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昔から世の中で恐ろしいものとされるものに、『地震、雷、火事、親父』という言葉があります。これは世の中の恐ろしいもの、敵わないものを順に並べた表現ですが、1種の比喩的な表現であると捉えておく方が良いのかもしれません。地震は古語では『なゐ(ない)』と言い、地震によって大地が揺れることを『なゐふる(ないふる)』と言ったそうです。『恐れのなかに恐るべかりけるは、ただ『なゐ』なりけり』、意味は、『恐ろしいものの中でも、特に恐れなければならないものは、地震である』と、鴨長明が『方丈記』で述べているように、前触れもなく、突如として襲ってくる地震は、昔から災害の筆頭に挙げられてきました。そして地震といえば、関東大地震や阪神・淡路大地震、東日本大地震など、近年にも地震によって大きな被害が出ています。地震は、世界のどの地域でも発生するわけではなく、プレートが衝突し、沈み込みを起こす地域に発生します。日本は、この海のプレートである太平洋プレートとフィリピン海プレートの二つのプレートが、二つの陸のプレートである北米プレートとユーラシアプレートの方へ、1年あたり数センチの速度で動いており、陸のプレー トの下に沈み込んでいます。このため、日本周辺では、複数のプレートによって複雑な力がかかっており、世界でも有数の地震多発地帯となっている上に、環太平洋地震帯に属しており、そのため有史以来の日本には、度々大地震が発生していました。地震は、地下の岩盤が周囲から押される、もしくは引っ張られることによって、ある面を境として岩盤が急激にずれる現象のことをいいます。この岩盤の急激なずれによる揺れ、つまり地震波が周囲に伝わり、それが地表に達することで地面が揺れるのです。そのような大地震の例のひとつに、嘉永六年/安政元年(1854年)十一月四日、駿河湾から遠州灘、紀伊半島南東沖一帯を震源とするM8・4という江戸直下型の巨大地震がありました。この時には、全壊と焼失した家屋は1万4千戸余りに上り、死者は7千人以上と推定されています。しかもこの地震の32時間後に、南海に大地震が連続して発生して大被害を与えたため、元号を嘉永から安政に改めているのです。朝廷にも、『安らかなれ』、との祈りがあったのかもしれません。 地震については、世界各地で、『世界を支えている動物』がおり、その動物が動くと大地震が起こるという信仰があったそうです。アジアでは、地底にすむ巨大な蛇が身動きをするのが地震であるという『世界蛇』、またそれが魚であるという『世界魚』といった信仰が共通して存在していたそうです。日本でも『世界蛇』がいると考えられていました。江戸時代初期までは、『竜の形をした蛇』が日本列島を取り巻いており、その頭と尾の位置する所が茨城県にある鹿島神宮であり、千葉県にある香取神宮だと言われるようになり、この二つの神宮が頭と尾のそれぞれを、『巨大な岩』で押さえて地震を鎮めているとされました。しかし江戸時代後期になると、民間信仰からこの竜蛇がナマズとなり、巨大なナマズが地中深くにいて、そのナマズが暴れると地震が起きるという考えが主流になったようです。では、ナマズ本来の姿はどうでしょうか。 ナマズの外観は、大きく扁平な頭と幅広い口、および長い口ヒゲによって特徴付けられます。体は黒っぽい色で鱗がなく、体の表面は、ぬるぬるとした粘液で覆われています。上あごと下あごにある長いヒゲには、『味蕾(みらい)』という味を感じる器官があります。味蕾は、他の生き物が発する微細な電気を感じ取ることができるそうです。地震は、発生する直前に地殻がずれ、地電流というものが発生することがわかっています。そこでナマズに電気の通った魚の切り身のエサと、電気の通ってない普通のものとを与えると、なんとナマズは電気の通ったエサに近づいていくというのです。そしてこのことが、ナマズが地震を予知するといわれる事に深く関わっているらしいのです。そして小さな背ビレが、ナマズの大きな特徴です。ナマズは、川の中流域から下流域に住む夜行性の魚です。昼の間は流れの緩やかな場所にいて、水の底の岩や水草の陰などに身を潜めていますが、夜になると発達した口ヒゲでエサを探します。エサになるのは主にドジョウやタナゴなどの小魚、甲殻類、カエルなどの小動物です。そして、5月から6月にかけての雨上がりの夜、普段は川や沼に棲むナマズが、続々と田んぼの用水路にやってきます。卵が小さいため、魚に食べられないように、わざわざ田んぼなどの浅い場所にやってきて産卵するという習性がついたようです。そして高い段差もなんのその、まるでコイの滝登りといった具合で土手を這い登って田んぼに入っていきます。ナマズは一回の産卵で、実に10万個以上の卵が産み落とすそうです。ナマズの平均寿命は15年ほどと言われていますが、なかには20年以上生きる個体もいるらしいのです。実はナマズは、世界に2千種類もいるそうです。また、海外に生息する世界最大のナマズ、『メコンオオナマズ』は、寿命がなんと60年と言われています。 日本では中世以降、ナマズ地震と関連付けられ、地震を予知する魚と言われてきました。特に、地震を起こすという大ナマズの話が広まったのは、安政元年の大地震によって、江戸を中心に甚大な被害が広がった時からです。この安政の大地震の前にもナマズが騒いでいたという記録も残されており、昔からナマズは地震と関係の深いものと考えられていたようです。江戸時代は人口が急激に増えた時期でしたので、地震が起こると被害も大きくなりました。そのため、地震に対する関心も高かったと考えられ、地震に関する記録が、各地に多数残されています。『安政見聞誌』などにも、地震に先行してナマズが暴れたことが記述されているそうです。大きな被害が広がったのにも関わらず実態が捉えられないでいる地震を、ナマズの所為にしていたのです。安政の大地震は、人々の生活に打撃を与え苦しめた一方で、地震が起きて間もない時期から、江戸の町の復興などによって経済的な潤いをもたらすことになりした。この地震があった後に刷られた多くの瓦版には、地震を意味するナマズが印刷され、その他にも、ナマズを題材にした絵は人気を博したそうです。売りに出されたナマズの絵は、『地震よけのお守り』として欲しがる人もいましたが、災害復興の景気を見て、『ナマズは世直しをしてくれるありがたい存在』という肯定的な側面を持つことにより、大流行したのです。江戸の人々は、地震とナマズとの拘わりあいをこのように考えており、地震を起こす原因はナマズにあると素朴に信じていたことが分かります。またナマズは、地域によっては神の使い、弁財天様の使いともされ、厄害を避けてくれる無病息災の縁起物とも言われました。『安定、癒し、安眠、責任感、くじけない心』が石言葉でした。 ナマズは、古代から食用魚として、漁の対象とされました。身は柔らかく、きれいな白身で、小骨などもなく、すんなりと食べられるそうです。地方によっては、ナマズを『川フグ』と呼び、生のまま刺身で食べることもあるといいます。江戸時代の料理書にあるナマズの料理は、蒲焼のほか、汁・蒲鉾・なべ焼・杉板焼などがあります。 室町時代の『宗吾大草紙』には、『蒲鉾はナマズ也。 蒲(がま)の穂に似せたる物なり』とあり、蒲鉾の原料の最初は、ナマズだったようです。姿が異様であったので、摺り身にしたとも思われています。 ナマズは神経質でデリケートな性格なので、暴れたり飛び跳ねることも多いそうです。地球の仕組みが解明されていなかった頃、地震などの災害は、動物や神様などの仕業と考えられてきたのですが、そのナマズと地震を関連づけた民間信仰が、茨城県鹿嶋市の鹿島神宮にあります。それは、地震は地下に住む大ナマズのせいであるから、ナマズを『要となる石・要石(かなめいし)』で押さえ付けておこうという信仰です。鹿島神宮は、延喜式の神名帳に記載されている式内社(しきないしゃ)、常陸国一宮、旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社となっており、宮中の四方拝で遥拝される神社です。鹿島神宮は、日本建国、そして武道の神様である『武甕槌大神(たけみかずちのおおかみ)』をご祭神とし、神武天皇元年創祀という由緒ある神社です。全国にある鹿島神社の総本社であり、千葉県香取市の香取神宮、茨城県神栖市息栖(いきす)の息栖神社とともに東国三社の一社で、古くから信仰を集めてきました。関東以北の人は、伊勢に参宮したのちに禊ぎの『下三宮巡り』と称してこの三社を参拝ます。この鹿島神宮奥宮の裏手には、武甕槌大神(たけみかずちのおおかみ)が巨大なナマズの頭を剣で抑えている石碑があります。これは、鹿島神宮にしたといい伝わる神話によるものですが、武甕槌大神と経津主神(ふつぬしのかみ)が、『要石』を大地に打ち立てることにより、大ナマズを鎮めたというものです。これは大ナマズ、つまり動くものと『要石』、つまり不動のものを統合することで、秩序をもたらしたことを意味するのだそうです。このことを現実の世界に置き換えてみれば、混沌とした世の中が統一された、という見方ができるそうです。また『地震太平記』には、各地の地震ナマズが鹿島大明神にわびを入れている様子が描かれ、その右では、民衆が要石に手を合わせて拝んでいます。文字の部分には、『年寄』『大工』『新造』『瀬戸物屋』『芸人』『医師』などそれぞれの立場の人々の願い事が面白おかしく書かれているそうです。この他にも、沢山の漫画チックなナマズ絵が発行され、ブームとなりました。なお、地中深くまで埋まる『要石』が、地震を起こすナマズの頭を抑えていると古くから伝えられていることに対して、水戸藩第二代藩主の徳川光圀は、要石がどこまで深く埋まっているか確かめようと7日7晩にわたって掘らせたものの、いつまで経っても辿り着くことができなかったばかりか、怪我人が続出したために掘ることを諦めたという話が、『黄門仁徳録』に記されているそうです。
2024.11.20
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平賀源内は、どこで三春駒を知ったか?③ 落札した三春駒が手元に届くと、私はよく観察してみました。植物でできたとされる『たてがみ』や尻尾はほとんど残っていませんでしたが、その香炉の胸部には、五島美術館の図録と同じく、『奥州・三春大明神・子育之馬』とあり、腹部には『安永三年・正月元旦・平賀鳩渓・謹摹(も)造』とありました。私はここの『謹摹造』に注目しました。『謹』は恐れ敬っての意味であり、摹という字はなかなか見つかりませんでしたが、『摹造』は手本どおりに造る、の意味だったのです。とするとこの香炉は、源内(鳩渓)の指導によって造られたということになります。ですから、私の手元にあるものを含めて複数あることについて不思議はないのですが、よく見ると図録にあった香炉の写真と私の手持ちの香炉とに若干の形に違いがありました。これは、源内の皿などは主に型取りで製作されているようですが、三春駒の香炉に限って言えば、板状にした粘土を成形して形を作る『板作り』によって作られたと思われることから、一体ずつ形に差が出たと考えられます。私はそれを持って、『さくらカフェ』に行ってみました。「ああ、これが本物なのね」 オーナーの浜崎明美さんが、繁々とそれを見ていました。私がこれを持って、「これから資料館に行ってみる」と言うと、いかにも残念そうに、「店が休みだったら一緒に行ってみたい」と言っていたのです。 資料館では、所蔵していた『三春駒の香炉』を出して、私を待っていてくれました。そこで早速、資料館のそれと比較してみたのです。資料館の『三春駒の香炉』は、たてがみや尻尾も残っていて、私のものより少し大きく、特に首の長さに差異がみられました。残念ながら私が手に入れた香炉や資料館にある香炉は、弟子の誰が作ったかまでは確認することができませんでした。それにいまは見つかってはいませんが、もし源内が作った見本的な『三春駒の香炉』が見つかれば、これら『三春駒の香炉』の原型となる筈です。弟子たちが文字列まで正確に『摹造』しているのですから、原型には『奥州・三春大明神・子育之馬』とあったと思われます。いずれにしても、『源内焼』として多くの陶器を残した源内が、その出所を明らかにするこのような文字を刻んだ陶器は、これ1点のようなのです。源内は、なぜこのような文字を刻んだのでしょうか。それを考えると、源内が『三春駒の香炉』を作った前提として、どこかで三春駒を見たと推測できます。しかも本物の三春駒には、『子育之馬』とは書いてありません。『子育之馬』とは、当時の商標として普及していたのでしょうか。もしそうであったとしても、『三春大明神』となれば、そのような神社があることを知らなければ書けない筈です。 さてここからは私の想像です。奥州秋田の角館へ行った源内は、先祖から伝えられていた話を思い出したのではないでしょうか。例えば、源内の遠祖となる平賀三郎国綱が伊達政宗に仕えており、その政宗の正室が三春出身の愛姫であり、愛姫の家系は田村麻呂の末裔であるとのこと、そしてそれに付随する田村麻呂と三春駒の伝説。その伝説とは、京都東山の音羽山清水寺に庵をむすんでいた僧の延鎮が、田村麻呂の出兵にあたって、仏像を刻んだ残りの木切れで100体の小さな木馬を作って贈ったというのです。延暦十四年(795年)、田村麻呂はこの木馬をお守りとして、奥羽の『まつろわぬ民』を討つため京を出発しました。そしてその途中となる、田村の郷の大滝根山の洞窟に、大多鬼丸という悪人どもの巣窟のあるのを知り、これを攻めたとされるのです。ところが意外に強敵であった大多鬼丸を相手にして、田村麻呂率いる兵士が苦戦を強いられていたのです。そのようなとき、どこからか馬が100頭、田村麻呂の陣営に走り込んできたのです。 兵士たちはその馬に乗って大滝根山に攻め登り、大多鬼丸を滅ぼしました。 ところが戦いが終わってみると、いつのまにか、あの馬100頭の行方はわからなくなっていたのです。翌日、高柴村で、村人の杵阿弥(きねあみ)という者が、汗びっしょりの木彫りの小さな駒を一体見つけて家に持ち帰り、それと同じに99体を作って100体としたのですが、高柴村が三春藩の領内であったので『三春駒』と名付け、100体の三春駒を子孫に残したというのです。後に、杵阿弥の子孫が、この木馬を里の子供たちに与えたところ、これで遊ぶ子供は健やかに育ったので、誰ともなしのにこの三春駒を『子育木馬』と呼ぶようになったというのです。 そして同じような話を、源内が仕えていた博物好きの高松藩主・松平頼恭(よりたか)から聞いていたと思われます。頼恭(よりたか)は正徳元年(1711年)五月二十日に、陸奥国守山藩主・松平頼貞の5男として誕生しました。その守山藩領には、田村麻呂の生誕に関わる伝説もあったのです。高松藩の第4代藩主・松平頼桓(よりたけ)の養子となった元文四年(1739年)に、頼桓(よりたけ)が死去したため、頼恭(よりたか)は29歳での高松藩の家督を継ぎ、第5代の高松藩主となっていたのです。源内は、自身の先祖から伝えられてきた話と、高松藩主の頼恭(よりたか)から聞く話とを融合できたことなどから、自分の仕える松平頼恭(よりたか)の出里である守山を経て江戸に戻ろうとしたのではないでしょうか。そして守山の北にある三春に入って町を見聞したときに聞いていた三春駒というものに遭遇、その謂われを聞いて土産に購入し、その姿を『奥州・三春大明神・子育之馬』という来歴とともに焼いたのではないかと考えています。このように来歴を記した作品は、数多くある源内焼のなかでも、これ一個と思われるのです。ともかく異常なほど多くの事物に関心を持っていた源内ですから、考えられないことでもないと思っています。 そもそも地元にある三春駒には、『奥州・三春大明神・子育之馬』などとは書かれていません。それなのに、源内が『三春駒の香炉』の胸に『三春大明神』と刻み、さらに『子育之馬』と刻んでいるのです。これは三春に『大明神』があり、町では三春駒を『子育之馬』と言っているのを知ったからではないかと私は思っています。なぜなら源内と言いども、これらのことを、江戸や四国に居ては知ることができなかったと思われるからです。つまりこの文字こそが、源内が三春に来て、町の佇まいや三春駒を見て知って書いたということを示唆する証拠ではないかと思えるのです。ちなみに、元禄二年(1689年)に、3代三春藩主の秋田輝季が、三春の貝山字岩田より神明宮として現在の神垣山に遷し、以来、三春ではシンメイサマと呼ばれるようになりました。これは神明宮の通称ですが、尊んで言う称号が『大明神』なのです。源内はこの称号である『三春大明神』と刻んだものと推測できるのですが、この文字こそが、源内が三春に来たということを示唆するものと思っています。なお現在の三春大神宮は、明治に入ってからの改称です。ともあれ、『三春駒の香炉』が作られたのは、今からほぼ180年前になります。そんな古い時代に、平賀源内はどこで三春駒を知ったのでしょうか? 私はこれらのことから、平賀源内は三春へ来たと想像していますが、皆さんはどう思われますか。 ところで、平賀源内の時代から約100年後の天保九年(1838年)に書かれた臼杵藩(大分県)の江戸藩邸日記に、『秋田様御国ニて出来候由三春木馬、此度左衛門尉様御手ニ入候由、右ハ左衛門尉様より御奥様ヘ差シ上ゲ候』とあります。ここに出てくる左衛門尉は、中津藩(大分県)の前藩主の奥平昌高のことで、臼杵藩主の稲葉幾通の正室の父親になります。この記録から、父親が娘に三春木馬、つまり三春駒を贈ったことから、その頃には三春駒が江戸で販売されるなどしていたであろうことがうかがえ、同時にそれが贈答品として意識されていたことが知られます。この頃には、三春駒は全国的に知られるようになっていたのかもしれません。
2024.11.10
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平賀源内の各地の美術展② 『源内の指導』とはどのようなことを言うのかは不明ですが、源内が指導して三彩の交趾(こうち)風の陶器を開発したことが明らかにされはじめているそうです。交趾とは安南・サイゴン地方で、いまのベトナムのことですが、一般に交趾焼と称しているものは、中国南部の広東などで焼かれたもので、土は柔らかく暗色を帯び、緑・黄・紫色のいわゆる『三彩の交趾釉』がほどこされています。源内焼の特徴的意匠のひとつは地図皿です。日本で初めて地図を意匠に取り入れた焼き物で、ユーラシア・アフリカ大陸、南北アメリカ大陸、日本列島のものなどもあります。日本地図の皿はとても精緻で、幅広い階層の知識欲を満たしてくれるものでした。ただ箱書きなどから、これらが天明2年(1782年)以前から存在していたことが推定されています。ちなみに現在、香川県さぬき市志度の平賀源内記念館には、テレビの『なんでも鑑定団』の中島誠之助さんが、「1,000万円の価値がある!」と判定されたのが、南北アメリカ大陸を描いた『二彩万国地図皿』です。この絵皿には南北アメリカ大陸がドンと描かれていますが、大陸の上には「亜墨利加」などの様々な漢字が半島の先まで細かい漢字で、また太平洋の波も細かく浮き出ています。「お皿を見て楽しんでもらう」ために源内は源内焼を考案したと言われています。その他の器種としては、硯のそばに立てて塵やほこりなどを防ぐ小さな衝立(ついたて)である硯屏(けんびょう)鉢・蓋付き碗・銚子・盃・水滴・香炉・鈴などが見られます皿や鉢などに比べて目立って少ないのが香炉であり、この少ない香炉の中のひとつが、『三春駒の香炉』だったのです。 当時、源内が天草代官に提出した陳情書、『陶器工夫書』によれば、オランダにはじまる東インド会社のアジア進出で開かれた航路によって、中国製の珍しい陶磁器がヨーロッパに向けて盛んに運ばれていたのですが、その中国の清が、1757年、制限貿易を開始したのです。当時、清には大量の銀が存在していました。乾隆帝は制限貿易によって銀の国外流出を防ごうとし、貿易港を広州一港に限定し、さらに公行と呼ばれる特権商人を設置し、貿易を特権商人たちに独占させました。銀の国外流出を防ぐとともに 貿易による利益を清朝が独占したのです。そのため中国での陶磁器の生産が減り、代わりに日本へ中国写しの陶器の注文がもたらされたのです。それを知った源内は、陶土を産出する天草の土に着目し、「日本での製陶の技術向上をはかり、陶工を増やして器の形、模様の指図をする人さえ得られれば、日本刀や蒔絵のように万国に勝る立派な陶器が出来る。それによって輸出が増え、外国産の陶器に日本人が大金を使う必要もなく、永代に亘って我が国の国益に貢献する。」と話していたそうです。 源内の陶器は技術的に優れていたこともあって、その見事な陶器で、幕府老中の田沼意次をはじめ、諸国の大名たちや豪商を魅了したと伝えられています。このようなこともあって、源内焼の作品には、寒山寺図や山水図、蓬莱山図・遊船図など中国を意識したものが多いのですが、日本の『三彩・天ノ橋立図』などの長皿や鉢なども残されています。このような源内の弟子のひとりに、自身の甥である堺屋源吾がいました。特に源吾の手に成る陶器が多く残されており、それらには『志度舜民』『舜民』『民』などの銘の物があります。また判明しているもうひとりの弟子は、やはり志度浦生まれの赤松光信で、源内に交趾焼を学んで大阪や長崎などでその製品を販売し、好評を得ています。彼はのちに志度浦に戻り、志度焼を起こしています。 安永2年(1773年)、源内が45歳の春、いまの埼玉県秩父市の中津川村の付近で金の採掘に挑戦し、その後、その山での、鉄山の開発願が幕府代官の前沢藤十郎あてに差し出しています。中津川の集落には、源内自身が設計したという非公開ですが、『源内居』という建物が残されています。ところでその年の7月、源内は、鉱山採掘の技術指導のために秋田の角館を訪れていますが、そのとき、小田野直武と会っています。一説には、宿の屏風絵に感心した源内が、作者である直武を呼んで会い、西洋画の陰影法や遠近法を教えたというのです。その後源内は、小田野直武を江戸に呼び寄せました。そしてその縁によって、小田野直武は、杉田玄白や前野良沢の解体新書の挿絵を任されています。直武は源内に西洋画を学んだのちに、秋田蘭画と呼ばれる一派を形成しています。蘭画とはオランダの絵のことです。また源内の薬品展示会で親しくなった蘭学者・杉田玄白は、彼の著書の『蘭学事始』の中で、源内を『天性の才人』と讃えています。この『解体新書』の出版は、日本国内に蘭学が広まる大きなきっかけとなったのです。 前述の五島美術館で開かれた『源内焼〜平賀源内のまなざし展』での図録『源内焼』によると、『この三春駒の香炉は個人蔵』とあり、これと『同じものでやや小型のものが他に1点ある』とありました。掲載されていた三春駒の写真の胸には『奥州・三春大明神・子育之馬』とあり、腹部には『安永3年(1846年)正月元旦・平賀鳩溪・謹摹造』とありました。さらに調べていたら、令和元年、兵庫県宝塚市の鉄斎美術館で『富岡鉄斎と平賀源内展』が開かれており、そのパンフレットには、こうあったのです。『富岡鉄斎(とみおか てっさい、1837年1月25日(天保7年12月19日)〜1924年(大正13年)12月31日)は、明治・大正期の文人画家、儒学者で日本最後の文人と謳われる。鉄斎美術館は、近代文人画の巨匠・富岡鉄斎と交友を結んだ清荒神(きよしこうじん)清澄寺(せいちょうじ)の第37世法主・坂本光浄の『宗美一体』の理念とその遺志を継承して、約1世紀にわたって蒐集されてきた鉄斎作品を広く公開展示しています。鉄斎が愛蔵していた品に、色あざやかな三彩を施した源内焼の『子育馬香炉』があります。源内焼は江戸時代中期、発明家・平賀源内(鳩渓)の指導によって讃岐国志度(香川県さぬき市)で製作されました。胸部に「三春大明神」と彫られていることから、福島県三春地方に伝わる三春駒を象ったものであることがわかります。はじめ平賀源内が製作し、のちに工芸品として普及したようです。使用した形跡があるので、富岡家でも使われていたのでしょうか。鉄斎による箱書きも遺っています。』 鉄斎をも魅了した『三春駒の香炉』。私は時を経ずして、これがヤフオクに出品されているのを知りました。しかしそう安い物ではありません。買うかどうか迷いました。そこで私は、三春歴史民俗資料館に、もし源内焼の『三春駒の香炉』の所蔵がなかったら、買って寄付をしたいとメールをしたのです。ところが資料館から、『実はすでにそれを所蔵している』との返事があったのです。寄付をしようとした気持はしぼみましたが、逆にどうしても欲しくなりました。そこで、意を決っしてヤフオクで落札をしたのです。
2024.11.01
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平賀源内の三春駒の香炉① ある日、私が歴史好きなのを知っている友人が、三春の『さくらカフェ』に平賀源内の作った三春駒の香炉を模したものがあると知らせてきました。カフェのオーナーの浜崎明美さんが、「日下部先生が、平賀源内の三春駒の香炉のあることを知って作ったものの一つだ」と言っていたと、その友人は話してくれました。平賀源内と言われた私の頭には、日本で初めて、手を繋いで輪になった人々に通電して、感電を体験する百人おどしの実演を行ったというエレキテル、そして土用の丑の日には鰻を食べることを普及した、江戸時代中期に活躍した人であると直ぐに浮かびました。ところが調べてみると、それだけではありませんでした。薬物学者、蘭学者、発明家、美術家、文芸家であり、さらには地方特産品を集めた展示会の開催、世評の風刺から浄瑠璃の戯作、滑稽本の著作に化学薬品の調合、さらには西洋油絵の制作、石綿による防火布や源内織りなどの織工芸品の製作、それと地質調査、鉱山開発、水運事業等々ありとあらゆる分野に先鞭をつけ、それらを企画開発した多技・多芸・多才な顔を持ち、後年、日本のレオナルド・ダ・ビンチと呼ばれたというのです。その源内が『源内焼』という陶器を作り、しかも『三春駒の香炉』を作ったというのですから驚かされました。 さっそく私は、『さくらカフェ』に行ってみました。すると浜崎さんは、「日下部さんは、三春の資料館に源内焼の三春駒があることを知って、何度か見に行って、それを模刻したようです。資料館の三春駒のしまってある箱には源内作とあったことから、日下部さんは源内の真作と思っていたようでした。ウチにあるのは日下部さんがよくできたから飾ってくれと言って持ってきてくれたものです。」と話してくれたのです。『さくらカフェ』には、小さな源内焼の『三春駒の香炉』の模刻品が飾られていました。つい昨年(令和5年)に亡くなられた日下部正和氏。いったい何が、日下部氏をこれの製陶に駆り立てたのでしょうか? もし、それを知ることができれば、源内が『三春駒の香炉』を作ろうと思った動機を知ることができるのではないか、私はそう思ったのです。 日下部正和氏は三春の出身で陶芸歴50年、その作品には数十万円の値がつくこともあるという抹茶の茶椀の他、自由な作品の名手として知られ、三春町込木(くぐりき)に游彷陶房(ゆうほうとうぼう)工房を構えて、彼が作った無煙薪窯を使っての作品の制作や、ワークショップの主催などしていました。しかしワークショップのほとんどを海外で開催していたため、海外のファンも多く、中国、台湾、シンガポール、オーストラリア、トルコのキプロス島、さらにはサンフランシスコから訪れて来ていた方々もいたそうです。その日下部氏に、平賀源内が作ったという『三春駒の香炉』の模刻品を作らせた理由が知りたいと思ったのですが、すでに亡くなられた方に聞くわけにもいきません。私は、東京に住むという日下部氏の息子さんのフェイスブックに、コメントを入れてみました。直ぐに返事は来ましたが、『父の資料については全く知りません。もともと片付けが苦手の人間でしたから、資料を、ただの紙コップも紙ごみも一緒にしていた可能性が高く、もしあったとしても、私が紙ごみとして一緒に捨ててしまっている可能性が非常に高いです。お役に立てず申し訳ありませんでした。』というものでした。残念ながら私は、源内の作った『三春駒の香炉』を、日下部氏がどのような思いで作ろうと思ったのか、その心の内を知ることができなかったのです。 三春駒は、青森県の八幡馬(やわたうま)、宮城県の木下駒と並んで日本三大駒のひとつと言われ、郷土色の強い玩具です。昭和29年に日本で最初に発行された年賀切手は、この三春駒の絵でした。ところが、この『三春駒の香炉』の作者の平賀源内は、享保13年(1728年)に、四国の高松にあった松平藩の志度浦、いまの香川県さぬき市志度に生まれた人です。このような人が、どこで三春駒を知り、香炉という形ではあっても、何故これを作ったのか? 私はどうしても知りたいと思ったのです。色々と調べていると、平成15年に、東京世田谷の五島美術館で『源内焼〜平賀源内のまなざし展』が開かれたのを知り、ネットでその図録を手に入れました。するとそこには、平賀源内が作ったという『三春駒の香炉』の写真も掲載されていたのです。しかしその躯体に施された模様に、私は首をひねりました。その胴にある模様は鳥の足跡のような形のもので、いま私たちが見ている三春駒の模様とは大きく違うのです。そこで私は、デコ屋敷に張子人形作家の橋本広司さんを訪ねてみました。なおデコ屋敷とは、今も4軒の作家の家々が、木製の三春駒、三春張子と呼ばれる人形や張子の面などを作り続けており、数百年の伝統を守って今日まで伝えている集落で、その各屋敷が所有する人形の木型は、福島県の重要文化財に指定されています。広司さんはそのような広司民芸を経営するかたわら、古くからの木型などを集めた資料館も持っていたのです。「いやー、そういうものがあるとは、薄々話には聞いていたが、本当にあったんだない。」彼はそう言ってしばらく図録を見た後、自分の資料館に案内してくれました。そこには古文書や木型などの他、古い三春駒もありましたが、源内の描いた模様と同じ模様の三春駒はありませんでした。彼の話によると、「昔は、三春駒を作っているウチがもっとあって、各工房がそれぞれに絵付けをしていたがら、その頃の仲間の家で作っていた模様かもしれない。しかしこういう物があるのだから、昔はこのような図柄が一般的であったのかもしんに〜な」とのことでした。この模様の出所は、見つけることができなかったのです。ただ彼は、「江戸時代に、浅草などで売ったこともあったという話を、先祖がしていた」との話を聞かせてくれたのです。金龍山浅草寺を中心とする浅草周辺は、かつて江戸随一の賑わいを見せる遊興地だったと言うから、すでに商売に向いた地であったのかもしれません。 『源内焼』は、先覚的なデザイン、鑑賞を重視した高い芸術性と斬新な三彩釉の使用といったところにその特色があり、元文3年(1738年)に、讃岐国志度浦で開窯したとされる志度焼を基礎に、宝暦5年(1755年)になって、『源内の指導』によって発展したとされる陶器が、源内焼と呼ばれるようになったとされます。しかし近隣の諸窯のうち、類似する意匠や焼成技法のある屋島焼などとの混同も認められることから、さらに調査研究の必要な状況にあるというのです。源内焼の特徴は、技術的には桃山時代以降の日本の陶器に影響を与え続けた中国の華南三彩と同系列の軟質の施釉陶器(せゆうとうき)であって、緑、褐色、黄などの鮮やかな彩色を特徴としています。 精緻な文様はすべて型を使って表され、世界地図、日本地図などの斬新な意匠の皿などが試みられていますが、しかし、皿や鉢など限られた器に偏る、という指摘もあります。それは陶土の可塑性や型成形の技術的な制約も影響していると考えられています。ともあれ、展覧会の図録にある写真だけでも、数え切れないほどあるのです。種々の仕事をしながら、これほど質の高い陶器を作っていたのですから、ただ驚かされるばかりです。
2024.10.20
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石田三成の首 天正十三年(1585年)以来、豊臣秀吉に従うことを迫られていた伊達政宗が、再三の勧誘に応じないばかりか会津を攻略していたのです。戦いが終わってから小田原に着いた政宗は、いまの小田原市早川にあった石垣山城において、死を覚悟の上で白の死装束を身にまとい、豊臣秀吉との会見に臨みました。政宗が秀吉の惣無事令に反して、会津や須賀川を戦い取ったことは、『関東惣無事』を宣言していた秀吉の意に反することであったからです。それでも千利休のとりなしで死を免れることはできたのですが、そのとき政宗は、小田原より三春の田村の臣である橋本刑部に、次の文書の飛脚を立てたようです。 『関白様が田村八万七千六百八十二石八斗七升と申されたは、小野六郷は田村領に含まるるの意である』 この文意は、小野六郷も田村の領であることを、秀吉が確認したということでしょう。ともあれこの政宗の小田原参陣が遅かったこともあって、田村を含む会津、須賀川、安積が政宗から没収されてしまったのです。しかしこの間に、当時の三春の領主・田村宗顕は、秀吉の小田原参陣に応じようとしたのですが、政宗に拒否されて行けずにいたのです。 ところで。平成十年一月に、三春町歴史民俗資料館の学芸員の藤井康さんが『三春の歴史こぼれ話3』に次の記事を載せていました。 先日、たまたま『茨城県史料』に収録されている「秋田藩家蔵文書」という史料を見ていたところ、その中に次の書状が含まれていることに気づきました。 我等事、今日ミはるまて参候、明日ハミさかへ可参候、明後日十日ニハ かならす其地へ可参候(中略) 治少 佐藤大すミ殿 最後の『治少』とは石田治部少輔三成のことで、意味は今日三春までやって来ており、明日は三坂(今のいわき市)まで行き、あさってには『佐藤大すみ』のところまで行く、というものです。この書状の出された年月は、おそらく天正十八年(1590年)のことと思われます。そして、三成が三春にやって来たのは、この年の豊臣秀吉による奥羽仕置きに際して、岩城氏の処置をするために経由しただけと思われ、三春で具体的になにをしたかは分かりません。今後さらに調査を進めていきますが、新たな発見があればみなさんにお知らせしたいと思います。なお、この史料については、『三春城と城下町』(平成十年度特別展図録)に収録してありますが、この図録につきましては、品切れとなっております。館内のみであれば閲覧可能です。カウンターでお申し出ください。 そこで彼に問い合わせると、『一関田村家本』の『田村系譜』には、三春藩の橋本刑部顕徳が大阪に上り、石田三成に田村改易取り消しのことを訴えたが、その甲斐がなかったと記述されているそうです。なにかこのことと、関係があったのでしょうか。そこで私は、この前後の石田三成の動きをチェックしてみました。天正十七年、 美濃(岐阜県)を検地していました。天正十八年三月、豊臣秀吉の小田原攻めに従っています。 五月、常陸の佐竹義宣が秀吉に謁見するのを斡旋。 閏五月、佐竹義宣、および越前敦賀城主大谷吉継らと館林城を攻撃。 六月、越前敦賀城主の大谷吉継・近江国水口岡山城主の長束正家らと 忍城(埼玉県行田市)を攻撃。 七月、豊臣秀次、大谷吉継らとともに奥州仕置を命じられ南部領に赴 く。 十月、奥州で一揆が起き、浅野長政とともに一揆鎮定の軍監を命じら れ、再度奥州へ赴く。天正十九年四月、南部九戸の乱鎮定に軍監として赴く。年号が変わった文禄元年二月、 朝鮮出兵の準備のため、肥前の名護屋へ行く。 六月、越前敦賀城主の大谷吉継らとともに朝鮮出兵軍の奉行を命じら れ渡海。 これらから石田三成の動きをみると、天正十八年の七月か十月、もしくは天正十九年四月に三春に回ったのではないかと想像できるのですが、なぜ三成が三春を回って『佐藤大すミ』の所へ行こうとしたのか、そして彼がどういう人なのかは、これらの資料からは分かりませんでした。 ところで『街こおりやま』誌の平成二十六年七月号に、郡山市文化・学び振興公社文化財調査研究センターの押山雄三氏が、『三成の首塚』という一文を載せておりました。『関ヶ原の戦いの敗戦の将の西軍の石田三成は、二週間後の十月一日、京の三条河原で斬首されたと伝えられているが、その首が郡山まで運ばれていたとの異聞が『前田慶次道中日記』あるので紹介したい。これを書き残したのは、加賀藩主・前田利家の義理の甥の前田慶次である。 慶次は、初冬の十一月十五日に郡山を訪ねている。浅香の沼や浅香山の旧跡に親しんだ後、彼は「格好が尋常でない大きな塚」を見て驚いている。不審に思った慶次に対し村人は、『石田治部少三成』とかいう人の首が、今年の秋の初めより都から送られてきた。それを他所へ転送しない所では、物憑きになる人が多く、悩みの種だというので、国々では武装した二、三千人ほどの人数を繰り出して、地蔵送りのようにして次々と送り、そして最後に送りつけられた所で塚を築いた。今年の天候不順は、三成のたたりです」と説明している。『兎にもかくにも笑いの種、ただの人ではない』との一文を残して、慶次は郡山を旅立ってしまった。 さて慶次を驚かせた「三成の首塚はどこにあり、その正体は?」、日記から、その場所は、日和田町高倉にあったようだ。『大きな塚』は、古墳だったのかも知れない。疑問を解くため、宇野先輩をリーダーとする同好の13名と一緒に高倉を訪ねてみた。最初に地元で蝦夷穴と呼ぶ高倉古墳群を見学したが、街道筋から離れすぎていた。次に源六林塚群を訪ねた。旧国道『にごり池バス停』そばの高台にあるため、この脇を慶次が旅し、見上げた可能性がある。そしてこの中に、もしかして・・・』 これが押山雄三氏の記述です。押山氏は「もしかして・・・」と感慨を述べていますが、私もまた「う〜ん」です。これらのことについて、「何か新たに分かることがあればいいな」と思っています。
2024.10.10
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守山藩の目明かし・⑤ 金十郎の金掘り職人探し 金沢村、今の田村町守山金沢にある禿山が、銀山ではないかとの検分のために、江戸の山師の三人が守山に到着しました。彼らは銀という性質上、秘密裏に試掘するのが目的でした。彼らは陣屋に対して、「山色がすこぶる良く、掻き流しも二ヶ所付けられそうなので、試掘して検査したい。それについては半田銀山、いまの桑折町の半田銀山から二・三人の金掘り職人を雇いたいが、信用のある目明かしを派遣してもらいたい。」と申し出たのです。そこで選ばれた金十郎は、郡山で一人の金掘り職人を探し出したのですが、半田の仲間にも、金掘り職人を見つけるよう頼みました。間もなく半田銀山から、金掘り職人が二・三日以内に守山に着くと連絡があったので、それを陣屋に報告しました。いよいよ堀り始めた頃、銀山が守山藩直営となったので惣奉行が任命され、その下で金十郎と新兵衛が現場の見回りをするように命じられたのです。銀山惣奉行は、掘り出した銀山の荷を出荷して間もなく、江戸へ出立しました。その後、灰吹銀の結果が陣屋に知らされてきたのですが、思わしいものではなかったといわれます。 越後女の縁談 法度とされながらも、金十郎が無宿者の世話をしたり、縁談の仲介をしたりすることは、たびたびありました。二本松から越後高田、いまの新潟県上越市に移り住んだ金具師の喜右衛門は、新発田藩家中の大刀と小刀を六腰盗み、守山へ逃げて来たのですが、その後二本松へ戻って行ったようでした。越後に残されていた男の女房が居づらくなり、目明かしの金十郎を頼って守山に移って来たものの、夫の行方は確かではなかったので、そのまま金十郎の世話になっていました。そこで金十郎は、この女を源七の家の手間稼ぎに送り込んだのですが、女房を亡くしていた源七の後添えに良いと思って世話をしたのです。ところが守山藩では、他領よりの入籍と他領への移籍は、陣屋に届け出て許可を得る決まりになっていました。それなのに金十郎が無届けにしていたのは、役目柄、不届きであると決めつけられたのです。この処分について、金十郎の菩提寺である金福寺が、訴願にやってきたのですが許されず、三度にも渡った訴願により、ようやく処分が解かれました。 目明かし新兵衛の罷免 金十郎と一緒に目明かしをしていた新兵衛が、罷免されました。彼が隠れて鉄砲を持っていたという嫌疑から発展し、免職になったものです。寛延の大一揆のとき、目明かしの新兵衛を引き渡しの要求があった位でしたのに、その後も、脅しや強請(ゆすり)や、たかり、その他にも示談屋的な行動が治まらなかったのです。新兵衛と村役人が呼び出され、「家で人寄せをするな。」「他領の風来者を、一夜でも泊めるな。」「縁組など他人の世話をするな。」「大元明王の祭礼であっても、神楽打ちや薬売りの宿はするな。」という内容の禁止条項が読み聞かされた上で、免職を申し渡されたのです。これには、金十郎も同席させられていました。 風来者 風来者とは、街道筋を無宿者のヤクザや無頼の徒が、一人旅の姿で徘徊するのを言います。俗に、旅烏とか一匹狼というのがそれにあたります。守山陣屋でも、もし『風来者』が来たら、『例え一人であっても泊めないようにせよ。』との触書を出していました。そのような一人者の風来者の幸八が、河原者に袋叩きにされ、守山領から追い出されたのですが、舞い戻った幸八は、大雲寺に押し入ったのです。知らせを受けた金十郎はこれを逮捕したのですが、まだ何も盗んだわけではありませんでした。泥棒とも強盗とも認めるわけにいかず、守山陣屋ではこの事件の始末を金十郎にまかせました。そこで金十郎は、「二度と再び、ここへ来るな!」と叫びながら、力一杯鞭で叩いて守山領から追い出したのです。なおここに出てくる河原者とは、動物の屠殺や皮革加工を業とした者たちで、河原やその周辺に居住していたため河原者と呼ばれていたのです。河原に居住した理由は、河原が無税であったからという説と、皮革加工には大量の水が必要だからだという説があります。 無宿者人の始末 三春藩郡奉行から、手紙が届きました。それは三春領過足村、いまの三春町過足の全応寺の隠居所に強盗が入り、住んでいた隠居を絞め殺した犯人を二本松領の郡山で逮捕したのですが、その犯人は、守山領蒲倉村、今の郡山市蒲倉町の述五郎と言っているが、間違いないか、というものでした。述五郎は守山領内の者ではあったのですが、事件を起こした場所が三春領内であったので、三春藩の処置に任せています。このような悪事をした述五郎の罪状がどうなったかは、不明です。 強制欠け落ちの顛末 金十郎は、クビにされた新兵衛に代わって、新しく目明かしとなった兵蔵とともに、強制的な夜逃げに関係することになりました。これは、三春領で強盗同様の犯罪を犯した蒲倉村の喜十郎を、面倒が起きないうちに守山領から強制的に追い出してしまおうというものでした。その犯罪の内容は、喜十郎が三春領春田村の庄左衛門宅に押し入り、カネを盗ろうとしたことです。喜十郎は庄左衛門に抵抗され、家族の者に大声で騒がれたので、何も取らずに逃げ出しました。守山領の者が三春領で事件を起こしたのは、陣屋としては実に具合が悪いことです。そこで無理にでも守山から追い出して、三春藩との関係を穏便に済ませようとしたのです。喜十郎は、いったんは納得して家財道具の始末をし、挨拶のため祖父の元へ行ったのですが、朝になって金十郎の家に現われ、「自分は相手に何の実害を与えていない。それであるから、逃げ出したりはしない。」と申し出てきたのです。金十郎の報告を聞いた守山陣屋では召喚状を発して身柄を拘束すると脅しました。驚いた喜十郎は、次男を連れて逃げ出したのです。 酒造業の看板 守山陣屋は、領内の酒造業者十二軒に、酒林と新諸白、一升ニ付何程との書付を出すようにとの指示を出しました。ところが何軒かの酒屋がそれに従わなかったため、それぞれに営業停止の処分をしたのです。酒造業者らは、一様に、そのような指示を知らなかったと申し立てたのですが陣屋ではそれを認めず、我儘な仕方で重重不届であるとして、商売の遠慮を申し付けたのです。町内の僧侶たちが陣屋に行って彼らの無罪放免を願うことで、事なきを得ることができました。ともあれこのような問題などで領民が困った時、僧侶が仲裁に立ったのです。酒林とは、杉の葉で作られた大きなボールのようなもので、その枯れ具合で酒の熟成度を客に知らせる看板のようなものです。 寛延大一揆 寛延二年(一七四九年)十二月十一日桑折、いまの桑折町の代官が支配する幕領で、百姓一揆が勃発すると、十四日には三春藩で、二十日には二本松藩で、二十二日には会津藩でと、たちまち広がっていきました。そして二十三日の夜からは、守山領の北部で、一揆の火があがったのです。そこで発生した百姓の一揆の結束が南下しながら膨張、十二月二十五日には守山陣屋の門前まで押し寄せ、守山町をはじめ、大善寺村、山中村、正直村などで打ち壊しが始まりました。いわゆる寛延の大一揆です。この一揆発生の理由ですが、守山藩では、去年も今年も二年続きの凶作の上、この年の六月末には暴風雨に見舞われ、八月には大嵐があったので、凶作になるのは目に見えていたのです。そこへ他の藩で起きた激しい一揆の続発が、守山領北部の村々へ強い刺激を与えたのです。一揆の百姓たちが守山陣屋に突きつけた要求は、全部で十四ヶ条ありました。その主な要求は、三春藩、二本松藩と同じ様に年貢を半減にしてもらいたい、年貢米一俵につき五升三合取るのは止めてもらいたい、というものでしたが、それに加えて、目明かし新兵衛の身柄引き渡しの要求があったのです。新兵衛は、日頃から百姓たちから憎悪の目で見られていたので、真っ向からその怒りの波をかぶることになったのです。しかし新兵衛は、一揆による騒動の夜、母親が病のため看病をしていたので何も知らなかったと答申しています。怒涛のように押し寄せてくる一揆に対して、抗すべきもののないことを承知していた新兵衛の、逃げ足は早かったのです。この金十郎がヤクザの身ながら、この『御用留帳』の最初に名が出てきたのは、享保九年(一七二四年)のことでした。最初は、守山陣屋の御用を務める役でしたが、それから十四年後の元文三年(一七三八年)には、正式に『目明かし』となりました。彼が退任したのは明和七年(一七七〇年)でしたから、実に四十六年もの間、守山藩に奉職したことになります。彼が生まれた年の記述はありませんが、その時すでに、年齢は七十歳を越していたと思われます。
2024.10.01
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守山藩の目明かし・④ 阿久津村の芝居 宝暦二年(1752)四月に、阿久津村、いまの郡山市阿久津で金十郎が興行した歌舞伎芝居は、天候が不順にも関わらず、大きな成功を収めました。これらの芝居は野外で行われていたので、天候の良し悪しが、大きく関係していたのですが、初日の四月八日は天気がよかったのです。九日には少し雨が降りました。十日は晴天で十一日も晴天、十三日はおしなべて晴天でしたが、昼頃少々雨が降りました。このような雷雨のときには、当然興行にも支障が生じます。晴天七日の興行という条件で許可されていたのですが、九日が雨天でしたから、順延となっていました。その時の興行成績が残されています。四月八日 一、金一分・銭十一貫五百七十文 入千人程 十日 一、金二分・銭十四貫五百文 入千四、五百人程 十一日 一、金一両・銭十六貫七十文 入二千人程 十二日 一、金二分・銭十四貫五百文 入千四、五百人程 十三日 一、 銭三貫二百三十文 入三百人程 十四日 一、 銭九貫百文 見物人七百六十人程 十五日 一、 銭四貫七百文 見物人四百人程 これによると、十五日までの七日間の木戸銭総計は、金二両と、銭七十貫三百七十文でした。この年五月の守山地方の米相場は金一分につき五斗二升五合であり、銭相場は一貫五十文が金一分であったから、右の木戸銭合計は、おおむね米三十九石三斗七升五合、約百俵に換算されたのです。もっともこのような木戸銭収入は、客の人数を概数で示していることからも分かるように、むしろ低額に抑えて陣屋に報告するのが常でしたから、これ以上の収入があったと思われ、金十郎にとって大儲けであったと思われます。この阿久津村での興行は、阿武隈川の河原で行われたものと思われます。そして、このような場所で演じる役者は、河原乞食などと呼ばれていました。ところで。芸能興業の芝居地であるが、権勢を誇る寺社の境内では、一年を通じての常設興行はそもそも不可能であった。そして町家が密集する町域では仮小屋を作ることすら認められていなかった。遊芸民が市中に定住して、そこを拠点に活動しようとしても素性もよくわからぬ漂泊の『よそ者』として排除されることは目に見えていた。そこで浮かび上がってきたのは河原だった。なぜ河原が常設の興行地になっていったのか? さきに見たように町の地域から外れていて、取り締まりも厳しくなかった。そして興行に利用できる空間があり。小屋掛け工事の得意な河原者がいた。近世初頭の頃では、河原がまさに最適な興行空間であった。身分制の下辺に置かれて教育を受けることがなかった民衆は、自分たちがどう生きて行くかという問題について、積極的に自己主張する場を築くことができなかった。お上の政策に正面から楯突いてものをいう場合は、命をかけた一揆による他に方法がなかった。日頃の鬱憤を晴らすのは役者たちが舞台で演じてみせる仮構の世界であった。日常の不平不満を代弁し、支配権力の内実をそれとなく暴露する芝居を民衆は待ち望んだ。しかし。当時の武家社会の内実をリアルに描写することは禁じられていたから、歴史的時代に仮託して物語は劇化された。民衆もよく知っている。通俗的な中世史に寄りながら。史実や風俗も無視して。朝廷貴族や武家の姿を誇張した虚構で描いてみせたのである。史実を無視して、歴史上な有名人物を揶揄する荒唐無稽な物語は、抑圧されてきた人々の情動の浄化となった。世に入れられず、あぶれものとして。芝居に登場する無頼・無法・異端の徒にしても、鬱積した民衆の心情の代弁者として人気を博した。民衆は斜め下から世間を見据えていた。その民衆からの目からの、風刺と諧謔とこう笑が込められていたのであった。 芝居帰りの殺人 三春領下枝村、いまの中田町下枝で芝居が興行されたとき、守山領金沢村、いまの田村町金沢の半右衛門が見物に出かけました。その半右衛門が帰り道、何者かによって殺害され、三春領海老根村、いまの中田町海老根で、その死骸が発見されました。報告を受けた三春藩から代官の手代と下目付が来て検分を済ませ、そのまま早々に立ち去りました。その後三春藩の役人から、『三春藩の検分が済んだ。死体が損じるので早く引き取るように。』との手紙が守山代官に寄せられたのです。守山陣屋側からは、役人と死者の親類を連れて現場へ行ったところ、三春側からも見届けのため代官の手代と下目付が来ていて、その顛末を確認し合いました。その後にこの事件に対し、守山陣屋は金十郎に捜査を依頼しました。金十郎は、関係すると思われる金沢村、荒井村、蒲倉村、下行合村、下枝村、海老根村、高倉村で聞き込みをしていましたが、これという成果を得られないでいたところ、三春の目明かしから、「内密に相談したいことがある。」との呼び出しを受けました。金十郎は三春領赤沼、いまの中田町赤沼に行き、犯人の使った脇差が、「高倉村の宇衛門か重次郎のどちらかが買い取ったという風聞がある」と示唆してくれたのです。それにより逮捕された重次郎は拷問にかけられ、六年もの間牢獄生活を送ったのですが、ついに自白することがありませんでした。その後重次郎は、病気のため牢死しています。 婿養子の刃傷沙汰 須賀川から守山へ婿に来ていた藤吉が、行水を使っていた自分の女房を斬りつけ、犯行に用いた脇差をその場に投げ捨てたまま逃走しました。すぐさま町役人たちによる追っ手が須賀川に向かったのですが、逮捕には至りませんでした。陣屋では、「素人では役に立たぬ。」と言って、金十郎を送り込んだのですが、それも不発に終わっていました。ところが金十郎のところに、白河の小田川の遊び人から、「藤吉が江戸に上るのを見た。」という情報が入ったのです。そこで守山陣屋は、『水戸藩御用』の鑑札を金十郎に与えた上で、「江戸で犯人の捜査に入るときと逮捕の際は、江戸の役人に連絡するように」との指示を与えました。これは江戸市中の警察権は、全面的に南町奉行所と北町奉行所にあるので、これを侵害することは許されなかったからです。その金十郎が、ようやく、いまの茨城県境町で藤吉を逮捕し、連れ戻ってきました。藤吉の養父の元左衛門は、監督不行き届どきとのことで、戸締まりを命ぜられました。戸締まりとは、門を閉ざして家に籠ることです。 『目明かし』の不法行為 仙台權六と名乗るヤクザが、杉沢村、いまの二本松市杉沢の人の女房とその十歳になる女の子を誘拐して金十郎の所に逃げ込んできました。金十郎はこれらの人を、山田村、いまの田村町守山田向にかくまったのです。それを知った守山陣屋は、金十郎の手下の目明かしの新兵衛に命じて、權六らを三春領に追い払わせました。守山陣屋としては、二本松藩から、「權六らを引き渡せ。」という正式の交渉があれば事が面倒になると考え、あくまでも表立てないで、新兵衛の一存で済ませたように処理したのです。しかし陣屋は、今回のことについて、金十郎を厳しく叱っています。 金十郎の失敗 『目明かし』である金十郎がヤクザの立場で不法を犯し、それがバレたことがあります。長沼領畠田村(はただむら)、いまの須賀川市畠田のヤクザであった喜八が金十郎を頼って来たので、大供村の七郎平の家で手間稼ぎをやらせていました。ところが喜八は、無頼者の性格丸出しで、喧嘩好きであったのです。この喜八が酒気を帯び、町で行き会った行商のタバコ売りに近づいて、「タバコをよこせ。」と凄んだので口論となり、乱暴にも喜八は、脇差で斬りつけたのです。知らせを聞いた目明かしの新兵衛が駆けつけ、二人を守山領外に追い出しました。もちろんこのような不祥事が発生したのは、金十郎が目明かしの身分を忘れ、ヤクザの喜八の世話をしたのが原因でした。陣屋は金十郎に対して、今後一切無宿者を世話してはならないと叱責しています。しかし無宿者がヤクザを頼って、そこに巣食うようになるということは、至極ありふれた事情であったのです。
2024.09.20
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女房たちの欠け入り 大供村(おおともむら)、いまの田村町大供向(おおともむかい)の権之助の妻の『なつ』が家出をしました。なかなか見つからなかったのですが、ひと月も経って御代田の渡船場で仕事を手伝っているのが見つかりました。金十郎に捕らえられた『なつ』は、陣屋に呼び出された上に厳しい詮議を受け、手錠をはめられたまま村預けとされたのです。そこで『なつ』は隙を見て、駆け込み寺である観音寺に駆け込んだのです。権之助の暴力に、耐えきれなかったというのです。 また根木屋村、いまの西田町根木屋の徳之助の妻が、四歳になる娘を連れて行方不明になりました。直ちに探すようにと村役人に命じられた権之助の親類たちは、会津・福島あたりまで足を伸ばしたのですが、見つけることができませんでした。そこで権之助に頼まれた金十郎が、長沼領や会津領、果ては奥会津地方にまで出掛け、各地のヤクザ仲間にも頼んだのですが見つけることができませんでした。ここまで手を尽くしたのですが、貧しい権之助の探索費用も底をついたので、止むを得ず、陣屋も不問としたのです。世間の人たちは、彼女は狐付きになったと噂をしていました。 旅行 生まれた土地を遠く離れることがほとんどなかった江戸時代の庶民にとって、旅は憧れであり、『一生に一度は』と願う夢のひとつでした。 庶民が旅に憧れた背景には、生活水準が向上して余暇を楽しむ余裕ができたこと、そして街道と宿泊施設が整備されたことなどがあります。そしてこの頃、意外に多かったのが湯治です。しかし湯治をするには、病気とか病気療養のためとかの理由を必要としたのです。いわゆる遊びのためでは、許されなかったようですが、ただし農閑期の温泉の利用は許されていました。次の農繁期に備えての許可であったと思われるのですが、それは近くの温泉であり、しかも自炊によるものであったのです。病気療養を理由として行く湯治先は、(山形県の)上ノ山温泉、(栃木県の)那須の湯、それに白河の甲子温泉や福島の土湯、高湯、飯坂などで、思いの外、遠くに行っています。とりわけ那須や土湯が好評であったと言われます。農繁期に備えての近くの湯治先は、岳や熱海であり、三春領の『斎藤の湯』なども好評であったそうです。これらの湯治の他に、七〜八〇日にも及ぶ『お伊勢参り』がありました。しかし伊勢参りともなりますと、これはもう特別の旅となります。途中の江戸や大阪の見物、その他にも善光寺参りを兼ねる者も多く、これらの旅には、陣屋の許可を得てから出掛けることになります。ところが、陣屋に無断での逃げ参り、つまり『抜け参り』も少なくなかったのです。しかしこれらは、陣屋に無断で出かけることになりますから、逃亡に類するものとして扱われたのです。しかしそれでも村に戻ったときに無断で行ったと言われるのを嫌い、それぞれの駆け込み寺に駆け込んで保護されるのを望んだのです。このときの旅費は無尽講で賄われました。無尽講とは、仲間内で毎月少しずつカネを出し合って積み立て、必要とする人に貸し出す組織のことです。それですから、無尽講を利用しての『お伊勢参り』は、仲間たちの代参の意味もあったのです。金十郎には、それらの人びとの様子を監視する役目もあったのです。 バクチ宿の摘発 藩の財政が逼迫していようがいまいが、世間が好景気であろうが不景気であろうが、とめどなく蔓延していたのがバクチでした。娯楽の少なかった当時、バクチは庶民の格好の楽しみであったのです。しかし守山陣屋では、村々からバクチをしない旨の誓約書を出させていました。しかしそれにも拘わらず、娯楽の少ない生活の中でのバクチは、秘密の楽しみであったのです。ところがある夜、守山の左源太と八兵衛とが、それぞれの家で『どんつく』というカルタでのバクチ場が開かれているのが分かったのです。動員された『目明かし』の金十郎たちは、二手に分かれて同時に踏み込んだのですが捕縛はせず、戸を開けるだけに留めたのです。これはバクチ打ちでもある金十郎の、温情であったのかも知れません。バクチを打っていた者たちは、「すわっ、召し取りだ!」と驚き慌てて筵や菰をかぶって逃げ出したのですが、左源太と八兵衛は、その足で駆け込み寺の金福寺に駆け込んだのです。しかし陣屋では、これまでバクチを取り締まらなかったから起きたとして、守山の庄屋や町役人の責任を問おうとしたのです。それを察知した町役人たちは、全員揃って観音寺に駆け込みました。ひたすら寺に駆け込んで訴願の成功を祈る町役人たちと、再度、再々度の訴願をする観音寺。三日にも及んだ陣屋と寺との交渉の末、町役人たちはようやく寺から出られることになったのです。陣屋がそこまで厳しくしたのは、金十郎らの『目明かし』たちもまた、バクチをやっているという噂があったからです。 無銭飲食 山中村(さんちゅうむら)、いまの田村町守山山中の新兵衛が、白河領の須賀川で六日も泊まって放蕩を尽くしたのですが、無一文でカネを支払わなかったという事件が発生しました。家に戻って支払うと言うので、宿では『付け馬』を付けたのです。須賀川から阿武隈川を舟で渡った新兵衛は、いまの郡山市立美術館近くの横川村の知人宅に寄って借金を申し入れたのですが断わられたので、郡山の知り合いに借りると言うので、再び渡し舟で郡山に向かいました。その舟の中で酒を呑み、ほろ酔いになった『付け馬』を見た新兵衛は、背後から刀で斬りつけたので、驚いた『付け馬』が逃げ出しました。白河藩の須賀川代官からこの事件を知らされたので、守山藩では、金十郎を新兵衛捕縛に向かわせたのですが、どこかへ逃亡したあとでした。ところが約一ヶ月後、新兵衛が密かに家に戻っているのが分かったのです。ところが守山藩は本人を捕縛せず、『新兵衛を見つけたら陣屋へ突き出せ。』という布告を出したのです。これは、守山陣屋が白河藩に逃亡したと報告してしまった手前、いまさら居たとは言えず、新兵衛を脅かして領内から退去させるのが目的であったのです。なおこのようなときに付いて行って集金する人が、『付け馬』と言われました。 目明かし同士の協力 金十郎が目明かしをしていた時代は、交通手段の発達がきわめて低い時代でしたから、情報の真否を確かめるのには、目明かし自身が、各地に散在する仲間の『目明かし』とかヤクザを訪ねるという努力を避けるわけにはいきませんでした。またこうした努力を重ねることで、情報の網が絞られ、犯人の所在を突き止めることになります。本来、『目明かし』はヤクザでもあったので、悪人であれ、自分を頼ってきた者を世話するという社会的習性、つまりヤクザ仲間内の仁義があったのです。例えば、会津から須賀川に来ていた三人の猿回しが、大金を盗んで捕まりました。そのうち二人は捕らえられたのですが、一人は逃亡してしまいました。金十郎の元に須賀川の目明かしが来て、犯人が守山の田村大元神社の祭礼に逃げ込んだ形跡があるので、逮捕に協力して欲しいと申し入れてきました。三春街道沿いにある村々では、神社の祭りなどにバクチ打ちのヤクザが集まってきて、賭場が開かれるのが当たり前のようになっていたのです。奥羽・仙道の道筋には多くの博徒が巣食っており、60人にも達していました。金十郎は、須賀川からの手伝い人とで犯人を探索し、これを捕らえ、人目に付かぬよう町の裏で縄をかけ、須賀川の目明かしに引き渡しました。このように目明かし同士は、藩境を越えて協力しあっていたのです。
2024.09.10
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目明かし金十郎・② 江戸での『目明かし』は、非公認の存在ではあったのですが、江戸以外の地域では、それぞれの藩主により公認されたケースが多かったのです。いまの郡山市田村町守山にあった守山藩としては、守山藩そのものが2万石の小藩でしたから、陣屋そのものが小規模であり、役人の数も限られていました。ですから、藩士の中から下級の役人である『同心』を指名する余裕がなかったのです。またもしその余裕があったとしても、市中の落伍者や渡世人の生活環境、ましてや犯罪歴や実態について、藩士たちは良く知りませんでした。そこで守山藩では、犯罪者の一部を体制側に取り込み、情報収集などのため使う必要があったのです。江戸時代の刑罰は、共同体からの追放刑が基本でした。しかし追放されたため、町や村の外に弾き出された落伍者や、犯罪者たちによる新たな共同体が、各地に形成されるようになったのです。そのため、その内部の社会に通じた者を使わなければ、捜査自体が困難となったのです。そこで、博徒、穢多、的屋などのヤクザ者や、親分と呼ばれるそれぞれの地域の顔役が、『目明かし』に指名されることになったのです。しかし陣屋の威光を笠に着て威張る者や、恐喝まがいの行為でカネの強請(ゆすり)取りをする者も少なくなかったことから、両立し得ない仕事を兼ねることを、『二足のわらじを履く』と言う語源ともなったのです。 守山藩では、『目明かし』に対して刀を差すことを公式に許可し、かつ、必要経費の代わりの現物支給としての食い捨て、つまり無銭飲食の特権を与えていたのです。例え藩としては、『目明かし』が犯罪者あがりであったとしても、領内の平和のために働いてくれればそれでよかったのですが、その『目明かし』の中には、押収した証拠品を勝手に売り飛ばしたり、自らの犯罪を帳消しにしてもらうために他人の犯罪をでっち上げて上申したりしていたのです。また、捕えた犯罪者の妻に取り入って関係を迫ったり、女からカネをだまし取った挙句に遊女屋に売り飛ばすなどの悪質な例もあったのです。このような悪行にもかかわらず『目明かし』がなくならなかったのは、藩主による取り締まりを実効あるものにするために、必要不可欠の方法であったからです。藩からの指令を実行するための現場には、このような『目明かし』やその子分らを動員せざるを得ないこのような事情があったのです。 守山藩は、寛文元年(1661年)九月、水戸藩主徳川頼房の四男松平頼元が、兄の徳川光圀から水戸藩領のうち、いまの茨城県の那珂郡内に2万石を分与されて立藩しています。当初は領地を与えられず、水戸藩から2万石分の年貢を与えられていました。また頼元は、徳川御三家である水戸藩の分家であるために、参勤交代の義務がない定府大名であったのですが、元禄六年(1693年)に頼元が死去し、嫡子の頼貞が相続しました。そして元禄十三年(1700年)九月、頼貞は幕府から陸奥国の田村郡に2万石を与えられ、陣屋を田村郡内の守山に移したのです。旧領は水戸藩に返されたため、以後は守山藩として存続したもので、藩主不在の藩庁は守山に作られた陣屋とされました。年度は不明ですが、守山の町家は3千289軒、人口一万7674人の記録が残されています。守山陣屋は、この守山字中町にありました。この『目明かし金十郎』が活躍した舞台は、この守山藩であり、代官のほかに、領民と役人の間を取り持つ取次ぎ役でもあったのです。 守山藩の場合、水戸家の連枝であったため、小藩にもかかわらず格式が高く、江戸定住を命じられていました。そのため守山には陣屋が置かれ、代官と若干の小役人で運営されていたのです。藩主がいない守山の陣屋としては、面倒を避け、事を穏便に済ませる意味でも、『目明かし』とするヤクザが必要とされたのです。しかし公式にはその存在を認めるわけにはいかず、建前では、そういう者は『いない』ことになっていたのです。ところが『目明かし』は、明治維新の直前まで存在していたのです。 発端 守山の下町に、吉田半左衛門という男が住んでいました。半左衛門は百姓をしていましたが、副業として自宅の部屋を貸す宿屋まがいのこともしていました。しかしそれは表向きであって、裏の稼業としては、近郷に聞こえた博徒の親分であったのです。そのためか、その子の金十郎も家業にはまったく手を出さずにバクチにふけり、各地の賭場にも出入りしていたのでヤクザ仲間では相当の顔役になっており、二本松や磐城など各地の親分とも親しい関係を築いていました。ところが享保九年(1724年)六月十二日、この金十郎に、田村大元神社の祭礼に合わせて、『目明かし』の命が下ったのです。ここの祭礼は、近郷では比べようのないほど大勢の参詣人を集めていたのですが、それまでの『目明かし』が、祭礼の直前に病により亡くなったことにあったのです。守山陣屋としては、ヤクザや悪党仲間にニラミを効かせるには、悪に汚染されている者の方が、都合がよかったのです。『毒をもって毒を制す。』という、支配者の知恵でした。しかし、博徒と『目明かし』の『二足のわらじ』を履いた金十郎は、多くの事件に巻き込まれていくことになります。 密通事件 二本松領郡山で、密通を犯した上に放火して、守山領御代田村、いまの田村町御代田に逃亡してきた男が、二本松藩の『目明かし』に捕らえられて連れ去られる事件が発生しました。その際、二本松藩の『目明かし』が、御代田村で縄をかけたかどうかが問題となったのです。もしそうであれば、守山藩の主権が二本松藩に侵されたことになるからです。その調査が、『二足のわらじ』を履いた金十郎に任されたのです。その調査の結果、阿武隈川の渡しの船頭が、「郡山の目明かしは笹川、いまの郡山市安積町笹川で待っていて、そこへ犯人を連れて行ったのは町人でした。縄手錠もかけていなかったので、科人とは見えませんでした。」と証言したのです。それを聞いた陣屋では、胸をなで下ろしました。二本松藩の目明かしの犯人に対する処置が、守山藩にとって行き過ぎでないことが分かったからです。この程度のことであれば、お互いにとやかく言わないことになっていたからです。 駆込寺 駆込寺とは、江戸時代において妻が駆け込んで一定期間、寺で奉仕をすれば離婚の効果が得られたという寺のことです。当時庶民の間では,離婚は仲人・親類・五人組などの介入や調整による示談での離縁が通例であったのですが、それでも妻は、夫から離縁状を受けとることが必要とされていたのです。また農民への統制の厳しかった幕藩体制の中で、農村から逃げ出し、都市に出て無宿者となっていく者の数は少なくありませんでした。これら農業などの生業を嫌がる無宿者の群れは、盛り場などに『たむろ』し、通行人に嫌がらせなどをしていたのです。彼らはその食い扶持を、バクチや恐喝などの不法行為により得、その上徒党を組んで悪事を働いていました。守山には、『欠入り法』という他の藩では見られない慣習法が行われていました。これは、同じく水戸の連枝である長沼藩、いまの須賀川市長沼町でも行われていましたが、その記録の殆どが失われています。ただし守山藩の特殊性は、他の藩では女性のための駆け込みであったのに対し、男性の駆け込みを認めていたのです。しかも女性には、寺ばかりではなく、神社や修験にも認めていましたが、その駆け込みの目的は、女性の側から、離婚を求める例が多かったのです。なお守山藩では、駆け込みを欠入りと言っていたのです。
2024.09.01
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目明かし金十郎・① いま私の手元に、『目明かし金十郎の生涯』という本があります。この本の著者の阿部善雄氏は台湾に生まれで、昭和十年、郡山に帰って安積中学校を卒業し、昭和二十年に東京帝国大学文学部国史学科を卒業の後、中学校の教師となっていましたが、昭和二十四年東京大学史料編纂所に入り、助手、助教授を経て、昭和四十八年に教授となっています。定年後は東京大学名誉教授、そして立正大学教授をされていた方で、著書にもこの『目明かし金十郎の生涯』や『最後の日本人・朝河貫一の生涯』などがあります。これらの著書にみられるように、阿部善雄氏は福島県に対し、深い思いがあったのであろうと推察できます。このような阿部善雄氏が、この本を書くに至った事情を、『目明かし金十郎の生涯』の『あとがき』にこう記しています。 私がこの『御用留帳』にはじめてめぐりあったのは、昭和三十三年である。その頃私は、阿武隈川のほとりに住む友人で、須賀川二中教諭の折笠佐武郎の一家をよくたずねたが、彼は守山藩史料の存否を確かめようとする意欲に燃えていた。そうしたある日、私が守山の田村町教育委員会を訪れたとき、郡山市文化財保護委員で守山藩の歴史に詳しい伊藤尭信氏が私をオートバイに乗せて、谷田川支所に案内された。その二階に投げ出されて山をなしていたものこそ、この『御用留帳』百四十三冊だったのである。 ところで江戸時代、江戸ばかりではなく、全国の各藩に『目明かし』と呼ばれる人たちがいました。『目明かし』は、藩の下級役人である『同心』に私的に雇われ、その手先となって犯罪人の捜査・逮捕に従事した者たちのことで、身分は庶民であって、町人でさえなかったのです。この『目明かし』は、目であきらかにするという意味ですが、『岡っ引き』とも言われました。『岡っ引き』とは、庶民が『目明かし』をバカにして呼ぶ言い方でしたが、『下っ引き』と呼ばれる手下を持つ者も多かったのです。『岡』には、『岡場所』、『岡惚れ』と言うように、見下した意味がありましたが、『おか』には『かたわら』にいて手引きをする者の意味もあったといわれます。『目明かし』には、犯罪を犯した者に共犯者などを密告させることで罪を許し、代わりに犯罪捜査の手先とされた者たちのことです。というのは、犯罪捜査に『同心』を当てたとしても、市中の落伍者や渡世人の生活環境、そして彼らが犯す犯罪の実態を良く知らなかったために、それを知る犯罪者の一部を、体制側に取り込む必要があったのです。『目明かし』とは、江戸の警察機能の末端を担っていた、非公認の協力者たちであったのです。 江戸の警察組織の前身は、『町奉行所』でした。ここには『町奉行』というお役人が頭となって行政・司法・警察・消防をつかさどっていたのです。 ちなみに、有名な時代劇ドラマ、「おうおうおう! この桜吹雪が全て御見通しだ!」の『遠山の金さん』のモデルとなった遠山金四郎景元も、この町奉行の一人でした。この町奉行所に勤める人たちは現在の警察官にあたりますが、現在と比べて違うのはその人数です。当時、江戸の人口は約百万人もいたのですが、警察業務を担っていたのは『同心』と言われる、たった三十人ほどだったのです。しかしこれだけの人数の同心では、到底江戸の町の治安を維持することなどできません。そこでこれらの同心には、十手を持った『目明かし』を、『同心』の私的使用人として各々五人ほどがついていたのです。『同心』というのは武士で、幕府の下級役人です。『同心』が持つ十手は幕府からの支給品で、一種の身分の証明も兼ねていました。いわば十手は、『同心』という身分の証明であり、いまの警察手帳のようなものでした。ですから、無くしたりしたらそれこそ責任問題です。そのため、支給された十手は大事にしまっておいて、ふだんは個人的に購入した十手を持ち歩く『同心』もいたそうです。そのため『目明かし』には、このような十手さえも支給されていませんでした。しかし『目明かし』の持っていた十手は、『目明かし』自身、またはその『目明かし』をやとった『同心』が、自費で、個人的に作ったものです。ところで『目明かし』は、専業ではありません。通常は、『担い屋台』の『夜鷹蕎麦屋』などを営業しながら、夜歩く人の行動などを監視していたのです。彼らは、同心に頼まれたときだけお手伝いをする、言わばアルバイトの探偵でしたから、『警察のイヌ』みたいなものだったのです。そのため『目明かし』としての収入は少なく、現在の貨幣価値で年収七万五千円ほどとされるのですが、なんと、江戸町奉行であった大岡越前守の年収が二億円、火付盗賊改方の鬼平犯科帳のモデルである長谷川平蔵が二億二千五百万円であったというから驚かされます。 ところで、『いざ捕物!』となったとき、三十人ほどの『同心』だけでは足りない時があります。そのようなときは例外として、『同心』が『目明かし』に十手をそのときだけ、一時的に持たせて捕り物の手伝いをさせることもあったそうですが、それは例外中の例外で、ましてや普段から『目明かし』が十手を持ち歩くことはなかったのです。ところで『同心』や『目明かし』が持っていた十手ですが、これは悪党から身を守る武器であり、捕り物道具の一種でした。とは言え、その長さはせいぜい四十センチほどの鉄の棒の手元に鈎をつけたものです。『目明かし』たちは、これで賊の刃からの防御に用いたり、突いたり打つなどの攻撃、時には短棒術として用いて犯人の関節を押さえつけるたり投げるなど、柔術も併用したというのですから、生半可な人間では、『目明かし』にはなれなかったのです。なお、女性の『目明かし』もいたそうですが、女性の『同心』はいませんでした。 江戸時代には、それぞれの藩が、各自の警察機構や司法機構などの体制を備えたことから、反乱を警戒する幕府は、大名同士の法的拘束力を持つ約定を堅く禁じていました。そのため犯罪者が他の藩領に逃亡した場合、その犯罪者の逮捕と引き渡しを求めることができないことになってしまったのです。それでも、正面切って犯人の引き渡しを求めようとすると、それは大変面倒なことになってしまったのです。そうした際の解決策の一つに、幕府の大目付に逮捕を依頼する方法がありました。しかし藩主がこの方法を選べば、自分の力で捕らえることができない無力さを証明することになりかねません。そしてこのことはまた、その藩の中での犯罪の多発と、取り締まりの無能力をさらすことになるため、最後の手段として、ヤクザの親分たちを『目明かし』として採用せざるを得なかったのです。これらの『目明かし』たちは、藩の領域を越え、各地で『とぐろ』を巻いている他の仲間と相互連絡を取ることによって、犯人の発見と逮捕につなげたのです。つまり『目明かし』は、藩主たちにとって、内分のうちに事を運ぶことが出来るという、具合のいい隠れ蓑ともなったのです。
2024.08.20
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旗本・三春秋田氏五千石 慶長五年(一六〇〇年)関ヶ原の戦い後、水戸藩は奥羽諸藩の反乱に備えるため、北関東の拠点として作られたもので、慶長十四年(一六〇九)、徳川家康の十一男の徳川頼房が常陸水戸二十五万石を領したことから、水戸徳川家初代藩主とされました。 この関ヶ原の戦いで,常陸の佐竹氏が、東西両軍に対し明確な態度を示さなかったため,徳川家康の命により出羽国秋田へ国替えとなりました。とは言え、それまで常陸国を治めてきた佐竹家の表高は約二十万石、実高は約40万石でしたから、この大藩の転封先の秋田には、そのような空き地はありませんでした。つまり、いまの秋田県秋田郡には秋田氏、秋田県仙北市角館町には戸沢氏、秋田県美郷町六郷には六郷氏、秋田県千畑村本堂には本堂氏、秋田県横手市増田町平鹿には小野寺氏が治めていたのです。しかし幕府は、なんとしてもこれらの地を空け、佐竹家に与えなければなりませんでした。そこで幕府は小野寺氏を改易とし、秋田氏を茨城県笠間市の宍戸へ五万五千石で、戸沢氏を山形県新庄市へ六万石で、六郷氏を秋田県由利本荘市へ二万石で、本堂氏を茨城県かすみがうら市中志筑へ八千五百石で安堵したのです。さあここで、『秋田美人』です。秋田に転封された佐竹氏が、腹いせに領内の美人を全員秋田に連れて行ったので、それに対し、水戸に入府した徳川頼房が佐竹氏に抗議したところ、秋田藩領内の美しくない女性を全員水戸に送りつけたというのです。そのため、秋田の女性は皆美人で、水戸の女性はそうでない人ばかりだというのです。実はこの話、水戸に住む学生時代の友人に聞いたことなのですが、笑いながら教えてくれたので、冗談の一種だと思っています。 さて、秋田から宍戸・五万石へ来た秋田実季でしたが、寛永七年(一六三〇年)九月、罪を得て伊勢国朝熊に流され、家督は子の俊季が継ぎました。そして正保二年(一六四五年)七月、俊季は五万五千石に加増された上で三春転封となり、その後の宍戸は、水戸藩領となったのです。これは俊季が、大坂冬の陣、および夏の陣に父の秋田実季とともに徳川勢として出陣したこと、さらに実季の妻、つまり俊季の母が、二代将軍・徳川秀忠の正室・崇源院の従姉妹にあたることも幸いしての加増転封であったといわれます。年度は不明ですが、俊季は弟の熊之氶季久に五千石を分知しました。そのため三春藩は五万石となり、季久は五千石の旗本になったのです。 旗本とは、戦場で大将の旗のある場所から転じて、旗の下を固める役目を果たす直属の武士を称し、老中の支配下にありました。徳川幕府は、これらの武士で知行高一万石以下の者のうち御目見得を許され、しかも騎乗を許された者を旗本、御目見得を許されずしかも騎乗も許されなかった者を御家人と称しました。旗本が領有する領地には陣屋が置かれました。これら旗本・御家人の数は、一七〇四年から一七一〇年の宝永年間には総数二万二千五百六十九家でしたから、旗本八万騎という表現は、いささかの誇張と思われます。ちなみに、一六四八年頃に発せられた慶安軍役令では、五千石クラスの旗本は総勢で百二名あり、一隊をなす程度になっていました。季久の収入となる五千石領は、(田村市)大倉村、新舘村、荒和田村、実沢村、石森村、洪田村、仁井田村となっており、その代官所は、三春の御免町にありました。今は代官所そのものの建物は残されていませんが、付属の土蔵が一つ、残されています、旗本は江戸常在がきまりでしたから、季久にも江戸に屋敷が与えられ、生涯江戸で暮らしたのです。なお、村田マサさんの旧居が、ここでした。 旗本秋田氏七代の季穀(すえつぐ)は、文化四年(一八〇七年)に駿府城加番となりました。加番とは、城主に代わって諸事を統轄した家臣の長の城番を補佐し、城の警備に任じたもので、大坂城加番と駿府城加番があり、ともに老中の支配に属していました。そして天保二年(一八三一年)、季穀(すいつぐ)は浦賀奉行に任じられています。浦賀にペリーがやってきた時でしたが、江戸城勤務であったので、難しい交渉には晒されませんでした。それでも自領の村からの収入でこれらの業務をこなし、さらに百名かそれ以上の家臣を、それも武器や軍馬とともに維持するというのは、大変なことであったと思われます。旗本たちには、それぞれの領地からの収入の他、幕府からの支給金が合計で四百万石が与えられたとされますが、旗本総数での平均値をみると、それぞれが約百七十石に過ぎないことになります。それでも戊辰戦争後になると、従来の家臣を扶持することができなくなった徳川家は、支給金を七十万石に減らしたといわれますから、平均値はたったの三十一石になります。なお一石は一年間に一人が食べるお米の量でしたが、一日で三合食べる計算でしたから、江戸時代の人はお米を沢山食べていたことになります。その上で徳川家は旧旗本に対し、新政府の職員となるか、農商に帰するかを迫りました。 旗本たちは、失業状態となりました 受ける俸禄も有名無実となり、旗本に与えられた債権を、売却する者もいたようです。つまり藩主と違って旗本は、あっさりと解雇されてしまったのです。しかも間もなく、これらすべての経済的諸問題が、新たに発足した明治政府に移管され、金禄公債で保障されたことで、各藩主は経済的恐怖から解放されることになりました。金禄公債とは、徳川幕府の家禄制度を廃止する代償として、旧士族に交付された退職金のようなものでした。それを元手に商売したが失敗して『武士の商法』侮られる者、そして北海道行って屯田兵になる者などがありました。その一方で、明治政府の主力となった旧薩摩・長州の藩士あるいは旧幕府の旗本・御家人の一部は政府の役人とし、中には警察官吏として任用された者も多くいたのです。このような旗本に対する馘首などの処遇は、トカゲの尻尾切りのようにみえる現代の世相そのもののような気がするのですが、どうでしょうか。 ところで、旗本には外国人もいました。徳川家康の外交顧問として仕えたイングランド人の航海士、水先案内人、貿易家で、日本名は三浦按針、つまりウィリアム・アダムスです。ウィリアム・アダムズは、サムライの称号を得た最初のヨーロッパ人であり、いまの横須賀市西逸見町に二百五十石の領地を与えられ、妻は日本橋大伝馬町の名主の娘でした。 元和六年(一六二〇年)、按針は平戸で病死し、五十五年の生涯を閉じました。アダムズの領地であった逸見町にある塚山公園には、按針の遺言によってこの地に建てたと伝えられる二基の供養塔が残されており、この『三浦安針の墓』は、国の史跡に指定されています。なお、その子のジョセフ・アダムズは、父の持つ旗本の地位と領地と朱印状を継いだが、その後の消息は不明。死後は領地の三浦に埋葬されたとも言わます。
2024.08.10
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細川ガラシャ、そしてマリー・アントワネット 平成二十四年春、三春歴史民俗資料館で開かれた特別展で頒布された、『愛姫と三春の姫君』というパンフレットの説明に、『細川京兆家・細川昭元の子孫は、秋田家に仕えることとなった。家中に二家ある細川家のうち、桜谷を代々の屋敷地とした桜谷細川家には多くの資料が残されており、三春の細川家こそが京兆家といわれた細川氏の嫡流です』とあったのですが、なぜこのように、由緒ある細川京兆家が、中央から離れた奥州の一角、この三春へ来たのでしょうか。まず、細川京兆家について調べてみました。 細川京兆家は、室町幕府の屋台骨として絶大な権力を誇った家で、『京兆』とは右京大夫の唐名の『京兆尹(けいちょういん)』のことであり、当主が代々右京大夫の官位に任ぜられたことに由来します。これは、有名な徳川光圀が中納言であったので、その唐風の呼び名の『黄門』と呼ばれたように、唐名で京兆家と呼ばれたものです。なお京兆尹とは、古代中国の官職名で、首都の近郊を管轄する行政長官の官名として使用されたものです。 細川京兆家十九代当主の細川昭元は、室町幕府十五代将軍の足利義昭から昭の諱を受けて織田信長と戦いましたが、後に投降して信長の妹・お犬と結婚し、さらに信長からも諱を授かり信良と名を改めています。豊臣秀吉の時代になると、聚楽第に秀吉の悪口が落書きされた事件で捕縛され、まもなく病死してしまいます。この昭元とお犬の間の長女が、三春藩初代の秋田実季の正室『円光院』となります。一方、信長のもう一人の妹の『お市』の娘の『お江』が、二代将軍・徳川秀忠と結ばれたことから、その子の三代将軍・徳川家光と秋田実季の子の俊季は、又従兄弟の関係となったのです。秋田氏は、この由緒により外様大名から譜代並の大名へ格上げされ、さらに、この良縁をもたらしたということで、細川京兆家二十一代当主の細川義元は、秋田家に迎えられたのです。そして、いわゆる家老である年寄衆より上席で別格の家として、元勝 義元 宣元 忠元 孚元 昌元と代々城代あるいは大老として三春藩に勤めていました。いまの三春町桜谷にある三春歴史民俗資料館の場所に屋敷を構えたことから、桜谷細川氏と呼ばれました。また、義元の二男の元明は分家を興し、本家と並んで重職についています。ところで時代の下がった戊辰戦争の時、三春藩の細川可柳という名が出てきます。そして現在、七軒ほどの細川さんが三春に住んでおられます。これらの方々は、細川京兆家の末裔なのでしょうか。秋田家や細川京兆家の菩提寺は三春の高乾院にあり、ここには細川義元や元明の立派な墓もあります。いずれ名門である細川京兆家は、三春で代を重ねたことになります、 ところで、この細川京兆家の分家とされるのが『肥後細川家』です。ただし近年の研究では、肥後細川家の祖は宇多源氏佐々木大原氏の流れとも云われていて、要するにまだよくわかってないというのです。この肥後細川家の祖とされる細川藤孝は、三淵晴員の次男として京都東山に生を受けています。そもそも三淵家と細川家では、養子が出たり入ったりしていて諸説がある上に、細川藤孝は、熊本で暮らしたことはないとされます。しかし、系譜的には細川藤孝から始まるので、肥後細川家の初代として扱われているのですが、実際に熊本藩主になったのは孫の細川忠利からです。平成五年八月九日より平成六年四月二十八日まで内閣総理大臣を務めた細川護熙氏の先祖は、この忠利ですから、護熙氏は細川京兆家の分家ということになります。つまり三春の細川家こそが、細川京兆家といわれた細川氏の嫡流なのです。 この分家という関係ではありますが、肥後細川家の細川忠興は、明智光秀の娘の『玉』と結ばれました。ところが天正十年(1582年)、本能寺、いまの京都市中京区寺町通御池下ル下本能寺前町において、明智光秀は主君の信長を討ったのです。しかし、山崎の戦いで羽柴秀吉に敗れました。玉は『逆臣の娘』として、生まれたばかりの子供とも離され、いまの京丹後市の山中に幽閉されたのです。やがて侍女である『清原いと』が受洗してマリアと称していたことから、その手引きで玉も受洗、ガラシャの洗礼名を受けたのです。 慶長五年(1600年)、関ケ原合戦が勃発する直前、徳川家康に従って山形の上杉征伐に向かっていた細川忠興らの妻子を人質としようと、豊臣方の石田三成が動きました。三成は、細川家にも豊臣方に従うようが申し入たのですが、留守を預かる玉はこれを拒みました。翌日、三成は兵を送って細川屋敷を囲ませ、力づくでも従わせようとしたのですが、玉は捕らえられて恥を晒すよりもと、死を選びました。しかし、キリスト教では自殺を許さないため、玉は家臣の小笠原少斎に命じて、部屋の障子の外から槍で胸を突かせたと言われます。辞世の句は、「ちりぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」でした。享年、38歳という若さでした。 このガラシャの最期は、日本で布教活動を行っていたイエズス会の宣教師によってヨーロッパに伝えられ、印刷物などを通じて広く知れ渡ることとなりました。そして、それからおよそ100年後の1698年、新作戯曲『気丈な貴婦人〜丹後王国の女王』が、オーストリアのハプスブルク家宮殿内のホールでオペラとして上演されました。その戯曲のモデルは、イエズス会の宣教師たちが伝えた細川ガラシャの生涯でした。玉の運命はハプスブルク家の女性たちに共感をもって迎えられ、『貴婦人の鑑』と呼ばれて、マリー アントワネットにも影響を与えたといわれます。 悲劇のヒロインの東西両横綱といえば、東の細川ガラシャ、西のマリー・アントワネットではないかと思われます。実はこの二人の女性、生きた時代も国も異なりますが、不思議な共通点があったのです。どちらも政略結婚で嫁がされ、時代の大激変に巻き込まれて、奇しくも同じ37歳で非業の最期を遂げたのです。すなわちガラシャの悲劇は、遠くヨーロッパにまで伝えられていたのです。マリー・アントワネットが断頭台に行く前、義理の妹に宛てた手紙に、『私はガラシャのように潔く最期を迎えたい』と書いていたそうですが、情報の出所は、どうやら、ガラシャの子孫でもある細川家の関係者から出てきた話のようです。マリー アントワネットはフランス革命でギロチンにかけられる際も、落ち着いた態度だったと言われます。 果たしてマリー アントワネットは、細川ガラシャのことをどこまで知っていたのか、またその生き方に本当に憧れていたのかは、謎として残ったままです。ところが、中村勝郎著『なぜ日本はJapan と呼ばれたか』によりますと、マリー アントワネットは、日本の漆器の愛好者であったそうです。と言うことは、マリー アントワネットが持っていたガラシャへの憧憬が、漆器と重ね合わされたのではないかとも想像できます。それでも、時代の激変に翻弄されながら、死の間際まで決然とした態度を貫いた二人の生き様には、時空を超えた運命的なつながりがあるように思えてなりません。 このオペラの台本は、初演から約300年を経て、ウィーン国立図書館に所蔵されているのが見つかりました。ガラシャ生誕450年を迎えた平成二十五年には、上智大学創立100周年記念事業として、日本でも復活上演されています。
2024.08.01
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三春駒 三春駒は、現在、郷土玩具の『子育て木馬』として、西田町高柴のデコ屋敷や三春町内で作られています。その発祥の伝説は、京都東山の音羽山清水寺に庵をむすんでいた僧の延鎮が、坂上田村麻呂の出兵にあたって、仏像を刻んだ残りの木切れで100体の小さな木馬を作って贈ったというのです。延暦14年(795年)、田村麻呂はこの木馬をお守りとして、奥羽の『まつろわぬ民』を討つため京を出発しました。そしてその途中となる、田村の郷の大滝根山の洞窟に、大多鬼丸という悪人どもの巣窟のあるのを知り、これを攻めたのです。ところが意外に強敵であった大多鬼丸を相手にして、田村麻呂率いる兵士が苦戦を強いられていたのです。そのようなとき、どこからか馬が100頭、田村麻呂の陣営に走り込んできたのです。 兵士たちはその馬に乗って大滝根山に攻め登り、大多鬼丸を滅ぼしました。 ところが戦いが終わってみると、いつのまにか、あの馬100頭の行方はわからなくなっていたのです。 翌日、村の杵阿弥(きねあみ)という人が、汗びっしょりの木彫りの小さな駒を一体見つけて家に持ち帰り、それと同じに99体を作って100体としたのですが、高柴村が三春藩の領内であったので『三春駒』と名付け、100体の三春駒を子孫に残したのです。後に、杵阿弥の子孫が、この木馬を里の子供たちに与えたところ、これで遊ぶ子供は健やかに育ったので、誰ともなしのにこの三春駒を『子育木馬』と呼ぶようになったというのです。 三春藩の奥地には、もともと野生の馬が多く生息していました。それらを飼い慣らして農耕馬とし、軍馬として使われるなかで『三春駒』と言うようになったのです。江戸時代になると、藩を豊かにするための産業として馬を改良し、多くの良馬を生み出して全国へ広がっていったのです。 それもあって人々は、飼馬の安らかな成長を祈って、神社や馬頭観音に絵馬や高柴村で作られた木の三春駒を刻んで奉納するようになり、また子供の玩具に用いたりするようになったのです。木製の三春駒は、現在郷土玩具として、西田町高柴のデコ屋敷や三春町内で作られるようになりました。いまの三春駒の原型は大正期に出来たとされ、直線と面を活かした巧みな馬体と洗練された描彩は、日本三大駒の随一との定評があります。馬産地として日々の生活の中で出来た人と馬との絆が、この木馬を生み出したのかもしれません。『三春黒駒』は子宝・安産・子育てのお守りとして、また『三春白駒』は老後の安泰、そして長寿のお守りとして作られています。『三春駒』は、青森県八戸の八幡馬、仙台の木下駒と並んで日本三駒とも呼ばれています。大小さまざまあるが,シュロのたてがみと尾をつけ,直線を生かした逞しい馬体につくられ,馬産地にふさわしいできばえを示していると言われます。 生きた三春駒は絶滅してしまったので、どのような特徴のある馬であったかは分かりませんが、現在の日本経済新聞の前身となる中外商業新報の大正4年5月1日の記事に、『三春藩時代に於ては日暮、花月等の名馬を産し、明治時代に在ては夫の御料乗馬たりし友鶴、旭日等のごとき・・・』とあります。三春駒の友鶴、旭日の二頭が明治天皇の、また繰糸号が明治天皇の后の昭憲皇太后の、さらに第二関本号が大正天皇の御料馬であったということに驚かされます。これは田村郡から献上された三春駒の在来馬であったといわれていますが、いずれにせよこれらの馬の調教師は、いまの本宮市白沢の佐藤庄助さんであったそうです。 ところでデコ屋敷の『デコ』は、『木偶(でく)』で木彫りの人形を表し、人形屋敷という意味になります。現在、高柴地区は郡山市に属しますが、江戸時代は三春藩領の高柴村であったため、その名残で三春駒や三春人形と呼ばれるようになったのです。大小のダルマや各種のお面、恵比寿・大黒や干支の動物などの縁起物をはじめ、雛人形や歌舞伎・浮世絵に題材をとる人形まで多くの種類を手掛けています。デコ屋敷周辺の狭い範囲には神社が点在し、約100基の朱の鳥居の立ち並ぶ『高屋敷稲荷神社』や、パワースポットの大岩のある日枝神社などがあり、ここには代々ご長寿の方が多いことなどから、そのご利益であるとの信仰を深めています。日本の三大駒として、青森県の八幡馬、宮城県の木ノ下駒と並んで三春駒が挙げられていますが、三春駒は、木ノ下駒の影響を受けていると考えられています。デコ屋敷にある郷土人形館では、江戸時代に制作された三春駒を見ることができ、福島県の重要有形民俗文化財に指定されている各工房の木型や、江戸時代の人形が展示されています。 私は子どもの頃から、三春大神宮の境内に等身大の白馬の像のあることを知っていましたので、これは明治天皇に献納した三春駒の記念の像かと思っていました。しかし調べてみると、三春藩駒奉行徳田研山の指導で、石森村の仏師伊東光運が制作したものと分かり、時代も古く、明治の天皇家に献納した馬とは無関係なようでした。 第二次大戦後は軍馬の需要は無くなり、また農業の機械化によって馬そのものの需要が激減しました。しかしその後も、田村郡では競走馬の生産が続けられ、小野町今泉牧場のトウコウエルザや、桑折町で生まれて北海道新冠の早田牧場新冠支場で調教を受けた天皇賞・宝塚記念・菊花賞を制したビワハヤヒデがいます。現在、東京電力福島第一原発よる放射能事故に追われ、全村避難となっていた旧三春藩領の双葉郡葛尾村でも、多くの馬が育てられていましたが、古代以来の馬作りの伝統が、福島産の馬の活躍にもつながったと思われます。なお、トウコウエルザは、昭和49年度優駿賞の最優秀4歳牝馬を受賞しています。またビワハヤヒデは平成4年、中央競馬でデビューし、翌年のクラシック三冠路線では、ナリタタイシン、ウイニングチケットの、それぞれの頭文字から『BNW』と呼ばれたのですが、それらライバルを制して三冠のうち最終戦の菊花賞を取得しています。 令和元年5月3日のTBSで、大正天皇と貞明皇后のお二人の最側近として仕えた、元高等女官『椿の局』こと坂東登女子さんが、世にも稀な経験の数々を雅やかな御所言葉で語る、貴重な記録が放映されました。およそ100年前に宮中で仕えた女官の肉声を収めたカセットテープの内容でした。そして大正天皇と貞明皇后の人となりの話の中に、馬の話がちょっとだけ出ました。 「陛下のお毒見しますでしょ。魚ならこんなひと切れとか」 「趣味は御乗馬ですね。お馬さんですね」 私はひょっとして、このお馬さんは三春駒ではなかったかという思いと、大正の時代までツボネという敬称が使われていたことに驚かされました。 三春駒は、日本で最初の年賀切手に採用された民芸品です。工芸品とだけなって、生きた馬の姿は見ることができなくなってしまいましたが、新幹線郡山駅のコンコースに、その姿が描かれています。
2024.07.20
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在来馬と民話 昔から日本にいた馬のことを、在来馬と言います。日本の在来馬は、古墳時代にモンゴルから朝鮮半島を経由して九州に導入された小形の馬とされています。古墳時代は、モンゴル文化の影響から、馬が魂を運ぶ動物と考えられていたため、古墳上には舟形埴輪と共に馬形埴輪も置かれるようになりました。こうした馬形埴輪の近くからは、俗に踊る埴輪と呼ばれるタイプの、馬飼の人物埴輪も出土します。これに付随して、馬の骨や馬の歯、それに馬具が遺跡から出土していますから、古くから馬が存在していたことの確認ができます。 現在、在来馬としては、北海道の北海道和種、長野県の木曽馬、愛媛県の野間馬、長崎県対馬の対州馬、鹿児島県トカラ列島のトカラ馬、宮崎県の御崎馬、沖縄県宮古島の宮古馬、それと与那国島の与那国馬の8種類がいますが、その数は減少してしまいました。しかしこれらの8種類は、日本の在来馬として保護されています。北海道和種は、道産子の俗称で親しまれており、その頭数はおよそ1800頭で、在来馬の約75パーセントを占めています。しかしほかの7種は数十から百数十頭しかいないそうです。一番少ない対州馬となるとさらに少なく、30頭以下とされています。また新潟県の粟島には、粟島馬がいました。この粟島には、昭和初期まで生息していました。江戸時代の記録によればその数5・60頭がいたとされるのですが、明治期になると捕獲や事故などで数が段々減りはじめ、昭和七年には最後の一頭が死んで島の在来馬は絶滅してしまいました。ところがこれ以外にも、三春駒がありました。今は無くなりましたが、福島競馬場において、三春駒の名のレースが行われていたのです。 西洋の馬が輸入されるまでの三春駒は、南部駒とともに有名な馬でした。これら在来馬の特徴は体高が低く体重も軽いのですが、辛抱強く雑食性であるという特徴がありました。宮古馬は、体高はおよそ120センチと小型で、ポニーに分類されます。宮古馬は、サトウキビ畑などでの農耕馬として利用されてきましたが、現在は45頭にまでにまでなってしまったそうです。なお宮古馬は、大野正平の『日本縦断こころ旅』で放映されましたので、ご覧になられた方も多いのではないでしょうか。日本馬事協会は、先ほどの8種類を日本在来馬と認定して保護にあたっています。 戦国時代の馬は、その小柄な体型から甲冑武者を乗せるとよたよたとしか走れないと誤解されていますが、約3・5キロメートルをノンストップで速歩、駈歩で問題なく走り続けられることが確かめられています。そこで、それぞれの馬の走りをスローで見てみると、木曽馬は現在のサラブレッドよりも、上下の揺れが少なかったそうです。サラブレッドは足が長く、大きな歩幅で飛び跳ねるように走るため、上下の揺れが大きいのだそうです。そう言われてみれば、競馬の騎手の乗る姿からも想像できます。つまり、在来馬は走る際の揺れが小さく、馬上での戦いにも優れていたと言われます。 延宝七年(1679年)、三春藩主三代目の秋田輝季は、領内で産した7歳馬を4代将軍・徳川家綱へ献上して以来、参勤交代の度に三春駒を献上して全国に知られるようになりました。その後、三春藩では、仙台や南部藩から良馬を買い付けてかけ合わせることで馬の名産地となったのです。江戸時代の後期から近代にかけて、田村地方産の馬は名馬も多く、三春駒と呼ばれるようになっていきました。 さて民話です。456年から479年の間の雄略天皇期の話の中に、270年から310年の間の応神天皇の陵の馬形埴輪が赤い馬に化け、人を乗せて早く走ったといった話があり、古代から馬に関する多くの怪異話が語られています。仏教説話集の『因果物語』などにも、馬の怪異が語られています。その多くは、馬を粗末に扱った者が馬の霊に取り憑かれて馬のように行動し、最後には精神に異常をきたして死ぬというものです。日本ではかつて仏教国として、獣を殺したり獣の肉を口にすることは五戒、つまり仏教徒が守るべき基本となる不殺生戒(ふせっしょうかい)、不偸盗戒(ふちゅうとうかい)、不邪淫戒(ふじゃいんかい)、不妄語戒(ふもうごかい)、不飲酒戒(ふおんじゅかい)の5つの戒めに触れ、殺生を行なった者は地獄に堕ちると言われた迷信が、これらの憑き物の伝承の背景にあるとの説があります。 江戸時代になると、在来馬に関連した妖怪話も盛んとなります。死んだ馬の霊が人に取り憑いて苦しめるという『馬憑き』、馬の足が木の枝にぶら下がっていて、不用意に近づくと蹴り飛ばされるという『馬の足』、首のない馬が路上に出没し、人に襲いかかって噛みつく『首切れ馬』などは、馬の妖怪です。このような怪異話は、福島県にもありました。例えば、昔、ある男が娘と一緒に住んでいました。ある日、男が狩りに出かけて、何日たっても帰ってこなかったので、娘は自分の家の馬に、父を探してきてくれたら嫁になってやると言ったというのです。するとその馬はどこかに走って行ったのですが、夕方になってから男を背に乗せて帰ってきました。それから馬は変な『いななき声』をたてるようになったので娘に聞くと、娘は今までのことを話しました。男は怒って娘を島流しにしてしまったのです。それを知った馬は、娘のあとを追って行方不明になっていたのですが、やがてすごすごと帰ってきました。それが駒帰り、今の会津駒ヶ嶺となった、というものです。 ところで田村郡にも在来馬の妖怪話がありました。三浦左近国清という人が今の西田町太田に住んでいました。結婚できないことを憂い、滝桜近くにある滝不動に、美しい妻が得られるようにと祈願したのです。すると夢に不動明王が現れ、現世には嫁がせるべき女がいないので、五台山の奥の池で天女が水浴びをしているので、その羽衣を取れと言ったのです。国清はその通り山に登り天女の羽衣を取って家に帰りました。やがて天女は羽衣のないのに気付き、国清の家に行って羽衣を返して欲しいと願ったのですが返されず、ついには夫婦になってしまいました。二男一女をもうけたのですが、やがて子供たちが大きくなったから別れても立派に育つと言い残し、天女は羽衣を着て天に昇って行ったのです。国清は悲しんだのですが娘はそれにもまして悲しみ、ついには池に身投げして死んでしまいました。中太田に姫塚と呼ぶ塚がありますが、この姫を祀ったものといわれます。それにしてもこの話、天女が田村郡に遊びに来ていたとは、荒唐無稽ではありますが、面白いと思いました。 ところで明治初期に日本を訪れた欧米人たちは、日本の在来馬が世界で最も進化していない馬であるということで、本国に持ち帰ったという逸話もあります。しかし明治政府が、「富国強兵政策」の一環として軍馬や農耕馬を強くするために外来種を輸入し、品種の改良を行ったことも在来馬の数を激減させた理由の一つでした。それでもかろうじて残った在来馬は、離島や岬の先端など交通が不便な所に、前述した8種類だけが残ったのです。
2024.07.10
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14 鉄道よもやま話② 列車の運賃はヨーロッパに倣って三等級制が採用され、大人一人が全区間を乗車した場合、上等が一円十二銭五厘。中等が七十五銭、下等が三十七銭というように設定されていた。なんだか妙に半端な値段であるが、なぜもっとキリの良い価格設定にできなかったのであろうか。この頃は時間の問題だけでなく、多くの日本人がまだ江戸時代を引きずっていた。鉄道開業の当時、駅に貼り出された汽車の出発時刻および賃金表には、江戸時代からの貨幣単位である両・分・朱で表示したものと、新貨幣単位の円・銭・厘に換算したものが並んでいたという。このようなことは、当時の庶民が、両・分・朱の旧単位の方が円などの新単位よりはるかに理解しやすかったため生じたものだと言われている。この傾向は明治十年代ぐらいまで続いたようで、地方ではその頃まで天保銭などが流通していたという。 東京以北に初めて特急列車が誕生したのは、昭和三十三年十月のことである。上野・青森間に一往復設定された『はつかり』がそれです。もちろんその使命は、東京と東北本線沿線の都市と直結すること以上に、北海道への連絡が大きなウエイトを占めていた。この特急『はつかり』の運転開始当初は、上野〜青森間のうち日暮里・岩沼間は常磐線経由とされ、ルートから外れる東北本線沿線の宇都宮、郡山、福島などの都市は全く無視された格好となっていた。これはなにも『はつかり』に限った話ではなく、この頃はなぜか、上野から仙台へ、そして仙台より先に向かう急行列車の多くが常磐線回りであった。これを見る限りでは、常磐線の方が本線で東北本線は支線といった感じがするが、なんでこんな珍妙なことが起きてしまったのであろうか。常磐線沿線にはいくら炭鉱が多かったとは言え、それほどまでに重要な都市がひしめいていたというわけでもなかった。 東北本線の上野〜青森間が全通したのは明治二十四年九月であった。これは私鉄の日本鉄道が開通させたものであるが、その線路は黒磯〜白河間、郡山〜福島間、福島〜白石間などに急勾配区間が多数存在していたのである。このことが輸送力増強とスピードアップの面でネックとなっていたのである。そんな折の明治三十一年八月、同じく日本鉄道の手により、現在の常磐線である海岸線の田端〜岩沼間が全通した。海岸線と言うだけあって、この線は勾配の少ない平坦な路線となっていた。そのため東北本線経由の列車が一部、常磐線に移ったのである。しかし、戦前はまだ東北本線の方がメインルートとされていた。それが逆転するのは戦後のことで、昭和二十年代に新たに設定された急行列車の多くが常磐線を選択したのである。これは激増する旅客需要に対応するため、一列車あたりの連結車両数が増えたことが要因のひとつと考えられるのですが、当時の動力車の主力は蒸気機関車であったから、東北本線経由とすると、勾配の関係で連結両数が制限されざるを得なかったという事情があった。ところが東北本線には福島で分岐する奥羽本線秋田方面に向かう列車を多数設定しなければならないという状況があったのである。しかしそんな東北本線であったが、昭和四十三年八月に全線複数電化が完成し、勾配自体も線路の付け替えなどで緩和されて状況はかなり変わった。『特急はつかり』は電車化されたうえで東北本線経由に改められ、以降の増発列車も東北本線経由が中心となっていった。勿論この頃には常磐線も全線電化が完成していたが、平以北はほとんどが単線だったため。全線複線の東北本線にはとてもかなわなく、だんだんその地位は低下していった。ただし、夜行列車に限って言えば東北新幹線開業まで、常磐線がメインルートとされていた。しかし東北新幹線が開通し、飛行機が長距離輸送の主役とされる今となっては、東京から東北・北海道への輸送において、両線ともほとんどその機能を果たしていない。 鉄道国有化後の明治四十五年六月十五日、従来の新橋・神戸間の『最急行』を下関まで延長し、『特別急行』と改称された。この日本最初の特急列車は新橋を八時三十分に発ち、下関には翌朝九時三十八分到着、所要時間は二十五時間八分、対となる上り列車の所有時間は二十五時間十五分で、今から見れば、ずいぶん時間がかかっているようにも感じられるが、当時としては画期的なスピードであり、しかも列車の編成も特別急行の名に恥じない豪華なものであった。まず三等車は連結されず、一等車と二等車のみで編成、座席車以外に寝台車や食堂車、そして最後部には特別室を備えた展望車まで連結された。その展望車の内部装飾には、網代天井、各天井、吊灯籠式照明、すだれ模様の窓カーテン、日本式の欄干、藤椅子などと、心にくいまでの和風趣味がふんだんに取り入れられていた。展望車特別室の書架には、日本文学全集の他に洋書も多数取り揃えられ、車掌も英語の堪能な列車長が乗務したという、まさに走るホテルであった。 ところで、この特急列車が新橋・大阪間というのであれば、政財界の要人の利用も多いわけで編成の豪華さも頷けるが、なぜ本州の西の外れの下関まで足を伸ばしていたのか。実はこの特急列車は、国際列車の性格を持ち合わせていた。下関と朝鮮半島先端の釜山との間には山陽汽船による関釜航路が開設されており、当時日本領であった朝鮮半島を北上、これを満洲、シベリアを経由してヨーロッパ諸国とを結ぶ欧亜連絡ルートの一部を形成させようとしていた。これは日本人だけでなく、ヨーロッパ諸国の要人の利用も想定して新設されたものである。日露戦争に勝利した日本は、世界の一等国の仲間入りを果たしたわけだから、それに恥じない国力の象徴としての国際列車が必要だったと考えたのでしょう。 終戦直後、多くの列車が現在の首都圏における朝の通勤電車など足下にも及ばないほどの殺人的混雑にあった。その混雑もさることながら、車両の荒廃もものすごかった。客車の窓はガラスが割れたものが多く、代わりにベニヤ板がはめ込まれていたり、あるいはそれすらなかったといった状態だった。戦時中に敵の機銃掃射を受け、車体にいくつも穴の開いている客車まで使われた。とにかく最悪の設備、車両、そして少ない列車の本数で洪水のように押し寄せる人々を運んでいたのである。そのような列車を横目に、寝台車や食堂車などが連結された豪華な列車も走っていた。そして、その列車はほかの多くの列車のように乗客が鈴なりになっていたわけではない。日本人は、これに乗ることは許されなかったのである。これらは、進駐軍専用の列車だったのである。昭和二十年八月十五日の戦争終結後、日本は進駐軍総司令部GHQの統治下に置かれた。当然、国有鉄道もGHQの管理下とされた。そして進駐軍関係の輸送は絶対輸送優先だったのである。 進駐軍は、無傷で残っていた寝台車、展望車、食堂車などの優等車を中心に状態の良い車両を五百両近く召し上げ、運輸省に整備を命じ、車体にはAllied Forces(連合軍)の文字が記された。多くの日本人を乗せた窓ガラスもろくにないようなオンボロ列車を駅に待たせておいて、この列車が颯爽と追い抜いていったのである。しかし昭和二十二年頃からは進駐軍専用車に空席がある場合に限って二等運賃を払えば日本人も乗車できるようになった。ただ、乗車券の裏には、次のような注意書が書かれていた。進駐軍専用車御乗車の方へ。乗車の際には乗車券を必ず車掌に提示すること。空席のない場合には絶対に乗車しないこと。連合軍またはその家族が後から乗車して、座席のない時には必ず席を譲って他の車両に乗り換えること。専用車内に立っていることは許されません。専用車は、昭和二十七年三月の占領終了まで存在していたのである。(この稿、所沢秀樹著『鉄道地図の歴史と謎』より。の稿、所沢秀樹著『鉄道地図の歴史と謎』より。
2024.07.01
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13 鉄道よもやま話① 日本で初めて鉄道が営業開始したのは、明治五年五月七日のことであった。明治三年に測量開始し、建設を進めていた新橋・横浜間鉄道のうち、品川・横浜(いまの桜木町)の間がこの日に開業したのである。これは外国から輸入されたレールや枕木などの資材を横浜港に陸揚げをし、そちら側から線路を敷設していた。とにもかくにもこの日から、この区間に二往復の旅客列車が運転を開始し、翌日には六往復、八月十一日には八往復に増発された。徳川幕府が滅び、明治新政府が発足してからわずか五年という短期間で日本に鉄道が開通したのだから、まさに驚異的スピードと言える。鎖国政策により欧米諸国の技術発展から取り残されていた日本は、なんとかそれに追いつこうと必死だったに違いない。そして明治五年九月十二日には、新橋(のちの汐留貨物駅)横浜間が本開業をした。当初開業日は九日を予定していたが。当日が雨のためこの日に延期された。この鉄道が一般の乗客に解放されたのは翌十三日からで、一日九往復の列車が運転を開始した。 ところで、この明治天皇のご乗車の祝賀列車を運転したのは外国人であった。運転を担当したのはイギリス人の汽車機械方(要は運転手)のトーマス・ハートであったが、この祝賀列車に限らず、すべての列車の運転手はイギリス人であった。それは運転手だけではなく、開業当時の車両は、機関車も客車も全部イギリスから輸入されたもので、さらには列車ダイヤを組むのもイギリス人ならば建設における指導を行ったのもイギリス人であった。まさにイギリス人なくして日本の鉄道は開業できなかったのである。創業当時の鉄道員は日本人が駅務を中心に配置されていたのに対し、イギリス人を中心とした外国人は高級職員だけではなく。建設部門や列車運転に関わる現業機関のほとんどの職場を独占していた。けれども、それは至極当然なことであった。この時代の日本人に鉄道に関するノウハウなどあるわけがなかったため、経営から技術、管理、車両、諸施設の供給に至るまでありとあらゆることがイギリス人の指導の下に行われていたからである。 ただし北海道開拓使が管轄した初期の北海道の鉄道では本州とは異なり、アメリカ人技師の指導のもと、アメリカ製の資材を購入して建設がすすめられた。また、私鉄の九州鉄道は、ドイツ人の指導のもとドイツ式鉄道を採用していたから、鉄道を取り巻く技術的環境が混在していたことになる。大正十四年に全国で車両の連結器が一斉に同じ物に交換されたのは、このような状況にあったからである。いずれにしても、創業期の日本の鉄道は、イギリス人を中心とした外国人が主導権を握っていた。これら外国人技術者、俗に言うお雇い外国人の数は、明治七年ごろがピークで百十五名を数えたという。ただし、それも長くは続かなかった。まず明治十二年四月には新橋鉄道局で初の日本人運転手が三名、ついで同年八月には神戸鉄道局でも三名の登用を見たと記録されている。そして同年十一月には新橋・横浜間の全列車に日本人運転手が乗務するようになったという。 さて踏切といえば、列車優先であることは言うまでもない。例えば地方のローカル線のように一日十本ぐらいしか列車が通らなくても、そして道路側の交通量が多くても、決して列車の方を遮断するということはない。ところで、鉄道創業期の踏切は現在とは異なり、列車の方を遮断していた。『踏切』は、基本的に『道』の方に焦点を当てた用語で、鉄道を踏んで横切る道、といった概念の用語である。鉄道創業期の踏切では、遮断のバーはもちろん手動で、常には線路の側を遮断していた。そして列車が接近してくると係員がバーを動かして道路側を遮断し、列車を通行させたのである。しかし明治二十年頃からは、今度は道路側を遮断するような形に変更された。ただし、現在の踏切とは異なり、常に遮断のバーを下した状態にしておいて、通行人が現われると係員は列車が来ていないことを確認した上で、線路側を遮断して通行させたというから、これまたのんびりした話である。当時の道路交通の主と言えばあくまでも人間であり、スピードが速いものと言っても、せいぜい人力車か馬くらいしか通行しなかったから、こんな方法でも特に問題は無かったのであろう。しかし、明治も終わりの頃になれば当然列車の本数も増え、スピードも向上。急行列車も走るようになったわけだから、いちいち通行人があるたびに線路側を遮断していては。危険きわまり無い。そこで現在の踏切とほぼ同じ方式になったのは、およそ明治の末から大正時代にかけてのことと推測されている。 工部省鉄道寮では、明治五年五月七日の品川・横浜間の仮開業の時点から列車の発車時刻表を駅構内に掲示した。それには品川発車午前八時、横浜到着午前八時三十五分などと書かれており、現在と同じように分刻みで列車の時刻を示されていた。さらにその下には、乗車における諸注意が掲示されていた。それには、『乗車セムと欲スル者ハ遅クトモコノ表示ノ時刻ヨリ十五分前ニ、ステーションニ来リ切符買入ソノ他の都合を成スベシ』とか、『発車時限ヲ遅ラサルタメ、時限の五分前ニステーションノ戸ヲ閉ザスベシ』といったことも書かれていた。要は発車時間の十五分前には切符を買い、その他の手続きを済ませておくこと。発車時間を厳守するため、発車五分前には駅の入り口を閉めるから注意しろ、と言っているわけで日本の鉄道は今同様、その初期から時間にはかなりうるさかったようである。しかし、ここでちょっと考えていただきたい。 当時の日本は、寺の鐘の音を聞いて暮六つとか五つ半とか言っていた江戸時代からわずか五年しか経っておらず、二時間単位の古い時間の感覚から抜け出ていない人も多かったのではないだろうか。そこへ八時というような西洋式の時間が出てきた上に、三十五分などの分単位の時間など、当時の人には感覚的に合わせることができなかったと思われる。それよりなにより、まず一般庶民では時計など持っている人などいなかったわけだから、一体どうやって発車時間の十五分前までに駅に行けたのかという疑問に突き当たる。当時の庶民が時間を正確に知る手がかりは、皇居内で発していた正午の号砲ぐらいのものだったというから、考えてみれば実に不思議な話である。この問題の解決は実のところ乗客の慣れ以外の何ものでもなかったようだ。そもそも列車に乗って旅することなど、いくら品川・横浜間の短距離とは言え、当時の庶民にとっては大旅行であり、当然それなりの緊張感が伴っていたので、中には夜明けと共に駅で待機していた人もいたという。それでもやはり乗り遅れる人はいたらしい。鉄道寮でも開業前からこの庶民の時間感覚の問題には危惧していたようで、一時は芝増上寺の大鐘を芝の愛宕山頂に移し、一時間ごとに鐘を鳴らして正確な時間を庶民に伝える計画まで立てたというが、これは寺側の反対により実現しなかったという。結果、庶民の自覚に頼るしか方法はなかったのである。新橋・横浜間の本開業に伴い、切符は十分前、駅の入り口を閉めるのは発車三分前と多少は緩和されたものの、その後も発車間際に駆け込む人や乗り遅れる人が後を絶たなかったという。(この稿、所沢秀樹著『鉄道地図の歴史と謎』より。
2024.06.20
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現在の郡山市は、隣接する須賀川市、本宮市そして三春町を含めれば、人口約50万になる県内随一の都市圏です。そうすれば仙台の半分の人口になるのですから、地下鉄は無理としても、郡山を通る鉄道網をうまく利用できないかと思っています。郡山市は、在来鉄道、国道、高速道の十字路であり、その上、新幹線そして近くには空港も擁する交通の要衝でもあります。しかしこの域内での公共交通機関を考えた場合、果たして「便利だ」と言えるでしょうか。このことは郡山を訪れる多くのビジネスマンがよく口にする、「郡山は出入りするのには便利だが、市内を移動するのには不便だね」という言葉を重く受け止めるべきではないかと思っています。そう言われるのは、50万都市圏内の交通体系が整備されていないことにあると思われます。バスも含めて、もう少し交通機関の流れを整備する必要があるのではないでしょうか。またその一方で、周辺の各市町村も、一通りの公共設備を揃えようとする意欲も大きいと思われます。それらについての経済性を考えたとき、果たしてこれは有効なことなのでしょうか? お互いの市町村の設備を利用し合うことで、それぞれの経済性を高めることが出来ないものでしょうか。そしてこのことはまた、郡山市の目指しているコンベンション・シティの主旨にも合致するものと思われます。しかしそのためには、まず50万都市圏内の交通を便利にする必要があります。ともあれ、この約50万の人口に比して、現在存在するJRの駅と、混雑する道路上のバスやマイカーによる交通は、考え直すべき時期に来ていると思われます。この不便であるという最大の理由は、現在JRでもバスでも公共性の高い乗物は、そのすべてが郡山駅を始発とし、終着としている点にあると思います。ここに問題があるのではないでしょうか。幸い郡山駅には、在来線の東北本線上下、磐越東西線、水郡線の5本の鉄道が集中しています。しかしマイカーが普及する中で、鉄道の衰退は誰の目にも明らかです。そこで考えられるのは、この集中する鉄道網を見直し、これら各線にある駅の間に、新たにミニ駅を多く作って相互乗り入れとし、鉄道と町の活性化につなげるというのはどうでしょうか。 例えば磐越西線、磐越東線、水郡線からも東北本線に乗り入れるという考え方が出来ないものしょうか。つまり今は、郡山駅に着いてからの先へは、必ず乗り換えをしなければなりません。距離的にはたいしたことがないのに、乗り換えやなんやかやで時間がかかるわけで、この時間的ロスも利用者の負担なのです。そこで、郡山駅が始発・終着ではないと考えてみればどうなるでしょうか。例えば郡山駅を山手線の上野駅や東京駅のようにスルーするという位置づけで考えられないでしょうか。現実に東京の山手線などには、2キロメートル程度の間隔にある駅の数は少なくありません。このような間隔で新しくミニ新駅を貼り付ければ、通勤、通学、買物客、そして高齢化社会にも合わせた便利な鉄道になると思われます。 (一)ミニ駅の提案 1…ミニ駅は、東京都電の停留所程度の一両分の長さ のホームとして費用を抑え、安全確保のため、 新幹線のようなホームドアを設置する。 2…ミニ駅は無人駅を原則とする。 3…水郡線は福島空港までの延伸が望ましい。しかし 無理の場合、川東駅からデユアル・モード・ビー クルを導入する。なお、デユアル・モード・ビー クル(Dual Mode Vehicle)とは、列車が走る レールと自動車が走る道路の双方を走行出来るよ うに改造されたバス車両のことで、これにより、 郡山市内より福島空港まで乗り換えなしで、 しかも交通渋滞に巻き込まれることなく、定時を 確保しての運行が可能となる。また、荒天などの 際の成田国際空港のサブ空港と しての位置付けをしたらどうか?。 4…予想図作ってみましたが、熱海3丁目ミニ新駅・ 本宮の竹花ミニ新駅・三春駅・須賀川の一里塚 ミニ新駅と川東駅には大駐車場を作り、郡山市 の中心部へ入るマイカーを規制する。 (二)運行の提案 1…郡山駅には新に通過駅の性格を持たせ、東北本 線、磐越東西線、水郡線の相互乗り入れとする。 2…現在あるJRの駅は、快速電車の停車駅と考え、 ミニ新駅には短時間の間隔で一両の鈍行として 運行する。ただしJRのダイヤには変更を加え ず、空いてる時間を利用する。 3…郡山駅周辺への通勤に電車を使う人が多くなり、 従業員のための駐車場の確保が楽になる。 4…運行主体としてはJRが理想であるが、もし無 理なら私鉄に経営を依頼したり、バス会社を含 めた新会社設立も考えられる。 (三)ミニ駅の周辺には、多くの施設が存在して いるので、少し具体的に見てみます。 1…東北本線北部には宝沢沼ニュータウン 日和田 ニュータウン 本宮高校。 2…東北本線南部には郡山東高 三菱電機 郡山警 察署 自動車街 ビックパレット 福島県郡山 合同庁舎 東都国際ビジネス専門学校 日本大 学 日大付属高 清陵情報高校 須賀川北部工 業団地 須賀川高校 須賀川桐陽高校。 3…磐越東線には南小泉ニュータウン 福島県理工 専門学校 田村高校。 4…磐越西線には富田東ニュータウン、郡山北警察 署 奥羽大学 郡山北工業高校 百合ヶ丘ニュータウン南東北 卸団地 熱海ユラックス 熱海アイスアリーナ 太田熱海病院 磐梯熱海温泉 5:水郡線には清陵情報高校・福島空港 これら実行の結果として、郡山の新市域の形成に大きなインパクトを与え、鉄道での通勤通学者が増え、なおかつ通勤者の場合などは帰りがけに映画を見たり、『赤のれん』に寄るなどで町の活性化にもつながり、域内の街自体も大きく変貌することが考えられます。私は、これらのことが議論の対象になればいいな、と思っています。
2024.06.10
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昭和二十一年二月、東北本線に進駐軍専用列車が定期的に運行されるようになりました。私はそれを郡山の駅で見たのかどうかの記憶ははっきりしませんが、満員で押し合いながら乗り、果ては客車の屋根にへばり付いて乗った列車の中から、幼稚園くらいの女の子であろうか、可愛いい服で着飾ったその子を連れたアメリカ軍人の家族三人が、客車一両を独占して楽しそうに遊んでいたのを思い出します。幼いながらも私は、駅で汽車の来るのを待つ度に、そしてこのような客車を見るたびに、敗戦国の哀れさを感じたものでした。 戦後、白河と棚倉間を走っていた白棚線の復活は検討されたものの、最終的に鉄道としての復活が断念されました。しかし線路敷を専用道路に転用し、バスによる国鉄白棚線として復活しました。現在もJR東日本により、蒸気機関車がラッピングされたバスが運行されています。評論家の戸塚文子さんが、国鉄時代の昭和三十二年六月七日の日本経済新聞の『行楽』欄に掲載された随想が残されています。『中村メイコさんの「田舎のバスはオンボロ車・タイヤはつぎだらけ・窓は閉まらない」という歌でおなじみだが、どういたしまして、ここではチョット都会でも目立つくらいのスマートな新車が走っている。続いて「デコボコ道をガタゴト走る」という文句にも例外はある。それが東北本線白河から水郡線磐城棚倉へ最近開通した国鉄バスの白棚高速線である』 この歌の内容にも、一理ありました、当時は舗装された道路が少なくそれも市街地に限られ、それこそ田舎の道には、時折、砂利が敷かれて補修はされましたが、雨が降れば泥水の池がそこここに出来、歩くのもままならぬ状態だったのです。国鉄バスが通るために舗装され、しかも直線が多いこの道は、周辺地域の垂涎の的だったのです。 国鉄以外で廃線とされたものに、伐採をした材木を運ぶ目的であった森林軌道の本宮〜大玉間、小野新町〜川内間、浪江〜葛尾間を結んでいましたが、その他にも、磐越東線の神俣駅と大滝根山からのセメントの原料となる石灰石を運んでいたロープウェイが消えていきました。戦後はマイカーの普及とそれに伴う国鉄分割民営化により、廃線が相次いでいます。 昭和二十五年六月二十五日、突如、北朝鮮が韓国に攻め入り、アメリカ軍を主体とする国連軍がこれに応戦する事態が発生しました。いわゆる朝鮮戦争です。国内では、国連軍の発注する食料や物品、そして戦いで破損した戦車や武器の修理などの仕事が増え、国内経済が潤いました。朝鮮特需と言われた好景気です。この戦いは昭和二十八年まで続いたのち、現在も休戦状態となっています。そのようななかで、国鉄も復興に取り組むことになり、東北本線も、複線化や電化への動きが加速されることになります。 郡山は、暴力団抗争などが相次いで起こることから、治安の悪い街『東北のシカゴ』という不名誉な異名が広がっていました。その悪名をなんとか払拭しようとして考えられたのが音楽であり、『東北のウェーン』を目指す運動が高まりました。昭和二十四年、郡山音楽協会が発足し、女性合唱団や男性合唱団が結成され、市民の音楽活動が活発化します。昭和二十九年には、国鉄郡山工場大食堂で『NHK交響楽団郡山公演』が開催され、その後も『ウェーン少年合唱団』や『ドンコサック合唱団』などの来演が相次ぎ、それが契機となって『十万人のコーラス運動』に発展しました。このような市民が一丸となった運動により、音楽都市が郡山の代名詞となりました。しかしこの時代、郡山には、オーケストラの演奏会ができるような大きな公共施設がありませんでした。そのため会場は、国鉄郡山工場の大食堂が使用されたのです。 昭和三十年十一月、国鉄は主要幹線を十年で電化することになり、上野駅と盛岡駅聞が、第一期計画に編入されました。そして翌年の八月三日、大宮駅と宇都宮駅間の直流電化の起工式が行われました、 昭和三十五年三月、黒磯駅を宇都宮駅までの直流とその先の駅の交流区間との接点駅として工事を進め、黒磯駅と福島駅の間が交流による電化が完成しました。さらに十一月二十二日、郡山駅と安積永盛駅の間が複線化されたのを皮切りに、県内全線の複線化工事がはじまり、七年後の昭和四十二年九月二日、県内の全てが複線化されました。 昭和四十年、郡山機関区は貨物の取扱を開始し、傘下の郡山操車場が郡山貨物ターミナル駅に昇格しました。郡山市はこれを契機に、安積郡九町村及び田村郡三町村を吸収合併、人口約二十二万人を数える全国有数の広域都市となったのです。 昭和四十二年十月、国鉄は東北本線の始発駅を東京とする時刻改正を行い、これまですべての東北本線の列車が上野止まりであったものを、二往復ではありましたが、東京駅始発としました。これにより、ようやく東北本線が東京駅始発という本来の姿に戻りはじめたのです。 昭和四十三年九月、国鉄諮問委員会が提出した意見書により、『使命を終えた』として廃止、もしくはバス転換を促す国鉄のローカル線への取組みがはじめられました。国鉄の赤字線は、昭和三十六年度に百九十六線で赤字総額が四百十四億円であったのに対して、四十一年度には二百二十八線、千三百四十七億円に膨れ上がっていたのです。この『使命を終えた』との基準により、全国で八十三線が選定され、国鉄は翌年から地元との廃止協議に入ったのですが、各地で反対運動が起こったため進捗は滞り、廃止協議すらままならない線路も多く、難航しました。県内でも、第二次特定地方交通線に指定された川俣線と日中線の廃止が決定され、会津線の西若松駅と会津滝ノ原駅の間も廃止が決まりました。しかしこの鉄道は会津鉄道株式会社の会津線に転換することで、生き残ることになります。 昭和四十七年五月、JR松川〜岩代川俣間の川俣線が廃止されました。川俣線は延伸して常磐線に接続する予定であったのですが、不発となってしまいました。そして七月一日、磐越西線の郡山駅から喜多方駅までが電化されました。 昭和四十九年十月、喜多方〜熱塩間の日中線が廃止されました。日中線は米沢まで伸ばし、会津線と東武日光線を経由して東京までつなごうとしていた鉄道だったのです。 昭和五十七年、東北新幹線が大宮駅と盛岡駅間で暫定開業をし、上野駅と大宮駅の間には新幹線リレー号が運行されました。 昭和六十年三月、東北新幹線の上野駅と大宮駅間が開業しました。これにより、大宮駅での新幹線リレー号への乗り換えが不要になったのです。 昭和六十一年七月、JR丸森線が廃止され、福島と宮城両県と沿線の市町は第三セクター鉄道への転換を選択し、丸森線を引き継ぐ阿武隈急行株式会社を設立しました。阿武隈急行線の全線開通および電化は昭和六十三年に完成し、地元では『あぶきゅう』の愛称で親しまれています。 昭和六十二年四月一日、国鉄の分割民営化が実施されました。国鉄はJapan Railway JRとして、北海道旅客鉄道・東日本旅客鉄道・東海旅客鉄道・西日本旅客鉄道・四国旅客鉄道・九州旅客鉄道・日本貨物鉄道に分割されて民営化されました。 平成三年六月、東北新幹線は東京駅と上野駅間が開業し、東京駅が東北新幹線の始発駅となりました。そしてこの七月、JR会津線を引き継いだ会津鉄道会津線、西若松〜会津高原尾瀬口駅間は、野岩鉄道鬼怒川線を経て東京の浅草へつながったのです。 平成五年十二月、郡山貨物ターミナル駅と郡山貨車区が統合され、郡山総合鉄道部が設置されました。 平成十年、郡山操車場の跡地に、福島県産業交流館、通称『ビッグパレットふくしま』が建設されました。 さて日本では、二〇二七年を目処に、品川駅と名古屋駅の間を結ぶ、リニアモーターカーによる中央新幹線の営業運転開始を目指しています。その距離286キロメートルを、40分で走るとされています。新幹線に続いてのこの鉄道は、大きな夢を描かせるものとして期待されているものです。なおリニアモーターとは、軸のない電気モーターのことで、一般的なモーターが回転運動をするのに対し、基本的に直線運動をするモーターのことです。超電導リニアの最初の開発者であり、『リニアの父』と言われた京谷好泰(きょうたによしひろ)氏が名付けたのがこの和製英語でした。
2024.06.01
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昭和十一年、郡山機関庫は、郡山機関区に改称されました。ところがその翌年の七月七日、中国北京郊外の盧溝橋で日華両軍が衝突したのです。日本政府の不拡大方針にも関わらず戦火は拡大し、やがては太平洋戦争、そして敗戦という泥沼に足を踏み入れて行くことになります。駅にも『日本精神の発揚』『撃ちてし止まん』などのスローガンが大大的に掲げられ、駅頭では『祝・出征◯◯君』という『のぼり』と日の丸の旗で送られる若者の姿が、多く見られました。国内では『石油の一滴、血の一滴』と叫ばれ、国鉄の気動車の運行にはガソリンの使用を止め、木炭を燃焼して作る木炭ガスが使用されました。しかしこれが力不足のためうまく働かず、結局は石炭を使用する蒸気機関車のみでの運行となったのです。 昭和十九年、白棚線は不要不急線として休止され、レールなどが撤去されました。このレールなどは、おそらく戦地でのレール不足、そして鉄資源として、兵器などに改鋳されたものと思われます。そしてこの年、日本海軍の大槻飛行場の工事がはじまりました。『大槻飛行場工事用軌道(http://kaido.the-orj.org/rail/otk.htm)のHPによりますと、『昭和十九年十一月に起工式が行われ建設工事がはじまったのですが、未完成のまま終戦を迎えています。この軌道は、飛行場建設の際、必要な石材を大槻町葉山の石切場から運搬するための軌道として設置されたそうですが、その痕跡は残されていないようです。しかし、この工事に伴い、石切り場となった葉山に鎮座していた葉山神社が、基地建設にあたった山谷部隊により、東に建っていた春日神社の裏に、やや大型の石造の祠に遷宮され、右側面には、「昭和二十年 山谷部隊 再建」とあります。『再建』とあるのは、おそらく葉山神社を遷宮した折、老朽化していた祠を新造したからではないかと思われます。左側面には、社司、町長、総代の名が刻まれていた。ある意味、戦争の犠牲になった神社であるが、今でも大切にされているようで、なによりであった』とありました。恐らくこの祠の右側面の文字が、唯一、飛行場工事用軌道の存在した証拠なのかも知れません。ただこの軌道の動力ですが、この石切場のあった大槻町葉山下から工事現場までは、一キロートルにも満たない近距離であったことと、敗戦直前の物資不足の時期から想像すると、内燃機関などの動力ではなく、牛か馬、もしくは人力によって運行したものと想像できます。なおこの山谷部隊は、海軍の部隊であろうとの推測はできるのですが、それ以上についての詳細は、分かりませんでした。 郡山は、昭和二十年四月十二日、そして同じ年の7月二十九日、八月九日、および八月十日の、合わせて四回の大空襲を受けています。当時の郡山市は、郊外の田村郡高瀬村に第一から第三までの海軍航空基地、、これは今の日本大学工学部と郡山工業団地になりますが、その他にも、今の希望ヶ丘に陸軍を抱えており、大槻には新たな海軍飛行場の工事がはじまっていたのです。場所は、いまの陸上自衛隊郡山駐屯地のある所です。しかも郡山は軍都と指定されており、隣の三春にも陸軍第七十二師団第百五十五連隊本部が駐屯していたのです。その他にも、エンジンのノッキングを防ぐ四エチル鉛を製造していた保土谷化学郡山工場、そして中島飛行機郡山工場、さらには軍需工場となっていた三菱電機郡山工場や日東紡績などがあり、その上、軍需工場として関東地方で操業していた親会社と共に疎開して来た下請けの工場があったのです。そのためもあってか、アメリカ軍のB29爆撃機の波状攻撃の目標にされたものと思われます。もっとも被害の大きかったのが四月十二日の空襲でした。この日、数十機からなるB29爆撃機の編隊が来襲、第二百五十二海軍航空隊所属の四機の戦闘機で迎撃に向かったのですが防ぎきれず、保土谷化学郡山工場、日東紡績富久山工場などを中心に爆撃を受け、郡山駅まで被害に遭っています。死者は学徒動員された現在の白河旭高校の生徒が十四名、郡山商業高校が六名、安積高校が五名、安積黎明高校が一名のほか周辺住民などの合計四百六十人で、堂前の如宝寺には保土谷化学郡山工場における学徒動員の死者二十六名の慰霊碑が建立され、毎年四月十二日に慰霊祭が行われています。 昭和二十年七月二十日、核物質こそ用いてはいなかったものの、模擬原爆が全国いくつかの都市に落とされました。アメリカ軍は、それによって原爆を投下するための搭乗員を訓練し、爆発時の効果を予測するためのデータを得ようとしていたようです。模擬原爆の福島県での投下は、福島と郡山と平の合わせて六弾でした。郡山に落とされた一弾は、日東紡績郡山第三工場、いまのザモール郡山店に、そしてもう一弾は、当時の郡山駅構内のトイレ前のポイントの切り替え場の付近に落とされました。なお戦後になってからですが、郡山駅を利用していた私は、この落された場所を鮮明に覚えています。話を戻しますが、この項は、 テレビ朝日の報道番組、平成十五年八月十八日に放映されたスクープスペシャル、『幻の東京・原爆投下作戦・天皇を狙った男』からの抜粋です。この番組の中で、アメリカ国立公文書館で見つかった文書が放映されていましたが、そこには間違いなくKoriyamaの文字が映し出されていました。もしこの文書が放映されることが前もって分かっていたらビデオに取っていたのにと、今でも残念に思っています。それにしてもアメリカ軍は、いつの時点かは不明ですが、戦後になってから着弾地点まで調べているのですから驚きます。また郡山への模擬原爆投下については、平成二十五年に出版された工藤洋三・金子力共著の『原爆投下部隊 第509混成軍団と原爆・パンプキン』にも記述があり、その百十三ページには郡山駅へのパンプキン投弾の損害評価と写真が載せられているそうです。 戦中は国鉄ばかりではなく、私鉄も多くの被害に見舞われました。これはアメリカ軍の爆撃によるものもありましたが、人員や資材の不足が大きな理由であったとされます。しかし戦中は報道管制が敷かれていたので、これらの詳細が一般に知られるようになったのは、戦後になってからのことでした。
2024.05.20
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9 鉄道事故 ところで、鉄道の事故は、決して少なかったわけではありません。ただそれらの全部を載せることは難しいので、いくつかを取り上げてみたいと思います。 明治四十二年六月十二日、奥羽線赤岩信号所、いまの福島市大笹生字赤岩から発車した列車が、急勾配の第十三号トンネル内において、蒸気機関車の動輪が空転を頻発していました。その際、後部補助機関車内の機関手および機関助手は蒸気により窒息し、昏倒してしまったのです。異常に気づいた本務機関車の機関手は非常制動をしようとしたのですがブレーキが効かず後退し、そのまま列車は赤岩信号所構内に入って脱線転覆したのです。木造の客貨車は粉砕され、乗客一人が死亡し、二十七人が負傷、職員は三人が死亡し三人が負傷しました。後に、米沢駅構内に、この事件の慰霊碑が建立されています。 昭和十年十月二十七日、磐越東線の川前駅と江田信号所間において、豪雨のため土砂が崩壊し、これに乗り上げた列車が転覆して落下しました。翌々日の二十九日付『常磐新聞』に、記事が記載されています。『磐越東線・開通以来の大椿事・汽車川前渓谷に転覆・死傷者数拾名を出す』『廿七日午後六時廿二分平驛着豫定の磐越東線より二〇旅客列車が約三十分遅れ川前驛を發車五時五十分ころ小川郷驛間夏井川第一鐵橋を通過して間もなく折柄の豪雨で線路が浮いている處へ爆進して来た為め機關車、郵便小荷物緩急車、二三等混合列車、三等車の四輛が脱線し折り重なって数十尺下の闇の河中へ墜落し、乗客死傷者数十名を出し小川郷驛に一先ず収容した。小野新町よりは醫師、看護婦、在郷軍人、青年團員等を乗せた救援車を出し、一方川前驛前永山徳一氏所有の別荘に死傷者を収容、應急手当を加えている。死傷者は左の如くである。(以下略)』 昭和24年7月5日に下山事件が、そして同じ月の15日に三鷹事件が、翌月の17日には松川・金谷川事件が立て続けに発生しました。この三つの事件は、国鉄三大ミステリー事件とされて、いまだにこれらの事件の真相は明らかにされていないのです。この最初に起きた下山事件は、行方不明になっていた国鉄総裁下山定則氏が常磐線綾瀬駅付近で 轢死(れきし)体となって発見されたもので、当時のGHQの指示により、下山総裁が国鉄職員の大量整理案を発表したことで、労働組合が反対闘争を盛り上げていた最中の事件でした。この事件は、他殺か自殺かの議論を巻き起こし、労働運動に大きな打撃を与えたのですが、事件の真相は不明のまま捜査が打ち切りとなっています。 次に起きたのが三鷹事件で、国鉄の中央本線三鷹駅構内で起きたもので、無人列車が暴走、脱線転覆して六人が死亡した事件です。この事件で単独犯として死刑判決が確定した運転士の竹内景助元死刑囚は、その後に無実を訴えて再審請求をしたのですが、予備審査中に病死してしまいました。遺族が申し立てた第二次再審請求で、東京高裁は令和元年七月にどの請求を退けました。弁護団は異議を申し立てたのですが棄却され、令和五年三月、最高裁に特別抗告をしている事件です。 そしてその年の八月十七日、東北本線の松川駅と金谷川駅の間で、青森発上野行列車の機関車と客車五両が脱線した列車往来妨害事件は、いわゆる松川・金屋川事件といわれるものです。現場はカーブの入口の場所で、当時は単線でした。ここで、先頭の蒸気機関車が脱線して転覆したのち、後続の荷物車二両、郵便車一両、客車二両も脱線しました。この事故により、機関車の乗務員三人が死亡しています。現場検証の結果、転覆地点付近の線路継ぎ目部のボルトおよびナットが緩められ、継ぎ目板が外されていたことが確認され、さらにレールを枕木上に固定する犬釘も多数抜かれており、長さ二十五メートル、重さ九百二十五キロのレール一本が外されており、ほとんどまっすぐなまま十三メートルも移動されていました。周辺を捜索した結果、近くの水田の中からバールとスパナがそれぞれ一本ずつ発見されたのです。明らかに人為的な事件です。この事件は、下山事件および三鷹事件に続く鉄道事件として世間の注目を集め、事件の翌日には、当時の増田甲子七内閣官房長官が「三鷹事件などと思想底流において、同じものである」との談話を発表し、政治的事件であることを示唆しています。捜査当局は、当時の大量人員整理に反対した東芝松川工場、いまの北芝電機の労働組合と国鉄労働組合構成員の共同謀議による犯行とみて捜査を行ったのです。事件発生から24日後の9月10日、元国鉄線路工の少年が傷害罪で別件逮捕され、松川・金谷川事件についての取り調べを受けました。少年は逮捕後9日目に松川・金谷川事件の犯行を自供し、その自供に基き、9月22日、国鉄労働組合構成員5名および東芝労組員2名が逮捕され、10月4日には東芝労組員5名、8日に東芝労組員1名、17日に東芝労組員2名、21日に国鉄労働組合構成員4名と、合計20名が逮捕者の自白に基づいて芋づる式に逮捕・起訴されたのですが、無実を示すアリバイなど重要な証拠が捜査機関により隠されていたことがのちに判明、死刑判決から5回の裁判を経て逆転無罪が確定し、事件そのものは闇に葬られてしまいました。なお昭和25年9月、現場近くに『殉難之碑』の除幕式が行われ、そのかたわらに、三春町の石材業・鈴木宗兵衛が地蔵尊を建立しています。 他にも当時の国鉄では松川事件と類似した列車脱線事件が発生しています。 『国鉄三大ミステリー事件』とされた事件の一年前の昭和二十三年四月二十七日、いまの福島市町庭坂の奥羽線赤岩〜庭坂間で、脱線転覆事件が起き、三名の死者が出ました。脱線現場付近の線路継目板が二枚、犬釘六本、ボルト四本が抜き取られていました。犯人は分からないまま、庭坂事件と言われました。 そして、『国鉄三大ミステリー事件』の起きた二カ月前の昭和二十四年五月九日の予讃線事件は、愛媛県難波村の、予讃線の浅海(あさみ)駅と伊予北条(ほうじょう)駅間で起きた列車転覆事件で、機関助士一名が即死、機関士二名と乗客三名が負傷しました。この年に発生した松川・金谷川事件と同様の手口であり、なんらかの意図を持って行われた鉄道テロであると言われていたのですが、これらの事件の真相は明らかにされぬまま、これまた未解決の事件となっています。 昭和二十六年五月十七日に発生した『まりも号脱線事件』は、根室本線の新得駅と落合駅間を走行中の急行列車『まりも号』が、北海道上川郡新得町郊外で脱線させられた未解決の事件です。何者かがレールを故意にずらし、脱線転覆を図った列車往来危険事件であることは間違いのない事件でした。これには専門的な知識や技術が要求される犯行であるため、当初は内部犯行の容疑が掛けられ、約六百人の国鉄および労働組合関係者が捜査対象となったのですが、これも未解決に終わっています。 このような事件が続発しながらも未解決に終わったことについては、当時の世界の情勢を見てみなければならないと思います。昭和二十四年、中国大陸においての国共内戦で、中国共産党軍の勝利が決定的となり、朝鮮半島でも三十八度線を境に親英米政権と共産政権が一触即発の緊張下で対峙していたのです。このような国際情勢の中、戦後の日本占領を行うアメリカ軍やイギリス軍を中心とした連合国軍は、対日政策をそれまでの民主化から反共の防波堤として位置付ける方向へ転換したのです。いわゆる逆コースです。いまも多くの識者の間では、これらの事件が日本の共産主義者を壊滅させるため、占領軍の関係者の陰謀による一連の事件と考えられているのです。 平成二十三年三月十一日、宮城県牡鹿半島の東南東百三十キロメートル付近を震源とする大地震が発生しました。マグニチュードは、昭和二十七年のカムチャッカ地震と同じ九・0で、日本国内観測史上最大の規模でした。しかも直後に襲った大津波、加えて東京電力福島第一原子力発電所事故による、放射能拡散の大災害が発生したのです。これにより、東北を結ぶ常磐線は、大津波に加えて放射線による大きな被害を受け、広範囲で不通となりました。しかも富岡〜浪江間は長期間にわたって帰還困難区域を含んでいたため、運転再開には至りませんでしたが、富岡町、大熊町、双葉町の一部のエリアで避難指示が解除され、令和二年三月十四日には、富岡駅〜浪江駅間が再開して全線の運転が再開されました。九年の時を経て、ようやく全線が開通したのです。しかし被害を受けた駅周辺の避難指示は解除されたものの、周辺一帯は放射線量の高い帰還困難区域のままです。 一方の東北新幹線は、福島駅と白石蔵王駅の間を走行していた十七両編成の『やまびこ223号』が脱線、この十七両編成のうち十三号車以外の十六両が脱線してレールから外れたのです。また、一部の車両がレールから大幅にずれて傾くなどの被害が確認されたほか、電柱や架線、高架橋の橋脚など約千百ヶ所が損傷しました。それでも三月十五日には東京駅と那須塩原駅間が再開、同二十二日には盛岡駅と新青森駅間が再開、四月七日には一ノ関駅と盛岡駅間が再開、四月十二日に那須塩原駅と福島駅間が再開して『なすの』が郡山駅まで延伸、山形新幹線も東京までの直通運転を再開しています。また東北本線も、これに合わせるように復旧し、四月二十九日には上野駅から本宮駅間が再開、五月五日には福島駅まで、十日には仙台駅までの運転が再開されました。これなどは、やむを得ない鉄道の事故であったのかもしれませんが、これに対応したJRおよびその社員、そして大きな被害を受けた私鉄の関係者の皆さんの努力には、頭の下がる思いがあります。
2024.05.10
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明治39年、日本鉄道が国に買収されたとき、東北に残された旅客私鉄は次の6つの馬車鉄道のみとなっていました。 1 秋田馬車鉄道 明治22年開業 秋田=土埼 2 三春馬車鉄道 明治24年開業 三春=郡山 3 釜石鉱山鉄道 明治27年開業 甲子=釜石 4 角田馬車鉄道 明治32年開業 槻木=角田 5 古川馬車鉄道 明治33年開業 小牛田=古川 6 磐城炭坑軌道 明治38年開業 湯本=小名浜 このときの奥州線に関係があったのは三春、角田、古川の馬車鉄道でした。そのいずれもが、その地方の中心地として栄えていた町だったのです。しかもそれらの町は、奥州線建設のルートにのらなかったということで共通していた鉄道でした。 この明治39年に行われた鉄道の国有化が、今まで使われていた駅の名に大きな問題を投げかけることになってしまいました。というのは、今まではそれぞれ別の会社による運営でしたから、同じ名の駅が他の会社の路線にあっても特に問題はなかったのですが、国有化で全国の線路を集中的に管理する必要が起こったため、同じ名の駅があちこちに出来てしまったのです。運営上の問題で困った国鉄は、同じ名の駅の名が付けられた時期を較べ、先に出来た駅の名はそのままとし、後から出来た駅には、旧国名を頭に付して、区別することにしたのです。例えば渋沢栄一の関係した岩越線熱海駅は、東海道線熱海駅の後に作られたため、岩代熱海駅とされました。なお岩代熱海駅は、磐梯朝日国立公園の入り口にあたるとして、昭和40年に、磐梯熱海駅と駅名を変えています。 ところで岩代熱海駅ができたころ、五百川から北、つまり熱海から中山宿あたりまでは安達郡でした。ところがこの辺りの人が二本松にある安達郡役所に行くのには、安積郡役所のある郡山駅で乗り換えて行かなければならなかったのです。これは何とも不都合、不便極わりないことだったのです。そのためここは安積郡に編入され、結局郡山市になっています。 駅名については国鉄の方式で大方は落ち着いたのですが、郡山駅が問題となりました。奈良県の郡山町から、イチャモンがついたのです。奈良県の郡山駅は、明治23年に私鉄の大阪鉄道が奈良駅と王寺駅間を開業した際に、これらの駅の間の駅として設置されたものです。ところが福島県の郡山駅は明治20年に開設していますから、国鉄のルールに従うと福島県の郡山駅はそのまま、奈良県の郡山駅は旧国名の大和を冠して、『大和郡山駅』と改名される筈だったのです。ところが奈良県の地元住民が承服せず、奈良時代より続く東大寺の古文書を持ち出して、「奈良の郡山の方が古い歴史があるから、福島県の郡山は岩代郡山駅とするように」と陳情したというのです。福島県の郡山駅がどのような対応をしたのかの詳細は分かりませんが、結果として、双方とも郡山駅のままに落ち着いたのです。しかし国鉄では、東北本線にある郡山駅と関西本線の郡山駅とを区別するため、乗車券類には『(北)郡山』と『(関)郡山』とカッコでそれぞれの線の略称が加えられ、現在に至っています。郡山駅で乗車券をお買い求めになるときにでも、確認してみられたらどうでしょうか。ところがこれには、後日談があるのです。 奈良県の郡山町は、奈良県添下郡(そえじもぐん)郡山町でした。それが明治9年に添下郡の筒井村と合併して生駒郡郡山町となり、さらに昭和28年に周辺の町村を合併しました。そして昭和29年1月1日に生駒郡郡山町が市制を施行したのですが、市名を『大和郡山市』と定めたのです。なんのことはない、あれほど大騒ぎをして『(関)郡山駅』としたのに、結局は『大和郡山市』に所在することになったのです。それなら駅の名も、『大和郡山駅』にしてくれれば、お互いに『関』と『北』が取れてスッキリするのにねェ。まあ余計なことは言わないか。 県内の駅の名ですが、例えば磐越東線には、旧国名をつけた磐城常葉駅があり、常磐線にも磐城太田駅があります。また水郡線には、磐城守山駅、磐城石川駅、磐城浅川駅、磐城棚倉駅、磐城塙駅、磐城石井駅と続くのですが、この線が茨城県に入ると、途端に常陸国ですから常陸大子駅となるのです。なお水郡線としての終着駅は安積永盛駅ですが、全線郡山駅まで乗り入れています。ちなみに安積永盛の駅名は笹川駅だったのですが、昭和6年に成田線の笹川駅開業に先立ち、安積永盛駅に改められたものです。なぜ岩代永盛駅ではなく安積永盛駅になったのかは、駅の所在地が安積郡永盛村であったので、郡名の安積を冠したものと思われます。なお岩代や磐城のつく駅の名は、このほかにもあります。私鉄になりますが、飯坂線の岩代清水駅です。そして廃線となって今はなくなりましたが、川俣線の岩代川俣駅と岩代飯野駅、さらに白棚線の磐城金山駅・磐城逆川駅などでした。しかし、岩代の名を冠した駅のある場所から考えると、岩代国と磐城国の境は、阿武隈川より東に入った箇所もあったようです。なお会津方部の駅には岩代ではなく、会津若松駅のように会津の名が冠されています。というのは、九州の筑豊本線に若松駅があったのです。当時の福岡県若松市で、現在の北九州市若松区です。それを避けるために冠した会津が、会津全域に広がったものと思われます。ところで新潟市秋葉区新津にある新津駅は信越本線に所属しており、ここは磐越西線の終点であると同時に羽越本線を加えた3路線が乗り入れています。ところが磐越西線の列車は、この信越本線を利用して新津駅から新潟駅まで乗り入れていますので、磐越西線は郡山と新潟間と思っている方が多いと思います。磐越高速道路が郡山と新潟間なのに対して、磐越西線が郡山駅と新潟駅の間でないのが不思議なようです。 話が変わりますが『東北本線』、いま私たちは何の疑問もなくこの名を使っていますが、国有化直後は旧日本鉄道、また奥州線と呼ばれていました。大正14年11月1日に神田駅と上野駅間の高架橋が竣工して東京駅までつながったのです。東北本線はこの時より『原則』として東京駅が起点となったのです。しかしこれによって、ただちに東北本線の列車が東京駅を始発駅とした訳ではありませんでした。ですから、上野駅が東北本線の起点と思っていた方は、意外に多いと思われます。これは昭和42年10月1日になってから、盛岡発の特急『やまびこ』と仙台発の特急『ひばり』が東京駅に乗り入れたのですが、それまでの東北本線の列車は、すべて上野始発、上野終着となっていたからです。また一方の常磐線は、常陸(ひたち)と磐城(いわき)の頭文字を合わせたもので、東北本線のバイパスとして機能しました。常磐線も、上野駅と仙台駅を結ぶ路線と思われがちですが、正しくは東京都側の起点が荒川区の日暮里駅で、宮城県側の終点が、宮城県の岩沼駅です。ただし実質的には、上野駅から仙台駅を結んでいます。 平成29年4月1日、郡山駅と磐越西線・喜久田駅との間に、新しい駅が開業しました。この駅の名について、仮称の段階では『郡山北駅』とされました。ところが平成27年9月5日、JR東日本は、正式名称を『郡山富田駅』と発表しました。本来の手順によれば、すでに栃木県の小山駅から群馬県前橋市の新前橋駅までを結ぶ両毛線に『富田駅』がありましたから、『岩代富田駅』となる筈でした。関係者の間でどのような話し合いがあったかは分かりませんが、この新駅は『郡山富田駅』となったのです。すでに岩代国などの旧国名が死語となってしまった現在、いまさら、岩代富田駅ではなかったのかも知れません。 ところで鉄道には、上りと下りがあります。これの基準は、鉄道の終点が東京に近いかどうかで決められます。例えば東北本線は、青森に向かって下り、青森から東京へは上りとなり、全く同じ理由で水郡線の上りは水戸であり、下りは安積永盛と決められています。それでは、磐越東線と西線はどうでしょうか。この決まりに沿うと、磐越東線は、『いわき駅』の方が郡山駅より東京に近いので、上りの終点は、『いわき駅』になります。そして同じ理由で、磐越西線は新津駅より郡山駅が東京に近いのです。従って磐越西線の上りの終点は、郡山駅ということになるのです。たまたまですが、磐越東線と西線は、新潟より郡山、そして『いわき』までの全線が、西から東へが『上り』になるのです。 昭和2年、国鉄により、西若松駅と芦ノ牧温泉駅の間が開業しました。その後に路線が延伸されていき、昭和9年12月27日、会津田島駅まで延ばされましたが、この線は、昭和62年4月の国鉄分割民営化でJR東日本の路線となった後、同年7月に第三セクター鉄道に移管され、会津鉄道となりました。実は、一部の時刻表などに表記されているのですが、会津線にはちょっと不思議なルールが残っているのです。通常の鉄道路線では、前述したように東京駅に近い駅の方が上りとなるのですが、会津線内の西若松駅と会津田島駅の間だけは、東京駅から遠くにある会津若松駅行きが上り線となっているのです。これは、栃木県との県境を越える野岩鉄道の路線がまだ出来ていない時、会津線は福島県内だけを走る行き止まり路線、つまり盲腸線だったからです。つまり盲腸線の場合は、起点側の駅へ走る列車が上りとされていたためです。福島交通飯坂線も盲腸線ですが、起点である福島駅が飯坂より東京に近いので、規定通りの上下となっています。喜多方駅と熱塩駅を結んだ日中線は計画通りに米沢に達せず、また松川駅を始発駅とし常磐線への接続を予定した川俣線も、ともに盲腸線となってしまいました。しかしここも始発駅の喜多方駅、そして松川駅が東京に近かったので、規定通りの『上りと下り』になっています。
2024.05.01
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7 陽の目を見なかった鉄道 前回までお知らせしたように、福島県でも国鉄、および私鉄でも、多くの路線が建設されました。しかし計画されながらも作られなかったり、また一時期運行されながら廃止されてしまった鉄道もありました。そのような路線のひとつに、大寺専用鉄道がありました。大寺専用鉄道は、いまの会津若松市河東町八田字大林に、猪苗代第二発電所建設のための資材輸送用の専用軌道として、磐越西線磐梯町駅と猪苗代第二発電所の間に敷設されたものです。しかし大正7年、猪苗代第二発電所の完成とともに一旦撤去されたのですが、その後、会津若松市河東町八田高塚乙の猪苗代第三発電所の建設に伴い、大寺駅と猪苗代第三発電所間に再び敷設されました。この専用軌道の途中、猪苗代第二発電所付近で軌道がスイッチバック方式となっていました。しかし大正十五年の猪苗代第三発電所完成後には撤去されています。 もうひとつは、広田専用軌道でした。広田専用軌道は、喜多方市塩川町金橋に、猪苗代第四発電所建設のための専用軌道でした。資材輸送用のもので、磐越西線広田駅より猪苗代第四発電所の間に敷設されました。大正15年の猪苗代第四発電所完成後にこの専用軌道は撤去されましたが、日橋川橋梁は道路橋に転用されて、『切立橋』として現存しています。 乗用の軌道としては、常葉軌道株式会社がありました。これは平郡西線新設の計画では、常葉町七日市場地区に駅が設けられ、同町関本地区を経由して大越駅に抜ける予定であったのですが、鉄道敷設に反対の声が上がったのです。それは常葉町から物資の輸送をしていた馬車組合と農地の解放を渋る農民たちによるものでした。また、政治的な感情も鉄道敷設問題に影響を与えました。当時、憲政会と立憲政友会の対立が強まりつつあったのですが、常葉町民は明治初期に当地の戸長を歴任した河野広中を絶対的に支持しており、河野が所属する憲政会の勢力が強い地域であったのです。そこで憲政会を支持する町民は、この鉄道敷設計画は憲政会と対立する立憲政友会の西園寺公望を総理とする政府の計画であるとして反対運動を展開した結果、計画は変更となり常葉町を避けて敷設されたのです。 常葉町の町民は、平郡西線の開業後に鉄道の利便性と重要性に気がつき、町から最短距離にある船引町今泉地区に町名を冠した駅の設置を請願したのです。その際に駅敷地を町民の寄付によって提供することを条件とし、大正10年になって開業しました。ところが常葉町の中心から磐城常葉駅までは距離があり、むしろ船引駅へ出るほうが容易であったため、常葉町民はこの駅の設置後も利便性を享受できず、町民有志による常葉軌道株式会社を設立し、磐城常葉駅より常葉町を経由し、常磐線双葉駅への接続を計画したと言われます。ところが常葉軌道は常葉町まで軌道敷が竣工し、列車の試運転を行って開業寸前だった昭和8年に、負債過多から解散してしまったのです。この歴史を語る記念碑が、いまも磐越東線の磐城常葉駅前に建立されています。 大正11年、小出〜柳津〜只見〜古町線が建設されることになりました。しかし大正12年の関東大震災によって全ての鉄道計画が止まり、そのあおりで中止となってしまいました。そのとき計画された路線は、只見駅から古町駅までの13駅で、只見・楢戸・会津福井・会津長浜・会津亀岡・明和・梁取・和泉田・界(さかい)・鴇巣(とうのす)・会津山口・木伏(きぶし)・会津古町でした。会津古町駅は旧伊南村に属していましたが、町村合併により、現在は南会津町古町となります。ここには、古町温泉があったため、ここへの運行が目的とされたものです。 さて、私は知らなかったのですが、郡山に市内電車の計画がありました。2021年12月に発刊された『明治開拓村の歴史〜福島県安積郡桑野村・安積開拓研究会・矢部洋三氏』の著書より借用させて頂きます。 『幻の市街電車 矢部洋三 大正十三年の市制施行に向けた「大郡山構想」の中で、市街電車を敷設する計画があった。市内最大企業である郡山電気(橋本万右衛門社長)が事業主体となって郡山駅を起点にして桑野村開成山を経由して郡山市街を循環して駅に戻る十五・七キロメールの市内電車であった。大正八年から計画され、大正十二年に発起人代表の橋本が郡山町会の承認を受け、福島県を通じて鉄道省・内務省に敷設許可を申請した。そして大正十四年に計画案への許可が、昭和二年には施行許可も下りた。しかし昭和五年敷設許可が失効して幻となってしまった。その理由は、① 敷設時期の昭和初期が金融恐慌、昭和大恐慌という最悪の経済状況であった こと、② 郡山電気が茨城電力との合併によって東部電力となり、本社を東京に移された こと。③ 敷設の中心人物である橋本が安積疎水疑獄事件で失脚してしまったことであっ た。 なお桑野村は、大正14年6月1日に郡山と合併し、郡山は市に昇格しました。大正13年の市街電車の計画案は、これと関係があったのかも知れません。またこの計画が、郡山電気が主体となって進められたのは、自己の発電する電力の、有効利用を考えたとも思われます。 この他にも、県内の鉄道の中には、各地域で多くの支持を得ながらも日の目を見ない鉄道がありました。それは日中線の先の米沢までであり、完成すれば野州・岩代・羽州を結ぶ野岩羽線となるはずでした。もうひとつの路線は、川俣線で、東北本線松川駅より岩代川俣駅まで開通したのですが、常磐線の浪江まで延伸する予定が中座してしまったものです。さらに計画されたものの未成となった線には、福島〜丸森〜相馬間の福相線、須賀川〜長沼の線、平〜小名浜の線、川俣〜津島の線などがありました。しかし、もしこれらの線は出来たとしても、昭和40年の国鉄民営化に伴う赤字線として、廃線となっていたかも知れません。ところが新幹線にも未成線があったのです。それは福島〜山形〜秋田を結ぶはずの奥羽新幹線です。現在ここは、ミニ新幹線として山形までは整備されましたが、未だ秋田までは通じていないのです。
2024.04.20
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明治39年、帝国議会で鉄道国有法及び帝国鉄道会計法が成立し、その年の11月、日本鉄道は青森まで開通していた路線と、岩越鉄道の開通していた部分が国に買収されました。日本鉄道会社が設立されたときの設立特許条約書の、『五十年後には、政府が会社を買収できる』という条件は、半分の25年後のこの年に実施されることになったのです。政府は、奥州線の線路の約1300キロメートル、車両7636両の他、青函連絡船としてイギリスへ注文していた船舶2隻と職員13473人を引き継いでいます。 明治40年4月1日、鉄道の国有化に伴って新たに帝国鉄道庁が設置され、東北に4ヶ所の営業事務所が置かれました。その一つであった福島事務所は、栃木県の宇都宮駅と岡本駅の中間点より、宮城県の槻木駅と岩沼駅の中間点までを担当しています。この年、岩越鉄道は、国有鉄道岩越線と名称が変更されました。一方,岩越鉄道が買収されたため工事が中断していた喜多方以西は、喜多方と新津の双方から工事がはじめられ、大正3年11月1日、野沢~津川間完成によって、郡山と新津の間が全通しました。しかし国鉄が発足したからといって、すべての鉄道が国有化されるわけではありません。国鉄として手の届かない所に敷かれたのがいわゆる私鉄でした。福島県での私鉄の最初は、明治24年に開業した三春馬車鉄道でした。 明治37年、勿来軽便馬車鉄道(勿来〜白米)を皮切りに、赤井軌道(赤井〜平)、小名浜馬車鉄道(小名浜〜泉)が開通しました。 明治41年、私鉄の信達軌道が福島〜長岡〜湯野町間に開設、その後、保原〜梁川、保原〜掛田〜川俣に延長されました。なお、信達軌道の主体となった雨宮敬次郎は、「天下の雨敬」「投機界の魔王」「明治の鉄道王」などの異名をとった人物です。大正6年には、保原〜桑折に延伸し、福島町内を走るチンチン電車として親しまれました。 明治43年4月21日より上野から郡山間に、そして大正6年6月1日より青森までの全区間に急行列車を運行しています。その停車駅は、赤羽・大宮・小山・宇都宮・黒磯・白河・郡山・福島・白石・仙台・小牛田・一ノ関・盛岡・沼宮内・尻内でした。そして大正15年11月、東北本線線の三大操車場の一つとして、郡山操車場が完成しました、ちなみに郡山操車場は、仙台の長町駅操車場、そして青森操車場と並んでの大操車場だったのです。 大正2年、日本硫黄沼尻鉱山の精錬所から『黄色いダイヤ』と呼ばれた硫黄を沼尻まで索道で運び、そこから磐越西線川桁駅まで運ぶ軌道として初めは人が押す人車軌道が、次いで馬が貨車を引いていたのですが。硫黄のほか猪苗代からの生活物資の運搬、沼尻温泉やスキー場への客を運ぶ足としても利用されていました。やがて沼尻軌道はドイツから『コッペル蒸気機関車』を導入し、運搬量もスピードも飛躍的にアップしましたが、その後も時代の変遷とともに蒸気機関車からガソリンカーと運行する車輌も変わっていきました。全長15・8キロメートルの軌道には、5つの駅と6つの停留所がありました。一時は会津樋ノ口駅より分岐し、長瀬川に沿って秋元湖へ至る裏磐梯観光開発に主眼をおいた路線の建設も計画、認可も得たのですがこちらは未完に終わっています。沼尻鉱山閉山後は観光鉄道への脱皮を図り、磐梯急行電鉄株式会社として再発足しました。観光シーズンの夏は旅行者が多く、冬はスキー客で車内は混雑しましたが地元の集客にはならず、昭和43年に倒産してしまいました。急行列車が無いのに磐梯急行、電車が無いのに電鉄、もはや伝説です。小野町出身の丘灯至夫作詞、福島市出身の古関裕而作曲で知られる歌謡曲『高原列車は行く・汽車の窓からハンケチ振れば』は、この軌道がモデルとされています。 大正3年、磐城軌道が湯本〜長橋間に、その年の7月21日には、平郡西線のうち、郡山〜三春間が開通しました。このあおりを食って、三春馬車鉄道が廃業しています。ちなみに今も、磐越東線阿武隈川橋梁の上流約100メートルの所に、三春馬車鉄道が走っていた橋の橋脚が一つ残されています。この三春馬車鉄道があったころ、日本の馬車鉄道会社は、福島・北海道・石川・静岡に各5社、福岡に4社、群馬、埼玉、山梨、佐賀に各3社など、その数は40社にも及んでいました。いま振り返ると、馬車鉄道は、時代遅れにも感じられるかも知れませんが、道路も舗装されてなく、道路事情の悪かったこのころ、揺れや振動が少なく至極快適な乗り物だったようです。しかし馬の餌や糞尿の問題もありました。それに対して、最初の路面電車は、明治28年に開業した京都電気鉄道で、京都南部の伏見から京都市内まで6、6キロメートルの区間を走ったのですが、しかしこの電車、前後についている運転席が外部に露出しており、馬車鉄道の客車の形式をそのままに残していたのです。 そしてこの年、現在の秋田市金足黒川にあった黒川油田が噴出し、年産15万キロリットルを超える大油田となり、日本有数の油田として注目を浴びました。ところが、地元の土崎製油所だけでは処理し切れず、原油のまま新潟県の沼垂、柏崎、黒井の製油所に輸送していました。しかしここで出来た石油製品は、すでに明治39年の5月より、『軽井沢ト横川間ニ、流油鉄管ニ依ル石油輸送ヲ開始ノウエ、北越鉄道線ヨリ発送シタル油槽貨車ハ、軽井沢ニ於テ流油鉄管ニ放流シ、鉄管ヲ通ジテ横川ニ於イテ流ケル油ヲ油槽貨車ニ放流セシメ、更ニ之ヲ輸送スル』という苦肉の策を講じていたのです。それでも、急勾配が続くため、アプト式鉄道での碓氷峠越えの旧信越線経由では、思うように運べなかった油なのですが、岩越線の全通によってそれが解決されたのです。岩越線は、石油輸送の隘路となっていた信越本線の補助線として距離も時間も短縮され、新潟と東京の間を結んだのです。岩越線のこうした役割が消えたのは、群馬県と新潟県の間にある清水トンネルの完成に伴うもので、上越線の宮内と高崎間が開通する昭和6年まで続いたのです。 大正4年、三春から小野新町まで平郡西線、および平郡東線の平〜小川郷間が開通し、平郡東西線の全てが開通しました。そしてこの同じ年、岩越線の『堀ノ内』駅が今の喜久田駅に改称されています。 大正5年、白河〜棚倉間に白棚軽便軌道が開通しました。そしてこの年、磐城海岸軌道は廃線になった三春馬車鉄道より不要になった車両および資材を購入し、小名浜と江名の間で開業しました。磐城海岸軌道は昭和14年に小名浜臨港鉄道と社名を変更して内燃化し、昭和42年、小名浜臨港鉄道に福島県と国鉄が出資して、第三セクターの福島臨海鉄道となりました。このような経緯をたどった磐城海岸軌道は、現在も貨物専用線となって運行されています。 大正6年、岩越線は、国鉄の磐越西線となりました。 大正8年、全列車に連結していた一等車に大整理が行われ、東北では東北本線と常磐線経由の青森行き急行の一往復のみとなりました。この一等車の整理について、東北では大きな反対論はなかったといわれますが、東海道方面では横浜や神戸あたりに住んでいた外国人から文句が出たそうです。その理由が「日本人は無作法、不規律のため、同席に耐えず」というものであったというのです。もっともこのころの日本人は汽車に乗ると旅館に着いたような気持ちになり、ステテコ一枚になったというのですから、やむを得ない抗議であったのかも知れません。ところが三等車ともなればかなりお粗末で、シートひとつとっても、一・二等車の椅子はバネ入りのクッションでしたが、三等車の椅子は茣蓙敷きだったのです。 大正10年、好間軌道(北好間〜平)が馬車鉄道で開業しています。ちなみにこの馬車鉄道、今の宮崎県西都市八重から銀鏡(しろみ)の間を運行していた銀鏡軌道が、昭和24年に解散していますから、実に67年もの間、わが国には馬車鉄道が存在していたことになります。 大正13年、福島飯坂電気軌道が、森合と花水坂の間で開業しました。 昭和2年、信達軌道は福島飯坂電気軌道を買収し、飯坂西線と改称し、従前から飯坂に乗り入れていた軌道を、飯坂東線としました。しかし昭和46年、飯坂東線が廃止されましたが、旧飯坂西線は飯坂線として現在も営業中です。 昭和13年、喜多方駅と熱塩駅の間に、日中線が開通しました。この鉄道は、栃木県今市市と山形県米沢市を結ぶ東北縦貫鉄道『野岩線』として建設されたもので、途中の駅は会津村松駅、上三宮駅の2駅でした。日中線の開業当初は、1日に6往復あったのですが漸次少なくなり、昭和23年からは1日3往復の客 貨列車混合列車に短縮されました。終点の熱塩駅には転車台があったのですが、その後に撤去され、喜多方発はバック運転、帰りは正常運転で喜多方に戻るという変則運転をとっていました。 昭和15年、国家総力戦体制を構築しようとする当時の日本政府の電力国家管理政策に基づいて作られた日本発送電会社により、秋元発電所の建設のため、沼尻鉄道名家駅より分岐する資材搬入用線を新設されました。 このように鉄道の国有化が進む中でも、多くの私鉄が活躍した様子を、垣間見ることができます。
2024.04.10
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明治20年、この奥州線の恩恵になんとか預かろうとして、若松村は郡山村までの馬車鉄道建設の計画を立てました。その概要は、次のようなものでした。『奥州線ノ線路ナル安積郡郡山ヨリ、同郡堀ノ内村、同郡安子ケ島村、安達郡玉川村、同郡高玉村、安積郡中山村ヲ経テ耶麻郡山潟村ニ至ル八里ノ間、山潟ヨリ北会津郡赤井村字戸ノ口ニ至ル間ハ湖上汽船ノ便ニヨリ、戸ノ口ヨリ若松ニ至ル四里間合計、鉄路敷設ノ里数凡ソ十二里ニシテ、追テ若松ヨリ北部耶麻郡喜多方町、西部河沼郡坂下町ニ通ズル線路ヲ選定シ、業務ヲ拡張スル目的ナレドモ、目下、工事ノ都合ニヨリ、先ヅ郡山・若松ト定ム』というものでした。しかしこの馬車鉄道は、開業するには至らなかったのですが、思わぬ副産物を産んだのです。それから4年後の明治24年、三春馬車鉄道会社の三春〜郡山間が開通したことです。新橋〜横浜間に鉄道が開通してから、実に19年後のことでした。ところが日本にも、新橋〜横浜間に鉄道が開通する以前に馬車があったのです。ちなみに馬車とは客車や貨物車を馬が曳くものであり、馬車鉄道とは、それがレールの上を走るものです。 文久元年(1861年)のころ、横浜の居留地から江戸の公使館の連絡用に使われていましたが、慶応3年には、江戸・横浜間に乗合馬車の営業がはじまりました。明治になって間もなく、東京築地居留地が開かれると横浜・築地間に外国人経営の乗合馬車が相次いで開業したのですが、日本人の利用客はまったくありませんでした。こうした外国人の乗合馬車に刺激され、日本人の経営する馬車会社が、運賃75銭、片道を4時間で営業をはじめています。こうした中で新橋・横浜間に蒸気鉄道が開通するのですが、その10年後に、わが国最初の私鉄(一般運送を目的とするもの)である東京馬車鉄道が、2頭曳きで定員が28人の31輌の客車と、約250頭の馬で新橋と日本橋間のおよそ15キロメートルで開業をしました。停留所は新橋と日本橋の終着地のみで途中に停留所は存在せず、利用者が降りたい所を車掌に言えば下車ができ、乗るときはどこであっても、手を上げれば乗れました。年間3300万人が利用したと伝えられていますから、その盛業振りには驚かされます。 森銑三著の『明治東京逸聞史』には、新聞への投書が載せられています。『鉄道馬車の車掌にも困る。昨日僕が本町から乗ろうと思って停めてくれと呼んだが、あいにく四つ角でなかったから、向こうの辻に来いと言うので半町ほど走らされた。これは馬車会社の規則であるから仕方がないが、僕が乗ってから少し行くと、路傍の家から三人連れの美人が出て来て、かわいい手で車掌を手招きしたら、車掌は四つ角でも何でもないのにすぐ車を停めた。不当である。」「馬車鉄道の駁車台に近き方に腰を掛け居りしに、駁者は鞭を振り過ぎ、革の先で窓の中の客の頭をぶんなぐり申候。」こんな不平や小言を、わざわざ新聞に投書している人があったのですが、これらの記事からも、東京での様子が垣間見ることができます。ところで日本では蒸気鉄道に至るまでの過程がなく、いきなり完成した形のレールと蒸気機関車が入ってきたために、日本では蒸気機関車が先に、逆にその後に、馬車鉄道が入ってきたことになります。そのような明治24年、郡山〜三春間に馬車鉄道が生まれました。そしてその9年後の明治33年9月2日、大阪馬車鉄道が天王寺と下住吉の間で開業しています。この間にも、多くの馬車鉄道が建設されていますが、事業社の数でいえば、地方の貨物の運送を主としたものが遥かに多かったのです。しかしその中でも、三春馬車鉄道が乗用客車での運行が主であったことは、刮目に値することであったのかもしれません。その後も東北各地に馬車鉄道が作られていきます。ところでこの馬車鉄道、奥州線との踏切は木戸と称して汽車が来ると遮断し、通り過ぎるとガチャンと開けて馬車鉄道を通しました。踏切番を常駐させていましたが、線路工夫の古い者とか夫婦者を使っていました、 話を戻します。 明治20年、郡山駅を終着駅として、郡山は上野と直接とつながりました。奥州線が青森まで全通したのは、明治24年になります。県内でも、鉄道の駅と地方の道路を結ぶ交通が盛んになってきました。例えば郡山を中心として、会津若松や平方面など東西の交通のための馬車や人力車の利用が急激に増えたのです。ところで汽車の通過する沿線の各地では、汽車の吐く火の粉による火事が頻発していました。そのため、多くの駅は、機関車の出す火の粉による火事を恐れ、集落から離れた場所に作られたのです。それは郡山も同じでした。現に茅葺き屋根の集落であった笹川駅、この駅は、昭和六年に安積永盛駅と改称されていますが、この沿線の民家が、汽車の火の粉で火災が発生していたのです。 明治26年、鉄道の所管官庁であった工部省が廃止されて逓信省鉄道局となり、鉄道敷設法が審議されました。ところがその条文にあった日本鉄道を国有化する案には反対が多く、廃案とされました。そこで政府は日本鉄道に対して、日本海側の新津と福島県中央部の日本鉄道奥羽線(現東北本線)を結ぶ路線の建設を要請したのです。しかし政府は、『新潟県下新津ヨリ福島県下若松ヲ経テ白河、本宮近傍ニ至ル鉄道』としたため問題となり、本宮、郡山、須賀川、白河が激烈な誘致合戦を演じることになったのです。この4つのいずれの町にも、会津に向かう道、つまり会津街道を有していたのです。郡山では、現在の磐越西線の路線と、長沼から猪苗代湖の南を通り、会津若松に至る路線を提示しながら、その優位性を主張していました。 この年に福島県知事に就任した日下義雄は「地域発展のため鉄道は不可欠」との強い信念のもと、郡山からの路線開通のために奔走し、東京の渋沢栄一のもとにもたびたび相談に訪れています。渋沢は日下に対して「中央からの援助を待つばかりではなく、地元の資産家も資本投入をするべきである」とアドバイスをし、自らも岩越鉄道に出資して設立すると同時に株主を募って創立委員の一員となっています。ただこの時、郡山が提出した鉄道誘致の請願書の第三項が、興味を引きます。それには、『太平洋岸に抜ける場合、三春馬車鉄道があり、平迄の延長工事が容易である』とあったのです。この請願文から指摘されることは、馬車鉄道の細いレールの上を、重量のある陸蒸気が走れるなどと思ったのかという技術的幼稚さではなく、むしろ郡山が馬車鉄道とは言え、既に鉄道の分岐点として存在しているという事実の政治的アピールの方を、高く評価すべきであると思われます。明治20年の奥州線の乗車料は、須賀川〜郡山の上等が20銭、中等が14銭、下等が5銭であったと記録されていますこの時期、郡山は安積平野という自然の好条件と、安積疏水という人工の好条件に加えて、日本鉄道の奥州線と三春馬車鉄道を擁し、更に岩越線のターミナル駅となって交通の要衝としての地位を確立していくことになるのですが、同時にこの疎水の水とこの水力による電力の利用が紡績工業の発展を促し、やがて工業都市としての性格を強めていったのです。この岩越鉄道の整備から導きだされた郡山の交通の要衝への位置確立にとって、三春馬車鉄道の存在が大きく貢献したのかもしれません。 明治29年、福沢諭吉や真中忠直(まなかただなお)らが平〜郡山間に私設鉄道の敷設を計画し、明治30年7月に仮免許状を得たのですが、着工には至りませんでした。 渋沢栄一を擁した岩越鉄道は、明治30年10月15日、郡山に建設部を置き、直ちに工事に着工しました。明治31年には郡山駅と中山宿駅の間が開通しましたが、郡山と会津若松の間は急勾配が多く、中山宿駅はスイッチバック方式を採用し、会津若松駅自体もスイッチバック方式で建設されたのです。明治32年7月26日、会津若松で開業祝賀会が開催され、駅前には杉のアーチが作られて各家では国旗や提灯が飾られ、夜遅くまで山車が練り歩きました。ちなみにこの年の4月1日、会津若松は市制を施行、福島県で最初の市となっています。この年の会津若松の人口は3万480人でした。そして明治36年、創業以来、取締役として岩越鉄道経営に関与してきた渋沢栄一が退任しました。そしてその後の明治37年1月、岩越鉄道は喜多方駅まで開通したのです。 明治33年に発表された鉄道唱歌の奥州・磐城編から、白河〜福島間を抜粋してみました。これのメロディーは、『汽笛一声新橋を』と同じです。ただし数字は、この歌の順序です。 1番*汽車は煙を吹き立てて 今ぞ上野を出(い)でて行く 行方はいずくみちのく の 青森までも一飛びに17番*東那須野の青嵐 吹くや黒磯黒田原 こゝはいずくと白河の 城の夕日は 影赤し18番*秋風吹くと詠じたる 關所の跡は此のところ 會津の兵を官軍の 討ちし 維新の古戰場19番*岩もる水の泉崎 矢吹須賀川冬の來て むすぶ氷の郡山 近き湖水は 猪苗代20番*こゝに起りて越後まで つゞく岩越線路あり 工事はいまだ半にて 今は若松會津まで21番*日和田本宮二本松 安達が原の黒塚を 見にゆく人は下車せよと 案内記にもしるしたり22番*松川過ぎてトンネルを 出(い)づれば來る福島の 町は縣廳所在の地 板倉氏の舊城下23番*しのぶもじずり摺り出(い)だす 石の名所もほど近く 米澤行きの 鐵道は 此町よりぞ分れたる24番*長岡おりて飯坂の 湯治にまはる人もあり 越河こして白石は はや陸前の國と聞く 明治30年、逓信省鉄道局は監督行政のみを受け持つことになり、現業部門は逓信省外局と鉄道作業局に分離されて移管されたのちも、鉄道敷設法及び北海道鉄道敷設法、事業公債条例などに則ってよって運営されていました。ちなみに日本鉄道の時代、駅には等級がありました。一等駅には福島駅が、二等駅には郡山駅と白河駅が、しかし三等駅はなく四等駅に本宮駅・二本松駅・松川駅・桑折駅があり、五等駅には長岡駅、いまの伊達駅と藤田駅がありました。興味深いのは、東京の新宿駅が二等駅であったということですが、今になると、それがどのような基準によるものであったのかは不明です。
2024.04.01
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西欧諸国に追いつこうとして富国強兵を掲げていた明治政府は、その具体的政策のひとつとして、全国への鉄道布設を重要課題としていました。しかしイギリスで発行した国債の返済の途上にあり、資金不足であった政府は、旧士族に与えた金禄公債や各地の資産家の資金を当てにして日本鉄道会社を設立し、その資金で全国に鉄道網を広げようとしていました。 明治14年8月、岩倉具視をはじめとする華族などが参加し、政府の保護を受けた鉄道会社である『日本鉄道株式会社』の設立が決定し、同年11月に設立特許条約書が下付されました。政府はこの『日本鉄道』に、国内の鉄道網建設を目論んだのです。この政策に従った日本鉄道は、明治16年、上野と熊谷まで開通させています。これらの建設にあたって、政府は国有地の無償貸下げ、8%の配当保証、用地の国税免除、工部省鉄道局による工事の施行や用員の訓練・補充など、手厚い保護と助成を与えています。 日本鉄道が、建設工事に入る頃の県内の様子です。 白 河 昔ながらの城下町で、人力車の継ぎ立てが多い。 郡 山 明治二十年代までは三百戸程の村。二十一年には四十八台の人力車もあり、交通の要地であ る。 二本松 人力車が百六十台もあり、各地から人力車の乗り継ぎのため人が集まり、車夫で宿泊するも のが毎日五十人以上あり、人力車の町といった感じ。 福 島 有名な生糸は、内国通運や誠一社が横浜に馬で陸送した。一頭が約百五十キログラムをび、 一日百頭を稼動した。人力車が四百五十台もあり、仙台・山形も営業範囲である。 桑 折 街道上の中継地で、宿屋十軒、人力車や馬車もあり舟運による中継地でもある。 しかしこのような状況もあって、鉄道建設反対の運動もあったのです。農民のほとんどは、「汽車の煙で稲が枯れる」「灰で桑が枯れる」というような風説によるものが大半でしたが、その他にも、「今までの宿場町が廃れる」「人力車の商売が成り立たなくなる」と言う経済的な理由のものもあったのです。 明治17年、日本鉄道会社は、第一線区とした上野から高崎までを5月に開業、次いで第二線区の大宮から白河までの工事と、第三線区である白河・仙台間の工事を開始しました。第一線区が養蚕地である群馬県であり、生糸の横浜への輸送で鉄道の経済効果を実証していたこともあって、鉄道が通ることへの福島県内の養蚕家の期待は、大きかったと思われます。この線は、『日本鉄道・奥州線』と位置付けられました。しかし日本鉄道はその建設資金獲得のため、地元に建設債券の消化を求めたのです。それは郡山だけではなく、鉄道の通らない三春でも求められたのです。三春での消化状況をみると、三春町が32人、南小泉村が1人、三丁目村が1人、木村村が1人、柴原村1人、滝村2人で総人数38人、その総株数は494株、金額2万4700円を集めました。しかし郡山村では、出資者の募集はなかなか困難であったようです。明治16年の文書にも「鉄道会社ヨリ払込之儀催促有之ドモ壱人モ出金セシ者ナク其俵打過居レリ」とまで書かれていたのですが、その後、呉服商の」橋本清左衛門など29余名の資産家が、3万円の株金を引き受け、その目的を果たしたのです。しかし日本鉄道が、鉄道が通らない三春にも建設債券の購入を要請したことは、須賀川・郡山・本宮と平坦な地を利用して鉄路を敷設しようとした日本鉄道が、三春も利用可能と考えたためと思われます。このように、日本鉄道の奥州線の開設が進む中で、奥州街道上にあった小さな宿駅は、急速に宿場町としての機能を失って衰退していったのです。 当時の郡山の町は、今の旧国道にある会津街道の分岐点が北限でした。そこには今でも、『会津道』と『三春街道』の道標があります。そして南限は今の東邦銀行郡山中町支店あたりまでの細長い集落だったのです。そして今の柏屋あたりから駅までは、畑や田んぼが続いていたのです。今でこそその後の市の発展により、駅が街に近い場所にあるように見えますが、古い絵などを見ると、郡山駅は畑に囲まれていたのです。 この奥州線開業当時の駅の様子を、『ものがたり東北本線史』から転載してみます。『奥州線が全通したころの駅は、すべてが木造平屋建てのこじんまりした建物で町外れの寂しい所にあったから、そのモダンな駅舎は人目をひいた。駅前の道路は新しく開かれた幅の広いもので、雨の日はぬかるみとなり風の日は黄色い渦が空高く舞い上がっていた。駅の出入り口には人力車が人待ち顔に並んでいたものである。夜は待合室や改札口あたりに薄暗いランプがぶら下がり、あとは信号機の青や赤のランプが見えるだけで駅の裏側は真っ暗である。番頭や車夫の提灯が駅前の通りを彩っていたものである。 待合室に入ると、時刻表、賃金表、乗客心得などがいかめしく壁にぶら下がっている。待合室と反対側の出札窓口には『切符売下所』と看板がかかっている。しかし上等切符を買う人はあまりいない。 列車到着五分前、駅長はガランガランと鐘を鳴らす。出札口の窓がパタンと閉められる。やがて白い蒸気を吐きながら列車が入ってくる。上野〜青森間の直通列車以外は、大てい貨車と一緒の混合列車である。列車の前部と後部の車掌のほか制動手も乗車している。汽車がホームに止まると、助役も駅夫も客車のドアを片端から開けて行く。旅慣れた旅客はホームの便所に駆け込む。駅夫は「小便せられたし」と触れ歩いている。こういう駅は5分くらい停車する。老人や婦人は汽車が今にも発車しそうな気がしてなかなか便所に行けない。 駅夫は大きなヤカンにお湯を入れて上等車にお湯を持っていく。冬は大きな駅の駅夫は大変である。上等・中等の旅客に湯タンポのサービスをしていたから、その湯を詰め替えなければならない。下等の旅客にはひざ掛けを貸した。しかしそれで十分でないから、自分で毛布を持って乗った。赤い毛布であったから、地方から東京へ出かける『お上さん』を『赤ゲット』などと言った。冬はよく雪害で運休するので『雪中ご旅行の方は防寒具と食糧を持参せらるべし』という掲示が駅にも車内にも貼ってあったものである。 下等の客車はマッチ箱のように小さい。ドアから入ると細長い木の椅子で車内が五つに仕切られている。客車内を縦に通り抜けることは出来ないから、一度乗ったら歩き回ることはできない。椅子には、背をもたせかける板ができる前は、一本の鉄棒が渡してあるきりであったから、長距離の汽車旅行は腰が痛く楽ではなかった。上等・中等・下等の呼び名が一等・二等・三等になったのは、明治三十年十二月からである。そのころ便所のある客車はほとんどなく、蒸気暖房もない。夜は客車の中にランプが二つ、屋根裏から吊り下げられる。座っている人が、ぼんやり見える程度である。五十銭もする特製弁当と熱いお茶などを車掌に注文しているのは、上等か中等の客であろう。この一等車の運賃は、三等車の三倍で、庶民にはまったく無縁のものである。』 いずれにしても、福島県最初の鉄道は、このようなものであったのです。
2024.03.20
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公共用の旅客運輸業の乗り合い馬車は、明治維新前より外国人の経営により運行されていました。しかし乗客のほとんどが外国人で、日本人としては乗り難くかったのです。これを見た日本人も、乗合馬車の営業を出願する者が何人も現れたので、幕府は統合を命じました。それでも開業ができたのは、維新後の明治2年であったのです。 戊辰戦争の終了とともに誕生した明治政府は、明治2年の1月、東京から京都・大阪を経て神戸までつなぐという壮大な鉄道敷設を決定しました。しかし、路線を海に近い東海道経由にするか、海から遠い中山道経由するかは軍事上の問題もあり、決定に至らなかったのです。そこで政府は、距離も近く、地形も平坦な東京と横浜の間に最初の鉄道を建設することを決定したのです。建設の資金は、イギリス東洋銀行を通じて、外債30万ポンドがロンドンで募集されました。明治3年3月、建設路線測量のため、汐留の一角に最初の杭が打たれました。この建設は、鉄道発祥の地であるイギリスから指導を受け、日本の技術を融合させてはじめられたのです。ところが、新政府が鉄道の敷設予定地とした品川近辺には、西郷隆盛のお膝元である薩摩藩の江戸屋敷などがあり、測量することさえ拒否されたのです。 ところで鉄道の輸送力の根幹となる軌道の幅は、イギリスの標準軌である狭軌の1067ミリが選ばれました。これは当時の日本の状況を考えると、妥当な選択であったとされます。すなわち軌道の幅が広いほど大きく重い列車を速く走らせることができるのですが、建設費がかさむことが欠点であり、さらに軌道の幅が大きければ曲線半径も大きく取る必要があるので、貧乏国で山がちの日本では、標準軌は贅沢であると考えられたのです。それはそれでやむを得ないと思われるのですが、薩摩藩など沿岸にあった江戸屋敷の所有藩の反対には困っていました。そこで、工事を進めるため政府が取った手段は、当時入江となっていて海であった現在の京急神奈川駅近くから桜木町駅近くをほぼ直線で結ぶために、線路部分の幅となる広さでの海面埋め立て工事をすることになったのです。 それを請け負ったのが、横浜の土木建築請負を中心に事業を営んでいた高島嘉右衛門でした。彼は鉄道建設に、強い関心を持っていたのです。その埋め立てられた土地の一部が、今の横浜市西区に高島町として、その名が残されています。明治3年3月、線路の敷設工事が、東京と横浜の双方から初められました。そして明治4年、政府は鉄道運営の所管官庁として工部省鉄道寮が立ち上げました。明治5年5月、高島嘉右衛門は東京から青森に至り、北海道開拓を支える鉄道の建設を政府に建言したのですが、これは却下されてしまいました。しかし高島は、政府要人の岩倉具視を説き、明治天皇および当時の政府に、『華族と士族の資産をもって会社を建て、東京と青森あるいは東京と新潟に鉄路を敷き、蒸気機関車を走らせる』ということを建言したのですが、直ちに取り上げられることにはならなかったのです。ところでこの鉄道で使われたレールをはじめ蒸気機関車、および客車の全てはイギリスからの輸入であり、時刻表の作成も運転士も外国人によるものでした。 明治5年5月7日、鉄道の開業に先立ち、品川から横浜の間で、1日2往復の試運転が行われました。所要時間は35分、時速およそ40キロメートルでしたが、横浜毎日新聞は、『あたかも人間に翼を付して、天を翔けるに似たり』との記事を載せています。その年の9月12日、日本最初の鉄道が、新橋駅と横浜駅とで、『新橋汽車お開き式』が行われ、諸官庁は休暇となりました。明治天皇は直垂を着して午前9時に出門、4頭立ての馬車に乗って新橋停車場にご到着、それより特別仕立ての列車に乗り、午前10時に発車、54分で横浜に着かれました。そして午前11時、横浜停車場において開業式が挙行されたのです。内外の諸賢を前にした天皇は、『東京・横浜間ノ鉄道、朕、親ラ開行ス。自今此便利ニヨリ、貿易愈繁昌、庶民益富盛ニ至ランコトヲ』の勅語を賜り、次いでイタリア公使や外国商人頭取総代のイギリス人のマーシャルが祝詞を奏した後、横浜在住の商人頭取の総代が祝詞を奏しました。それぞれに勅答があって式は終わり、天皇は横浜駅楼上の一室にて休憩されたのち再び列車に乗り、正午に横浜を発して新橋に向かったのです。そして新橋停車場においても、午後1時より同様の開業式が行われたのです。そして翌・13日より、一日に9往復の列車が運転されたのです。ところでこの開業に先立つ7月、天皇が初めて汽車に乗っておられます。中国巡幸からの帰路、暴風に遭ったため横浜に上陸、品川までをこの汽車を利用したのです。これが最初の、『お召し列車』となったのです。 この新橋と横浜間の鉄道は、大評判となりました。乗車券は、上等1円50銭、中等1円、下等50銭でした。鉄道開通の当時、米10キログラムは約65銭といわれており、現在の貨幣価値に照らしてみると、上等が1万5000円、中等が1万円、下等が5000円に相当しますから、その運賃は大変高価なものだったのです。それもあって、開業の翌年には大幅な利益を計上しています。その営業状況は、乗客が1日平均4347人、年間の旅客収入は42万円、貨物収入2万円、そこから直接経費の23万円を引いても21万円の利益となっていたのです。この結果「鉄道事業は儲かる」という認識が、実業界で広まりました。そしてそれを受けて、京阪神地区でも建設がはじめられ、明治7年には大阪駅と神戸駅間が開通し、明治10年には京都駅まで延伸しています。ちなみに、この時の新橋駅は、のちに貨物専用の汐留駅となり、現在は廃止されています。 曲がりなりにもスタートした国有の鉄道は、政府の事業として計画された中山道沿いの鉄道区間のうち、東京〜高崎間の測量がはじめられたのですが、明治10年の西南戦争による煽りを食って、着工されるには至りませんでした。鉄道発展に寄与し、のちに『日本の鉄道の父』と呼ばれた井上勝が鉄道の原則国有を主張していたこともあって、この頃までに開通していた国有の鉄道は、新橋と横浜間のほかには、北海道の幌内鉄道や岩手県の釜石鉄道、それと滋賀県の大津と神戸の間など、部分的なものに留まっていました。歳末近くで慌ただしい明治13年12月21日、在京中であった福島県令の山吉盛典、宮城県令の松平正直、岩手県令の島維精、青森県令の山田秀典、山形県少書記官深津無一らが集められ、それぞれの地域での鉄道建設の協力が要請されたのです。この会合は、表面上東北開発が強調されたのですが、国策的要素が強かったのです。例えば、渋沢栄一が明治8年2月に立案したという『奥州鉄道建設急務五ヶ条』の第一項で、『陸奥国は北海道と接している。ロシアとの境界問題は重大で、国境警備のため、北海道と結ぶ奥州道中に鉄道を作ることは大眼目である』と主張していたのです。しかし少ない国家予算と、鉄道建設の外債を発行したばかりの日本では、鉄道網の整備が進まないことが予想されたことから、岩倉具視や伊藤博文を中心とし、華族や民間の資本を用いての鉄道建設に、政策を転換することになったのです。そのことが、日本鉄道株式会社の設立に結実していったのです。 明治14年8月、岩倉具視をはじめとする華族などが参加し、その上、政府の債務保証を受けた鉄道会社である『日本鉄道株式会社』の設立が決定され、同年11月に設立特許条約書が下付されました。しかしこの設立特許条約書には、『五十年後には、政府が会社を買収できる』という付帯条件が付いていました。この『日本鉄道』という会社の名は、日本全国の鉄道をこの会社に敷設させるという目的があったのです。
2024.03.10
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中世以前の人たちの旅は、ただひたすら歩くことでした。馬に乗ることもありましたが、それには馬を飼う費用と乗る技術が必要だったのです。それでも時代が下がると、馬車が使われるようになったのですが、道路は舗装されてなく、状況が悪かったので、快適な乗り物とは言えなかったのです。1600年、女王エリザベス一世は、拝謁したフランス公使に、「数日前に、私の乗った馬車が早く走るのはよいのですが、その揺れで車の壁に体が打ちつけられ、苦痛に耐えるのが大変でした」と話したと言われています。当時の馬車とはこのような乗り物だったのです。 それでもこのような馬車が、レールの上を走ることで酷い揺れから逃れてスムースに、しかも多くの貨物を運べるようになったのが馬車鉄道でした。このような馬車鉄道は、ヨーロッパで発達をしていますが、それは人を乗せるものとしてではなく、貨物運搬用だったのです。世界で最初に作られたサリー鉄道は、イギリス、ロンドンの中心部近くのワンズワースとロンドンの南部のクロイドンを結んでいた馬車鉄道ですが、これも貨物線用だったのです。この鉄道の開業は1803年ですが、木製の軌道の上の貨車を馬が牽引するこのような貨車の軌道は、中央ヨーロッパでも15世紀までに現れています。18世紀になると、鋳鉄製のレールも用いられるようになったのですが、それでもこうした軌道は、炭鉱などの専用鉄道であり、炭鉱会社や運河会社が保有していたのです。 そうしたなか、イギリスで一連の産業の変革と石炭利用によるエネルギー革命、いわゆる産業革命が起こりました。機械化によって一気に生産性が向上し、長距離を移動する人や貨物が増加したのです。工場生産が拡大する中、大量・高速、かつ定時性の輸送の需要が増え、旧来の輸送手段に対しての不満が高まっていったのです。当時の大量輸送の手段であった馬車鉄道では、脆弱であったのです。それに対応するものとして、大型であった蒸気機関を改良し、ジョージ スチーブンソンとロバート スチーブンソン親子により蒸気機関車が開発されたのです。そして1825年9月27日、イギリスの港町ストックトンと炭鉱の町ダーリントンの間に開通したのがストックトン&ダーリントン鉄道のロコ モーション号でした。最初の頃は、ロコ モーション号は貨物用にのみ用いられ、旅客用には同じレールの上に馬車を走らせていたのです。 1830年(天保元年)、世界初の旅客鉄道となるリバプール&マンチェスター鉄道で、蒸気機関車のロコ モーション号が、一般の乗客が乗った客車を時速46・6キロメートルで走りました。このリバプール&マンチェスター鉄道の大成功によって鉄道敷設は急速に延び、イギリスでは1840年代の『鉄道狂時代』が出現したのです。『鉄道狂時代』とは、イギリスで発生した鉄道への投資熱のことを指します。バブル経済と共通のパターンをたどり、鉄道会社の株価が上昇するにつれて、投機家がさらに多くの金を注ぎ込み、不可避となる崩壊を迎えたものです。 イギリスの鉄道はいずれも私営で始まったのですが、そのゲージはかならずしも一様ではありませんでした。しかし鉄道会社の吸収や合併がくりかえされるうちに徐々に4フィート8インチ半に統一されて行き、1846年には政府がそれを標準軌にすると決定して以降、建設される鉄道はすべて標準軌とされ、既設のレールも標準軌に改築されていったのです。蒸気鉄道の建設は、直ちにイギリス以外にも広がりました。そしてイギリスの4フィート8インチ半の軌道は、世界的にも標準軌とされ、それより幅の広いゲージを広軌、狭いものを狭軌と呼んでいます。日本の鉄道の多くは狭軌であり、新幹線のみが広軌と言われています。 この蒸気鉄道が世界に普及していく過程で、馬車鉄道は、都市内の交通機関として使われるようになりました。イギリス以外で最初の馬車鉄道が走ったのは、1836年(天保7年)、ニューヨークで市内の交通機関として現れ、1854年(安政元年)にはパリ、1861年(文久元年)にロンドン、1865年(慶応元年)にベルリンと続き、その後もオーストリアのリンツやザルツブルグ、スイスのチューリッヒ、イタリアのミラノなどの世界の名だたる都市に広まっていったのです。ところで変わっていた馬車鉄道は、イギリス スコットランドのグラスゴー馬車鉄道でした。この馬車鉄道は、2階建てだったのですが、2階は椅子だけの吹きさらしだったのです。つまりご主人様は1階の客車の中に乗りましたから雨や風から守られましたが、2階に乗せられていたのはお付きの召使いたちは、冬の日などは寒さに震えながら乗っていたかもしれません。しかし考えてみれば、召使いたちはご主人様の頭の上に土足で乗っていたことになりますから変な話です。いずれにせよこの馬車鉄道は、今のロンドンの2階建バスの原型になったのかもしれません。 いま私の手元に、ニューヨークで撮られた馬車鉄道が載った本がありますが、『写真その昔』のページに、『鉄道馬車の終着駅』という写真があります。そしてその説明文には、『1893年の冬、吹雪のニューヨークの鉄道馬車の終着駅。出発しようとして湯気を出している馬車鉄道の馬が写されている。撮影者のステーグリッツは、4インチ×5インチ用のハンドカメラを使用した』とありました。ともあれ撮影された年が、1893年(明治26年)となっています。ちなみに三春馬車鉄道の運行がはじまったのは明治24年(1891年)ですから、少なくともニューヨークと同じ時期に、ここを走っていたことになります。馬車鉄道は、いま振り返ると時代遅れにも感じられますが、舗装道路もなく道路事情の悪かったこのころ、揺れや振動が少なく、至極快適な乗り物だったのです。ちなみに日本最初となる東京馬車鉄道の開業は、明治15年(1882年)でした。当時の欧米では、馬車鉄道は遠距離を走る蒸気鉄道を補完するものとなっていたのです。
2024.03.01
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車輪は重量物を乗せて運ぶ橇と、その下に敷く『ころ』からはじまりました。さらに『ころ』が固定されて車軸と回転部が分離し、現在の形となったという最古の最重要な発明とされています。その歴史は古く、その起源は紀元前3000年のメソポタミアに、人が車輪のついた乗り物を使っている様子が壁画に描かれており、今から約5000年前という大昔から使われていたことがわかります。それでも初期の車輪は、厚い板を重ねて円形にカットしただけのものでした。しかしこの車輪がどのような経緯で利用されるようになったかは、不明です。 ところで、紀元前3000年頃に作られたと思われる牛車の玩具(カラチ博物館蔵)が、現在のパキスタンのモヘンジョダロより発見されています。モヘンジョダロとは、『死者の丘』の意味ですが、ここには荒涼とした廃跡の丘が続いているといわれ、しかもこの地方の農村では、いまも全く同じ牛車が使われているそうです。そして紀元前2000年の頃、いまのトルコにあったヒッタイトの軍は、鉄製の武器と1万7000の兵を駆使して、現在のイラクあたりにあったバビロンやシリアを攻め落としました。この頃から、馬に引かせる車に人が乗ることが可能になったのかもしれません。いずれにしても、いつの時代でも、最新の技術が兵器に転用されるのを見るのは、悲しいことです。。 当時の車輪は木製のために損傷が激しく、17世紀の中頃には、鉄製の車輪が開発されました。ところが車輪は、雨が降ったときや湿った土地では土にめりこんで動かすのにも困ることがあったのです。そのために、ローマでは道路に石を敷きつめて、車が地面にめりこまないようにしていました。これがレールの原型になるのかもしれません。以後レールは、車輪と並行して発展することになります。 レールは、ドイツやイギリスの鉱山で、鉱石を運び出すのに使ったのが最初といわれます。17世紀のイギリスの鉱山では、広さ約5センチ、厚さ約4センチのカシの角材を枕木に固定し、レールとして使用していました。 しかし木材は折れやすいので、車が乗る面に細長い鉄板をはりつけるという方法が生まれました。それはやがて、車輪と同じく、鉄製のレールに変わっていきます。ヨーロッパでは、1760年代から四角形やL字形のレールが作られるようになり、それが発展して、Ⅰ字形や工字形のレールになっていきました。Ⅰ字形のレールは断面が上下とも同じ形のもので、一方がすり減ったときひっくり返して使うので『双頭レール』とも呼ばれました。日本の鉄道が最初に用いたのも、この『双頭レール』でした。しかしこれでは、枕木に固定する方法が難しいということもあって、現在のような工字形が使われるようになり、材質も鉄製から鋼鉄製へと強くて重いレールに改良されていったのです。現在のレールは平底軌条と呼ばれています 一方、レールが鉄製に変わった当時でも、車輪は木製でした。しかもレールから外れないようにするため、糸巻きのボビン型だったのです。ところで貨物を積んだ車両が勾配を下るときには、積荷を水平に保つ必要があると考えられていたために、例えば前輪の直径を後輪の直径より大きくするという奇妙な方法がとられていました。そのような配慮の必要がないことを知ってから、車輪にフランジという出っ張りをつけ、両側の車輪のフランジが、2本のレールの内側に入るようにしたことで、脱線が防げ、さらには他の路線に移動できるようになったのです。現在のようなフランジ付きの車輪は、17世紀の後半にドイツの鉱山で使われたのがその最初と言われています。そしてその鉱石などを運び出す動力が、牛や馬だったのです。 日本の鉄道が新橋-横浜間に開通した時に用いられたレールは、全て当時世界最大の製鉄国であったイギリスから輸入されました.。しかし明治34年、筑豊炭田のある北九州市の官営八幡製鉄所創業を機に国産のレールが生産されるようになりました。ところが大正時代になると,国内の鉄に対する需要が高まり、その需要に十分対応することができなくなったので、足りない分はアメリカ ドイツ フランス ベルギーなどの海外の製鉄所から輸入したレールを使用することになったのです。なお、このモニュメントの所在地が見つけられないでいるのですが、『このレール腹部の表示は、一九〇一年(明治三十四年)に操業開始した官営八幡製鐵所にて一九〇二年に製造されたレールであることを示し、これは現時点確認されている国産レールとしては最古であると言えます。』というものが建てられています。The oldest piece of Rail in JapanThe inscription on the side reveals that it was made in 1902 at the YAWATA Imperial Steel Works which began operations in 1901.This makes it one of the oldest pieces of rails as Japan made.
2024.02.20
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)() 平安時代中期の歌人曽禰好忠は、「難波津の歌」を「沓」に、「安積山の歌」を「冠」にして、31首を組みにして「沓冠折句」を詠んでいる。 「あ」 りへじとなげくものから限りあればなみだにうきてよをもふるか 「な」 「さ」 かだがはふちはせにこそなりにけれみづのながれははやくながら 「に」 「か」 ずならぬこころをちぢにくだきつつひとをしのばぬときしなけれ 「は」 「や」 つはしのくもでにものをおもふかなそではなみだのふちとなしつ 「つ」 「ま」 つのはのみどりのそでは年ふともいいろかわるべきわれならなく 「に」 「か」 きくらすこころのやみにまどひつつうしとみるよにふるぞわびし 「さ」 「け」 ふかともしらぬわが身をなげくまにわがくろかみもしろくなりゆ 「く」 「さ」 ざなみやながらのやまのながらへてこころにもののかなはざらめ 「や」 「へ」 じやよにいかにせましとおもひかねとはばこたへよよものやまび 「こ」 「み」 よしのにたてるまつすらちよふるをかくもあるかなつねならぬよ 「の」 「ゆ」 めにてもおもはざりしをしらくものかかるうきよにすまひせんと 「は」 「る」 いよりもひとりはなれてとぶかりのともにおくるるわが身かなし 「な」 「や」 へむぐらしげれるやどにふくかぜをむかしの人のくるかとぞおも 「ふ」 「ま」 ろこすげしげれるやどの草のうへにたまとみるまでおけるしらつ 「ゆ」 「の」 どかにもおもほゆるかなとこなつのひさしくにほふやまとなでし 「こ」 「い」 でのやまよそながらにも見るべきをたちなへだてそみねのしらく 「も」 「の」 ちおひのつのぐむあしのほどもなきうきよのななはすみうかりけ 「り」 「あ」 ればいとふなければしのぶよの中にわが身ひとつはすみわびぬや 「は」 (「は」は、「い」でなければならない。) 「さ」 はだかはながれてひとの見えこずはたれにみせましせぜのしらた 「ま」 「く」 さふかみふしみのさとはあれぬらんここにわがよのひさにへぬれ 「ば」 「は」 なすすきほにいでて人をまねくかなしのばむことのあぢきなけれ 「ば」 「ひ」 とこふるなみだのうみにしづみつつみずのあはとぞおみひきえぬ 「る」 「と」 ぶとりのこころはそらにあくがれてゆくへもしらぬものをこそ思 「へ」 「を」 しからぬいのちこころにかなはずはありへばひとにあふせありや 「と」 「お」 もひやるこころづかひはいとなきをゆめに見えずときくがあやし 「さ」 「も」 くづやくうらにはあまやかれにけんけぶりたつとも見えずなりゆ 「く」 「ふ」 るさとはありしさまにもあらずかといふひとあらばとひてきかば 「や」 「も」 とつめにいまはかぎりと見えしよりたれならすらんわがふしとこ 「は] は、「こ」でなければならない) 「の」 がひせしこまのはるよりあさりしにつきずもあるかな淀のまこも 「の」 「か」 ひなくてつきひをのみぞすぐしけるそらをながめてよをしつくせ 「ば」 「は」 りまなるしかまにそむるあながちにひとをつらしとおもふころか 「な」
2024.02.10
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次の文は、甲賀市教育委員会の発表を簡略化したものです。「この木簡の捨てられた時期の上限については、紫香楽宮の造営が開始された天平十四年(742)以降に基幹排水路として西大溝の開削が始まった頃と考えられ、下限については、天平十七年(745)五月、聖武天皇により紫香楽に離宮が作られた頃に捨てられたと考えられている。『安積山のうた』が掲載されている『万葉集』巻16は、天平十七年以降の数年の間に成立したと考えられているから、今回出土した歌木簡の年紀を、捨てられた時期の下限と考えている天平十七年以前としても、『万葉集』の成立よりも早いと考えられる。つまり今回出土した木簡は、『万葉集』を見て、そこに載っている『安積山のうた』を書き写したものではなく、それ以前に『安積山のうた』が流布していたことを表しており、この歌木簡に書かれる一方で、『万葉集』に収められたと解釈できる」とあり、今回の木簡は万葉集以前に書かれた可能性が強く、市教委は、「この歌が当時、広く流布しており、それを万葉集に収録したのであろう」と推測している。つまり甲賀市教育委員会が意味していることは、以前より知られていた『安積山のうた』が歌木簡に書かれたのちになって、万葉集に収められたのではないかということなのである。このことはともあれ、甲賀市教育委員会が言うように、安積親王が14歳となる742年以前より『安積山のうた』が広く流布していたとすれば、このような時期、都で前項のような動きをしていた葛城王が、郡山に来たとは考えられないのではないでしょうか。 さて『安積山のうた』は、『難波津の歌』とともに『歌の父母』の一つとされています。その『難波津の歌』は、 難波津に 咲くやこの花 冬ごもり 今は春べと 咲くやこの花、というものです。私にはこの仮名序に、不思議なことが書いてあるように思えるのです。と言うのは、第一首の『難波津の歌』は仁徳天皇を讃える歌で王仁という学者の作とされているのですが、第二首の『安積山』は『歌』ではなく『言葉』とされ、詠み人は天皇や皇后に近侍し、食事など身の回りの庶事を専門に行う采女による『戯れ歌』とされているからです。では何故このような『戯れ歌』が『歌の父母』の二とされたのでしょうか。そう考えてくると、『安積山のうた』が歌の父母の二とされたのは、単に『安積山のうた』の出来映えが良かったからかも知れません。しかし『安積山のうた』を大伴家持が万葉集に取り上げたときに、あえて橘諸兄は自分の名を隠すために、いかにも実在の人物であるかのようにして、架空の人物である『陸奥国前采女某』とした、とも想像できます。おそらく私は、万葉集を編纂したとされる大伴家持と橘諸兄との間で何らかの話し合いがもたれ、橘諸兄が安積に行幸したことにして『安積山のうた』を詠み、作者も陸奥国前采女某、つまり詠者不明として左注を書いたという可能性が無いこともないと考えているのですが、どうでしょうか。また、2019年5月27日のBS—TBSで、『歴史鑑定 万葉集に隠された本当の古代史』が放映されたのですが、それによりますと、万葉集が編まれた当時、万葉仮名を知っている人は限られており、歌を詠んだ人と記録した人は別人であったことが多かったというのです。しかし『安積山のうた』の場合、大伴家持か橘諸兄が自分で選んで自分で万葉集に載せたと考えられますから、第三者が手を貸すことはなかったのではないかと思われます。そう考えてくると、『安積山のうた』が仮名序において、『歌の父母』として推奨された二つの歌のなかの一つにされたのは、安積親王を顕彰しようとしたことのような気がするのです。 さてそろそろ素人なりではあっても、この『安積山のうた』についての結論を出さねばなりません。私は、都にあって、橘諸兄が藤原の強い権力に逆らい、安積親王を天皇の座に座らせようとした意志を表した歌が、『安積山のうた』であったのではないだろうか、というのが私の推論です。もし素人の私のこの推測を許して頂ければ、この『安積山のうた』、『安積香山 影さえ見ゆる 山ノ井の 浅き心を わが思はなくに』は、次のようになると思われます。 『安積親王のお顔を映すような浅い山ノ井、しかし私(葛城王)が親王を思う心は深いのです』 私には、この歌の内容から想像して、『安積山のうた』は安積親王の死去後に詠まれたように思えるのです。そしてそのように解釈すると、『安積山のうた』が仮名序に選ばれた理由がわかるような気がするのです。いずれにせよ、無知蒙昧の私が臆することもなく、何故このようなことをひねくり回すのか疑問に思われる方が多いと思われます。それはひとえに、『安積山のうた』に、なんとも納得しがたいことがあったからでした。したがってこれは、私の全くの寓見です。それに私には、『郡山うねめまつり』を否定する気はさらさらありません。これからも采女物語の具現として、大いに楽しむべきであると思っています。
2024.02.01
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さて私は、『安積山のうた』は、これまでに述べてきたことから想像して、藤原仲麻呂に殺害されたらしい安積親王を比喩的に詠ったものと考えている。そう仮定すれば、葛城王が『安積山のうた』を万葉集に載せた時点で『安積香山』としたのは、藤原氏に疑われた場合に、『安積親王』を詠ったものではないとの言い逃れにしたとも考えられる。そして『山ノ井』である。つまり葛城王は、『山ノ井』が映したのは『安積山』ではなく、『安積親王の顔』を想像したのではないだろうか。すると『安積山のうた』の本当の詠み人は、『陸奥国前采女某』ではなく、葛城王ではないかということになるのではないだろうか。 ところで、以前に私は、郡山の歴史家・今泉正顕氏から、「奈良の春日大社の建つ丘の名が『安積山』であるということを、春日大社の宮司に聞いた」と教えられていた。しかしすでに亡くなられているその方の著書を図書館で漁ってみたが、それについての記述を見つけることができなかった。そこで奈良の春日大社に、それが事実かどうかの問い合わせをしてみたのである。ほどなく、春日大社宝物殿学芸員の松村和歌子氏より、『奈良曝(ならさらし)』という本のカラーコピーが送られて来た。その奈良曝の序には、『古き京の残れる跡、春日・興福・東大或ハ栄行、今の寺社・名師・名匠・諸職・商店・町々の竪横を搔き集めしより奈良曝としかいふ』とあったのです。以下は、その松村氏よりの、返事の手紙の内容である。 お尋ねの安積山(浅香山(ママ)))については、貞享四年(1687年)刊行された『奈良曝』の第三巻の記載により、いまの奈良市高畑町の荒池畔の奈良ホテルがある小高い丘が浅香山と呼ばれ、近くに山ノ井があったことが分かります。奈良の采女神社のある猿沢池から言えば、南東方向になります。 奈良曝の浅香山の項には、お手紙にあった万葉集にある『安積山のうた』をあげたあとに、「菩提谷成身院のうしろなる山をいへり、きおん山のつづきなり・・・」とあり、興福寺の大事の書をうつすとき用いる水とされます。 『山ノ井』については、『水源が春日大社の建つ背後の御蓋山(みかさやま)(若草山)で、その清流にある水谷川(みずやがわ)から流れてくる』とあります。近世の地誌ですので、これが、万葉集にある安積山という確証はありませんが、近世にはそう信じられていたようです。春日大社は、神護景雲二年(768)に、藤原北家の藤原永手が藤原氏の氏社として創建されたものです。なお御蓋山は、春日山の通称となります。 この手紙の内容は、私の予想を超えたものでした。この奈良曝によると、近世からではあっても、奈良に『浅香山』や『山ノ井』があったというのです。しかし近世からそう言われたとしても、古代から使われていた地名が現在も使われている例は、少なくありません。それですから、奈良にある『浅香山』も『山ノ井』も、これと同じと考えても良いのではないかと思われます。そう考えると、『安積山のうた』は安積で詠まれた歌ではなく、奈良で詠まれた歌と考えても無理ではなくなるようなのです。それにこの春日大社のある御蓋山に、水源となる『山ノ井』があったということは、『安積山』を『安積香山』と表現し、現実に奈良にある『浅香山』と誤解させることで、橘諸兄が擁護する安積親王を、藤原氏から隠そうとしたのではないかとの意図が感じられます。このことは、以前に読んだ澤潟久孝氏の著、『万葉集注釈巻十六』にあった『確証がないからこそ、安積山のうたが都の歌人によって作られた歌であると、思いたい』との記述を思い起こさせられるのですが、むしろ私は、これこそが事実であったと思いたいのです。そしてそれと重なると思われるのが、安積親王が葬られた山の名、『和豆香山(わづかやま)』です。この『和豆香山』のなかに『香山』という文字があることから、郡山の地名の起こりとする説もあるようです。 さてここまでくると、大伴家持が万葉集を編纂しているとされているので、『安積山のうた』を万葉集に載せるについては、大伴家持が深く関わっていたと考えられます。ところで延喜五年(905)、紀貫之が編纂の中心となり、奏上された古今和歌集の前書きである仮名序には、次のように『安積山のうた』が登場するのです。 なにはづのうたは みかどのおほむはじめなり あさかやまのことばは うねめのたはぶれよりよみて このふたうたは うたのちちははのやうにてぞ てならふひとの はじめにもしける 現代文にしてみると、次のようになると思われます。 難波津の歌は、仁徳天皇の御代の初めを祝う歌である。 安積山の言葉は、采女の遊び心により詠まれたものである。 この二つの歌は、歌の父母のようなものである。 文字を習う人が最初に習うものである。 この2つの歌の書かれていた歌木簡は、平成九年度に実施された宮町遺跡(甲賀市信楽町宮町にある古代宮殿遺跡。国の史跡に指定されている)の第22次調査で、西側の大きな溝から出土したものですが、その解読された文字を、太斜字で表してみました。 阿佐可夜麻加氣佐閇美由流夜真乃井能安佐伎己々呂乎和可於母波奈久尓 あさかやま かげさへみゆる やまのゐの あさきこころを わがおもはなくに
2024.01.20
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見まつりて 未だ時だに 更(かわ)らねば 年月の如 思ほゆる君 (万葉集4〜579) (お逢い申し上げてまだ幾らも時は経っておりませんのに、もう長い年月を経たように懐かしく思われる君よ) 733年、葛城王49歳のとき、母の三千代が亡くなった。734年、葛城王50歳のとき、近畿地方を中心に、古代史上最大と言われる大地震により多くの被害が発生した。 ところで、735年から翌年にかけて、遣唐使の吉備真備や僧侶の玄昉が唐より帰国した。この頃、九州の太宰府で疱瘡(天然痘)が発生し、全国に蔓延した。当時の日本の人口の3分の1、100万人から150万人が死亡したとされる。このころには大凶作もあって税収が減少、国家経営が危機に陥った。(2022/7/9・関口宏の新しい古代史より) 736年、葛城王52歳のとき、弟の佐為王と共に、母の三千代の姓である橘宿禰を継ぐことを願い出て許され、以後は橘諸兄を名乗ることになる。なお次の歌は、葛城王が橘姓を継いだ時に、聖武天皇より賜わった和歌である。橘諸兄に対する皇室の期待と信頼の篤さが窺われる。 橘は 実さへ花さへ その葉さへ 枝に霜置けど いや常葉の木 (万葉集 6〜1009) (橘は 実まで花まで その葉まで 枝に霜が置いても いよいよ栄える木である) ところで、『安積山のうた』の左注に、葛城王とあることから、この歌はこの頃までに詠われたものであろうか。しかしこれまでに述べてきたような忙しい時期に、葛城王が安積を訪れることは、到底不可能であったと思われるがどうであろうか。 737年、橘諸兄53歳のとき、全国に蔓延した疱瘡のため、政権を握っていた藤原四兄弟が続けざまに死去した。しかも同時期、8人の公卿のうち5人が死亡した。朝廷はこの非常事態に、急遽、故・長屋王の弟の鈴鹿王を知太政官事に、橘諸兄を大納言に任命して急場を凌いだ。 738年、橘諸兄54歳のとき、右大臣に任ぜられ、吉備真備や玄昉をブレーンとして政権運営に当たった。この年、朝廷は、諸国に巡察使をおくっている。 739年、橘諸兄55歳のとき、従二位に昇叙されて橘諸兄政権を成立させた。藤原氏の勢力は大きく後退することになる。 このとき11歳となっていた『安積親王』に、大伴家持は歌を贈っている。 我が屋戸の 一むら萩を 思ふ児に 見せずほとほと 散らしつるかも (万葉集 8〜1565) (我が家の庭に咲いた一群れの萩の花を、思いをかけている児に見せないまま、ほとんど散らしてしまいました) ここで大伴家持は、安積親王を、『思ふ児』と表現したようである。また橘諸兄の邸で開かれた宴席で、橘諸兄は次の歌を詠っている。 ももしきの 大宮人は 今日もかも 暇を無みと 里に去(ゆ)かずあらむ (万葉集 6〜1026) (百敷の大宮に仕える人は今日も暇がないからと里にはいかないのだろうかなあ) そしてその左注によると、『右の一首は、右大臣伝えて曰く、故豊島采女の歌なりとえへり。』とあり、その詠み人の名を明らかにしている。それなのに橘諸兄は、なぜ、『安積山のうた』で、その詠者を、陸奥国前采女『某』としたのであろうか。 740年、橘諸兄56歳のとき、亡くなった藤原四兄弟の長兄、藤原武智麻呂の次男の藤原仲麻呂は、正五位上とされた。藤原仲麻呂は藤原氏の栄華を再現しようとして、吉備真備や玄昉の排除を画策した『藤原博嗣の乱』に失敗した後に、都が平城京から恭仁京に遷都された。この地が選ばれたのは、橘諸兄の本拠地であったことが指摘されている。さらにこの年には、国分寺が創建された。これは四天王が来て、国を護るという信仰に基づく事業であったが、これには遷都にかかる費用の他に、多大な犠牲を人民に求めることとなった。 742年、橘諸兄58歳のとき、聖武天皇は、近江紫香楽に離宮を作り、諸国に巡察使をおくった。 743年、橘諸兄59歳のとき、聖武天皇が計画した大仏建立の財源を確保するため、6歳以上の男女に田を分け与えるという墾田永年私財法を実施した。そしてこの年の秋から冬にかけての頃、15歳になった安積親王を、橘諸兄の甥の藤原八束が自身の屋敷に招き、宴を開いた。この宴の時に大伴家持が、安積親王を詠った歌が万葉集(6〜1040)に残されている。 久堅の 雨は降りしけ 思ふ子が 屋戸に今夜は 明かして去かむ (雨よ降れ降れどんどん降ればよい。そうしたら、私の大切に思っているあの子が帰れなくなって、今夜はここにお泊りになるだろうから) 大伴家持は、ここでも『思ふ子』として、安積親王の名を伏せている。 744年、橘諸兄59歳のときの元旦、安積皇子の屋敷があった『活道岡(いくじがおか)』で、大伴家持や天智天皇の玄孫である市原王らが集まって宴を開いた。この年、恭仁京から、さらに難波京への遷都が実施された。このとき大伴家持が、歌を詠んでいる。 たまきはる 命は知らず 松が枝(え)を 結ぶ心は 長くとそ思(おも)ふ (万葉集 06〜1043) (いつまで生きるかわからない、それでも松の枝(えだ)結ぶ、やはり長く生きたいと 内心願っているからだ) この家持の歌は、安積親王への正月の祝賀の歌であると同時に、『松が枝』という言葉に安積親王の即位を待つ期待が、また『松』には安積親王の無事長命を合わせ込めたものであると言われている。そしてこれらの歌は、皇統から疎外された天智天皇の玄孫である市原王と、政権から疎外された大伴家持との、安積親王に対する祝福の歌であったと言われている。彼らにとっての最大の願望は、安積親王の即位にあったのである。そしてこの歌会のあった一ヶ月後の閏一月、聖武天皇は難波宮への行幸に際して、恭仁宮の留守居役として、皇族である鈴鹿王と藤原仲麻呂を任命した。この聖武天皇の難波宮への行幸に同行した安積親王は、途中の桜井頓宮から脚の痛みにより引き返し、その日のうちに恭仁宮へ戻って来た。そしてこの年の三月七日、安積親王が亡くなった。恭仁宮へ戻ったわずか二日後、たった16歳であった。この脚の痛みによるこの安積親王の早過ぎる死は、藤原の血を受けぬ安積親王が皇位を継ぐことを嫌った藤原仲麻呂により、暗殺されたと考えられている。恭仁宮で留守を命じられた藤原仲麻呂にとって、それは正に絶好の機会であったのではあるまいか。藤原仲麻呂か、もしくはその妻の藤原宇比良古によって暗殺されたのではないかという説になっている。この安積親王の薨去により、安積親王の姉の井上内親王は、27歳で斎王の任を解かれて退下したとされるが、帰京後、白壁王、のちの光仁天皇の妃となった。 745年、橘諸兄60歳のとき、聖武天皇は、都を難波京から平城京へ復した。この短期間での異常とも思える遷都は、自身の第一皇子の基王と第二皇子の安積親王を亡くした上、大地震、大凶作、そして疱瘡の大流行に怯えた聖武天皇が迷ったことによる行為と想像されている。 746年、橘諸兄61歳のとき、大伴家持は越中守に遷任され、七月、越中へ向け旅立った。この年、玄昉は藤原仲麻呂により筑紫の観世音寺別当に左遷されたのち、任地で没した。再興しつつあった藤原氏に、暗殺されたとの説もある。 748年、橘諸兄63歳のとき、元正上皇が薨去された。 749年、橘諸兄64歳のとき、安積親王の義姉の阿部内親王が、46代の孝謙天皇として即位した。 750年、橘諸兄65歳のとき、正一位に上った。この年、吉備真備は筑前守、次いで肥前守へ左遷され、第十次遣唐副使として再び唐へ渡航した。二度までも命がけの入唐を命じられたついては、藤原仲麻呂による陰謀説がある。 756年、橘諸兄は71歳で亡くなった。藤原氏が再び勢力を得る中で、安積親王を擁護した著名な人々は、このような不遇にさらされていったのである。 いずれこの橘諸兄の経歴から、葛城王を称した時代となる713年から736年の間に安積に来たと考えることは、難しいと思われる。ところで万葉学者で文学博士の澤潟久孝氏はその著『万葉集注釈巻十六』の85頁に、『確証がないからこそ、安積山の歌が都の歌人によって作られた歌であると、思いたい』と記述している。『思いたい』と言って断定こそしていないが、専門家でもこう考える人がいるのである。
2024.01.10
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684年、葛城王は、敏達天皇のひ孫の美努王と、県犬養三千代(あがたいぬかいのみちよ)(以後三千代と略す)の間に生まれたが、美努王と三千代は離別する。三千代は阿閇皇女(あへのひめみこ)(のちの元明天皇)付き女官となったが、持統末年頃に不比等と婚姻関係になったと思われる。その後、藤原不比等と三千代の間に安宿媛(あすかべひめ)(のちの光明皇后)が生まれたことから、葛城王は母が同じでも父親違いの義理の兄妹となった。不比等は、皇室とのつながりを渇望していたのである。694年、葛城王10歳のとき、藤原京に遷都され、巡察使が諸国に派遣された。697年、葛城王13歳のとき、42代の文武天皇が即位し、藤原不比等の長女の宮子が その皇后となった。699年、葛城王15歳のとき、修験道の基礎を築いた役の小角(えんのおづぬ)が、 「人々を惑わす」として伊豆へ流された。700年、葛城王16歳のとき、文武天皇と宮子の間に首皇子(おびとのみこ)が生れた。701年、葛城王17歳のとき、藤原不比等らが選定していた大宝律令が完成した。702年、葛城王18歳のとき、663年に、倭・百済の連合軍は白村江の戦いで、唐・ 新羅 連合軍に大敗していた。そして約40年後のこの年、倭国は講和の使 者として、粟田朝臣真人を唐に派遣した。その最大の目的は、講和であり捕虜 の交換の交渉であったとされる。703年、葛城王19歳のとき、東海道・北陸道・山陰道・東山道に巡察使が派遣され、 国司の政治の成果と人民の暮らしの苦楽について調べさせた。東山道には、 多治比三宅麻呂が派遣されたとあるが、ここに葛城王の名はない。なおこの時 代の東山道には陸奥が含まれているから、多治比三宅麻呂は安積を通ったとも 考えられる。704年、葛城王20歳のとき、飢饉や疫病が全国化し、社会不安が募っていた。707年、葛城王23歳のとき、42代・文武天皇が崩御したが首皇子はまだ幼く、文武 天皇の母が第43代元明天皇に即位した。なお、平安時代初期の歴史書『続日 本紀』によると、陸奥国信夫郡出身の壬生五百足ら倭軍兵士4人が、白村江の 戦いで捕虜となっていたが、実に44年後に帰国した。唐で賎民に落とされて いたが、日本から来 た遣唐使の粟田朝臣真人の捕虜交換の努力もあって、運 よく帰国することができたという。なお壬生五百足は、童話・浦島太郎のモデ ルとされている。708年、葛城王24歳のとき、平城京の造営が始まった。この年、三千代に、橘宿禰の 氏姓が与えられた。709年、葛城王25歳のとき、陸奥・越後の蝦夷の討伐戦があった。710年、葛城王26歳のとき、従五位下に直叙された。この年、藤原不比等が中心とな って、中国の長安を模倣した広大な平城京へ遷都され、藤原氏の勢力は強固な ものとなっていった。711年、葛城王27歳のとき、馬寮監に任ぜられた。712年、葛城王28歳のとき、出羽国が建置された。またこの年より毎年巡察使が派遣 され、国内各地の様子を調べさせた。713年、葛城王29歳のとき、諸国郡郷名著好字令が発せられた。この頃、阿尺が安積 になったと思われる。715年、葛城王31歳のとき、43代の元明天皇が自身の老齢を理由に退位、娘の氷高 皇女が44代元正天皇として即位した。716年、葛城王32歳のとき、首皇子は、藤原不比等の後妻となった三千代との子の 安宿媛を妃とした。三千代は夫である藤原氏の繁栄を図り、首皇子に三千代 の一族から県犬養広刀自を入内させた。以後、広刀自と略す。717年、葛城王33歳のとき、従五位上となった。この年、能登・安房・石城・石背が 設置された。またこの年、首皇子と広刀自の間に、井上内親王が長女として 生まれた。718年、葛城王34歳のとき、首皇子と安宿媛との間に、阿倍内親王(のちの46代 孝謙天皇で、さらに重祚して48代の称徳天皇)が生まれた。719年、葛城王35歳のとき、正式に按察使が置かれた。この703年の巡察使や 712年からの巡察使、さらには719年からの按察使による報告などから、 葛城王は安積という地名について知っていたと思われる。720年、葛城王36歳のとき、大伴家持の父の旅人が、九州の隼人を撃った。 実力者であった藤原不比等が死去し、その後を、藤原武智麻呂・房前・宇合・ 麻呂の四兄弟が継いだ。この年、石城と石背が、再び陸奥国に併合された。721年、葛城王37歳のとき、正五位下に昇進した。この年、元明上皇が薨去された。 5歳の井上内親王は、伊勢神宮の斎王に定められた。722年、葛城王38歳のとき、不作のため税収が不足し、それに対応して百万町歩開墾 が計画された。食糧を官給し、農具などを貸与して良田百万町歩を開墾しよう としたが,はかばかしくなかった。723年、葛城王39歳のとき、正五位上となった。不調であった前年の百万町の開墾に 代えて、三世一身法が制定されたが、それも不調の中、蝦夷に対抗するための 軍事拠点として、按察使の大野東人により多賀城の建造がはじめられた。724年、葛城王40歳のとき、従四位下に叙せられた。元正天皇が譲位し、首皇子が 聖武天皇となった。聖武天皇は、第42代の文武天皇を父とし、藤原不比等と 三千代の長女の藤原宮子を母とし、なおかつ、聖武天皇は、藤原不比等の娘の 媛をその皇后とした。文武天の妃の藤原宮子の異母妹が安宿媛である。藤原氏 は天皇家との外戚関係が絶えることを恐れ,安宿媛の立后を画策した。 このようにして天皇家と強い絆を作り上げ、勢力を扶植してきた藤原氏に対し て、長屋王・葛城王などの皇族を中心とする派との対立が深まっていった。727年、葛城王43歳のとき、聖武天皇と安宿媛との間に基王(もといおう)が生まれ た。藤原氏繁栄の期待を担った基王は、生まれてすぐに次期の天皇となる 皇太子とされた。この年には雷雨と強風があり、僧600人、尼200人 を中宮に経を転読させた。この年、使いを七道の諸国に派遣して、国司に よる治政と勤務状況について調査をさせた。728年、葛城王44歳のとき、聖武天皇と広刀自を母として、第2皇子の『安積親王』 が生まれた。なお生没年が不明であるが、その後に、安積親王の妹の不破 内親王が生まれている。ところがその九月、この皇太子である基王が一歳に満 たずして亡くなったのである。藤原氏は、安積親王が次の天皇になれば、権力 の座を奪われるのではないかとおそれたと思われる。 ところで安積親王の名であるが、この安積の文字は、現在でも難読地名とされている。この文字をアサカとストレートに読めるのは、福島県の人だけではないかと思う。例えば元明天皇が各国の国司に命じて作らせた資料の一つの『播磨国風土記』にある安積山(あづみやま)製鉄遺跡が、いまも兵庫県宍栗市一宮町字安積(あづみ)に残されている。それなのに何故、聖武天皇は自分の第2皇子に、普段は読まれることのないアサカという名にしたのであろうか。これに関連するかどうか分からないが、安積親王が生まれた時期は、この地域が『諸国郡郷名著好字令』に従って、阿尺から安積と表記されるようになってから15年後のことであり、しかも多賀城へ往還する者たちから、天皇をはじめ高官たちがアサカという地名を聞いており、多くの人に知られていたものと思われる。 729年、葛城王45歳のとき、藤原不比等の娘の安宿媛が聖武天皇の皇后となったた め、藤原四兄弟は皇室に対して強い影響力を持つようになった。この年、葛城 王は正四位下に叙せられるとともに、左大弁に任ぜられた。藤原氏一族は、 広刀自を母とする安積親王を疎んじた。それに対して、天武天皇の孫の 長屋王が、藤原四兄弟に反抗の兵を挙げたが、敗れて自害した。この事件の 後、藤原氏はより一層の繁栄を極めることになる。また安積親王の姉の 井上内親王が、のちに第49代光仁天皇となる白壁王と結婚した。 731年、葛城王47歳のとき、藤原四兄弟全員が議政官に昇り詰めた。このとき 葛城王は、参議に任ぜられて公卿に列している。732年、葛城王48歳のとき、従三位に叙せられた。この年、東海道、東山道、 山陰道、西海道に節度使が派遣された。さらにこの年、『反藤原』であり 『安積親王養護』の重鎮でもあった大伴旅人が亡くなった。12〜3歳に なっていたその子の大伴家持は、3歳となった安積親王に、次の歌を贈って いる。しかしここでは、藤原氏に対する忖度があってか、『安積親王』の名は 出していない。大伴家持は、葛城王らとともに、安積親王の有力な支持者と なっていた。次回は、その家持の歌である。すみません。文字がうまく入りません。
2024.01.01
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奈良市にある采女神社に、次のような案内板がある。それには、『天皇の寵愛が薄れた事を嘆いた采女が、猿沢の池に身を投げ、この霊を慰める為、祀られたのが采女神社の起こりとされる。入水した池を見るのは忍びないと、一夜のうちに御殿が池に背を向けたと伝えられる。例祭の当日は、采女神社本殿にて祭典が執行され、中秋の名月の月明りが猿沢の池に写る頃、龍頭船(りゅうずせん)と鷁首船(げきすせん)の二艘の船は、幽玄な雅楽の調べの中、猿沢の池を巡る』とあるが、この案内板には、郡山に関する文字はない。ところが奈良市の『奈良新発見伝』には、『福島県の郡山市片平町に春姫という美しい娘が住んでいました。奈良の都から葛城王が東北巡察使として彼の地へ行った時、奈良へ連れて帰って采女として宮中に仕えさせることになりました。 美しい春姫は天皇に見そめられて寵を受けましたが、その寵の衰えたことを嘆いて、池に身を投げたと伝えられています。池の南東には、采女が入水するときに衣服を掛けたという衣掛柳があり、北西には、采女神社があります。この采女神社は春姫が身を投げた池を見るのは嫌だといって後ろを向かれたということで、道のある池側とは反対の方向を向いています。ところで、この采女の出身地とされる郡山では、こんな風に伝えられています。 春姫は、故郷に残してきた恋人のことが忘れられず、衣を柳に掛けて身投げをしたように装い、故郷まで苦労して帰り着きました。しかし恋人は春姫を失ったことを悲しんで井戸で自殺をしていました。春姫もその井戸に身を投げてなくなったということです。』という話が載せられている。どうでしょうかこの『奈良新発見伝』にある話、この話にある『福島県の郡山市片平町』という地名と、ヒロインの名が同じ『春姫』であるということから、郡山で伝えられていた『采女物語』を参考にして作られた気配は濃厚である。ところがこれら郡山や奈良の『話』に関して原型の一つと思われるものが、天暦五年(951)頃に成立したとされる『大和物語の155段』に記載されているので、これを抄略してみる。 『むかし、大納言が美しい娘を持っていた。帝の嫁にと思っていたところ、大納言のもとで働く内舎人の一人だった男が、この娘に惚れて、恋にやつれて病気のようになってしまった。 とうとう「どうしても言いたいことが」と娘を呼び出して、「どうしたのでしょう」と出向いてきたところを、用意していた馬に乗せて、抱きかかえて奪い去り、そのまま、安積山まで逃げ延びて、住まいを作り、女を住まわせて年月を暮したが、とうとう身ごもってしまった。 そこで娘は男のいない間に、山の井戸に写った自分の姿を眺めると、かつての美しい姿とも思えない、恐ろしげな姿だったので、女は恥ずかしさにさいなまれ、 安積山 影さへ見ゆる 山の井 あさくは人を 思ふものかはと詠んで死んでしまった。帰ってきた男は、この和歌を見て途方に暮れ、和歌の思いを胸に、女のそばで死んだという。遠い昔話である。』 ここには『安積山のうた』があり、山の井戸に映ったのは安積山ではなく娘の顔になっている。すると『安積山のうた』にある『山ノ井』が写したのは山ではなく誰かの顔であったのではなかったかと想像できる。ところで、万葉集は8世紀頃に編まれたとされ、大和物語のそれは天暦五年(951)の頃とされるから、『大和物語』は万葉集よりほぼ150年後の作品となる。この大和物語の作者にはいろんな説があり、現在に至るも不明であるが、国文学者で元・大正大学教授の阿部俊子氏は、源順(みなもとのしたごう)(911〜983)を挙げて、次のように記しておられる。『第52代嵯峨天皇をその先祖とする源順の作品には、 あさましや あさかのぬまの さくらばな かすみこめても みせずもあるかがあり、さらに ゐても恋ひ ふしても恋ふる かひもなく かく浅ましく みゆる山の井がある。この歌の本歌は、万葉集にある安積山のうたです。源順は、村上天皇の命により、漢字のみで書かれた「万葉集」の短歌を、「平仮名で書かれた和歌」に置き換えた人物と推定されており、その置き換えは、約4500首の「万葉集」の歌のうち、4000首を越えると算定されています。さらに源順は、第一勅撰集「古今和歌集」に倣って、第二勅撰集「後撰和歌集」を編纂していますから、万葉集と古今集のことを熟知していたはずです。大和物語155段の『大納言の娘が安積山で死ぬ話(現代語訳福永武彦)』の中は、万葉集の官官接待に関するエピソードとは次元が異なる説話の中に、「安積山のうた」が出てくるのです。この「安積山のうた」を31首の短歌の折句に詠みこんだ源順の作品は、古今集仮名序の不自然さに注目せよという、後世への大変なメッセージなのかもしれません。』とあった。なおこの折句は、資料として、巻末に掲載しておく。 ところで、これらのことに関連するかどうかわからないが、第21代の雄略天皇の御代(456年〜479年)に、『伊勢の国の三重の采女』が、宴会で天皇に捧げる盃に木の葉が入っていることに気付かず酒を注いでしまい、天皇の怒りに触れて殺されそうになった。そこで采女は即興で天皇を讃えて繁栄を祈った歌を詠んだところ歌の出来が大層素晴らしかったので感心し、命拾いをしたという記述が古事記にあるという。古事記は万葉集より先に編纂されているから、この話などは、『安積山のうた』の左注の原型になったのではないかと思われるほど似た話である。なお三重県四日市市には、采女という地名がある。ともあれ、これらの話が縁となって、昭和四十六年に郡山市と奈良市は姉妹都市を締結し、毎年八月に開かれる『うねめ踊り』には奈良市から親善使節団が郡山市を訪れ、また仲秋の名月には郡山市から親善使節団が奈良市を訪問して両市の交流を深めている。しかしこの祭りの主人公である葛城王が、本当に郡山に来られたかは解明されていないが、福島県教育委員会の『うつくしま電子辞典』に、『8世紀前半(700〜750)、貴族の葛城王が陸奥国をおとずれた』と記述されている。これは事実なのであろうか。そこで私は、『葛城王』が実際に郡山へ来られる状況にあったのかを知るために、彼の経歴を調べてみた。ただしこれから先は、年代について分かり易くするため西暦年で追ってみた。
2023.12.20
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ところで郡山市史に、『詩に詠まれた安積山は額取山のことである』とある。そこで額取山を調べてみた。額取山は、青森県から栃木県に至る千メートル前後の峰々が連なる奥羽山脈の郡山市の西側に横たわる山である。標高は1108・7メートルで、登山コースは北側から登る磐梯熱海温泉口、東側から登る滝登山口、南側から登る御霊櫃峠口の3コースがある。ところがこの山に対して、東北大学名誉教授の高橋富雄氏は、その著書、『地方からの東北学』において、『当時の都人が思いを抱く安積の山とは一つしかなく、それは安達太良山以外にはないのではないか。安達太良山は万葉集に3首載っているようにみちのくを象徴する山の一つであり、まして天平時代の当時は、安達もまた安積郡の中に入っている頃であるから郡衙の高台から見る安達太良山は、まさに安積地方を代表する高峰だったろう』と書かれておられます。しかしそれなら、何故、『安積山のうた』を詠んだ人は、『安達太良山 影さえ見ゆる』としないで『安積山 影さえ見ゆる』としたのであろうか。近世以降になっても、安積山が安積郡内のどこにあったかが議論の対象とされてきた。これについて、天正十六年(1588)、仙台の『伊達治家記録』には、日和田の山が采女の歌に詠まれた安積山であると記している。また元禄二年(1689)、松尾芭蕉は『奥の細道』の旅で日和田の安積山を訪れているが、この日和田にあると思った山ノ井清水がここから三里も離れた帷子(片平)村にもあることを里人に聞いて、不思議に思ったと書いている。しかしどの文献にも、安積山の存在地の特定はされていないのである。これらのことから想像できることは、『安積山』とは何か別のもの、もしくは『事』をあらわそうとしたのではあるまいかということである。では一体それは、何なのであろうか。 私は図書館に行って、万葉集を確認してみた。この『安積山のうた』は、『陸奥国前采女某』の作として、万葉集の(16〜3807)にあり、その左に左注と言われるものが、次のように短く記されていた。 『右の歌伝へて云はく、葛城王、陸奥国に遣はされたる時に、国司の祇承、緩怠なること異に甚だし。ここに王の意悦びずして、怒りの色面に顕はれぬ。飲饌を設けたれど、肯へて宴楽せず。ここに前の采女あり、風流びたる娘子なり、左手に觴を捧げ、右手に水を持ち王の膝を撃ちて、この歌を詠む。すなわち王の意解け悦びて、楽飲すること終日なりといふ』 この左注とは、歌の次、つまり歌の左側に書かれた注釈のようなもので、『万葉集では、歌本体のほかに、歌の前につく題詞と、歌の後ろにつく解説の左注がつく。これら歌の解説をする左注は、歌がつくられた背景などを読者に教えるのが目的である』とあったのである。この説明から私は、ここにある左注を、そのまま膨らませて書かれたものが、『郡山の歴史』にある解説文であり、世間一般に伝えられている『采女物語』の原型となったのではないかと思った。しかし同時にこの左注の内容から言って、詠み人の釆女が記したものとは思えず、他の人が書いたものではないかと思った。そこで、万葉集の左注を、私なりに検討をしてみた。 1*『右の歌伝へて云はく』=伝えられている未詳の話。2*『葛城王、陸奥国に遣はされたる時に』=歴史書には、葛城王が郡山へ遣わされたという記述が無い。また都から郡山への道筋 となるはずの地方史にも、これに関する記述が見当たらないようである。3*『国司の祇承(しぞう・下向してきた勅使を接待する役)の緩怠なること異に甚だし』4*『ここに王の意悦びずして、怒りの色面に顕はれぬ』5*『飲饌を設けたれど、肯へて宴楽せず』6*『ここに前の采女あり 風流(みや)びたる娘子なり』7*『左手に觴(しょう)(酒杯)を捧げ、右手に水を持ち』=宴席のため左手に盃を持っているのは当然として、右手に酒ではなく水を持 って行くのは不思議である。8*『王の膝を撃ちてこの歌を詠む』=この采女は、天皇に連なる身分の高い葛城王とは初対面のようであるが、このような失礼な ことができたものであろうか。9*『すなわち王の意解け悦びて、楽飲すること終日なりといふ』=ここでは大勢の宴会ではなく、葛城王単身での宴を想像させる。 そしてこの歌は、『陸奥国前采女某』が詠み人とされている。しかし『某』とは名を特定できないということであろうから、『詠み人知らず』ということになるのではないだろうか。平成二十六年に出版された『郡山の歴史』に、垣内和孝氏は、『前采女は歌の作者ではなく詠者として登場しており、安積山の歌そのものは、これ以前から存在していたとの推定もある』と指摘しておられることもあるから、この左注は采女が書いたものではないと私は思っている。ではこの『陸奥国前采女某』とは、誰なのであろうか。 ところで采女には地方豪族の出身者が多く、容姿端麗で高い教養を持っていたと言われ、天皇のみが手を触れることが許される存在ということもあって、男性の憧れの対象となっていたという。 陸奥国からの采女については、『献上された豪族の娘たち』の著者の門脇禎二氏は、その95ページおよび97ページに、『陸奥国に対しても養老六年(722)以前のある時期には、采女を貢がせるようになったとあることと、安積山のうたが詠まれたのは、この年から、葛城王が橘の姓を与えられた天平八年の14年の間であろう』と推定されていることから、陸奥国より采女が貢がされたであろう期間は短期間であったことになる。ともあれ、その後の南北朝時代に執筆された『百寮訓要集』には、『采女は国々よりしかるべき美女を撰びて、天子に参らする女房なり。古今集などにも歌よみなどやさしきことども多し』と記載され、また室町末期の『官職秘抄』にも『ある記にいはく、あるいは美人の名を得、あるいは詩歌の誉れあり、琴瑟にたへたる女侍らば、その国々の受領奏聞して、とり参らすこともあり』との記述があるという。しかし私は、『その国々の受領』とは『都周辺の受領』ではないかと思っている。理由は、成長してからであれば美人の判断は容易であろうが、その成長までの過程で身についた地方での文化や素養そして言語が、天皇の傍らに仕える身として適宜なものであったのか、疑問に思っているからである。つまりいくら美人であるとは言っても、あえて都の文化から離れた陸奥や筑紫などの遠国から呼び寄せたものであろうか。なお、2014年に出版された『郡山の歴史』26ページに、『古代においては、中央と地方の格差は現代の我々が考える以上である。』とあるのは、これを推測するものとしてうなずけるものがある。
2023.12.10
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私は祭り太鼓の音に誘われて、郡山駅前の大通りへ出掛けて行った。そこでは大勢の観客の前で、奈良市からの親善使節団を先頭にして、『うねめ踊り』の流しが行われていた。「へ〜え。奈良からも来るんだ」 私は、かたわらの妻に言った。「そうねえ。郡山も有名になったわね」「ああ。ところで『安積山 影さえ見ゆる 山ノ井の』って歌、知っている?」「知っているわよ。郡山生まれですもの」「そうか、そうだよな。それじゃ聞くが、『山ノ井』ってなんだ?」「山ノ井? そうねえ・・・、山の中にある井戸かしらねえ・・・」 気のせいか、妻の返事が少し心細く聞こえた。「山の中の井戸? それじゃあ『安積山の影』は?」「『安積山の影』ねえ・・・、これは・・・安積山そのものかしら、知〜らない!」「なんだ! 郡山生まれのくせに」 とりとめのない話をしている間にも、太鼓の音が遠くにはなったが、踊り流しは続いていた。 『うねめまつり』は、昭和三十年に『市勢発展のため』に、愛宕町の荒池公園で第一回が開かれた比較的新しい『まつり』である。しかし資金難もあって、昭和三十七年を最後に、その後は開催されなかった。しかし昭和四十年になって、旧郡山市と安積郡九カ町村と田村郡三カ町村が合併、市民が一体となれる祭りを催したいという気運が高まったことから郡山市と郡山商工会議所が中心となり、郷土の伝説である奈良時代の宮中女官の『采女物語』を主題とした祭りとして郡山駅前大通りで再開された。通常はこの年を第一回としている。この『采女物語』に出て来るのが『陸奥国前采女某』の作として万葉集にある『安積香山 影さえ見ゆる 山ノ井の 浅き心を わが思はなくに』という歌である。この歌について、私の手元にある平成六年出版の『郡山の歴史』には、次のように記載されている。 『安積山と山ノ井について、日本最古の歌集である万葉集に、次のように詠まれている。 安積香山影さえ見ゆる山ノ井の浅き心をわが思はなくに・陸奥国前采女某 この詩は、葛城王が陸奥国に派遣されたおり、その地の国司のもてなしを受けたが、もてなしがとりわけ不十分であったあったため、王は不快になり、怒りを顔にあらわした。酒食を用意したが、少しも楽しもうとしない。その時、前(さき)に采女として仕え、今はこの地に帰っている一人の風流な女子があらわれた。女子は左の手にさかずきを持ち、右の手に水を持ち、王の膝を打って、安積山のうたを詠んだ。するとたちまち王の心は解きほぐれ、喜び、楽しみ、飲むこと終日であったという。詩の内容は、「安積山の影さえ映って見えるほどの浅い山の清水、そのように浅い心であなたを思っているのではありませんのに、深くお慕い申しあげていますのに・・・。それにもかかわらずあなたは・・・」というものである。「アサカ」という地名は、三重県松阪市や、大阪市の住吉や、堺市にもあり、郡山でないとの意見もある。しかし、陸奥国の安積というのは安積郡のことであり郡山地方にしかない。また日和田の奥州街道脇の小山を安積山と呼ぶが、詩に詠まれた安積山は額取山のことである』 私はこれを読んで、なるほどとは思ったが、やはり『安積山』と『山ノ井』の関係が気になった。つまり『山ノ井』が山にある井戸とは想像できても、井戸の上にある木の枝や葉は映せたとしても、山の全体像は映せないのではないかと思ったからである。次の日、私は、祭神を葛城王とする采女神社のある片平町へ行ってみた。この采女神社のある一帯が、『山ノ井公園』となっている。そこには『安積山のうた』の歌碑があり、『山ノ井清水』と案内板が立てられた小さな池がある。ところが行ってはみたものの、周囲にあるうちのどの山が額取山か分からなかったので、地元の人に聞いてみた。すると、「額取山は、いま目の前に見えている丘に隠されていて、ここからは見えないよ」と言う。それを聞いた私は、アレッと思った。それは、この『山ノ井清水』のある所から見えない額取山を、ここにある『山ノ井』が映すことができない筈だと思ったからである。次いで私は、日和田町の安積山公園に行ってみた。 松尾芭蕉も見たという日和田町の安積山は、いまは安積山公園となっており、そこには芭蕉の句碑が建てられ、その背後には、昭和四十五年に造られた郡山市営の日和田野球場が広がっていた。地元の人に聞くと、「ここは公園や野球場を建設するときに整地されたが、もともとが山と呼ばれるほどの大きなものではなく、せいぜい丘程度のものであった」と言う。今は整地されてしまったから、昔の安積山とは景色が大きく変わっていることになるが、ただ、その公園の一角に、『山ノ井』という案内板の立つ、直径50センチほどの小さな池? があった。しかし安積山が丘程度の山であったとしても、こんな近くの小さな池では、やはり安積山の全体を映せたとはとても思えない。どうも私の見た範囲では、このどちらの公園の『山ノ井』にも、いわゆる安積山という山の全体像を映せる状況にはないようである。すると『山ノ井』は、本当に安積山を映していたのであろうか? ちなみに、この安積山公園の所在地は日和田町字安積山にあり、隣接して字山ノ井がある。町村史からみれば、明治二十二年の町村制施行により、日和田村、高倉村、八丁目村、梅沢村が合併して安積郡山野井村が発足しているが、大正十四年に安積郡山野井村が日和田町となっている。いずれにしても、日和田町に安積山と山ノ井の地名があるは、何を表しているのであろうか。
2023.12.02
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旗本とは、戦場で大将の旗のある場所から転じて、大将の周囲を固める役目を果たす直属の武士を称し、老中の支配下にありました。徳川幕府は、これらの武士で知行高一万石以下の者のうち御目見得を許され、しかも騎乗を許された者を旗本、御目見得を許されずしかも騎乗も許されなかった者を御家人と称しました。旗本が領有する領地、およびその支配機構は知行所と呼ばれ、旗本が領有する領地には管理のための陣屋が置かれました。これら旗本・御家人の数は、宝永年間(1704年〜1710年)には総数22・569家でしたから、旗本八万騎という表現は、いささかの誇張と思われます。これら五千石以上の旗本で知行地を与えられていたのは2354家で、五千石未満は2247家でした。五千石以上の旗本は107家で、約4、5%でした。 1633年の寛永軍役(ぐんやく)令によりますと、千石の旗本は持ち槍二本、弓一張、鉄砲一挺とあるだけで細かな記載はないのですが、供の侍5〜6名程度、主人の用をたす者と小荷駄運びが必要とされました。ちなみに、1648年頃の慶安軍役令では、五千石クラスの旗本は総勢で102名あり、一隊をなす程度になっていました。 いまの茨城県笠間市宍戸にあった、宍戸五万石の秋田俊季が、五万五千石をもって三春へ加増の上転封となったのは、正保二年(1645年)のことでした。俊季が大坂冬の陣、および夏の陣に父の秋田実季とともに徳川勢として出陣したこと、実季の妻、つまり俊季の母が、二代将軍・徳川秀忠の正室・崇源院の従姉妹にあたることも幸いしての加増転封であったといわれます。年度は不明ですが、俊季は弟の熊之氶季久に五千石を分知しました。三春藩は五万石となり、季久は五千石の旗本になったのです。 秋田季久の収入となる五千石領は、大倉村、新舘村、荒和田村、実沢村、石森村、粠田(すくもだ)村、仁井田村となっており、その代官所は、三春の御免町にありました。今は代官所そのものの建物は残されていませんが、かろうじて付属の土蔵が一つ、残されています、旗本は江戸常在がきまりでしたから、季久にも江戸に屋敷が与えられ、生涯江戸で暮らしていたのです。 秋田季久より七代目となる秋田季穀(すえつぐ)は文化四年(1807年)に駿府城加番となりました。加番とは、城番を加勢して城の警備に任じたもので、大坂城加番と駿府城加番があり、ともに老中の支配に属していました。天保二年(1831年)、季穀は浦賀奉行に任じられています。もっとも百姓からは年貢を取り立てるだけで、領地内のインフラ整備などということを心配しなくともよかったと言ってもいいこの時代、それでもこれらの村からの収入でこれらの業務をこなし、さらに江戸において100名かそれ以上の家臣を、それも武器や軍馬とともに維持するというのは、大変なことであったと思われます。 ところで江戸時代は、身分制度にやかましいというイメージがあるのですが、実はカネ次第で百姓や商人も武士になることができました。御家人株が公然と売買されていたのです。しかし旗本たちには、それぞれの領地からの収入の他、幕府からの支給金が合計で四百万石が与えられたとされますから、旗本総数に与えられる平均値は、それぞれ約170石に過ぎないことになります。戊辰戦争の後、従来の臣下を扶持することができなくなった徳川家は人員整理を敢行せざるを得なり、支給金を七十万石に減らしたといわれますから、一旗本当たりの平均値は、たったの31石になります。なお一石は一年間に一人が食べる米の量とされていましたから、家族も含めて31人しか生活できないことになります。その上で徳川家は旗本に対し、以下のようなお達しを出しました。 1:新政府の職員となるか、 2:農商に帰するか、 このように旗本は、幕末の時点で失業状態となりました 受ける俸禄もやがては有名無実となり 困窮の極みにあった旗本に明治政府から与えられた債権を、売却する者もいたようです。つまり藩主と違って旗本は、自己に生存のための責任を押し付けられた上で、あっさりと解雇されてしまったのです。ところが間もなく、これらの経済的諸問題が、新たに発足した明治政府にすべてが移管されたことで、徳川家としては自由裁量を手に入れたことになります。その明治政府は、一定年限分の収入を金禄公債で保障するという秩禄処分を行いました。金禄公債とは、徳川幕府の家禄制度を廃止する代償として、旧士族に交付された退職金のようなものでした。それを元手に商売をはじめたが失敗する者も少なくありませんでした。いわゆる武士の商法です。そして北海道へ行って屯田兵になる者などがありました。その一方で、明治政府の主力となった旧薩摩・長州の藩士あるいは旧幕府の旗本・御家人の一部を政府の役人とし、中には警察官吏として任用された者も多くいたのです。戊辰戦争で立役者となった薩長土肥以外の藩の旗本に対する馘首などの処遇は、トカゲの尻尾切りのようにみえる現代の世相そのもののような気がするのですが、どうでしょうか。 江戸末期に幕府側として活躍した旗本の勝海舟を出した勝家は、たった四十石取りの旗本で、父親の小吉は、無頼者と交わって生活していたと言われます。ところで、旗本には外国人もいました。徳川家康の外交顧問として仕えたイングランド人航海士で貿易家の三浦按針、つまりウィリアム・アダムスです。江戸でのアダムスは帰国を願い出たのですが、叶うことはなく、代わりに家康は米や俸給を与え上で旗本として慰留し、外国使節との対面や外交交渉に際して通訳を任せたり、助言を求めたりしていました。またこの時期に、幾何学や数学、航海術などの知識を家康以下の側近に授けたとも言われています。そしてその子の、二代目の三浦按針となったジョセフ・アダムズもまた旗本に任じられていました。なお按針とは、水先案内人という意味です。
2023.11.20
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慶應四年七月十七日、江戸は東京と名を変えました。そして会津落城の前々日の九月二十日、天皇は京都を出発、十月十三日東京へ着き、徳川家の居城であった江戸城に入りました。供奉する者。3000人と言われます。なお慶応四年は、九月八日より明治に改元しています。 仙台藩が新政府軍に降伏したのは、明治と改元した直後の九月十五日でしたが、翌十六日の午後十一時頃、芝にあった仙台藩の空き屋敷が焼失しました。この時点では、未だ会津は落城しておりません。この火事の失火原因も、消火活動などの詳細も、一切が伝えられておりません。 幕府が消滅して大名が引き払った後のすべての旧江戸屋敷の跡地は、国や東京府の管理に移されました。しかし国や東京府は、その予算の資金獲得のため、これらの広い土地を農地などにでも転用させようとして、民間に払い下げることにしたのですが、その引き渡しの条件として、四ヶ月以内に作付けをしない場合は無効としたのです。これらの地価は、麹町、虎ノ門、桜田辺りは坪25銭、飯田町や番町辺りは20銭、市ヶ谷、四谷、青山の辺りは10銭で売りに出されたのですが買い手がつかず、建っていた屋敷を「タダでやる」と言っても売れなかったというのです。それでも風呂屋が燃料の薪として、それこそタダ同然で若干の建物を引き取っていったというのです。地方でも、各藩が所有していた城や藩の所有地が一般に売りに出されました。当時の福島県の地価、これは現在のように需要と供給から決められたものではなく、新政府が徴税をするために決めた公定の価格なのですが、これによりますと、高い順に三春が坪2円、福島が1円、須賀川が86銭、郡山が66銭、本宮が60銭、二本松が57銭でした。この地価に伴う高額の税金に根をあげた三春では地価の減額運動が起こり、1円40銭、1円20銭と二度にわたって地価が引き下げられましたが、それでも福島の町よりも高かったのです。それにしてもこれらの地価を東京と比較すると、東京の安値が際立ちます。 明治になって間もなく、すべての旧江戸屋敷跡は、明治政府の所有地とされました。そして明治二年十二月二十七日の深夜、元数寄屋町、いまの中央区銀座五丁目で起こった火災により、『旧脇坂藩、旧仙台藩の元屋敷あたりまで数か所焼失する』と当時の新聞に掲載されました。前年の九月に燃えたのは旧仙台藩の屋敷でしたが、まだ建物が残っていたのでしょうか。それとも別の建物だったのでしょうか。消火の様子やどのような被害があったのかは、判然としていません。 明治五年三月二十六日、今の皇居前広場のうちにあった無人の旧会津藩上屋敷から出火し、いまの丸の内、有楽町、八重洲にあった多くの旧江戸屋敷、それに日本橋、京橋、銀座、築地、明石町、新富町、入船町の商人町を焼く大火となってしまいました。江戸屋敷のすべてが引き払われたと同時に、大名火消しがいなくなったことも、大火となった理由の一つであったのかも知れません。ともあれ多くの家が燃えてしまったために、江戸城周辺は寂しい場所となってしまったのです。今の文京区小石川三丁目にあった伝通院の近所では、夜になると狐火が出たというのです。狸や狐も出るようになったのですが、それはまだいい方で、今の東京駅や丸の内では、「幽霊も恐がって出ない」と言われるほどの寂れようであったと伝えられています。七月中旬から九月上旬にかけて30夜以上にわたって踊られることで有名な、郡上踊りの(岐阜県の)郡上八幡藩の藩主は青山氏でしたが、この屋敷跡も買い手がなく、ついに墓地にされてしまいました。ここは青山氏の屋敷跡でしたから、青山墓地という名になったのです。このように土地の処置に困った明治政府は、後の三菱の総帥・岩崎弥太郎にむりやり頼んで、丸の内地区の10万坪ほどの広大な土地を買ってもらいました。それを聞いた知人が驚いて、「なんで、あんな不便な所を買ったのか?」と聞いたところ、「仕方がない。竹でも植えて虎でも飼うさ」とうそぶいたと言われます。日本橋地区の町家にも遠く、皇居までの間となる丸の内界隈は、このように淋しい場所であったのです。後に三菱地所はここに煉瓦のビル街を建て、一丁ロンドンと言われる貸事務所を作って、日本一の大地主になったのです。 当時はそのような状況でしたから、国や軍、東京府や鉄道などの多くの土地を使う施設は、江戸屋敷跡地の有効活用の方法の一つでした。例えば明治七年、市ヶ谷には参謀本部と陸軍士官学校が作られ、そこから現在の日比谷公園や国会議事堂をはじめ政府の多くの官庁のある広大な土地は、陸軍の練兵場となっていました。現在、市ヶ谷には、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地が置かれています。 現在、これらの江戸屋敷の跡が、都内各所に残されています。ちょっとその名を列挙してみます。 六義園は造園当時から小石川後楽園とともに江戸の二大庭園に数えられていました。元禄時代に大老格として幕政を主導した柳澤吉保自らの設計と言われます。その他にも有名なものとして、 後楽園は、東京ドームや後楽園遊園地を含む水戸藩の上屋敷でした。 東京大学本郷キャンパスは、加賀藩上屋敷でした。その他にも、 信州高遠藩屋敷跡の新宿御苑。 徳川綱吉家の小石川植物園。 和歌山藩の赤坂御苑。 甲府徳川家の旧浜離宮恩賜公園、などが有名な屋敷跡です。そして地名として残されたものがあります。まず銀座です。銀座といえば東京の銀座が知られていますが、これは当時の主な流通貨幣のうちの銀貨の鋳造が行われたこと、この場所以外での貨幣鋳造が厳しく取り締まられたこと、などにより『銀の屋敷・銀座』の名が付けられたと考えられています。これは徳川家康により、駿府(静岡市)に置かれていた幕府の銀座が、慶長十七年(1612年)に江戸に移されて以来、地名として定着したものです。そして金座です。金座とは、江戸幕府から大判を除くすべての金貨の製造を独占的に請け負った貨幣製造機関のことで、金貨の製造のほか、通貨の発行という現在の中央銀行業務に相当する役割を担っていました。金座のあった所は、江戸通町(とおりちょう)、いまの中央区日本橋本石町の日本銀行本店のある所です。江戸時代に金吹所(かなふきしょ)、つまり製造工場、そして金局(きんきょく)、つまり事務所のあった場所であり、世襲の御金改役である後藤庄三郎光次(みつつぐ)の役宅でした。しかし、後藤庄三郎は金貨の鑑定と検印のみを行い、実際の鋳造は小判師などと呼ばれる職人たちが行っていました。当初この場所の周辺は、両替町と呼ばれていましたが、金座のある場所は、本両替町と呼ばれていました。 約200年間続いた仙台藩の上屋敷跡地は、文明開化の象徴ともいえる新橋ステーションの建設地となりました。この新橋ステーションおよび線路敷の中には、会津藩中屋敷の跡地も含まれていました。三月二十五日には測量が始まり、四月十二日には地ならし工事が始まりました。ところが、東京側の停車場建設には兵部省が反対したのですが、太政官の決裁によって汐留の地とされ、横浜側の停留所は野毛浦海岸の埋立地とされました。ところで今で言う『駅』は、正式には『停車場』とされたのですが、「ステーション」、または『すてんしょ』と呼ばれていました。駅という名が一般化したのは、電車が出現してからでした。鉄道開業当時の停留所は、新橋、品川、川崎、鶴見、神奈川、横浜の六ヶ所であり、この線路敷きには、仙台、会津藩の屋敷跡の他にも、赤穂、新見(岡山県)小田原、二本松、和歌山、鯖江(福井県)など、多くの藩の江戸屋敷の跡地が利用されています。大正三年になって、旅客ターミナル駅の機能が新設された東京駅に移ったことで、電車線の駅であった烏森駅が新橋駅と改称しています。そしてその後になっても、江戸屋敷の跡地の多くが、山手線、中央線などの線路敷や駅舎などの建設に利用されたのです。 現在の港区西新橋は、江戸時代、芝田村町と称されていました。これは一関藩の田村家の屋敷があったことに因み、田村小路と呼ばれていた屋敷地に田村町が成立したのです。明治十一年には東京府芝区となり、明治二十二年の東京市成立に伴い、東京市芝区となりました。しかし、昭和七年にこの地域の町名が変更され、昭和四十年と四十七年には住居表示実施による町名変更があって、現在使われている西新橋が成立したのです。実は、ここには赤穂藩の浅野内匠頭の切腹の場となった、田村家の上屋敷があったのです。私はこの話を、我が家の婿殿に話をしたのです。当時東京で勤めていた婿殿は、そこに建立されていた『田村屋敷跡』の碑の写真を撮り、そこで営業していた『御菓子司・新正堂』の和菓子を土産に帰って来たのです。そして開口一番、「これ『切腹最中』と言うのですが、どんなものと思います?」と聞いてきたのです。すかさず私は、『切腹最中』と言う位だから、アンコがはみ出るくらい詰まっているのだろう」と言うと、「ピンポ〜ん。それはそうなんですが、実はですね、買おうと思ったら客が並んでいるんですよ。変に思って聞いてみました」「ふ〜ん」「そうしたら、『許してもらえそうもない、どうしようというとき、最後の手段としてこの切腹最中を持参する』というのです」「それは面白いアイデアだな」「並んでいる客に、あなたも何か謝らなければならないことがあったのですか? と聞いたら笑っていましたが、多い日は、なんと7000個以上も売れるそうです」 そう言って婿殿は包みを開けました。そこには思った通り、大きな口を開けた最中が入っていました。大笑いになりましたが、美味しかったです。どうぞ皆さんも折りがありましたら、ご賞味あれ。それにしても、商魂逞しい話でした。
2023.11.10
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元禄五年(1692年)、相馬藩は、幕府より、「各江戸屋敷で畠を荒らす猪を追い払うので、もし屋敷内に逃げ込んだら追い出すように」との主旨が伝達されました。しかしこのような動物退治は、日を決めて一斉にやらないと効果がありません。どこかの屋敷が一軒でやっても別の屋敷に逃げ込むし、別の屋敷でやると、今度は元の屋敷に逃げ込んでしまうからです。この時に、幕府が耕作を妨げる動物として挙げたのは、猪の他に、鹿と狼がありました。この江戸屋敷の広い庭の中には、森や畑などもありましたから、狸や狐、それに猪や人間に捨てられた野犬も隠れ住んでいたようです。ですから、これらの動物が広い屋敷の敷地内に巣を作ったとしても、不思議ではなかったのです。本郷にあった加賀屋敷をはじめ、いくつかの屋敷に、狐や化け猫の怪談などが残されているのも、このためかも知れません。しかしこんな牧歌的作業も、中止せざるを得なくなります。いわゆる、『生類憐みの令』が公布されたのです。 この『生類憐みの令』は、かつては跡継ぎがないことを憂いた五代将軍・徳川綱吉が、母の桂昌院が帰依していた隆光僧正の勧めにより発布したという説が知られています。綱吉には娘はいたものの、後継ぎとなる息子がいなかったのです。当時、儒学を重んじていた綱吉は、「親を大事にせよ」という教えを信奉していたため、母親が薦めた隆光僧正の言葉を鵜呑みにしてしまったというのです。つまり、「あなたは前世で動物を殺してしまったので、子どもが生まれないのだ。あなたは戌年生まれであるから、犬を大事にしなさい」と言われたというのです。これを真に受けた綱吉によって、「生類憐みの令」が出されたというのです。綱吉が、犬公方というあだ名で呼ばれたのは、特に犬を過度に大切にさせたことに対する世人の批判によるものと言われます。しかしこれは、「生類を憐れむ」ことを主旨とした動物・嬰児・傷病人保護を目的とした諸法令の通称であって、一本の成文法ではなく、すべての生きものを憐れむことを趣旨とした諸法令の総体なのです。 一連の『生類憐みの令』政策がいつ始まったかについては議論があります。それに少数ではありますが、四代将軍・徳川家綱時代から生類憐れみ政策が行われていたという見解も存在するのです。初代の徳川家康は鷹狩を好んだのですが、鷹狩もこの政策により禁止され、また鷹狩で獲った獲物などの贈答なども禁じられました。地方においても『生類憐みの令』の政策の影響は及びました。馬の保護に関する法令については、老中が各藩に対して通達を行いましたが、運用はそれほど厳重ではなかった地域もあると言われます。また長崎では、もともと豚や鶏などを料理に使うことが多く、『生類憐みの令』はなかなか徹底しなかったとみられています。長崎町年寄が、『長崎では『生類憐みの令』が徹底していないので、今後は下々の者に至るまで遵守せよ』、という内容の通達を出していますが、その通達の中でも、長崎にいる中国人とオランダ人については例外とし、豚や鶏などを食べることを認めていました。なお江戸城では、貞享二年(1685年)から鳥・貝・エビを料理に使うことを禁じていたのですが、京に住む公卿に対する料理として使うことは認めています。これは『生類憐みの令』の政策より、儀礼を重視したためとみられています。この『生類憐みの令』では、特に犬を保護したとされることが多く、綱吉が『犬公方』と呼ばれる一因ともなりました。犬については、『御犬囲』が作られ、中でも中野の御犬囲は非常に大きな規模で、敷地内は五つの御囲があり、『壱之御囲』が34、538坪、『弐之御囲』、『参之御囲』、『四之御囲』がそれぞれ五万坪、『五之御囲』が57、178坪と広大なものを作って収容しました。野犬か飼犬かを問わず、『御犬囲』に収容したことで幕府が管理する犬となり、将軍の権威を帯びた『御犬』となったのです。 三春藩分家の五千石旗本である秋田淡路守季久は、いまの江東区平野に屋敷を持っていました。ここの家老が、屋敷内で自分の子どもと遊んでいて、飛んできた燕を間違えて、弓矢で打ち落としてしまったのです。この弓矢で射られた燕が自分の屋敷内に落ちれば、悲劇は避けられたのかも知れないのですが、この射られた燕の落ちた所は運悪く、隣にあった幕府の御用人の喜多見若狭守の屋敷であったのです。驚いた若狭守は、幕府に事の次第を報告したのです。もっとも若狭守としても報告を怠り、燕の死骸が自分の屋敷内で見つかれば、自分の責任が問われるのです。そのため、秋田淡路守としては、どうにも手の打ちようがありませんでした。結局この家老は見せしめとして、五歳の息子もろとも浅草で磔の刑に処せられ、これを見ていた家来は、八丈島へ流罪となってしまったのです。この冷厳な『生類憐みの令』の施行は、江戸の町を震撼させました。 この事件の経過を目にした秋田淡路守季久は恐怖に憑かれたようになり、家中の子供たちに、例え屋敷内であってもくれぐれも殺傷をしないようにと諭し、親たちに対しても厳しく申し渡したのです。各大名たちも、家臣の親たちに対して、この旨を厳しく申し渡さざるを得なかったのです。もはや「まちがえてのことだから」とか、「子どもがやったことだから」と言い訳をしても、幕府は決して容赦はしてくれないことを知り、それぞれの屋敷内での周知徹底を計ったのです。 元禄十二年(1699年)、守山藩の下屋敷に幕府御徒目付の三宅権七が訪れ、「もし首輪が付いていながら飼い主のいない犬が通りかかったら、縄を解いて飼育し飼い主を捜し、結果をお目付まで申し上げるように」と申し渡し、その旨の承諾書を差し出すようにと言って帰って行きました。江戸家老であった有馬三太夫は早速承諾書を認(したた)め、辻番に持たせて権七方へ届けました。何の落ち度もない筈だったのですが、翌日、三宅権七から、公儀へ差し上げる承諾書を粗末な紙に認め、しかも辻番のような軽輩に持参させたのが不調法だというイチャモンがついたのです。守山藩は戦慄しました。当時、藩主は大塚の上屋敷にいて、三太夫の不調法な振る舞いについて少しも承知していなかったことと、三太夫には必ず叱り付けることを、使者をもって権七に伝え、合わせて陳謝の口上を申し延べさせてようやく落着したというのです。 ところで綱吉本人は、生き物を直接殺したということはなかったのでしょうか。実は綱吉は、自分の頭の上に糞を落としたカラスに激怒し、それを捕えるよう命じたのです。しかし自分が『生類憐れみの令』を出した手前、カラスを死罪にすることができず、捕らえたカラスを八丈島への遠島処分にしたのです。八丈島に運ばれたカラスは籠から出されたのですが、なんとそのカラスは、江戸へ向けて飛び去ってしまったというのです。本当にマヌケな話ですが、これには、『これは史実です』との注が加えられています。 生き物を直接殺したということはなかったのでしょうか。実は綱吉は、自分の頭の上に糞を落としたカラスに激怒し、それを捕えるよう命じたのです。しかし自分が『生類憐れみの令』を出した手前、カラスを死罪にすることができず、捕らえたカラスを八丈島への遠島処分にしたのです。八丈島に運ばれたカラスは籠から出されたのですが、なんとそのカラスは、江戸へ向けて飛び去ってしまったというのです。本当にマヌケな話ですが、これには、『これは史実です』との注が加えられてい
2023.11.01
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寛永十八年(1641年)正月二十九日夜の十二時頃,日本橋桶町(現・中央区八重洲二丁目辺)から出火し,三十一日の夜になって鎮火しました。桶町火事と言われたこの火事で、焼失した町は97町、家屋1924戸、そのうち武家屋敷が121、同心屋敷が56で、数百人の焼死者を出しました。そこで幕府は、6万石以下の大名から火消し役を選んで『大名火消し』を編成する一方で、大名たちは自分たちの屋敷を守ろうとして、自衛組織を立ち上げました。これは『各自火消し』と言われました。『火事と喧嘩は江戸の華』などと言われていましたが、考えてみれば、当時の生活の多くが火に頼っていたのです。明かり、炊事、暖房の全てが火であり、その上、家屋が木と紙で出来ていた江戸の町並みであれば、どこの家が火元になっても、おかしくはなかったのです。 ところで「火事だ!」ともなれば 当の屋敷内からの出火であれ、隣接の屋敷からの失火であれ、火消し衆が自由に屋敷内に立ち入る必要があります。ところが、当の屋敷の門番は他の介入を拒んで、あくまでも治外法権という自律性を守ろうとしたのです。それでも、ボヤ程度の火事であれば、『各自火消し』の活動によって屋敷内で消し止め、外部を騒がせることもなく終るのですが、問題は外部に延焼するような火事や、外部から類焼の恐れがある場合です。当然、自分の屋敷内だけでは収まりませんから、『大名火消し』が駆けつけて来ます。そこで『大名火消し』が屋敷内の火事の現場に入ろうとすると、これを門の中へ入れまいとする屋敷の番人が棒を持ち、槍襖を作って構えるという緊迫した状況になることもあり、火消し側と屋敷側との間で、まかり間違えれば戦闘状態にまで発展することがあったのです。例えば、元禄三年(1690年)三月のある武家屋敷の火災の夜、『大名火消し』が現場の屋敷に入ろうとしたところ、屋敷を預かっていた松平小太夫の家来たちは門を閉じて中に入れず、仕方がなく『大名火消し』の一隊が門を打ち破ろうとすると、門内から槍が突き出されたと言うのです。小太夫の家来は、後日手打ちになったと記録されているそうですが、同じような緊張状態は程度の差こそあれ、しばしば見られたというのです。 明暦の大火後、下町(中央区)の23町が自主的に火消し組合を作りました。『大名火消し』は、江戸城や武家屋敷を守ることには熱心でも、町方の火災には冷淡であったことを身に滲みて感じていたからです。亨保五年(1720年)南町奉行の大岡越前守忠相(ただすけ)は、名主たちの意見を参考にしながら、いくつかの町を『組』としてまとめ、『いろは47組』を設けたとされます。各組では独自の纏(まとい)と幟(のぼり)が作られ、火事場での目印にするとともに、組のシンボルとして扱われるようになります。『いろは47組』が担当したのは隅田川の西で、本所や深川などの隅田川の東には別に16組設けられました。当初は町屋に限り出動していた『いろは47組』でしたが、やがて武家屋敷や江戸城の消火にまで出動するようになり、消火後の火事場には、組名を書いた木札が竿の先に吊り下げられました。これはあとで、報奨の出る時の証拠となったのです。 前の年に起こった、いわゆる『八百屋お七』の大火の記憶も生々しい天和三年(1684年)になると 門を隔てて内と外とのやりとりにおいて変化が現れます。すなわち火災が生じた場合、門を閉めるというのは前の通りですが、その後『大名火消し』がやってきたら 門へ迎えに出て、「早々に入れ申すべきこと」と定められたのです。火事を理由とした幕府の屋敷内に対する介入の強化は、放火犯の検挙にも現れます。この年、幕府から放火犯およびそれと紛らわしい者が 屋敷内を徘徊していた場合には、例えそれが、どこかの藩の家来であったとしても、幕府が直接、取り調べにあたる旨が達せられたのです。藩による自分仕置きが、否定されたのです。こうした傾向は、次第に強化されていったのです。 延宝四年(1676年)四月十一日の早朝、守山藩の屋敷の坊主部屋脇の雪隠から、 煙が細く立ちのぼっているのを祐筆が発見しました。祐筆は坊主に知らせたのち 横目方に注進、横目の当番が立ち合って消火に当たりました。失火といってもほんのボヤだったのですが それ以後は 雪隠に灯りを置くことを固く停止するとの札が建てられ、ただでさえ暗い雪隠には、防火という最重要テーマのために灯りを消して用を足すことになったのです。これより先の寛文十年(1670年)にも、台所の竃が焼けて板敷き6〜7寸四方焼けるという失火事件が起きたのですが、いち早く消火にあたった足軽には、褒美が与えられました。ところがその前年、手代の堤仁左衛門は、自分が管理責任を負っていた厩舎用の藁置場から火が出たことを気に病み、屋敷の塀を乗り越えて逃げ出し、旦那寺に駆け入りしました。ボヤを消し止めて褒美をもらう者が居れば 不注意で火を出して夜逃げ同様に屋敷を立ち去る者もいたのです。ところで屋敷の側は、屋敷の内の失火にだけ注意すればよいというのではもちろんありません。近所で火の手が上がって火災が広がれば 屋敷も類焼をまぬがれないであろうし そうでなくても守山藩の屋敷のある地域は、護国寺(文京区大塚)、傳通院(文京区小石川)、白山御殿(文京区白山)など、将軍家ゆかりの施設が散在していたため、いわば防火重点地区の指定を受けていたのです。 その後、守山藩の屋敷には、『火事有る時の次第』という文書が残されているそうです。現代文に直してみます。『大名火消し』がやってきたら、ひとまず屋敷に立ち入ることはお断り申し上げ、それでも、どうしても入ろうとするなら、大層取り込んでおりますので、外から表長屋へ梯子をかけてくださるよう、かねてより藩主より申し付けられております と挨拶するようにというのです 表長屋へ梯子を掛けて人を上げるということ自体の 具体的情景が 今一つ明瞭ではないのですが 要は『大名火消し』が屋敷に入ろうとしても体よく断り、入れないようにせよと定めたものと思われます。ここには、屋敷内空間の自律性と不可侵性を守り抜こうとする姿勢が 顕著に現れていると思われます。(氏家幹人著・江戸藩邸物語より)
2023.10.20
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サンクチュアリー 江戸屋敷とその周辺は幕府の権力下にありましたが、屋敷そのものには、幕府の権力は及ばないものとされていました。仮に犯罪者が屋敷内に逃げ込んだとしても、絶対的権力を有する幕府がその捜査権を屋敷内にまでr行使することはできず、一定の手続きを経ない限り、容易に立ち入れない場所であり、そこはいわば治外法権の場所であり、サンクチュアリーの性格を帯びていたのです。その例として、殺人か何かの事件を起こし、追われた犯人が他の藩の屋敷に逃げ込むことを『駆け込み』と言ったのですが、追って来た幕府の役人が門番に引き渡しを要求しても押し問答になり、「誰も来なかった」から、「見てくる」となり「来たようだが誰もいないから、裏門から出て行ったようだ」となり、結局、捕縛することが出来なかったのです。江戸屋敷には、幕府の役人と言いども勝手に入れなかったし、このことは屋敷の側としても強く意識することであり、屋敷の内は他の介入を許さず、あくまでも自律性を守ろうとする傾向が強かったのです。 このため、江戸屋敷の持つ治外法権を悪用する事件が多く発生することになります。水谷伊勢守と水野美作守は 屋敷も隣り合わせであったので 日頃から『水魚の交わり浅からず』というほどに親密な仲でした。ところがあるとき、美作守の中間が、仲間と刃傷沙汰を起こして伊勢守の屋敷に駆け込んできました。中間の引き渡しを要求する美作守の使者に対して、伊勢守は、「この度の駆け込み者の儀は、水谷の家にかかり申すことに候。伊勢守を人と存じ、相頼み申し候を、我が身難儀及び候て身柄を差し出し候ては、侍の一分立ち申さず候。それがし一命に替え申す覚悟にて候」と、断固とした口調で身柄の引き渡しを拒否したというのです。これは、 家の権利と自律性を堅持しなくてはいけない、またひとかどの武士と見込んで保護を求めて来た者を、むざむざと引き渡したら侍の一分が立たないから、一命に換えても保護するというのです。 ところが、乱心者のケースもありました。貞享二年(1685年)七月二十一日、本田隼人の家来で有馬半兵衛と名乗る者が、守山藩の屋敷の雨宮平介を尋ねて来ました。「十日ばかり宿をお借りしたい」と言うので事情を訪ねると、「人を斬って来た」と言うのですがどうも様子がおかしいのです。家老に届け、藩主の耳にも入れた上で客座敷に通し、さらに様子を聞くと、やはり乱心の様子が見え、まぎれもなく精神に異常をきたしていると思われました。そこで本田隼人に問い合わせると、「乱心者で御座候間、脇差を取り上げ、差しおかれ下され候ように」とのことでした。このことは、本田隼人方の乱心者が、守山藩の屋敷にふらりとやってきて、妄想を口走ったことから事情が判明し、乱心者の身柄は、本田隼人方の者に引き取られていったと言われます。 二本松藩の家臣のうち家の絶えた215家を集録した『松藩廃家禄』に、一人の少年の話が出てきます。聖徳二年(1712年)二本松藩士・丹羽又八の14歳の息子の六之助が、岡田長兵衛の屋敷の前で切腹して死んでしまったのです。自殺の原因は、実に取るに足らないものでした 六之助は、長兵衛の息子で一切年下の翁介と遊んでいて、セミの抜け殻の取り合いをしていたのですが、翁介が奪い取って、自分の屋敷に逃げ込んでしまいました。それを取り返そうとした六之助は翁介を追って屋敷に入ろうとしたのですが、翁介の屋敷の門番が屋敷の門を閉めてしまったので、六之助は、門の前に佇んでいました。原因といえばたったこれだけのことでした。セミの抜け殻を取られた上に、門番に行く手を阻まれた六之助は、大いに憤り、扉に打ちかかっていたのですが埒があかず、そこで自らの腹を切って死んでしまったのです。どうしようもない憤りから自らの命にぶつけて、わずか十数年の人生にピリオドを打ってしまったのです。 延宝五年(1677年)九月末の、丑満時、今の文京区大塚四丁目近くの本伝寺の脇の薬草園あたりを、守山藩の屋敷の者たちが歩き回っていました。彼らは、屋敷から駆け落ちして前日に発見された奉公人を成敗するため、適当な場所を探していたのです。すると彼らの様子からそれと察したのか本伝寺の住職が近づき、奉公人の身体に自らまとっていた衣を掛け、「この者の命、私の一命を賭けて申し受けたい」と助命を願い出たのです。出し抜けにそうは言われても、死罪と決定したものを、簡単に手放す訳にはいきません。押し問答となったのですが住職は是非にと言って一歩も引かないのです。ついに屋敷に戻っての再評議の結果、本伝寺の要望を受け入れて、身柄を引き渡すことにしたのです。この時の守山藩の応対は、次のようなものでした。「この者は、当方としては是非とも成敗しなければならない罪人であるのに、貴僧は理不尽にも衣をかけて助命を申し出た。貴僧の行為は当方としては許し難いものであるが、ご近所でもあり、かねて交際のある間柄でもあり、その上貴僧が一命にかけてとおっしゃるからには致し方ない、かの者の命、貴僧にお渡しする」しかしそれは、無条件でではありませんでした。奉公人は頭をボウズにされた上、即座に遠国へ追放、もし姿を変えて江戸に舞い戻るようなことあれば、その時は、「見つけ次第首をはねる」と言い含めたのです。サンクチュアリーの性格を帯びていたのは屋敷という空間だけではなかったのです。住職が袈裟衣を掛けることで、その中のわずかな空間も瞬時にサンクチュアリーとなり得たのです。なお、ここに出てくる守山藩は、いまの田村町守山にあった藩です。 延宝六年(1678年)、尾州様又侍、つまり尾張徳川家の家来の家来が、市ヶ谷の研ぎ屋を訪れました。そこで何があったかは分りませんが、ともかく口論となりました。又侍は研ぎ屋に少々の傷を負わせ、「すわ刃傷沙汰」と駆けつけた近所の町人たちに取り押さえられて縄をかけられました。「どこの者か」と問うと「尾張屋敷の者である」と言うのです。さすがに御三家の権威に恐れをなしたのか町人たちは、又侍の縄を解いて尾張屋敷に連行し、経緯を説明した上で、屋敷のしかるべき方と相談したい旨を申し入れました。ところが尾張屋敷ではこの申し入れに応じず、「その者はとりあえずお前たちに預けおく。そのものが当家の者であることを確認した上で連絡する」と言うのです。埒があきそうもないので、町人たちは又侍を町奉行所へ引き連れたので牢に入れられました。そうこうしているうち、尾張屋敷から、「かのものは当家の又侍に相違ないから、「早々に身柄を引き渡すように」と町奉行所に申し入れがなされました、ところが町奉行所は、これに応じなかったのです。そのため尾張屋敷では、この件のやり取りで用をなさなかった藩の担当者に腹を切らせたため、話はついに幕府の知ることとなりました。かの又侍は、釈放されたのですが、町人たちに絡め取られた上、縄をかけられたのが藩の名を汚したと言うことで、結局成敗されてしまったというのです。 こんなことができるというのも、幕府が捜査権を有しないということにあったのかも知れません。(氏家幹人著・江戸藩邸物語より)
2023.10.10
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武士の生活 武士たちは、現代のように婚姻届の提出日を境にして、未婚状態と既婚状態がはっきりしていたわけではなく 江戸時代には『熟縁』ということがよく言われ、この頃の結婚は、『熟さなければ』成立しなかったようです。つまり嫁を迎える時は、半月程自宅に宿泊させ、お試し期間を設けてから婚礼の儀式を行っているのです。ところで、幕府や藩の役職に就いている中級以上の武士たちは安泰でしたが、役職に就けない下級武士は貧しい暮らしをしていました。これら下級武士の生活は、朝、城や城下の役所に出勤して仕事をした後、夕方に帰宅するという、いわゆる会社員的生活でした。仕事の量に対して下級武士の数が多すぎたため、そう忙しくはありません。彼らの仕事は、1日行ったら2日休みといった働き方が一般的でしたから、空いた時間は『傘張り』などの内職で生活費を稼いでいました。武士全体の平均年収は、約50両、いまの500万円といわれていますが、下級武士の給料は米によるものでした。下級武士は、その米から自分たちで食べる分だけを確保し、残りを現金に換えて生活していました。米を現金化した後の年収は、約80万円といわれています。ところで年収約80万円とすると月収約6万6000円となり、今よりもお金がかからない時代であったとはいえ、下級武士の生活は庶民の生活と同様に貧しい暮らしだったと思われます。 このような下級武士が、藩主のお供をして江戸へ行くことは、大出世と考えられていました。同輩はもとより、家族や親戚、さらには縁者にまで羨まれたのです。しかしこの江戸屋敷に勤務する侍たちにも生活があります。和歌山藩の衣紋方である、酒井伴四郎の江戸勤務日記が残されています。27歳であった彼は、妻と2歳の娘を故郷に置いての赴任でした。彼らには藩から手当が出ましたが何せ江戸は物価高。二重生活となるため大分倹約をし、生活をしていた様子が綴られています。江戸勤番と言われた彼らの住居は、表門に並ぶ長屋での生活でしたが、一般とは違い、御を付けて御長屋と呼ばれていました。その奥行は1間半の2階建て、3人での共同生活で、しかも生活用品は自前だったのです。彼の勤務状況を見ると、例えば6月は6日の出勤、7月はゼロ、8月は2日、9月は7日、10月は3日、11月は5日となっており、時間は午前10時から、長くても2時間であったようです。彼はこの長い余暇の時間を、江戸での観光に使っていました。行き先は江戸名所図絵を片手に、大名小路、江戸城周辺、そして名所旧跡とされた回向院、愛宕山、不忍池、泉岳寺などでした。『江戸に多きもの 伊勢屋 稲荷に 犬のクソ』などという戯れ言葉も記されています。蕎麦 鍋 寿司 山鯨と言われた猪の肉などの食べ歩きもしていたようです。ただし向島の料亭などには高くて行けず、見ていただけで羨ましかったと書いています。盛り場には、お化け屋敷などの見世物もありました。さらには、追加料金を払うと、生きた鶏を食うところを見せるという虎の見世物、そのほかにも、足を伸ばして横浜へ行き、異人を見物しています。貸本屋からは枕本も借りたようです。 門限は五ツ時(夕方8時)でしたから、遊べるのは昼間に限られていました。ある日彼は、湯屋で風呂に入った後、2階で将棋を指して遊び、夜食で蕎麦を食べたのですが門限を過ぎ、門番にワイロを払って開けてもらったこともあったとあります。とは言っても遊び呆けてばかりいた訳ではなく節約に努め、髪結いには行かずに同僚同士で互いに結い合い、食事は自炊で米は支給されていたのですが、おかずや味噌汁は自前で手に入れましした。それでも御長屋に出入りする大和屋から不足する米を買い、酒・酢は石見屋。繕い物・洗濯などは上総屋を利用していました。それでも彼は節約をしていたので、帰国の際に、もらった手当の3分の1を持ち帰ったというのですから、そのつつましい生活ぶりには驚かされます。なお当時の湯屋は、2階がお休み場になっており、気の合った者同士の社交場になっていました。 ところで、『入鉄砲に出女』という言葉があります。これは、江戸に武器を大量に運び入れて大名らが謀反をおこすことを防ぎ、また、江戸にいる大名の妻女などが変装して国元へ逃げるのを防ぐための措置として、関所できびしく詮議したもののことです。関所には女性を監視するため『改め婆』と言われる中年の女性が配置されていました。『改め婆』は江戸から出ようとする女性の髪を解き、『証文』に記載されている髪形や身体の特徴を調べた上、裸にしてホクロの数まで数えたというのですから、恐れ入った話です。四国丸亀藩士の娘の井上通女の書いた箱根の関所を通る際の『帰家日記』に、次のように記されています。「役人の言いつけに従い、『改め婆』に会った。見にくく恐ろしげで猛々しい老婆。その女がダミ声で何事かを言いながら私の髪を掻き上げつつ、丹念に調べている。いったい、何をされるのかと思うと、実に恐ろしい」この『改め婆』の合格判定が出なければ、関所の通過はできないのです。当時の記録には、泣く泣く袖の下を使ったという話が多いのです。ただし、江戸に入る者については緩和され、諸藩の者は城主とか家老の証文、幕領の者は代官の証文か手形を提示することで、容易に通過することができたというのです。ただし、鉄砲は許されませんでした。 一方で、御暇(おいとま)と御追放という形での退職がありました。ある小姓は、酒が原因でした。常日頃から『大酒の上酔狂致し候』ということで、禁酒の誓約書も出させたのですがなおりません。当然、彼の家計は火の車です。藩としては皆に迷惑がかかるとして、御暇を言い渡し、解雇したのです。
2023.10.01
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江戸屋敷とその周辺 参勤交代により、領地より江戸に戻った大名は、それぞれの上屋敷に入りました。ここで江戸屋敷について、若干の説明をしてみます。もちろん江戸屋敷とは、名の通り江戸にある屋敷のことですが、それには、上屋敷、中屋敷、下屋敷、蔵屋敷などがあったのです。これら屋敷の区別がついたのは、明暦三年(1657年)一月十八日に起きた明暦の大火以後のことでした。幕府は、それまで江戸城内の吹上御苑や大手門内にあった大名たちの屋敷を、城外の外桜田周辺へ移転させました。ただし、屋敷の建築費は自前です。この上屋敷は言わば本邸で、大名本人とその家族が住みました。その内部は、表、中奥、奥に三区分され、その構造は江戸城本丸御殿に似せて作られていました。表とは大名家の役所であり、中奥は当主の生活の場、奥は正室やその子供たちが起居していました。これら江戸屋敷の土地は、はじめは幕府から与えられたのですが、それは格式によって面積に差がありました。各大名は建設費用が自前ということもあって、逆に、立派なものが現れました。特に人目につく屋敷の御成門は。豪華に作られました。.御成門とは、将軍の訪問を受ける際だけに使用される門のことです。さあこうなると、各藩とも後には引けません。さらに立派な門が、次々と現れました。それを見るための、庶民のツアーがあったと言われます。遂に幕府は、日光東照宮の『日暮の門』以上のものを作らないようにとのお触れを出すほどになったのですから、その豪華さが想像できると思います。いまも赤門の名で広く知られている東京大学の門は、元加賀藩百二十万石上屋敷の表御門で、文政十年(1827年)、徳川第十一代将軍家斉(いえなり)の二十一女の溶姫(やすひめ)が、加賀藩主前田斉泰(なりやす)に輿入れをした時に、溶姫を迎えるため建てられたものです。江戸時代における諸侯邸宅門の非常に優れたものとして、現在は重要文化財とされています。 ところで、すべての大名が上中下(かみなかしも)の屋敷を有したわけではなく、大名の規模によっては中屋敷を持たない家や、上(かみ)・中(なか)屋敷の他に複数の下屋敷、蔵屋敷を有する家など、様々でした。中屋敷の多くは上屋敷の控えとして使用され、隠居した主や成人した跡継ぎの屋敷とされました。中屋敷や下屋敷にも上屋敷と同様に長屋が設けられ、そこには参勤交代で本国から大名に従ってきた家臣などが居住していました。その家臣たちも家族連れであり、しかも多い藩ですと2千人から3千人、500世帯くらいが住んでいたというのです。そうなれば、家来たちを町の中の長屋に押し込める訳にもいかず、それなりに大きな建物を必要としたのです。例えば土佐藩の場合、江戸屋敷全体の居住者は3195人を数えたというのですから、さしずめ今でいう大住宅団地が、江戸城の周辺にいくつもあったことになります。大名にとっては本国の居所と同様の重要な屋敷であり、格式を維持するため莫大な費用を必要としていたのです。 明暦の大火後、幕府は大名に請われれば、郊外に避難地を与えました。これが下屋敷です。下屋敷は主に庭園などを整備した別邸としての役割が大きく、大半は江戸城から離れた郊外に置かれました。上屋敷や中屋敷と比較して規模の大きいものが多かったのです。ところで江戸市中はしばしば大火に見舞われているのですが、その際には大名が下屋敷に避難したり、復興までの仮屋敷としても使用されました。この他にも、藩によっては様々な用途に利用され、遊びや散策のために作られた庭園として、あるいは農地として転用される場合もありました。このほかにも、大名が民間の所有する農地などの土地を購入して建築した屋敷は、抱屋敷と呼ばれました。このようにして各藩は、江戸市中から郊外にかけて、複数の屋敷を持っていたのです。これらの屋敷はその用途と江戸城からの距離により、上屋敷、中屋敷、下屋敷などと呼ばれたのです。 そして蔵屋敷です。蔵屋敷は、国元から運ばれてきた年貢米や領内の特産物を収蔵した蔵を有する屋敷で、収蔵品を販売するための機能を持つ屋敷もありました。主に海運による物流に対応するため、隅田川や江戸湾の沿岸部に多く建てられました。これら各藩の江戸屋敷は、江戸の面積の六割を占め、神社仏閣が二割でしたから、町家としては、残る2割しかなかったのです。 それぞれの屋敷の広さには、石高による基準が存在しました。元文三年(1738年)の規定では、1から2万石の大名で2500坪、5から6万石で5000坪、10から15万石で7000坪などとされていました。しかし実際には、この基準よりはるかに広い屋敷も多く、上屋敷だけで103・921坪にも達した加賀藩などの例もあり、厳密な適用はされていませんでした。江戸時代の末期には、全国に300藩あると言われていましたから、単純計算で約900の江戸屋敷があったことになります。「それじゃ全部で、郡山の東部ニュータウン程度か」と思われるかも知れませんが、さにあらず、大名屋敷の坪数はいま示したように、とてつもなく広いものですから、ほぼ、現在の山手線を上回るほどであったと言っても良いくらい広大なものでした。一般の職人や商人は、日本橋やその周辺にまとめられ、大名と町人の居住地は画然と分割されていました。この江戸城周辺にまとめられた江戸屋敷屋敷の群は、もし幕府への反乱軍が江戸へ攻めてきた場合、即その楯ともなり得るものとしたのです。そして江戸の経済は、幕府と神社仏閣と大名屋敷の需要でもつ、大消費都市だったのです。これら屋敷の前の道路や江戸城回りの堀は、それに接する全ての屋敷がそこの管理責任の問われる場所でした。ですから屋敷前の堀で魚釣りをしたり網を打ったりする者がいたら、例え他所者がやっていても、その藩の責任とされたのです。 上屋敷に住んでいた奥方や子供たちは、ある意味人質ですから国元へは戻れません。江戸で生まれた子供たちは、江戸で成長し、江戸で結婚し、江戸で死んでいくことになります。こうなると、いわゆる『江戸っ子』の典型みたいな大名が仕上がります。それは、自分の領地であるにも関わらず、草深い田舎に行くことを嫌がる風潮を生むことになったのです。しかし参勤交代の制度がありますから、行かないわけにはいきません。しかし行ったとしても、「それではしっかり領地での政治をやろう」という気は起こらなかったと思われます。一方、国元は国元で、主君が留守でも政務は着実に執行されています。ですから国元の重臣たちには、主君が江戸から来て「あれこれ」指示されるのが迷惑であると思っていたようです。さらに主君の参勤交代に随行して江戸に来た藩士も江戸で勤務し、やがて江戸で生まれた息子にその職務を譲り、隠居する者も出てきます。彼らは国元に対して、「カネ送れ! モノ送れ!」を、ご主君が必要とされているという大義名分で連発しますから、国元の重役たちは、「我らや領民の苦労も知らず、花のお江戸で遊んでいる連中が何を言うか」ということになります。そのために、国元と江戸在勤の者との間に分裂が発生します。正室の子は江戸でしか生まれませんが、側室の子は国元でも生まれます。江戸にも国元にも男子がいるということから、お家騒動にもなりかねなかったのです。とは、名の通り江戸にある屋敷のことですが、それには、上屋敷、中屋敷、下屋敷、蔵屋敷などがあったのです。これら屋敷の区別がついたのは、明暦三年(1657年)一月十八日に起きた明暦の大火以後のことでした。幕府は、それまで江戸城内の吹上御苑や大手門内にあった大名たちの屋敷を、城外の外桜田周辺へ移転させました。ただし、屋敷の建築費は自前です。この上屋敷は言わば本邸で、大名本人とその家族が住みました。その内部は、表、中奥、奥に三区分され、その構造は江戸城本丸御殿に似せて作られていました。表とは大名家の役所であり、中奥は当主の生活の場、奥は正室やその子供たちが起居していました。これら江戸屋敷の土地は、はじめは幕府から与えられたのですが、それは格式によって面積に差がありました。各大名は建設費用が自前ということもあって、逆に、立派なものが現れました。特に人目につく屋敷の御成門は。豪華に作られました。.御成門とは、将軍の訪問を受ける際だけに使用される門のことです。さあこうなると、各藩とも後には引けません。さらに立派な門が、次々と現れました。それを見るための、庶民のツアーがあったと言われます。遂に幕府は、日光東照宮の『日暮の門』以上のものを作らないようにとのお触れを出すほどになったのですから、その豪華さが想像できると思います。いまも赤門の名で広く知られている東京大学の門は、元加賀藩百二十万石上屋敷の表御門で、文政十年(1827年)、徳川第十一代将軍家斉(いえなり)の二十一女の溶姫(やすひめ)が、加賀藩主前田斉泰(なりやす)に輿入れをした時に、溶姫を迎えるため建てられたものです。江戸時代における諸侯邸宅門の非常に優れたものとして、現在は重要文化財とされています。 ところで、すべての大名が上中下(かみなかしも)の屋敷を有したわけではなく、大名の規模によっては中屋敷を持たない家や、上(かみ)・中(なか)屋敷の他に複数の下屋敷、蔵屋敷を有する家など、様々でした。中屋敷の多くは上屋敷の控えとして使用され、隠居した主や成人した跡継ぎの屋敷とされました。中屋敷や下屋敷にも上屋敷と同様に長屋が設けられ、そこには参勤交代で本国から大名に従ってきた家臣などが居住していました。その家臣たちも家族連れであり、しかも多い藩ですと2千人から3千人、500世帯くらいが住んでいたというのです。そうなれば、家来たちを町の中の長屋に押し込める訳にもいかず、それなりに大きな建物を必要としたのです。例えば土佐藩の場合、江戸屋敷全体の居住者は3195人を数えたというのですから、さしずめ今でいう大住宅団地が、江戸城の周辺にいくつもあったことになります。大名にとっては本国の居所と同様の重要な屋敷であり、格式を維持するため莫大な費用を必要としていたのです。 明暦の大火後、幕府は大名に請われれば、郊外に避難地を与えました。これが下屋敷です。下屋敷は主に庭園などを整備した別邸としての役割が大きく、大半は江戸城から離れた郊外に置かれました。上屋敷や中屋敷と比較して規模の大きいものが多かったのです。ところで江戸市中はしばしば大火に見舞われているのですが、その際には大名が下屋敷に避難したり、復興までの仮屋敷としても使用されました。この他にも、藩によっては様々な用途に利用され、遊びや散策のために作られた庭園として、あるいは農地として転用される場合もありました。このほかにも、大名が民間の所有する農地などの土地を購入して建築した屋敷は、抱屋敷と呼ばれました。このようにして各藩は、江戸市中から郊外にかけて、複数の屋敷を持っていたのです。これらの屋敷はその用途と江戸城からの距離により、上屋敷、中屋敷、下屋敷などと呼ばれたのです。 そして蔵屋敷です。蔵屋敷は、国元から運ばれてきた年貢米や領内の特産物を収蔵した蔵を有する屋敷で、収蔵品を販売するための機能を持つ屋敷もありました。主に海運による物流に対応するため、隅田川や江戸湾の沿岸部に多く建てられました。これら各藩の江戸屋敷は、江戸の面積の六割を占め、神社仏閣が二割でしたから、町家としては、残る2割しかなかったのです。 それぞれの屋敷の広さには、石高による基準が存在しました。元文三年(1738年)の規定では、1から2万石の大名で2500坪、5から6万石で5000坪、10から15万石で7000坪などとされていました。しかし実際には、この基準よりはるかに広い屋敷も多く、上屋敷だけで103・921坪にも達した加賀藩などの例もあり、厳密な適用はされていませんでした。江戸時代の末期には、全国に300藩あると言われていましたから、単純計算で約900の江戸屋敷があったことになります。「それじゃ全部で、郡山の東部ニュータウン程度か」と思われるかも知れませんが、さにあらず、大名屋敷の坪数はいま示したように、とてつもなく広いものですから、ほぼ、現在の山手線を上回るほどであったと言っても良いくらい広大なものでした。一般の職人や商人は、日本橋やその周辺にまとめられ、大名と町人の居住地は画然と分割されていました。この江戸城周辺にまとめられた江戸屋敷屋敷の群は、もし幕府への反乱軍が江戸へ攻めてきた場合、即その楯ともなり得るものとしたのです。そして江戸の経済は、幕府と神社仏閣と大名屋敷の需要でもつ、大消費都市だったのです。これら屋敷の前の道路や江戸城回りの堀は、それに接する全ての屋敷がそこの管理責任の問われる場所でした。ですから屋敷前の堀で魚釣りをしたり網を打ったりする者がいたら、例え他所者がやっていても、その藩の責任とされたのです。 上屋敷に住んでいた奥方や子供たちは、ある意味人質ですから国元へは戻れません。江戸で生まれた子供たちは、江戸で成長し、江戸で結婚し、江戸で死んでいくことになります。こうなると、いわゆる『江戸っ子』の典型みたいな大名が仕上がります。それは、自分の領地であるにも関わらず、草深い田舎に行くことを嫌がる風潮を生むことになったのです。しかし参勤交代の制度がありますから、行かないわけにはいきません。しかし行ったとしても、「それではしっかり領地での政治をやろう」という気は起こらなかったと思われます。一方、国元は国元で、主君が留守でも政務は着実に執行されています。ですから国元の重臣たちには、主君が江戸から来て「あれこれ」指示されるのが迷惑であると思っていたようです。さらに主君の参勤交代に随行して江戸に来た藩士も江戸で勤務し、やがて江戸で生まれた息子にその職務を譲り、隠居する者も出てきます。彼らは国元に対して、「カネ送れ! モノ送れ!」を、ご主君が必要とされているという大義名分で連発しますから、国元の重役たちは、「我らや領民の苦労も知らず、花のお江戸で遊んでいる連中が何を言うか」ということになります。そのために、国元と江戸在勤の者との間に分裂が発生します。正室の子は江戸でしか生まれませんが、側室の子は国元でも生まれます。江戸にも国元にも男子がいるということから、お家騒動にもなりかねなかったのです。
2023.09.21
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大名行列 慶安二年(1649年)の軍役(ぐんやく)規定によりますと、五万石につき士分281人、足軽352人、その他342人の合計1005名とされていましたから、二本松藩の場合、士分562人、足軽704人、その他684人の合計1950名となります。その上で大名行列の規模は、大名の石高によっても異なりますが、五万石で約170人、十万石で約240人、二十万石以上で約450人程度と決められていました。しかし実際には、これよりもはるかに大規模でした。幕府も寛永法度においてこの実状を認め、従者の員数は分相応とし、極力少なくするという方針をとったのですが、諸大名は互いに競い合って威勢を張り、見栄を飾る傾向が強かったのです。例えば、加賀藩の4000人を筆頭に、五万石以下の藩でも100人を下らなかったと言います。行列の順序は、大名によって異なりますが、髭奴に次いで金紋先箱、槍持、徒歩などの先駆がこれに続き、大名の駕籠廻りは馬廻、近習、刀番、六尺などで固め、そのあとを草履取り、傘持、茶坊主、茶弁当、牽馬、騎士、槍持、合羽駕籠などが続きました。行列の通行には大きい特権が与えられており、例えば行列の先払いが通行人に土下座を命じ、河川の渡し場では一般の旅人を川留にすることができ、また供先を横切るなど無礼な行為があった場合は、切捨御免の特権もありました。このような大名行列を円滑に進めるためには、さまざまな準備が必要でした。まず出発に先立って宿舎や人馬の手配をするために、あらかじめ宿場に『先触れ』といって通達書を出しました。これを受け取った各宿では、宿の割り当てや人馬の手配をしておかなければなりませんでした。 実際の旅ともなると、行列を先行するかたちで宿割りを担当する家臣らが宿場におもむき、本陣や宿場の入り口に関札を高く掲示しました。この関札は、先にこれを掲げた藩に選手特権があり、後から来るいかなる大藩の宿泊も許さないという厳重なものでした。大名は本陣に泊まりますが、その家臣らは宿場内の旅籠屋に分宿しました。しかしそれでも不足する場合は、周辺の寺院を使うこともありました。それでもなお収容しきれない場合は、前後にある小さな宿場に分散して泊まることもありました。郡山の場合、北は久保田、南は小原田でした。大名行列は、家柄や藩の権威といった力や富を誇示する重要な意味合いがありました。ところが、その行列の大多数は、日雇いアルバイトである武家の奉公人であったというのも興味深いことの一つです。 特に大きな戦いのなかった時代、大名たちは行列を通じて優位性を争っていたことがうかがえます。 ところで、郡山宿を利用したと思われる大名は、仙台藩をはじめ、会津藩、二本松藩、福島藩があったと思われますが、そのほかにも、今で言う東北の5県、そして北海道の松前藩が利用したものと思われます。これらの大名行列は、街道を行く際、隊列を整えて歩いていたわけではなかったそうです。街道の山道や農村を通過する時は、藩士たちはそれぞれ気の合う者同士でグループを作り、気ままに歩いていたというのです。たしかに江戸までの長丁場を、一糸乱れず行進してというわけにはいかなかったのだと思われます。しかしその一糸乱れぬ行列を見せつけるのは、旅の途中では宿場町に出入りする時だけでしたから、宿場町の入り口には、全員が夕刻までに集合し、藩士が揃うと行列を整えて宿場町に入っていったのです。多くの人の目に触れる場所でだけ、行列の武士たちは、いかにも規則正しく振る舞ってきたかのように見せかけていたのです。大名行列は軍事行動の一環であり、武力を誇示することも大事でした。しかし、経済的に厳しい藩だからといって行列の人数が少なくてはハクがつきません。先頭で毛槍を放り投げて交換するパフォーマンスを行っている人も、期間付きのバイトで雇われた中間(ちゅうげん)と呼ばれる人たちの場合もありました。 では当時宿場町であった郡山は、どんな様子だったのでしょうか。いまの大町、会津街道への分岐点のちょっと北、それから東邦銀行中町支店のちょっと南で、道路がカギの手に曲がっているのにお気づきでしょうか。それらは町への出入り口、つまり枡形だったのです。そしてその中間にあたるビューホテル・アネックスの場所には、本陣がありました。例えば北からやって来て江戸へ向かう藩の人員は大町の枡形に集合し、毛鎗の奴さんを先頭に、窮屈な駕籠に乗り換えた大名の駕籠を守って、粛々と町に入りました。この行列は、全員の旅の途中での着替えをはじめ、殿様の風呂桶からトイレまで持ち運び、宿場町では、馬の糞尿の始末をする係もいたのですから、人数は勢い多くならざるを得なかったのです。そして行列が本陣に着くと殿様と上級の者はそこへ、他の者は宿屋やお寺に分宿したようです。 さてこの郡山の枡形ですが、大槻友仙著『明治見聞実記』に次の記述があります。『上下(うえした)ノ入口升形取払=文政年中上町入口、下町入口ニ升形ト云モノヲ築立タリ、ミカゲ石ニテ高さ六尺程ニ積立其上ニ松ノ樹ヲ植ナラベタリ。立七八間横五間程アリ、当年十月中バ頃皆取崩荒池ノ堤岸ニ積ナラベタリ。其他十三夜ノ供養碑石迄●ニ積重タリ。下ノ升形ハ石盛屋ニ西側ハ今ノ茶屋ノ所堺ナリ』とあります。これは、残されている絵を見ると、入り口の堀を境にした、中々立派なものであったことが分かります。なお、上町枡形の最初は現在の旧4号線と日の出通りの角に作られましたが、後には今の旧4号線と会津街道の角から北へ約50メートルの場所に移されました。また下町枡形の最初は東邦銀行郡山中町支店の南へ約50メートルの場所にありましたが、後に更に南100メートルほどの原畳店の所に移されています。今でも微妙な角の道路となっており、枡形の形を残しています。ところでこの枡形ですが、少なくとも郡山の場合、平野の中にあります。仮に一般の人が町に入ろうとして、番人に断られたとしても、周辺の農道を辿ればいくらでも町へ入ることができるのです、この枡形は、防衛のためというより、大きな宿場町であった郡山の『お飾り』であったのかも知れません。この二つの枡形の位置から、一本道であった当時の郡山の規模を知ることができます。なお、今の如宝寺や善道寺、そして安積国造神社などは、あえてこの一本道から外れた場所に作られたと言われています。今は街の喧騒の中にある神社も寺も、当時は寂しい所だったのです。 ところで旅人の多くは、この大名行列に遭遇することを嫌いました。特に商人にとっては、足止めをされることで商機を逃すことがあるかも知れません。そこで伊達・桑折の生糸の産地から小浜を通り、やはり生糸の産地であった三春を経由し、須賀川・白河の西を通って茨城県の結城・堺へ、そこから利根川を下って銚子から江戸への船便を使いました。故・田中正能先生は、この道を日本のシルクロードと表現されておられました。 ちなみに三春藩は、明和七年(1770年)の記録によりますと、三春より江戸街道の赤沼と守山を経由し、御駕籠15人、御長持21人、御箪笥25人、合羽持3人、人足80人の合わせて144人に加え、人数が明確ではないのですが、お付きの侍たちの馬が80頭だったというのですから、やはり大変な人数であったことが想像できます。
2023.09.10
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参勤交代 3代将軍・徳川家光の時代までの江戸はまだ人も少ない「ものさびしき」様子であったという。そこで、諸大名を江戸に住まわせ、城下を「にぎはふべき為」に「はからひこと」、それが参勤交代の狙いであったと言われます。 寛永十一年(1634年)、幕府は譜代大名にその妻子を『江戸に置くべし』と通知し、その翌年、外様大名の26人に対して「帰国せよ」と命じ、55人に対しては江戸に留まるようにと命じました。これが、参勤交代の始まりと考えられています。参勤交代とは、全国300近くある大名たちが、2年ごとに江戸に詰め、1年経ったら自分の領地へ引き上げることを交代で行うことです。徳川将軍に対する大名たちの服属儀礼として始まったものですが、寛永十二年に、第3代将軍の徳川家光によって、徳川将軍家に対する軍役奉仕を目的に制度化されたものです。はじめの頃は、出府の時期や在府の期間についての定めはありませんでしたが、寛永十九年には制度化されています。この制度によると、諸大名は1年おきに江戸と自分の領地を行き来しなければならず、江戸を離れる場合でも、正室と世継ぎは江戸に留まらなければなりませんでした。ただし、側室および世継ぎ以外の子には、そのような義務はありませんでした。元和元年(1615年)に制定された武家諸法度の条文に、現代語に翻訳すると、『大名や小名は自分の領地と江戸との交代勤務を定める。毎年4月に参勤すること。最近供の数が非常に多く、領地や領民の負担である。今後はふさわしい人数に減らすこと。ただし上洛の際は定めの通り、役目は身分にふさわしいものにするように』という意味のものがあります。ところで大名は、自分の領地から江戸までの旅費ばかりではなく、江戸屋敷の建設や維持費、さらには江戸での滞在費までも負担させられたため、各藩には財政的負担が重くのしかかった上に人質をも取られる形となり、諸藩の軍事力を低下させる役割を果たさせたのです。この制度の目的は、過大な費用負担により諸大名の財政を弱体化させることで勢力を削ぎ、謀反などを抑える効果があったのですが、ただしこれらは結果論であって、当初幕府にそういった意図はなかったという説が有力です。 参勤交代で大名が江戸屋敷を留守にした際には、大名の正室がそれを守りました。つまり正室は、江戸屋敷での最高責任者の地位につくことになるのです。それもあって、表の玄関などの一式とは別に、奥方の居所にも裏門から、玄関、式台、対面所といった、来客応接用の一切が作られていたのです。この参勤交代の藩主に従って江戸に出る勤番者は、いわばエリートでした。何も知らない親戚縁者は、ただ喜び、ただ羨んだのです。本人としても、藩主に従って江戸に出ることは、心浮くことではあったのでしょうが、その生活は、そんなにいいものではありませんでした。江戸に出た藩士の一ヶ月の手当が、今の金額で5万円から6万円程度であったと言いますから、彼らの生活は決して楽ではなかったのです。 参勤交代には、大量の大名の随員が地方と江戸を往来したために、彼らを媒介として江戸の文化が全国に広まる効果をもたらすことにもなりました。また逆に、地方の言語、文化、風俗などが江戸に流入し、それらが相互に影響し、変質して江戸や各地域に伝播し、環流した面もありました。参勤交代のシステムは、江戸時代を通して社会秩序の安定と文化、そして江戸の繁栄に繋がることになったのです。また、江戸の人口が女性に比して男性の人口が極端に多いのは、参勤交代による影響でした。なお、高野山・金剛峯寺のように大名並みの領地を所有している寺社にも参勤交代に相当する「江戸在番」の制度がありました。ところで仙台藩の場合、江戸との間は約360キロメートルあり、7泊8日から9泊10日で奥州街道を通って参勤交代を行っていました。奥羽の他藩でも、江戸との中間に位置する郡山宿などを利用しています。 大名行列は軍役であったため、大名は保有兵力である配下の武士を随員として大量に引き連れただけでなく、道中に大名が、暇をもてあましたり、江戸での暮らしに不自由しないようにと茶の湯の家元や鷹匠までもが同行し、万が一に備えて、かかりつけの医師も連れていました。その上、大名専用の風呂釜やトイレなども持ち運んでいたのです。それに大名駕籠とその駕籠かきの交代人数、そのうえ予備の駕籠も運んでいたのです。料理人、料理道具、食材の他にも、馬の糞の後始末する人もいたのですから、大掛かりな行列にならざるを得なかったのです。移動時間ならびに移動速度は、一日の平均で6時間から9時間を掛けて、約30から40キロメートルを移動しています。それにしても、多くの大名が同時期に参勤交代で行列を組んだときには、街道および宿場はしばしば混雑しました。そのため各藩の行列の前後には物見が付き、他の行列とのトラブルが発生しないように注意していました。 この大名行列にとって、毛槍は最も重要な道具の一つでした。槍の先端部分の装飾には、鳥の羽や動物の毛で飾られ、それらには幕府から各大名家に許可された特徴的な装飾様式がありました。そのため毛槍は、遠くから見ても大名家の識別に役立つことになり、『見通し』 とも呼ばれました。なお毛槍の本数は小名クラスの1本から、御三家クラスの3本まで、大名家の格式により異なったのです。それはともかく、大名行列は一般庶民の目に曝される訳ですから、どうしても立派さを競うようになります。それでも領内を動くときは、限られた少人数で行列を組んだのですが、江戸に入る時はアルバイトを雇って人数を膨らませ、態勢が整っているように見せかけていました。江戸への入府は最も多くの人の目に触れる参勤交代のハイライトでしたから、より多くの人員を必要としたのです。すると、「あの藩はすげぇ人数でやって来たぜ」と、江戸っ子たちが口にするのですが、それが他藩の重役の耳に入りますと、恥をかくわけにはいかないとばかりに、「ウチはもっと人数を揃えろ」となりますから、際限のない見栄の張り合いとなったのです。この大名行列の通行の場合、先払いの者が庶民に、 道の片側に「 寄れ、寄れー 」などと声を掛けるだけで 、「下に〜下に」と声を掛けられるのは、余程の大藩に限られていたそうです。
2023.09.01
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海軍元帥・伊東祐亨 伊東祐亨(すけゆき)は、天保十四年(1834年)、薩摩藩士・伊東祐典の四男として鹿児島城下の清水馬場町に生まれました。今の宮崎県日南市にあった飫肥藩主、伊東氏に連なる名門の出身です。日向伊東氏と日向国との関係は、『曽我兄弟の仇討ち』で殺された工藤祐経の子の伊東佑時が、鎌倉幕府から日向の地頭職を与えられて諸家を下向させたことがはじまりです。伊東氏が日向を支配するようになったのは、建武二年(1335年)、足利尊氏から命じられて日向に下向した伊東祐持(すけもち)からです。祐持は足利尊氏の妻・赤橋登子(あかばしとうし)の所領であった今の宮崎市の穆佐院(むかさいん)を守るため、今の宮崎県西都市にあった都於郡(とのこおり)に300町を賜ったと言われています。祐持は国大将として、下向した畠山直顕(ただあき)に属して日向国内の南朝方と戦っています。征西将軍に任じられた後醍醐天皇の皇子懐良(かねなが)親王が御在所の称である征西府の拡大、観応の擾乱など情勢が変わるたびに国内は混乱したのですが、日向伊東氏は基本的に北朝方の立場を守り、幕府に忠節を尽くしています。息子の祐重(すけしげ)も足利尊氏から諱(いみな)を受けて伊東氏祐(うじすけ)と改名しています。 日向伊東氏は、南北朝時代までは守護職である島津氏に対して、国衆(くにしゅう)、または国方(くにかた)と呼ばれていました。しかし、その島津家が、庶流を巻き込んで内紛状態になり、その関係性が消滅するのです。 木崎原の戦いは、元亀三年(1572年)、日向国真幸院木崎原(現宮崎県えびの市)で伊東義祐と島津義弘の間で行われた合戦です、しかし、眼前の島津軍劣勢との誤った判断から決戦の機会を失った義祐は、この間にノロシにより吉田、馬関田、吉松郷および北薩の各地から急ぎ集まった島津軍に包囲され、一大激戦を交えました。島津・伊東両氏は、この一戦を境として、その後、島津氏は日向、大隅、薩摩制圧の夢を果たし、一方、伊東氏は居城都於郡(とのこおり)を追われ衰退の一途をたどるということになります。しかしその後、伊東祐兵(すけたけ)が豊臣秀吉の九州平定に参加し、秀吉軍の先導役を務め上げた功績によって飫肥の地を取り戻し、近世大名として復帰を成し遂げたものです。 ところで、今夜の伊東祐亨の話に至るまでに、天正十年(1582年)に行われた天正遣欧少年使節の伊東祐益、いわゆる伊東マンショ、天正十六年(1588年)に伊達政宗の身代わりとなって戦死した伊東肥前、そして万治三年(1660年)、伊達騒動に巻き込まれた伊東七十郎と、いずれもその祖を、郡山最初の領主・伊東祐長の父としています。この先祖が同じということもあって、これらの人々の話の中には、重複する場面が少なくありません。ご了承願います。 ではここで、伊東祐亨の話に戻ります。祐亨は、開成所においてイギリスの学問を学びました。当時、イギリスは世界でも有数の海軍力を擁していたため、このときに祐亨は、海軍に興味を持ったと言われています。江戸時代後期の幕臣で、伊豆韮山代官の江川英龍(ひでたつ)のもとで砲術を学び、勝海舟の神戸海軍操練所では塾頭の坂本龍馬、陸奥宗光らと共に航海術を学び、薩英戦争にも従軍しています。鳥羽・伏見の戦い前の薩摩藩邸焼き討ち事件では江戸から脱出し、戊辰戦争では旧幕府海軍との戦いで活躍しています。 明治維新後は、海軍に入り、明治四年に海軍大尉に任官。明治十年には、装甲巡洋艦『日進』の艦長に就任しました。明治十五年には海軍大佐に任官、木造鉄帯装甲艦の『龍驤』、甲鉄艦『扶桑』、さらには『比叡』の艦長を歴任し、明治十八年には、横須賀造船所長兼横須賀鎮守府次長に補せられました。同年イギリスで建造中であった防護巡洋艦『浪速』の回航委員長となり、その就役後は艦長に任じられ、明治十九年には海軍少将となりました。そののち海軍省第一局長兼海軍大学校校長を経て、明治二十五年には海軍中将に任官、横須賀鎮守府長官兼海軍将官会議議員を拝命。明治二十六年に常備艦隊長官を拝命し、明治二十七年の日清戦争に際しては、初代連合艦隊司令長官を拝命しています。 明治二十七年七月に勃発した日清戦争において、日本の連合艦隊と清国の北洋艦隊との間の黄海海戦では、戦前の予想を覆し、圧倒的有利であった清国側の大型主力艦を撃破し、黄海の制海権を確保しました。この時の日本側の旗艦「松島」の4217トンに対し、清国側の旗艦「定遠」は7220トンと、倍近い差があったのです。この戦いは、日清戦争の展開を日本に有利にする重大な転回点となったのです。清国艦隊はその後も抵抗を続けましたが陸上での敗色もあり、北洋艦隊提督の丁汝昌は降伏を決め、明治二十八年に山東半島の威海衛で北洋艦隊は降伏しましたが、丁汝昌自身はその前日、服毒死を遂げています。伊東は没収した艦船の中から商船の『康済号』を外し、丁重に丁汝昌の遺体を送らせたことがタイムズ誌で報道され、世界をその礼節で驚嘆せしめたと言われます。 日清戦争後は子爵に列せられ、軍令部長を務めて、明治三十一年には海軍大将に進みました。日露戦争では軍令部長として大本営に勤め、明治三十八年の終戦の後は、元帥に任じられました。政治権力には一切の興味を示さず、軍人としての生涯を全うしています。明治四十年、祐亨は伯爵に叙せられ、従一位、功一級金鵄勲章、大勲位菊花大綬章を授与されています。大正三年に死去。腎臓炎のための70歳でした。通称は四郎左衛門。家紋は庵木瓜(いおりにもっこう)で、郡山最初の領主・伊東佑長に連なるものでした。この伊東氏に脈々と続く人脈に、ただ脱帽するのみです。
2023.08.20
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樅の木は残った 『樅ノ木は残った』は、小説家山本周五郎による歴史小説で、江戸時代前期に仙台藩伊達家で起こったお家騒動、いわゆる『伊達騒動』を題材にしたものです。『伽蘿先代萩(めいぼくせんだいはぎ)』などで、従来は悪人とされてきた原田甲斐を主人公とし、江戸幕府による取り潰しから藩を守るために尽力した忠臣として描き、新しい解釈を加えたものです。この小説は、昭和四十五年に放映されたNHKの大河ドラマになっていますので、ご記憶にある方も多いと思われます。 ここに出てくる伊東七十郎重孝の先祖は、郡山最初の領主・伊東祐長からはじまったとされています。そして戦国時代になって、安積にあった伊東氏は、仙台・伊達氏の麾下に属していましたが、天正十六年(1588年)、郡山の夜討川合戦の際、倍する勢力の常陸の佐竹、会津の蘆名、それに白河、須賀川などの連合軍の攻撃に苦戦し、伊達政宗の命運も危うくなった時、伊東祐長より14代目の伊東肥前重信が政宗の身代わりとなって僅か20騎で突撃し、須賀川の家臣の矢田野義正に討ち取られて壮烈な戦死を遂げたという武功ある家柄でした。伊達家では、その討ち死にをした地に『伊東肥前之碑』を建ててその武徳を永久に顕彰することとしたのですが、その碑は現在、富久山町久保田の日吉神社に移されています。この神社は、この合戦の際の伊達軍の前哨基地であったとされる所です。 伊東七十郎重孝は、この伊東肥前重信に連なる伊東重村の次男として、仙台に生まれました。儒学を仙台藩の内藤閑斎、さらに京都に出てからは陽明学を熊沢蕃山、江戸にては兵学を小櫃(おびつ)与五右衛門と山鹿素行に学んでいます。その一方で七十郎は、日蓮宗の僧の元政上人に国学を学び、文学にも通じていました。また、武芸にも通じ、生活態度は身辺を飾らず、内に烈々たる気節を尊ぶ直情実践の士であったとされます。 さて本題の伊達騒動は、江戸時代の前期に仙台藩で起こったお家騒動です。黒田騒動、加賀騒動とともに、日本三大お家騒動と呼ばれる事件の一つでした。仙台藩3代藩主の伊達綱宗は遊興放蕩三昧であったために、大叔父にあたる一関藩主の伊達宗勝がこれを諌めたのですが聞き入れられず、やむを得ず親族と家臣との連名で、幕府に綱宗の隠居と嫡子の亀千代の家督相続を願い出たのです。そこで幕府は、21歳であった綱宗を強制的に隠居させ、それを継ぐ4代藩主に、わずか二歳の亀千代を伊達綱村として相続させたのです。 ところが幼い綱村が藩主になると、一関藩主の伊達宗勝と仙台藩家老の原田甲斐が実権を掌握し、権勢を振るっての専横の限りを尽くすようになったのです。伊東七十郎は伊達家の安泰を図ろうとして、権勢を振るう伊達宗勝を討つことを本家筋の伊東重門と謀ったのです。しかし仙台藩の家老であった伊東重門は、二歳の藩主・伊達綱村の後見役となっていた伊達宗勝と岩沼藩主の田村宗良に、叛逆をしないという誓書を書かせるのには成功したのですが、まもなく重門は病に倒れ、後事を分家の七十郎に託して死去したのです。ところが、この伊達家を乗っ取ろうとした伊達宗勝に対し、これを阻もうとした七十郎の計画が事前に漏れて、捕縛されてしまったのです。 七十郎は、入牢の日より33日の間絶食をして抗議したのですが、許されることはありませんでした。処刑の日が近づいたのを知った七十郎は、『人の心は、肉体があるから物欲に迷って邪道に陥る危険がある。本来人に備わっている道義の心は物欲に覆われ、微かになっている。それゆえ人の心と道の心の違いをわきまえ、煩悩にとらわれることなく道義の心を貫き、天から授かった中庸の道を守っていかねばならない』と書き残しています。この言葉の出典は中国の書経(しょきょう)であり、彼の教養の深さが十分に伝わるものとされます。こう書き残した四日後の寛文八年(1668年)四月二十八日、七十郎は死罪を申し渡され、『我が霊魂、三年の内に逆賊を滅すべし』と絶命の言葉を残して、米ヶ袋の刑場で処刑されたのです。 七十郎は処刑される際に、処刑役の万右衛門に「やい万右衛門、よく聞け。われ報国の忠を抱いて罪なくして死ぬが、人が斬られて首が前に落つれば、体も前に附すと聞くが、われは天を仰がん。仰がばわれに神の御魂が宿ると知れ。われは三年のうちに疫病神となって必ず伊達宗勝殿を亡すべし」と言ったというのですが、それを聞いての恐れのためか、万右衛門の太刀は七十郎の首を半分しか斬れなかったという。そこで七十郎は斬られた首を廻して狼狽する万右衛門を顧みて、「あわてるな、心を鎮めて斬られよ」と叱咤したと言われます。気を取り直した万右衛門は、2度目の太刀で七十郎の首を斬り落としたというのですが、同時に七十郎が言った通りに、体が天を仰いだといわれます。その後の七十郎の一族は、御預け・切腹・流罪・追放などとなっています。七十郎の遺骸は、いまの仙台市若林区新寺の阿弥陀寺に葬られました。後になって処刑役の万右衛門は、七十郎が清廉潔白な忠臣の士であったことを知り、阿弥陀寺の山門前に地蔵堂を建て、七十郎の霊を祀ったとも伝えられています。 のちになって七十郎の遺骸は、伊東家の菩提寺である、いまの仙台市若林区連坊の栽松院に墓が造られました。法名は鉄叟全機居士です。栽松院は、仙台藩初代藩主伊達政宗の祖母の久保姫、(のちの栽松院)の菩提供養のために、慶長八年(1603年)、政宗が建立した位牌寺で、ここには多くの伊達家臣の墓もあり、この地に残るシラカシの古木は、伊達政宗が毎日遥拝した樫の木と伝えられています。七十郎の死の三年後の寛文十一年(1671年)、原田甲斐の弁明が退けられ、伊達宗勝一派の施政が咎められることになりました。そこで不利な立場に立たされた原田甲斐は、仙台藩老中の酒井雅楽頭の屋敷の控えの間において、背後から突然、伊達宗勝の側であった伊達安芸に斬りつけました。不意をつかれた伊達安芸は、負傷しながらも刀を抜いて応戦したのですが、深手を負ってその場で絶命しました。 騒ぎを聞いて駆けつけた柴田の聞役・蜂屋可広(よしひろ)が原田甲斐を斬り、その後になって、伊達兵部は土佐に流されました。その結果、七十郎の名誉は回復されてその忠烈が称えられ、四代藩主の伊達綱村により伊東家は再興したのです。 いま七十郎の墓石の中央の戒名が刻まれている部分が少しくぼんでいますが。ここには当初は、『罪人』であることが刻まれていたのですが、名誉が回復された後に削り取られ、改めて戒名が刻まれたと伝えられています。 七十郎の墓に並んで、父・重村と兄・重頼の墓もあります。のちにこの裁断を下した板倉重昌は福島藩に転封され、いまの福島市杉妻町の板倉神社に祀られました。福島市では、重昌の訃報が届いた一月七日に門松を片ずける習わしが、今も続いています。なお明治三十年、仙台市太白区向山の愛宕神社境内の神門の前、愛宕山東登り口の改修工事中に伊東七十郎の遺骸が発見されました。遺骸は、伊達一族の菩提寺である裁松院に葬られていたのですが、明治四十年に発見された場所に、二百四十回忌の招魂碑が建立されました。しかし後にこの碑は愛宕神社に移されています。 この伊東七十郎の死により、世間は伊達宗勝の権力のあり方に注目し、また江戸においては、文武に優れ気骨ある武士と言われていた七十郎の処刑が、たちまち評判となりました。そして伊達宗勝一派の藩政専断による不正や悪政が明るみに出ることとなり、宗勝一派が処分されることで伊達家が安泰となり、七十郎の忠烈が称えられたのです。また、当時の人々が刑場の近くに七十郎の供養のため建立したいまの仙台市青葉区米ヶ袋の『縛り地蔵尊』は、『人間のあらゆる苦しみ悩みを取り除いてくれる』と信仰され、その願かけに縄で地蔵尊を縛る習わしがあり、現在も毎年七月二十三、二十四日に、縛り地蔵尊のお祭りが行われています。さらに昭和五年になって石巻市北村に七十郎神社が創建され、その霊が祀られています。 なお七十郎には2人の息子がいましたが、兄の重綱は父の七十郎の跡を継いで大阪の陣で活躍し、仙台藩成立後は、家老となっています。いずれ伊東七十郎は、郡山とは深い関係のあった人でした。 この伊達騒動を扱った最初の歌舞伎狂言は、正徳三年(1713年)の正月、江戸・市村座で上演された『泰平女今川』ですが、その後の重要な作品として、安永六年(1777年)に大阪で上演された歌舞伎『伽羅先代萩』と、翌安永七年、江戸・中村座で上演された歌舞伎、『伊達競阿国戯場(だてくらべおくにかぶき)』、さらに天明五年(1785年)、江戸・結城座で上演された人形浄瑠璃、『伽羅先代萩』の3作が挙げられています。現在、歌舞伎は伝統芸能の一つとして、昭和四十年に重要無形文化財に指定されています。なおこの時の仙台藩主の伊達綱村は、参勤交代などで郡山を通った時には、七十郎の三代前と思われ、しかも伊達政宗の身代わりとなって戦死した伊東肥前重信の碑に、必ず足を止めてぬかずいたと言われます。これには、七十郎の功績を讃える気持ちもあったのかもしれません。 ところで、山本周五郎の『樅ノ木は残った』に戻ってみます。 お家騒動の発端以後、ひたすらに耐え忍ぶことを貫き通した原田甲斐。私利私欲のためでもなく、名誉のためでもなく、ただただ伊達藩とそこに属する人々を守るために、彼は進んで悪名を被り、そうすることで黒幕の懐深くへ入り込む。甲斐にとって更に修羅場なのは、かつて甲斐と親しくしていた者たちが、非業の死を遂げていくことである。伊達兵部は、自分の邪魔をする者に対して、容赦することはなかった。部屋住みだが甲斐と親しかった伊東七十郎は、彼と絶交した後、兵部の暗殺を計画するが、家来の鷺坂靱負の裏切りにより捕らえられる。そして七十郎の一族は、共々罪死する。原田甲斐は道を違えて以降、この血気盛んな若い志士の七十郎とは、最後までわかり合うことができず、甲斐もまた、七十郎の死を止めることができなかった。 このNHKの大河ドラマ、『樅の木が残った』において伊東七十郎役を演じたのは、伊吹吾郎でした。いま、船岡城址公園の遊歩道を『樅の木が残った』の舞台となった『樅の木』を目指して行くと、左手に『伊東七十郎辞世の碑』があります。『いつの世でも、真実国家を支え護立てているのは、こういう堪忍や辛坊、人の眼につかず名も表れないところに働いている力なのだ』 著者の山本周五郎が一番伝えたかったのは、この一文にあったのかも知れません。
2023.08.14
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天正遣欧少年使節 天正年中、九州のキリシタン大名、大友宗麟、大村純忠、有馬晴信は、彼らの名代をローマへ派遣することになりました。4名の少年を中心とした、いわゆる『天正遣欧少年使節』です。そのメンバーには、セミナリヨで学んでいた伊東祐益(すけます)を含む4人の少年たちに白羽の矢が立てられたのです。大友宗麟は自分の名代として、祐益を選びました。伊東祐益は、永禄十二年(1569年)の頃、今の宮崎県西都市の都於郡城(とのこおりじょう)にて、伊東祐青(すけはる)と母である伊東義祐の娘の間に生まれました。しかも祐益は、遣欧少年使節の主席正使となったのです。これは祐益が宗麟の姪の夫である伊東義益の妹の子という遠縁の関係もあったためで、本来は義益の子で宗麟と血縁関係にある伊東祐勝が派遣される予定であったのですが、このとき祐勝は、今の近江八幡市安土町にいて出発に間にあわず、祐益が代役となったとも言われます。 天正十年(1582年)二月二十日、使節の一行は目的地ローマを目指し、長崎港を出発しました。生還率50%以下という大航海時代でした。この時、少年使節の一員であった千々石(ちぢわ)紀員(のりかず)の母親は「無事に帰国することは叶わないでしょう。すでに覚悟は決めています。」と語ったと言われます。 安土桃山時代から江戸時代初期の日本を訪れたイエズス会員で、カトリック教会の司祭。イエズス会東インド管区の巡察師として活躍していたアレッサンドロ・ヴァリニャーノは、天正遣欧少年使節派遣を計画し、実施した人です。ヴァリニャーノは自身の手紙の中で、使節の目的をこう説明しています。 第一、ローマ教皇と、スペインとポルトガルの両王に、日本宣教の経済的・精神的援助を依頼すること。 第二、日本の少年たちにヨーロッパのキリスト教世界を見聞・体験させ、帰国後にその栄光と偉大さを、彼ら自身に語らせるこ とにより、布教に役立てたい。ということだったのです。 天正遣欧使節の4名と随員8名は、マカオ、マラッカ、インドのコチン 、セントヘレナ島を経て、ポルトガルのリスボンに到着しました。のちに伊達政宗が派遣した支倉常長の慶長遣欧使節が、約一年でヨーロッパに到達しているのに対し、天正遣欧使節は二年半もかかっていたのです。リスボンに着いた一行は、当時の超大国であったスペインの首都マドリードを訪問、海路にて現在のイタリアのトスカーナ州にあったトスカーナ公国に上陸してローマ教皇領のバチカンに入りました。キリスト教総本山のバチカンでは、東の果ての国からキリストの教えを乞うてきたとして、大歓迎を受けたのですが、それに至る道のりは、苦労の連続だったのです。ローマから復路は、イタリア国内で拮抗していた有力諸侯のもとを歴訪し、再び海路でスペインに戻ってからリスボンへと帰着したのです。 『天正遣欧使節記』または『遣欧使節対話録』の中に、4名の少年たちの生きた声として引用されているのが『デ・サンデ天正遣欧使節記』ですが、これはヨーロッパに行って日本を留守にしていた少年使節と、日本にいた従兄弟の対話録として著述されているのです。しかしこれは、両者の対話が不可能であることから、フィクションとされています。歴史学で使われる一次資料としては、大名および少年使節からの書簡、各国使節の報告書簡、会議録、会計帳簿等がありますが、これらを集めて分析した歴史学者の記録と『天正遣欧使節記』は厳密に区別されており、『デ・サンデ天正遣欧使節記』に記述された少年たちの対話録や目撃証言は、ヴァリニャーノが伝えようとした虚構と考えられているそうです。使節の少年たちの正確な生年月日は不明ですが、派遣当時の年齢は13歳から14歳とされ、14歳の中浦ジュリアンが最年長で、原マルティノが最年少と言われています。 リスボンから帰国する時のエピソードになりますが、少なからぬ日本人が帰りの船旅の長さに恐れをなし、使節団の一員として来訪したまま現地に留まった者がいたそうです。英語では日本のことをジャパンと言いますが、スペイン語ではハポンと言います。スペインのセビリアの近くに、日本の侍の子孫とされる人々が暮らす町、『コリア・デル・リオ』があります。ここには、慶長遣欧使節が滞在していたことから、その子孫であるとし、しかも『日本』を意味するハポンという苗字を持つスペイン人が約600人も暮らしています。この町の教会にある洗礼台帳のうち、1604年から1665年までの洗礼記録は失われているため、この間の手掛かりはありません。しかしこの教会に残る最古のハポン姓の人物の記録は、1667年のフアン・マルティン・ハポンとマグダレナ・デ・カストロの娘カタリナ・ハポン・デ・カストロの洗礼の記録です。なおこの町の河岸(かわぎし)には支倉常長の像が立てられ、市役所には日の丸が掲げられています。この町は、我々日本人にとって実に興味深い町であると思っています。 天正遣欧少年使節は、天正十八年(1590年)に帰国しました。この使節団によってヨーロッパの人々に日本の存在が知られるようになり、彼らの持ち帰ったグーテンベルク印刷機によって日本語の書物の活版印刷が初めて行われて、キリシタン版と呼ばれました。しかし苦労をして帰国した少年使節4人の運命は、その後の徳川幕府によるキリシタン禁制により、過酷なものとなってしまいました。おそらくこの幕府による禁制は、西国の大名たちが貿易を通じて近代的武器を購入して軍備を増強するのではないかと恐れていたこと、そしてキリシタンが教える人間の平等が、幕府の士農工商などの差別的政策に合わなかったためではなかったかと想像されます。伊東祐益、洗礼名マンショは、後に司祭に任じられたのですが、慶長十七年(1612年)長崎で死去しています。千々石ミゲルは、後に棄教してキリスト教から離れました。副使の中浦ジュリアンは、後年、司祭になったのですが、キリシタン禁制の下で二十数年にわたって地下活動を続けています。しかし寛永十年(1633年)、長崎で穴吊りにされて殉教しました。平成十九年に福者に列せられています。副使の原マルティノは、後年、司祭に叙階はしたものの、寛永六年(1629年)、追放先のマカオで死去しました。彼らは皆、いまの長崎県南島原市北有馬町にあったセミナリヨという初等神学校の生徒でした。 ところで、マカオと言えば、観光の目玉となっている『聖ポール天主堂』の壁面があります。16世紀当時、アジアで一番大きく美しい礼拝堂だったそうですが、1835年の火事で正面の壁と階段の一部だけが残りました。正面の壁には多くの漢字が彫られており、これらにの建設には、日本人キリシタンが関わったとされています。当時の日本では禁教令が出たため、国外追放された多くの日本人キリシタンが、マカオに逃れ住んでいたそうです。原マルティノも、ここに逃れたものと思われています。
2023.08.01
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伊東氏、キリスト教と出会う 伊東祐長の兄の伊東祐時は、日向国の地頭職を与えられています。それが、南北朝の時代になってからですが、祐時の後裔にあたる祐持が、今の宮崎県西都市都於郡(とのこおり)に所領を与えられ、都於郡城を築きました。伊東氏は、この都於郡城を拠点に勢力を拡大し、俗に『伊東四十八城』と呼ばれる支城網を築き上げ、日向一国の支配に乗り出したのですが、それを阻んだのが薩摩の島津義久でした。こうした島津氏の進出に対し、伊東義祐(よしすけ)は抵抗を続けたものの、元亀三年(1572年)、今の宮崎県えびの市の木崎原の戦いで島津氏に大敗してしまいました。この木崎原に陣を構えて敗れたのが伊東祐青(すけはる)で、次の戦いの綾城が落城した際に戦死しています。綾城は、今の宮崎県綾町にあった城です。 天正五年(1577年)、都於郡城を落とされた伊東義祐は一族を引き連れ、姻戚にあたる大友宗麟を頼って豊後に逃れました。豊後に逃れてきた伊東氏の一族を、九州での大勢力であった大友宗麟が庇護し、伊東氏の旧領を回復するという大義名分によって日向へと侵攻していったのです。しかし天正六年(1578年)、今の宮崎県中央部の耳川の戦いで、大友氏は島津氏に大敗を喫したのです。これによって大友氏の勢威は著しく衰退し、伊東氏の旧領回復は絶望的となってしまったのです。そしてこれら伊東一族を庇護した大友宗麟は、キリシタン大名だったのです。当時の領民の多くが、領主である大友宗麟の影響を受けて、キリシタンとなっていきました。綾城が落城した際に戦死した伊東祐青(すけはる)には、祐益・祐平など4人の子どもがいましたが、この影響を強く受けていったと思われます。 最初のキリシタン大名は、永禄六年(1563年)年に洗礼を受けた肥前国の大村純忠(すみただ)であると言われています。当時のヨーロッパでは、宗教改革によるプロテスタントの動きが活発でしたが、カトリック側も勢力の挽回をはかり、アジアでの布教に力を入れる修道会が数多くあったのです。イエズス会もその1つで、ザビエルは日本滞在期間2年3ヵ月で、約700名を改宗させたと言われます。キリスト教宣教師たちは、布教のためには日本の習慣や生活様式に従うことが重要であると考え、日本語や日本文化を熱心に研究していました。教会も従来の仏教寺院を改造したものが多く、新たに作られた教会も、日本の建築様式を重視して木造・瓦葺きで作られたのです。仏教が浸透している日本に、突然西洋の教会を建設したのでは日本人の警戒心を強めてしまうだけと考えたようです。教会は南蛮寺と呼ばれたように、日本人になじみの深い「お寺」を教会にすることで、日本人のキリスト教に対する警戒心を解こうとしたと思われます。 時代を30年ほど遡ります。天文十七年(1549年)、ポルトガルのキリスト教宣教師、フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸し、翌年に長崎県の平戸で布教をはじめました。そしてこの頃、現在の長崎県大村城の領主 大村純忠(すみただ)が、キリスト教に入信したのです。大村純忠はポルトガルとの貿易をするために、今の長崎県西海市横瀬と長崎県諫早市福田の二つを開港しました。そして天正七年(1579年) 、イエズス会の布教先の状況を視察する役割の巡察師、ヴァリニャーノが、長崎県島原半島の口之津に来航したのです。翌年、大村純忠が、カトリック修道会イエズス会に長崎と茂木の土地を寄進したことで、領内には多くの教会が建てられるようになりました。南蛮船の寄港、町を行き交う南蛮人、領内に建つ教会。こうして長崎は、『日本のローマ』と称されるほどの国際都市へと発展していったのです。大村純忠はキリスト教の教えに従って側室を離縁し、正室との結婚式を挙げ直しました。そして領内の神社仏閣を、さらには領民の先祖の墓まで破壊させたのです。その上で僧侶や神主を殺害し、改宗しない領民までも殺したのです。これは、キリスト教の教えに傾倒したからではなく、一言で言うと、キリスト教に隠れて『恐怖政治』を強行していたのです。しかしヴァリニャーノは、領民たちが、貿易の利益が目当てで入信した領主によって、強制的に改宗させられていたことを見抜いていました。九州のキリシタン大名らは、神の教えより、貿易による利益と武器の確保を望んでいたのです。 こうした状況に目をつぶりながらも、ヴァリニャーノは、日本でのキリスト教の布教活動を推し進めていきました。しかしそれは強制によってではなく、本当の信仰心を高めるため、その布教活動の一環として、日本人による使節をヨーロッパに派遣して世界を見せ、彼らを司祭に登用することで、日本人による日本での布教を推し進めようと考えたのです。天正九年(1581年)当時の日本のキリスト教の教徒数は約15万人、慶長五年(1600年)頃は約30万人、慶長十年(1614年)は約37万人でしたが、この年に発せられた禁教令以前には、九州の多くの有力者たちが、キリシタンとなっていたのです。しかし宗教界では、カトリックは、プロテスタントの勢力の下になっていました。ヴァリニャーノには、なんとかそれを、跳ね返そうとする考えがありました。それが、『遣欧少年使節』の派遣だったのです。
2023.07.20
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物見台と桃見台 さてここで、ちょっとウンチクを傾けてみましょう。ただしこれには、想像も入っていますから、『史実である』とばかりは、思わないで頂きたいと思います。まず久保田合戦の陣立てですが、政宗はその本陣を、今の日東紡富久山工場の向かいの人家の密集する中にある、小十郎坦に置いたようです。片倉小十郎は、『智』と『武』を兼ね備えた、政宗の右腕といわれた人物です。政宗と小十郎は、ここから前線に近い、今の富久山町久保田の日吉神社の陣営に督戦や視察に出掛けていたと思われます。視察のルートは、日吉神社から西の高台の久保田三御堂あたりかと思われます。ここから眼下に、敵の舘と思われる、いまの並木一丁目の茶臼舘がよく観察できる場所だったのです。さあここで、ちょっと説明が必要ですね。今のベニマル富久山店前の国道4号線は切り通しで造成したので、元の市道の高さでつなぐために、陸橋が掛けられたのです。それから茶臼舘です。ここは現在、桜木一丁目となっていますが、うねめ通りの両側が高台になっています。ここでうねめ通りが上り坂になっているのは、ここも切り通しだからです。昔この辺りは、『幕の内』と呼ばれていました。それは茶臼舘の敷地内であったからと思われ、その西側には、『西の内』の地名が残されています。恐らくこれは、幕の内の西を表したものであろうと推測できます。そしてもう一つあったという地名の『幕の外』はなくなりましたが、今の桜木一丁目から久保田字伊賀河原の郡山警察署宿舎前に架かる『幕の外橋』に、その片鱗が残されています。 茶臼舘は、沼舘愛三著の『会津・仙道・海道地方諸城の研究』によると、稲荷舘とも呼ばれていたようです。なお稲荷舘は、この茶臼舘よりそう遠くないJR郡山駅近くにもあったため、識者でもどちらが戦いに関わった舘か結論が出ないでいます。ところで、この茶臼舘の北には逢瀬川が流れ、舘の西側を南から水無川が、舘の東側を南から夜討川が逢瀬川に注いでいます。ただし今は、どちらの川も暗渠になっています。地図で見ても、『西の内』を含んでいたと思われますから、茶臼舘は、結構大きな舘であったと想像できます。三方が川でしたからそれなりの防御力は備えていたと考えられるのですが、南には何も防御の施設がなかったようなのです。 私がここに館があったのではないかと思う理由は、茶臼舘という地名があることと、さらに『西の内』という地名、そして今の太田西ノ内病院の近くに、三島神社が祀られていることにあります。この神社は、安積郡を賜った伊東祐長が、自身の生まれた地であった伊豆の地から守り神として勧請した神社ではないかと考えられるからです。この三島神社は、先ほど説明した三つの川に囲まれた内側にあるのです。つまりそれらの川が、茶臼館の範囲であり、防衛ラインになっていたのではないかと想像したのです。しかしもしそうであるとすると、気になるのは、川がないため防衛に弱いのではないかと思われる茶臼舘の南側です。どうも素人の私が見た範囲では、茶臼舘の南側に、空堀などの防衛の施設の跡のようなものがないように思えたのです。ところが不思議と、茶臼館の南側にあたる咲田町2丁目に、急激に下がった地形があるのです。ご存知でしょうか? 私はそれが防衛線かと思ったのですが、聞くところによると、郡山に鉄道が引かれた際、駅周辺が低地だったので、ここの土を掘っていって埋め立てたというのです。ところで現在、夜討川の一部は暗渠化しており、また水無川は全面的に暗渠化していますから、見たところ、川があったことが分かりません。ちなみに夜討川の一部は、『せせらぎ小径』として、水辺を生かした郡山市の公園となっています。 これらもあって、私が現地を歩いていて桃見台という町名で、ハッと気がついたのです。ひょっとして桃見台は、物見台が変化した地名ではなかったかと。私はここに、茶臼館の見張りや防御施設としての『物見台』があったのではないかと想像したのです。しかしこれは、単なる私の想像に過ぎませんでしたから、大っぴらに言えないなと思っていました。ところがあるとき、郡山地方史研究会の高橋康彦さんより、陸軍第二仙台師団参謀本部が、明治の初期に制作した福島県中通りの地図の郡山の中に、『モノミ台』と片仮名で書いてあるのを見せられたのです。位置は、今の桃見台です。私は自分の想像が事実であったので、鬼の首を取ったような気分だったのですが、ある史家にこう言われました。「あのころの地図には、間違えて書かれている地名が多いのです。」そう言われて私は頭を抱えました。しかし良く考えてみると、昔使われていた地名を、後世の人たちが語呂や文字を変えて使った例は、市内にも散見できます。そしてこの陸軍第二仙台師団参謀本部に作られた地図に『モノミ台』の地名が存在することから、少なくとも明治の初期までは、地元の人たちは今の『桃見台』を『モノミ台』と呼んでいたであろうことが想像できます。私は、『桃見台』という地名は、『モノミ台』から変化したものではないかと思っています。 この想像、皆さんはどう思われますか?
2023.07.10
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