October 12, 2004
XML
カテゴリ: 身辺雑記
ある雨の朝きみは子どものころ住んだ家を思い出している。

きみが住んでいたのはロシア映画に出てきそうな、白いブロックを積み上げた平屋の市営住宅だった。

裸電球、まるいちゃぶ台、ブリキのコップ、机代わりのリンゴの木箱、ハエ取りリボン、湯沸かしつきの石炭ストーブ・・典型的な昭和30年代の風景は、たとえば土門拳の「筑豊の子どもたち」やいくつかの映画でさえも、もう見ることはできない。

冷蔵庫、洗濯機、白黒テレビに電子オルガンとしだいに家具が増えても、あたりまえだが3間あわせて12畳ほどの広さは変わらなかった。

天気のいい日は洗濯板とたらいで洗濯、冬が近づくと大量の薪割り、とうきびや芋を植えていた畑は冬はスケートリンクになった。家の割に敷地は広く、玄関先の空間ではケンケンができ、道路までは何十歩か歩かなければならなかった。

床下にネコがたくさんいた物置には鉱山から運んだ木樽の風呂桶があり、夏には薪で沸かして入ることもあった。親しくしていた宇津井健によく似た近所の白バイのりの警察官は、なぜか銭湯に入ることのできない人で、よくこの風呂をもらいに来た。

そういえば、追跡していたクルマがわざと急停車してこの人の同僚が追突して死んだことがあった。事故と処理されたが、この人を中心とする白バイ部隊はこのクルマを数ヵ月にわたって徹底追尾した。

ノイローゼになった持ち主は首を吊った。

銭湯は女たちの情報交換の場だった。週に一度か二度の銭湯では、決まってのどの渇いた子どもが白い牛乳より5円高いフルーツ牛乳をねだって親に叱られ泣いていた。



手洗い用の別の蛇口を作らなくては、保健所の営業許可は下りない。しかし、店主にはそのカネがない。そこできみの父をはじめとする保健所の職員は、そういう店で飲食をしてその費用を捻出させたのだという。

そういう親切を仇で返す店もあったと聞くが、戦後のある時期までは、公務員に公僕の意識があったのだ。就職難で高学歴の人たちが続々と警察などお役所に入った時代、彼らの復興への志や庶民を啓発しようとする意識は高かった。

いまならネパールかグアテマラの山奥に行かなければお目にかかれないあの生活を、ひどいとも貧しいと感じることがなかったのは、世の中ぜんたいが貧しかったからだろうし、生活が上向いていくのが実感できたからだろう。

あの時代がよかったとノスタルジーに浸るつもりはない。

欠食児童は珍しくもなく、保健所が野犬狩りのためにまいた毒まんじゅうを拾って食べて死ぬ子どももいたし、生活苦から新興宗教に走る人も少なくなかった。

日本人はまだ列を作って並ぶことができず、祝日に日の丸を掲げる家がたくさんあったほど封建性も残っていた。女が外で働くことはイスラム社会のように奇異の目で見られた。

しかし、1990年代のある日、きみの父が言ったことを、きみは忘れることができない。

あのころは、何もなかったからよかった。ひとつずつ、少しずつ、自分の力で作ったりして得るしかなった。人間は自分で働いて得たものしか、それを得たほんとうの喜びを味わうことはできないものだ。

あの貧しかった時代にノスタルジーを感じることのないきみは、あの貧しかった時代にノスタルジーを感じることのない人を決して友人にすることはない。





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  February 5, 2010 10:51:10 PM
コメント(0) | コメントを書く
[身辺雑記] カテゴリの最新記事


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

PR

プロフィール

ペスカトーレ7

ペスカトーレ7

バックナンバー

December , 2025
November , 2025
October , 2025

© Rakuten Group, Inc.
Mobilize your Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: