唱者である小谷部全一郎によって、『ジンギスカンハ源義經也』が著されると大ブームになり、多くの信奉者を生みました。しかしその一方で、史実を捻じ曲げ、捏造される書物も多く出されました。蒙古に敗れた『金』の正史の『金史』の外伝もそうで、『12世紀の金の将軍に源義経なる者がいた。』と記していたというのです。この『金史別本』の内容に、清王朝の最盛期を創出した乾隆帝の御文の中に 「朕・姓は源、義経の末裔、其の先は清和に出づ。故に國を清と號す。」とあり、これが後の日本の大陸進出に利用され、大陸に向かう日本人を鼓舞するのに大いに役立ったと言われています。 ところで当然、これに対する反論もあり、臨風生という人は、その著書『中央史檀』の中でこの説を否定しています。それによると、エスガイバアトルとその妻との間には四人の男子と一人の女児とがあったが、ジンギスカンはその長子であるとあり、『元朝秘史』、『元史訳文証補』、『聖武親征録』、『蒙古源流』、『元史太祖本記』、『長春真人の西遊記』、そして『中世のキリスト教と文化』を著したドウソンの『蒙古史』には、ジンギスカンの誕生及びその人物像が詳細に記されており、『義経=ジンギスカン説』など要れる余地はないと手厳しいものがあります。戦後になると、高木彬光が昭和三十三年に、『ジンギスカンの秘密』を著して人気を得たのですが、この頃になると戦前あったほどの関心は薄れ、生存説はアカデミックな世界からは取り扱われることはなくなり、現代では、トンデモ説と評されています。 ところで2005年、大の親日家を自負するフランスのシラク元大統領は、エリゼ宮を訪問した日本の要人に、『源義経とジンギスカンの関係』などを話題にして驚嘆させたと言われます。 では現在も伝えられている義経の足跡を追ってみましょう。まず『義経北行伝説』において義経は衣川舘で死なず、ここから生きて逃亡したということから始まります。義経が脱出したとされる衣川館跡には、義経最期の地としての碑が建立されており、平泉の地元では衣川舘を、判官館や高舘と呼んでいます。そして衣川を出立した義経は、北上川を渡って対岸の、いまの岩手県奥州市江刺区岩谷堂に入りました。ここの源休館で、義経の一行十数人は数日間休息をとったと伝えられ、『平泉雑記』にもその記載があります。また江刺区玉崎の牧馬山に馬を放ち、玉崎神社に義経が、武運長久と道中の無事を祈願したと伝わり、義経にまつわるという品々を保存しています。ここにはかつて、弁慶が住んでいたといわれる弁慶屋敷跡があり、北上の際はここで空腹を満たしてから出発したと伝えられ、弁慶が足を洗った池が存在すると言われます。 岩手県一関市大東町には、義経主従が投宿したとされる観福寺で蝦夷入りの行程を検討したと伝えられ、供の亀井六郎重清が、その礼として残したといわれる笈が寺宝として残されています。 岩手県住田町世田米には、義経が、野宿をしながら険しい山を越えたと伝えられる判官山があります。この名は九郎判官の転化と思われ、義経が手をかけたという『判官手掛けの松』や『弁慶の足跡』が残されています。 岩手県遠野市の駒形神社には、弁慶が持ち上げて重ねたとされる全長7メートルの巨岩『続石』があり、ここには、風呂さんという家があるのですが、ここでは義経一行にお風呂を提供したことから風呂家と呼ばれる姓ができたと伝えられています。 岩手県油田村には、油田村の惣平より糧米粟七斗(126キログラム)借用したとする文治四年(1198)四月の日付で、義経、弁慶の連名の署名が残されているという。 岩手県釜石市、義経が宿泊した八幡家が義経の石像を作り、中村判官堂を建立したという。 岩手県山田町大沢には、義経一行が宿泊したので、明治以前は『判官』の姓を名乗っていたという家があり、今も判官の名が入った墓石が残り、また義経の軍師の佐藤庄司基治の子信正が、義経一行を案内して当地まで来たことを示す文書があるという。 岩手県宮古市には、平泉を脱出した義経一行が3年あまり滞在したとされます。そのためか、宮古市周辺には、判官館、横山八幡宮、法冠神社、判官宿、弁慶腰掛岩、黒森山(九郎森)に判官稲荷とゆかりの地名がとても多いのです。 岩手県普代村の清河羽黒権現は、義経を追っ手から守り亡くなった清河・羽黒・権現という3名の山伏を祀る祠と伝えられ、その他にもここには、藤九郎様という神社があります。 青森県八戸市には、義経の八戸での仮住まいが地名となったという『舘越』や『長者山』などがあります。 青森県三厩村(みんまやむら)から、義経たちは津軽海峡を舟で渡ろうとしたのですが、霧や潮流に妨げられて行く手を阻まれました。大岩の上に座り、守り神の観音様に三日三晩祈ると海は静まりました。この大岩の下にある岩屋の中に、3頭の馬が繋がれており、義経は白髪の老人に白馬の『竜馬(りゅうめ)』を与えられました。以来この大岩を厩石、そして地名が三厩となったと言われます。さてこれからは、北海道です、 義経が初めて北海道に上陸したとされるのは江差町ですが、滞在したとされる場所は、日本海側の道南を中心に実に120ヶ所以上になると言われます。もうやむを得ません。地名だけをお知らせします。 函館市、松前町、江差町、乙部町、寿都町、岩内町、泊村、積丹町、札幌市、石狩市、恵庭市、壮瞥町、厚真町、むかわ町、平取町、新冠町、様似町、大樹町、豊頃町、中札内村、白糠町、釧路市、弟子屈町(てしかが)、羅臼町、斜里町、旭川市、東神楽町、稚内市。 このように岩手県から北海道にかけて点在する義経伝説ですが、この義経伝説、ひとつひとつは神秘めいたいかにも創作された話のように聞こえるのですが、実はこれらの伝説の場所を地図に落とすと平泉を起点に三陸海岸、八戸、青森市、十三湊そして北海道と一本の線の上にきれいに並び、また年代も平泉から順に新しくなっているのです。つまり点在する義経伝説は、地理的、年代的に合致し整合性があるのです。とは言え、衣川で義経が襲撃されたとき、義経の家来全員が玉砕したと考えられません。そのことから、衣川から北上したのは義経本人ではなく、残された家来たちの逃避行であったと考えるのがいいのかなと思っています。いずれ義経がジンギスカンになったというのは、噴飯物だと思っています。 <font size="4">ブログランキングです。 <a href="http://blog.with2.net/link.php?643399"><img src="http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/72/0000599372/67/img25855a93zik8zj.gif" alt=バナー" height="15" border="0" width="80"></a>←ここにクリックをお願いします。</font>
2021.04.01
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