January 1, 2013
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カテゴリ: 身辺雑記
何度でも言うが、新しい年を迎えて、まずするべきことは年を越せなかった人たちのことを思い起こし、記すことだ。

1月、前年の10月から意識不明だった作曲家の林光が死んだ。

81歳だったが、あと何年か生きてくれたら、人類の至宝といえるようなすばらしい作品をいくつものこしてくれただろう。それを思うと、悲しいというよりも惜しい。いわゆる前衛音楽とは少し違う場所にいた人だが、その存在と立ち位置自体が、しょせん高度消費文化の徒花の一種でしかないクラシック音楽の一亜種としての前衛音楽に対するアンチテーゼになっていた。一方、「クラシック」の枠内でもショスタコーヴィチのような、暗喩に満ち密度の濃い「純音楽作品」を書いていた。弦楽四重奏のための「シャコンヌ」などは、バッハのかの同名の作品に比肩しうる密度を持った唯一の作品と言っていいくらいだ。

社会的な視野をもった活動を主とし、音楽市場での活動を従とする音楽家のあり方を示した先駆者として、いずれ作品だけでなくその生き方が高く評価される日が来るだろう。

6月には医師の原田正純が急性骨髄性白血病で死んだ。77歳だった。

原田さんと会ったのはユージン・スミスの水俣写真展の宣伝のためにいろいろなイベントを打った中にシンポジウムがあり、パネラーとして来てもらったときだったと思う。1978年、原田さんは熊本大医学部助教授で40代の壮年だった。最近もNHKのドキュメンタリー番組で紹介されたが、土本典昭監督の水俣シリーズの映画にしばしば登場する。自ら現場におもむき患者と対話を重ねる白衣を着た青年医師としての姿が印象的だった。

酒席での原田さんとの数時間は、30年以上たったいまも鮮やかだ。そのころ、原田さんのやっていたことの意味は半分もわかっていなかった。発生当時、水俣病を風土病とみなした東大医学部などから批判され、水俣病の隠蔽と収束を画策する保守系の市民や行政ばかりでなく反公害運動に分裂と党派利害を持ち込む日本共産党などから警戒され、嫌がられたのが原田さんだった。そういうことは知っていたが、医学会での孤立や排除といったことまであったとは当時は知らなかったし、そんなことは原田さんはいっさい話さなかった。

水俣病の原因究明に取り組んで「胎児性水俣病」を証明した原田さんの業績は、それ自体がノーベル賞級だと思うが、何より印象に残ったのは、人を温かくつつみこむ笑顔、わかりやすい言葉と穏やかな語り口、そうした中からにじみ出てくる鋼のように強いが柳の枝のようにしなやかな「正義感」だった。

正義を振りかざし大言壮語する国士的人物、スタンドプレイは好むが日常活動をおろそかにする活動家への警戒心は、たった一度だけの酒席での原田さんとの出会いで養われたものだ。



だが原田さんは硬いだけの人ではなかった。大学の予算で水着写真集を購入させたことなどを茶目っ気たっぷりに語った。官僚的で硬直した大学機構をおちょくって遊ぶのも好きなようだった。

しかしそんな原田さんに、真剣に怒られたことがある。

当時の原田さんは、指名手配犯として追われ地下に潜行していた京大助手の滝田修こと竹本信弘と瓜二つの風貌だった。竹本夫人さえ間違えたというくらい似ていたのだが、ローザ・ルクセンブルクの研究者でパルチザン五人組運動を唱えていた竹本信弘の話から、大正行動隊の谷川雁の話になったのである。しかしそこにいたぼくを含めた学生全員が、谷川雁の名前は知っていても何かを語れるほどには知識がなかった。

そうしたら、それまで柔和だった原田さんの顔色が一変し、「谷川雁を知らない君たちは不勉強にもほどがある」と怒ったのだ。

谷川雁は詩人で「大衆に向かっては断乎たる知識人であり、知識人に対しては鋭い大衆であれ」という「工作者宣言」で知られる。当時の認識は時代遅れのナロードニキでしかないというものだったが、そうか原田さんにとっての先達は谷川雁だったのかと思い、流行の思想を追う自分たちの軽薄さを思い知らされたものだった。

ぼくらのような学生にも真摯に怒る、そういう知識人というのはそれ以前も以後も、一度も出会ったことがない。

公害患者を政治的に利用しようとする動きはかつてもあるし、いまもある。しかし、患者の立場に立ちきった原田さんのような人がいたおかげで、そうした動きが主流になることはなかった。その活動は人々の良心をゆさぶり、会社側や行政の人間はおろか、自民党のような政党の中にさえ支持者を増やし時代と状況を動かしていった。

もし原田さんがいなかったら、水俣病は闇から闇へと葬られていたかもしれない。そうすれば、日本中で同じようなことが起きていただろうし、逆に水俣の経験に不十分にしか学ばなかったからこそ、原発ができてしまったともいえる。

9月には詩人の江原光太が死んだ。89歳だった。小熊秀雄賞を複数回受賞というのはほかに例がないのではと思うが、マスコミふうに言うなら、反権力と反骨の「民衆詩人」だった。

江原さんと初めて会ったのは1978年3月26日、あの三里塚空港管制塔占拠闘争のあった日のことだ。現地集会に合わせて札幌でもデモがあったが、その参加者のひとりだった。片足をひきずって歩く、何だかヒッピーみたいなおじいさんがいるなと思っていたら、デモのあとの交流会でそれが江原さんだと知った。ちょうどいまのぼくの年齢と同じだが、白髪と風格のある白い髭が印象的なその風貌はまさに好々爺という感じだった。

江原さんの生涯について詳しくは知らない。戦後日本共産党員となり、若い頃は新聞記者で、北海道新聞労働組合の委員長をつとめたこともあるときいた。中核派北海道委員長(当時)だったN氏と三越のエレベーターガールを取り合って負けたとか、そのN氏とブント創設者のひとり戸沼礼二氏と三人で広告代理店を始めてうまくいったがドロドロした商売がいやでやめたとか、札幌べ平連にずっと参加していたとか、それくらいの話しかきいたことがないが、登場人物のスケールの大きさと淡々とした語り口の落差が印象的だった。



もちろんタイプ印刷やオフセット印刷のものも多かったが、ガリ版のような手書きをそのまま本にしたり、版画で作った本もあった。太い糸で綴じられた厚紙だけで作られた本もあり、本はその内容によってふさわしいかたちがあるということを知った。戦前の本にはそういうものが多く、ほるぷ出版から復刻されているのを手に入れたこともあるが、江原さんの作った本はそれ自体が作品で、芸術であるような何かだった。

江原さんはよく昼間からお酒を飲んでいた。あのころ、そういう日本人はほとんどいなかった。しかし酒量はさほど多くなく、酔いつぶれたり乱れたりするのを見たことがない。酔って少し気分がいいと、突然、詩の朗読をはじめることがたまにあったくらいだ。

誰でも分け隔てなく受け入れる大らかな性格、反骨だがユーモアのある詩人としての資質から、多くの人に愛されていたように思う。地方新聞などからよく原稿を依頼され、原稿料が入ったといっては酒場に通っていた。そして、市営住宅住まいの貧しい白髪の、しかもカリエスで体の不自由な老人なのに、女性にすごくもてた。詩と侠気ある資質に惹かれるのだろう、江原さんからアプローチしなくても、娘のような世代の女性が向こうから勝手におしかけてくるのだった。

昼間から酒を飲み、原稿料で生活し、貧乏でも女性にもてる。そういう江原さんに接するうち、ああいう人生が最高だという刷り込みが無意識にできたかもしれない。

江原さんの詩集は何冊かずつもっていたが、ほとんどは人にあげてしまった。手元に残っているのは「続貧民詩集」と題された<ゲジゲジの歌>という詩集だけだ。大島龍や砂澤ビッキの版画が散りばめられた手書きの詩集だ。化粧裁ちをしていないので、ペラペラとページをめくることができない。そんなぎこちなさもまた味になっているし、金釘流の江原さんの字が人間くさく、これだけは手放すことができない。



詩集のタイトルにもなっている<ゲジゲジの歌>を引用して追悼にかえる。当時の仲間と企画した反原発集会(1979年10月27日)のために作ってくれ、その集会で発表された詩。ちょうど中越紛争が起こり大平内閣末期という時代背景がわからなくても、宮澤賢治の「アメニモマケズ」をパロディにしたこの詩に脈打つ「民衆魂」のようなものは感じ取れるはずだ。

「五尺ノカラダハ寝袋カツイデ ホイサッサ」の一節はいかにも江原さんらしいと感じる。この軽妙さこそ、観念の自家中毒のあげく仲間を殺し、無辜の民衆を殺戮した共産主義を救出するほとんど唯一の契機ではないだろうか。

<ゲジゲジ…>ノ歌

飴ニモ マケズ

カネニモ マケズ

核ニモ石油パニックニモ マケヌ

丈夫ナカラダヲモチ

欲ハナクトモ

決シテ妥協セズ

イツモ怒リニ モエテイル

一日三合ノ玄米ト

無農薬野菜ト少シノ魚ヲタベ

一日五時間ダケ ハタライテ

ヨブンナ カネヲカセガズ

ソシテ ヨケイナモノヲツクラズ ツカワズ

小サナ町ノ場末ノ共同住宅ニ表札ヲブラサゲ

五尺ノカラダハ寝袋カツイデ ホイサッサ

東ニ電気ノナイ村アレバ

行ッテ風力発電所ヲツクロウトイイ

西ニキーセン観光アレバ

行ッテ大臣ヤ助平ドモノ キンタマヲツブシテヤリ

南ニ仲間同士ノ戦争アレバ

行ッテ兵士タチニ ソレゾレノ故郷ニカエロウトイイ

北ニ領土ヲカエセトイウ声アレバ

ソノホントウノ住民ヲタシカメテ話シアイ

小サナ島バカリデナク大キナ島ノ山ヤ森ヤ川

ソコニスム熊ヤ鹿ヤフクロウヤ鮭タチヲ

自然ノママニ解放シテヤル

ヒデリノトキハ太陽エネルギーヲアツメ

サムサノフユモ ハダカデクラス

<ゲジゲジ ゲリラ 過激派>トヨバレ

ヨッシャ・アーウー政府カラ ニクマレ

原発ゴロヤ電力資本カラ クニサレ

ソレデモ世界ノ貧民カラ アイサレル

ソウイウモノニ

ワタシハナリタイ














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最終更新日  January 2, 2013 12:22:32 PM
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