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私 : 日本 における YMCAの活動 とはまず、 1917(大正6)年 、日本で始めての 体育館及び水泳プール が東京YMCAにできて解放されたことだ。
YMCA は都 市に働く勤労青少年を対象 にして、 商店・工場、百貨店、遊園地、キャンプ場に出向いてのレクレーション・プログラムを実施した 。
これによって、「 レクリエーション 」の重要性と「 レクリエーション 」における スポーツ の関係の深さが広がる。
一時、下火になるが、 1920年頃 から「 新聞社主催 」で バレーボール競技大会 が開かれてから盛んになる。
1924年
、 内務省主催
で 明治神宮競技大会
が開催される。
今の 国体
みたいなものだね。
A氏 :多くの青少年を戦争へと駆り出す 一大国家装置 だという見方もあるね。
私 :しかし、 繊維業界 では 女子バレー は 保健、衛生的見地からの励行 であり競技でなく「 レクリエーション的普及策 」であった。
ところで、 20世紀初め に オリンピック大会 が個人、団体参加から、 国の代表参加 となり ナショナリズム化 してくる。
一方、 1925年頃 から、 アメリカの全米レクレーション協会 を中心に誰もが参加できる「 レクレーション」の祭典 を オリンピックと同時 に開くべきだという運動が起きる。
こうして、 1932年 の ロスアンゼルス・オリンピック大会 と 同時期 に、約 40カ国参加 の 第1回世界レクレーション会議 が開催された。
1936年
に 第2回会議
が ドイツのハンブルグ
で開かれ、 大観衆を集め成功する
。
2年後の1938年
の 第3会議
は ローマ
で開かれた。
ベルリン・オリンピック大会
に際して行われた IOC総会
で 1940年の東京オリンピック
が決定され、同時に 第4回世界レクリエーション会議
も 東京で同時開催
が決まった。
これにより 日本厚生協会
ができる。
A氏 :「 厚生 」は 「レクリエーション 」の訳だね。
私
:当時、 東京の財政
が厳しいので、 オリンピック大会は東京
。
レクリエーション会議は大阪
となった。
A氏
:しかし、 日中戦争の長期化
などの理由から 1938年
に 日本はオリンピック大会とレクリエーション会議開催を辞退
するね、
戦争中は 戦局が悪化
すれば「 レクリエーション」運動
は衰退だね。
私 :しかし、 戦後 は GHQのCIE ( 民間情報教育局 )が 武道を禁止 する代わりに「 レクリエーション」運動やスポーツを積極的に推奨 する。
1947(昭和22)年 、 日本厚生協会 は「 財団法人日本レクリエーション協会 」として再出発した。
戦後のバレーボールの普及 は特に 女子実業団 において盛んとなる。
それは会社が「 社を明朗化しよう、変な思想にかぶれないように 」というように、バレーボールを積極的に 余暇の善用 に役立てるという意図があった。
特に 女子工員
が多くを占める 繊維会社
ではバレーボールが非常に盛んだった。
鐘紡
では 女子従業員の約2割
がバレーボールをやっていたという。
寮、事業所、工場、部署などの単位
で チームが存在
していた。
そして、チームで争うようになる。
A氏 :単なる娯楽である」「 レクリエーション」のバレーボール から「 競技スポーツ 」への変化だね。
私
: 1950年代
だね。
当時、 近畿大会の女子バレーボールの決勝
に 日紡の女子
が 某高女
と対決する。
日紡チーム
が、よく食い下がってリードしていたら「 女工に負けたら恥じよ
」という声援が 女学校側
からかかったという。
それを聞いた 日紡チームの
選手たちが今まで調子良かったのが、 シドロモドロになって負け
、 試合後皆、泣く
。
悔しさで、猛練習して 、翌年同じ大会で優勝する。
試合後、 日紡チームの主将
が相手の負けて泣いている 女学校側
に行き「 女工に負けて口惜しいか
」と言ったという。
A氏 :まさにバレーボールが「 レクリエーション」活動 から 競技スポーツ となったね。
私 :この シーン が、 この本の書評 を書いた 水野和夫 氏が 女工の悔しさ に「 涙で本書の途中でページをめくることができなくなった 」というところだね。
明日は、 工場から企業のバレーボールへいく過程 にうつろう。