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安積疎水の先駆者たち 平成二十八年四月二十五日、未来を拓いた『一本の水路〜大久保利通、最期の夢と開拓者の軌跡 』として郡山市と猪苗代町にまたがる安積疎水関連の遺産群が、日本遺産に認定されました。『日本遺産』とは地域の歴史的魅力や特色を通じて、我が国の文化・伝統を語る物語を文化庁が認定するもので、この物語を語る上で欠かせない魅力溢れる有形や無形の様々な文化財群を、地域が主体となって総合的に整備・活用し、国内だけでなく海外へも戦略的に発信していくことにより、地域の活性化を図ることを目的としたものです。平成28年度には、安積疎水の他にも18件の物語が『日本遺産』として認定を受けています。その認定を受けた安積疎水の物語は、次のようなものでした。『明治維新後、武士の救済と、新産業による近代化を進めるため、安積地方の開拓に並々ならぬ想いを抱いていた大久保利通でしたが、夢半ばで暗殺された彼の想いは、郡山から西の天空にある猪苗代湖より水を引く『安積開拓安積疏水開さく事業』で実現しました。奥羽山脈を突き抜ける『一本の水路』は、外国の最新技術の導入、そして、この地域と全国から人、モノ、技を結集し、苦難を乗り越え完成したのです。この事業は、猪苗代湖の水を治めると同時に、米や鯉などの食文化を一層豊かにし、さらには水力発電による紡績等の新たな産業の発展をもたらしたのです。 未来を拓いた『一本の水路』は、多様性と調和し共生する風土と、開拓者の未来を想う心、その想いが込められた桜とともに、今なおこの地に受け継がれています』 今は郡山市の発展の基礎となった開成館などの安積疏水遺産群の世界文化遺産への登録を目指し、文化庁へ世界遺産暫定リスト申請に向けて準備しているとの話も漏れ聞いています。これらの偉業を後世に伝えるため、そして福島県初の世界遺産登録を目指して、市はリーダーシップを発揮してほしいと願っています。 さて、猪苗代湖から山を越えて安積地方の原野に水を引く疏水の案は、地元でも早くから考えられていました。一説によると、幕末、西本願寺の僧であった石丸法師が郡山のお寺に滞在した折、たまたまその年は奥羽飢饉といわれていた年であったのですが、どこの村も用水の確保に血眼になっていたのを知りました。そこで僧は、猪苗代湖から水を引けないものかと茶飲み話に語ったと言われます。この話を聞いていた川口半右衛門という郡山の商人が、実現の可能性を探るためか、二本松藩や会津藩に照会したりして奔走したとされています。 この川口半右衛門のように、疎水に夢をかけていた人に、渡辺閑哉(寛政十年(1798)〜明治六年(1873)という人がいました。閑哉は寛政十一年(1799)に、下長折村、現在の二本松市岩代町下長折ですが、ここの名主の家に生まれました。通称は儀右衛門で、隠居してからは閑哉を称していました。幼少のうちから学を好み、六〜七歳にして繪双紙、軍書類などを愛読したと伝えられています。やや長じては、相生集、これは二本松藩の地誌で、近世の安達郡・安積郡を網羅した歴史資料書ですが、これの著者の大鐘義鳴や仙台の大屋士由(おおや・しゆう)などと一緒に学んでいました。また十六歳の時には、二本松藩の儒学者渡邊竹窓の門下生となり、勉学を続けていました。朝タ往復の途上にでも、読書を続けていたと言われます。十九歳の時、布沢村、いまの二本松市東和町太田ですが、ここが不作のため疲弊して、一村総くずれになりそうになりました。これを救済することは到底容易な業ではないと村人たちは閑哉に願いを託すことにして、名主に推挙したのです。 名主となった閑哉は、早速村人を集めて復興の計画を発表しています。それは「怨を言うな、よく働け」ということでした。なんとも単純なスローガンです。しかし閑哉はスローガンばかりではなく、閑哉芋と名付けて馬鈴薯の栽培を奨励したのです。18世紀末にはロシア人の影響によって馬鈴薯が北海道・東北地方に移入され、飢饉対策として栽培されたのです。その他にも閑哉は、洪水を防ぐために水流を弱める働きのある台明竹を今の鹿児島県から取り寄せて川岸に植栽させるなどして開墾をすすめ、村を立て直したのです。次いで閑哉は、元の名主の近親者を自分の後任に推薦し、自分は役を辞めて自分の村に引退しました。明治に入ってからですが、岳温泉の湯を元岳から深堀で引いたのも、閑哉の測量と設計によったものです。 その後も閑哉は、安積原野の開拓を唱えて運動を行い、地理や水利を調べて水路の計画を立てています。しかし明治六年(1873)八月、安積疎水開削の許可を得られないまま、亡くなってしまいました。ところがこの年の同じ月、福島県典事である中條政恒の勧めにより、阿部茂兵衛ら郡山の商人たち25人で設立された「開成社」に開墾の許可がおりたのです。安達の、しかも阿武隈川の東に生まれた閑哉が阿武隈川の西の安積平野に目をつけたのは、同じ二本松藩であった、ということからかも知れません。 この安積疎水開削に関して、もう一人の人物がいました。この渡辺閑哉に遅れること23年、須賀川の中町生まれた小林久敬(ひさたか)です。久敬は文政四年(1821)、町役人を務めていた小林久長の次男として生まれました。久敬の家は、運送の仕事もしていましたので、町の中でも金持ちとされ、常に5〜6人の奉公人が働いていました。この頃の須賀川は、商業で賑わっていました。ところが農民は日照りが続いていたため、田んぼの稲が実らず食べるものがなく、苦しい暮らしをしていたのです。 久敬(ひさたか)が21歳になったとき、父の仕事を継ぎました。久敬(ひさたか)が仕事を拡大しながら考えたのは、天保の大飢饉の折の幼いころ、父に連れられて訪れたことのあった猪苗代湖から、安積平野、そして岩瀬地方へと湖の水を引けば、多くの人々を救うことができるのではないかということでした。毎日夜遅くまで地図を広げ、どうすれば猪苗代湖からよい水路が作れるか、また費用はどの位かかるかなどの調査を続けました。その思いはますます強くなり、30歳の時には、猪苗代湖と岩瀬地方が一望できる斉木峠(さいきとうげ)に立って観察し、「必ず須賀川まで水を引くことができる」と確信したのです。斉木峠は、湖南町浜路と逢瀬町多田野の間にある峠です。久敬は、この峠近くにトンネルを掘れば、高度的に自然流水が可能であり、かつ経済的にも時間的にも最良の策であると考えました。この斉木峠案を実現しようとして、久敬は先祖代々からの土地を元手に資金を集め、それでも足りない分は、地元の有力者たちにお願いをして回りました。 しかし須賀川の有力者たちには、「途方もないことを」と言って取り合ってもらえないばかりか、それらの人たちからキチガイなどと言われ、強く反対されてしまいました。それでもあきらめずに奔走した久敬は、安積地方の人たちの賛同を得ることに成功し、全財産を注ぎ込んで測量を行うなど、用水路づくりに打ち込んだのです。ところが安積疏水工事に手をかけていた政府と県は、失業した武士の救済を主眼としていたため熱海地区などの開墾を急ぎ、久敬の斉木峠案ではなく、沼上峠への工事に傾いていったのです。財産を使い果たした久敬は妻子にも見放され、失意の中、わずかに残っていた郡山の土地にあばら屋を建て、一人で住みながら疏水工事の現場で様々な進言を行ったのですが、聞き入れられることはありませんでした。 安積疎水の工事は、オランダからの招いた技師ファン・ドールンの指導の下、順調に進められました。やがて水門が開かれ、湖の水が安積平野へと流れ込んでいったのです。わずかに4年の短期間での工事でした。そのルートは久敬の望んだものとは違いましたが、30数年間私財を費やし、情熱を注いだ悲願が、ついに叶えられることになったのです。その2年後、郡山のあばら屋でわずかな土地を耕し、自給自足の生活を営んでいた久敬は、疏水実現への情熱と見識が政府に認められ、民間功労者として新宿御苑の宴に招かれ、明治天皇から銀杯を賜るとともにその労をねぎらわれたのです。 やがて安積の大地には次々に水田が開かれ、須賀川の近くの岩瀬郡仁井田村まで疏水の水は流れてきました。「間もなく須賀川まで流れるだろう」、そう久敬は思っていました。「あらたのし 田毎にうつる 月のかげ」という久敬の句は、明治15年に疏水の水が田んぼ入った様子を詠んだ句で、少年の頃からの夢がやっと叶ったという安堵感が伝わってきます。晩年は、病気がちとなり、不自由な生活を送っていましたが、郡山村の福祉事業の先駆者である鈴木信教・如法寺の住職に賓客として迎えられ、明治二十五年、71歳の生涯を終えました。墓地は須賀川市諏訪町の長松院にあります。ブログランキングです。 ←ここにクリックをお願いします。
2018.07.15
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あぶないあぶない これは郡山の黄金伝説の一種になるかも知れませんが、郡山には次のような話もありました。TVの番組、『まんが日本昔ばなし』で、2019年に亡くなった市原悦子さんが『語り』をしていたものです。 『その昔、郡山は、水が乏しい荒れた土地だった。そんな村で、変な噂が広がった。夜中になると、鬼ババが「あぶない、あぶない」と叫びながら、街道を疾走するというのだ。そこで村の太助と和助という若い兄弟が、鬼ババを捕まえようと、夜中の街道で待ち伏せをしていた。夜も更けたころ、兄弟の目の前をものすごい速さで駆け抜けていく鬼ババを見つけた。足に自信がある兄の太助は、鬼ババを追いかけて山の頂上の崖まで追いかけて行った。ところが崖の上には鬼ババの姿は無く、崖の下を覗きこんで見ると、今にも落ちそうな壺を発見した。兄はその壺の中から小判を見つけたので、弟には内緒で一人占めにしようと、こっそりと崖を下りて帰って行った。その頃、やっと弟の和助も崖の上に到着した。弟も崖の下を覗きこんだ際に、何か光るものを発見した。さっそく崖を下りて調べてみると、崖のくぼみから勢いよく水が噴き出した。この噴き出した水のおかげで、この村でも田んぼが作れるようになった。弟は一生懸命働いて田んぼを作り、結婚もして子宝にも恵まれて、幸せに暮らした。兄はと言うと、壺の小判で贅沢三昧の暮らしをして、すっかり財産を使い切り、体まで壊してしまった。ちなみに、あの消えた鬼ババについては、今でもわからない』。 この『あぶない あぶない』の話については、後日談がありました。1959年に出版された『郡山地方史研究会50巻発刊記念・懐古の郡山』より、そのまま転載します。 (息子の)私は、父の田中正能に尋ねた。以下の通りの問答になったと記憶している。父「『あぶねい あぶねい』の話は知ってるな」私『知ってる。赤木様の話だない。』父「んだ。増子さんのお墓に、『あぶねいあぶねい』の金を見つけた人が祀られている。この人は増子三左衛門と言った。この家は郡山の名主から三穂田の名主に代わったが、墓地を守るために増子さんの家族が郡山に戻った。この三左衛門のお墓は赤木の墓地にある。」 父から聞いた話では、増子三左衛門は上町(現在の元町)の名主だった。当時、毎日夕方になると上町から下町を「あぶねいあぶねい」と呟きながら往来する怪しげな人物が現れた。町の人がこの怪しい人を恐れ、人通りがなくなった。三左衛門は、こんなことでは郡山の評判に関わると考え、『場合によっては切り殺そう』と考えた。ある日の夕方、脇差を腰にこの人物の跡を付けた。暗くなって赤木様まで尾行してくると、前を行くこの人物の姿が突然消えた。「不思議なこともあるものだ」とそこに脇差を立てて帰宅した。翌朝、脇差を探しに赤木様に行くと脇差の傍に逢瀬川に転がり落ちそうになった壺があり、中に金が入っていた。 私が聞いた話はここまでだが、実家近くに住み父から弟同様に交際していた藤沼嘉典さんから、さらに話の続きを聞いていた。彼の話では壺は二個あり、中には砂金が詰まっていた。あんちゃん(藤沼氏は父をこう呼んでいた)は、増子三左衛門は二個とも二本松の代官所に届けた。一個は代官所が取り、一個は褒美にあたえられた。あんちゃん(田中正能)は、三穂田の増子家に古文書調べに行った時に壺の実物を見せられたそうだ。「高さがこんなもの(二十センチ見当に)だった」と両手で示した。想像するに砂金は、一個に二キロ近く入っていたのではないかと言う。この『あぶねい あぶねい』の話は、郡山市教育委員会が昭和六十一年に出版した『郡山の伝説』に、『逢瀬川の埋蔵金』の表題で収録されています。 なおここに出てくる田中正能さんは、郡山在住された歴史家で、県内各地の町村史の編纂に関わった有名な人物でした。
2022.12.01
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日本橋堀留町にある三光稲荷神社の不思議 2014年11月、東京舞鶴会の会員である同級生から、次のような手紙が届いた。 昭和26年に、福島県郡山市郊外の三春村(三春駒の産地)の四百余年続くという豪農の池田彦左衛門氏から「日本橋長谷川町役場」宛てに「奇妙な手紙」が舞いこんだ。それによると三光稲荷神社の御神体を預かっているのでお返したい、というものであった。その手紙が区役所から三光稲荷神社に回送されてきたので、この神社に関係する喜多川氏と村越家の当時支配人であった桜井氏の二人が早速三春を訪ね、御神体を譲り受けて来た。そのときの池田氏の説明によると、関東大震災後に、福島市の道具市で「長谷川町守護神」といういわれのあった小祠を買ったのだという。長谷川町とはどこにあるのかも知らず、自宅に奉斎してお守りしていたところ、神のご加護か家庭の中には良いことばかりが続いていたという。 ところがそのうち、夜な夜な家鳴り振動がして「長谷川町に帰りたい」というお告げがあり、それが長谷川町役場への手紙となったというのである。使者となった二人は池田氏に、「関東大震災のとき三光稲荷神社の神主が御神体を奉安して逃げ延びたのであるが、途中で落としてしまったのか、杳として分からなくなっていた」と説明したという。それがなぜ、東京から遠い福島市の道具市で売られていたのか、その理由は分からずじまいであった。ともかく御神体は、無事に戻ってきたという。三光稲荷神社のパンフレットによれば、御神体は三光稲荷大神(立像大神)と田所稲荷大明神(立木柱像)とあるが、戻されたのは一体であったのか二体であったのかは不明である。ちなみにご神体は、写真撮影はおろか拝観もできないので、どんなお姿なのかも分からないという。 三光稲荷神社の創建についても幾つかの説がある。一番古いのは東京都神社名鑑によるもので、慶長八(1603)年とある。次いで元禄二(1689)年とされているが、三光稲荷神社の境内掲示によるとこの年以前の創建であろうと推測している。さらに昭和十二年版の日本橋区史によると明和年間(1764〜1772年)とあり、その説は定まっていない。祭神についても、神社のパンフレットには三光稲荷大神と田所稲荷大明神とあるが、具体的な祭神名の記載がない。しかし前述した日本橋区史では、祭神として稲蒼魂命(うかのみたまのみこと)と大巳貴命(おほなむちのみこと)そして屋船豊受姫命を挙げているが、稲蒼魂命と大巳貴命は大国主命の別名であり、屋船豊受姫命は伊勢神宮外宮の主神であると同時に穀物の神である。元々は天衣伝説などが残されている丹波国の神であった。 勧請の経緯も東京都神社名鑑によれば、『慶長八年当時の長谷川町、現在の堀留二丁目に居住していた絹布問屋田原屋村越庄左衛門と木綿問屋建石三蔵の両家は海岸を埋め立てて貸家を建て、大家主、大地主となった。そこで天の光、地の恵み、そして人のお蔭様に感謝し、三光稲荷大神としてお祭り申し上げたのがはじまりである』とある。また後年の東京名所図会には、『三光稲荷神社は、嘉永の切絵圖に三光稲荷と見えたるが、古鹿子(名所案内=元禄四・1691年九月の印本)に、はせ川町、三十郎稲荷とあるを當社なりといへり。さればいつの頃よりか三光と改めしか、詳らかならざるも、堺町(いまの芳町2丁目町会史編集時の町名)に歌舞伎ありし頃、中村座で出演した大阪の歌舞伎役者関三十郎が演技中、場内に霊光(雷光ならん)のごとき閃きあり、観客は彼の芸体に放光せし如く見えて賞賛され名声を不動のものにした』と伝えられている。関三十郎は伏見稲荷の神璽を庭内に奉斎していたので、これは神明の加護によるものと感謝、自分の三と光の2字もって三光稲荷と称し、これを長谷川町(明暦以降 長谷川九兵衛なる人がひらいたので長谷川町と名づけられた・現堀留町2丁目)の建石三蔵(木綿問屋でこの地の大地主)が庭内に安置し、町内の氏神として崇敬したといわれる。なお稲荷神社の総本社である伏見稲荷大社(京都府京都市伏見区深草藪之内町68)の主祭神が稲蒼魂命であることから、三光稲荷も全国に三万社あるといわれるうちの一社と推測される。 ところでここのお賽銭箱には、町火消しの『は組』の文字がある。『は組』は大傳馬町、亀井町、難波町、堺町、小網町、小舟町、油町、堀江町、小傳馬町、鉄砲町、高砂町、富沢町、そして長谷川町の十三町を管轄し。火消人足の数は592人と、いろは四十八組中最大の組であった。管轄内の三光稲荷への寄進の一助としたものであろう。現社の敷地二十七坪余、社殿は大正十二年の関東大震災後の造営にかかるもので延十七坪二合余であり、氏子は堀留町二丁目の約百二十四戸だそうである。近隣には吉原や歌舞伎小屋の中村座、市村座、更には操り人形や人形浄瑠璃の小屋等があり、娘子供藝妓らが、三十郎の容色を愛でつ、参詣するもの夥しかりしより、誰いふとなく、三十郎稲荷には猫が寄るとの風説より訛傳して、猫兒を見失ひし時、立願すれば験ありとなむ、又鼠除の守札を出すと。このこと砂子にも鹿子にも見えず』とあり、三光稲荷と三十郎稲荷がこのあたりに存在(別々なのか名称が変わったのかはさておき)していたことは確かなようだとある。 この三光稲荷神社の所在地である日本橋堀留町は、日本橋小舟町や日本橋富沢町と面した200平方メートル程度の小さな街である。人形町駅も近いことから、便宜上人形町と呼ばれる地域であるが、老舗の蕎麦屋、甘味処、喫茶店などのある『人形焼』町のイメージとは違って、ほとんどオフィス街となっており、東京メトロ日比谷線・都営地下鉄浅草線「人形町」駅のA4出口から北に150メートルほど進んだ左側の細い路地で、小伝馬町から水天宮を結ぶ大通りから一本入った所にある。この三光稲荷神社のすぐ前の道を『三光新道』と言うが、『新道』は『じんみち』と濁って発音する。もとは人形町3丁目に接する道路に面していた道である。三光新道は、安政五(1859)年の古地図に「長谷川町三光新ミチ」と書かれており、この三光新道の人形町寄りに吉原をかこむ「おはぐろどぶ」があった。これが昭和8年の区画整理後、現在地に移転してその通りを三光新道と呼ばれるようになったという。 明治の初め頃にこの横丁の入り口の南側に尾張屋という甘酒屋があったことから『甘酒屋横丁』と呼ばれていた。当時の横丁は今より南に位置しており、道幅もせまい小路であった。当時この界隈には水天宮をはじめ久松町には明治座が櫓をあげており、近くには「末廣亭」「喜扇亭」「鈴本亭」の寄席が客を集めていた。関東大震災後の区画整理で現在のような道幅になり、呼び名も『甘酒横丁』と親しまれ人々に呼びつがれてきた。 関東大震災後の大正十三年、長谷川町と田所町が区画整理で現在の堀留町に合併しているが、そのときに田所大明神も合祀された。またこのとき、三十郎稲荷も合祀された可能性もあるとされている。いずれにせよ、江戸時代のはじめ頃からあった稲荷社であることには間違いないとされている。 大正12年9月1日 関東大震災にて御社焼失 大正13年 長谷川町と田所町が合併して堀留町に。 御社を再建 昭和20年 今次大戦の災厄はまぬがれた 昭和26年 三春町の池田彦左衛門から御神体が返納 される 昭和29年 三島徳七の愛猫が戻る。 昭和39年9月15日 社殿を増改築し現在に至る 日本では、食物や養蚕業を天敵・ネズミから守るために、長らく猫と共存してきた。三光稲荷神社が『猫帰しの神』とされたのには、屋船豊受姫命が穀物の神とされたこととも関係があるのかも知れない。三光稲荷神社の境内に残る猫の置物は、猫が無事に帰ったお礼に奉納されたものであり、なかには新宿区下落合三島徳七(東大教授-冶金学)の猫が戻ったという『猫とも新聞』の記事と、そのとき奉納された石碑もある。その銘のある石碑(昭和二十九年甲午一月)は、三島徳七・二三子夫妻が、愛猫の不明に際して当神社に祈願したところ、三か月振りに無事帰った御礼として建立したものである。ところで冒頭の池田彦左衛門から御神体が返納されたのが昭和二十六年、三島徳七が祈願した猫の戻ったのが昭和二十九年、この近い年に何らかの関係があったのであろうか。 そして現在、郡山市白岩町(元・田村郡岩江村)に、境内まで赤い数多くの鳥居が連なっている独特の景観が特徴の正一位・高屋敷稲荷神社がある。宝永年間(1704〜1711)の飢饉の際に、年貢を免除してもらったことに感謝して、正徳三(1713)年に建立されたものである。現在の社殿は大正十五(1926)年に建立されたもので、ここの祭神に宇加之御魂命、つまり倉稲魂命(うかのみたまのみこと)が祀られている。この神は伏見稲荷、そして三光稲荷に祀られている神と同じ神である。神官の話によると、「稲荷神社の総本社は伏見稲荷で正一位を授かったが、それにちなんで全国の稲荷神社が正一位を称するようになった。決して各々の神社が個別に授かった位(くらい)ではない」とのことである。そこで三光稲荷と何か関連があるかと思ったが、それはなかった。 ところでこの話、よく考えてみると、昭和二十二年に行われた農地改革で大地主は9割も課税され、やむを得ず物納した4年後の昭和二十六年のこととされているから、この時点で豪農と言われる人はいない筈である。例えば山形県では、「本間様には及ぶもないが せめてなりたや殿様に」と言われるほどの豪農までが、いなくなってしまったのである。それでも、もし三春に豪農がいたと仮定しても、町村合併が昭和三十年に行われているから、旧三春町に住んでいた池田さんということになる。 そこで現在、三春町で池田姓の人を電話帳であたってみたところ、八幡町、八島台、小金滝、小浜海道、桜ヶ丘、込木字大志田にそれぞれ1人、計6人ほどいたので、その全員を訪ね歩いてみた。しかし会うことのできた2人は、共に彦左衞門という名に記憶がないと言われたが、昭和二十六年の出来事であるから、もし亡くなったとしてもそれ以降の年になる。ということは、彦左衛門とは、今回会えた人の父親の年代の人と思われるから、家族であれば知らない名の筈はない。ところがそれ以外の四名は、近所の人にも尋ねてみたが、なぜか全員電話帳の住所地に住んでいなく、それぞれに電話をしてみたが「現在使われていません」とのコメントが流れて来るのみであった。 ともかく彦左衞門と関係があったかどうかは分からないがこの4人の池田さん、一年という短い期間にゴソッと居なくなってしまったということはどういうことなのであろうか。何か彦左衞門につながる不思議なことが現在にまで続いているようにも思える。そして最大の疑問は、はたして三光稲荷と三春の彦左衞門の話は、事実であったのであろうか、それとも単に、伝説の類いなのであろうか。そして三光稲荷神社には、三春の彦左衞門からのハガキがあると言われるが、御開帳していただいて明確にすべきものなのか、はたまたソッとしておくべきなのでしょうか。丁度、田村麻呂の伝説のように・・・。ブログランキングです。 ←ここにクリックをお願いします。
2015.08.26
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戦国の雄・田村月斎 田村月斎は戦国大名三春田村氏の一族で、二代 田村隆顕、三代 田村清顕を補佐して勇名をはせた人物です。 『伊達治家記録』という史料によりますと、『月斎ハ田村殿ノ家ノ臣田村宮内顕頼入道ナリ』と記されています。つまり、月斎とは号であり、実名は田村顕頼といったのです。しかし月斎の実名が「顕頼」なのか「頼顕」なのかは、現在のところ明確ではありません。そこで田村家の「通字」である「顕」の字に注目すると、おそらく「顕頼」が正しいだろうと考えられるのです。 「通字」とは、その家の人物であることを示すため、名前の一字を代々にわたり使用することを言い、田村家の場合は「顕」の字が通字でした。そして、通字は、本家の当主が下に付ける場合に(義顕・清顕等)、分家は上に付けることが多いので、「顕頼」が正しいだろうと推測されるのです。このように、月斎は実の名前すら不確かな人物でした。なお田村氏は、盛顕=義顕=隆顕=清顕と続くのですが、月斎は盛顕の子で義顕の弟になります。 田村氏の最大版図は安達郡東部や安積郡、岩瀬郡、石川郡、西白河郡、東白川郡などの一部が含まれていましたが、その折り月斎は隆顕 清顕に仕えて家中で重きをなし、合戦においては軍師を務めていました。謀略に優れ、周辺諸氏からは「攻めの月斎」と言われて敬遠され、「畠に地縛り、田に蛭藻、田村に月斎なけりゃよい」とまで言われて恐れられたそうです。 永禄2(1559)年、隆顕は叔父の月斎とともに大槻城(いまの大槻小学校)を攻め取り、さらに今泉城(旧岩瀬郡岩瀬村今泉・現須賀川市今泉)を攻め取ってそこの城代となっています。また大槻に住む古老の間では、大槻小学校近くにある西ノ宮神社を月斎屋敷と呼んでいたそうです。月斎が、ここに陣を構えていた名残でしょうか。 須賀川城主二階堂氏の興亡を描いた軍記物・藤葉栄衰記(成立は寛永2『1625』年か?)の永禄2(1559)年2月15日の條に、田村氏が千余騎の勢を二つに分け、一手を月斎につけて富岡村の川沿いに攻めて来たことがあったとあるそうですので、ここに出てくる月斎陣場は、そのときの戦場であったとも思われますから、この辺りを攻めたときのことかも知れません。しかし、場所の確定はできていません。 そして言い伝えばかりではなく、月斎陣場という地名が浅川町の城山近くの浅川町大字浅川字月斉陣場として残されています。 元亀2(1571)年、常陸佐竹氏が浅川から中畠(矢吹町)を侵食してきたのに対して田村月斎がこれを迎撃し、会津蘆名氏と共同で佐竹氏の拠点の寺山城(棚倉町)を牽制した上で羽黒城(塙町)を攻め、二千の敵のうちの五百を討ち取ったと言われ、『戦いほど面白いものはない』と報告しています。 隆顕が病死後の天正2(1574)年、清顕が常陸佐竹氏、会津蘆名氏、須賀川二階堂氏と講和を結んでいますが、その条件の一つとして御代田城(郡山市田村町御代田)と交換に、今泉城を二階堂氏に返還しています。当然ながら、月斎はその地を離れました。そして昭和に入ってからの話です。私がご面識を頂いていた故今泉正顕氏との談たまたま、今泉姓についての話になりました。そのとき氏は、「戦国時代、今泉家は田村月斎と共に岩瀬の今泉城を預かっていたが、今泉が田村領から離れたのでご城下(三春)に戻ろうとした。ところが三春の地価が高く途中の郡山に留まってしまった」と言われたので私はすかさず、「それはよかった。もし三春に行っていたら、今の今泉さんは、郡山でこんなに活躍することはなかったでしょうね」と応じ、大笑いになったことがありました。 ところで月斎には、その戦いと出生にも不確かな点があるのです。相生集によりますと、『天正10(1582)年の頃、月斎は守屋、富岡、冑山、川田、只野、大槻、八幡を攻めとっているので、月斎陣営とはその間の陣地であったのかも知れない』とあるのです。しかし今泉城を返還した8年後に、またその周辺を攻めたのかという疑問がわきます。そして月斎が公(おおやけ)の最後の文書に出てくるのは、『伊達治家記録』天正18(1590)年10月2日の条です。とすると、月斎の父の盛顕の没年は長享元年(1487年)と言われていますから、もし父の最晩年に母が妊娠したとしても、この記録は月齋が103歳のときとなります。しかもこの年から逆算すると、天正10年の戦いは、98歳のときとなります、果たしてこんなにも長く生き、しかもこのような年齢で、このような活動をすることができたのかという疑問がわきます。 それはともあれ相馬街道に面した三春町北町の高台には、本城防御の要ともなる月斎館がありました。ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2014.08.16
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空 襲 昭和19年1月、郡山は『軍都』の指定を獲得した。明治以来の開成社員の共同所有地(いまの希望ヶ丘地域)約31町歩(約六万三千坪・二十万八千平方メートル)が献納されることで実現したものである。開成社とは、明治六年(1873)、「安積開拓の父」といわれた中條政恒の呼びかけにより、地元の商人阿部茂兵衛らが開成社を組織し,市街西方にある台地の開拓を始めることで,桑野村が新設された。これが契機となり,国営事業として猪苗代湖より水を引く安積疎水の開削と,久留米藩士その他の旧士族の入植により,盆地内の諸台地が開拓され、安積疎水は、明治十五年(1882)に完成した。 軍都指定により東部66部隊が駐屯したが、この部隊が会津若松市に移されると、代わって宮城県岩沼から東部111部隊が移駐してきた。また昭和17年から18年にかけて田村郡守山町徳定に郡山第1海軍航空隊、田村郡高瀬村金屋に第二航空隊の飛行場が設置され、安積郡大槻町に第3航空隊飛行場の工事に入った。敗戦により完成を見ることはなかったが、ここは現在、自衛隊の郡山駐屯地となっている。 ちなみに、東部第66部隊に附設されていた陸軍病院は、戦後は国立郡山病院となり、平成16年2月、国立療養所福島病院との統合のため閉院となった。現在は郡山市医療介護病院と郡山市休日・夜間急病センターの複合施設、『郡山ビッグハート』となっている。 これらの軍関係の施設に加え、民需から軍需へ転換した工場の多くが郡山に疎開、周辺の農村部にも農耕部隊や松根油(ガソリン代用)製造部隊などもあったことから、郡山への爆撃は熾烈になったと思われる。 昭和20年4月、保土谷化学、日東紡富久山などを中心にB29爆撃機の波状攻撃を受け、隣接する国鉄郡山駅・駅前商店街・周辺の民家も大きな被害を受けた。東北振興アルミ、浜津鉄工、その他での死者総数は約460名にも及んだ。その後も郡山は、7月に1度、8月に2度、計4度の空襲を受けている。岩瀬郡須賀川町、安達郡本宮町なども、町内の軍需工場が爆撃された。 ところが、この郡山への大規模な爆撃の他に、この周辺の町村にも別の理由で空襲があり、大きな被害を被っている。 田村郡大越町では、町の大半が爆撃で焼失、死者4人という大きな被害を受けている。 田村郡滝根町や船引町も空襲に逢った。 田村郡三春町では、屋根に当たって豆を撒いたような機銃弾の音と共に爆弾が一個落とされた。赤では目立つからと真っ黒に塗られていた消防車と、防火訓練を受けていた愛国婦人会が出動している。幸い不発弾であった。 田村郡中郷村の西方(にしかた)ダムを狙い、急降下しながら機銃掃射をされた例もある。手摺りに弾の穴が5ヶ所あったが、従業員を狙ったのであろうか。その他にも、軍施設のあった原町、富岡、そして工場のない双葉郡川内村でも爆撃を受けている。ただ阿武隈高地に、軍事的にそれほど重要な施設があったとは思えない。ちなみに川内村は福島原発爆発に伴う放射能被害をまともに受けて全村避難、今年(2016)6月、政府により避難指示が解除されたが、多くの村民の帰還には至っていない。 「三省堂刊・日本の空襲1北海道・東北」によると、これらの空襲は帰路の燃料節約のため、飛行中に目についた所に残った爆弾を捨てて行ったのが真相らしい。『とばっちり攻撃』とも言える。しかしそのような爆弾の下には、多くの民間人たちがいたのであるから、何ともやるせない、理不尽な話である。この悪戯半分? の爆撃で、49人もの死者を出している。これがアメリカ軍の行っていた無差別爆撃の実体であった。県内の死者は、全体で700人を超したという。 日本の木造家屋焼却攻撃のため開発された焼夷弾は、その後のベトナムのナパーム弾、イラクやアフガニスタンのクラスター爆弾に発展? していったという。一体、戦争は、無くなることがないのであろうか? 子どもの頃に憶えた軍歌、 〽 どこまで続く 泥濘(ぬかるみ)ぞと同じである。ブログランキングです。 ←ここにクリックをお願いします。
2016.08.06
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(八)馬車鉄道こぼれ話 3 馬車鉄道事始 (東京馬車鉄道) 東京市内の馬車鉄道を始めて計画したるは鉄道作業局長たりし松本荘一郎、及び富田鉄之助、深沢其の諸氏なりし。富田氏は、自ら万世橋畔に立っていちいち通行人の数を算せしめたこともありと言う。然るにこの計画は事故の為にその目的を果たすこと能わず計画を全然種田誠一・谷口道之・河村伝衛等の人々に譲与し、種田氏等は三十三銀行より三十万円の資本を借りて東京馬車鉄道会社を起こすに至る。其官許を得たるは、明治十三年十一月十日なり。 馬車鉄道運転の始めは、明治十五年六月二十五日、新橋=日本橋間に、馬車六両を以って往復を開始したるを始めとす。同日は仮営業にて午前十時に発車し、東京府少書記官銀林、及び土木課の官吏三名第一車に乗組み、新橋より日本橋まで往復し、続いて六台順次に発し、終日の雨天に拘らず、乗人は実に溢れるる程にてありし。(中略) 又同年十二月二十一日の(絵入)に「東京鉄道馬車会社の鉄道馬車は、一筋の線路(浅草茅町・浅草橋際等)に至り、跡先の車を待ち合わせ、或いは線路を外し、又は時々両方から馬車と馬車とが一筋の線路でばったり行遇ひ、馬を付け替えて後戻りする等、思いの外時間を費やす云々」とありこれ開業後六ヶ月の現況なり。 唐々頃々又唐々 鉄通馬車勢力強 中在減法助倍客暫時間座別品傍(後略)(カラカラコロコロ又カラカラ 鉄道馬車の力は強い 中には本当にスケベイの客もあるし しばらくの問美人の傍に座ることもできる)(1)「明治事物起源 下 石井研堂 七四三ページ〜七四四ページ(2)「明治事物起源」 石井研堂 二三五ページ 上等と下等 馬車鉄道には、一頭引きと二頭引きのがあって、二頭引きの方には「上等室」がついていたようだ。このように、二等級制の馬車であったことがわかる。馬車の前の屋根の上には扇形のブリキの方向札がついていた「上野行」「浅草行」あるいは「新橋行」と漢字で書いてあったが、上野行は青地、浅草行は緑地、新橋行は黒地に白ペンキで書いてあったから、字は読めなくても意味は通じた。夜は車の前方の窓に丸いレンズがはめてあって、その灯火の赤・緑・自の三色でその方向を示した。 この路線は、新橋から銀座へ出て、本町・万世橋・上野・浅草・本町とまわるわけであるが、上野=浅草問と浅草棉=本町間は単線で、東行と西行とが別の道路を通っていた。これは東京といえども、当時の道路が狭かったということであろうか。 馬車鉄道の客 (東京馬車鉄道) 「知るも知らぬも膝を並べ、鬼を一車に一七、八の別品、押されざれども其傍へ詰める書生あれば、婆さんに席を譲る、若いに奇特の者もあり。革につかまる人は、楽車(だし) の人形に似て揺らめき、悪気の男は自分一人幅をして、飾り物の軍人の如く足をふん張る」 などとある。田舎のガタ馬車には、立っている人などはなかったように思うが、東京のには電車同様釣革が垂れていたのである。(明治東京逸聞史 森銑三 一七二〜一七三) 新聞の投書 へ東京馬車鉄道)「馬車鉄道の駁車台に近き方に腰を掛け居りしに、駁者は鞭を振り過ぎ、革の先で窓の中の客の頭をぶんなぐり申候」 こんな小不平を、わざわざ新聞に投書している人がある。(前掲書 三三三ページ) 美人はお得 (東京馬車鉄道) 鉄道馬車の車掌にも困る。昨日僕が本町から乗ろうと思って停めてくれと呼んだが、あいにく四つ角でなかったから、向こうの辻に来いと言うので半町ほど走らされた。これは馬車会社の規則であるから仕方がないが、僕が乗ってから少し行くと、路傍の家から三人連れの美人が出て来て、かわいい手で車掌を手招きしたら、車掌は四つ角でも何でもないのにすぐ車を停めた。(前掲書 三四五ページ) 馬糞 (東京馬車鉄道)(前略) 円太郎(落語家 橘家円太郎が、明治十年代、乗り合い馬車の御者のまねをして評判になったところから乗り合い馬車のこと)でも馬車鉄でも馬がひく以上は排せつ物をいかんともし難かった。人夫が絶えず拾っても拾いきれず、自然レールの間は馬糞を堆積し、銀座のまん中を一条の馬糞溝が出来た。ことに停留所ではイイ気持ちそうに放尿した。 銀座ではないが、なかんずく、日本橋大倉書店前は、有名な馬鉄の放尿所であった。その頃は道巾が狭かったから、ややもすると通りがりの者は、飛沫を浴びせられた。日本一の日本橋の袖に馬尿の洪水が溢れているのは、「江戸名所図会」には見られない図だ。ラッパ円太郎氏高座で唄って白く。「惚れた惚れたよお前に惚れた 馬が小便して地が掘れた」と。 ロンドンのタワー・ブリッジも写真で見ると壮観だが、自動車のない馬車時代、大船を通ずるために橋板を開くと馬糞がコロコロと転がり落ちるには、ロンドナーもお国自慢の鼻が折れたそうだ。 馬車の別当 へ東京馬車鉄道) 居留地の馬車の別当、即ち御者は、概して侠艶のみなりにて、醜業婦などに好かるる人物が多かりし。明治二〜三年頃、東京・築地に開市場開け、横浜との間に、定期乗合馬車も往復したが、その時代の流行歌に「馬車の別当さん小弁慶揃ひ 吉原女郎衆迷わせる」 当時馬車の別当と洋妾との情事などはまま聞く所なりし。ここに吉原とあるは 横浜の遊郭を言えるなり。 我が英国公使間の御者馬丁は、紺の法被に樺色朱子の襟を用い、三菱社の馬丁は法被色萌黄なりとあり。「明治事物起源 下 石井研堂 七四七ページ」 車内広告 (東京馬車鉄道) 朝日新聞社は、明治十二年大阪に生まれた。やがて大阪で首位を独走するようになったが首都東京に進出をはかり、銀座一丁目に東京支局を開設した。新聞そのものは東海道線全通の前だったので、大阪で印刷された新聞は終列車で京都に運び、そこから鈴鹿越えの特車便で東海道八十キロメートルの夜道を疾走、翌日の午後四日市港へ。そこで汽船に積みかえ、横浜港へはその翌日到着という大作業であった、この東京での新開発売の明治十九年、ビラを二万枚まき、さらに東京の馬車鉄道の全車両六十台に車内広告を一ケ月出した。馬車鉄道が広告媒体として最初に使われたケースである。 なお明治三十五年、東京馬車鉄道は、三百両の車両と二千頭の馬を保有、営業をしていたといわれる。(昭和六三年 朝日新聞) 鉄道馬車を創めた人 (東京馬車鉄道) 明治十一・二年頃新橋〜日本橋問に今の電車の前身たる鉄道馬車を敷設して市の交通機関の先駆をなしたる谷本道之氏は十七日午後突然脳溢血を起こして人事不省に陥り爾来麻布区霞町一番地の自宅において療養中なりしが二十日午前一時終に眠るが如く逝去したり享年六十六。氏は鹿児島藩士にて明治初年までは兵右衛門と称し故森有礼氏、松村海軍中将等と共に米国ヒラデルヒヤに留学し、又外務官として沢外務卿の当時丸山外務大丞と共に樺太に航し魯人と折衝して功あり。更に海軍に入りて海軍大書記官となりしも時勢に感ずる所あり、断然掛冠して身を実業界に投じ鉄道馬車を起こし線路を浅草まで延長したるが何分草創の時代のこととて事業意の如くならず転じて株式取引所頭取となりしも幾干みなく之を辞し爾来世俗と断ちて深く仏門に帰依し故雲照律師に就いて禅を修め和歌を黒田清綱氏に学び居たりと。 これは、明治四一二年二月と書き込まれた新聞の切り抜きで、郡山図書館の「明治事物起源」二三五ページにメモとして貼ってあったものである。誰か読んだ人が、興味を感じて貼り付けたものであろう。 ただこのメモによると、谷元氏自体、丁度馬車鉄道そのものの末路に似て晩年は不遇であったと推察出来る。合掌。ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2014.03.11
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ある神風特攻隊員の遺書 『僕はもう、お母さんの顔を見られなくなるかもしれない。お母さん、良く顔を見せて下さい。しかし、僕は何もカタミを残したくないんです。十年も二十年も過ぎてからカタミを見てお母さんを泣かせるからです。お母さん、僕が郡山を去る日、自分の家の上空を飛びます。それが、僕の別れの挨拶です。』 この遺書を書いた茂木三郎一飛曹は、その内容からみて郡山出身と思われます。 戦中、郡山の海軍金屋飛行場から特攻隊が出撃したという話を聞いたことがありました。しかし郡山から直接出撃したという記録はありませんから、恐らく郡山で、または原町飛行場(南相馬市原町区)で飛行訓練を終え、特攻基地へ送られる前に書いたものと想像できます。 昭和20年5月4日、茂木一飛曹は神風特攻隊第五神剣隊の一員として、鹿児島県鹿屋(かのや)基地より250キロの爆装零戦として出撃、沖縄周辺の艦船攻撃で戦死をしました。享年わずか、19歳でした。 このような消耗戦法は、当然ながら戦闘機の払底を招きました。そこで使用されたのは、海軍が偵察搭乗員を教育するため九〇式機上作業練習機の後継機として開発した練習機でした。その練習機に積載する爆弾の重量の見返りに外せるものは全部外し軽くする必要がありました。無線機、機銃、あげくには飛び上がると車輪まで落とさせられたそうです。飛び上がれば隣の飛行機とも連絡がとれず、故障などで引き返しても着陸も出来ず、その多くは空中戦の準備も無いまま丸腰で待ち構えている敵の戦闘機群に飛び込んでいったのです。いま残されている米軍側の映像の記録に、機銃を撃ちながら敵の艦船に体当たりしていく特攻機の姿は、まったく見当たらないようです。 このように青少年の命を無視しながらも敗れた対米戦争。70年後の今に至るも「現在の平和日本の礎は、国の為に散華した英霊のお陰によるものである」と主張するエライ人。彼らはこの主張の中に英霊を貶めている、つまり矛盾した論理であることに気付かないのであろうか。ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2015.07.01
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消えた安積沼 2006年、東大出版会が刊行した「日本の地形3 東北」に、人類誕生以前の遙か昔、本宮から矢吹へかけて大きな湖、『古郡山湖』があったと出ていました。教えてくれたのは、福島大学特任教授で郡山地方史のメンバーである高橋康彦氏でした。氏によりますと、市内各所から広い範囲で泥炭の薄い層が見つかっていますが、この泥炭こそが古郡山湖の水底であった証拠だと言われるのです。学術的にも、泥炭は沼沢地や湖沼などの湿原植物の繁茂する湿地に集積した分解不完全な植物遺体の堆積物とされていますから、それこそ動かぬ証拠だと思われます。ではこれらの水を塞き止めていた所がどこで、それが何故無くなったかについては、いずれ学者の先生方が解明されることと思います。 さて郡山の安積沼は、古来歌枕とされてきました。しかし時代が経つにつれて、歌枕は次第に和歌で詠まれる諸国の名所旧跡のみについて言われるようになりました。ですから、地名の歌枕は実際の風景をもとに親しまれてきたというよりは、その言葉の持つイメージが利用されて和歌に詠まれていた面があるのです。そのため、その場に足を向けなくとも歌が詠み易くなり、多くの人に詠われるようになったものと思われます。 現在、安積沼は無くなってしまいましたが、歌枕としての安積沼は、すでに913〜914に成立した古今和歌集に出て来ます。また無明抄には、郡山とも縁があるとされる橘為仲(長和三・1014年頃〜応徳二・1085年)が見たとして安積沼が出てくるそうです。しかしその他にもこの地を訪れた人たちがいたのです。能因法師(永延二・98 康平元・1058年?)、西行法師(元永元・1118〜文治六・1190年)、今井宗祇(宗祇・応永二十八・1421〜文亀二・1502年)、前田慶次(天文元・1532〜慶長十・1605年)などが知られています。その慶次が残した慶長六(1601)年の奥州米沢庄道之日記には『すか川を出、さゝ川、郡やま、高倉のこなたの野の中に、まわり十丈あまりのぬまあり其中に小嶋あり、里の長に問侍れバ、これなん浅香のぬまなりとかたる』と記されています。 時代が下がりますが、二本松藩郡奉行成田頼直が寛政11(1799)年に著し、文政2(1818)年に一部を増補訂正されたという『松藩捜古』があります。この中に、宗祇の旅日記(廻国紀行)が掲載されています。そしてそれが、天保十二(1841)年、二本松藩の地誌として作られた相生集の中に転載されているのですが そこには。安積沼の大きさを示唆する次のような記述があるのです。『やがて近くにいた人の案内で、山田の里へ行った。そこは海辺で何の風情もなく作られた草葺きの庵であったが、やむを得ずそこに泊まった。長月(9月)の10日あまりのことであった。山より吹き下ろす嵐のような風の音に混じって、鹿の声が近くに聞こえる。前を見れば、はるばると遠くまで見渡せ、その浪の上を更けてゆく空の月が浮んでいる。友を呼ぶのであろうか、千鳥がしばしばと鳴く声も、大変心に染み入るように聞こえた。これらのことは、今は亡き友、成田友鴎(明和元・1746年〜天保4・1833年)の松藩捜古の安積沼の頭書にある安積沼と言われるのは、今の日和田の東勝寺の後ろの田であると言う。四方の山襞の連なる中の窪んだ様子を見れば納得できる。山田の里は今の八山田村で、昔は八俣田と言われたが今の名になった。八山田は日和田村の沖の方に続いているが、八山田と日和田村の間には大山田、小山田という字の地もあり、蛇ヶ森という丘からその沼跡に来て見下ろすと、小さな池があった。その辺りには田が広がっているが、乾(北西)の方は菖蒲池(会津に行く丘道は狭く、南には荒池というのがあり、沼の名残の跡が多い)を境にして、南は大山田・小山田、東は八丁目村の間まで皆丘なので、成田氏の説の通りである。なお日和田の西の早稲原、堀之内などという所に行ってみると、西は額取山の麓となる河内村の滝から、夏出、長橋、上伊豆、下伊豆、堀之内、早稲原の7村を経て東八丁目村に来て三里ばかりの間、大体四周全部が低い丘に取り囲まれて大きな沼の形である。昔の浅香の沼の跡はここばかりではなく、この七か村全部が沼であったということで、緲満たる様子はまるで湖であり、千鳥が鳴くなどと猪苗代の湖のようであるなどと言われる。何時の頃か分からないが、八丁目村の低い山を切り開いて阿武隈川に沼水を落としたので今の七か村が表に出た。』 ともかく海岸や干潟、湿原に多いと思われている千鳥がここに住んでいたということは、いかに大きな沼地であったかということになるのでしょう。またその相生集の中に年代は不明ですが、成田友鴎が、『(安積沼は)南は大山田、北は稲原、を巡り』としています。そこで片平町の滝をゼロ地点として二万五千分の一の地図の等高線で囲んだところ、この記述されている地名のすべてが沼の範囲として含まれているのには驚かされました。 そして元禄二(1689)年、松尾芭蕉が弟子の曾良とともに日和田を訪れ、花かつみを『安積沼』周辺で探します。花かつみそのものを見付けることができませんでしたが、ここからも安積沼が存在していたことが確認できます。なお芭蕉が白河から須賀川に入る前に、『阿武隈川を渡る。左に会津嶺高く、右に磐城・相馬・三春の庄・常陸・下野の地をさかひて山つらなる。かげ沼と云所を行に、今日は空曇て物影うつらず』と記しています。はたして『かげ沼』が安積沼と同じような事情で須賀川から鏡石にかけて残されたものか確証はありませんが、すでに吾妻鏡の建保元(1213)年五月九日の条に、『かげ沼』という記述があります。 寛政十一(1799)年の『松藩(二本松藩)捜古』によりますと、『今の日和田の里、東勝寺の裏、山田(八山田)、大山田、小山田、にまたがるいささかの小池』とあります。ここに出てくる安積山宝珠院東勝寺は、平安時代前期(834年以前)日和田町寺池に開山、その後今の蛇骨地蔵堂に移転したのですが、慶長四(1599)年の大火で焼失、享保四(1718)年に再建されました。しかし現在はありません。 このあたりは東側にある磐悌山や安達太良山と、西にある阿武隈川との間にある平野で、昔はそこら中に沼があったらしく、安積沼も、古くは安積の里にある沼というほどの意味で、現在安積山公園の碑が立っている場所だけが安積の沼というわけではなく、安積沼と呼ばれる所はいくつもあったようなことも聞きました。すると芭蕉は、安積沼と言う単一の沼を探していたのではなく、いくつかの沼を探し歩いていたのかも知れません。それらを考えればいま市内に残る多くの沼池跡は、『古郡山湖』の残滓なのかも知れません。 関岡野洲良(やすら)の回国雑記標注(文政八・1812・年)には、『宝沢沼と近くにあった稲原沼という大沼が続いて安積沼とされていたがこれは古の歌に詠まれた実地ではなく、片平村より一里ばかり離れた湿地が安積沼の実地と思われる』と記述されているそうです。しかしこのことは、日和田から片平にあったとされる沼が、水量の減少により幾つかに分かれた、ということを示唆しているのでしょうか。察するに安積沼とは、古郡山湖が種々の条件の下に小さくなり、江戸期、新田開発などのためにそれが消えてしまったと考えてはどうでしょうか。 ともあれこれらの記述から思われることは、すでに大きな沼は無くなって口伝、伝承の類いとなり、地形から想像できるということになっていたのではないでしょうか。 いずれにしても二本松藩の時代、安積沼の水を阿武隈川に落として耕地としたとされますので、恐らくその工事をした場所は富久山清掃センター近くの藤田川の河口近くであったのではないかと想像されます。なお現地に行ってみると『寺池』という小高い地形の下に、広い田圃が広がっています。この『古郡山湖』が安積沼や『かげ沼』になり、やがて田になって消えていったとは考えられないでしょうか。ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2013.10.01
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三春の戊辰戦争 1:三春藩への論難と反論 皆さん。『三春狐に騙された』という戯れ歌をご存知でしょうか。そしてこれを、どういう風にご記憶でしょうか。 これは戊辰戦争の際、三春藩が奥羽越列藩同盟を裏切ったとされることを揶揄して言われてきた言葉です。この言葉に三春の人たちは、どれだけ長い間傷つけられてきたことか。私も、その中の一人でした。そんなこともあってネットを検索していましたら、次のような部分がある長文の論文を見付けたのです。『征討軍は、いよいよ三春から二本松へ侵攻することになるが、ここでとんでもない事態が発生する。三春藩五万石の露骨な裏切りである。それは、「恭順」でも単なる「降伏」でもなく、明白な裏切り行為であった。最大の被害者は二本松藩であったが、二本松藩だけでなく奥羽諸藩では三春藩の裏切りを「反盟」という言葉で記録に残している。 三春藩の防衛最前線は、小野新町であるが、このポイントには二本松藩と仙台藩からそれぞれ約50名から成る応援部隊が派遣されていた。同盟間のこういう形は随所に存在したが、小野新町は三春藩領であるから三春軍が第一線に立つのは当然である。同盟間でも、当然の“礼儀”或いは“スジ”としてその形は守られてきた。ところが、小野新町の戦いに於いては、三春藩は藩兵を第二線に引かせていた。そして、征討軍が迫ると真っ先に逃亡、二本松兵、仙台兵が矢面に立って戦闘態勢に入るや、二本松兵、仙台兵に向けて発砲したのである。二本松・仙台藩は、この衝突だけでそれぞれ7名の戦死者を出した。』 くどいようですが、この主張は昔の話ではありません。今からつい3年ほど前の話なのです。 ところで三春町史第3巻近代1の5ページに、次の記述があります。『会津猪 仙台むじな 三春狐に騙された 二本松まるで了見違い棒』この歌にある三春狐をどうみるか。歴史の大河に竿をさし、小舟をあやつる船頭が無理せず、臨機に接岸させた所が安全であればそれでよい。判官びいきの感傷と義憤は一方の見方で、百年後の三春町民が判断すればよいことである。 この三春町史については、今になれば誰が書いたかは分かりませんが、私はとんでもない無責任な文章だと思っています。こんなことを三春町史に堂々と載せているから、冒頭のような誤解をされるのではないでしょうか。三春町史の奥付を見ますと、昭和50年11月とあります。その年は戊辰戦争後107年後の年であり、将に100年後の町民我々に、「お前ら勝手に判断せい!」とでも言っているようなものです。なぜ107年後の歴史家が三春町史を編纂する時点で三春の『裏切り説』の検証をしなかったのか。なぜ町民に、三春狐とはなんであったかを総括して見せなかったのか。大いに疑問を感じています。 そしてそれに上乗せするような出来事が、2014年の11月にありました。それは、『三春猫騒動(お家騒動)』の展示が行われていた三春歴史民俗資料館でのことでした。名は伏せますが、いずれ私がライスレークの家で、「三春が裏切り者ではなかったという話をする積もりです」と言った時、「それを話すと、かえって(当時の他の藩の人に)冷や水を浴びせられることになるから・・・」と言って言葉を濁したのです。私は町を背負って立つような文化人の反応に、「これでは駄目だ」という思いに愕然としたのです。この三春町史が出版されてから、すでに40年経っています。「これでは、あと60年経って200年になってもこの汚名を払い除けられないな」と思ったのです。私が現代の歴史家に望みたいことは、三春が裏切り者であったらあったと明確にすべきであると思うのです。そうすれば町民の側にも覚悟ができるでしょう。そして違うなら違うと説明すべきです。そうすれば町民も、前向きに考えられるでしょう。いいかげんにして置くことが、一番悪いと思っています。ともかく知り得た間違いを訂正せず、噂を否定しないことは、認めたということになるのではないでしょうか。 例えば、ウィキペディア『二本松の戦い』には、大山柏(大山巌の次男)の見解として、『三春藩が用いた策略は悪辣ではあるが、外交のマキャベリズムとして妥当なものである』と載せられているのです。私には不満が残りますが、むしろこのようなことの方が、正当に検証しようとする姿勢が見える気がします。 三春裏切り説に関して、反論めいたものがいくつかweb上にアップされています。そのうちの2点を、書き出しておきたいと思います。ところが何とその一つは、私の書いた『三春戊辰戦争始末記』が紹介されており、しかもそれは、つい最近ミクシィ上で見つけたものだったのです。http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=1304319&id=10307505 ただしこのURLをクリックすると、なぜかこのURLの最後の5の次に2006が表示されて開くことができないのですが、2006を消してクリックすると大丈夫です。日付は2006年10月21日とあり、『読んでおきたい基礎文献』の中にあったのです。これは私が書いたものに対する、しかも名指しでの肯定文でしたので、それがどなたのものであったのか是非知りたいと思ったのですが、生憎アップされた方がミクシィを退会なされている現在、残念ながら知る術がありません。やむを得ずご本人の許可を得ず、以下に引用させて頂きました。 『三春戊辰戦争始末記 橋本捨五郎 裏切りと今でも罵倒されている三春藩。だが、史実はどうであったのか? 地元の郷土史家が小説形式を取りながら、地方史や口伝などを丹念にリサーチし、その実体に迫る本。 驚いた事に新政府軍公式記録である「復古記」と、薩摩藩の軍事史料である「薩藩出軍戦状」そして二本松藩の基礎文献である「二本松藩史」の裏づけが取れてしまっており、逆に「仙台戊辰史」の捏造・改竄を証明してしまった形となってしまった。 「無いものは無い」のであり、それを「有った」とするのは問題ではないか? 著者の意図は、130年以上も経ちながら、未だに感情論で左右される事への連鎖を経ちたいという、ヘーゲル哲学に於ける「ジン・テーゼ」を見出そうとする姿勢は、イデオローグ汚染されている中央学“怪”や、利権塗れの“痴呆”史会に、爪の垢を煎じたい気分である(毒) 歴史の女神 クリオが誰に微笑むかは言うまでも無い! 自費出版という事で残念ながら絶版! 但し、ウエイブ上では公開されています。感情論ではない、知識共有を望む方は御覧あれ。』 それからもう一つ。『二本松狐と三春狐〜狐の蔑称は誰が為?』という論文が、2005年のHPにアップされていました。長文ですので、『1 はじめに』だけを著者の了解を頂いた上で、そのまま転載いたします。『二本松と三春、共に戊辰戦役で明暗を分けた藩である。 片や、新政府軍の猛攻撃を受けて崩壊に及び、片や降伏後に新政府軍の先鋒として藩の存続が保たれた。共に『明治維新』に巻き込まれ、二本松藩は奥羽越列藩同盟の犠牲となり「武士道の誉」と称えられたが、三春藩は生き残ったものの「裏切り者」として現代でも罵倒、侮蔑の対象として蔑まされる対象とされてしまう。三春の行為を揶揄する言葉として「会津猪に仙台むじな三春狐にだまされた二本松丸で了簡違い棒(丹羽氏の家門[×]を表す)」「会津桑名の腰抜侍二羽(丹羽・二本松藩の意味)の兎はぴょんとはねて三春狐にだまされた」「馬鹿だ馬鹿だ二本松は馬鹿だ、三春狐に騙された」という唄を与えられてしまった形となる。 しかし、「狐」の蔑称は三春だけのものであるのか?それならば幕末維新期に掛けてのバトル・ロワイヤルで「狐」にならずしてどのように生き残れればよかったのか?三春が二股膏薬の汚名を被り、二本松が武士道を通したと言う評価は正当だと言えるのか?二股膏薬は他にもいなかったのか? 歴史小説家や研究家が語る「三春は卑怯な裏切り者だ」という法官贔屓な文言をここでは頭の中から一切排除し、自国領土を戦火から救うにはどのような行動を取れば最善であったか。この二つの藩から眺めて考えてみたい。そして、周辺大国(新政府、会津、仙台)のエゴイスティックな動きも含めて、「狐」の称号は誰が持つべきなのか、考えていこうと思う。』 三春に対して、このようなエールが送られて来ているのです。誠にありがたく思っています。三春の、特に文化人たちが理論武装をし、このような自虐史観から町の人を救ってくださることを願って、このレポートを何度かに分けて載せたいと思います。ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2014.11.26
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世界の指揮者小沢さんと 水戸で30年ぶりに再会して これは5~6年前の、水戸室内楽の演奏会が終わってから、水戸芸術館での打ち上げパーティで撮った写真です。右からいとこの宮沢夫婦、指揮者の小澤征爾さん、またいとこの安芸晶子Earlさん(バイオリニスト・イェール大学弦楽器主任教授)私と妻と息子の順です。 小沢さんや晶子さんとは、2人が海外に雄飛する以前の学生時代に、安芸家に出入りしていて知り合いました。それからの世界を飛び回る活躍は、国内にいる私たちとはあまりにも世界が遠く、没交渉となってしまいました。 それから約20年後、宮沢の一人っ子の聡宏が渡米し、トランペットでボストン大学大学院音楽部とニューイングランド音楽院を卒業しました。そして彼は、晶子さんの紹介で小沢さんとも面識を得ることが出来ました。現在は勉強の成果もあり、アメリカや日本で演奏活動をしています。その縁もあって、水戸で30年ぶりに再会したという訳です。 さて、この水戸での再会の時に小沢さんにお願いをし、彼が郡山市民文化センターでの演奏会で指揮をした際に、郡山出身の世界的な指揮者・本名徹次さんのお母さんを、小沢さんに紹介することが出来ました。残念ながら、その時の写真こそありませんが、嬉しい思い出になっています。 柏屋の本名善兵衛さんとは旧知の間柄でしたが、こんなこともあって、本名徹次さんのポッカ・ルーポにも、喜んで参加させて頂いております。 晶子さんの祖父は本宮(糠沢屋呉服店)、祖母は郡山(熊田医院)の出身、また宮沢の祖父は三春の出身ですので、この周辺には多くの親戚がおります。 ちなみに晶子さんのまたいとこには、「金大(カネダイ)の小針養子さんや、{ヌカザワ}の糠沢洋子さんがおられます。(写真説明右より・宮沢夫妻、小澤征爾氏、安芸晶子、私夫婦、長男・直樹)1999/10 街こおりやま・思い出の写真224より ブログランキングに参加しました。是非応援して下さい。←これです。
2008.11.07
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高田騒動と三春藩 三春町史2巻91頁、秋田輝季の項に、次の記述がある。 『万治元年(1658)七月、輝季は十歳にして四代将軍徳川家綱に初見をし、寛文二年(1662)の暮れに従五位下信濃守に叙任された。延宝四年(1676)、父盛季が大坂城中で倒れると上坂し、父の最後をみとった。輝季はそのまま大坂城に在番し、同年三月、大坂にて家督を許されている。公役中の特筆事項は、越後騒動にあたって、天和元年(1682)、その中心人物小栗美作の兄の本多不伯を三春城下に預り、翌二年に高田城在番を命じられて高田に出張した。』くどいようだが、ここに出てくる本多不伯は、高田騒動において切腹させられた小栗美作守の兄にあたる。しかしこの人物の三春での様子などについて、三春町史からはまったく見えて来ない。なお在番とは、江戸時代、大名が改易される際に、他の大名が幕府の命令で無主となった城地を守る役のことである。 大名の改易が発令されると、幕府は該当する大名の居城と領知を接収するための要員を選定し、現地に派遣する必要があった。高田藩の場合は、改易後に新たな領主が入るまでの六年間は『在番時代』と呼ばれ、2名の大名が一年交代で高田城を守衛した。改易は領主と家臣、居城、領国などの解体を伴い、大名の無力化を意味する。このため一つ間違えば反乱の原因となるため、幕府側も周到な準備や配慮を行っている。これは改易を契機とする抗戦を予防するためであり、幕府は反乱の芽を摘み取るために細心の注意を払って改易を行った。改易処分が幕府から高田藩に伝わると、高田藩では厳重な警備体制が敷かれた。高田藩に領地の接する大名も、何かが起きては大変ということで、自衛的に藩境に軍勢を配置し、警戒態勢をとった。その一方で、幕府と高田藩の家老などの重臣との間でも打ち合わせをしている。ここの打ち合わせが上手くいかないと、高田藩松平家の家臣が篭城して武力衝突に発展する可能性があるのである。しかしいずれにせよ、武家の原則である「喧嘩両成敗」を最重要視したものであった。 三春町史では詳細が不明なので、三春歴史民俗資料館に問い合わせてみた。すると藤井典子学芸員から、次のような返事があった。『高田騒動の件ですが、三春町史にはたいした記述は無いと思います。高田騒動の際の三春藩の動き(高田在番)に関する資料はまとまったものは無いと思います。東北大学附属図書館の秋田家史料に若干含まれていると思いますが、最近のものでは上越市史に詳しい記載がありますし、在番関係では相馬藩の史料(相馬藩世紀)にもやや詳しい記載があります』。そこで『相馬藩世紀』を相馬図書館からとりよせ、チェックしてみた。三春藩も関与したこの事件における高田城在番と、本多不伯を三春城下に預ったことについての記述は、ここにも全くなかった。その後も、三春歴史民俗資料館より提供を受けた白峰旬氏の論文、『天和元年の越後国高田純次受け取りについて』および『佐藤宏之氏による秋田家の高田在番に関する資料』などを参考にして、調べを進めてみた。 そもそも高田騒動とは、何であったのか。一言で言えば、それは越後高田藩(新潟県上越市)二十六万石の後継ぎをめぐっての騒動のことである。お家騒動とは、江戸時代の大名家における内紛のことを指す。抗争の原因として最も多いのは、藩主の後継を巡る家臣間の対立であった。とかくどこのお家騒動でも、その内容はややこしい。いやそのややこしさこそが、お家騒動の原因となっていったのかも知れない。そのややこしい話をかいつまむと、次のようなものであった。 延宝二年(1674)、高田藩主の松平光長の嫡子綱賢が男子なく死去した。そのため筆頭家老小栗美作は光長の異母弟市正(いちのかみ)の子、15歳の万徳丸を推して光長の承諾を得,将軍徳川家綱に拝謁して三河守綱国となった。これで事が済めば問題はなかったのであるが、市正の弟の永見大蔵(ながみおおくら)や家老荻田主馬らが、「美作がわが子の大六を光長の嗣子にしようとしたが見込みがないので,元服もしていない子供の万徳丸を立ててお家を乗っ取ろうとしている」と騒ぎ出したことから,その後も後継者の妥当性について意見が混乱した。そのため藩政を執っていた小栗美作は、永見大蔵と、彼と結んだ藩士と対立していた。 延宝七年(1679)正月、永見大蔵らは藩主光長に目通りをして同志890人の誓紙を差し出し、小栗美作の隠居を要求した。この要求に屈した光長は、小栗美作に隠居を命じた。やむなく美作は自主的に隠居を願い出て、子の大六に家督を譲った。それにも関わらず家臣たちの騒ぎが収まらず、事態の収拾ができなくなった光長は、大老の酒井忠清(さかいただきよ)に裁定を訴え出たことで、騒動が表面化することとなった。 翌年の五月、4代将軍家綱が死去し、ただちに弟である綱吉が5代将軍に就任した。綱吉は、「左様せい様」と陰口されるほど家綱時代に下落した将軍権威の向上に努め、すでに堀田正俊を片腕に処分が確定していた高田藩の継承問題を自身で裁定し直し、積極的に政治に乗り出したのである。そのために高田藩裁定が十二月になって始まったのであるが詮議は難航、年を越した天和元年(1681)六月二十六日に以下の裁定を下された。すなわち、松平光長は家中取り締まり不行届きであるとして領地を没収改易とされて(滋賀県)彦根藩の江戸屋敷に預けとなったが、そののち、(愛媛県)松山藩へお預けの命が下り、ここでの蟄居処分となった。ちなみに綱吉は、元禄十四年(1701)には、赤穂藩主・浅野内匠頭の即日切腹と言う判断もしている。 一方で、高田藩を継いだはずの松平綱国(万徳丸)も、(広島県)福山藩へ預けられ、しかも小栗美作とその子の大六は切腹、その親族と一派の者は流罪、大名家へお預け、追放などとなった。その上で首謀者の永見大蔵、荻田本繁は八丈島に、岡島壱岐、本多七左衛門は三宅島にそれぞれ島流しとなり、その他の者も大名家お預けとなった。この判決に対して永見大蔵派は、これは小栗美作が幕府大老へ贈賄したことによる片手落ちの判決であると憤り、両者の争いは更に激化していった。このような事態に絶望した高田藩士250名は自殺し、他の多くが他国へ流出したという。高田藩内は、混乱の極みに達していた。このような状況の中で、幕府側の行動は早かった。 この高田藩改易にあたり、老中の大久保忠朝が総責任者とされ、同じく老中の稲葉正則 、堀田正俊の指示を受け、親族である(愛媛県)宇和島藩主 伊達宗利が事後処理の窓口とされた。なお宇和島藩は、伊達政宗の長庶子 伊達秀宗により立藩された藩である。天和元年(1681)六月二十八日、高田城受取の任命が富山藩主の前田正甫(まえだまさとし)に出された。正甫は受書を提出し、軍役人数4350人余りをもって富山を出発した。なおこの軍役高と扶持人数の関係は、在番大名の場合、一万石につき150人であったから、三春藩秋田輝季は役高三万五千石、525人となる。なおこの先、藩主名を併記すると内容が混乱するので、あえて藩名で統一する。 高田藩領および高田城の接収には、富山藩といまの新潟県の村上藩と長岡藩が選ばれた。幕府からの上意伝達の上使としては、大和郡山藩(奈良県)と幕府奏者番が、また城受け取り目付として、幕府使番の2名と勘定奉行の1名更に大目付1名が派遣された。彼らは出発前から緊密に連絡を取り、動員する人数の確認や、各人員らの一斉出立により道中が混雑しないように時期をずらしつつ、高田城郊外のある地点に集結するなど細かな打ち合わせを行った。このように高田城受取りが通常の改易と違って厳重かつ大人数になったのは、高田藩の石高の大きさや松平光長の徳川親藩としての格式を考慮した結果とされる。 各藩の役人たちは、天和元年七月二十四日までに高田郊外に集結、上使の松平直之の下で七月二十六日、高田城は接収された。支城の糸魚川城も、村松藩(新潟県五泉市)と目付の岩瀬氏勝により接収され、翌七月二十八日には破却されている。八月四日、高田での火事の際の消防活動は、在番の松本藩(長野県)と新発田藩(新潟県)に命じられた。八月十日、この在番二藩以外の藩は、江戸への帰途についた。前述の三春町史によれば、何月かは不明であるが、この年に、高田藩小栗美作の兄の本多不伯を三春城下に預けられている。三春藩が次の高田在番になることが、示唆されていたのであろうか・ 三春歴史民俗資料館より教示された相馬藩世紀、および同館より提供された『佐藤宏之氏による秋田家の高田在番に関する資料』によれば、天和二年(1682)一月十九日 中村藩(相馬市)は高田城在番を命じられた。そこで二月十四日、中村藩は相番となる三春藩に使者を送り、二十二日には三春藩の使者が中村藩へ赴いた。また中村藩は家中の者に、江戸から越後までと高田から江戸までへの道中検分、更には佐野街道を経て中村までの道中検分を申しつけている。中村藩は四月三日に江戸に入り、参勤のお礼を済ませた。二十三日には老中 戸田忠政へ、相番の三春藩と同道で高田へ出立の日限を伺い、その出発日は中村藩が五月十日、三春藩が翌十一日と決定されるとともに、両藩は高田城在番の起請文を提出した。 四月九日の朝、三春藩は中村藩の目付と面会をし、高田の様子を確認のための伝言及び書面を受け取った。それによると、中村藩が担当する番所は、関町口、土橋、上田銀山、越中との出入口である市振関所であり、三春藩のそれは荒川口、陀羅尼口、馬出、材木蔵、塩木蔵、蝋點蔵、山屋敷、下越後街道の出入口である鉢崎関所とされた。また信州との出入口である関川関所は、15日交代で、中村藩、三春藩の相番と定められた。五月二日、中村藩家臣が江戸より高田へ向けて出発した。ところがその八日、中村藩主の相馬昌胤は病気のため江戸出発を延期したのである。 五月十日、高田での扶持給付に関する事柄についての書状一通が、三春藩より中村藩へ遣わされたという記述がある。これは三春藩が受け取って、中村藩へ渡したということなのであろうか。翌日、中村藩の相馬昌胤は病をおし、一日遅れで江戸を出発した。そして五月十七日、相馬昌胤が高田に到着したその翌日、後を追うかのように、三春藩の秋田輝季が高田に到着した。その昼過ぎに相馬昌胤が秋田輝季を訪問、先任の松本藩と新発田藩との在番交代が決められた。 五月十九日 相馬昌胤と秋田輝季が同道して高田城へ入り、本丸と二の丸を受け取った。その二十一日には三春藩の人数が行列をもって大手より入り、三の丸の交代が済んだ。この三の丸の引き渡しが済んだのち、本丸・二の丸が中村藩に引き渡された。在番の交代についても、任命と同様、老中奉書により命じられていた。 貞享元年(1684)正月二十八日、高田城にいた中村藩主相馬昌胤および三春藩主秋田輝季宛に、老中奉書が届いた。この在番は一年交代であるため、翌貞享二年には後任大名ヘの引き継ぎがはじまることになっていた。そこには、中村藩に代わって棚倉藩(福島県)が、また三春藩に代わって亀田藩(秋田県由利本荘市)が申し付けられたことが記されていた。これにより棚倉藩は中村藩へ、また亀田藩からは三春藩へ飛脚が派遣されている。そして二月二十七日には、家老1人と他に3〜4人、その他に双方が受け取る城外・遠所の番所、在番中の逗留場所が記された『覚書』が、中村藩・三春藩からそれぞれに出された。それによると、棚倉藩は対面所、亀田藩は安藤次左衞門屋敷へ逗留するように申付けられ、また同日、中村藩から棚倉藩へ詳細な『覚』が出され、三春藩からも同様な『覚』が亀田藩へ渡された。その『覚』は、詳細なものであった。煩雑さを顧みずに記すと、次のようなものであった。 『三春藩から亀田藩が受け取る城内外の番所とその人数は、追手門に物頭3人・札改歩行士2人・足軽25人・小頭2人・長柄者10人、それに鉄砲20挺・弓10張・長柄10本、作事門には給人3人・足軽10人、千人夫小屋には足軽4人、源松院屋敷には足軽4人、南門には物頭3人・長柄者10人・札改歩行士2人・足軽15人・小頭2人・長柄者10人、喰違門には給人2人・足軽5人・中間2人、塩硝蔵には物頭3人・足軽10人・小頭1人・長柄者5人、それに鉄砲10挺・弓5張・長柄10本、鍾馗門には足軽4人・中間2人、城米蔵には給人3人・足軽10人、小頭1人、長柄者5人、狐口門には歩行士2人・足軽4人・、中間2人、それと鉄砲2挺、材木蔵には足軽4人、蝋點蔵には足軽2人、出丸塩木蔵には足軽2人・中間2人、それと長柄2本、荒川口には足軽4人・中間2人、陀羅尼口には足軽4人・中間2人、山屋敷には給人2人・歩行士2人・足軽6人・中間4人・それに鑓3本と鉄砲2挺、鉢崎には歩行士2人・足軽2人、関川には給人4人・足軽8人・長柄者7人と鉄砲5挺と鑓5本、廻場には物頭3人・歩行士4人・足軽長柄16人、馬出木戸口には足軽4人であった。そして亀田藩は、六百人扶持であった。 五月十七日には亀田藩が、十八日には棚倉藩が高田へ到着し、十九日、高田城本丸において、在番交代の老中奉書が中村藩と三春藩に渡された。二十一日、三の丸は三春藩と亀田藩の間で、本丸は中村藩と棚倉藩の間で引き継がれた。これにより、三春藩と中村藩が高田を後にした。その二十七日、中村藩は江戸へ到着、すぐ老中へ報告をし。閏五月五日には将軍綱吉に対して参府の御礼を済ませた。そして六月二十三日、国元の中村へ赴く暇を将軍綱吉より与えられ、六月二十五日には 相馬中村へ出発した。資料が乏しいため三春藩の行動が見えてこないが、おそらく同じような動きをしていたと思われる。 ところで高田騒動の中心人物、小栗美作と大六は切腹、対立していた荻田主馬らは八丈島へ流罪となった。高田藩主の松平光長は家中の監督不行き届きで改易、松山藩お預かりという厳しい処分が決まったが後に罪を許され、復位復官して合力米三万俵の俸禄が与えられた。しかし世継の綱国とは不和となり、病弱を理由に廃嫡した。しかし小栗派旧臣らによる御家再興運動の結果、越前松平家一門の松平直矩(なおのり)の子宣富(のぶとみ)を光長の養子とした。元禄十年(1697)、光長は隠居したが、翌年に宣富は津山藩(岡山県津山市)十万石に封じられ、減封・加増などの浮沈があったが、津山藩主松平家として幕末まで存続した。 いずれにしても参考にした文書は、高田藩史や相馬藩世紀、『白峰旬氏の論文、天和元年の越後国高田純次受け取りについて』、それに『佐藤宏之氏による秋田家の高田在番に関する資料』にすぎない。しかしそこから確認できたのは高田騒動の詳細であり相馬藩の内情であった。三春藩の記述は、全く少ないのである。ただ三春藩もこれらの資料により、相馬藩とほぼ同じ行動をとっていたと考えられる。しかし残念ながら、高田騒動についての三春藩の動静が、三春に残されていない。 三春藩が預かっていたことで気になっていた本多不伯の動静であるが、三春歴史民俗資料館の調査により、天和元年(1681)七月に三春に着き、元禄十年(1697)六月十六日死去ということが分かった。幕府の検使御徒目付の田辺九兵衛と都築半兵衛により、紫雲寺へ葬られたのであるが、この間、約十六年、三春にいたことになる。いずれにしても、三春藩が高田騒動に関して相当の役を担ったことは、間違いのない事実である。なお三春歴史民俗資料館の平田禎文氏は、次の書籍を参考にされたという。 2007 史学論叢書第37号〜天和元年の越後高田城受け取り について 別府大学 2009 近世大名の権力編成と家意識 佐藤宏之 吉川弘文館 ただ不思議なことは、新津図書館で調べた次の書籍に、高田騒動の城代時代の詳細が載っていないことである。 2008 シリーズ藩物語 高田藩 村山和夫 現代書館 2004 上越市史 通史4 近世2 上越市史編纂委員会 東京法令出版 1914 高田市史 高田市教育会 秀英舎 2015 藩史大辞典3巻 木村礎 藤野保 村上直 雄山閣ブログランキングです。 ←ここにクリックをお願いします。
2018.01.15
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田 村 麻 呂 伝 説 一、 福 島 県 この項では、各地に残る田村麻呂の伝説を集めてみた。 坂上田村麻呂の父・苅田麻呂が大熊に乗ってこの川を渡り熊渡に着きました。その地は最初屯田(みやけだ)と言われましたが、いつのころからか御代田と呼ばれるようになりました。屯田は苅田麻呂の直轄地の意味で、川には大熊川(阿武隈川)の名が付きました。 (郡山市田村町御代田) 国見山に大武丸という東夷の酋長が反乱を起こしたので、坂上苅田麻呂が直宣を受けて征伐に来ました。 (郡山市中田町上石) ある晩、たまたま陣中に怪しい光が差し込むのに気がついた苅田麻呂がその光を頼って行きますと、木賊田(とくさた)村の清水で根芹を摘んでいる女がいるのを見つけました。その女は郡山の虎丸長者に仕えていた下女で、阿口陀媛という三国一の醜い女で悪侠と言われていました。しかし苅田麻呂には、比類なき天女のような美女に見えました。そこで陣中にその女を伴いました。 (郡山市田村町徳定) 間もなく苅田麻呂は大武丸を征伐し、「子供が成長したら都に尋ねてくるようにと」言い残し、都に帰って行きました。 (田村地域) 苅田麻呂公が京の都に帰られて間もなく、徳定熊渡の室家山童生寺で、阿口陀媛が玉のような男の子を生みました。阿口陀媛は木賊田の産清水で産湯を使わせ、徳定の抱上坂で赤子を抱き上げました。しかし子供が産まれて困ってしまった阿口陀媛は、赤子を田の畦に捨ててしまったのです。 (郡山市田村町徳定) するとそこへ鶴が飛んで来て赤子を拾い、山の頂上の自分の巣に連れて帰って育てたのです。ところが赤子を拾った鶴は、石になってしまったのです。それを知った村の人々は驚き、阿口陀媛に赤子を戻して育てさせました。その子は鶴に拾われたことから、鶴子丸と名付けられました。それもあって、その山には鶴石山という名が付き、頂上には鶴石という名の石も残されています。また、この鶴石山の麓には、鶴石神社が祀られています。 (郡山市中田町下枝字平松) このため三春に住んでいる人は、誰も鶴を料理して食べることが出来ず、もし恐れずこれを食べれば、必ず崇りがあると言われています。 (田村郡三春町) 桓武天皇の時代、地獄田という所で一人の男の子が生まれました。その子は七歳のころになると、五尺もある立派な身体の持ち主となり墓を暴いて死人を食ったり暴力を振るうようになったので、親も恐れてその子を殺そうと考えるようになったのです。子どもはそれを察知すると家出をしました。何年か後、その子は大滝根に住んで滝根丸と名乗り、手下を大勢率いては旅人や村を襲っていました。村人たちは滝根丸のことを「あいつは鬼のように恐ろしい」と噂しまた滝根丸も自分のことを「俺は鬼だ」と言って益々悪いことをするようになりました。このように鬼が生まれたということから鬼生田という地名になったのです。 (郡山市西田町鬼生田) 鶴子丸は母に父のことを尋ね、印の品を携えて京都に上る決心をしました。やがて阿口陀媛が亡くなって谷地観音に祀られましたが、田村麻呂が手玉にして遊んだという手玉石がここにあります。 (郡山市田村町徳定) やがて成人した鶴子丸が都に上り苅田麻呂公の邸前に着いた時、外れ矢が飛んできました。鶴子丸は、持っていた自分の矢を投げ返すと、矢音高く飛び上がり、邸内にいた苅田麻呂公の前に突き刺さったのです。怪しんで表を尋ねさせ、そこにいた小童を見て訳を聞き、はじめて自分のお子であることを知りました。それからは、生地の田村郡にちなんで田村麻呂と名付けられ、父のもとで育ちました。 (田村地域) 蝦夷窟と呼ばれる十三の岩窟が南向きにあり、そのそれぞれに七~八人収容できる大きさのものであった。ここに蝦夷人が住んでいたと伝えられる。 (郡山市田村町小川字下田) 朝廷はこの地のエミシを退治するため、藤原小黒丸を征夷大将軍として派遣しました。小黒丸はエミシと戦いましたが利あらず、一旦退却して高幡山の宇奈己呂和気神社に戦勝を祈願しました。宝亀十一(七八〇)年九月十一日、小黒丸は下山してエミシと戦いましたが、今度は苦もなく打ち勝つことができました。 (郡山市三穂田町下守屋) 桓武天皇の延暦二十年、千島大多鬼丸の残党が霧島山(大滝根山)の岩谷にこもり悪行を重ねていたので、田村麻呂将軍が征討にやってきました。 (田村地域) 田村麻呂は、白河付近の国見山で賊を滅ぼしました。 (白河市) 坂上苅田麻呂の子が、奥州宮田村(郡山市西田町宮田)に産まれました。母は高野郡(今の田村地域南部と石川郡北部を合わせた所らしい)に住んでいた橋本光忠の娘・阿口陀姫で、これがのちの、田村麻呂になりました。田村麻呂は赤津四郎という賊将を打ち破りますが、赤津四郎は多田野村(郡山市逢瀬町多田野)の「鬼ヶ城(地名)」の鬼穴で、または赤津村(郡山市湖南町赤津)布引山の鬼穴で、あるいは丸守村(郡山市熱海町)大峯の蝦夷穴(不動尊の地)で、またその他にも喜久田村(郡山市喜久田町)小室山で、さらには鬼生田村(郡山市西田町鬼生田)で産まれたと伝えられています。 鬼ヶ城には鬼穴という大きな岩窟があり、麓の谷の両側には数個の蝦夷穴が並んで街路のようでした、 田村麻呂は「鬼ヶ平」で対戦し、赤津四郎を射殺しました。血引き金山、矢もぎ山、鬼ヶ平、十牧おって山、真弓山、萩袋、大峯不動尊は、赤津四郎に関係する旧跡です。 (郡山市熱海町) 縁起その他判然としないが、古老の言い伝え等によると「桓武天皇の御宇、田村将軍奥州達ヶ窟に籠りたる、酋長悪路王を伐って平定御凱旋。当時矢田野辺、広原茫々、此処の彼処に人家あるのみ、将軍広原に出給う時、天に祈り、国土守護のため大矢を放つ、此の大矢をもって磐女の神を祭り、磐女大明神として敬う」とあり、矢田野の地名もここから生まれたものと思考され、坂上田村麻呂の勧請と言い伝えられている。 (須賀川市大字矢田野字岩ノ上六一 磐女神社)ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2011.07.14
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エミコ スズキのルーツ探し 7月24日 福島民報共浜版(浜通り版) い わ き 民 報 (より) 2009年07月14日「ハワイ移民の父」の子孫、ルーツ探していわき訪問 ハワイ移民の父と敬愛され、アメリカ市民権を得た三春町出身の勝沼富造氏(1863—1950)の子孫にあたる、ハワイ出身でロサンゼルス州にすむスズキ・キャサリン・エミコさん(20)が11日、自らのルーツを知ろうと、同じく富造氏の子孫にあたる好間町の勝沼博さん(78)宅を訪れた。 富造氏は英語教師などを務めたあと、獣医学や政治学で身を立てようと明治22年に兄らとともにサンフランシスコへ渡った。その後、獣医師として「ドクトルカツヌマ」と呼ばれる活躍を見せる一方、ハワイ移民局の職員になり、日本人移民を支援した。 スズキさんは、父が日系4世、母は日本人で、祖父母が長野県に在住しており、現在は弁護士を目指して故郷のハワイを離れ、南カリフォルニア大学で学んでいる。今回は県が海外の県人会と協力して進める、福島出身者の子孫を県に招いて福島の文化や歴史を学ぶプログラムのために来日していた。 勝沼さん宅への訪問は、いわきハワイ交流会(小野英人会長)が取り持ち、実現した。スズキさんは富造氏の孫の孫にあたり、博さんは富造氏のおじの子孫にあたる。勝沼家の子孫がいわきにいると聞いたスズキさんは、博さん宅の訪問を希望し、訪れた。 博さん宅には、スズキさん、小野会長、富造氏についての書著を持つ郷土史家の橋本捨五郎さんらが訪れた。博さんは家系図や先祖の写真などをスズキさんに見せ、勝沼家の歴史を説明した。 「遠いところからきてもらい、うれしい。これからも交流を続けたい」と博さん。スズキさんは「いわきに来るまでは、自分のルーツをよく知らなかったが、ここにきていろいろな関係を知り、驚いた。知れてよかった」と話し、双方ともにまたの再会を約束した。 ブログランキングです。 50位以内に入れればいいなと思っています。ちなみに今までの最高位は、2008年7月22日の52位でした。←これをクリックして下さい。現在の順位が分かります。
2009.08.02
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あ と が き 郡山で歴史の話を訊こうとすると、ほとんどの人が「郡山には歴史がない」と言われる。謙遜してそう言われるのかと思ったら、結構本心なのには驚く。 確かに江戸時代、郡山は二本松領であったし一介の宿場町に過ぎなかった。そのため郡山の歴史は二本松のそれに包含されてしまい、独自のものがないように思われるのも仕方がないことであったのかも知れない。しかし人が住む以上、そこには必ず歴史があるはずである。そのようなこともあって、私は郡山の歴史についていろいろ調べてみた。そしてその歴史が結構多いのに驚かされたのである。 『郡山の種痘~天保五年の事はじめ』は、『疱瘡の記』として二〇〇四年の第五十七回福島県文学賞に応募した『種痘事始』であった。ただ私としては、この中に出てくる『癘疫』という文字が、当時『疱瘡』を表していたということの証明が出来ぬままでの苦渋の出版であった。つまりここの部分は、「今になると証明できない」ということなのかも知れない。素人の私としては結局結論を見え出すことができなかったが、いずれ歴史家にこれの結末をつけて頂ければ有難いことと考えている。今後の読者のご賢察に待つところの多い話である。 この『種痘事始』は第五十七回福島県文学賞予選には通過したものの、正賞には至らなかった。当時福島民報に載った書評を転載する。 審 査 経 過 (前略) 第一次審査を通過した作品は次の通りである。◆一般の部〈小説〉吉田健三「嚢公」、木村令胡「火色の蛇」、綱藤幸恵「風と星の調和のとれたリズム」、小林綿「死綿花」〈ノンフィクション〉橋本捨五郎「種痘事始」、古内研二「津軽海峡」鎌田慶四郎「『降伏命令』なしー収容所までの道」、 (中略) 各委員から提出された結果をもとに審査は始まり、まずはすでに準賞を受けている吉田、橋本両作品の正賞への可能性を論議した。前者は十分な筆力があるものの物語のもつ迫力および感動に欠けるとの評価が、そして、後者は調査記録には感服するが、内容の整理に工夫が欲しいとの評価がなされた。両作品の正賞受賞は見送られた。(後略) 参 考 文 献 熊田家の墓碑銘 新家譜 明和霞城武鑑一八三四 天保五年諸願申立留帳一八五八 安政五年諸願申立留帳、その他の資料一九八二 郡山市文化財 研究紀要第二号 郡山市教育委員会 石橋印刷 郷土乃歴史 三穂田町史探会 ガリ版二〇〇一 北天の星 吉村昭 講談社二〇〇二 科学医学資料研究 松木明知 野間科学医学研究資料館 HP はこだて人物誌http://www.city.hakodate.hokkaido.jp/soumu/hensan/jimbutsu_ver1.0/index.htm HP 福井市歴史人物 笠原白翁(良策)http://www.city.hakodate.hokkaido.jp/soumu/hensan/jimbutsu_ver1.0/index.htm福島県史 函館市史 二本松市史 梁川町史 保原町史福島県医師会史 お世話になった方々 (敬称略・五十音順) 郡山図書館 郡山歴史資料館 郡山市埋蔵文化財調査センター 二本松資料館 三春歴史民俗資料館 梁川町図書室 仙台図書館 大内寛隆 大久保甚一 熊田修 鈴木八十吉 飛田立史 前田利光 山口篤二 吉川喜代衛 故・安芸幸子 故・田中正能 故・吉村昭
2008.03.25
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町人探訪(まちひとたんぼう)大槻探訪編集室発行のフリーペーパー『町人探訪(大槻町発信!こおりやまのマチ・ヒト・応援情報誌)』の、まちの歴史 冨久山編で、三春馬車鉄道が紹介されました。 http://blog.machihitotanbo.jp/そして、岩崎ガラス工芸社さんのプレゼントクイズが付きました。 http://iwasakiglass.co.jp ブログランキングです。 50位以内に入れればいいなと思っています。ちなみに今までの最高位は、2008年7月22日の52位でした。←これをクリックして下さい。現在の順位が分かります。
2009.08.08
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参 考 文 献一九一二 山野井村郷土史(二〇〇三年復刻版) 日和田町郷土史会 一九三二 磐梯熱海温泉 南朝秘橘輝政 文献協会一九六三 姓氏家系大辞典 太田亮 角川書店一九六九 福島県史 福島県 小浜印刷一九七六 日和田の歴史探訪 森合茂三郎 古山書店 三春町史 三春町 凸版印刷一六七九 日本歴史大事典 河出書房新社一九八〇 一遍と時宗集団 大橋俊雄 教育社 会津・仙道・海道地方諸城の研究 沼館愛三 伊吉書院一九八四 郡山の歴史 郡山市 不二印刷一九八六 郡山の伝説 郡山市教育委員会 石橋印刷 〃 三百藩藩主人名事典 藩主人名事典編纂委員会 新人物往来社二〇〇〇 執権北条時宗と蒙古襲来 谷口研語 成美堂出版二〇〇一 概論 日本歴史 吉川弘文簡 〃 あさかの神社誌 福島県神社庁郡山支部 不二印刷二〇〇二 中山・竹内 史跡のてびき 佐藤兵一 自家版 「街」こおりやま 不二印刷二〇〇四 郡山の歴史 郡山市 ル・プロジェ 〃 相楽半右衛門伝 相楽マサエ 羽賀製本所二〇〇五 郡山の地名 郡山市教育委員会 不二印刷 むらの歴史 佐藤兵一 シブヤ HP 東鑑 http://www.asahi-net.or.jp/~HD1T-SITU/azuma.html HP 古樹紀之房間 日本古代史一般 古代及び中世氏族の系譜関係 信濃の工藤姓とその一族 http://shushen.hp.infoseek.co.jp/kodaisi.htm HP 石崎のルーツ探索BBS http://www2.aaacafe.ne.jp/free/roots/main.bbs お世話になった方々 (敬称略・五〇音順) 郡山図書館 郡山歴史資料館 郡山市埋蔵文化財調査センター 二本松資料館 三春歴史民俗資料館 梁川町図書室 福聚寺 常居寺 保福寺 石田善男 大内次男 大河原司 相楽智志 佐久間宗一 佐藤兵一 鈴木八十吉 鈴木忠作 山口篤二 吉川喜代衛
2008.02.01
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荒覇吐と瀬織津姫(2) 荒覇吐信仰は、古事記や日本書紀の影響や仏教による変容ですっかり影をひそめ、江戸時代になると何の神であるか分からなくなってしまいました。それもあって、多くの神社や寺院から荒覇吐神の名は消えていってしまったと言われます。しかもその残された多くも、神社の本殿や本堂にではなく、末社・摂社に追いやられているのです。末社・摂社とは、神社本宮とは別に、その神社の境内または神社の附近の境内の外にある小規模な祠に祀られ、しかも神社本宮の管理に属したもののことです。その上、荒覇吐神は、門客神(かどきゃくじん)として祀られている場合が多いようです。門客神とは、神社の門に置かれた「客人神(まろうどがみ)」のことで、主神のまつられている拝殿の一隅に祀られたりして、独立の祠をもっていないことが特徴です。また客人神とは、『神社の主神に対してほぼ対等、或いはやや低い地位にあり曖昧な関係にある神格』の神です。客神はちょうど人間社会におけるお客の扱いと同じで、外界からきた来訪神(らいほうしん)を、土地の神が招き入れて、丁重にもてなしている形です。現在この北方の神、荒覇吐神を祀った神社が、全国各地、28都道府県に広く散在していることから、荒覇吐一族の生活の場の広がりを示していたのではないかと想像できます。 ふつう、神社の境内にまつられている境内社には,摂社(せっしゃ)と末社(まっしゃ)とがあります。摂社には、主神と縁故関係が深い神がまつられており、末社は、主神に従属する小祠である場合が多いのです。客神の場合は,この両者とも異なり、主神のまつられている拝殿の一隅に祀られたり、『門(かど)客神』と称されて随神のような所にまつられ、まだ独立の祠をもっていないことが特徴です。東北・関東の荒脛巾(あらはばき)神、南九州の門守(かどもり)神などはその一例ですが、なかには普通の境内社より大きな一社を別個に建ててまつる例もあります。客神が,けっして排除されることがないのは、外から来た神が霊力をもち、土地の氏神の力をいっそう強化してくれるという信仰があったためと考えられています。現在、荒覇吐神は、次のように崇(あが)められています。 1.足腰の神、旅の神。脛巾(はばき)と呼ばれる足に巻く脚絆をつけることで旅行の無事を祈る道祖神的信仰があるといわれ、靴が奉納されることもあります。 2製鉄の神。製鉄作業で目を傷めることが多かったためか、荒覇吐神が片目で描写されることが多いそうですが、しかし必ずしも、荒覇吐神が鎮座しているすべての神社でそうであるわけではありません。 3.守護神。荒覇吐神は、大きなカテゴリでいえば民間信仰の神です。しかし本来は守護神として祀られていたものとも考えられており、中世では城の近くに荒覇吐神を祀った場合が多くありました。 4.外来の神を祀る客人神。荒脛巾(あらはばき)神社には男根が奉納されており、子孫繁栄を主とした村の守り神としての一面を見ることが出来ます。ちなみに私の調べた範囲では、福島県に、荒覇吐の神を祀る、次の三つの神社がありました。 会津若松市北町・・・・・荒鎺神社(あらはばき) 会津若松市湊町赤井・・・荒脛巾神社 田村郡三春町・・・・・・田村大元神社 さてここに出てくる三春町の田村大元神社は、三春舞鶴城三の丸の下にあることから、前出3のカテゴリーに属するものと思われます。青山正の『仙道田村荘史』に、『永正之子年、義顕公三春舞鶴城江御入城・・・』とあることから、この年あたりに、守山(いまの郡山市田村町守山)の田村大元神社から三春へ勧請したものと考えられています。しかし守山の田村大元神社は、その場にそのまま祀られています。ところがこれらの二社は、正式には大元帥明王と言われていました。三春の田村大元神社の禰宜によれば、祭神は国之常立神(くにのとこたちのかみ)であり、国之常立神は、伊勢神道において天之御中主神、豊受大神とともに根源神とられています。そして、その影響を受けている吉田神道では、国之常立神を天之御中主神と同一神とし、大元尊神(だいげんそんしん)に位置附けられるという。大元尊神は「大元」の御名のとおり、万神に先駆けて存在する「神のはじめの神」であり、宇宙世界、大自然の形成、摂理、天地万物を造化育成される最も尊い根源神であるというのです。なるほど、これで大元神社命名の趣旨は理解できたのですが、なおかつこの神社には、荒覇吐神が祀られているというのです。さらに私が驚いたのは、三春の田村大元神社には、田村麻呂が祀られていないということでした。三春生まれの私は、田村大元帥明王という名から、てっきり征夷大将軍・坂上田村麻呂が主祭神とばかり思っていたのです。この私の勘違いの理由は、 1 田村大元神社は田村大元帥明王と呼ばれていたこと 2 田村大元帥明王は、征夷大将軍・坂上田村麻呂を想起させていたこと。 3 坂上田村麻呂の末裔を称する田村氏が、守山から三春に移る際に田村大元神社を三春に遷宮したこと。 4 遷宮した三春での祭地の名を、守山と同じ山中(さんちゅう)とし、田村氏の氏神としたこと。 以上のことなどから、私は、大元帥は田村麻呂の別名であると思い込んでいたことにあったのです。 そこで私は、守山の田村大元神社に行ってみました。私はここも、田村麻呂が主祭神であると思っていたのです。神社の氏子が数人が、注連縄を作ったりして正月の準備をしていました。遠藤昌弘宮司が自宅にいるというので、住所を聞いて車を走らせました。生憎留守であったがすぐに帰るという。縁側でしばらく待たせて貰いましたがそう待つこともなく、運よく宮司が戻って来ました。そこで聞かされた話に、また驚かされたのです。ここには、確かに田村麻呂が祀られていたのですが、なんと主祭神ではなく、摂社となって祀られていると言うのです。守山の田村大元神社の御祭神は、天照大神・日本武尊・天之御中主神・および国之常立命であるというのです。しかも、「この神社の本殿とは別に坂上神社というのがあり、禅宗仏殿形式で桃山時代に作られたと言われる厨子が納められていますが、そこには後で、はめ込んだ形跡があるのです。ただしこの厨子が、他所から運ばれてきたものかまたは別棟にあったものを移したのかは、はっきりしません。このことは、以前に日本大学の先生方が調査した時の結論でした。この坂上神社は養蚕神社とも言われ、蚕飼様とも呼ばれています。そしてこの厨子には、田村麻呂の木像が祀られています。」という話でした。 厨子は、仏像・仏舎利・教典・位牌などを中に安置する仏具の一種です。その厨子に、田村麻呂の木像が安置されているというのです。これではどう見ても、田村麻呂は仏様になってしまいます。しかし田村麻呂は、ここに限らず、各地で神として祀られているのです。これは一体、どういうことなのでしょうか。田村大元神社、旧称・田村大元帥明王社の主神は、その名から言っても『坂上田村麻呂』、つまり戦いの神だと思い込んでいたのに、それが平和な養蚕の神、つまりおカイコ様の神になっていたのです。それにしても、田村大元神社の境内に、しかも従の位置に坂上神社があるとはどういうことなのでしょうか。田村大元神社は、明治時代の廃仏毀釈以前は、鎮守山泰平寺という天台宗の寺でもあったのです。すると田村麻呂は、いつから、仏様から神様になったのでしょうか。勿論この厨子と田村麻呂の木像がここへ運び込まれたのは、神仏混淆時代ですから、仏として運び込まれたものが明治の神仏分離令により神とされたものとも思われます。しかしこの守山の大元神社には、三春の大元神社には祀られている荒覇吐神は、祀られていないというのです。何故そうなったかは、分かりませんでした。 『客神社と荒波々幾神を祀る神社』誌は、荒覇吐を祀る神社が次のように分布していると記しています。この分布の範囲は、濃淡の差はあっても、神武東征以前の蝦夷人、もしくは『アラハバキカムイ』の生存圏であったようにも思われます。 北海道 5 青森 5 岩 手 2 宮城 3 秋田 5 福島 3 茨城 3 栃木 1 埼玉 22 千 葉 2 東京 9 神奈川 1 山梨 1 新潟 2 静岡 2 滋賀 3 愛知 6 三重 3 大 阪 1 兵庫 1 和歌山 1 鳥取 1 島根 35 広島 7 山口 8 愛媛 23 高知 2 長 崎 2 <font size="4">ブログランキングです。 <a href="http://blog.with2.net/link.php?643399"><img src="http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/72/0000599372/67/img25855a93zik8zj.gif" alt=バナー" height="15" border="0" width="80"></a>←ここにクリックをお願いします。</font>
2020.11.01
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#16西行法師 西行法師は、橘為仲より約100年後の人物となります。幼名は佐藤義清(さとう・のりきよ)と言いました。保延元年(1135)、義清は幼くして父を亡くしたため早くに跡を継いで、左兵衛尉に任ぜられ、18歳で朝廷の警護兵となり、さらに鳥羽院に北面の武士として奉仕していました。北面の武士とは、院御所の北側の部屋に近衛兵として詰め、上皇の身辺を警衛、あるいは行幸に供奉した武士のことです。北面の武士は鳥羽院直属の親衛隊であり、名誉ある精鋭部隊で文武両道はもちろん、容姿端麗も採用条件に含まれていました。その上、ひんぱんに開催されていた『歌会』でも、西行の和歌は高く評価されていました。また西行は、公家・武家両社会の代表的スポーツである『蹴鞠』の名手で、疾走する馬上から弓矢で的を射る『流鏑馬』の達人でもあったのです。西行法師の逸話に、出家の際、『衣の裾に取り付いて泣く子を縁側から蹴落として家を出た』というものがあります。それらの逸話は、能や落語にもなっていますし、上田秋成の『雨月物語』などの物語にも使われています。 ところで西行は、保延六年(1140)十月、約束されたエリートコースをサッパリと捨て去り、23歳の若さで出家して西行法師と号しました。「桜」をこよなく愛した西行らしく、まずは3年ほど桜の名所・吉野山で暮らし、28歳のとき親戚筋の奥州藤原氏を訪ねて平泉へ行きました。その後は、高野山で庵を結び、30年ほどその地を拠点にして、旅に出たり戻ったりを繰り返していたようですが、その後には、奥羽地方に歌枕を訪ねて多くの歌を残しています。勅撰和歌集には『詞花集』に1首が初出し、『千載集』には18首、『新古今集』に94首をはじめとして『勅撰二十一代集』などに計265首が入撰しています。歌集としては、『山家集』、『山家心中集』、『聞書集』などがあり、その他にも逸話や伝説を集めた説話集に、『撰集抄』、『西行物語』があります。このように歌の数が多いのですが、こちらの様子を表している歌をいくつか挙げてみます。 『都いでて 逢坂越えし 折までは 心かすめし 白川の関』『白川の 関屋を月の 残る影は 人の心を 留むなりけり』『白河の 関は越ゆれそ 人見えぬ 人懐かしの 山はいづくぞ』『おもはずば 信夫の奥へ 来ましはや 越えがたりし 白川の関』『東路や 信夫の里に やすらひて 勿来の関を こえぞわづらふ』『みちのくの さはこの御湯に 仮寝して 明日は勿来の 関を超えてん』(さはこは、いまの飯坂の鯖湖湯です)『みちのくの 許奴美(こぬみ)の浜に 一夜して 明日や拝まむ 波立の寺』、(波立の寺は、いまの『いわき市』久之浜町の 波立薬師です)『心ある 人に見せばや みちのくの 矢祭山の 秋の紅葉を』などがあります。このように県内についても、幾つかの歌を詠んでいるのですが、残念ながら郡山で詠んだ歌はないようです。 西行法師の代表作と言われるものに、『願はくは 花の下(もと)にて 春死なむ そのきさらぎの 望月のころ』という歌があります。『きさらぎの望月』というのは、お釈迦様の命日の2月15日のことです。この歌を詠んだ西行は、自らが詠んだ歌のとおりの時期に、河内国南葛城、現在の大阪府河南町(かなんちょう)の弘川寺で亡くなりました。そしてこれから約500年後に活躍する俳人の松尾芭蕉は、この西行の作品や生き方に憧れて、旅に生きた俳人でした。他にも、後世の多くの歌人や俳人、そして茶人たちに、西行の作品や人生は大きな影響を与えています。 <font size="4">ブログランキングです。 <a href="http://blog.with2.net/link.php?643399"><img src="http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/72/0000599372/67/img25855a93zik8zj.gif" alt=バナー" height="15" border="0" width="80"></a>←ここにクリックをお願いします。</font>
2022.02.20
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樅の木は残った 『樅ノ木は残った』は、小説家山本周五郎による歴史小説で、江戸時代前期に仙台藩伊達家で起こったお家騒動、いわゆる『伊達騒動』を題材にしたものです。『伽蘿先代萩(めいぼくせんだいはぎ)』などで、従来は悪人とされてきた原田甲斐を主人公とし、江戸幕府による取り潰しから藩を守るために尽力した忠臣として描き、新しい解釈を加えたものです。この小説は、昭和四十五年に放映されたNHKの大河ドラマになっていますので、ご記憶にある方も多いと思われます。 ここに出てくる伊東七十郎重孝の先祖は、郡山最初の領主・伊東祐長からはじまったとされています。そして戦国時代になって、安積にあった伊東氏は、仙台・伊達氏の麾下に属していましたが、天正十六年(1588年)、郡山の夜討川合戦の際、倍する勢力の常陸の佐竹、会津の蘆名、それに白河、須賀川などの連合軍の攻撃に苦戦し、伊達政宗の命運も危うくなった時、伊東祐長より14代目の伊東肥前重信が政宗の身代わりとなって僅か20騎で突撃し、須賀川の家臣の矢田野義正に討ち取られて壮烈な戦死を遂げたという武功ある家柄でした。伊達家では、その討ち死にをした地に『伊東肥前之碑』を建ててその武徳を永久に顕彰することとしたのですが、その碑は現在、富久山町久保田の日吉神社に移されています。この神社は、この合戦の際の伊達軍の前哨基地であったとされる所です。 伊東七十郎重孝は、この伊東肥前重信に連なる伊東重村の次男として、仙台に生まれました。儒学を仙台藩の内藤閑斎、さらに京都に出てからは陽明学を熊沢蕃山、江戸にては兵学を小櫃(おびつ)与五右衛門と山鹿素行に学んでいます。その一方で七十郎は、日蓮宗の僧の元政上人に国学を学び、文学にも通じていました。また、武芸にも通じ、生活態度は身辺を飾らず、内に烈々たる気節を尊ぶ直情実践の士であったとされます。 さて本題の伊達騒動は、江戸時代の前期に仙台藩で起こったお家騒動です。黒田騒動、加賀騒動とともに、日本三大お家騒動と呼ばれる事件の一つでした。仙台藩3代藩主の伊達綱宗は遊興放蕩三昧であったために、大叔父にあたる一関藩主の伊達宗勝がこれを諌めたのですが聞き入れられず、やむを得ず親族と家臣との連名で、幕府に綱宗の隠居と嫡子の亀千代の家督相続を願い出たのです。そこで幕府は、21歳であった綱宗を強制的に隠居させ、それを継ぐ4代藩主に、わずか二歳の亀千代を伊達綱村として相続させたのです。 ところが幼い綱村が藩主になると、一関藩主の伊達宗勝と仙台藩家老の原田甲斐が実権を掌握し、権勢を振るっての専横の限りを尽くすようになったのです。伊東七十郎は伊達家の安泰を図ろうとして、権勢を振るう伊達宗勝を討つことを本家筋の伊東重門と謀ったのです。しかし仙台藩の家老であった伊東重門は、二歳の藩主・伊達綱村の後見役となっていた伊達宗勝と岩沼藩主の田村宗良に、叛逆をしないという誓書を書かせるのには成功したのですが、まもなく重門は病に倒れ、後事を分家の七十郎に託して死去したのです。ところが、この伊達家を乗っ取ろうとした伊達宗勝に対し、これを阻もうとした七十郎の計画が事前に漏れて、捕縛されてしまったのです。 七十郎は、入牢の日より33日の間絶食をして抗議したのですが、許されることはありませんでした。処刑の日が近づいたのを知った七十郎は、『人の心は、肉体があるから物欲に迷って邪道に陥る危険がある。本来人に備わっている道義の心は物欲に覆われ、微かになっている。それゆえ人の心と道の心の違いをわきまえ、煩悩にとらわれることなく道義の心を貫き、天から授かった中庸の道を守っていかねばならない』と書き残しています。この言葉の出典は中国の書経(しょきょう)であり、彼の教養の深さが十分に伝わるものとされます。こう書き残した四日後の寛文八年(1668年)四月二十八日、七十郎は死罪を申し渡され、『我が霊魂、三年の内に逆賊を滅すべし』と絶命の言葉を残して、米ヶ袋の刑場で処刑されたのです。 七十郎は処刑される際に、処刑役の万右衛門に「やい万右衛門、よく聞け。われ報国の忠を抱いて罪なくして死ぬが、人が斬られて首が前に落つれば、体も前に附すと聞くが、われは天を仰がん。仰がばわれに神の御魂が宿ると知れ。われは三年のうちに疫病神となって必ず伊達宗勝殿を亡すべし」と言ったというのですが、それを聞いての恐れのためか、万右衛門の太刀は七十郎の首を半分しか斬れなかったという。そこで七十郎は斬られた首を廻して狼狽する万右衛門を顧みて、「あわてるな、心を鎮めて斬られよ」と叱咤したと言われます。気を取り直した万右衛門は、2度目の太刀で七十郎の首を斬り落としたというのですが、同時に七十郎が言った通りに、体が天を仰いだといわれます。その後の七十郎の一族は、御預け・切腹・流罪・追放などとなっています。七十郎の遺骸は、いまの仙台市若林区新寺の阿弥陀寺に葬られました。後になって処刑役の万右衛門は、七十郎が清廉潔白な忠臣の士であったことを知り、阿弥陀寺の山門前に地蔵堂を建て、七十郎の霊を祀ったとも伝えられています。 のちになって七十郎の遺骸は、伊東家の菩提寺である、いまの仙台市若林区連坊の栽松院に墓が造られました。法名は鉄叟全機居士です。栽松院は、仙台藩初代藩主伊達政宗の祖母の久保姫、(のちの栽松院)の菩提供養のために、慶長八年(1603年)、政宗が建立した位牌寺で、ここには多くの伊達家臣の墓もあり、この地に残るシラカシの古木は、伊達政宗が毎日遥拝した樫の木と伝えられています。七十郎の死の三年後の寛文十一年(1671年)、原田甲斐の弁明が退けられ、伊達宗勝一派の施政が咎められることになりました。そこで不利な立場に立たされた原田甲斐は、仙台藩老中の酒井雅楽頭の屋敷の控えの間において、背後から突然、伊達宗勝の側であった伊達安芸に斬りつけました。不意をつかれた伊達安芸は、負傷しながらも刀を抜いて応戦したのですが、深手を負ってその場で絶命しました。 騒ぎを聞いて駆けつけた柴田の聞役・蜂屋可広(よしひろ)が原田甲斐を斬り、その後になって、伊達兵部は土佐に流されました。その結果、七十郎の名誉は回復されてその忠烈が称えられ、四代藩主の伊達綱村により伊東家は再興したのです。 いま七十郎の墓石の中央の戒名が刻まれている部分が少しくぼんでいますが。ここには当初は、『罪人』であることが刻まれていたのですが、名誉が回復された後に削り取られ、改めて戒名が刻まれたと伝えられています。 七十郎の墓に並んで、父・重村と兄・重頼の墓もあります。のちにこの裁断を下した板倉重昌は福島藩に転封され、いまの福島市杉妻町の板倉神社に祀られました。福島市では、重昌の訃報が届いた一月七日に門松を片ずける習わしが、今も続いています。なお明治三十年、仙台市太白区向山の愛宕神社境内の神門の前、愛宕山東登り口の改修工事中に伊東七十郎の遺骸が発見されました。遺骸は、伊達一族の菩提寺である裁松院に葬られていたのですが、明治四十年に発見された場所に、二百四十回忌の招魂碑が建立されました。しかし後にこの碑は愛宕神社に移されています。 この伊東七十郎の死により、世間は伊達宗勝の権力のあり方に注目し、また江戸においては、文武に優れ気骨ある武士と言われていた七十郎の処刑が、たちまち評判となりました。そして伊達宗勝一派の藩政専断による不正や悪政が明るみに出ることとなり、宗勝一派が処分されることで伊達家が安泰となり、七十郎の忠烈が称えられたのです。また、当時の人々が刑場の近くに七十郎の供養のため建立したいまの仙台市青葉区米ヶ袋の『縛り地蔵尊』は、『人間のあらゆる苦しみ悩みを取り除いてくれる』と信仰され、その願かけに縄で地蔵尊を縛る習わしがあり、現在も毎年七月二十三、二十四日に、縛り地蔵尊のお祭りが行われています。さらに昭和五年になって石巻市北村に七十郎神社が創建され、その霊が祀られています。 なお七十郎には2人の息子がいましたが、兄の重綱は父の七十郎の跡を継いで大阪の陣で活躍し、仙台藩成立後は、家老となっています。いずれ伊東七十郎は、郡山とは深い関係のあった人でした。 この伊達騒動を扱った最初の歌舞伎狂言は、正徳三年(1713年)の正月、江戸・市村座で上演された『泰平女今川』ですが、その後の重要な作品として、安永六年(1777年)に大阪で上演された歌舞伎『伽羅先代萩』と、翌安永七年、江戸・中村座で上演された歌舞伎、『伊達競阿国戯場(だてくらべおくにかぶき)』、さらに天明五年(1785年)、江戸・結城座で上演された人形浄瑠璃、『伽羅先代萩』の3作が挙げられています。現在、歌舞伎は伝統芸能の一つとして、昭和四十年に重要無形文化財に指定されています。なおこの時の仙台藩主の伊達綱村は、参勤交代などで郡山を通った時には、七十郎の三代前と思われ、しかも伊達政宗の身代わりとなって戦死した伊東肥前重信の碑に、必ず足を止めてぬかずいたと言われます。これには、七十郎の功績を讃える気持ちもあったのかもしれません。 ところで、山本周五郎の『樅ノ木は残った』に戻ってみます。 お家騒動の発端以後、ひたすらに耐え忍ぶことを貫き通した原田甲斐。私利私欲のためでもなく、名誉のためでもなく、ただただ伊達藩とそこに属する人々を守るために、彼は進んで悪名を被り、そうすることで黒幕の懐深くへ入り込む。甲斐にとって更に修羅場なのは、かつて甲斐と親しくしていた者たちが、非業の死を遂げていくことである。伊達兵部は、自分の邪魔をする者に対して、容赦することはなかった。部屋住みだが甲斐と親しかった伊東七十郎は、彼と絶交した後、兵部の暗殺を計画するが、家来の鷺坂靱負の裏切りにより捕らえられる。そして七十郎の一族は、共々罪死する。原田甲斐は道を違えて以降、この血気盛んな若い志士の七十郎とは、最後までわかり合うことができず、甲斐もまた、七十郎の死を止めることができなかった。 このNHKの大河ドラマ、『樅の木が残った』において伊東七十郎役を演じたのは、伊吹吾郎でした。いま、船岡城址公園の遊歩道を『樅の木が残った』の舞台となった『樅の木』を目指して行くと、左手に『伊東七十郎辞世の碑』があります。『いつの世でも、真実国家を支え護立てているのは、こういう堪忍や辛坊、人の眼につかず名も表れないところに働いている力なのだ』 著者の山本周五郎が一番伝えたかったのは、この一文にあったのかも知れません。
2023.08.14
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