PR
Keyword Search
Calendar
Comments
Freepage List
「私という謎」
「私」とは誰か。
この問題を考えるとき、大きな足かせとなっているものがあります。
それは、人称と自我の問題です。つまり、ある哲学者(仮にAとする)が、「私」とは誰か、
という問題を考えた場合、これは当然、Aについての問題です。
しかし、受け手は、この哲学者が問題としている人物はAであって、
「私ではない」。
この問題は「私」ではなく、
「あなた」または「彼」「彼女」の問題にすり替わってしまう。
ここに、「私という謎」を考えるにあたっての大きな齟齬があります。
隘路があります。
難点は2つ。
「私」は本来「私ひとり」であるはずなのに、
この世界には「わたし」と認識する主体が複数存在する。
そうすると、ほかの主体の「わたし」はすべて「私」の僭称ということになる。
つまり、独我論的な他者の自我の否定、という問題。
(2)(1)は一見すると、奇妙な詭弁です。
このアンチロジックの原因は、むしろ問題の本質ではなく、
人称をめぐる言葉の問題と置き換えたほうがよいのかもしれない。
自我の問題を考える場合、取りあえず、
「私」という言葉を遣わないようにすればよいのではないか。
だから、「私」を「僕」や「俺」に代える、ということではない。
でも、それだけで、本当にこの問題を回避できるか?
(1)の視点は、問題の本質とどうかかわっているのか?
整理して質問を出します。
「私とは誰か」という問題について、他者と考える場合、
人称をめぐる混乱が常に根底にある。
これは技術的に解決できるのか?
そして、また、「私とは誰か」という哲学的問題は
これを他者と共有したり、結論を正しく他者に伝えることができるのか? http:// detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/ qa/question_detail/ q11144972701