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【2016年12月11日(日)】 今日は、1年に1回の年中行事になってしまった京都検定1級の受験の日でした。 2006年10月にアメリカから帰任して、3級を受検。勉強期間1ヵ月しかなくあえなくアウト。2007年12月、3級、2級ダブル受検。ダブル合格。それから、1級を受け続けていますが、2008年から2015年まで7回連続アウト(2010年は受検せず)。今回、8回目のチャレンジ。正直、まともに勉強できたのは、受検1週間前だけ。全く自信ないまま試験に臨みました。 試験は3級が午前中にあり、2級、1級は午後から。私の会場は同志社大学の新町キャンパスでした。同志社大学新町校舎受験票 ガイド会新入りメンバー有志で、団体で受検申し込みしていたので、近くにTSさん、MSさん、NJさんが座っておられました。個人で申し込まれたのでしょう、JSさんも同じ会場にいらっしゃいました。あと我が会の多くのメンバーが2級、3級の会場で受検しているはずです。 ここ3年、1級は合格率5%未満が続いているので、今年もむつかしいだろうと覚悟していました。それに加え、勉強ができていなかったので、全く歯がたたないだろうと半ばあきらめの気持ちを持ちながら試験に臨みました。 ところが今年は易しかったのです。試験が終わって、ガイド会のメンバーもそう言っていました。今までは試験の途中で、不合格だと思わざるを得なかったのですが、今年は可能性あるかもという感じです。答え合わせはしてみないといけませんが。 ガイド業が忙しくて、ここ1ヵ月全く勉強できませんでしたが、固定ガイドや個別ガイドが終わって、ここ1週間は本当に集中して勉強できました。合格かどうか別にして、自分自身でも本当によくやったと自画自賛です。 今日は、まずのんびりと、フィギュアスケートでも観て、ゆっくり寝ます。 家内は一日在宅でした。-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2016/12/11
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京都の観光編の解答です。問題は作ったものの、12月12日 試験前日です。解答する時間もなくなってしまいました。問題に直接正解を記入して投稿します。・祇園祭の神輿 ・祭神 中御座 (素戔嗚尊) 東御座 (櫛稲田姫命) 西御座 (八柱御子神) ・神幸祭 (鴨川以東、河原町)の氏子地域を巡回 還幸祭 (寺町通以西)の氏子地域を巡回 ・御旅所の変遷 天延2年(974) (高辻東洞院) 円融天皇の時 のちに (烏丸五条北)の(大政所) 長和2年(1013) (二条烏丸)の(冷泉の井)(一般に(少将井)) 天文5年(1536) (法華宗徒の乱)で焼失 天正19年(1591) (豊臣秀吉)の(町割整備)で(四条寺町)・(鴻臚館) 中国使節を宿泊・接遇する施設が2ヶ所あった。 (羅城門)の北、(朱雀大路)の左右。 (東寺)(西寺)を造営するにあたり、(七条)の北に移転・平成17年 (京都迎賓館)オープン・西国三十三所観音霊場 (花山天皇)が再興したといわれる ・京の名所案内 ・(中川喜雲) 京童 ・(浅井了以) 京雀 ・(水雲堂孤松子) 京羽二重 ・(秋里籬島) 都名所図会 都名勝林泉図会 ・(二鐘亭半山) 見た京物語 ・(滝沢馬琴・曲亭馬琴) 羇旅漫録 ・(黒川道祐) 雍州府志 (日次紀事(ひなみきじ)) ・(林吉永) 京大絵図 ・(十返舎一九) 東海道中膝栗毛・京の七口 定まっていないが次のようなものがある。 ・(鞍馬口)鞍馬街道 ・(大原口)若狭街道 ・(荒神口)山中越 ・(粟田口、三条口)東海道・中山道 ・(伏見口、五条口)伏見街道 ・(竹田口)伏見港へとつながる竹田街道 ・(東寺口、鳥羽口)西国街道、鳥羽街道 ・(丹波口)山陰街道 ・(長坂口、清蔵口)京見峠を越え杉坂に至る長坂越・粟田口 三条大橋は、天正18年(1590)(豊臣秀吉)の命で奉行(増田長盛)が大改造 三条大橋東詰めには(高山彦九郎)の銅像・京都駅 明治9年、大阪・京都のおか蒸気開通で、(大宮仮停車場) 初代は明治10年(七条停車場)に 二代目は(大正天皇即位大典)を前に大正3年(檜造り)日本一の規模 三代目昭和27年 四代目平成9年 (171段)の階段 (空中径路)(大空広場)(朱甲舞※)が目印の(室町小路広場) ※(清水九兵衛)作 美術館(「えき」KYOTO)・市内観光と市電 ・日本初の路面電車 明治28年 (伏見下油掛)(七条停車場)間 会社名(京都電気鉄道(京電))の(伏見線) ・明治45年 市電 (烏丸)(千本大宮)(丸太町)(四条)の4路線 大正に(今出川)(大宮)(七条) ・大正7年 市電が京電を買収 北野線を走った電車は(チンチン電車)または(N電)と呼ばれた これが最後まで走った北野線は昭和36年に廃止。 ・市電 昭和53年全線廃止 ・昭和56年 地下鉄烏丸線((北大路~京都))開業 平成9年 東西線 ((醍醐~二条))開業・観光タクシー ガイド嬢が同乗した(うぐいすタクシー)が昭和29年に登場 ・美術館 ・京都府京都文化博物館 この別館はもとは(日本銀行京都支店) 設計は、設計は(辰野金吾)とその弟子(長野宇平治) ・京都国立博物館 本館は(明治古都館) 設計は(片山東熊) 新館は(平成知新館) 設計は(谷口吉夫) ・京都市美術館 (昭和天皇即位御大典記念)で全国(2番目)の(公立博物館)として開館 設計は(前田健二郎) ・京都国立近代美術館 設計は(槇文彦) ・京都府立陶板名画の庭 設計は(安藤忠雄) ・アサヒビール大山崎山荘美術館 (加賀正太郎)氏の「大山崎山荘」 (安藤忠雄)氏設計の新棟 ・京都市考古資料館 設計 (本野精吾)・公共施設 ・京都会館 設計(前川國男) ・京都コンサートホール 設計(磯崎新) ・京都府立図書館 設計(武田五一) ・京都国際会館 設計(大谷幸夫) ・京都市勧業館(みやこめっせ)設計(川崎清)・公共庁舎 ・京都府庁旧本館 設計(松室重光) ・京都市庁舎 本庁舎 設計 (武田五一、中野進一)・その他 ・平安神宮 設計 (伊藤忠太) ・祇園閣(元大倉喜八郎別邸)の一部、現(大雲院) 設計(伊藤忠太) ・真宗信徒生命保険(現伝道院) 設計(伊藤忠太) ・京都駅 設計(原広司) ・京都タワー 設計管理(山田守) 構造設計(棚橋諒) ・京都大学 時計台 設計(武田五一) ・円山公園 設計(武田五一) ・京都高等工芸学校本館(現 京都工芸繊維大学3号館) 設計(本野精吾) ・弥生会館 設計 (木村得三郎) ・先斗町歌舞練場 設計 (木村得三郎)・姉妹都市 9市 ・(パリ、ボストン、ケルン、フィレンツェ、キエフ(ウクライナ)、西安 グアダラハラ(メキシコ)、ザグレブ(クロアチア)、プラハ(チェコ))・観光行政 ・昭和25年 (京都国際文化観光都市建設法)適用 ・昭和31年 (京都市市民憲章)制定 ・昭和47年 (京都コンベンションビューロー)開設 ・昭和53年 (世界文化自由都市宣言) ・平成6年 (第4回世界歴史都市会議) (世界歴史都市連盟)設立 ・昭和62年 (国立日本文化研究センター)開所 ・平成元年 (京都市国際交流会館)開館 ・平成9年 (地球環境温暖化防止京都会議・COP3)京都市で開催 ・平成17年 (京都議定書)発効 ・平成11年 (京都市基本構想(グランドビジョン))策定 ・平成13年 (京都市基本計画)策定 (京都市観光振興推進計画-おこしやすプラン)策定・コンベンション施設 ・(京都リサーチパーク) ・(京都市勧業館(みやこめっせ)) ・(京都府総合見本市会館(パルスプラザ)) ・(ぱ・る・るプラザ京都) ・(けいはんなプラザ) ・(京都テルサ) ・(京都市国際交流会館) ・(国立京都国際会館)よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村__________________________________「京都検定過去問」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=28「京都検定出題傾向分析」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=30「京都検定勉強」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=31
2015/12/12
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京の町並み・京の自然編の解答です。問題は作ったものの、12月12日 試験前日です。解答する時間もなくなってしまいました。問題に直接正解を記入して投稿します。●京の町並み・昭和41年 国(古都における歴史的風土の保存に関する特別措置法) =(古都保存法) (歴史的風土保存区域※)を国土交通大臣が指定 その区域内で(歴史的風土特別保存地区*)を指定 現在の※14区域。*24地区 (醍醐、桃山、東山、山科、上高野、大原、鞍馬、 岩倉、上賀茂松ケ崎、西賀茂、御室・衣笠、高雄・愛宕、嵯峨嵐山、桂)・昭和47年 京都市(特別保全修景地区) 外観デザインの伝統的様式を継承 (産寧坂地区)が最初・昭和50年 国(文化財保護法) ・(伝統的建造物群保存地区)制度 ・京都市の4ヶ所はすべて(重要伝統的建造物群保存地区) (上賀茂)(産寧坂)(祇園新橋)(嵯峨鳥居本) 京都府も含めると (南丹市美山町北)(伊根町伊根浦)(与謝野町加悦)・1980年代後半以降、マンション建設の進んだ地域を(田の字地域)という。 (御池通)(五条通)(河原町通)(堀川通)に囲まれた地域・平成7年 京都市(市街地景観整備条例) 制度 ・(歴史的景観保全修景地区) (祇園縄手・新門前)(祇園町南)(上京小川) ・(界わい景観整備地区) (上賀茂郷)(上京北野)(三条通)(千両ヶ辻) (西京樫原)(伏見南浜)(本願寺・東寺)・平成9年 (京都市屋外広告物等に関する条例)・上賀茂 伝統的建造物群保全地区 (明神川)沿いの(社家町)一帯。 屋根に(懸魚) 武家住宅同様(ハレ)の座敷と(ケ)の部分に分かれる。 入口も(式台)と普段用の(大戸)の2つがある・西陣 奥に織機を数台置く形式の町家を(織屋造り)と呼んだ●京都の散歩道・半木の道 現在植物園の鎮座する神社は(半木神社)。(流れ木)から転訛した。・きぬかけの道 (宇多天皇)が夏に雪を見たい云々から・せせらぎの道 陶工(青木木米)旧宅付近から川端通と縄手通の間を三条通まで・哲学の道 (若王子橋)から(銀閣寺橋)まで (西田幾多郎*)(河上肇¥)(田辺元※)らが散策 *代表著作(善の研究) ¥(マルクス主義)の研究と紹介 著書(貧乏物語) ※代表著作(科学概論) 石碑は(西田幾多郎)「人は人、吾はわれ也、とにかくに吾行く道を吾は行くなり」 関雪桜は画家橋本関雪の妻(米子)が植えた・ねねの道 (高台寺道)とも呼ばれる・維新の道 南側には(霊山歴史館)がある。 途中から急な坂道を登ると(正法寺)がある・千代の古道・鳥と遊ぶ道・あじろぎの道 あじろぎ=(網代木)で、(網代漁)の(網代)を繋ぐ杭 ・さわらび さわらび=(早蕨) (朝霧橋)の手前から宇治神社の方へ曲がる 宇治川に沿った通りを(朝霧通)と呼ぶ●京都の自然・京都の美しさを表現することば 山紫水明 (山河襟帯)・東山三十六峰を(松尾芭蕉)門下の(服部嵐雪)は (「布団着て 寝たる姿や 東山」)と詠んだ。 ・深泥池標高(75メートル)、東寺近辺標高(24メートル)・山の斜面からの冷たい風 (比叡おろし(愛宕おろし)・京都全体が自然の博物館 (京都丸ごとエコミュージアム)・生物生息空間 (ビオトープ)・自然環境と共生する観光 (エコツーリズム)・鞍馬・貴船 貴船渓谷の昆虫 (ムカシトンボ)(スギタニルリシジミ)・深泥池 天然記念物(深泥池生物群集) 生きている化石 (ミツガシワ)(ホロムイソウ)・糺の森・半木の森・京都御苑・京都盆地三山 (京都一周トレイルコース)が作られた。 全長(約70キロ) (江文峠)(京見峠)を通る。・平成9年開催の(地球温暖化防止京都会議(COP3))を記念して (京エコロジーセンター=京都市環境保全活動センター)が開設された。 場所は伏見区深草 ・天然記念物(京都市) 久多(大杉) 市登録 花背(ダイスギ)市登録 花背(天然伏条台杉)市指定 貴船神社(カツラ)市指定 由岐神社(スギおよびカノゴキ)市指定 岩屋山志明院(岩峰植生)市指定 古知谷(カエデ)市指定 宝泉院(ゴヨウマツ)市登録 比叡山(鳥類繁殖地)◆国指定 霊鑑寺(日光椿)市指定 哲学の道(ゲンジボタルおよびその生息地)市登録 青蓮院(クスノキ)市登録 知恩院(ムクロジ)市登録 東山(洪積世植物遺体包含層)◆国指定 新熊野神社(オオクスノキ)市指定 東福寺(イブキ)市登録 柊野(チリツバキ)市指定 大田ノ沢(カキツバタ群落)◆国指定 深泥池(生物群集)◆国指定 天寧寺(カヤ)市登録 大徳寺(イブキ)市指定 総見院(ワビスケ)市指定 鹿苑寺(イチイガシ)市指定 白峯神宮(オガタマノキ)市指定 旧府知事公舎(エノキ)■府指定 武信稲荷神社(エノキ)市指定 西本願寺(イチョウ)市指定 清滝川(ゲンジボタル及びその生息地)◆国指定 月輪寺(ホンシャクナゲ)市登録 松尾大社(カギカズラ野生地)市指定 吉峯寺(遊龍松)◆国指定 金剛王院(ヤマモモ)市登録 金札宮(クロガネモチ)市指定 御香宮神社(ソテツ)市登録 御香宮神社 ソテツ 追加(常照寺)の(九重ザクラ) 国指定 右京区京北下黒田の伏条台杉群 府指定 右京区京北白山神社のカシ 市指定 右京区京北福徳寺のサクラ 市指定 右京区京北慈眼寺のイチョウ 市指定 右京区京北八幡宮のスギ 市指定 右京区京北正法寺のカヤ 市指定 右京区京北日吉神社のケヤキ 市指定 右京区京北片波西谷のトチ 市指定 右京区京北<府の天然記念物で地学的なもの>(質志)鍾乳洞 府指定 船井郡京丹波町(夜久野玄武岩柱状節理)府指定 福知山市<京都市以外の国の天然記念物>(オオミズナギドリ繁殖地) 舞鶴市(冠島)(郷村断層)京丹後市網野町(琴引浜)京丹後市(稗田野の菫青石仮晶(きんせいせきかしょう)) 亀岡市よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村__________________________________「京都検定過去問」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=28「京都検定出題傾向分析」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=30「京都検定勉強」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=31
2015/12/12
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京都の地名の解答です。問題は作ったものの、12月12日 試験前日です。解答する時間もなくなってしまいました。問題に直接正解を入れて投稿します。●通り名・数え歌・戯れ歌 (坊さん頭は)丸太町 (つるっとすべって)竹屋町 (水の流れは)夷川二条で買うた(生薬を)(ただでやるのは)押小路(御池)で出会った(姉三)に (六銭)もろて(蛸)買うて 錦で(落して)(四かられて) (綾まった)けど(仏々と)(高が)しれてる(松(ま)ど)したろ・五条通り以南(雪駄ちゃらちゃら)(魚棚) (六条)(三哲)通りすぎ(七条)こえれば(八、九条)、(十条)(東寺)でとどめさす・南北の通り (近松門左衛門)の(浄瑠璃)(堀川波鼓(なみのつづみ))に登場 (高倉通)が抜けている。 寺、御幸、麩屋、富、柳、堺町、相(間)の東は(玉敷の) (御垣(みがき)に囲ふ五つ緒の)、車、烏丸、両替、室 衣、新、釜、西、小川、油、醒ヶ井、堀川の (岸の平砂(へいさ)を白波に、照らせば今も夏の夜の・・・)・江戸中期の雑俳集(口よせ草)に 「(九重)(都の意味)は上がる下がるでむずかしい)」●路地と辻子・辻子の数 (京羽二重) 47ヵ所 (京(花洛)羽津根) 91ヵ所・了頓図子 桃山時代の茶人(広野了頓)の屋敷があった。・革堂図子・だいうすの図子 キリスト教の建物があって(デウス)が訛ったとの説 (大休寺)が転訛したという説・膏薬図子 (空也上人)が一宇を建て、悲運の武将(平将門)の霊を弔い、 (空也供養の道場)と呼ばれた。それが訛ったという。・団栗図子 (天明の大火)の火元はここの民家といわれ、この火事を(団栗焼け)ともいう。●難解、ユニーク地名<難読地名>・不明門通(あけず) 因幡平等寺の正門が閉まっていた・化野 (雍州府志)では「化」は(阿太)・一口(いもあらい) 巨椋池西岸。三方が沼地で(入口)が一方にしかなかった。 もともとの(芋洗)に一口の文字があてられた。・太秦 この地を領した(秦氏)が、朝廷に絹を献上するとき(うずたかく積み上げた)から という説 (絹糸)が(巴渦)の形をしていたからという説・御室 (光孝天皇)が(仁和寺)を造営。完成は(宇多天皇)のとき。 (宇多天皇)は法皇となって、仁和寺内に(御室(御座所))を営んだ・鶏冠井(かいで) 何らかの(井戸)や(名水)が存在したと推定。 明治10年代編纂の(京都府地誌)では、(継体天皇)の時代、この地に(三井)が あり、(井戸)の傍らに(老楓)があった。その(楓)が(鶏冠)に似ていたこと からこの地名になったという。・帷子の辻(かたびら) (上嵯峨・下嵯峨・太秦・常盤)への別れ道。 その道が北側のみに分岐していたからという説。 (嵯峨天皇)の皇后(檀林皇后)の(嵯峨深山谷)への葬送の際、棺を覆った (帷子の衣)が風で落ちたという説。・釜座通(かまんざ) 正応2年(1289)に「(三条まちかまのざの弥藤三(やとうざ))なる者」の 活動が書かれている。・雲母坂(きららざか) (修学院)から延暦寺(根本中堂)に至る山道。 江戸時代の(山州名跡志)(白慧(坂内直頼))撰)によると、この坂道は (夕雲が覆い)都から見ると雲が生ずるようなので、この名になった。 ・神足(こうたり)(長岡京市) 地名としてはカンタリ、神社名としてはカウダニ、カムタリなどの読みが伝えられて いる。・御幸町(ごこまち) (豊臣秀吉)が(御所)に参内するとき必ずここを通ったからとする説。 ~(京羽二重)による (山州名跡志)ではこれを否定し、御幸とは(仙洞(上皇)・天子)の御行・鹿ヶ谷 (智証大師・円珍)がこの地を訪れた際に、一頭の鹿が現れて(円珍)を案内した というエピソードが(京都府地誌)にある。 (平家打倒)の陰謀を企てた(僧俊寛)の山荘があった。・直違橋(すじかい) (伏見街道)に対し(七瀬川)が斜めに流れて交差したので、橋が斜めにかけられた。・糺の森 「糺」は(只洲)から生まれた名称。 平安時代は(潔斎(みそぎ))の場所 (新古今和歌集)には(平貞文)の 「偽りを糺の森の木綿襷(ゆうだすき)かけつつ誓へ我を思わば」の歌。・天使突抜通・椥辻(なぎつじ) 古来神聖な樹木であるナギがあったことから。 応仁2年(1468)の記録には、京都公家山科家の知行地として(南木辻)の文字も見え る。・納所(のうそ) 物資の荷揚げ場として重視された(淀津)があった。 倉庫などが設置されこの地名になった。・先斗町 ポルトガル語でポントは(先)という意味。 この付近は(御崎)と呼ばれていて、今も(岬神社)がある。 ・御陵(みささぎ) (天智天皇山科陵)が所在のため・壬生 <ユニークな町名>・閻魔前町 (定覚上人)が引接寺(千本閻魔堂)を創建・柏清盛町 (柏野町・清玄町・盛下町)が合併・丁字風呂町・百々町 元禄3年(1690)刊行の(名所都鳥)には百々氏が住んだことによると記されている。・堀出シ町 (室町幕府)の堀が周囲にあった。・悪王子町 (スサノオの荒神)を祀る悪王子社があった・匂天神町 ・二帖半敷町 (五条寺)があり、住職が二人の弟子に寺を二つに分けて与えた・墨染町 (薄墨桜)で知られる墨染寺がある・髭茶屋町・(東海道)と(伏見街道)の分岐点で、髭をたくわえた老人が茶屋を営んでいた。・骨屋町 (扇の骨)を作る職人が住んでいた・正面町 (方広寺大仏殿)の正面よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村__________________________________「京都検定過去問」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=28「京都検定出題傾向分析」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=30「京都検定勉強」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=31
2015/12/11
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京の俗諺・伝説の解答です。 問題は作ったものの、12月12日 試験前日です。解答する時間もなくなってしまいました。問題に直接正解を入れて投稿します。●京の俗諺(ポイントピックアップ)・(東男に京女) 男性は気前のいい江戸の男がいい、女性は美しくて優しい京都の女がよい・(伊勢)へ(七たび)(熊野)へ(三たび)(愛宕様)へは(月参り) 愛宕神社への信仰の深さを表す・(一見さん)、お断り・(稲荷詣)に(愛宕詣) 雲が(お稲荷さん)の方向に行くと晴れ、(愛宕さん)の方に行くと雨・(鰻)の寝床・(お水取り)がすむと春がくる・(鴨川の水)(双六の賽)(山法師) (白河院)でさえ思うようにならなかったもの。・(鴨川)の水で顔を洗うと(きれいに)なる (鴨川)の水を産湯に使うと(美人)になる・京では(右)と(左)が逆になる ・京に多きものは(寺)と(女)・京の(底冷え) 冬の寒さ・京の(茶漬け) 口先だけで実がない 他家を訪問する客の心得・京は(お口)の(べっぴん) うわべだけ・清水の舞台から飛び降りる・(弘法さん)が晴れやったら(天神さん)は雨や 東寺の弘法市が(21日)、北野天満宮の天神市が(25日) 5日程度で天気が変わる・(白川夜船) 知ったかぶり。ぐっすり寝ることもさす。・(比良の八講荒れ終い) 滋賀県高島市の(白鬚神社)で延暦寺の宗徒が行う法要があり、この法要 が行われる(3月20日)過ぎは寒さがぶり返し、琵琶湖周辺では冷たい 風が吹き荒れる。これが終わると京都にも本格的に春が訪れる。●京都の伝説(ポイントピックアップ)・蜘蛛塚 上品蓮台寺・宗旦狐 宗旦狐の掛軸があるのは、相国寺塔頭の(慈照院)・撞かずの鐘 報恩寺 (八半)という織屋の丁稚と織子の話。 鐘を撞く回数を、丁稚は(八つ)、織子は(九つ)と主張云々。・鬼門の猿 京都御苑・道真の登天石 水火天満宮 菅原道真は(藤原時平)の讒言で大宰府に左遷。 都で雷が起こると道真の祟りと恐れられ、(醍醐天皇)まで不安をいだいた。 道真が師と仰いだ延暦寺の(法正坊尊意僧正)に祈祷させることになった。 御所に向かう僧正の前で、(鴨川)の水が溢れ出したので、数珠をひと揉み すると水流が分かれ、石の上に道真が現れたがすぐに消えた。 僧正はこの石を持ち帰り、道真の霊を供養した。・太閤の石仏 北白川 ・革堂の幽霊絵馬 革堂の近所の(質屋)に(おふみ)という子守娘がいた。 (御詠歌)を子守歌のように歌った。 質屋の主人が快く思わず、彼女をなぐると死んでしまった。 父親は彼女が行方不明と聞かされたが、合点がいかず、革堂の観音様にすがる と彼女が現れ、殺された告げる。父親はその亡霊を絵馬に描かせ、鏡といっ しょに革堂に奉納した。・へそ石 六角堂 (聖徳太子)が(四天王寺建立)の用材探し。 沐浴後、(多良の木)に架けていた(念持仏(如意輪観音))が木から離れない。 霊域と悟り、六角堂を建立。 平安京造営で、お堂が道筋にあたるので、勅使が祈ると、六角堂が自ら北に 退いた。その跡に残ったのが「へそ石」・こぬか薬師 (薬師院) 本尊の薬師如来が(織田信長)の勧請で(美濃)の国から(薬師院)に移された。 疫病がはやった。住職の夢枕に立った如来の「一切の衆生よ わが前に参ぜよ こぬか こぬか」とのお告げ。人々が祈ると難病が消えた。・弁慶石 弁慶は三条京極に住んでいた。遺愛の石があった。弁慶は(義経)とともに 奥州(高館)で最期をとげ、石がその地に移された。石が「三条京極」に戻りた いとわめきだし、熱病も流行った。弁慶の祟りと恐れ、石を京都に送り返した。 男の子が触れば(力持ち)になるとか、(病魔)や(火災)から逃れられると という。・忠盛燈籠 八坂神社 (白河院)が(祇園女御)に会うために平忠盛を伴って、祇園社を通っていると、 北の森に明かりがついて怪しげな姿。忠盛がよく調べると、燈籠に火を入れる 社僧であった。・蹴上の石仏 (牛若丸)が(金売吉次)に伴われて(奥州)へ下るために(九条山)の坂に 差しかかったとき、坂を降りてくる平家の武士(関原与一重治)ら一行(9人) と出くわした、そのとき(与一)が(水溜りの水)を(牛若丸)に蹴りかけた ことから(牛若丸)は9人を斬り倒した。この9人を弔うため、9体の地蔵を 安置した。・六道の辻 六道とは(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上) ・相槌稲荷 (三条小鍛冶宗近)が(後一条天皇)から鎮護の刀をうつことを命ぜられた。 云々・・・・名刀(小狐丸)を打ち上げた。 童子の正体は稲荷のキツネの化身だった。・百夜通い 隨心院・すすき塚 了徳寺・業平の塩竃跡 十輪寺・明智藪 伏見区小栗栖・長明方丈石 日野 方丈石は(千人(ちびき)石)とも呼ばれる・橋姫 橋姫神社 夫が外に女を囲い、女房が(貴船神社に丑の刻参り)を続けた。 水神が(宇治川)で(21日間つかり続ける)と(鬼になれる)と告げた。 女房は鬼になり、男女を殺した。この女房を橋姫と呼んだ。・宇治の亀石 (豊臣秀吉)が(伏見城)を築いたとき、(宇治川)の水を城内に引くため、 地下水道を引かせた。取り込み口にカモフラージュのために、亀の石を置いた。・一文橋 長岡京市 日本最初の有料橋 (小畑川)にかかる。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村__________________________________「京都検定過去問」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=28「京都検定出題傾向分析」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=30「京都検定勉強」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=31
2015/12/11
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京ことばについての解答です。問題は作ったものの12月12日 試験前日です。解答する時間もなくなってしまいました。問題に直接正解を入れて投稿します。●京ことば(難解なもののみ)・アイサニ (まれに、時々)・アイフサギ (性が合わない)・アカル (雨が止む)・アンスル (お辞儀する(幼児語)。もてあますの意も)・イカキ (ざる)・イタオミキ (酒粕)・イチハナダッテ (最初に)・エンバント (あいにく。折り悪しく)・オブー (お茶・飲みごろの熱さ)・オヤカマッサン (お邪魔しました)・カニココ (ぎりぎり)・キズイ (きまま)・シカツイ (しかつめらしい。大人らしい)・セツロシイ (気ぜわしい)・セングリ (次から次へと)・ダイジナイ (さしつかえない)・ダンナイ (さしつかえない)・ダンバシゴ (家の中の階段)・チョコチョコバル(しゃがみこむ)・ドクショーナ (残酷な)・ナガタン (包丁)・ニチリンサン (太陽)・ノジ (口の中での食物の持ちこたえ)・ノツコツ (もてあますさま)・ハバカリサン (ご苦労さん。ありがとう。)・ハンナリ (上品で明るく晴れやかなさま。主として色合いについていうことが多い)・ヒマセ (作ってから日数の経た食べ物)・ブブ (お茶・熱いお茶)・ブンブン (黄金虫)・ホッコリスル (ほっとする。疲れがでる。)・ホドライ (適当)・ヤクタイ (迷惑)・ヤスケナイ (品がない)・ヨサリ (夜)・ヨダチ (夕立)京ことばかるたよろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村__________________________________「京都検定過去問」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=28「京都検定出題傾向分析」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=30「京都検定勉強」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=31
2015/12/11
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京都にならわしについての解答です。 問題は作ったものの、12月12日 試験前日です。解答する時間もなくなってしまいました。問題に直接正解を入れて投稿します。●京都のならわし(ポイントピックアップ)・赤ちゃんの額に大小の文字 ・家の鬼門に(南天)や(柊)を植える 節分には(柊)に(鰯の頭)をさして門口に立てる・家の敷居を踏んではいけない 敷居は(人の頭)を表すともいう 表、裏、中の座敷の敷居はそれぞれ(父・母・子供)という・亥の日の(火入れ) (11月)最初の亥の日に(火入れ)をする。亥は(火を鎮める)ことから 茶をたしなむ人は(風呂)から(炉)に代え、(炉開き)をする・岩田帯 長さは(末広がり)の縁起をかついで(八尺) (五か月目)の(戌の日)を選ぶ (わら天神)(矢田寺)の帯や、祇園祭の巡行後に船鉾町で授与される(神功皇后) の像に巻かれた帯など・お祝い 大安を中心に(先勝)(友引)の(午前中)・おくどさんの布袋 おくどさんの(荒神棚)に布袋さんを並べる。 (初午)に(伏見稲荷)を参拝し、毎年、小さいものから大きいものへ買い足す。 (7年間)続けると(七福神)に通じる。・送り火のから消し (半紙)にくるみ(水引)をかけて、家の門口に吊るすと、(厄除け)、 (盗難除け)になる。煎じて飲むと(腹痛)に効く・をけら詣り ・お正月のほうき・おため お祝いへの返礼。(おうつり)ともいう。 (1割)を(一帖の半紙)とともに返す。 返礼が整わない場合は、(白紙)を(2枚重ねて、四つ折り)にして返す。 これを(うつりがみ)(おためがみ)という。 弔事には「重なる」といけないので紙を入れずに返す。・おばさんが笑うたはるエ!・万年青(おもと) (転居)の際、これを植えて(入居)する。・お宮詣り 産着の肩に白紙で包んだ(扇)などを(麻糸)でくくる。 お祓いが済むと、(菱格子)などにくくりつける・お嫁入りの時、戻り橋を渡らない 戻り橋は(堀川一条)にある。 文章博士(三善清行)が没したことを聞いた子の(浄蔵貴所)の逸話による。・家庭料理は出さない・門掃き ・祇園祭には胡瓜を食べない・祇園祭の粽 (蘇民将来之子孫也)と書いた護符がついている。 (牛頭天王※)が旅の途中で云々の逸話に基づく。 ※は八坂神社摂社(疫神社)の祭神・黄白の水引 (御所)で使う紅白の水引きが、黒白の水引に近い色だったので、(仏事)用 水引は黄白を使った。(浄土)を表す、(黄泉の国)も黄であることからも。 ・(キズ) (木酢)(生酢)と書く。梅干をつけるとき、塩漬けにした青梅から最初に出て くる酸味の強い薄茶色の溜まり水をいう。これをお腹が痛いときに飲ませたり、 食当たりや水当たりの予防として飲んだりする。二日酔いにも。・許可が出るまで(嫁隠し)を越えない 京町家の(通り庭)(走り庭)の中間にある板や衝立を(嫁隠し)と呼ぶ。・事始め (12月13日)(鏡餅)を持ってあいさつ。 この日以降(オコトーサンドス)と挨拶。・十三まいりの後、渡月橋を渡りきるまで振り向かない・鍾馗さん (玄宗皇帝)が病に伏したとき、鍾馗が鬼を退治する夢を見て、病気がたちまち 治った。 京都では(三条の薬屋)が家を新築して(鬼瓦)をのせた云々の逸話がある。・葬礼 お葬式や霊柩車に出会うと、(握りこぶしの中に親指を入れて隠す) (親)を死から遠ざけるため・大文字の「大」を飲む・出されたものは少し残す・食べ初め 生後(百十日め)または(百二十日め) (お食い初め)(箸ぞろえ)(箸はじめ)ともいう。 (お頭付き)(赤飯)(吸い物)(なます)のほかに(石)が添えられる。 (石)は(歯)が丈夫になるように。(吸い物)は(吸う力)がつくように。 (タコの足)を吸わせるところもある。・(脱いだ) 外出の直後に服のほころびがあったり、ボタンが取れていたとき、これを 3回唱え、服を着たまま直す。呼吸を置くことで、体に針を刺さずに裁縫を することができる。・履物をはいたままおろさない (棺桶)を運び出すのに、(藁ぞうり)を履いたまま家の中から降りたから。 (死んだ人)にも(藁そうり)を履かせるが、そのまま家の中から外におろした。・果ての二十日 (12月20日)のこと。 江戸時代、(粟田口)では、その午後最後の(刑の執行)が行わるので、この 日を忌んで、(お歳暮)や(正月)の準備を差し控えた。 罪人は最後の願いを一つだけ聞いてもらえるので、外に出た罪人に目をつけら れるのを避けるため、とりわけ(女の子)を外に出さなかった。・火廼要慎の護符 多くの家では(阿多古祀符火廼要慎)と書かれた護符が台所に貼られている。 ・無言詣り 一心に願うことで成就につながる。 (祇園祭)の(花街)のこれが有名。 (7月14日)から(7月24日)まで、(四条寺町)の(御旅所)に神輿が鎮座する、 (鴨川)を渡り、(御旅所)まで無言で詣でる。 (深夜)に詣でる人が多い。・(柳箸) 正月は両端が削られた(柳箸)で、お雑煮やお煮しめをいただく。 (歳神様)とともにお正月を祝うため。 よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村__________________________________「京都検定過去問」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=28「京都検定出題傾向分析」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=30「京都検定勉強」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=31
2015/12/11
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京都の観光についての問題です。・祇園祭の神輿 ・祭神 中御座 ( ) 東御座 ( ) 西御座 ( ) ・神幸祭 ( 、 )の氏子地域を巡回 還幸祭 ( )の氏子地域を巡回 ・御旅所の変遷 天延2年(974) ( ) 円融天皇の時 のちに ( 北)の( ) 長和2年(1013) ( )の( )(一般に( )) 天文5年(1536) ( の乱)で焼失 天正19年(1591) ( )の( 整備)で( )・( ) 中国使節を宿泊・接遇する施設が2ヶ所あった。 ( )の北、( )の左右。 ( 寺)( 寺)を造営するにあたり、( )の北に移転・平成17年 ( )オープン・西国三十三所観音霊場 ( 天皇)が再興したといわれる ・京の名所案内 ・( ) 京童 ・( ) 京雀 ・( ) 京羽二重 ・( ) 都名所図会 都名勝林泉図会 ・( ) 見た京物語 ・( ・ ) 羇旅漫録 ・( ) 雍州府志 ( ) ・( ) 京大絵図 ・( ) 東海道中膝栗毛・京の七口 定まっていないが次のようなものがある。 ・( 口)鞍馬街道 ・( 口)若狭街道 ・( 口)山中越 ・( 口、 口)東海道・中山道 ・( 口、 口)伏見街道 ・( 口)伏見港へとつながる竹田街道 ・( 口、 口)西国街道、鳥羽街道 ・( 口)山陰街道 ・( 口、 口)京見峠を越え杉坂に至る長坂越・粟田口 三条大橋は、天正18年(1590)( )の命で奉行( )が大改造 三条大橋東詰めには( )の銅像・京都駅 明治9年、大阪・京都のおか蒸気開通で、( 停車場) 初代は明治10年( 停車場)に 二代目は( )を前に大正3年( 造り)日本一の規模 三代目昭和27年 四代目平成9年 ( 段)の階段 ( )( 広場)( ※)が目印の( 広場) ※( )作 美術館( ) ・市内観光と市電 ・日本初の路面電車 明治28年 ( )( )間 会社名( ( ))の( 線) ・明治45年 市電 ( )( )( )( )の4路線 大正に( )( )( ) ・大正7年 市電が京電を買収 北野線を走った電車は( )または( )と呼ばれた これが最後まで走った北野線は昭和36年に廃止。 ・市電 昭和53年全線廃止 ・昭和56年 地下鉄烏丸線( ~ )開業 平成9年 東西線 ( ~ )開業・観光タクシー ガイド嬢が同乗した( タクシー)が昭和29年に登場 ・美術館 ・京都府京都文化博物館 この別館はもとは( 支店) 設計は、設計は( )とその弟子( ) ・京都国立博物館 本館は( 館) 設計は( ) 新館は( 館) 設計は( ) ・京都市美術館 ( 記念)で全国( 番目)の( 博物館)として開館 設計は( ) ・京都国立近代美術館 設計は( ) ・京都府立陶板名画の庭 設計は( ) ・アサヒビール大山崎山荘美術館 ( )氏の「大山崎山荘」 ( )氏設計の新棟 ・京都市考古資料館 設計 ( )・公共施設 ・京都会館 設計( ) ・京都コンサートホール 設計( ) ・京都府立図書館 設計( ) ・京都国際会館 設計( ) ・京都市勧業館(みやこめっせ)設計( )・公共庁舎 ・京都府庁旧本館 設計( ) ・京都市庁舎 本庁舎 設計 ( 、 )・その他 ・平安神宮 設計 ( ) ・祇園閣(元 別邸)の一部、現( ) 設計( ) ・真宗信徒生命保険(現 ) 設計( ) ・京都駅 設計( ) ・京都タワー 設計管理( ) 構造設計( ) ・京都大学 時計台 設計( ) ・円山公園 設計( ) ・京都高等工芸学校本館(現 京都工芸繊維大学3号館) 設計( ) ・弥生会館 設計 ( ) ・先斗町歌舞練場 設計 ( )・姉妹都市 9市 ・(・・・・・・・・・・・・・・)・観光行政 ・昭和25年 ( 建設法)適用 ・昭和31年 ( )制定 ・昭和47年 (京都 )開設 ・昭和53年 ( 宣言) ・平成6年 ( 会議)京都開催 ( 連盟)設立 ・昭和62年 ( センター)開所 ・平成元年 ( 会館)開館 ・平成9年 ( 会議・ )京都市で開催 ・平成17年 ( )発効 ・平成11年 (京都市 ( ))策定 ・平成13年 (京都市 )策定 (京都市 - プラン)策定・コンベンション施設 ・( ) ・( ( )) ・( 会館( )) ・( 京都) ・( プラザ) ・(京都 ) ・(京都市 会館) ・(国立 会館)__________________________________「京都検定1級過去問トライアル」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=28「京都検定1級過去問出題傾向分析」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=30「京都検定1級受検直前勉強」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=31よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/12/11
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京の町並み、京都の散歩道、京都の自然についての問題です。●京の町並み・昭和41年 国( における の に関する特別措置法) =( 法) ( 区域※)を国土交通大臣が指定 その区域内で( 地区*)を指定 現在の※14区域。*24地区 (・・・・・・・・・・・・・・)・昭和47年 京都市( 地区) 外観デザインの伝統的様式を継承 ( 地区)が最初・昭和50年 国( 法) ・( 地区)制度 ・京都市の4ヶ所はすべて( 地区) ( )( )( )( ) 京都府も含めると ( 市 町 )( 町 )( 町 )・1980年代後半以降、マンション建設の進んだ地域を( 地域)という。 ( 通)( 通)( 通)( 通)に囲まれた地域・平成7年 京都市( 条例) 制度 ・( 地区) ( )( )( ) ・(界わい景観整備地区) ( )( )( )( ) ( )( )( )・平成9年 (京都市 等に関する条例)・上賀茂 伝統的建造物群保全地区 ( )沿いの( )一帯。 屋根に( ) 武家住宅同様( )の座敷と( )の部分に分かれる。 入口も( )と普段用の( )の2つがある・西陣 奥に織機を数台置く形式の町家を( )と呼んだ●京都の散歩道・半木の道 現在植物園の鎮座する神社は( 神社)。( )から転訛した。・きぬかけの道 ( 天皇)が夏に雪を見たい云々から・せせらぎの道 陶工( )旧宅付近から川端通と縄手通の間を三条通まで・哲学の道 ( 橋)から( 橋)まで ( *)( ¥)( ※)らが散策 *代表著作( ) ¥( )の研究と紹介 著書( ) ※代表著作( ) 石碑は( )「人は人、吾はわれ也、とにかくに吾行く道を吾は行くなり」 関雪桜は画家橋本関雪の妻( )が植えた・ねねの道 ( )とも呼ばれる・維新の道 南側には( )がある。 途中から急な坂道を登ると( 寺)がある・千代の古道・鳥と遊ぶ道・あじろぎの道 あじろぎ=( )で、( )の( )を繋ぐ杭 ・さわらび さわらび=( ) ( )の手前から宇治神社の方へ曲がる 宇治川に沿った通りを( 通)と呼ぶ●京都の自然・京都の美しさを表現することば 山紫水明 ( )・東山三十六峰を( )門下の( )は (「 」)と詠んだ。 ・深泥池標高( メートル)、東寺近辺標高( メートル)・山の斜面からの冷たい風 ( おろし)( おろし)・京都全体が自然の博物館 ( )・生物生息空間 ( )・自然環境と共生する観光 ( )・鞍馬・貴船 貴船渓谷の昆虫 ( )( )・深泥池 天然記念物(深泥池生物群集) 生きている化石 ( )( )・糺の森・半木の森・京都御苑・京都盆地三山 ( )が作られた。 全長(約 キロ) ( 峠)( 峠)を通る。・平成9年開催の( 会議( ))を記念して ( =京都市 )が開設された。 場所は伏見区深草 ・天然記念物(京都市) 久多( ) 市登録 花背( )市登録 花背( )市指定 貴船神社( )市指定 由岐神社( および )市指定 岩屋山志明院( )市指定 古知谷( )市指定 宝泉院( )市登録 比叡山( )◆国指定 霊鑑寺( )市指定 哲学の道( および )市登録 青蓮院( )市登録 知恩院( )市登録 東山( )◆国指定 新熊野神社( )市指定 東福寺( )市登録 柊野( )市指定 大田ノ沢( )◆国指定 深泥池( )◆国指定 天寧寺( )市登録 大徳寺( )市指定 総見院( )市指定 鹿苑寺( )市指定 白峯神宮( )市指定 旧府知事公舎( )■府指定 武信稲荷神社( )市指定 西本願寺( )市指定 清滝川( 及び )◆国指定 月輪寺( )市登録 松尾大社( )市指定 吉峯寺( )◆国指定 金剛王院( )市登録 金札宮( )市指定 御香宮神社( )市登録追加( 寺)の( ) 国指定 右京区京北下黒田の伏条台杉群 府指定 右京区京北白山神社のカシ 市指定 右京区京北福徳寺のサクラ 市指定 右京区京北慈眼寺のイチョウ 市指定 右京区京北八幡宮のスギ 市指定 右京区京北正法寺のカヤ 市指定 右京区京北日吉神社のケヤキ 市指定 右京区京北片波西谷のトチ 市指定 右京区京北<府の天然記念物で地学的なもの>( )鍾乳洞 府指定 船井郡京丹波町( )府指定 福知山市<京都市以外の国の天然記念物>( ) 舞鶴市( )( )京丹後市網野町( )京丹後市( ) 亀岡市よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村__________________________________「京都検定過去問」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=28「京都検定出題傾向分析」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=30「京都検定勉強」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=31
2015/12/11
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京菓子#1(歴史、季節の行事の京菓子、寺社・街道・関所ゆかりの菓子)の解答です。問題は作ったものの、12月12日 試験前日です。解答する時間もなくなってしまいました。問題に直接正解を入れて投稿します。●京菓子の歴史・京菓子は、京都では(朝廷への献上菓子)に由来し、(上菓子)と呼ばれた。・京菓子が影響を受けた菓子 中国から伝来・・・(唐菓子)(遣唐使)が持ち帰った 喫茶とともに広がった・・・(点心) 16世紀にヨーロッパから伝わった・・・(南蛮菓子)・唐菓子・・・(八種唐菓子) (梅枝)(桃枝)(団喜※)など ※は(清浄歓喜団)として伝えられる 清浄歓喜団 ・点心・・・(栄西禅師)が(禅)とともに(茶)を持ち帰り、広まった。 (饅頭)(羊羹)(水繊※)(水晶包子(パオズ)*)、(索麺)など ※は(葛切り)に*は(葛饅頭)に変化・南蛮菓子 (カステラ・ボーロ、金平糖、有平糖、鶏卵素麺)など・江戸時代 ・安永4年(1775) 菓子屋を248軒に制限する(上菓子屋仲間)ができる ・有職故実にちなんだ(有職菓子)が作られた ・茶の湯の菓子 濃茶用(主菓子)・・・(蒸・生菓子) 薄茶用(干菓子)・・・(落雁・煎餅・有平糖など) 家元の好んだ菓子・・・(好み菓子)●季節の行事の京菓子(ポイントピックアップ)・亥の子餅・・旧暦(1O月)の(亥の日)に食べる (多産)のイノシシにちなみ(子孫繁栄)の願いも 茶家では(開炉)の日・嘉祥(かじょう)菓子 陰暦(6月16日)、(嘉祥食(ぐい))の儀式にちなみ食べる。 ・かしわ餅 ・(端午の節句)に用いられる ・(小豆)と(味噌)の二種類の餡 ・柏の葉は(ゆずり葉)といい、(子孫繁栄)を願う ・柏餅を包む手つきが(神前でかしわ手を打つ姿)に似ているので、 (武運を祈願)する端午の節句にふさわしい・きつね面 (伏見稲荷大社)の(初午大祭)や(節分)にちなみ(茶席)でとりあわ せる(干菓子)。(白狐)を表現・行者餅 ・祇園祭(役行者)山ゆかり ・(山椒味噌)が使われる ・(柏屋光貞)の当主が(大峰山)修行中に霊夢を受けて作った。 ・(宵山)に限り販売・さくら餅 (道明寺粉)で(こし餡)を包むのが京都風・真盛豆 ・香ばしく炒った(黒豆)を(州浜粉)で包み、表面に(青海苔)をまぶした ・天台宗(真盛派)の開祖(慈摂大師(真盛上人))が(北野)で辻説法する とき、炒った(黒豆)に乾燥させた(大根の葉)をかけ、聴衆にふるまった のが始まり ・(豊臣秀吉)が(北野大茶湯)で、茶事に合う豆菓子としてほめた。・洲浜 ・(大豆)を煎って粉にし、(飴)などを混ぜて練り上げた菓子。 (きな粉)よりも浅く炒った(州浜粉)を使う ・有職の(州浜台)や(島台)に由来し、(蓬莱山)や(秋津島)を表すといわ れる。・ちご餅 ・(7月13日)、祇園祭の長刀鉾の稚児が位をいただく(「お位」もらい)の式 が八坂神社本殿で行われる。そのときに供える。 ・(二軒茶屋 中村楼)が代々氏子として献じてきた ・同店で(7月13日)から(7月31日)まで食べることができる。 ・(二條若狭屋)では、それに由来する(祇園ちご餅)を販売している。・粽(ちまき)・はなびら餅 ・(正月)を代表する伝統菓子の一つ ・(味噌餡)(牛蒡)が使われる ・宮中の正月行事食の(菱葩(はなびら))が原型 ・(裏千家)の(初釜)で使われる・引千切 ・(菱餅)や(草餅)などと並び(雛祭り)に欠かせない ・先端を(ひきちぎる)形状から付いた名で(子だくさん)を意味する。 ・(ひきちぎり)(あこや)ともいう ・平安時代、宮中で祝儀に用いられた(戴餅(いただきもち))がルーツという・(吹き寄せ) 楓、銀杏、松葉、松毬(まつぼっくり)、栗、きのこなどが干菓子盆に美しく 盛られる・松風 ・(亀屋陸奥)の当主が、一向一揆制圧のため攻撃された(石山本願寺)に兵糧と して献上した。 ・(顕如)が「わすれては波のおとかとおもうなり枕に近き庭の松風」と詠んだ歌に ちなんだ名前・水無月・麦代餅 (中村軒)の名物・清浄歓喜団 ・(密教の祈祷)の際に供えられる ・(御団)(聖天さん)とも呼ぶ ・(ハッカ)(丁字)(肉桂)など、(7種)の香りが混ぜられている。 ・(亀屋清水)で販売●寺社・街道・関所ゆかりの菓子・あぶり餅・粟餅 (粟餅所澤屋)の名物菓子・おせき餅 (鳥羽街道)の名物菓子・鎌餅 ・ (鞍馬口)の茶席で売られた ・ 鎌に似た形状から命名され、(豊作)を祈る菓子でもある ・(大黒屋鎌餅本舗)が販売・唐板 (水田玉雲堂)で販売・狐煎餅・幽霊子育飴 ・(麦芽糖)の風味が特徴 ・ (みなとや幽霊子育飴本舗)で販売・長五郎餅 ・(豊臣秀吉)が(北野大茶湯)で賞賛 ・(長五郎本舗)で販売・どら焼 ・(東寺)の(修行僧)の(おやつ)に考案 ・(笹屋伊織)で(毎月20日~22日)のみ販売・走井餅 ・(走井餅老舗)の菓子 ・もともと(大津)にあり、(歌川広重)の(東海道五十三次)にも登場・鳩餅 ・(三宅八幡茶屋)で販売 ・(肉桂)と(抹茶)の風味・法螺貝餅 ・(白味噌)(牛蒡)が使われる ・法螺貝には(悪霊退散)の意味があり、(厄除け)の菓子 ・もともとは(ふのやき)という菓子に似ているといい、安政の御所炎上 の際、(孝明天皇)が避難先の(聖護院)で食したという。 ・(節分護摩供)の供用菓子として(柏屋光貞)で販売される・やきもち ・(神馬堂)販売・・・(葵餅)が正式名称 ・(葵家やきもち本舗)販売・・・(葵餅)と(双葉餅)の二種・みたらし団子 ・下鴨神社の(御手洗池)の(水の泡)を表す (人の体)を表すという説もある。 ・(神饌)として供えられる ・(加茂みたらし茶屋)の名で親しまれる(亀屋粟義)で販売 よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村__________________________________「京都検定過去問」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=28「京都検定出題傾向分析」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=30「京都検定勉強」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=31
2015/12/10
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京料理#2(京野菜、錦小路)の解答です。問題は作ったものの、12月12日 試験前日です。解答する時間もなくなってしまいました。問題に直接正解を入れて投稿します。●京野菜・(稲荷社)の(神饌用)として栽培された葱が(九条葱)へ 中国から伝播した(孟宗竹)が(乙訓の筍)へ (近江堅田)の蕪が(聖護院蕪) になった。・清少納言は枕草子で「冬は(いみじう)寒き、夏は(世に知らず)暑き」と書いた・京野菜が発達した要因 ・(四季の移り変わりが明瞭) ・(昼夜の温度差が大きい) ・太古は(湖底)であり、(地下水が豊富) ・(花崗岩)の風化した(砂質土)や(粘質土)など(肥沃な土) ・(篤農家たち)の工夫と努力●京の伝統野菜・条件 1.(明治以前の導入) 2.(京都府内で生産) 3.(たけのこを含む) 4.(キノコ類、シダ類は除く) 5.(栽培)または(保存されている)・41種あげよ ○だいこん(7種) 辛味だいこん、青味だいこん、時無大根(藤七だいこん)、 桃山だいこん(大亀谷だいこん、鼠だいこん)、 茎だいこん(中堂寺だいこん、雑煮だいこん) 佐波賀だいこん、聖護院だいこん ○かぶ(7) 松ヶ崎浮菜かぶ(八ツ頭・葉かぶ)、鶯菜、佐波賀かぶ(天神かぶ)、 大内かぶ、すぐき菜、舞鶴かぶ、聖護院かぶ ○つけ菜(3) みず菜、壬生菜、畑菜 ○なす(3) もぎなす、賀茂なす、京山科なす ○とうがらし(3) 伏見とうがし、田中とうがらし(中獅子・ししとう)、山科とうがらし ○その他 (13) 桂うり 鹿ヶ谷かぼちゃ えびいも 堀川ごぼう 柊野ささげ(三尺ささげ) 京うど 京みょうが 九条ねぎ 京せり くわい 京たけのこ じゅんさい 聖護院きゅうり えびいも ○絶滅したもの(2) 郡だいこん、東寺かぶ ○伝統野菜に準じる野菜(3) 万願寺とうがらし、鷹ヶ峯とうがらし、花菜(伏見寒咲きなたね) ●ブランド京野菜 (京マーク)が貼付される。 25あげよ みず菜、壬生菜、やまのいも、京たけのこ、伏見とうがらし 万願寺とうがらし、賀茂なす、京山科なす、堀川ごぼう 花菜、聖護院だいこん、京都大納言小豆、くわい、金時にんじん 新丹波黒豆、紫ずきん、丹波くり、えびいも、京たんご梨 鹿ヶ谷かぼちゃ、聖護院かぶ、京こかぶ (追加)京丹波 大黒本しめじ 京夏ずきん●京都府の京野菜などを食材に使用する料理店を(旬の京野菜提供店)として認定 ●洛北の農家が毎朝、京都の街に野菜などを売り歩くのを(振り売り)よぶ。 姉さんかぶりに、紺の半てん、(手甲)、(三幅前掛け)、 紺の(たちかけ(もんぺ))、白足袋というスタイルだった。●代表的な京野菜(キーポイントピックアップ)・京たけのこ 竹の品種は(孟宗竹) 有名な産地 (西山一帯) 季節には(朝掘りたけのこ)の幟が立つ・京みょうが 開花前の花(花みょうが)と栽培した若い菜(みょうがたけ)が食用 (しば漬)の原料・京うど 産地(伏見区桃山)・賀茂なす 産地(上賀茂) (へたが3片)のものが形がよいとされる・京山科なす 特徴(皮が薄く、肉質が柔らかい、色が変わりやすい、賀茂なすより美味といわれる) ・もぎなす 特徴(山科なすを小型にしたような小なす。辛子漬けにも珍重される。)・伏見とうがらし (青と)と呼ばれる。・田中とうがらし (獅子とうがらし)の基とされる。・万願寺とうがらし (舞鶴市)で栽培されてきた・桂うり (奈良漬)の材料として知られていた。・柊野ささげ (お盆に仏前に供え)られ、京都の夏に欠かせない・新丹波黒大豆 特徴(大粒。しわがない。煮崩れしない) (正月用の福豆)としても人気が高く(日本一の豆)として知られる ・京都大納言小豆 (亀岡盆地)から(船井郡)あたりが産地。 京の(和菓子)に欠かせない・鹿ヶ谷かぼちゃ 江戸時代に(津軽)から伝わった(菊座かぼちゃ)から変化。 (花材)や(置物)として用いられることもある。・えびいも (棒鱈)と炊き合わせた料理が定番・青味だいこん 特徴 (小指ほど)の大きさ。軽く(湾曲し)、(身の半分くらい)まで緑色・桃山だいこん(大亀谷だいこん・(※鼠だいこん)) (伊吹山だいこん)が変化 (鼠のしっぽ)のようななので、※の名がある (沢庵漬)に用いられる・時無だいこん(藤七だいこん) 特徴 (色が白く、形は細長い。煮えにくく、硬く、適度の辛味) (おろし)や(漬物)に適する・佐波賀だいこん (晩生(おくて))の(春出し)だいこん。 (雪の中から掘りだす)・辛味だいこん (洛北)が原産。 (小かぶ)のような形をした小型のだいこん (今宮神社)の祭典に供えられ(疫病)や(中風)のまじないとして、朝参り の土産にもされた。 (水分)が少ないので、(蕎麦)の薬味として最高のもの。・茎だいこん(中堂寺だいこん・雑煮だいこん) (京都)の在来種で小型のだいこん。 (葉)が柔らかく、(茎も葉も利用できる)ことから(茎だいこん)と呼ばれ る。(漬物)に用いられる。・聖護院かぶ (千枚漬)の材料。(かぶら蒸し)や(炊き合わせ)に用いられる。 軟らかく、淡泊なので、(鯛のアラ)や(ぶり)など、脂ののった魚との相性 もよい。 ・すぐき (上賀茂)を中心に洛北で栽培されている。 (糖度)が高い。 (天秤押し)(室入れ)という特殊な技法で、(乳酸発酵)で(塩)のみで 「すぐき漬」となる。・鶯菜 全長10センチ程度の小さな野菜で、そのまま(椀種)に用いる。・畑菜 (あく)が少なく、(煮びたし)や(辛子和え)に用いられることが多い。・みず菜 (京菜)または(千筋京水菜)とも呼ばれる、葉に鋭い(切れ込み)がある。 柔らかくて、シャキシャキした歯ざわりで、(鍋もの)や(炊き合わせ)、 (サラダ)などに用いられる。・壬生菜 京菜(みずな)の一品種。 特有の(辛味)と(辛子)の香りがある。・聖護院きゅうり (春きゅうり)の一品種で(早生種) 明治以降は(琵琶湖疏水工事)で聖護院の耕地が荒廃し、(一乗寺)地区に移った。 絶滅したが、保存されていた種が見つかり、京の伝統野菜として認定された。・九条ねぎ 特徴 (長くて柔らかく、甘くて風味のよい青ねぎ。内部にぬめりが多い) 昔から民間療法にも用いられてきた。 (鴨ねぎ、ぬた、鍋物)に用いられる。・京せり (春の七草)の筆頭。(薬草)としても珍重された。 群生し、摘んでも摘んでも競い合うように生えてくるのでこの名がある。・くわい 葉がクワの形をしているのでこの名がある。 地中でよく増えることから(子孫繁栄)として、その形から(芽が出る)として 縁起物として用いいられ、(正月料理)として欠かせない。・丹波くり 江戸時代には(年貢米)の代わりとしても上納された。●錦小路・発達理由 (地下水に恵まれ、魚や鳥の貯蔵に適す) (御所に近く、住民多い)・当初は(具足小路)という名であったと(宇治拾遺物語)にある。 (村上天皇)が(綾小路)と対比し、錦小路と改めた。・天喜2年(1054)に(後冷泉天皇)の宣旨で錦小路と改名されたと、平安末期の (掌中歴)が伝える。・(大和錦)を織る職人が多く住んだことによるとい説もある。・室町時代には(米座)(油座)などの座ができた。 越後の(塩引魚)、隠岐の(鮑)、近江の(鮒)などが取引された。・応仁の乱で荒廃し、(豊臣秀吉)の京都改造で再興。・江戸初期に(魚問屋)の称号が与えられた。・万治・寛文年間(1658-73)には、(椹木町通)の(上之棚)、現(六条通)の (五条棚)とともに(京の三店(さんたな))と呼ばれた。・明和7年(1770)に錦小路高倉の(青物立売)が(町奉行所)公認を受けた。・18世紀の京都の地誌(都町鑑)に、「いつの頃よりにや、魚商う店おはほく」 とある。・明治維新で魚問屋の特権制度も廃止され、混乱したが、(北垣国道)が (魚鳥干物商組合)を結成させた。 よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村__________________________________「京都検定過去問」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=28「京都検定出題傾向分析」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=30「京都検定勉強」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=31
2015/12/10
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京料理#1(歴史、行事と京料理、京の味・野菜を食べる行事)の解答です。不正解だった場合は▲とし、正解を記入しています●京料理の歴史・京都は海浜から遠いので、魚介類などは(塩引きもの)を上手にとりあわせた。 現在でも(▲若狭鰈)の干物や「ぐじ」の(一塩もの)を使ったり(▲昆布〆) にしたり、(へしこ)(棒鱈)(身欠き鰊)などを使う・京でよきもの、悪いものを挙げたのは(滝沢馬琴)著の(▲羇旅漫録) よきもの・・・(女子・鴨川の水・寺社) 悪いもの・・・(▲吝嗇・料理・舟便) 味のよいもの・・・(麩・湯葉・芋・水菜・うどん)・公家の(大饗料理)、武士の(本膳料理)、寺院の(精進料理)、茶道とともに発達 した(懐石料理)・大饗には(中宮)や(東宮)の(二宮大饗)と大臣(おとど)家の(大臣大饗)がある。 これらは(台盤料理)ともいわれるハレの料理であった。・鎌倉時代には(小笠原)(伊勢)の両家が、料理の世界で特別の地位を占めた。・足利将軍の包丁人(大草公次)から始まる(大草流)、細川勝元の包丁人から興った (進士流※)、三河の松平氏の(園部流)などが出てくる。 ※は(藤原山蔭)を祖とする公家の(四条流)を伝える。・こうして武家の(式正料理)としての(本膳料理)が成立する。・この形式のもっとも整ったものが(七五三膳)と称されるもの。 盛られる(菜の数)からという説と、(伊勢貞丈)による膳の数から来たという 二説がある。●行事と京料理・正月の雑煮 (白味噌)雑煮 (丸小餅)(かしらいも)(▲雑煮大根)(小芋)などが入る・お節料理 重要な「三種」 (ごまめ)(たたき牛蒡)(数の子)・三が日箸をつけない(にらみ鯛)<1月>・1月4日 (鏡開き)で(水菜)の雑煮・7日 (七草粥)・10日 (十日ゑびす)があり、(▲糸かけの鯛)・15日 (▲あずのおかいさん(小豆粥))・20日 (骨正月)という。(ぶりやさけのアラ)で(おだい(大根))を食べる<2月>・節分 (▲塩いわし)・初午 (畑菜)の(辛子和え)を食べて(伏見稲荷)へ参る。 (畑菜)は同社を建立した(秦伊呂具)にかけて、(辛子)は(狐)の好物<3月>・雛祭り(▲赤貝)と(とり貝)の(てっぱい(てっぽう和え)) (ばら寿司)(引千切)(菱餅)(白酒) (▲蜆や蛤などの貝料理)(▲姫鰈(笹鰈))<5月>・端午の節句 (鯛の▲兜焼)を食する家も<7月>・祇園祭 鱧・土用の丑 うなぎ<8月>・お盆 (精進料理)<9月>・名月 (芋名月)にちなみ(▲小芋)などの(芋料理)を一品<10月>・ゑびす講 (葱)と(▲はんぺい)の汁物で、(葱)を(笹)、 (▲はんぺい)を(小判)に見立てた縁起物<12月>・冬至 (中風)除けとして、(▲おかぼ(南瓜))を炊いたんを食べる。 「ん」の2つつくもの7品食べる。 (なんきん、▲にんじん、れんこん、ぎんなん、きんかん、かんてん、 うどん(うんどん)) 人は(運)(根)(鈍)の三拍子がそろって初めて出世するとのことから。 <決まった日に食べるもの>・1日 (▲あずのごはん)((うるち米)に(小豆)を入れて炊く(小豆ごはん)) その他(▲なます)(▲にしんこんぶ)あずのごはん・8、18、28日 (▲あらめ)と(▲揚げ)を炊く・15日 (▲あずのごはん)(▲いもぼう)(▲なます)・31日 (きわの日)には(おから)(巳寿司)(寅蒟蒻)(卯豆腐)●京の味・野菜を食べる行事(特記点)・朝粥 「(瓢亭)の朝がゆすすり松に吹く風の音聞けば心すがしも」 は(吉井勇)の句・仕出屋さん (▲なんぞのこと)の折に仕出屋から客膳を取り寄せる・鹿ヶ谷かぼちゃ供養 (安楽寺)の(真空上人)が始めた・大根焚き・(成道会法要) 千本釈迦堂で三世(慈禅上人)が始めた 12月(7、8)日・鳴滝大根焚き 12月(9、10)日 (青首大根)が使われる。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村__________________________________「京都検定過去問」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=28「京都検定出題傾向分析」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=30「京都検定勉強」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=31
2015/12/10
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京都の地名についての問題です。●通り名・数え歌・戯れ歌 ( は)丸太町 ( て)竹屋町 ( の は)夷川二条で買うた( を)( で は)押小路( )で出会った( )に ( )もろて( )買うて 錦で( て)( て) ( た)けど( と)( が)しれてる( )したろ・五条通り以南( )( ) ( )( )通りすぎ( )こえれば( 、 )、( )( )でとどめさす・南北の通り ( )の( )( )に登場 ( 通)が抜けている。 寺、御幸、麩屋、富、柳、堺町、相(間)の東は( の) ( に囲ふ の)、車、烏丸、両替、室 衣、新、釜、西、小川、油、醒ヶ井、堀川の ( の を に、 ば今も の・・・)・江戸中期の雑俳集( )に 「( (都の意味)は で )」●路地と辻子・辻子の数 ( ) 47ヵ所 ( ) 91ヵ所・了頓図子 桃山時代の茶人( )の屋敷があった。・革堂図子・だいうすの図子 キリスト教の建物があって( )が訛ったとの説 ( 寺)が転訛したという説・膏薬図子 ( )が一宇を建て、悲運の武将( )の霊を弔い、 ( の )と呼ばれた。それが訛ったという。・団栗図子 ( の大火)の火元はここの民家といわれ、この火事を( )ともいう。●難解、ユニーク地名<難読地名>・不明門通(あけず) 因幡平等寺の正門が閉まっていた・化野 ( )では「化」は( )・一口(いもあらい) 巨椋池西岸。三方が沼地で( )が一方にしかなかった。 もともとの( )に一口の文字があてられた。・太秦 この地を領した( )が、朝廷に絹を献上するとき( )から という説 ( )が( )の形をしていたからという説・御室 ( 天皇)が( 寺)を造営。完成は( 天皇)のとき。 ( 天皇)は法皇となって、仁和寺内に( )を営んだ・鶏冠井(かいで) 何らかの( )や( )が存在したと推定。 明治10年代編纂の( )では、( 天皇)の時代、この地に( )が あり、( )の傍らに( )があった。その( )が( )に似ていたこと からこの地名になったという。・帷子の辻(かたびら) ( ・ ・ ・ )への別れ道。 その道が北側のみに分岐していたからという説。 ( 天皇)の皇后( 皇后)の( )への葬送の際、棺を覆った ( の )が風で落ちたという説。・釜座通(かまんざ) 正応2年(1289)に「( の )なる者」の 活動が書かれている。・雲母坂(きららざか) ( )から延暦寺( )に至る山道。 江戸時代の( )( ( )撰)によると、この坂道は( が ) 都から見ると雲が生ずるようなので、この名になった。 ・神足(こうたり)(長岡京市) 地名としてはカンタリ、神社名としてはカウダニ、カムタリなどの読みが伝えられて いる。・御幸町(ごこまち) ( )が( )に参内するとき必ずここを通ったからとする説。 ~( )による ( )ではこれを否定し、御幸とは( ・ )の御行・鹿ヶ谷 ( )がこの地を訪れた際に、一頭の鹿が現れて( )を案内した というエピソードが( )にある。 ( )の陰謀を企てた( )の山荘があった。・直違橋(すじかい) ( 街道)に対し( 川)が斜めに流れて交差したので、橋が斜めにかけられた。・糺の森 「糺」は( )から生まれた名称。 平安時代は( )の場所 ( )には( )の 「偽りを糺の森の木綿襷(ゆうだすき)かけつつ誓へ我を思わば」の歌。・天使突抜通・椥辻(なぎつじ) 古来神聖な樹木であるナギがあったことから。 応仁2年(1468)の記録には、京都公家山科家の知行地として( )の文字も見え る。・納所(のうそ) 物資の荷揚げ場として重視された( )があった。 倉庫などが設置されこの地名になった。・先斗町 ポルトガル語でポントは( )という意味。 この付近は( )と呼ばれていて、今も( 神社)がある。・御陵(みささぎ) ( 天皇 陵)が所在のため・壬生 <ユニークな町名>・閻魔前町 ( 上人)が引接寺( 堂)を創建・柏清盛町 ( 町・ 町・ 町)が合併・丁字風呂町・百々町 元禄3年(1690)刊行の( )には百々氏が住んだことによると記されている。・堀出シ町 ( )の堀が周囲にあった。・悪王子町 ( )を祀る悪王子社があった・匂天神町 ・二帖半敷町 ( 寺)があり、住職が二人の弟子に寺を二つに分けて与えた・墨染町 ( )で知られる墨染寺がある・髭茶屋町・( )と( )の分岐点で、髭をたくわえた老人が茶屋を営んでいた。・骨屋町 ( )を作る職人が住んでいた・正面町 ( )の正面よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村__________________________________「京都検定過去問」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=28「京都検定出題傾向分析」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=30「京都検定勉強」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=31
2015/12/10
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京の俗諺・伝説についての問題です。●京の俗諺(ポイントピックアップ)・( に ) 男性は気前のいい江戸の男がいい、女性は美しくて優しい京都の女がよい・( )へ( たび)( )へ( たび)( 様)へは( ) 愛宕神社への信仰の深さを表す・( )、お断り・( 詣)に( 詣) 雲が( さん)の方向に行くと晴れ、( さん)の方に行くと雨・( )の寝床・( )がすむと春がくる・( の )( の )( ) ( )でさえ思うようにならなかったもの。・( )の水で顔を洗うと( に)なる ( )の水を産湯に使うと( に)なる・京では( )と( )が逆になる ・京に多きものは( )と( )・京の( ) 冬の寒さ・京の( ) 口先だけで実がない 他家を訪問する客の心得・京は( )の( ) うわべだけ・清水の舞台から飛び降りる・( さん)が晴れやったら( さん)は雨や 東寺の弘法市が( 日)、北野天満宮の天神市が( 日) 5日程度で天気が変わる・( ) 知ったかぶり。ぐっすり寝ることもさす。・( の ) 滋賀県高島市の( 神社)で延暦寺の宗徒が行う法要があり、この法要 が行われる( 月 日)過ぎは寒さがぶり返し、琵琶湖周辺では冷たい 風が吹き荒れる。これが終わると京都にも本格的に春が訪れる。●京都の伝説(ポイントピックアップ)・蜘蛛塚 上品蓮台寺・宗旦狐 宗旦狐の掛軸があるのは、相国寺塔頭の( )・撞かずの鐘 報恩寺 ( )という織屋の丁稚と織子の話。 鐘を撞く回数を、丁稚は( つ)、織子は( つ)と主張云々。・鬼門の猿 京都御苑・道真の登天石 水火天満宮 菅原道真は( )の讒言で大宰府に左遷。 都で雷が起こると道真の祟りと恐れられ、( 天皇)まで不安をいだいた。 道真が師と仰いだ延暦寺の( 僧正)に祈祷させることになった。 御所に向かう僧正の前で、( )の水が溢れ出したので、数珠をひと揉み すると水流が分かれ、石の上に道真が現れたがすぐに消えた。 僧正はこの石を持ち帰り、道真の霊を供養した。・太閤の石仏 北白川・革堂の幽霊絵馬 革堂の近所の( )に( )という子守娘がいた。 ( )を子守歌のように歌った。 質屋の主人が快く思わず、彼女をなぐると死んでしまった。 父親は彼女が行方不明と聞かされたが、合点がいかず、革堂の観音様にすがる と彼女が現れ、殺された告げる。父親はその亡霊を絵馬に描かせ、鏡といっ しょに革堂に奉納した。 ・へそ石 六角堂 ( )が( 建立)の用材探し。 沐浴後、( の木)に架けていた( ( ))が木から離れない。 霊域と悟り、六角堂を建立。 平安京造営で、お堂が道筋にあたるので、勅使が祈ると、六角堂が自ら北に 退いた。その跡に残ったのが「へそ石」・こぬか薬師 寺の名前( ) 本尊の薬師如来が( )の勧請で( )の国から( )に移された。 疫病がはやった。住職の夢枕に立った如来の「一切の衆生よ わが前に参ぜよ こぬか こぬか」とのお告げ。人々が祈ると難病が消えた。・弁慶石 弁慶は三条京極に住んでいた。遺愛の石があった。弁慶は( )とともに 奥州( )で最期をとげ、石がその地に移された。石が「三条京極」に戻りた いとわめきだし、熱病も流行った。弁慶の祟りと恐れ、石を京都に送り返した。 男の子が触れば( )になるとか、( )や( )から逃れられると という。・忠盛燈籠 八坂神社 ( )が( )に会うために平忠盛を伴って、祇園社を通っていると、 北の森に明かりがついて怪しげな姿。忠盛がよく調べると、燈籠に火を入れる 社僧であった。・蹴上の石仏 ( )が( )に伴われて( )へ下るために( )の坂に 差しかかったとき、坂を降りてくる平家の武士( )ら一行(9人) と出くわした、そのとき( )が( の )を( )に蹴りかけた ことから( )は9人を斬り倒した。この9人を弔うため、9体の地蔵を 安置した。・六道の辻 六道とは( ・ ・ ・ ・ ・ ) ・相槌稲荷 ( )が( 天皇)から鎮護の刀をうつことを命ぜられた。 云々・・・・名刀( )を打ち上げた。 童子の正体は稲荷のキツネの化身だった。・百夜通い 隨心院・すすき塚 了徳寺・業平の塩竃跡 十輪寺・明智藪 伏見区小栗栖・長明方丈石 日野 方丈石は( 石)とも呼ばれる・橋姫 橋姫神社 夫が外に女を囲い、女房が( に 参り)を続けた。 水神が(宇治川)で( 日間つかり続ける)と( になれる)と告げた。 女房は鬼になり、男女を殺した。この女房を橋姫と呼んだ。・宇治の亀石 ( )が( )を築いたとき、( )の水を城内に引くため、 地下水道を引かせた。取り込み口にカモフラージュのために、亀の石を置いた。・一文橋 長岡京市 日本最初の有料橋 ( 川)にかかる。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村__________________________________「京都検定過去問」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=28「京都検定出題傾向分析」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=30「京都検定勉強」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=31
2015/12/10
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京ことばについての問題です。●京ことば(難解なもののみ)・アイサニ ( )・アイフサギ ( )・アカル ( )・アンスル ( ・ の意も)・イカキ ( )・イタオミキ ( )・イチハナダッテ ( )・エンバント ( )・オブー ( )・オヤカマッサン ( )・カニココ ( )・キズイ ( )・シカツイ ( )・セツロシイ ( )・セングリ ( )・ダイジナイ ( )・ダンナイ ( )・ダンバシゴ ( )・チョコチョコバル( )・ドクショーナ ( )・ナガタン ( )・ニチリンサン ( )・ノジ ( )・ノツコツ ( )・ハバカリサン ( )・ハンナリ ( ) バスケットボールチーム 京都ハンナリーズ ・ヒマセ ( )・ブブ ( )・ブンブン ( )・ホッコリスル ( )・ホドライ ( )・ヤクタイ ( )・ヤスケナイ ( )・ヨサリ ( )・ヨダチ ( )よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村__________________________________「京都検定過去問」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=28「京都検定出題傾向分析」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=30「京都検定勉強」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=31
2015/12/10
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京都のならわしについての問題です。●京都のならわし(ポイントピックアップ)・赤ちゃんの額に大小の文字 ・家の鬼門に( )や( )を植える 節分には( )に(鰯の頭)をさして門口に立てる・家の敷居を踏んではいけない 敷居は( の を表すともいう 表、裏、中の座敷の敷居はそれぞれ( ・ ・子 )という・亥の日の( ) ( 月)最初の亥の日に( )をする。亥は( を )ことから 茶をたしなむ人は( )から( )に代え、( )をする・岩田帯 長さは( )の縁起をかついで( ) ( か月目)の( の )を選ぶ ( )( )の帯や、祇園祭の巡行後に船鉾町で授与される( ) の像に巻かれた帯など・お祝い 大安を中心に( )( )の( )・おくどさんの布袋 おくどさんの( )に布袋さんを並べる。 ( )に( )を参拝し、毎年、小さいものから大きいものへ買い足す。 ( 年間)続けると( )に通じる。・送り火のから消し ( )にくるみ( )をかけて、家の門口に吊るすと、( )、 ( )になる。煎じて飲むと( )に効く・をけら詣り ・お正月のほうき・おため お祝いへの返礼。( )ともいう。 ( )を( の )とともに返す。 返礼が整わない場合は、( )を( )にして返す。 これを( )( )という。 弔事には「重なる」といけないので紙を入れずに返す。・おばさんが笑うたはるエ!・万年青(おもと) ( )の際、これを植えて( )する。・お宮詣り 産着の肩に白紙で包んだ( )などを( )でくくる。 お祓いが済むと、( )などにくくりつける・お嫁入りの時、戻り橋を渡らない 戻り橋は( )にある。 文章博士( )が没したことを聞いた子の( )の逸話による。・家庭料理は出さない・門掃き ・祇園祭には胡瓜を食べない・祇園祭の粽 ( )と書いた護符がついている。 ( ※)が旅の途中で云々の逸話に基づく。 ※は八坂神社摂社( )の祭神・黄白の水引 ( )で使う紅白の水引きが、黒白の水引に近い色だったので、( )用 水引は黄白を使った。( )を表す、( )も黄であることからも。 ・( ) ( )( )と書く。梅干をつけるとき、塩漬けにした青梅から最初に出て くる酸味の強い薄茶色の溜まり水をいう。これをお腹が痛いときに飲ませたり、 食当たりや水当たりの予防として飲んだりする。二日酔いにも。・許可が出るまで( )を越えない 京町家の( )( )の中間にある板や衝立を( )と呼ぶ。・事始め ( 月 日)( )を持ってあいさつ。 この日以降( )と挨拶。・十三まいりの後、渡月橋を渡りきるまで振り向かない・鍾馗さん ( )が病に伏したとき、鍾馗が鬼を退治する夢を見て、病気がたちまち 治った。 京都では( の )が家を新築して( )をのせた云々の逸話がある。・葬礼 お葬式や霊柩車に出会うと、( の中に を入れて隠す) ( )を死から遠ざけるため・大文字の「大」を飲む・出されたものは少し残す・食べ初め 生後( め)または( め) ( )( )( )ともいう。 ( )( )( )( )のほかに( )が添えられる。 ( )は( )が丈夫になるように。( )は( )がつくように。 ( の )を吸わせるところもある。・( ) 外出の直後に服のほころびがあったり、ボタンが取れていたとき、これを 3回唱え、服を着たまま直す。呼吸を置くことで、体に針を刺さずに裁縫を することができる。・履物をはいたままおろさない (棺桶)を運び出すのに、(藁ぞうり)を履いたまま家の中から降りたから。 (死んだ人)にも(藁そうり)を履かせるが、そのまま家の中から外におろした。・果ての二十日 ( 月 日)のこと。 江戸時代、( )では、その午後最後の( )が行わるので、この 日を忌んで、( )や( )の準備を差し控えた。 罪人は最後の願いを一つだけ聞いてもらえるので、外に出た罪人に目をつけら れるのを避けるため、とりわけ( )を外に出さなかった。・火廼要慎の護符 多くの家では( )と書かれた護符が台所に貼られている。・無言詣り 一心に願うことで成就につながる。 ( )の( )のこれが有名。 ( 月 日)から( 月 日)まで、( )の( )に神輿が鎮座 する。 ( )を渡り、( )まで無言で詣でる。 ( )に詣でる人が多い。・( ) 正月は両端が削られた( )で、お雑煮やお煮しめをいただく。 ( )とともにお正月を祝うため。 よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村__________________________________「京都検定過去問トライアル」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=28「京都検定出題傾向分析」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=30「京都検定勉強」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=31
2015/12/10
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京菓子についての問題です。●京菓子の歴史・京菓子は、京都では( への 菓子)に由来し、( )と呼ばれた。・京菓子が影響を受けた菓子 中国から伝来・・・( )( )が持ち帰った 喫茶とともに広がった・・・( ) 16世紀にヨーロッパから伝わった・・・( )・唐菓子・・・( ) ( )( )( ※)など ※は( )として伝えられる・点心・・・( )が( )とともに( )を持ち帰り、広まった。 ( )( )( ※)( *)、( )など ※は( )に*は( )に変化・南蛮菓子 ( 、 、 、 、 )など・江戸時代 ・安永4年(1775) 菓子屋を248軒に制限する( )ができる ・有職故実にちなんだ( )が作られた ・茶の湯の菓子 濃茶用( )・・・( ・ 菓子) 薄茶用( )・・・( ・ ・ など) 家元の好んだ菓子・・・( 菓子)●季節の行事の京菓子(ポイントピックアップ)・亥の子餅・・旧暦( 月)の( の日)に食べる ( )のイノシシにちなみ( )の願いも 茶家では( )の日・嘉祥(かじょう)菓子 陰暦( 月 日)、( )の儀式にちなみ食べる。 ・かしわ餅 ・( )に用いられる ・( )と( )の二種類の餡 ・柏の葉は( )といい、( )を願う ・柏餅を包む手つきが( で 姿)に似ているので、 ( を )する端午の節句にふさわしい・きつね面 ( )の( )や( にちなみ( )でとりあわ せる( )。( )を表現・行者餅 ・祇園祭( )山ゆかり ・( )が使われる ・( )の当主が( )修行中に霊夢を受けて作った。 ・( )に限り販売・さくら餅 ( )で( )を包むのが京都風・真盛豆 ・香ばしく炒った( )を( )で包み、表面に( )をまぶした ・天台宗( 派)の開祖( 大師( 上人))が( )で辻説法する とき、炒った( )に乾燥させた( の )をかけ、聴衆にふるまった のが始まり ・( )が( )で、茶事に合う豆菓子としてほめた。・洲浜 ・( )を煎って粉にし、( )などを混ぜて練り上げた菓子。 ( )よりも浅く炒った( )を使う ・有職の( )や( )に由来し、( )や( )を表すといわ れる。・ちご餅 ・( 月 日)、祇園祭の長刀鉾の稚児が位をいただく( )の式 が八坂神社本殿で行われる。そのときに供える。 ・( )が代々氏子として献じてきた ・同店で( 月 日)から( 月 日)まで食べることができる。 ・( )では、それに由来する( )を販売している。・粽(ちまき)・はなびら餅 ・( )を代表する伝統菓子の一つ ・( )( )が使われる ・宮中の正月行事食の( )が原型 ・( )の( )で使われる・引千切 ・( )や( )などと並び( )に欠かせない ・先端を( )形状から付いた名で( )を意味する。 ・( )( )ともいう ・平安時代、宮中で祝儀に用いられた( )がルーツという・( ) 楓、銀杏、松葉、松毬(まつぼっくり)、栗、きのこなどが干菓子盆に美しく 盛られる・松風 ・( )の当主が、一向一揆制圧のため攻撃された( )に兵糧と して献上した。 ・( )が「わすれては波のおとかとおもうなり枕に近き庭の松風」と詠んだ歌に ちなんだ名前・水無月・麦代餅 ( )の名物・清浄歓喜団 ・( の )の際に供えられる ・( )( )とも呼ぶ ・( )( )( )など、( 種)の香りが混ぜられている。 ・( )で販売●寺社・街道・関所ゆかりの菓子・あぶり餅・粟餅 ( )の名物菓子・おせき餅 ( )の名物菓子・鎌餅 ・( )の茶席で売られた ・ 鎌に似た形状から命名され、( )を祈る菓子でもある ・( )が販売・唐板 ( )で販売・狐煎餅・幽霊子育飴 ・( )の風味が特徴 ・ ( )で販売・長五郎餅 ・( )が( )で賞賛 ・( )で販売・どら焼 ・( )の( )の( )に考案 ・( )で(毎月 日~ 日)のみ販売・走井餅 ・( )の菓子 ・もともと( )にあり、( )の( )にも登場・鳩餅 ・( )で販売 ・( )と( )の風味・法螺貝餅 ・( )( )が使われる ・法螺貝には( )の意味があり、( )の菓子 ・もともとは( )という菓子に似ているといい、安政の御所炎上 の際、( )が避難先の( )で食したという。 ・( )の供用菓子として( )で販売される・やきもち ・( )販売・・・( )が正式名称 ・( )販売・・・( 餅)と( 餅)の二種・みたらし団子 ・下鴨神社の( )の( )を表す ( )を表すという説もある。 ・( として供えられる ・( )の名で親しまれる( )で販売 よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村__________________________________「京都検定過去問」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=28「京都検定出題傾向分析」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=30「京都検定勉強」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=31
2015/12/09
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京料理#2(’京野菜、京の伝統野菜、ブランド京野菜、代表t歴な京野菜、錦小路)の問題です。●京野菜・( )の( 用)として栽培された葱が( )へ 中国から伝播した( )が( の )へ ( )の蕪が( ) になった。・清少納言は枕草子で「冬は( )寒き、夏は( )暑き」と書いた・京野菜が発達した要因 ・( の が明瞭) ・( の が大きい) ・太古は( )であり、( が豊富) ・( 岩)の風化した( 土)や( 土)など( な土) ・( たち)の工夫と努力●京の伝統野菜・条件 1.( 以前の導入) 2.( で生産) 3.( を含む) 4.( 類、 類は除く) 5.( )または( されている)・41種あげよ ○だいこん(7種) (・・・・・・) ○かぶ(7) (・・・・・・) ○つけ菜(3) (・・・・・・) ○なす(3) (・・・・・・) ○とうがらし(3) (・・・・・・) ○その他 (13) (・・・・・・) ○絶滅したもの(2) (・・・・・・) ○伝統野菜に準じる野菜(3) (・・・・・・)●ブランド京野菜 ( )が貼付される。 25あげよ (・・・・・・・・・・・)●京都府の京野菜などを食材に使用する料理店を( 店)として認定 ●洛北の農家が毎朝、京都の街に野菜などを売り歩くのを( )よぶ。 姉さんかぶりに、紺の半てん、( )、( )、 紺の( ( ))、白足袋というスタイルだった。●代表的な京野菜(キーポイントピックアップ)・京たけのこ 竹の品種は( 竹) 有名な産地 ( 一帯) 季節には( たけのこ)の幟が立つ・京みょうが 開花前の花( )と栽培した若い菜( )が食用 ( )の原料・京うど 産地( 区 )・賀茂なす 産地( ) ( が )のものが形がよいとされる・京山科なす 特徴( が 、 が 、 が 、 より美味といわれる) ・もぎなす 特徴( を小型にしたような小なす。 にも珍重される。)・伏見とうがらし ( )と呼ばれる。・田中とうがらし ( )の基とされる。・万願寺とうがらし ( 市)で栽培されてきた・桂うり ( )の材料として知られていた。・柊野ささげ ( に )られ、京都の夏に欠かせない・新丹波黒大豆 特徴( 、 がない、 しない) ( 用の )としても人気が高く( の豆)として知られる ・京都大納言小豆 ( )から( )あたりが産地。 京の( )に欠かせない・鹿ヶ谷かぼちゃ 江戸時代に( )から伝わった( かぼちゃ)から変化。 ( )や( )として用いられることもある。・えびいも ( )と炊き合わせた料理が定番・青味だいこん 特徴 ( )の大きさ。(軽く し)、( の )まで緑色・桃山だいこん(大亀谷だいこん・(※鼠だいこん)) ( だいこん)が変化 ( の )のようななので、※の名がある ( )に用いられる・時無だいこん(藤七だいこん) 特徴 (色が 、形は 。 にくく、 、適度の ) ( )や( )に適する・佐波賀だいこん ( )の( )だいこん。 ( の中から掘りだす)・辛味だいこん ( )が原産。 ( )のような形をした小型のだいこん ( 神社)の祭典に供えられ( )や( )のまじないとして、朝参り の土産にもされた。 ( )が少ないので、( )の薬味として最高のもの。・茎だいこん(中堂寺だいこん・雑煮だいこん) ( )の在来種で小型のだいこん。 ( )が柔らかく、( も も利用できる)ことから( だいこん)と呼ばれ る。( )に用いられる。・聖護院かぶ ( )の材料。( )や( )に用いられる。 軟らかく、淡泊なので、( の )や( )など、脂ののった魚との相性 もよい。 ・すぐき ( )を中心に洛北で栽培されている。 ( )が高い。 ( )( )という特殊な技法で、( )で( )のみで 「すぐき漬」となる。・鶯菜 全長10センチ程度の小さな野菜で、そのまま( )に用いる。・畑菜 ( )が少なく、( )や( )に用いられることが多い。・みず菜 ( )または( )とも呼ばれる、葉に鋭い( )がある。 柔らかくて、シャキシャキした歯ざわりで、( )や( )、 ( )などに用いられる。・壬生菜 京菜( )の一品種。 特有の( )と( )の香りがある。・聖護院きゅうり ( きゅうり)の一品種で( 種) 明治以降は( 工事)で聖護院の耕地が荒廃し、( )地区に移った。 絶滅したが、保存されていた種が見つかり、京の伝統野菜として認定された。・九条ねぎ 特徴 ( て 、 て のよい青ねぎ。内部に が多い) 昔から民間療法にも用いられてきた。 ( 、 、 )に用いられる。・京せり ( の )の筆頭。( )としても珍重された。 群生し、摘んでも摘んでも競い合うように生えてくるのでこの名がある。・くわい 葉がクワの形をしているのでこの名がある。 地中でよく増えることから( )として、その形から( )として 縁起物として用いいられ、( 料理)として欠かせない。・丹波くり 江戸時代には( )の代わりとしても上納された。●錦小路・発達理由 ( に恵まれ、 の に適す) ( に近く、 多い)・当初は( 小路)という名であったと( )にある。 ( 天皇)が( )と対比し、錦小路と改めた。・天喜2年(1054)に( 天皇)の宣旨で錦小路と改名されたと、平安末期の ( )が伝える。・( )を織る職人が多く住んだことによるとい説もある。・室町時代には( 座)( 座)などの座ができた。 越後の( )、隠岐の( )、近江の( )などが取引された。・応仁の乱で荒廃し、( )の京都改造で再興。・江戸初期に( )の称号が与えられた。・万治・寛文年間(1658-73)には、( 通)の( )、現( )の ( )とともに(京の )と呼ばれた。・明和7年(1770)に錦小路高倉の( )が( )公認を受けた。・18世紀の京都の地誌( )に、「いつの頃よりにや、魚商う店おはほく」 とある。・明治維新で魚問屋の特権制度も廃止され、混乱したが、( )が ( 組合)を結成させた。 __________________________________「京都検定1級過去問トライアル」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=28「京都検定1級過去問出題傾向分析」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=30「京都検定1級受検直前勉強」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=31よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/12/09
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京料理についての問題#1(京料理の歴史、行事と京料理、京の味・野菜を食べる行事)です。●京料理の歴史・京都は海浜から遠いので、魚介類などは( もの)を上手にとりあわせた。 現在でも( )の干物や「ぐじ」の( もの)を使ったり( )をしたり、 ( )( )( )などを使う・京でよきもの、悪いものを挙げたのは( )著の( ) よきもの・・・( ・ ・ ) 悪いもの・・・( ・ ・ ) 味のよいもの・・・( ・ ・ ・ ・ )・公家の( 料理)、武士の( 料理)、寺院の( 料理)、茶道とともに発達 した( 料理)・大饗には( )や( )の( 大饗)と大臣(おとど)家の( 大饗)がある。 これらは( 料理)ともいわれるハレの料理であった。・鎌倉時代には( )( )の両家が、料理の世界で特別の地位を占めた。・足利将軍の包丁人( )から始まる( 流)、細川勝元の包丁人から興った ( 流※)、三河の松平氏の( 流)などが出てくる。 ※は( )を祖とする公家の( 流)を伝える。・こうして武家の( 料理)としての( 料理)が成立する。・この形式のもっとも整ったものが( 膳)と称されるもの。 盛られる( の )からという説と、( )による膳の数から来たという 二説がある。●行事と京料理・正月の雑煮 ( )雑煮 ( )( )( )( )などが入る・お節料理 重要な「三種」 ( )( )( )・三が日箸をつけない( )<1月>・1月4日 ( )で( )の雑煮・7日 ( )・10日 ( )があり、( の )・15日 ( ( ))・20日 ( )という。( や のアラ)で( ( ))を食べる<2月>・節分 ( )・初午 ( )の( )を食べて( )へ参る。 ( )は同社を建立した( )にかけて、( )は( )の好物<3月>・雛祭り( )と( )の( ( )) ( )( )( )( ) ( )( )( ( ))<5月>・端午の節句 ( の )を食する家も<7月>・祇園祭 鱧・土用の丑 うなぎ<8月>・お盆 ( 料理)<9月>・名月 ( )にちなみ( )などの( 料理)を一品<10月>・ゑびす講 ( )と( )の汁物で、( )を( )、( )を ( )に見立てた縁起物<12月>・冬至 ( )除けとして、( ( ))を炊いたんを食べる。 「ん」の2つつくもの7品食べる。 (・・・・・・・) 人は( )( )( )の三拍子がそろって初めて出世するとのことから。 <決まった日に食べるもの>・1日 ( )(( )に( )を入れて炊く( )) その他( )( )・8、18、28日 ( )と( )を炊く・15日 ( )( )( )・31日 ( の日)には( )( )( )( )●京の味・野菜を食べる行事(特記点)・朝粥 「( )の朝がゆすすり松に吹く風の音聞けば心すがしも」 は( )の句・仕出屋さん ( )の折に仕出屋から客膳を取り寄せる・鹿ヶ谷かぼちゃ供養 ( 寺)の( 上人)が始めた・大根焚き・( 法要) 千本釈迦堂で三世( 上人)が始めた 12月( 、 )日・鳴滝大根焚き 12月( 、 )日 ( )が使われる。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村__________________________________「京都検定過去問」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=28「京都検定出題傾向分析」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=30「京都検定勉強」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=31
2015/12/09
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神社#8(御香宮神社・城南宮・藤森神社・伏見稲荷大社・宇治上神社・宇治神社。県神社・橋姫神社・長岡天満宮・石清水八幡宮)の解答です。不正解だった場合は▲とし、正解を記入しています●御香宮神社(伏見区)・祭神は(神功皇后)(仲哀天皇)(応神天皇)ほか・貞観4年(862)に当地で清泉が湧き出し、これを飲むとどんな病気も治るという奇跡が 起こり、時の(清和天皇)より「御香宮」の名を賜ったという。・筑前の(香椎宮)を勧請したとも、式内社の(御諸神社)とする説もある。・(豊臣秀吉)が文禄年間(1592-96)に(伏見城)を築城するときに当社を(大亀谷)に移し、 (伏見城)の鬼門の守護神にしたが、慶長10年(1605)には(徳川家康)が旧地である現在 地に移した。・現存する多くの社殿は(徳川家康)によって寄進されたもの。・本殿は(徳川家康)の再建で、(五間社流造)。重文。・(表門)は(伏見城)の遺構ともされ、(桃山時代)の雰囲気を伝える。重文。・(10月上旬)に(御香宮神幸祭)がある。 (伏見九郷)の総鎮守であったため(伏見祭)ともいわれる洛南の大祭。 室町時代の(風流笠)の伝統を今に伝えており(花笠祭)ともいわれる。●城南宮(伏見区)・(平安遷都)にあたり王城の南に(守護神)として創建されたという。・応徳3年(1086)に(白河上皇)がこの地に(鳥羽殿)を造営したとき、(鎮守社)として 崇めたと伝える。・古くから(方除け)の神として信仰を集めるが、現在は(交通安全)の神としても有名。・承久3年、(後鳥羽上皇)が(城南流鏑馬)の武者揃えと称して兵を集め、(承久の乱)が 起きた。・(▲1月20日)には(湯立神楽)がある。・(2月11日)に(七草粥)がある。・4月第2金・土・日曜に(方除大祭)がある。 (神賑)行事として(郷土芸能)の奉納などがある。 (嵯峨御流花展)・(甘酒)の無料接待などがある。・(4月29日)と(11月3日)に曲水の宴がある。 (楽水苑)で行われる。●藤森神社(伏見区)・祭神は(神功皇后)(素戔嗚尊)ほか5神。 東殿に(天武天皇)ほか1神。西殿に(早良親王)ほか2神。・洛南の(深草)に平安遷都以前から祀られると伝える古社。・古来朝廷より庶民まで崇敬が篤く、特に(勝運と馬の神社)として知られる。・(騎手)をはじめ(競馬関係者)の参拝が多い。・毎年(5月5日)に行われる(藤森祭)((深草祭))は(菖蒲の節句)発祥の祭として 知られ、節句に飾る(武者人形)には(藤森の神)が宿るとされる。 (駈馬神事)がある。・(アジサイの宮)とも呼ばれる。・本殿は正徳2年(1712)に(中御門天皇)より(宮中賢所)の建物を下賜されたもの。・摂社の(八幡社)(大将軍社)は重文に指定されている。・名水(不二の水)がある●伏見稲荷大社(伏見区)・全国に(約3万)ある(稲荷神社)の総本山・和銅4年(711)に(秦伊呂具)が(稲荷山)の(三ヶ峰)に三柱を創祀したという。・(山城国風土記)逸文には、(伊呂具)が(餅)を的にして矢を射たところ、その 餅が(白鳥)になって山の峯に飛んでいき、そこに(稲)が生えて(イナリ)の社名に なったと伝える。・天長4年(827)に(空海)が(東寺)の鎮守社として稲荷神を祀り、(▲歴代天皇)の 行幸とともに民間にも広く信仰され、平安京の(五条)以南が氏子圏となって、 (祇園社)と京を二分した。・応仁の乱で焼亡した本殿は、明応8年(1499)に再興され、現在重文指定。・他に(御茶屋)も重文。二部屋からなり、(後水尾院)からの拝領と伝える。 (書院造)から(数寄屋造)へ移る遺構を残す建物で、(茶趣味)あふれる(貴人)好み の(御茶屋)の代表例。・(2月の初午の日)に(初午大祭)がある。縁起ものの(しるしの杉)が授与される。・(6月10日)に(田植祭)がある。 (4月)の(水口播種祭)で種おろしされ、成長した早苗を神田に植える。●宇治上神社(宇治市)・祭神は(応神天皇)(仁徳天皇)(菟道稚郎子(うじのわきいらつこ))・明治維新までは隣接する(宇治神社)とともに(▲宇治離宮明神(八幡宮))と総称 した。・かつては当地に(応神天皇)の離宮があり、(宇治神社)を(離宮下社)、当社を (離宮上社)と呼んだ。・(宇治七名水)の一つに数える(桐原水)がある。・(本殿)は(神社建築)として最古の遺構で国宝。(1060年代)の建立という。 鎌倉時代の(拝殿)も国宝。●宇治神社(宇治市)・永承7年(1052)に(藤原頼通)が(平等院)の創建にあたり、鎮守社とした。以来、 (平安貴族)に崇敬され、祭礼の宇治の祭(離宮祭)は賑わったという。●県神社(宇治市)・永承7年(1052)に(藤原頼通)が(平等院)を建立するときに鬼門除けとして鎮守社と なった。・社名は祭神(木花開耶姫命)の別名で、(吾田津姫)に由来するとも、(宇治県)の 守護神として創祀したことによるともいう。・(▲6月5日)の深夜から翌未明にかけて行われる(県祭)は(暗闇の奇祭)として 知られる。●橋姫神社(宇治市)・祭神は(瀬織津姫)・かつては(宇治橋三ノ間)の張り出し部分に祀られ、(瀬織津姫)は(橋姫)と 呼ばれ、(宇治橋)の守護神とされた。・明治3年の洪水で流出し、現在地に移転。・宇治の橋姫は数々の歌のい詠まれ(源平盛衰記)には(嫉妬の神)として、妬ましい 男女を呪い殺す話が記され、これにちなんで(縁切り)の神として、(悪縁)を切る 効験があると伝える。●長岡天満宮(長岡京市)・祭神は菅原道真・道真が太宰府に左遷されるときにここに立ち寄って(名残を惜しんだ)という。・当社は道真の没後、家臣たちが(聖廟)を建てたことに始まるとされる。・江戸時代の初めには、(八条宮智仁親王)が社地を整備し、社殿東にある (八条ヶ池)を(灌漑用水)を兼ねて造営した。・(キリシマツツジ)の名所。●石清水八幡宮(八幡市)・かつては(男山八幡宮)ともいわれた。・奈良の(大安寺)の(行教)が、貞観元年(859)に(宇佐八幡宮)のお告げをうけて 勧請した。・(伊勢神宮)に次ぐ(宗廟)として朝廷に崇敬され、天元2年(979)の (▲円融天皇)の行幸をはじめ、歴代天皇が参詣した。・(弓矢の神)(戦勝の神)として、(武家)の信仰も篤く、(源氏の氏神)として (八幡信仰)が全国に広まった。・(本殿)は重文。 (▲内殿)と(▲外殿)を(相の間)を介して前後に並置する形式は(八幡造) と称され、寛永11年(1634)の建築。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村__________________________________「京都検定過去問」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=28「京都検定出題傾向分析」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=30「京都検定勉強」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=31
2015/12/08
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神社#7(五条天神宮・愛宕神社・梅宮大社・蚕の社・車折神社・野宮神社・大原野神社・月読神社・松尾大社)の解答です。不正解だった場合は▲とし、正解を記入しています●五条天神宮(下京区)・(天使社)とも呼ばれた。・(平安遷都)にあたって、(空海)が(大和国)から天神を勧請したのに始まると いう。・祭神の(少彦名命)が(薬)の神であることから、(医家)の祖神として信仰された。・現在は(厄除け)の神としても知られる。・(節分祭)には(日本最古)といわれる(宝船図)を参拝者に配布する。●愛宕神社(右京区)・全国愛宕神社(約800社)の総本社。・大宝年間(701-04)に(役行者)が(愛宕山)を開いて、神廟を築いたのが始まりとも、 天応元年(781)に僧(慶俊)・(和気清麻呂)が勅を奉じ(▲王城鎮護)の神として (阿多古社)を鎮座したのに始まるともいう。・古来(鎮火)の神として崇敬され、本地仏が(勝軍地蔵)のため武家の崇敬も集めた。・愛宕山は(修験道七高山)の一つで、(天狗信仰)も生まれ、多くの修験者によって 愛宕信仰は全国に広まった。・(三歳)までの子供が詣でると、その子は一代(火災)を逃れると言い伝える。・(千日詣り)と呼ばれる(通夜祭)は(7月31日)夕刻から、翌日早朝にかけて行われ、 (千日分のご利益)があるとされる。 山頂では(護符)と(樒(しきみ))を受ける。●梅宮大社(右京区)・(橘氏)の祖(▲県犬飼橘三千代)が(山城国)の(相楽郡井手)に祖神の(酒解神) を祀ったのが始まりといい、(平安遷都)後の(嵯峨天皇)の時代に(檀林皇后)が 現在地に移したとされる。・(檀林皇后)は皇子に恵まれなかったが、当社に祈願して(▲仁明天皇)を生んだこと から、当社の(跨げ石)は子宝に恵まれるといわれ、(白砂)は(安産)のお守りとさ れている。・(影向石)は3個の神石で、(三石)ともいわれ、(紀州熊野)から三羽の鳥が飛んで きて石になったと伝え、末社の(▲熊野社)の神体となった。・神苑には(カキツバタ)が群生し、名所となっている。・(▲大納言源経信)の歌碑。 「ゆうされば かどたのいなば おとずれてあしのまろやに 秋風ぞふく」●蚕の社(右京区)・正しくは(▲木島坐天照御魂神社)(このしまにますあまてるみたま)・かつてこの地の勢力者であった(秦氏)が(▲水の神)(ムスビの神)を祀ったのが始ま りとされ、平安時代には(▲祈雨)の神として信仰された。・本殿の右側にある摂社の(養蚕神社)は、(養蚕・機織・染色)の技術に優れた(秦氏) に縁が深く、蚕の社と呼ばれることから、当社の通称となった。・境内には(元糺の池)があり、夏の(土用の丑の日)に手足を浸すと、(しもやけ)・ (脚気)にならないという。・ここに建つ(三鳥居)は、(明神鳥居)を正三角形に組み合わせ、その中心に設けた 組石の神座に(御幣)が立てられ、三方から拝むことができる。・(京都三珍鳥居)の一つ 他の2つは(京都御苑)内(厳島神社)の(唐破風鳥居) (北野天満宮)の(伴氏社)の鳥居。 台座に(蓮弁)が刻まれている。(額束(がくづか))が(島木)にめり込んでいる●車折神社(右京区)・祭神は(▲清原頼業(よりなり)※) ※は平安時代の儒者・この儒者の没後に設けられた廟所に由来するという・(後嵯峨天皇(一説に(亀山天皇))が、(嵐山)に遊行したとき、社前で牛車が動か なくなったので、門前右側の石を(車折(前)石)と呼んで、(正一位車折大明神)の 神号を贈ったと伝える。・(商売繁盛)(売掛金回収)のご利益があるとされ、(祈念神石)を持ち帰り、願いが かなえば(倍の石の数)を返納する。・境内には(芸能神社)もある。・(▲5月)第3日曜の(三船祭)は当社の祭。※8月16日の(▲精霊送り万灯流し)は(徳林寺)の行事。●野々宮社(野宮神社)(右京区)・かつては(伊勢斎宮)の(野宮社)があったとされる。・源氏物語の(賢木(さかき))の舞台となり、境内に(黒木)の鳥居と(小柴垣)に往時 が偲ばれる。・現在は(縁結び)・(▲子宝安産)の神として信仰を集めている。・(藤原定家)の歌碑がある。「こぬ人を・・・」●大原野神社(西京区)・延暦3年(784)の(長岡京)への遷都にあたり、(桓武天皇)の皇后の(藤原乙牟漏) が(春日社)の神霊を勧請したのに始まると伝える。・嘉祥3年(850)には(▲藤原冬嗣)が当地に社殿を建て、(藤原氏)の氏神として信仰され た。・(後水尾天皇)が荒廃した社殿を再建。・(瀬和井の清水)は(大伴家持)が愛飲したという。●月読神社(西京区)・(松尾大社)の境外摂社・顕宗天皇3年(487)に創祀され、祭祀は(壱岐県主)の先祖が務めたという。・祭神の(月読尊)は(壱岐県主)の祖。・斉衡3年(856)に(桂川)の河浜から現在地に移ったとされる。・古くから(疱瘡の神)とされているが、(安産の神)ともいわれ、(月延石)は(安産石) の名で知れる。●松尾大社(西京区)・大宝元年(701)、(▲秦忌寸都里)(はたのいみきとり)が、(松尾山大杉谷)の(磐座) の神霊を勧請し、社殿を造営したという。・平安遷都後は(賀茂社)とともに(王城鎮護)の神となり(賀茂の厳神、松尾の猛霊)と 並び称された。・寛弘元年(1004)に(一条天皇)の行幸以来、たびたび歴代天皇の行幸があった。・古くから(▲酒の神)として信仰を集め、境内の霊泉の(亀の井)の水を醸造のときに混 ぜると(酒が腐らない)と伝える。・応永4年(1397)建築の本殿は重文で天文11年(1542)に大修理が行われており、(両流造) と称される珍しい形式。・宝物館にはきわめて珍しい神像彫刻の作風を伝える重文(男神・女神像)が安置されてい る。・重森三玲作庭の(▲松風苑三庭)=(上古の庭)(曲水の庭)(蓬莱の庭)がある。・(4月中酉の日)に松尾大社(中酉祭)がある。 酒は古来(卯の日)に造り始め、四月(中酉の日)に終わるとされている。醸造業者が全国 から参詣し、狂言奉納などが行われる。・(9月第1日曜)に(八朔祭)がある。(二百十日)前後の風雨安穏、五穀豊穣、家内安全 の祈願が行われる。(奉納相撲)・子供神輿のお練り・(▲女神輿の船渡御)・ (▲嵯峨野六斎念仏)などが奉納される。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村__________________________________「京都検定過去問」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=28「京都検定出題傾向分析」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=30「京都検定勉強」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=31
2015/12/08
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神社#6(今宮神社・大田神社・建勲神社・平野神社・わら天神・首途八幡宮・護王神社・出世稲荷神社・白峯神宮・晴明神社)の問題です。不正解だった場合は▲とし、正解を記入しています●今宮神社(北区)・(紫野社)ともいう・平安初期に疫病を祓うために京中の人々が当地に(▲疫神)を祀ったのの由来すると され、長保3年(1001)の疫病流行のときんは、神殿を造営し、(今宮社)と呼ばれた。・創祀以来一貫して(疫病退散)の神とされ、(やすらい祭)は疫神を鎮める (鎮花祭)として始まった。この祭は(4月)第2日曜にある。・境内には(疫社、斎院(▲若宮社))や(西陣織業者)が祀った(織姫神社)などの 摂末社が建つ。・不思議な石(阿呆賢さん)がある。・あぶり餅の店は2軒(一和)と(かざり屋) (きな粉)をつけて炭火であぶり(白味噌▲)のたれをつける。●大田神社(北区)・五穀豊穣を願ってこの地の(地主神)を祀ったのが始めという。・のちに(上賀茂神社)の境外摂社となり(上賀茂八摂社)の一つに数えられる。・寛永5年(1628)には(本殿)と(割拝殿)が造替された。・(カキツバタ群落)は国の天然記念物。・近くに(賀茂季鷹)の歌碑がある。 三芳野のよしや雲にはまがう共雪な散そ山さくら花●建勲神社(北区)・祭神は(織田信長・信忠)・天正10年(1582)の本能寺の変後、(豊臣秀吉)が(正親町天皇)の勅許を得て、 (船岡山)を(信長)の霊地と定めたことに始まるという。・明治2年(明治天皇)の命により(織田信長)を祭神とした神社を創建し、建勲神社 の神号を賜った。・同8年には(別格官幣社)に列し、社地を(船岡山)に得て、社殿を新営した。・同13年には(信長)の子(信忠)を配祀し、同43年には本殿以下、諸社を(船岡山) 中腹から山上に移した。・桶狭間の合戦出陣に際し織田信長公が舞った(敦盛)の一節を刻んだ歌碑がある。●平野神社(北区)・平城宮の(田村後宮)から(長岡京)を経て、平安遷都のときにこの地に移されたと いわれる。・(朝廷)に崇敬され(源氏・平氏)をはじめ諸氏の(氏神)としてもあがめられた。・本殿は寛永年間(1624-44)の建築で、(比翼春日造)あるいは(平野造)とも呼ばれ ている。・桜は(平野の夜桜)として有名。・4月10日に(桜花祭)がある。神幸列の先頭を(鬼)が露払いをし、その後を(王朝) (天平)(元禄)の各列が続く。寛和元年(985)に(花山天皇)が桜をお手植えされた 古例による。●わら天神(北区)・正しくは(敷地神社)・天長5年(828)(淳和天皇)が当社に勅使を遣わして(止雨)を祈願したと伝える。・かつては(▲北山の神)と呼ばれて(北山天神)の丘にあったが、(足利義満)の (北山殿)造営の時にこの地に移転したと伝える。・(安産)の神として有名で、(藁の護符)が授けられ、その藁に(節)があれば男の子、 なければ女の子が生まれるという。・(わら天神)の名はこの信仰にちなんでいる。●首途八幡宮(上京区)・祭神は(応神天皇)(比売大神)(神功皇后)・大内裏の北東に位置するため(王城鎮護)の神とされ、(内野八幡宮)とも呼ばれた。・この地にはかつて(金売吉次)の屋敷があったといわれ、当社はその鎮護社と伝える。・(吉次)は平安時代の伝説上の商人。・社名は承安4年(1174)に(牛若丸(源義経))が奥州に出発するときに、道中の安全を祈願 したことに由来するとも、寿永年間(1182-85)に(義経)が(平家追討)の首途にあたり、 (宇佐八幡宮)の神霊を勧請したことにちなむともいう。 この故事により、(旅行の安全)を願う信仰がある。●護王神社(上京区)・祭神は(和気清麻呂・和気広虫)他・(和気氏)の氏寺である(神護寺)の境内に(清麻呂)の零社として祀られ、(護法善神)と 称されていた。・明治19年に(御所)の守護神として現在地に移転した。・(広虫)は(清麻呂)の姉で、京中の(孤児)を養育したという。そのため(子育て明神)と 呼ばれ、(▲育児の神)として信仰を集める。・境内には(霊猪像)があり、(いのしし神社)とも呼ばれる。・(11月1日)に(亥子祭)がある。平安時代宮中で行われていた(御玄猪)に由来する無病息災を 祈願する祭。(亥の月(旧暦の10月)の(亥の日、亥の刻)に(餅)を食べると病にかからない とされ、中国の民間信仰が起源とされる。●出世稲荷神社(上京区 現在は左京区大原に移転)・(豊臣秀吉)が(聚楽第)内に建立し、(聚楽第)廃絶後に現在地へ移建された。 ・社名は(秀吉)の(出世)にちなむ。・末社の(三石社)は(3個の石)を神体とし、(勝負事)の神としてしられる。●白峯神宮(上京区)・祭神は(崇徳天皇)(淳仁天皇)・慶応4年(1868)に(明治天皇)が(讃岐)の(白峰▲)から(崇徳天皇)の神霊を、のちには (淡路)の(天王森)から(淳仁天皇)の神霊を(皇室鎮護)の神として当地に移して創建さ れた。・この地には(蹴鞠・和歌)の宗家である(飛鳥井家)の邸宅があり、末社の(地主社)に (蹴鞠道)の神である(精大明神)を祀る。・他の末社に(伴緒社(とものお))があり、(源為義・為朝)を祭神とする。・(オガタマノキ)が市指定天然記念物●晴明神社(上京区)・祭神は(安倍晴明)他・寛弘4年(1007)に(一条天皇)の勅命によって(晴明)の邸跡に創建されたという。・(晴明)は平安中期の(天文博士)で、星座の急変するのを見て(花山天皇)の退位を予知したと される。・境内の(晴明井)は(晴明の念持力)で湧き出たといい、飲むと(▲悪病難病)が治ると伝える。・現在は(▲方除け)(▲火災除け)(▲病気平癒)の神として信仰されている。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村__________________________________「京都検定過去問」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=28「京都検定出題傾向分析」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=30「京都検定勉強」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=31
2015/12/07
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神社#5(上御霊神社・梨木神社・下御霊神社・白山神社・錦天満宮)の解答です。不正解だった場合は▲とし、正解を記入しています●上御霊神社(上京区)・祭神は(早良親王(崇道天皇))、(橘逸勢)、(吉備真備)他13柱。・正しくは(御霊神社)・平安遷都以前よりこの地に勢力を持った(出雲氏)の氏寺である(上出雲寺)の鎮守社 であったとも伝えるが、式内社の(出雲井於(いのへ)神社)にあてる説もある。・(桓武天皇)が平安遷都の際に(早良親王)らの怨霊を鎮めるために創祀したともされる。・境内はかつて(御霊社)と呼ばれ(応仁の乱)の戦端が開かれた。 (畠山政長)が自邸を焼いて御霊の森にたてこもり、同族の(畠山義就)と戦った。・宝暦5年(1755)に(賢所御殿)を賜って、本殿とされたという。・社前で売られる(唐板)の煎餅には、(疫病除け)の御利益があるとされ、明治維新まで 皇室は(皇子)が誕生するたびに当社へ参詣し、これを土産にしたという。 (水田玉雲堂)で売られる。・(新村出)の歌碑がある。 千早振る 神のみめぐみ ふかくして 八十ぢに満つる 幸を得にけり・(松尾芭蕉)の句碑がある 半日は神を友にやとし忘れ●梨木神社(上京区)・祭神は(三条実万・▲実美)父子。・明治18年(1885)に(三条家)の邸宅の東に創建された。・両氏は(明治維新)の功労者。・(萩)の名所で(萩の宮)とも呼ばれる。・名水(▲染井(そめのい))がある。・(上田秋成)の歌碑がある。 「ふみよめば絵を巻きみればかにかくに 昔の人のしのばるるかな」・(湯川秀樹)の歌碑がある。 「千年の昔の園もかくやありし木の下かげに乱れさく萩」・(9月)の第3土・日曜日に(萩まつり)がある。 (池坊)の(▲献花式)や(茂山社中)による狂言・舞楽などが奉納される。●下御霊神社(中京区)・祭神は(早良親王)以下の八所御霊。相殿に(霊元天皇)・貞観5年(863)の(神泉苑)の(御霊会)の祭神を(下出雲路)の地に祀った後、天正18年 (1590)に(豊臣秀吉)が現在地に移転した。●白山神社(中京区)・治承年間(1177-81)に(加賀)の(白山)の僧侶が、神輿を担いで(強訴)したがかなわず、 神輿を棄てて帰山した。その後(神慮)を恐れた人々がその神輿を祀って創建したと伝える。 ・(歯痛平癒)の神とされ、(神箸)が授与される。●錦天満宮(中京区)・祭神は(菅原道真)・(錦の天神さん)とも呼ばれる。・長保年間(999-1004)に、(歓喜寺)の鎮守として創建。・(知恵)・(文字)・商売繁盛の神として信仰を集める・末社の(床浦社)には(少彦名命)が祀られ(疱瘡除け)の神とされた。・社名は(豊臣秀吉)が現在地の(錦小路)東端へ移転したことにちなむ。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村__________________________________「京都検定過去問」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=28「京都検定出題傾向分析」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=30「京都検定勉強」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=31
2015/12/07
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神社#4(安井金毘羅宮・恵美須神社・地主神社補足・新日吉神社・豊国神社・新熊野神社)の解答です。不正解だった場合は▲とし、正解を記入しています●安井金比羅宮(東山区)・祭神は(大物主神)(崇徳天皇)(源頼政)・(崇徳天王社)(安井神社)ともいう。・創建は建治年間(1275-78)(後白河法皇)の詔によるとされ、(光明院▲観勝寺)と 称されたという。・元禄8年(1695)に(安井門跡▲蓮華光院)を現在地に移建した際、(讃岐国金毘羅大権現)の祭神である(大物主神)を勧請した。・(絵馬)の奉納で知られ、(金比羅絵馬館)が立つ。 画家(山口素絢)作の絵馬もある。・境内の(縁切り・縁結び碑)も有名。・9月第4月曜に(櫛祭)がある。(久志塚)に使い古した(櫛)を納めて供養する。 古代から現代までのさまざまの(髷型)に結いあげた人たちも加わる(時代風俗行列) が(祇園石段下)から(花見小路)を巡る。・12月10日 (終い金比羅)がある。この日から(初金比羅)翌年(1月10日)まで、 (新穀感謝祭)に供えられた(稲宝米)が社頭で参詣者に授与される。●恵美須神社(東山区)・平安末期(栄西)が(宋)からの帰路に暴風雨にあい、波間に(恵美須神)を得て、 船中で祀ると、たちまち風雨が止んだという。 そのことにより、(建仁寺)を創建するにあたって山内に(恵美須神)を祀ったのが 始まりとされる。・(都七福神まいり)の一つで(商売繁盛)(交通安全)特に(海路安全)の神として 有名。・1月(10日)に(初ゑびす)がある。 8日(招福祭)、9日(▲宵ゑびす)、10日(初ゑびす)、11日(残り福)、 12日(撤福祭)・10月に(▲二十日ゑびす)がある。 19日(▲宵ゑびす)、20日(▲ゑびす講大祭)、21日(のこり福) 境内で(▲ゑびす囃子)を奏し、(生間流)の(式包丁)が奉納される。●地主神社(東山区)補足・11月23日 (もみじ祭)がある。 拝殿において(剣の舞)(扇の舞)(紅葉の舞)が奉納される。 他に(▲火焚神事)(▲もみじ献花)(にごり酒献酒)などが行われる。●新日吉神社(東山区)・祭神は(後白河法皇)(▲日吉山王七神)・永暦元年(1160)に(後白河院)が(法住寺)の鎮守として(近江)の(日吉山王社) より勧請したのに始まるという。・(▲酒造)・(▲医薬)・(▲縁結び)の神として信仰を集めている。●豊国神社(東山区)・祭神は(豊臣秀吉)・通称は(ホウコクさん)・慶長3年(1598)に(秀吉)の遺体を東山の(阿弥陀ヶ峰)に葬り、翌年には壮大な 社殿がその山腹に創建された。 (豊国大明神)の神号を賜り、同9年の(秀吉)の(七回忌)には盛大な臨時祭礼 が行われた。 その様子は(豊国臨時祭礼図屏風)に詳細に描かれている。・豊臣滅亡後は荒廃していたが、明治元年に(新日吉神宮)の(神楽殿)を仮本宮 として再興され、同13年に(旧方広寺大仏殿)境内に社殿を造営した。・(唐門)は(伏見城)の遺構と伝え、国宝。●新熊野神社(東山区)・永暦元年(1160)に(後白河院)が紀州の(熊野権現本宮)の祭神を勧請して、 (法住寺)の鎮守とした。・社殿は(平清盛)の造営・(足利義満)は当社で初めて(観阿弥・世阿弥)の能を見たという。・応仁の乱で荒廃後、寛文6年(1666)に(東福門院)が社殿を再建した。・(オオクスノキ)が市指定天然記念物よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村__________________________________「京都検定過去問」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=28「京都検定出題傾向分析」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=30「京都検定勉強」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=31
2015/12/07
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神社#8(御香宮神社・城南宮・藤森神社・伏見稲荷大社・宇治上神社・宇治神社。県神社・橋姫神社・長岡天満宮・石清水八幡宮)の問題です。●御香宮神社(伏見区)・祭神は( 皇后)( 天皇)( 天皇)ほか・貞観4年(862)に当地で清泉が湧き出し、これを飲むとどんな病気も治るという奇跡が 起こり、時の( 天皇)より「御香宮」の名を賜ったという。・筑前の( 宮)を勧請したとも、式内社の( 神社)とする説もある。・( )が文禄年間(1592-96)に( 城)を築城するときに当社を( )に移し、 ( 城)の鬼門の守護神にしたが、慶長10年(1605)には( )が旧地である現在 地に移した。・現存する多くの社殿は( )によって寄進されたもの。・本殿は( )の再建で、( 社 造)。重文。・( )は( 城)の遺構ともされ、( )の雰囲気を伝える。重文。・( 月上旬)に( 祭)がある。 ( )の総鎮守であったため( 祭)ともいわれる洛南の大祭。 室町時代の( )の伝統を今に伝えており( 祭)ともいわれる。●城南宮(伏見区)・( )にあたり王城の南に( 神)として創建されたという。・応徳3年(1086)に( 上皇)がこの地に( 殿)を造営したとき、( 社)として 崇めたと伝える。・古くから( 除け)の神として信仰を集めるが、現在は( )の神としても有名。・承久3年、( 上皇)が( )の武者揃えと称して兵を集め、( の乱)が 起きた。・( 月 日)には( )がある。・( 月 日)に( )がある。・4月第2金・土・日曜に( 祭)がある。 ( )行事として( )の奉納などがある。 ( )・( )の無料接待などがある。・( 月 日)と( 月 日)に曲水の宴がある。 ( )で行われる。●藤森神社(伏見区)・祭神は( 皇后)( )ほか5神。 東殿に( 天皇)ほか1神。西殿に( 親王)ほか2神。・洛南の( )に平安遷都以前から祀られると伝える古社。・古来朝廷より庶民まで崇敬が篤く、特に( と の神社)として知られる。・( )をはじめ( 関係者)の参拝が多い。・毎年( 月 日)に行われる( 祭)(( 祭))は( の )発祥の祭として 知られ、節句に飾る( )には( の神)が宿るとされる。 ( 神事)がある。・( の宮)とも呼ばれる。・本殿は正徳2年(1712)に( 天皇)より( )の建物を下賜されたもの。・摂社の( 社)( 社)は重文に指定されている。・名水( の水)がある●伏見稲荷大社(伏見区)・全国に(約 )ある( 神社)の総本山・和銅4年(711)に( )が( 山)の( )に三柱を創祀したという。・( )逸文には、( )が( )を的にして矢を射たところ、その 餅が( )になって山の峯に飛んでいき、そこに( )が生えて( )の社名に なったと伝える。・天長4年(827)に( )が( )の鎮守社として稲荷神を祀り、( )の行幸 とともに民間にも広く信仰され、平安京の( )以南が氏子圏となって、( 社) と京を二分した。・応仁の乱で焼亡した本殿は、明応8年(1499)に再興され、現在重文指定。・他に( )も重文。二部屋からなり、( )からの拝領と伝える。 ( 造)から( 造)へ移る遺構を残す建物で、( )あふれる( )好み の( )の代表例。・( 月の の日)に( 祭)がある。縁起ものの( )が授与される。・( 月 日)に( 祭)がある。 ( 月)の( 祭)で種おろしされ、成長した早苗を神田に植える。●宇治上神社(宇治市)・祭神は( 天皇)( 天皇)( )・明治維新までは隣接する( 神社)とともに( ( ))と総称した。・かつては当地に( 天皇)の離宮があり、( 神社)を( 社)、当社を ( 上社)と呼んだ。・( )の一つに数える( 水)がある。・( )は( )として最古の遺構で国宝。( 年代)の建立という。 鎌倉時代の( )も国宝。●宇治神社(宇治市)・永承7年(1052)に( )が( )の創建にあたり、鎮守社とした。以来、 ( )に崇敬され、祭礼の宇治の祭( 祭)は賑わったという。●県神社(宇治市)・永承7年(1052)に( )が( )を建立するときに鬼門除けとして鎮守社と なった。・社名は祭神( )の別名で、( )に由来するとも、( )の 守護神として創祀したことによるともいう。・( 月 日)の深夜から翌未明Nかけて行われる( 祭)は( の )として 知られる。●橋姫神社(宇治市)・祭神は( )・かつては( 橋 )の張り出し部分に祀られ、( )は( )と 呼ばれ、( )の守護神とされた。・明治3年の洪水で流出し、現在地に移転。・宇治の橋姫は数々の歌のい詠まれ( )には( の神)として、妬ましい 男女を呪い殺す話が記され、これにちなんで( )の神して、( )を切る 効験があると伝える。●長岡天満宮(長岡京市)・祭神は菅原道真・道真が太宰府に左遷されるときにここに立ち寄って( )という。・当社は道真の没後、家臣たちが( )を建てたことに始まるとされる。・江戸時代の初めには、( 宮 親王)が社地を整備し、社殿東にある ( 池)を( )を兼ねて造営した。・( )の名所。●石清水八幡宮(八幡市)・かつては( 宮)ともいわれた。・奈良の( 寺)の( )が、貞観元年(859)に( 宮)のお告げをうけて 勧請した。・( 神宮)に次ぐ( )として朝廷に崇敬され、天元2年(979)の( 天皇) の行幸をはじめ、歴代天皇が参詣した。・( の神)( の神)として、( )の信仰も篤く、( の氏神)として ( )が全国に広まった。・( )は重文。 ( )と( )を( )を介して前後に並置する形式は( 造)と称さ れ、寛永11年(1634)の建築。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村__________________________________「京都検定過去問」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=28「京都検定出題傾向分析」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=30「京都検定勉強」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=31
2015/12/07
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神社#7(五条天神宮・愛宕神社・梅宮大社・蚕の社・車折神社・野宮神社・大原野神社・月読神社・松尾大社)の問題です。●五条天神宮(下京区)・( 社)とも呼ばれた。・( )にあたって、( )が( 国)から天神を勧請したのに始まると いう。・祭神の( )が( )の神であることから、( )の祖神として信仰された。・現在は( 除け)の神としても知られる。・( 祭)には( )といわれる( 図)を参拝者に配布する。●愛宕神社(右京区)・全国愛宕神社(約 社)の総本社。・大宝年間(701-04)に( )が( 山)を開いて、神廟を築いたのが始まりとも、 天応元年(781)に僧( )・( )が勅を奉じ( )の神として ( 社)を鎮座したのに始まるともいう。・古来( )の神として崇敬され、本地仏が( )のため武家の崇敬も集めた。・愛宕山は( )の一つで、( )も生まれ、多くの修験者によって 愛宕信仰は全国に広まった。・( 歳)までの子供が詣でると、その子は一代( )を逃れると言い伝える。・( )と呼ばれる( 祭)は( 月 日)夕刻から、翌日早朝にかけて行われ、 ( のご利益)があるとされる。 山頂では( )と( )を受ける。●梅宮大社(右京区)・( 氏)の祖( )が( 国)の( 郡 )に祖神の( 神)を 祀ったのが始まりといい、( )後の( 天皇)の時代に( 皇后)が現在 地に移したとされる。・( 皇后)は皇子に恵まれなかったが、当社に祈願して( 天皇)を生んだことか ら、当社の( )は子宝に恵まれるといわれ、( )は( )のお守りとされ ている。・( )は3個の神石で、( )ともいわれ、( )から三羽の鳥が飛んで きて石になったと伝え、末社の( 社)の神体となった。・神苑には( )が群生し、名所となっている。・( )の歌碑。 「ゆうされば かどたのいなば おとずれてあしのまろやに 秋風ぞふく」●蚕の社(右京区)・正しくは( 神社)・かつてこの地の勢力者であった( 氏)が( の神)( の神)を祀ったのが始ま りとされ、平安時代には( )の神として信仰された。・本殿の右側にある摂社の( 神社)は、( ・ ・ )の技術に優れた( 氏) に縁が深く、蚕の社と呼ばれることから、当社の通称となった。・境内には( )があり、夏の( の の日)に手足を浸すと、( )・ ( )にならないという。・ここに建つ( )は、( 鳥居)を正三角形に組み合わせ、その中心に設けた 組石の神座に( )が立てられ、三方から拝むことができる。・( )の一つ 他の2つは( )内( 神社)の( 鳥居) ( 宮)の( 社)の鳥居。 台座に( )が刻まれている。( )が( )にめり込んでいる●車折神社(右京区)・祭神は( ※) ※は平安時代の儒者・この儒者の没後に設けられた廟所に由来するという・( 天皇(一説に( 天皇))が、( )に遊行したとき、社前で牛車が動か なくなったので、門前右側の石を( 石)と呼んで、( )の 神号を贈ったと伝える。・( )( )のご利益があるとされ、( )を持ち帰り、願いが かなえば( )を返納する。・境内には( 神社)もある。・( 月)第3日曜の( 祭)は当社の祭。※8月16日の( )は( 寺)の行事。●野々宮社(野宮神社)(右京区)・かつては( )の( 社)があったとされる。・源氏物語の( )の舞台となり、境内に( )の鳥居と( )に往時 が偲ばれる。・現在は( )・( )の神として信仰を集めている。・( )の歌碑がある。「こぬ人を・・・」●大原野神社(西京区)・延暦3年(784)の( )への遷都にあたり、( 天皇)の皇后の( ) が( 社)の神霊を勧請したのに始まると伝える。・嘉祥3年(850)には( )が当地に社殿を建て、( 氏)の氏神として信仰された。・( 天皇)が荒廃した社殿を再建。・( の清水)は( )が愛飲したという。●月読神社(西京区)・( 社)の境外摂社・顕宗天皇3年(487)に創祀され、祭祀は( )の先祖が務めたという。・祭神の( )は( )の祖。・斉衡3年(856)に( )の河浜から現在地に移ったとされる。・古くから( の神)とされているが、( の神)ともいわれ、( )は( ) の名で知れる。●松尾大社(西京区)・大宝元年(701)、( )が、( 山 谷)の( )の 神霊を勧請し、社殿を造営したという。・平安遷都後は( 社)とともに( )の神となり( の 、 の )と 並び称された。・寛弘元年(1004)に( 天皇)の行幸以来、たびたび歴代天皇の行幸があった。・古くから( の神)として信仰を集め、境内の霊泉の( )の水を醸造のときに混ぜる と( が )と伝える。・応永4年(1397)建築の本殿は重文で天文11年(1542)に大修理が行われており、( ) と称される珍しい形式。・宝物館にはきわめて珍しい神像彫刻の作風を伝える重文( ・ 像)が安置されている。・重森三玲作庭の( 三庭)=( の庭)( の庭)( の庭)がある。・( 月 の日)に松尾大社( 祭)がある。 酒は古来( の日)に造り始め、四月( の日)に終わるとされている。醸造業者が全国 から参詣し、狂言奉納などが行われる。・( 月第1日曜)に( 祭)がある。( )前後の風雨安穏、五穀豊穣、家内安全 の祈願が行われる。( )・子供神輿のお練り・( の )・ ( )などが奉納される。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村__________________________________「京都検定過去問」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=28「京都検定出題傾向分析」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=30「京都検定勉強」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=31
2015/12/07
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神社#3(粟田神社・大将軍神社・八坂神社・京都霊山護国神社・地主神社・若宮八幡宮)の解答です。不正解だった場合は▲とし、正解を記入しています●粟田神社(東山区)・貞観18年(876)(出羽守藤原▲興世)の奏上により(清和天皇)の勅命により、 この地に(牛頭天王)を祀ったのが始めとも、この地を治めていた(粟田氏)が氏神 として創建したとも伝える。・(▲感神院新宮)あるいは(▲粟田天王宮)とも称されたが明治になって粟田神社と 改称された。・同社の石段下は(旧東海道)(東山道)であり、(京の七口)の一つ(粟田口)にあ たり、古来行き来をする旅人が旅行の安全を祈願したことから(旅立ち守護)として 崇敬された。・(10月)に(粟田祭)がある。(▲出御(おいで)祭)(夜渡り神事) (神幸祭・還幸祭)・例大祭までを総称してそう呼ばれる。・神輿渡御の露払いとなる(剣鉾差し)は、(祇園祭山鉾)の原型とされ、長さ (約8メートル)、重さ(約60キロ)の剣鉾を一人でかつぐ●大将軍神社(東山区)・祭神は(素戔嗚尊) 相殿に(藤原兼家)・平安遷都にあたり、王城鎮護のため京都の四方に祀った(大将軍社)の一つ。・境内には樹齢(800年)と伝える(銀杏)の大樹が立ち、古くは(鵺の森)と呼ばれて (源頼政)の(鵺退治)の伝説がある。●八坂神社(東山区)・祭神は(素戔嗚尊・櫛稲田姫命・▲八柱御子神)・(祇園社)(祇園感神院)(▲祇園天神社)(牛頭天王社)などと呼ばれたが、明治元年 に現社名となった。・斉明天皇2年(656)に(高麗)から来朝した(八坂氏祖)の(伊利之)が(新羅国牛頭山) の(素戔嗚尊)の神霊を(八坂郷)に祀ったと伝える。・または貞観18年(876)に(南都興福寺)の(円如)が堂宇を建て、のちに (▲祇園天神堂)を建立したともいう。・古くから(疫病除け)の神として崇敬され、(御霊会)を行ったとされる。・境内の摂社に(疫神社(蘇民将来社))(悪王子社)(美御前社)などがある。・本殿は別棟だった(拝殿)と(本殿)を一つの大屋根で覆ったもので(祇園造)と称され ている。重文。・(1月3日)に「かるた始め」がある。・12月31日 (をけら詣り) (吉兆縄)に(をけら火)を点火し、消えないように回しな がら持ち帰り、(神前の灯明)や(正月の雑煮)を炊く時の火種とする。●京都霊山護国神社(東山区)・(護国神社)と通称され(京都神社)とも呼ばれる。・明治元年に我が国最初の(▲官祭招魂社)として創立した。・昭和14年には(昭和の大典)に使用した建物の一部が下賜されて社殿を造営し、京都霊山 護国神社と改称した。・境内には(木戸孝允(桂小五郎))(幾松)(坂本龍馬)(中岡慎太郎) (久坂玄瑞)(▲高杉晋作)(大村益次郎)(梅田雲浜)(吉田稔麿) (吉村寅太郎)(岩崎弥太郎)などの墓がある。・極東国際軍事裁判にて、ただ一人、被告全員の無罪を唱えたインド代表判事(パール博士) の顕彰碑がある。●地主神社(東山区)・祭神は(▲大国主命)(▲素戔嗚尊)などだが、一説には(坂上田村麻呂)を祀るともいう・明治維新までは(地主権現)と呼ばれた。・古くから(桜)の名所。(地主桜)の名前で有名。・(恋占いの石)がある。●若宮八幡宮(東山区)・祭神は(仲哀天皇)(応神天皇)(神功皇后)・天喜元年(1053)に(▲後冷泉天皇)の勅願で(▲源頼義)が(左女牛西洞院)に創建。・(足利歴代将軍)に崇敬され、興隆したが、応仁の乱で荒廃。・慶長10年(1605)に現在地に移転・(陶器神社)は、昭和24年に若宮八幡宮の相殿に(陶祖神)の(▲椎根津彦命) (しいねつひこのみこと)を祀ったもの。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村__________________________________「京都検定過去問」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=28「京都検定出題傾向分析」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=30「京都検定勉強」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=31
2015/12/06
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神社#2(日向大神宮・吉田神社・熊野若王子神社・岡崎神社・須賀神社・熊野神社・平安神宮)の解答です。不正解だった場合は▲とし、その後に正解を記入しています●日向大神宮(山科区)・明治維新までは(粟田口神明宮・恵美須谷神明宮)とも呼ばれた。・延喜式の式内社・(▲顕宗天皇)により創建、(清和天皇)により勧請されたともいう。・内宮と外宮がある。●吉田神社(左京区)・貞観元年(859)に(藤原山蔭)が奈良の(春日神)を(吉田山)西麓に勧請し、氏神 として祀ったことに由来する。・以来、(藤原氏)の京都での氏神とされ、朝廷の崇敬も受けた。 ・荒廃後、神官の(吉田兼倶)が(唯一神道)を唱え、(▲天神地祇八百萬神)を奉斎 する(大元宮)を創設し、当社並びに神社界の復興に貢献した。・2月2日~4日の節分祭には(▲疫神祭)(A:追儺式)(火炉祭)がとり行われ、 Aは(鬼やらい)として有名・現在の(大元宮)は母屋の平面が(八角形)という珍しい形で重文指定。●熊野若王子神社(左京区)・社名は(天照大神)の別称による・(後白河上皇)が永暦元年(1160)に紀州(熊野権現)を勧請したとも、平安初期に (真紹)が(禅林寺)を創建したとき、鎮守社として祀ったのに由来するともいう。・歴代の(足利将軍)に篤く信仰されたが、応仁の乱で焼亡し、(豊臣秀吉)によって 復興された。●岡崎神社(左京区)・(東天王社)ともいう・(王城鎮護)のため四方に祀った(大将軍社)の一つとされたが、(▲清和天皇)の 皇后(▲藤原高子)創建の(▲東光寺)の鎮守社としたのが始まりともいう。・古くは(▲安産)(方除け)(厄除け)の神として朝廷から崇敬された。●須賀神社(左京区)・(西天王社)と呼ばれる (岡崎神社)の(東天王社)と一対をなしていた。・康治元年(1142)に(美福門院※)創建の(▲歓喜光院)の鎮守として創建されたという。 ※(藤原得子(なりこ))。(鳥羽天皇)の譲位後の寵妃。(近衛天皇)の生母。・昭和39年に(交通神社)が分祀された。・5月第2日曜の(神幸祭)は(角豆(ささげ)祭)の名で知られる。●熊野神社(左京区)・弘仁2年(811)に(修験道)の始祖(役行者)の十世僧(日圓)が国家護持のために (紀州熊野大神)を勧請したといわれている。・荒廃後、寛文6年(1666)に(聖護院宮道寛法親王)によって再興された。・本殿は天保6年(1835)に(下鴨神社)旧本殿を移築。・(聖護院)の鎮守社であり、(天台宗)系(本山派修験道)の守護神として崇敬された。・永らく(▲白川熊野神社)または(▲熊野権現社)といわれたが、明治維新後は (神仏分離)により、熊野神社と改称された。●平安神宮(左京区)・明治28年(1895)の(平安奠都千百年記念祭)を奉祝する神宮として創建し、 (京都総鎮守)の社とされた。・社殿は平安京の(大内裏)の(正庁)である(朝堂院)を模して(約8分の5)に縮小し、 2層の神門は(応天門)、拝殿は(大極殿)を模して建立された。・(紀元2600年)にあたる昭和15年に(桓武天皇)に加え(孝明天皇)が合祀された。・神苑は(東)(中)(西)(南)の四苑からなり、(南苑)以外は(七代目小川治兵衛 (植治))の作。神苑を含む神域は国の(名勝)・4月に(観桜茶会)が(澄心亭)である。・(6月1日、2日)に野外演能(京都薪能)があるよろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村__________________________________「京都検定過去問」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=28「京都検定出題傾向分析」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=30「京都検定勉強」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=31
2015/12/06
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京都の神社#1(京都の古社・由岐神社・貴船神社・三宅八幡宮・下鴨神社・大豊神社)の解答です。不正解だった場合は▲とし、その後に正解を記入しています●京都の古社・神社には(A式内社)と(B式外社)がある。・Aは延長5年(927)に(藤原忠平)らによって奏進された(延喜式)の(神名帳) に記載された神社で、Bはそのほか、さらに後に創建された神社。・Aはかつて(官社)とも称された。・Aは祈年祭に朝廷から(奉幣)があった。・(官幣社)と(国幣社)があり、全国では3132座、2861所を数えた。・やがて神名帳に記載がなくても、広く崇敬を集めて、朝廷から奉幣のあった、(22)社が 定められ、祈年祭には奉幣があった。・上記の数の神社は、式内外社を含めて、京都には下記の12社があった。 (石清水八幡宮・上賀茂神社・下鴨神社・松尾大社・平野神社・伏見稲荷大社・ 大原野神社・梅宮大社・吉田神社・八坂神社・北野天満宮・貴船神社)●由岐神社(左京区)・天慶3年(940)に(王城の北方鎮護)のため、(宮中)から勧請したとされる。・天皇の病気などの国の非常時に、社前に(靫(ゆき))を奉納したので(靫明神)とも 呼ばれた。・10月22日の例祭は「鞍馬の火祭」として有名・拝殿は重文で(懸造)という造り方で、(割拝殿)という形式。・(スギ)および(カゴノキ)が市指定天然記念物●貴船神社(左京区)・(神武天皇)の皇母(玉依姫)が、(黄船)に乗って(貴船川)をさかのぼり、当地に 祠を建てたことに始まるという。・樹木を育成する神である(木生根(木生嶺))の神ともされ、平安遷都後に当地が賀茂川 の水源地にあたるために水神として祀るようになったとも伝える。・明治4年までは(上賀茂神社)の摂社だった。・かつては社殿は(奥宮)の位置にあった。・(カツラ)が市指定天然記念物・6月1日に(貴船祭)がある。(貴船御更衣祭)に起源する。その昔、参詣者が(いたどり) 摘み競争を行っていたことから(いたどり祭)とも呼ばれた。・7月7日(貴船の水まつり)がある。神事の後、(裏千家)による献茶式や舞楽奉納、 (生間流)の(式包丁)が披露される。●三宅八幡宮(左京区)・祭神は(応神天皇)・推古天皇の時代に(▲小野妹子)が(宇佐八幡宮)を勧請したのに由来するという。・(虫八幡)とも呼ばれれ、子供の守り神、特に子供の(疳の虫封じ)の神として信仰を 集める。・秋季大祭は(三宅八幡放生会)という。・神の使いは(鳩)。それをかたどった(鳩餅)が門前菓子。 (肉桂)や(抹茶)の風味。(三宅八幡茶屋)で販売。●下鴨神社(左京区)・祭神は(賀茂建角身命)(玉依媛命)。・正しくは賀茂御祖神社。・崇神天皇7年、(瑞垣)築造の記述がみえ、平安遷都後は(王城鎮護)の社として、朝廷 はじめ公家や武家の崇拝を集めた。・社叢は(糺の森)・摂社(河井神社)(三井神社)(出雲井於(いのへ)神社) 末社(言社)(印璽社(いんのやしろ)) 境外摂社(御蔭神社)・(東本殿)(西本殿)は文久3年(1863)の建築で国宝。・蹴鞠始め (1月4日) 蹴鞠の流派(飛鳥井流)(難波流)・7月(土用の丑の日)に(御手洗祭)がある。別名(足つけ神事) 境内末社(御手洗社)の例祭。・9月中秋 (名月管弦祭)●大豊神社(左京区)・当初は(椿ヶ峰天神)と呼ばれた。・(大宝(おおたから)大明神)ともいう。・(円成寺)の鎮守社であったとも伝える。・石造の(狛鼠)は(大国主命)を助けたという故事にちなむ。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村__________________________________「京都検定過去問」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=28「京都検定出題傾向分析」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=30「京都検定勉強」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=31
2015/12/06
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神社#6(今宮神社・大田神社・建勲神社・平野神社・わら天神・首途八幡宮・護王神社・出世稲荷神社・白峯神宮・晴明神社)の問題です。●今宮神社(北区)・( 社)ともいう・平安初期に疫病を祓うために京中の人々が当地に( )を祀ったのの由来するとされ、 長保3年(1001)の疫病流行のときんは、神殿を造営し、( 社)と呼ばれた。・創祀以来一貫して( )の神とされ、( 祭)は疫神を鎮める( 祭)と して始まった。この祭は( 月)第2日曜にある。・境内には( 社、 ( 社))や( 者)が祀った( 神社)などの摂末社 が建つ。・不思議な石( さん)がある。・あぶり餅の店は2軒( )と( ) ( )をつけて炭火であぶり( )のたれをつける。●大田神社(北区)・五穀豊穣を願ってこの地の( )を祀ったのが始めという。・のちに( 神社)の境外摂社となり( 社)の一つに数えられる。・寛永5年(1628)には( 殿)と( 殿)が造替された。・( 群落)は国の天然記念物。・近くに( )の歌碑がある。 三芳野のよしや雲にはまがう共雪な散そ山さくら花●建勲神社(北区)・祭神は( ・ )・天正10年(1582)の本能寺の変後、( )が( 天皇)の勅許を得て、( ) を( )の霊地と定めたことに始まるという。・明治2年( 天皇)の命により( )を祭神とした神社を創建し、建勲神社の神号 を賜った。・同8年には( 社)に列し、社地を( )に得て、社殿を新営した。・同13年には( )の子( )を配祀し、同43年には本殿以下、諸社を( )中腹 から山上に移した。・桶狭間の合戦出陣に際し織田信長公が舞った( )の一節を刻んだ歌碑がある。●平野神社(北区)・平城宮の( )から( 京)を経て、平安遷都のときにこの地に移されたといわれる。・( )に崇敬され( 氏・ 氏)をはじめ諸氏の( )としてもあがめられた。・本殿は寛永年間(1624-44)の建築で、( 造)あるいは( 造)とも呼ばれている。・桜は( の )として有名。・4月10日に( 祭)がある。神幸列の先頭を( )が露払いをし、その後を( ) ( )( )の各列が続く。寛和元年(985)に( 天皇)が桜をお手植えされた古例に よる。●わら天神(北区)・正しくは( 神社)・天長5年(828)( 天皇)が当社に勅使を遣わして( )を祈願したと伝える。・かつては( の神)と呼ばれて( )の丘にあったが、( )の( )造営 の時にこの地に移転したと伝える。・( )の神として有名で、( )が授けられ、その藁に( )があれば男の子、なけれ ば女の子が生まれるという。・( )の名はこの信仰にちなんでいる。●首途八幡宮(上京区)・祭神は( 天皇)( 大神)( 皇后)・大内裏の北東に位置するため( )の神とされ、( 宮)とも呼ばれた。・この地にはかつて( )の屋敷があったといわれ、当社はその鎮護社と伝える。・( )は平安時代の伝説上の商人。・社名は承安4年(1174)に( ( ))が奥州に出発するときに、道中の安全を祈願したこと に由来するとも、寿永年間(1182-85)に( )が( )の首途にあたり、( )の 神霊を勧請したことにちなむともいう。 この故事により、( の )を願う信仰がある。●護王神社(上京区)・祭神は( ・ )他・( 氏)の氏寺である( 寺)の境内に( )の零社として祀られ、( )と称されて いた。・明治19年に( )の守護神として現在地に移転した。・( )は( )の姉で、京中の( )を養育したという。そのため( 明神)と呼ばれ、 ( の神)として信仰を集める。・境内には( 像)があり、( 神社)とも呼ばれる。・( 月 日)に( 祭)がある。平安時代宮中で行われていた( )に由来する無病息災を 祈願する祭。( の月(旧暦の 月)の( の日、 の刻)に( )を食べると病にかか らないとされ、中国の民間信仰が起源とされる。●出世稲荷神社(上京区 現在は左京区大原に移転)・( )が( )内に建立し、( )廃絶後に現在地へ移建された。 ・社名は( )の( )にちなむ。・末社の( 社)は( )を神体とし、( )の神としてしられる。●白峯神宮(上京区)・祭神は( 天皇)( 天皇)・慶応4年(1868)に( 天皇)が( )の( )から( 天皇)の神霊を、のちには ( )の( )から( 天皇)の神霊を( )の神として当地に移して創建され た。・この地には( ・ )の宗家である( 家)の邸宅があり、末社の( 社)に( )の 神である( )を祀る。・他の末社に( 社)があり、( ・ )を祭神とする。・( )が市指定天然記念物●晴明神社(上京区)・祭神は( )他・寛弘4年(1007)に( 天皇)の勅命によって( )の邸跡に創建されたという。・( )は平安中期の( )で、星座の急変するのを見て( 天皇)の退位を予知したと される。・境内の( 井)は( の )で湧き出たといい、飲むと( )が治ると伝える。・現在は( 除け)( 除け)( )の神として信仰されている。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村__________________________________「京都検定過去問」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=28「京都検定出題傾向分析」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=30「京都検定勉強」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=31
2015/12/06
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神社#5(上御霊神社・梨木神社・下御霊神社・白山神社・錦天満宮)の問題です。●上御霊神社(上京区)・祭神は( ( 天皇))、( )、( )他13柱。・正しくは( 神社)・平安遷都以前よりこの地に勢力を持った( 氏)の氏寺である( 寺)の鎮守社 であったとも伝えるが、式内社の( 神社)にあてる説もある。・( 天皇)が平安遷都の際に( )らの怨霊を鎮めるために創祀したともされる。・境内はかつて( 社)と呼ばれ( )の戦端が開かれた。 ( )が自邸を焼いて御霊の森にたてこもり、同族の( )と戦った。・宝暦5年(1755)に( )を賜って、本殿とされたという。・社前で売られる( )の煎餅には、( 除け)の御利益があるとされ、明治維新まで 皇室は( )が誕生するたびに当社へ参詣し、これを土産にしたという。 ( )で売られる。・( )の歌碑がある。 千早振る 神のみめぐみ ふかくして 八十ぢに満つる 幸を得にけり・( )の句碑がある 半日は神を友にやとし忘れ●梨木神社(上京区)・祭神は( ・ )父子。・明治18年(1885)に( 家)の邸宅の東に創建された。・両氏は( )の功労者。・( )の名所で( )とも呼ばれる。・名水( )がある。・( )の歌碑がある。 「ふみよめば絵を巻きみればかにかくに 昔の人のしのばるるかな」・( )の歌碑がある。 「千年の昔の園もかくやありし木の下かげに乱れさく萩」・( 月)の第3土・日曜日に( )がある。 ( )の( )や( )による狂言・舞楽などが奉納される。●下御霊神社(中京区)・祭神は( )以下の八所御霊。相殿に( 天皇)・貞観5年(863)の( )の( )の祭神を( )の地に祀った後、天正18年 (1590)に( )が現在地に移転した。●白山神社(中京区)・治承年間(1177-81)に( )の( )の僧侶が、神輿を担いで( )したがかなわず、 神輿を棄てて帰山した。その後( )を恐れた人々がその神輿を祀って創建したと伝える。 ・( 平癒)の神とされ、( )が授与される。●錦天満宮(中京区)・祭神は( )・( さん)とも呼ばれる。・長保年間(999-1004)に、( 寺)の鎮守として創建。・( )・( )・商売繁盛の神として信仰を集める・末社の( 社)には( 命)が祀られ( 除け)の神とされた。・社名は( )が現在地の( )東端へ移転したことにちなむ。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村__________________________________「京都検定過去問」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=28「京都検定出題傾向分析」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=30「京都検定勉強」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=31
2015/12/06
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神社#4(安井金毘羅宮・恵美須神社・地主神社補足・新日吉神社・豊国神社・新熊野神社)の問題です。●安井金比羅宮(東山区)・祭神は( 神)( 天皇)( )・( 社)( 神社)ともいう。・創建は建治年間(1275-78)( 法皇)の詔によるとされ、( 院 寺)と 称されたという。・元禄8年(1695)に( 門跡 院)を現在地に移建した際、( 国 ) の祭神である( 命)を勧請した。・( )の奉納で知られ、( 館)が立つ。 画家( )作の絵馬もある。・境内の( ・ 碑)も有名。・9月第4月曜に( 祭)がある。( )に使い古した( )を納めて供養する。 古代から現代までのさまざまの( )に結いあげた人たちも加わる( 行列) が( )から( )を巡る。・12月10日 ( )がある。この日から( )翌年( 月 日)まで、 ( 祭)に供えられた( )が社頭で参詣者に授与される。●恵美須神社(東山区)・平安末期( )が( )からの帰路に暴風雨にあい、波間に( 神)を得て、 船中で祀ると、たちまち風雨が止んだという。 そのことにより、( 寺)を創建するにあたって山内に( 神)を祀ったのが 始まりとされる。・( )の一つで( )( )特に( )の神として 有名。・1月( 日)に( )がある。 8日( 祭)、9日( )、10日( )、11日( )、 12日( 祭)・10月に( )がある。 19日( )、20日( 祭)、21日( ) 境内で( )を奏し、( 流)の( )が奉納される。●地主神社(東山区)補足・11月23日 ( 祭)がある。 拝殿において( の舞)( の舞)( の舞)が奉納される。 他に( 神事)( )( 献酒)などが行われる。●新日吉神社(東山区)・祭神は( 法皇)( 神)・永暦元年(1160)に( )が( 寺)の鎮守として( )の( 社) より勧請したのに始まるという。・( )・( )・( )の神として信仰を集めている。●豊国神社(東山区)・祭神は( )・通称は( さん)・慶長3年(1598)に( )の遺体を東山の( )に葬り、翌年には壮大な 社殿がその山腹に創建された。 ( )の神号を賜り、同9年の( )の( )には盛大な臨時祭礼 が行われた。 その様子は( )に詳細に描かれている。・豊臣滅亡後は荒廃していたが、明治元年に( 宮)の( 殿)を仮本宮 として再興され、同13年に( 寺 )境内に社殿を造営した。・( )は( )の遺構と伝え、国宝。●新熊野神社(東山区)・永暦元年(1160)に( )が紀州の( )の祭神を勧請して、 ( 寺)の鎮守とした。・社殿は( )の造営・( )は当社で初めて( ・ )の能を見たという。・応仁の乱で荒廃後、寛文6年(1666)に( )が社殿を再建した。・( )が市指定天然記念物よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村__________________________________「京都検定過去問」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=28「京都検定出題傾向分析」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=30「京都検定勉強」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=31
2015/12/06
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その他の寺院#2(聖護院・峰定寺・三室戸寺・清水寺・鞍馬寺・志明院・廬山寺・三鈷寺)の問題です。不正解だった場合は▲とし、その後に正解を記入しています●聖護院(左京区)・(本山修験宗)総本山・(智証大師円珍)の流れを継ぐ(▲三井寺)の(増誉)を開基とする。・この僧は寛治4年(1090)に(白河上皇)の(熊野御幸)の時に(先達)を承り、その 功によって聖護院と(熊野三山検校)を賜り、あわせて(修験道)を統括した。・第4世に(後白河法皇)の皇子(▲静恵(じょうえ)法親王)を迎えて、門跡寺院と なった。・応仁の乱で焼失し、洛北岩倉の(▲解脱寺)に移り、文明13年(1482)には(足利義政)が 当寺で出家して堂舎を整備したが、再び焼失。・現在地へは延宝4年(1676)に移転再建された。・御所の火災により天明8年(1788)から3年間、(光格天皇)の仮御所であった。・明治以降、昭和20年まで、(天台宗寺門派)(園城寺)に属していた。●峰定寺(左京区)・(本山修験宗)の寺院・久寿元年(1154)に天台宗の修験者である(三滝上人観空西念)が千手観音を祀って、 三間の堂舎を建てたことに由来する。・この本尊は(鳥羽法皇)が奉納したと伝え、(白檀)に精巧な彫刻が施されている。・同年、(不動明王および二童子像)、(毘沙門天像)を安置して以来、その勅願寺 となった。・その後、(▲修験)の霊場となるが衰退。・延宝年間(1673-81)に(聖護院)の(道祐法親王)が(▲後西天皇)の命を受けて復興 した。・本堂付属の供水所は最古の(閼伽井)の遺構。●三室戸寺(宇治市)・(本山修験宗)の別格本山・宝亀元年(770-780)に宮中の奇瑞によって山奥の渓流から二臂千手観音が現れたという。 これを喜んだ(▲光仁天皇)が御室を移してその観音を祀り、(御室戸寺)にしたのが 起こりと伝える。・文明年間(1469-87)に再興したが、天正元年(1573)の(槇島合戦)で、当寺は (足利義昭)に協力したため、(織田信長)によって焼失。 その後は衰退して多くの子院は(金蔵院)を残すのみとなった。・重文の(清涼寺式釈迦如来立像)をはじめ(▲毘沙門天立像)(阿弥陀三尊像)などを 所蔵。・五千坪にも及ぶ大庭園は(アジサイ)や(ツツジ)の名所として知られる・西国三十三所観音霊場(第十番札所) ●清水寺(東山区)・(北法相宗)の総本山・宝亀11年(780)にこの地に鹿狩りにきた(坂上田村麻呂)が修行中の(延鎮)に殺生を 戒められ、夫人とともに(千手観音)を造り、お堂を建てたのが始まりと伝える・弘仁2年(810)に(嵯峨天皇)から宸筆を賜って鎮護国家の道場となり「清水寺」を世号 とした。・かつては(法相宗)として南都の(興福寺)に属したため、(延暦寺)との抗争の度に 攻撃を受け、たびたび焼亡した。・現在の(本堂)は寛永10年(1633)の再建で国宝。 「清水の舞台」で知られる。・舞台は(檜)板張りで、(欅(けやき))の柱は高さ(13メートル)。・(三重塔)(仁王門)は重文。・西国三十三所観音霊場の(第十六番)札所・(洛陽六阿弥陀巡り)の一つ。・塔中(旧本坊)の成就院は、文明年間(1469-87)の創建と伝え、寛永16年(1639)に (東福門院)の寄進により再興した。・庭園は典型的な(借景式庭園)。国の(名勝)。(月の庭)として著名。 (▲烏帽子岩)、(蜻蛉燈籠)、(誰が袖手水鉢)、(▲手鞠燈籠)などが著名。 (相阿弥)原作・(小堀遠州)の補修とも、(松永貞徳)の作とも伝えられる。・幕末には(月照(▲忍向))・(信海)両上人のもとに(近衛忠熈)、(西郷隆盛)を はじめとする勤皇の志士たちが集い、密談を交わした場所でもある。●鞍馬寺(左京区)・(鞍馬弘教)総本山・宝亀元年(770)に(鑑真)の弟子である(鑑禎)が毘沙門天を祀ったのに由来する。・延暦15年(796)には(▲藤原伊勢人)が伽藍を建立し、北方鎮護の道場としたという。・平安以降、永く(天台宗)に属し、(青蓮院)とのつながりが深いが、昭和22年に (鞍馬弘教)を開宗し、同24年総本山となった。・国宝の(毘沙門天三尊像)のうち(毘沙門天・善膩師童子像)は藤原前期、 (吉祥天)は大治2年(1127)に制作された。・重要文化財として(定慶作)の(▲聖観音菩薩像)(▲銅燈籠)などがある。・(鞍馬寺経塚)の出土品は国宝。・5月の満月の夜(五月満月(うえさく)祭)がある。 全山に灯明を灯し、本尊魔王尊に世界救済・平和を祈念する。・6月20日に(竹伐り会式)がある。 法師が(青竹)を伐る。(牛若丸)の装束をした稚児による(▲七度半の使い)の 儀式もある。(蓮華会)とも呼ばれる。●志明院(北区)・(▲岩屋山不動教)の単立寺院・正しくは(▲金剛峯寺志明院)(きんごうほうじ)・天長6年(829)、(▲空海)の創建と伝えられ、祈願所として崇拝された。・本堂後方の(神降窟)は、高さ約30メートルの大岩窟。 当寺は歌舞伎(鳴神)の舞台としても知られる。・境内の(シャクナゲ)林は有名●廬山寺(上京区)・(圓浄宗)の大本山・正しくは(▲廬山天台講寺)・前身は天慶年間(938-47)に(良源)が北山に創建した(与願金剛院)。 天正年間に現在地に移った。・当地は(紫式部)の邸宅跡と伝え、(源氏の庭)には(紫式部邸宅址)の石碑が立つ。 考古・歴史学者(角田文衞)氏の説。 紫式部歌碑「めぐりあひて見しやそれともわかぬ間に 雲がくれにし夜半の月かな」・2月3日の節分会は(鬼の法楽)の名で知られる。 (良源)が修行中に邪魔をしてきた鬼を退散させたという故事に由来する。●三鈷寺(西京区)・(西山宗)総本山・(天台)(真言)(律)(浄土)の四宗兼学。近年まで天台宗に属した。・開山の(源算=(善峯寺)の開山)が承保元年(1074)に草庵を建て、(往生院)と 号したのが起こり。・(源空)の高弟(証空)(=(浄土宗西山派)の祖)が念仏の道場として再興。 ・背後の山並みが仏器の(三鈷)の形に似ているので、この寺名がある。・(証空)没後、(宇都宮頼綱=蓮生)が現在地に(▲華台廟)を建立した。・(二大仏七城俯瞰の地)と称される。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村__________________________________「京都検定過去問」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=28「京都検定出題傾向分析」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=30「京都検定勉強」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=31
2015/12/05
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その他の寺院#1(松ヶ崎大黒天・長楽寺・染殿地蔵・壬生寺・法金剛院・善法律寺)の解答です。不正解だった場合は▲とし、その後に正解を記入しています●松ヶ崎大黒天(左京区)(日蓮宗の漏れ分)・寺号は(妙円寺)・元和2年(1616)に北野の本山(立本寺)の第12世であった(本覚院日英)が京都の 鬼門にあたる(子丑)の方位に建立・都七福神まいりの一つ・五山送り火(法)の字の真下にある。●長楽寺(東山区)・(時宗)寺院・延暦24年(805)、(最澄)が天台宗の(延暦寺別院)として創建・至徳2年(1385)に(国阿)が(時宗)に改宗・明治中期に(伏見城)の遺構と伝える、西賀茂の(正伝寺)の法堂を本堂として移建し、 同41年には時宗総本山格の(七条道場金光寺)を合弁。・庭園は(相阿弥)作と伝える・(一遍)以下の(時宗祖師像(7体))は(金光寺)伝来で重文。・(頼山陽・三樹三郎)父子の墓がある。●染殿地蔵(中京区)・(時宗)寺院・正しくは(染殿院)・(▲十住心院)・(敬礼寺)・(四条京極釈迦堂)とも呼ばれる。・秘仏の本尊は(空海)作といわれ、江戸時代には名地蔵の一つに数えられた。・等身より大きな裸の地蔵菩薩立像は、(文徳天皇)の皇后(染殿皇后)がこの地蔵に 帰依して無事に(清和天皇)を出産したと伝え(安産祈願)の信仰がある。●壬生寺(中京区)・(律宗)の大本山・古くは(地蔵院)(▲宝幢三昧院)(心浄光院)ともいった。・正暦2年(991)に(園城寺)の(快賢)が建立・承暦年間(1077-81)には(地蔵院)と呼ばれ、本尊の地蔵菩薩の厄除け・開運を願う 信仰が繁栄した。・中興の祖(円覚上人)が再興。 この復興はこの僧が始めた悪霊駆除のための(融通大念仏会)によって集めた募財に よるという。・幕末には(新選組)の(屯所)に近く、境内の(壬生塚)には(近藤勇)像や (芹沢鴨)ら11人の新選組隊士の墓塔がある。・(節分会)、(4月)、(10月)に(壬生大念仏狂言)がある。 国の(重要無形民俗文化財)●法金剛院(右京区)・(律宗)寺院・当地にあった右大臣(清原夏野)の山荘を寺に改め、(双丘寺)と称したのが起こり。・のちに(文徳天皇)が(天安寺)として建立した。・大治5年(1130)に(A:待賢門院)が旧跡を再興し、現称となった。 Aは(藤原 璋子)。(鳥羽天皇)の中宮で、(崇徳・後白河天皇)の母。・弘安2年(1279)に(円覚)が再興して(律宗)に改称。・国の(特別史跡)である(青女の滝)がある。この滝のある庭園は(平安時代)の姿 を残し、現存する同時代の滝組石としては最大規模。 (林賢)が築き、(徳大寺静意(じょうい))が長承2年(1133)に完成した。・本尊の(阿弥陀如来像)は(院派)の仏師(院覚)の作で重要文化財。 鎌倉時代に造立された(十一面観音菩薩像)も重要文化財。阿弥陀如来坐像・(蓮の寺)としも知られる。●善法律寺(八幡市)・(律宗寺院)・本尊(僧形八幡大菩薩像)は、明治の神仏分離が行われるまで、(石清水八幡宮)の 祭神とされていた。・(善法寺宮清(きゅうせい))が正嘉年間(1257-59)に建立・開山は(東大寺)の(実相上人)・室町時代には(宮清)の曾孫が(足利義満)の母(良子)であったことから (足利将軍家)の援助を受け、特に(義満)は二十数度も同寺を訪れたという。・(紅葉寺)とも呼ばれる。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村__________________________________「京都検定過去問」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=28「京都検定出題傾向分析」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=30「京都検定勉強」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=31
2015/12/05
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日蓮宗の陣#3(本能寺・光悦寺・常照寺・常寂光寺・宝塔寺)の解答です。不正解だった場合は▲とし、その後に正解を記入しています●本能寺(中京区)・(▲法華宗本門流)の本山・開山の(日隆)が応永22年(1415)に油小路高辻に創建した(本応寺)が前身。・(豊臣秀吉)の転地命令で現在地に移転・寺中の(高俊院)の(日甫)((大住院以信))は、(華道本能寺)の始祖。・(織田信長)の供養塔をはじめ、文人画家の(浦上玉堂・春琴)の墓もある。・国宝の(伝藤原行成)筆の書巻は(本能寺切)と呼ばれ、(鳳凰文)の (雲母刷り)のある4枚の唐紙に(小野篁)(菅原道真)(紀長谷雄)の 文書を(行成)が記したとされる。●光悦寺(北区)・(本阿弥光悦)が元和元年(1615)に(徳川家康)から拝領した鷹峯に草庵とともに 建てた、傍らの(法華題目堂)に始まる・光悦村が形成された後、(本法寺)12世の(日慈)が開山となって寺に改め、現称 となった。・(本阿弥庵)(三巴亭)(了寂軒)(徳友庵)などの7棟の茶室があり、有名な (光悦垣)がある。・木造光悦坐像は(高村光雲)作●常照寺(北区)・元和2年(1616)に(日乾)が(本阿弥光悦)の寄進した地に開創。 ・寛永4年(1627)には僧侶の学問所として(鷹峯檀林)を開設し、(山城六檀林)の 一つとして栄えたが、明治には新規学制導入とともに廃檀となった。・当寺は(日乾)に帰依した(吉野太夫)のゆかりの寺として知られ、(太夫)の墓や 夫の(佐野紹益(灰屋紹益))との(比翼塚)がある。 (太夫)が寄進した(吉野の赤門)と呼ぶ山門や、(吉野窓)、(吉野桜)、 (帯塚)も有名。・(4月)第3日曜には、(吉野太夫花供養)がある。 (島原)の太夫が(内八文字)を踏みながら、太夫道中を披露し、(禿)とともに (吉野太夫)の墓に詣でる。(太夫)による(野点席)がある。●常寂光寺(右京区)・16世紀末に(▲本圀寺)16世の(日しん(示遍に眞))がこの地に隠棲したことが起こり。 元和年間(1615-24)に堂舎を建立。 寺名は(常寂光土)の趣をもつことに由来する。・(藤原定家)の歌「(忍ばれむ物ともなしに小倉山軒端の松ぞなれてひさしき)」 にちなんで(軒端寺)とも呼ばれる。・(多宝塔)は重文。●宝塔寺(伏見区)・嘉祥年間(848-51)に(▲藤原基経)が(極楽寺)を開創したのに始まる。・当初は真言宗であったが、延慶年間(1308-11)には住持の(▲良桂)が(日像)に 帰依して日蓮宗に改め、康永元年(1342)の(日像)の没後、その廟所として (▲鶴林院宝塔寺)と改称。・応仁の乱後の荒廃は(妙顕寺)の(▲日堯)の弟子の(▲日銀)によって復興された。・(本堂)は重要文化財で、慶長13年(1608)の建築。 京都の(日蓮宗本堂)で最古。・永享10年(1438)建立の(多宝塔)も重文。・境内には(夫婦塚)という(宗有・妙正)の墓がある。 (宗有)は(肺病治癒)の名医とされ、(肺病平癒)の信仰を集める。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村__________________________________「京都検定過去問」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=28「京都検定出題傾向分析」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=30「京都検定勉強」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=31
2015/12/05
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神社#3(粟田神社・大将軍神社・八坂神社・京都霊山護国神社・地主神社・若宮八幡宮)の問題です。●粟田神社(東山区)・貞観18年(876)( 守 )の奏上により( 天皇)の勅命により、この地に ( )を祀ったのが始めとも、この地を治めていた( 氏)が氏神として 創建したとも伝える。・( )あるいは( )とも称されたが明治になって粟田神社と改称 された。・同社の石段下は( )( )であり、( )の一つ( 口)にあ たり、古来行き来をする旅人が旅行の安全を祈願したことから( )として 崇敬された。・( 月)に( 祭)がある。( 祭)( 神事)( 祭・ 祭) ・例大祭までを総称してそう呼ばれる。・神輿渡御の露払いとなる( )は、( 祭 )の原型とされ、長さ (約 メートル)、重さ(約 キロ)の剣鉾を一人でかつぐ●大将軍神社(東山区)・祭神は( ) 相殿に( )・平安遷都にあたり、王城鎮護のため京都の四方に祀った( )の一つ。・境内には樹齢( 年)と伝える( )の大樹が立ち、古くは( )と呼ばれて ( )の( )の伝説がある。●八坂神社(東山区)・祭神は( ・ ・ )・( 社)( 院)( 社)( 社)などと呼ばれたが、明治元年 に現社名となった。・斉明天皇2年(656)に( )から来朝した( )の( )が( 国 山) の( )の神霊を( 郷)に祀ったと伝える。・または貞観18年(876)に( 寺)の( )が堂宇を建て、のちに( )を 建立したともいう。・古くから( 除け)の神として崇敬され、( )を行ったとされる。・境内の摂社に( 神社( 社))( 社)( 社)などがある。・本殿は別棟だった( )と( )を一つの大屋根で覆ったもので( 造)と称され ている。重文。・( 月 日)に「かるた始め」がある。・12月31日 ( )がある。 ( )に( )を点火し、消えないように回しな がら持ち帰り、( の )や( の )を炊く時の火種とする。●京都霊山護国神社(東山区)・( 神社)と通称され( 神社)とも呼ばれる。・明治元年に我が国最初の( 社)として創立した。・昭和14年には( )に使用した建物の一部が下賜されて社殿を造営し、京都霊山 護国神社と改称した。・境内には( ( ))( )( )( ) ( )( )( )( )( ) ( )( )などの墓がある。・極東国際軍事裁判にて、ただ一人、被告全員の無罪を唱えたインド代表判事(パール博士) の顕彰碑がある。●地主神社(東山区)・祭神は( )( )などだが、一説には( )を祀るともいう・明治維新までは( )と呼ばれた。・古くから( )の名所。( )の名前で有名。・( )がある。●若宮八幡宮(東山区)・祭神は( 天皇)( 天皇)( 皇后)・天喜元年(1053)に( 天皇)の勅願で( )が( )に創建。・( )に崇敬され、興隆したが、応仁の乱で荒廃。・慶長10年(1605)に現在地に移転・( 神社)は、昭和24年に若宮八幡宮の相殿に( )の( ) を祀ったもの。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村__________________________________「京都検定過去問」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=28「京都検定出題傾向分析」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=30「京都検定勉強」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=31
2015/12/05
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神社#2(日向大神宮・吉田神社・熊野若王子神社・岡崎神社・須賀神社・熊野神社・平安神宮)の問題です。●日向大神宮(山科区)・明治維新までは( 宮・ 宮)とも呼ばれた。・延喜式の式内社・( 天皇)により創建、( 天皇)により勧請されたともいう。・内宮と外宮がある。●吉田神社(左京区)・貞観元年(859)に( )が奈良の( 神)を( 山)西麓に勧請し、氏神 として祀ったことに由来する。・以来、( 氏)の京都での氏神とされ、朝廷の崇敬も受けた。 ・荒廃後、神官の( )が( )を唱え、( )を奉斎する ( )を創設し、当社並びに神社界の復興に貢献した。・2月2日~4日の節分祭には( 祭)(A: 式)( 祭)がとり行われ、 Aは( )として有名・現在の( )は母屋の平面が( )という珍しい形で重文指定。●熊野若王子神社(左京区)・社名は( )の別称による・( 上皇)が永暦元年(1160)に紀州( )を勧請したとも、平安初期に ( )が( 寺)を創建したとき、鎮守社として祀ったのに由来するともいう。・歴代の( 将軍)に篤く信仰されたが、応仁の乱で焼亡し、( )によって 復興された。●岡崎神社(左京区)・( 社)ともいう・( )のため四方に祀った( 社)の一つとされたが、( 天皇)の 皇后( )創建の( 寺)の鎮守社としたのが始まりともいう。・古くは( )( 除け)( 除け)の神として朝廷から崇敬された。●須賀神社(左京区)・( 社)と呼ばれる ( 神社)の( 社)と一対をなしていた。・康治元年(1142)に( ※)創建の( )の鎮守として創建されたという。 ※( )。( 天皇)の譲位後の寵妃。( 天皇)の生母。・昭和39年に( 神社)が分祀された。・5月第2日曜の( 祭)は( 祭)の名で知られる。●熊野神社(左京区)・弘仁2年(811)に( )の始祖( )の十世僧( )が国家護持のために ( )を勧請したといわれている。・荒廃後、寛文6年(1666)に( 宮 法親王)によって再興された。・本殿は天保6年(1835)に( 神社)旧本殿を移築。・( )の鎮守社であり、( 宗)系( 派 )の守護神として崇敬された。・永らく( 神社)または( 社)といわれたが、明治維新後は( ) により、熊野神社と改称された。●平安神宮(左京区)・明治28年(1895)の( 祭)を奉祝する神宮として創建し、 ( )の社とされた。・社殿は平安京の( )の( )である( )を模して(約 分の )に縮小し、 2層の神門は( 門)、拝殿は( 殿)を模して建立された。・( 年)にあたる昭和15年に( 天皇)に加え( 天皇)が合祀された。・神苑は( )( )( )( )の四苑からなり、( )以外は( ( ))の作。神苑を含む神域は国の( )・4月に( )が( )である。・( 月 日)に野外演能( )がある。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村__________________________________「京都検定過去問」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=28「京都検定出題傾向分析」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=30「京都検定勉強」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=31
2015/12/05
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日蓮宗の寺院#2(本法寺・本隆寺・妙満寺・本満寺)の解答です。不正解だった場合は▲とし、その後に正解を記入しています●本法寺(上京区)・永享8年(1436)に(日親)が四条高倉に建立したという。・(日親)は(立正治国論)を著わし、(足利義教)の怒りにふれて投獄、焼けた鍋を 頭に被らされて(なべかむり日親)と称された。・投獄中に(本阿弥清信)と知り合い、のちに当寺は(本阿弥家)の菩提寺となる。・庭園は国の(名勝)。(本阿弥光悦)作の(三巴の庭) 中庭には(光悦)遺愛の手水鉢を据える。・墓地には(本阿弥一族)や(長谷川等伯)の墓がある。・(長谷川等伯)筆の(紙本著色仏涅槃図)通称(大涅槃図)が有名●本隆寺(上京区)・(法華宗真門流)総本山・正しくは(本妙興隆寺)・俗に(不焼寺(やけずのてら))ともいう・長享2年(1488)に(日真)が六角西洞院に草庵を建てたことが起こり。・境内の(夜泣き止めの松)は、この木の葉を枕の下に敷くと、夜泣きが止むと伝える。・(▲無外如大尼)が悟りを開いたという(千代野井の井戸)や(黒川道祐・寿閑)、 千家十職(黒田正玄)歴代の墓もある。(寿閑)は(道祐)の父千代野井の井戸●妙満寺(左京区)・(顕本法華宗)の総本山。・康応元年(1389)に(▲日什)が六条坊門室町に開創・天文元年(1532)に(後奈良天皇)の勅願所となった。・(安珍・清姫)ゆかりの(紀州道成寺)の鐘が伝わり、例年5月中旬には(鐘供養) が行われる。・塔頭(成就院)にあった(松永貞徳)の(雪の庭)は、ここに復元され、洛中 (雪月花三名園)の一つに数えれらる。●本満寺(上京区)・応永17年(1410)(日秀)(関白(近衛道嗣)の長男)が今出川新町の(道嗣)邸内に 造営し、(近衛殿)内道場として繁栄した。・当初の寺名は(▲広宣流布山本願満足寺)・天文8年(1539)に現在地に移転・宝暦元年(1751)に(▲日鳳)が(徳川吉宗)の病気平癒を祈願して以降、(徳川家)の 祈願所となった。・(山中鹿之助)の墓がある。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村__________________________________「京都検定過去問」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=28「京都検定出題傾向分析」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=30「京都検定勉強」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=31
2015/12/05
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京都の神社#1(京都の古社・由岐神社・貴船神社・三宅八幡宮・下鴨神社・大豊神社)の問題です。●京都の古社・神社には(A 社)と(B 社)がある。・Aは延長5年(927)に( )らによって奏進された( )の( ) に記載された神社で、Bはそのほか、さらに後に創建された神社。・Aはかつて( )とも称された。・Aは祈年祭に朝廷から( )があった。・( 社)と( 社)があり、全国では3132座、2861所を数えた。・やがて神名帳に記載がなくても、広く崇敬を集めて、朝廷から奉幣のあった ( )社が定められ、祈年祭には奉幣があった。・上記の数の神社は、式内外社を含めて、京都には下記の12社があった。 (----12社-----))●由岐神社(左京区)・天慶3年(940)に( の )のため、( )から勧請したとされる。・天皇の病気などの国の非常時に、社前に( )を奉納したので( )とも 呼ばれた。・10月22日の例祭は「鞍馬の火祭」として有名・拝殿は重文で( )という造り方で、( )という形式。・( )および( )が市指定天然記念物●貴船神社(左京区)・( 天皇)の皇母( )が、( )に乗って( 川)をさかのぼり、当地に 祠を建てたことに始まるという。・樹木を育成する神である( ( ))の神ともされ、平安遷都後に当地が賀茂川 の水源地にあたるために水神として祀るようになったとも伝える。・明治4年までは( 神社)の摂社だった。・かつては社殿は( )の位置にあった。・( )が市指定天然記念物・6月1日に( 祭)がある。( 祭)に起源する。その昔、参詣者が( ) 摘み競争を行っていたことから( 祭)とも呼ばれた。・7月7日( の )がある。神事の後、( )により献茶式や舞楽奉納、 ( 流)の( )が披露される。●三宅八幡宮(左京区)・祭神は( 天皇)・推古天皇の時代に( )が( 宮)を勧請したのに由来するという。・( )とも呼ばれれ、子供の守り神、特に子供の( )の神として信仰を 集める。・秋季大祭は( )という。・神の使いは( )。それをかたどった( )が門前菓子。 ( )や( )の風味。( )で販売。●下鴨神社(左京区)・祭神は( )( )。・正しくは賀茂御祖神社。・崇神天皇7年、( )築造の記述がみえ、平安遷都後は( )の社として、朝廷 はじめ公家や武家の崇拝を集めた。・社叢は( )・摂社( 神社)( 神社)( 神社) 末社( 社)( 社) 境外摂社( 神社)・( )( )は文久3年(1863)の建築で国宝。・蹴鞠始め ( 月 日) 蹴鞠の流派( 流)( 流)・7月( の日)に( 祭)がある。別名( 神事) 境内末社( 社)の例祭。・9月中秋 ( 祭)●大豊神社(左京区)・当初は( 天神)と呼ばれた。・( 大明神)ともいう。・( )の鎮守社であったとも伝える。・石造の( )は( )を助けたという故事にちなむ。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村__________________________________「京都検定過去問」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=28「京都検定出題傾向分析」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=30「京都検定勉強」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=31
2015/12/05
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日蓮宗の寺院#1(日蓮宗・妙顕寺・妙蓮寺)の解答です。不正解だった場合は▲とし、その後に正解を記入しています●日蓮宗・開創:日蓮・日蓮は(法華経)こそが(末法)の時代の衆生を救うとし、(五義)とその教えを実践 する(三大秘法)を宗義のもととした。・(法華宗)ともいう。・弘安5年(1282)、亡くなる前に(日昭)(日朗)(日興)(日向)(日頂)(日持)を 本弟子とし、この六老僧を中心に教えが各地に広められ、各門流が形成された。・京都では、(南北朝時代)に盛んな布教をめざし、(町衆)の絶大な支持を受けて、 のち(日蓮宗洛中二十一ヵ寺本山)と称される各本山が建立された。 現在は16本山 (寂光寺)(頂妙寺)(本圀寺)(本禅寺)(本法寺)(本能寺)(本満寺)(本隆寺)(妙覚寺)(妙顕寺)(妙傳寺)(妙満寺)(妙蓮寺)(宥清寺)(要法寺)(立本寺) 「妙」が入るお寺~6 「本」が入るお寺~7●妙顕寺(上京区)・正しくは(四海唱導妙顕寺)・京都法華宗寺院の草分け的存在。関西法華宗団の根本をなす寺院。・開祖(日像)は日蓮の(孫弟子)。六老僧の一人(日朗)の弟。・元亨元年(1321)に(後醍醐天皇)より寺地を賜って創建され、後に、同天皇の綸旨に より(勅願寺)となった。・この綸旨は日蓮宗の宗号の綸旨ともいえるもので、法華宗最初の勅願寺として、 洛中法華寺院の先頭に位置することとなった。・延文2年(1357)の(後光厳天皇)の綸旨は、門流分立する中世の法華宗にあって、 (北朝)が当寺を宗内最高の地位を公認したことを意味し、以来当寺は (四海唱導妙顕寺)と号することになった。・その後(法華の乱)をはじめとする数々の法難を受け、寺号も一時(妙本寺)を名乗る こともあった。寺地を変わること四度と伝えられ、現在の地には(豊臣秀吉)の命で 移建された。・(祖師堂)にあたる(三菩薩堂)は、妙顕寺二世の(大覚)が行った雨乞いの効験 によって、宗祖日蓮に(大菩薩)、開祖(日像)とその師(日朗)に(菩薩号)が 与えられたことから、三祖を合祀するためにそう呼ばれている。・(尾形光琳)筆の(松竹梅図)三幅が所蔵されている。・客殿前庭は(龍華飛翔の庭)、書院前庭は(光琳曲水の庭)。・(尾形光琳・乾山)兄弟は、塔頭(妙泉院)の檀信徒で、同院に二人の墓がある。●妙蓮寺(上京区)・(本門法華宗)大本山・永仁2年(1294)に(日像)が造酒屋(中興氏(屋号:柳屋))の帰依を受けて、 下京区五条西洞院に開創。寺名を(妙法蓮華寺)とも、屋号にちなんで(柳寺)とも いった。・応永年間(1394-1428)に(日慶)が再興。・現在地には天正15年(1587)に移転。・(卯木山)という山号は(柳)の字を二つに分けたもの。・(妙蓮寺椿)や10月頃から翌年4月頃まで咲く(御会式桜)が咲く。・(幸野楳嶺)の墓がある。妙蓮寺椿 早咲きで、大ぶりな花を咲かせ、茶会の席に飾る茶花としても重用される。室町時代に活躍した連歌師・宗祇(そうぎ)は、妙蓮寺椿の豪華な美しさと、当時27ヶ坊を有した寺の盛栄をかけ、「余の花はみな末寺なり妙蓮寺」と椿と寺を賞賛する歌を詠んだ。銘花として古くから愛された原木は、塔頭の玉龍院で育てられていたが、昭和37年(1962)に火災により消失。現在は、二代目が寺務所前であでやかな花を咲かせている。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村__________________________________「京都検定過去問」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=28「京都検定出題傾向分析」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=30「京都検定勉強」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=31
2015/12/05
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浄土真宗の寺院#2(東本願寺・東大谷・岡崎別院・了徳寺・佛光寺・養源院)の解答です。不正解だった場合は▲とし、その後に正解を記入しています●東本願寺(下京区)・(真宗大谷派)の総本山・慶長7年(1602)に本願寺12代(教如)が(徳川家康)から現在の寺地を与えられて 建立。・このときに(堀川)の本願寺(西本願寺)から分派して、東本願寺となった。・(御影堂)は世界最大級の木造建築。 棟梁は(伊藤平左衛門)・飛地境内の(渉成園)は(陶淵明)の詩にちなんで名づけられた(池泉回遊式)庭園。 (枳殻)が植えられていたことから(枳殻邸)とも呼ばれ、寛永18年(1641)にこの地を 与えらた(宣如)が、隠居後(石川丈山)らとともに作庭した。 国の(名勝)に指定されている。 (頼山陽)は、下記を(十三景)と称した。 滴翠軒・傍花閣・印月池・臥龍堂・五松塢・侵雪橋・縮遠亭・紫藤岸・偶仙楼・双梅檐 漱枕居・回棹廊・丹楓渓・国宝として親鸞自筆(教行信証(坂東本))(6冊) 重要文化財として、(安城御影)と呼ばれる(親鸞上人像)や(康永本)と呼ばれる (本願寺聖人伝絵)(4冊)など。康永本 本願寺聖人伝絵・(11月21日)の(親鸞上人御正忌)には(報恩講)を行う。 僧侶が上体を揺らして念仏や和讃を唱える(坂東曲)がある。・(帰敬式)は(おかみそり)ともいい、仏教に帰依しようとする人が受ける儀式。・(12月20日)には西本願寺も同時に(お煤払い)がある。●東大谷(東山区)・正しくは(大谷祖廟)・本願寺が東西に分派したとき、開祖である親鸞の祖廟(墓)を(東本願寺)境内に建てた ことに由来。現在地へは寛文10年(1670)に移った。・明治維新までは(大谷御坊)と呼ばれ、その後は(大谷管刹)(大谷別院)と変わった後、 (大谷本廟)、そして大谷祖廟となった。東本願寺飛地境内。●岡崎別院(左京区)・宗祖親鸞が住んだという。(親鸞屋敷)と呼ばれていた。・享和元年(1801)、本願寺20代(▲達如)が寺とし、(岡崎御坊)と呼ばれた。 明治9年に別院と改称。・本堂西の(鏡池)は、親鸞が(越後)に流される際にその姿を映したといい、(姿見池) の名がある。●了徳寺(右京区)・宗祖親鸞が(月輪寺)への参詣の途中にこの地に立ち寄った際に、住民が(大根)を煮て もてなし、それに感謝した親鸞が(十字名号)を(薄の穂)を筆として記したといい、 その後、(蓮如)も(六字名号)を記したと伝え、現在も(薄名号)として所蔵する。・(12月9日、10日)の(報恩講)には(大根焚き)が行われ、(中風除け)を願う参拝者 でにぎわう。====================●佛光寺(下京区)・建暦2年(1222)、流罪を許された親鸞が(山科)に一宇を建立。 (興隆正法寺)と号した。・元応2年(1320)に第7世(▲了源)が(東山汁谷)に移転・寺号は(後醍醐天皇)より(▲阿弥陀佛光寺)の勅額を賜ったことにちなむ。・天正14年(1586)現在地へ移転。・通常の(七高僧像)が(画像)であるのに対し、ここは(彫像)。・室町時代と明治時代に女性門主を推戴した。 第9世(了源)の妻の(▲了明尼公)と第27世(A:真意尼公)である。・特にAは、幕末から明治の激変期に、再建。======================●養源院(東山区)・(浄土真宗)(遣迎院派)。・文禄3年(1594)に(淀殿(淀君))が父の(浅井長政)の菩提を弔うため の建立。寺名は長政の法号にちなむ。・(淀殿)の妹の(崇源院)が、夫である(徳川秀忠)に願い、伏見城の 遺構を移して再建。・以降、(将軍家)の(位牌所)、(皇室)の(祈願所)となった。・俵屋宗達の(杉戸絵)八面(獅子図)(麒麟図)(白象図)がある。 十二面の襖絵(松図)もあり、これらは重文。・庭園は(小堀遠州)作とされる。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村__________________________________「京都検定過去問」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=28「京都検定出題傾向分析」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=30「京都検定勉強」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=31
2015/12/04
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浄土真宗の寺院#1(浄土真宗・西大谷・北山別院・日野誕生院・興正寺)の解答です不正解だった場合は▲とし、その後に正解を記入しています●浄土真宗・開祖:(法然)の弟子(親鸞)・(教行信証)によると、(念仏)を称えるのは(阿弥陀仏)の(本願力)のはたらき によって生じるものとされ、(本願)を信じる心が(阿弥陀仏)より回向されるとい う(絶対他力の信)を説いた。・(親鸞)没後、末娘(覚真如)が(▲大谷廟)を建て、曾孫の(覚如)が寺院化して (本願寺)を成立させた。・現在、(親鸞)の血脈を継ぐ東、西本願寺の二派と門弟の流れを継ぐ(八派)がある。 京都には東、西。、(佛光寺)、(興正寺)の四派の本山がある。===================●西大谷(東山区)・西本願寺の廟所・正しくは(大谷本廟)・親鸞が弘長2年(1262)に没した際、(鳥辺山)南辺で火葬され、親鸞の末娘(覚真如) が遺骨を現在の(知恩院山門)北側の(大谷)に納め、堂を建てて影像を安置した ことに始まる。 この廟堂は(▲大谷影堂)と呼ばれ、のち(大谷本願寺)となり、慶長8年(1603) (徳川幕府)の政策によって(五条坂)の現在地に移転した。・入口の(円通橋)は石造のアーチ橋で、江戸時代の遺構。●北山別院(左京区)・(西本願寺)の別院・(本願寺京都四ヵ別院)の一つ。 他は(山科別院)、(西山別院)、(角坊別院※) ※:現在は西本願寺の飛地境内・もと(養源庵)と称した天台宗の寺院で、(比叡山三千坊)の一つ。 ・親鸞は得度後この地で1年間修学したと伝え(御里坊)と呼ばれた。・延宝6年(1678)に浄土真宗の寺として帰属、同8年、本願寺の別院となった。・近くに(御聖水)という涌水がある。 親鸞が(六角堂)に百日間の参籠を行った際、(延暦寺)からの往き帰りにこの水で 身を清めたと伝える。写真:御聖水●日野誕生院(伏見区)・(西本願寺)の飛地境内・親鸞出身の地と伝え、文政11年(1828)西本願寺20代(広如)が創建・文久2年(1862)には(誕生講)が始まった。・親鸞(産湯の井戸)や、へその緒を納めたと伝える(えな塚)が残る。===========●興正寺(下京区)・法門の混迷を嘆いた(佛光寺)の(経豪)が住持の職を弟の(教誉)に譲り、文明年間 (1469-87)に佛光寺の旧称である興正寺の名で(山科)に創建。・(経豪)は本願寺の8世である(蓮如)の勢力と合流し、自らも(蓮教)と改名。・天正19年(1591)に(本願寺)とともに現在地に移転。・その後(本願寺)と対立を深め、明治9年に独立して真宗興正派の本山となった。・同12年に(霊山興正寺別院)を東山区清閑寺霊山町に建立。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村__________________________________「京都検定過去問」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=28「京都検定出題傾向分析」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=30「京都検定勉強」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=31
2015/12/04
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浄土宗の寺院#5(清涼寺・滝口寺・桂地蔵・粟生光明寺・願行寺)の解答です。不正解だった場合は▲とし、その後に正解を記入しています。●清涼寺(右京区)・(嵯峨釈迦堂)ともいう・寛平7年(895)の(源融)没後、その山荘の(棲霞観)に阿弥陀堂を建て、(棲霞寺)と したのに始まる。・天慶8年(945)に堂宇を建立し、等身大の(釈迦像)を安置。これが釈迦堂の名の由来 ともされる・その後(ちょう然※)が(宋)から持ち帰った釈迦像を当寺の釈迦堂に祀って、(華厳宗)の 寺とし、寺名を清涼寺と改めた。 ※:「ちょう」は上が大、下が周・室町中期には(融通念仏)の大道場として知られた。・本尊は(ちょう然)請来の(釈迦如来立像)で国宝。 (清涼寺式)と呼ばれ、以後多くの模像が造られた。 胎内には(絹製)の(五臓六腑)とともに(経典・文書・銭貨)など多くの品が納めら れていた。・(棲霞寺)の本尊と伝える(阿弥陀三尊坐像)も国宝・(3月15日)に(嵯峨お松明)が行われる。(釈迦涅槃)の荼毘を暗示。●滝口寺(右京区)・法然の弟子(念仏房良鎮)が鎌倉時代に創建した(A:往生院)の子院であった(▲三宝寺) の旧跡。Aの地には現在(真言宗)の(祗王寺)がある。・平家物語の(滝口入道)こと(斎藤時頼)と(建礼門院)に仕えた(横笛)の悲恋の地 として知られる。・この物語は(高山樗牛)が書いた(滝口入道)で有名・(横笛)は(大堰川)に身投げしたとも奈良の(法華寺)へ出家したとも伝える。・参道には(横笛)が(血)で記したという歌石がある。 「山深み 思い入りぬる 柴の戸の まことの道に 我を導け」●桂地蔵(西京区)・正しくは(地蔵寺)・(小野篁)が一木で彫った(六地蔵)の一つで、(平清盛)が京に通じる6つの街道に 安置したと伝える。・六地蔵巡りの際は国の重要無形民俗文化財である(桂六斎念仏)が行われる。●粟生光明寺(長岡京市)・(西山浄土宗)の総本山・(法力坊蓮生)こと(熊谷直実)が、(法然)の勧めにより、建久9年(1198)に (念仏三昧院)を開いたことに始まる。・本堂(御影堂)に法然自作の(張子の御影)を祀る写真:張子の御影・安貞2年(1228)、(広隆寺)の塔頭(来迎坊)にあった法然の棺から発した瑞光に従い、 弟子たちが法難を避けて粟生の地に遺骸を移して荼毘にふした。 その遺骨は境内の御本廟に祀られ現在に至る。・法然が初めて念仏の教えを説いた(浄土門根元地)として信仰を集めている。●願行寺(宇治市)・開山(木幡流祖)の(▲良空慈心)・(▲霧がくれの弥陀)と称する阿弥陀如来 (浄妙寺)の遺仏という阿弥陀像 (浜の薬師)と呼ばれる薬師像 などを安置する。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村__________________________________「京都検定過去問」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=28「京都検定出題傾向分析」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=30「京都検定勉強」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=31
2015/12/04
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その他の寺院#2(聖護院・峰定寺・三室戸寺・清水寺・鞍馬寺・志明院・廬山寺・三鈷寺)の問題です。●聖護院(左京区)・( 宗)総本山・( 大師 )の流れを継ぐ( 寺)の( )を開基とする。・この僧は寛治4年(1090)に( 上皇)の( )の時に( )を承り、その 功によって聖護院と( )を賜り、あわせて( )を統括した。・第4世に( 法皇)の皇子( 法親王)を迎えて、門跡寺院となった。・応仁の乱で焼失し、洛北岩倉の( 寺)に移り、文明13年(1482)には( )が 当寺で出家して堂舎を整備したが、再び焼失。・現在地へは延宝4年(1676)に移転再建された。・御所の火災により天明8年(1788)から3年間、( 天皇)の仮御所であった。・明治以降、昭和20年まで、( 宗 派)( 寺)に属していた。●峰定寺(左京区)・( 宗)の寺院・久寿元年(1154)に天台宗の修験者である( 上人 )が千手観音を祀って、 三間の堂舎を建てたことに由来する。・この本尊は( 法皇)が奉納したと伝え、( )に精巧な彫刻が施されている。・同年、( および 像)、( 像)を安置して以来、その勅願寺 となった。・その後、( )の霊場となるが衰退。・延宝年間(1673-81)に( 院)の( 法親王)が( 天皇)の命を受けて復興 した。・本堂付属の供水所は最古の( )の遺構。●三室戸寺(宇治市)・( 宗)の別格本山・宝亀元年(770-780)に宮中の奇瑞によって山奥の渓流から二臂千手観音が現れたという。 これを喜んだ( 天皇)が御室を移してその観音を祀り、( 寺)にしたのが 起こりと伝える。・文明年間(1469-87)に再興したが、天正元年(1573)の( 合戦)で、当寺は ( )に協力したため、( )によって焼失。 その後は衰退して多くの子院は( 院)を残すのみとなった。・重文の( 像※)をはじめ( 像)( 像)などを 所蔵。※・五千坪にも及ぶ大庭園は( )や( )の名所として知られる・西国三十三所観音霊場(第 番札所) ●清水寺(東山区)・( 宗)の総本山・宝亀11年(780)にこの地に鹿狩りにきた( )が修行中の( )に殺生を 戒められ、夫人とともに( )を造り、お堂を建てたのが始まりと伝える・弘仁2年(810)に( 天皇)から宸筆を賜って鎮護国家の道場となり「清水寺」を世号 とした。・かつては( 宗)として南都の( 寺)に属したため、( 寺)との抗争の度に 攻撃を受け、たびたび焼亡した。・現在の( )は寛永10年(1633)の再建で国宝。 「清水の舞台」で知られる。・舞台は( )板張りで、( )の柱は高さ( メートル)。・( 塔)( 門)は重文。・西国三十三所観音霊場の(第 番)札所・( )の一つ。・塔中(旧本坊)の成就院は、文明年間(1469-87)の創建と伝え、寛永16年(1639)に ( )の寄進により再興した。・庭園は典型的な( 式庭園)。国の( )。( の庭)として著名。 ( )、( )、( )、( )などが著名。 ( )原作・( )の補修とも、( )の作とも伝えられる。・幕末には( ・ )両上人のもとに( )、( )をはじめと する勤皇の志士たちが集い、密談を交わした場所でもある。●鞍馬寺(左京区)・( )総本山・宝亀元年(770)に( )の弟子である( )が毘沙門天を祀ったのに由来する。・延暦15年(796)には( )が伽藍を建立し、北方鎮護の道場としたという。・平安以降、永く( 宗)に属し、( )とのつながりが深いが、昭和22年に ( )を開宗し、同24年総本山となった。・国宝の( 像)のうち( ・ 像)は藤原前期、 ( )は大治2年(1127)に制作された。・重要文化財として( 作)の( 像)( )などがある。・( )の出土品は国宝。・5月の満月の夜( 祭)がある。 全山に灯明を灯し、本尊魔王尊に世界救済・平和を祈念する。・6月20日に( )がある。 法師が( )を伐る。( )の装束をした稚児による( )の 儀式もある。( )とも呼ばれる。●志明院(北区)・( 教)の単立寺院・正しくは( 寺 院)・天長6年(829)、( )の創建と伝えられ、祈願所として崇拝された。・本堂後方の( )は、高さ約30メートルの大岩窟。 当寺は歌舞伎( )の舞台としても知られる。・境内の( )林は有名●廬山寺(上京区)・( 宗)の大本山・正しくは( 寺)・前身は天慶年間(938-47)に( )が北山に創建した( 院)。 天正年間に現在地に移った。・当地は( )の邸宅跡と伝え、( の庭)には( 址)の石碑が立つ。 考古・歴史学者( )氏の説。 紫式部歌碑「めぐりあひて見しやそれともわかぬ間に 雲がくれにし夜半の月かな」・2月3日の節分会は( )の名で知られる。 ( )が修行中に邪魔をしてきた鬼を退散させたという故事に由来する。●三鈷寺(西京区)・( 宗)総本山・( )( )( )( )の四宗兼学。近年まで天台宗に属した。・開山の( =( 寺)の開山)が承保元年(1074)に草庵を建て、( )と 号したのが起こり。・( )の高弟( )(=( 宗 派)の祖)が念仏の道場として再興。 ・背後の山並みが仏器の( )の形に似ているので、この寺名がある。・( )没後、( = )が現在地に( )を建立した。・( の地)と称される。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村__________________________________「京都検定過去問」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=28「京都検定出題傾向分析」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=30「京都検定勉強」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=31
2015/12/04
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その他の寺院#1(松ヶ崎大黒天・長楽寺・染殿地蔵・壬生寺・法金剛院・善法律寺)の問題です。●松ヶ崎大黒天(左京区)(日蓮宗の漏れ分)・寺号は( 寺)・元和2年(1616)に北野の本山( 寺)の第12世であった( 院 )が京都の 鬼門にあたる( )の方位に建立・都七福神まいりの一つ・五山送り火( )の字の真下にある。●長楽寺(東山区)・( 宗)寺院・延暦24年(805)、( )が天台宗の( 寺別院)として創建・至徳2年(1385)に( )が( 宗)に改宗・明治中期に( )の遺構と伝える、西賀茂の( 寺)の法堂を本堂として移建し、 同41年には時宗総本山格の( 道場 寺)を合弁。・庭園は( )作と伝える・( )以下の( 像( 体))は( 寺)伝来で重文。・( ・ )父子の墓があ●染殿地蔵(中京区)・( 宗)寺院・正しくは( )・( 院)・( 寺)・( 堂)とも呼ばれる。・秘仏の本尊は( )作といわれ、江戸時代には名地蔵の一つに数えられた。・等身より大きな裸の地蔵菩薩立像は、( 天皇)の皇后( 皇后)がこの地蔵に 帰依して無事に( 天皇)を出産したと伝え( 祈願)の信仰がある。●壬生寺(中京区)・( 宗)の大本山・古くは( 院)( 院)( 院)ともいった。・正暦2年(991)に( 寺)の( )が建立・承暦年間(1077-81)には( 院)と呼ばれ、本尊の地蔵菩薩の厄除け・開運を願う 信仰が繁栄した。・中興の祖( 上人)が再興。 この復興はこの僧が始めた悪霊駆除のための( 会)によって集めた募財に よるという。・幕末には( )の( )に近く、境内の( )には( )像や ( )ら11人の新選組隊士の墓塔がある。・( 会)、( 月)、( 月)に( )がある。 国の( 財)●法金剛院(右京区)・( 宗)寺院・当地にあった右大臣( )の山荘を寺に改め、( 寺)と称したのが起こり。・のちに( 天皇)が( 寺)として建立した。・大治5年(1130)に(A: 院)が旧跡を再興し、現称となった。 Aは( )。( 天皇)の中宮で、( ・ 天皇)の母。・弘安2年(1279)に( )が再興して( 宗)に改称。・国の( )である( の滝)がある。この滝のある庭園は( 時代)の姿 を残し、現存する同時代の滝組石としては最大規模。 ( )が築き、( )が長承2年(1133)に完成した。・本尊の( 像)は( 派)の仏師( )の作で重要文化財。 鎌倉時代に造立された( 像)も重要文化財。・( の寺)としも知られる。●善法律寺(八幡市)・( 宗)寺院・本尊( 像)は、明治の神仏分離が行われるまで、( 宮)の 祭神とされていた。・( )が正嘉年間(1257-59)に建立・開山は( 寺)の( 上人)・室町時代には( )の曾孫が( )の母( )であったことから ( 家)の援助を受け、特に( )は二十数度も同寺を訪れたという。・( 寺)とも呼ばれる。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村__________________________________「京都検定過去問」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=28「京都検定出題傾向分析」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=30「京都検定勉強」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=31
2015/12/04
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日蓮宗の陣#3(本能寺・光悦寺・常照寺・常寂光寺・宝塔寺)の問題です。●本能寺(中京区)・( 流)の本山・開山の( )が応永22年(1415)に油小路高辻に創建した( 寺)が前身。・( )の転地命令で現在地に移転・寺中の( 院)の( )(( ))は、( )の始祖。・( )の供養塔をはじめ、文人画家の( ・ )の墓もある。・国宝の(伝 )筆の書巻は( )と呼ばれ、( )の ( )のある4枚の唐紙に( )( )( )の 文書を( )が記したとされる。●光悦寺(北区)・( )が元和元年(1615)に( )から拝領した鷹峯に草庵とともに 建てた、傍らの( 堂)に始まる・光悦村が形成された後、( 寺)12世の( )が開山となって寺に改め、現称 となった。・( 庵)( 亭)( 軒)( 庵)などの7棟の茶室があり、有名な ( )がある。・木造光悦坐像は( )作●常照寺(北区)・元和2年(1616)に( )が( )の寄進した地に開創。 ・寛永4年(1627)には僧侶の学問所として( )を開設し、( )の 一つとして栄えたが、明治には新規学制導入とともに廃檀となった。・当寺は( )に帰依した( )のゆかりの寺として知られ、( )の墓や 夫の( ( ))との( 塚)がある。 ( )が寄進した( 門)と呼ぶ山門や、( )、( )、 ( )も有名。・( 月)第3日曜には、( )がある。 ( )の太夫が( )を踏みながら、太夫道中を披露し、( )とともに ( )の墓に詣でる。( )による( )がある。●常寂光寺(右京区)・16世紀末に( 寺)16世の( )がこの地に隠棲したことが起こり。 元和年間(1615-24)に堂舎を建立。 寺名は( )の趣をもつことに由来する。・( )の歌「(忍ばれむ物ともなしにXXXX XXXXXぞなれてひさしき)」 にちなんで( 寺)とも呼ばれる。・( )は重文。●宝塔寺(伏見区)・嘉祥年間(848-51)に( )が( 寺)を開創したのに始まる。・当初は真言宗であったが、延慶年間(1308-11)には住持の( )が( )に帰依 して日蓮宗に改め、康永元年(1342)の( )の没後、その廟所として ( 寺)と改称。・応仁の乱後の荒廃は( 寺)の( )の弟子の( )によって復興された。・( )は重要文化財で、慶長13年(1608)の建築。 京都の( )で最古。・永享10年(1438)建立の( )も重文。・境内には( )という( ・ )の墓がある。 ( )は( )の名医とされ、( )の信仰を集める。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村__________________________________「京都検定過去問」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=28「京都検定出題傾向分析」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=30「京都検定勉強」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=31
2015/12/04
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日蓮宗の寺院#2(本法寺・本隆寺・妙満寺・本満寺)の問題です。●本法寺(上京区)・永享8年(1436)に( )が四条高倉に建立したという。・( )は( 論)を著わし、( )の怒りにふれて投獄、焼けた鍋を 頭に被らされて( )と称された。・投獄中に( )と知り合い、のちに当寺は( 家)の菩提寺となる。・庭園は国の( )。( )作の( の庭) 中庭には( )遺愛の手水鉢を据える。・墓地には( 一族)や( )の墓がある。・( )筆の( 図)通称( 図)が有名●本隆寺(上京区)・( 流)総本山・正しくは( 寺)・俗に( )ともいう・長享2年(1488)に( )が六角西洞院に草庵を建てたことが起こり。・境内の( の松)は、この木の葉を枕の下に敷くと、夜泣きが止むと伝える。・( )が悟りを開いたという( の井戸)や( ・ )、 千家十職( )歴代の墓もある。( )は( )の父●妙満寺(左京区)・( 宗)の総本山。・康応元年(1389)に( )が六条坊門室町に開創・天文元年(1532)に( 天皇)の勅願所となった。・( ・ )ゆかりの( 寺)の鐘が伝わり、例年5月中旬には( ) が行われる。・塔頭( )にあった( )の( の庭)は、ここに復元され、洛中 ( )の一つに数えれらる。●本満寺(上京区)・応永17年(1410)( )(関白( )の長男)が今出川新町の( )邸内に 造営し、( 殿)内道場として繁栄した。・当初の寺名は( 寺)・天文8年(1539)に現在地に移転・宝暦元年(1751)に( )が( )の病気平癒を祈願して以降、( 家)の 祈願所となった。・( )の墓がある。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村__________________________________「京都検定過去問」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=28「京都検定出題傾向分析」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=30「京都検定勉強」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=31
2015/12/04
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日蓮宗の寺院#1(日蓮宗・妙顕寺・妙蓮寺)の問題です。●日蓮宗・開創:日蓮・日蓮は( )こそが( )の時代の衆生を救うとし、( )とその教えを実践 する( )を宗義のもととした。・( )ともいう。・弘安5年(1282)、亡くなる前に( )( )( )( )( )( )を 本弟子とし、この六老僧を中心に教えが各地に広められ、各門流が形成された。・京都では、( 時代)に盛んな布教をめざし、( )の絶大な支持を受けて、 のち( 本山)と称される各本山が建立された。 現在は16本山 ( 寺)( 寺)( 寺)( 寺)( 寺)( 寺)( 寺)( 寺)( 寺)( 寺)( 寺)( 寺)( 寺)( 寺)( 寺)( 寺) 「妙」が入るお寺~6 「本」が入るお寺~7●妙顕寺(上京区)・正しくは( 寺)・京都法華宗寺院の草分け的存在。関西法華宗団の根本をなす寺院。・開祖( )は日蓮の( 弟子)。六老僧の一人( )の弟。・元亨元年(1321)に( 天皇)より寺地を賜って創建され、後に、同天皇の綸旨に より( )となった。・この綸旨は日蓮宗の宗号の綸旨ともいえるもので、法華宗最初の勅願寺として、 洛中法華寺院の先頭に位置することとなった。・延文2年(1357)の( 天皇)の綸旨は、門流分立する中世の法華宗にあって、 ( )が当寺を宗内最高の地位を公認したことを意味し、以来当寺は ( 寺)と号することになった。・その後( )をはじめとする数々の法難を受け、寺号も一時( 寺)を名乗る こともあった。寺地を変わること四度と伝えられ、現在の地には( )の命で 移建された。・( 堂)にあたる( 堂)は、妙顕寺二世の( )が行った雨乞いの効験 によって、宗祖日蓮に( )、開祖( )とその師( )に( )が 与えられたことから、三祖を合祀するためにそう呼ばれている。・( )筆の( )三幅が所蔵されている。・客殿前庭は( の庭)、書院前庭は( の庭)。・( ・ )兄弟は、塔頭( 院)の檀信徒で、同院に二人の墓がある。●妙蓮寺(上京区)・( 宗)大本山・永仁2年(1294)に( )が造酒屋( 氏(屋号: ))の帰依を受けて、 下京区五条西洞院に開創。寺名を( 寺)とも、屋号にちなんで( 寺)とも いった。・応永年間(1394-1428)に( )が再興。・現在地には天正15年(1587)に移転。・( 山)という山号は( )の字を二つに分けたもの。・( )や10月頃から翌年4月頃まで咲く( )が咲く。・( )の墓がある。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村__________________________________「京都検定過去問」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=28「京都検定出題傾向分析」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=30「京都検定勉強」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=31
2015/12/04
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浄土真宗の寺院#4(地蔵院・釘抜地蔵・化野念仏寺・直指庵)の解答です。不正解だった場合は▲とし、その後に正解を記入しています。●地蔵院(北区)・通称(椿寺)・開創(行基)・のちに浄土宗に改めて(知恩院)の末寺になった。・五色の(八重散椿)がある。 (加藤清正)が朝鮮から持ち帰り(豊臣秀吉)が当寺に寄進したものと伝える。 ・(与謝蕪村)の師である(早野巴人)((夜半亭))、(赤穂浪士)を援助した (天野屋利兵衛)の墓がある。●釘抜地蔵(上京区)・正しくは(光明遍照院石像寺)・弘仁10年(819)に(空海)が建立。・のちに(▲俊乗坊重源)が浄土宗に改めたという・もとは(苦抜地蔵)と呼ばれていた。・二本の(釘)と(釘抜)を張り付けた(御礼絵馬)が奉納される。・(石造釈迦三尊像)が重文石造阿弥陀三尊像●化野念仏寺(右京区)・弘仁年間(810-24)に(空海)が化野に葬られた人々を追善するために開創。・当初は(▲五智山如来寺)の名で真言宗だった。・(法然)が念仏道場としたことで、念仏寺となり、浄土宗となった。・(角倉素庵)の墓がある。・8月23日、24日には(千灯供養)がある。(八千体)にも及ぶ無縁の石仏を供養する。●直指庵(右京区)・(隠元隆き(「き」は王偏の埼の右側)))の法嗣である(独照性円)が営んだ草庵 の(没蹤庵(もっしょうあん))に由来・禅の(直指人心)の教えに従って、寺名を付けずに直指庵とした。・幕末には(近衛家)の老女であった(村岡局(津崎矩子))が再興した。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村__________________________________「京都検定過去問」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=28「京都検定出題傾向分析」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=30「京都検定勉強」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=31
2015/12/03
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浄土宗の寺院#2(上善寺・阿弥陀寺・清浄華院・請願寺・矢田寺・仲源寺)の解答です。不正解だった場合は▲とし、その後に正解を記入しています●上善寺(北区)・貞観5年(863)(円仁)が天台密教の道場として開創。・文禄3年(1594)に現在地に移転して、のちに浄土宗に改めた。・寺域には(今出川家)歴代の墓や、幕末の(長州藩士)らの首塚がある。・本尊の阿弥陀仏は(行基)作と伝える。・地蔵堂の(深泥池地蔵)は六地蔵めぐりの一つ (鞍馬口)地蔵ともいわれる。(桂地蔵)とともに(六斎念仏)がある。 上鳥羽の(浄禅寺)では(鉦講)がある。●阿弥陀寺(上京区)・開山(清玉上人)・天文年間(1532-55)に近江の坂本から洛中に移り、(正親町天皇)、 (織田信長)はじめ多くの武将の尽力により、伽藍が整った。・本能寺の変後、(清玉)らは(信長)らの遺体を荼毘に付して持ち帰ったといわれる。・墓地には(信長・信忠)(森蘭丸)をはじめとする家臣の墓、儒者で(弘道館) を開いた(皆川淇園)、 江戸時代中期の時宗の僧・俳人(▲五升庵蝶夢)などの墓がある。●清浄華院(上京区)・(浄土宗京都四ヵ本山)の一つ・本尊は(法然上人御影)・貞観2年(860)(清和天皇)が(天台)(真言)(仏心)(戒律)の四宗兼学道場と して(禁裏内)に創建。・開山(円仁)・12世紀後半、浄土宗に改め、(法然)を中興の祖とした。・(皇室)と密接な関係を有する。・中国宋時代寧波の画家(四明普悦)の筆になる絹本著色(阿弥陀三尊像)は国宝。・紙本著色(泣不動縁起)絵巻が重要文化財。泣不動縁起絵巻●請願寺(中京区)・浄土宗(西山深草派)総本山・(天智天皇)の勅願所として奈良時代に建立。上京区元請願寺通小川に移転。 現在地には天正年間(1573-92)に移った。・当初は(三論宗)。のちに浄土宗。・笑い話集(醒酔笑)を著わした(安楽庵策伝)は同寺の55世。・門前に(迷い子道しるべ)((月下氷人石))がある。・墓地には(安楽庵策伝)医師(山脇東洋)などの墓がある。・(洛陽六阿弥陀巡り)の一つ。●矢田寺(中京区)・(矢田地蔵)の名で知られる。・(奈良矢田金剛山寺)の別院として、延暦15年(796)に創建されたという。・本尊はかつての(六地蔵)のい一つ。・開山の(満慶)が地獄で出会った地蔵の姿を彫らせたと伝え、地獄で人々を救うと いうことから(代受苦地蔵)とも呼ばれる。・重文の(矢田地蔵縁起)を所蔵。・(8月16日)は、お盆の鐘楼を送る(送り鐘)がある。 (珍皇寺)の(迎え鐘)に対する呼び名。●仲源寺(東山区)・(目疾地蔵)の通称で知られる・仏師の(定朝)が治安2年(1022)に(四条橋)の東北の地に地蔵菩薩を祀ったこと に由来するという。・安貞2年(1228)の洪水のときに雨を止ませる祈願をした功により(▲後堀河天皇)の 勅願寺になった。本尊を(雨止地蔵)と呼んだ。これがなまって(目疾地蔵)にな り、現在も(眼病平癒)の信仰を集める。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村__________________________________「京都検定過去問」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=28「京都検定出題傾向分析」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=30「京都検定勉強」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=31
2015/12/03
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