June 14, 2009
XML
カテゴリ: 自叙伝
外食はイタリアンでなければ鮨か蕎麦と決めている。だが、これまで最も多く食べたのがたいていの日本人と同じくラーメンであり、たぶんこれからもそうだろう。

親に連れられてではなく、子どもだけで外食した最初の体験はラーメンだった。昭和41年3月の最終日曜日のこと。

その年、母の転勤で札幌へ引っ越すことになった。札幌には叔母と祖母が大きな家に住んでいて、部屋が空いていたので住まわせてもらうことになった。

当時は引越屋などなかったので、数週間前から少しずつ荷造りをした。日曜の朝はいよいよ最後で、食器や炊事道具を新聞紙にくるみ段ボールに詰めた。やがて小型トラックと手伝いの人たちが到着し、子どもはじゃまだからお昼でも食べておいでと50円玉を渡された。

こうして家からいちばん近くの大衆食堂に行ったのがひとりで食べた最初の外食体験であり、食べたのがラーメンだった。値段は忘れたが50円以下だったのはたしかだ(笑)

調べてみると、1956年に東京のラーメンは一杯40円であり、1967年に100円になっている。1966年の千歳の大衆食堂が東京と同じということはありえない。物価は半分以下だったから40~50円といったところか。

それまでもラーメンを食べたことはあったにちがいない。そうでなければラーメンを注文しようとは思わないからだ。しかし、このとき以前のラーメンの記憶はない。

日曜のラーメン屋などに出かけると、母親が3歳になったかならないかくらいの子どもに食べさせている光景を見ることがあるが、あんなふうだったのかもしれない。それなら記憶に残らなくて当然だ。

そのころ、ラーメン屋というものはまだなかった。正確に言うと、屋台で成功して店舗を構えるようなった「ラーメン屋」が都会にはあったが、地方にはほぼ皆無だった。札幌のような「ラーメン王国」でさえ専門のラーメン屋というのは少なく、ラーメンは大衆食堂の一人気メニューに過ぎなかった。



ラーメンだけでなくカレーもトンカツもだいたいにおいて大衆食堂の一メニューに過ぎなかった。すでに繁華街には蕎麦屋はあったが、蕎麦もまた同様だ。

大衆食堂の中から、まず真っ先に抜け出して「出世」したのがラーメンであり、次いでカレー、そしてトンカツだった。蕎麦は蕎麦屋で食べるものという常識が定着しかけたころ、「大衆食堂」そのものが化石化した。チャーハンはとうとう大衆食堂から自立しそこねた。

このことはチャーハンにとって非常に気の毒なことだったと思っている。いまではチャーハンはラーメン屋の付随メニューか、「大衆中華」の店でしか食べられなくなってしまったが、本来、ラーメンと単品で向こうを張り勝負ができる「旧大衆食堂メニュー」はチャーハンをおいてほかにない。

なぜそう考えるかというと、今まで食べた最もおいしいラーメンとチャーハンを比べたとき、チャーハンに軍配があがるからだ。

大衆食堂メニューからいち早く抜け出し国民食となったラーメンだが、その人気の維持の秘密の一つは変化にあると思う。進化と言ってもいいが、主にスープや具の新たな展開にはめざましいものがある。

しかし、それらが進化したほどには麺は進化していない。評判をとるラーメン屋も、もっぱらスープによるもので、麺で評価されることは少ない。

蕎麦やうどんやパスタが「麺」で評価されるのに、ラーメンは「スープ」で評価される。これは、ラーメンがスープを含めると高カロリー食品であり、食糧難の時代に国民的ルーツができた事実と無縁ではない気がする。

ラーメンのおいしさの最大の要素は、麺の食感である。弾力があり、しこしこしていて、食べたとき上の歯の後ろあたりに縮れた麺の縮れ部分がぶつかる。このぶつかったときの感じと、歯でかんだときの歯ざわりが、ラーメンのおいしさの80%を決める。もちろん蕎麦のようなざらっとした感じではなく、極上のうどんのようなつるつるしたのどごし感も大事だ。

この点で、旭川ラーメンから沖縄そば、ひいてはチャンポンにいたるほとんどのラーメンは失格だ。特に東京ラーメンや九州ラーメンの、加水率が低い細いストレート麺はラーメンの名に値しない。かん水入り細うどんとでも呼べばよい。

あんなものは総入れ歯の人が食べるものではないだろうか。特にひどいのは「替え玉」をして食べるとき。長浜で試したが、「替え玉」はあっという間にぬるいスープを吸ってのびきってしまった。

邪推だが、細い麺は短時間で茹であがる。加水率を低くするとすぐのびるので急いで食べなければならない。味覚を犠牲にした生産者側の論理が、こうした「ラーメン」を生んだのではないか。



いま、オイルショック以前の太さを保った麺を使ったラーメンを提供している店は、札幌にも一軒しかない。

初めての「外食」で食べたラーメンは、今でいう「昔風ラーメン」だった。薄味のしょうゆ味で、鶏ガラ味だった。おばさんがひとりで営業しているような店で、手間のかかるスープを手作りしていたとも思えない。チキンコンソメのようなものを使っていたのではと思うのだが、そうした「業務用食品」が開発されていたかどうかもわからない。昔の人は律儀だったから、そうした店でもきちんとダシをとっていたかもしれない。

この「昔風ラーメン」のよさは、優しい味にある。しょう油味と卵の入った麺の相性は抜群で、やはりラーメンはしょう油味に限る、と思ったりする。しかし、しょう油ラーメンは三口目まではおいしいのだが、おいしくて舌が飽きてしまう。そこで、最後まで飽きずに食べられる味噌ラーメンを頼むことが多くなっていった。

具のことは鮮明に覚えている。極限的な、芸術的とも言える薄さの脂身だらけのチャーシュー、なると、メンマ、ホウレンソウ、ゆで卵の輪切り、麩。ネギがほんのわずかだったのは、こちらが子どもだったから配慮してくれたのか。

実際、ネギが苦手な人というのは驚くほど多いものである。



子どもだけで外食するには何か理由がある。きっと引越にちがいない。そんな風に想像を働かせたのではなかっただろうか。

小さな、無造作に作ったような店だった。それから10年後、免許をとり車を手に入れ、生まれ育ったところを訪れたがその店はもうなかった。住んでいた市営住宅には、札幌の放送局でアナウンサーをしているという人が住んでいた。その市営住宅は、いったん住んでいた人に無償で払い下げられたあと、取り壊され、4階建てになった。建物と建物の間に公園だった場所がそれとなく残っている以外、昔を思い出すものは何もなくなってしまっていた。

ラーメン王国札幌に転居してからは、しかししばらくラーメンは食べなかった。小学校も高学年になると親と一緒に外出する機会は減る。小学生の小遣いではラーメンには手が出にくかった。夕食までの空腹を満たすのに、10円か15円で売られていた揚げパン=ドーナツと称していたが丸くはなかった=がベストの選択だった。

1968年は転機だった。このころから日本は急激に豊かになった気がする。都会の公害=スモッグはひどく、海や川はゴミ捨て場のようだったが、モータリゼーションは進み、欠食児童もほとんど見かけなくなった。

外食に抵抗がなくなり、特別なことではなくなったのもこのころだったのではないだろうか。

このころもらっていた小遣いは月500円だったと思う。ラーメンが100円でタクシーはたしか120円、バスは30円だった。月に一度か二度、都心に出たとき、バスターミナルの地下にあった「ラーメン太郎」という店でよくラーメンを食べた。「当店はスープが自慢です。残さずお飲みください」という貼り紙がしてあって、残すと怒られそうだったのでいつも全部飲み干した。味は塩としょう油の二種類だった気がする。母は塩を、わたしはしょう油を食べることが多かった。

味はまったく覚えていない。何しろ何を食べてもおいしく感じるころである。もう一度あの店で食べてみたいと思い、同じ場所にあるラーメン屋に行ってみたこともある。まったく別の店で、消息を尋ねたが知らないとのことだった。

ただ、スープを飲み干してもそのあとのどがかわいてしかたがない、ということはなかったから、本格派だったのかもしれない。

1968年当時、レコードはシングルで400円だった。札響の定期演奏会は学生券が200円だったからコンサートに行くと240円しか手元に残らない。翌年3月までの間に買うことができたのはシングルレコード2枚で、いくら節約してもこれくらいが限界だった。

高校に入り、ラーメン狂の友だちがいて土曜日はラーメン屋めぐりをするのが習慣になった。札幌名物味噌ラーメンを初めて食べたのもこのときで、山盛りのモヤシとタマネギに驚いた。どこか「和食」のイメージがあるしょう油ラーメンとちがって、パワフルでダイナミックだった。おいしく感じたのは、たぶんニンニクやショウガが使われていたせいだろう。

そのとき気づいたのは、「名店」と言われるような店が案外おいしくないということだった。そういう店に限って店主の態度も独善的だった。

そうして最終的に辿り着いたのは、ススキノにできたばかりのデパートの地下にあった「喜龍」という店の味噌ラーメンである。

相変わらずチャーシューは薄かったが、脂身部分は少なくなった。モヤシとタマネギを炒めるとき、少量の挽き肉を加える。これは札幌味噌ラーメンの元祖「三平」が始めたパフォーマンスで、いまもこのやり方を踏襲している店は多い。

この「喜龍」も、三平のラーメンを参考にして、ある程度の改良というか工夫を凝らしたものだったにちがいない。味噌は白味噌だった。ダシはやはり鶏ガラだったと思う。スープの甘味が印象に残っている。たぶん、タマネギから出る甘味だと思う。

1985年から6年にかけて、1年と少し名古屋に住んだことがある。ラーメン好きにとって名古屋は地獄だった。まず生ラーメンが手に入らない。スーパーに売ってないのだ。

まともなラーメン屋も少ない。中華料理屋で食べるしかない。すがきや、というファストフード形式の店があり、そこで九州ラーメンのようなラーメンを食べるのが関の山だった。いくつかの喫茶店でラーメンを頼んだところ、いわゆる棒ラーメンやインスタントラーメンが出てきて驚いた。

しかし今まで最もおいしいラーメンの麺に出会ったのは名古屋だ。市民会館と国道を挟んだブロックのいちばん北側の小さな中華料理屋の麺で、ここのは手打ちだった。

それ以来、手打ちの店を見つけると試す癖がついたが、手打ちの店にはなぜかがっかりさせられることが多い。

ラーメンは間違った方向に変化(進化)していると思う。蕎麦やうどんのように麺の手打ちで差別化するべきではないだろうか。

また、日本のラーメンは熱すぎる。熱すぎて味がわからないくらいだし、冷めるのを待つとのびてしまう。

だからスープのない「油麺」が人気化したりするのだ。

稀にだが、自分で作って食べることがある。チャーシューを自分で作ったときである。このチャーシュー作りのときに出きたタレをお湯でのばすだけでスープになる。麺は冷凍しておき、冷凍したままゆでる。そうするとコシが出る。

食べるときはいちばん安手の割りばしを使う。丼はやはり龍の模様の入った昔ながらの赤い色のものが雰囲気が出る。
















お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  June 15, 2009 02:20:44 PM
コメント(0) | コメントを書く
[自叙伝] カテゴリの最新記事


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

PR

プロフィール

ペスカトーレ7

ペスカトーレ7

バックナンバー

December , 2025
November , 2025
October , 2025

© Rakuten Group, Inc.
Mobilize your Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: