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「カポジ水痘様発疹症」というものに罹り、入院していました。つい先ほど退院したばかり、シャバの熱風、季節の移り変わりなどにヤラレテいます。。カポジというのは、乱暴に言ってしまえばアトピー&ヘルペスみたいなもの。何もない肌の人がなればただのヘルペスで済むところが、私のように全身重症のアトピー肌であるためにヘルペスがザザーッと一気に重症化。独特の症状になります。最初、40度の熱が出てインフルエンザと勘違いしたのですが夜間急病センターで違うと言われ、特別にお願いして、昔通っていたアレルギー専門の総合病院の部長先生への紹介状を書いてもらいました。日曜を挟んで週明け一番に電話すると入院の用意をして来るようとのこと。病院に着くと特別にベッドのある部屋に案内され、順番を待たずすぐに診察。ひと目見るなり「これはヘルペスですね」驚いたのは、すでに隔離用の個室が確保されていたこと、それから、私が病院に着くまでにこれまでの分厚いカルテを見返していたからか、「これまでにずい分アトピーで苦労されていたのですね。ヘルペスの治療とともに、アトピーの方の治療についてもこれを機会に取り組んでいきましょう」といわれたこと。それから車椅子で病棟の個室へ直行。隔離の措置が取られたためトイレも自由に行けず、ポータブルトイレで用を足して看護婦さんに捨ててもらうっていう貴重な体験をする羽目に。40度台の熱は解熱剤を飲んでも、抗生物質の点滴を通常のヘルペスの治療の2倍量を使っても、1週間下がらず、若い担当医師には、水分補給のためだけに24時間点滴でつなぎっぱなしにすると言われ(皮膚がつらいときにからだの自由が利かないのは一番つらい…)、実際に1日ほどハリツケにされたものの機械が故障。その後看護婦さんたちが私の言い分をじっくり聞いてくれ先生に直談判にてくれ解放される、てなこともありました。高熱でうなされているうちに全身隈なくびっしり黒く丸いかさぶたで覆われていったのには、本当にびっくりしました。毎日消毒や軟膏塗りの処置をするため自分のからだを見て、心底ゾッとしました。。その「クロマル」が、今度回復してきてバラバラと取れだしたときには、これまたえらいことでした。毎日毎日、そこらじゅうクロマルだらけ。私はクロマル製造機。ああなんで全部ちゃんと丸いの?シャワー浴びられるようになったら、排水が詰まるなんて看護婦さんに言われたりして。。からだのあちこちの皮膚がビラン状になり、毎日ガーゼが張り付いて、これを剥がすのに血まみれになった時期もありました。表面の皮膚が治ってきてからも、からだのあちこちの神経の痛みに悩まされた時期もありました。本当にいろんなことが体に起こり、全部思い出すことが出来ないほどです。カポジがよくなってからも、すぐに帰ることは出来ませんでした。アトピーというは、ヘルペスと闘っているあいだは大人しくしているのですが、それが治まるとまたぶり返したり、以前より爆発的に悪くなることがあるのだそうです。アトピーの悪い肌だとまたカポジを再発しやすいので、そのようにならないか見極めるまで2週間ほど留め置かれていた時期が、カポジと闘っていたときよりも精神的にはつらかったです。「せっかくあんなに酷かったカポジがよくなったのに。よくなってよかったねって、おめでとう!って帰りたい!!」と駄々を捏ね母を困らせました。また、ずっと避けてきたステロイドもアトピーの治療に使うようになりました。1年以上悩まされ続けてきた足の甲の、滲出液が出てきたり腫れぼったくなったり皮が薄くなったりパラパラめくれたりする症状は、アトピーによるものだということが、今回の突然の入院で思いがけず分かったのです。私の今の足の状態では細菌感染の心配もあり、また歩行にも不自由を来たしているので、ある程度のレベルまでステロイドを使ってよくしたほうがいいといわれました。そもそもステロイドについては、この病院で「長い目で見て、ずっと使い続けることは、からだ全体のためによくないから、少しずつ減らす方向でいこう」と説明を受け、使わなくしていき、全く使わなくなってもう10数年が経つようになったのです。そのような経緯や、小さい頃からこれまでのアトピーの状態の変化や、その時々の生活の質、またこれまでアトピーやステロイドについて考えてきたさまざまなことなどについて、長時間にわたって丁寧に話を聞いてくれて、また、ステロイドによる治療についてや、私と似たような状況の人の治療成果についても詳しく説明してくださり、何日もずい分悩みましたが、とにかく歩ける足になって帰ろうと決心して、使うことにしました。本当にたくさんのことがありました。まだヘルペス後の揺り戻しによるアトピーの悪化のため、少し熱があったり痒みが酷く眠れなかったり体力の低下ですぐ横にならなければならなかったりしますが、しばらく、静かに過ごしていくつもりです。
2007.08.24
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今年もポランからよませのコンコードが到着しました。 全部で16。こんなアホな家は、日本中探しても多分ウチだけです。 午後から母が奮闘しております。まずコンコードを洗って。 実と皮とに分けます。 皮をぐつぐつと煮て。 実の方も皮と同様に煮たあと、タネの周りについている実やとろみを丁寧に漉し取ります。このとろみ(ペクチン)はジャムを固めるのに重要。 皮を煮たものもよく漉し絞り、きれいな色を充分に出したら、実とあわせて、グラニュー糖を加え、煮詰めていきます。 ぶどうジャムは、煮詰まって完成するまでにとても時間がかかります。今日作っているのは、8パック分。明日また、同じ量、同じ工程を繰り返します。というわけで、完成の写真は、明日の日記に載せることにします。アシカラズ※レシピをこちらに載せています。_______________________________________________________________________________________________________昨日の晩ごはん・シュウマイ(豚ミンチ&ホタテ貝柱) ・小松菜のポン酢醤油かけ ・刺身こんにゃく(あしたば。酢味噌で) ・スクナカボチャとヤリイカの煮物(写真取り忘れ)
2006.09.20
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「笹まくら」(丸谷才一)を読みました。米原万里が「打ちのめされるようなすごい本」の中で褒めまくっていた小説。丸谷才一本人がそのあとがきで、自分の作品の評価があまりにすごいことになっているのでこのあとがきを引き受けるのをためらった、というようなことを書いていたほど。米原万里はクックの作品を読んで、これなら笹まくらのほうがすごい、と感じたということですが、先にクックを読んでいた私は正直、クックの方がすごいんでは?と思ってしまいました。この2者の共通点は、時間の流れに沿って話を進めるのではなく、時間的に新しい(現在の)出来事を描きつつ、そのあいだに過去の出来事を挟んで、同時進行で物語を進める、という手法。この、現在の話を読みながら読者に浮かぶ、過去に何があったんだろう?、どうして主人公はこういうことを言うんだろう?、といった疑問が、あいだに挟みこまれる過去の出来事によって、少しずつ明らかにされていく感覚を、米原万里は薄皮を一枚一枚剥いでいくよう、と表現していました。私がクックを読んでいつも感じるのは、透明な水に一滴ずつ絵の具を落としていくように、もっと曖昧でぼんやりとした「気配」のようなものを漂わせていく感じだということでした。「笹まくら」は純文学的な作品であるのに対して、クックはミステリー小説作家なのですが、どちらかというとクックは少しずつ気配や言葉にしようのない雰囲気を感じさせるのに対し、「笹まくら」は物語の構成上、話の筋を効果的に見せるためにこの手法が使われているように感じました。この作品を読み出して中ほどまで、私はイライラしていました。戦時中に徴兵忌避者として5年間逃避生活を送った過去がある主人公は、第二次大戦後20年経った現在、私立大学の職員として働いているが、その閉鎖的な組織の中で生きづらさを感じている。ということがこまごまと描かれているのですが、その当時逃れようがないとされていた徴兵制度を拒否した時点で、一線を越えてしまっているのであり、5年間もアウトサイダーとして生きてきたのだから、もっと世俗的な些事から突き抜けるような、達観した人生観が出来上がっていてしかるべきではないか?、こんな生ぬるい人間が、ほとんど不可能とされた徴兵忌避に成功したと言われても、どうも感情移入できないぞ、と。しかし中ほどの、タイトルになっている「笹まくら」の説明の部分に来て、この印象が一気に変わりました。主人公が大学の助教授とダベっていて、 これもまたかりそめ臥しのさゝ枕一夜の夢の契りばかりにという和歌がある、という話になり、これは「刈り」「節」「笹」と掛けてあり、旅先でのかりそめの恋を歌ったものだが、万葉時代だから実際に笹を枕にしたのかもしれない、と聞いた主人公が咄嗟に、「かさかさする音が不安な感じでしょうね。やりきれない、不安な旅…」とつぶやく。そのひと言で、主人公の徴兵忌避時代の厳しさが、相手に伝わる、というシーン。これは、うまい。。と唸りました。逃避行中に、誰かに追いかけられたり、人物を見破られるなど、なにか大事件が起こるわけではなく、ただ何事もないように、どの瞬間も気を抜かず、常に想定される質問にすらすらと答えるよう準備をして、生き続けなければならない。身体的には戦場に送られるよりラクなのだけども、それだけに常に後ろめたい気持ちで、そして見つかれば待っている死を常に意識して息を潜めて生きなければならない厳しさが、このエピソードでとても真に迫って伝わってきます。最後の方で、主人公は職場に居づらくなり身の処し方を考えなければならなくなって、しばらくジタバタした挙句、ふと、身分にこだわらず何でもやって自由に生きればいいじゃないか、という心境になり、そこから、20歳で徴兵忌避のために家族に黙って家を出た当時のことを思い出します。この最後の部分を読んで、なるほど、前半部分で私にあれほどイライラさせたのは、こういうわけだったのかと思いました。時間の流れに沿って普通に書いたのでは、戦後20年経ってやっとたどり着いたこの境地をうまく説明することができなかっただろうと思いました。戦争が終わった直後は、その時を境にすべての価値観がガラッと変わったように思えたが、平穏に暮らすうち、世の中の風潮も変化し、主人公もなまぬるく煮え切らない感じでモヤモヤと生きている。もう戦争は遠い過去になってしまい、それがかえって、戦中に通じるようなものの考え方が世間に広がるようになっているのを感じ、生きづらい。今のこの風潮(60年代後半当時)は、このままでいいのだろうか?と、作者は問うているように感じました。この作品が書かれた当時からさらに時間が経って、今読むと、確かに戦後60年以上経った今になってやっと見えてくる時代の流れというものがあり、例えばもはや戦後ではないという言葉は遠い過去の言葉だし、この作品の時代の空気感も、いくつもある戦後の時代の、「節」目のひとつに過ぎないのだなあと思いました。
2011.08.23
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昔、ダシール・ハメット&ポップコーン♪というフレーズが出てくる歌がありました。そのときは、ダシール・ハメットって何? え、昔の小説家? なんか、気取ってるなあと思っていたような。本屋でこの名前を見かけるたびに、この歌が頭ん中を流れ、いつか読みたいと思っていました。で、「マルタの鷹」(ダシール・ハメット)を読みました。この主人公サム・スペードは、映画でハンフリー・ボガートが演じた、らしい。そう聞いても、幸い視覚的イメージは全然湧きません。ミステリ小説の後ろの、他の本の宣伝のページに絶対出てくる人の一人だから、難しい感じなのかと、ちょっと近寄りがたい気がしていたけど、これはほんとにポップコーン片手にって感じ。いや、ポップコーンはちょっと胃にもたれるから、あられとかで。チャンドラーのように教訓じみたところがなくて、よくいえば、より娯楽に徹しています。読む者を楽しませる要素を盛り込んだ、生活のための大衆娯楽小説だと思います。格好をつけるための小道具は紙巻煙草だし、女性の描き方といい、時代を感じさせます。早い話が、高価な「マルタの鷹」を強欲な人たちが血相を変えて手に入れようとする、というお話。といっても、宝探し的なお話としては全然面白くない。滑稽なほどのだまし合い、駆け引き、はったりを繰り返す展開を読んでいると、だいたいオチはこうなるだろうなと読めてきます。むしろ、主人公スペードは、今この時点で何を考えているのか、何をたくらんでいるのかとか、ブリジッドという人物は、天使なのか悪魔なのか。そのあたりを、登場人物が互いに相手を探ったり、だまし合いをしているところを読みながら想像をめぐらすのが、面白かったです。まだ、この1作だけでは、この作者がどういうものを書く人なのか、よく分かりませんが、これを読んだ限りでは、主人公は高潔すぎず、現実味のある描き方になっているように思いました。例えば、ロバート・B・パーカーのスペンサーだったら間違いなく良き人で、意志が強く摂生のかたまりみたいな人物。サラ・パレツキーのヴィクは常に誘惑とたたかっていて度々敗北するけど、権力や巨大組織の悪が我慢ならない。ディック・フランシスの描く主人公は、どれも優秀で正しくて完璧。それに対して、このスペードは決して高潔とはいえず、理想に燃えてはいません。作者自身、実際にこういう稼業もしていたから、あまりにヒーロー然とした人物は書けなかったという面もあるのかなとも思います。後ろの解説を読むと、作者本人の人生の諸々の苦悩や迷いが、出ているのかなとも思いました。全体を通して、ほぼ気楽に娯楽として楽しめるのですが、ただ一カ所、難しい部分が出てきます。それは、スペードがブリジッドに語る、フリットクラフトという人物についてのお話。小説全体の展開には全く必要ない部分に思われ、これはいったいどういう意味なんだろう、何が言いたいんだろうと、最後まで引っ掛かりました。フリットクラフトについてのお話自体は、面倒なので書きませんが、要は、フリットクラフトとは「月と六ペンス」のストリックランドのように、人生半ばで家族を裏切り蒸発した男性で、ただ「月と六ペンス」とは違い、結局第二の人生でも、初めの家族と変わらないような家族をつくって、同じような人生を送るということ。思いもしない出来事が起こったことをきっかけに、ものの見方が変わったり、世の中や人生に対する考え方が変わったりすることは、誰にでもあることで、実際にこういう選択をするかは別として、説明としてはよく分かります。特に、強く印象に残ったのは、次の部分です。「その出来事までのフリットクラフトは、外からの圧迫によってではなく、周囲に同調することで最も安らぎが得られるタイプの人間だったという単純な理由から、良き市民であり、良き父であり、良き夫であるような男だった。」これは、うちの父親のことのように、私には思えました。いい人でいられるのも、運次第なのかもしれない。でも、その真価が問われるのは、何か事が起こったとき。そんなことを、改めて思いました。それにしても、この挿話は、この小説の中でどういう意味を持っているのか、さっぱり分かりません。作者の実生活での、迷いや苦悩が表れているようにも思えます。主人公に、そういう自分の中で大きな位置を占めているものを、世の中に向かって語らせたかったのかな、とか。でも、基本的にあんまり深読みしすぎるより、これは手軽な娯楽小説として楽しむのがよい、という気がします。
2013.04.05
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