僕の写真紀行(楽天版)
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今回は北国街道沿い、もしくはその周辺の風景、名刹、史跡を載せたいと思う。130枚ほどあるので3回に分けて後でまとめます。(北国街道の解説)一般に北国街道と呼ばれる街道には二つのルートがある。一つは長野県の北部から新潟県の直江津(上越市)で北陸道に合流するコース。もう一つが、滋賀県北部の琵琶湖東岸を南北につないで福井県の今庄町で北陸道につながるコースである。今回撮影したのは、湖北を通る北国街道である。北国街道のなかでとくに往来が多かったのが、北陸から木之本にいたる道。江戸時代には福井藩から南の大名は参勤交代の際にこの道を通り、木之本から北国脇往還を抜けて関ケ原で中山道に入った。福井県と滋賀県の県境では栃の木峠を越えるのだが、このルートを整備したのが戦国時代の武将として知られる柴田勝家である。福井を拠点に北陸を治めていた勝家は、それまで大きく西に迂回して湖北に入っていた北国街道を南進させることで最短距離のコースをつくった。織田信長の死後、豊臣秀吉と対立した柴田勝家は天正十年(一五八二)に賎ケ岳で秀吉軍と戦うが、このときも栃ノ木峠を越えて賎ケ岳に向かった。そして、戦いに敗れた勝家が敗走したのも、この北国街道であった。一方、勝利を収めた秀吉は、越前に入ったあと長浜城に帰るが、このとき木之本から長浜までは北国街道を通ったのではないかと思われる。今回は滋賀県の長浜から福井県の永平寺まで撮影している。まずは滋賀県高月町にある渡岸寺から。国宝の十一面観音像で有名。真宗大谷派向源寺の所属で、渡岸寺観音堂は通称。奈良時代、聖武天皇の勅願により泰澄が十一面観音立像を刻んで観音堂を建立したと伝えられる。その後最澄が七堂伽藍を建てて以来栄えた。戦国時代、浅井・織田両軍の戦いで、寺は焼失したが、本尊の十一面観音立像は土中に埋められて災禍を免れた。高さ1.95m、平安初期の一木造で、井上靖の『星と祭』や水上勉の『湖の琴』、土門挙の写真などにより全国的に有名。国宝十一面観音像は大日如来像と一緒に収容されている。白州正子も著書で書いているように後姿を含めて秀麗且つ官能的で特に両耳の大きな耳とうがインドや聖域の影響を受けて特徴的である。十一面観音は自在菩薩ともいわれ左手に水瓶を持っている。頭上の面は前の三面は慈悲菩薩面、化仏は阿弥陀如来 向かって右三面は瞋怒面(しんぬめん)仏道に導く。向かって左三面は白牙上出面(ばくげじょうしゅつめん)善行を薦める 後ろの一面は暴悪大笑相(ぼうばくだいしょうめん)悪を威圧 頂上は仏面 二臂像と四臂像がある。夫々の表情は観音経により人間の苦しみを助け諭すためのものである。なお十一面観音は国宝がたったの7体のみである。奈良県・・・室生寺、聖林寺、法華寺大阪府・・・道明寺京都府・・・観音寺 六波羅蜜寺滋賀県・・・渡岸寺(この写真だけWEBより引用しています。)渡岸寺近くの神社にて。木之本宿にて「木ノ本宿」は金沢城下を起点とし、北陸と京を結ぶ「北國街道」の宿場町であり、当宿を南下し鳥居本で中仙道に合流した。また木ノ本宿を起点とする「北國脇往還」は東海方面への主要道として、関ヶ原で中山道へ合流した。江戸時代は街道の合流点として人馬の往来も激しく、旅籠や商家が軒を連ね、街道の中央には小川と柳並木が続いた。旧街道筋は今でも古い街並が当時の風情そのままに残され、旧家の軒下には馬繋ぎの金具が残り、うだつ、紅殻格子のあしらわれた平入り瓦葺きの町屋や妻入り町屋の立ち並ぶ街並、旧本陣や造り酒屋などが当時の賑わいを今にとどめている。また、戦国時代には多くの武将の行き交う戦略上の要衝であり、賤ケ岳の合戦のおりには、東方の山「田上山」に秀吉方の砦が築かれ、弟の秀長が守将を務め、北陸勢(柴田勝家軍)と対峙した。また、街道の中央にある浄信寺(木之本地蔵院)は、この合戦で討ち死にした中川清秀の菩提寺でもある。木ノ本牛馬市室町時代から昭和の初期まで、毎年2回この地区20件ほどの民家を宿として伝統の牛馬市が開かれた。江戸時代は藩の保護監督もあり地元をはじめ但馬、丹波、伊勢、美濃、越前、若狭などから、数百頭以上の牛馬が集まり盛況を極めた。商いの方法は、買い手が売り手の袖の中に手を入れ、双方が指を握って駆け引きをし、商談が成立すると両者が手を打ち、周囲に居合わせた人たちも拍手をして成約を祝った。また、木之本地蔵院(浄信寺)が獣疫平癒に霊験があると喧伝され、この牛馬市には良い牛馬が集まるようになり、牛は荷車引きや農耕用に、馬は主に武士たちが買い求めた。宿場通りの中で、本町通りの道幅が広いのは、牛馬市の際の試し乗りの場であったためと云われている。山内一豊が妻の嫁入りの金子で買い求めたと伝わる名馬は「馬宿平四郎」から出たと古くから当家に言い伝えられている。ここでso-netでつなぎます。北国街道(1部)
2009/10/15
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