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私
:この 4番目の論稿
は、一言でいうと、戦争中の日本国民は「 一億一心
」ではなかったという事実だね。
戦争中に 戦争反対の意思表示
をすれば、 特高警察
が尋問する
。
ときには 刑務所
に入れられることになりかねない。
したがって、 匿名の落書や投書
などが使われる。
これらを 特高警察
や、 憲兵
などがまめに追いかける。
一億一心
でないことは、戦争中、小学生だった俺でも経験しているね。
A氏
:オヤジは、商売をしていたが、40歳をすぎたオヤジは、戦争末期には商売をやめて、 進んで軍需工場勤めに転職
した.
だんだん、徴兵の年齢が上がってきたんで徴兵を嫌ったんだね。
私
: 戦争後半
になって、 小学生だった俺の担任教師
は太平洋の地図を示して「 アメリカ軍の攻め方は実にうまい
」と言っていたね。
そして、すぐに、「 これは他の教室には言ってはならないぞ
」と口止めしていたね。
終戦の1週間くらい前
に俺の両親が住んでいた 地方都市
も 艦載機の攻撃
を受け、母が俺の疎開先である実家に逃げてきた。
そして、ポツリと「 もう日本は負けだね
」と言った。
軍国少年
だった俺は「 今に神風が吹く
」と言って反論したがね。
A氏 :当時は 治安維持法 があったね。
私
: 検挙人数
は 1930年代前半が1万人
を超えているが、それから激減している。
しかし、 戦争末期でも千人前後の検挙者
がいたのは驚きだね。
戦争拡大による貧困は 小作農
にしわ寄せされる。
小作争議
も 1930年代に増加
して、 1935年には、約7千件の小作争議
があった。
それから減ってはいるが、 戦争末期にも2千件程度
あった。
工場の方の労働争議
も同じ傾向を示しており、 1930年代に年2千件前後に増加
。
戦争末期にも300件前後
あったね。
驚いたのは、 欠勤率
だね。
1943年頃は、20パーセント
だが、 1945年には、34パーセント
。
東京の空襲被害がない工場
でも 40パーセント
だったという。
食い物をかき集めるためには仕事は犠牲にしなくてはならなかったんだね。
A氏 :工場は分業だから欠勤が多いと仕事にならないね。
私
:こういう情勢だから、 反政府的な流言
も流れる。
太平洋戦争中に憲兵の検査を受けた流言
は、 1944年では大体、毎月数百件
で横ばっているね。
A氏 :天皇に対する 不敬罪 もあったね。
私
:毎年、 50件前後
が受理されているが、 1942年には91件とピーク
になる。
敗戦が濃厚になると戦死者も増加するから、それに応じて増えているのかね。
これらは 民衆の姿
だが、官僚などにも 厭戦気分
と、これらの民衆の不満から、 日本の共産化を恐れる傾向
があった。
1943年12月20日、 細川護貞
は次のような歌を男が 電車の中
で、大声で歌っているのに遭遇して、日記に記している。
負けるに決まっている戦争を、
勝つ勝つ言いやがって、
大馬鹿野郎だ。
見てろ、キット負けるぞ。
負けりゃ欧州赤化だ。
アジアの赤化なんか朝飯前だ。
そんな時、俺が出るんだ
。
細川はこの短い歌を 上層部の仲間 たちに聞かせようと記録し、日記に書いた。 彼にとっては、 衝撃的で予言めいて感じられたからだ という。
A氏 :そういう 厭戦気分 が敗戦間際にあったんで、負けて アメリカ軍が進駐 して来ても、 開放感から歓迎する日本人 が多かったんだね。
私 :明日は、 占領下の日本 に移ろう。