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私 :われわれが知っている 「天草四郎」 とは、 1620年代に生まれ で、 父親は肥後の戦国武将・小西行長 の家臣だった益田甚兵衛。
やがて 37(寛永14)年10月下旬、キリシタンへの弾圧や圧政・重税などに憤った農民たちが天草・島原周辺で一揆 を起こす際、 益田甚兵衛は、その指導者に推戴 された。
これが、 3万7千人が蜂起した日本最大の農民一揆「島原・天草の乱」 となる。
A 氏 : 通説 では、 11月、天草で唐津藩の軍勢などを破り、富岡城を包囲したものの攻略できずに撤退。
12月 、 島原の原城 に入り、 翌年1月 、幕府軍の上使・松平信綱と籠城の理由を書いた矢文を交わすなどしたが、 2月に原城が落城 し、 一揆勢は皆殺しにされ、四郎も捕らえられて首をとられた。
私 :これらの 通説 は 再検討すべきだと考える専門家 もいる。
熊本大学名誉教授の吉村豊雄氏(日本近世史)もその一人 。
今月発売の教授の「百姓たちの戦争」 で、 「天草四郎」 らしき人物の存在を 最初に伝える史料 は、 熊本藩細川家の家臣が37年10月に送った報告 だと指摘。
記録 は、 「天草四郎」と名乗る人物は、実際はほとんど表に姿を現すことがなかったらしい。
にもかかわらず、 「天草四郎」のものとされる首は複数存在 し、落城後、幕府軍の大名は皆「 一番乗り」を主張 し、 証拠として上使・松平信綱のもとに討ち取った「天草四郎」の首を差し出し、その数、十数に及んだ といわれる。
結果的に熊本藩細川家の首が「天草四郎」のものとみなされる が、 「『天草四郎』の周囲には、同じようないでたちをした16~17歳の若衆が複数いたこと が記録に残っている。提出された首の多くは彼らのものだったのでは」と 吉村教授 はいう。
A 氏 : 「島原・天草の乱」が純粋な農民一揆だったかどうかについても異論がある 。
吉村教授 によると、 一揆の中核を担ったのは、1633年と36年に、島原藩松倉家と天草を治める唐津藩寺沢家から集団で退去した数十人の家臣 で、 藩内でのキリシタン迫害に不満を抱いていたと推測される という。
原城の陥落後に助命された一揆勢の幹部は、天草に潜んだ浪人が、33年ごろからキリシタン復活のための活動を始めていたと証言 。
私 : 信仰の復活には、「柱」が必要 で、 信者を統合し、象徴となる人物が、「天草四郎殿」 で、そのため、 普通の少年が「天草四郎」という存在に仕立てあげられた という。
「天草四郎」の周辺にいた少年は松倉家や寺沢家の旧家臣とみられ、彼らは「天草四郎」に仕えつつ、時に分身となり 、 村々を巡って一揆の組織化を図った 。
要は 少年宣教オルグ集団 で、 彼らは村を越えて活動し、原城に籠もった後は、同じいでたちで本丸に詰めた 。
いわば、 彼らのすべてが「天草四郎」だったと言っていい という。
A 氏 : 記録 によると、 籠城中の原城で「天草四郎」を実際に見た人間はほとんどいない。
それだけ存在が秘匿され、同時に尊敬を集めており、「天草四郎」が「城中の神」のごとき存在となることで、結束はより強まったとみられる という。
私 : 当初 、 一揆勢 が キリシタン復活の象徴として担ぎ出した「天草四郎」は、落城後は細川家が手柄を誇るための材料とされた ようだという。
吉村教授 は、 「細川家は首の提出後、当時の状況や『天草四郎』の生涯について、幕府や原城攻略に関わった各大名家に説明を行っているが、 その過程で四郎に関する情報が集められ、当初あいまいだった存在が補強されていき、それらしい人物はいたかもしれないが、限りなく創作に近い人物と考えられる」という。
「天草四郎」の「幻」 により 信者は統一 され、かつ、 細川家は、一揆を鎮圧した手柄を誇張したかった のか。