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日本移民人はブラジル社会に同化し、お金を貯めて、
初期の開拓者を除き、情報を多く持っており、大戦に突入
した本国に帰るより、さらに富を蓄積することを選んだ。
しかし、この戦争では両国の外交関係が絶たれたために、
本国の状況が判らず、移民同士が「(大戦の仮想)勝ち組」」と
「(大戦の仮想)負け組」に分かれて衝突し、
日系人の権利が奪われていく不幸な錯覚時代
に入ったのである。
・情報途絶に基づく日系人間の不和の連続
・日系人が本国を援助する時代
・国政レベルまで活躍する日系人政治家の出現と日系人の統一機運
・戦前派と戦後派が、思考・行動のズレを克服して、相互の補完
(戦前派が所有する設備能力を戦後派が新技術で高めた)
・農業の最前線を求めて
(農業分野の協同組合導入、作物不毛地区での高収穫率達成)
・日本から大規模投資(輸入代替企業として日系進出企業が貢献など)
・日系社会の大都市での絆深まる(テニス、柔道、相撲、芸術、病院、福祉など)
などなど詳しく書かれている。
| 年月 |
略史 |
|---|---|
| 1946.1&1947.2 |
情報が遮断された中で、「シンドレンメイ」が神聖で侵しがたい国、無敵の国を主張。この「勝ち組」と「負け組」の争いが、過激分子を生み、ついにテロ行為が発生し、首謀者は逮捕されて、1947年3月テロ行為は終焉した。「戦争による日本人犠牲者を助ける会社」が立ち上げられたが、「勝ち組」は協力しない。意見の隔たりの融和に、「ダンスパーティ」、「基金集め」などが開かれた。しかし、1950年、1952年に「勝ち組」は騒動を起こした。100人全員死ぬ覚悟だったという。 |
| 1951年 |
ブラジル開催のテニス試合に日本から選手派遣、フジヤマのトビウオも来伯。1952年ヘリシンキオリンピック自由形で日系選手が初のメダル獲得。 戦後の移民は1953年に、独身51人と「辻&松原家族移民団」166人 があったが、無理解、逃亡、不和と、現地側での指導力不足、計画の不十分さで多くが帰国した。ブラジル政府は養蚕業者の移民を期待したが、本土の経済成長著しく1960年~62年で367人のみであった。戦後移民は「日本新移民」とよばれるが53,555人で、そのうち95%が1973年以前に入植した(戦前の入植者は196,737人)。 |
| 1954年 |
サンパウロで市政400年記念式典が開催され、海外からの移民コロニアへの参加要請があり、内部で揉めたが、水に浮かぶ日本館開設、日本記念切手など「日本祭」はサンパウロ市民、日系市民に喝采で受け入れられて、日系コロニアは団結し、「同郷人のコロニア」から脱皮することが出来た。 この年に政治の世界(1948年1月日系人がサンパウロ市会議員となったことが最初)で、日系人の連邦議会議員が誕生し、1961年には3人が選出された。日系人の器用さのほかに、ブラジル人社会との融合、教育の高度化などを背景に、国政に参加し、移民達の権利、財産を守ることが重要であった。 |
| 1957年から |
ブラジル経済へ日本企業の進出相次ぐ。大洋漁業(1957)、ウジミナス合弁企業(1958)、IHI(1959)、その後東洋紡、カネボウ、クラボウ、パイロット、味の素、日本冷蔵、ヤンマーディーゼル、久保田鉄鋼、その他商社、金融部門が進出、1970年代がピークとなる。 |
| 1969年10月 |
国政レベルに達した日系の大臣が誕生、通産大臣、1974年資源エネルギー大臣、1989年厚生大臣、 2002年政権の幹事長がでる。日系人の海外での就業も認められた。 |
| 1970年代 |
輸入製品を国内生産に切り替える政策で、自動車、冷蔵庫、テレビの生産が始まっていた。(コーヒーの輸出比率は1960年代の8割から、短期間で20%以下になり、主要産物から除外された) 高度な技術を要する製品が輸出され外国貿易が発展。最大のプロジェクトは繊維産業の大規模生産とその輸出促進。 |
| 1990年代初め |
ウジミナス合弁会社の民営化により、配当が開始された。 1997年10月ホンダ・ブラジル自動車工場、1998年9月トヨタ・ブラジル工場(1958年から進出していたが一部車種のみであった)を建設 |
| 年月 |
略史 |
|---|---|
| 1927 |
Cotia農業協同組合設立 |
| 1929 |
Juqueri農協、その後、南ブラジル中央農協設立 |
| 1974 |
Cotia農協はMinas Gerais 州と連携、豆、米、小麦、コーヒーが中心の計画に投資 |
| 1970年代終わり |
サンパウロ周辺都市の農業地帯開拓。農民の1/10は日系人で、同州の食物の35%を供給、ラテンアメリカ最大卸売市場Ceagespへ7割を供給。品目:野菜、豆類、穀物、果物、魚、花。他にも、ジャガイモ、イチゴ、モモ、バナナ、メロン、柿、お茶。 アマゾン地域でジュート麻、パラナ州北部で綿、小麦、コーヒー、Atibaiaで花が栽培された。 Bastos(SP)では日系人が人口の9割を占めるが、1980年代に「卵の都」と知られた。 パラ州のTomeーAcu(1930年代移民)に当国最大の胡椒農場がある。 Cerradosプロジェクトで実現した小麦、トウモロコシ、大豆など生産高は同国生産高の50%、世界生産高の10%を占める(コーヒーの水準と同等)。直接雇用2万人、間接雇用4万人。日本から専門家が多数派遣され、多数の研究者が日本に行った。多額の研究費用も日本から資金援助された。 Temperada地区の果物栽培(リンゴ、ナシ)も同様であり、零細農家の多角経営の流れに調和し、利益をもたらした。と同時に、ブラジル人には食後のデザートとして欠かせないものとなった。 |
★ ★ ★ ★ ★
写経していく内に気がついた。
さらに詳しいものがあるかも知れないと。
WEBで探してみたら見つかったではないか。
詳しくは・・・
電子図書館の「ブラジル移民の100年」もお薦めする。
しかし、「宇治見氏」の翻訳が実情を正確に
記録しているのには驚いた。まとまりの付かない「写経」紹介となったが、
「宇治見氏」の翻訳は日伯交流に役立つことと思う。
それは、ブラジル現地側からの視点で日系人の活躍を的確に
分析していることである。
他の解説本と比較すると、違いを感じる。
生き生きとした、読みやすい本として世に出るのを期待している。
小生の「写経」では、生き生きとした原文が見えないだろうが。
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