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A 氏 :この君のブログでは、この 昭和天皇の講和介入 については、 2007.04.27 の 「 軍隊なき占領・戦後日本を操った男 」、 2011.08.02 の「 昭和天皇とワシントンを結んだ男・『パケナム日記』が語る日本占領 」、「 2008.10.30 の「 昭和天皇・マッカーサー会見 」などですでにとりあげられているね。
私 :「 実録 」には「 昭和天皇とワシントンを結んだ男 」が資料としてあげられているが、「 この男 」とは、 米ニューズウィーク誌東京支局長パケナム 氏だね。
「 実録 」には、 サンフランシスコ講和条約 が調印される前年の 1950 (昭和 25 )年 6 月 22 日 に、天皇の側近・ 松平康昌式部官長 が パケナム邸 で来日中の ダレス と会い、 朝鮮戦争 勃発 翌 26 日 にも 松平 が再び パケナム を訪問したという記述があり、「 後日ダレスは、パケナムから天皇の伝言を託されたとの記述を含む訪日の報告書を米国国務長官に提出する 」とあるという。
A 氏 :その 伝言 が文書化され ダレス に送られたんだね。 そこで 昭和天皇 が強調したのは「 日本側からの基地の自発的な提供 」だったというね。
私 : 昭和天皇 は 国際共産主義 による 天皇制打倒 を何よりも恐れていて、 講和条約で独立した後 、 非武装の憲法9条 ではなく 米軍による日本防衛 を望んだが、最初、 マッカーサー は「 日本は東洋のスイスたれ 」だし、 吉田首相 は 安全保障に関してあいまいな態度 を取り、 ダレスを激怒 させていたので、 パケナム を通じて、 マッカーサーと吉田首相 とは別の「 昭和天皇とダレス・ワシントン 」の「 二重外交 」となったんだね。
A 氏 : 天皇 が、 政治的行為が許されない新憲法 の下で、 講和 という国家の針路を左右する重要課題に 自ら介入していたこと を「 実録 」は物語るというわけか。
私 :「 実録 」にはないけれど、 吉田首相 は不愉快だったせいか、 サンフランシスコ講和条約 に出席することを、最後の最後まで執拗に固辞 。ついに ダレスが吉田以外の代表では「不十分」だと督促し出す。 ダレスの督促 が来た 3 日後 に、 吉田首相は 昭和天 皇の「 拝謁 」に行き、この後に 吉田首相 は態度をガラリと百八十度変える。
講和条約
そのものは、吉 田首相
は高く評価していたが、 問題は 同時締結予定
の「 安保条約
」で、
これは 彼の「 自尊心
」を傷つけた「 不平等条約
」。
安保条約の署名
は 吉田首相
一人で行い、随伴の 池田勇人
は将来があるので 副署
をやめさせたという。