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広島 月野瀬神社(大明地古墳)芸備線JR安芸矢口駅近くにある神社「月野瀬神社」広島市内から車で15分の所軽自動車1台通れる道を進む月野瀬神社祭神 別雷命(わけのいかづちのみこと) 昔はこの辺りまで海水があがる海岸線であった 推古天皇からこの地で船を作る事を命じられた 河辺臣は霹靂の木で船を作る事にしたが大雨や 雷で作る事ができない、河辺臣は木を採る人を 害せず自分を傷つけよと祈った、すると十余度 の電鳴が鳴り大雨や嵐を治めることが出来た。 このことから別電命を主祭神として祀った またこの地を「大明地」と称した広島市安佐北区口田この地域には現在広島のベッドタウンとして大きな団地がいくつも開発されています。開発にあたっての工事で沢山の古墳が発見されており地名をとって「大明地古墳」とされている。神社本殿の裏は小高い山になってますが木の向こうは山陽自動車道(高速)神楽殿のような舞台中心はトンドの跡か?(鏡餅を焼いた)本殿の裏手多くの土器などが出土した遺跡1800年前(弥生時代以前)から戦国時代の毛利輝元が現在位置に広島城を建築するまでこの辺りが安芸國の中心であった。
2024.01.29
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小早川隆景(毛利元就三男)⑥福岡城名島門・太宰府天満宮・宗像大社毛利元就の三男として誕生した小早川 隆景(1533年~1597年)12歳で竹原小早川家の養子となり18歳には沼田小早川家も継承し小早川家の当主として毛利家を支えた。(毛利両川体制)豊臣政権では5大老まで上り詰めた戦国武将、隆景は広島県三原市にある三原城にて最後を迎えた。(65歳)毛利元就「三本の矢」で有名な「三子教訓状」には毛利隆元(長男)吉川元春(次男)小早川隆景(三男)に長文の教訓が書かれています。①毛利家を守る事②一族の結束③厳島信仰④身をわきまえる(程度を知る)この教えを守り小早川隆景は生涯を毛利家存続に尽くしました。毛利家から養子に出て三原・竹原の小早川家を継ぐその後色々転封するが晩年は三原城で最後を迎える隆景が関係した地域豊臣秀吉の四国攻めの功績により松山の湯築城、大洲城など伊予の国を治めたその後秀吉の九州征伐にも参加筑前・築後・肥後37万石を拝領名島城に入城今回訪問した位置関係図①名島城②福岡城③大宰府天満宮④宗像大社福岡城跡、大堀公園、舞鶴公園に到着前回名島城跡は訪問したので今回は移設された名島門を訪問します。舞鶴公園入口に移設された「名島門」小早川隆景が築いた名島城の脇門後の名島城城主黒田長政が居城を福岡城に移す時配下の武将にさげ渡され邸宅の門になっていたが、明治時代売りに出てた門を当時の代議士が購入自宅の門となる、戦後この地に移設された。今の名島城跡には石垣が少し残っているだけ約500年前の貴重な門隆景ファンとしては感動物です城も門としては小さいが重厚感あり横から見た福岡城は櫓が再建されている天主台も残っており上がる事ができる市民の散歩コース、眺めも良い続いて訪問したのは太宰府天満宮車で1時間1591年に小早川隆景によって本殿が再建される現在は残念ながら本殿は修復工事中で屋根の上が森の様になっている本殿の裏側工事中が見れるのも珍しいので記念になります丁度菊花展開催中でしたまたお相撲九州場所も開催中伊勢が浜部屋はこの天満宮の敷地内に宿舎を構えています。幟も番付順参道には世界的にも有名なスターバックスのお店、建築家隈研吾さんのデザイン次に向かったのは隆景が関係した建築宗像大社の辺津宮車で1時間宗像大社は沖津宮、中津宮、辺津宮の3社からなる天照大神の御子神が祀られている由緒ある大社天皇皇后陛下や皇族の皆様も参拝されます1590年小早川隆景によって拝殿が再建された拝殿まで雨で揺れないように屋根付きの建物が出来ている国の重要文化財戦国武将として活躍5大老まで務めた隆景豊臣秀吉は東は徳川家康、西は小早川隆景に任せれば天下安泰であると評価された。歴史の中では有名人物ではないが隆景を追っていくと面白い発見が多々あるがクローズアップされる事がない、あくまで毛利家の為に動いていた隆景らしい。
2023.12.11
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毛利元就の三男として誕生した小早川 隆景(1533年~1597年)三原市所蔵小早川隆景像12歳で竹原小早川家の養子となり18歳には沼田小早川家も継承し小早川家の当主として毛利家を支えた。(毛利両川体制)豊臣政権では5大老まで上り詰めた戦国武将隆景は広島県三原市にある三原城にて最後を迎えた。(65歳)毛利元就「三本の矢」で有名な「三子教訓状」には毛利隆元(長男)吉川元春(次男)小早川隆景(三男)に長文の教訓が書かれています。①毛利家を守る事②一族の結束③厳島信仰④身をわきまえる(程度を知る)この教えを守り小早川隆景は生涯を毛利家存続に尽くしました。米山寺(三原)所蔵小早川隆景像広島から松山までフェリーで移動移動時間2時間30分新型フェリーのシーパセオカフェのような船内充電用コンセントもたくさんある松山観光港から車で20分街の中心部に着きました本日のホテルは東急レイさん地域割とホテル会員入会割で1泊1500円の格安大街道(中心部)から道後温泉は車で10分多くの観光客で賑わっています道後温泉から歩いて5分の立地伊予の湯築城に到着本能寺の変以降、毛利家や隆景・元春(両川体制)は秀吉に積極的に協力し1585年の四国攻めでは隆景は伊予国の金子元宅を討ち取り功績をあげた。秀吉は隆景に伊予の国を治めさせ、この湯築城に入城する。この時も隆景は一旦秀吉から毛利に与えた事とし毛利家から伊予の国を受領する形をとった。現在の湯築城の模型資料館や球場など公園施設として市民の開放されている。広場では各種イベントがよく開催されている公園の周りはジョギングコース続いて大洲まで移動(車で40分)大洲城に到着小早川隆景は伊予国を受領し松山にある湯築城に入城(本拠)枝城となったこの大洲城には子(養子)の秀包を配置しこの地も治めた。現在の天守は平成16年に完成戦国時代以降5人の城主が守ってきた肱川を天然の堀として利用している現在の街並みとあまり変わっていない肱川と予讃線(松山~宇和島)の列車夏になると鵜飼いが有名なスポット復元された天守は鉄筋ではなく木造造り釘なども使用しない昔ながらの製法で再現?街側の景色城の石垣を工事中お城に宿泊ができるそうです1泊100万円専用のシェフがキッチンカーで料理造りお城の中で食事がでます。風呂、トイレは別棟まで移動城主としての体験ができます。「男はつらいよ」映画のロケ地にもなった場所当時は天守が再建されていなかった(肱川が見える)寅さんが落としたお金を大洲のお殿様(末裔)(お殿様の名前も藤堂さんだった)が拾うところから物語が始まっていく。以上松山・大洲編でした。
2023.03.04
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毛利元就の三男として誕生した小早川 隆景(1533年~1597年)12歳で竹原小早川家の養子となり18歳には沼田小早川家も継承し小早川家の当主として毛利家を支えた。豊臣政権では5大老まで上り詰めた戦国武将、隆景は広島県三原市にある三原城にて最後を迎えた。(65歳)毛利元就「三本の矢」で有名な「三子教訓状」には毛利隆元(長男)吉川元春(次男)小早川隆景(三男)に長文の教訓が書かれています。①毛利家を守る事②一族の結束③厳島信仰④身をわきまえる(程度を知る)この教えを守り小早川隆景は生涯を毛利家存続に尽くしました。隆景が訪れた場所今回は福岡を訪問しました出張帰りは福岡空港着でした予定にはなかったですが急遽隆景ゆかりの場所を訪問する事にしました。午前中の便で午後から時間があり名島城が博多駅から近かった為地下鉄と西鉄を乗り継ぎ名島駅に到着櫓のような駅雰囲気がある、私鉄ならではの配慮名島城跡まで徒歩15分大名屋敷があった通り城跡まで真っ直ぐ伸びた道今では少し狭い道ですが隆景も通った道本能寺の変以降徐々に豊臣秀吉に従属した隆景と毛利秀吉の命で九州征伐にも参加し勝利した秀吉から筑前・築後・肥前の37万石を与えられた。1589年に名島城に入城一部石垣が残る名島城跡現在は公園として整備ウオーキングコースとして賑わっている本丸のあった場所に建つ三原城と同じ様に半分は海を自然の堀としたつくり朝鮮出兵ではこの城が物流の拠点にもなった1589年から1595年まで隆景の居城となる以降は三原城(広島県三原市)で隠居隆景は秀吉の甥の秀秋を養子に向え家督を譲り竹原小早川・沼田小早川時代の家臣を連れて三原城に隠居する。関ケ原の戦いでは小早川秀秋が西軍を裏切り東軍の勝利に導いたと歴史的には有名ですがこのころは秀秋と毛利家との交流はほとんどなく、秀秋も毛利方で戦う理由もなかった。(隆景も亡くなっている)城は半分海にせり出している自然の要塞反対側の街側も遠くまで見渡せる小高い丘つぎに立ち寄ったのが筥崎宮筥崎宮は日本三大八幡宮に数えられている現在の福岡県宇美町で生まれた応神天皇(第15第天皇)を主祭神として祀られています。現存する本殿は1546年大内義隆が建立この日訪問した目的はこの先に見える桜門(国指定重要文化財)1594年筑前領主 小早川隆景が建立建坪は12坪ですが、83坪あまりの雄大な屋根を有した建物敵国降伏亀山上皇の書を小早川隆景が模写拡大した物「武力で相手を降伏させるのではなく、徳の力をもって導き、相手が自ら降伏すること」どちらも重要文化財桜門から先は入れなかった為本殿の写真なしお祓いする人のみ本殿に入れます。太宰府天満宮にも行こうとしましたが(本殿を隆景が建立)西鉄電車、バス共に博多駅乗り場で満員大行列の為諦めました。国内、海外旅行で太宰府天満宮に訪れる人が激増しています。ちなみに福岡国際空港の搭乗手続き、荷物のセキュリティチェックが現在激込み中、特に朝の出国ラッシュでは最低2時間、最悪3時間掛かる状況、出国審査(自動)ですが審査官はアップアップでした(日本人にしては段取り悪い)その⑥に続く
2023.02.28
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毛利元就の三男として誕生した小早川 隆景(1533年~1597年)12歳で竹原小早川家の養子となり18歳には沼田小早川家も継承し小早川家の当主として毛利家を支えた。(毛利両川体制)豊臣政権では5大老まで上り詰めた戦国武将、隆景は広島県三原市にある三原城にて最後を迎えた。(65歳)毛利元就「三本の矢」で有名な「三子教訓状」には毛利隆元(長男)吉川元春(次男)小早川隆景(三男)に長文の教訓が書かれています。①毛利家を守る事②一族の結束③厳島信仰④身をわきまえる(程度を知る)この教えを守り小早川隆景は生涯を毛利家存続に尽くしました。竹原小早川家の菩薩寺「法常寺」元々竹原市新庄にあったが1552年に小早川隆景が現在の本郷にある新高山城に移ると寺も本郷町船木に移転する、その後小早川隆景が三原城を築くと1592年に現在の場所三原市西宮町に移る。(三原城から車で5分)山門水子地蔵1597年6月12日に隆景が三原城で逝去するとここ法常寺で火葬・葬儀が行われ、米山寺に葬られた。(沼田小早川家菩薩寺)小早川隆景小祠本殿は外壁など改修されていて新しく見える古い柱も見えたので一部は当時のままが残っているかも。左三つ巴は小早川家の家紋境内には大きな黄梅隆景の戒名は(黄梅院殿三品泰雲紹閑大居士)沼田小早川家の菩薩寺「米山寺」三原市沼田東町小早川家代々の墓や小早川隆景の像など由緒ある貴重な物が納められているお寺歴代小早川家当主の墓の中にある隆景のお墓隆景は豊臣政権では伊予の国(愛媛)を治め、その後は九州の筑前筑後も与えられその間にその土地の神社やお寺の改修など積極的に行っている。その⑤に続く
2023.02.12
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毛利元就の三男として誕生した小早川 隆景(1533年~1597年)「三本の矢」の兄弟の一人、幼少時代に現在の三原市にあった小早川家に養子になります。その後毛利家存続の為に支え続けた隆景は豊臣政権では5大老まで登り詰めます、伊予や筑前筑後を拝領し最後に隠居の地として過ごしたのがこの三原市です。タコや神明鶏などを名物として町おこし夏のはやっさ祭りが開催される。タコは乱獲や海水温度の変化により激減そのうち熱帯の魚が名物になる日も近い三原港、三原城は海と川を天然の堀として使っていた「浮き城」と呼ばれた。(海側から見ると浮かんでいるよう)「三原民族歴史資料館」を訪問小早川家の歴史も展示されています。入館無料企画展示はダルマ毎年2月に開催される「神明市」別名ダルマ祭りと呼ばれ、日本一のダルマを展示数キロに渡り露天商が並びます。昔はダルマの製造も盛んだったようです広島では有名なダルマ焼酎ブランド廿日市(広島県西部)にある「中国醸造」さんの商品、この会社は最近社名が「株式会社サクラオブルワリーアンドディスティラリー」に変更し製造商品もジンやウイスキーなどを展開県内のお土産屋さんや酒屋、スーパーには必ず陳列されている売れ筋商品の製造販売をされています。蒸留技術を焼酎からウイスキーにシフト時代の変化に上手く対応されている。ちなみにサクラオは会社がある桜尾(地名)からで近くには桜尾城跡(桂公園)があります。偶然ですがここも毛利元就と深い関係があり宮島決戦では毛利軍の城として重要な拠点となった場所。選挙とダルマ2階の郷土歴史コーナーナウマンゾウの化石、瀬戸内海には多くの化石が見つかっているここからが小早川家の歴史コーナー現在の本郷地区にある高山城跡小早川隆景が養子に入ったころまで使用されていた城新高山城跡小早川隆景が築城した新しい城沼田川をはさんで新旧の城があった高山城頂上がフラット新高山城こちらは急こう配山陽新幹線のトンネルが両方の城の下を貫通しているちなみに三原城は天主台の上に新幹線のホームがある現在も多くの場所が地名(住所)小早川家小早川隆景像(米山寺所蔵品)貴重な隆景の像、生前に描かれた物はほとんど存在が確認できない。戦国時代の後半に建てられた城平野部に築城、海、川、山をうまく防御に使っている海に面した部分現在も残されている石垣の一部像はトマス小崎(少年)キリスト教徒として京都で捕まり長崎で処刑されます、途中この三原城の牢獄で宿泊、その時に母に出した手紙を手にもってます。街に点在する城跡三原城(明治時代の写真)明治36年にはすでに天主台に列車が走っている現在の三原城天守台跡石工が残した刻印分かりやすい模型秀吉の命により朝鮮に出兵した隆景筑前、築後を治めていた時代に寄進筥崎宮楼門、こちらには後日訪問する予定こちらも隆景が建築した太宰府天満宮本殿こちらも隆景宗像大社辺津宮拝殿最後は現在の高山城と新高山城次回は登山する予定、低い山ですがかなりハードらしい、春まで待ちます。その④に続く
2023.02.09
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小早川隆景(毛利元就三男)②小早川隆景展(三原市)令和4年8月15日訪問三原市リージョンプラザ展示会場1597年に亡くなった小早川隆景は晩年養子の小早川秀秋に家督を譲ります。秀秋は「関ケ原の戦い」で西軍を裏切った有名な人物、豊臣秀吉の正室ねねの甥で秀吉の養子だった秀秋は21歳で急死します。秀秋は子供がいなかった為、お家断絶のうえ改易となりました。毛利家28代当主の毛利元徳が明治12年に小早川家の再興を自分の子三郎に託した三郎氏は三男?だったのが選ばれた理由でしょうか?毛利家家系図みなさん元、隆、治などお馴染みの漢字を使用されます明治以降は一般人も苗字を使う事が許された為、家柄の違いを名前で表現した。小早川隆治氏(現当主)この当主が三原市に隆景関連資料を譲渡され今回の展示会が実現しました。広島に本社があるマツダに務められていた。譲渡された貴重な資料毛利家から小早川家に伝わった家宝が納められていた桐蓋これらの資料は元は毛利家に伝わる物であった毛利家から小早川家に譲渡「小早川隆景賛」と「小早川隆景像」「小早川隆景像」隆景の生前に描かれた物である可能性が高い大変貴重な像、現在確認できる隆景像はこれと米山寺所蔵の2枚しか確認されていない。「小早川隆景賛」京都大徳寺黄梅院の住職が隆景の功績を記している晩年の姿が描かれている目力が強い印象表装は毛利家の家紋入り強大な尼子や大内に挟まれた毛利元就は吉川家と小早川家に養子を出し地盤を固め大内や尼子を打ち破り中国地方の雄となる。その毛利家を支えたのが吉川元春小早川隆景(毛利両川体制)米山寺(三原市)の所蔵する隆景像米山寺の隆景像同じアングルで顔もそっくり少しふっくらで目もやさしく描かれている小早川家の家紋「左三つ巴」これも大変貴重な隆景直筆の書状三原城が出来る前は現在の本郷町に山城を築いていた「高山城」「新高山城」三原城は沼田川の下流で海を合流する地点その5km上流に元々の山城があった。この頃から山城から平野部に城造りも変化していく。右の山が高山城、左が新高山城真ん中は沼田川、西日本豪雨災害時この辺りは甚大な被害が発生した。隆景が訪れた代表的な場所江戸時代1700年代の三原城(浅野時代)明治36年の三原城既に鉄道が城の中心を貫いていますまた城の前は海が広がっている(現在は埋め立てで海まで200m)海側からの写真四国(伊予)や福岡(筑前、築後)でも活躍した隆景明治、大正時代の三原城昭和初期に描かれた隆景像秀吉の命令で朝鮮半島でも戦った「碧蹄館の戦い」61歳時海からみた現在の三原港から奥に200㎡位に城跡(現三原駅)があります小早川隆景その③に続く
2023.01.27
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毛利元就の三男として誕生した小早川 隆景(1533年~1597年)12歳で竹原小早川家の養子となり18歳には沼田小早川家も継承し小早川家の当主として毛利家を支えた。豊臣政権では5大老まで上り詰めた戦国武将、隆景は広島県三原市にある三原城にて最後を迎えた。(65歳)毛利元就「三本の矢」で有名な「三子教訓状」には毛利隆元(長男)吉川元春(次男)小早川隆景(三男)に長文の教訓が書かれています。①毛利家も守る事②一族の結束③厳島信仰④身をわきまえる(程度を知る)この教えを守り小早川隆景は生涯を毛利家存続に尽くしました。山口県防府市毛利博物館にある毛利元就の教訓状三原城跡は現在JR三原駅になっています。三原城は小早川隆景が1567年に沼田川の河口と海に面したこの地に築いた城です。天主台のあった所には新幹線ホームになっている天主の石垣も線路の基礎として利用天守台跡には駅の中から入る事ができる三原市の名物はタコ乱獲や水温の変化で現在はほとんど獲れない市内飲食店はタコが名物料理になっており観光客にも人気ですが、確保が難しく瀬戸内海産のタコに変わっている。2月には神明市の祭り8月にはやっさ祭り・花火大会その他生クリームパンを発売全国でブームにした会社も三原のパン屋さん。八天堂さんのクリームパン色が塗られている箇所が城跡明治時代に鉄道が本丸を貫き現在は天主台など一部を残すのみとなっている。川と海を利用した平城海側から城を見ると浮いているよう見えたため別名「浮城」と呼ばれた。小早川隆景像現在隆景に関する資料はほとんど存在しないこれは一度小早川家が断絶したこともあるが隆景自身が常に黒子に徹して自身の書状などをあえて残さなかった。(米山寺所蔵像)天主台は現在綺麗な公園として整備子供の遊び場、学生のデートスポット山側の眺めも良い、今も残る内堀で守られている海側には新幹線のホーム各駅停車の「こだま」しか停車しない広島県には5つの新幹線駅がありますが広島駅と福山駅以外必要のない駅特にこの三原駅と尾道駅は5分もかからない距離で駅を設置。三原市沼田東にある小早川家の菩薩寺「米山寺」米山寺山門の屋根上には毛利家の「一文字三星」の家紋寶物館(非公開)小早川隆景の木像が納められています(1596年製造23.1㎝)敷地内には小早川家代々の墓所もあります小早川隆景の墓(広島県史跡)豪雨の土砂崩れによりほとんどの墓石は倒壊しましたが(修復中)隆景の墓石は無事でした小早川隆景は豊臣秀吉より伊予35万石も拝領(愛媛)写真は道後温泉の坊ちゃん列車(訪問時撮影)道後温泉近くにある湯築城跡温泉街から歩いて5分湯築城跡模型伊予大洲にある大洲城この地も隆景が治めた(訪問時撮影)大洲の街並み夏には鵜飼いが名物福岡 太宰府天満宮小早川隆景は秀吉の九州攻めにも参加し筑前・築後を拝領(36万石)太宰府天満宮の本殿改修にも関わっている(訪問時撮影)隆景は豊臣政権で5大老の一人であった。毛利家関係から2人も入っている事から隆景の信頼度と貢献度の高さがうかがえる。小早川隆景その②につづく
2023.01.16
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鹿児島 鹿屋航空基地資料館海上自衛隊鹿屋航空基地内にある資料館大日本帝国海軍鹿屋基地時代から現代の海上自衛隊に至るまでの写真や資料を展示神風特攻攻撃隊などの資料も展示されている九州周辺の災害救助などにも出動され活躍しています最近では豪雨災害さどの出動が増えているこのヘリコプターは対潜哨戒機潜水艦の捜索と攻撃を行う兵器訪問したのは5月15日昭和20年の同じ日に特攻していった特攻攻撃隊と亡くなった兵隊さんの名前が記載されている必激の攻撃ではなく必死の攻撃入館して最初に展示してありました館内中央に設置してえる特攻兵の像まだ若い少年の顔特攻基地と同じ鹿児島の知覧基地が有名ですが知覧は陸軍の基地でこちらは海軍の基地となりお互いに戦果を競っていたのしょうか?航空母艦 「赤城」艦載機91機の大型空母最後はミッドウェー海戦で大破し最後は味方の魚雷で海底に沈められた。真珠湾攻撃の部隊編成1945年12月8日航空母艦6隻を中心にハワイ真珠湾を攻撃山本五十六連合艦隊司令長官をトップとする編成泥沼の戦争に突入する事になった山本長官はアメリカの軍事力を熟知しており日本との力の差が明白な中で戦争に踏み込んだ、時代背景や政府内での権力闘争、世界各国のパワーバランスなど様々な要因の中での開戦に至った。日本国内で撃墜されたB28爆撃機撃墜によって死亡した米兵を墓地に葬った。知覧基地の近くにも同じように墜落し亡くなった兵士の為に地権者が土地を寄付して兵士の記念碑が建立されている。配給切符各種俳優の西村晃さんも元特攻兵戦争前の海軍の総戦力写真海軍大将 東郷 平八郎(鹿児島)日清日露戦争で勝利に導く活躍日露戦争では連合艦隊の旗艦「三笠」で指揮当時世界最強と言われたロシアのバルチック艦隊との海戦に勝利する。明治の初め頃の軍隊上部は薩摩と長州出身者が占めていた。軍艦三笠甲板の東郷平八郎坂の上の雲の主人公でもある秋山真之も東郷元帥の後ろにいる(作戦参謀)三笠は今も横須賀の三笠公園に保存してあり見学可能東京に行く便があれば訪問する予定広瀬 武夫 海軍中佐(大分竹田市出身)享年35歳軍神(ロシア戦争で部下を助けようとして亡くなった)柔道家でもあり嘉納治五郎にも認められるほどの実力外交武官としてロシア滞在時にはロシア人女性との恋の話は有名。佐久間 勉 海軍大尉(福井県)享年30歳明治43年4月15日第六潜水艇の佐久間艦長は訓練中の事故で海底に沈没し乗組員全員が犠牲となる。第六潜水艇の乗組員山口県岩国市の沖で訓練中に沈没現場近くには記念碑があります(以前訪問撮影)佐久間艦長の遺書その当時各国の潜水艦が沈没し引き上げると乗組員が争って出口に殺到したままの状態でなっていたが第六潜水艇を引き上げて中を開けてみると全員が持ち場で亡くなっていた。乗組員たちは最後まで艦長の指示通りに修復作業を行っており佐久間艦長の遺書にも書かれている。中心に映っている工場煙突辺りが沈没場所第六潜水艇の同型艦大田 實 海軍中将(千葉県)享年54歳戦争末期に沖縄上陸作戦に際し沖縄県民と一緒に戦った人物、沖縄では海軍のトップであったが沖縄の統括は第32軍部隊(陸軍)司令官牛島満中将の指揮下に入っていた。1945年の2月に沖縄入り海軍の空港基地(現在の那覇空港)の守備が主な任務であった。1945年4月の米軍が沖縄に上陸すると日本軍は第32軍の司令部があった首里城を中心に徹底交戦するが米軍の戦力の前に首里城まで追い込まれ、南部の摩文仁に撤退していく。第32軍の牛島司令官は日本本土決戦だけは避けようと最後まで降伏する事なく米軍の進撃を食い止めようとするがその過程で多くの民間人が犠牲となった。沖縄戦は牛島司令が摩文仁で自決した6月23日を沖縄戦終結の日としている。沖縄戦において県民の奮闘ぶりを海軍次官に送った電報沖縄県豊見城市にある海軍司令部壕跡(以前訪問時撮影)最後の電文の現在語訳これを読むと沖縄県民がどのように戦いの犠牲になりながら最後まで軍に協力した事が詳細に書かれています。電文の最後は沖縄県民はこのように戦い抜いた県民に対し、後程、特別のご配慮を頂きたくお願いする。豊見城市にある海軍の地下壕はほぼ当時のままで保存され公開されている。地下壕の入り口大田司令官らが自決した地下壕指令室当時のまま展示されている最後の電文を書く大田司令官手りゅう弾で自決した跡壕は豊見城市の高台にあり那覇市内も一望できる沖縄県民にとっての戦争は本土を守るために犠牲になり(見捨てられた)多くの犠牲者を出した。沖縄の戦争は今も続いている、アメリカ軍の基地問題をはじめ、そもそもアメリカ軍の基地名は沖縄戦でアメリカにとって活躍(日本人を多く殺した)した軍人の名前が未だについているそんなアメリカ軍と共存すること自体不可能。今でも年間200発~300発もの不発弾が見つかり自衛隊による処理が行われている。第32軍の司令部があったのは現在の首里城の地下にあり今でも入れないが残っているが首里城の地図にも記載されていないし観光本にも掲載されない。また32軍牛島司令官が自決した摩文仁の壕は平和公園の中にあり見学も可能ですが訪れる人は少ない。広島の江田島にある海軍兵学校今も自衛隊の訓練施設があります。特攻でなくなった方々の遺影1階の展示コーナー災害救助など実際の機材が展示してあります外には魚雷水陸着陸可能な救難艇鹿児島市内に向かいます途中で見かけた財宝さんの看板この辺りが本社
2021.07.19
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長崎 日本26聖人殉教の地を訪れますカトリックにおける尊者・福者・聖人とは尊者 教皇庁列聖省が聖人に加えられることを最終的 な目的として、その調査を宣言するとその人は 「神のしもべ」と呼ばれ、次の段階で尊者と 宣言されます。福者 聖人に位にあげられる前提として、尊者の徳のある 行為あるいは殉教によりその生涯が聖性に特徴づけ られたものであったことを証して「福者」という 聖人 聖人とは、生存中にキリストの模範に忠実に従い その教えを完全に実行した人たちに事であり、神と 人々の為に、またその信仰を守るためにその命を ささげるという殉教もその証明になる。 福者に加えられた後、もう一つの奇跡が前提になり 福者と同様な手続きと調査を踏んで教皇が公に聖人 の列に加えると宣言する。日本に関係する聖人は、聖フランシスコ・ザビエルや日本26聖人殉教者、聖トマス西と15殉教者、聖マキシミリアノ・コルベ神父がいます。長崎の街は平地が少なく斜面に面した階段が多い坂道の街長崎市西坂にある「日本26聖人記念碑」と後方は記念館1570年ポルトガルとの貿易港として開港されて以来長崎はキリスト教の中心都市として栄えたが、弾圧の時代を迎え、ここ西坂が26聖人をはじめとするキリスト教の殉教の地となった。1597年2月5日26人は十字架の上から槍で両脇を刺し突かれ絶命した場所がこの西坂の地6名の外国人と20人の日本人が殉教した26人の中には小さな子供達(12歳13歳14歳)の姿もこの事は広くヨーロッパにも伝わり1862年に当時のローマ教皇により26人を聖人として列した。記念碑の後ろ側にある記念館2019年11月24日にはローマ教皇フランシスコがこの地を訪れています。ローマ教皇とはイエス・キリストに従った使徒の一人であるペトロの後継者カトリック教会ではペトロを初代のローマ教皇とみなす。これは「天の国の鍵」をイエスから受け取ったペトロが権威を与えられたと考えているため。ペトロが初代で現在の教皇は第266代教皇これほどまでにローマ教皇の動向が注目されるのはアメリカやロシアの大国の大統領より世界に対して影響力や発信力をもっている。カトリックの信者は全世界に12億人以上と言われており、また信者は世界各国に存在している。時代背景豊臣秀吉の命令により石田三成が京都に住むフランシスコ会員とキリスト教徒全員の処刑を命じた。大坂と京都でフランシスコ会員7名と信者14名、イエスズ会関係者3名の計24名が捕らえられた。1597年長崎で処刑せよという命令を受けて一行は大阪を出発長崎に向かった、道中で2人のキリスト教信者も捕らえられ計26名となり長崎に向かった。1596年1月20日26人は広島県三原市にある三原城で拘束され一夜を過ごす現在の三原城跡(新幹線の三原駅)訪問時この地でトマス小崎14歳が母に宛てた別れの手紙を書いている豊臣秀吉は天下統一を図り、1587年に伴天連追放令をだしたが一方で南蛮貿易は認めており形式的な物であった。サン・フェリペ号事件とは1596年にスペイン船サン・フェリペ号が土佐に漂流したこの一件で秀吉のスペイン人ひいてはフランシスコ会宣教師に対する懐疑が深まる事となる以前出されていた禁教令を根拠に乗船していた宣教師を含め見せしめとして都にいたキリスト教徒の処刑が行われる事となる秀吉の禁教令の写し1592年キリスト教の伝来とフランシスコ・ザビエルザビエル像1549年8月15日に聖フランシスコ・ザビエルは鹿児島に上陸しました。ザビエルはイエズス会のトーレス司祭、フェレナンデス修道士、ヤジロウという日本人を伴っていました。日本人のヤジローとは1547年マレーシアのマラッカで出会います。ヤジローは薩摩の国の下級武士の出身でしたが、自分が犯した大きな罪(人を殺したと言われている)で日本にいられなくなり、マラッカでザビエルに会い赦しを求めました。ザビエルアジアの旅インドからマレーシアのマラッカから鹿児島に入り最後は中国で亡くなっています。マラッカセントポール教会(2018年訪問時)教会の中に一時ザビエルの遺体が置かれていたマラッカのザビエル教会(2018年訪問時)マラッカ キリスト教会(訪問時撮影)ここがマラッカ観光の中心地、マレーシアはキリスト教、イスラム教、ヒンドゥー教、仏教など町中にさまざまな宗教の建物が仲良く建っていますザビエルの日本滞在記録鹿児島から長崎の平戸(後日訪問)山口から京都最後は大分からゴアに向かった。鹿児島のザビエル上陸地点(2020年訪問)目の前は桜島市内にあるザビエル教会(2020年訪問)協会内にあるザビエルの遺骨中心にある小さな粒が遺骨遺体自体はインドのゴアにある鹿児島市郊外にあるヤジローのお墓(2020年訪問時)山口市内にあるザビエル記念協会(2020年訪問)フランシスコ・ザビエル自筆の書1546年インドのゴアにあるジェズ教会には今もミイラ化したザビエルの遺体が奇跡的に保存されている。10年に1度公開されるそうです。キリシタン禁止の高札内容はキリスト教は禁止されている不審者がいれば密告せよ司教を密告した者には 銀500枚修道士を密告 銀300枚豊臣秀吉の死後天下をとった徳川家康はポルトガルとの貿易を優先させるため黙認の立場ではあった、1614年には教徒は40万人にもなり幕府も脅威を感じ始め、その中でキリスト教が関係した事件などが多く起こりついに幕府はキリスト教の弾圧に動き出す。キリスト教迫害に対する4つの対応殉教 信仰を捨てる事なく、無抵抗なまま命を 捨てる事潜伏 表向きは神道・仏教徒として生活して 潜伏して信仰を守る事犯行 武力をもって弾圧に抵抗する事 (島原の乱)棄教 迫害によって信仰を捨てる事鎖国の象徴、長崎の出島もともとはポルトガルとの貿易の為であったが1639年にポルトガル人は追い出され代わりに平戸よりオランダ人が出島に入る。島原の乱の最後の地、一揆勢3万7千人が原城に立て籠り 幕府軍12万5千人と戦った。最後は原城に立てこもった者(女性や子供含む)を全滅させた。島原の原城(2020年訪問)原城の中にある天草四郎像(2020年訪問)隠れキリシタンとは江戸時代のキリスト教弾圧時には表向きは神道・仏教徒として生活して潜伏して信仰を続ける事(潜伏)明治に入り信仰が自由になったあとも潜伏の信仰を続けていた集落な人々の事長崎の五島市、平戸市、外海などには1998年ごろまで存在しており世界遺産にも登録されている大分で発見された木製のピエタ像(16世紀)瓶に入り地中深く埋められていた重要文化財映画「サイレンス」で使用された踏絵マーチン・スコセッシ監督のサインオランダ商館もありザビエルも尋ねた平戸にも向かいます
2021.04.12
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長崎 平和公園、資料館・浦上教会新幹線で博多まで向かいます各駅停車のこだま号博多からは高速バスで長崎まで博多駅前にはバスステーションが2か所ありこちらは高速バス専用で2階はホテルになっている。宿泊ホテル(翌朝撮影)長崎IKホテルさん普通のビジネスホテル深夜到着で寝るだけなので問題なしバスルームの様子ここで1つ問題発生トイレの水タンクに補給する水が止まらずぽたぽたとかなりの音が発生、自力で修理を試すも直らず、フロントに連絡するとすぐに部屋を替えていただきました。翌朝の長崎駅近くの様子長崎には路面電車が走っており便利に移動可能です。路面電車で向かったのは平和公園原爆投下の中心地点1945年8月9日11時2分アメリカ軍が長崎市に原爆「ファットマン」投下人類史上において実践で使用されたのは広島についで2番目に使用された最後の原子爆弾でもある当時の長崎市の人口24万人のうち約7万4千人が死亡し、建物の36%が全焼、全半壊した。「平和の泉」噴水の前の石碑公園内には多くの水場が確保してありました平和公園は刑務所跡に建てられた「平和祈念像」長崎出身の彫刻家北村西望氏の作品天を指した右手は原爆の脅威を水平に伸ばした左手は平和を軽く閉ざした瞼は原爆犠牲者の冥福を祈る平和公園から山側の風景浦上教会が近くにあります浦上大天主堂(カトリック)九州には戦国時代からザビエルなどの宣教師が来日し布教活動を行っていたこの浦上地区でもその頃からキリシタン信者が大勢いたようです。教皇ヨハネパウロ2世1981年2月25日浦上教会を訪問しミサを行っています原爆によて教会は全壊、昭和34年にこの場所で再建されました明治6年に正式にキリシタン弾圧が停止され天主堂造りが始まり大正4年に完成する近くの公園に移設された浦上天主堂の被ばく柱公園内にある原爆にあった当時の地層(工事中に発見、保全)倒壊した建物の一部や生活用品など黒く炭化したような地層になっている浦上キリシタン資料館浦上教会は内側は見る事ができないので近くに資料館があり大変ありがたい施設個人で運営されているそうです。長崎で最初の宣教したルイス・アルメイダキリシタン大名の大友宗麟、大村純忠、有馬晴信の名代としてローマに派遣された4人の少年。ローマ教皇にも接見し歓迎されるとともに欧州で日本の存在が知られるきっかけになる。また4人の帰国時には欧州の印刷機や楽器など様々な物を持ち帰った。現在のローマ教皇フランシスコ2019年11月24日に長崎訪問これほどまでにローマ教皇の動向が注目されるのはアメリカやロシアの大国の大統領より世界に対して影響力や発信力をもっている。カトリックの信者は全世界に12億人以上と言われており、また信者は世界各国に存在している。教皇フランシスコ 日本滞在時の日程ローマ教皇とはイエス・キリストに従った使徒の一人であるペトロの後継者カトリック教会ではペトロを初代のローマ教皇とみなす。これは「天の国の鍵」をイエスから受け取ったペトロが権威を与えられたと考えているため。ペトロが初代で現在の教皇は第266代教皇明治時代になっても新政府は国の宗教を新道と決めて改宗しない浦上の信者3394人を捕らえて、全国22か所へ預けて棄教を迫りました。こうした弾圧は諸外国から厳しい非難、抗議反発を引き起こし、岩倉使節団が欧米諸国を視察時にキリスト教の解禁が条約改正の条件にもなり明治6年になってキリスト教禁止令は撤廃された。その後に浦上崩れによって捕らえなれていた人々は長崎に帰る事ができました。写真は長崎帰郷後60年たった昭和5年に生存者が撮った写真。原爆資料館訪問長崎が他原爆「ファトマン」実物大模型黒い部分は溶接部の補強剤長崎の原爆は「プルトニウム原爆」広島の原爆は「ウラン原爆」アメリカは日本を原爆実験の場とした上無差別テロ兵器を使用した(できる)国でもある。平和も同盟も話し合いも重要ですがこんな行為もできる国だということを忘れてはならない。時代背景と人物相関図世界の核保有国と弾頭数ただし現在技術や情報はあふれている時代核兵器は濃縮ウランなど原料さえ揃えば大学生や町工場レベルでも出来る兵器。日本では核兵器で攻撃されなくても民間が運営している原子力発電所を破壊すれば同じような破壊力やダメージを与えることができる。現在日本でもしきりに「脱炭素」のニュースや記事を多く目にします、化石燃料(石炭石油)の替わりにクリーンエネルギー(太陽光、風力など)二酸化炭素を排出しないエネルギーに国策として取り組んでいますが、これのメイン政策は原子力発電の強化の事になります。福島の原発事故以来日本では原発には慎重ですが政治家や一部利権関係者は「脱炭素」を利用して原発の再稼働を企んでいるように感じます。
2021.04.09
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毛利元就 宮島の戦い1553年に始まった戦いは周防(山口)を支配していた大内義隆の家臣で隆義に背いて自害に追い込んだ陶晴賢(すえはるかた)と毛利元就の戦い陶氏は実質的に大内氏の実権を握っており大内氏と大内氏に仕えていた毛利氏の戦いでもある元就は大内氏の己斐城、草津城、桜尾城、仁保城、宮尾城を攻め落とし毛利氏の支城として厳島(宮島)決戦に備えた厳島(宮島)に向かいますJR宮島口駅から宮島口の桟橋に宮島まではフェリーで10分の距離宮島到着平清盛の像堂海を背にしてはるかかなたの京を向いている清盛は厳島神社を造園し今の海辺に浮かぶ神殿造りを造営しました。島にはたくさんの鹿宮尾城跡に向かいます場所は港の正面の小高い山宮尾城があった丘階段を上って頂上を目指します頂上の様子当時は3方を海に囲まれた要塞だった(現在の港は埋め立て)遠くに厳島神社や五重の塔が確認できます見渡しは良い厳島神社の鳥居は現在工事中満潮になると海の中の鳥居が現れる海にせり出した境内(干潮の為海水はない)宮島の写真スポット桜の時期はカメラマンが殺到します元就の宮島上陸地点に移動島の反対側の「包が浦」元就の上陸記念碑現在は海水浴場として夏場は賑わいます。遠くに見えるのが元就が出発した本土側(廿日市市地御前)地御前火立岩(ほたていわ)から主力の元就が包が浦まで12kmもう一方からは小早川隆景(元就3男)が反対側の大元浦方面から宮尾城に向かった海からと山から挟み討ちにあった大内軍(陶氏)は完全に不意を突かれ総崩れとなった。船を逃げようとした陶氏だが追ってに阻まれ大江浦(宮島内)で切腹し35年の生涯を終えた。勢いに乗った元就は山口の大内晴英を追い詰め自刃させ大内氏は滅亡した元就が宮島に向かった出発地廿日市市地御前火立岩(ほたていわ)跡走っているのは広島電鉄火立岩から見た宮島包が浦は向かって左側の裏続いて向かったのは桜尾城跡今の地名も廿日市市桜尾桜尾城跡 桂公園元就の家臣で桜尾城の主だったのが桂元澄その元澄の子孫である桂太郎は明治時代の総理大臣その縁で桂公園の名が付いている現在は城跡の形跡は全くなく広い公園に整備されています。この桜尾城で元就は陶晴賢の首実験を行ったJR廿日市駅の裏側、桜尾城跡の近くにある 「洞雲寺」この寺院には陶晴賢や桂元澄のお墓があります元就は陶晴賢の石塔を建立し手厚く葬った陶晴賢の首塚
2021.03.29
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毛利元就 毛利隆元 郡山城毛利元就(1497年~1571年)「三本の矢」で知られる戦国大名、安芸の国土領主から山陰、山陽の11カ国を支配する大大名となった元就が生まれた頃は中国地方は周防の大内氏と出雲の尼子氏の2大勢力に挟まれた安芸の国土に過ぎなかった、地盤を固めるために次男に元春を石見の吉川氏、三男の隆景を安芸の小早川氏に養子に出し毛利家本家の長男隆元を吉川、小早川が支える「両川体制」を確立させる。その後大内氏の陶晴賢を「厳島の戦い」を倒し周防と長門も制圧する、1566年には尼子氏も降伏させ中国地方を制圧する。毛利家はもともと関東の出、承久の乱(1221年)後勝利した幕府側に付いていた関東の武士が褒美として安芸(広島)に土地を与えられ、小早川、吉川、武田など関東から移り住んだ。毛利家最盛期の領地、西日本の11か国に及んだ郡山城(毛利元就居城)がある広島の安芸高田市の道の駅「三矢の里」地元農産物の直売所生産者が獲れたての旬野菜を販売店舗への納品も生産者が行いこの日も営業中に何人もの生産者の方が売り場に商品を陳列されていました。干し柿用セット珍しいあけび食堂は広島市内に本社がある広島駅弁当さんの運営こちらのレストランも広島駅弁当さんが担当地元野菜自然派レストランの割にお肉がメインのメニュー内容、せっかくなので元就御膳や三矢御膳など和食の高単価セットがあっても売れるのでは?コロナの影響昼時ですが閑散多加水の滑らかな高級食パンも広島駅弁当さんが運営店名を変えて全国で多店舗展開中週末には今でも列ができるそうです地元の美味しいお好み焼き屋さんプレハブ造り肉玉そば焼き600円こちらのお店は生地の上に焼きそばをのせる先乗せタイプのお好み焼き郡山城の麓にありますお好み屋さんから見た郡山城跡登り口はきれいに整備されています当時の姿を再現した模型戦国時代を代表する山城麓には堀、周りの川も利用して防御を固めた出雲の尼子氏に何度も攻められた毛利元就の墓所もあります墓所の入り口毛利家の墓所もあり元就は次男に生まれたので本来は跡取りではないが長男の興元(元就の兄)が亡くなりその子供の幸松丸も若くして亡くなっために元就が毛利家当主となった。一族の墓百万一心元就が郡山城の拡張工事時に人柱の替わりに使用した石柱に書かれた言葉「国人が力を合わせれば何事もなしえる」の意今も郡山城のどこかにこの石柱が埋まっていると言われています。元就の墓は一段高い場所の設置家紋が入った扉の向こうに墓お墓の中は豪雨の影響か、修理中お墓があった場所から郡山城に続く登山道中腹から見た安芸高田市の街お墓より約20分で本丸まで到着山城なのであまり広くないですが三の丸、二之丸、本丸が確認できます二の丸跡200坪位本丸跡は30坪位の広さ山の頂ではありますが周りに大きな木があるので眺めは良くない本丸から見た二の丸、三の丸崩れていますが今も石垣の一部が残っている毛利隆元(元就長男)の墓所(1523年~1563年)隆元は後継者として期待されたが、若くして不慮の死を遂げた。元就の墓所からは少し離れた所に設置されている幼少期は山口の大内氏に人質として預けられた人質ではあったが大内義隆に厚遇され4年間過ごす毛利の両川体制隆元の死後は息子の輝元(元就の孫)が毛利家の当主となり小早川隆景(輝元の叔父)、吉川元春(輝元の叔父)が輝元を補佐して毛利家の安泰を図った隆元のお墓三本の矢の話(隆元、隆景、元春)の3兄弟は長男の隆元が亡くなっても毛利家繁栄の為に当主である輝元を補佐していく事になります。
2021.03.27
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毛利輝元(毛利元就の孫)が広島城を建てる場所を決めた見立山毛利氏は南北朝時代から広島県安芸高田市にある郡山城を居城とする一領主でしたが、有名な毛利元就の時代に中国地方の大半を支配する戦国大名に成長孫の毛利輝元の時代1590年に現在の広島市の中心太田川の河口三角州に築城しました。①郡山城(安芸高田市)は山城でしたが大坂城など を見学して平野に城を城築②中国地方の中心が安芸の国、その中心が今の広島広島城を中心にした現在の地図(堀に囲まれた所)見立山は牛田駅横の小高い山、ちなみに当時の海岸線は本通駅より南は干潟や海であった牛田小近くの登山道入り口(牛田旭口)マンションの隣にひっそりと山へ続く階段マンション横の山道を抜けていきます少し崩れかけた所もあります、慎重に進みます途中からは長い階段登山になります頂上に出ると開けた景色市内を一望、遠くは宮島や山口県まで眺望が広がります毛利輝元はここから広島城の場所をきめます輝元が立ったであろう巨大な石当時は干潟と海が広がっていた広島城は当時一番広い島(干潟)に城を建てた為、広島と命名されたと言われているここから今も天守閣の一部は確認できます広島城の資料館にある見立山で毛利輝元の一行が場所を探しているイメージ図見立山の由来頂上横には休憩所もあり牛田スポーツセンター側からの登山道は整備された綺麗な道でこちらからなら散歩やウオーキングに丁度良い距離。知らずに反対側から登りました。現在の広島城戦後の建てられた鉄筋コンクリート造広島ではこの広島城をもともとの木造に建て替える計画も進んでおりますが莫大な金額、80億から90億円かかる為慎重な議論を重ねています。
2021.03.21
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