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最近、ポリプテルスの飼育にハマって毎日水槽をいじっているのだが、ふと、子供のころ飼っていたウナギのことを思い出した。お祭りの「ウナギ釣り」で釣り上げて家に連れ帰ったウナギ。ほとんど世話をしなかったのにずっと生きていたのだが、金魚をウナギの水槽に入れたら一晩で死んでしまった。あの子はなぜ死んでしまったのだろう…その時は親から「金魚には毒がある」と言われ納得していたものだった。だが考えてみれば、それって本当か⁉グーグル検索を駆使できる今、改めて真実を解明したい。数十年の時を経て、我々は特別捜査本部を設置した(総員1名+ポリプテルス1匹)特捜部の頼れる相棒、ポリプテルス・セネガルス ※ウナギではありませんそう、あれは子供のころに、お祭りのウナギ釣り(そんな出店が当時あった)で奇跡のように釣れた子だった。体長60cmくらいはあっただろうか。突然家に来たウナギのために、親父が用意してくれた特大120㎝水槽に入れて飼育が始まった。…のだが、だらしない子供の頃の私はほとんど世話をしなかった。餌を与えた記憶すらない。酷いことだ。しかし、それでもあのウナギは生きていた。一体あれは何を食べて生きていたのか。それは、後にウナギが死んでから知ることとなる。※画像は本文とは無関係ですウナギの水槽は土間に置いてあった。なんでも夜中にもの凄い水音を立てるので気味が悪いとかで、婆ちゃんはウナギを嫌っていた。私はぐっすり眠っていたのでどんな水音かついぞ知らなかったが。非道な私の放置に耐え、頑張って生きていたウナギ。しかし結果的に私は、さらなる仕打ちを加えたのだった。気まぐれにも、エサになればと思い金魚を一匹、水槽に入れたのである。むろん良かれと思ってしたことだ。しかしすぐ翌日あたりにウナギは死んでしまった。ほとんど世話をしていなかったくせに、死なれると悲しかった。我ながら勝手なものだ。ウナギが死んで数日後、水槽から蚊が大量に沸いて出てくると家族から苦言があった。そう。あのウナギは、蚊やボウフラで食いつないで生きていたのだ。しかし金魚を水槽に入れた途端、死んでしまったのはなぜなのか。子供の私には分からなかった。父から「金魚には毒がある」と聞いていた。「ウナギは金魚の毒で死んだのだ」そう納得したまま、数十年の時が流れた。そして今、あの時のことを思い出したのだ。今なら分かる。なんかその話はおかしい。「金魚には毒がある」というが、ショップで餌金が売っているのだしそれはおかしいでしょ。ってゆーか、刺身で食べたら毒なのはウナギの方だろ。※イメージ画像 うちの子の写真ではありません…と、言うことで。今更なぜなのか。どうして今まで調べなかったのか。それは分からないが、本当に今更ながらウナギの死因についてグーグルで調べてみたところ、以下のサイトに辿り着いた。◎趣味のページhttp://www.utsumi-sokuryo.com/syumi/unagi.htmうなぎの死亡原因一覧及びその対処方法http://www.utsumi-sokuryo.com/syumi/u-genin.htm(◎趣味のページ http://www.utsumi-sokuryo.com/syumi/unagi.htm)(※とても素晴らしい研究で参考になりました。引用させていただきます)こちらにあるウナギの6つの死亡原因が1.水槽外への飛び出し2.カビ(体の表面に付着)3.ポックリ死(突然死)4.共喰い5.病死6.餓死(詳細は出典元をどうぞ)ということで、一つ一つ検討したところ、3.だろうとの結論に至った。(参考サイトより抜粋)3. 外傷がなく、体色の変化や弱まるなどの死を予兆する症状が全く伺えない。 この特徴は餌をよく食べているうなぎが突然死亡すると言うことです。 排泄物などによる慢性的な水質汚染若しくは、急激な水質変化(悪化)による ショック死なのでしょうか。 亜硝酸中毒の可能性あり。(抜粋以上)あのウナギは元気だったのに突然死んでしまった。そう。つまり、排泄物などによる水質変化によるショック死。アンモニアや亜硝酸中毒。ボウフラを細々と食べているうちは水槽内のバクテリアのバランスがとれていたのに、金魚を投入したため急激に水質が悪化したのではないか。金魚を捕食した自らの排泄物によるアンモニア汚染が原因だろう。まあ、金魚が何らかの病原菌を持っていた可能性も否定はできないが、ここでは専門家の意見を採用することにする。ウナギさん、本当にごめんなさい。(しかし今頃ウナギに謝って何になるというのか)ともあれ、数十年ぶりに、ウナギの死因が判明した訳である。以上をもって、本件の特別捜査本部は解散します。お疲れ様でした。※イメージ画像 本文とは無関係です
2022.05.07
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あまり使わなかったが大事にしていたエルエルビーンのアウター。何年か前に洗濯した時、シームテープがはがれ始めたので補修しておいた。しかしそれから更に数年経ち、今回久々に雪山ハイクへ着ていったところ、シームテープがかなりはがれてしまった。【L.L.Bean Mountain guide parka】それも仕方ない。古いのだから。調べてみたら、1998年頃の製品だった。この写真を撮ったのは初めて買ったデジカメで、画質が悪いが、これが普通な時代だった。数えてみれば23年。もう捨てるか…そう思った時に、しかしこの人の顔が目に浮かぶのだ。捨てるのは簡単だが、それはいつでもできる。例えば、シームテープをすべて剥がして、ウインドブレーカーみたいな服として使えないだろうか。ということでやってみた。剥がれ始めたシームテープは、引っ張れば簡単に剥がれ出す。剥がれない部分だけハサミで切って残し、粉末状の糊のカスはガムテープを使って捕着。これで完成、と行きたいが、どうもシームテープを剥がした後のベタ付きが気になる。まあ気にしなければそのままでもいいレベルだが。良く判らないが、重曹を溶かした湯を作り、雑巾をしぼって拭いてみた。それに効果があったのかは正直良く判らない。が、自分の中で、やれることはやったという納得はできた。これでも嫌になったら、その時捨てればいい。シームテープ以外にも、加水分解による表地の浮きが少々出始めているので、いつまでも着られるわけでないことは分かっているのだが。もうしばらく、一緒の時を過ごそうではないか。
2021.02.10
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今回は、話題を変えて妻の実家から出てきな謎のギターを修復した話をする。「謎のギター」というものの、すでに正体はタイトルに出ているのだが・・・。 ある日、断捨離を進めていた妻が、物置に眠っていたギターを出してきた。そのまま大量のゴミとともに処分場へ向かう予定だったのだが、私が気まぐれで貰い受けた。 ギターラベルは読める状態だった。「Lake Guitar」・・・名前はレイクギター、か。「NISSIN KOGYO CO LTD」これはメーカーか。「SUWA JAPAN」これは長野県の諏訪市だろう。 ということで、何でも分かるグーグルで検索したが、情報が乏しい。それでも何件か、レイクギターに関心のあるギター通の方々のサイトを見つけ、勉強させて頂いた。 日信工業って、長野の東御市にある会社だろうか。本田技研の子会社で、事業内容は「四輪車 及び 二輪車向けブレーキ装置 並びにアルミ製品等の開発、製造、販売」だそうだ。 ギターはまるで関係なさそうだけど、同じ長野だし他人のそら似じゃあるまい。富士フィルムだって、時代に合わせて化粧品を作ったりしてるじゃないか。 検索の結果わかったのは、おそらく50年くらい前(半世紀前!)の古いギターということ、しかし当時の安物で、希少価値はあまり無さそう・・・。 しかし、古くても安物でも、愛情をかければ応えてくれるのが楽器の面白さ。 妻は他人から、要らないからということで貰ったそうだ。その後も誰かが弾いた様子はない。 音を奏でるために作られながら半世紀、持ち主が変わり物置で眠り続けた末に灰になる手前で、私のような変人に拾われるとは、なかなか面白い運命のギターではないか。 せめて一度は奏でてみようと修復・・・といっても、大したことができるわけではない。弦の交換をしながら、掃除をして、フレットを磨き、レモンオイルを塗っただけ。・・・なのだが、ペグが異常に硬くて作業は難航した。音が出るようになった頃には、腕が痛くて痛くて。 そしてその頃にはすでに、私の心はこのギターに盗まれてしまっていたのであった・・・。 ホールの周りにあるエスニック?な柄が、レイクギターのこだわりか。でもなんか、シールを貼った後からニスを塗ったような仕上がりなんだけど。安っぽい? 保有しているもう一台のギター(テトマスギター)にはブリッジをトップに留めるネジが見えないが、このギターは2本のネジが見える。これまた安っぽい?(失敬) ネックは何か塗装してあるようで、光沢がある。でもこれだと、レモンオイルを塗ってもしみ込まない気がするんだけど・・・。 古いギターだと0フレットがあるらしいけど、これにはない。 中途半端な古さだ・・・ ペグはセルロイド製のようだ。安っぽいのは御愛嬌。 コストの制約があるなかで、デザインの工夫で個性を出そうとしている点に、本気を感じる。それが、言うなれば「レイク魂」!? なんと、ネックにはトラスロッドが入っていないらしい。 ネックが反ったらどうすんだ!・・・という心配はしていない。トラスロッドなんて操作したことがないので(というか、トラスロッドの存在を、今回まで知らなかった) 今回の修復にかけた費用は、弦の300円くらい。しかしかけた労力(特に硬いペグを回す苦痛・・・)の結果、奏でる音は私にとっては至上のものとなった。 もう一台所有しているテトマスギターも、平凡なギターではあるが、亡き父から受け継いだ品であり、私にとっては代わりのない世界にただ一本のギターだ。 それぞれの歴史があるのが古い楽器の魅力。齢を重ねるごとに、そんな気がしてくる。
2020.12.04
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次回は、なぜいじめが起きるのかについて、考察したい・・・と書いてから、はや4カ月経った。 誠に遅筆で申し訳ないが、本日、有言実行としたい。 ■なぜ、いじめが起きるのだろうか? 悪しき事は、根本を絶たなければ繰り返す。 根本を絶つためには、原因を知らなければならない。・・・のだが、原因は何なのかと、私は悩んだことがない。 若い時に読んだ堺屋太一氏の著書に、答えが明確に書かれていたからだ。25年以上前に読んだと思うが、未だに忘れていない。むしろ齢を重ねるごとに、真理であるとの思いは深まるばかりだ。ということは、私自身も他人の心無い仕打ちと格闘してきたということだろう。 著書名がすぐに思い出せないのだが、あえて記憶のみを頼りにアウトプットしてみる。堺屋太一氏によると、いじめの原因はたった2つ。 ・移動する自由がないこと。 ・私立学校でないこと。 後者は話がそれるのでここでは触れない。 そもこの話は、当時社会問題となっていた、学校のいじめ問題(いまだに問題だが)の解決策を探る話だったので、国公私立学校の話題があったのだと思う。 前者の「移動する自由がないこと」がいじめを生むという論だが、これはまさに真理であるとしか思えない。(詳しくは、堺屋氏の著書を手に取り、氏の明晰極まる論理に直接触れて頂きたい) 私はずっとこれを信じてきたし、今なお微塵も疑わない。前回のブログも、この確信の元に書いている。 自分でも、人生の様々な局面で、嫌な予感があれば、まずは行動の自由を確保するよう努めた。だから今まで、いじめを苦に自殺を考える目に遭わずに済んだのかもしれない。 いじめを苦に自殺してしまった人は、何かが特別な人ではない。心が弱いわけでも、頭がおかしいわけでもない。 私もあなたも、同じ境遇に陥ったら、同じ選択をたどるだろう。少なくともその前提を持たなければ、問題解決のスタートラインにすら立つ資格はない。 (一応確認だが、私の身近で自殺に関する事案があったわけではない。以前見たニュースを思い出し、腹が立っただけである) 今もいじめに苦しむ世界中の子供たちが救われることを地蔵尊に願いつつ、次回も考察を続けたい。 また、故・堺屋太一氏におかれては、私などお会いすることも叶わぬ著名人であったが、心から尊敬と感謝の念を申し上げる。
2020.12.01
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ここ数日、甥っ子のことで色々考えることがあり、自分の幼少期の経験なども思い出したのだが、上手く伝えられないでいるため、表題の件をここで形にしてみたい。以前住んでいた豊田市の「おたすけ地蔵尊」 もしあなたや、あなたの大切な人がいじめられたら、どう対処すべきだろうか。 勇気を出して反撃すべきだろうか? いや、違う。 それは、いじめっ子を喜ばせるだけだろう。奴等は舌なめずりして、それを待っているのだ。 その反応を楽しみ、必死の反撃を返り討ちにして楽しむ。その勝算があるから、いじめを仕掛けているのだ。 奴等は、臆病でしかも狡猾だ。キツネのように。反撃されたら負かされかねない相手を、いじめのターゲットにしたりはしない。理解に苦しむことだが。 そんな人間はどこにでも居る。 では、いじめっ子にとって一番嫌なこととは何か。それは、反撃されることではない。ターゲットに、逃げられてしまうことだ。 ・手の届かないところへ避難されてしまうこと。 ・一切の関わりを絶たれてしまうこと。 それを、奴等は嫌がる。 つまり、それが効果的な兵法ということだ。 兵法といえば孫子だが、「勝ち易きに勝つ」つまり勝てる相手だけをいじめるのが、いじめっ子の兵法なのだろう。ならばいじめられる側も、孫子の兵法で対処すればよい。「戦わずして勝つを上策」とするのだ。 逃げること、避けることは恥ではない。兵法だ。戦略といっても良い。 最強の剣豪・宮本武蔵だって、勝てない戦いはさっさと逃げ、それを兵法だと言ってはばからなかった(少なくとも小説の中では) いじめられる側がすべきことは、いじめっ子に堂々と正面から反撃することではない。もちろん、それで勝てるなら良いが、相手の土俵に上がるわけだからおそらく勝てないだろう。 そうではなく、いじめっ子が最も嫌がることをするべきだ。つまり、縁を切る。 それが勝利だ。それだけで勝ちなのだ。 縁を切った後、幸せに暮らせばなお良い。いじめた奴が修羅道に戻ってあがこうが、知ったことではない。 むろん、それは簡単なことではない。学生なら例えば、部活を辞める、転校する、など。社会人なら会社や組織を辞める、休む、異動する、など。 それはそれで大変なことだが、そこにこそ勇気を振り絞るべきではないか。 世の中には、縁切りの御神仏が全国にあまたいらっしゃる。それだけ、先人達も思い悩んできたのだろう。まずは手を合わせてみようではないか。先人達と想いが心底一致すれば、正しい答えが閃くはずだ。 ・・・と、思えば実に6年ぶりくらいにブログの更新となった。我ながらなんとマイペースなことか。 では、次はまた6年後に・・・ではなく、まだ書きたい続きがある。世の中、簡単に、縁を切りたいと思って切れるなら、悩む人はいないだろう。次回は、なぜいじめが起きるのかについて、考察したい。
2020.07.02
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俺のブログにしては珍しくたくさんの反響をいただいたので、続編をアップする。小鹿野町の夜景をいくつかご覧あれ。↑花をかたどったイルミネーション。酒屋さんの壁についている。↑これは洋品店。何の花なのか知識が乏しく分からないが、ダリアとかかな?↑これは俺にもわかる。モミジだね(カエデだったりして)この辺は花などがモチーフのようだ。まだ他にもあるのだが、たくさんあるので写真が撮りきれなかった。ま、他のイルミネーションについては、実際に小鹿野へ見に行った人だけのお楽しみということで。
2014.12.07
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地元で珍しいイルミネーションを見つけだ。俺はイルミネーションが好きで、この時期はあちこち見に行くのだが、こんなタイプは初めて見る。小鹿野町の商店街での風景だ。年々寂れていく感じの街だが、それでも結構頑張っているな。↑縁起の良さそうなイルミネーション。本屋さんの壁に付いている。↑歌舞伎役者の顔かな。小鹿野は歌舞伎の町だからね。↑こんなのもある。純和風か。↑松と梅だろうか。これは和菓子屋の壁にある。やはり和風だ。↑提灯のモチーフ。提灯自体が、そもそも元祖イルミネーションのような気もするが・・・。小鹿野町は俺の大切な故郷だが、夜は本当に暗い。それは町がいかに活気を無くしているかということだが、おかげでかえってイルミネーションが映える気がする。不幸中の幸い・・・というのは違うか。他にも、まだまだ種類があるようだ。頑張れ小鹿野町!
2014.12.04
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今年、縁あって被爆アオギリ二世の苗木が小鹿野町に来た。6月6日に植樹式があり、ライオンズクラブと地元の園児たちの手で、役場のそばに植えられた。この件は色々なメディアで報道されたようだ。さて、今年の夏は日差しが苛烈だったが、アオギリさんは元気に乗り切れただろうか?・・・ということで、最近の様子を報告する。まず、こんな感じで植わってまっせ。これだけ頑強に養生してある苗木はなかなか見ないかと。大事にされている感じが伺える。アオギリの周りに植えられたパンジーか何かの花は、園児たちが植えたもの。上の写真は8/24。下の写真は9/3。葉の色や張りも良さそうだ。葉の数もけっこう多い。アオギリは育てたことがないので詳しくないが、生育は順調なんじゃないだろうか。こんな感じで、役場の近くに植えられている。道路からも良く見えるので、通りかかったらぜひ御覧あれ。被爆アオギリの話は、実はこれまで知らなかったのだが、おかげでいい勉強ができた。植物としても、アオギリは好きだ。大きく個性的な葉っぱが判りやすくてよい。大きい葉といえば桐の木も好きだし、針桐も最近気に入って個人的に植えた。・・・もしかして俺は桐系の木が好きなのかな。中国の言い伝えでは、青桐の木には鳳凰が舞い降りるという。鳳凰は見たことがないので分からないが、きっと大きな鳥なのだろう。そんな鳥が止まるには、まだまだこのアオギリは小さすぎる。いつか鳳凰が舞い降りそうなくらい大きな木に育ってくれ。
2014.09.12
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珍味と言われる山菜・ハリギリの芽を食べてみたいと思い、自宅の脇に苗を植えてみた昨今。ここ数日の猛暑でさっそくしおれ気味だが、この夏を乗り切れるだろうか・・・調べてみると、ハリギリ(針桐)は全国の山に自生してるというが、見たことあったかな?山はいろいろ歩いてきたが、今まではハリギリという木の名前すら知らなかったので、あったとしても見過ごしてきたことだろう。と、埼玉県と群馬県を結ぶ矢久峠で昼飯を食べていた時のこと。道路を見ると、ハリギリらしき落葉があるじゃないか。これは近くにハリギリがあるかも。でもどこに?多分この木だと思う。幹の模様が写真で見たハリギリに似ている。でもいまいち確信が持てない。似たような木が周りにあるもんで。できれば、別名「天狗のはうちわ」とも呼ばれる独特の葉っぱを確認できれば判るんだけどな。しかし見上げてもハリギリの葉が見つからない。勘違いだったか?いや、そんなはずはない。落葉があるんだ。きっとどこかにハリギリが生えているはず。そしてしばらく当たりを探索してまた戻ってきた。もう一度、頭上を見る。おや、上の方にかすかに見えるのがはうちわ型の葉っぱじゃないか?ということで、離れた位置から見上げてみる。何かの雑木の葉の上にある杉の葉。杉の葉の上にはクヌギの葉があり、その上にモミジの葉があり、そしてその上に・・・あった、ハリギリの葉!高木になるとは知っていたが、ほんとに遠い。カメラをズームにしても大して大きく撮れない。葉っぱまで20mはあるかな。春になったらあそこまで登れば、ハリギリの芽が取り放題・・・なのだが、高所作業車が必要だな。割りに合わん・・・ハリギリという木は確かに見つけづらい。特徴のある葉っぱは徹底して林の樹冠上にだけ展開していて、下から見上げても他の木の葉しか見えない。周囲を見ても幼木は無く、見えるのは幹の地肌と落葉だけ。ところでこの一本しか見つからないのだが、どうしてだろうか。実はこのハリギリ、古い石祠と古木の背後に生えている。昔は何本もハリギリがあったのだが、ハリギリは良材になるので好んで伐り出されてしまった。たまたまこの木はご神木のそばにあったので伐採を免れた・・・そんなところじゃないだろうか。・・・と、思ったが確証はない。ともかく、今日はハリギリを見つけたよ、って話でした。
2014.07.14
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今日は、埼玉県熊谷市の観音山に登った。観音山というのは全国に多数あるので、地名をくっつけて「三ヶ尻観音山」と呼ぶことがあるようだ。山麓には、真新しい巨大な観音像が目立つ。龍泉寺というそうだ。縁日には出店が並ぶ賑わいになるそうだが、普段は静かな場所だ。寺の前にある駐車場に停め、少し歩くと階段がある。この階段を上ると、登頂だ。実はこの山、標高わずか81.6m。登山口が標高50mくらいなので、一息で登りきれば5分とかからない。走れば1分でいけそうだ。山というより、「残丘」という呼び方のほうがしっくりくる気がする。しかし山の価値はその標高で決まるとは限らない。その山をいかに楽しめるかが、俺にとっては大事だ。さて、その山頂だが・・・こんな感じ。以前はこの平らな場所に、鉄塔のような人工物があったはずだ。その塔の上に三角点があり、そこの標高が97.5mだったらしい。ということは、その塔は15.9mの高さがあったということか。いずれにしても、塔は撤去されたので、今の山の高さは81.6m以外の何ものでもない。ところで、山頂には石碑群がある。一番高そうな場所にありひときわ目立つのが「木花開耶姫命(このはなさくやひめ)」の石碑だ。富士山信仰だろうか?浅間信仰だろうか?どっちもありえそうな場所で良く分からない。その近くに、御嶽山の神々の石碑もある。「御嶽山座王大権現」とある。俺は御嶽山を信仰することにしているが、ここにも祭られていたのか。だから以前からこの山が気になっていたのか、などと独りで納得した。なにしろこの三ヶ尻観音山は、低い山なのに周囲が平らな水田のため、またバイパスからも近いため、意外と目立つのだ。なのになかなか登ってみる機会がなかった。今日登ることができたのも、何かのご縁だろう。俺は御嶽山を信仰しているが、それ以外の神仏を信じないわけではない。木花開耶姫命に対しても尊崇の念を持ち、石碑に悪さなどしようなどと毛頭思わない。一神教の神に対しても、機会があるなら八百万の神々の一柱のように信心を持って対するだろう(それは違うと先方の信者に叱られるかもしれないが)ただ、あまたの神仏の中から特別に深いご縁を感じるに至ったのが御嶽山座王権現であり、拝む時は他の神々とは違う御嶽山だけの拝み方をすることに自分で決めた。ただそれだけのことだ。俺は死ぬまでそうしようと、心に決めている。さらに山頂を見まわすと、2つの石碑を見つけた。それぞれ「住吉大明神」「田中神社弁財天宮」と彫ってある。この山は、ふもとに巨大な観音像の寺をかかえ、山頂に様々な神が祀られている。木花開耶姫命の石碑や御嶽山座王大権現の石碑のまわりにもそれぞれ幾多の神仏が祀られていて、意外と賑やかな信仰の場所のようだ。この小さな山の中にいくつもの信仰が争うことなく共存する様は、和を以て貴しとなすと聖徳太子が著した我が国の縮図、小宇宙か。・・・ま、それは大げさだが、墓地が近くにあるにもかかわらず、明るくて和やかな雰囲気を感じる場所だった。
2014.03.19
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今日は三峯神社に参拝した。相変わらず、正月はものすごい人出だ。静寂のしじまばかりの普段とのギャップが激しい。今年は拝殿の前に、参拝客の行列が連なって石段の下まで延びていたが、初めて見た。時間帯によっては毎年こうなのか?それともメディアの影響だろうか?なんでも、三峰は関東随一のパワースポットなんだとか。さらに三峯神社を題材にした漫画まであるらしい。この地には昔から来ているが、なんだか最近は聞きなれない謳い文句ばかりが踊っている。これも神社が現代を生き残るには必然の道なのか。俺は霊感などないが、なぜかパワースポットのパワーは感じることができるのだが、この神社には確かにそれを感じる。ここ以外では、熱田神宮・諏訪大社・金桜神社などでも強烈に感じたことがある、あの感じだ。気分が良くなるので、以前は独りでこの神社に来ては散策することもあったが、家庭を持った今ではそのような時間も無くなってしまった。賑やかな拝殿を離れて、遥拝所に登ってみた。ここは懐かしの妙法ヶ岳が望める場所だ。やはり雪景色の峰は美しい。またいつかあそこに登ってみたいものだ。やはり人ごみは苦手な性分なので、初詣の目的を果たすと早々に三峯神社を後にした。帰路、路肩で聖岩(光岩)を撮影。あそこにもまたいずれ登ってみたい。・・・などということばかりを今年は想ってばかりだ。今年は色々と忙しくなりそうなので、おそらくそんなに登山はできないだろう。山は登れる時に登っておくものだ。色々な山に登っておいて良かったと思う。
2014.01.04
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久々に、山登り以外の話題を。俺はA-2フライトジャケットが好きだ。どれくらい好きかというと、A-2を着て登山をするくらいだ(もちろん日帰り登山限定)重い革ジャンなんか着て山登りしたらどうなるかって?そりゃあ、気分が良くってたまらないに決まってるだろ。・・・と、まあ若干、他人とは違う道に進んでしまっている俺だが。光陰矢の如く、俺の人生はただ一度。人に迷惑をかけるでないならば、良いではないか。バズリクソンズの赤リブ。休日が待ち遠しいぜ。(しかし休日があまりないため、寝る前に部屋で着るばかりだったりする・・・) * * *それはともかく、A-2のニット部分は傷みやすくて困るのだが、全国のA-2ファンは、袖リブや裾リブの修理をどのようにしているのだろうか?虫食いや破れができても無造作に着て、どうにもひどくなったら有料の修理に出すだけなのだろうか?それはそれで男らしいが。もちろん俺も最終的にはそうするのだが、修理は安くない。袖リブの交換・裾リブの交換・ジッパーの交換いずれも万円単位の費用がかかる。だから仕方なく、自分でちまちまと繕うのだが、周囲にA-2マニアの人がいないため、他人がどうしているのか分からない。ネットで調べても繕い方の情報は少ないような気がする。そこで俺の苦心の成果をアップする。といっても素人丸出しの雑な補修だが。テーマは「着られりゃええ」かな・・・ * * *まずは裾リブの修理。「赤リブ」が映える後ろ姿だが、近くで見ると・・・写真ではまだ目立たないが、実際は無残な虫食い穴が3か所。見た目に気持ち悪い。それにジッパーの最初に差し込む所(?)を補強している固い布切れ(?)が破れ、ジッパーがなかなかかけられない(泣)正直、裁縫は好きではない。しかしA-2への愛ゆえに、俺は久々に針と糸を手に頑張る!穴は対角線を意識して焦げ茶の糸で結び、ジッパーの付け根は太い糸でジグザグに縫った。これでなんとかジッパーができるようになった。縫い目が見えてみっともない?大丈夫。着れば自分じゃ見えないから。 * * *次は袖リブの補修。袖リブが、付け根からバリッと大きく破れている。これはみっともない。よし、縫おう!これで直った。え?ニットの網目が乱れ、縫い糸が見えている?かまわん!我が国に、縫い糸が見えてはいけないという法律はない。一応、自分なりの工夫だが、赤リブと同じ風合いの糸が無かったので茶色の糸で縫ったのだが、リブより彩度の暗い色のほうが目立たないかと。それから、ニットはテンションがかかるので、レザークラフトのように糸が往復するように縫って固結び。また、大きい破れ目の補修では、糸が一本切れたらバラけないように、何回かに分けて縫ってみた。まあ、プロの修理に出してたら、革ジャンのシーズンが終わってしまうんでね。不調法でも着られるほうがマシというもの。どうしても修理に出したくなるまでは、こんな程度に繕って着るさ。
2014.01.02
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今日は、群馬県長野原の丸岩に登った。「丸岩」だけだと、ネットで検索すると日本中の様々な丸岩がヒットするが、この丸岩はよく「丸岩・高ヂョッキ(あるいは高ジョッキ)」と登山界で並び称される方の丸岩だ。子供の頃、草津温泉に行く途中、車窓から見える異様な山が記憶に残っていた。そして訪れてみると、それは相変わらずの形をして集落の背後に聳え立っていたのだった。付近は八ツ場ダムの工事車両が多く、あちらこちらで目を見張るような大工事をしている。その中を、全く違う目的を秘めた男一匹(と犬一匹)が登山口を求めて彷徨い、ちょっと皆の邪魔をするのだった。なんとか須賀尾峠に入り込み、丸岩登山口の標識近くの路肩に駐車した。小型車程度なら路側に停められそうな場所は何箇所かあるし、交通量も少ないので難しいことはないだろう。丸岩はすぐに登頂できる。途中、烏帽子岩と丸岩との鞍部があるくらいで、それ以外に特筆するような場所も無かった。ヤドリギみたいな木があって少し気味が悪かった程度か。山頂には素朴な標識があった。山頂は昔の城跡だったらしく、細長く広い。段差のある広場が3段くらいあるが、そちらに降りていくと、道路から見える恐ろしい絶壁に近づくことになるので止めておいた。広い山頂を詳細に見ていると、石碑が一つあった。見落としがちなポイントだ。「大弁才天」と書いてあるのだろうか?眺望は全くないが、幼い日の思い出の山を登り終え、満足して下山する。帰りは須賀尾峠を越えて、倉渕を経由して帰ることにした。その前に、須賀尾峠の子育て地蔵を激写!ここは高ヂョッキの登山口になっている。そして地蔵の反対側は菅峰への入口だ。しかしこの2山は昨年登っているので、どうしても今日登る必要は感じず、帰路に着いた。それはそうと、道中に「日本一のサイカチ」の看板がまぶしい中ノ条のサイカチという大木を撮影しようと思っていた。だがサイカチの周囲は道路工事で、どうも道路ギリギリまで育っていたサイカチを迂回するように道を作っているようだ。おかげで狙いに反してサイカチの写真があまり綺麗に撮れなかった。しかし木が保存されるのであれば、良しとするか。
2013.12.11
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今日は、2年越しの願いだった新三郎に登った。栂峠は単なる通過地点という意識しかないのだが、ブログタイトルには新三郎と併記しておいた。だって、「新三郎」だけじゃ何のことだか分かりづらいっつーの。検索するときも[新三郎]だけだと山のサイトが見つけづらいので、[栂峠 新三郎]で検索する。それほど分かりづらい。そう、この山の特徴はなんといってもこの変な名前。そして俺が登りたい理由の第一は、名前が変だから。変な名前の地名はどうも気になる。そしてこの目で確かめたくなる。「日景長戸岩」なんかもそうだったな。そもそもなぜ「新三郎」という山名なのか?・・・という考察は長そうなのでやめる。俺がここにいて、新三郎がそこにある。そして、どうしてだか俺が新三郎に登ろうとして、それを果たした。それだけのことだ。■栂峠林道から見た新三郎■さて、まずは栂峠までの道のりだが、十石峠側からは立派な未舗装林道があるのだが、なぜか立入禁止で、しかも林道歩きが結構長いことは調査済みだ。ということで、ぶどう峠側から登った。加和志湖のほとりにトイレがあるがその傍に栂峠林道の入口がある。立派な看板があるから分かりやすい。登山口を見逃さないように気をつけながら軽で登っていくと、鉄塔の下をくぐってすぐのところに東電巡視路兼栂峠登山口がある。周辺に駐車スペースは少なく、軽で来ないと他人に迷惑をかけるだろう。東電のつけたプラの階段を登っていくので道は分かりやすい。が、かなりの急登だ。階段がなければとても登れないくらいだ。やがて紅白の鉄塔の下に出たので小休止。その後、栂の大木の傍にあるという石祠を探しながら栂峠に向かうが見つけられなかった。どうやら、東電の巡視路の途中から分かれる道があったのかも知れない。ともかく、薄い笹藪の尾根を辿ると、栂峠の地蔵に着いた。半年ぶりの再会だ。今回は良いカメラを持って来たので、心ゆくまで撮影した。その後は道なき広い鞍部を歩いて新三郎方面に向かう。笹藪は薄いので歩きやすかったが、犬連れなので、行く手を遮る倒木がやっかいだった。そしてさらにやっかいなシャクナゲの藪に突入した。ブルーシートの切れ端のようなものが目印についているが、要は稜線をなぞって進めば間違いない。一か所、ネットの情報で岩場を巻くところがあるとのことで巻いてみた。しかし巻いたところでそんなに楽にはならないのと、稜線を外れて道に迷うのが嫌なら、強引に直進してもさほど困難ではなさそうだ。その後も、藪に押しつぶされそうな道を探りながら岩場を辿ると、2つくらい偽ピークに肩すかしをくらってから山頂に着いた。山頂は、長野側の眺望が素晴らしい。はるか遠方に高原野菜の畑が見える。手製の山名標識が無造作にあるだけの、西上州らしい素朴な山頂だった。帰りは来た道を戻る。栂峠林道を利用したおかげで、歩行時間は写真を撮ったりしながらでも2~3時間くらい。それにしても、この山域は遠い。車で来るのに2時間近くかかってしまうため、往復なら4時間を使ってしまう。南佐久郡のこの山域の締めくくりとして茂来山に目を付けているのだが、それはさらに遠くなる。ぶどう峠の冬季閉鎖も迫っているし、一体いつになることやら。
2013.11.06
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つい先日、ぶどう峠からぶどう岳に登った。ぶどう峠の頂上には軽トラを置くスペースならあり、駐車は問題ない。ここはバイク乗りのメッカらしく、単独バイカーが登ってきては峠でひと休みし、去って行く光景が何度も繰り返された。ところで以前から、鉄骨の地蔵堂が荒れているのが気になっていたので、山登りの前に仮りの修繕をしてゴミを片付けた。地蔵堂の所有者が誰か分からないのでその程度にしておいて、ぶどう岳に向かう。道の反対側の法面を登った上の笹藪が入口らしい。もの凄い笹藪なのかと思って鉈を持参して行ったのだが、踏み跡はしっかりしているし藪の区間も短いので、草刈りの機会はなかった。笹藪を抜けると普通の西上州の山になる。・・・と言いたいが、ややカヤトが多いところがなんとなく西上州とは違う気もする。下調べによると岩場が4カ所あり巻いて行くとのことだ。実際、短い距離の間に小ピークが実に多い。岩場では踏み跡が薄くややルート探しをしたが、枝稜線はないので、稜線を意識して進めば方角を間違えることは無いだろう。距離的にはさほどでもなく、ぶどう岳に着いた。山頂は岩があり広々としているが、樹林に阻まれ展望はない。山名標識は、木の杭とリョウブの幹とにマジックで「武道岳」と書かれていただけだった。山頂でしばし休んでいると、何と超低空飛行の自衛隊機が3機、山の横を通過して行った。真横に近い。訓練だろうか。「ぶどう峠」という名の由来はあまりはっきりしないらしい。「フド」「ホド」等の古語が元ではないかとか、武道とはあまり関係なさそうなので当て字ではないかとか、ネットでも色々な考察が見られる。しかし自衛隊機を見て思った。たしかぶどう峠は、大正時代に陸軍の演習のため開かれた道で、甲府の山砲大隊が通過したという。武道峠の「武道」とは、剣道や柔道などの武道という意味ではなく、武器を運ぶ道、武装の通る道という意味で「武道」なのではないか。大正は新しい日本語が多く生まれた時期なので、同じ単語でも現在とは意味が違っていることはあり得る。などと考えながら歩いたが、立証できるはずもない。しかし、いにしえの武器の道「武道峠」を、自衛隊という最新の「武」が今も通るとは、いつの時代も戦略の要衝は変わらないのだな、と一人で納得したのだった。
2013.09.19
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昨日、長野県の四方原山に登った。栂峠を踏破した時から気になっていたのだが、仕事が忙しくてなかなか登れないでいるうちに、とても気になる山になってしまった。地味な山だということは分かっていたのだが。何しろ連日の炎天下で体調もやや悪く夏バテ気味だ。そんな時、車を降りてからごく短時間で登れる山という点も、条件に合致していた。ということで、自宅で10時すぎまでダラダラ過ごしてからの出発である。軽トラを飛ばして上野村に入り、ぶどう峠を越える。ぶどう峠の頂上には峠の名が刻まれた石碑の他に何かあったような気がしていたので、今回は写真に収め、よく観察してきた。詳細は分からないが、それは石のお地蔵様が納まったお堂だった。相木村側に下り、白岩集落あたりから四方原山に分かれる林道があるが、入口を間違えたりして少し手間取った。林道に入ってからも数か所分かれるところがあり、標識もあまりないので不安になりながら登り道を進み、やっとのことで「四方原山→」という標識があるところまで到達。ネットの情報で、さらに奥まで車で行けるとあったので極力楽をするため車で進む。外は30℃以上の陽気なので仕方ない。やがて二つ目の「四方原山→」とある標識を発見。ここが取り付きだろうと判断。下車して登り始めた。山道は、下草がはびこりやや分かりづらいが、古い赤テープがしっかりついているので間違えずに済んだ。きつい登りもなく、平たんな林の中を赤テープを探しながら歩くと、山頂に着いた。地味な山のわりに、山名標識はなかなか立派な方だと思う。来る途中、草刈りをするためにたまたま車に積んであった造林鎌を杖代わりにして歩いた。どこか除草が必要な場所があれば使おうと思っていたのだが、その機会は無かった。せっかくなので、夏草に埋もれかけていた山頂の標識と三角点の周辺を少し草刈りしておいた。
2013.08.22
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昨日、最後の未踏ルートである”倉尾ふるさと館~日尾城址”のコースを登った。このコースは小鹿野町のパンフレットに載っているのだが、実際には放置され道の不明瞭な箇所も多い難コース。15年くらい前に一度歩いたことがあるのだが、ゴールまであと数十メートル(後で判った)まで行ったのだが引き返してしまったことがある。ということで実質ほとんど踏破したようなものなのだが、今回ちょうど天気が悪いこともあり、このショートコースで遊ぼうと軽い気持ちで行ってみた。ところが、登山口からすでに道を間違えてしまった。倉尾ふるさと館の裏にある道標に従って進むと、藪に入っていく道が一か所しかないので、当然そこに入った。ところが、それは作業道だったのだ。赤テープを頼りに沢沿いに進んでいくと、行き詰まってしまう。あたりを見回すと獣道みたいなものがあちこちにはしっていて余計に悩んでしまう。頼りない獣道を進んでは引き返し、やっと正解の右側に登りあがる道を見つけた。(帰りに判ったのだが、本来整備されていた登山口は笹藪で完璧に埋もれている。たとえ正解がわかっていても通れない状態になっていた)なんとか岩尾根に登ると踏み跡が現れた。しかし踏み跡は細くてあちこちで分かれたり岩場で途切れていたりする。樹林に隠れて分かりづらいが実は岩がちで急峻な山域なので、直登も危険でできない。慎重にルートファインディングをして進む。途中、何度か引き返したり進退きわまったりしたが、時々現れるトラロープに励まされながら登った。15年前には特に道に迷った記憶もなく、一度は通った道なので甘く見ていたが、どうやら当時は整備されたばかりで新しいトラロープが良く目立ち、踏み跡ももっと明確だったのだろう。しかしその後、整備の手が入らず、トラロープは色あせて落葉に埋もれて良く分からなくなってしまった。そのためコースの難易度が上がったのだろう。うっかり帰り道で迷ってしまった。どうしても帰り道がわからず、仕方なく日尾城址まで登り返して他の下山ルートから降りようかと考えたほどだったが、幸い古いトラロープに気付き、ルートを見つけることができた。この山域は見通しの悪い林の中に大岩がいくつもあり、無理やり下山しようとしても下手をするとオーバーハングの崖の上で行き詰ってしまうのが怖い。尾根伝いとか、隣の尾根に移動するとかの作戦が自由にできないのだ。ということで、距離はごく短いが中級者以上向けのコースと言っておく。町のハイキング地図によると、このコースの見どころは「観音山見晴坂」「城山三滝」「城山天狗」。このうち前二者は以前に見たが、「城山天狗」はぜひ今回見てみたいと思っていた。しかしその前に、今回の最高所予定地点の「日尾城址」で登頂記念撮影。情けなくも、実は途中で引き返そうかと思ったのだが、なんとか登頂できて良かった。そして往路下山の途中、目を付けておいた城山天狗の入口らしきトラロープを越える。少し下ると、木製の祠と石祠がある平坦な場所に出る。その先の岩場が「城山天狗」だ。天狗の名にふさわしく、眺めは素晴らしい。まったく、下から見るとこんな大きな岩場がどこにあったのだろうと思わせる。この岩場はすっぱり切れ落ちているのではなく、半球状に先へ行くほど勾配がきつくなり、最終的にオーバーハングの崖となる。上にいる時はそんなに恐怖感はないが、下から見てみるととても恐ろしい岩場に見える。観音山の山域には、こんな岩場が何か所もある。その他、地図には載っていないが「屏風岩」もあった。ずぼらなことにコースタイムを計らなかったのだが、8時半位に家を出て12時頃には帰宅したような気がする。いずれにしろ距離も時間もさしたるものではない。ただ短い時間に、藪山の難儀と岩山の難儀を両方味わえて面白かった・・・とは、無事に帰れたから言えたことだが。
2013.06.20
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22日、摩利支天 - 長久保ノ頭 - 父不見山のコースを歩いて来た。摩利支天山頂。読みは当然「まりしてん」なのだが、地元の人々は「まるしてん」と呼ぶそうだ。理由はよくわからない。林道に駐車して、摩利支天までは30分程度で登れる。さらに北上すると長久保ノ頭だ。このルートは踏跡薄い静かなコースだったのだが、今回はひどく様子が変っていた。なんと、大規模に伐採され、山肌は削られ軽トラが通れるような道が付けられていた。かつての道は寸断され、一応たどってみたがとても歩ける状態でない。以前はこんな感じ↓の静かでいい道だったのだが・・・。しかし林業もまた営みであるから仕方のないことである。そもそも山にも地権者がいて、そこを勝手に通行しているのだから意見の言える立場でもない。とはいえ、残念ながらもはや登山道としての価値は感じなくなってしまった。結局、車道のような道を歩いて、いつもより早く長久保ノ頭に到着した。ここには「長久保の頭」という標識の他に、「大塚」という標識もある。これは三角点の名前らしい。また「父不見山」という標識もあった。登山の地図ではここの山頂名は長久保ノ頭だが、地元の人はこのあたり一帯を父不見山と呼んでいたそうで、この山頂も父不見山の一部と捉える見方もありうる。また、父不見山を双耳峰とする見方もあり、その場合ここが父不見山西峰ということになる。だから父不見山という標識も間違いではない。きっと地元の人がつけたのだろう。作業道歩きで思いの他はかどったので、久しぶりに父不見山の山頂まで足を伸ばした。長久保ノ頭からは急下降して登り返せばすぐだ。ここの山頂は何度も踏んでいるが、思えばなぜか冬枯れの時期ばかりだった。新緑の父不見山は初めてで、少し新鮮だった。
2013.05.25
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どれだけの人が辿るか、その需要があるのか自信は無いが、このブログを始める前まで更新していた俺のホームページ「TREEDOM」を紹介する。TREEDOM ツリーダムもう12年以上も前から、慣れないHTML文と格闘しながら公開し続けている手作りのサイトだ。今はすっかり楽天ブログの簡易さに慣れ、HTML文もほとんど忘れてしまった。これも一種の堕落なのか?写真は戸井ノ口池。子供の頃は「ブラックバス池」と呼んでいて、正式名称を知ったのは最近の事だ。小学生のころ、ワームで45cmのブラックバスを釣った思い出の池だ。現在は、釣り禁止になってしまった。前回行った時は、こっそり釣り糸をたれている奴がいたが、カメラを向けたら消えるように逃げて行った。別に俺は関係者じゃないんだけど。
2013.02.17
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【埼玉県秩父市・品沢から天狗山と八人峠の首切岩】(2013年1月30日)今日は、以前から一度登ってみたかった八人峠に挑戦した。挑戦といっても、距離的にさほどのものではない。俺がこの峠に興味を抱いたのは、「昔、山賊がいた」という話を地元の人に聞いたからだ。今はどうみても山賊業(?)だけでは食べていけそうもないさびれた場所だが、ともかく一度見てみたかった。しかし、この八人峠はとても情報が少ない。地形は地図を見ればわかるが、登山地図のようなものは見つからない。結局、あてにしたのは登山口の物置にある手書きの絵地図だけだった(下図)民家の庭先に入るようで居心地の悪い登山口から登り始めると、いきなり道が分かれ少々迷った。基本的に、上へ行く道を選んで行けば良いようだ。やがて杉林が終わり、明るい陽樹林の尾根に出た。せっかくなので絵地図にあった天狗山の山頂も踏んでおこうと思い、左手の分かれ道を進む。しかしこの道は廃道らしく、茨の藪をかき分ける羽目になって苦労した。後で分かったが、もう少し先に杉林の尾根筋があり、そこを左手に分ければ楽だったようだ。ともかく茨に引っ掻かれながら杉林に逃げ込み、すぐに天狗山に着いた。ピークには四等三角点がある。かなり地味な感じの山頂だが、記念すべき初踏頂の山であることには違いない。天狗山で踵を返し、峠方向へ戻る。杉林の快適な尾根を戻り、峠を横断する形でその先に続く尾根を登り詰めてみた。もちろん、山賊の根城だったという「首切岩」を見るためだ。やがて尾根は行き止まりになり、眼下にゴルフ場のコースが見えた。「彩の森カントリークラブ」、かつての「ザ・フォーラムCC」だ。首切岩を探すが見当たらない。が、左手に下ると岩場があるようだ。さては現在、首切岩の上にいるのではないか。と思い、少し下って回り込むと大当たり。この「首切岩」写真でも見たことが無い。初めてみる奇景は楽しい。童心に帰って隈なくウロウロして見る。カメラを据えて、かつての山賊のいる風景を再現!なんだこの怪しげな男は!・・・といってもこんな岩陰で生活できる自信は全くない。山賊をやる気性でもないが、そもそも峠を通る旅人がいない。ゴルフ場の客に、変な奴が岩陰にいるぞと指さされるのがせいぜいだろう。しかし、この岩場にゴルフボールが落ちていたぞ。コースから結構離れているというのに、ずいぶん馬鹿力で下手なゴルファーがいたものだ。峠に戻り、さらに進む。道はもう下りだ。下りきって平たんになったあたりに「首霧八龍神」と刻まれた石碑があった。峠に住んでいた八人の山賊を神格化したものだろうか。かの山賊が改心して仏門に入ったのが秩父札所三十三番菊水寺の始まりだと云うから、菊水寺かその檀家あたりが立てたのか。あるいはかつて菊水寺がこの近くにあったのかもしれない。などと考えつつ、竹藪から誰かの畑にでて山道は終わる。畑のそばにある「お天狗様」という社が今回のゴール地点だ。2年前、八人峠の下調べでここに来たことがある。再会できた神様に手を合わせ、来た道を戻った。
2013.01.30
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【不肖秩父ジャスティス、此度は義によって、ブログ「剣kenn諤々」の剣kenn殿が和訳し、メルマガ「ロシア政治経済ジャーナル(RPE)の北野殿が拡散を望む、安部総理の論文を転載す】(以下転載)アジアの民主主義セキュリティダイアモンド 2007年の夏、日本の首相としてインド国会のセントラルホールで演説した際、私は「二つの海の交わり」 ─1655年にムガル帝国の皇子ダーラー・シコーが著わした本の題名から引用したフレーズ─ について話し、居並ぶ議員の賛同と拍手喝采を得た。あれから5年を経て、私は自分の発言が正しかったことをますます強く確信するようになった。 太平洋における平和、安定、航海の自由は、インド洋における平和、安定、航海の自由と切り離すことは出来ない。発展の影響は両者をかつてなく結びつけた。アジアにおける最も古い海洋民主国家たる日本は、両地域の共通利益を維持する上でより大きな役割を果たすべきである。 にもかかわらず、ますます、南シナ海は「北京の湖」となっていくかのように見える。アナリストたちが、オホーツク海がソ連の内海となったと同じく南シナ海も中国の内海となるだろうと言うように。南シナ海は、核弾頭搭載ミサイルを発射可能な中国海軍の原潜が基地とするに十分な深さがあり、間もなく中国海軍の新型空母がよく見かけられるようになるだろう。中国の隣国を恐れさせるに十分である。 これこそ中国政府が東シナ海の尖閣諸島周辺で毎日繰り返す演習に、日本が屈してはならない理由である。軽武装の法執行艦ばかりか、中国海軍の艦艇も日本の領海および接続水域に進入してきた。だが、このような“穏やかな”接触に騙されるものはいない。これらの船のプレゼンスを日常的に示すことで、中国は尖閣周辺の海に対する領有権を既成事実化しようとしているのだ。 もし日本が屈すれば、南シナ海はさらに要塞化されるであろう。日本や韓国のような貿易国家にとって必要不可欠な航行の自由は深刻な妨害を受けるであろう。両シナ海は国際海域であるにもかかわらず日米両国の海軍力がこの地域に入ることは難しくなる。 このような事態が生じることを懸念し、太平洋とインド洋をまたぐ航行の自由の守護者として、日印両政府が共により大きな責任を負う必要を、私はインドで述べたのであった。私は中国の海軍力と領域拡大が2007年と同様のペースで進むであろうと予測したが、それは間違いであったことも告白しなければならない。 東シナ海および南シナ海で継続中の紛争は、国家の戦略的地平を拡大することを以て日本外交の戦略的優先課題としなければならないことを意味する。日本は成熟した海洋民主国家であり、その親密なパートナーもこの事実を反映すべきである。私が描く戦略は、オーストラリア、インド、日本、米国ハワイによって、インド洋地域から西太平洋に広がる海洋権益を保護するダイアモンドを形成することにある。 対抗勢力の民主党は、私が2007年に敷いた方針を継続した点で評価に値する。つまり、彼らはオーストラリアやインドとの絆を強化する種を蒔いたのであった。 (世界貿易量の40%が通過する)マラッカ海峡の西端にアンダマン・ニコバル諸島を擁し、東アジアでも多くの人口を抱えるインドはより重点を置くに値する。日本はインドとの定期的な二国間軍事対話に従事しており、アメリカを含めた公式な三者協議にも着手した。製造業に必要不可欠なレアアースの供給を中国が外交的な武器として使うことを選んで以後、インド政府は日本との間にレアアース供給の合意を結ぶ上で精通した手腕を示した。 私はアジアのセキュリティを強化するため、イギリスやフランスにもまた舞台にカムバックするよう招待したい。海洋民主国家たる日本の世界における役割は、英仏の新たなプレゼンスとともにあることが賢明である。英国は今でもマレーシア、シンガポール、オーストラリア、ニュージーランドとの五カ国防衛取極めに価値を見いだしている。私は日本をこのグループに参加させ、毎年そのメンバーと会談し、小規模な軍事演習にも加わらせたい。タヒチのフランス太平洋海軍は極めて少ない予算で動いているが、いずれ重要性を大いに増してくるであろう。 とはいえ、日本にとって米国との同盟再構築以上に重要なことはない。米国のアジア太平洋地域における戦略的再編期にあっても、日本が米国を必要とするのと同じぐらいに、米国もまた日本を必要としているのである。2011年に発生した日本の地震、津波、原子力災害後、ただちに行なわれた米軍の類例を見ないほど巨大な平時の人道支援作戦は、60年かけて成長した日米同盟が本物であることの力強い証拠である。 私は、個人的には、日本と最大の隣国たる中国の関係が多くの日本国民の幸福にとって必要不可欠だと認めている。しかし、日中関係を向上させるなら、日本はまず太平洋の反対側に停泊しなければならない。というのは、要するに、日本外交は民主主義、法の支配、人権尊重に根ざしていなければならないからである。これらの普遍的な価値は戦後の日本外交を導いてきた。2013年も、その後も、アジア太平洋地域における将来の繁栄もまた、それらの価値の上にあるべきだと私は確信している。 安倍晋三は、日本の首相および自由民主党の党首です。彼は日本の選挙前、11月中旬にこの論文を書きました。<参考サイト>PROJECT SYNDICATE 「Asia's Democratic Security Diamond」(原文あり)剣kenn諤々「なぜか報道されない安部総理のセキュリティダイアモンド構想」
2013.01.18
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TOKYO – In the summer of 2007, addressing the Central Hall of the Indian Parliament as Japan’s prime minister, I spoke of the “Confluence of the Two Seas” – a phrase that I drew from the title of a book written by the Mughal prince Dara Shikoh in 1655 – to the applause and stomping approval of the assembled lawmakers. In the five years since then, I have become even more strongly convinced that what I said was correct. Peace, stability, and freedom of navigation in the Pacific Ocean are inseparable from peace, stability, and freedom of navigation in the Indian Ocean. Developments affecting each are more closely connected than ever. Japan, as one of the oldest sea-faring democracies in Asia, should play a greater role in preserving the common good in both regions. Yet, increasingly, the South China Sea seems set to become a “Lake Beijing,” which analysts say will be to China what the Sea of Okhotsk was to Soviet Russia: a sea deep enough for the People’s Liberation Army’s navy to base their nuclear-powered attack submarines, capable of launching missiles with nuclear warheads. Soon, the PLA Navy’s newly built aircraft carrier will be a common sight – more than sufficient to scare China’s neighbors. That is why Japan must not yield to the Chinese government’s daily exercises in coercion around the Senkaku Islands in the East China Sea. True, only Chinese law-enforcement vessels with light weaponry, not PLA Navy ships, have entered Japan’s contiguous and territorial waters. But this “gentler” touch should fool no one. By making these boats’ presence appear ordinary, China seeks to establish its jurisdiction in the waters surrounding the islands as a fait accompli. If Japan were to yield, the South China Sea would become even more fortified. Freedom of navigation, vital for trading countries such as Japan and South Korea, would be seriously hindered. The naval assets of the United States, in addition to those of Japan, would find it difficult to enter the entire area, though the majority of the two China seas is international water. Anxious that such a development could arise, I spoke in India of the need for the Indian and Japanese governments to join together to shoulder more responsibility as guardians of navigational freedom across the Pacific and Indian oceans. I must confess that I failed to anticipate that China’s naval and territorial expansion would advance at the pace that it has since 2007. The ongoing disputes in the East China Sea and the South China Sea mean that Japan’s top foreign-policy priority must be to expand the country’s strategic horizons. Japan is a mature maritime democracy, and its choice of close partners should reflect that fact. I envisage a strategy whereby Australia, India, Japan, and the US state of Hawaii form a diamond to safeguard the maritime commons stretching from the Indian Ocean region to the western Pacific. I am prepared to invest, to the greatest possible extent, Japan’s capabilities in this security diamond. My opponents in the Democratic Party of Japan deserve credit for continuing along the path that I laid out in 2007; that is to say, they have sought to strengthen ties with Australia and India. Of the two countries, India – a resident power in East Asia, with the Andaman and Nicobar Islands sitting at the western end of the Strait of Malacca (through which some 40% of world trade passes) – deserves greater emphasis. Japan is now engaged in regular bilateral service-to-service military dialogues with India, and has embarked on official trilateral talks that include the US. And India’s government has shown its political savvy by forging an agreement to provide Japan with rare earth minerals – a vital component in many manufacturing processes – after China chose to use its supplies of rare earths as a diplomatic stick. I would also invite Britain and France to stage a comeback in terms of participating in strengthening Asia’s security. The sea-faring democracies in Japan’s part of the world would be much better off with their renewed presence. The United Kingdom still finds value in the Five Power Defense Arrangements with Malaysia, Singapore, Australia, and New Zealand. I want Japan to join this group, gather annually for talks with its members, and participate with them in small-sized military drills. Meanwhile, France’s Pacific Fleet in Tahiti operates on a minimal budget but could well punch above its weight. That said, nothing is more important for Japan than to reinvest in its alliance with the US. In a period of American strategic rebalancing toward the Asia-Pacific region, the US needs Japan as much as Japan needs the US. Immediately after Japan’s earthquake, tsunami, and nuclear disaster in 2011, the US military provided for Japan the largest peacetime humanitarian relief operation ever mounted – powerful evidence that the 60-year bond that the treaty allies have nurtured is real. Deprived of its time-honored ties with America, Japan could play only a reduced regional and global role. I, for one, admit that Japan’s relationship with its biggest neighbor, China, is vital to the well-being of many Japanese. Yet, to improve Sino-Japanese relations, Japan must first anchor its ties on the other side of the Pacific; for, at the end of the day, Japan’s diplomacy must always be rooted in democracy, the rule of law, and respect for human rights. These universal values have guided Japan’s postwar development. I firmly believe that, in 2013 and beyond, the Asia-Pacific region’s future prosperity should rest on them as well. Shinzo Abe is Prime Minister of Japan and President of the Liberal Democratic Party. He wrote this article in mid November, before Japan’s elections.Read more athttp://www.project-syndicate.org/commentary/a-strategic-alliance-for-japan-and-india-by-shinzo-abe#0wTDykHo35f0aCzJ.99
2013.01.18
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【秩父市・旧大滝村の巣場から聖岩(光岩)】(2013年1月9日)大滝村の車道を通行する時、光岩地区から見える岩場がずっと気になっていた。名称は「聖岩(ひじりいわ)」という名前が一般的なようだ。しかしまた「光岩(ひかりいわ)」という呼び名もある。それにちなんで旧・大滝村には光岩地区という行政区があるし(住民0人とか)、光岩小学校というものもあった。今は廃校になったがモダンな木造校舎が現存し、養護施設などに利用されているようだ。朝日を浴びて光輝く姿から「光岩」と呼ばれたらしい。なぜか俺は光岩という呼び方の方がしっくりくる。下の写真は、光岩小学校あたりから撮った光岩。いつか登ってみたいと思っていたが、今日それが叶った。登山道は無い山なので、わずかな情報を頼りに手探りの登山である。まずは、大峠という鞍部に行かねばならない。ここへの道筋はいくつかあるようで、ネットでも調べられるので、ここでは割愛。ちなみに今回は巣場の作業道を利用した。大峠に着くと、下の標識に出会う。奥武蔵研究会という団体が設置したのか。「聖尾根の大峠」とある。さらに混乱することに「聖山⇒」とも書いてある。「聖岩」「光岩」「聖山」と、三つも名称があるのだろうか。ともかく、大峠に立つとすぐ西に天を衝く岩場がある。この上が、光岩の頂上だろう。ということで、手近な場所から攀じ登ってみたが、すぐに絶壁に阻まれて登れなくなった。秩父の岩山はだいたい、手がかりになる木があったり、岩場に足がかりがあったりして意外と登れるものだが、この光岩は岩のピースが非常に大きく、表面は石材のようにスッパリ切れており、どうにも登りようがない。撤退して、今度は東側に回り込んで弱点を探す。・・・が、少し登るとやはり岩壁に阻まれて撤退。なんとか弱点は無いものかと周囲を巻く。西側に、わずかな手掛かりがあるが、その直下はかなり下まで崖となっている。落ちたら下山はまず無理、悪ければ死ぬだろう。・・・と、しばらく躊躇していたが、登頂の誘惑に負けてチャレンジしてしまった。手掛かりになる木は少なく、岩に這う木の根を掴み、やがて岩の切れ目を掴んで攀じ登るようになった。足下は断崖だ。足場もわずかしか無く、滑らないことを慎重に確認しながら岩壁をヘズる。なんとか、西側の岩壁を伝って、北面に近いあたりから立木を掴んで登りきることに成功した。それしても、まさか最も怖そうな絶壁側からトライする羽目になるとは・・・。見づらいが、上は大峠からチャレンジした3つのルートの図である。専用GPSは持っていないため、ペイントで青線を書きこんだだけのものなので、参考程度に。光岩の西側に回り込む途中、崩壊した祠の残骸があった。山の神の祠だろう。そして、天狗が住まうと云われている光岩の山頂。その写真をいくつか。天狗様には会えなかったが、苔むして神秘的な感じだった。岩が2か所突き出していて、どちらが最高地点だろうかと思わせる地形だった。展望はあったかどうかよく分からない。それほど登頂ルートが恐ろしく動揺していたのだろう。無事に帰れるだろうか。頭の中はその一念で一杯だった。実際、下山し始めて早々に、どこから登ったのか少し迷った。岩場なので踏み跡がないのだ。ルートをわずかに間違えて下りれば、救助を要請する事態にもなりかねない。しかも落ちれは死ぬ。一人で勝手に登って、降りられずレスキューとなれば非常にみっともない。それだけは避けたいと本気で心配した。しかしなんとか元の取り付き点に戻ることができて安堵した。岩場を降りた後、車までの道程もなかなか大変だった。この山域は、相当な岩山で危険を感じる。無事、マイカーにたどり着いた時は、思わず安堵の笑いとため息しきりだった。【教訓。・・・というか反省】これだけの岩山に挑むのもかかわらず、ザイルもヘルメットも持参しなかった。しかも単独登山。しかも犬連れ。しかも家族に行き先を伝えず登ってしまった。レスキューを呼んだあかつきには「どんだけ山を舐めてんだ!」と怒鳴られること間違いなし。死んだら当分見つけてもらえないだろう。登攀中、確かにザイルとスワミベルトがほしいと思う場面があった。本来は必須だろう。もっとも、また登りたいとは思わない。岩場が本当に恐ろしかったのだ。まさかこんなに危険なルートだとは思わなかった。予想に反して、品塩山以上に危険を感じた。今までの岩場の中でもトップクラスの恐怖だった。当分、岩山に行くのはやめ、穏やかな低山を登ることにしよう。俺が死ねば、家族が悲しむのだから。正直、本気でそう思うに至っている。それほどの体験だった。
2013.01.09
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【上野村・県道124号線中之沢の安曇幹線2号線207号鉄塔巡視路から品塩山】(2013年1月4日)先日、群馬県上野村の寂峰・品塩山に登った。実は昨年12月に登ろうと思っていたのだが、登山口を探しに行くと、取り付き地点らしきあたりで河岸工事をしていた。どこから登るかも分からない状態で、工事現場をうろつくのは気が引けて結局登らなかった。しかし1月4日であれば、まだ本格的に工事はやっていないだろうとのねらいでアタックした。予想通り、工事車両は皆無ではないが少ない。コースは、鉄塔巡視路を利用。まず川に掛けられた小橋を渡り、黄色い巡視路のポールを目印に枯れ沢を詰める。やがて避難小屋に着いたら、尾根へ登りあげると鉄塔下に着く。ここからの眺めは素晴らしい。そのあとは稜線を辿っていく。踏み跡は若干ある。忠実に稜線を辿ると、意外に岩場が多い。途中で、前衛峰らしき岩峰がそびえ立つように望める。偽ピークのようなものがいくつもあり、山頂はまだかとがっかりしながらも、やがてあっさり品塩山北峰に到着。標識は「すかいさん」の標識と、プラ片のテプラ標識がある。この山は南峰もあるということなので、更に進む。やがて、南峰らしき場所に着いた。人跡薄い秘境の山かとイメージしていたが、意外に鉄塔の巡視路があちこちに整備されている山だった。南峰からさらに道は続いていて、他の鉄塔や、「又尾山」へと道は続くのだろうが、目的は達成したので早々に撤退した。【教訓】稜線を辿るといくつもの岩場につきあたる。特に、大きな下りの岩場が一カ所、大きな登りの岩場が一カ所、どうにかして乗り越えなくてはならない。しかし、なるべく岩場に真正面から挑むべきではなく、巻くためのルートファインディングをした方が良いだろう。今回、ロープを持っていかなかったが、岩場の急斜面で掴んでいた立木が折れてヒヤリとした。安全のために、ヒルウォーカーロープを持参すべきだったかもしれない。
2013.01.08
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群馬県上野村の地図に記されている「日景長戸岩」とはどんな岩なのか、以前から気になっていた。ネットで調べてもあまり情報がなく、様子が分からないので、いつか自らの目で確かめたいと思っていたが、本日それが実現した。場所はミミズク沢の林道からの撮影。日景長戸岩は深い谷を挟んで対岸側にある。登山道も不明で、鹿の道がかすかにある程度なので、単独で登るのは危険な感じがする。おそらく、この巨大な岩尾根の岸壁を日景長戸岩と呼ぶのだろう。情報がないため、謂われも何も全く見当がつかない。いろいろ写真を取ったが、立木が邪魔でいまいち全容が分かるような写真が撮れない。いつか、もっとよいビューポイントを見つけたいものだ。気温は測らなかったが、とにかく寒かった。雪山装備が必要なレベルだろう。それとは別に、今日の難所は、林道崩落個所だった。かなりスッパリと切れ落ちていて、足がかりも完全に無く、乗り越えるのに難儀した。
2012.12.26
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選挙はどうやら自民党の大勝で決着しそうである。さすが我が祖国・日本だ。皇紀2600年を越えて連綿と存続し発展してきた国だ。日本存亡の危機に、身を捨ててでも国を守ろうという政治家が顕現し、その無私の志に国民が応えたということだ。(・・・もっとも、3年前に「民主党政権という災厄」を創り出したのも同じ国民だが)ともあれ、今夜は俺も祝杯だ。僻地より安倍氏にお祝い申し上げる。そして、日本を救うために再起してくれてありがとう。「民主党政権という災厄」を招いた愚かな国民を見捨てることなく、幸せにするためによくぞ総裁の座に起ってくれた。しかし明日は勝利の美酒に酔ってはいられまい。南西国境は風雲急を告げている。中国に対する有効な手段は、恫喝にうろたえず毅然と立ち向かうことだ。と、李登輝氏も云っている。軍事的優勢を確保しつつ、一戦も辞さずの覚悟で尖閣防衛に乗り出せば、中国の策謀は瓦解する。安倍さん、尖閣・沖縄を守ってくれ。微力ながら俺も支える所存だ。
2012.12.16
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【不肖秩父ジャスティス、此度は義によって、メルマガ『政治の本質』発行者ロベルト・ジーコ・ロッシ殿のメッセージを世に広めんとす】(以下転載)安倍自民党総裁は、これだけ、反日勢力から攻撃されるのは、彼らにとってそれだけ脅威となる政策を打ち出し、実現化出来る能力が有ると見られている証拠です。「政治の本質(EoP)」を御覧のスーパーエリートで愛国・保守の皆様、是非、周りの御友人、お友達にも安倍自民党が政権を取ると日本の美しい海、領土、そして国民の生命は断固として守られて景気が良くなり、みんなの収入や所得も上がるから安倍自民党に今回の総選挙で投票しよう!って誘って下さい。宜しくお願いします。
2012.11.20
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【不肖秩父ジャスティス、此度は義によって、安倍総裁のフェイスブックフィードのメッセージを世に広めんとす】(以下転載)・・・・秘書です。 『安倍官房長官印象操作映像事件』 パッと聞いて皆様お分かりでしょうか? TBSの報道番組でNHKキャスターの痴漢行為のニュースの際、安倍総裁の映像が流れた件は↓でご紹介しておりますが (何か安倍さんが強制わいせつしたみたいになってますね(^_^;)) 安倍官房長官時代、次期自民党総裁選挙を前にして起こった事件が『安倍官房長官印象操作映像事件』です。 ※731部隊を特集した報道に何故か安倍さんの顔写真がっ! あのオウム真理教も使用した(その時のアニメ番組TBSが放送)とされるサブミナル効果(もちろん使用は禁止されています)を意図的に狙った物であるとするならば非常に悪質で、恐怖すら感じます・・・。 「選挙」+「安倍」=「TBSの印象操作」はもはやセットなのでしょうかww ウィキペディアにも紹介されていますので、操作されないよう皆様是非ご一読下さい。安倍官房長官印象操作映像事件 - Wikipedia ja.wikipedia.org安倍官房長官印象操作映像事件(あべかんぼうちょうかんいんしょうそうさえいぞうじけん)は、TBS系列のニュース番組「イブニング・ファイブ(JNNイブニング・ニュース)」の「731部隊特集」(2006年7月21日放映)で、731部隊とは無関係の安倍晋三官房長官(当時)の顔写真を約3秒間にわたって映し出したマスコミ不祥事である。
2012.11.20
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山でのどかなひとときを過ごしていた間に、下界ではまたも愛国派政治家を狙った卑劣な事態が進行していたようだ。ここは登山ブログだが、この国を愛する納税者として看過することはできない。大手メディアがその手で来るなら、こちらもいつもの戦い方をするのみ。・・・と、いうことで、以下コピペなり。(出典・メルマガ『政治の本質』)サブリミナル効果で安倍総裁のネガキャンするのが、TBSです。11月16日放送のTBS『みのもんたの朝ズバ!』で、NHKキャスターの痴漢行為を、ニュースとして流す中で、安倍自民党総裁の顔写真を映しだしました。これも一種の、サブリミナル効果です。意図的に、「強制わいせつ」という破廉恥な罪を犯した容疑で逮捕された人物のテロップを安倍総裁の顔写真と同時に映し出す事で視聴者に、安倍総裁及び自民党へのマイナスイメージを刷りこませようとしているとしか思えません。サブリミナル効果(サブリミナルこうか)とは、意識と潜在意識の境界領域より下に刺激を与えることで表れるとされている効果のこと。 サブリミナルとは「潜在意識の」という意味の言葉である。境界領域下の刺激はサブリミナル刺激(en:Subliminal stimuli)と呼ばれている。 ↑ウィキより抜粋安倍自民党総裁の顔写真の証拠映像http://yangkuma.blog81.fc2.com/blog-entry-1179.htmlフェイスブックのアカウントをお持ちの皆様は、「安倍 晋三」で検索して下さい。(安倍総裁のフェイスブックから以下転載)11月16日放送のTBS『みのもんたの朝ズバ!』で、NHKキャスターの痴漢行為を、ニュースとして流す中で、なんと私の顔写真が写し出されたそうです。 ネットの指摘で明らかになりました。 その日はまさに解散の日。 ネガティブキャンペーンがいよいよ始まったのでしょうか? もし事故なら私のところに謝罪があってしかるべきですが、何もありません。 「はい、先ほど、あの関係のない映像が出てしまったという事ですが、大変失礼しました。」 と番組内で女性アナウンサーが言ったきりです。 かつてTBSは、私が前回の総裁選に出た際、「731細菌部隊」の報道のなかに私の顔写真を意図的に映り込ませる悪質なサブリミナル効果を使った世論操作を行いましたが「・・・またか。」との思いです。 これから1ヶ月こうしたマスコミ報道との戦いです。 私は皆さんと共に戦います。
2012.11.20
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【志賀坂トンネル・群馬側出口から諏訪山】(2012年8月15日)少し前のことになるが、志賀坂トンネル近くにある登山口から諏訪山に登った。スワヤマという山名は非常に多くあるようで、西上州だけで2箇所はすぐに思いつく。全国ではさらにたくさんあることだろう。そこで「志賀坂諏訪山」と便宜的に呼ぶことがあるのかもしれない。お盆の蒸し暑いその日、志賀坂トンネルの群馬側出口のすぐそばにある空き地に車を停めた。駐車スペースは結構広い。混雑する山でもないので、マイカーの停めるところに困るようなことは無いだろう。登山口には立派な案内板がある。尾根コースと谷コースの2つがあるようだが、尾根コースで登ることにした。尾根まで上り詰めると鉄塔がある。そのあとは尾根をなぞるように歩く。・・・が、どうも単調である。霧雨であたりの見通しも悪く、蒸し暑い中、耐え忍ぶようにひたすら登る。単調だが傾斜はきつく、長い階段もあり楽ではない。やがてやっと道に変化が現れる。道の分岐点が平たんな広場のようになっている。ちょっとした広場のようなところに着くと、その後は山頂を回り込むような道になる。ほどなく山頂である。立派な山名標識と、「諏訪山」と書かれた大きな祠があった。これが山名の由来であろう。傍らには真新しい石碑があり「諏訪大明神」と刻まれているが御神号であろうか。静かに祠に手を合わせ、初見の挨拶とした。辺りは霧雨で眺望も得られず、しばらく休憩した後に下山した。せっかくなので下山は谷ルートを通った。一応、縦走の気分である。しかし、どちらかといえば谷ルートの方が登山者が少ないのであろうか、下草が結構うるさく、道も荒れかけている。霧雨程度でレインスーツを着るのは暑苦しいので着なかったのだが、草露のおかげでズボンかか靴下までびしょ濡れになってしまった。それでも、1時間程度の下りである。我慢すれば済むことだ。諏訪山の感想だが、率直なところ、あまり変化が少なく面白みの無い山だと感じた。今回は、まさに山頂を踏みに行っただけとも云えよう。紅葉や花の季節に登るなら、もう少し楽しめるのかもしれない。
2012.11.16
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週末、小鹿野町の中学生たちと、山に木を植えた。この植樹は、西秩父ライオンズクラブの活動の一環である。いつもはふざけたブログを書いている俺も、実はライオンズクラブに参加して地道にボランティアをやっているのだ。『LIONS CLUB』は世界最大のボランティア団体で、日本以外の各国にも組織がある。しかし、人と話をしていると意外にライオンズクラブを知らない人が多い。西武ライオンズの後援会かと勘違いされたこともある。・・・まあ色んなことがあるわけだが、いくら俺が世の中の役に立ちたいと願っても、一人でできることはたかが知れている。しかし同じ志を持った仲間が力を合わせれば、山に数十本の木を植えることだってできるのだ。実はものすごい急斜面に植えている。休日返上で植樹をする中学生たちの雄姿を見よ。頼もしいではないか。これが我が地元の若者たちだ。俺は君たちを誇りに思う!木を植えることは、間違いなく善だ。木は酸素を生み出し、その酸素を吸って我々は生きている。「木なんぞ無い方がいい」などと言うひねくれ者がいても、そいつだって酸素無しでは生きられないのだから、論理はすでに破たんしている。それにしても俺が中学生だった頃、こんな立派なことはしてなかったぞ。こんな若者がいる限り、我が国の未来は明るいと確信した。有志の参加だったためか、厭々作業をさせられている感じはなく、明るく熱心に働いてくれた。ありがとう、中学生たち。とかく政治経済外交で暗いニュースの多い昨今だが、次世代は確実に育っている。彼ら彼女らが大人になり世界に羽ばたく時、誇りをもって祖国は日本だと語って欲しい。そのためにも、捏造の歴史で日本のイメージを貶めようとする中韓の陰謀は、俺たちの世代で食い止めねば。先日、韓国が国連の非常任理事国になった。さっそく、「従軍慰安婦問題」を国連で取り上げようとする策動が始まっている。何度も云おう。日本軍に強制された「従軍慰安婦」などいなかった。日本軍が加害者の「南京大虐殺」も無かった。俺らの爺ちゃんたちは、日本を守るために戦ったのだ。日本は、かつて白人の世界支配を打ち破った「奇跡の国」だ。そして原爆と無差別爆撃で焦土となってもまた経済大国になった「奇跡の国」。大災害が起きても、国民が互いを思いやり助け合う「奇跡の国」なのだ。俺はこの国を誇りに思っている。
2012.10.29
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(メルマガ「政治の本質」発行者、ロベルト・ジーコ・ロッシ殿の拡散希望により転載)EoP(Essence of Politics)政治の本質を御覧のスーパーエリートの皆様、まずは、下記の記事を御覧下さい。南京取り立て裁判の怪(産経 2012/10/23)http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/121023/trl12102308050000-n1.htm11月9日に東京地裁で奇妙な裁判が始まる。ある老中国人女性が日本の出版社と日本人著者を訴えているのである。この女性は1937年のいわゆる南京事件の被害者だとして、これまで、さまざまな証言をしているが、その内容に矛盾があるとして、日本人研究者が疑問を呈した著書を日本で刊行した。ところが中国人女性は、言論で反論したり、事実関係で争うことをせず、「精神的苦痛を受けた」として著者と展転社という日本の出版社をなんと南京の人民法院に訴えたのである。南京の法院は日本人著者に召喚状を送ってきたが、召喚に応じる義務はなく、出廷しなかった。南京の法院が訴えを認めないはずはなく、即日、両者に日本円で500万円を超える賠償を命じる判決が下った。日本と中国は裁判の「相互保証」の取り決めがないため、判決を日本で執行することはできない。ところが、この中国人女性は、こともあろうに東京地裁に強制執行を求める訴訟を起こしたのである。いってみれば南京で下った損害賠償金を、取り立てられるように日本の裁判所に訴えてきたのである。その裁判が始まるのだ。南京事件の被害者と名乗る他の女性も、同じ展転社の書物や著者を訴えているが、それは東京でのことだ。もし、今回の裁判で中国人女性の訴えが認められると、南京の法院で一方的に下された判決が、日本でも有効とされ執行されるという、とんでもないことになってしまう。こういっては何だが、展転社は社員数人の弱小出版社である。しかし、これまで南京事件を疑問視する多くの出版物を刊行してきた。歴史の真実を伝えることを使命としているからだろう。弱小だから資金はない。中国側がそこを突いてきているのは明らかだ。その証拠に他の出版社に対しては訴訟を起こしていない。弱いところから攻めようというのだろう。もし、とんでも判決が出れば、言論の自由は消し飛び、出版社の命運は尽きる。中国で一方的に下された判決が日本で執行されるなどということが許されていいはずがない。そこで有識者が立ち上がって「南京裁判 展転社を支援する会」が発足した。会長は評論家の阿羅健一氏である。同会は裁判費用をふくむカンパを募っている。郵便振替口座は「00170-1-679142 展転社を支援する会」。転載終了この記事は、メルマガ「日本再生ネットワーク」で見つけました。登録・バックナンバーは ⇒ http://melma.com/backnumber_56952/管理人・編集部の皆様、ありがとうございました。>南京の法院は日本人著者に召喚状を送ってきたが、召喚に応じる義務はなく、出廷しなかった。南京の法院が訴えを認めないはずはなく、即日、両者に日本円で500万円を超える賠償を命じる判決が下った。近代裁判は、検事(原告)を裁く裁判です。裁判官と原告(検察)がグルになれば、どんな被告だって有罪にすることができる。行政権力の一部である検事の容疑者逮捕、拘留、取調べは法の手続きに、則っていたか、違法に供述の強制をしていないかを厳格に調べるのが近代裁判です。若し、裁判の途中で、行政権力の一部である検事の違法性が明らかになれば、被告がどんなに疑わしくても「無罪(not guilty)」確定です。この、南京取り立て裁判も同じです。>日本と中国は裁判の「相互保証」の取り決めがないため、判決を日本で執行することはできない。ところが、この中国人女性は、こともあろうに東京地裁に強制執行を求める訴訟を起こしたのである。いってみれば南京で下った損害賠償金を、取り立てられるように日本の裁判所に訴えてきたのである。その裁判が始まるのだ。南京事件の被害者と名乗る他の女性も、同じ展転社の書物や著者を訴えているが、それは東京でのことだ。もし、今回の裁判で中国人女性の訴えが認められると、南京の法院で一方的に下された判決が、日本でも有効とされ執行されるという、とんでもないことになってしまう。原告は行政権力の一部である検事でないかもしれませんが、南京での裁判は・・・欠席裁判なのです。被告が、原告に対して、反対尋問をする機会もないまま、一方的に原告の主張を認めた裁判結果だという事実が重要です。皆様の中には、裁判官と裁判所は権力とは関係ない、いう認識を持たれている方も居るかもしれませんが、その認識は改めて下さい。裁判官と裁判所は司法権力というリバイアサンである国家権力の一部なのです。国家権力であるからこそ、国民に死刑(殺人)や禁固(監禁)を命じても、罪に問われないのです。南京の法院というシナ共産党国家権力の一部である裁判所が、欠席裁判で、日本人と日本法人に下した「南京大虐殺」に関する「有罪判決」!このシナ共産党国家権力の意向を受けた判決に少しでも歩み寄った判決が出た瞬間に、日本の言論の自由どころか、民主主義、及び、日本の独立は吹き飛び、シナ共産帝国の新しい州に成り下がります。皆様、是非、この南京取り立て裁判の情報を拡散して下さい。そうすれば、「南京大虐殺」は旧大日本帝国陸軍ではなく、蒋介石率いる国民党軍が起こしたという、「正しい歴史認識」を持つ優秀な弁護士が「南京裁判 展転社を支援する会」に参戦出来ます。宜しくお願いします。(南京事件の「正しい歴史認識」に関する参考ブログ)ねずさんのひとりごと【拡散希望】四度あった南京事件http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1452.html正しい歴史認識、国益重視の外交、核武装の実現・山田宏「南京占領後に人口増えている」・河村たかし名古屋市長の「南京大虐殺」否定発言を支持・日中友好協会は発言の撤回求め抗議文「旧日本軍の上級将校の団体の出版物にも記されている」 http://deliciousicecoffee.blog28.fc2.com/blog-entry-4563.html
2012.10.25
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復興予算21億円が中韓友好促進団体に 団体トップは民主大物議員と外務省OB… 東日本大震災の復興予算が、復興とかけ離れた事業に転用されていた問題で、総事業費72億円の青少年国際交流事業が注目されているが、全体の約3割、約21億円が中国と韓国との友好を促進する2団体に支出されていた。2団体のトップは、民主党の大物議員と外務省OB。尖閣諸島や竹島をめぐって中韓両国が増長した背景に、民主党政権の弱腰・迎合外交があるとの指摘もあるが、国民はこの復興予算に納得できるだろうか。(記事より抜粋)http://www.zakzak.co.jp/society/politics/news/20121018/plt1210181552007-n1.htmこれは酷いだろう!東北の被災者がいまだ立ち直れない中、中国や韓国に巨額の復興予算が流れているそうだ。国民には復興増税など強要しておきながら。しかも、中国は日本の領海を侵犯し続け、韓国はいまだ天皇陛下への侮辱を詫びようともしない。今、日本は国を挙げて中国・韓国の横暴に対峙しなければならないというのに。これが民主党政権だ。こんな政権は一刻も早く政権から引きずり落とさねばならないのだ。3年前に投票を誤った有権者よ。これでもまた、民主党に投票するのか?付記:ちなみに「民主党の大物議員」とは、江田五月(えださつき)参院議員(岡山県)で、日中友好会館の会長だそうだ。
2012.10.20
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御荷鉾スーパー林道から赤久縄山・白髪岩(2012年8月8日)少し前の事になるが、御荷鉾スーパー林道を利用して赤久縄山と白髪岩に登った。「赤久縄山」と書いて「あかぐなやま」とは、当初読み難い名前だった。それがいかにも秘境を思わせる。しかし耳に馴染んでくると、なにやら風格のある名前である。俺が知らなかっただけで、さぞ立派な山なのだろうという響きが不思議とある。調べてみると実際、山頂には1等三角点が置かれ、西上州でも名のある山なのだと知った。と同時に、御荷鉾スーパー林道ができて極端に状況が変わった山でもあるらしい。かつては人跡薄い山道を数時間かけて登る秘峰だったのだが、今は車を使えば林道から30分程度で簡単に登れる。林道からの登山口は3つほどあるようだが、最短の中央登山口から登った。すぐに山頂へ到達できるが、簡単だからといってつまらない山では決してない。登山道には笹藪が現れ、無粋な道普請の槌音も聞こえない。静寂の中、若き日に登った雁坂峠の笹藪などが思い出されて懐かしかった。山頂は広く刈り開かれていて、真夏でも草が煩くは無い。「赤久縄会」という者たちが立てたらしい古い看板など、周辺を興味深く探索していたが、大きな蜂らしき羽虫が飛んできたのでそっと退散した。こんな人気のない場所で、スズメバチの巣に遭遇してしまうとしたら、クマに遭うより恐ろしい。下山路は間違えやすいという情報があったが、俺も間違えて別の登山口へ下りてしまった。といっても距離的には近いので、林道を歩けばすぐに車まで戻れた。むしろ、そのおかげで安取峠(あとりとうげ)の標識を見たりと周辺を楽しむことが出来た。つぎは車で白髪岩の登山口に向かう。未舗装林道なので良い車に乗っている人は大変かもしれないが、標識があるので登山口は分かりやすい。駐車スペースも1~2台くらいおけそうだし、もし場所がうまっていても、前後の林道わきの路肩に、軽であればおけそうな場所がある。もっともここがそんなに賑わうとも思えないが。白髪岩は秘境ではあるが、標識が親切にあるので難しくはない。ネットでもかなり道程が紹介されているので、調べておけば問題は無いだろう。膝までの笹藪を分けながら薄い踏み跡を辿っていくと、要所ごとに道案内の標識がある。しばらく進むと直登ルートと迂回ルートとに分かれる。一見、字面から直登ルートの方が楽だろうと思い選びたくなるが、白髪岩の原三角測点を世に出したこの人のサイトを参考にして、迂回ルートを選んだ。(氏によると、直登ルートは以前は無かった。そして直登ルートにある岩場は、かつて野生動物の営巣地だったそうだ。しかし白髪岩が有名になり、直登ルートが拓かれ踏み跡が太くなるにつれ、岩場に野生動物の気配が無くなっていったという。自然保護の観点から、あまり直登ルートは通ってほしくないという主旨のようだ)しかし迂回ルートは、登る人間にとっては嬉しくない要素がある。まず、やや下らなければならない。そして利用者が少ないのか踏み跡が薄い上、最後の方では不明瞭な感じだった。山頂を通り過ぎてしまいそうな危機感を抱き、道なき斜面を強引に登ると、白髪岩山頂に到達した。そこにあったのは、貴重な「原三角測点」の標石だ。写真では何度も見たが、やはり本物を目の当たりにすると迫力が違う。日本にたった3つしか現存していない原三角測点。しかも、明治に設置された当初の姿のままで保存されているのは唯一。歴史を証明する、まさに本物中の本物だ。解説として、近くに設置されていた看板の内容を転載する。原三角測點白髪岩の「原三角測點」は、明治15年当時の内務省地理局が設置した三角点標石です。使用されている石は南牧村産椚石(石英質安山岩)が使用されています。この三角点標石は米山、雲取山、白髪岩の三か所で発見され、設置当初の位置で発見されたのは白髪岩だけです。地元下仁田町栗山地区と林業関係者は”稲含山の三角点”と呼んでいました。測量の歴史上貴重なものです。大切にしましょう。下仁田町中小坂鉄山研究会固有名詞がやけに難しく地元に詳しい人でないと読みづらいのではないか、と思ったが気のせいだろうか?原三角測点は触ってみると少しグラグラする。苔の生え方も不自然な気がしたが、誰かが手を加えたのでなければ良いが。せっかく今まで残ったのだ。なるべく手付かずのまま後世に残せれば、それだけでも価値が増す。なお、迂回コースがあまり好みでなかったので、結局帰路は直登コースを使った。途中景色の良いところもあった。しかし岩場にはトラロープがしっかり取り付けられており、もはや野生動物の痕跡は見当たらなかった。
2012.10.17
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高松集落から皆野雨乞山(2012年8月1日)少し前のことになるが、皆野雨乞山に登った。この山、「マップル山と高原地図」もカシミール3Dも地図上に山名が載っていない。山頂の位置には「△598.2」との表示があるだけだ。しかし現地の標識によると「雨乞山」というのが名前のようである。しかし雨乞山というのは全国にあり、この山の近くでも長瀞に雨乞山という場所がある。しかもそちらはパラグライダーの離陸場として知られている。インターネットで検索すると、長瀞の雨乞山の情報ばかりが見つかる一方で、皆野のそれはほとんどない。そこで便宜上「皆野雨乞山」と表記することがあるようだ。国神の交差点から出牛に向かう道中、左手に「高松不動尊」という標識の置かれた枝道があるのでそちらへ折れる。その後、狭い道が続き標高を上げていく。この道はどこまで続くのだろうと不安になるが、奥のほうにも家屋があり、住人がいるようだ。そのあたりが高松集落だろう。やがて、道の右手に「雨乞山登山口」「石仏群」「勝負沢岩陰遺跡」の標識がある。そのわずか先に路肩の広いところがあるので車を停め、そこからは徒歩だ。30m程度歩くと石仏が3体あるが、これが「石仏群」のことだろうか?その先は分かれ道になり、よくわからないが山頂方向への道を選ぶ。やがて、立派な手すりのついた土塁のようなものに出会う。最近整備されたもののようだが、これは何だろうか。暑いので十分な探索もできず、結局正体は分からなかった。道は土塁の裏手から続き、大岩の上に石祠があるのが見える。ここまでは道があるが、その先は突如、不明瞭となる。最初は踏み跡を探していたが諦め、携帯のGPSで地形図を見ながら藪をこいで山頂を目指す。この山が、古びたドラム缶など人跡はあるにも関わらず道が無い理由だが、もしかしたら耕作放棄地ではないだろうか。昔は山畑だったのだが、水利が少ない等の理由でいつしか耕作されなくなり、雑木がはびこるようになったのではないかと推察する。上のほうになると藪は減り、杉林になってくる。そして最後まで踏み跡を辿ることなく山頂に着いた。登りで50分くらいかかった。山頂には標石を保護している枡と、手作りの山名標識が2つほどあった。標石を見てみようと思い枡のフタを開けたら、中は蟻の巣になっていたので閉口してすぐ元に戻した。下山は、往路を辿ろうと思ったが最初から方角を間違え、かなり遠回りで藪こぎをする羽目になった。GPSがあったから迷いはしなかったが、俺もまだまだだなと反省しながらの下りとなった。
2012.10.15
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みかぼスーパー林道からオドケ山・桐ノ城山・西御荷鉾山(2012年7月25日)少し前のことになるが、表題の3つの山に登った。すべてみかぼスーパー林道を利用してのマイカー登山だ。みかぼスーパー林道は便利な道である。車で行けば、雨降山・東御荷鉾山・西御荷鉾山・愛宕山・桐ノ城山・オドケ山・赤久縄山・白髪山・南小太郎山・白髪岩・日向山などにそれぞれ1時間前後で登れる。土坂峠を越え、万場の商店街を過ぎて塩沢峠からスーパー林道に向かうと、ほどなくオドケ山の登山口に着く。この登山口、どういうわけかやたらアブの類が飛んでいて閉口した。虫を避けるため、山に逃げ込むように登り始める。分岐が一か所あるが、丁寧な道標があるため迷うことは無いだろう。20分程度のコースと知っていたので、なめてかかっていたら意外と急斜面で、息をついてしまった。それでもほぼ予定通り山頂である。オドケ山の山頂は石祠がなぜか2つあり、しかも並んでいるのでなく別々にあるのが印象的だった。地権者が2人いるのだろうか?想像したが理由は分からない。山頂からは周回して降りられるようだが、蜘蛛の巣を新たに切り開くのが嫌なので、来た道を戻る。次は桐ノ城山を目指す。スーパー林道を東進すると、右にみかぼ高原荘へ下る分かれ道がある。この分かれ道をわずか進めば登山口がある。入口に道標があるのですぐ分かる。ブルが通るような道をしばらく歩くと鳥居があり、そこから山道になる。基本的にほとんど下りだ。やがて親切丁寧な道標があるので、導かれるままに急斜面を登ればすぐ山頂である。山頂には石の祠と、大きな山名標識がある。展望は無いが、静かで雰囲気の良い山頂だった。ふたつ登っても、まだ時間と体力に余裕があったので、手頃な西御荷鉾山を目指すことにした。この山は、スーパー林道沿いに大変広い駐車場があり、不動剣のモニュメントなど目印にも事欠かない。登山道はいくつかあるが、最短の道を選んで登った。標識に従って杉林の中を登ると、すぐにカヤトの原になって視界が開ける。ここで本日はじめて他の登山客に出会った。前橋から来た方らしい。前橋からでも、御荷鉾山の登山口まで車で1時間くらいだったという。さすがに交通が便利なようだ。カヤトの中の階段を登り詰めれば西御荷鉾山の頂である。この山頂は広くて展望もあり、とても気持ちの良い場所だった。西上州の山々が遠望できる山頂だが、俺は山座同定はそれほど興味が無い。また、ニッコウキスゲやアヤメも咲いていたが、花にもあまり興味は無い。それでも、ここの山頂は気に入った。季節が変わったら、また行きたいと思う。
2012.10.09
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そろそろ西上州の山の話題をアップしようかと思っていたが、マスコミの安倍氏バッシングが始まっているようでどうも捨て置けない。先日、日本テレビ「スッキリ!!」でテリー伊藤殿が、「ちょっと皆さん誤解しているのは、あの人病気になってやめたわけじゃなくて、一年かやってて成果がでなかったからやめたんですよ。病気のせいにするってのはちょっとどうかと」などとでたらめを吐いていた。その前後も、悪意が滴るようなコメントを続けていたのは残念だ。今までは、テリー氏にはむしろ好感を持っていたくらいだが、最早これまで。ということで、安倍内閣当時の実績をアップしておく。さらに詳しい内容も、ネット上では広く周知されているようだ。それにしても安倍内閣は「成果がない」との評価は、いくらなんでも当たるまい。 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆2006.09.26 安倍内閣発足「美しい日本」2006.09.18 教育再生会議が初会合2006.11.__ 貸金業規制法など関連法案の改正案(3年後実施)これにより、サラ金を壊滅寸前に追いやる。2006.12.15 教育基本法の改正 防衛庁の省昇格関連法の成立2007.03.01 6者協議の日朝国交正常化に圧力姿勢を確立(従来の政策に反し拉致やミサイル開発など解決まで支援など行わない基本政策を造る)2007.05.14 国民投票法(憲法改正の手続きを定める法律)2007.05.18 「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会(集団的自衛権をめぐる事例研究)」が初会合2007.06.20 教育関連3法が成立2007.06.30 社会保険庁改革関連法、公務員制度改革関連法が成立・・・法整備ばかりでなく、悪法の阻止なども成果とするならば、まだまだ実績はありそうだ。
2012.10.02
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さすが皇紀2600年の国。聖徳太子の国である。忍びよる滅びの危機に際して、見事に保守救国の政治家を見出した。この時期に安倍氏を自民党総裁に選出したことは、永きに渡り続いてきた我が国の底力と云えよう。どこの国の政府か判らない民主党から政権を取り戻し、真の敵・中国と対等に渡り合ってほしい。そう、今まさに、中国が侵略の野心を露わにしている。中国は怪物だ。その戦略は圧倒的である。我が国の子供たちが、チベット人やウイグル人のごとく漢人に虐げられる未来を、俺は憂う。それは断じて杞憂ではない。北方四島を如何に外国が制圧しようと、我が国の存亡にはやや遠い。しかし尖閣を奪われれば、日本は戦わずして負け得る。シーレーンを制圧されるからだ。そして日本がコケれば米国も衰える。中国はその事を良く知っている。だからあの小島を欲するのだ。敵ながら見事な戦略といわざるを得ない。我が国は、保守勢力を結集してこの危機に当たらねばならない。しかしなんとも内なる敵の多いことか。外敵の調略はかくも進んでいるのか。かつて「安倍の葬式はうちで出す」とのたまった朝日新聞は、さぞ自民党新総裁をバッシングしていることだろう。もう朝日新聞はやめたので、きょうびどう書いているかは分らんが。テレビではみのさんが「安倍さん、カツカレー食べてる場合じゃないよ」とネチネチやっている。みのさん、男が下がるからやめてくれ。政治家が何を喰おうがどうでもいいではないか。あの非常識な鳩山総理を散々褒めちぎったマスメディアが、どうしてたかが野党の新総裁をかくも完全包囲して叩くのだ。魂胆が素人にも見え見えではないか。日本の有権者よ。この程度の偏向報道に惑わされることなかれ。
2012.09.28
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矢納城峯神社から神山(2012年7月18日)少し前のことになるが、神流湖の南にある神山に登った。登ろうと思ったのは、先週登った塚山の隣にある山だったからだ。それにしても「神」の「山」とは、実にシンプルかつ神々しい名前ではないか。18日の朝、山を目指して運転していたところ、琴平橋の上で大勢の警官を見た。皆、神流湖を見ている。つられてふと湖上を見ると、近くをヘリが旋回しているではないか。珍しいので12倍ズームのデジカメで激写!後で調べると、群馬県防災ヘリ「はるな」だったようだ。防災航空隊の諸君、御苦労である!湖面を捜索しているようなのだが、何か事件だろうか?近くの警官に訊けば分かったのだろうが、面倒に巻き込まれては嫌なので訊かなかった。よって理由は不明のままだ。もっとも、そんなことを突き止めるのが今回の旅の目的ではない。未知の土地に行くと、珍しい風物が色々あって興味が尽きないのだが、それらにいちいち立ち止っていると、なにも果たせず休日が終わってしまう。今、俺の旅の目的は、ひとつでも多く山の頂に立ち、老いた愛犬と記念写真を取ること。そう、老い先短い愛犬との思い出づくりこそが俺の目的なのだ。それにしても、確固たる目的があるというのは幸せなことだ。迷うこともなければ悩むこともない。悩む暇がないのだ。迷ったら、目的達成のためには何を成すべきか自分に問えば、常に答えは明瞭だ。すなわち、今日は防災ヘリはどうでも良く、山の高きを目指すべきなのだ。ということで、曲がりくねった林道を越えて矢納城峯神社に車を停める。駐車場は鳥居の傍にあり何台も停められる。この神社、「城峯神社」という名前だが、「矢納城峯神社」と書かれた記事が多い。それはすぐ近くにある城峯山の城峯神社と区別するためのようだ。歴史的に両社は全く別物のようだ。10年ほど前にこの矢納城峯神社の前を車で通り過ぎた記憶があるが、何か変わったものがあったなくらいの感覚で、それが何かを知ろうともしなかった。それがまさか、今回の登山口になるとは。縁とは奇なるものだ。鳥居をくぐると苔むした上り坂で、やがて境内に着く。そこには立派な社があるのだが、俺はむしろ傍らの建物に興味をひかれた。民家を改築して舞台としているようだが、結果的に古民家と鉄骨のステージを繋ぎ合わせたようで奇妙な建築になっている。こういった珍しいものとの出会いが、旅の思い出を豊かにする。誰が作ったのかは知らないが、ありがとう。神山への登山口は、神社の右側に道標がある。標識に従って登っていけば、静かで感じの良い山道になる。・・・が、途中で太い作業道に寸断されている。伐採された一帯はイバラや雑草に覆われるので、この季節はつらい。作業道を辿っても古い山道を辿ってもほどなく山頂に着く。山頂は平坦な広場のようだ。杉林で暗い。木々の隙間から神流湖が見えるが、あまり眺望は広くない。広い山頂の真ん中に城峯神社の奥社がある。鉄板に手書きの山名標識が、三角点のそばに落ちていた。地味な山頂、と正直思ったが、ここは信仰の山。けなすつもりはない。下山後、下久保ダムの天端道路を渡って、御荷鉾スーパー林道をドライブした。スーパー林道の途中で、「林道ブナン沢線」という道が分かれたので行ってみる。予定外のコースなので、何の予備知識もなく未知の探索行となった。やがて林道は集落に到達し、左に折れて更に進むと、立派な不動尊の仏閣があった。案内板によると「妹ヶ谷(いもがや)不動尊」とある。ここの情報はあまり無いようなので、案内板を転載しておく。『妹ヶ谷不動尊 元禄八年、江戸小石川薬王山無量院四世快慈大和尚が建立したとされ、現在の本堂は明治元年(1868)に再建されたものです。 本尊は、いっさいの悪魔や煩悩を降伏させて長寿をもたらす霊験あらたかな不動明王で、その像は勇尊和尚の作とされています。 毎年四月二十九日が祭日で、たくさんの参詣人でにぎわいます。環境庁・群馬県』御荷鉾山には何も触れられていないが、ここはおそらく御荷鉾山の不動信仰と関係があるだろう。実際、標識の一つには「御荷鉾不動尊」という言葉がある。御荷鉾山は、西御荷鉾山と東御荷鉾山と二つあるが、ここは東御荷鉾山と関係があるだろう。なぜなら、西御荷鉾山頂上の不動像は南側を向いているが、東御荷鉾山頂上の不動像は北を向いている。そして北にはこの妹ヶ谷集落があるのだ。おそらく東御荷鉾山の山頂は、妹ヶ谷の人々が整備した「奥の院」で、ここ妹ヶ谷不動の仏閣は「里宮」のような意味合いを持つのではないだろうか。インターネットで調べたがこの辺の情報は少なく、すべて俺の推測に過ぎないが。もっとも、不動尊の宗教施設は全国に無数にあるが、どこで誰が拝もうとも、崇拝するのは不動明王であることに違いは無いはず。不動尊との遭遇を好機に、愛犬と旅ができる今の幸福が少しでも長く続くようにと祈願した。
2012.09.21
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2012年7月11日 竹の茅林道から塚山少し前のことになるが、塚山(つかやま)に登った。この山は、旧吉田町の大田部(現・秩父市)から登るのが表側だろう。道中には古墳群などの見どころもあるらしい。しかし犬連れで登りたいので、あまり集落の中を通過するルートはとりたくなかった。と、いうことで、裏側からの登山である。裏側、というのは、土坂峠の群馬側に、途中「竹の茅線」という林道が分岐している。こちらから登るのはごく歩行距離も短く地味なので、裏側という感じなのだ。早朝、軽トラで土坂トンネルを越えて群馬側に下る。途中、目立たないが「竹のカヤ線」という標識のあるコンクリート舗装の小道に入る。この小道、軽トラだから難なく通行できたが、路肩が崩れかかっている場所があり、普通車で進入するのは危険だろう。やがて未舗装の道になり、GTV(群馬テレビ)万場中継局の施設と、上の峠への分岐、竹の茅山への分岐を通過すると、少し広い場所があり、車ではそれ以上進めないので駐車する。さらに林道を歩き進めるのだが、行く手に塚山が見える。振り返れば、山頂にアンテナ塔のある竹の茅山も見える。しばらく歩き、林道右手に踏み跡がある。表示はないがここから塚山に行けるようだ。よじ登るように進み、尾根に出たら左へ尾根を伝うと、また急な登りがある。たいした道もないが、木の枝を手掛かりによじ登ると塚山山頂に着く。山頂は、大きな栗の木が象徴的だった。アンテナ施設があるが、大田部地区のケーブルテレビだろうか。他には三等三角点と、ブログ「おやじの三角點さがし」の人がつけた山名標識があるだけの、静かな山頂だった。帰路、上の峠に寄ってみた。林道の途中を分岐して進むと、ほどなく林道が終わり、登山道の鞍部に行き着く。ここがどうも「上の峠」らしい。どのような歴史を秘めている峠なのか良く分からないが、今は手作りの標識があるだけの、静かな場所だった。
2012.09.19
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昨日、まつりごとに足を突っ込んだついでに、今日も転載作戦を遂行。俺からみれば、安倍氏は我が国の政治家として至極当然のことを言っているにすぎない。しかし、我が国には当然のことを言ってくれる政治家が希有であることも、俺は知っている。おまけにテレビでみのもんた殿が、ゲストの安倍氏をねちねちつついていたが、実に下らん。以下の文を、有権者がたとえ一人でも読んでくれるなら、俺は満足だ。 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆安倍晋三元総理 総裁選出馬表明記者会見 平成24年9月12日(参照 http://www.youtube.com/watch?v=hFSkc5EQMAA )皆様、安倍晋三です。私は自由民主党総裁選挙に、立候補いたします。まず初めにこの3年間、野党のリーダーとして大変困難な状況の中で、ご苦労をされました谷垣禎一総裁に心から敬意を表したいと思います。私は6年前、皆様からご期待を頂き総理に就任をいたしました。病気のためとはいえ、突然総理の職を辞する結果となりました。国民の皆様、党員の皆様に心からお詫びを申し上げます。私はこの5年間その責任をどう取るべきか、ずっと考えてまいりました。昨年、発災した東日本大震災は、今を生きる私たちにとって、忘れえぬ出来事でありました。今でも34万人の方々が仮設住宅などで、不自由な生活を余儀なくされています。今こそ、政治のリーダーシップで、オールジャパンで、全ての力を結集して復興に力強く、取り組んでいかなければならない。まったなしであります。この震災はつらい経験ではありましたが、私たちにとって守るべき価値とは何か、大切なことは何か、大切な価値とは何かを学ぶことができました。それは大切な家族を守ることであり、いとおしい故郷を守ることであり、私たちにとってかけがいのない、この国祖国日本を守ることであります。現在、私たちの美しい海や領土が侵されようと、脅かされようとしています。また、長引くデフレ・円高によって経済は低迷し、若い人たちは未来に夢や希望が見いだせないでいます。今この日本の危機にあたり、全身を投げ打って立ち向かえとの同志の声に応えていく決断をいたしました。まずは、日本の領土・領海を、何よりも日本人の命は断固として守る。このことを宣言したいと思います。そのためにも戦後体制の鎖を断ち切り、憲法改正に取り組まなければなりません。そのための橋となる国民投票法は安倍政権で成立させました。今こそこの橋を渡って、私たちの手で憲法を作るときを迎えています。待ったなしであります。まずは、改正条項である96条(日本国憲法の改正の手続き)の改正に取り組みたいと思います。国民の半分以上が憲法を変えたいと思っても、たった3分の1をちょっと超えた国会議員が反対をすれば、国民はその意思すら表明できない。これはおかしい。国民の手に憲法を取り戻すことから始めなければなりません。次に社会保障、そして経済についてお話をさせて頂きたいと思います。私たちは年金、医療、介護、伸びていく社会保障の給付に対応するため、大切なセーフティーネットを安定的なものにするため、3党合意を行い税と社会保障の一体改革を進めていくことになりました。この中身を進めていくことは当然のことであります。同時に強い社会保障制度とは、民主党が言っているようにできもしない給付を約束することではありません。その給付を確実なものにする強い経済を手に入れることこそ、強い社会保障制度につながっていきます。消費税を引き上げていく前に、デフレから脱却をして経済を力強い成長軌道に乗せていく必要があります。政府と日本銀行が政策協調を行い、大胆な金融緩和など、政府日本銀行一体となってデフレ脱却のために政策を総動員していく必要があります。2~3%の緩やかな安定的なインフレを達成する必要があります。まあ、しかし中々、今の段階で企業の投資は起こらない、消費も出てこない中においては、子供たちの命を守る安全を守るための公共投資、地域にとって成長の糧となる、未来への投資となる公共投資は行っていくべきであろうと、こう思います。その上において、経済を力強く成長させていかなければなりません。自民党が政権を取ったら直ちに、日本経済再生本部を設立し、英知を結集し、成長戦略を新しい成長戦略をつくり実行してまいります。成長のカギはイノベーションです。新しい技術、新しいビジネスアイディア、創造的な取り組みであります。このイノベーションに国家資金を戦略的に投入していかなければなりません。そして、世界から投資が入ってくる。人材が入ってくる。あるいは女性や、お年寄りや、若者や、障害者にとってハードルのないオープンな経済や、社会をつくっていくことが求められています。安倍政権当時、名目GDPは530兆円でした。税収は51兆円、株価は1万8千円を超えました。21世紀に入って最も高い水準でありました。その結果、プライマリーバランスは6兆円まで改善をいたしました。つまり、成長によって財政再建に向かって進んでいく。成長は財政の健全化に資するということであります。そもそも、成長をして行こうという精神を失った国には未来はない、こう思うわけであります。私は政権を担い、総理として様々なことを学びました。この経験を国民のために生かし、国難に立ち向かっていきたいと思います。今日本はたそがれを迎えているという人がいます。そんなことはありません。日本には可能性が満ち溢れているのです。今、私たちが何をするかにかかっています。私たちのリーダーシップにおいて日本は間違いなく輝ける新しい朝を迎える、これが私の確信であります。どうもご清聴ありがとうございました。
2012.09.16
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本来、俺はこのブログでは、趣味の登山やアウトドア関係の雑談を綴りたいと望んでいる。しかし昨今のニュースは業腹に過ぎる。支那・韓国に愛する我が国が侮辱され続けているのが俺には耐えがたく、つい政治・外交がらみの発信がしたくなるのだ。もちろんここは(アウトドア・釣り)の楽天ブログ。俺も極力自制して、せいぜいコピペ程度に収める努力をしている点はご理解いただきたい。・・・ということで、二つのお話を転載。 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆安倍さんが初めて中国に行った時、 迎えている温家宝のところに行って二言三言ささやいたら 温家宝が棒立ちになってしまった。 翌日の会談で 温家宝は何も言わなかった。 私は安倍さんにあの時貴方は何を言ったんですかと聞いたら あれは、拉致問題だけはいわないでくれと中国側から工作がいっぱいきてた。 日本の外務省からも一杯言われた。 国会議員にも中国の手先がいて中国に行って拉致問題を言わない方が いいですよって言われたから俺は余計に言ったんだと。 それはね、中国もアモイで拉致されたと世界中で言われていた時だったんですよ、 彼はつかつかと歩み寄って「中国にも拉致問題ってありますよね」とささやいた。 それで温家宝は棒立ちになっちゃった。 温家宝が棒立ちになった意味なんですけどね、 私の感じは まずあれだけ中国大使館その他から(工作を)やっていたのがパアに なっちゃったと。 この人には中国の工作は適用しないんだと。 これは全部やりかえなきゃいかんと。(評論家 日下氏談 ◆安倍元総理がオンカホウの耳元でささやいたhttp://www.youtube.com/watch?v=f3Jyg8Llzpw より抜粋) ◆ ◆ ◆ ◆ ◆そういうことをマスコミは書かないから、日本人は気がついていない。 ところが、在日元中国人評論家の石平さんはそれを書いた。 石平さんによれば、 北京に行ってみると、 もうみんな「日本に負けた。完全に日本にグリップされた。我々はそれに対して戦う手段がない」と言っているそうだ。 それを聞いた麻生さんは、 「たしかに、外務大臣として北京へ行ったとき、中国の胡錦濤国家主席はもう困り果てていた。本当に立ち往生していた」と言っていた。 「これからいったい誰が総裁になるのでしょうか、やはり安倍晋三がなるのでしょうか」「おそらくなるでしょう」「では安倍晋三に対して、我が中国はどうすればいいでしょうか。教えてください」――というやり取りがあったそうだ。 そこで、安倍晋三さんが中国へ来たとき「まずは全面屈服してください」 と言ったら、本当にそうしたらしい。 それなのに日本の新聞やテレビは、「北京詣をした」と報道した。 「安倍はさっそく北京詣をした」というふうに、悪口ばかり言う。 しかし、中国側はもう反日的なことをまったくしなくなって、 ただ静観しているだけであった。 あれは完全に安倍外交に屈服していたのだろう。 そういう経緯を知っていた石平さんは、 安倍政権が終わったとき、「せっかく中国をあそこまで追い詰めたのに、辞めてしまって残念だ」と言っていた。 それを中国人の石平さんが言うのは変だと思って聞いてみると、 「実は中国国民は大変残念に思っています。あのまま安倍外交が続いて中国共産党がなくなってくれるのが、13億人の中国国民のためです。日本が助けてくれると思っていたのに残念です」と語った。 (中国は完全に安倍外交に屈していた http://www.nikkeibp.co.jp/sj/2/column/p/73/index.html より抜粋) ◆ ◆ ◆ ◆ ◆今回の総裁選では、麻生元総理と同じく、俺も安倍氏を支持する。投票権は無いし無力だけどね。報道ではなぜか「事件性は無い」などと断定されて流されてしまうが、現代の我が国でも愛国の議員ばかりが不審な急死をしている。命がけの覚悟であろうが、安倍氏よ、お気をつけて。貴方自身と日本のために。
2012.09.15
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今回は、埼玉県(秩父市)と群馬県(神流町)の県境になっている土坂峠に登った。もちろん車道の現・土坂峠(=土坂トンネル)ではなく、その上にある昔の峠道の話だ。実は、土坂峠に行ったのは初めてである。それほど地味で用の無い場所だ。(土坂峠は、ウィキペディア等では「つちさかとうげ」との発音が書かれているが、地元の秩父市上吉田では誰もが「つっさかとうげ」と呼んでいる。群馬側でも同じだそうだ)マイカー登山なので、まずは埼玉側から、愛車で土坂トンネルを目指す。「県境の長いトンネルを抜けると群馬であった。」(川端康成『雪国』拠り?)トンネルの上に見える杉林の稜線に、旧・土坂峠が隠れているはずだ。トンネルを抜けてすぐ、左側にあるスペースに車を停める。広いので数台置けそうだが今日は誰もいない。駐車スペースの奥に真新しい林道があるので、そちらへ歩き始める。地図や昔の記録などでは、車道の反対側に登る道があるとのことだが、もはやその道は新しい林道に寸断されたため通行不能と言える。林道入口にはロープが張ってあるが立入禁止とは表示がないので、車両進入禁止のロープだと解釈して通行。なぜなら、路盤材を敷いただけの真新しい未舗装林道なのだが、すでに倒木や土砂崩れが数カ所あり、車両はたとえ軽トラやジムニーでも通行できる様子ではないからだ。林道はまもなく行き止まりになるが、途中に「土坂峠へ」と書かれた新しい標識があり、山道が分かれている。そこからは山道となる。しかし山道は枝落としされた枝で埋まり、更には倒木や下草の繁茂に邪魔されて分かりづらい。やや右往左往してしまったが、正解はなんのことはない、トラバースのほぼ一直線の道だった。下草や枯れ枝をかき分けるように登りつめると、石の祠が見えてくる。目的地の「土坂峠」だ。小さな地名標識もあった。率直にいえば、人跡薄い地味な場所である。しかし昭和46年に土坂トンネルができる以前は、買い出しのために人々はここを越えたという。秩父のほうが物価が安かったので、群馬の住民は秩父へ買い出しへ。しかし雛人形は群馬のほうが安かったので、秩父側の住民は節句が近くなると群馬へ買い出しに行ったそうだ。この峠を起点に県境尾根を北東方面へたどり、塚山まで縦走するルートもあるようだが、当面行くことはないであろう。それにしても、周辺は林業による執拗な自然破壊が進みつつあり、旧峠は祠周辺しか残っていない。そのうち土坂峠そのものが破壊されて無くなってしまいそうな頼りなさだ。林業に従事している友人がいるので、林業を否定する気は毛頭無いが。今回の行程は、ごく短時間だった。歩行時間は、往復の合計でも1時間あれば足りるだろう。
2012.06.27
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観音山(埼玉県小鹿野町)の山域は、道なき尾根や谷に至るまで、かなり隅々まで踏破したものである。その経験の中で、自分なりに気づいたことがある。ガイドブックなどに乗っている「定説」が、実は違うのではないか?・・・と、そんなことについて書いてみたい。(ここで言う「定説」とは、一般的にガイドブックや登山案内にある内容のこと。俺の唱える説は、とうの昔に先人が解き明かしているのかも知れない。俺も観音山に関するすべての文献を知っているわけではないので、今まで誰も気づかなかった新事実を発表するのだ、とまで断言はできかねる) * * * * *「現在の牛首峠は、本来の牛首峠ではない!?」秩父札所31番・観音院の駐車場に、登山口がある。そこから小鹿野町日尾地区とを結ぶ山道は「牛首峠」と呼ばれている。この牛首峠最大の特長は、ピークにある「岩の切り通し」である。峠の類は、ピークを○○峠などと呼称することが多い。実際、この岩の切り通しの写真が「牛首峠」としてよく紹介されている。今は確かにそれでよいのだが、実はこの牛首峠は、新道ではないか。言うなれば「新・牛首峠」だ。俺はそう思っている。なぜなら、「旧・牛首峠」らしき場所が近くにあるからである。観音院側から峠を登りつめ、岩の切り通しに着いたところで、左側の岩を巻きながら登山道を外れて左に進むと、小さな鞍部がある。よく「鞍部」というが、ここは人為的にか自然にかは分からないがまさに「鞍」の形の岩になっている。本来の牛首峠は、この岩場を越えたのではないだろうか。ここが旧峠だと思う根拠は、ここの傍らに古い石祠があるからだ。集落と集落を結ぶ峠には、たいてい祠や地蔵(たまに石碑)がある。無いほうが珍しいくらいだ。そこにある理由は、峠から集落へ悪いモノが入ってこないようにという魔除けとか、峠越えの道中の無事を願う災い除けとか、色々意味があるのだろう。石の祠には「明治三十一年三月吉日建立」とある。別の面には、「馬上中」との文字も読めるから、小鹿野町倉尾地区の馬上(もうえ)の者が祀ったのだろう。実際、祠は馬上集落の方向を向いているし、馬上側から来る道は、比較的踏み跡がある。時々、祠の祭祀のために誰かが来ているようだが、普段は誰も通らないようで人跡は薄い。祠の傍らにはタヌキの溜め糞があった。かつての峠道が、今はタヌキの通り道ということか。粗末な絵で申し訳ないが、新旧の峠の概念図を書いてみた。岩の鞍部を乗り越えると、下り道となってほどなく、現在の牛首峠登山道に合流する。この牛首峠、かつては嫁入りの娘を乗せた馬が通ったという。道中、けっこうな岩場があるのだが、昔の人は強く生きていたのだなと感心する。
2012.06.02
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はじめに言っておこう。 品沢のショッカーども(※ポイ捨て野郎のこと)、今回は俺の勝ちだ。お前らの捨てたゴミは、見事このジャスティスが片付けてやったぞ。だから言っただろう。俺はしつこいのだ。しかも今回はついに、住民の賞賛もいただいたのだ。 * * * 我、秩父ジャスティスは、一週間ぶりに秩父市・品沢(しなざわ)の奈良田池に再臨した。先週、掃除半ばで後にしてきた奈良田池の無残な姿が、どうにも忘れられなかったのだ。一週間ぶりに来た奈良田池は、あいかわらず汚い。しかも、前回来た時はなかったゴミまである。学生たちは春休みの時期。そして娯楽の少ないこの田舎。おそらく暇をもて余した若者らが来て、釣りやら何やらをしたのだろう。しかし同情はしない。例え将来有望な若人といえども、ゴミをポイ捨てするならば貴様らは悪のショッカーだ。(・・・とはいえ、実はショッカーと呼ぶのもためらわれる。昔、テレビで見た本物のショッカー軍団は、確かな野望を持ち、壮大な悪事を実行していた。悪の組織とはいえ、その熱意・勤勉さ・野心のスケールには、このジャスティスも一目置いていたのだ。ところが、彼らの後を継ぐはずの平成の若きショッカーどもは、ゴミをポイ捨てする程度の半端な小悪党でしかない。この程度の奴らををショッカーと呼ぶのは、さすがに本家ショッカー軍団に対して失礼ではないか。・・・と、ジャスティスも悩むところだ) まあ、そんなとりとめのないことを考えていたかどうか忘れたが、とにかくゴミをせっせと拾っている時だった。・・・池に来訪者があった。作業服のおじさんだ。彼はじっとこちらを見ている。誰が何の用で来たのか、俺には皆目わからないので、ともかくゴミを片付けていると、「どうしてゴミを片付けてくれてるんですか?」と、おじさんの声。どうやら池の関係者らしい。ならばその疑問ももっともである。俺も善意とはいえ、無断で勝手な作業をしているのだ。ここは誠実に説明せねばなるまい。・・・ということで、作業の手を休め、ボランティアをやっている旨を告げると、おじさんは感心したようだ。この奈良田池は農業用の貯水池なのだが、彼は近くの農家らしい。見慣れない車が池のほとりに停まっていたので、パトロールに来たのだろう。好意的になった彼は、色々と奈良田池をめぐる事情を教えてくれた。この池は人の目が行き届かない場所にあるため、ゴミのポイ捨てが絶えないようだ。周辺の人たちも時たま掃除をするのだが、ポイ捨てが多すぎて追いつかないらしい。以前、池に落ちた者がいたことや、女の子を連れ込んで不埒な行いをする者がいたなど、初めて聞く話ばかりで実に面白かった。池と道路の間には雑木が茂っているので、春夏は目隠しになってしまう。それを伐採すれば、見通しが良くなるので不法投棄が減るかも知れない、という話には俺も賛成した。俺は別にゴミ拾いが好きなわけではない。ゴミは嫌いだ。この国が好きなのだ。わが国土が美しく在ってほしいのだ。そしてゴミで汚れた国土を見ながら、何も行動しないみじめな男にはなれないだけだ。今日は可燃ゴミ3袋・空き缶3袋・掃除機1台を片付けた。このようなものを平気で投棄する人間はクズだ。本当は、そやつらをまとめて粗大ゴミに出せば、ゴミの源が断てるのだが。今回、奈良田池はすっかり綺麗になった。だが、また心無い者がやってきて、ゴミを捨てていくだろう。俺を育んだこの美しい国土を汚す輩を、俺は許さない。それはともかく、俺の「ゴミ拾い=普遍の正義」という信念が品沢のおじさんに通じたことは収穫だった。「正義の戦い」と己に言い聞かせて人知れずゴミ拾いを続けてきた俺だが、他人から褒められたのは実は初めてである。予想していたことだが、褒められるのはやはり嬉しい。フフフ・・・ついつい張り切って掃除機まで回収してしまった。奈良田池に住まう鳥よ、魚よ、木々よ、虫よ!生きよ!このジャスティスが見守っているぞ。
2012.03.28
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ブログ開始以来『秘密結社ジャスティス』というタイトルで続けてきたのだが、このたび『秩父ジャスティス』というタイトルに変更することにした。設定としては、俺=秩父ジャスティス、ということで。大学生のころ、セガのアーケードゲーム『バーチャファイター』で、通称「新宿ジャッキー」「池袋サラ」とかの有名人がいたが、あんなイメージで「秩父ジャスティス」と名乗る者なり。でもゲームとは関係ないが。理由はいろいろあって、ブログ公開しているのに秘密結社と呼べるのかとか、会員が俺だけなのに結社と呼べるのかとか、でも犬を会員として数えれば複数名になるんじゃないかとか、まあそんなことを一瞬考えたが、別に悩んではいない。要するに、心境の変化ということだ。内容は特に変わりなく、埼玉県秩父地方を中心に行動する俺の雑談が今後も続くだけと思われる。笑いたければ笑うがいいさ。でも読んでくれるなら、ありがとう。俺はただ、この国が好きなだけだ。
2012.03.21
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今日の戦場は、秩父市・品沢にある「奈良田池」だ。まずは綺麗な写真を一枚。池自体は、水鳥の住まうきれいな所だが、ここにもショッカーの悪事が及んでいる。おそらく日雇い労働者や釣り人に変装したショッカー軍団が、善良な住民を苦しめるためゴミを撒き散らしているのだ。だが、たとえ行政が見逃しても、このジャスティスは見逃さない!愛用の2シーター(注・軽トラ)に乗って、いざ正義の戦い(注・ゴミ拾い)に出動だ。ゴミは、空き缶・ペットボトル・弁当の空・ビニール袋などが多い。つまりコンビニ系のゴミということだ。おそらく犯人は、近隣の工場の労働者や、道路工事の労働者が主だろう。昼食を摂るのに、静かで景色のよいこの水辺を訪れるのだろう。・・・それ自体は別に悪いことではない。それらの人々に混じって、時々釣り人が訪れたり、農林業従事者が来てゴミを捨てるのだろう。ゴミの中にはアダルト系雑誌の残骸が見られたが、こういった雑誌を買って読み捨てるのは日雇い労働者の行動パターンに多い。それも別に悪いことではない。悪いのはポイ捨てする行為すべてだ。空き缶はやはり缶コーヒー系が多かった。缶コーヒーを飲む輩には馬鹿が多い、と以前も書いたが、ここでも裏付けられた。残念なことに、ゴミの量が多すぎて、持参したビニール袋が不足してしまった。拾い切れなかったゴミがまだ結構あるが、それとの戦闘は次回へ持ち越しである。相棒のイヌも残念顔だ。・・・多分。今日は、入口付近がやっといくらか綺麗になった程度だ。それでも、草むら等に目をやると、まだまだゴミがある。恐るべし、品沢のショッカーはツワモノなり。しかしジャスティスのハートは、不屈の正義に燃えている。帰り道にもゴミが散乱している場所を見かけた。きっと俺はまた拾いに来るぞ。俺はしつこいのだ。品沢のショッカーども!もう泣いて謝っても許してやらないからな。
2012.03.21
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森林公社の石杭が目印の『三本松(仮称)』からは楽しい稜線歩きだ。・・・といっても藪が濃く、杉の植林が多くて展望は少ない。踏み跡も不明なので、稜線を外れないよう注意して歩く必要がある。 『三本松』から東に15mほど歩くと、大きな岩のある場所に着く。やはり松が生えている。しかもこの松には栄養剤を投与したらしいラベルが貼ってあるから、誰か管理している人がいるのだろう。 この岩場は昇龍の滝の上のようだ。ここからはかご岩が近く良く見える。2月29日のブログに載せた写真も、ここから撮ったものである。 別の日に撮った写真だが、この岩場の全景を掲載する。 ところでかご岩だが、この岩場と『三本松』との中間あたりから、北斜面を降りていくと行ける。北斜面は杉林で展望が悪く、気づくまで時間がかかった。 後で気づいたのだが、分岐点と思われるあたりの杉に目印がつけてあり、かご岩への踏み跡もわずかだが有る。それに気づかず、かご岩を探して過去に尾根を二往復もしてしまったことがある。 杉林の北斜面を降りると小さな鞍部があり、目の前の岩塊が矢抜け穴・かご岩である。 岩の右側を巻くとすぐ矢抜け穴だ。 遠くから見ると絶壁の途中にあるかのように見えたが、しっかりした足場がある。おとなげなくさっそく穴をくぐってみると、這ってなんとか向こう側へ顔を出せる程度の広さだった。 さて、次はかご岩だ。 矢抜け穴の方から岩伝いに行ってみたが、その先は崖でザイルでも使わないととても降りられない。 しかし鞍部まで一旦戻り、岩の西側を巻いていくと、岩沿いに踏み跡のしっかりした道があった。 その先がかご岩である。 かご岩は巨大な空洞だ。 ここが昔は賭博場に使われたというが、多人数が入れるだけの広さがある。 なぜこんな山の中に賭博場が?・・・と現代の感覚では思うが、昔は林業や農業が盛んだったのだ。近隣の山里も、少し前までは林業や炭焼きが成り立っていたので若者や子供も多く活気があったと聞く。 立派な建築の旧家も多く、山大臣などという言葉を聞くこともある。 かご岩は、ちょうど岩殿沢と日尾の境に近く、古人の脚力なら牛首峠から少し外れた程度の便利な場所だったのだろう。 人気のない薄暗い洞穴をうろついて喜んでいるのは人間ばかり。犬のほうはこんな不気味な場所に連れてこられて迷惑そうだ。 かご岩の中は大きな石がいくつか転がっている。 近くなので当然かもしれないが、札所31番観音院の岩窟群と似た雰囲気だ。 ひとしきり見物した後は、帰途の算段だ。 牛首峠へ直に下山できそうな踏み跡もあったが、悪天候なので来た道を辿って帰ることにした。 矢抜け穴近くに戻ると、遠方に先日登った岩場が見える。 静かに雪が降り続く中、得も云われぬ美しい景色だった。 帰りは雪でなんども滑って転んだが、こうした道は慣れている。コツとしては一歩踏み出す時に滑るかもしれないと予想して歩くことと、滑っても転落しないルートを選ぶこと、滑った時につかまる木を予定しながら歩くことぐらいだろうか。 コースタイムはさほどかからない。 登山口からかご岩往復で2時間程度だった。わざわざ岩場を通行するのでなければ、ザイルも不要である。
2012.03.03
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かご岩へアタックする予定の日、あいにく積雪があった。こんな時、岩場は危険度が上がることぐらい分かっているつもりだ。 だが、事前の4回に渡る調査登山(敗退とも言う)で、周辺の無名沢・無名峰もほぼ知悉していた。この程度の積雪なら、勝算はあった。 アクシデントがあっても、峠に近い小規模の行動範囲なので何とかできそうだった。・・・それにこの日に決行しないと、花粉シーズンが到来しそうだ。重度の花粉症の俺にとって、今季の登山チャンスは最後かもしれないとの思いがあった。 と、いうことで、粉雪舞う中の登山記録である。2012/02/29 観音山・牛首峠登山口 早朝、小鹿野町・岩殿沢の最奥にある札所31番鷲窟山観音院の駐車場に車を駐める。相棒の犬を連れ、ステットソンを被り、牛首峠の登山口へ入る。 牛首峠へ向かう途中で、『昇龍の滝』分岐は通過し、『岩神の滝』分岐を折れて滝へ向かう。滝までの道は岩がち且つ倒木が多く荒れた感じだ。 地形図では、この辺で左手の斜面をよじ登っていけば、かご岩に到達しそうだが、それは未知のルートなので天候の悪い本日はやめた。 沢を登っていくと、谷が左右に分かれる。右手の谷には岩神の滝が見える。滝に向かって左側に巻き道があるので、そこから滝の上に登る。 岩神の滝の更に上流へ登っていくと、河原が少し広くなって50cm位の小さな滝のある場所に着く。 小さな滝というよりナメと言った方が正確かも知れない。 このナメから斜め左前方に斜面を登っていく踏み跡がある。一見、そちらに進みたくなるが、今回の目的地とは違う方に行ってしまう道だ。 ちなみにそちらへ進むと尾根伝いに登れるのだが、稜線に出る手前で、大きな岩面に道を阻まれる。その先は岩をへづるように巻き、どこかで岩を這い上がる羽目になる。這い上がれば稜線の上に出るが、その先は鉄塔に向かって道が続く。おそらく東電の巡視路なのだろう。鉄塔へ行きたい人にとっては良い道だ。 ともかく今回はかご岩である。ナメから斜め左前方の道へは行かず、左真横の斜面を登っていく。ちなみにこの斜面にはほぼ道は無い。岩場を回避し樹を握って這い上がることになる。ルートファインディングと藪こぎの技能必須だ。 登った経験のある斜面なので迷いはないが、雪で足が滑って体力を奪われる。途中で厭になりながらも、何とか犬とともに登り詰めると、森林公社の石杭がある頂上に出る。石杭の他に目印としては、枯れかかった三本の太い松がある場所だ。俺は、ここを仮に『三本松』と呼んで行動の基点にしている。 周辺は、林業従事者や東電の痕跡はあるのだが、踏み跡が薄く藪も濃い。印象としては、人跡薄い寂しい場所だ。 このようなところで遭難してしまうと捜索者に多大な迷惑をかけてしまう。ゆめゆめ歩行不能な怪我をしないよう気を引き締めねば。・・・山行記というのはあまり書いたことが無いのだが、山道を文章であらわすのは難しいものだ。長くなってしまったので、続きは次回で。
2012.03.02
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観音山という山は全国にあるらしく、近隣にも複数ある。甲斐駒ケ岳や榛名富士のように、できれば小鹿野観音山と呼べれば良いのだが、個人が勝手に地名を変えることはできない。というわけで、面倒でも観音山(埼玉県小鹿野町)などと表記するしかない。観音山の山麓には、秩父霊場札所31番・観音院がある。この観音院の西奥の院から展望すると、西に奇岩が見える(東奥の院からも見える)。500mほど先の断崖に、貫通した穴が2つ見えるのだ。小さい方の穴は「矢抜穴(矢抜け穴)」。標的が2つ取り付けてある。畠山重忠の家臣・本田親常という人物が東奥の院付近に立ち、その岩場へ向かって射た矢が岩穴を突き抜けた、という伝説があるそうだ。大きい方の穴が「かご岩」。かなり大きな空洞で、向こう側の空が見える。昔、賭博場に使われた歴史があるという。・・・と、言うことは、そこへ行く道がどこかにあるはずだ。矢抜け穴の近くには人工的な的が取り付けてある。ならば誰かがそこへ行って取り付けたのだろう。そう思ってネットを調べたのだが、「矢抜け穴」「かご岩」へ登る記録は見つけることができなかった。そこで今回、俺が登ったルートを公開する。かご岩全景。この写真は、かご岩の南東80m程にある無名の岩場から撮影した。俺の仮説だが、本田親常は東奥の院から矢を射たのではなく、この岩場から射たのではないか。伝説なので事実かどうかも定かでないが、いくらなんでも東奥の院から矢を射ても届くはずがない。なお、観音山周辺は私有地なので、地権者に迷惑をかけない行動を願いたいものだ。と言ったところで、前置きが長くなったので、続きは次回ということで。
2012.02.29
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