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大山祇神社参拝(愛媛県今治市大三島)御祭神は「大山積大神一座」で天照大神の「兄神」にあたる平日にも関わらず多くの観光客で賑わう伊予の国一宮でもある神武天皇御東征にさきがけ、祭神の子孫・小千命が先駆者として伊予に渡り芸予海峡の要所である大三島を神地と定め鎮祭したことに始まる・立派な神門天然記念物の大楠(樹齢2600年)小千命(おちのみこと)が大三島に祖神大山積大神を祀った際に植樹と伝わる拝殿神社の歴史は古く海上安全の守護神である天照大神の兄神にあたる「大山津見神」直系の神にあたるご本殿三間社流造、屋根は檜皮茸、外部は丹塗の規模雄大な社殿神社建設史上流造りとしては日本の代表作と言われる。宝篋印塔(ほうきょういんとう)鎌倉時代時宗の開祖一遍上人は河野通広の子として松山の宝厳寺でうまれ一遍上人絵伝で伝わる通り大三島宮の参拝の折奉納したもの。神社の宝物館全国の国宝、重要文化財の指定を受けた武具類の8割が保存されており、日本一の武具館として全国に知られる。館内の様子聞いたことのある有名な武将たちが供武具を奉納した源義経が奉納した武具は国宝その他頼朝や木曽義仲、巴御前など鎌倉殿メンバーは全員集合でした。必見の宝物館(入場1000円)伊予の有力武士、河野氏も武具を奉納今治城城主 藤堂高虎も大山祇神社を改修したしまなみ海道の中間地点にある大三島長く広島に住んでいますが近くにこのような神社がある事知りませんでした。国(島)の始まりは淡路島、古事記の冒頭部分ですが瀬戸内海の島々は色んな伝説があり面白い。
2023.04.01
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村上海賊ミュージアム今治市からしまなみ海道経由で広島まで移動途中の大島で村上海賊ミュージアムに行きます朝の今治城石垣と堀の間には犬走、江戸時代のお城なので防御より機能性や見栄えを優先したか?シャッター商店街、郊外に大型ショッピングモールなどが進出した結果、街の中心部が空洞化となる。今治から大島まで移動村上海賊ミュージアム瀬戸内海の島々を舞台に活躍した「村上海賊」。その生業は“海賊”という言葉からは程遠いものでした。海上の要衝に関所を構えて水先案内人の派遣や海上警護などを行い、海の安全を守る集団だったのです。 “海の大名”と呼ばれたこともあり、独特の海城が今も残っています。(パンフレットより)戦国時代には因島、能島、来島の3島を本拠地とした3つの村上家が存在していました。海上での戦いや兵糧輸送などで抜群の能力を発揮し、有力大名と手を結んで勢力を拡大。1576年に織田信長の船団に勝利をおさめた「第一次木津川口の戦い」での活躍は有名です。卓越した村上海賊の戦い方は水軍の兵法書『村上舟戦要法』として伝わり、司馬遼太郎の小説「坂の上の雲」の主人公・秋山真之が日本海海戦の際に参考にしたと言われています。大島の先にある小さな島、能島に城を築いた島周辺の海流が早い事を防御にした。ルイス・フロイスも訪れている(1532年~1597年)カトリック司教(イエスズ会)、インドゴアにてザビエルとヤジローに出会い、日本行を決意、1563年来日(長崎)、織田信長、豊臣秀吉にも会っている、当時の様子を詳細に記録、貴重な資料となっている。3つの海賊「村上氏」は来島・因島・能島の3氏今でもしまなみ海道には「村上」さんの苗字が多い宮島合戦毛利元就と大内氏(陶)との戦いでは村上海賊が重要な役割を果たす、来島・因島の2氏は毛利方に付き、能島は大内側と伝えられている。当時の勢力図毛利氏の瀬戸内海担当したのは小早川隆景(元就3男)隆景は乃美宗勝に指示し村上海賊と協力体制を築き織田信長や大内氏との戦いで毛利軍として戦った。ほうろく玉相手の船に接近し投げ入れた火薬武器現在の花火の原型過所旗(かしょき)安全に海上通行するための通行手形海賊と水軍の違い①海賊の行動の一つとして水軍機能がある②金品を奪う海外のパイレーツ(海賊)とは違う村上3氏大三島に移動し昼食レストラン「よし川」さん週末は大行列海鮮丼が人気通常の定食メニューも豪華な定食もかつ丼950円珍しいつゆだくかつ丼甘めのタレが美味しい、玉子も半熟仕上げ大山祇神社に向かいます。
2023.03.31
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要塞の島 小島(おじま)愛媛県今治市沖に浮かぶ小さな島 小島(おじま)に行きます。波止港から定期船が出ています約10分で小島に到着港横には無人の案内所とトイレこの島には日清戦争当時、日露戦争を予感した明治政府がロシア海軍の侵攻を防ぐために築いた海岸要塞。島じゅうに砲台や兵舎、火薬庫などが配置された。民家も数件あり今も有人の島小さな島で砲台跡などが当時と変わらない姿で残されている、1時間もあれば周遊できる島瀬戸内海では今も主要な航路小島の両サイドに大型の船舶が運航されている。しまなみ海道ではこの小島と大三島と本州の間の大久野島に砲台が建設され対ロシア艦隊に備えた。大久野島では太平洋戦争時毒ガス兵器を製造していた。小島の北部砲台に設置された24センチ砲小島の中部砲台に設置された28センチ榴弾砲のレプリカ休憩所の横に設置されている港から歩いて15分中部砲台跡に到着28センチ砲が6門設置されていた日露戦争ではこの小島では使用されず旅順に運ばれ活躍した。28センチ砲以外はそのまま残されている砲身は上を向いており放物線を描いて飛ぶ弾道であった。上にある司令塔との連絡穴(通信)今も良く聞こえる司令塔は20m登った山頂ここから目標に対して司令を伝達する所しまなみ海道側が見渡せます旅順で使われた榴弾砲これで戦局が有利に砲身は上を向いている、放物線を描き山を越えて敵陣を攻撃した。日露戦争時、旅順での停戦条約締結時の写真当時の軍幹部、薩長族で固めている明治時代の政治家や軍幹部は冷静に世界情勢や情報工作(今でいうスパイ)を実施して大国と対等にまたは侵略されない事を国策として最優先で取組んだ。現在の日本では平和ボケ状態ウクライナは他人事ではない、これまで話し合いで平和的に解決できた事例はないアメリカが頼りになる保証は1ミリもない自国の利益にならない戦いをするはずない自国は自国民で守る、これが鉄則「温故知新」歴史を振り返る事も大事
2023.03.24
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鉄板焼き鳥 鳥林さん松山市から今治市に移動今治城を見学、海岸近くに建ち海が天然の堀として機能した。築城の名人と言われた藤堂高虎が1602年から13年かけて完成させたお城宿泊したホテル近く人気の「鳥林」さん店内は平日の早い時間でしたが満席予約必須のお店写真掲載されている3品がおすすめ今治焼き鳥は鉄板焼きスタイルが特徴上からも鉄板で押さえます鉄板は少し傾斜しており余分な脂などはしたに流れる機能的な仕組み、炭焼きと比較して煙も少ない。皮焼き鉄板焼きなので片面はパリパリ仕上げ内側は柔らかい食感が残っていますとりねぎ焼きもつ焼き(砂ずり)これも片面パリパリ2つの違う食感が楽しめます。せんざんき鶏料理の盛んな東予地方の郷土料理鶏のいろんな部位の骨付き肉を使用した揚物料理。江戸時代にキジを捕獲し揚物にしたことが始まり。この日の一番のマスト料理でした。しいたけ焼き豆腐エノキベーコン締めは茄子丼御飯の上に茄子焼きをトッピングさすがの繁盛店でどれも美味しくいただきましたその中でも「せんざんき」は何個でも食べられる絶品です、ごちそうさまでした。
2023.03.21
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松山名物 鍋焼うどん松山のソウルフードとして地元民に愛されている鍋焼うどん。特徴はアルミの鍋と少し甘い出汁、ソフトな食感の麺、戦後庶民の身近な食べ物として広まった。市内レストランやうどん屋さんには必ずメニューに鍋焼うどんがありますますが、専門店も2店舗市内で営業されています、これからその2軒食べ歩きます。市電 大街道駅大街道商店街の朝市地元野菜やお惣菜を販売手作り感があり美味しそうこれから鍋焼うどんを食べる予定なので我慢銀天街のアーケード商店街の路地裏に鍋焼うどん「ことり」さん10時30分開店同時に入店鍋焼うどん専門店のお店鍋焼うどん700円稲荷寿司2個300円昭和24年創業の老舗昔ながらの食堂スタイルが懐かしく貴重アルミ鍋一杯に入ったうどん少し甘めの出汁麺は少し弾力があり前回と変わっているか?大きめの稲荷寿司少し具も入っている「ことり」さんからあるいて30秒こちらも鍋焼うどん専門店「アサヒ」さんこちらは昭和22年創業現在のオーナーから色々歴史を教えていただきました。(サービス精神たっぷり)アサヒさんの鍋焼うどんこちらの方がことりさんより甘い出汁麺は柔らかくモチモチ感がありました玉子トッピングしたのでコクと甘味が増しました。稲荷寿司は具たくさん松山市内観光には欠かせないお店で必食どちらも美味しいので食べ歩きおすすめです。
2023.03.20
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広島からフェリーで松山に2時間で松山観光港に到着車1台と1名で料金1万円 松山市中心部を抜けて郊外へ 最初に向かったのは山吹御前が祀られている山吹神社(伊予市中山町佐礼谷)山吹御前は木曽義仲の便女(びんじょ)だった有名な巴御前と共に義仲を支えた女性です。(便女=召使、美女の意味)山吹御前の像 木曽義仲(源義仲)1154年~1184年平安時代末期の信濃源氏の武将源頼朝、義経兄弟とは従兄弟にあたる平家を打ち破り京に入る後白河法皇と不和となり、法王と後鳥羽天皇を幽閉するが、頼朝が送った源範頼・義経の軍勢により栗津の戦いで討たれた。巴御前(ともえごぜん)平安時代末期の信濃国の女性、女武者木曽義仲の便女(びんじょ)であり義仲の武将としても活躍した。日本の歴史で女性の地位は低いものでしたが平安末期から鎌倉時代においては男性同様に地位が認められた時代がありました。男性に代わり刀や弓をもって戦うこともあった。山吹神社と五輪塔に到着幹線道路から離れた小さな集落の中であります「木曽義仲は信濃より巴・山吹二人の便女(びんじょ)を 具せられたり。山吹はいたわりあって、都に留まりぬ」 と記されています。源頼朝と決裂し追われる身となった 義仲に山吹御前についていきたかったが、体を壊し京に 残されます。五輪塔と山吹神社義仲が亡くなった後、山吹御前は生前伊予守であった義仲の縁を頼りに伊予へ落ち延びます。双海町上灘の沿岸部に上陸し、上灘川に沿って移動する中で山吹御前は息を引き取りました。山吹の墓とされる五輪塔が残る集落は山吹集落と呼ばれている。 明治時代に地元の方は長州大工に依頼し建てられた立派な神社。 彫刻も見事彫られたのは木曽義仲でしょうか? 本殿 合掌 山吹神社と県道の間に建っている五輪塔山吹御前の墓と言われている。 さらに源氏のゆかり地を紹介します「鎌倉神社」と「源範頼(のりより)」源範頼を祀った鎌倉神社に到着こちらは松山市から車で30分の場所(伊予市上吾川1492)この神社には源範頼が頼朝より謀反の疑いを賭けられ伊豆に流された際、伊予の河野氏を頼ってこの地に逃れたとされる伝説がある。伊豆の修繕寺にも範頼の墓がありますが諸説ありここ伊予の地が最後であった可能性は高い。源範頼(ドラマより)源範頼は源氏の6男、頼朝の弟範頼は義経と共に木曽義仲を討ったり、壇ノ浦の戦いでは平家追討に功績を残すなど源氏の為に活躍した。範頼は遠江(静岡)蒲御厨(かばのみくりや)で生まれたので蒲の冠者(かばのかじゃ)と呼ばれていた。神社には夏目漱石の句碑漱石が松山滞在中に神社を訪問した際の句「蒲殿の いよいよ悲し かれ尾花」「木枯らしや 冠者の墓撲つ 松落葉」拝殿拝殿の裏側には「蒲冠者範頼公墓」と刻まれた墓石江戸時代に当時の大洲藩主が墓石を建立し鎌倉神社として範頼を祀るようになりました。神社の周りには臣下の墓と言われている小さな墓もたくさんある。この池の周りに範頼の五輪塔があったが隣に神社とお墓が建てられた。大洲に向かう途中に寄った内子の街並み昔は蝋の生産で栄えた街、うだつが上がっている。大洲城平成14年に天守が復元されている肱川を天然の堀として利用した。小早川隆景や藤堂高虎などが城主として着任した。江戸時代の城下町現在とあまり変わらない肱川と松山ー宇和島のJR線1泊110万円で宿泊可能トイレ・風呂は別棟に移動色んな殿様体験がセットのプラン下台所江戸時代から残る貴重な建物食料の貯蔵に使用された。大洲から車で10分レストランゆうぼく民牧場(生産)・精肉店(加工)・レストラン(飲食)直営店舗はなが牛・はなが豚ブランドで販売ランチメニューサラダミスジステーキ2100円脂少な目で柔らかいお肉ポークカツレツ1100円フライパンで仕上げたカツレツは薄い衣でお肉の旨みがダイレクトに伝わります。隣の精肉販売所へ移動加工肉コーナー真空パックの冷凍販売(ロス防止、色んな種類を販売できる)生産者直営なので内臓部位など種類豊富熟成肉の販売も砥部の砥部焼き梅山窯販売所に到着磁器なのでどっしり重厚感が魅力唐草のデザインが特徴的何枚か購入丼容器四国のうどん屋さんなどがよく使用されます3000円から5000円位松山市内にあるロシア人墓地日露戦争(明治37年2月から38年8月)の間捕虜として捕まったロシア兵を全国各地で収容所が造られました、ここ松山でも寺院が利用された。日本は捕虜に関する国際条約(ハーブ条約)を守り人道的に捕虜を扱った。収容所では自由散歩が認められ市内を散策する事ができた、また道後温泉につかったり海水浴を楽しむ捕虜の写真もある。日本人とのロマンスもあった映画化されている。ロシア兵98名が眠る墓地北の方角(ロシア)に向いて墓が建っているここを訪問するのは2回目ですがいつもゴミ一つ落ちていない綺麗に管理されている。ロシアにも日本兵がいたはずですが扱いは同様だったのでしょうか?????????太平洋戦争時のアメリカ兵墓地こちらも母国に向いている夕食は松山市内の居酒屋「仁平」さん地元の人で満員おすすめコースを注文突き出しホタル烏賊酢刺身は種類多い鰆のタタキマナガツオトロの部位脂がのってる鯛の煮物サヨリ唐揚げ味は凝縮されたホタテ2500円の充実コースでした。明日は今治に移動予定
2023.03.16
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ホテルナンバーワン松山今回は出張で愛媛松山市伊予鉄カラーはブレないみかん色ホテル№1松山に宿泊しますほのホテルは高松、高知にもあり特徴は大浴場完備と高知に宿泊時には屋上露天風呂もありライトアップされた高知城がとてもきれいでした。部屋は通常のビジネスタイプ今回は2食付きプラン10300円1階の「文殊亭」でいただきます坊ちゃん御膳コース刺身3点盛り蛸酢野菜サラダアツアツ天ぷら盛り合わせ牛ステーキハラミの部分でしたが柔らかく旨みたっぷりの肉〆の鯛飯は宇和島スタイルこの時期ホテル周辺の飲食店は時短や休業が多くホテルでの食事は助かりました翌朝の朝食手作り感たっぷりの惣菜朝から刺身(かんぱち)が登場鯖の味噌煮は身が厚い出し巻き玉子も手作り味噌汁も魚介の出汁が効いて美味しいシロップ漬けのフルーツが唯一のマイナスポイントホテルの中だけで完結が出来ますごちそうさまでした。
2021.09.22
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村上海賊ミュージアム村上海賊は14世紀中ごろから瀬戸内海で活躍した一族村上家は能島・来島・因島の3家からなり連携したり離反を繰り返しつつ互いに同族意識をもっていた。小早船(こばやふね)小回りか効きスピード性にも優れていた村上海賊はこの地域の海上で自分の縄張りを通過する船から通行料を徴収(関立)していた。その他水運や貿易・警固などを行っていた戦国時代にはこの地域の守護大名であった河野氏と結びつきます、その後山口の大内氏、広島の毛利氏の有力な水軍としても機能した。一番大きな船が安宅船(あたけぶね)真ん中の船が関船(せきふね)小さな船が小早船(こばやぶね)鉄砲を撃つ狭間などや弾薬庫・防御の壁などが備わっている山口の大内氏(陶軍)と毛利元就の厳島決戦では村上海賊は毛利元就の水軍として戦い毛利氏の勝利に貢献する。毛利隆元(毛利元就の長男)からの手紙当時の海の法律(決めごと)戦国時代末期に瀬戸内海を通過する時に使用された自由通行旗「過所旗」村上氏に通行料を支払い安全を確保しましたほうろく玉(手投げ爆弾)戦国時代には海賊と呼ばれていた水軍と呼ばれるのは江戸時代に入ってから西洋のパイレーツ(海賊)は船を襲い金品を奪うだけなので村上海賊とは意味が異なる村上海賊は船の警固・水先案内人・貿易・商人漁師・水軍などの活動を行っていた集団の事村上氏の家紋今も瀬戸内海の島々には村上の名前が多い村上氏の陣羽織(実物)能島村上氏の旗真ん中の島が能島、村上海賊のお城があった島後ろはしまなみ海道(来島大橋)1586年イエズス会宣教師のルイス・フロイスも瀬戸内海を通過する時に能島の村上海賊を訪れています村上海賊は修道士に尊敬を払い、手厚くもてなし居城に招待したという記述が「フロイス日本史」にありますまた能島村上氏を日本最大の海賊と報告書に記述豊臣秀吉が全国を統一すると村上海賊も解散させられ毛利氏の家臣や漁師・農業などに従事する事になるしまなみ海道の島々には村上海賊の城跡や遺跡が残っているので次はサイクリングしながら巡る旅も予定したい
2021.05.13
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愛媛 今治城関ケ原の戦いでの戦功により伊予の半分20万石を領した藤堂高虎が築いた平城、別名「吹揚城」1602年に築城をはじめ完成は1613年ごろと推測1635年からは松平久松氏の居城となった村上海賊が伊予芸予を去った後に建てられたお城天守閣からは来島海峡を一望できる。江戸時代も変わらず来島海峡は政治・軍事・経済に与える重要な場所であった天守と山里櫓堀の中の水は海水を利用海の魚たちが住んでいるそうです釣り人はいませんでした、禁止?海とつながっている海水入口鉄御門(くろがねもん)二の丸表門、巨大な桝形や隣接する櫓によって厳重に守られていました。黒い部分は鉄板で覆られています藤堂高虎の像築城の名人として知られ宇和島・今治・津・伊賀上野・二条城などを築城天守閣の横にはたくさんの車があり全て関係者の車(一般車は入れず)今治市役所の車や売店の方の車役所が管理するとよくある事例訪れるお客さんは城外の有料駐車場関係者は天守閣の目の前に駐車する民間では考えられない無神経な運営明治維新後に取り壊され昭和55年以降に天守や櫓が再建された。本日の宿ホテル菊水さん郷土料理もお手頃価格で食べれます部屋は狭めですが改装されており室内は新しいアメニティは普通有名な今治タオルを使用部屋からはかすかに今治城が見えます夕食は月コース1760円おしぼりもボリュームがある今治タオル小鉢お造り2点盛り烏賊と鯛の湯引き車海老牛のしゃぶしゃぶ来島鯛のかぶと煮来島鯛釜飯と赤出汁ホテル内での食事、この内容と量、上品な味付で1760円はお得なセットでおすすめ翌朝ホテルの前は今治港、後方は来島大橋港のターミナルも船をイメージ今治銀座商店街ホテルの朝食770円オムレツは目の前で調理し提供おしぼりはもちろん今治タオルホテル近くの鶏卵饅頭屋さん一笑堂さん創業200年の老舗一口サイズの饅頭は食べやすく甘さ控えめの上品な味でした。西日本ではおなじみのポエムさんも今治が本社しまなみ海道、村上海賊ミュージアムに向かいます
2021.05.11
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善通寺から新居浜市に移動の途中スーパーセンター プラントさん食料品スーパーとホームセンター合体型のパワーセンターは広大な店内通路幅も十分な広さお客さん一人一人の買い物量も多い各カテゴリーには自社ブランド商品をメインで陳列し価格訴求を実施こんにゃくメーカーは群馬県に大手メーカーが集中、群馬出身の大物政治家は多く海外からの安価なこんにゃく原料を阻止する為に法外な関税を掛けてこんにゃく生産者やこんにゃくメーカーを守っています。本日のホテルαー1ホテル新居浜普通のビジネスホテル少し古さを感じますが清潔感ありコスパ重視のアメニティも少な目今日の夕食は近くのスーパーヘルシー和風メニューに白ワイン翌朝は無料朝食付きパンとドリンクこの時期なので全て個包装ドリンク酒類は多め本日の朝食ヨーグルトは近くのコンビニで購入隣町の西条市に移動鉄道歴史パーク西条臨時休業伊予西条駅にあるパーク西条市出身で第4代国鉄総裁(JR)十河信二さんの銅像があり十河総裁は新幹線生みの親として有名初代新幹線の0系新幹線も展示されています。近くにある観光案内書の中石鎚山山系の湧き水である「うちぬき」西条市内各所から湧き水が流れており野菜の洗い場など湧き水周りの観光ルートも人気各媒体によって順位が変わるのであてにはならないが四国の名山石鎚山やうちぬきがあったり海岸沿いには大手企業が並んで進出しており量販店や飲食店なども多く生活するには便利な街アサヒビール西条工場西条市にもある巨大なクレーンの今治造船今治市にある中華料理 シルクロードさんランチタイムのサービスセット夜のサービスセットちゃんぽんセット850円味は中華あんかけ麺の感じ通常のラーメン麺と同じ細目麺今治名物焼豚丼お店によって色んな焼豚玉子めしがあります今治城近くにある「フレッシュバリュー」さん今はどこでもカットフルーツコーナーは充実ひと昔前のスイカ売り場昭和を感じる100円漬物コーナーこれだけあれば高い通常商品の陳列は必要なし讃岐寄りなのでうどんの品揃えは多い練物コーナーは地元メーカーさんの商品が並ぶ惣菜米飯コーナーは圧巻他のお店では仕入れ弁当が多い中全ての弁当が店舗での手作り商品が大量に陳列されている・作りたてなのでとにかく鮮度が良い・店内で加工なので色んな商材が使用できる・毎日違う商品(日替わり)の提供可能美味しそうな中華弁当今治名物 焼き豚玉子めし鯛めし106円お買い得品愛媛県は養殖鯛の生産量日本一お店で加工調理した惣菜も美味しそうコロナの為揚物も個包装精肉コーナー棚の上は関連商品販売よく見ると全て日本食研さんの商品が陳列されている今治市は日本食研さんの本社がある街 日本食研さんの今治本社工場別名「宮殿工場」一度工場見学に伺ったことがあります庭園や工場建物など本当の宮殿でした焼豚玉子めしの関連商品コーナー市内の色んなお店で食べましたが美味しかったですが全て食べる前から想像できる味でした。今日のホテルに向かいます
2021.05.10
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愛媛 伊予の大洲城 伊予下灘駅清流肱川の畔に城が築かれたのは1331年多くの武将たちが主となった大洲城ですが明治末に天守閣が取り壊されます。平成16年に天守閣復元工事が完了しました比較的新しいお城は基礎から完工まで木材の選択その工法、木組、壁、瓦など当時の技術、工具にこだわり忠実に復元されています。(鉄筋やコンクリートは使用されていない)天守閣からの眺め肱川と夏には鵜飼いが行われる場所鵜飼い用の船が並んでいました。1585年には四国を統一した羽柴秀吉秀吉は小早川隆景を松山の道後湯築城とここ大洲城を治めさせる小早川氏の後は藤原氏、脇坂氏、加藤氏と代わっていく当時の技法で木組を行った4層4階の天守には釘などは1本も使用していない屋根瓦には岐阜産の寒さに強い燻瓦を使用当時は内堀、外堀があった内堀のあった地点から天守大洲城は「男はつらいよ」のロケ地としても有名復元される前の天守でお金を数えている寅さんうっかり500円札が風で飛ばされ石垣の下に落ちていきます。それを拾ったおじいさんが元大洲のお殿様の末裔そこから物語が始まります。 大洲城から車で1時間有名は夕日スポット「下灘駅」に来ました。目の前には瀬戸内海海に一番近い駅として有名でした今では観光スポットになっており一日中多くの若者やカメラマンが訪れるそうです。TV番組で使われるダッシュ島はこの沖合の島もちろん今も現役の駅ですが時刻表をみると1時間に1本くらいの電車ではなく汽車(電線がない)この日は雲が多かったためそこそこの夕日でしたまたまたですが寅さんのロケ地にもなっています。映画のワンシーン駅のホームで昼寝していた寅さんが起きたシーン当時は海岸沿いに道路がない本当に海に一番近い駅であった。
2020.11.04
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