Satokoの徒然きままなときどき日記

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2005.08.15
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カテゴリ: old days
きょうは終戦60周年でしたね。


わたくし、個人としましては。
祖父を第二次世界大戦で亡くしており、戦争の為に国家に命をささげていった人たちの魂が安らかに眠ることができるように、そういう思いで、ぜひたくさんの方に靖国を訪れてもたいたいと(参拝っていう言い方がなんかおかしい)いうのが本音です。

戦犯を神として、扱っているという「画像」はちょっといただけないかもしれないのですが、とにかく、国家の為に死んでいったひとたちは、皆ちゃんと弔ってもらうべきでしょう。


わたしの出身地「和歌山市」も、戦争末期の日本本土爆撃のターゲットになり、無残な街と化してしまった県庁所在地のひとつです。
史跡「和歌山城」もこのために、堕ちてしまったほどです。
徳川御三家のお城がですよ。京都や奈良を攻撃しなかったのであれば、せめて、御三家もその中にいれてもらいたかったものです。さすれば、きっといまの和歌山県民にもちがった将来があったはずなのです。

先日、父が「戦後60年和歌山市戦没者・戦災死者合同追悼式」というものに、いったようなのですが、そのときに持ち帰った「しおり」にこういうお話が載っています。

和歌山大空襲60年展 和歌山市立博物館 で月末28日まで開催されているようです。

話がちょこっとそれましたが、父の持ち帰った「しおり」には・・・
7月9日から10日にかけておこった、和歌山空襲のことを当時和歌山市振興課長をしておられた堀内喜市郎さんという方の実体験を元にかかれています。
(わたしの検索では戦後は、附属小学校教員から県視学、さらに和歌山高等小学校長や和歌山市の学事課長などを務めたというその同じ人物だと思われるのですが・・・)

この方は、住民の戦争に協力する働きをする課というところに属されていたので、当日は幹部一同と友に地下室で待機されていたらしいのです。もちろん空襲の間家族といっしょに逃げることもできなかったわけです。

地下室にいると、本当に頭上で和歌山城が焼け落ちる音がひびいてきたそうですし、穴の中に逃げ込んでも、市内がどんどん火の海につつまれていくのが手にとってわかったそうです。

同じ穴に隠れられていた、水道課長さんは、次の日、家族全員がこの世には存在しないことを知るらしいのですが、堀内さんの家族は奥山で逃げて、子供さんたちも疎開中で、無事だったのだそうです。

市役所が燃えてなくなってしまっても、仕事は次の日からずっとあり、かろうじて、焼け残った市内の「吹上小学校」というところに「仮市役所」を移し、配給課がおにぎり2個の配給を始めたらしいのです。

それはそれはみんな興奮していて、ちょっとした言動にもみな過敏に反応し、起こったり泣いたりと大変だったようです。

わたしの生家があるところは、その大空襲の中心地です。父が育った場所はそこからはいくぶん離れてはいるのですが、そこも市内の中心地だったため、9日の夜は一晩中逃げまどったそうです。

当時、父の親父さんは中国に出征しており、わたしの祖母と、その祖母の父(父からいたおじいちゃん)と父以下子供4人で生活していたのです。


祖母は、この非難の途中、転んで、指が一本「折れた」と、その後もずっといっていました。何日もそのつかない指をさすって、とうとう最後にはお医者様にいくこともなく、直してしまったと、ちょっといがんだ指をみせてくれたものです。

それぞれの家族にいろんな悲惨さがあったと思いますが、父の家もすっかり焼けてしまって、いくところが無くなってしまいました。

「八日市」というところに、その後親戚を訪ねて「疎開」していったそうなのですが、親戚が父のところに疎開させていた(大阪から和歌山に)ものをすべて燃やしてしまって、祖母は本当にいたたまれなかったそうです。

父はそのころ、もう旧制中学校にはいっていたので、祖母と、転向の手続きに、長い道を歩いて、通ったそうです。

道端には、夏のさかりに美しくなった「真っ赤なトマト」が鈴なりになっていたそうで、もぎ取って食べたい心でいっぱいだったのだけど、両親からそういうことは悪いことだと躾られた父にとって、どうしてもそれをすることができなかったそうで。





八日市の中学校に転入の手続きを終え、帰ってくる途中に、「終戦」が決まったようで、またその後父たちの人生は大きな局面を迎えることになります。


またその話はいずれゆっくり。





全世界が平和でいられる日がはやく来ますように。
そして、未来の子供たちに平和な地球を残していけますように。

戦争で死んでいったひとたちの命が無駄にならないように、わたしたちがひとりひとり努力する必要を感じます。










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最終更新日  2005.08.16 17:31:50
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