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こんにち大変な大震災を体験している日本の人々とともに、昭和、平成と世は移り変わっても、人々の思いは真実を見つめて生きる「日本の心」は幕末の志士の思いと相通じるものが有ることを実感する。
世界の人々とともにこの災害を受け止める心は素晴らしい・・・人々は艱難辛苦を体験した時にその真実がみのる。
戦後、大混乱の中で、廃墟と化した街々に復興の息吹は蘇った。
ゼロからの再出発だった。特攻機に乗った若き勇士もその命を愚連隊のリーターとして、はたまたうら若き女子も、赤線、青線の花としてその身をささげた・・・こんな女に誰がした
歌の流れる中で・・・
ともあれ、人は、それぞれの思いの中で生涯をみいだすものです。
こんな中、戦後を支えた三人の男たちの姿をご紹介します。
大災害を体験された方々本当にその思いつらさは計りしれませんが、必ずあなた方の真実は次世代に生かされてゆくことを信じます。生きて、生き抜いてください。子孫の為に。
「江尻・まちの駅」このサイトが目指すものは「真実」です・・・ [全348件]2011.04.03
創業者シリーズ(1)三洋電機 井植歳男社長と義兄松下幸之助氏 そして三信電気 松永栄一氏
私は昭和24年9月戦後2年ほど勤めた静岡市の松栄産業を退職し、その年に独立自営を決意し家電品の修理業を始めた。18歳の秋でした・・・
家電店といっても洗濯機も冷蔵庫も無く、ラジオと言えば真空管の時代でした。従ってこれらの修理といっても大抵は電灯関係のソケット、電球、ラジオの故障などで生活が出来るような仕事ではなかった。勤めの時には学校放送の全校式アンプの製作、修理などの技術員として、1号機は長田西小に納品したのを懐かしく思い出す。シャーシーからの制作は1台に10日程掛けて作り納品した。
そんな時代には今のようなメーカーは松下、東芝、シャープ、ゼネラル、日立などと目立つ存在は無かった。漸く松下電器のナショナルが販売店組織を作り出していた。ナショナルSOPEのチェン月刊誌などもこのころのもので当時既にPHP機関誌等も出ていた。最近話題の「松下政経塾」はそうした時を経て昭和57年頃に誕生している。近年は政治家の中にも修了者が多くいると聞いてる。
今日の表題は家電のトップメーカーの松下と三洋に付いて考えています。この頃から漸く系列店のメーカー競争に力が入りました。小生も初めは松下からチエーンに入り、気がついたときは三洋電機のウエイトが可なり多くなっていました。
「経営の神様」と業界で言われていた松下幸之助翁は1894年より1989年の間業界のリーダー的存在を果たされ95歳で天寿を全うされました。印象に残る名言は「40歳の顔には責任をとれ」と申されていました、親からもらった顔ではなく自身の作りだした顔だから。
冒頭に書いた経歴の中の松栄産業は間もなく東京に再起を賭けて進出した。三信電気そのもので社長は松永栄一翁です。丁度、井川ダム建設の頃で大赤字を抱えていましたが、元々はNEC勤務の長かった松永社長は元の原点からの再スタートとなったようです。当時は、人生50年時代、停年も45歳でした。戦後の混乱期に50歳で起業を果たし社名も「三信電気」と改名、戦後復興の波に乗り東京田町の駅前に三信ビルを建設、其の瀟洒な高層ビルは、銀座の三愛ビルか三信ビルかと可なり目立った建物のようでした。間もなく会社は順風万帆3.000億円企業を成し遂げられました。社会貢献も多く、3億円の基金をもって学資基金とされたこともありました。80歳代はゴルフを・・・103歳の天寿を全うされた松永社長の姿をみて、「50歳は人生のスタートだと・・・18歳で独立しました。」
さて、少し横道に成りましたが「井植歳男翁」の事は余りご存じないかと思いますが、小生の仕事の中では三洋電機との関わり合いが丁度30年は有りました。当時、世間では三洋と松下というよりもナショナルとの比較が言われていました。どちらが良いと簡単には言えませんでしたが、たとえ品質は良くても世間さまはその通りに成りません。それだけ人々の思い込みは簡単に消えないものだからです。一例を挙げたらモーターは日立、テレコはソニー、サンヨーよりもナショナルといったように・・・
井植歳男氏は明治35年12月28日淡路島の浦村に生まれた。父、清太郎、母はこまつ、歳男は三男五女の5人目。自作農でしたが、松下幸之助氏とは類縁の関係にあたる。13才で父親を亡くし、叔父の船の見習い船員として働き始める「板子一枚底地獄」と言われた生活で、強靭な忍耐力と頑健な意志力を育んだ。しかし命を危ぶむような危機に瀕することもあり、母が心労をみせることもあり、母のことを心配し船員の道を断念する。
歳男は幸之助氏の始めた松下電器製作所を手伝い、当時の製品は電灯のソケットを型にはめて作る仕事でその材料の仕込みをしていた、製作所も徐々に軌道に乗る。歳男は義兄の幸之助氏に東京進出を提言し同意を得て、東京での仕事も順調に進みその営業力は抜群で何時しか幸之助につぐNO2の立場に成っていった。
戦時下の松下電器は日本を背負う重要産業えと発展し、斯うした時の軍需産業として、病弱であった幸之助氏を助け、松下造船、松下航空機などの重要ポストはその社長として歳男がになったことは極めて当然かと思う、言葉を換えれば松下電器は、井植の献身的努力のたまものと考えるモノです。
然し、敗戦という現実の中ではこの成果も実らなかった。日本も軍国主義の世界から、民主主義の国に生まれ変わった。当時の戦後処理は敗者の悲しさで米国をはじめ連合国による新たな道を歩み始めた・・・GHQマッカーサー司令官の元、日本の財閥は解体されることとなり松下電器も井植の残る余地は無かった、かつての経営者は一人を残し公職追放と成り井植の路は閉ざされたのです。退社して独立企業を決意したのは当然です。
幸之助氏からのプレゼントは工場と自転車の発電ランプ の製造権「サンヨー」を誕生させたのです。30年余の松下を牽引した功績は何物にも代えがたいが、時流には勝てなかった。このお二人の協業は素晴らしかった・・・そこに幸之助の心と歳男の再起えの情熱のささえが三洋電機を生みだしたことを考えると胸が熱くなる思いです。設立は、1947年昭和22年のことでした。社名は世界の三洋として羽ばたくことをイメージして命名され、その通りの会社に発展してまいりました。今、再び松下の傘下となり、時代、世代は変わっても両社の根底にある創業者の思いは必ず次世代に引き継がれていくことを念願するものです。1968年1月弟に社長の座を譲り会長となる。翌年7月に67歳の天寿を全うされました。ご冥福を心からお祈り申し上げます。
予断では有りますが、三洋とともに生きてきた小生は、2年遅れの24年独立、現役62年の仕事人として生きてゆきます。更に小生は35歳から三洋バラチェンの静岡中部地区会長として15年間支えてきた誇りは持ち続けて行くつもりです。 最後まで有難うございます。
江尻のまっこちゃん 創業者の心を大切に頑張る男 80歳
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