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桃李は艶なりといえども、なんぞ松蒼栢翠(しょうそうはくすい)の堅貞(けんてい)なるにしかん。梨杏(りきょう)は甘しといえども、なんぞ橙黄橘緑(とうこうきつりょく)の馨冽(けいれつ)なるにしかん。信(まこと)なるかな、濃夭(のうよう)は淡久(たんきゅう)に及ばず、早秀は晩成にしかざるなり。 あでやかに咲く桃やすももの風情も、松やひのきの常緑のみごとさには及ばない。 甘い梨やあんずの味わいも、だいだいや蜜柑のさわやかな香りには及ばない。 すべて、華やかではかないものは、地味でも生命の長いものには及ばず、早熟なものはじっくりと成熟するものに及ばない。 結論としての「早秀は晩成にしかず」に異存はない。苦労知らずのもやしっ子的な天才秀才が、案外早くだめになっていく例は、どの世界にも少なくないからだ。 だが、それを自然界にあてはめて、人間的な価値基準を押しつけるのには、いささか抵抗を感じる。古来、自然との一体感の強い日本人は、松は松、桜は桜、それぞれの味わいをそのままに認めて、あえて優劣をつけなかった。 梨も蜜柑もそれぞれにおいしい。むりに序列をつけたりせず、季節の味わいを楽しめばよいのではないでしょうか、洪先生。※ 出典 吉田豊(責任編集村山孚・守屋洋) 「中国古典百言百話1菜根譚」
2026.09.07
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君子は患難に処して憂えず、宴遊に当たりて惕慮(てきりょ)し、権豪(けんごう)に遇って燿(おそ)れず、惸独(けいどく)に対して心を驚かす。 君子は困難にぶつかってもたじろがないが、歓楽の場では慎重となる。 権力者の前ではペコペコしないが、身寄りのない不幸な人には心から同情する。 ここでいう君子とは、地位や教養とは関係なく、高貴な人間性を備えた人という意味だ。 権力者の前では卑屈になり、弱い立場の人には冷たいという傾向は、ある程度の地位を得て、それにしがみついている経営者や管理職によく見るいやらしさだ。 最近、ある大企業のトップに迎えられた経営者は「私は明らかに前任者と違ったことを言っているのに、役員、管理職の中から一人として、それは違うんじゃないかという声がないのがふしぎです」と語っていた。そのようなイエスマンが、下積みの女子社員や下請けの業者には、うって変わって高姿勢になるのは、日常、よく見聞きするところ。 なるほど、君子となるのはむずかしい。※ 出典 吉田豊(責任編集村山孚・守屋洋) 「中国古典百言百話1菜根譚」
2026.09.06
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人を責むるには、無過を有過のうちに原(たず)ぬれば、すなわち情平らかなり。己れを責むるには、有過を無過のうちに求むれば、すなわち徳進む。 人の責任を追及するときには、失敗のうちにもまちがっていなかった面を認めてやれば、責められた人も不平を抱かない。自分を反省するときには、成功したうちにもまちがった点があったことを見失わなければ、人間的な成長を遂げることができる。 いわゆる総括、反省にあたっての心得として、きわめて有効である。 ビジネスの世界ではとりわけ結果第一主義で、成果があがればすべてよし、結果が悪ければすべてだめだとされがちだが、それはまちがった優越感と挫折感を生むおそれがある。 特に、努力はしたけれど、不測の事態や環境の変化から成果が収められなかった場合、もっぱら責任だけを追及されたのでは、たまったものではない。失敗の中にもあった前進への芽を正しく評価して、つぎなるチャレンジへの自信をつけてやるべきだろう。 万事うまくいったからといって慢心は禁物だ。たまたま順風が吹いてくれたおかげを自力によるものと錯覚していると、つぎには手ひどい誤算を招く。自分自身については、成功したときほど、意地悪くアラ探しをする心がけがほしい。※ 出典 吉田豊(責任編集村山孚・守屋洋) 「中国古典百言百話1菜根譚」
2026.09.05
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口はすなわち心の門なり。口を守ること密ならざれば、真機を洩らし尽くす。意はすなわち心の足なり。意を防ぐこと厳ならざれば、邪蹊(じゃけい)を走り尽くす。 口は心の門だ。ここをきちんを守っておかないと、心中の秘密が簡単に洩れてしまう。 意欲は心の足だ。これを正しくコントロールできないと、とんでもない邪道に迷いこむ。 人間の思考と行動のおおもとである「心」。それは言語を通じて表現され、意思によって実践にうつされる。 ここで言われている「口を守る」ことの意味は、単に心中の秘密を簡単に口外するなというだけのことではあるまい。 よく「語るに落ちる」とか、「言わでものことを言う」とかいうが、言葉というのはふしぎなもので、よほど気をつけていないと、理性的な意志を離れて独り歩きし、混乱のもととなる。当人は「あれはうっかり口がすべったので、真意はそうではない」と弁解するが、多くの場合「ぽろりと本音が出てしまった」と見られるわけだ。その本音が洪自誠のいう「真機」であろう。 口先が達者で才子肌の人物が得意になったとき、得てしてこの失敗をやりやすい。まさに「口は災いの門」である。※ 出典 吉田豊(責任編集村山孚・守屋洋) 「中国古典百言百話1菜根譚」
2026.09.04
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天、一人を賢にして、もって衆人の愚を誨(おし)う。而して世、かえって長ずるところを逞しうし、もって人の短を形(あら)わす。天、一人を富ましめ、もって衆人の困(くるしみ)を済(すく)う。而して世、かえって有するところを挟(さしはさ)んで、もって人の貧を凌(しの)ぐ。真に天の戮民(りくみん)なるかな。 天が賢い人を作ったのは、愚かな人々を正しく教育させるためである。それなのに、自分の賢さを振りかざして、人々の弱点をつつき回している。 天が富める人を作ったのは、貧しい人々を救済させるためである。それなのに、自分の富をかさにきて、人々の上にあぐらをかいている。こうした連中こそ天の罰を受けるべきではないか。 儒教は身分制度を肯定しているが、高い身分にある者には、それにふさわしい社会的責任を強く求めつづけてきた。 この句に見られる洪自誠の怒りは、エリートの座を伴う特権だけは十分に享受しながら、みずからの責任を一向に果たそうとしない人々に向けられている。 民の声を天の声とする中国思想によれば、天罰とは民の罰、つまり民衆から見放されて権力の座を追われることを意味する。強大な明帝国の末路は、まさに洪自誠が警告したとおりになった。※ 出典 吉田豊(責任編集村山孚・守屋洋) 「中国古典百言百話1菜根譚」
2026.09.03
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よく書を読むには、手舞い足蹈むところに読み到らんことを要す。まさに筌蹄(せんてい)に落ちず。よく物を観るには、心融け神洽(しんやわ)らぐの時に観到らんことを要す。まさに迹象(せきしょう)に泥(なず)まず。 書物を読むなら、その神髄にふれて、踊り出したくなるまでに読め、そうしてこそ枝葉末節にとらわれずにすむ。 物事を観察するなら、その本質を見とおして、わが精神がそれと一体となるまで観よ。そうしてこそ表面の現象にまどわされない。 原文の「筌蹄に落ちず」の筌は魚をとるウケ、蹄は鳥獣をとるワナ。『荘子』外物論編に「筌は魚をとる手段、魚がとれれば用はない。蹄は兎をとる道具、兎がとれれば用はない」とあって、あれこれの手段に気をとられ、物事の本質を忘れるおろかさが説かれている。 古典に興味をもてないという人の多くは、学生時代、受験のための文法や語句の解釈や文学史的位置づけなどの詰め込みだけを受けて、古典そのものを味わう楽しさを教えられていない。手段はもとより必要だが、それを教えることにだけ終始する教育では、学問の楽しさを知らせ、生涯の糧とすることはできないだろう。※ 出典 吉田豊(責任編集村山孚・守屋洋) 「中国古典百言百話1菜根譚」
2026.09.02
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喜びに乗じて諾を軽(かろがろ)しくすべからず。酔に因って嗔(いか)りを生ずべからず。快に乗じて事を多くすべからず。倦(けん)に因って終わりを鮮(すく)なくすべからず。 機嫌のよいときに安うけあいをするな。酒によって怒りを爆発させるな。いい気になって仕事の手を広げるな。嫌気がさしてしめくくりをいいかげんにするな。 うっかり調子に乗って後悔する軽率への戒め四つ。思いあたるところがすこぶる多い。 老子は「それ軽諾は必ず信寡(すくな)く、易きこと多ければ必ず難きこと多し」(安うけあいは信用を落とし、ものごとを見くびれば困難に見舞われる)(『老子』六十三章)と説いている。自分の力を顧みず、うっかり仕事を引き受けては締め切りに追われている私などは、弁明の余地はない。 もっとも、実力はあるのに引っこみ思案の人の場合は、勧めじょうずの人の口に乗って大役を引き受けるのが、自分でも考えていなかった成果に結びつくということもあるだろうが。 手はつけてみたものの、途中で嫌気がさして投げ出してしまうのもよくある例だが、これも自分の向き不向き、持続力などについての認識不足からくることが多い。 いずれにせよ、自分自身を知るというのはむずかしいことだ。※ 出典 吉田豊(責任編集村山孚・守屋洋) 「中国古典百言百話1菜根譚」
2026.09.01
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事やや払逆するとき、すなわちわれにしかざるの人を思わば、怨尤(えんゆう)おのずから消えん。心やや怠荒(たいこう)するとき、すなわちわれより勝(すぐ)るるの人を思わば、精神おのずから奮わん。 ものごとが思うようにならぬときは、自分より下の人を見よ、そうすれば逆境を怨む気持ちが消えるだろう。心がなんとなく投げやりになったときは、自分より上の人を見よ。そうすれば気持ちが奮い立つだろう。 わが国では、身分制度が固定した江戸時代に、庶民を「分」に安住させるため、「上を見るな、下を見よ」の教えがさかんに説かれた。小咄に、ある男、上を見ると不満が出る、下を見て暮らせと説教され、なるほどと感心して両国橋を渡りながら下を見ると、屋形船で芸者をあげてどんちゃん騒ぎ。「これではうっかり下も見られぬ」 洪自誠のいう「下を見よ」は、これとはちょっと違って、「彼から見れば、俺はまだ恵まれている。もうひとふんばりしなければ」という気持ちを起こさせるためのものだろう。 また「上を見よ」のほうも、「おれもあそこまで行ってみたい。負けるものか」との意欲を期待しているようだ。※ 出典 吉田豊(責任編集村山孚・守屋洋) 「中国古典百言百話1菜根譚」
2026.08.31
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士大夫、官に居りては簡牘(かんとく)も節なかるべからず。人をして見難(がた)からしめて、もって倖端(こうたん)を杜(ふさ)がんことを要す。郷に居りては崕岸(がいがん)はなはだ高かるべからず。人をして見易からしめて、もって旧交を敦(あつ)うせんことを要す。 官職にあるときは、手紙一通を書くにも気を許してはならない。本心を見すかされて悪人につけこまれるのを防ぐために。退職して田舎住まいの身となったら、くつろいだ気持ちで人とつきあえ。昔の友人も気やすく訪ねてこられるように。 予算配分や許認可の権限を握っているお役人の不正事件が跡を絶たない。たかだか、数百万円の金品と引き換えに職を追われ、家族にまで肩身の狭い思いをさせるなど、ずいぶん引き合わない話だ。その発端は、ちょっとした贈物や接待を受けたのがきっかけで、だんだん深みにはまっていったというのが大部分らしい。公職にあるうちは、野暮といわれ、窮屈をいわれてもよいから、隙を見せぬ厳正な姿勢を崩さぬことだ。 そのぶん、何の権限も持たぬ一野人となってからは、昔の肩書きなどさらりと忘れて、気の合う人とは誰とでもつき合う自由を楽しめばよいのではないか。※ 出典 吉田豊(責任編集村山孚・守屋洋) 「中国古典百言百話1菜根譚」
2026.08.30
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節義の人、済(すく)うに和衷をもってせば、わずかに忿争(ふんそう)の路を啓(ひら)かず。功名の士、承(う)くるに謙徳をもってせば、まさに嫉妬の門を開かず。 理想主義者は、協調の心をもつことで無用の争いから救われる。 成功者は、謙譲の心を養うことで嫉妬の害を免れることができる。 潔癖な理想家にとって、現実の社会はあまりにも矛盾に満ち、不正、欺瞞が大手を振って横行しているかに見える。のべつ「許せない」「許せない」と口走りたくなるのもむりはあるまい。 だが、世間の大部分の人たちは、その現実に妥協することで、その日その日を波風立てずに送ろうとしている。 そうした「一般大衆」を見下して、自分一人で正義の代弁者ぶってみても、「「何もそんなにムキにならなくてもいいのに」と敬遠されるだけだろう。 成功が大きければ大きいほど、尊敬、賞賛とともに嫉妬、羨望が集まるのは人情の常。 手柄は自分一人で立てられるものではない。多くの人々のおかげであることを肝に銘ずることだ。それを忘れてつけあがっていると、思わぬところで足をすくわれぬものでもない。※ 出典 吉田豊(責任編集村山孚・守屋洋) 「中国古典百言百話1菜根譚」
2026.08.29
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風斜めに雨急なるところは、脚を立て得て定めんことを要す。花濃(こま)やかに柳艶(あで)やかなるところは、目を着け得て高からんことを要す。路危うく径(こみち)険しきところは、頭(こうべ)を回(めぐ)らし得て早からんことを要す。 吹き付ける風、激しい雨、そんなときには大地にしっかりと足をつけよう。 花は紅、柳は緑、そんなときには目を奪われることなく、大きな目標に向かって進もう。 通れそうにない危険な山道にさしかかったら、迷わずさっさと引き返そう。 高い理想を抱いて歩みつづけている後進への温かいアドバイスである。 目標に向かって進む者に苦労はつきもの、さまざまな障害にぶつかったとき、度を失ってうろうろしたり、かんしゃくを起こしたりして投げやりになったりするのが一番いけない。しっかりと踏みとどまって事態を見きわめ、対応策を考えることだ。 旺盛な好奇心は若者のもちまえ、青春を楽しむのは結構だが、わき道にそれて初一念を忘れてはなるまい。 人間、できることとできないことがある。これはむりだと悟ったら、潔く出直す勇気をもとう。ムキになって大怪我をしないうちに。※ 出典 吉田豊(責任編集村山孚・守屋洋) 「中国古典百言百話1菜根譚」
2026.08.27
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性燥に心粗なるは、一事も成ることなし。心和し気平らかなるは、百福おのずから集まる。 せっかちで粗暴な人間は、何をやってもものにならない。 心が穏やかで落ちついた人のもとには、さまざまな幸福が自然と集まってくる。 いろいろな職業の人を見ていて共通に感じるのは「一事も成ることなし」のがさつな仕事をする人は、お客や利用者に対する責任感と、自分の仕事に対する愛情が欠けていることだ。 そうした人は、ただ仕事を右から左へこなしてお金を取ることしか考えない。 これに対して「百福おのずから集まる」仕事ぶりとは、自分の仕事に愛情と誇りをもち、どうすればお客や利用者により喜んでもらえるかの工夫を忘れない姿勢である。 小売業であれば、念を入れて仕入れた自信のある商品を、お客の好みと必要に応じて過不足なく勧め、売ったあとまで満足してもらえたかと気にかけるようなら本物だ。 このような商人にとっては「あれ、おいしかったわよ」「気に入って使ってるよ」といったお客の反応がなによりの喜びだろう。自分が扱っている商品についての関心といえば、ただ利幅と回転率だけで、それがお客の生活にどう役立つかなどは気にもとめない商人には、このような喜びは無縁だし、お客との心のつながりは期待できまい。※ 出典 吉田豊(責任編集村山孚・守屋洋) 「中国古典百言百話1菜根譚」
2026.08.26
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冷眼にて人を観、冷耳にて語を聴き、冷情にて感に当たり、冷心にて理を思う。 冷静な眼で人を観察し、冷静な耳で人の言葉を聴き、冷静な感情で物事を受け取り、冷静な頭脳で道理を考えよう。 その冷静さとは、どのようにしたら得られるのだろう。 第一には、それまでの先入観や好き嫌いの感情を捨てて、虚心になることだ。あいつの言うことなど・・・・という先入観に毒されているかぎり、見えるはずのものも見えず、聞けるはずのものも聞こえない。 第二には利害得失の損得勘定をまず離れることだ。利害の打算にとらわれていると、どうしても自分に都合のよさそうな材料だけを選び取って、公正で客観的な判断ができなくなる。 第三には、部分部分にとらわれることをやめて、大局的、全体的にものをみることだ。 特定の情報源、特定の意見以外は見ざる聞かざるという偏狭な態度を捨てて、さまざまな見解を複眼的に見わたす訓練が大切だろう。 自分の主観から出た結論を先にすえておいて、それを立証するための材料をかき集めてくるようなやり方では、現実にもとづいた正しい判断など決して期待できないだろう。※ 出典 吉田豊(責任編集村山孚・守屋洋) 「中国古典百言百話1菜根譚」
2026.08.25
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盈満(えいまん)に居るは、水のまさに溢れんとしていまだ溢れざるがごとし、切にふたたび一滴を加うることを忌む。危急に処るは、木のまさに折れんとしていまだ折れざるがごとし。切にふたたび一搦(いちじゃく)を加うることを忌む。 すべてに満ち足りた境遇は、今にもあふれようとする水のようだ。それ以上、一滴でも加えることは決してしてはならない。 危地に追いつめられた状況は、今にも折れそうになっている木のようだ。それ以上の追いうちは決してしてはならない。 この言葉の底には、中国古来の、満つれば欠け、窮すれば通ずるの哲学が流れている。 十分に満ち足りた状態とは、あとは下り坂になるしかないぎりぎりの地点である。そこに一滴でも加えることは、たとえ善意からではあっても、微妙な平衡を破って、没落へのきっかけを作ってしまうおそれがある。 絶体絶命の窮地とは、それ以上落ちようのない窮地である。それにとどめを刺そうとする一撃は、逆に死にもの狂いの反発を招いて事態を逆転させるきっかけとなるかもしれない。※ 出典 吉田豊(責任編集村山孚・守屋洋) 「中国古典百言百話1菜根譚」
2026.08.24
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払意を憂うることなかれ、快心を喜ぶことなかれ、久安を恃むことなかれ、初難を憚ることなかれ。 思いどおりにならぬからといって、くよくよするな。万事うまく運ぶからといって、有頂天になるな。長く続く平安に心を許すな。最初にぶつかった困難にくじけるな。 人生も事業も有為転変、昨今の経済情勢をみても、一、二年前には予測もつかなかった大きな局面の変化がつぎつぎと起きて、泣くもの、笑うもの、企業はその対応に大わらわである。 今日のように変化の激しい時代にあっては、これまでのような傾向の延長で予測を立てることはできないし、何年後にはこう変わるという予測はさらにむずかしい。 とするならば、考えうる最悪の事態の中でも生き残ることができるだけの基礎体力を養っておくことが最善の道だろう。 そのような心がまえを作るためには、この四つの教訓はすこぶる適切だ。 今、情勢の急展開の中で度を失ったり、落後しつつある企業は、おそらくは状況のよいときに「快心を喜」んだり「久安を恃」んだりしていたところである。また、今の逆境の中で「払意を憂うる」ことなく、「初難を憚る」ことなしに力を蓄えている組織は、必ず試練に堪えて生き延び、新たな発展の契機をつかむことであろう。※ 出典 吉田豊(責任編集村山孚・守屋洋) 「中国古典百言百話1菜根譚」
2026.08.23
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倹は美徳なり。過ぐれば慳吝(けんりん)となり、鄙嗇(ひしょく)となり、かえって邪道を傷(やぶ)る。譲は懿行(いこう)なり。過ぐれば足恭(すうきょう)となり、曲謹(きょくきん)となり、多くは機心に出(い)ず。 倹約は美徳だが、これも度が過ぎると、ケチとなりシワン坊となって道に反するようになる。 謙譲は善行だが、これも度が過ぎればへつらいとなり、バカていねいとなるし、しかもたいていは不純な動機が隠されている。 何事も度が過ぎるのはよろしくないというわけだが、行き過ぎが起きるのはなぜだろうか。それは手段と目的の取り違えによる場合が多いようだ。 倹約の本来の目的は、もてる資源をむだにせず、最も有効に生かすことによって、お互いの幸福を増進することにあるはずだ。そのための手段である倹約が、それ自体、目的として追求されると、必要な支出まで惜しみ、出すのは舌を出すのもいやという、がめつさになってしまう。 謙譲は人間同士の相互尊重を言動に表したものだが、その形だけが重んじられると、心を伴わない虚礼となって、外見は卑屈、内心は傲慢という、いわゆるいんぎん無礼となってしまう。こと細かなマニュアルで教育訓練されたサービス産業の接客が、一分の隙もないにもかかわらず、どこかそらぞらしさを感じさせるのはこのためだろう。※ 出典 吉田豊(責任編集村山孚・守屋洋) 「中国古典百言百話1菜根譚」
2026.08.22
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鷹の立つは睡(ねむ)るがごとく、虎の行くは病むに似たり、まさにこれ他の人を攫(つか)み人を噬(か)む手段のところ。ゆえに君子は聡明露(あら)われず、才華逞しからざるを要す。 鷹がたたずんでいる姿は眠っているようであるし、虎の歩くさまは病気のように見える。だが、それこそ彼らが、人をとらえ、嚙み伏せるための手口なのだ。 賢明さを表わさず、才能を振り回さないのが君子のあり方。それこそ天下の大事業を果たすことができる。 日本のことわざにも「能ある鷹は爪を隠す」とあるが、軽々しく自分の力量をひけらかすようでは大きな仕事はできまい。 何事もないときは毒にも薬にもならぬ凡庸ぶりで「昼あんどん」と呼ばれていた大石内蔵助が、いざお家の一大事となると抜群の政治力、組織力を発揮して、みごと本懐を遂げた。 強いて無能をよそおわぬまでも、いざ出番というときまでは力を養いつつ控えめな態度に終始していたほうが、演出効果からいっても有利ではないだろうか。※ 出典 吉田豊(責任編集村山孚・守屋洋) 「中国古典百言百話1菜根譚」
2026.08.20
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日すでに暮れてなお烟霞絢爛(えんかけんらん)たり、歳まさに晩(く)れんとしてさらに橙橘芳馨(とうきつほうけい)たり。ゆえに末路晩年は、君子さらによろしく精神百倍すべし。 日はすでに暮れてなお夕映えは光かがやく。歳は終わろうとして柑橘はかぐわしく匂う。たとえ晩年となろうとも、君子はいっそう精神をふるい立たせ、最後を美しく全うしようではないか。 晩節という言葉がある。晩年の節操という意味で、年をとってから恥ずかしい行為をすると「晩節を汚した」などと言われる。人生八十年時代を迎えて、第一線を退いてからも十年も二十年も元気でいるとなると、晩節を全うするのもなかなか大変なことになりそうだ。 体だけは達者でも、おつむの老化が進み、当人はそれに気づかずにいたりすると、その人の社会的地位が高く、影響力が大きいほど、悲劇的な結果を招く。 そこまではいかなくとも、物欲や肉親への愛に溺れて、あの人が・・・・と呆れられたり、気の毒がられたりする例は、日常見聞きするところだ。 それだけに生のあるかぎり、一貫した志を曲げることなく、敬慕されながら生涯を終えていった先達たちには、尊敬と羨望を禁じえないものがある。※ 出典 吉田豊(責任編集村山孚・守屋洋) 「中国古典百言百話1菜根譚」
2026.08.19
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功を建て業を立つるは、多くは虚円の士なり。事を僨(やぶ)り機を失うは、かならず執拗の人なり。 功績を立て、事業をなしとげるのは、たいてい包容力があって円満な人だ。 事業をつまずかせ、チャンスを失うのは、きっと片意地で強情な人だ。 現代風にいえば、それは情報に対する感度と対応能力の違いのように思われる。「虚円の士」とはいい表現だ。虚とはうつろ、何らの先入観をもたずに事実をありのままに受け入れる能力であり、円とは固定した見解にとらわれない自由さであろう。 これに対して「執拗の人」は、狭い見解にとらわれ、凝り固まった人物を指す。 虚円の士は、広くアンテナを張って、集まってくる豊富な情報から総合的な判断をくだすからまちがいが少ない。 執拗の人は、自分の気に入った情報だけに頼って、それ以外は切り捨ててしまう。部下は上が喜びそうな情報しか提供しなくなるから、判断はますます偏って、現実から遊離していく。 虚円の士のもとには、能力と人格にすぐれた人材が集まり、力を合わせて事業をもり立てるが、執拗の人のもとには、無能で上にとり入る人物ばかりが集まって足を引っ張り合う。その結果は誰の目にも明らかだろう。※ 出典 吉田豊(責任編集村山孚・守屋洋) 「中国古典百言百話1菜根譚」
2026.08.18
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山の高峻なる処には木なし、而して谿谷廻環(けいこくかいかん)すれば、草木叢生す。水の湍急(たんきゅう)なる処には魚なし、而して渕潭停畜(えんたんていちく)すれば、魚鼈聚集(ぎょべつじゅしゅう)す。 高くけわしい山頂には木も生えないが、ゆるやかな谷間には草木が生い茂る。 激しい流れには魚も棲みつかないが、よどんだ淵には魚や亀が群がる。 だから君子たるものは、ひとりよがりな行動や、あせった考えに走ることなく、包容力をもって人を導かねばならない。 川柳にいわく、「言うことにまちがいのないいやなやつ」。 理屈では重々そのとおりだとわかっても、なにかといえば窮屈な説教を垂れ、わずかな過ちも見のがさずに、箸のあげおろしにまでうるさく言うような人物には誰もついていかないだろう。 そのとき、そのときの相手の期待、心情をきめこまかく察しながら、その積極性を引き出していく心のゆとりが、指導者には欠かすことのできぬ資質である。 ゆるやかな谷間のような、深く水をたたえた淵のような、豊かな包容力のもとでこそ、さまざまな素質や能力の持ち主が、それぞれに長所を発揮してくれるにちがいない。※ 出典 吉田豊(責任編集村山孚・守屋洋) 「中国古典百言百話1菜根譚」
2026.08.17
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讒夫毀士(ざんぷきし)は、寸雲(すんうん)の日を蔽(おお)うがごとく、久しからずしておのずから明らかなり。媚子阿人(びしあじん)は、隙風(げきふう)の肌を侵すに似て、その損を覚えず。 悪口を言いふらされるのは、ちぎれ雲が日を隠すようなものだ。そのかげりは間もなく消えてしまう。 おべっかでよい気分にされるのは、すきま風に吹かれるようなものだ。気づかぬうちにすっかり心を毒されてしまう。 悪意のデマやゴシップをふり撒かれるのは、はなはだ迷惑なことには違いないが、それは外から襲ってきた厄災だ。自分自身にやましいところがなく、動揺せずにいれば、人の噂も七十五日、やがては事実が明らかになって、デマをふり撒いた連中が逆に面目を失うだろう。 だが、とりまきのおべっかに浮かれて、自分本来の姿を見失うのは、無意識のうちに侵される慢性の病に似ている。反省の心は失われ、他人の忠告に耳を傾けることもできなくなる。 古来、その地位を失った有力者たちの多くは、外からの妨害や圧力よりも、味方と思っていた側近にたぶらかされて、状況判断を誤り、みずから墓穴を掘っている。指導者たる者は、こうしたすきま風に十分、気をつけていただきたい。※ 出典 吉田豊(責任編集村山孚・守屋洋) 「中国古典百言百話1菜根譚」
2026.08.16
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むしろ小人の忌毀(きき)するところとなるも、小人の媚悦するところとなることなかれ。むしろ君子の責修するところとなるも、君子の包容するところとなることなかれ。 つまらぬ人間からは嫌われたほうがよい。彼らから喜ばれるようになっては困りものだ。 すぐれた人物からはきびしく責められたい。見放されて寛大にされるようではおしまいだ。 人は誰でも、自分の人気が気になる。ちやほやされていい気持ちがしないとすれば、よほどの人物だ。だが、くだらぬ取り巻き連中しか周囲に寄せつけていないとすれば、その「大物」のレベルも知れたものだ。あれはごまのすりがいがなくて、なんとなく苦手だと煙たがられるようなら、ひとかどの人物といえよう。 指導を受ける立場からいえば、小言を言われるうちが花だと心得るべきだろう。 こいつには何を言ってもむだだと愛想をつかされた部下や弟子が、このところうるさく言われないのはおれの値打ちがわかってきたからだろう・・・・などとうぬぼれていては、それこそ漫画だ。 上司と部下、師と弟子の間には、よい意味での火花を散らす緊張関係が必要だ。向上の意欲と育てる熱意がぶつかり合ってこそ成長が期待できる。くれぐれも見放されないように。※ 出典 吉田豊(責任編集村山孚・守屋洋) 「中国古典百言百話1菜根譚」
2026.08.15
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縦欲(しょうよく)の病いは医(いや)すべし。而して執理(しつり)の病いは医しがたし。事物の障(さわ)りは除くべし、而して義理の障りは除きがたし。 欲望の激しい人物は、まだなんとかなる。だが、理屈で凝り固まった人物はどうすることもできない。外的な障害に対しては手をうつことができる。だが、心の中がひん曲がっていてはどうにもならない。利害だけで行動する人間ならば、得なことはやるが損なまねはしないから、周囲の情勢が変わって、悪いことをしても引き合わなくなれば、やめてしまう。 だが、偏狭、独善、狂信に毒された人間はそうはいかない。彼らは孤立すればするほどムキになって、手段を選ばぬ行動によって大害を及ぼす。みずからの正しさに少しの疑いももたず、他からの批判をいっさい拒否する「執理の病い」の集団は、政治、思想、宗教などの世界に、今なお根強い勢力を保っている。 物事をなすにあたって、客観条件、つまり環境については、さまざまな対応によって不利な条件を克服することが可能だ。だが、主体的条件、とりわけ中心となるべき人物の意欲、性格、品性がふさわしくないと周りがどうやきもきしてもどうにもならない。それこそが除きがたき障害となるのだ。※ 出典 吉田豊(責任編集村山孚・守屋洋) 「中国古典百言百話1菜根譚」
2026.08.14
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小人と仇讐(きゅうしゅう)することを休(や)めよ。小人おのずから対頭あり。君子に向かって諂媚(てんび)することを休めよ。君子もとより私恵(しけい)なし。 つまらぬ人間とムキになって争うな。彼らはちゃんと、それ相応の対手がいるものだ。 すぐれた人格者にこびへつらっても始まらぬ。こうした人はえこひいきなどしてくれないのだから。つまりむだなことはおやめなさいというわけである。 人と争い合うことは、同じ土俵、同じ価値観のもとで優劣を競うことだから、とるに足らぬ者と争うことは、相手と自分を同列におき、みずからの人格を下落させることになるだろう。 社会正義を守るための公憤から発した争いならば、いかに低劣な人物でも相手とせざるをえないが、個人的な利害得失や感情の争いならばやめておいたほうがよろしい。 ごまをするなら相手をよく見てからという教えはおもしろい。 こまをすってご利益があるのは、地位だけは高いが人間的にはレベルの低い人物だ。ちゃんとした人格者なら、へたにごまをすることは逆効果になるだろう。 ごまをすられて、おれもなかなか大したものだと、うぬぼれている向きは、自分が「小人」と値踏みされていることに気づくべきなのだ。※ 出典 吉田豊(責任編集村山孚・守屋洋) 「中国古典百言百話1菜根譚」
2026.08.13
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身を持するには、はなはだ皎潔(こうけつ)なるべからず。一切の汚辱垢穢(おじょくこうあい)、茹納(じょのう)し得んことを要す。人に与(くみ)するには、はなはだ分明なるべからず。一切の善悪賢愚、包容し得んことを要す。 世間を渡るのに、あまりに潔癖すぎる態度はよろしくない。いろいろな汚いものをも腹の中に納めてしまう度量が必要だ。 人とつきあうには、白か黒かとレッテルを貼ってしまってはならない。善悪賢愚、さまざまな人たちを平等に受け入れる寛容さが望ましい。 ここに説かれている寛容の徳は、自分自身に対する潔癖、誠実と表裏一体をなしている。『論語』には曾子の言葉として「夫子(孔子)の道は忠恕のみ」(里仁篇)とあるが、忠とは自己の良心に対する誠実さであり、恕とは他者に対する寛容さをさしている。 自分にも他人にもきびしい人は窮屈だ。自分にも他人にも甘い人はだらしがない。 だが、一番始末におえないのは、自分には甘いくせに他人にはきびしい人物だ。そうした手合いに、せっかくの名言を悪用させてはなるまい。※ 出典 吉田豊(責任編集村山孚・守屋洋) 「中国古典百言百話1菜根譚」
2026.08.11
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富貴の地に処(お)りては、貧賤の痛癢(つうよう)を知らんことを要し、少壯の時に当たっては、すべからく衰老(すいろう)の辛酸を念うべし。 財産、地位に恵まれているときにこそ、貧しく地位の低い人たちの苦しみを理解せよ。 若く元気なときにこそ、老い衰えたときのつらさを考えよ。 恵まれた家庭に育ち、とんとん拍子にエリートコースを歩んできた人が、人柄は決して悪くないのに、ときとしてひどく冷酷に聞こえる言葉を吐くことがある。「あれは頭が悪いんだからしようがない」「育ちの悪さは隠せないな」「三流大学出なんてあんなものさ」等々。 こうしたことを平気で言う人に欠けているのは、自分と異なった境遇におかれている人の心情に対する理解と同情である。これでは、さまざまな境遇のもとにある人々の心を一つにつなげていくリーダーとなることはできない。できるのは組織の権威に頼ってのマネージメントまでだろう。 冷酷といえば、核家族の中で育って、老い死を身近に見たことのない若い人には、老人や病人に対する同情と理解が著しく欠けているように思われる。若さを誇り、老いを侮る風潮は、効率万能の世相の中で一段と強まっているが、彼らもやがて「衰老の辛酸」を迎えることだけは確実なのだ。※ 出典 吉田豊(責任編集村山孚・守屋洋) 「中国古典百言百話1菜根譚」
2026.08.10
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官に居るに二語あり。曰く「ただ公なれば明を生じ、ただ廉なれば威を生ず」。家に居るに二語あり。曰く「ただ恕なれば情平らかに、ただ倹なれば用足る」。 役人にとって大切な言葉を二つあげよう。「公平を守れば正しい判断ができる」「潔白を守れば権威が生まれる」 家庭生活の中で大切な言葉を二つあげよう。「寛大な心を保てばみなの心が和やかとなる」「つつましく暮らせば不自由はない」 公という文字は、ハとムから成る。ハは去る、なくすという意味、ムは私のことだ。つまり私情を去ることが公職にあるものの資格なのである。官公庁であれ企業であれ、その意思決定にたずさわる者が私情に動かされていては、公正な判断は生まれず、指導者への信頼は失われる。 意思決定者の私情は、有形無形の利害の打算から生まれる。これほど指導者の権威を傷つけるものはない。潔白は権威の基盤である。 家庭の幸福の源泉は、家族の和と経済的な安定、それはお互いの寛容とつつましい生活慣習によって保たれるというのも適切な指摘だ。※ 出典 吉田豊(責任編集村山孚・守屋洋) 「中国古典百言百話1菜根譚」
2026.08.09
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己の心を昧(くら)まさず、人の情を尽くさず、物の力を竭(つ)くさず。三者、もって天地のために心を立て、生民のために命を立て、子孫のために福を造(な)すべし。 自分の心をごまかすな、人の好意にすがりきるな、限度をこした浪費や酷使をするな。 この三つの心得を守ることによって、天地の神の心にかない、人民の安全を守り、子孫に幸福をもたらすことができる。これはとりわけ、政治にたずさわる者にとっての心得であろう。 公正な政治のための第一の要件は、指導者の自己の良心に対する誠実さである。 もちろん政治には、方便も策略も必要であろう。だが、私利私欲のための手練手管を、もっともらしい口実でカモフラージュすることは、度が過ぎれば天の声である世論から見放される自滅行為となろう。 一国の政治は、大衆のエネルギーを組織し、国土と資源を活用することによって運営される。 だが、それにも限度というものがある。大衆の自発性を発揮させることができず、強制と命令で「お国のために」駆りたてたり、資金や資源をしぼりあげるだけしぼりあげたりする政治が、国家を衰亡に追いこみ、指導者を没落させてきた例は古今に数多い。 何事にも欠かすことができないもの、それは良心と節度である。※ 出典 吉田豊(責任編集村山孚・守屋洋) 「中国古典百言百話1菜根譚」
2026.08.08
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功業に誇逞(こてい)し、文章を炫耀(げんよう)するは、みなこれ外物に靠(よ)りて人となるなり。知らず、心体瑩然(けいぜん)として、本来失わざれば、すなわち寸功隻字(すんこうせきじ)なきも、またおのずから堂々正々、人となるのところあるを。 功績を誇り、教養をひけらかして得意になっている連中は、すべてうわべの飾りもので人目をひいているにすぎない。 たとえ何の功績もなく、いささかの教養もなくとも、人間本来の輝きを保っている人こそが、真に立派な人物だということを、彼らはとうてい理解することはできまい。 洪自誠はここでも「人間の価値は何によって決まるか」を説いている。 すべてを目に見える結果、表面に出た現象だけを評価する発想からすれば、何の功績も立てず、示すべき教養ももたぬ人は、まったく物の数にも入らぬ存在となってしまうだろう。 だが、みごとな功績や教養を誇っている人間から、それを取り去ってしまったとき、彼らが一個の人間として、どれだけ尊敬できる対象となりうるだろうか。 洪自誠は手を替え、品を替えて説きつづける。「うわべの飾りにだまされるな、裸の人間を見よ」と。※ 出典 吉田豊(責任編集村山孚・守屋洋) 「中国古典百言百話1菜根譚」
2026.08.07
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節義を標する者は、必ず節義をもって謗(そし)りを受け、道学を標する者は、常に道学によって尤(とが)めを招く。 主義を振り回せば、つまずいたときはその主義の名で非難される。 道徳を看板にしていれば、過ちを犯したときは、その道徳の名で責められる。 だから・・・・と洪自誠はいう。君子の生き方としては、悪いこともせぬかわり、善行で名を売ろうともせず、ただ心の平安だけを守っていくのがいちばんなのだと。 自分が振り回していた看板が頭の上に落ちてくるという指摘は鋭い。 理想の家庭づくりを説いていた評論家先生の足もとから、離婚問題や子供の非行がとび出したり、経営学の神様が会社を作ったら倒産したり、道徳の頽廃を憂える政治家に二号さんとその子供がいたりといった悲喜劇はのべつ起こっている。 日頃、立派なことを言っていればいただけ、そうした場合の世間の追及と嘲笑は容赦ない。 だが私は、だから主義を掲げ、道徳を論ずること自体やめたほうがよいとは必ずしも思わない。言うからには、自らそれに恥じることのない生き方をしてほしいと思うだけだ。また、受け取る側としては、言った当人が誰であろうと、とる価値のあるものはとるといった公正さがあってよいのではないか。※ 出典 吉田豊(責任編集村山孚・守屋洋) 「中国古典百言百話1菜根譚」
2026.08.06
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事を議する者は、身は事の外にありて、よろしく利害の情を悉(ことごと)くすべし。事に任ずる者は、身は事の中に居りて、まさに利害の慮(おもんぱか)りを忘るべし。 ものごとを討論するときは客観的な立場に立って、当事者たちの利害得失を十分に考慮することが望ましい。 ものごとの処理にあたるときは、実践の先頭に立って、その結果、自分にふりかかってくる利害得失はいっさい念頭におかないことだ。 洪自誠が、組織の中における経験をかなり積んでいたことをうかがわせる一節である。 集団のなかで、あるテーマが議論の対象となったとき、私たちは無意識のうちに、その結論のいかんが自分の利害にどう影響するかを計算してしまう。そして、自分が最も有利になるような結論にもっていくための、もっともらしい論拠を探し求めがちだ。 また、一定の結論が出て実施のゴーサインが出てからは、それが自分に有利な結果をもたらすものならば喜び勇んでとりくむが、そうでないときはできるだけ手を抜いたり、ひどいときには人の足を引っ張ったりする者も出てくる。 こうした人間の弱さ、ずるさを少しでも克服するために、この教えを心にとめておきたい。※ 出典 吉田豊(責任編集村山孚・守屋洋) 「中国古典百言百話1菜根譚」
2026.08.05
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「鼠のために常に飯を留め、蛾を憐れみて灯と点ぜず」。古人のこれらの念頭は、これ吾人一点生々の機なり。これなければ、すなわちいわゆる土木の形骸のみ。「ネズミが飢えぬよう飯を残しておき、蛾がとびこまぬよう灯をつけずにおく」という言葉がある。昔の人が言ったこの心は、すべての生命あるものをはぐくんでいく出発点だ。 この心をもたない人がいれば、それこそ木石同然で、ただの人間のぬけがらにすぎない。 ここで説かれているのは「思いやり」の心だ。思いやりとは「思いを遣る」、つまり自分の感情を相手に移して、相手の身になって考えることをいう。 腹をへらしたネズミ、灯にとびこんで命を落とす蛾の身になれる心が「思いやり」なのだ。それはおそらく、人間のみがもつことのできる高次の心の働きだろう。だが、ネズミや蛾どころか、日常接している家族や職場の人々との間でさえ、相手の身になってものを考えるのはむずかしい。まして、顔を見たこともない他人や外国の人々の運命を、自分自身のことのように感じることはなかなかできないものである。 その思いやりの心の広がり、こまやかさの程度が、その人の人間性の豊かさの指標であろう。※ 出典 吉田豊(責任編集村山孚・守屋洋) 「中国古典百言百話1菜根譚」
2026.08.04
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われ貴くして人これを奉ずるは、この峨冠大帯(がかんだいたい)を奉ずるなり、われ賤しくして人これを侮るは、この布衣草履(ふいそうり)を侮るなり。然らば、もとわれを奉ずるにあらず。われなんぞ喜びをなさん。もとわれを侮るにあらず。われなんぞ怒りをなさん。 身分、地位、肩書きが、その人本来の価値をそのまま示しているほど世の中は公平ではない。 人生は芝居のごとし、大根役者が殿様にもなれば、名優が乞食にもなるという名言もある。 この分かりきった道理も、当事者となればしばしば忘れてしまう。人々が名詞の肩書きに敬意を表しているのを、まるで自分の人格が慕われているかのように錯覚する向きのなんと多いことか。 そうした手合いに限って、いったん、その肩書きを失うと、人が相手にしてくれないのをむやみと淋しがり、腹を立てる。そして「おれはこう見えても元は・・・・」と過去の栄光にすがりつくに至っては、気の毒というほかはない。 お互い、遅くも中年を迎えてからは、いっさいの肩書きをはずしたのちも、生涯の友としてつきあえる何人かをもてるよう、みずからの人間形成に努めたいものである。※ 出典 吉田豊(責任編集村山孚・守屋洋) 「中国古典百言百話1菜根譚」
2026.08.03
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恩はよろしく淡よりして濃なるべし。濃を先にし淡を後にするは、人その恩を忘る。威はよろしく厳よりして寛なるべし。寛を先にし厳を後にするは、人その酷を怨む。 恩恵を与えるには、最初はわずかにして、次第に手厚くするのがよい。初めは手厚くして、後にわずかにすれば、人は手厚くしてもらったことを忘れて不満に思う。 規律を正すには、最初はきびしくして、次第にゆるめていくのがよい。初めにルーズにしておいてあとからきびしくするならば、人は不当にむごく扱われたと感じて恨みを抱く。 まことに人情の機微をよくとらえた名言で、上に立つ者として常に心がけるべきところだ。 現実には、しばしばこれと反対の拙劣なマネージメントを見聞きする。 新任の管理者や経営者が、下の歓心を買って自分の株を上げるために、処遇をよくし、規律を寛大にする。その結果、コストアップと職場規律の乱れが出てくると、あわてて引き締めにかかり、下からの反発を受けてがたがたするという図である。なお、淡より濃、厳より寛への移行は、成員の協力に対する褒賞として行なうことが望ましい。「君たちのおかげでここまで改善されたから、これからは・・・・」という理由づけがつぎの意欲を生むはずである。※ 出典 吉田豊(責任編集村山孚・守屋洋) 「中国古典百言百話1菜根譚」
2026.07.30
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よく俗を脱すればすなわちこれ奇、作意に奇を尚ぶは、奇とならずして異となる。汚に合せざればすなわちこれ清、俗を絶ちて清を求むるは、清とならずして激となる。 俗臭をなくしさえすれば、それだけでもはや非凡だ。むりに非凡を気取ろうとすれば、いや味たっぷりな変人となってしまう。「おれはやつらとは違う」という思いあがった姿勢からは、他人の生き方に学ぶ謙虚さは生まれない。人を見くだしたいやらしさだけが目についてしまう。 俗を脱するとは、自分自身の中にある我欲や執着をありのままに認めて、それを克服する内面の修行である。それが真の意味での「奇」、すなわち非凡となる道だというのである。 世間の汚れに染まらなければ、それでこそ清潔といえる。世間から離れて清潔を守ろうとすれば、ひとりぼっちのひねくれ者に終わる。 この世に生きていくからには、世の交わりを絶つことはできない。それならば、俗世間に生きる人たちのあれこれを責めるのではなく、自分自身の心と行動を正すことで清潔な生き方を守りたい。殻にとじこもった偏狭な生活態度では、周囲から孤立するだけだろう。※ 出典 吉田豊(責任編集村山孚・守屋洋) 「中国古典百言百話1菜根譚」
2026.07.29
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故旧の交わりに遇いては、意気いよいよ新たなるを要す。隠微の事に処しては、心跡よろしくいよいよ顕わすべし。衰朽(すいきゅう)の人を待つには、恩礼まさにいよいよ隆(さか)んにすべし。 昔なじみの人とは、ますます新鮮な気持ちで交わりを深めよう。 人目につかぬことについては、少しもうしろ暗さのないよう心がけよう。 落ちめになった人に対しては、とりわけ温かく接しよう。 人はとかく、すぐ効果のありそうなこと、ただちに見返りが期待できることについては熱心に、てきぱきとことを進めるが、そうでないことは放っておくか、気がついても後回しにして、結局は投げやりにしてしまう場合が多い。 だが、そんなときでも、まともな人間であれば心のどこかに、まずいな、申しわけないなという一片の痛みをおぼえるはずである。 その良心の痛みをそのままに麻痺させてしまうことなく、実際の行為によって人間としての務めを果たしていくことが、自分の心をさわやかにし、自信をもって生きていくささえとなるのではなかろうか。※ 出典 吉田豊(責任編集村山孚・守屋洋) 「中国古典百言百話1菜根譚」
2026.07.28
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目に見えぬところで進む因果応報 2026年7月27日 テーマ:読書 善をなしてその益を見ざるは、草裡(そうり)の東瓜(とうか)のごとし。おのずからまさに暗に長ずべし。悪をなしてその損を見ざるは、庭前の春雪のごとし。まさに必ず潜(ひそ)かに消ゆべし。 善行を積んでも成果が目に見えぬことがある。だが、草むらに隠れた瓜のように、それは知らぬまに育っていく。 悪事を働いて得たものが失われずにすむことがある。だが、庭先の雪のように、それはたちまち消えてしまう。 仏教の因果応報の教えによれば、すべてのものごとは、因と縁と果の関係によって成り立っているという。まず原因があり、これがある条件(縁)のもとで、一定の結果を生む。そして善因からは善果が、悪因からは悪果が生まれると教えられてきた。 現実の世界では、善人が苦しみ、悪人が栄えていることも多いが、洪自誠は、あまりに近視眼的な見方を捨てて、長い目で見るならば、やはり善行は報いられ、悪行は罰せられることが多いのだと、善意の人びとが望みを捨てることのないよう、温かく励ましている。※ 出典 吉田豊(責任編集村山孚・守屋洋) 「中国古典百言百話1菜根譚」
2026.07.27
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念頭寛厚なるは、春風の煦育(くいく)するがごとし。万物これに遭うて生ず。念頭忌刻(きこく)なるは、朔雪(さくせつ)の陰凝(いんぎょう)するがごとし。万物これに遭うて死す。 寛大で温かな心は、春風が万物を育てるように、すべてのものを成長させる。冷酷で疑い深い心は、真冬の雪が万物を凍りつかせるように、すべてのものを死滅させる。 人間の成長への芽生えは至るところにあるが、それは周囲の環境によって、あるいは生き生きと発展し、あるいはたちまち立ち枯れてしまう。 子どもや部下の質問に対して、温かく答えるか、まだそんなこともわからんのかと冷たく突き放すかで、相手の意欲にどんな影響が出るかは明らかだろう。 理屈ではそんなことは誰でもわかっている。だが、親も、教師も、職場の管理者も、せっかくの成長の芽生えに冷や水をかけるような態度をしばしばとってはいないだろうか。 心のゆとりのなさ、親切心の不足が心ない対応となって現われ、知らぬまに大きなマイナスを生んでいる例があまりにも多すぎるように思われる。 ひところしきりと言われた「気くばり」というのも、単なる処世の技術から出たものでは本物とはいえない。心の豊かさが自然と相手への思いやりを生むようにしたいものである。※ 出典 吉田豊(責任編集村山孚・守屋洋) 「中国古典百言百話1菜根譚」
2026.07.26
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人を信ずるは、人いまだ必ずしも尽(ことごと)く誠ならざるも、己すなわち独り誠なり。人を疑うは、人いまだ必ずしもみな詐(いつわ)らざるも、己すなわちまず詐る。 人を信ずることができれば、たとえ相手の心が誠実でなく、だまされることがあろうとも、こちらは誠実をつらぬいたことになる。人を疑ってかかるならば、たとえ相手が正直であっても、こちらは偽りの心で接したことになる。 この「愚直のすすめ」は現代では通用しにくい。だまされるよりはだましたほうが得、人を見たら泥棒と思えを処世の知恵と心得ている向きがあまりにも多いからだが、他人は信用できない、できないと言いながら、私たちの社会生活は、一面識もない多くの人々への信頼の上に成り立っている。タクシーや電車を当然のように利用するのは、運転士が誠実に任務を遂行してくれると信じているためだし、ガスの栓をひねり、電気のスイッチを押すときには、エネルギーの供給にあたっている人たちに全幅の信頼を寄せているわけだ。 信じていた相手から裏切られれば腹が立つが、それでも、誠実な相手を疑ってかかり、その善意を土足で踏みにじるよりはましではないか。自分の善意を裏切られても、他人の善意を裏切るのだけは避けたいものと思う。※ 出典 吉田豊(責任編集村山孚・守屋洋) 「中国古典百言百話1菜根譚」
2026.07.25
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徳を謹むは、すべからく至微の事を謹むべし。恩を施すは、つとめて報ぜざるの人に施せ。 人格の向上を図るなら、まず最も些細なことからきちんとすることだ。むやみと大きなことを志して、それがむずかしいからと何もせずにいては、自分を磨くことはできない。 わずかなことでも世話をしてくれた人には報告とお礼を欠かさない。恩を受けた人が病気をしていると聞けば見舞いに行く暇がなくても手紙の一通は必ず出す・・・・。 そうしたあたりまえのことを励行する習慣が身についていれば、より大きな問題に直面したときには、迷うことなく正しい行動をとることができるはずだ。 人の面倒をみる場合、凡人の常として、どうしても感謝されたい、何らかの見返りを受けたいと期待しがちなものだがそれでは商取引と同じことで、純粋な善意に基づく行為とはいえない。 報いられることを期待しない善行を施そうとするならば、どう考えても見返りなどありそうもない対象、つまり最も苦しい立場におかれている人を相手にすればよろしい。 そうすれば、無意識のうちにも報酬をあてにするような卑しい心が芽生える余地はあるまい。 以上の二つを日ごろの心がけとして守れば、知らず知らずのうちに人格を磨くことができるに違いない。※ 出典 吉田豊(責任編集村山孚・守屋洋) 「中国古典百言百話1菜根譚」
2026.07.24
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事を謝するはまさに正盛の時に謝すべし。身を居くはよろしく独後の地に居くべし。 地位を去って隠退するのは、わが身が全盛のときがよい。 そして身を置くところは、人と競争せずにすむ場所にかぎる。『老子』第九章には「財宝が満ち溢れていても、いつまでもこれを守りつづけることはできない。富貴の地位に驕っていれば自らとがめを招くであろう。功成り、名遂げて身をひくのが天の道である」とあって、これが東洋的な人生設計の極意とされてきた。 実社会で活動する限り競争は避けられない。ある地位につき、ある仕事をしているということは、その地位、その仕事を願っている誰かから、それを奪っていることになる。 自分で意識する、しないにかかわらず、嫉妬と羨望の的になり、折りあらば引きずりおろしてやろうと思われていることを忘れてはならない。 とするならば、みずからの社会的責任は果たしたと思える時点で、できるだけ早く身をひき、後進に道を開くことが成功者の生き方であろう。 そのあとは、またも世間から羨まれるような地位利用の天下りなどではなく、名声から遠ざかって淡々たる晩年を送るのがふさわしい。※ 出典 吉田豊(責任編集村山孚・守屋洋) 「中国古典百言百話1菜根譚」
2026.07.23
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人となるに点の真懇念頭(しんこんねんとう)なければ、すなわち個の花子(かし)となり。事々みな虚(きょ)なり。世を渉(わた)るに段(だん)の円活機趣(えんかつきしゅ)なければ、すなわちこれ個の木人(ぼくじん)、処々碍(さわ)りあり。 人格の向上をめざすなら、真剣で誠実な心が必要だ。それがなければ乞食同然で、何をしても魂が入らない。 世間を渡るなら、円満な人間関係づくりを心がけよ。それがなければデクノボウ同然で、そこらじゅうにぶつかるばかりだ。 真剣さ、誠実さを欠いて調子ばかりよい人間に対して、人は一度や二度はだまされても、たちまち相手にしなくなる。自分では得意になっている弁舌の巧みさ、如才なさまでが、かえって警戒心を抱かせる原因となるのだ。では、真剣さ、誠実ささえあればよいか。社会的存在である人間としては、それだけではどうも不足である。 自分さえまちがっていなければよいとして、人の気持ちや立場を無視し、協調の心を忘れた独善は、必ず周囲の反発を招いて、どれほど努力しても孤立無援のうちに失敗せざるをえない。 周囲の人々の信頼と協力を得るためには、真剣なまじめさと、円満な協調性とを兼ね備えることが大切。それでこそ自分でも予測しなかったほど大きな仕事ができるのである。※ 出典 吉田豊(責任編集村山孚・守屋洋) 「中国古典百言百話1菜根譚」
2026.07.22
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事業文章は、身に随いて銷毀(しょうき)す。而して精神は万古新たなるがごとし。功名富貴は、世を逐うて転移す。而して気節は千載一日なり。君子、まことにまさに彼をもって此に易(か)うべからず。 技能や教養は、その肉体とともに消え去ってしまうが、人の精神は永遠に新しく生きつづける。 栄誉や富は、世の移り変わりとともに価値を失うが、人の節操は千年をへても依然として貴い。だからこそ君子は、一時のもののために永遠なるものを捨てようとしないのだ。「豊かな社会」は世をあげての新製品ラッシュ、使い捨て時代を現出させて、モノの寿命は短かくなる一方だが、ヒトについてもまた、生理的な寿命こそ世界一の長寿国となったものの、社会的な評価は猫の目のように変わって、人気のサイクルはどんどん短縮している。 後世に残る仕事をしてくれるはずの学者や芸術家の先生方の中にも、時々の流れに乗っては、あっけなく姿を消していく向きが少なくない。 このような時代になればこそ、その人の人生そのものが時代を超えて光を放つような生き方が慕わしいのである。※ 出典 吉田豊(責任編集村山孚・守屋洋) 「中国古典百言百話1菜根譚」
2026.07.21
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徳は量に随って進み、量は識によって長ず。ゆえにその徳を厚くせんと欲せば、その量を弘くせざるべからず。その量を弘くせんと欲せば、その識を大にせざるべからず。 人の品性は、包容力が大きくなるにつれて向上し、包容力は、認識が深まるにつれて大きくなる。 したがって、品性を向上させようとするならば、包容力を大きくすること、包容力を大きくしようとするならば、認識を深めていくことだ。 ここで説かれているのは、知性と特性との切り離すことのできぬ相互関係である。 よく、人間本来の徳性は知識や学問の有無とは関係ない、教養を売りものにしながら人間的には一向に尊敬できない人もいれば、何の教養もないけれどすばらしい人格の持ち主もいるではないかといわれる。それは一面の事実には相違ないが、それがすべてではあるまい。 私たちがすぐれた人物に接したときに感じる、人の心に対する深い洞察力、思いやりといった美徳は、幅広い人生経験と教養によって培われてくるものだ。経験に乏しく、視野のせまい人は、主観的には善意であっても、人を導き育てていく人徳という面では、どうしても見劣りする。やはり、人格の向上にとって、みずからを磨く教養を怠ることはできないのではないか。※ 出典 吉田豊(責任編集村山孚・守屋洋) 「中国古典百言百話1菜根譚」
2026.07.19
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饑うれば附き、飽けば颺(あが)り、燠(あたた)かなれば趨(おもむ)き、寒ければ棄つ。人情の通患(つうかん)なり。 腹がへったときにはまつわりつき、満腹すればさっさと立ち去る。こちらが裕福なときはせっせとやってくるが、落ちぶれてしまえば見向きもしない。これが人情の常だ。 人情の常だから、それにいちいち腹を立てても始まらない。だが、道徳的な判断は一応抜きにして、処世の知恵という面から考えても、あまりの現金さは、必ずしも得とばかりは言えまい。 佐賀の『葉隠』(山本常朝述、田代陳基編)には「人の心を見んと思わば患え」という言葉がある。自分が病気になったとき、あるいは落ち目になったときに、どれだけ誠意をもってつきあってくれるかで、その人の評価をしようというわけだ。 先日お会いした、ある機械部品商社の社長さんは「品物のだぶついた買手市場のときにサービスに精を出すのはあたりまえ。大切なのは景気がよくて品不足のとき、お客様にご迷惑をかけないよう誠意をつくすことです。景気のよいときは大きな顔をして、不況になったとたんペコペコしても相手にされません」と言っておられた。目の前の小さなそろばんしかはじけない人物には、所詮、息の長い信頼関係を築くことはむずかしい。※ 出典 吉田豊(責任編集村山孚・守屋洋) 「中国古典百言百話1菜根譚」
2026.07.16
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まさに人と過ちを同じくすべし。まさに人と功を同じくすべからず。功を同じくすれば相忌(あいい)む。人と患難をともにすべし。人と安楽をともにすべからず。安楽なれば相仇(あいあだ)とす。 失敗の責任は自分もとろう。しかし功績をあげた栄誉の仲間には入るな。功績を共有するのは仲たがいのもとだ。 やる気のある若手のサラリーマンに「どんな上司のもとで働きたいか」と聞いてみると、よく「信頼して任せてくれて、もし失敗したときはドロをかぶってくれる人」という答えが返ってくる。「でも、そんな人はめったにいませんね。うまくいけば自分の手柄、失敗すれば部下の責任という人ばかり多くて」という嘆きもよく聞く。洪自誠の生きた中国の官僚社会も、おそらくそうだったのだろう。だからこそ、ドロは自分がかぶり、功は人に譲る潔さが強く求められたに違いない。苦労は人とともにしよう。しかし楽しみごとは人に譲ってしまったほうがよい。楽しみごとを共有すれば、ついには憎み合うようになる。 これもよく思いあたる指摘だ。皆が汗を流しているときはどこかに消えていて、骨休めのお茶の時間になるとちゃっかり出てくるような人間は誰からも信頼されまい。※ 出典 吉田豊(責任編集村山孚・守屋洋) 「中国古典百言百話1菜根譚」
2026.07.14
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奸(かん)を鋤(す)き、倖(こう)を杜(ふせ)ぐには、他の一条の去路(きょろ)を放つを要す。もしこれをして一も容るるところなからしめば、たとえば鼠穴を塞(ふさ)ぐもののごとし。 悪党や野心家を一掃するためには、一筋の逃げ道だけは空けておいたほうがよい。もし、どこにも逃げ場がないとすると、彼らは袋のネズミのような状態となって、苦しまぎれに大切なものをかじりつくしてしまうからだ。 これは戦争の場面でも、実際に用いられたことのある心得だ。今は国電の線路で分断されてしまったが、上野の山から根岸に向けて降っていく芋坂という坂があった。 明治元年五月、上野の山にこもって新政府軍に抵抗した彰義隊は、近代装備の官軍に包囲されたが、そのとき芋坂の口だけはわざと空けておかれたため、大勢がきまるとそこから敗走、死にもの狂いの抵抗による双方の被害を防ぐことができた。この場合は、敵味方に分かれてはいても、同じ日本人同士という感情が、こうした知恵を生んだのだろう。 日常の人間関係の中でも、窮地に立った相手をとことん追いつめるのは好ましいことではない。ときには、見えすいた口実とわかっても、知らぬ顔で納得してやるほどのゆとりをもって接したいものである。※ 出典 吉田豊(責任編集村山孚・守屋洋) 「中国古典百言百話1菜根譚」
2026.07.13
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徳は才の主、才は徳の奴なり。才ありて徳なきは、家に主なくして、奴、事を用うるがごとし。いかんぞ魍魎(もうりょう)にして猖狂(しょうきょう)せざらん。 人徳は主人、才能はその召使い。才能ばかりがあって人徳が備わっていなければ、主人のいない家で、召使いが勝手気ままにふるまっているのと同じことだ。 その人の心中は化けものの棲み家、果てもなく乱れ狂っていくのもむりはない。 才能とは用い方次第でどのような機能をも果たす両刃の剣だ。その刃が鋭ければ鋭いほど、誤った使い方をした場合の害は大きい。妖刀「村正」の伝説は、恵まれた才能に振り回されて、人を傷つけ、みずからを破滅させていく愚を象徴している。 現代における「才」の社会的集積は、高度に発達した科学技術と、それを駆使した精緻な管理システムだろう。それは用い方いかんによっては、人類に限りない幸福をもたらすかもしれないし、また破滅の淵に陥れるかもしれない。その手綱を握る主人としての人間の英知、真の意味における「徳」が今、切実に求められている。個人のレベルにおける人格と才能の分裂は、せいぜい当人とその周囲の不幸を招くにすぎないが、地球的規模における技術と人間性の乖離は測り知れぬ悲劇をもたらす。それだけはなんとしても防ぎとめねばなるまい。※ 出典 吉田豊(責任編集村山孚・守屋洋) 「中国古典百言百話1菜根譚」
2026.07.11
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功過は少しも混ずべからず。混ずれば、人、惰堕(だだ)の心を懐(いだ)かん。恩仇は大いに明らかにすべからず。明らかにせば、人、携弐(けいじ)の志を起こさん。 部下に対しては、その功績と過失とをあいまいにしてはならない。もし、それがあいまいにされれば、部下の心はだらけてしまうだろう。 いわゆる信賞必罰の励行は、上に立つ者の第一の要件である。努力して功績をあげても評価されず、怠慢や不注意から組織に迷惑を及ぼしてもその責任を追及されないとすれば、誰が本気になって仕事にとりくむだろうか。言われたことだけを、形だけやっておけばよいという、たるみきった雰囲気が組織を支配して、成長への活力は失われてしまう。 しかし、個人的な利害を受けたことによって部下を差別してはならない。 信賞必罰を怠る経営者や上司に限って、仕事の実績によってではなく、個人的な好き嫌いや、縁故や、日ごろのつけ届けなどのごますりに動かされやすい。 上に立つ者がそのような不公平な態度で接すれば、目をかけられた者はつけあがり、冷遇された者は怨みを抱き、組織内の人間関係は四分五裂してしまう。 部下、従業員の能力と実績にもとづく公平な評価、処遇のできぬ人物に、上に立つ資格はない。※ 出典 吉田豊(責任編集村山孚・守屋洋) 「中国古典百言百話1菜根譚」
2026.07.10
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炎冷(えんりょう)の態(てい)は、富貴さらに貧賤よりもはなはだしく、妬忌(とき)の心は、骨肉もっとも外人より狠(こん)なり。 愛と憎しみの感情は、富貴の者のほうが貧しい者よりさらに激しい。地位や財産に恵まれているほど、自分が手にしたものへの執着が強く、奪われはしないかという猜疑心のとりことなるからだ。 本来なら「金持ちけんかせず」のことわざのように、寛容な心をもつはずのところが「金持ちとはきだめは溜まるほどきたない」と言われるのはこのためだろう。 妬み嫌う心は、肉親同士のほうが、あかの他人よりよほど極端だ。いわゆる近親憎悪である。 他人同士なら、いやならつきあわなければすむが、肉親ではそうはいかない。しかも、目上、目下の社会的ルールに縛られて、親は親らしく、子は子らしくといったあり方を強いられるから、本心のままの言動ができず、知らず知らずのうちに不満が鬱積している。それが何かのきっかけで爆発すると、もう、とめどがなくなる。 お互いが無一物なら大したことはないが、争い合う対象としての地位、財産、名声などが大きければ大きいほど骨肉の争いは深刻となるのは、世間に例の多いところだ。 醜態をさらし、傷つけ合うことのないよう自戒してほしいものである。※ 出典 吉田豊(責任編集村山孚・守屋洋) 「中国古典百言百話1菜根譚」
2026.07.09
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