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私は、大学生時代に就職先に、アパレル業界は 全く考えていなかった。
将来、新聞記者になろうと思った。 だから、勤労奨学生として、新聞配達をした。
でも、新聞配達をして、
新聞業界の裏を知った。
丁度その時に、
読売巨人ジャイアンツ
江川選手の空白の一日事件があった。
各社
の新聞記事は、
江川選手を大げさに記事にした。
新聞も良く売れた。
ペンの怖さを学んだ。
母方のじぃさんからは
「新聞記者になったら、出入り禁止だ。」と脅された。
明治生まれのじぃさんには、
頭が上がらない。(父親が、ガンで亡くなった。経済的な応援が、少しは、あったからです。)
話しを戻します。
毎朝、 3
時半起床。
配達所から、大学まで、1時間15分。
30分早くおきなければ、ならいない。
夕刊も、集金も、新規拡張も行っていた。
昭和 53
年の 10
月末に ばぁちゃん(母親方)から、新聞配達先の寮に 夜 7
時ごろだったと記憶している。
「トシ君、あなたのお父さんは、ガンなのよ。末期のガン。
手術が成功しても、3年か生きられない。
あなたのお母さんには、胃潰瘍の手術だと言ってるが、もう手遅れのなのよ。」と言われた。 11
月頭に手術。 その日は、朝刊を配り終えて、休みをもらった。
新聞配達の所長に 嫌みを言われながらも、名古屋に帰省した。 そんな労働条件の当時でした。 「胃潰瘍位の手術で、名古屋に帰省を言うと 甘い。」と言われながらも、懇願しました。
次の日の 15
時ごろには、もう 配達所にいました。(川崎市多摩区 JR
稲田堤駅付近) そして、昭和 58
年からは、 東海大学の無返済奨学金(勤労奨学金)に合格しました。 3
年間、頂きました。 大学 3
年生の時です。 父親を昭和 55
年 10
月に亡くしました。
就職の件では、悩みました。 担当ゼミの先生にも、相談しました。 そして、 東海大学の就職課の長岡さんという職員さんにも、相談しました。
「トシ坊、アパレル業界に行けよ。オマエみたいな営業向きな男は、 アパレルメーカーの営業マンだ。 アパレルに興味が無い? そんなことは無い。
アパレルメーカーの営業マンは、今不足気味だ。 東京スタイルという東証一部上場会社に勤めて、 お母さん孝行をしろよ。」と言われましたが、
名古屋支店のある会社が、第一希望でした。
就職の件で、 名古屋に帰省しました。 長男である兄貴に、 「トシ坊、名古屋に帰って来い。 兄弟 3
人で、お母さんを助けよう~」と言われました。
次男である私も、それが良いかと思って、名古屋支店がある会社を選ぼうとしました。そして、戻って 就職課に出向きました。
「長岡さん、私は、父親を大学 3
年生で亡くしています。名古屋支店のある会社 三陽商会が第一希望です。」と伝えました。
昭和 56
年 8
月に、三陽商会名古屋支店の支店長の面談を受けました。
「良い感触を得た」と思い、内々定の返事を頂きました。
本面接の為に、就職解禁日の 10
月 1
日を迎えることになりました。
晴天でした。朝 5
時に起床。小田急電車に乗って三陽商会の本社に向かいました。 日経新聞をもって、並びました。そして、昭和 56
年 10
月 1
日の朝7時に、到着。東証一部上場の「三陽商会の東京本社(信濃町))に、スーツを着て並びました。
もちろん、東京スタイル(東京・四谷)にも、 8
月末には、会社訪問をしていました。結果は、三陽商会第一次面接合格。でも、携帯電話の無い時代です。
電報が、届かなかったのです。( 当時の電電公社の配達人さんは、アパートが判らず、配達しなかったのです。)あとから、判明しました。(もう、頭にきました。)合格の自信はあった。 なぜなら、三陽商会の名古屋支店長から「内々定」の返事が、あったから。
就職課の長岡さんが、三陽商会人事部に電話すると 「おたくの大学の学生さん、合格でしたが、今日、第二次面接に来ませんでしたので、不合格にしました。
営業マン希望 300
人から、 100
人に絞り込みました。残念ですが、諦めてください。 電報が、届かない。そんなことは、わが社には、関係の無いこと。
電電公社に言ってください。」と。涙を流しました。
薄電球のアパートに帰りました。泣き崩れました。亡き父親の遺影を観ると「笑っている父親になっていたのです。」そう見えたのです。(後からきづきました。東京スタイルに入社して、ロコレディに入社する運命だったのです。)頭にきて、父親の遺影を投げ捨てました。 「おれは、三陽商会名古屋支店に行くんだ。母親を助けるんだ。」とその写真に向かって言いました。
その後、形だけの第二次面接を三陽商会本社で、人事部役職無い人が、小さな部屋で、 1
人だけで、受けました。気持ちの無い第二次面接でした。
「もう、形だけの面接ということを悟りました。もちろん、不合格でした。」 ライバルは、三陽商会だ。 今に、見ていろ~。・・・と心の中で、誓いました。
東京スタイルに絶対受かってみせる。
三陽商会の第 2
次面接(電報で、指定されていた 10
月 5
日)の日程では、東京スタイルの第 2
次面接を受けていました。
会社説明会は、約 1,500
人(営業・デザイナー、生産部門などの全ての希望者)第 2
次面接を終えて、第 3
次面接では 営業部門だけで、 350
人でした。役員面接でした。 高野社長から、質問をうけました。 「どうして、東京スタイルという会社を希望したか?」 「大学生時代で、嬉しかったことは? 悲しかったことは?」この 3
つを聞かれました。
「私は、営業マンになりたいのです。アパレルのことは、全くわかりません。 入社して、アパレルのことを学びます。営業マンになりたいのです。 嬉しかったことは全国の友人を持てたことです。悲しいことは、大学三年生時に、 父親をガンで、亡くしたことです。父親は、剣道家でしたので、私の心の中では、父親は、生きています。
勤労奨学生として、新聞配達をして、新聞拡張学生チャンピオンなったことが、嬉しかったです。だから、営業マンになりたいのです。」と答えました。
ファッションについては、一切言いませんでした。 わかるはずは無い。興味が無いアパレル業界ですからね~(苦笑い)ファッションを語った学生(青山学院、慶応大学、早稲田大学)は、ほとんどの学生は、不合格でした。見事に、私は採用が決まりました。(営業マン 71
人の採用です。)昭和 56
年年末に 名古屋に帰省すると長男である兄貴に「トシ坊、おまえは、わざと三陽商会の面接落ちたな?????」といきなり、 殴りかかってきました。
「兄貴、信用してくれ。おれは、三陽商会名古屋支店の支店長からは、内々定を。そして 第一次面接合格していたんだよ。合格の電報が配達されなかっただけだよ。信じてくれ。」と答えました。母親は、「としあき、お前は、東京へ行け。 亡くなったお父さんは、としあきには、好きな道を行かせろ・」と言っていたよ。そして、昭和 57
年 4
月 1
日に東京スタイル本社勤務になりました。 寮は、東京杉並区高円寺北に遭った東京スタイル高円寺寮に入寮して、 軍隊のような営業マン活動がはじまったのです。月末の 2
日間は、会社で、寝泊りが当たり前。 売上目標がいかないと、罵声を浴びさせられる。
月末の棚卸しは、フロアーにゴミ一つ落ちていない状態で。「高野社長、巡回」という言葉から、在庫のチェックが始まります。「ご苦労様です。」・・・この言葉は、先輩であっても 「ご苦労様」という言葉で、統一されていました。ラルフローレン事件は、3階に集合でした。(私が所属する百貨店3部は、4階でした。5階は、量販店グループ) 3
階は、百貨店第 2
部のフロアーでした。 「ラルフローレン ブランドが、オンワードグループにとられた。」 と高野社長から発言がありました。
昭和 60
年の 3
月から、小売業の転職を考えていました。 「おれは、小売店向きだ。名古屋に帰るぞ。」と。 すると、 セゾングループのバイヤーさんから 「茨城県のロコレディという会社が、トシ坊に会いたがっている。」と 言われました。
「羽富 正三という社長さまが、オマエに会いたがっている。」と言われました。 つくば万博の時です。 約 20
回の面接・面談を繰り返しました。 昭和 62
年 10
月に入社しました。 そして、平成元年 5
月に 結婚しました。 養子縁組です。 人生は、塞翁が馬ですね。