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おかげさまで約2年間のロシア留学生活を無事に終え、これから日本に帰ります。長い間ブログにお付き合いいただき、どうもありがとうございました。家族に近況を知らせるのがめんどくさいという理由で始めたこのブログでしたが、思いがけず読んでいただく範囲が広がり、新しく知己が増えるきっかけともなりました。生活のテンションを保つにも、ちょこちょこ文章を書くというのはなかなかよかったようです。「ロシア生活」と題したブログはこれで終わりです。また何か、まとまって書くべきテーマができたらやってみるのもいいかもしれません。猫をもらってきて、「猫の飼育日記」とかね!でも私、長毛白猫じゃないと萌えないかも。ともあれ、どうもありがとうございました。ド・フストレーチ(また会う日まで)。-----------------------------------------技術的追記) ・更新は終了しましたが、ブログは閉鎖せず このまま浮かべておきます。 コメント、掲示板等書き込みは、 スパム防止のため 時期を見て停止する予定です。
2006/09/29
2年間のロシア留学生活で、何ができて何ができなかったでしょうか。研究に関しては…最後まで研究者との交流に苦しみました。数は少ないながら継続して会った人がいて、ほんとうの終わり際になって、ある程度まとまったコメントというか指導を受けられたので「終わりよければ…」と考えることもできますが、しかし外国語で自分の研究内容を表現するという点では大いに課題が残った感があります。また、史料はたくさん集めましたが、コピーしたばかりでなにしろ読んでいない。帰ってからが大変です。日本語、英語の研究書からもだいぶ遠ざかっているので帰国後の勉強は波乱含みです。しかしロシアで出歩いていろいろ見たおかげで、本を読むにあたっても少し楽になるんじゃないか、という気もします。一方、生活はとても楽しかったです。ハッピーに国際交流するにはやや斜に構えた人間なので、それほどロシア人と人付き合いすることがあろうとは思っていなかったのですが、ロシア人日本人とかいうことを抜きにしてこれぞ、と気の合う友人ができ、熱心に支えてくれる人たちがいたのはほんとうにありがたいことでした。彼らとのお付き合いの中でロシア語もうまく……はなってない気がするけど、勉強しないから…でもともかく、話したり聞いたりするのは慣れました。帰ってからひきつづき頑張ろう。雪の夜のマリインスキー劇場でバレエを観たこと、-25℃のネフスキー通りをとぼとぼ歩いたこと、ネヴァ河の氷がとけてきしむ音を聞いたこと、数々の宮殿めぐり、サルトゥイコフ・シチェドリン図書館、運河クルーズ、緑のパーヴロフスクやツァールスコエ・セロー、そして白猫…これから先きっと、夢の中にいたかのように思い出すことでしょう。感謝と、帰ってからもめげずにガンバルぞという気持ちと共に日本へ戻ろうと思います。(あれっ、モスクワでの思い出がないな…!)
2006/09/28

ついに3匹の白猫とのお別れの日がやってきてしまいました。ティモーシャさんはタイミングよく、二日間の遠征を終えて前日朝に帰宅していたところ。相当お疲れだったらしく、帰ってきてから丸一日眠りこけていたそうです。いやしかしでかくなりましたな。見てくださいこの手足の太さ。彼はここのところ、近くの工事現場のおじさんたちを気に入ってしまったそうで、その宿泊所に入り浸っていたらしい。どうもマッチョなものに惹かれるようです。ちなみに3ネコのお父さんはワーシャというやはり真っ白で大きなネコでしたが、ある日突然ふらりと現れて母猫プーシカと恋に落ち、また急にどこかへ出て行って姿を消してしまったというアウトドア派でありました。出歩き大好きティモーシャはその血をよく引いているのでしょう。ということはあちらこちらで子孫を繁栄させているのかもしれません。プーシカは小さくきれいな猫に成長しています。毛並みの手入れは最もよく行き届いていて、つやつやしています。猫の毛って本人の性格が現れるのね。お母さんにますます似てきたね。しかしこの日、私がお別れに猫じゃらしのおもちゃをプレゼントしたら彼女は大フィーバー。猫じゃらしの毛の部分をくわえこみ、ボーイズ2匹には決して触らせず、ふうふう唸りながら猫じゃらしを引きずって部屋中を駆け回りました。その激しさは「こんなプーシカ初めて見た」と先生が絶句するほど。後から知りましたけど、メス猫のほうがハンター気質が強いんですってね。そして愛すべきトロいディオゲン。なんとこの日は、私が彼のほうにかがみこんだら、自分から私に抱きついてきました…!!実は彼はこの日、ものもらいか何かになって目が痛くてしょげていたらしいのです。なんだか情けない…目の周りが茶色いのは薬をつけているせい。しかし普段、人とは一歩距離を置くタイプの彼が、自分からくっついてくるなんてひどく珍しく、先生はビックリ、私は感涙。あぁ日頃のえこひいきの成果がようやく出たというのにこれっきり、これっきりでお別れですか~(号泣)それにしても、外歩きしまくりのティモーシャではなく、なぜ超インドア派のディオゲンがものもらいになるのか…つくづくドジな奴よ、と眺めていたら、やっと猫じゃらしを離したプーシカがディオゲンに近づき、いたわるように目の周りをぺろぺろ。優しいね、プーシカ…(でも薬がとれちゃうんだよ…)うるわしききょうだい愛ですが、猫は同母きょうだいでも異性愛を育んでしまうそうなので、我々人間は家中に白子猫が溢れかえる事態に陥らないかとヒヤヒヤしております。そんなきょうだいを眺めるティモーシャ。「オレは知らん」…オマエは餅か!私の留学生活を、ほとんどストレスフリー状態にまで楽しくしてくれたのはきみたちです。ほんとにどうもありがとう。遠からず、どっかから研究費もらってぜったいにまたペテルブルクに来るよ。そのときは日本から、特大お徳用煮干パックを担いでくるからね…!!
2006/09/27
自分でも気づいていなかったんですが、9月23日でこのブログ、開設からちょうど2年だったようです。(楽天は、1周年のときはお知らせメールをくれたが 今回は何も音沙汰なしだった…)よく2年続いたなぁ。皆さま、読んでくださってどうもありがとう。
2006/09/23

近代ロシアを代表する画家にイリヤ・レーピンがいます。(詳しい履歴はこちら)「ボルガ川の船曳人夫たち」(部分) …他にも、「クルスク県の十字架行進」など、下層民を描くことで 社会矛盾をあらわにする作品が多い。彼が住んだ家が、ペテルブルクから北へ1時間ほどレーピノというところにあります。(この地名はレーピンの名前から取ったもの。)あたりは静かな真緑の森。そこにとんがり屋根の、茶色い一軒家がたたずんでいます。至るところにガラスの天井や採光窓が設けられて、屋内はロシアの建物にしては珍しいほど明るい。おそらく冬は相当寒かったと思いますが(暖房器具がいくつもあった)描くための心地よい環境を追求したようです。レーピンはある時期から手を傷め、パレットを持てない状況に陥ったそうですが、そのときには腰巻きパレットを考案して描き続けたとか。と、ここまでなら偉人レーピン像をイメージするだけで終わったのですが。この旧居には、それ以上に彼のキャラを物語るものがありました。毎週水曜がお客を呼ぶ日だったそうなのですが、使用人のいないこちらのお宅の原則はともかく「自分でやれ!」ということ。まず玄関を入ると手書きの看板と大きな銅鑼が。そこに書かれているのは、「自分でコートと帽子を脱ぎ、 自分でコート掛けに掛けたら、 銅鑼を高らかに楽しげに タンタンタンと鳴らして主人を呼ぶこと」食堂にあるのは巨大な丸テーブル。おそらく中華料理屋のを真似て作ったのでしょう、真ん中がくるりと回るようになっており、さらに各々のお腹に当たる部分に引き出しが作られています。なぜかといえば、ここでも「自分でやれ!」だから。お料理は自分で丸テーブルを回して取るべし!使い終わった食器はひとまず引き出しの中に片付けるべし!もしうっかり「塩とって」とでも言ってしまったら、罰ゲームが待っています。罰ゲーム、それは、暖炉の上に作られたお立ち台に立って、「なにかオモシロイ話をすること」主人のレーピン自身ひっかかったらしく、一生懸命演説している写真がありました。その下で座っている女性二人がぜぇんぜん聞いてない風なのがなかなか笑える構図で。二階では生前のレーピンが雪の中を散歩する映像も公開されていました。オモシロいことがあったら見逃さないぞ、とでも言いたげな、茶目っ気たっぷりの瞳でニコニコ歩いていました。これまでレーピンについては重い主題の絵を見るばかりで、「きっと気難しい、暗い人だったんだろう」と思っていましたが、どうしてどうして。つらいもの、歪んだものを見つめて描きながら、生活をユーモアにくるんで生きたその姿勢に、逆に、重いものを見たような気がした一日でした。
2006/09/20

撮りためたペテルブルクの風景写真を何枚か。ネフスキー通り、ドーム・ジンゲル 帝政期はジンガーミシン社のビルで、 ソ連期に入ってから最近まではドーム・クニーギという 大型書店が入っていました。 ここ数年はずっと修理中。 この街のアール・ヌーヴォー建築の代表です。フォンタンカ、アニーチコフ橋付近から夏の庭園方面を眺める ここの風景がペテルブルク中でいちばん好きです。 ちなみに白猫3匹はこの先の先生の家で生まれました。フォンタンカ沿い、夏の庭園手前の建物 彩りが可愛らしくて、 何度も写真を撮ってしまいました。 雪の中でも映えます。ルビンシテイン通り、劇場の建物 青空、緑の葉とよく合う色。いたるところ絵になるのがペテルブルクの素敵なところです。
2006/09/18

ロシアに高級チョコレートが登場しました。ソ連時代から数々の有名なチョコレートはあるものの、苦味なく砂糖の味が強い駄菓子のようなものだったこの国。(それはそれでおいしいんだけど。)バブリーな昨今の風潮に乗り、ついに輸出可能な高級品の生産に乗り出したらしいのです。ロシア国産高級チョコレート、その名はコミリフォ。従来、ロシアで「コミ」やら「コム」とつけば、「コミンテルン(共産主義インターナショナル)」とか「コミンフォルム(共産党情報局)」とか「コムソモール(共産青年同盟)」などなど、コミュニズム(共産主義)の略語でありました。てっきりこれもそんな略語、と思いつつ「コミーリフォください」とコミの後を伸ばして発音したら、「ああ、コミリフォーね」とお店のおばちゃんに笑われる始末。なんとこのチョコのコミ付の名前は共産主義ではなく、フランス語の"Comme il Faut"(きちんと、申し分なく、立派な)から来ているんですと!ではおフレンチの風を漂わせつつ立派なこのおチョコはどんなものかというと、やや秋めいたパッケージ。この女の人、ロシア人なのかなぁ、それともフランス人なのかなぁ。上蓋を開けると、さらに封をされた二つの箱が。ロシアのチョコレートには珍しい、いくぶん過剰な包装です。それぞれの箱にはチョコレートが4粒ずつ。一箱に4つ。計8個で660円。この少なさ、高さも今までなかったような。その8分の1の珠玉(かもしれない)のチョコレートはこちら。チョコレートでコーティングされた内側にもっと明るい色の柔らかいミルクチョコレートが入っていて、上に乗っているカシューナッツの硬い食感とあわせると、うむ、なかなか悪くありません。しかし、ベルギーの高級チョコレートなんかに比べるとそれほど味が凝っていないというか、パンチがないというか、やっぱりロシアは素朴だなぁというか。あと、お上品ぶるには、サイズが微妙に大きいような。来年のバレンタインシーズンには日本にも上陸するそうです。見かけたらどうぞ試してみてください、コミリフォー。
2006/09/16
うちの大家さんと話していると、よく「シカールヌィ」という単語が出てきます。曰く、「彼はそのときおみやげを持ってきてくれたんだけど、 それはシカールヌィな箱に入っていた」「彼女がカフェを借りて開いた誕生パーティーは とてもシカールヌィだった」「マリインスキー劇場に バランシンの『ジュエルス』を観に行ったら、 衣裳や舞台の飾りつけが それはそれはシカールヌィだった」(注*)といった具合。研究文献ではまずお目にかからない単語なのでおそらく口語的用法なのでありましょう。我々の言葉でそのココロを置き換えるならば、「リッチ」といったあたりがぴんと来るのではあるまいか。ところが後になって辞書を引いてみると「シカールヌィ=シックな、粋な」という意味だというのです。なるほどたしかに、本来はそういう語義なのでしょう。しかし、上の大家さん発言での口語的用法では、明らかにもっと意味が広がって、すごくよかったものを誉める言葉になっていると思います。おもしろいなと感じたのは、そういう誉め言葉が、「シック」という単語から発生していること。我々にとって、「シック」ってそんなに誉め言葉の横綱になるような形容詞じゃないのに、ロシア人からするとその語感が美的な価値基準の根っこと響きあうのでしょうか。ロシア人はオトナの落ち着いた美しさを尊ぶ、コンサバティヴな人種なのかもしれません。(注*)バランシンの『ジュエルス』は 「エメラルド」「ルビー」「ダイヤモンド」の3幕からなる 20世紀、ミッドセンチュリーのアメリカのバレエ作品。 各幕がそれぞれの宝石を思わせる、 華やかな衣裳と舞台装置に彩られる。 最近、パリ・オペラ座のDVD(海賊版)がモスクワ上陸。 留学終了間際に滑り込みで入手できたので嬉しいワタクシ。
2006/09/14
日本では親王ご誕生で沸いているようですが、こちらでも誕生の日、命名の日ともに全国ニュースで報じられました。日頃、外国の王族のニュースなどそれほどない気がしますので、意外な感じです。そういえば紀宮さまの婚約も全国ニュースになっていた記憶があります。どうもロシアでは、日本の天皇及び皇室というのは特別な感興を引き起こすもののようです。以前、プーチン大統領訪日中のニュースでは「明日、大統領は日本の神秘、日本の太陽である インペラートル(天皇)と会見する予定です」と特派員が目をらんらんとさせながら報じていました。(「太陽」と言われるのは、 おそらくソクーロフ監督の昭和天皇を主人公にした映画が 『太陽』というタイトルだったからだと思われる。 天照大神の子孫がどうのこうの、ということまで 知れ渡っているとは想像しがたい。)しかし生まれたときから、神秘のヴェールをかぶった国際ニュースにされちゃうのも大変なことですね。
2006/09/12
いつも行く図書館にも猫がいます。ロシア国立サルトゥイコフ・シチェドリン図書館にはビュッフェと食堂があるのですが、そのどちらかに大抵毎日いて、食事客にお肉をねだったり、椅子の上でくつろいだりしています。ちゃんと首輪をしているので、どうやら食堂のおばさんの飼い猫らしい。グレーの縞々(サビ猫っていうの?)の長毛で、モハモハのかなり大きい猫。この大きさからするとたぶんオス。目が「顔の半分」と言いたくなるくらい大きくて、しかも透明なガラス球のよう。ちょっと吊り上がり気味です。口はうっすら開き加減で、どことなく艶かしさもあります。おねだりやお昼寝のときに、しっぽの先だけぴこぴこ振っているのが可愛らしい。でもあまり遊んでくれません。せいぜい撫でさせてくれるばかり。素っ気ないのね。と思っていたら、先日ビュッフェに現れたロシア人のスレンダー美女が、「まぁ可愛いぼうやね。(てことはやっぱりオスなんだな。) いい子いい子。こっちいらっしゃい」と、とろけるような声で言ったら、さっさと彼女の膝に乗って彼女の食事中ずっとそこでゴロゴロしていました。口惜しい。しかも、彼女は連れの彼氏にデジカメを渡して「私とこの子を撮って!」とやっていましたが、なんでカメラ持ってるんだよ!(ロシアの図書館はデジカメ持込厳禁。)さて、昨日のこと、図書館で中二階の階段から下を見ると、廊下をグレーの猫が歩いているではありませんか。さてはビュッフェのあの猫が、食堂へ移動するところなのでしょう。降りていって構ってみる私。ところが彼は顔を背けてそそくさと行ってしまう。が、がーん。そこまで冷たくされるなんて…軽くショックを受けて彼の背を見送りながら、お茶でも飲もうとビュッフェに向かいます。ところがそこでは椅子の上で、モハモハのグレー猫が尻尾を振っているではありませんか!つまり今のは別の猫。もう一匹いたの!?慌てて廊下に戻る私(←暇である。)直線の廊下をのしのし歩く彼は、たしかにビュッフェのモハ猫より幾分大きく、まったく男性的で、目は黄色のまん丸です。しかし毛並みの色はそっくりで、同じ首輪をしているので飼い主が同じ、兄弟猫なのかもしれません。後ろをついて歩いていくと(←とことん暇。)案の定、そのまま彼は食堂へ。しかし食堂はもう営業時間が終わっており、木の扉が閉まっています。そこで初めて、私を振り返って、「にゃあ」…開けろと。キミは人を、使うときは使うんだね。仕方ないな、と開けてやる私。すると彼はするりと中に入り、床に寝そべってくつろぎ始めました。それにしてもロシア人は大らかです。彼が図書館の廊下を歩いているのを見ても、「あら、猫だわ」「猫だ」とニコニコするばかり。通りかかった司書さんも「あらあら、珍しい読者さんね。 社会経済書のコーナーに行くのかしら。」 と言うだけで。日本の図書館だったらこうはいきますまい。ロシア人の大らかさ、大雑把さがこの国にいろいろな問題を発生させているような気もするのですが、動物への大らかさは、なかなか好ましいところです。
2006/09/08
アクセス数が3万ヒットを達成しました。皆さま、読んでくださってどうもありがとうございます。もうすぐ留学もフィナーレですが、最後まで書き漏らさないように、というか、今までに書き漏らしまくったことを載せる機会を逸しないように、更新していきます…
2006/09/07

ペテルブルクの市街地はユネスコ世界遺産に登録されています。なぜかというと歴史的な街並みがきれいに残っているから。しかし一見すると古い建物ばかりの中にも、実は建造年代の差があります。1703年誕生のペテルブルクの建築史を大まかに言うと、バロック(18世紀前半)→ロココ(18世紀後半)→クラシック(19世紀前半)→折衷様式(19世紀後半)→アール・ヌーヴォー(20世紀初頭)となります。1917年の革命後の建物はごく限られているので、アール・ヌーヴォー建築がいちばん新しい、と言えます。つまりアール・ヌーヴォーの建物はロシア帝国末期の最先端だったわけで、当時のロシア人は、我々が有楽町の東京国際フォーラムや六本木ヒルズを見て「すごーい、あたらしー」と思うような感覚で、感心してたんじゃないかなぁ、と思います。(日本では今やもっと最先端なビルができているのでしょうが、 すいません、例を思いつきません、2年離れて浦島花子なもので。)実際、アール・ヌーヴォー建築はどれもかなり独創的で、見ていて楽しいものです。特に代表的なものはこちら。旧エリセーエフ商店のビルディング。ペテルブルクの銀座ネフスキー通りのど真ん中に、1902-1903年に建造されました。丸みを帯びたアーチ、ステンドグラスが特徴的です。個性的なのは外ばかりではありません。インテリアも、ゆるやかなカーブ、植物のモチーフなど大変やわらかく、優美な感じです。おそらく帝政期はかなりの高級店だったのだと思いますが、今は駄菓子みたいなチョコレートや、どこでも売っているような牛乳、卵、ソーセージなどをあんまりやる気のないおばちゃんたちが販売しているばかりで、その辺の食糧品店と大して変わりません。この入れ物でこの中味。なんだか不思議です。ソ連時代がもたらした平準化の名残なのでしょうか。
2006/09/06

今週も3ネコに会いにやってきました。ドアを開けると、入れ違いにティモーシャがお出かけになるところ。散歩は既に彼の日課です。およばれしてゴチソウになるご近所を見つけてあるそうで、そこの家のネコともお知り合いに。一匹だけ、むちゃむちゃ世界が広い猫であります。これに対してディオゲンは、決して外へ出ようとはしません。肉球しゃぶりを卒業した今はだいぶ凛々しくなって、窓辺で一人、アンニュイな目を外に向けて沈思黙考。さすが哲学者たる名前に負けません。夜も、眠りこけるきょうだいを尻目に必ず1時から1時間、窓辺に座ってじっと考え事をしているそうです…ふさふさのきれいな尻尾です。女の子プーシカは人間のトイレをマスターした模様。この頃彼女は眠ると、手で鼻を押しつぶすようにしてそれをぴちゃぴちゃなめるという不思議な癖を見せているようです。そうこうしているうちに、番長ティモーシャが帰ってきました。ドアを開けてやるとエサ皿に直行。そして噛む噛む噛む噛む。そのリズムは1秒間に3回のペース。私、こんなに早く食べるネコ初めて見たよ。「重っ!」あ、そう?お食事後は私の膝上へ。仰向けに引っくり返すと、ちょっと喜んで私の腕を軽くかぷかぷしてから、お腹を見せたままぽわーんとしています。続いてプーシカも膝の上へ。なんとなくレディか女教師のような雰囲気が漂っていて仰向け引っくり返しなんてしてはいけなそうだったのですが、誘惑に負けてやってみたら、がっちり足を踏ん張られ、「なんてことをなさるんです!?」という目で見られました…冗談はおよしになって!ところで先生は、毛によいと聞いて3ネコに生卵を溶いて与えたのだそうです。ぬるぬるする感触を嫌がってプーシカは逃走。ティモーシャはお構いなく顔をつっこむ。そしてディオゲンは、しばらくじっと考えてから、手ですくって食べ始めたというのです。なんとも3匹の三様ぶりを示すエピソードではありませんか。左からプーシカ、ディオゲン、ティモーシャ
2006/09/04
三匹の白ネコが生まれた先生の家、最近もう一匹増えました。年寄り茶トラの雄ネコで名前はクーザ。タシケントに住んでいたおじいさんが同居することになったので、一緒に飼い猫を連れてきたのでした。しかしこのネコ、タシケントからペテルブルクへの飛行機の移動によっぽどストレスを受けたらしいのです。事前に薬を飲ませようとしたけれども飲まず、クリアな頭でエンジン音のうるさい荷物庫にキャリーバッグごと入れられたのが、よっぽと怖かったのでしょう。入国審査のときはもうシャーシャー言って大荒れで、ロシアの検査官が怖ろしがってバッグの蓋を開けられなかったほど。家に着いてからは1ヶ月間、日中は二重窓の隙間から動かずに暮らし、夜、皆が寝静まった後で餌やトイレのために這い出してくるという有様。覗き込むと、野太い男声でふーっと唸り、目を開き牙をむき爪を出す。毛を逆立てたその巨体は、まさにトラ。ところが先日、先生の家に行ったらクーザの姿が見えません。娘さんの家に移したのか、しかしあそこには白ネコが3匹いるけど、同居できるのか?トラが若いの3匹を喰っちゃうか、ぴちぴち激太りのティモーシャが喧嘩を吹っかけるかで血を見るのではないか…?不思議に思って聞いてみると「いるわよ。そこに。」指差す向こうには、洋服ダンスがあるばかりです。タンスの下か裏に隠れているのでしょうか。覗き込んでみると、「違うわよ、そこよ。」その指はまた洋服ダンスを、しかも真ん中あたりを指しています。怪訝な顔をすると先生が、半開きになったタンスの扉を開け、「ここよ。」と指すのは上から3番目の引き出し。覗いてみると、真っ暗闇の中、えーっ、目が光ってるよー。なんとトラ猫クーザは、洋服ダンスの引き出しの中で暮らすことに決めたらしく、ある日自分でいそいそと入っていってしまったというのでした。それでもだいぶ落ち着いてきて、夜は出てきて人と眠ることもあるとか。しかしタシケントからの移送時にキャリーバッグ運搬を担当した先生の娘のことは鬼か悪魔だと思っているらしく、彼女を見ると未だに、トラのように吠えるのでありました。
2006/09/02
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