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この店がいいという噂を初めて聞いたのは1982年のこと。この店の近くにあった別の靴屋でアルバイトをしていた友人が「あの店はすごい」と言っていた。そのころは靴に興味がなかったので、何がそんなにすごいのかと思ってそれきり忘れていた。わたしはスキーでケガをしたため、左足が弱い。旅行に行くと、いつも左足だけ靴擦れを起こす。つるのもいつも左足だ。靴底の減り方も左右均等ではなく、左足が減る。だから安物の靴だとすぐにダメになる。それでもスポーツショップでそこそこの靴を見つけてしのいでいたが、一日20キロのウォーキングを始めたとたん、すべての靴が欠陥品になった。特に困ったのが冬用のウォーキングシューズである。スーツにも合わせることができ、しかも酷使に耐える靴。そんな靴を見つけるのは絶望的に思えた。絶望的に感じたのは、商品知識のある店員がいなかったからだ。素材がどうだとか、スペックを語る店員はいた。しかし自分で使ってみたこともなければ、利用者をモニターするようなこともしていない。靴全般に関する経験値が圧倒的に不足していると感じた。あえて言えば、靴を愛していない店員ばかりなのだ。靴屋はなぜか若い店員しかいない。こういう店員は、最後には決まって「売れている」というフレーズを口にする。日本人は他人が買っている商品なら安心と考える傾向があるようで、こういえば買う決心をする客が多いのだろう。だから、最後の決めセリフに言うのだ。しかし、わたしはたくさんの人が買っているなら、まずそれはダメなものだろうと思うことにしている。どんなものでも、いいものがわかるのは「選ばれた」少数に決まっているからだ。絶望し困り果てたとき、ふとこの店のことを思い出した。ダメ元で行ってみることにした。たくさんある靴を見ても、どれがいいかなど靴の素人である自分にはわかるわけがない。わかるわけがないから、近くにいた店主とおぼしき老人に「カクカクしかじか、これこれ」と話してみた。そうするとその老人は数秒考え、店の奥の方、たぶん倉庫に入っていき、数分後、一足の靴を持ってきた。足の形というか、サイズが少し合わないが、「あなたの用途にはこの靴がいちばんいい」と言う。こういうケースでは、何種類か用意して客に選ばせるというようなことをするものだが、そういうことをしない。まあ、注文靴でもない限り、足の形が合わないのはしかたがない。これが限界なのだろう。厚い靴下をはくとか、インソールを重ねるとか工夫をすることにして、だまされたと思って買ってみた。驚いた。それまでの靴とは、値段はさほど変わらない、むしろ安いくらいなのにまるで別物だった。履くほど、使うほどに足になじみ、厳冬期でもあまり滑らない。この靴にしてから冬に転倒する回数は激減したが、単位歩行距離あたりに換算すると百分の一くらいに減少した感じがする。名取川靴店おそるべし。というより、この「クツリエ」「シューリエ」とでも呼ぶべき老店主おそるべしと思った。それ以来、わたしはこの人をひそかに「マエストロ」と呼ぶことにした。この記事のために潜入取材を試みた。70代後半とおぼしきマエストロは健在だった。店がヒマな時間帯に行ったが、立ったまま新聞を読んでいた。この数年で少し背中が丸まった感じがするが、顔色はよく、健康そうだ。客に愛想笑いをする商人タイプではなく、無愛想に感じる人が多いだろうが、商人で大事なのは愛想ではなく眼力である。特に靴のような実用品、少量他品種の商品を扱う商人は、みなこのマエストロのようでなければならない。札幌は200万都市である。200万都市で最高の靴店は、たぶん世界でも最高クラスと考えていいはずだ。札幌を訪れてこの店を訪れないのは、ニューヨークに行ってメトロポリタン美術館を訪れないのと同じくらい愚かなことと言わなければならない。腰痛は冬に出やすい。冬に札幌の整形外科を訪れると、雪道で転倒して骨折した観光客の多さに驚く。札幌には「雪まつり」という一大観光イベントがあり、約一週間の会期中に沖縄の年間観光客の半分以上、札幌の人口より多い観光客を集める。この観光客の千人に一人が骨折するとして、数千人が骨折する。調べたことはないが、もっと多いはずだ。わたしが札幌市長なら、名取川靴店で買った靴で転倒して骨折した人以外は、健康保険は適用されないという条例を制定するところだが、この店は、転倒防止のためのピン打ちを格安でやっていることでも知られている。冬に札幌を訪れたなら、何をさておいても、まずはMKタクシーで狸小路2丁目にあるこの店に行き、ピン打ちをやってもらい、「一生もの」の冬靴を手に入れることだ。わたしの心配はこのマエストロがいつまで店に出ているかである。もう、靴探しなどという消耗なことに人生を浪費したくないからだ。後継者が育っていることを祈るしかないが、育っていないリスクを考え、この春までに一生分の靴を「マエストロ」のアドバイスで買っておくつもりだ。ちなみに、取材時点では30代と40代とおぼしき男性店員の二人がマエストロの「弟子」しかも「高弟」ではないかという印象を、その顔つきから持ったが、手腕については未知数である。なお「名取川」という名の靴店は他に数カ所ある。たぶん系列店だろう。しかしマエストロがいるこの店は中島みゆきの歌のタイトルにある「南三条」側にある。地下鉄にさえ乗ってしまえば、雪道を歩くことなくこの店にたどりつける。
March 3, 2010
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毎年、7月の第一土曜日の午後三時から行われている唐牛健太郎の墓参会に参加してきた。朝6時に車で家を出て函館着は13時30分。昼食の場所を探すのに手間取って14時を過ぎてしまい、函館駅から徒歩3分のところにある大門横丁のすぐ隣にある「長月」という蕎麦屋に。偶然入ったがこれが名店と言っていい店で、食べログ第8位の評価は低すぎる。もしこの店が8位なら、函館はよほど蕎麦の名店の多い土地ということになる。蕎麦は中もりにしても値段が変わらないというのは良心的。一品料理も多いので、今度は夜に来てみたいと思った。ガイドブックに載っている「名店」を訪ね歩くより、こういう偶然がうれしい。供えものに、家の庭に咲いている赤い花を3輪、イチゴの産地として知られる豊浦にある道の駅で唐牛健太郎にちなみ「けんたろう」種のイチゴを買い、福島県の日本酒「奥の松」を持参した。今年の参加者は真喜子未亡人をはじめ全国から25人。どんな人たちが参加するのか興味があったが、組織や団体を背景にした参加者は皆無。唐牛健太郎の友人や元同級生を中心に、唐牛に思いを寄せる個人が、墓参のあとの酒宴なども楽しみに参加しているようだった。元ニセコ町長で衆議院議員の逢坂誠二(50歳)が3番目くらいに若い参加者ということからわかるように、参加者の高齢化には60年安保闘争から51年、没後27年という歳月の重みを感じる。しかし、真喜子夫人をはじめみな若々しく元気で快活、溌剌としているのには驚く。墓参といっても、形式的なことは一切なく、墓の前での立食パーティといった趣き。この墓というのが場所も形も唐牛健太郎にふさわしくユニークだ。健太郎に墓は似合わないと反対していた真喜子夫人も、この場所ならと心が動いたという。作られたのは1990年7月のこと。100人が集まった除幕式では前衛舞踏家が踊り、ジャズや練鑑ブルースが流れたりしたらしい。海を見下ろす墓地のいちばん高いところにあるが、すぐ上に無縁仏の大きな墓がまるで守護神のように建てられている。隣は函館一の名家の立派な墓だが、それよりもいい場所にある。秋山祐徳太子がデザインした、インド産の500年はもつという御影石の墓石のまわりを植物が囲い、墓の正面には彼の母キヨさんが書き残した字を使って唐牛健太郎の名前が刻まれている。墓のデザインは、海を愛した唐牛にふさわしく波を表したものだというが、炎のようにも、いくつもの山脈のようにも見える。人類史に特筆される大「事件」であった60年安保闘争に青春のすべてを燃焼させ、その後は波乱に富んだ人生を送った彼の生きた奇跡そのものを象徴しているようにも見える。前衛美術家がデザインすると墓もこうなるのかと、写真で見て知ってはいたが感嘆した。函館市は、観光ガイドから一パイ500円というクレージーな値段でイカを売っている函館朝市を削除し、唐牛健太郎の墓を詳細な地図入りで掲載すべきだ。その秋山祐徳太子も来ていた。昔、東京都知事選の時期に東京にいてポスターを見たことがあったが、とても75歳には見えないほど若々しい。もっと奇妙キテレツな人かと思っていたがそうではなく、たしかに個性的ではあるが、何より唐牛健太郎にも通じる自由闊達な精神の持ち主と見た。「いまだ下山せず」の著者、泉康子さんも来ていた。今年74歳の彼女は、昨年の「唐牛健太郎写真展」のメモリアル・ブックを製作し、ゴールデンウィーク前には気仙沼や石巻でヘドロかき出しなどのボランティア活動をしてきたらしい。その行動力には驚くほかないが、「人間の可能性の次元にたいして尽きせぬ関心を寄せながら・・・人間の現実性の次元にたいしても徹底した注意をはらう生の根本的課題にとりくむ際の知力、体力そして胆力において・・・最も信じうる能力をもったもののひとり」であったという西部邁の唐牛評(哀しき勇者)を思い出した。震災と原発事故が起きたとき、唐牛健太郎が生きていればと何百回思ったかわからない。彼が生きていれば、卓抜な指揮官、司令官として千人分の働きをしたにちがいないからだ。東電を叱咤し官邸を恫喝し、米軍や自衛隊、万単位のボランティアを束ねることができるのは彼しかいなかっただろう。そうした唐牛の知力・体力・胆力に通じるものを、泉さんからも感じたが、これは60年安保当時のブント活動家の多くが持っていたものにちがいない。唐牛健太郎は、西部邁が書いているようにそれが並はずれていたのだ。だから島成郎がわざわざ北海道まで全学連委員長にスカウトに来たのだろう。ちなみに島成郎「ブント私史」と西部邁「60年安保 センチメンタル・ジャーニー」は世界初の独立左翼であったブントに関する証言、歴史的資料として一級である。翌日は登山の予定だったので、墓参会だけで失礼して18時からの酒宴には出席しなかったが、来年の墓参の際には出席するつもりだ。唐牛健太郎が愛した女性と酒を飲み交わし歓談できると思うとその日が待ち遠しい。それまでは節酒と体調管理を心がけよう。
July 2, 2011
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