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大廻・小廻 古代山城 663年の白村江の戦い朝鮮半島の百済救済(再興)のために倭国(日本)2万7千人が唐・新羅連合軍との戦いに海を渡った大敗した倭国(日本)は防衛のために九州、西日本(瀬戸内海沿岸)に城を築く。今回は岡山市東区にある「大廻・小廻山城」を訪問岡山県にはその他以前訪問した「鬼ノ城」も見つかっている現在は内陸部であるが当時は主要な幹線道路沿いであり海岸線に近い立地であった事が想像できるなぜ朝鮮半島の百済を救済する必要があったのか?諸説あり①当時朝鮮半島の百済や任那には日本府があり倭人が 支配していたという説 ・倭の前方後円墳が半島東部で見つかっている ・日本書紀、宋書(中国)にも記載がある②唐の倭国進出を阻止する当時は倭国と朝鮮半島の間で自由な往来があった半島から倭国に移住した代表的な事例として弓月君(ゆづきのきみ)の一族である「秦氏」は285年に渡来し移住した政治難民。「秦氏」は土木技術や養蚕など倭国に伝えた一族の一人である「秦河勝」は聖徳太子の側近として国政を支えた。このように倭人が逆に朝鮮半島に移住することも十分に考えられる大廻・小廻山城がある大廻山・小廻山この山城も他の山城同様に整備されていない車がギリギリ通る事が出来る細い道山頂に到着産業廃棄物処理業者の敷地が広がっています小さな看板が一つあるだけ少しの列石と土塁が残るようですが周囲を探したが確認出来なかった古代山城の分類歴史書に記載がある山城は朝鮮式記載がない山城は神籠石系山城わかりにくいカテゴリー分けである大廻・小廻山城は神籠石系山城になるそもそも山城を「さんじょう」と読む古代山城は列石や土塁などで山頂周囲を囲いその中に食料・兵器・兵舎などが建てられたと考えられている人工的な石積みを発見したが現代の物かここも土塁にも見えるが?山頂から瀬戸内海方面を望む古代にはこの辺りまでが海岸線であった岡山のもう一つの山城である「鬼ノ城」以前訪問、こちらの山城は資料館併設山道・土塁・門・水門も再現整備されている瀬戸内海沿岸にはまだ見つかっていない山城がある(文献にある城も含め)この時代朝鮮半島の百済や伽耶国は倭国が支配していたと言う文献も多数ある日本式の古墳(前方後円墳)も数十基確認されている教科書に掲載されていない「本当の歴史」は面白い
2025.03.05
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大島神社広島から岡山へ新幹線で向かう途中三原駅の手前で小高い丘にたくさんの赤い鳥居が見えていて気になっていた車で三原を通ったのでついでに寄ってみた新幹線から見ると京都の伏見稲荷のような風景が少し見える67基の連立鳥居が並んでいる神社令和2年となっているのでまだ新しい写真撮影スポット稲荷神社の総本山は京都の伏見稲荷伏見稲荷は渡来人と言われる秦氏が創建秦氏はユダヤ人でありシルクロードを通り日本に定着したという説「いなり」は「INRI」ではないかという説「INRI」とは「ユダヤの王ナザレのイエス」という意味であり、全国の稲荷神社では「イエス」様が神として祀ってある事になる日本人が神社で祈る「神」とキリスト教やイスラム教の「神」は同一かもしれない三原沖の大島にあった稲荷様と小早川家の守護神である厳島神を合祀し三原城の天守台に奉斎毛利元就は厳島神社(宮島)を信仰した厳島合戦(毛利と大内)以降には社殿造園や寄進を行った、子息である小早川隆景も元就同様に厳島神を信仰した。その後福島公の時代に現在地へ移された小早川・福島・浅野と続いた三原城主三原市内を一望できる三原は「タコ料理」が名物市内にはタコ料理のお店があるが予約ないとなかなか入店できない。この日は三原駅裏にある「来々軒」さんで美味しいラーメンと餃子をいただきました。
2025.03.04
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荒神谷遺跡訪問(こうじんだに)2000年前の弥生時代に造られた銅剣、銅矛、銅鐸が大量に発見された遺跡出雲に続くロマン街道沿いにありますこの街道(農道)を造る過程で発見された出雲大社から車で30分の所大きな資料館入館料300円遺跡は無料で見学できますが見る前に資料館で学習することをおすすめ少額の入場料を徴収しても莫大な赤字が出ている(補助金、助成金で運営)無料開放して地域の人々のふれあいの場や子供の学習の場にすれば良いのでは?(子供は今も無料だが連れてくるのは大人)学芸員の方もお客さんと接する事はほぼない海外の博物館では学芸員も積極的に館内を回りお客さんに接し説明している。このような良い事例は採用すべき事土器の発見によって発掘が行われ大量の銅剣などの出土につながった1984年標高22mの南向きの斜面から358本の銅剣が発見される(発見時写真)一度にこれだけの数が発見されたのは国内初翌年には銅剣出土から7m離れた場所で銅鐸6個、銅矛16本が発掘されたこの組み合わせによる出土も国内初この地域では銅剣などを造る鋳型などが発見できていないことから銅剣や鋳型を多く発掘されている九州から持ち込まれたと考えられている紀元前3世紀頃に現在の中国から銅剣や銅矛などの青銅器の技術が伝わり当初は武器として使われたが弥生時代中期になり鉄剣が伝わってからは青銅器は祭事用に役割が変わった。銅鐸は神を呼ぶカネとして使われたという説資料館には実際に鳴らせる模型がありきれいな音が鳴っていた。家畜用の鈴から祭事用へと巨大化した当時はこのような色であった銅矛長い棒をさして槍のような役割銅鐸には綺麗な模様も確認できるこれまで銅鐸は近畿地方、東海地方で多く出土銅矛は九州北部から四国が多かった。出雲地域にも巨大な勢力を持つ国があったと考えられる出土した銅剣の根元には「X」の刻印解明できていない謎銅矛、銅鐸、銅剣が発見されたが丸い鏡が発見されないのはなぜか?当時の朝廷や卑弥呼との関連は?資料館で学習後に発掘現場に向かいますここが実際の発掘場所左側が銅剣358本、右側が銅鐸と銅矛標高22mの南向き斜面に埋められていた銅鐸6個、銅矛16本昭和60年に発見当時を再現している銅剣358本綺麗に配置されている昭和59年に発見荒神谷遺跡で発掘された青銅器各種は国宝になり現在は出雲大社に併設された出雲歴史博物館に展示されていますこれだけの数があるのだから荒神谷博物館にも数本は実物展示があっても良いのでは?この時代はよく分からない事が多いので想像力が働いて面白い
2025.03.02
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中国電力島根原子力発電所中国電力唯一の原子力発電所である島根発電所2号原子炉が24年12月再始動25年1月からは発電が開始されました。原子力館の駐車場から撮影した2号機(中央)左側の排気筒は建設中の3号機松江市内から車で20分日本海沿いに建設されていますもし事故が起これば県庁所在地も含め県としての機能がストップする場所に建設利権絡みで巨額の金が動いた事は想像できる原子炉建屋への進入路は簡単なチェックのみ民間の警備会社が担当海外であればホテルの警備でもライフル位は重装備で対応する、車の下を鏡でチェックしトランクも開けて確認、最後は異物探査の犬まで登場する。軍事基地と同様に柵やカメラが設置されているが緊張感は感じられない発電所の中央部に資料館がありますここからは1号機2号機発電建屋を間近に見る事が出来る。ちなみにここまでノーチェックで車で進入できる(外部の者が簡単に進入)平日なのでお客さんは数人館内のスタッフは数十人待機これらのコストも電気料金に上乗せされている調べてないが他の先進国と比較して電気料金は高い料金設定になっているがマスコミなどでは報道されない(スポンサーだから)お客さんが誰もいない館内1階には原子力発電の資料展示島根発電所には3つの原子炉があります1号機は廃炉決定で使用していない2号機は現役で24年12月から再稼働中3号機は現在建設中1cmの燃料ペレット(ウラン)これに中性子を加え核反応エネルギーの蒸気でタービンをまわし発電しますペレットを重ねた燃料棒ペレットは関東で造られ島根に運ばれる民間業者により輸送されている(安全性は?)発電用のウランの濃度は3%~5%と低い数年かけて核分裂させて少しずつエネルギーを出し続ける核爆弾用のウラン濃度は100%近くを抽出する必要があり高度な技術が必要原子炉容器は厚さ17cmこれでも事故は起こる核分裂ウラン235に中性子を加え核分裂時の熱で蒸気を発生させタービンをまわし発電する構造的には簡単な仕組みで発電基本的に石炭や石油や天然ガスを加熱し蒸気を出す(火力発電所)核分裂反応の熱を利用する(原子力発電所)原子力発電所は二酸化炭素を出さないが有害な放射性物質を放出するこの図は全ての放射能が漏れていないかになっているが空気や水などに基準値内での放射能は排出されている放射性廃棄物の廃棄が今後の課題火力発電所のように二酸化炭素を出さないので「環境にやさしい」が売りの原子力でしたが福島原発事故後は一度事故が起これば取り返しのつかないほどの環境が壊される事が実証された。放射性廃棄物の処分地は未だに決まっていない最終的には田舎町にお金をばらまき決定するでしょうここまでするとコスト面でも火力発電所が勝ってしまう。明治時代の炭鉱の坑道のようなイメージ人間が近づいてはいけない物質を使っている原子力発電はもはや環境面、コスト面でもメリットはないが、安全保障的なエネルギー対策としては必要になる可能性が高い。原子燃料サイクルがさらに確立されればウランなど原料の安定供給に繫がる日本は食品添加物の摂取が他国より多く他校よりがんや認知症の発生率が高いと言われている近年再生エネルギーが注目太陽、風力、地熱、水力などエネルギーミックスによるリスクの回避が必要海外を旅行すれば分かるが二酸化炭素の排出は止まらないし日本が削減したところで意味がない今回の訪問で一番感じたのは「安全保障」問題原子力発電所の運営や防衛を民間企業が行って良いのか原子炉建屋200mまでノーチェックで近づける攻撃用ロケット砲を積んだ車でも簡単に進入可能原子炉は巨大な観光モニュメントではなく広範囲を絶滅させることができる危険な施設天然資源がない日本において原子力は手放せない現実がある、安全に原子力が運営できる仕組みが必要中国電力の組織図会社概要競合企業なしの独占企業
2025.02.25
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竹島資料館訪問宍道湖のしじみ漁日の出ともに手掘りで漁を行う伝統漁法遠くには雪化粧の大山この対岸には宍道湖温泉宿が並び漁の風景を見ながらの朝食(しじみ汁)は最高松江の名門企業「一畑ホテル」に宿泊県庁の隣、松江城に向かう途中に偶然発見「竹島資料館」現在韓国に不法占拠されている「竹島」日本の住所は島根県隠岐の竹島県の職員さんにより丁寧に資料説明していただきました竹島男島、女島と周辺の岩礁軍からなる総面積0.20平方メートルの竹島は17世紀に日本の領土が確立され、1905年に島根県に編入されました。第二次大戦後の1952年韓国は「李承晩ライン」を一方的に設定し竹島の領有と漁業轄権を主張、その後警備隊員の常駐監視所の設置などを現在も続けている。李承晩ラインの根拠となった「マッカーサーライン」このラインには竹島が日本の領土になっていないマッカーサーは竹島を意識してなかった。北海道ですらロシア(ソ連)とアメリカで半分づつ統治する事も検討されていた、竹島など眼中にない戦後の混乱した日本の隙を見て韓国が盗んだ竹島古代からの資料では日本側も韓国側も島を利用したという文献が発見されているが17世紀に日本の領土として確立されている明治時代の竹島島は大きな岩礁にため真水が出なかったそのため人が定住する事はなく出漁したときの宿泊や漁具を置く小屋が建てられ使用された不法占拠している竹島の現在韓国から大量の観光客が押し寄せる民度の低い国なのでパフォーマンスで現職大統領まで上陸し支持率アップを図るもし竹島が韓国固有の領土だとするなら古代朝鮮半島の伽耶国や百済国は倭国が支配していたので朝鮮半島の南側一帯は現在も日本の領土とし日本に返還しなければならない。(いらないが)改めて隣国の非常識を理解できた資料館であったこのような国とはまともに付き合ってはならない十分な距離を置いての付き合いが必要松江城の近くに資料館があるので是非立ち寄ることをおすすめします
2025.02.24
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高山右近像 高槻城公園高槻城城主であった高山右近のゆかりの地カトリック高槻教会に到着聖堂は高山右近記念聖堂として知られるキリシタン大名ユスト高山右近がその生涯を終えた地マニラの教会を模して設計された。後方にあるドーム型の大聖堂が特徴の教会ですが写真撮ることを忘れた(正面のみ)高山右近像右近は1552年摂津の国(現在の大坂府豊能郡)に生まれ12歳の時父の影響で洗礼を受ける21歳の時父の後を継ぎ高槻城の城主となる右近の領内ではかつてないほどキリスト宗門が活発となり高槻領民25000人に対し17000人がキリシタンとなった。織田信長に仕えた右近であったが本能寺の変で信長が死去すると右近は安土にあったセミナリオを高槻に移し秀吉の大阪城築城に合わせ大坂に教会を建てることにも尽力した信長の死後しばらくは秀吉もキリシタンを保護右近の影響で蒲生氏郷、黒田孝高、牧村政治らが入信、幼児洗礼の小西行長が信仰に目覚めた1587年秀吉による伴天連追放令が出され右近にも棄教を迫ったが右近は「現世においていかなる立場におかれようと キリシタンはやめはしない。霊魂の救済のためには たとえ乞食となり、司祭たちのように追放に処せら れても、なんら悔いはない」このように答えたため領地を没収され追放され、流浪の身となった淡路島、小豆島を経て1588年に加賀藩前田利家の招きにより金沢に至りここでは「南方」と名乗り茶道と宣教に没頭します何の家紋なのか?誰もいなかったので聞くことが出来なかった1612年徳川幕府はキリスト禁教令を発布1614年には右近は国外追放処分となる長崎から小さな船でマニラへ向かい43日後に到着、ルソン総督を始め全マニラは偉大な信仰の勇者を歓迎しました。しかし到着から40日後に熱病にかかり死去1615年2月3日享年63際の生涯を閉じたマニラ市により葬儀が行われイエズス会聖堂に葬られた教会の大聖堂、祭壇の右側には右近の絵、左には日本26聖人のレリーフが飾られている高山右近洗礼名「JUST」は正義の人2016年右近はローマ教皇により福者に列せられた日本で初めて聖人に列せられた26人長崎の西坂で処刑されたキリシタンたち福者と聖人についてカトリック高槻教会からあるいて5分高槻城公園に到着かつて右近が城主となり領民にキリスト教を広めた公園内にある高山右近像彫刻家の西森正昭氏の作品日本4箇所、マニラ1箇所に同じ右近像が設置されている「JNRI」の意味は?作家の西森氏も亡くなっているため分からないという十字剣を両手で押さえているのは平和の象徴キリスト教の祭服なのか凜々しい後ろ姿1972年に西森氏が製作した右近像半世紀以上高槻を見守っている公園内にはいろいろな祈念碑がある「フィリピンマニラ市との姉妹都市提携祈念碑」広島市からは被爆した壁が寄贈されているカトリック高槻教会と高槻城公園の間にある高山右近天主教会堂跡宣教師ルイスフロストによると右近はこの地に教会を設立しキリスト教布教に力をいれた。高槻城三の丸では発掘調査でキリシタンの墓も発見されている。2年前にフィリピンマニラで見た高山右近像から今回の金沢の右近像、高槻の右近像につながった西森氏の高山右近像5作品の内3作品を見ることができた高山右近を起点としてキリスト教の歴史や前田利家などの戦国武将たち、金沢や高槻の街の歴史など知ることができた旅となりました。通史での歴史は全然分からないが、歴史を点で捉えることも面白いとも感じました。
2025.02.12
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金沢市 宇宙研食堂金沢最後の夜は地元で人気のB級グルメ宇宙研食堂さんの豚バラ定食金沢市の繁華街片町の路地裏に「宇宙研食堂」さんお店の中央に鉄板が置かれそこでお肉を焼かれています。いろんな種類のお肉がありましたがまずは一番人気の豚ばら定食800円薄めの豚バラ肉が8枚焼き工程で味付けはされていない2分くらいで焼き上げるので回転も良いこの秘伝のみそタレが旨い複雑な甘みがあり豚バラをさっぱり食べる事ができる翌日は朝一で大坂高槻に移動駅前の「からさき」さんで昼食道路側の入り口から30m歩いた先にある店舗お造り定食1320円コスパ高い内容の定食煮物も5点盛り上品な味付け、しっかりした食感刺身は5点盛りサワラの炙りが美味しい満足な昼食でした高山右近像を目指します
2025.02.09
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金沢の夜「地元のお店で地元の料理を食べる」初日の夜は「大衆割烹喜乃屋」さん突き出しおでん風揚げかぶら寿司700円塩漬けしたかぶに魚を挟み、米麹でつけ込んで発酵させた石川県の伝統料理千枚漬けのような甘み、食感も柔らかい白身魚の差し身種盛り2000円のどくろ炙り、鯛、ヒラメのどくろは生で食べるとねっとり濃厚な味こちらも郷土料理の治部煮900円具は鴨肉、季節野菜、生麩など小麦粉やそば粉を入れてとろみをつけている白えびの天ぷら1000円富山湾でしか獲れない白えび加熱しても赤くならないから白えび通常のエビより味が濃く感じるのは気のせいか?海水温の変化で漁獲高が激減しており価格も高騰カニ面 おでん2500円ズワイガニの甲羅に実を詰めておでんにする寒い金沢ならではの料理金沢市内の居酒屋さんや錦市場などで販売されている2日目の夕食は「地魚 くろ屋」さん入り口には本日満席の看板予約必須のお店能登もずく500円塩蔵処理されていない生もずく食感良くとろみも多い刺身盛り合わせ7種2000円サワラ、ぶりのハラミが濃厚豚バラの梅煮1000円豚バラを炭火で炙り、梅と煮込んだ逸品余計な脂がなくあっさり食べれます白えびのかき揚げ能登野菜と白えびのかき揚げ900円しっかりあげているのでパリパリ食感能登天然ぶりのカマ焼き2000円特大サイズのぶりカマ満腹になりました2店舗ともカウンターに座ったのでお店の方ともお話できて食材の話や料理のレシピなども教わり勉強になった。
2025.02.08
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高山右近像今日は金沢市から電車で富山県高岡市へ移動(約40分)前田家2代目の利長の隠居城である高岡城は右近の設計と言われている現在は高岡城公園となっており彫刻家西森氏の高山右近像も設置されているJR高岡駅から高岡城に向かう途中には日本3大大仏とされている「高岡大仏」高さ16m、800年前に木像の大仏を造営されたのが始まりで今も受け継がれる高岡駅から徒歩10分高岡城跡に到着、後方に右近像が見える城跡地図巨大な城跡、大坂城くらいの面積があるのではないか?城内には動物園(無料)や体育館もある高岡城を設計した高山右近像彫刻家の西森氏が原型を設計右近ゆかりの場所の日本4箇所マニラ1箇所に設置されている高山右近顕彰碑山凜々しい顔つきマントか和装には高山家の「七曜紋」北斗七星を象った紋十字架には「JNRI」と刻まれている「INRI」はナザレの王イエスという意味だがなぜ「J」なのか背面袴のように見えるが、カトリックの祭服のようにも見える台座のプレート原型制作は西森方昭さんキリストの上には鳩マニラで見た右近像と併せて2箇所目残りは3箇所城跡公園内にある博物館高岡の開祖 前田利長公加賀百万石の2代目藩主の前田利長(1562年~1614年)前田利家の長男として生まれ、父利家と共に織田信長豊臣秀吉に仕え戦功をあげた。弟の利常に藩主を譲り隠居城として1609年に高岡城を築いた、城を設計したのが高山右近と言われる利長ゆかりの地高岡城を設計したと言われる高山右近(1552年~1615年)1564年にキリシタンとなる洗礼名「ジュスト」(正義)築城術など南蛮渡来の知識が豊富で、「南坊」と号する茶人としても優れ「利休七哲」の一人に数えられた。高山右近ゆかりの地大名の地位を捨ててでも貫いた信仰2016年にはローマ教皇より「福者」に認定されました。公園内の動物園も散策無料でしたがかなり見応えがある内容一番人気はペンギン本丸広場ウオーキングなど市民の憩いの場公園内には射水神社や護国神社もあります公園内には体育館などもあり家族連れが一日中楽しめるスポットになっている。右近像も近くで見ることが出来て大満足金沢市内に戻ります。
2025.02.07
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高山右近像訪問右近関連の場所を訪問するきっかけとなったフィリピンマニラで見た高山右近像令和6年にフィリピン訪問時ガイドブックで日本人の銅像があることを知り訪問鉄道パコ駅の前にある公園に設置されているパコ駅の様子無人駅で電化もされていない機関車が走っていたパコ駅前公園に到着この辺りの治安はあまり良くない旧日本人居留地であった場所に1978年に建てられた高山右近像禁教令により日本から追放されやって来たマニラ、当時は大歓迎されたようです。マニラ市と高槻市は姉妹都市提携されている剣に書かれているのが「JNRI」なのか「INRI」なのか逆光で読めなかった事も気になっていた。後に同じ作者の作品が日本にもあることを知し機会があれば見てみたいと思いがありました今回広島から金沢の仕事が出来たので金沢市内の右近の史跡と高岡城の右近像金沢から広島に帰る途中に高槻城の右近像に寄るスケジュールを組みました。
2025.02.06
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武人・茶人としても活躍したキリシタン大名 高山右近高山右近は12歳(1564年)の時、父の勧めで受洗し「ジュスト」(正義の人)という洗礼名を受けます。21歳(1573年)に現在の高槻城主となり城下町を整備20を超える教会を建設、高槻住民の7割がキリシタンとなる武人としても有名で明智光秀との山崎の戦い(1582年)では先鋒として活躍1590年の小田原北条市攻めでは前田利家の下で働いた金沢城や高岡城の設計・建築にも関わった名築城家茶の世界では千利休の弟子「利休7哲」の一人とされる1587年豊臣秀吉による伴天連追放令、1613年の徳川幕府によるキリスト禁教令などの弾圧に右近は屈することはなかった。大名の地位を捨ててまで貫いた信仰は当時の教皇シスト5世から右近をたたえた書簡も送られている。追放令後、右近は加賀の前田利家に迎えられ金沢に屋敷を構える、26年間金沢で過ごした後に禁教令が発令されると、国外追放となり長崎経由でフィリピンのマニラに旅立ちます。マニラ到着時には大歓迎された右近でしたが到着してまもなく病気により亡くなります(1615年)今回は金沢市内から右近の史跡を巡ります石川県立歴史博物館からスタート県立美術館の裏手「本多公園」の辺りここは金沢で居を構えた右近の屋敷があった場所右近の屋敷が本多家の屋敷となり現在は美術館になっている。金沢21世紀美術館にも近い場所で兼六園の隣に位置する右近の屋敷跡から徒歩5分「カトリック金沢教会」1888年(明治21年)に創立された100年以上の歴史がある教会。1588年年に右近が金沢に来た300年後に建てられた。教会の入り口横にある高山右近の像片手には聖書と十字架が握られている平成27年(2015年)に没後400年を迎えローマ教皇庁から殉教者として福者となる足下には高山右近の屋敷にあったとされる「南坊石」と呼ばれる戸室石がある茶人の号が「南坊」なので「南坊石」と呼ばれる祭壇の一番右側のストンドグラスには高山右近が描かれている祭壇右側では右近の資料展示コーナーが設置されていますスペイン人宣教師からユスト高山右近に贈られたチョッキ。桃山時代の布に金の糸で洋傘が刺繍されている彫刻家 西森方昭さん作「高山右近」西森さんは右近彫刻の第一人者この彫刻は家庭祭壇用の小型彫刻全国(海外)に設置されている5カ所の右近像も西森さんの作品①高槻城公園(大阪)②マニラ パコ駅前公園(フィリピン)③高岡城公園内(富山)④志賀町高山右近記念公園(石川)⑤カトリック小豆島教会(香川)今回の旅では高槻城公園と高岡城公園の右近像を訪ねる予定です。家庭祭壇用の小型版は販売もされている現在のローマ教皇フランシスコも西森さんの右近像を手に取っている西森方昭さん高山右近像の制作時の写真金沢教会にあるマリア像とキリシタン灯籠灯籠の一番下の部分(キリストが彫られている)が埋まっている続いて金沢城方面に向かいます櫓台他の場所は前年の能登地震で崩落した箇所もあり現在修復中石川門に続く石垣は2層になっている当時の石工職人たちの印意味深な形になっている十字架ににか見えない細工ザビエルが鹿児島に上陸し薩摩藩の家紋を見てキリスト教がすでに日本に入っていると勘違いしたザビエル以前に十字架やキリストの教えが日本に入っていた可能性は高い水門か?朝日に照らされた石川門石川門の近くにある紺屋坂右近滞在時にはこの辺りにキリシタンの南蛮寺(教会)があった。紺屋坂にあった切支丹寺(教会)跡江戸時代に入り禁教令まで存在した石川門と大手門の中間地点古地図に小さく「切支丹屋敷」の表記が確認できる前田利家公の銅像も近くにある金沢城から歩いて5分庭園が美しい「玉泉園」さんへ兼六園より古い歴史を持つ江戸中期の庭園庭を造った脇田直賢は隠れキリシタンであり切支丹灯籠を設置、全体を十字架に見立てた灯籠と下部には合掌をした聖母マリアの像が刻んである仏像と並んで設置するところが見どころ仏像にも隠れキリストがあるのか?確認できなかった金沢城に戻り「大手門」に到着大手門や新丸は右近の設計と言われています石垣の名城とも言われる金沢城この大手門には、1612年幕府によって禁教令が発布されキリシタンや宣教師は国外追放に右近は1614年に金沢を出てマニラに向かいます。その際に金沢のキリシタンが集合した場所がここ「大手門」自分が修築した場所でこの地を去ることになった大手門から歩いて3分豪姫住居跡の黒門前緑地備前岡山の宇喜多秀家に嫁いだ豪姫は利家の子女豪姫は利家の四女で2歳の時に豊臣秀吉の養女となる関ヶ原の戦いで西軍についた秀家は八丈島に流される豪姫は金沢に戻りキリシタンとなる。洗礼名「マリア」八丈島の宇喜多秀家には前田家から生涯にわたり支援が届いたという。金沢城西側にある「伴天連屋敷跡」宣教師の屋敷があった場所右近を頼りキリシタンの内藤如安や浮田休閑などが金沢に集まった、当時のイエスズ会報に金沢は「日本で最も栄えた教会」と書かれている。たくさんの信者がいたと想像できる。尾山神社の神門3連アーチ型で最上部はステンドガラス右近をかくまった前田利家公を祀った神社尾山神社の前にある「西内惣構跡」「総構(そうがまえ)」は城下町を取り囲んだ堀や土を盛り上げて作った土居土などの城の防御施設内惣構は右近によって造られた最後に向かったのは主計町(かずえまち)伝統的建造物群の保存地区でもある主計町明治時代には「ひがし」や「にし」と並ぶ茶屋町として栄えた街主計町の歴史的建造物の裏手にある「西内惣構跡」土を盛った土手と堀で城の防御を高めた内側の惣構は右近によって造られた1日かけて金沢の右近の史跡を巡りましたフィリピンマニラでたまたま高山右近像を見かけたことがきっかけとなり今回の旅となった右近の史跡を巡ることで金沢や前田家の事など様々な歴史も知ることができました主計町まで来たのでこの辺りの和食屋さんで食事して今日の締めとします(雰囲気のある街で)明日は高岡城(右近が設計したお城)に行きます
2025.02.05
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兼六園金沢駅の鼓門からスタート金沢の兼六園は岡山の後楽園、水戸の偕楽園に並ぶ日本3大庭園の一つで江戸時代に造られた代表的な大名庭園歴代藩主たちによって現在の庭園が完成された藩主たちは永久の繁栄を願い庭園に投影した園内の水を排水する水門跡(現在は使用されていない)古代山城(7世紀)の作りと変わらない瓢池ひょうたん型で兼六園発祥の池瓢池の中に作られた翠滝(1774年)歴代藩主によって手を加えられた上段にある池との落差を利用した噴水ことじ灯籠兼六園を代表する景観スポット水面を照らすための灯籠唐崎松琵琶湖の松の名所唐崎から取り寄せた物傘の骨組みは雪に備えてか?遠方の山は雪化粧冬の金沢市内に雪が積もる事も少なくなった庭園の中央に配置された「霞ケ池」内橋亭(うちはしてい)石柱で支えられ水面に浮いているように設計金沢神社加賀藩11代藩主 前田治修が1794年に天満宮を創設1874年に金沢神社に改名された御祭神 菅原道真県立博物館へ向かいます旧日本陸軍の兵器庫を再利用(貴重な建造物)九州を中心に各地で発見される鏡どこにいってもこの展示だが鏡の面も見てみたい鉄の甲冑朝鮮半島からの渡来人によって技術継承された勾玉などの装飾品翡翠で作られた勾玉は日本から朝鮮半島に渡った翡翠は非常に硬く鉄以上の硬度があったこの当時翡翠から勾玉の形にするには小さな物でも最低1年かかった。宝石以上の装飾品日本海側では高句麗との交流があった西日本では唐や新羅、伽耶国との交流日本海側では高句麗との交流があった令和6年11月に訪問した韓国慶州(新羅)の博物館装飾品にはガラスや翡翠の勾玉が日本同様に使われていた勾玉各種(韓国)1つ作るのに1年以上を要した勾玉慶州の博物館でも勾玉は日本から来たと展示されていた。特に翡翠は日本でも新潟周辺でとれた物といわれている加賀藩初代藩主前田利家の像前田家家系図備前岡山の宇喜多秀家に嫁いだ豪姫も利家の子女豪姫は利家の四女で2歳の時に豊臣秀吉の養女となる。洗礼名「マリア」織田信長からの書状前田利家に能登一国(加賀)の支配を任せた朱印状大名行列の模型(参勤交代)徳川幕府への忠誠と莫大な出費をさせ財力も奪われた展示の最後は日露戦争時のロシア人捕虜の写真日本国内数十箇所で捕虜収容所が作られた彼らは捕虜となってもかなり自由に行動できた温泉につかったり夏には海水浴も楽しんだ当時の日本人より立派な食事が捕虜に与えられた日本各地にロシア人捕虜の墓もあり現在も地域の方のボランティアで綺麗に管理されている日本人がロシアで捕虜となった場合はどうなったか真逆の対応されていた事は想像できる劣悪な環境で粗末(粗末以下)な食事と重労働ロシアに日本人兵士の墓はあるのか?いつも感じる事ですが、日本人の感覚は海外では通用しない「日本の常識は世界の非常識」ロシアでの日本人捕虜の食事や待遇などの写真や資料なども展示して両方の対応や歴史を知ることが大事後生に繫がり勉強にもなる
2025.02.03
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能登牛焼肉JADEさん金沢は日本海に面しており海産類が有名ですが、今回は「能登牛」を堪能します中国山地で和牛の元である「蔓牛」を勉強全国各地へ出かけた時はその地の和牛を食べることにしています。金沢駅前のビルの2階JA全農いしかわの直営店能登牛専門焼き肉「JADE金沢」さん能登牛1頭買い様々な部位が選べます年間500頭しか出荷できない貴重な能登牛ランチは2000円から3000円のセットメニュー大変お得平日限定で1000円セットも平日でも大人気で予約必須のお店「能登牛」の定義血統の元は中国山地の蔓牛から?ブランド証明書今は不正が出来ない仕組みになっている昔は偽装があたりまえの牛肉業界であった金沢駅から歩いて5分の立地能登牛3種盛り定食2200円ご飯おかわり無料3種3切の十分な内容赤身にもしっかり刺しが入っている能登牛の牛筋スープ専門店なので部位毎に厚みも調整されている少し焦げ目がつく位の焼き方がベストしっかり余計な脂を落とすご飯とベストマッチングしっかり焼いても肉汁があふれますお値段以上の食事で満足ごちそうさまでした一部のブランド和牛は好調に取引されていますが全国的には現在和牛の取引価格は下落傾向です。物価高で量販店などで購入する肉種が牛から豚、豚から鳥にシフトしている。大多数の和牛農家は餌代や燃料代などすべてのコストが上がり経営を圧迫量販店では高い和牛が売れないので発注を控える需給バランスが崩れている状態今回の焼き肉店は大変繁盛していたやり方次第ではもう一度和牛を盛り上げる事ができるのではないかと感じました。
2025.02.02
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仕事で金沢出張が入りました交通費が支給されるので自費で延泊し観光します久々の金沢でいろいろいきたい場所がありますが今回は1月(冬)なので移動も電車移動が基本で観光スポットを決めました。旅のテーマ「高山右近をめぐる旅」戦国時代のキリシタン大名である「高山右近」は大阪高槻の城主であったが豊臣秀吉にキリスト教の棄教を求められるが拒否し流浪の将となる。その後加賀藩の前田利家に助けられ加賀藩(金沢)で26年間暮らした。(キリシタンとして)金沢には右近の史跡がたくさん残っているので市内を散策する予定広島から金沢へは約4時間の旅広島から新大阪 山陽新幹線新大阪から敦賀 特急サンダーバード敦賀から金沢 北陸新幹線金沢まで4時間昼食を金沢で食べれるように広島を早めに出発のぞみで新大阪まで行きます広島から金沢まで運賃約2万円新大阪で特急サンダーバードに乗り換えサンダーバードがホームに入ります昔はこのサンダーバードで金沢まで行けましたが北陸新幹線が出来たため敦賀で乗り換えが必須になり当面は不便になる(北陸新幹線が京都に接続されるまで)生きてる間は無理そうサントリー山崎工場の横を通過売れすぎて売り場で見ることがないウイスキー明智光秀と豊臣秀吉の「山崎の戦い」もこの辺り敦賀に近づき雪も見えてきた今年は日本海も雪が少ない新幹線から約1時間で敦賀に到着特急サンダーバード名前負けしている見た目北陸新幹線へ乗り換え初めて見る北陸新幹線「つるぎ」流線型で雪や凍りにも強い富山行き「つるぎ」社内は3-2の席並びで他新幹線と同様ヘッドレストなどがついていた広島から4時間かかり金沢へ到着郷土力士たち駅ナカ「100番街」金沢名物カレーその中で一番有名な「ゴーゴーカレー」20年前に街おこしの一環で「金沢カレー」PR盛り上げ知名度を全国区にしたゴーゴーカレーが有名だが金沢市内にはたくさんの美味しいカレー屋さんがあります金沢もう一つの名物「金沢おでん」有名は「黒百合」さん金沢カレーが全国区になったので第2弾として「おでん」を推しているおでんがメインがだ刺身や焼き物なで各種和食が売り物のお店おでん定食880円美味しいおでん具材なのか味付けなのか金沢らしさは感じなかった金沢駅の名物「つづみ門」伝統と創造の街金沢を象徴する門市内観光で出かけます
2025.02.01
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釜山のチャソンデ倭城(釜山子城)倭城とは豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)時に朝鮮半島に建てられた日本式のお城の事を言う釜山中心に朝鮮半島の南側中心に30カ所以上に建設された、現在では一部の石垣が残っている保存状況は良くない当時の倭城の様子15万2000人の兵を出兵した文禄の役加藤清正にいたってはロシアまで進軍開戦から21日で首都である開城(ソウル)を陥落させる大名たちは釜山から首都の開城までの主要道路沿いや海岸沿いにお城を築いた食料や武器の保管や兵士の宿舎機能秀吉を迎え入れるためなどの城訪れたのは朝鮮通信使の資料館の裏山にあるチャソンデ倭城(釜山子城)標高34mの丘に建設された倭城、現在は埋め立てられ住宅街に周囲を囲まれているが当時は海岸線に面したお城であった1592年に築城案内板には毛利輝元によって建てられたとされる毛利輝元は中国地方の大名で豊臣政権の五大老の一人現在丘陵一帯は公園として整備されている江戸時代の朝鮮式建物(城)朝鮮通信使はここで船に乗り換え日本へと渡った琉球(沖縄の城)と同じ作り日本式の石垣(石積み)元々は朝鮮半島の百済から伝わった石積技術この時代には日本の築城技術が進歩し防御力が実践的であり明や朝鮮との戦いで落城する事はなかった天守台または櫓の土台こちらの石垣は低い。おそらく改修された不自然な石積み(元通りの修復をしない)も多い韓国側から見れば負の遺産のためか?本丸へと続く階段本丸があったところは公園として整備年配の方が素足でウオーキングされていた文禄・慶長の役は知っていたが日本の城については初めて知った事ここも朝鮮通信使の資料館を訪問してなかったら分からなかったところ次回は他の倭城も訪ねてみたい
2025.01.05
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釜山 朝鮮通信使 資料館訪問朝鮮通信使とは室町時代から江戸時代の武家政権に対して、朝鮮国王が国書と進物をもたらすために派遣した外交使節団の事一般的には江戸時代に12回派遣された使節団の事ソウルから釜山、対馬経由で日本入り瀬戸内海を通り大阪から陸路で江戸、最終的には家康のお墓がある日光まで向かった。釜山にある朝鮮通信使資料館入場無料の施設、韓国の博物館は無料の施設が多いどこの施設でも家族連れや子供たち(遠足、授業の一環)で賑わっている、日本も参考にして特に子供には無料で解放すべきと思った。(子供の遊びや勉強の場になれば)施設の学芸員も積極的にお客さんに声かけして資料の説明をされていた、日本のようにただただ座っているような事はない、これも見習うべき。江戸期代には12回の使節団が派遣された新しい将軍に代わった時の訪問が多い室町時代に始まった朝鮮との交流目的は「両国の平和と貿易促進」朝鮮が派遣した使節団を「通信使」日本が派遣した使節団を「国王使」豊臣秀吉の朝鮮出兵により一時交流は途絶える秀吉は中国(明)と戦うために朝鮮出兵を決断対馬経由で釜山を攻略、1か月余りでソウルを落とします2回目の「慶長の役」途中で秀吉が死去、遠征は中止となり、戦国大名たちは日本に帰国します当時の朝鮮半島は食料事情も悪く衛生状態も良くないもちろん言葉の壁もあり、戦国大名たちも領土化しようとは考えなかった。徳川幕府になり朝鮮との交流が再開された鎖国の中では唯一の国交がある国であった(オランダ、ポルトガルは貿易のみ)「正使」と「福使」を中心とした使節団は400人から500人の規模「信(よしみ)を通じる」参勤交代のような行列使節団が通過する場所の藩が警護や接待を行った。(莫大な経費がかかった)雨森 芳洲(江戸時代中期の儒学者)中国語、朝鮮語に通じて対馬藩に仕え朝鮮との通好実務に関わった釜山にあった和館(日本人居留地)に滞在朝鮮語を学ぶ、通信使の江戸行にも随行した日本の各地で大歓迎を受けた「正使」が乗船した船山口県(瀬戸内海)を進む通信使の図先導する船や小船(引っ張っている)はこのエリアの藩が担当した陸路移動の様子籠にのっているのが通信使の「正使」雨森 芳洲これが「国書」か?説明文は読めない資料館の隣にある施設使節団の安全を祈願する「海神祭」を行う建物を再建している「海神祭」のお供え物江戸時代(1675年)には釜山に草梁和館も建設される、長崎出島の25倍もの広さであった。昨日行ったチャガルチ市場や国際市場の辺り太平洋戦争終戦までは日本人居留地であった資料館では学芸員の方に親切に案内いただきました「広島から来ました」と伝えると通信使は広島の蒲刈にも寄港しており「日本では蒲刈の食事が一番美味しかった」との記述があると教えていただいた広島県の蒲刈にも通信使の資料館があるので帰国後に訪問する予定
2024.12.30
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釜山旅行5日間の日程で韓国釜山旅行に行ってきました旅の目的①釜山グルメを美味しく食する(外食) カンジャンケジャン、海鮮鍋 豚クッパ、韓定食、参鶏湯など②日本と韓国の歴史を研究する 朝鮮通信使(室町時代~江戸時代) 豊臣秀吉の朝鮮出兵(城跡) 百済・新羅・伽耶・任那と倭国の関係③釜山のスーパーマーケットの市場調査④韓国カジノで一攫千金を狙う ブラックジャック(ロッテホテル)最初に向かったのは国際市場生活必需品からお土産物まで何でも揃う釜山の総合商店街的な場所飲食店の出前を運ぶおばちゃん 韓国版デリバリー3段重ね(3人前)での配達も!釜山タワーもよく見えます未だにブランドのコピー商品が並ぶお国柄屋台街チジミやおでん、トッポギなど庶民の台所BIFF通りの屋台街この辺りは若者に人気の屋台が多い少し海側に移動「チャガルチ市場」海鮮を扱うお店が数百メートル続くこちらでは店頭の海鮮類を購入し奥の店舗で調理・食事できるお店太刀魚や烏賊、鰺などが並ぶ伊勢エビやタラバ蟹のお店もあるが観光客価格このお店で昼食ソンジクッパのお店(牛の血を固めた塊)同じようなお店が並んでいる後でわかったが「ソンジ通り」と呼ばれている屋台街らしい一番賑わっていたお店ソンジクッパ(約600円)焼酎(約400円)かなりの量(器も大きい)気合いを入れて食べ進めるとお店の女性が「おかわりどうぞ」と進められるが大丈夫とお断りするもう少しで食べ終わろうとした時再度店主から「おかわりどうぞ」といわれたので少しだけというと最初の量まで入れられた。周りを観察するとお客さんは料理を半分以上残して席を立っており全部食べるということ=足りないのサインだったようだ良い勉強になったこれも食文化の違いクッパはかなり辛かったが良い出汁が出て、食事や酒のつまみにもなる豚の皮煮もサービスで食べさせていただいた。韓国ではどんな料理でも最低数品のおかずが提供されるが、ほとんど食べないことが多い、残った食材はどうしているのか?そこは疑問をもっては「ダメ」な闇の部分立派なシャインマスカット1房600円日本の半額!!日本の物より糖度は低い東南アジアは盗難アジア日本発祥のシャインマスカットを堂々と販売されている、ベトナム、タイなどでは売れ筋商品日本の技術は日本で守らなければすぐ盗まれるだまっているとそのうち日本が盗んだ事にされる「日本の常識は世界の非常識」国際通りと称している立派な商店街でコピー商品を販売しているような国に正論は通用しない今回は南浦洞の周辺を探索半日あれば十分観光できる場所でした
2024.12.24
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古代山城 大野城663年の「白村江の戦い」朝鮮半島の百済救済(再興)のために倭国(日本)2万7千人が唐・新羅連合軍との戦いに海を渡った大敗した倭国(日本)は防衛のために九州、西日本(瀬戸内海沿岸)に城を築く。大野城は「西の都」であった大宰府を守るお城なぜ朝鮮半島の百済を救済する必要があったのか?諸説あり①当時朝鮮半島の百済や任那には日本府があり倭人が 支配していたという説 ・倭の前方後円墳が半島東部で見つかっている ・日本書紀、宋書(中国)にも記載がある②唐の倭国進出を阻止する当時は倭国と朝鮮半島の間で自由な往来があった半島から倭国に移住した代表的な事例として弓月君(ゆづきのきみ)の一族である「秦氏」は285年に渡来し移住した政治難民。「秦氏」は土木技術や養蚕など倭国に伝えた一族の一人である「秦河勝」は聖徳太子の側近として国政を支えた。このように倭人が逆に朝鮮半島に移住することも十分に考えられる「白村江の戦い」の出兵を決断した中大兄皇子九州、西日本の古代山城唐からの侵略から防衛のために築かれたが唐や新羅の内政問題などあり攻められることはなかった。今も発見されていない山城がいくつもある「西の都大宰府」を囲むように作られた古代山城と水城にみられる土塁水城の土塁は博多湾から内陸部に進む官道の関所としての役割もあった。水城の土塁は大野城までつながっていた古代官道ルートは2つ博多湾から水城の東門、西門に続く官道沿いに建てた水城の土塁の周辺には今でも国道3号線、九州高速道、JR新幹線私鉄など交通の要所。大宰府天満宮方面から大野城山頂を目指す大野城を取り囲む土塁(列石)跡の「百聞石垣」山頂からは博多湾方面など四方を見渡せた今も至る所で城跡を確認することができる道も整備されているので比較的楽に現地まで辿り着ける再現された石垣3mくらいの石垣石垣までは急こう配の土手を登る必要があるこの建設技術も朝鮮半島から伝わったとされる当時から大陸から伝わった技術を取り入れる文化倭国(日本)は現在まで継承されている土塁と石垣を組み合わせた構造水門も確認できる山頂から博多湾方面の眺め曇りのため海までは確認できなかった大宰府天満宮方面の眺め工事中の本殿屋根が確認できる大野城山頂整備されたハイキングコース山頂にある礎石倉庫跡か?これで大宰府と周辺の山城はすべて訪問できた当時の倭国と朝鮮半島の国々や中国(唐)の関係や駆け引きは非常に面白い。おそらく今の政治家ではできないような手段を使い外交を繰り広げた。(参考にできることばかり)韓国の百済や新羅があった地域にも行く予定です。
2024.12.07
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天拝の里 姫蛍大宰府観光に行く前にこちらで昼食日帰り温泉施設が運営する人気のバイキングレストラン二日市温泉のエリアこの辺りは銭湯スタイルの温泉施設が多い大人1人2400円郊外のお店としては価格設定高めバイキングレストラン「姫蛍」こちらの特徴は料理の品数がとにかく多いスイーツコーナーだけでもこの数専門のスタッフさんが待機し取り分けてくれますチョコレートマウンテンホットドリンクコーナー冷たいジュースも種類豊富100%フレッシュジュースもあるこの日は「ハワイアンと地元糸島フェアー」の開催中フェアーの料理は丁寧な説明書きのポップがあり大量に作らないので鮮度の良い料理が常に並ぶ旬のスイカも並ぶ地元野菜のサラダコーナーライブ販売コーナーここでは茹でたて蕎麦薬味のたっぷり用意されるお好み焼きとチキングリルも鉄板でライブ調理された丁度チキンが焼かれていた沖縄のゴーヤチャンプルや博多の筑前煮など自家製豆腐の盛り付けも雰囲気があります茄子を使用した煮物定番の唐揚げは大人気(ハワイ風ぴり辛)旬野菜の天ぷらも嬉しいポイント天つゆ、5種類の塩も用意ゴーヤ天ぷら、エビと枝豆の天ぷらサクサクポテトとアジフライ糸島豚の鍋卵料理ガーリックシュリンプミートボールグラタンパスタ2種自家製クロワッサンはまだ温かい生玉子も今では高価な食べ物ご飯は白ごはん、おかゆ、十六穀米、鶏飯の4種類自家製カレー味噌汁類冷製ポタージュ大きな平台が2か所と奥にはライブキッチン本日の豪華ランチセットおかず皿はもう一皿ありデザートも2皿これだけの種類があるバイキングは珍しく自家製が多く新鮮なところも嬉しいポイント価格以上の価値があるバイキングレストランごちそうさまでした
2024.11.17
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基肄城(きいじょう)古代山城663年「白村江の戦い」で敗れた倭国(日本)唐や新羅からの報復に備え「西の都」大宰府の守りをかためます。基肄城も大宰府防衛のための山城大宰府の守り博多湾の正面には「水城」西側の「大野城」南側の「基肄城」東に「阿志岐城」基肄城は福岡県と佐賀県の県堺に位置する城下の平野部には今も「国道」「九州自動車道」「西鉄」「JR」が通る九州の大動脈(交通の拠点)山頂を取り囲むようにできた古代山城の典型的な形基肄城の南門、水門跡住吉神社山城の歴史を知る巨木と南門古代山城の水門の中でも最大級高さ1.4m、幅1m、長さ9.5mそれだけ流れている谷水の量が多い今も現役の水門少し横には自然の川(谷水)が流れている経年による自然作用や樹木によって土塁や石積部分が大きく崩落し放置されていたが平成22年に保存修理事業が始まり現在に至る修復された側の水門は現在機能していない野積積み方が他の山城と比較しても少し荒い1300年前に使われていた水門古代山城には水の確保のため、ため池や井戸が掘られるが、基肄城には水量が豊富な川で賄った内側から見た水門基山(基肄城)の山頂に向かいます途中で見たヘリコプター(ラジコン)による農薬散布の実験飛行ドローンより便利なのか?古代山城の近くにはお寺や神社が多い基山の山頂は草スキー場頂上までは徒歩20分ですが猛暑の為断念山頂付近からの眺め、山頂からは古代官道(主要道路)や大宰府が一望できる中大兄皇子や中臣鎌足によって起こった日本初の「外国との戦争」が「白村江の戦い」超大国であった「唐」と戦うことを選んだ中大兄皇子国内の政局が関係しているのか?なぞが多い出兵2万人から5万人の兵士が集められ出兵した当時の日本(倭国)では相当の数であったクーデターの形で実権を手に入れた中大兄皇子国内の政局や混乱、不満を外に向けるための出兵か?結果的に「唐」や「新羅」が攻めてくることはなく古代山城も12世紀までに役割を終え使われなくなる中大兄皇子ら当時の政治家たちは超巨大国「唐」や朝鮮半島の「新羅」とも両国間の関係性や内政の状況などを注意深く観察し両国と対等の関係を築いた。現在の政治家にそのようなことができるのか?「お人好し外交」「おもてなし外交」だけで日本は救えない先人から学ぶことは多い。
2024.11.07
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御所ケ谷神籠石 福岡県行橋市行橋市で豚ステーキを堪能御所ケ谷神籠石を目指します場所は北九州に近い瀬戸内海側御所ケ谷岳に築かれた古代山城です九州にある古代山城はこのような丁寧に説明文付きの看板が設置しているところが多い中国地方の古代山城は岡山の「鬼の城」を除きほぼ手付かずの状態で山の中に入れば遭難必須の場所もかなりある国指定史跡「白村江の戦い」以後防衛のために造られた山城列石と土塁で山頂を囲んだ基本的な古代山城構造九州の瀬戸内海側に建てられた山城まだ発見されていない山城も多いと言われている駐車場も完備水門に向かう道もこのようにきれい歩いて5分で中門に到着立派な水門も完備門があったところは石積構造(レンガ積)1300年以上経過した今もこれだけの施設が残る門があった場所に山水が流れているよく見ると水門の段とその上の石積は2段構造になっている水門跡から水は出ていないが水門口の下からは今も少し水が流れている中門があった場所山を囲むように積まれた石積レンガ積のような構造、沖縄のグスクに近い石積技術は中国や朝鮮から入った礎石が並ぶ山頂までの道も整備されている山頂からの眺め平野部に大宰府から伸びる官道が通っていたまた1300年前は海岸線も今より内陸部にあり瀬戸内海も見渡すことができた。古代の海岸線と官道景行神社も山頂に建立柱の跡(礎石)小さな門があったのでは?神社の奥には礎石建物跡倉庫(武器や食料)または兵舎であったか?一番頂上部分なので司令部的な建物の可能性もある。斜面には列石が並ぶ少し移動し「馬立場石積」へ石積の奥は今はない貯水池であった古代山城には必ず貯水池や井戸が見つかっており重要な役割を果たした中門の石積とは違う積み方城内の石積なので野積みのようになったか?貯水池跡25mのプールくらいの大きさ貯水池の石積なのに水門が見つかっていない石積の下にあると予想される(未発掘)列石がところどころに点在明らかに加工された巨石「白村江の戦い」の構図なぜ倭国(日本)は強国に立ち向かったのか?九州の古代山城は「西の都」であった「大宰府」防衛のために造られた「大宰府」の周辺は古代山城で守られた「太宰府」から伸びた古代官道古代山城と中世の山城の違い大宰府を四方から守った「基肄城」(きいじょう)に向かいます
2024.11.04
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豚ステーキ1010さん広島から福岡へ車で移動仕事を兼ねて最近ハマっている古代山城もめぐる旅関門海峡を渡るちなみに関門トンネルを通っても通行料金がかかる(200円ぐらい)行橋市の豚ステーキ1010(じゅうじゅう)さん昼前には満席の人気店まだ新しい店舗座敷もある豚は霧島山麓豚を使用SPF豚とは「特定の病原菌をもっていない豚」3種類の薬味①わさびおろし②黒柚子胡椒③赤辛味噌いろいろな豚部位のステーキシンプルな豚100%ハンバーグご飯はすべて明太子・白・梅じゃこ・高菜から選ぶことができるご飯おかわり100円、大盛無料日田のおばあちゃん手造りの黒柚子胡椒が一番お肉との相性が良かった豚ステーキと豚ハンバーグのセットタレは2種類と3種の薬味豚ステーキは低温調理されているので中心部まで柔らかい食感外側はパリパリ食感が欲しかった牛ハンバーグと比較するとたんぱくな味タレや薬味が必須のハンバーグ一番の売りは低温調理された豚ステーキの柔らか食感は他では味わえないごちそうさまでした行橋市の古代山城に向かいます
2024.11.03
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水城跡(みずき)「西の都」と呼ばれた大宰府政庁は7世紀の後半に始まったと考えられている「白村江の戦い」の戦いで負けた倭国(日本)は内陸部にある大宰府を要塞化し外敵から「西の都」を守った特別史跡「水城跡」水城は大宰府の全面(博多湾方面)に築かれた土塁と堀で城壁として機能した。大宰府への正面入り口の関所としても機能した水城の東門があった場所前方が博多湾方面大宰府から伸びた「古代官道」は現在も主要幹線道路「水城館」土塁の下に造られた資料館現在も一部の土塁跡が残っている大きな木が生えている場所が土塁跡土塁の真上に立っている風景車が通っている道が昔の「古代官道」であり関所になっていた「東門」があった場所土塁の下にある資料館小さいですが貴重な資料が多数展示されている(無料駐車場完備)関所でもあった「東門」今も基礎石が残ってい航空写真からの「水城」城壁となった「土塁」が今も残っている右が博多湾方面、左が大宰府方面今も交通の要所当時の再現図水城は長さ1.2km、幅80m、高さ10m内側と外側には堀が構築された周囲には古代山城も築かれ倭国防衛の最前線であった福岡平野の中で最も狭くなった場所をふさいだ土塁は「版築工法」で作られたこれは当時の中国や朝鮮の技術岡山県総社市にある古代山城の「鬼の城」には「版築工法」で作った土塁が再現されているミルフィーユ状になった地層はコンクリートのように硬い現代でも「高速道路」「国道」「JR九州」「西鉄」が通る九州全域を結ぶ交通の要所1400年前の正確な地図もなかった時代からこの立地の重要性が理解できていた。古代官道の東門ル―トは博多湾まで直線でつなぎ諸外国とつながる古代官道の西門ルートは迎賓施設であった「鴻臚館」につながっている「西の都」大宰府は水城の土塁を始め全方位に古代山城を築き守りを固めた古図「水城」古代官道から関所である水城に向かう絵水城周辺で発見された「鬼瓦」大宰府周辺でよく発掘される今回の旅では大宰府周辺の古代山城を中心に回った大宰府を中心にした「古代官道」「古代官道」沿いにできた古代の山城九州全域で「大宰府」を守った「白村江の戦い」倭国(日本)は守りを固めたが唐や新羅が攻めてくることはなかった大野城(古代山城)の山頂から見た大宰府方面曇りだったのでカメラでがはっきり見えないが肉眼では遠方まで確認できる昔し福岡に住んでいたが「水城」の地名や駅名は知っていたがこのような歴史があるとは知らなかったたまたま訪問した山口県の「古代山城」でしたがそこから各地の古代山城を巡る中でいろんな歴史を学ぶことができました。
2024.11.02
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大宰府政庁跡7世紀後半から12世紀、大宰府は行政機関として九州を統括し、西に都として役割を果たした日本の外交と防衛の最前線、貿易の窓口として機能した。建物は残っていないが、礎石を見ることができる大宰府天満宮は観光客でにぎわっているが拠点である政庁跡に来る観光客はほぼいない案内板はわかりやすく説明日本は平城京の時代国としての体制が整ったばかりの日本大国「唐」との親交を深め唐の政治や経済など国造りを学び取り入れた。海外からの疫病対策の検疫機能もあったのでは古代山城や土塁で4方面から大宰府を守った山城も大陸の技術によって築かれた大宰府の花「梅」南門の復元図1300年前の建造物とは思えないほど巨大中華風の建物、沖縄の首里城にも似ているサッカー場3個分ぐらいの敷地建物もなく芝生なので子供連に人気のお遊びスポット日本遺産記念碑の後方には大野城(山城)かつて建物があった場所には礎石が残っている山城が築かれた大野城西の都「大宰府」を背後から守った大野城山頂から大宰府方面の眺め古代の官道は大宰府を中心に広がった官道沿いに建てられた古代山城大宰府を守る防衛基地山城には兵士の宿舎、食料の備蓄倉庫などが見つかっている「白村江の戦い」に負けた倭国(日本)古代山城は「唐」や「新羅」からの防衛の為に造られたとされる日本初の対外戦争(日中戦争)国力の差は明らかだったのになぜ戦ったか?西の都「大宰府」は「小水城」「大野城」「基肄城」「阿志岐城」の4つの山城と堀と土塁で守られた「水城」により守りを固めた博多湾に上陸後に大宰府に向かうルートは2つ必ず「水城」の「東門」か「西門」をけ通らなければ大宰府に入れなかった水城に向かいます
2024.10.29
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鹿児島市内の仕事を終えて車で広島まで帰ります、途中どこかで1泊し翌日帰宅の予定高速道路のパーキング桜島が綺麗に見えました売店に向かい歩いているとタイルの飾りここにも「島津の家紋」考えすぎか?熊本空港近辺まで帰ったところで夕食時間郷土料理の馬肉に挑戦馬肉専門店「はしもと」さんホルモン煮込み定食を注文サラダ付きホルモン煮込み定食1780円やはり牛肉と比較すると獣臭が強い馬刺しくらいが一番食べやすいかな九州を北上し福岡まで帰ってきたので久留米のネットカフェで宿泊鍵付き個室2990円朝食のトースト付きここはシャワー室に無料のバスタオルも完備国道3号線を通るのにこのお店はスルーできない30年前から頻繁に通っていたラーメン屋さん「丸幸ラーメンセンター」ラーメンの価格も30年前とほとんど変わっていない当時満腹ラーメンは650円、100円しか値上がりしてない優良飲食店店内も昔とほぼ変わっていないこれも30年前のままラーメン540円九州の豚骨ラーメンの中では「泡系」と呼ばれるスープに小さな泡がたくさん浮いているあっさりした味わいも昔と変わらず九州のラーメン屋さんは麺の量も多い近くの九州歴史資料館へこの日は展示品の入れ替えで外観しか見れなかった大宰府式鬼瓦奈良時代大宰府政庁を飾っていた鬼瓦近くの水城跡でも発見されている大宰府政庁跡に向かいます
2024.10.28
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シルクインホテル鹿児島鹿児島の定宿ホテル1、鹿児島中央駅から徒歩圏内2、天然かけ流し温泉完備3、料理がおいしい (奄美料理を食べることができる)通常のビジネスタイプホテルバスルームは新しい段差もない夕食セットのプランで宿泊「奄美の鶏飯御前セット」刺身、きびなご南蛮漬け、豚角煮メインは鶏飯の豪華版鶏飯は奄美のおもてなし料理刺身にもきびなご翌朝の散歩「甲突川」周辺 薩摩藩の家紋十字架にしか見えない1549年に鹿児島に上陸したフランシスコ・ザビエルもこの家紋を見て驚いたという「自分より早くにキリスト教が伝わっていたのか?」遠くに見えるのがシンボル「桜島」多くの人がジョギングや散歩中この辺り「加治屋町」は明治の偉人を多く輩出した街西郷隆盛の生家跡大久保利通東郷平八郎大山巌山本権兵衛黒田清隆皆この町内に住んでいた(生まれた)明治時代の政治や軍隊の中心は薩長によって支配された。沖縄戦の司令官「牛島満」大将散歩後のホテル朝食自社産ドラゴンフルーツのアイスキューブ出ている量は少ないが種類は豊富ポテトサラダ、肉じゃがは自家製郷土料理の「さつま揚げ」黒糖使用の少し甘め「黒豚メンチカツ」や「きびなご一夜干し」奄美の郷土料理「鶏飯」昨晩たべたので朝は遠慮する旬のフルーツが並ぶ出始めの柿や梨もある本日の朝食セット普段食べない「生卵かけご飯」は絶品旬の果物とヨーグルトお美味しく頂きました
2024.10.27
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鹿児島神宮参拝霧島神宮の参拝を終えて鹿児島神宮に向かいます神秘的な霧島神宮の参道瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)の天孫降臨神話は高天原があった鹿島(関東)から海を渡り鹿児島の「天降川」に到着したという説「鹿島」の「児」だから「鹿児島」になったとされる説鹿児島神宮の御祭神は「山幸彦」(ホオリノミコト)瓊瓊杵尊の子で孫は初代天皇の「神武天皇」鹿児島神宮の大鳥居は赤い「明神鳥居」天照大御神系の神社の鳥居は神明鳥居なぜか?霧島神宮も明神鳥居はなぜか?境内に近い駐車場にあったのは「神明鳥居」同じ神社で2種類が存在、なぜか?奉納木馬御祭神は「山幸彦」(ホオリノミコト)大隅国の一之宮歴史を感じる本殿に続く参道参道の先に本殿が見えるまっすぐ先でなく参道右手側神社の地図で確認するも参道の正面に本殿はない伊勢神宮や鹿島神宮も参道正面に本殿はない(向きが違う)なぜか?鹿児島神宮の本殿は南向き参道は東から西に延びている関係があるのか?巨石竜宮の亀石「山幸彦」は海の女神「豊玉姫」と結ばれる浦島太郎の竜宮伝説の原型となった神話案内版「鹿児島」の地名由来籠(かご)地元ではこちらの説が有力拝殿巫女さんが舞っています神社巡りは日本人のルーツを探す旅でもある日本中にこれだけある神社の意味をもっと深堀する必要があると感じた。本日の宿がある鹿児島市内に向かいます
2024.10.26
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霧島神宮参拝熊本県人吉市から鹿児島県霧島まで移動霧島温泉郷はそこら中から温泉の湯気と硫黄のにおい薩摩藩の西郷隆盛らに招かれ坂本龍馬夫婦は新婚旅行に訪れた霧島神宮の大鳥居は赤い明神鳥居天照大神系は神明鳥居ではなかったか?本殿に向かいますここも赤い明神鳥居日本の国家にもなった「さざれ石」神秘的な参道丁度雨があがったタイミング御祭神は瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)天照大神の孫にあたる瓊瓊杵尊が「高天原」から九州の「高千穂」に降臨し地上世界の統治者となる「天孫降臨神話」の舞台となった場所背後に高千穂峰の麓に建立された霧島神宮の拝殿雨だったので珍しく参拝客は少ない皇室とのかかわりが深い「菊門」立派な本殿隣の神楽殿境内から見た霧島温泉郷方面霊峰高千穂峰古事記および日本書紀に瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)が「筑紫日向の高千穂の久土流多気に天降ります」「日向の襲の高千穂に天降ります」と記されている霊峰が霧島神宮の背後に聳える高千穂峰ちょっと待った!!!宮崎にある高千穂がこれまで自分が思っていた天孫降臨の地旅行会社や旅行雑誌にも「天孫降臨」神話の舞台になったとして宮崎県高千穂町の企画旅行が必ずあるつまり九州には天孫降臨神話の地が2つある宮崎の高千穂には近くに「天岩戸神社」があり鹿児島の高千穂峰の麓には「霧島神宮」がある両者の距離およそ100km離れているどちらが本物か?高千穂の解釈は様々もう一つの新説関東にあった「高天原」から海を使って鹿児島に入った霧島神宮の麓の川「天降川」から高千穂峰に入ったとする説これは現実的な説で面白い。関東の「鹿島」から来たので「鹿島」の「児」と書いて「鹿児島」になったという説地名や川の名前は何かを意味することがある瓊瓊杵尊の子「山幸彦」は「鹿児島神宮」の御祭神鹿児島神宮に向かいます
2024.10.25
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人吉市内 西南戦争戦跡巡り熊本市内から人吉市を目指します高速道路でなく一般道を使い球磨川沿いに進みます。途中10か所以上の復旧工事令和2年の水害が原因大規模な修復工事が至る所で行われている4年経過しても復旧出来ない自然災害このような工事個所が多数あり工事の土砂も大量に保管道の駅 さかもと館に寄道朝早くまだお客さんはいない仮説の復興商店街でした飲食店、お土産屋さんなどこの地域の拠点崩れた鉄橋仮説の橋を通って球磨川を渡る球磨川の氾濫は住民にとっても恐怖今も災害以前の生活に戻れていないのでは?熊本市内から2時間かけて人吉市に到着観光複合施設「HASSENBA」飲食店や物産、川下りなどができる西南戦争の戦跡を巡ります西南戦争1877年(明治10年)1月29日から9月24日熊本県、宮崎県、大分県、鹿児島県において西郷隆盛を盟主として起こった士族による武力反乱。日本最後の内戦でもある。球磨川を挟んで官軍(政府軍)と薩摩郡(西郷軍)が戦った戦場この西南戦争の最大の悲劇官軍(政府軍)の中心メンバーは鹿児島出身で西郷の部下であった人たち実弟である西郷従道も官軍として戦った人吉城の石垣薩摩軍の陣地として使われたこの球磨川を挟み大砲や銃を使い戦った手前が官軍、対岸が薩摩(西郷)軍人吉城の高台から対岸を見下ろす(薩摩軍陣地)防御されている城であったが、官軍の最新式兵器や全国からの援軍により薩摩軍が敗れ鹿児島方面へ撤退する人吉城の石垣古代山城と同じ造りの水門今も水が流れている少し残っている城の内堀城内にある護国神社拝殿歴代の藩主も祀られているこの辺りが西郷軍の陣地の中心であった大手門北側の多門櫓と長塀が復元されている弾痕の社が残る老神神社老神神社拝殿の奥にある建物丸い銃弾の穴がいくつも確認できるくっきり残る銃跡1877年6月1日午前の戦闘の跡永国寺の前にある観光マップ西郷隆盛が本営を置いた「永国寺」曹洞宗のお寺約1か月間西郷軍の本営として機能したその間西郷隆盛は直接指揮は執らず滞在中は釣りや狩りなどに時間を費やしたらしい人吉2番隊士の墓「西郷本営跡碑」本堂朝8時から17時まで無料で拝観できる西南戦争の時にお寺は焼失したがその際も焼失を逃れた「幽霊の掛け軸」その横には立派な「西郷隆盛の書」「幽霊の掛け軸」お寺の裏にある池に現れたという官軍の砲弾西郷軍の大砲は旧式だったので官軍側まで届いていなかった。特徴のある字南洲の号も入っているお寺の池、幽霊が現れたという温泉旅館もたくさんあり次回は1泊予定で訪問した街でした。霧島神宮に向かいます
2024.10.24
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きじや きじ料理熊本市内から人吉市に移動人吉では西南戦争の戦跡を訪ねる予定昼時で食事処を探していると珍しいきじ料理のお店を発見、人吉市内から車で15分民家のない山間部のお店きじ料理専門店「きじや」さん清流の川沿いにお店があります風格のある入り口客席はすべて川沿いの個室でしたしかもこの日は1人で貸し切り状態一番眺めの良いテーブルを確保景色は抜群川の流れる音まではっきり聞こえる距離冬は堀りこたつになる、昔ながらのストーブ単品もあるようだが「山水料理の2200円コース」をオーダーご飯はキジ飯か雑炊が選べる当然雑炊をチョイス美味しそうな球磨焼酎もあったが運転なので次回のお楽しみお茶も旅館スタイル「山水料理コース2200円」想像よりかなり豪華な内容きじ鍋の後に雑炊ではなく最初から別に雑炊が用意される前菜きじの煮凝り栗の甘露煮緑は忘れたきじ刺し(タタキ)赤身はもも肉白身はささみきじ肉は初めてだったが鶏より旨みが濃厚臭みなどいっさいないきじ入りだご汁すっぽん鍋のような上品な出汁出汁まで全部いただいたそんな上品な出汁の雑炊鉄板の旨さ梅干しや高菜漬けまで自家製この豪華内容でこの美味しさ東京など都市部で出すと10000円で提供しても繁盛するのではごちそうさまでした帰る途中お店から100mのところ川の対岸にきじ小屋を発見自社で生産したきじを処理し近くにきじ専門店として鮮度のよいきじ肉をお客さんに提供している。生産から消費までがここで完結する素晴らしいサイクルのお店です
2024.10.23
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熊本 鞠智城(きくち)古代山城の中で最も南に位置する熊本の鞠智城地図の通り進むと資料館を中心に立派な公園として整備されていました。岡山の鬼の城にはこじんまりした資料館があったがここまで立派ではなかった。隣には食事処とお土産販売している大きな別棟もあった。この地域には有力な政治家がいたのか?入館すると鞠智城の案内DVDの上映に案内されました高台にある鞠智城では見張り台や倉庫や兵舎などがたくさん建設された形跡があるその幾つかは再建されている鼠や害虫から食べ物を守るねずみ返しお城自体も外部からの接触を防ぎ疫病の蔓延を防止した。検疫機能もあったそうだ中国(唐)や朝鮮(新羅)などに対する防御再建される前の柱の跡いくつもの兵舎があった「白村江の戦い」百済の救済に向かった倭国(日本) は唐、新羅連合との戦いに敗れる。 西日本防御の為築かれた古代山城西の都「大宰府」と「平城京」を守るため九州(大宰府)周辺と瀬戸内海に築かれた最も南に位置する鞠智城対馬にある金田城来年に訪問する予定朝鮮半島と九州の中間にある島日本を守る最初の拠点となった山頂の周りを土塁で固め山頂の平面に各種施設を作る水の確保(ため池)も大きな役割を果たす何層にも固まった土塁生活用水だけでなくいくつもの役割があった池この池からは様々な物も発見されている貯木場としての役割百済の菩薩像も池から発掘なぜ池からみつかったのか?朝鮮式山城は歴史の舞台から消え戦国時代のお城は古代山城の影響を受けていない何故か?百済からの渡来人は日本に定着したはずだが何か問題があって技術の継承がされていないのか?白村江の戦いまでの動き一番南に建設された鞠智城鞠智城より南は未開の地だったか?鞠智城の歴史鞠智城には多くの兵士が暮らした遺構がある兵士の食事質素な食事現在も必要な防人中国やロシア、韓国、北朝鮮に対し国防の防人が圧倒的に少ない池から発見された木札渡来人とされている秦氏の名前聖徳太子の元京都太秦で活躍した秦氏再建された八角形の建物「鼓楼」この建物は最上階の3階に置いた太鼓で城内に合図したり見張りの役目を果たしました中国や朝鮮半島の影響を受けた八角形八方位を宇宙の象徴とする道教の宇宙観もあるといわれている鼓楼高さ15,8m幅8,2m米倉校倉造りの高床式米など穀物を管理した高床式で風通しよい鼠返し広大な敷地にはいろんな遺構跡柿の木手入れされていないので小さな実がたくさん城内からの眺め遠方まで見渡せる城跡までは綺麗な舗装された道が引かれる熊本市内のホテルに向かいます
2024.10.22
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法華クラブ 熊本 朝食バイキングビジネスホテルの中で断トツに朝食の評価が高い法華倶楽部さんに宿泊大浴場も完備1泊朝食付き6700円熊本市内の繁華街から少し離れた場所標準タイプのシングルルーム少し広めだったりソファー付きだとアルモントホテルになる(同グループのグレードアップ版)清潔感のあるバスルーム部屋との段差が少ないのも評価ポイントお楽しみの朝食バイキング・清潔感がある(台や器やトングなど)・盛り付けなど彩がきれい・品名ポップも丁寧かつ綺麗に表示こまめに補充されるので常に綺麗な状態をキープ暖かさを保つ容器で提供カリカリのベーコンがあれば最高だがだし巻き卵は自家製カレーは熊本名物の馬肉入り浅利入りの茶碗蒸しご当地名物が入っているのが特徴広島の法華クラブでは牡蠣が入っていた丁度良いサイズの盛り付け麻婆豆腐は熊本名物か?中華鍋の盛り付けが雰囲気出しているしっかり下味がついた唐揚げ郷土料理コーナー太平燕(タイピーエン)豚骨スープに春雨、豚肉、うずら卵、白菜などが入ったスープ色々たべたいのでこれぐらいの量がよいフライドガーリック入りの熊本ラーメンしっかりチャーシューまで入っている梅干しなど漬物の規格ランクでレストランのレベルが図れるもちろん良い梅干しが使用されているちくわサラダ天が名物初めて知りました「絶対うまいやつ」それぞれの食材に合わした形や模様の器食材の説明ポップ、ここまで出来るところは少ない昔からの名物「からしレンコン」阿蘇のお米釜の形の保温器少し小さめの保温器でこまめに補充しご飯がつぶれないように配慮これもなかなかできない事手作り出来立て豆腐高野豆腐も普段食べることがなくなった味噌汁の鍋も雰囲気出している南関揚げは熊本名物で美味しいフレッシュフルーツは1種類なりやら賞を受賞したプリン選りすぐり朝食セットが完成おかず皿1おかず皿2デザートは自家製プリンすべて美味しく頂きました
2024.10.21
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咸宜園(かんぎえん) 大分日田市朝に福岡を出発して寄道しながら昼過ぎに日田に到着、昼ごはんから日田巡りスタート日田名物は「鰻」や「焼きそば」「ちゃんぽん」以前「想夫恋さん」(焼きそば)には行ったことがあるので、この日はちゃんぽんにしました寶屋さんの「日田ちゃんぽん」店内は満員、昭和の雰囲気も良い日田ちゃんぽん大980円和食屋さんのスープは魚介系のあっさりした味わいもやしの量が半端ない太目の丸麺美味しくいただきました目的地でもある史跡の咸宜園(かんぎえん)に到着見学無料、駐車場有見学するには受付が必要とあり管理棟を訪ねると年配の男性が読書中「見学しても良いですか?」と聞くと「自由に見ても良い、質問があれば聞きに来い」との事感じが悪かったので聞きたかった幾つかの質問は教育センター棟の女性に色々と質問しました。こちらでは丁寧に答えていただき感謝です咸宜園廣瀬淡窓(ひろたたんそう)が江戸時代の1782年に日田で開いた私塾。これまでは藩が藩校を開き藩士の教育は行なわれていた、江戸後期には庶民に対しての教育施設が多く生まれ咸宜園はその私塾の中でも早く開校され規模も大きかった。咸宜(かんぎ)とは「ことごとくよろしい」の意味江戸末期の建物が2棟残っている秋風庵1781年に伯父月化が建てた居宅淡窓など歴代塾主も利用した中も自由に見学できる淡窓の教育の特徴は、入門時に学歴・年齢身分を問わない「三奪法」に始まった。5000人を超える門下生を育てた大村益次郎や上野彦馬なども卒業生江戸時代末期の咸宜園廣瀬淡窓の肖像画24歳の時には初めての塾を開いている漢詩人としても有名頼山陽や菅茶山とともに江戸時代後期の三大詩人と呼ばれる2階にも部屋が2つある立派な造り入門には推薦状が必要淡窓は儒学者であったが特定の思想に偏らず色々な学説を尊重し教えました。当時の時間割表、朝早くから始まる昔のトイレ日本遺産に登録された4施設弘道館(藩校)・閑谷学校(郷学)は訪問済私塾で言えば吉田松陰の「松下村塾」の方が有名だと思うこのことを管理センターの女性スタッフに尋ねると「松下村塾」は確かに有名な私塾だが学問教育以上に思想(尊王攘夷など)教育が強いので該当しないと明確な返答江戸時代の日田は幕府直轄の天領地九州地方の中心的な役割を果たした咸宜園の教育の特徴「月旦評」月旦評とは熟成すべての名前が書かれた成績表十九等級まであり等級には上下の別があり昇級には試験に合格する必要があった月旦評(成績表)相撲の番付表のように下位になれば名前も小さい現在の小中学校にも必要ではないか「ゆとり教育」の弊害外国人労働者が200万人も日本に入っている現状「ゆとり教育」を受けた若い日本人と外国人労働者が競争になった時に「ゆとり教育」が勝てる分けがない外国人労働者は祖国で待っている家族の為不平も言わず一生懸命働いている。権利(教育されている)を主張する若い人は多いが義務(教育されてない)を果たす人は少ない管理センターの資料卒業生や先生の書咸宜園の訪問で足利学校を残すのみ日田を中心として伸びる街道私塾なので当然授業料も必要であった 年間100万円(現在の貨幣価値で換算)当時のことなのである程度裕福でなければ入学できなかったが、江戸時代末期には寺子屋など教育施設が充実したことで庶民でも読み書きや算術ができ礼儀やマナーを身に着けた、これは明治維新以降いち早い近代化の原動力となった。城下町日田豆田町の街並(歴史的景観地区)うだつが上がった街並み観光客は多い日田城の石垣熊本の鞠智城に向かいます
2024.10.20
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小鹿田焼きの里(おんた)福岡県太宰府市から車で2時間日田の小鹿田焼きの里に到着途中の道通行困難の道を通ってしまった数年前の豪雨災害の影響か数か所で土砂崩れの修復工事が行われていた放置されたままの崩落現場かなり怖い道路、誰も通行してなかった小鹿田焼きの里は小じんまりしたのどかな集落煙突の煙は焼成中の登り窯この地区には9軒の焼き工房がある写真はそのうちの1軒で坂本庸一窯小鹿田(おんた)焼きは16世紀に渡来した朝鮮人陶工によって筑前(福岡)に伝わった技術江戸時代中期にこの地でも陶芸が始まった。昔ながらの伝統的な製造工程が今も守られている小鹿田焼き陶芸館(無料)歴史年表江戸中期に始まった小鹿田焼きは普段使いの陶器として庶民に長く愛された。昭和に入り世界的に有名な陶芸家バーナード・リーチ氏が来訪、彼が書いた書物により「小鹿田焼き」は全国的に有名になる。昭和45年には文化庁により「無形文化財」に平成7年には「重要無形文化財」に指定された朝鮮半島から伝わった技術九州にはたくさんの窯元がある佐賀の方にあるのは知っていたが「一子相伝」の技普段使いの陶芸品だからできることそれでも後継者不足で窯元は減っていようです世界的に有名な陶芸家バーナード・リーチ氏らによって「小鹿田焼き」は有名になるバーナード・リーチ氏の作品伝統的な手法で制作されているこちらもバーナード・リーチ氏の作品一番気に入った作品平成7年「重要無形文化財」に指定される今も残る9軒の窯元作品には自分の名前は付けずに「小鹿田焼き」として出荷する飛び鉋(かんな)や打ち刷毛目などが小鹿田焼きの特徴打ち刷毛目の模様打ち刷毛目製法の完成品飛び鉋製法完成品原料となる土は水力を利用した唐臼で粉砕する各窯元にこの施設がある登り窯各窯元は年間3回から5回焼成する55時間夜通し炊き続ける白化化粧と装飾を施した作品を天日で乾燥させる窯元それぞれに直売所も併設一子相伝、親子で作業中小さな子供もいらっしゃったので孫世代までは確定(許可はいただきました)こちらは成型後の乾燥(装飾の前段階)かなり大きめのお皿で3000円刷毛目製法が使われているどこの焼き物か一目でわかる小鹿田焼き飛び鉋製法のおお皿3000円次の週に小鹿田焼きの陶芸祭が開催されるので販売用のお皿は種類も数もほとんどなかった機会があれば焼き物祭りで買い物したい日田市内には数店舗「小鹿田焼き」を扱っているお店があるのでそちらで購入もおすすめ店主がセレクトした品が数多く販売されている日田市内の咸宜園に向かいます
2024.10.19
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道の駅 原鶴バサロ はちみつの藤井日田に向かう途中はちみつ祭の幟に釣られて入場した「藤井養蜂」さん年に一度の「はちみつ祭」盛り上がっています一番人気は輪投げ1回300円景品には巨大なはちみつも100人以上が並んでいた残念賞のはちみつはミャンマー産直売所では国産のはちみつを販売季節により九州から北海道まで蜜を求めて移動する敷地内にもはちみつ籠が置かれているはちみつカレーの販売ハウスのカレールーにも蜂蜜が入っているとCMで流れているカレーとの相性がよいのでは関係ないがメイプルシロップは蜂蜜から出来ていると信じていた友人を思い出した日田に向けて移動途中でひまわり畑と道の駅を発見道の駅バサロ「バサロ」とはこの地方の方言で「たくさん」を意味する「ばっさろ」から名付けられている農産物直売所この辺りは柿の産地(富有柿系)パック売りや箱売りなどコーナー化農産物だけでなく加工食品にも力を入れていた野菜(素材)を売るのではなく加工品(即食)にし付加価値を加え高単価で販売する何十年も前から理想とされていた販売方法だが最近ようやく各地で展開されるようになった生産者の個人名が入った商品均一化ではない独自化の時代にせっかくの美味しそうな商品なのに商品ラベルで中身が見えない鶏めしにぎり3個300円簡素なフードパックに入れる方が美味しそうで田舎の雰囲気もでる色合いや季節感もある「栗おこわ」これもフードパック包装錦糸卵で見えないが具沢山のちらし寿司最近よく見かける細長いいなり寿司少し高め彩も工夫されている商品栗一つ入れるだけで季節感も訴求大量販売されていた「さつまいも天」沖縄風ドーナツの一口版友人の家で食べた「一口サイズの塩むすび」を思い出した。形を変えるだけで食感が変わり味わいまで変化する和菓子コーナーどれもずっしり重い粒あんおはぎ6個520円寄り道だらけで日田の到着時間がだいぶ遅れた急いで日田の小鹿田焼き(おんた)の里に向かいます
2024.10.18
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阿志岐城跡(古代山城)怡土城、雷山城を巡り本日の宿泊先である大宰府の国道3号線まで来ました。本日はじめてインターネットカフェで宿泊福岡地区のホテルは高騰中、曜日によっては1泊2万から3万円(ビジネスホテル)ネットカフェの鍵付き個室に宿泊1泊2990円(12時間)シャワー付き、ドリンク付き、駐車場付き安いビジネスホテルより快適でした日田に向かう途中に通りかかった「阿志岐城」古代山城予定にはなかったが見てしまったので山頂に向かいます地図を見ながら第一水門跡を目指します福岡県の農林組合試験場で行き止まりここから水門までは近いので歩いて進もうとしましたが、この辺りは猪の罠が仕掛けてあるので入山しないようにと注意書きがあり断念大宰府方面(大野城)から見た阿志岐城(山)阿志岐城も大宰府(西の都)を守るために築城されたと考えられている大宰府を守るための城と考えられている大野城や水城などと同じく東側の要塞として機能したのでは阿志岐城の水門写真(ネットより)列石の上に土塁が築かれた(ネットより)日田方面に向かいます
2024.10.17
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雷山城(らいざん)神籠石福岡県糸島にある雷山城(古代山城)怡土城と同様に中国(唐)や朝鮮半島からの侵攻に備えたお城築城年については不明、おそらく怡土城が768年なのでその前後と推測される目的は玄界灘と博多湾の見張りと大宰府から伸びる官道の守備並びに武器や食料の貯蔵する城として機能した日暮れが近づく中急いで雷山に向かいます正面の高い山が雷山雷山の頂上付近まで登ったところで「前面通行止め」の看板とバリケードもう少しで水門にたどり着ける距離急いで引き返し別のルートを探す途中に通過した「千如寺 大悲王院」庭園がきれいなのか大勢の参拝客にぎわっていた別ルートから車で山を登るも途中から歩きの登山道しかなく日没の時間なので今回は断念伊都国歴史博物館の雷山資料コーナー神籠石とは文献などに記載のない古代山城のこと雷山は標高も高く周辺の広範囲を見通すことができる南北に2つある水門と周囲を囲む列石で構成山頂のため池は昭和時代に灌漑用として造られた池ですがもともとは平たんな地形を掘った池山頂にはいろいろな施設があったと考えられている神籠石はもともと神を守るための霊域という意味であったが今では山城として使われている1300年前に建てられた北水門は今も水門として機能している北水門から伸びる列石は22度の角度で統一列石は折構造で囲まれる自然石も利用されている九州や瀬戸内海沿岸に建築された古代山城は「白村江の戦い」で倭国(日本)が敗れた後防御のために各地に建築された古代山城の分布図文献に載っている朝鮮式山城の方が少ない現在も新しい山城が発見されている「白村江の戦い」で唐・新羅軍に敗れた倭国唐や新羅に攻め込まれないように防御を固めた特に西の都「大宰府」を守るため周辺にたくさんの城を築いたとされる。白村江の戦いの戦いで援護した百済の高官や技術者の指導で築かれた山城。実際に戦いは実現しなかったため築城時期や目的についての多くは分かっていない。百済から逃れてきた高官や技術者のその後についてもはっきりわかっていない。現在も日本の各地に高麗や百済などの地名が残っており渡来した人たちが定住した可能性が高い大宰府から伸びる古代官道(道路)沿いに城が造られた北九州や熊本にまで造られた雷山は高い山で見通しが良い玄界灘を見張っていたのでは?古代山城は食料を保つ倉庫の役割が大きい不作や戦争時の食料保管地震や台風、水害、火災時の対策外国からの疫病対策(隔離)など西の都「大宰府」倭国の外交や貿易など拠点となった次は熊本の鞠智城(きくち)に向かいます
2024.10.16
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怡土(いと)城跡古代山城の怡土城に向かいます現在の福岡県糸島にあり玄界灘を見渡せる立地怡土城と近くにある歴史資料館雷山城を回るコース歴史的背景645年「中大兄皇子」(なかのおおえのおうじ)「中臣鎌足」(なかとみのかまたり)によって「蘇我入鹿」(そがのいるか)を暗殺し蘇我氏を滅亡、「皇極天皇」に代わり「孝徳天皇」が即位し発足した「倭」(わ:現在の日本)の国では中大兄皇子を中心とした「大化の改新」が推し進められた。白村江(はくそんこう)の戦い 663年倭国発の対外戦争が勃発「唐」と「新羅」連合軍によって滅ぼされた「百済」救済のため倭国が出兵。朝鮮半島の「白村江」で唐・新羅連合と戦ったが敗北中大兄皇子の肖像画戦争に負けた倭国は唐や新羅による侵略の危機にされされた。中大兄皇子は国の防御を固める方針を打ち出します。朝鮮半島や大陸と向かい会っている博多湾を中心とした沿岸の城を築き、「防人」を配置、24時間体制せ唐の侵攻に備えた。「大宰府」を守るため大野城を始め官道沿いに防御の城を築いた。九州を中心に瀬戸内海沿岸にも都を守る城が築かれた高祖山この山の麓に怡土城が築かれた大門口があった場所古代の歴史書「続日本記」には768年吉備真備らによって築城される。白村江の戦から100年以上後に築城される常に中国大陸や朝鮮半島からの侵略に備え防御を固めていった大門口にある看板空から見た怡土城土塁の跡が確認できる大鳥居口に移動道の左右に土塁が確認できる築城の専任官を務めたのは「吉備真備」秦氏(渡来人)とも関連が深い岡山県吉備の出身。中国への留学経験も長くのちに中央政府の高官となる。1から5まで望楼跡があり高台から玄界灘を監視する任務があった「続日本記」の一文吉備真備によって築城されたことが書かれている平野部に沿っては土塁で防御玄界灘方面には5か所の見張り台怡土城から車で5分伊都国歴史博物館特別展示会は吉備国と伊都国の関係渡来人により農耕文化が広がり縄文時代から弥生時代に入る伊都国(いとこく)は3世紀時代の国魏志倭人伝に記載が確認できる伊都~怡土~糸島へと地名が変化魏志倭人伝と伊都国の表記弥生時代から本格的な対外貿易が始まり伊都国が拠点となり栄えました。朝鮮半島を通して中国との貿易も行われた中国大陸から輸入された物木製の鎧(弥生時代)怡土城の資料も展示されている高祖山と平野部山の麓に怡土城が築かれた唐に留学した経験を持つ吉備真備が指揮広大な中国式山城を築く版築工法による土塁が周囲を囲む何層にも人力で土を積み重ねた自然の川を利用した堀も確認できる入口の門は2か所今も道路として機能している大鳥居のあった場所にある礎石柱を立てる土台怡土城の一番重要な機能は朝鮮半島から玄界灘を渡ってくる敵の見張り5か所に見張り台(望楼)を設置し監視今も残る望楼の礎石このような見張り台であった鬼瓦が出土大宰府を守っていた証拠(大宰府でも多く出土されている)倭国の西の拠点「大宰府」大宰府を中心に防御の城が各地に造られた吉備真備(岡山)によって築城される中国式山城大宰府から各地に敷かれた官道を守る施設でもあった弥生時代以降大陸から伝わった技術により製塩や製鉄が発展した地域鍛冶や木簡(木の板に書かれた文字)も広がる怡土城の役割は玄海縄の監視と海岸線で戦闘になった時の後方支援が目的(武器や食料など備蓄)次は雷山城跡に向かいます
2024.10.15
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鹿児島で仕事があるため九州入り今回の旅①九州グルメ②古代山城巡り③ホテル朝食バイキング④日田の咸宜園⑤日田の小鹿田焼き⑥鹿児島神社福岡県、大分県、熊本県、鹿児島県へと車で巡る旅の予定関門海峡大橋潮の流れが速い事が橋の上からも想像できるまずはお腹を満たします博多長浜地区の長浜ラーメン写真はガイドブックにも掲載されてる有名店自分が行くお店はもう一軒の長浜家さん30年前このコンビニの場所には有名な元祖長浜屋さんがあった場所当時1杯300円替え玉50円の時代長浜ラーメンといえばここだった大人気店であったが閉店されその後元祖を名乗るお店がこの近くに2軒出店されるもう1軒の元祖ラーメン長浜家さんいつもこちらに食べに行きますこちらは昔通っていた元祖ラーメンの味を忠実に再現されていますメニューはラーメンのみ麺の硬さとスープの濃さを選びます麺固めのラーメン500円30年前から変わらぬ盛り付け、香り細目の麺麺の量も他の地域より多め200gはある無料のねぎトッピングてんこ盛り替え玉100円追加の醤油だしと紅生姜を加える本日もおいしく頂きました600円で満腹コスパ良しの店長浜地区には水産市場がありお客さんも市場関係者であった、忙しく時間がないお客さんの為に麺が細くなり茹で時間を短縮しラーメンの提供を早くした歴史がある糸島のい古代山城に向かいます
2024.10.13
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うまんちゅ市場 JAファーマーズ糸満沖縄最後の観光は空港近くのJAファーマーズ「うまんちゅ市場」さん沖縄訪問時には必ず立ち寄る市場空調の効いた広い店内獲れたての新鮮野菜や果物が並びます最近流行りのカラフル綿菓子少しの工夫で子供や若者に人気の高級お菓子に変身アイスクリームバナナ通常の物より濃厚な味わい小さいサイズですが1本100円こちらはまだ青いバナナシークワーサー1袋250円レモン替わりナーベラー(へちま)炒め物など沖縄では欠かせない野菜高級果物「たんかん」沖縄の弁当ご飯の上にもおかずトッピングチャンプルと人参しりしり入り独特の世界感がある沖縄弁当ゴーヤととんかつ弁当日本全国で398円の弁当を見かけなくなった物価が確実に上がっている沖縄版チジミ熱々の出来立て豆腐500g以上入っている商品直ぐに完売する人気商品いなり寿司揚げの色が薄い食べきりサイズのタコライスまったく白ごはんが見えない生落花生30分位茹でて食べると絶品島らっきょ450円浅漬けや天ぷら商材野菜として定着している青パパイヤ千切りにして炒め物やサラダに使用地元のゴーヤも安くない隣の水産館へ移動外にテーブルと椅子があり買った商品を食べる事ができる。観光客に人気1皿600~1000円美味しそうですが良い値段2000円の刺し身パック10店舗ぐらいが並び昼時には大盛況こちらのお店のメイン商材は沖縄に関係ないロシア産タラバカニとインド洋産シータイガー(大海老)お客さんのほとんどが中国、韓国からの観光客沖縄産など関係ない、お店側も単価の高い商品を販売外国人観光客の一番人気ロシア産タラバカニ国際通りの公設市場もそうですが外国人のお客さんは昔の日本のバブル状態高い物から購入される赤まち1尾5000円の高級魚店外のテーブル席で買った物を食べる事ができる8割ぐらいは海外のお客さんが占める毎年来ている市場ですが最近の傾向は①価格上昇が止まらない②外国人観光客が激増円安も影響していると思われるが沖縄の中でも観光客の賑わう中心部と地方では経済格差が生まれていると感じた。特に沖縄は最低賃金も全国最下位の県米軍基地の問題もある中でサービス業、観光業以外の基幹産業の誘致が急がれる
2024.10.06
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今回沖縄訪問の最大の目的であった旧陸軍病院の南風原壕第20号沖縄陸軍病院は昭和19年5月に熊本で第32軍の陸軍病院として編成された6月より那覇で活動開始したが10月10日米軍の空襲により病院施設が消失那覇より南風原の小学校に施設を移しながら第32軍野戦築城隊の指導の元で南風原の丘陵地帯に約30の横穴壕が造られた昭和20年3月に陸軍病院は各壕に移った軍医、看護婦、衛生兵ら350人那覇市から南下したところにある南風原読谷村から上陸した米軍によって那覇から南風原そして摩文仁海岸(ひめゆりの塔)など南方へ追い詰められていく黄金森の丘陵地帯30もの壕が掘られた現在は20号のみ一般公開されている見学にはガイドの付き添いが必要で事前予約が必要です(南風原文化センター)当日は野球場横の駐車場に停めて20号受付に行きました駐車場から20号壕の入り口受付へ向かう周りは野球場や陸上競技場など朝から賑わっています、丘陵1周ジョギングやウォーキングする方も多かった木材に手書きの看板が少し不気味受付けこちらでガイドの方と合流して一帯を案内していただけます最初に案内されたのは「飯あげの道」壕の中には炊事場も水源もなかったので遠くの炊事場まで取りに行き食事を運んだ主にひめゆり学徒隊の仕事であった今も当時のまま道が残っているかなりの急こう配で道も狭いこのような2人1組で食料を運んだ米軍の砲弾や銃撃などの中命懸けの仕事であったひめゆり学徒隊沖縄師範学校女子部、県立第一高等学校の女生徒222人と教師18人が3月24日より看護補助要員として法的根拠もない中で動員される。(彼女たちは15歳から19歳)ひめゆりの由来県立第一高等学校の広報誌が「乙姫」沖縄師範学校女子部の広報誌が「白百合」この2つを合わせて「姫百合」(ひめゆり)この2校は同じ敷地内にあり校長先生も同じで実質同じ学校に近かった、生徒たちは卒業後学校の先生になる人が多かったロープがないと中々登れない位の坂道階段になっているのは下りの道当時は階段などなかった仏の前旧暦9月9日の菊の節句で健康を祈願しお祝い行事や家族の無病息災を祈る拝所飯あげの道沿いにありますカブトムシなど昆虫採集器大きなオオクワガタが入っていました途中にあった19号壕現在は崩落して中に入る事はできない慰霊会によって建てられた石碑当時の悲惨な状況を詠まれた鎮魂の鐘合掌し黙祷近くには24号壕の跡米軍の砲弾の欠片一つ一つがずっしりと重いこのような固まりが体に直撃する事を考えると恐ろしいちなみに今現在も沖縄では不発弾が多数発見され年間200発ぐらい処理されている先日宮崎空港でも米軍の不発弾が爆発した戦後80年経っても恐怖は続いている20号壕の入り口2重の扉になっており厳重に内部は保護されている20号壕の役割患者の病室、手術室、勤務者室として使用朝鮮半島出身の方によって書かれたとされる文字(現在は崩落している)南部に撤退する時に埋められた薬品類持って行けなかったのか後続部隊や再度戻った時の為か?当時壕を掘る時に使用したツルハシ全て人力で堀り進めた実際の豪内部に入ります内部は照明施設がなく懐中電灯の光のみ壕に残された支柱米軍の火炎放射器により黒く炭化している縦横2mに掘られた壕の片方には木製の2段ベッドが置かれ負傷者が収容された南風原文化センターの資料壕の内部、奥には手術台が見える他の壕と繋ぐ横穴は崩落し通ることができない当初は内科、外科、感染症科があったが外傷者が多発全て外科となる。医薬品も不足し感染症対策の為、患部の切断手術は麻酔なしで行われる悲惨な状況であったツルハシで掘った跡が残る黒くなっているのは火炎放射の跡5月下旬に司令部は南部撤退を決める動くことの出来ない重症患者には青酸カリ入りのミルクを飲まされる人や、手りゅう弾や青酸カリが配られ自決の強要が行われた崩落の危険がある箇所には補強の鉄筋比較的軽傷の兵士は南部に撤退後も戦闘を継続ひめゆり学徒隊も南部の自然壕に配属されます地下水により壁や天井の一部は鍾乳石化6月18日各壕に「ひめゆり学徒隊」に衝撃の命令が出されます「解散命令」です病院自体が機能していないので各自の判断で行動せよという事でした解散命令を受けて壕を脱出した生徒たちは「鉄の暴風」と呼ばれる雨のような砲弾の中昼間はソテツやアダンの茂みに隠れ、攻撃が弱まる夜間になると南の摩文仁海岸へと向かいました。負傷した学友を助けて歩く生徒や傷ついた体を引きずりながら逃げる生徒、重症でその場に倒れる生徒生徒たちはアメリカ兵に捕まる事を最も恐れ手りゅう弾で自決する生徒もいました沖縄で実質的な集団的戦闘が終了したのは6月23日最終的に「ひめゆり学徒隊」は生徒、教師240人のうち136名が亡くなりました。解散命令がでた6月18日から1週間の内に最も犠牲者を出している(約80%がこの間で亡くなる)見学ツアーは約30分暑い中一生懸命説明されたガイドさんに感謝当時の壕の中の匂いを再現した物臭うことができる風が強かった為嫌な臭いは感じなかった周辺はバナナやさとうきびの栽培も盛んガイドさんの話によれば首里城の地下にある陸軍司令部壕跡も今後整備され一般公開されるようです以前訪問した那覇空港近くの海軍司令部壕は綺麗に整備され多くの観光客が訪問されている未だに沖縄本土の20%はアメリカ軍の施設があり占領状態が戦後続いている。お隣の中国からは琉球王国の復活を煽られたり国会議員にハニートラップや賄賂で親中議員を増やすなど今も沖縄は各国に翻弄されている現状リゾート地として人気の沖縄ですがこのような歴史を知る事も大事と感じた旅となりました。
2024.10.05
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沖縄 ステーキ88 玉家そば沖縄ドライブ1周の夜はステーキ88さんステーキのチェーン店ステーキを注文するとスープ、サラダ、ご飯は食べ放題ステーキソースやニンニクなどステーキ肉の味付は薄いので自分で調整できる1000円からステーキを食べる事ができご飯類も食べ放題なので家族連れや若い人で店内は常に満席(写真は2000円)翌朝は玉家そば笑顔のシーサーがお出迎えソーキそば、三枚肉そば、ミックスそば、テビチそばから選ぶソーキ肉は年々値上げ傾向、加工すると三枚肉と価格は変わらないレストランではなく食堂の感じの店内ミックスそば大900円中太平打ち麺とあっさり魚介とんこつスープ讃岐うどんのように毎日食べれるあっさり味ツルツル食感でコシもある麺ご飯には油みそ付き最近は本土から全国チェーンのうどん屋さんや豚骨ラーメン屋さんが進出され昔ながらの食堂やそば屋さんが激減している御馳走さまでした。
2024.10.04
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沖縄本島ドライブ那覇市内からレンタカーを借りて辺戸岬まで本島1周ドライブへ名護から北へは初めての訪問高速を使って40分で名護に到着古宇利島を横目に辺戸岬を目指します途中さとうきび畑を見つけて寄道ハイビスカスの花いつ来ても咲いているシーズンはないのか?カラフルな草?パパイヤの木本土では越冬できないが沖縄では路地栽培が可能この2~3年我が家でも育てているが実が付かない冬の時期は鉢に植え替えて室内で観葉植物として鎮座農産物直売所パイナップル、パパイヤ、バナナ、シークワーサーなど近隣で収穫した鮮度良い農作物が並ぶ大きなパイナップル1本400円那覇市内の3分の1価格7月から9月が旬島バナナこれぐらいの状態が一番美味しいそして半額なのでたいへんお買い得島らっきょも那覇市内の半値沖縄のお墓家のような立派な造り家族が集まりお参りし皆で食事などもする場所最近は管理できる家族がいないので墓終いも多い那覇出発から3時間辺戸岬に到着辺戸岬は最北端にあり昔から「始まりの場所」とされる実際に地層を調べてもたの地域より古いことが証明されている晴れた日には鹿児島の与論島まで見渡せる波の浸食によって岩が削られ小さな象鼻に辺戸岳と言われる神聖な山「安須森(あすむい)」後方の山には巨大なヤンバルクイナ展望台沖縄の食堂「パーラー」単品専門の喫茶店のようなお店本土から全国チェーンの飲食店が押し寄せてこのような食堂が沖縄から消えつつある東村方面から帰りますヤンバルクイナの生息域地元の人によれば毎日見かける人もいる巣穴から行動範囲が決まっているため大体同じ場所で目撃される道路の両サイドにはヤンバルクイナが道路にでないようにネットを張っています。つまりこの辺りには巣がいくつもあると言うこと宇良関の幟がいくつも有彼は大阪生まれですが父親がこの辺りの出身東村経由で万座毛まで帰ってきました初めての訪問万座毛の由来逆光の為うまく撮れない反対側の写真この辺りはリゾートホテルエリア夕暮れになったので残波岬に寄道曇りの為少し残念は夕日残波岬近くの座喜味城(グスク)へ沖縄にも数多くのお城が点在する日本式というより中国や朝鮮半島の石積技術でできたお城アーチ状の城門が特徴的高台に造ってあるので四方を見渡せる暗くなったので那覇に戻り夕食です
2024.10.03
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名護 伊佐川食堂 Aコープこの日は朝から沖縄本島最北「辺戸岬」を目指してドライブ名護にあるAコープモーレ店でお買い物アップルバナナは通常バナナより濃厚で甘いのが特徴1本100円かなりの高級品青バナナは野菜として食べる黒い斑点がでるまで待つと果物として甘いバナナとして食す立派なパイナップル1本800円7月から9月がパイナップルの旬和え物や酢の物になる沖縄の野菜沖縄の強い風に負けない夏野菜熱々の出来立て豆腐これ以上の鮮度はないこの販売方法は全国で通用する豚肉の加工品(レトルト)自分で調理するより安い豚のホルモン汁祝い事など必須品オキコパンの名品「うず巻きパン」どこかと提携しているのか?ぐしけんパンの定番商品沖縄の定番商品沖縄果汁の飲料アサヒと農協の地元商品ヒラヤーチー(沖縄のチジミ)丸めた商品造りはアイデア品沖縄のお弁当はご飯の上にもおかずトッピングが基本揚げたてサーターアンダギー自家製惣菜の売り場フードパックでの販売が雰囲気を出している沖縄のお供え物「御三味」(うさんみ)先祖の墓や仏壇へお供えする重箱料理「天・地・海」の食材を使った惣菜紅白かまぼこ、魚の天ぷら、三枚肉など9品が入るジューシーのおかゆ版よもぎ味そばチャンプルー通常の焼きそばは見当たらないおにぎりはジューシー一択個食のおむすびはない昼食はAコープ内にある伊佐川食堂さん地元民の為の定食屋さん自分以外は全て地元のお客さんでした壁にはメニュー写真いっぱい有りすぎて選べないおすすめが有れば分かりやすいセルフで麦茶やアイスティーまで揃っているAランチ900円沖縄の定食屋さんにはABCのランチが必ずあるどれもボリュームたっぷりご飯も300gはある本ソーキそば730円骨付ソーキ肉魚介出汁と豚骨のダブル出汁あっさりとした味わいごちそうさまでした辺戸岬を目指します
2024.10.02
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沖縄料理のお店 抱瓶ホテルから歩いて10分久茂地地区(居酒屋通り)にある居酒屋さん食べログ評価も高い人気店泡盛ボトルキープと湯割りセット飲み切ったのでキープならず海鮮サラダ海ぶどうトッピングで豪華に見えるソーメンチャンプルお酒の肴になる逸品赤まちのあら煮あっさりたんぱくな魚豚足の唐揚げ締めは揚げたてのサーターアンダギー揚げたてはいつもとは食感が違うのであまり甘味を感じない地元の人が通う沖縄料理のお店ごちそうさまでした
2024.10.01
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沖縄料理 ぱいかじ本店米軍のオスプレイが低空で飛行する那覇市内騒音だけでなく振動にも悩まされている沖縄県民未だに沖縄本島面積の2割が米軍基地に占領されている沖縄の空域も米軍の支配下に置かれる米軍基地の周りに広がる沖縄の住宅街米本土の基地周辺には安全の為住宅街は造成されない命まで軽く見られている日本国民この日の夕食は「ぱいかじ本店」さん沖縄料理のお店かわいいシーサーがお出迎え乾杯はオリオンビール沖縄近海魚の刺し身盛り合わせ海ぶどう島らっきょの塩漬けオールシーズンの食べ物になったもずくの天ぷらスパムを入れてアクセント島らっきょの天ぷらシークワーサーとパインサワーゴーヤ天ひらやーち(沖縄風お好み焼き)チジミの様な食感各テーブルで沖縄民謡のサービス2曲歌って頂きました豚軟骨の炙り焼きスパムカツアイデア商品大人気そーめんチャンプルこんなに美味しいのに本土であまり見た事がない紫いもアイスで締め地元の人も通う沖縄料理のお店この日も満席でしたごちそうさまでした
2024.09.30
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沖縄県立博物館台風の為仕事の前日入りした沖縄ホテルの横にある博物館へ向かいます沖縄のお城(グスク)をイメージした建物入口前に設置された沖縄の古民家と倉庫高倉穀物を貯蔵する倉庫床を上げて換気と鼠避けの機能沖縄の伝統的な古民家石塀とヒンブンが沖縄的な造り台風が多い沖縄で風対策や魔除け的な意味もある石敢當(いしがんとう)中国から伝わった魔除け今でも道路のT路地や三差路に設置されているヒンプン外から家に中が見えないようにする壁魔除け的な意味もある風避けにもなる今ではあまり見かけない厚みが違う石塀台風対策野鳥も南国風家の中から撮ったヒンプン屋根の上にはシーサー(獅子)「災難えお防ぎ悪霊を家に入れない」沖縄の魔除け那覇近辺ではこのような伝統的な木造住宅はほぼ見かけることがない、個人宅でも鉄筋コンクリート造りが基本(台風対策)博物館入口入場料600円縄文時代の沖縄人(琉球人)暮らしぶりは本州と同じだったという日本、中国、琉球の時代背景沖縄のお城(グスク)12世紀ごろから15世紀ごろまで続く日本の平安時代から室町時代の頃石で積み上げた城壁が特徴的アーチ状の門と日本の城と同様二の丸、三の丸の様な造り首里城正殿の鐘(1458年造)15世紀には朝鮮半島、中国や遠くはフィリピンやマレーシアまで交易が広がる今と違いかねり危険な航海であった沈没船が各地で発見されている朝貢制度(ちょうこう)中国の周辺国の君主が中国皇帝に臣下として入朝し貢納品を納めるとこ貢納品を納めると皇帝から何倍もの恩賜の品をもらうことができた琉球から中国に贈った貢納品は馬や硫黄貢納品を送る為の「進貢船」明(中国)からの冊封使明の皇帝が臣下である琉球王に爵位を与えられた冊封使行列図新しい国王認定の為に中国から琉球に渡った冊封使琉球から首里城までは600人からの大行列であった各自役割中国からの正使、副使が乗った籠まさに大名行列薩摩藩の島津義久書状「琉球渡航朱印状」島津の許可がないと琉球に行くことが出来なかった1609年3000人の薩摩軍が侵攻し首里城を制圧以後薩摩藩に年貢を納めるなど従属的な関係になる。中国と薩摩の板ハサミ状態が長く続く沖縄最高の聖地「斎場御嶽」(せーふぁうたき)琉球王国の最高神女「聞得大君」(きこえおおきみ)の即位式が行われた場所琉球王国には厳格な身分制度があった役人の地位によって材質や色、形が違う砂糖は沖縄を代表する農作物、17世紀に生産が始まり琉球王国では財政再建の為砂糖の「専売制」が導入される現在でも沖縄各地で砂糖きびの栽培が続いている中国の製造技術を取り入れた「マーラン船」マーラン船で運ばれた商品琉球時代、フランスやイギリスがらキリスト教を伝える宣教師が来航したが本格的な布教には至らなかった琉球語に訳された聖書1945年4月沖縄に米軍が侵攻逃げる住民たち縄文時代から現代まで沖縄の歴史が学べた博物館でした
2024.09.29
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(株)サンエー 創業 1950年1月5日売上 2275億円店舗 71店舗(スーパー) 8店舗(外食)社員数 1706人子会社 (株)ローソン沖縄沖縄の小売業№1のサンエーさんおもろまちにある店舗で買い物隣にある県立博物館は城(グスク)をイメージしてるらしいが少し違和感を感じる建物那覇メインプレイスというモール核テナントとしてサンエーさんが入っている季節終盤のぶどう類日本全国シャインマスカットを販売カットフルーツの品揃えは少ないバナナやパイナップル、パパイヤなど沖縄で生産できる果物も多いヘチマ(なーべらー)は炒め物沖縄の伝統食材青パパイヤ千切りにしてサラダや炒め物ゴーヤチャンプルその他色々な料理の彩やアクセントキノココーナー充実した品揃え大きなマッシュルームは洋食としての食材か?もやしコーナー500gや1kg入りもやしの品揃えあり青パパイヤの千切り少し太目なので炒め用人参しりしりも沖縄必須食材真空パックのカット野菜保存日付が伸びるのか?沖縄そばコーナー圧巻の品揃え沖縄でも地域によって麺の太さ形が違う1人前200gの大容量ファミリーパック(1kg)を下段で展開地域毎の沖縄そばの品揃え日本そばの品揃えはないうどんも1アイテムの品揃えそばスープも大容量ジーマーミ豆腐(ピーナッツ)つまみにもなる逸品少し硬めの島とうふ1パック全て100円以上の価格つまり50円前後で販売されている豆腐は普通の原料や製造がされていないという事出来立てあつあつ豆腐沖縄のスーパーではどこもこの販売方法を導入されているこんにゃくのサイズも大きい煮物だけでなく炒め物の必須食材上段の商品は群馬など本州のこんにゃくメーカー最近自宅でも多用している海鮮サラダ刺し身を醤油で食べるより味もよく分かり野菜も獲れ健康的レタスやサニーレタス、水菜サラダ等のトッピングに海鮮を使用する沖縄の刺し身盛り付けが独特で面白いかんぱちは安い大根別盛りはアイデア商品沖縄の近海で獲れたきはだマグロこちらも沖縄定番刺し身のとんぼマグロトラウトサーモン沖縄近海の生かつお豚加工品「泣き声以外は全て食す」が沖縄流豚足や豚軟骨など他地域では見かけない軟骨ソーキは沖縄そばの具材やおつまみにしても美味しい中味汁(豚ホルモン汁)は祝い事で食される伝統食生の豚バラ軟骨5時間ぐらい煮込むとトロトロ食感和牛とは書いてないので国産牛か交雑種石垣島など和牛の生産が盛ん輸入はニュージーランドからタイ産の鳥もも肉g68円ミニサイズのハンバーグを大量陳列レトルト食品も安く種類も多い常温なのでお土産品として重宝する北海道産昆布中国との貿易商材として沖縄にも食文化が広まったかつお節も充実の品揃え炒め物に多用するシーチキン箱売りが基本スパムコーナー安い物で250円から沖縄ぜんざい、サーターアンダギーこんにゃく加工品アイデア商品沖縄中で販売されていたケーキ美味しかったがやはり沖縄に行ったらジミーのケーキは必食すべき沖縄の定番菓子パン「ゼブラパン」なかよしパンも人気惣菜コーナーで最も沖縄らしかったゴーヤチャンプルー丼サンピン茶(ジャスミンティー)やタンカンジュース沖縄限定商品のドリンクが並ぶ沖縄土産コーナーも充実しており毎回こちらのお店でお土産買います
2024.09.27
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アルモントホテル沖縄おもろまち 朝食バイキング今回で3度目の利用、出張で利用するアルモントホテルさんこちらのホテルは法華倶楽部系列の上質バージョンとして運営されていますホテルポイント①朝食は郷土料理中心で品揃え豊富②大浴場完備(準温泉)③部屋にはソファー完備 トイレシャワー室との段差もない④スタッフの方の接客が良い翌朝の朝食会場6時30分からオープン明るく清潔感ある会場ご飯物と汁物コーナー陳列方法や盛り付けも器も綺麗日替わりの郷土料理この日はあぐー豚入りメンチカツ入口正面にも沖縄料理が並ぶゆし豆腐の麻婆豆腐と豚肉のラフテーこれも定番 麩チャンプルーとゴーヤチャンプルー鯖と鮭両方の品揃え茶碗蒸しも全国のアルモントで展開中広島では牡蠣が入っていたりするジーマーミ豆腐(ピーナッツ)ともずく酢もずくも塩蔵ではない生もずくこちらも地元素材を使用した料理千切りパパイヤの炒めやグルクンの南蛮漬け定番品コーナーカリカリベーコンになればさらに嬉しいパスタのグレードも高い梅干しも紀州南高梅の4Lサイズサラダの品揃えは普通シークワーサーを使ったドレッシングがあるアメリカ軍に占領された歴史がある沖縄スープやステーキ、バーガーなどもご土地名物沖縄そば、アーサー汁味噌汁、おかゆ沖縄炊き込みご飯(ジューシー)あぐー豚のカレー3種類のパンフルーツは3種パイン、バナナ、グレープフルーツどれも輸入品(沖縄産と書いてない)沖縄ぜんざいも名物沖縄ブルーシールアイスラクトアイスなのでさっぱり食感小ぶりのサーターアンダギーこの日の朝食セット美味しい物が多いので欲張りセット基本は沖縄料理が中心ゴーヤチャンプル、ラフテーどれも薄味で美味いグルクンの南蛮漬け、千切りパパイヤ炒め南蛮の味が染みてこれも美味しいデザートは1切れづつ美味しく頂きましたごちそうさまでした後日談ご飯コーナーにあった「しゃもじ」機能性が高く使い勝手が良かったのでホテルにメールで問い合わせると直ぐに返信があり「もりっこしゃもじPMー425」商品名まで教えて頂きました直ぐに楽天で注文し家で使用しています。感謝です
2024.09.25
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石城山神籠石 (山口県光市)663年朝鮮半島の百済で起こった「白村江の戦」で敗れた倭国(日本)倭国(日本)は防衛の為に対馬、九州西日本の瀬戸内海沿岸に山城が築かれた唐や新羅から守る為の山城であったが攻められる事もなく山城として機能した実績はない石城山山頂の眺め瀬戸内海は見えるが沿岸からかなり入った所昔は今より海岸線が内陸部まで入っていた神籠石サミット記念碑石城山神籠石は明治42年に発見される九州では多く発見されているが山口県では初めて発見される近年では岡山、香川、広島でも山城が見つかっており今後も新たな山城が発見される可能性は高い山頂を取り囲むように石塀と土塁で守られている1周2500mもの壮大な山城が7世紀に建築された頂上は駐車場やトイレ、キャンプ場など整備北門に到着、加工された大きな石柱を支える土台にしていたか他にも切り込みが入った巨石大きな石を何処から運んで来たのかどこで加工したのか?山頂を取り囲む列石埋まっているのか高さなはい(土塁に覆われている)北門に向かう途中にある「龍石」龍に見える自然の岩切られずに残っているので何か意味があった頂上より歩いて15分北水門に到着4m位の高さがある北水門城内の水を外へ排出するため城壁を谷(水路)を通る所には石を高く積み水門を造り水を流した。今でも少し山水が流れているこちらは水量の強い所水門が破壊されている西水門にも向かいかけましたが足場が悪いため断念石城山の全景白村江の戦いでは百済救済の為に倭国(日本)は兵を派遣したが大敗防衛の為に各地に山城を築いたが唐や新羅軍が攻め込まれる事はなかった石城山神籠石の場所少し内陸部に入った所瀬戸内海に築かれた山城はどこも海から少し内陸部に入った所に建築された九州と瀬戸内海沿岸に多い古代山城古代山城の中で「古事記」などの文献に記載されている山城を「朝鮮式山城」記載が確認されない山城を「神籠石山城」と分けている瀬戸内海に建つ山城の多くは土塁と石塀で山頂を取り囲む(写真は岡山の鬼の城)このような山城は土塁や石塀で囲まれているがその内側に何があり何を守っていたのかが分からない百済から倭国(日本)に渡ってきた技術者と日本人がどのような関係において山城を気築いたのかそもそも唐や新羅から倭国(日本)を守る為の山城なのか百済から渡って来た人々の城で倭国(日本)との戦いに備えていたかそのような仮説を考えると面白い機会があれば九州の山城も訪問したい
2024.09.24
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