カテゴリ未分類 0
全5件 (5件中 1-5件目)
1
シンガポール旅行 帰国シンガポール旅行最終日の夕食は初日に訪問したホーカー(屋台街)野菜炒め各種とご飯400円最後は野菜を食べたくなった中華風焼きそば500円チキンライス400円安定の味旨い電車で空港に向かいます空港併設のショッピングセンター「JEWEL」中心に大きな滝が出現、圧巻です旅慣れているパイロットやCAさんも記念撮影されていたスクートの自動発券機は日本語対応チャンギ国際空港は搭乗時間48時間前からチェックイン可能(普通は3時間前)早朝便であれば前日夜に空港入りしてラウンジで待っていた方が効率的この日も出発8時間前に空港到着してラウンジで過ごしました。ラウンジも24時間対応の空港出発フロアーの一つ上にラウンジがあります最初に入ったラウンジ1か所の利用時間制限はだいたい3時間なので2か所入る予定ゆったりしたソファーコンセントも充実暑い国からの帰国にはありがたいシャワー完備個室になっているので荷物の整理もできます広いラウンジ食事も充実ビールやソフトドリンクウイスキー等ラクサ(海鮮ラーメン)とサラダを頂きました2軒目のラウンジ広々ラウンジで滑走路を眺められるサラダメニューも充実ホットミールも数種類ありますメインはアラカルトメニューでその場で作っていただけるチキンライスを注文ハーフサイズの食べきり味は本格的で美味しいこのラウンジで3時間仮眠し帰国便に搭乗しました。関西国際に11時到着大阪駅でたこ焼きの寄道有名な「はなだこ」さん揚げタコが多い中ここでは時間をかけて焼きタコを作っています。帰りの新幹線百貨店の惣菜をつまみに最後の晩餐今回は歴史の勉強もでき有意義な旅でした次回はフィリピン旅を予定しています。
2024.01.09
コメント(0)
シンガポール旅行この日の朝食は有名なカヤトーストを頂きますシンガポールのソウルフードといわれており朝から行列ができていました。カヤトーストの専門店こんがり焼いた食パンにカヤジャムを挟みいただきます。カヤジャムとはココナッツミルクをベースにしたジャム。あっさりした甘いバターの様な味で美味しいはさんAセット600円半熟卵2個・コーヒー・トースト4セットカヤジャムもたっぷり入ってます蒸しパンバージョンもあり焼いたパンの方が美味しいかなり半熟な玉子焼き缶ジュースの自動販売機はないが生オレンジジュースの販売機がありました1杯200円オレンジ4個をその場で絞るフレッシュジュース製造行程も見れるので鮮度感マックスですカップにはトップシール加工で漏れ防止これはかなり美味しいおすすめ治安の良いシンガポールでも外では自動販売機類を見かける事はなかった日本の治安がいかの良いかを実感できる高層ビルの展望台に向かいますこのビルの屋上が一般開放されている最上階のフロアー到着遊歩道が整備されており周りは植木や花が整備されており植物園の中にいる感じですチャイナタウン方面の眺めマリーナベイサンズも見下ろしますホテル前では毎晩噴水ショーが開催されるマリーナベイサンズの屋上に上がるには宿泊するか別途4000円払う必要がありますがここからの眺めは無料です。マリーナベイサンズホテルより気になったのは海に停泊している貨物船の数小さな国土で大きな港も作れないので沖留めしているのでしょうか?カフェも併設されておりこの風景を眺めながら食事もできます。続いて向かったのは「ボートキー」シンガポール川の河口にある歴史がある埠頭です昔の風景今では高層ビル群と川沿いにはシーフードレストランなどが立ち並ぶ商業エリアです。昼食は近くのホーカー(屋台村)マレーシア系の惣菜屋さんナシレマ(ぶっかけ飯)200円(ココナッツミルクで炊いたご飯と各種惣菜)こちらは中華系のお店海鮮汁とご飯200円食器を回収する所シンガポールでは自分で返却します放置は罰金のようですシンガポール国立博物館入場料1000円シンガポールに入植した時代から近代までの歴史が展示されている。2023年に建国58周年を迎えた比較的歴史の浅いシンガポールですが今では世界有数の経済国家に成長した過程も詳しく展示しています初めてシンガポールに人が入植したのは1298年といわれている海運の要所であるシンガポールは貿易船や海賊の停泊場として発展する14世紀には「シンガプーラ」と呼ばれる(ライオンの街)1819年にはイギリスが上陸し植民地化さらに貿易港として発展しアジアとヨーロッパを結ぶ拠点となる。イギリスは中国同様シンガポールにもアヘンを持ち込み現地住民を薬漬けにした。急速に発展したシンガポールには日本をはじめ世界中から外国人が移住するようになる。中国や朝鮮半島に進出する日本1941年12月8日日本はマレーシアに上陸陸路でシンガポールを目指した。植民地支配していたイギリスと戦い1942年にイギリスは降伏し日本はシンガポールを占領する。太平洋戦争中はシンガポールを昭南島と呼び日本の統治が始まる95式戦車日本軍が使用した主力戦車マレー半島から上陸し一般兵の主な移動手段は「銀輪部隊」とよばれた自転車であった。日本軍に敗れ捕虜となったイギリス兵や現地兵(インド系、マレー系、中華系)降伏交渉に来たイギリス兵司令官交渉はシンガポールにあったフォード自動車工場であった。(現在は資料館として営業している)右側がイギリスのアーサー・パーシバル司令官日本側の代表はマレーの虎と呼ばれた山下奉文司令官(大将)2倍の兵力さがありながら難航不落と謂われたシンガポール要塞をわずか10日足らずで攻略イギリスが率いる軍としては歴史史上最大の将兵が降参した。当時の首相であったチャーチルは自書で「英国軍史上最悪の惨事であり最大の降伏」と表している。戦後に山下奉文将軍はフィリピンで裁判にかけられ戦勝国の不当な判決により処刑されるその場にはパーシバル司令官も呼ばれ立ち会った。*フィリピンに訪問する予定があり将軍が処刑 された場所には慰霊碑があるようなので行く予定勝利を喜ぶ日本兵世界ではじめて白人に勝った有色人種この勝利が戦後世界各地で独立運動が起こり白人の植民地支配から解放される原動力にとなった。最後は初代シンガポール首相のリー・クアンユー首相(1923年~2015年)シンガポールを世界有数の豊かな国に発展させ、世界の平和と繁栄にも大きな役割をはたしました。2023年は生誕100年の年1965年にマレーシアから独立を宣言し初代首相に就任1990年に首相を引退引退後も内閣顧問を務めるなど晩年に至るまで絶大な影響力と人気があった政治家演説する動画も放映されていた外国人の目から見ても説得力のあるスピーチ(言葉はわからないが)このような人が本物の政治家なのでしょう派閥の論理(利権)で選ばれる我々の首相とはレベルもラベル全然違う圧倒的な存在感がありました。明日帰国します。
2024.01.08
コメント(0)
シンガポール セントーサ島のシソロ砦2023年に建国58周年をむかえたシンガポール以外にも歴史が浅い国ですが今やアジア有数の経済成長を遂げています。マレー半島の先にあるシンガポールは1298年にはじめて入植がはじまりました、最初は海賊の停泊所として栄えた。19世紀にはイギリス人のトーマス・ラッフルズがシンガポールの開発に尽力し中継貿易の拠点として大きく発展した。(イギリス植民地時代)太平洋戦争が始まった1942年から1945年までは日本統治となり「昭南島」と呼ばれた。(日本統治時代)セントーサ島にあるシソロ砦はシンガポール防衛の為に作られた砲台などがある施設です。マレー半島の先端にあるシンガポール小さな島のシンガポール海に面した南側が発展している水道水は隣国マレーシアのジョホールバルから水道管で輸入しているセントーサ島は現在ユニバーサルスタジオや各種リゾート施設がある観光島中心部からバスでセントーサ島に向かいますセントーサ島にはモノレール等で入ります入島料金もかかるので少し運賃高め島内には無料のトローリーが走っており便利に移動可能セントーサ島の先端にあるシロソ砦先端までは塔の上の歩道で向かいます無料リゾートの島、ビーチや各種アトラクションを整備海上には沢山の船が停泊中、入港する港も限られている為沖留めしているのか?眺めの良い遊歩道1939年イギリス製の35ポンド榴弾砲砲身が短くカノン砲と比較すると近距離を攻撃する砲身イギリス製6インチ砲施設建物の地下に砲弾貯蔵し手動で持って上げる6インチ砲の砲身と砲台高台にあり現在は木で見えないが伐採すると海が広がっている。1942年イギリス砲撃司令塔水平線がくっきり見える高台に設置艦の区別は写真の絵を見て判断したイギリス製6インチ砲砲身も長くカノン砲のように真っ直ぐ飛ぶタイプ砲弾の貯蔵庫は分厚いコンクリートに覆われた地下室にあるほぼ手作業で砲弾を装填する1942年2月15日イギリス軍は日本軍に降伏現在のセントーサ島は捕虜収容所となった。資料館としての建物もあり多数あります日本はシンガポールを「昭南島」として統治を行った。インフラ整備や日本語教育も行われた日本語教育の様子日本式の教育が行われたシンガポールの資源や農作物を強制的搾取され日本に送られた見張り台と砲台1990年当時の写真資料館の外に置いてあるのは日本軍の空母の一部エンジン等一番大きな資料館日本のシンガポール侵攻についての詳細な展示があります1942年日本軍は3方からシンガポールに侵攻2月8日~2月15日のわずか8日足らずで攻略日本陸軍第25軍は1941年12月8日にマレーシア半島に上陸1月にはマレーシアのクアラルンプールを占領シンガポールに向けて侵攻した。多くの兵隊は自転車でマレー半島を移動し戦った1942年2月15日イギリス人司令官パーシヴァルたちはフォードの自動車工場にて山下大将たちと降伏交渉に及び降伏した。1番が山下奉文将軍、正面に座っているのがパーシバル司令官終戦後山下大将はフィリピンで軍事法廷で裁かれ処刑される処刑の場には日本の捕虜となっていたパーシバルを呼び寄せ死刑執行に立ち会わしている。1945年8月6日8時15分原爆投下され破壊された広島の街巨大な写真が部屋一面壊滅した広島の街これも巨大な写真が展示されている爆心地から約2km離れた宇品の御幸橋(広島)被爆者たちが傷の手当を受けている原爆投下後の8月15日に日本は無条件降伏日本の降伏を喜ぶシンガポール市民最後の展示は日本の降伏調印の場面法廷で裁かれる山下将軍法廷の検察官や裁判官の中には法律を専門とする者は一人もいなかった弁護団の反対尋問は許されず、風説や伝聞証拠がまかり通り判決は絞首刑となる1946年2月23日処刑される日、マッカ―サーの命令により軍服や勲章の着用も許されず、米軍のシャツとズボン緑色の作業着であった。処刑には降伏したイギリス軍パーシバル司令官やアメリカ軍司令官も立ち会った出口には平和を願う来場者のメッセージ改めて思うあの太平洋戦争とは何だったのか?山下将軍はじめ戦犯とされ処刑された軍人たちは日本の為に戦っただけではないか?戦勝国が不法な裁定を下すことはあるが我々日本人までがその裁定を受け入れる必要はない。日本が過ちを犯したから原爆が投下されたのか?何万人という幼い子供や一般市民の命を一瞬で奪った原爆はどこの国が使用しのか?原爆のような恐ろしい兵器を1度ならず2度も投下したのはどこの国の人間か?一方的に日本が「悪」の展示には不快感の残る訪問となった。
2023.12.27
コメント(0)
シンガポール旅行2日目この日はシンガポールの「からゆきさん」関連の場所を訪問します。「からゆきさん」とは明治時代に日本から東アジア・東南アジアに渡って働いた日本人労働者のこと。九州でも貧しかった地域である島原・天草地域の出身者が多かった。斡旋業者が貧しい家庭を回り海外での仕事を紹介し若い女性たちが出稼ぎの為アジアや遠くはアフリカまで渡った、女性たちの仕事は聞いていた仕事ではなく娼婦とした働かされた。数年前に島原半島旅行時に口之津の郷土資料館を訪問しからゆきさん関連の展示を見ていつかアジアのからゆきさんに関係する場所を訪問したい思いがありました。島原訪問時の復習から口之津は島原の乱があった原城から車で10分の所新しい港(天草行)も出来ておりターミナル内にもからゆきさんの資料展示がありました。口之津港から5分歴史民俗資料館資料館の中にある「からゆきさん」に関する資料展示コーナー地元の住民からは展示コーナーに反対の声もあったが(からゆきさんの子孫の方々が今もこの地で暮らしている)彼女たちを伝える遺品や写真が数多く展示されている海を渡ったからゆきさんたち10歳くらいの少女もからゆきさんの中には現地で事業を起業し成功する人もいたわずかな支度金で斡旋業者にだまされ海外に渡った斡旋業者(女衒ぜげんと呼ばれた)娼婦の仕事とは告げず少女たちを集めた日本に帰国したからゆきゆんの証言炭鉱船の船底に詰め込まれ海を渡ったあまりに悪い環境の為現地に到着する前に亡くなった方もいる。口之津港は三池炭鉱の石炭を出荷する港であった。この資料館でシンガポールやマレーシアにからゆきさんのお墓がある事を知り機会があれば訪問したいと思っていたここから今回のシンガポール訪問編市内中心部のブギスジャンクション今は大きなショッピングモールアパレル関係のお店と飲食店が多い昔あった通りの標識が残っていますブギスストリートやヘイラムストリートモールの中にはブランド店や宝石店など空調も効いており若いお客さんで賑わっていますインターコンチネンタルホテルの前辺りが昔のマレイストリートとヘイラムストリートが交差する通り、まさにここがからゆきさんたちが働かされた日本人娼館があった場所。山崎 朋子著「サンダカン八番娼館」の中でもシンガポールの日本人花街通称「ステレツ」と呼ばれた場所を訪問したと書かれています。今では昔の面影が微塵もない、周辺も探索したが近代的な建物が並んでいる。当時のマレーストリート(ステレツ)3階建ての建物が並びだ日本人街この中にからゆきさんの日本人娼館があった。バスで郊外にある日本人墓地に向かいます市内からは40分くらい離れているシンガポールのバスは行き先番号表示なので分かりやすい、支払いもクレジットカードのタッチ決済、2階建てバスで眺めも抜群で専用レーンを走るので渋滞なしただし日本の様に乗客が座ってから発車するような事はないが他のアジア地域のバスと比較すると安全運転ですバス停からさらに歩いて10分で到着「シンガポール日本人墓地」この日本人墓地は娼館主、雑貨商で成功した二木多賀次郎自分のゴム園の一部を提供した事から始まる。それまでシンガポールで亡くなった日本人の遺骨は牛馬の廃骨場に捨てられており、それを悲しんだ二木氏らが当時英国植民地政庁に墓地の申請を行い許可された(明治21年)ここにはからゆきさん、戦前活躍した日本人、戦争犠牲者など明治、大正、昭和時代のお墓が並ぶ墓地の案内図野球場1個分くらいの敷地でかなり広い常勤の管理者が綺麗に掃除されてました隅々まできれいにされている陸海軍軍人慰霊碑太平洋戦争では日本軍は真珠湾攻撃より早くにマレーシアからシンガポールに向けて侵攻しイギリス軍を降伏させている園内にあるゴムの木パパイヤの木青い実が成っており見ているとそれに気づいた管理の人がパパイヤを採ってプレゼントされました。日本には持って帰れないと思いながらもいただきました。御堂日本人墓地では無宗教主義となっておりこの御堂の中には仏具など保管してあるがお寺ではなく御堂とした。所有するゴム園を日本人墓地として提供した二木多賀次郎のお墓大正2年没(推定70歳)娼館、雑貨商、ゴム園を経営二木多賀次郎はじめ娼館を経営していた娼館主たちは、九州の貧しい地域(天草、島原、長崎など)から娘たちを騙し誘拐しこの地まで連れてくる手配師(女衒)の上司的存在であった。口之津港などから石炭船の船底で奴隷の様に運ばれシンガポールの港に着くと女衒から新しい着物を着せられ倉庫の前に並ばされるそこへ女衒の親方である娼館主たちがやってきてセリをはじめる、きれいな娘は2千円、見栄え悪ければ500円娘たちは当然これからホテルや旅館で働くものを思っていたが借金をかたに強制的に娼婦として働かされる。(海外で逃げ場もなかった)バナナの木日本人音吉の墓14歳の時見習いで乗った船が嵐にあい漂流して1年2か月後のアメリカに到着その後中国やマカオなどに住み1862年にはシンガポールに住む初めての日本人となった。江戸時代に一旦海外に出ると日本への再帰国は困難であった。ジョン万次郎のように外国のスパイとして扱われる為南方軍総司令官 寺内寿一(てらうちひさいち)元帥の墓太平洋戦争の南方作戦を指示昭和21年病気の為死去ここには元帥の遺髪、襟章などが納められている二葉亭四迷(ふたばていしめい)明治元年~明治42年ロシア文学家、翻訳家、小説家からゆきさんの精霊菩薩日本人娼婦が初めてシンガポールに現れたのは明治3年と言われる、からゆきさんの中には貧困の為病死した人が多く、墓は大半が木標であった、年月が経って朽ち充てた物を共済会が無名のまま小さな墓石を建て死者の冥福を祈った。小さな墓石は全てからゆきさんのお墓明治10年にはマレーストリートに少なくとも2軒の日本人娼館が建った明治20年にはからゆきさんは100名その後明治35年に娼館83からゆきさん611人日露戦争勃発した明治37年には娼館101からゆきさん902人と増えていった。明治元年から大正中期まで続いた日本から海を渡ったからゆきさんからゆきさんたちは現地の男性と結婚するものや日本に帰ったひともいたが大半はこの地で病気などによりこの地で亡くなった。からゆきさん関連でこの墓地を訪れたがシンガポールでの日本人が関連する歴史を学ぶことができ貴重な体験となった。日本人墓地の帰り道インド人街に立ち寄ったチャイナタウン、インドタウンはどこの国にもあるシンガポールの物価は高いが屋台街(ホーカー)では庶民価格で食べる事が出来るバナナリーフのビリヤ二500円ナンとタンドリーチキン500円他民族国家なので本格的な料理を食べる事ができます。
2023.12.17
コメント(0)
シンガポール旅行4日間の日程ではじめてのシンガポール旅今回の目的①シンガポールの食調査 (スーパーマーケット・市場や飲食店)②セントーサ島にあるイギリス砲台跡 (戦争跡訪問日本に関係した場所)③日本人墓地訪問 (からゆきさん)関西国際空港からスクート(LCC)を利用中心部から離れているので不便な空港出発前にANAラウンジプライオリティパスを使用アルコールと稲荷普段ビール飲まないので格別に旨い今回はLCC利用で食事なし追加で名物カレーライスもいただくスクートの機体はボーイング787(3-3-3配列)大きな機体は揺れもすくないので楽約6時間でシンガポールチャンギ国際空港到着空港直結地下鉄で市内中心部まで移動シンガポールは鉄道やバスなど網羅されており大変便利に利用できる。クレジットカードタッチで通過できるのでわざわざ鉄道用やバス用の交通カードを購入する必要もない。特にバスは激安価格で1回100円位で乗車できる3日間バスを数十回利用したが請求は2000円位でした。初日のBOSSホテル真夜中に到着、治安が良い国なので深夜でも安心安全です。ホテル代も高騰しておりこのクラスで1泊25000円でした。ドミトリーのホテルでも5000円でしたので日本より高いというより経済発展している国ホテルの1階に入っている中華系レストランで食事チキンライスが名物らしいですが売れ切れラクサ(マレーシア、シンガポールの名物)海鮮スープの麺料理日清チキンラーメン風のラーメン1000円既に円安関係なしに物価が高いシンガポール小麦麺の硬めスープはチキンラーメンの濃いめココナッツドリンク600円滞在中1回はココナッツプール付きホテル(翌朝撮影)朝食はホテルの外で地元の人と同じ物を食べる事に高層ビル群狭い国土で効率良く高層の商業ビルや住居ビルが郊外まで建設されています。中心部から車で30分以上離れないと一軒家はない巨大ビル群と昔ながらの建物今でも残る古い建物日本の年代だと明治時代から戦後までこのような建物が街中に広がっていた1800年代後半のシンガポールこちらのお店で朝食名物料理朝限定メニュー500円やさしい味の鶏ガラスープに米粉麺ミートボールに青梗菜太麺で食べ応えあり歩道までテーブルを広げるのがアジア流ホテル全景ホテルBOSSをチェックアウトし次のホテルに移動前日ホテルより広い部屋1泊25000円ウエルカムドリンク付きこのホテルには2か所プールがありホテル近くの建物警察署か消防署ホテルから歩いて昼食に向かいます遠くには有名なマリーナベイサンズ有名なバクテ―のお店開店直後にこの行列バクテーは骨付豚肉の薬膳煮込みスープマレーシア、シンガポールの名物料理とにかく旨いスープ、牛テールスープの豚バージョンの味ご飯、パン、スープで1400円シンガポールのバクテーはコショウが効いてパンチがある味。そのまま、ご飯に付けて、パンに付けてそれぞれ旨い。そしてスープはおかわり自由2回もおかわりしました市内の移動はもっぱらバス・バスレーンが整備されており渋滞しらず・クレジットカードでタッチ決済できる・市内路線が網羅されておりどこでも移動が楽・車両も多いので待ち時間少ない・料金安い・グーフルマップのバス停検索で路線番号が表示 されるので分かりやすい。 バスも大きく番号表示されている(地名でない) 降車もグーグルマップの位置検索でバス停が分かるシンガポールのシンボル「マリーナベイサンズホテル」ローシーズンでも1泊8万円の最高級ホテルホテルを中心にカジノやショッピングモールフードコートなど巨大な施設が並ぶカジノ入口厳重なチェック実施パスポートはじめ専用アプリで登録必要テーブルゲームコーナーお昼なので半分以下の使用率撮影不可の場所カジノフロアーは全部で4階テーブルゲームは最低2500円早ければ1分で勝負が決まるルーレットは200円から遊べるスロットマシンなども数百円から可能ブラックジャックなどテーブルゲームで遊ぶ場合最低でも20万円位チップがないとあっという間に負けてしまう今回はカジノ目的でないので見学だけお客さんの大半が大陸の方々でしたインフィニティプールは宿泊者専用ですが展望デッキは有料で上がる事が可能3500円上がろうとしましたがネット検索でもっと高いビルの展望広場が無料で見れる事が分かり翌日訪問する事にした。真下から見上げたサンズホテル近くから見ても圧倒的な存在感ホテル内部(フロントやレストラン)ホテル前では毎晩噴水ショーが開催される反対側にはマーライオン(修復工事中)ホテルのショッピングゾーンシンガポール発祥のTWG紅茶やスパイスのメーカー世界中で展開されている「一風堂」さん世界15か国シンガポールでは11店舗展開中特製白丸2600円特製赤丸2700円日本店舗の倍価格シンガポール旅②に続く
2023.12.13
コメント(0)
全5件 (5件中 1-5件目)
1