りゅうちゃんミストラル

りゅうちゃんミストラル

2005.01.09
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「殺人の賛美」はどうして必要なのだろうか?

「殺人の賛美」についてはここを読んでください。

暴言の一例。

>自分の誇りを守るために戦ったことには、ある種の美学を感じました。
>他人の尊厳や誇りを理解できない人間が殺されるのはいたしかた無いと思います。


こんな暴言もあった。

>人を殺すのは、人として死なせるのだから、相手の尊厳と名誉を守ることになる。
>人の精神を殺すのは、人を人ではないものにするのだから、殺人よりも罪が思い。(本文ママ)
>こういう考え方も、あるのです。 
>相手を弑するほどに憎んだその精神は、命あっての物種といったせこい損得勘定を越えて純粋です。


この発言については出典を求めたが、ついに示されることはなかった。
根拠がない以上、「自分勝手な意見」としか解釈できない。
「こういう考え方も、あるのです」というのは、どこで誰が考えているのだろう?
私にはまったく予想ができない。

「表現の自由」があるとしても長崎の小学生による同級生殺人事件で家族を失った人のことを考えれば、
「殺人が美」などとは言えまい。

この発言者は「殺人が美」であると言えば、同じような凄惨な事件がなくなるとでも思っているのだろうか?

私にはそうは思えない。
なぜなら「殺人が美」と言っている人は、「どうすれば事件を防げるか?」ということを語っていないからだ。
少なくとも私はそんな文章を読んだことがない。

だとすれば「殺人が美」だということを誰にでも読める場所に書く理由は一つしかない。

「殺人が美」という言葉に酔いたいだけ。
被害者家族のことなどまるで考えていない。
「殺人は美」という暴言に意味はない。


表現の自由は自己陶酔したい人のためにあるわけではない。
暴言を保護するためにあるのではない。

長崎の事件では、多くの人が驚いた。
社会不安は確実に増した。

私も含めて、ネットで悪口を書かれたことが原因で同級生を殺すとは思えなかった。
しかもその場所が小学校ということにも驚いた。

「殺人が美」という人は、その言葉が社会不安を増すだけであるということを知らないのだろう。

こうした暴言が楽天でなくならないのは前にも言った通り、
暴言を注意する人があまりに少ないからだ。


事件も驚きだが、暴言を放置するのもまた驚きだ。
私ができることは少ない。
そのひとつが「殺人は悪だ!」と訴えることだ。
社会が「殺人は悪」という認識を持てば、犯罪は減る。
私はそう信じている。


追記

「どんな反社会的なことでも思うことは自由だし、問題はない」という人がいる。
ところが、ネットは「誰にでも読める場所」だ。
もちろん犯罪被害者も例外ではない。
「誰にでも読める場所に書く」ということは「思う」こととは別だ。

どうもこの二つのことを間違って解釈している人が楽天にも多いようだ。

「どうして殺人の賛美が必要か?」ということを、
説明できた者は今のところいない。
そんな説明などできるわけがないと私は考える。



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最終更新日  2005.01.10 11:21:06
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