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米軍岩国基地フレンドシップデー2024毎年5月5日に開催される岩国米軍基地のフレンドシップデー、基地内が開放され日米航空ショーを見る事ができます広島駅発着のバスツアーを利用朝7時出発大混乱のバス乗り場各社ツアーバスが30台位あるので担当のツアー添乗員も混乱中自分のバスは自分で見つけてと連呼中無事20分遅れで出発米軍基地内は日本式の鳥居もあるバスのセキュリティチェックを受けて会場の駐車場へツアーバスの一番の利点会場の中心部まで乗り入れできる事基地の外から歩き入場の場合中心部まで数キロ歩く事になる手荷物検査日本の業者による屋台1日売上150万円の店もあるそうですアメリカの主力戦闘機F18航空母艦に搭載される陸上自衛隊の攻撃ヘリ コブラ日本でのライセンス製造スバルと川崎重工業旅客機、戦闘機、ヘリなどアメリカのライセンス契約では製造できるが日本オリジナルで開発を進めると三菱重工のMRJ計画の様に外圧により抹殺される日本はだまってボーイングの機体を購入しろという事こちらも有名な攻撃型ヘリ アパッチこちらも大部分が日本製造数年前米軍普天間基地周辺の市街地を観光中超低空で飛んでいるのを見たパイロットの顔まで分かる距離オスプレイ世界中で年間数機は墜落するという操縦の難しいかなり危険な乗り物巨大なローターとジェット噴射口日本の主力戦闘機 F15すでに30年以上使い続けている改修を重ねながら今も主力現在は最新のF35が配備されつつある最新鋭の戦闘機はアメリカが独占古いなった型の戦闘機を日本が使用日本のF2戦闘機アメリカのF16をベースにした機体日本最強の戦闘機と呼ばれる特に旋回能力に優れている着陸後は減速のためパラシュートを開くCー2輸送機短距離での離陸が可能F35戦闘機垂直離発着が可能な機体昼食はむすびのむさし弁当付きF18による飛行編隊航空自衛隊のブルーインパルスも登場観客も一番も盛り上がりブルーインパルスによる見事な星マークKC130空中給油機のデモンストレーションオスプレイの飛行ヘリモードと飛行モードの切り替え時が最大の見せ場ヘリコプター編成の打撃軍攻撃の様子を展示飛行自衛隊によるヘリからの降下一瞬で地上まで降りる沖縄をはじめ日本各地には多くのアメリカ軍基地が存在するアメリカにとって基地の目的はアジアの安定や中国やロシアを牽制する事でもあるがアメリカにとって一番脅威の国は日本歴史上アメリカと戦いアジアの植民地支配を終焉させた日本が今なお一番の脅威そのためアメリカは日本の憲法を作り日本に米軍を駐留させ日本で何かあれば日本人に向け駐留アメリカ軍は武力行使するのは明かただし今駐留アメリカ軍がいなくなったら中国は尖閣諸島を簡単に占領ロシアは北方領土どころか北海道まで狙われる事態となる日本単独で防衛できる体制を作ることが急務
2024.06.04
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種田山頭火広島市内のカプセルホテルに宿泊5月18日からの広島サミットの為広島市内のホテルは2月位から価格が高騰中、通常1泊5000円のビジネスホテルが13000円、2倍3倍当たり前の状態です。その中でこのカプセルホテルは価格変わらない1泊3600円設備も新しく立地も良い。市内の道路も今まで見たことないぐらい修復工事が至る所で行われています。JR広島駅内や市内中心部では3月末位から警察官の巡回が増えている、得意の人海戦術、頭数作戦。ホテル内のシャワー室各フロアに3室確保パウダールームやトイレも最新式で清潔個室タイプに宿泊カプセルベットパーソナルスペースも確保されている各フロアーには飲食スペースあり翌日は山口県防府市に移動種田山頭火の生家跡漂泊の俳人と言われた種田山頭火は明治15年防府市に生まれる全国を旅しながら自由律の俳句を詠む種田山頭火の墓所護国禅寺生家跡から車で5分の所山頭火のお墓昭和15年10月11日に松山の一草庵で死去59歳街中の至る所に山頭火の俳句防府天満宮の近くにある山頭火ふるさと館種田山頭火こちらは4日前に訪問した愛媛県松山市にある山頭火終焉の地「一草庵」忠実に再建されている予約すれはお茶会や朗読会なども開催できる防府市の人気うどん店「どんどん」セルフスタイルのお店わかめむすびも有名ですがここのカツ丼は絶品松山、広島、山口の旅は終了次回は沖縄を予定。
2023.04.09
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島根県 六日市ICから津和野方面に向かって15分何もない川沿いに昭和感漂う路面店がありました以前から気になっていましたが、この日はUターンして入店する事に。健康、自然、地産、伝統、旬を合わせて「健康」がコンセプト「手作り漬物」や昔なつかしい「おかき」など店主の手書きプライスカードも味がある健康効果ありを販促物で表現していますが薬事法ではギリギリアウトのような書き方も田舎風地元で採れたコンニャク芋からできた生芋コンニャク萩で醤油味噌製造されているメーカーの人気商品「ひしお」店主曰く売れ筋商品らしい「本物」や「本来の製造方法」で作られたこだわり品々スーパーのように棚に並べただけではとても売れない山陰で良く見かける「わかめ茶漬け」サルの腰掛のホワイトリカー漬け昔から健康に良いとされているらしいこちらがサルの腰掛(レイシ)自家製ラッキョ通常サイズの半分くらいこんな小さなラッキョを剥く手間が素晴らしい手間賃(時給)だけでもこれ以上の価値ありマムシ酒ただ酒(ホワイトリカー)に漬けるだけではなくおsれまでの手間や処理が大変らしい。原木しいたけもグラム売り田舎では蕾の状態でなく開いた状態の方が良く売れる開いた椎茸をバター炒めで食べると最高らしい。その他夏に獲れた天然鮎(冷凍)など地域れ獲れた物を中心に販売されています。店主によると年間365日無休でお店開けているそうです店主は販売する商品1つ1つに思い入れがあり熱い思いをお客さんに語りながら販売するので、お客さんも納得して商品を購入していました。地産商品の店主セレクトショップは面白い品揃えでした。
2023.01.07
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山口県萩市に向かう道中立ち寄った「津和野」津和野駅は山口駅から観光SL汽車が到着する駅として有名、現在は機関車修理の為別の汽車が列車を運行しています。週末には鉄道ファンが全国から撮影の訪れます津和野駅から東方面に1km毎回通る度にきになっていたお店いつもお客さんの車で一杯になっている食事処「タジマ」さん昔はよくあった田舎の道沿いにポツンと現れる喫茶店風食堂手書きメニューネットの口コミによるとカレーが有名らしい洋食から和食、うどんまで品揃えドリンクもやさしい価格設定ハンバーグカレー800円サラダもワンプレートで提供少し甘いサラサラタイプのカレー柔らかいハンバーグの食べやすい美味しくいただきましたご馳走さまでした。
2022.12.20
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萩市最終日萩J「ふれあいらんど萩」今流行りのJA直営店、地元生産者の方が野菜包装・価格シール貼り付け・店舗納品まで行う仕組み。商品には生産者の名前入り、生産者自身が価格を決めて販売しているので、同じ商品でも生産者によって価格が違う。青パパイヤや空芯菜など東南アジアでよく栽培されている物や珍しい野菜も人気空芯菜の炒め物(タイ)青パパイヤのサラダ(ソムタム・タイ)ゆず吉6個入り150円柚木の新種?を購入萩と言えば夏みかん「光國本店」さんへ幕末創業し明治9年に萩に夏みかんが植えられてから研究を重ね夏みかんの各種お菓子が完成一子相伝で現在まで伝わっている夏みかんの皮をシロップ漬けしたお菓子 「萩乃薫」「夏みかん丸漬け」夏みかんを丸ごと1個使用した逸品中味は夏みかんの羊羹「夏みかんマーマレード」実と皮が入っている人気のマーマレード創業100年を超える老舗現在風ポスターもありますこちらは街の中心部にある「SAKAYA」さん萩地元の酒「東洋美人」全国でも有名な美味しいお酒「貴」や「雁木」も山口県のお酒山口県の日本酒はほとんど販売されていましたが獺祭は販売されていない拘り最後の昼食はふるさと家族さん地元で大人気のお店定食各種650円(税込み)総額表示のみに親切心や誠実さを感じる魚のカマ焼き定食650円安・旨の大満足定食むつみ豚とんかつ単品追加1000円ヨークシャー種、ランドレース種、デュロック種の3種を交配させた豚、餌にはパンや地元のお米などを配合、飼育方法も手間をかけて育成した地元の豚この豪華さでも1650円帰る途中で津和野の立ち寄ります駅前のD51この日は週末でD51の臨時観光列車が走ります(山口ー津和野間)15:45分発新山口行きが臨時列車客車は駅に停車していますが肝心のD51が見当たらないので駅員さんに尋ねると不愛想で中々話がかみ合わない(若い駅員)昔の国鉄時代の駅員を思い出した。JRになってかなり経つがまだどこかで昔の国鉄DNAが伝わっている人が集まっている方向に向かうとディーゼル機関車が待機している蒸気機関車は点検修理の為当面はこの機関車で運行しているこのタイプも最近では珍しいのでしょうかたくさんの鉄道マニアの方が写真撮影されていました客車部分完全予約制の車両、瑠璃光寺五重塔のマーク萩の旅は終了
2021.11.27
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萩市内観光街の中心部から徒歩で城下町に向かいます(武家屋敷・萩城跡)田町商店街アーケード(御成道)武家屋敷からお城に続く道昭和の商店街でお土産屋さん、飲食店など地元の方が多く利用されている商店街を抜けると世界遺産になっている萩城城下町最近出店された地元村田蒲鉾さんのショップ地ビールやお土産用のおしゃれな練物などが販売されています。隣では若者に人気のスイーツ(プリン)のショップに並んでいます。景観を損なわないように普通の民家を改装してショップ運営されています。これまでは古い萩焼きのお店しかなかったエリアで若い観光客が集まるスポットになっています。武家屋敷や商人屋敷が保存されていて有料で見学する事もできる高杉晋作や木戸孝允の生家もこのエリアさらに進んだ上級武士(三の丸)の地域100mを超す白壁が今も保存されている。現在内側は分割して住居となっている2階建て以上の民家はなく道幅も昔のまま保存夏みかん毛利氏が拠点を山口市に移転した後で街の経済を支えたのはこの夏みかん街全体に夏みかんが植えられている黄色の実は昨年、青色は今年の実今では需要も少なく実を収穫しない場合が多い昼食は萩で大人気ふるさと家族さんへ日替わり定食650円のお店(税込み)焼きカマス定食650円ご飯多め、みそ汁は魚介の出汁が効いて美味しいむつみ豚のとんかつを追加1000円柔らかい肉質で旨みも強いお肉萩城本丸に向かいます遊覧船乗り場は外堀奥は川、手前側は海に繋がる関ケ原の戦いで西軍の大将毛利輝元が敗れて萩に減封され幕末まで毛利氏が萩を治める解体前の萩城毛利輝元(元就の孫)の墓所松陰神社や武家屋敷と比べて観光客も少ないひっそりした入口から入ります毛利輝元夫妻の墓毛利氏や家臣にとって倒幕は萩に減封されて以来の悲願であったはず、実現するまでには260年の年月が経過したこの日の宿は高大ホテルさん旅館風の部屋は広々温泉ではないですが小浴場もありました。夕食はホテルから歩いて5分食べ処こづちさん居酒屋メニューや定食メニューも充実いつも地元のお客さんで満員の人気店この日も常連さんが満員でお店に入れず店の外に特設のテーブルを設置して対応平目の刺身濃厚な味、エンガワ付き焼き鳥串焼き加減が丁度良い牛肉のたたき〆は萩名物わかめむすび明日は萩観光最終日
2021.11.21
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萩明倫館萩明倫館は5代目藩主 毛利吉元によって1719年藩校として建てられた。13代藩主の毛利敬親によって現在の場所萩の街の中心部に移転した。左上が萩城があった指月山でその周辺が二の丸や三の丸で上級武士の大きな武家屋敷があった。松下村塾・松陰神社は地図に右側になり下級武士の住むエリア、明倫館は上級武士の学校で松下村塾は明倫館で学べない下級武士が集まった。吉田松陰は明倫館でも教えていた古地図街の中央に明倫館、かなりの規模教育熱心な藩であったことが伺える正門木造2階建ての校舎昭和の中頃までは日本全国この形の校舎昭和40年ごろから鉄筋の校舎になったので今では地方で残っている木造校舎は貴重平成26年まで実際に授業が行われていた校舎校舎内は各教室を使って物販スペース・飲食スペース観光案内や萩の歴史など展示されている校舎2棟が資料館として公開されていますが敷地内には萩市立明倫館小学校があり多くの学生が通っています。武士の学校でかあり学びも多岐にわたった学問だけでなく武道や戦術、武器の扱いなど吉田松陰(1830年~1859年)長州藩士であり明倫館や松下村塾で教育者として活躍、明治維新に重要な働きをする多くの若者に大きな影響を与えた尊王攘夷・倒幕思想当時の松下村塾今も同じ場所に再建されている高杉晋作・久坂玄瑞・伊藤博文・山形有朋木戸孝允など幕末・明治維新で活躍する長州閥のほとんどが松下村塾を出ている。松陰の教えの一つ「至誠」生徒たちは松陰の教えである攘夷思想も受け継ぎ明治以降に日清・日露戦争最終的には太平洋戦争への道をたどる倒幕の戦い今で例えると山口県の若者が日本政府に対して戦争を仕掛けて戦っている。攘夷思想から関門海峡を通過した外交艦船を長州藩が攻撃し外国の多国籍軍に返り討ちにあい長州軍の大砲を多国籍軍が回収している今で例える山口県が関門海峡を通過したイギリスやアメリカの艦船に攻撃を加える事ちょっと想像できない事例この時代は武器も飛躍的に改良が進んだ西南戦争でも薩摩軍と明治政府軍の装備にかなりの差があり政府軍が海外に最新式の武器で戦ったため有利に戦いを進めた有名な長州ファイブ(1863年に長州からヨーロッパに派遣)密かにイギリスに密航して様々な事を学んだ教科書にはまじめな記述しかないが、色んな遊びも学んだ5名らしい。北九州の官営八幡製鉄所の建設中視察の集合写真(明治33年)中心に長州ファイブの伊藤博文・井上馨が並んで写っている少年のような笑顔で写っている井上馨が印象的ちなみに麻生太吉さんは麻生財閥の祖で麻生太郎元総理の曾祖父。この日のホテルはアクシアイン萩さん最安値の部屋に宿泊これまで宿泊したホテルの部屋では最狭窓の外は一面の白壁20cmで手が届く食事も節約台風が近づいていたので食品スーパーでは昼から惣菜など全品半額で販売。おいしくいただきました明日も萩市内観光に向かいます
2021.11.19
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萩市観光 藍場川・武家屋敷萩市の観光地図川の中州に街の中心が形成されています指月山(城跡)から昔の二の丸、三の丸辺りは現在も武家屋敷や街並みが保存されている。幕末・明治にかけて藩主の毛利氏をはじめ有力者たちが山口市に移住したことで貴重な街並みが今も残っている。(開発に取り残されたことで今では観光資源化)川の分岐地点に向かいますそこから街中に用水路が造られており現在もそのままの形で残っている藍場川(農業用水・生活用水として)大川から分岐する先端場所4台分の駐車場があり地元の丁度良い休憩スポット大川から藍場川に水を引き込んでいる先端部分街中に向かって流れていく川の両サイドには今も昔ながらの武家屋敷が少し残っており一般開放されています。湯川家屋敷この屋敷は藍場川から屋敷内に水を引き込み池や生活用水として利用していた跡が残る貴重な屋敷藍場川から水を引き込んでいる屋敷の中心部に引き込みます屋敷の庭の中央には大きな池大きな鯉が泳いでいる室内から見た庭お城からかなり離れている場所なので下級武士の屋敷ですがそれでもこの規模家の中にも水を通しており生活用水として利用していた。石の中には鰻も暮らしている平屋建てですが部屋数は多く、天井も高い(敷地広いので2階を作る意味がない)湯川邸の近くには桂太郎の生家もあります桂家は毛利元就の時代から毛利家に仕える由緒ある家系その近くには山形有朋の誕生地もあります記念碑の後ろは夏みかん明治時代初期には長州閥と薩摩閥がいかに活躍していたか、この小さな街から明治政府の要職に就く人を多く輩出している山形有朋の記念碑の横にあった厳島神社の碑、宮島の厳島神社との関連?お昼は地元の人気店ちゃんぽんのはた満さんへ開店前には10人位並んでいる人気ちゃんぽんとラーメン種類を絞っているお店自信があるからできる単品販売蒸し麺の細目だからスープと絡むちゃんぽん780円野菜たっぷり1日分の野菜(350g)はありそうスープは豚骨スープのあっさり目ちゃんぽんだけに色んな味が絡まって旨みが凝縮されているちゃんぽんにしては細目の少しウエーブもかかる麺ご馳走さまでした。引き続き萩市内観光に向かいます
2021.11.16
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萩 松陰墓地・生家跡・東光寺ホテルを出て向かったのは、萩反射炉跡萩における日本近代化の原点です幕末の日本では青銅製の大砲から鉄製へ製造に全国各地せ行われた。その中で萩藩は1855年に反射炉を建設し試作を試みた。鉄の製造に成功した佐賀藩を参考に反射炉が造られた、炎や熱を天井に反射させ炉内の温度を1200度まで上げて金属を溶かした。萩の反射炉は試作で終わったその他萩では軍艦の造船にも力を入れていた現在造船所跡地は遺跡調査が行われている吉田松陰の生家とお墓藩のお城があった萩のシンボル指月山が遠くに見えます吉田松陰の誕生地は松陰神社から歩いて10分の所当時の間取りのが再現されています吉田松陰の銅像ペリー艦隊を眺めている姿近くには吉田松陰の墓所遺髪が納められているらしい高杉晋作のお墓久坂玄瑞のお墓玉木文之進のお墓松陰の叔父で松下村塾を始めた方吉田松陰のお墓毎日世話係りの方が清掃や花の入れ替えなどされているので一帯がとてもきれいです町などの助成でなく一般市民の寄付などで成り立っている松陰神社から歩いて5分にある黄檗宗(おうばくしゅう)東光寺1691年に萩藩第3代藩主毛利吉就が建立した総門1693年ころの建立で重要文化財、朱に塗られた明末・清初の中国風の雄大華麗な建築毛利氏廟所3代吉就から5代、7代、9代、11代の藩主並びに各夫人10基のお墓が並んでいます。(偶数の藩主は街の西側にある大照院に墓所があります)墓所入り口奥に藩主のお墓があり手前には家臣たちが寄贈した石灯篭が500基整然と立ち並んでいます。その周りは大きな杉や檜が一帯を囲っていました正面が3代藩主吉就のお墓、隣は妻のお墓カマボコ型の石が多く配置されている理由は分からず亀も多く彫られている中国から伝わった亀趺(きふ)。石で亀の形を作りその背に碑を載せる事でその碑が永遠に後世に残る事を念じて作られた物、一定階級以上でないと建てることが認められなかった。少し高い所からの風景中国の兵馬俑を参考にして作られたといわれている?お寺の賽銭箱には警備会社のシールが貼ってありました上を見上げると監視カメラもたくさん取付てありますこれも時代かと思いながらお寺を後にしました。萩藩校の明倫館に向かいます。
2021.11.14
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萩 松陰神社・萩小町萩に到着、旅のスタートは松陰神社から松下村塾ここで松陰は塾生を教えていた元々は吉田松陰の叔父である玉木文之進が1842年に自宅で開いた私塾が始まりで塾の名前を松下村塾と名付けた。萩の中心部には明倫館という藩の学校があったがそこには武士の子しか入学できなかった。この辺りは街の外れであり一部の下級武士やあまり裕福でない人々が住んでいた地域8畳と10畳の2間で昼夜問わず授業が行われたここで共同生活をしながら授業する事もあった松陰の教えは尊王攘夷を旨とし儒学、兵学史学など広範囲に及んだ。塾生には有名な高杉晋作や久坂玄瑞など松下村塾の双璧や伊藤博文、山形有朋、品川弥二郎など明治の志士の多くを輩出している。木戸孝允も明倫館で松陰に教わっている(松陰は明倫館でも教えていた)松陰神社の隣にある「郡司鋳造所以降広場」大砲を作っていた石組大砲遺構大砲の型「へしき炉」によって西洋式大砲を鋳造した。1853年のペリー来航によって幕府より「洋式砲術令」によって藩営の大砲鋳造所となった。下関での英・蘭・米連合艦隊との戦争にも使用された。(1864年)勝利した英・蘭・米連合の兵士と大砲大砲は持ち帰ったか破棄された為ほとんど現存しないあまり嬉しそうな表情でない兵士たち当時の鋳造風景萩の名店うどん「どんどん」さん今夜の夕食を買い出し今日の宿「萩小町」さん海沿いに建つお城のような宿広い室内、さすが温泉旅館夕食はどんどんのぶっかけうどんとカツ丼近くのスーパーで購入した鯛とヒラマサの刺身萩は日本海で甘鯛、のどくろ、サザエ、ヒラマサが名物大きな旅館で色んな施設が館内にあります大浴場、天然の岩のまわりに浴場を作った海の近くで波の音を聞きながらの入浴景色の良い露天風呂翌朝の朝食朝から烏賊の刺身や釜の炊き立てご飯鮟鱇鍋は良い出汁が効いていました最後はご飯を投入して雑炊に萩の名物「夏みかん」朝食後に館内を散歩しているとミニシアターがあり長州ファイブの映画が上映されていました。忠実に再現してありとても面白かった、時間が足りなく最後まで見れなかったのでDVD購入本物の長州ファイブ海外渡航が禁止されていた幕末に長州藩から秘密裏にイギリスに渡航した5人帰国後はそれぞれの分野で活躍萩市内の観光に向かいます
2021.11.09
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今回は山口県の萩市に車で向かいます広島市から高速を不使用で吉和、吉賀、津和野経由で萩までゆっくり移動します。寂地狭入口、日本の滝100選観光案内所様々な滝があるようです観光案内所の横は綺麗な寂地川が流れていますこの景色だけで十分なので次に向かいます秋桜島根県六日市の近くにある水源地天然の水が湧いている所この1本杉の下から水が湧いていますこの水が高津川に繋がる水源地かなりの量の水が湧いている六日市の温泉施設の前にある物産館六日市名物 錦華饅頭人気商品で美味しい小さなカラーピーマン各種六日市の中央商店街メイン通り錦華饅頭を製造されている中田屋本舗さん隣にはお好み焼きの名店一休堂さんは頑固オヤジのお店この日の昼食は近くの「えびす飯店」さんへ昔からあるお店でクオリティの高い中華屋さんランチメニューは700円から天津丼セット800円この餡のとろみと色は絶対に旨い実際美味しかったシンプルな醤油ラーメンですがスープにはすごいコクがありこちらも美味しい昔からお母さんと息子さん?で運営されているお店この辺りを通る度に食べていますが、何を食べても大変美味しい料理を提供されます。ご馳走さまでした六日市から車で約1時間島根の小京都と言われる「津和野」に到着正面の山側には太鼓谷稲荷神社盆地の街で津和野城跡や森鴎外記念館カトリック教会など観光スポットが多数あり最初に太鼓谷稲荷神社にお参り江戸時代から五穀豊穣・商売の神様として祀られていましたこの日は車で登ってきましたが、徒歩でも上る事ができ、263段の石段には千本の鳥居が並んでおり今では撮影スポットとして若者にも人気JR津和野駅週末などにはSLのD51観光列車が走っていますこれは駅前に設置してあるD51この日は平日で観光客も少なかったが週末には山口、島根、広島などから観光客があつまるスポット小説やTVドラマのロケが頻繁に行われている昔は「男はつらいよ」映画ロケも行われた街萩に向かいます
2021.11.05
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松下村塾・松陰神社(萩)吉田松陰(1830年~1859年)長門国萩の松本村(現松下村塾・松陰神社)に生まれる松下村塾は松本村にある塾という意味叔父である玉木文之進に学び8歳にして藩の学校である明倫館の教授見習いとして出勤する。松下村塾の創始者は玉木文之進、松陰は跡を継いだ九州・江戸・東北を遊学(勉強・旅行)する1853年ペリー来航の際は浦賀まで向かうこの頃佐久間象山とさかんに時事を論じ合った。翌年にペリーが来航した時には密航を試しみて失敗する(米艦に乗船してアメリカに渡航しようとするも渡航の乗船を拒否される)松下村塾実家である杉家の小屋を改築し8畳の教室にしたその後10畳の部屋も増設アメリカ渡航の一件で萩で幽閉を命じられる野山獄に入れられる。獄中でも囚人に向けて「孟子」の講義を始める病気療養を理由に野山獄を出て自宅で幽閉となるここで近隣の子弟たちに講義を始める(松下村塾の原型)1857年杉家の小屋を改築し8畳の松下村塾が誕生する松下村塾は全国を行脚した松陰の旅行談を聞き人生を語り、詩を読みあう「青年宿」でもあった松陰の話を聞くだけでなく、一つのテーマに沿ってグループ議論を交わす事や1人対1人で徹底的に論議するなど考える事を大事にした。高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文など身分に関係なく昼夜ここで学んだ。(身分の高い藩士は藩の学校である明倫館で学んだ)松陰が幽閉された旧宅ここでも松陰は親戚や近隣住民に講義するやがて入門者が増えて8畳の松下村塾が誕生する松陰神社松陰神社の駐車場脇に合った石碑土佐の坂本龍馬と長州の久坂玄瑞、薩摩の田上藤七が密会した旅館があった場所薩長同盟の起点となった。松陰神社の近くにある伊藤博文の旧家(現在工事中)東京品川区大井にあった伊藤博文の別邸の一部を移築した物(伊藤博文の旧家の横に建っている)約半分を無償で提供してもらい萩に移築した半分菊の紋が使われた灯篭当時の建物にしては天井が高い節目天井欄干など小さな所にも様々な加工(仕事)がしてある内装明治維新以降の政治家(権力者)のお金事情は桁外れ、どうやってお金を集めていたか気になる現代なら国を私物化していた極悪非道の政治家といわれていた可能性もあるのでは?歴史の教科書にはマイナスの部分は掲載されないがプラス(功績)の部分とマイナスの部分(事実)も教える事が必要。
2021.06.19
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吉田松陰誕生地・墓地松陰神社から山側に向けて車で5分萩市を一望できる高台に吉田松陰のお墓と生家跡があります城下町から眺望を良いが、かなり離れており当時この辺りは下級武士や商人たちが住んでいた地域萩市を一望、お城があった指月山も見えます吉田松陰の生家今も家の土台部分(基礎)が再現されていました家の裏手にある井戸(松陰産湯の井戸)生家の隣にある吉田松陰とその関係者のお墓玉木文之進のお墓吉田松陰の叔父にあたり松下村塾の創始者で幼少期の松陰を教育・指導する久坂玄瑞のお墓高杉晋作とともに松陰塾の双璧といわれた人物松陰の死後には尊王攘夷思想を強めていく。禁門の変で自刃、享年25歳。京都にも墓がある高杉晋作のお墓藩士で家は200石の上士、塾生の中では最高の家柄久坂玄瑞とともに松下村塾の双璧と言われた身分を超えた新しい軍事組織である奇兵隊を創設第二次長州討伐の幕軍との戦いを指揮し勝利するその後病気の為死亡、享年29歳、下関にも墓がある。吉田松陰の墓(1830年~1859年)叔父の玉木文之進から教育を受け早くから藩の学校である明倫館での師範見習いとして頭角を表し、九州や江戸、東北など周り友人や師との出会い見分を広める。諸外国の情報を得るため来航していたペリー艦隊に乗り込むが失敗、幕府に捕まり獄中送りになる。その後萩で松下村塾を開き多くの門下生を指導する幕府の不平等な諸外国との通商条約締結に憤り過激な言動により安政の大獄により処刑させる。東京の松陰神社にもお墓これらのお墓は市の管理ではなく有志によるボランティアによって整備と管理されています。市からの金銭的な援助もなく賽銭とボランティラの方の私財で運営。この日の宿リゾートホテル美萩十分な広さの部屋萩の菊が浜を一望できる温泉大浴場萩市で使用できるクーポン券もいただきました。夕食は近くのスーパーで買った刺身盛り合わせ萩名物のあま鯛、こぶ鯛、ひらまさなど食べ比べやはり甘鯛が一番おいしい翌朝の朝食詳細がわかるサービスは美味しさもアップする品数も多く量も十分アンコウ鍋は雑炊にふぐの蒸籠蒸し地元の夏みかんを使ったポン酢でいただきますレストランからの眺め萩城があった指月山萩の松陰神社に行きます
2021.06.18
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萩 城下町③萩の市内ルートバス1回100円萩といえば夏みかん夏みかんのお菓子を購入するならここ 光圀本店地元の方のおすすめ店舗昭和の看板店舗は住宅街の真ん中無人店舗で用がある時はベルを鳴らします完成した商品の在庫はなく注文後に箱詰めや袋詰めするので事前の電話注文がおすすめ夏みかんをまるごと使用した夏みかん丸漬け1296円甘さ控えめの羊羹と皮のほろ苦さがマッチングした逸品萩乃薫540円~夏みかんの皮を砂糖漬けしたお菓子これもさっぱり味夏みかんマーマレード1缶918円実と皮が入ったマーマレード今風のポスターも有店舗の隣が加工工場加工前の夏みかんが大量に入荷しています萩 キリシタン殉教者記念公園明治元年に萩にお預けになった長崎浦上村のキリシタン信者が眠る墓が並びます。毛利輝元が築城工事が遅れた責任として熊谷元直天野元信の2人と一族11人を打ち滅ぼしました。この事件は熊谷氏、天野氏がキリシタン信者だった為に事件を口実に殺害された言われています。長崎浦上教会(R3・3訪問)明治になってもキリシタン信者は棄教の為全国に預けられました。明治元年の浦上4番崩れから60年に浦上に帰ってきた人々、右から2番目の写真は萩からの帰郷組。萩城の内堀萩 大照院臨済宗南禅寺派の寺院萩藩2代目の毛利綱広が初代の毛利秀就の菩薩寺にする為に再建し大照院と名つけた初代を除き毛利家藩主2代4代6代8代10代12代の偶数藩主とその夫人の墓石がある。毛利輝元は初代藩主ではない、輝元の引退を条件に毛利家は周防、長門の2か国への減封となった為初代藩主毛利秀就の墓石墓前には藩士が寄贈した石灯篭が600数基兵隊が整列しているかの如く配列されている萩 東光寺松陰神社から歩いて5分の距離ここには奇数藩主の墓所となっています。こちらも同じ様に藩主の墓石の前に藩士から石灯篭がせれいに配列されていました。お寺の方の説明によれば「中国の兵馬俑」からこの造りになったのではないか?との事でした。萩駅今も現役の駅舎長州ファイブの一人初代鉄道庁長官でもある井上勝萩城下町の土原に生まれ明倫館で学び、長崎・江戸にて遊学し蘭学を学びます。1863年伊藤博文ら4人と密かにイギリスへ渡航しますこれを長州ファイブと呼ばれています。当時の海外渡航禁止令の中、彼らは命がけで渡航を実施します。井上長官は周りの人々に下記のように語っていた「吾が生涯は鉄道をもって始まり、すでに鉄道をもって老いたり、まさに鉄道をもって死すべきのみ」有名な小岩井農場も井上勝らが造りました日本鉄道が東北本線を盛岡駅まで延伸した翌年に・日本鉄道会社副社長 小野義眞・三菱社社長 岩崎弥之助・鉄道庁長官 井上勝3名の文字をとり小岩井農場と名つけられたその後三菱に買い取られいまでも三菱資本の農場長州ファイブの面々松陰神社に向かいます
2021.06.17
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萩 城下町萩城北の総門城と城下町の境界線跡地門の外側は外堀が巡っています萩城下町菊屋横丁は白壁となまこ壁が今も残る江戸時代の町割りが見れます、この辺りは下級武士や豪商の屋敷が立ち並んだ地域。明治維新の三傑と言われた木戸孝允旧宅木戸孝允は1833年にこの家で生まれ江戸にでるまでの20年間をここで過ごしました。17歳の時には明倫館で吉田松陰にも教わっています30歳ごろから藩の要職に就き国事に奔走しました。1866年には坂本龍馬の仲介で薩長同盟を結びます明治新政府では五箇条の御誓文の確定に参画し版籍奉還や廃藩置県の実現に力をつくしました。西郷隆盛・大久保利通と木戸孝允は明治維新の三傑と言われ活躍しましたが、やがて後輩の伊藤博文の力が大きくなり政府の中枢から離れていきます1877年45歳京都で病死木戸孝允が11歳の時の書萩市上空から見た木戸家城の外堀に近いエリアなので下級武士の中でも上の身分であった。青木周弼(アオキシュウスケ)旧宅周防大島の医者の家に生まれ、江戸でオランダ医学を学ぶ長崎で遊学中、長崎での評判を聞きつけた藩主毛利敬親によって召し抱えられ、医学館の教官に任命、医学教育に尽力青木研蔵青木周弼の実弟で周弼の後を継ぐ藩の名により長崎で医学を学び(シーボルトにも学ぶ)最新の医学を萩に伝えた。天然痘の予防するとこも成功毛利敬親の側医と務め明治2年には明治天皇の大典医に任命された。青木周蔵明倫館で才能を見出され研蔵の養子となる長崎で医学を学び、その後ドイツに留学し政治・経済を学ぶ最初の駐独公使となる、後に外務大臣も務める夫人はドイツ人、当時で珍しい国際結婚高杉晋作の誕生地吉田松陰の門下生幕末に尊王攘夷志士として活躍奇兵隊を創設し長州藩を倒幕に方向つけた人物ここからは外堀の内側上級武士のエリア白壁は長いもので200メートルもある景観保護の為石垣や白壁は残したまま2階建て以上の建物もない、昔もままの街並み上級武士家屋の中にある「天樹院」毛利輝元の墓所毛利輝元の孫で毛利家14代直系当主豊臣政権の5大老の一人で関ケ原の戦いでは西軍の総大将となって戦った。関ケ原の戦いで負けた輝元は周防と長門の2か国に減封され輝元が隠居する事で毛利家がかろうじて存続できる事となる1625年4月27日萩で死去享年73歳毛利家の墓所で良く見かけるかまぼこ型の石輝元の墓碑毛利の家紋萩城跡後ろの山が指月山明治時代の萩城輝元は築城した広島城に匹敵する規模この日の宿リゾートホテル美萩さん日本海が一望できるレストラン朝食も豪華あんこう鍋やふぐなどホテル前は萩城のある指月山や菊が浜が広がります
2021.06.16
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萩 城下町巡り玉木文之進(たまきぶんのしん)旧宅松陰神社から山側に歩いて5分の松陰誕生地にも近い場所玉木文之進は吉田松陰の叔父にあたります1842年この自宅で松下村塾を創始しました、後に吉田松陰が塾を継ぎます、松下村塾とは松本村にある塾とい意味。藩士の学校であった明倫館の教授も務めた元々玉木文之進も吉田松陰も杉家に生まれてそれぞれ養子に出ている。玉木文之進は幼少の吉田松陰をスパルタ教育した叔父明治の軍神といわれた乃木希典も萩で玉木の元で寄宿し指導を受けます。玉木の指導は徹底的な厳格主義だったと乃木大将は語っています。玉木は公務で忙しくなると一旦塾は閉鎖します数年後に久保五郎左衛門が自宅で松下村塾を引き継ぎました生徒の一人が伊藤博文でした。松下村塾(久保塾)を引き継いだのが吉田松陰です雨戸の蝶番明治9年玉木文之進は門人が中心となって起こした萩の乱直後に玉木家の先祖の墓前で自刃しました。(享年67歳)玉木家には無料で観覧可能です、ボランティアガイドの方から詳しく案内を聞かせていただきました。今も現役の雨戸玉木家旧家の近くにある吉田松陰誕生地この日の昼食は「ふるさと食堂」さんへ日替わり定食は税込み650円の激安価格地元のお客さんで賑わっています夜は居酒屋として営業されています地元の豚「むつみ豚とんかつ定食1000円」柔らかいお肉で甘味も十分みそ汁も魚介類がたくさん入っており美味しい出汁がでています。旧湯川家屋敷湯川家は禄高23石の武士で江戸時代に建てられ家屋萩城からも遠く下級武士であったが家の構造や庭園などとても立派は造りでした。萩市内を流れている橋本川から人口の川が整備され流れています(藍場川)舟を使った荷物の運搬や生活用水・防火水に使用されました。現在はコイが泳いでいます台所のハトバ家の中まで藍場川から水路を作っています水路は庭の庭園から家内の台所に繋がっています石の間には天然うなぎも住んでいるらしい夜になると顔を出す(夜行性)当時使用していたトイレもそのまま保存藍場川は市内中心部に向かっています桂太郎旧宅1847年萩市に生まれる萩明倫館に入学し1871年にはドイツに留学帰国後は軍隊の近代化に貢献陸軍大将・陸軍大臣を経て1901年第1次桂内閣が誕生日英同盟の締結に成功その後明治41年・大正元年と計3回内閣を組織した藍場川の水を引き込んだ庭園桂太郎は軍隊の育成だけでなく人材の育成にも力を入れた人物、1900年に現在の拓殖大学を創設しました桂太郎の祖先は毛利元就に仕えた桂元澄桂元澄は毛利元就と大内氏の厳島決戦で重要な役割を担い元就を勝利に導いた。厳島決戦で桂元澄が拠点とした桜尾城跡の桂公園(広島県廿日市市)城跡の形跡ななく広い公園の整備公園に建てられた「桂公園碑」桂公園近くにあるお寺桂元澄夫婦のお墓旧田中別邸元々毛利家所有の土地だったが大正時代に総理大臣を務めた田中儀一の所有になり母屋の改装が行われ別邸として機能させた。田中義一は1864年萩市呉服町で生まれる1889年陸軍大学校に入学ロシアに留学し1904年日露戦争に従軍1918年原内閣で陸軍大臣1921年陸軍大将1927年内閣総理大臣、最初の普通選挙を実施母屋は江戸時代に建設、現在伝統的建造物に指定大小20部屋以上あり古い旅館といった感じ選挙など大勢の関係者が集まる集会所や事務所的な使い方をされた家。鍵曲(かいまがり)道を鍵の手にまげて迷路のようにした道萩の名産品「夏みかん」藩士小幡高政が生活に苦しむ萩藩士の為に「夏みかん」の栽培を推奨し、萩の地を日本最初の夏みかん集団栽培地とし後に萩に主要産業とした明治初期の産業功労者。夕食もふるさと食堂さんへぶりのかま焼き外はぱりぱり、中はふわふわの焼き加減あら煮色んな部位の味が楽しめる焼きそば味付もシーフードを感じる逸品明日も萩を巡ります
2021.06.09
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山口県立博物館博物館の前にある蒸気機関車Ⅾ60型の1号機 昭和2年製造 昭和41年廃車シンプルな構造検温器やアルコール消毒をして入場お客さんも少ない山口県の生き物が古代から現在まで分かりやすく展示されています。山口の産業や資源なども幅広く展示恐竜の模型山口の田舎道を通るとたまに見かけるイノシシ、たぬき友人は熊を見たこともあります戦国時代の大内氏から毛利氏、明治維新まで山口は今の日本の基礎となる歴史を作ってきたミニエー銃井上薫、伊藤博文は薩摩藩の協力を得て長崎のグラバーから4000挺を購挺江戸幕府との闘いに使用威力を発揮明治維新時の長州藩藩主 毛利敬親の書吉田松陰が久坂玄瑞に送って手紙(複製)1858年江戸遊学中の久坂に松陰が松下村塾の様子などを伝えた手紙今年は毛利家にとって特別は年関ケ原の戦い後に毛利輝元が築城した萩城(明治時代の天守閣)大村益次郎一度見たら忘れない顔明治維新の三傑といわれた木戸孝光その後木戸孝光以上の権力を持ち総理大臣まで出世する伊藤博文吉田松陰の遺書(複製)1859年10月25日26日門下生に宛てたもの松陰の門下生一覧表歴史の教科書に掲載されている人物ばかりこのあと萩に行くので詳細を調べてみます博物館の反対側にある聖ザビエル教会、コロナの為入館できず山口はザビエルが大内義隆から布教をゆるされた地短期間ではあるが布教活動を行っている井戸端で説教するザビエル像その後ザビエルは朝廷(天皇)に合うために航路で京に向かった。山口市の郊外にある香山公園公園内には毛利敬親公の香山墓地もあります毛利敬親公は萩から山口に政治の中心を移した藩主。毛利家13代敬親、14代15代のお墓があります毛利敬親公の墓同じ香山公園にある大内弘世の像南北朝時代の武将、守護大名で毛利氏が中国地方を統一するまで山口は大内氏が守護大名として治めていた国宝瑠璃光寺五重塔全国の現存する五重塔のうち10番目に古くその美しさは日本三大名塔とされている山口市から萩に向かいます
2021.06.07
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防府 毛利庭園・旧毛利家本邸明治に入り藩主であった毛利家は公爵毛利家として東京や防府に邸宅はあったが元藩士の井上薫によって防府に本邸として建設された。大正5年に完成する、大正天皇や昭和天皇も宿泊されている重要文化財 旧毛利家本邸1200坪の豪邸、江戸時代の御殿さながらの規模現在は一般公開されており、一部は毛利博物館として毛利家の収蔵品を展示している。庭園側から見た本邸の一部とにかく大きな屋敷で広く長い廊下一部屋のサイズも広く天井も当時としては高い毛利元就の「百万一心」広島の郡山城の築城時に人柱の替わりに「百万一心」を刻んだ石柱を埋めたとされる伝説、みんなが力を合わせれば何でもできるという意味、元就らしい言葉天皇陛下が宿泊された部屋2階から見える庭園奥には博物館として毛利家の美術品や工芸品などが展示されているが、ほとんどが複製で本物は年に数回しか展示されていない模様、複製品でも撮影不可立派な庭園も見て歩くことができます裏山と一体化している。25000坪の広大な庭園丘や池、滝も配置されており四季の花も各所に植えられていました。道の駅 潮彩市場 防府防府の水産市場の横にある道の駅新鮮なお魚などの販売や2階では地元食材を使用したレストランがあります。店内のお魚売り場は箱売りなど市場感が満喫できます、瀬戸内海の小魚や貝類がメイン瀬戸内海のサザエは殻に突起がない国道からは少し離れているため平日はお客さんが少な目、コロナの影響か閉店されている店舗もあり刺身やお寿司は格安で販売飲食できるスペースもあり、みなさん利用されていました山口といえばうどんの「どんどん」さん旨い・安い・早い釜揚げうどんセット名物わかめむすび付き、昆布むすびは握りたてアツアツ釜揚げの少し柔らかい食感が最近のマイブーム山口市にある民俗資料館西の京として繁栄した大内氏時代朝鮮や明・琉球との貿易で栄えた山口県庁前にある藩庁門毛利家藩主の毛利敬親が萩からここ山口に本拠地を移した時に建てられた門奥には県庁の各種建物が並びます次は山口県立博物館に行きます
2021.06.06
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伊藤博文記念館(山口県光市)訪問伊藤博文は1841年9月2日林十蔵と母琴子夫婦の長男として山口県光市に生まれる父の仕事の為1846年に山口県萩市に移り住むことになる萩での学びは明倫館(藩校)もあったが(現在もある)博文は身分が低いために入れなかった。そのため私塾である久保塾で学び常に成績優秀者であった、その後伊藤家に養子に入り伊藤博文となる。17歳になった博文は松下村塾への入門を許され吉田松陰先生の門下生となる、松陰による松下村塾はわずか2年間であった。その中で高杉晋作、久坂玄瑞山形有朋、品川弥二郎、博文など明治維新の原動力となる逸材を輩出した。松下村塾では松陰の講釈もあったが、毎回テーマを決めて塾生同志による議論や討論形式で行われた1864年伊藤博文は23歳の時イギリスへ密留学する幕府に見つかれば死罪にあたる行為ロンドン大学では海軍について研究するために数学、地質学、鉱物学、土木工学、物理学などを学んだ、また国会議事堂や銀行、鉄道、海軍施設造船所なども見学、蒸気機関などの技術に驚嘆したこの時イギリスに渡った長州藩の5人を長州ファイブと言われている。留学期間は約1年間安倍元総理の言葉明治維新後の博文は28歳で兵庫県知事に任命される明治2年には政府の財務省局長昇進し東京勤務を命じられる。博文が優秀であった事と当時要職には薩摩、長州、土佐出身者で占められていた。光市にある伊藤博文の生家(復元)明治4年には岩倉具視右大臣を全権大使とする遣欧米使節団の一人として選ばれる。大久保利通、木戸孝光はじめ総勢107人であった。博文は流暢な英語で対応、演説して欧米人から政治家として評価された。明治政府の要人たちが約2年間も日本から離れる事となり日本国内に留まっていた西郷隆盛たちと政治的対立の溝ができてしまう。博文帰国後も征韓論を巡り政府内の対立は決定的となる。明治6年大久保利通政権下で博文は参議兼工部卿を命じ政府の中枢に入った(35歳)西南戦争で博文は政府軍の動員や編成、戦略立案の任務にあたり西郷隆盛を追い詰め自刃させた。このころから博文は木戸孝光以上の権力を持つようになり長州閥を束ねながら大久保利通を支える存在となる。西郷隆盛が最後の数日をたてこもった洞窟(鹿児島城山)西郷隆盛 終焉の地(自刃)鹿児島城山(洞窟から400m)ちなみに西南戦争では薩摩藩主であった島津久光はどういう立場であったか、島津久光は西郷や大久保を使って自分が日本政治の中心となる事と信じていたのではないか?西郷や大久保からすれば下剋上のつもりであったか?長州藩も同じ様に毛利敬親は木戸や伊藤たちを見てどういう思いだったのか?西南戦争の後、木戸孝光は病死する、大久保利通も暗殺され明治維新の立役者である3人が相次いで亡くなる博文は内務卿に就任し実質政府のトップに立つ事となる明治15年博文は憲法の実態を調査する為訪欧するドイツのプロイセン憲法やイギリスの立憲政治などを学んだ。明治18年博文45歳の時に内閣制度を導入し自分が初代内閣総理大臣として就任する、明治22年博文49歳の時に大日本帝国憲法が制定され明治23年に憲法の発布となった。明治23年の帝国議会では貴族院議長へ就任する中央が高杉晋作 右が博文25歳第二次伊藤内閣時に日清戦争が勃発し勝利する明治28年に博文は下関で下関条約を調印し朝鮮の独立を清国に承認させ賠償金や清国の開港なども約束させた。長州ファイブの5人(後ろ右)岩倉使節団の写真博文34歳食通であった博文はそれまで禁止されていたふぐを解禁したことでも有名下関にある春帆楼さんは今でも有名なふぐが食べれる料亭旅館で博文もよく利用している。広島名物のもみじ饅頭も博文が命名した博文が宮島の料亭旅館で若い女中さんの手をみて「もみじのようなきれいな手」と言ったとか言わないとかで今ではもみじ饅頭の命名者になっている。当時宮島は遊郭が立ち並びお金持ちや有力者が通う島であった。日露戦争時の集合写真当時の総理大臣 桂太郎も萩出身桂家は毛利元就と同族で祖先である桂元澄は毛利元就の部下で大内氏との厳島決戦では重要な役割を果たし元就の勝利に貢献する。厳島(広島の宮島)には度々来島していた。明治42年博文69歳ロシアの閣僚に合うためにハルビンに向かいハルビン駅で韓国人の安重根(アンジュングン)に拳銃で暗殺させる。日本では犯人は殺人者だが韓国では今でも英雄扱い。伊藤博文は維新の三傑とされる西郷隆盛、大久保利通、木戸孝光につづく第2世代として欧米列強と肩を並べる明治日本を創出した人物、また大日本帝国憲法を制定発布したことでアジア発の立憲国家を形成した。光市にある道の駅光市にはカンロ飴の工場があるジャンボカンロ飴も本物ハウス栽培の国産バナナも最近増えてきた光市から防府に移動防府天満宮学問の神様として有名きれいな花の道菅原道真公が亡くなった翌年に創建された日本で最初に創建された天神様を名乗る九州の大宰府に流されていく道筋で宿泊地の一つが防府とさせており京都の北野天満宮福岡の大宰府天満宮と並んで日本三大天神といわれている。本日の宿ホテルαー1防府さん新しくはないが清潔感ありアメニティーも最小限夕食は近くのスーパーで山口の名物が食べたかったが見当たらずくじらの竜田揚げだけ購入翌日の朝食はバイキング種類もたくさんあり満足次は山口市を目指します
2021.06.02
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岩国 吉川家墓所山口県岩国市に向かいます岩国藩の吉川家墓所を目指します岩国インターからすぐの「ファーマーズマーケット」JA直営店舗で最近できたお店まさに地産地消地元の農家さんが獲れたて野菜を直接店舗に納品して売り場に農家さん自ら陳列されています。圧倒的なボリュームとこれ以上ない鮮度夕方にはほとんど「売り切れ御免」状態そして翌日には新鮮な野菜が入荷される良い循環が出来ています惣菜コーナーで作られる岩国寿司何層にも重なった押し寿司は郷土料理手作り感あふれるお弁当売り場の野菜(地元産)を積極的に使用するよく売れるので製造が追いついてない状態野菜同様「売り切れ御免」これが鮮度管理の基本野菜のアソート販売これからはこういう販売方法が増える?普段使わない野菜もチャレンジできる大きめの筍もおいしいらしい柔らかくシャキシャキのレタス葉付大根、鮮度が良くないと綺麗に見えない品イチゴも採れたてが一番甘いですがさすがに最終の時期なので少し酸味あり錦帯橋の近くにある吉川家墓所1600年の関ケ原の戦いの後、毛利氏から岩国周辺を与えられた吉川広家は、城山の山上に岩国城を築き、ふもとの横山地区と錦川をはさんだ反対側の錦見地区に城下町を作った。毛利元就の次男である元春が吉川家の養子となります吉川元春は毛利隆元、小早川隆景の3兄弟「3本の矢」の一人で生涯吉川として毛利家を支えます。吉川広家は吉川元春の三男ですが吉川家の家督を継ぐことになります。吉川広家墓所初代岩国藩藩主 1625年9月21日没 65歳吉川元春の墓所を訪問したのが縁でここにも来ることができた吉川 広嘉 墓所3代藩主 1679年8月16日没 59歳吉川家墓所はこの広嘉によって建てられました歴代の藩主やその一族の墓が並んでいます。吉川家資料館岩国藩歴代藩主の隠居所であった昌明館の跡地に建てられた資料館吉川広家は豊臣秀吉の家臣、黒田官兵衛とも通じており毛利家の外交で活躍し寄与した人物吉川元春の肖像画次は光市の伊藤博文記念館に行きますその後毛利氏の本丸である萩市にも滞在予定
2021.05.22
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山口 湯田温泉 KKRあさくら さんに行ってきました。料理の評価の高い宿で食事です。前菜 季節の肴胡麻豆腐の風味と甘味が印象的な一品先付 五色なます素材を細切りにして丁寧に盛り付ける事でシャキシャキ食感と柑橘系の風味が効いた一品お造り 季節の鮮魚3種盛り見た目は普通のお造りですがホタテも鯛もひと手間加えた深い味わい温物 長州鶏の柳川風テーブルの上でこれに溶き玉子を加えて柳川風にしますが、鶏肉の皮目にも炙りが既に加えてあり、香ばしさと食感が良い一品完成品玉子のコクと出汁の旨みがマッチ蓋物 飛龍頭(ガンモドキ)これが一番驚いた味表現が難しいがとにかく美味しいの一言ガンモドキの概念を覆す一品になりました焼き物 鰤の照り焼き火の通し過ぎない柔らかな食感揚物 海老真丈薄衣で素材の味が良く分かり、食感も良く分かる軽い揚げ方ご飯 五目御飯、赤出汁水菓子 手作りデザート季節の果実全ての料理にひと手間工夫がされておりどれも大変美味しくいただきました。
2021.02.19
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山口 光市 伊藤博文資料館に行ってきました。ここ伊藤公記念館は伊藤博文が生前に自ら基本設計して着工した資料館、各種資料や博文が生まれた生家が再現してあります。逆光写真ですが、博文公の像堂周防国の百姓として生まれる、父が長州藩の足軽伊藤家に入った為、父と共に下級武士の身分となる。元の苗字は林さん父に連れられここ(光市)から萩に移住して吉田松陰と出会う吉田松陰の私塾である松下村塾に学んだ松下村塾では身分が低かったため教室の外から傍聴していた。地元の名士である安倍晋三元総理の言葉現在の防衛大臣岸信夫さんは安倍さんの実弟でここが選挙区です。周防長州は多くの著名な政治家を輩出しました強い政治家を輩出すると地元では巨大な箱もの(大きい公園や巨大な展示会場など橋、駅など)や山口県の一番の特徴は道路が綺麗で広く無料のバイパスなどが無数にある事。田舎の道でも無意味な2車線道路などが多数あるが県堺で他県に入ると途端に獣道になるような事が多々あります。公園内にある資料館吉田松陰が安政の大獄で亡くなると桂小五郎や高杉晋作らと尊王攘夷運動に加わった。その後イギリス留学を経験して見分を広めた。実際に使用していた家具などが並ぶ左は高杉晋作との写真、右は長州ファイブと言われたメンバー木戸孝光と伊藤博文歴史の教科書に掲載されている面々と伊藤博文の関連図資料館の隣には生家が復元されています一般的なお百姓の家であった初代内閣総理大臣を務めたほかに第5代、第7代、第10代の合計4回も総理大臣を務めている。1905年には韓国統監にも就任、韓国民族運動との対立の矢面に建つこととなり1909年に韓国統監を辞職した後、中国のハルビン駅において韓国の安重根に狙撃され死亡した。(安重根は韓国では今でも英雄扱い)伊藤博文は日本の開明派として日本の近代化、特に憲法制定とその運用を通じて立憲政治を日本に定着させた功績が大きい。博文公が使った産湯の水次に訪問したのは「阿多田回天資料館」太平洋戦争で海軍が開発した人間魚雷の特攻兵器長さ14.7メートル直径1メートル「天を回らし、戦いを好転させる」と言う意味が込められるその形の通り元は普通の魚雷を改造して作った特攻兵器回天は潜水艦に搭載されて敵陣近くまで行き特攻作戦を行った写真の潜水艦にも回天を取り付ける土台が写っている。回天の基地は4か所あり徳山の大津島基地周防灘の光基地周防灘の平生基地大分の大神基地出撃の大半は大津島からで14回、光から12回ここ平生から2回、大神から1回海に一番近い場所に建っている回天碑回天による戦果撃沈3隻、損傷4隻、回天作戦中に87名が戦死、母艦の潜水艦も8隻を失っており戦果は乏しいものであった。また回天作戦中に母艦(潜水艦)の雷撃による戦果ではアメリカの巡洋艦インディアナポリスを撃沈している。この巡洋艦は原爆をアメリカ本土からサイパンのテニアンに運んだあと帰路の途中に撃沈している、テニアンに着く前に撃沈していれば広島、長崎の悲劇ななかったかもしれない。大津島を訪問した時の写真潜水艦に搭載された回天と乗り組み員内部は簡単な潜望鏡や操縦管などが配置されている基本的には1人乗(直径1m)でハッチは内部からも開閉可能だったが、脱出装置はなく一度出撃すれば攻撃の成果にかかわらず乗員の命はなかった。大津島の資料館にある回天の操縦席を実物大に再現した物大津島で戦争当時使用されていた回天を運んだトンネルが今も残っています。(陸の倉庫から海へ運ぶ)
2021.01.21
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萩にある東光寺に行ってきました広島から向かいます法華倶楽部に宿泊全国の法華倶楽部ホテルには①大浴場がある(今までの所はあり)②朝食バイキングが豪華(地域の間名物がたくさんあり)広島なので牡蠣フライや穴子飯、お好み焼き、コイワシ天などたくさんの郷土料理がありましたが、今日はこちらできまり広島らしいのは、広島菜漬、小いわし南蛮漬け、ちりめんじゃこごはんの上のゆかり、とその他はあまり関係ないメニューでしたがおいしくいただきました。広島から車で2時間で萩に到着反射炉跡江戸時代末期から萩藩では製鉄技術の確立の為反射炉を建設して製鉄造りを行った。結果は製鉄するまでの高熱まで達する事ができずに失敗に終わった。製鉄の為に反射炉を作った藩は少なく萩の反射炉の世界遺産になった。(実際には製鉄できていない)九州で燃料となる石炭が採掘されると九州(八幡)で製鉄業が発展したいった。反射炉近くの造船所跡今も当時のままの堤防(石積)が残っています。造船所跡は現在発掘をされておりこの日もたくさんのスタッフが調査していました。東光寺毛利家の奇数代藩主が祀られている毛利家の菩薩寺本堂の裏側にある毛利家墓所毛利家の3代、5代、7代、9代、11代までの藩主とその夫人と関係者の墓があります。墓の前には藩士が寄進した石灯篭が500基ほど整然と並んでいます。灯篭の奥に歴代藩主の墓が並ぶ墓所を横の高台から見た写真中国の兵馬俑にも見れるような造りかた吉田松陰のお墓東光寺から少し歩くと吉田家(松陰)や高杉晋作のお墓あります。吉田松陰のお墓地元の有志の方がお墓全体を今も管理されている遺髪が入っているようです。高杉晋作のお墓松下村塾に学び吉田松陰門下生の逸材奇兵隊を創出。この地で亡くなっていないがお墓には遺髪が入っている。久坂玄瑞のお墓吉田松陰の松下村塾に学び高杉晋作とともに並ぶ双璧の一人、松陰の妹文と結婚する。城下町から少し離れた高台にお墓があり街を見守るように建っています。お墓の横にある吉田松陰の誕生地松陰の実家の土台が再現されていますその横には松陰たちが生活に使っていた井戸も残っています。この後田布施にある伊藤博文の生家に向かいます。
2021.01.20
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山口市 ザビエル教会・雪舟庭園聖フランシスコ・ザビエル(1506年~1552年)カトリック教会の司祭・宣教師・イエスズ会創立のメンバー(スペイン生まれ)ザビエル教会はコロナの為閉館中ザビエルはインドやマレーシアのマラッカで布教活動中マラッカで日本人のヤジロウに出会い日本行を決意する。1549年に薩摩(鹿児島)に上陸したザビエルは薩摩の守護大名であった島津貴久から布教の許可を得て活動を開始する。その後ザビエルは都がある京都に向かう、平戸経由で山口に入ったザビエルは山口(周防)の守護大名の大内隆義に会い布教を許可される。布教活動をするザビエル大内隆義は男色であった為、男色を罪とするキリスト教の教えが隆義の怒りを買い一度は山口を追放された。協会敷地内にあるマリア像ザビエル教会の隣にある公園大内氏を倒し中国地を統一した毛利氏の像常栄寺(じょうえいじ)こちらのお寺の庭は雪舟の作と伝えられ国の史跡および名勝に指定されています。備中(岡山)生まれの僧山口の守護大名であった大内隆義に招かれ山口に居を構えます、また中国にも留学して水墨画の神髄を2年間学び山口に戻り数多くの作品を残した元は安芸国吉田(今の広島県安芸高田市)にあり毛利元就の息子の急死を嘆きその菩薩を弔うために建立し移転した。毛利家の家紋枯山水を用いた池泉回遊式庭園外周りを1周できるようになっています。昼食は山口のうどん どんどんさん名物わかめむすび少し柔らかい麺こちらも名物の外郎山口の外郎の歴史は古い買い求めやすい1本100円から保存料や添加物を使用していないので消費期限はD+1今日買うと明日までの消費期限。これも昔ながらの伝統を守った製造と販売。味は上品な甘味とあずきの風味の絶品です
2021.01.10
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下関市歴史博物館・毛利邸下関歴史博物館は下関における古代から近代に至るまでの歴史を簡潔に紹介する資料館。戦国時代に長門国を支配していた「大内氏」大内氏は朝鮮や中国との貿易や石見銀山により西の京と呼ばれよ程繁栄していた。広島(安芸)の毛利氏はもともと大内氏に従属していたが、毛利元就によって大内氏に挙兵して大内氏は敗れてしまい毛利家がこの地を治める事となる中国地方一帯を支配していた毛利氏でしたが関ケ原の戦いで西軍の大将として敗北してほとんどの領地を没収され周防と長門(山口)のみに領地を縮小された。毛利輝元(毛利家当主、元就の孫)は萩に城を築き居城としたここ下関(長府藩)は毛利元清(元就4男)の次男である秀元が初代藩主となりこの地を治めた。*毛利家では当主になる長男の名前は〇元、次男以降は元〇 と元の前か後かによって区別していた、毛利元就も次男。関ケ原の戦いで敗れ徳川により今の山口に厳封された毛利氏でしたが江戸末期には薩長同盟など長州の志士たちにより明治維新が起こり結果として徳川家を倒した事となる。300年越しのリベンジを果たす毛利氏の家紋もそれぞれ少しずつ形が違う下関は九州、瀬戸内海、日本海に面した海の拠点であったしかも朝鮮や明(中国)とも貿易を行っていた。北前船と赤間関(下関)明治初期の下関の写真薩長同盟の立役者「坂本龍馬」下関戦争で使用された青銅の大砲木の大砲ここまでして戦った事に驚き今でも下関には砲台跡がいくつか残っています。歴史博物館からあるいて3分にある「長府毛利邸」長府毛利家第14代当主の毛利元敏公の邸宅門までのアプローチも長い30mくらい敷地は2段階の高さになっておりお城で例えると門のところが二之丸、住居の建物のあるところが本丸毛利元清(元就4男)の次男である秀元(初代長府藩主)の像母屋玄関(入口)母屋から見た日本庭園乃木神社明治天皇に殉死した乃木希典を祀っている神社乃木希典が幼少時代を過ごした長府、神社内には乃木記念館も併設。陸軍軍人で大将、日露戦争で指揮し昭和天皇の教育係りも務めた。
2021.01.07
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下関観光関門海峡の眺め、ななりの数の大きな船が通過していきます。赤間神宮源平壇ノ浦の合戦に敗れ、わずか8歳で関門海峡に入水された平清盛の孫である安徳天皇が祀られている下関名物「ふく」縄文時代からふくが食されていたが、豊臣秀吉のふく食禁止の令を出し長らく人々がふくを食べれなかったが、明治に入り伊藤博文が解禁してここ下関がふくの本場として有名になった。竜宮城のような造り中国など他国との繋がりもあった為?安徳天皇陵大型タンカーが通過中壇ノ浦も望む水天門境内には小泉八雲で有名な耳なし芳一の芳一堂や宝仏殿などがあります。水天門は鮮やかな竜宮造りで国の文化財駐車場から見た赤間神宮、隣の黄色の大きな建物は「ふく」や伊藤博文で有名な春帆楼さん。赤間神宮の駐車所横にある「朝鮮通信使上陸淹留之地」500名にも及ぶ使節団が1607年から1811年までの間に12回来日していますが、日本上陸の地がここ下関であった。通信使は江戸時代将軍の代替わりや世継ぎの誕生に際して朝鮮側から祝賀使節として派遣されていました。釜山から下関に入り瀬戸内海から兵庫、大阪、さらに京都に行き江戸に向かうルートを通った。カモンワーフ地元のレストランやお土産屋さんなどのショッピングモールカモンワーフの隣にある「唐戸市場」卸売り市場ですが、今は一般客がメインの市場多くの観光客で賑わっています。業者向けの売り場クエやサワラ、ブリ、鮟鱇など大型魚一般客向けはすぐ食べれる寿司コーナーが大人気新鮮で色んなネタを食べることができます。複数のお店が寿司を販売されていますが、どこも1貫300円の高単価ですがどのネタも大きくカットされ種類も豊富、クエやのどぐろ、あまだいなど高級魚も一人平均5貫から10貫を注文されていますほとんどのお客さんが寿司と温かいかに汁やふく汁をもって海沿いの公園で食べています。加熱調理した食材もあります平日にも関わらず多くの人で賑わっています旧下関英国領事館(国指定重要文化財)明治39年に建てられた日本で残っている最古の領事館1階を執務室、2階を海事監督官の住居として使用写真は再現した領事室、横には女王の写真旧秋田商会ビル大正4年に竣工した和洋折衷の建築物西日本発の鉄骨鉄筋コンクリート造りの建物地上3階、地下1階の作りで屋上には日本庭園と日本家屋を備えている。この辺りは戦争の空襲に耐えた建物が数多く存在する竣工当時の秋田商会1階が事務所2階3階は書院造りの住居として使用秋田商会の創業者「秋田寅之助」と2代目「秋田三一」下関グランドホテルから徒歩圏内に多くの観光スポットが立地しており観光に便利でした水族館や門司観光の拠点にもなります
2021.01.05
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下関グランドホテルの夕食・朝食はじめて宿泊しましたが、まず立地に驚き下関の一等地観光の拠点となる①唐戸市場②海響館(水族館)③遊園地④門司港行港これらの施設の中心に建っています。カモンワーフ・唐戸市場目の前は港(門司港行)部屋はシンプルですが少し広めアメニティ類も普通洗面所は別になっています夕食は館内レストラン本日のお品書き先付小松菜・鴨ロース茶碗蒸し鮟鱇が入っていました、餡かけお造り盛り合わせ盛り付けがカラフルで綺麗です。メインはカンパチと本まぐろ赤身厚めにカットされていますスモークサーモンになっていました柿と牡蠣と梨好みの分かれるところ天ぷら海老・蟹・エリンギ揚げたてではなかったですがプリプリ食感で美味しい下関といえばフグゆずがお皿ひれ肉のステーキひれの柔らかさと国産肉の濃厚な旨み雑炊各種茸が入って良い出汁がでていました玉子のコクもプラスデザートババロアとどら焼き一口サイズで丁度良い量このコースは7300円でした。翌日の朝食会場からの眺め対岸は門司(九州)和食朝食セットメインのお皿が特徴的地元玉子の出し巻き、赤魚、村田蒲鉾、明太子明太子は下関発祥らしい右上にあるサラダチキンに酢味噌を合わせた物は非常に相性が良く美味しかった、新しい発見朝食は少し高めの1936円ですが内容が良いので価値ありの朝食です。こちらのホテルはとにかく立地が良いまた従業員の接客もフレンドリーで親切です、食事も味はもちろん盛り付けにも季節感や彩など工夫されていて楽しめました。また機会があれば利用したいホテル
2021.01.03
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山口県 岩口 第六潜水艇記念碑山口県岩国市の国道2号線沿いの山手側に「第6潜水艇殉難者記念碑」がありますありし日の潜水艇明治43年4月15日第6潜水艇は訓練の為岩国から広島港に向かう途中に事故で17メートルの海底に着底した。10時45分頃佐久間艦長(大尉)以下14名の乗り組み員は再浮上に向けて懸命の作業を行うが全員が殉職する事故となった。翌日に事故艇は海から引き揚げられたが、軍部は潜水艇の内部では醜態をさらした姿になっているのではないか心配した同じような事故が外国であった時、乗組員は先を争うように出口付近に集まったまま亡くなったり、争った跡が残る悲惨な状況でしたが、しかし第6潜水艇では全員がそれそれの持ち場で亡くなっていた。また、佐久間艦長は遺書も残し事故原因や沈没後の状況や修復作業などを時系列でまとめられている。佐久間艦長の遺書記念碑の場所から2km離れた沖合で沈没工場の真ん中の煙突の先にタンカーのような船が停泊していますが、おそらくそこが沈没地点この沈没原因は艦の操縦や訓練に追尾していた護衛艦にも問題があったようです。そのため日本ではあまり語られる事はないですが、海外では今でも最後まで諦めなかった乗組員や指揮した佐久間艦長の話が訓練などで語り継がれているようです。学校で学ぶ事のない歴史の事実がまだまだ多く残っています殉難された方のご冥福をお祈りいたします。記念碑の下はJR山陽本線
2020.10.20
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山口 萩の名産品「しそわかめ」で有名な井上商店さん元は広島の尾道で創業、明治44年に萩に移転昭和55年に「しそわかめ」を開発しヒット商品となる写真は萩の本店、古地図でいう町屋地区になります。(海側)海産物を使用しただしや炊き込みご飯スープ類など各種温度帯の商品がありました。わかめを使用した商品ラインナップが一番多い看板商品の「しそわかめ」萩が地元の人は地元を離れてもこの商品だけは常に常備するらしい、全国のスーパーでも販売されている逸品。このようにおむすびにするとおいしさアップします。蒲鉾の「忠小兵衛蒲鉾本店」さん創業安政2年1855年なんと165年の老舗場所は萩駅の近くになります。現在の焼き蒲鉾の元祖、ほとんどの蒲鉾屋さんは蒸し蒲鉾製法です。幕府献上品商品のラインナップは少な目ほとんどの商品は生の魚のすり身を自社工場で加工し蒲鉾にしています。普通は大手に日本水産さん等から冷凍すり身を購入し蒲鉾に加工しています。生のすり身加工の為少し価格は高いですが価値で考えると安く値ごろがあります。看板商品「忠小兵衛」蒲鉾魚はほとんど「えそ」と「小鯛」の生すり身を使用した逸品、加工でんぷんなどの使用もない。珍味のごぼうを魚の皮で巻いて焼いたもの「ごぼう巻き」540円お酒につまみに合う味でした息子さんが跡を継ぐらしいのでまだまだ創業以来の味は引き継がれます。JAふれあいらんど萩最近力を入れている農協さん直営のマーケット最近は農業の生産者も減り野菜の価格も高くなってきましたまた、市町村が運営する市場機能も弱くなりこういった道の駅などの直売所が多くなり活気があります。農家の方も名前入りで販売するので悪い物は納品できないですし、これまでは市場のセリで値段が決まっていたもが、直売では自分で値決めできるメリットがあり農家の方の生産意欲の向上にもつながります。生産者の方は大体手数料として販売価格の20%が引かれますが通常の市場に出荷するより手取りは倍以上良くなっているそうです。この日はおくらが大量に販売されていました10円の価格を付けた農家さんもあり魚売り場も山陰の魚がならびます。烏賊、ヒラソ、鯛単品もあり山口特産ふく地元にむつみ豚は冷凍で販売生鮮商品の消費期限は食品ロスの減少させる事に直結します。すべてが冷蔵である必要はない昔ながらの缶蒸し製法大きな缶に入れて蒸して固めますその後にカットしたもの。今は加熱し練ったこんにゃくを袋に入れた後冷却成型したものが主流萩の練物メーカーさんのラインナップまた、スーパーマーケットの「キヌヤ」さんの店舗も複数あり24時間営業でとても便利です。地元の販売店さんが多数ある街はいま少なくなっています。イオンさんやドラックストアさんが入って来るとこういった特徴ある店舗が減り買い物の魅力も失われるので地産地消地販で続いてほしいです。
2020.09.10
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山口 萩 松下村塾と明倫館萩藩校明倫館は享保4年1719年に5代藩主毛利吉元が毛利家家臣の子弟教育のために堀内に開いた藩校です。130年後に現在の位置に移転しました、学舎や修練所、練兵場などがあり吉田松陰なども教鞭をとりました。現在は観光インフォメーションセンターなど萩観光の拠点となっています。明倫学者は4館あります、その隣には今でも萩市立明倫小学校があり今でも子供たちがこの地で学んでいます。昔は三の丸に位置していた隣にある有備館(現存)槍、剣道場として藩の練武のほか、他国からの修行者との試合場でもあった。坂本龍馬もここで試合をしたと伝えられています。槍術場畳側は藩主上覧場、下の土間で槍術が行われていた。奥にある剣術場右側が藩主上覧場右側が剣術場槍術場と剣術場の間には藩主の控えの間もありました。松下村塾と松陰神社吉田松陰を祭神とする神社で明治23年に松下村塾の西側に土蔵造りの小祀を建てたのが始まりです。松下村塾は萩藩の兵学者吉田松陰が主宰した私塾。木造瓦葺き平屋の小さな建物で8畳の講義室と10畳半の控えの間があります。松陰は25歳の時伊豆の下田でアメリカ艦船に乗り込み海外渡航を試しみますが失敗におわり投獄され後に謹慎になりました。1856年から門人への指導を開始し1857年現存する塾舎に代わりました。塾生からは高杉晋作や伊藤博文などを輩出、日本の近代化、工業化の過程で重要な役割を担った多くの逸材がここで学びました。萩城跡1600年の関ケ原の戦いで敗れた毛利輝元が(毛利元就の孫)萩城を築城し、城下町が計画的に建設されました。以後260年間、萩は萩藩の政治、行政、経済の中心として栄えました。広い城内には神社がありました天守閣跡の基礎石天守閣から見た二之丸方面の写真上級武家地旧旧萩城の三の丸にあたり、毛利家一門や藩の重臣屋敷が立ち並んでいました。国の重要伝統的建造物群保存地区に指定写真は萩で一番長い白壁で200mあります旧町人地萩城外堀の外側にあり、町屋や中・下級の武家屋敷が軒を連ねています。「萩城城下町」として国の史跡に指定されています。写真はなまこ壁の土蔵高杉晋作や木戸孝充もここの旧町屋中・下級武家屋敷の地区で生まれ育つ。萩と夏みかん夏みかん(だいだい)の起源は隣町の仙崎と言われている。明治の時代衰退した士族を救済するために武家屋敷に夏みかんを育て萩の特産となり萩全域に栽培が広がった、今もそのなごりで夏みかんが町中で実っています。萩の街の古地図左側が本丸、二之丸、三の丸の上級武家屋敷群(白色)右側は町屋敷・中・下級武家屋敷群道の駅「萩しーまーと」萩の農産物、魚介類、加工品など販売地元の人にも大人気飲食店も多く入っており評価も高い昼時は平日でも行列必死世界遺産 萩反射炉製鉄大砲の鋳造に必要な金属溶解炉です萩藩の海防強化の一環として導入が試みました。1856年には試験的に操業された現存する反射炉は日本に3つしかなく貴重今残っているのは煙突の部分で10.5mです本来は16mなので半分程度しか残っていません世界遺産 恵美須ケ鼻造船所跡幕末に萩藩が洋式帆船を建造した造船所跡国指定史跡に指定されています。写真は現存ずる造船所の石造堤防1853年ペリー来航に刺激を受けた幕府は海防強化を図るため諸藩に大船建造を解禁1854年には萩藩に大型船建造を依頼。桂小五郎(木戸孝充)の尽力で1855年に大型船建造を決定しました。堤防の内側にある工場跡では発掘調査が行われています。工場作業員の居住区跡次回は萩の名物やお土産店舗をまわります。
2020.09.09
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山口市 国宝瑠璃光寺五重塔に行ってきました。山口市の香山公園にある五重塔です、公園の中には曹洞宗 瑠璃光寺(ルリコウジ) 瑠璃光寺五重塔香山墓地 (毛利家墓所)枕流亭 (薩長同盟の協議を行ったところ)臨済宗 洞春寺井上薫の墓このようないろんな墓地などが移設されてりして一つの公園として開放されています。立派な境内までの道が続きます室町時代、応仁の乱で戦死した大内義弘の菩提を弔うため、弟の盛見が建立を計画し1442年に完成した、全国に現存する五重塔で10番目に古くその美しさは日本3名塔に数えられている。高さ31.2メートル昔の宮大工の仕事現代では難しい工法司馬遼太郎も訪れています大内氏は明や朝鮮との貿易で莫大な富を手に入れ周防(現在の山口市)を西の京と呼ばれるくらいの街造りを実践し栄えた南北朝時代に周防と長門を治めていた大内氏大内弘世の時代に本拠地を今の山口に移す五重塔は子の盛見が建立したもの薩長同盟の密儀をした建物を移築したもの薩摩の西郷隆盛、大久保利通、長州の伊藤博文木戸孝充などが訪れた。今でも通用する立派な建物臨済宗 洞春寺 山門(重要文化財)室町時代禅風山門の代表的な形臨済宗 洞春寺 1572年に毛利輝元が元就の菩薩寺として広島の安芸吉田に建立した臨済宗に巨刹1403年に県庁裏の観音寺の仏殿として建立されたものを移築した。ヤギ注意の看板何のこと?おもっていると寺の中で飼育されていました。この後萩に向かいます。
2020.09.08
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山口 周南市 回天記念館山口県周南市(徳山)港から船で20分戦争中海軍の特攻兵器であった人間魚雷回天の基地跡(回天記念館)へ行ってきました。周南市の大津島にあります。市町村の合併前は徳山と呼んでいました、現在もJRの駅名は徳山駅約20分で大津島に到着小さな漁村で数件の民家がありますがコンビニなどもない静かな島。太平洋戦争末期「天を回らし、戦局を逆転させる」という願いを込めて「回天」は誕生しました。太平洋戦争の初期日本は有利に作戦を進めていましたが昭和17年6月に海軍がミッドウエイ作戦で大敗したのに続き18年2月には陸軍がガダルカナル島を撤退し戦局が変わります、そうした中特攻による「必死の作戦」の提案があったが当初は認められなかった。18年11月に江田島基地所属(広島)の黒木博司中尉と仁科関夫少尉が基地司令官に提出しますが認められず、その資料を直接海軍省事務局や軍令部に送付し作戦が目に留まりここから回天の作戦が動いていった。海軍の伝統でこの時まで「決死の作戦」はあっても「必死の作戦」は認められなかった。回天の供養碑回天のベースとなったのは九三式酸素魚雷を改造して人間魚雷の回天が開発されました。元々直径61㎝の魚雷を人間が搭乗できるように1mまで大きくしたため速力が50ノットから30のノットに低下しています。回天神社も港を降りてすぐ回天記念館入口資料館まで続く道の両サイドには亡くなった方の銘碑搭乗員の銘碑回天によって亡くなった145名の方の銘碑出撃により亡くなった方 106名訓練事故でなくなった方 15名回天整備員 36名 回天基地員 3名魚雷がベースの武器なので一回エンジンを点火すると前進しかできない、上下、左右の舵とりも難しく海底に突っ込み浮上できないなどの事故が多発しました。これに対しアメリカ側の被害は◎撃沈 3艦◎損傷 4艦上記のように日本側が考えてた被害よりかなり少なかった。回天の性能(1型)全長 14.75m直径 1m重量 8.3トン出力 550馬力乗員 1名全部で420機が製造された回天ほぼ無傷の回天が1機だけありアメリカのシアトルキーポートにある海軍潜水艦博物館に展示している。映画で使用されたロケセットが展示されている直径1mは人間一人がぎりぎり乗りこむ事ができる幅真ん中にあるのは潜望鏡、その後ろに背もたれがある操縦席、潜望鏡の下は潜水艦から乗り移る下部ハッチ上部出入口回天は伊(潜水艦)に搭載された潜水艦1艦で回天を4機~5機搭載できた。潜水艦で敵艦の近くまで侵入し停泊している艦に向けて出撃していった。戦争末期には航行艦へも出撃した。最初の出撃は昭和19年11月8日ウルシ―海域やパラオ海域に出撃、20年3月以降は沖縄向けての出撃、本土決戦に備え日本各地に特攻基地が配備された。館内には乗組員の方がたの遺書や装備などが展示されている。特攻されて亡くなった塚本太郎少尉の残した2分30秒の肉声も館内で聞くことができます。後方から見た回天基本構造は魚雷ですので上下左右の動きは難しい構造前方からの回天回天記念碑、記念館の横、海か見渡せる所終戦後すぐに建てられた慰霊碑もこの下に埋まっています。大津島に残る各種基地の施設回天整備工場跡今ある小学校と同じ大きさの工場が同じ向きで5棟くらい建っていた。整備工場から海まで続くトンネルトロッコにより運搬レールが敷いてあった回天運搬用トンネル(入口は単線)回天予備機置き場(複線)トンネルの中心で広くなっており、予備の回天を3台置いていて、訓練中の回天がトラブルなどの時には予備を活用した。潜水艦に搭載された回天トンネル出口回天訓練基地跡大きい建物の方は魚雷発射訓練施設回天は反対側の海面へクレーンで降ろされた実験魚雷発射口跡回天昇降クレーン跡この島には75年前の施設がかなり残っており貴重な遺産を見ることができます。戦争を風化させることなく当時なにがあったかを自らの目で確認できたことは貴重な体験でした。参考資料特攻兵器「震洋」モーターボートに250kgの炸薬を搭載して敵艦へ体当たりする特攻兵器特攻兵器「桜花」飛行機から投下されグライダー操作で敵艦へ突撃する特攻兵器
2020.09.05
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萩の北門屋敷さんへ行ってきました。到着して分かりましたが、ほくもん屋敷と呼ぶらしい場所は萩の中心部昔で言う「三の丸」に位置します。しかもここは武士の中でも毛利家の屋敷があった重要な所にホテルが建っています。この地は三の丸・上級武士エリアとして「世界遺産登録」されています。本日は世界遺産エリアに宿泊です。世界遺産だけに規制が厳しく2階建以上は建築できないなど様々な制約があります。今回の部屋はノーマルのガーデンビュータイプ和室と洋室のゆったりしたつくりシンプルな部屋ですが座布団が風船のように膨らんでいました、洋間から見た外の眺め手入れされた庭が広がります1階からお庭の散策もできます広くはないですが趣のある庭園で小さな池もあります。独立タイプの洗面所椅子があるのはポイント高い大きいお風呂もありましたが温泉大浴場を利用したため使用せず冷蔵庫には冷えた地元山口県錦町の天然水2Ⅼが無料サービス夕食は会場食事処でした係の方の案内で会場まで誘導いただきましたドリンクメニュー裏側は日本酒メニュー記載日本酒は地元山口獺祭など有名メーカー品揃本日の献立表全11品コロナ以前は簡単な献立表を置いていてテーブルの担当者が一品づつ丁寧に説明するスタイルでしたが、3蜜を避けるためより詳しい献立表に変更したそうです。先附 嶺岡豆腐牛乳を吉野葛とわらび餅粉で固めたものそのへんで売っている牛乳寒天とは別物牛乳の爽やかさ清涼感のある一品前菜 初秋の彩右上の酒盗大根は上品に仕上がりで自宅でも試したくなる味。左上はアロエの酢かけアロエは意外な万能食材。向附 萩の地魚盛り合わせ山陰のひらまさ、烏賊、薄い大根をお皿代わり炊き合わせ 蛸と季節野菜パプリカに下はてっきり里いもと思い食べると違う食感、献立を見るとじゃがいもでした。小鍋 黒毛和牛しゅぶしゃぶA5ランクの霜降り肉、しゃぶしゃぶで食べると無駄な脂がなくなり旨みが凝縮されています。萩名産 夏みかんのポン酢でいただきます酢物 ふく刺しとらふく刺しは量も適量盛り付けの器もふくを引き出しますふぐではなくふく冷鉢 鮎 梅そうめん黄色は温泉卵、卵を絡めて食べるとあっさりそうめんのコクが増しておいしさアップ。蒸物 蓮根饅頭すり身にした蓮根に貝柱、椎茸の旨みをプラスとろみかかった出汁も完食お食事 炊き立てご飯の盛りはお上品水菓子 手作りプリンとにかく濃厚な味がするプリン市販の濃厚プリンと比較すると超濃厚で鼻から抜ける香りまで濃厚。すべての料理に素材や味付け、盛り付けなど小さなところなでこだわりを感じたコースでした味の決め手になる出汁がとにかく旨かったのと最後のデザートプリンは締めと言うより最後にびっくりする味でとても強烈な印象が残りました。朝食萩蒲鉾や温泉卵などが入ったセット朝食味噌汁などの出汁が入った料理はやはり他では食べれない逸品漬物の着色が気になりました。夕食時にテーブルに敷いてあった紙は城下萩の地図、北門屋敷は三の門に位置しており真ん中やや左の少し黄色に塗ったところになります。その左側が二に丸でその上方向(山)が本丸この施設の周辺は武家屋敷が広がり今でも民家以外はなにもない地域(コンビニなし)でゆっくり過ごすには最適でした。ロケーション、接客、料理、温泉どれもレベルが高くおすすめの宿になりました。
2020.08.28
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