rakino bach

2015.01.24
XML
カテゴリ: カテゴリ未分類
日本でも記録されている彗星とペスト大流行は、その時代の「世紀末」を思わせた大事件だった 
 近代科学、そして先進医療のなかった時代、人間は占い、呪術では到底防ぎ切れないその病魔に恐れおののいたに違いない。そんなとき、やはりカミが必要とされたのだろう。

 イスラム過激思想の信奉「イスラム国」は、13世紀までに遡る古い預言書を持っており、
 戦いで天国に行くか、さもなくば生き残って神聖な理想郷に生きるか、いずれにしても勝利者になる、と予言されている。これが広く受け入れられている。
 世界最終戦争のために、十字軍をシリア北部に呼び込み、予言どおり戦争を起こし勝利することを願っている、それがこの予言である。

ペスト「東ローマ帝国」で流行、第1 回の世界大流行
 ヨーロッパで最初に記録に残っているペストの流行は、541年東ローマ帝国ではじまった。
 その時代は皇帝ユスティニアヌス(在位 527 ~ 565 年)の治下であり、また彼も感染したことから「ユスティニアヌスの斑点」と呼ばれた。
 現代の病態分類では腺ペストにあたると考えられている。この時の流行では、エジプトのペルーシウムからパレスチナへ、次いでコンスタンチノープルへと伝播した。さらに東ローマ帝国全域から、542 年には旧西ローマ帝国(476 年に崩壊している)の地域にまで広がった。

 イギリス諸島には 547 年に、フランスには 567 年に侵入。ヨーロッパ、近東、アジアで、発生の最初から数えて約 60 年間流行を続け、農業が停滞したため飢饉の原因にまでなったとされている。
 合計で数十万人の死者であったという。流行の最盛期には、コンスタンチノープルで、毎日 5,000 人から 1 万人もの死亡者が出た。
 ユスティニアヌス自身の症状は数カ月で回復したが、その影響で、ガリア(今のフランス)やイギリス諸島への侵略計画を放棄せざるをえなかったという。

 コンスタンチノープルでは、製粉所とパン屋が農業生産能力の停滞により操業停止に追い込まれている。正確な記録があるイギリスでは、547 年以降にも、664 年、672 年、679 年、683 年と繰り返し流行があった。

 モンゴル軍の大移動が引き金となった中世ヨーロッパでの大流行(第 2 回の世界流行)軍事行動による人の大量移動がペスト流行の背景にあった点が、「11世紀と14世紀」の 2 つの流行で共通している。






お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2015.01.24 12:35:47
コメントを書く


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X
Mobilize your Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: