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**************** まるで一瞬、京介が、それも幼くてまだ大輔を信じて甘えていたころの彼が名前を呼んだような気さえした。 ことばが続かなくて凍りついた美並に、明が訝しそうに眉を寄せる。「姉ちゃん?」「……真崎、大輔?」「そう、それ。えーと向田市社会連絡協議会、の青年部部長だっけ? 確かそんな肩書きついてた」 そんなことは、聞いていない。 真崎は一言も話してくれていない。「結構強引な人らしいです」 七海がそっと呟いた。「『ニット・キャンパス』に参加したいってお友達が居たんですけど、参加団体が多くなりすぎるって締め切りを早めて締め出されたって、ぼやいてたから」「でも…」「でも?」 真崎は、桜木通販が参加できるようになった、と言っていなかったか? あの大輔がそれほど力を持って『ニット・キャンパス』を動かせるのなら、例外は認めなかっただろう。ましてや、真崎京介がメインで活躍するような場を提供するはずがない。 なのに、真崎は『ニット・キャンパス』への参加を通した。 どうして? いや、どんな手段を使って、というべきなのか? ぞくぞくしたものが背筋を這い上がってきて、美並は血の気が引いてくるのを感じる。「大輔ってのは京介の兄貴なの? じゃあ七海のことも挨拶したほうがいい?」「兄、なんかじゃないよ。挨拶なんかしなくていい」 思わず唸ってしまった。「どういうこと?」「葉延」 尋ねた明の声を遮って、ふいに側を通りかかった二人連れの一人が立ち止まって声をかけてきた。黒い大きな瞳がこぼれ落ちそうな少年、その側に全身黒づくめの男がのそりと立っている。「……ハル?」 声を聞いてはっとしたように七海が顔を上げる。「知り合いか、ハル」「七海、誰?」 重なった声は明と少年の側の男のものだ。「七海」「一番初めのコンサートに来てくれた、ほら、渡来、晴くん」 少年と七海がそれぞれ相手に説明する。「ああ、ハープ奏者の。ホールイベント参加でしたね」「へえ、思ったより若かったな」 明が立ち上がると同時に男が手を差し出した。「よろしく。『ニット・キャンパス』企画本部の源内頼起です」「七海の夫予定の伊吹明です」「あ、じゃああなたがゲンナイさん?」「ああ、頼れる明さん、ですか」 二人の男が手を握りあって、微かに火花を散らしたように見えたが、引いたのは源内が先だった。「ところで、今話題に出ていたのは、真崎大輔?」「知ってるんですか?」「ああ、ほら、あそこに居るよ」 源内が片手の親指を立てて振り返らないまま肩越しに指した先、かなり離れたテーブルにスーツの一群、中で朗らかに笑う大輔の顔を見つけて、美並は凍りついた。 こっちに出て来ている。 脳裏に不安定に揺らめく真崎の姿が蘇る。 ぎりぎりに追い詰められてしまっている気配。 真崎京介がそこまで崩れそうになる要因として思いつくもの。「懇親会とかで数日ホテル住まいだそうだ、うらやましいね」 源内が軽く肩を竦める。 数日の、ホテル住まい。 寒気が消えないままに源内を見上げる。「『ハイウィンド・リール』……?」 まさか、京介。 『ニット・キャンパス』に参加できた、その手段は。「その通り、よく御存じで……ところで、この方は?」 源内が美並を見下ろして尋ねた。「義姉です」「俺の姉です」「……桜木通販開発管理課、伊吹美並です」 一斉に応じた三人を一人ずつ見渡して、なるほど、よくわかったよ、と頷いた源内は、ゆっくり美並に向き直り、済まなそうに頭を下げた。「この度はこちらの不手際で申し訳なかった。真崎さんによろしくお伝え下さい」「はい?」「『ニット・キャンパス』への参加、締め切り繰り上げで駄目になったでしょう?」「え、えっっ」 美並は思わず声を上げた。 **************** 今までの話は こちら
2025.11.27
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****************「ありがとうございました」 結局最後のサーモンピンクのを選び、とにかく一休みしていこう、と寄ったのは『きたがわ』だった。「ううん、こちらこそ楽しかった」 ここでも十分辛いけれど、それでも『村野』よりはまし。 美並は苦笑しながらメニューを広げる。 今、村野の穏やかな眼に迎えられると、自分を保てる自信がなかった。それほど真崎が胸の中に居るのかと、そう思うのがまた切なくて。 それでも、諦めると、決めた。 大石みたいに追い詰める前に。 あんな後悔、二度としたくない。「お皿はここ、フォークとナイフ、グラスは俺のところ」「うん、わかった」 テーブルセッティングを教える明が一皿ものを選んで、美並も従う。七海は安心した顔で明に全てを任せている。 七海の靄はかなり薄くなっていて、明と居ることで体調もじっくり戻ってきていると教えている。 きっと私は、ああいうふうにはできなかったんだ。 真崎のことをわかっても、癒したり楽にしてやることはできなかった。 だから、もう役目は終わり。次の人にバトンタッチ。 でも、ほんとは。 次の人に。 なりた。「っ」 自分で思った瞬間に一瞬泣きそうになって、慌てて運ばれてきた皿を覗き込む。「あー、今日のお魚おいしそう」「前に来たことあんの?」「まあね。便利だし。そうだ、今日はここ、奢ろうか」「いいの?」 俺、かなり食べるけど。 明の悪戯っぽい笑いに任せなさい、と笑い返す。「今月は余裕があるんだ」「デート代、全面あいつ?」 情けなさそうな声を明が上げた。「それは姉ちゃん、あんまりじゃ」「そんなことしてないよ」 ちゃんと割り勘にしたり、まあそりゃ、奢ってもらうこともあるけど、でも、それに見合うぐらいはまた返してるし。「何を」「は?」「やだ、明さん」「へ?」「……おお」 七海が意外にはっきり反応して思わず感嘆した。「さすが結婚前」「おい」「や、」 ぱああっと七海が真っ赤になる。「可愛いなあ」「可愛いだろう」「何を正面切ってのろけてる」「正面切ってのろけずにはいられないほど七海は可愛い」「……恋愛は偉大だなあ」 これがとてもとうもろこしを頭の両横に立てて、うし~~とか言って走り回っていた男とは思えない、そう続けると七海が弾けるように笑い出した。薄赤くなった明が冷たい視線をぶつけてくる。「後で覚えてろよ」「まだ老化はしてない」「姉ちゃん、あいつと付き合って性格屈折してない?」 じろりと見遣った明が、コーヒーを頼んで、美並も便乗する。七海はミントティだ。「あ、そう言えば」「ん?」「京介に兄弟って居る?」 唐突に明が尋ねてきて、あやうくコーヒーを吹きそうになった。「何よいきなり」「いや、この前『ニット・キャンパス』のHP見てたら、真崎って名字があったから」「……京介じゃないの?」 『ニット・キャンパス』に参加できたと言っていた、そう思い出したが、桜木通販として参加するのだから真崎の名前が出るわけがないと気付いた。「いや、違う、えーと、似てるなあと思ってみたんだよ、えーと」「だいすけ」「!」 七海がにこりと笑ってぞっとした。 **************** 今までの話は こちら
2025.11.26
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****************「…すみ、ません…」 七海が聞こえなくなるほどの声で謝って、美並は胸の中で明に謝る。 ごめん。 『見えちゃう』姉なんて困っちゃうよね。「色は白とピンクと水色。俺はピンクが可愛いって言うのに、七海がきかないんだ」「だって……そんな可愛いって歳でもないし」「俺の感覚にケチつける気?」「そんな……明さんのいじわる」「七海にだけいじわるしたくなるんだよ、どうしてだろう?」「…知らない」 甘いやりとりにほっとして、美並は少し空を見上げる。 きっと明は美並のことをそれとなく話していてくれたのだ。 けれど、七海はそれが本当だとは今の今まで信じていなかったに違いない。 信じなくて気付かなくて済むものならば、それで済ませたいけれど、結婚して明と同居して実家に居れば否応なくわかる。七海は美並が『見えている』ことを感じ取ってしまうだろう。だからこそ、『見える』ことをわかっていてもらいたい、明が実家で会うより早く美並との機会を考えたのは、そういう意味もあってのこと、七海だけの希望ではあるまい。 そして、七海は今初めて、美並が『見えている』かもしれないと理解した。そうして理解してうろたえた、自分の中にある何かを全て晒け出さなくてはならないのではないか、と。 七海だけではない。誰だって隠しておきたいものはある。好きな相手の前では特に、絶対見せたくないものもある。 だが、見たり感じたりしたところで、美並はそれを暴くことはない、そう信じてもらうには時間が必要だ。「…それ…かな」「え?」「ううん、こっちの話………この店?」「うん」 明と七海が先立って入る店に続きながら、美並はゆっくり考え直す。 ひょっとしたら真崎は、美並に本当に信頼をなくしたのかもしれない。理由はわからないけれど、これまでは無防備に中身を晒していたことを、まずいと思い始めたのかもしれない。美並が真崎の望まないことまで暴くと、急に不安になったのかもしれない。 だから「抱いて」で、だから「ごめん」なのかもしれない。 胸が、詰まった。 これまでは気付かなかったから、美並に全てを晒す気になった。 けれど真崎も成長して変化して、美並の危険性に気付いたのかもしれない。 「抱いて」というのは、真崎が実家で生き残るために使った方便だ。奪われる前に開いておけば、傷も痛みも少なくて済む、虐待を受け続けた人間が、少しでも自分を守るために虐待者に懐くように振る舞う、あれと同じことかもしれない。 「ごめん」というのはそうなると、少し大人になった真崎の、美並への別れのことばだったのかもしれない。今までありがとう、でも、もう一緒に居られない、だからごめん。「あり、えるな」 そうか、もう、要らなくなっちゃったのか。 思ったよりもずっと早かったな、とぼんやり思った。 それだけ真崎はうまく回復したということなのかもしれない。あの薄い靄は置いていかれることを察した自分が勝手に感じた真崎との間の距離の表現で、震えていたり怯えていたりしたのは、美並から離れることをどう切り出そうかと危ぶんでいたせいで、戻ってこなかったのは美並の激怒を恐れたからではないか。 牟田相子のように、自分の大事にしている何かを傷つけられると案じたせいなのではないか。「なあ、美並、これもいいよな?」「んー?」「候補ばっかり増やしても決まらないのに」「だってさ、七海をうんと可愛く見せたいし」「もう」 新しいワンピースの候補がでたようで、七海と明はサーモンピンクの一枚を取り出している。手触りを確かめている七海は、幸せそうに笑っている。「……っ」 振り返って、もうあんたが決めれば、そう言いかけて美並は凍った。 その真横に、ディスプレイされている白いウェディングがある。長く裾を引いたドレスにベール、飾られた花は肩口だけ、後はすとんとシンプルなスタイル、胸元もほとんど開いていない。 清楚で、誇らしげで。 選ばれた喜びをひたすらに表現するように。 きっと、美並には永遠に縁などないものだ。 そんなこと、とっくにわかっていたはずだけど。 とっくに諦めていたはずのものだけど。「ばか…だなあ…」 絞られるほど胸が痛くて、それでも自分が真崎と一緒に居られたらと望んでいたのだと、美並はようやく気がついた。 **************** 今までの話は こちら
2025.11.25
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**************** 逃げたよ、おい。 茫然として、美並は管理課に戻った。 ベランダの時は命じれば戻った。真崎の実家では拒んでも自分を投げ出してきた。 なのに、今、あれほど壊れそうになっているのに、美並から逃げ出してしまった。 なぜ?「何を、見逃してる?」 何を。 おそらくは、それが真崎の信頼を崩したのだ、美並に話すことはできない、と。 午後からも真崎は戻ってこなくて、そのうち美並に与えられていた仕事もケリがついて。「………」 未練がましく今必要でもない検索を重ねたり資料をまとめたりしていたが、ついに時間は来てしまった。 時計は待ち合わせ時間に迫りつつある。溜め息をついて周囲を片付け、立ち上がる。「お先です」「おつかれさま」 石塚も、戻ってこない真崎を気にはしているのだろう、物問いたげに視線を送ってきたが、今の美並にはそれに答えることばがない。ぺこりと頭を下げて部屋を出た。 明との待ち合わせ場所に急ぎながら、美並の頭の中には空っぽの真崎の机がくるくる回っている。 何だろう。 何だろう。 何を美並は見逃しているのだろう。 別に美並だって万能じゃない、見えなかったものだって一杯あるし、だからと言ってこんな不安を感じたことはなかったのに。「…うん」 そうだ、何かを見逃しているという感覚も不安なのだが、それがいつもより数倍切羽詰まってくるような気がして落ち着かないのだ。 取り返しのつかない何か、その何かの真横を美並は気付きもしないで通り過ぎていくような。「そうか、これ」 あの年末のときの微かな微かな違和感だ、と思い付いた。 連絡のこない大石、繋がらない携帯、理性で考えれば応じない理由は幾つもある、そう考えてそっと自分の感覚に蓋をした、あの時の不安感。「姉ちゃん!」 向田駅前には既に明が待っていた。 その側に肩までの黒いストレートへアで淡い水色のモヘアニット上下の女性が一人。薄いサングラスをかけているのが、11月の淡い日射しに少しばかり目立つ。「お義姉さん?」 優しい声で呼び掛けながら顔を上げた相手は、にっこりと笑った。 その顔に、屋上から逃げ去ってしまった真崎の顔がなぜか重なってどきりとする。「すみません、わざわざ」 そっと頭を下げながら、「葉延七海です、はじめまして」「ああ、そんな改まった挨拶はいいって」 明がせかせかと割って入る。「幾つか候補はあるんだ、それを見てやってほしいんだよ」「何よ、慌てて」 瞬きして戸惑い、七海と明を見比べる。上背のある明の側に寄り添う野原の花のような風情、微かに上体を明の方へ傾けているから一層そう見えるのかもしれない。「ああ、そうか、この後二人きりのデートか」 思わずからかってしまったのは、真崎に去られた寂しさもあったけれど、二人がこの上なく似合っていて嬉しかったせいだ。 だが、その美並のことばにみるみる七海が頬を染めて俯いてしまった。「当たり前だろ」 明がしらっとした顔でさりげなく七海を庇うように脚を踏み出す。「行こう」「うん」 手を伸ばした七海が明の右肘のあたりに手を触れて、それが二人の距離だと知った。同時に、七海の顔になぜ真崎が重なったのかにも思いつき、急いで謝る。「ごめんなさい。じゃあ、手早く終わらせようか」「ちゃんと見てくれ」「ちゃんと見ます」「あの、ごめんなさい、もう、明さん」 慌てて顔を上げて、なんて言い方をするの、せっかく来て下さったのに、そう唇を尖らせた七海に、また明が気遣う視線を投げる。「大丈夫ですから、お義姉さんが一番いいと思うのを教えてくださいね?」 柔らかくとりなす七海に、また真崎が重なって、美並は苦笑した。「大丈夫よ」「え?」「大丈夫。体調が悪いのに無理してきてくれたことぐらい、『見えてる』から」 七海の気遣う微笑と反対の、内側に張り詰めた緊張は腰のあたりに煙る影で感じ取れる。生理がきついのか、体調を崩しているのか。きっと美並との約束を優先させようと無理して来たのだ。 そう考えれば、明のらしくない苛立ったせっかちな態度もよくわかる。「あ…っ」「ほらな、言ったろ」 明がぶすっとした声で唸った。「姉ちゃんには隠し事なんてできないって。だから、まんまの七海でいいんだって」「でも…」 七海は困った顔で俯く。頬の紅が濃さを増す。「でも、私」「大丈夫」 美並は行こうか、と明を促して歩き出しながら、呟くように言ってみせる。「あなたが考えてる以上に見えてるから、ほんとに困ったことは口になんかしないよ」 **************** 今までの話は こちら
2025.11.24
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****************「どうしたんですか、京介」 抱いて、と訴えたのを優しく受け止めてもらって抱き締められたら、もう一人で立っていられなくて、しがみついて伊吹の胸に甘えていた。 時間を戻したい。 眠っていた時間のまま。 明達と騒いで気持ちよかったあの夜まででもいい。 でもきっと駄目なんだ。 静かに澄み渡ってくる脳裏に浮かぶのは、大輔の手に握られた伊吹のマフラー。 大事そうだったのにあんなことに使われて、あげくに捨ててきてしまった。ひょっとしたら、伊吹にとってかけがえなく大切だったものかもしれないのに。 そんなふうに、京介は伊吹を傷つけてしまうかもしれない。 京介の大事なものは粉々だけど、伊吹の大事なものまで、マフラーより酷い目に合わされてしまうかもしれない。 そんなことになるぐらいなら。「疲れたのかな、ちゃんと寝なくちゃだめだよね」 深呼吸して立ち上がると、ふいに自分が汚れたシャツのまま居ることに気付いて、顔が熱くなった。 恥ずかしい。 こんな格好で伊吹に甘えていたのか、とうろたえる。「ちょっと着替えて、ついでに外回りしてくるよ」 お昼前には戻ってくるから、僕のおにぎり食べないでね、と付け加えると、伊吹が大丈夫ですよ、と笑ってくれた。 会社に置いてある予備のシャツと下着に着替えて、朝、煮詰まった状態でまとめたデータを見直す。高崎への連絡も付け加えて、明日から動けるようにもう少し手配を詰めた。 石塚が何か言いたげだったけれど、何、と尋ねると、何でもありませんと言いつつ、険しい表情で顔を背けて、朝はよほどぶっ飛んでたのかなと反省する。 得意先を回って、商談を詰めて。 不思議に静かに仕事を進められた。「いいお天気ですね、せっかくだから屋上で食べましょう」 伊吹がそう誘ってくれて外に出る。「もらっていい?」「どうぞ……二種類しかないし、おかずなし、ですけどね」「いいよ」 ああ、これこれ、とおにぎりを口に運んだ。「僕、伊吹さんのおにぎり、好きだし」 考えてみれば、始めからずっと、伊吹さんが欲しかったんだなあ、と京介は思う。 始めはおにぎりだと思ってて、けど、結局は伊吹さんが欲しくて。 ようやくここまで来れたけど。「どうして今日行きたかったの?」「ん?」「映画とドライブ」「ああ……もういいんだ、僕ちょっと」 伊吹さんはやっぱり鋭い、何か感じているんだな、と苦笑する。「ちょっと、焦ってて」「焦ってた?」「うん……美並、が……遠くへ行く、ような気がして」 本当は僕が遠くへ行っちゃうかも、なんだけど、そうなったらもうここには戻ってこないから、きっと伊吹さんだって気付かない。「一緒に居る、って言いましたよね?」「うん、そうだね」 まず京介の不安を取り除いてくれようとする伊吹のことばに微笑む。 嬉しい。 君に会えて、よかった。 それだけでも、きっとあの真崎の家から出て来てよかったんだ。「映画を一緒に見に行きたいの?」「うん」「明日には終わってしまうの?」「……うん……終わってしまうかもね」 大輔に抱かれて、どこまで正気でいられるかわからない。昨日なんて、イかされただけだったのに、何だかもうぐずぐずになった。成長して、なまじ快感を知っているだけに余計まずいのかもしれない。快感に煽られる自分と、大輔に殺される自分との板挟みになって、心も身体もばらばらになる。「おいしいな」「もう一個ありますよ? 食べる?」「うん……凄く、おいしい」 最後の晩餐。 豪勢なものでなくていいんだな、大好きな人と一緒においしいと思って食べられれば、食事は何でも楽しいんだ。 ああ、なんか、こんなぎりぎりになって、いろんなことがいっぱいわかる。「課長?」「はい」「明日、出張か何かあるんですか?」 出張。 切なくて胸が詰まっていた矢先に、そのことばがひどく平凡に聞こえる。「……なんで?」 そんなもの、ないよ。「何か、見える?」 わからないの、伊吹さん。「ああ、おいしかった」 でも、わかったら最後、嫌われるよね、仕事を身体で買おうとしてるなんて、真崎京介なんかじゃない。「ごちそうさま、伊吹さん」 でも、それしか方法がない、君を失わない方法。「足りました?」 ぽつんと尋ねられて、今度は確実に堪えた。 足りるわけがないじゃないか。 思わず伊吹が片付けている包みを見下ろす。 足りるわけ、ないよ。「少し、足りない、かも」 もっと欲しいに決まってる。「追加買ってきましょうか」 そんなことじゃない。「ううん、いいよ」 なんで?「今度はもっと作ってきますね?」「今度?」 なんで、わかってくれない? なんで、もっと見てくれない? 今度なんて、もうない。 僕にはもう今しかない。 伊吹さんなのに、どうしてもっと、僕を見てくれないの。「課長……いえ、京介」 ぞくんと竦んだ腰、煽られて熱くなる身体に京介は泣きそうになる。 今さら、名前を呼ばれたって。 ふいに、立ち上がった伊吹が、透明な視線で京介を見つめてきた。「私は、信じられないですか?」 射抜かれて、動けなくなる。「私は京介が信頼するに足りない、ですか?」 事もあろうに、そんなことを聞くなんて。「そんな、こと、ない…でも」「でも?」「僕は、美並を」 吐き出したくなる、全てのことを。「失いたく、ない、から」「失いませんよ?」 これも伊吹の能力なのか、そう思いつつ首を振る。ぶちまけたい、訴えたい、辛くて寂しくて怖くて苦しい、助けてほしい抱いてほしい。でも。「失う」 美並を。「え?」 京介のせいで。「大丈夫、だ。慣れてる、から」 あのマフラーみたいに。 それだけは、嫌だ。「京介?」「ごめんっ…」 もう堪え切れなくて、身を翻し、京介は一気に駆け去った。 **************** 今までの話は こちら
2025.11.23
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**************** 明け方、一晩泊まった伊吹の部屋から自室に戻って、京介は書類整理を始めた。 頭のどこかがずっと眠りに落ちていて、別のどこかがくるくる勝手に動いていて、自分が自分でないようで、けれど仕事はとても気持ちよく片付いていく。「心なんか持ってない方がいい」 呟きながらデータを集める。「気持ちなんか死んでていい」 そうだ、高崎くんへの手配もしておかなくちゃ、だって。「そんなに長くはもたないよね」 自分の状態が妙なテンションに舞い上がっていくのがわかる。 まるで燃え尽きる寸前の蝋燭になったみたい。(中略) お願い。 何も、考えたく、ない。 何も。「く…っ」 明日で、壊れられたら、いいけれど。「み…な…っ」 名前だけは、覚えておきたい。「も…っと……っ!」 声を上げて滲んだ涙を振り飛ばした。「おはよ~~!」「おはようございます」「お、おはようございます…?」 いつもみたいに出社して、明るく挨拶したら、石塚はもとより、伊吹まで呆気に取られた顔になってちょっと怯む。 何か見えたのかな。「何、伊吹さん、その疑問型は?」 にこにこしながら、自分のテンションをなお上げた。「朝だから、おはよう、に決まってるでしょう」 いつもこういう感じだよね? ちょっと自信ないけど、たぶんこういう感じのはず。「元気ですね、課長」「や、昨日の打ち合わせがうまく行ってさ」 一番いい笑顔、と言い聞かせて笑った。「『ニット・キャンパス』、桜木通販、開発管理課の参加が決まりました!」「……うまくいったんですか」「……締め切り……7日?」 事情がわからないらしい伊吹に石塚が説明する。お願いだから、さらっとやってよね、そう願いながらにこにこ笑い続ける。「企画本部事務局の不手際により……か」「そこを通したんだから、凄いですよね」「さて、これで忙しくなってきたなあ。高崎くんにも繋ぎはつけたし」「もうつけたんですか?」「だってさ……僕もいろいろ忙しくなるし、サブで動ける人材は欲しいしね」 一瞬、もうすぐ僕が壊れて使いものにならなくなるから、そう言いそうになってひやりとした。画面に集中しているふりで、何とかごまかせたかなと思いつつ、「明日からこっちに移ってもらう。今日の午後からデスク動かして、内線周知して、名実ともに開発管理課、始動。伊吹さん、石塚さん、よろしくね」「了解」「はい」 訝しそうだった二人もようやく乗ってきてくれたようだ。 けれど、伊吹には注意に注意を重ねておこう、そう思う。「さて、伊吹さんです」「何でしょう?」「このデータを照合してほしいんだけど」 書類を見せて解説しようとしたら、伊吹がゆっくりと目を細めて京介を見た。 ぞく、と明らかに腰が重くなる。 ああ、その目。好きかも。 うっとりしてしまった。 その目で見られたいかも、僕が気持ちよくなるところ。「課長」「何…?」 びしりと張った声に跪きたくなる。 朝だって、この目とこの声を思い出せばよかったんだね。それならもっと一層簡単にイけた。「何かわからないところがある?」 石塚がいつの間にかいなくなったのは好都合、このまま部屋へ鍵をかけて。でも、すぐ戻ってくるだろうな。もっといっぱい愛してほしい。「……伊吹さん」「はい」 見上げてくる視線が身体に刺さってくるみたい。 もっと、奥まで来ていいから。 胸がどきどきする。「………伊吹、さん?」「はい」 どこがいい? どこで暴いてもらう? きっかけがあれば、もうどこでもいいかもしれない。 けれど、伊吹と一緒のほうがいい。京介一人でするにしても、伊吹に見ていてほしい。「映画、行かない?」「は?」「映画……一緒に」「見たいものがあるんですか?」 映画は興味があったはずだけど、今いち反応悪いよね。なら車なら? どこでもできる。「ドライブも…行きたい」「はい?」「映画と……ドライブ?」「車はレンタルするし………映画は美並、の見たいものなら、なんでもいいから」「課長?」 課長なんて嫌だ。「……京介って…呼んで………課長、じゃない」「…どうしたの?」「京介…だよ」 京介、見せて。 そう言ってくれるだけでいい。「京介…だ」 伊吹の前で一つずつ全部脱いでいく。上着を落とす、ベルトを緩める、スラックスを落として、ネクタイを緩める。シャツのボタンを外して……眼鏡は最後? どのあたりで伊吹は来てくれるだろう。 それとも下着を脱ぐまで黙って見てるだけだろうか。 眼鏡を外してしまえば、視界はぼやけてしまう。伊吹がどこを見ているのか想像するしかできなくなる。伊吹の視線の先を思って、きっと反応してしまう。 そうして晒した後に伊吹は何を求めるだろう。 もしかして、京介に自分で慰めてみろと言ったり……? でも始めは伊吹に触ってほしい。「何があったの」 ふいに現実の伊吹の声が響いて我に返る。ごくり、と乾いた喉に唾を呑み込んだ。「……いいから……映画」「夕べ何が」「……ドライブでも、いいから…」 軽く吐息をつかれた。呆れられた? けど、もう京介には後がない。「いつ?」「今日…」 よかった。まだ嫌われてない。マフラーのことは後でいいよね? 蕩けそうになったとたんに、冷水のような声が届く。「今日は、ごめんなさい、駄目です」「今日は、駄目……?」「明日は?」 酷いよ、伊吹さん。「明日、は」 声が震える。どうしよう。明日? 明日って。「明日は、僕が、駄目」「じゃあ、土曜日に家に行く前に行きましょうか?」「……間に合わないよ」「はい?」「……間に…合わない」 もう、僕、壊れているかもしれない。ううん、今も壊れていきそうだ。「美並、キス、して」 壊れ切る前に。伊吹さんのこと、わかる間に。「京介」 呼び掛けられて頬を撫でられ、少し息をついた。 お昼一緒に食べましょう。 そう伊吹が笑って瞬きする。「おにぎり、多めに作ってきました」「……おにぎり……? 僕の…?」 僕の、おにぎり?「そう」 僕の?「そう」 一緒に?「うん」 おにぎり。伊吹さんの。ずっと欲しくて、この前ようやく食べて、凄くおいしかった。「……うん…食べる」 会社の中なのにキスしてくれて、ふいに強く激しく思う。 嫌だ、壊れたくない、一緒に居たい、もっと美並と生きていたい。「美並………僕を、抱いて」 泣きそうになりながら懇願した。 **************** 今までの話は こちら
2025.11.22
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****************「いいお天気ですね」 せっかくだから屋上で食べましょう。誘って真崎と外に出た。 置かれているベンチに並んで二人、美並が持参した包みを開くのを、真崎はじっと見ている。 抱いてと言われても、はいそうですか、と言えるわけもなく、それでも今にも崩れ落ちそうなのを手を伸ばして抱き締めると、へたへたと膝をついてしがみついてきて驚いた。 きつく閉じた目、眼鏡が歪みそうなのも頓着せずに美並の胸に頭を押し付け動かなくなる。十分、いやニ十分ぐらいもしていただろうか、やがて瞬きして、のろのろと顔を上げ、ありがとう、と笑った。『疲れたのかな、ちゃんと寝なくちゃだめだよね』 にこりと笑いながら立ち上がる。動作にはもういつもの滑らかさが戻っていて。 何があったの、そう尋ねるつもりの美並の質問を見事に封じてしまった。 少し立ち直ってみると、ようやく自分のシャツに気付いたらしく、ちょっと着替えて、ついでに外回りしてくるよ、と何ごともなかったように美並の側を離れていった。戻ってきたのは計ったように昼前で、先に昼に入った石塚の動きも読み込んでいたようなタイミングのよさ、その卒なさは、始めの頃の真崎を思わせた。「もらっていい?」「どうぞ」 二種類しかないし、おかずなし、ですけどね。「いいよ」 真崎が嬉しそうにおにぎりを掴む。「僕、伊吹さんのおにぎり、好きだし」 お返し、と買ってきてくれたお茶のペットボトルを受け取り、美並もおにぎりを摘む。 しばらくそのまま、二人でゆっくり、何も話さずに食べ続けた。 警戒が募る。 美並の中にじわじわと黒い靄が広がっていく。 さっきは明らかに壊れそうだった。 同じものをどこかで見たことがある、そう感じて思い出したのは恵子に襲われて自殺しそうになっていた時。 けれど理由がわからない。「どうして今日行きたかったの?」「ん?」「映画とドライブ」「ああ……もういいんだ、僕ちょっと」 一瞬真崎が動きを止めた。そちらを見遣ると彼方の空を見つめながら、「ちょっと、焦ってて」「焦ってた?」「うん……美並、が」 こくん、ともぐもぐしていた口の中身を呑み込んで、真崎はなおもまっすぐに彼方を向いたまま、「遠くへ行く、ような気がして」「一緒に居る、って言いましたよね?」「うん、そうだね」 またふわりと真崎は笑った。 さっきよりは格段に真崎は落ち着いている、ように見える。 けれど笑うたびに、確実に薄白い靄が真崎の周りを覆っていくのがわかる。「映画を一緒に見に行きたいの?」「うん」「明日には終わってしまうの?」「……うん」 終わってしまうかもね。 真崎がくすりと笑った。 気になったから、美並は午前中の空き時間に、今上演している映画を新聞とネットで調べてみた。 真崎は今日にこだわっている。今日か明日終わる予定の映画か何かがあるかどうかあたってみたが、ほとんどのものは今月末か、クリスマス直前まで続いている。 真崎の「終わるもの」は、見たがっている映画ではないということだ。 美並が遠くへ行くから焦った、そう真崎は伝えてきた。けれど、美並は退職する予定はない。引っ越す予定もない。 ひょっとして、昨日元子が持ち出した社長付きの秘書の件が、そうそうに真崎に伝わってしまったのだろうか。 でもそれなら、ドライブ、というのがわからない。「おいしいな」「もう一個ありますよ? 食べる?」「うん……凄く、おいしい」 噛み締めるように、味わうように丁寧に食べる真崎は嬉しいが、どうも大袈裟すぎる気がする。まるで、これが最後の食事のようだ。「課長?」「はい」「明日、出張か何かあるんですか?」「……」 真崎が動かなくなった。「……なんで?」 何か、見える? 懐かしい台詞だ、と美並は思った。 初めてぶつかったあの夜みたいな感覚、そう気付いて少し目を見開く。 抱いて、と真崎は言わなかったか。 真崎の「抱く」は一般の男性と少し意味合いが違っている。自分が「抱く」だけではなく、「抱かれる」感覚が同時に入っている。抱かれて、自分の全てを暴かれて。それが真崎の望むことだ。 そこに重なるこの懐かしい感覚、しかも「抱いて」とねだられているということは、真崎は美並に暴かれたがっているということ、つまりそれは、美並は真崎の何かを暴き損ねている、そういうことではないのか。「ああ、おいしかった」 美並がその何か、に辿りつこうとした矢先、真崎が伸びをしながら立ち上がった。「ごちそうさま、伊吹さん」「足りました?」「……うん……少し、足りない、かも」 声が揺れて掠れて響く。「追加買ってきましょうか」「ううん、いいよ」 逆光になった真崎の表情ははっきり見えない。ただ、見る見る真崎の熱が閉じ込められていくような気配が広がってきて、不安になる。「今度はもっと作ってきますね?」「今度?」 オウム返しに問いかける、そのことばに潜んだのは嘲笑、それもまた、あの夜と似ているもの。 見えないんでしょう、そうなじられるような。 今度なんて、ないよ。 泣きそうな声が響き渡った気がして、美並も立ち上がる。「課長……いえ、京介」 手を伸ばすと、真崎がゆらりと後ずさった。 その瞬間に確信する。 真崎は何かを隠している。美並に関わる何か、を話すに話せないでいる。 閃いた疑問をそのままぶつける。「私は、信じられないですか?」 明らかに真崎の体が強ばった。「私は京介が信頼するに足りない、ですか?」「そんな、こと、ない…でも」「でも?」 光を浴びて浮かび上がった相手の顔が真っ白になっている。凍りついて感情を失った表情は人形のようだ。整っていて無機質で。さっきの淫靡さの方がまだ人間らしかった。これではまるで。 ゼンマイ仕掛け。 元子の声が蘇る。「僕は、美並を」 ぎくしゃくと後ずさっていく動き、まるで誰かに操られるように。「失いたく、ない、から」「失いませんよ?」 真崎は首を振った。 眉を寄せて微かに笑う。「失う」「え?」「大丈夫、だ。慣れてる、から」 儚くて、今にも消えてしまいそうな笑顔。 胸から腰にかけて内側から突き出してくる、ぎらぎら光る砕かれたガラス片。 なぜ、これが、今戻ってきている? 薄靄の向こうに真崎の姿が呑み込まれそうだ。「京介?」「ごめんっ…」 突然身を翻し、真崎は一気に駆け去った。 **************** 今までの話は こちら
2025.11.21
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**************** 美並の頭に、夕べの全身汗に濡れて震えていた真崎が蘇る。 いつもの真崎ならば、今日は着替えてやってくるはずだ。 自分の気持ち良さも理由だが、何より他の人間と接することが多い仕事を考えて。相手にわずかでも不快感を与えることで、交渉に妙な滞りを起こさないために。 言動全ては計算ずく、仕事がらみはなおのこと、乱れた気配を嫌う、その真崎が夕べから汗で汚れたシャツを着たままで平然としている。 切られていた携帯と同時にあり得ない、真崎が真崎である以上。 あり得るとしたらそれは、真崎が真崎でなくなっているということ……ひやりとしたものを美並は感じた。「何でしょう?」「このデータを照合してほしいんだけど」 真崎は自分がいつもと違う振る舞いをしているのに気付いていない。よく見れば、ネクタイの下のボタンも一つ外されていて、緩やかに締められたネクタイの結び目が今にも独りでに解けそうな歪んだラインをしている。 隙だらけ、そんなことばが浮かんだ。 ひょいと見上げてくる瞳はどこか茫洋としている。うっすらと開いた唇が乾いている。ボタンを止めずにはだけた上着、シャツから漂う匂いがどこか獣のようだ。既に汚され乱されているからどこまで侵してもいいような、警戒心のかけらもない中途半端に弛んでいる気配には、真崎から一気に全てを剥ぎ取ってしまいたくなる危うさがある。 人間の暗い欲望、相手を蹂躙し尽して、圧倒的な力に酔いたい、そんな気持ちを煽られる。 ふいに脳裏に大輔の笑みが蘇った。 そうそう会うことはないだろうけど、こんな状態で会わせちゃいけない、と強く思った。 侵され踏みにじられて、身動きできなくなるまで好き放題に貪られても抵抗できない。そのまま、自力では修復できなくなるまで傷つけられてしまう。「課長」 思わず自分の声が固くなった。 何があったか、聞かなくちゃいけない。「何…?」 何かわからないところがある? 細められた目がうっとり潤む。蕩けて崩れ落ちそうな淫靡さとでも言えばいいのか。いつか見せた華やかな微笑が薔薇ならば、これは墓前に置かれた花弁が香油を注がれて滴り落とす、その雫のようだ。「伊吹さん…?」 掠れた声で呟いて、するりとなおも距離を詰める動きがゆらゆらと揺れる。「すいません、ちょっと経理へ」 いきなり石塚が席を立った。「メール便も回ってきます」 険しい顔で美並を見たのは責めているというよりは真崎の変化に戸惑った顔、美並が頷くとそそくさと部屋を出ていった。「……伊吹さん」「はい」 呼び掛けられて真崎を振仰ぐ。見上げた視線に貫かれたように、微かに身体を震わせた真崎が目元を染めた。「………伊吹、さん?」「はい」 繰り返して呼んだ真崎が、どこか朦朧とした声で呟く。「映画、行かない?」「は?」「映画……一緒に」 唐突な申し出に美並は眉を寄せた。「見たいものがあるんですか?」「ドライブも…行きたい」「はい?」 なお柔らかな平坦な声で続けられて、美並は呆気に取られた。「映画と……ドライブ?」「車はレンタルするし………映画は美並、の見たいものなら、なんでもいいから」「課長?」「……京介って…呼んで」 真崎がふわりと笑った。「課長、じゃない」「…どうしたの?」「京介…だよ」 俯きながら軽く唇を噛む。何かの衝動を逃がすように、また微かに腰を揺らせて赤くなり、小さく吐息をつく。 ここが会社でなければ、完全に誘惑されているとしか思えない。それも望まれているのは可愛らしいデートではなく、狂気ぎりぎりまで追い詰めあう愛撫。「京介…だ」 囁く声が蕩けている。微かに息を弾ませているのが、ベッドの上のように淫らに響く。 これも真崎京介なのか、と思った。 触れたら最後、濃厚な視線を注ぎながら自ら暴いて声を上げそうな。 そして理解する、大輔の視界に映っているのは、おそらくきっとこの真崎なのだ、と。 ねだられているようにしか思えない。待っているようにしか見えない。壊してくれと望んでいるようにさえ感じられる。「何があったの」 びく、と真崎は体を震わせた。「……いいから……映画」「夕べ何が」「……ドライブでも、いいから…」 揺れる声、今にも崩れ堕ちてきそうな危うさ、引き寄せて唇を合わせたくなってくる。暴いて弱いところを責めつけて、快感に啼きながら涙を零す姿を見てみたいという凶暴で激しい劣情、けどそれは、愛しい気持ちとは別もので。 煽ってくる真崎に呑み込まれそうになりながら尋ねる。「いつ?」 踏みとどまれる箇所を必死に探す。このままでは行き着く先は見えている。「今日…」 緊張を高めていく美並を追い落とすように、甘い微笑を浮かべた真崎にふっと一瞬我に返った。 明、ありがと。 首を一つ振って霞みかけた頭をはっきりさせる。「今日は、ごめんなさい、駄目です」 真崎が軽く息を呑んで体を強ばらせる。「今日は、駄目……?」「明日は?」「明日、は」 尋ねたとたんに真崎は表情を一転させた。きつく唇を噛んで俯き、呻くように続ける。「明日は、僕が、駄目」「じゃあ、土曜日に家に行く前に行きましょうか?」「……間に合わないよ」「はい?」「……間に…合わない」 美並、キス、して。 掠れた声で訴える真崎は今にも崩れてしまいそうだ。シャツに沁みた汗の匂いが強くなる。「京介」 呼び掛けるとぼんやりとした顔を上げた。虚ろな瞳には何も映っていないようだ。最近ほとんど見なかった淡い白い靄をまとって、不安定に体を揺らせている。 その頬にそっと触れると、我に返ったように僅かに視線が動いた。「お昼、一緒に食べましょう」「……え…?」「おにぎり、多めに作ってきました」「……おにぎり……? 僕の…?」 僕の、おにぎり?「そう」 僕の?「そう」 一緒に?「うん」 泣きそうな、けれどもようやくはっきりした意志を持った笑みが広がった。「……うん…食べる」 頷いた相手に唇を寄せてやる。待ちかねたようにキスしながら、真崎が震えているのに気付く。 怯えて、怖がっている? ぎりぎりだ。 何かわからないけど、ぎりぎりのところに真崎が居る。「美並…」 僕を、抱いて。 キスの合間、唇を触れ合わせたまま、真崎が切なげに囁いた。 **************** 今までの話は こちら
2025.11.20
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**************** 翌朝、ベッドから真崎がいなくなっているのを確認した後、美並はおにぎりを作った。 ちょっと固めに炊き上げた飯を塩を手につけて握って海苔を巻いたのと、ふりかけを混ぜ込んで握ったのを二種類。 丁寧に丁寧にいつもより多めに握っているところへ、電話がかかる。『もしもし、姉ちゃん?』「明……何、朝から」『いやちょっと、今日会えるかなあと思って』 相手が照れた声になって、あいつと今日は、と尋ねられたから、今日は約束していないと答えた。 朝、なぜ急に居なくなってしまったのか。 夕べなぜ唐突に美並のベッドで眠っていたのか。 なぜいきなり、何もかもすっとばして抱いて、になってしまったのか。 気にかかる、でもそれは夕方まで待っていられるようなことじゃない気もするから、昼御飯一緒に食べましょう、と誘ってみるつもりだった。 何かあったのだ、京介に。 我を失って、ひたすら求めることしかできなくなるほど、衝撃を受けるようなことが。 しかも、いつもなら朝まで居るはず、最低でも美並が目覚めるのを待っているはずなのに、居た気配さえ残さずに消えてしまったのが気にかかる。 携帯もまた繋がらなかった。 話し中ではなくて電源が切られている気配、それも真崎京介にしてはありえない状況、各種連絡は管理課だけではなく、真崎の携帯にも頻繁に入るはずなのに。『姉ちゃん?』「あ、ごめん。それでどうしたの、急に?」 明の不審そうな声に意識を戻した。 土曜日に真崎を伴って実家に戻ることになっている。一晩泊まっていってもいいと両親は諸手を上げて待っている、とさすがにそこまでは話していないが、土曜日の時間もまだ打ち合わせていない。 それを理由にお昼を誘おう、そう決めた。『今度、七海がホールのイベントに出るんだけど、その時のワンピースを姉ちゃんに見立ててもらえないかって』「ホールのイベント?」 七海はハープ奏者だ。結婚式や、新しいビルのオープンイベントなどに呼ばれて演奏することも多い。 BGM代わりにと気軽に頼まれることもあるが、それで少しでもハープや視覚障害について興味をもってくれるならと、仕事を選り好みしないこともあって、あちらこちらに出かけるようだ。『「ニット・キャンパス」って知ってる?』 明の口から聞き慣れてきたことばが飛び出して、思わず美並は微笑んだ。「知ってる。芸術系の学校や企業が集まって、新しい創造を考えようっていうやつでしょ」『12月の10日ぐらいからあちこちの大学とかでイベントが始まるんだけど、メインのやつは12月の23、24日二日続きのホール・イベントで、向田市役所のイベント・ホールでファッションショーとか演劇とか、そういうのがあるんだけど、演奏を頼まれてるんだよ』 だから、その時の服を一緒に選んでほしいって。『今日の夕方、そっちへ出るんだって。俺も一緒に行くから』「わかった。じゃあ、夕方……18時ぐらい?」『うん。じゃあ向田駅の改札で』 明が嬉しそうに電話を切る。 状況次第だけど、真崎も誘ってみようか、そう思った。「おはよ~~!」「おはようございます」「お、おはようございます…?」「何、伊吹さん、その疑問型は?」 いつもは一番に来ている真崎が、今日は少し遅れた。 じわっと不安になったあたりでやってきたのはやってきたが、満面の笑み、華やいだ気配をそこら中に放射していて、異常にテンションが高い。「朝だから、おはよう、に決まってるでしょう」 にこにこしながら覗き込んできた顔は、少し白いかもしれないが、夕べの切羽詰まった焦りは見られない。「元気ですね、課長」「や、昨日の打ち合わせがうまく行ってさ」 ぱあっと真崎は笑み綻んだ。「『ニット・キャンパス』、桜木通販、開発管理課の参加が決まりました!」 にこやかに宣言する。「……うまくいったんですか」 ちょっと呆気にとられた顔で石塚が突っ込み、思わず何、と目で訪ねると、ほら、ここ、とパソコンで『ニット・キャンパス』のHPを開いてくれた。「……締め切り……7日?」「何かいろいろあったらしくて、急遽早まったみたいよ。準備していたけれど参加できなくなった企業もあるみたいだし」「ふぅん?」 覗き込んでみると、更新は昨日、お詫びと理由が並んでいる。「企画本部事務局の不手際により……か」「そこを通したんだから、凄いですよね」「でしょう」 石塚の声に真崎がまたにこにこする。 おかしい、と美並は眉を寄せた。 これがうまく進んでいるなら、夕べの真崎は何なんだ? 幻? 美並の妄想? まさか。「さて、これで忙しくなってきたなあ。高崎くんにも繋ぎはつけたし」「もうつけたんですか?」 石塚がえらく手早いですね、と苦笑する。「だってさ」 机の上の書類をいつも通りに確認し片付けていきながら、真崎はキーボードを叩く。「僕もいろいろ忙しくなるし、サブで動ける人材は欲しいしね」 眼鏡がパソコンの画面を反射して、表情が消えた。「明日からこっちに移ってもらう。今日の午後からデスク動かして、内線周知して、名実ともに開発管理課、始動」 たん、と鋭い音をたててエンターを叩いた真崎が、またにこっと笑って美並を見返す。「伊吹さん、石塚さん、よろしくね」「了解」「はい」 まずは何をするんです、と尋ねる石塚にデータ表を持ち出してきた真崎は、確かに元気そうで楽しそうで嬉しそうだ。新しい課に新しい人材、新しい企画が動き出して、いよいよ自分の実力を発揮できる、そう張り切っているように見える。 けれど。 美並の脳裏に元子の顔が過る。『誰か助けて、そう思わないことだ、って』『何とか、なんて誰にもできない』 自分しかいない。 誰も助けてくれない。 だから、真崎は誰にも何も望まない。 そう元子は言っていた。 その記憶が、なぜ今、美並の頭に蘇ってくる? 簡単だ。 偶然はありえない。感覚は必然で呼び起こされてくる。 何か通じるもの、同じものがあるから連想されてくるのだ。 そして、理由が見つからないということは、美並には共通点が見えていないということだ。 夕べの真崎と別人のように明るい真崎、それは何かが見えないところで起こっているからではないのか。「さて、伊吹さんです」 データの束で石塚にうんざりさせた後、真崎は違う書類を手に美並に向き直った。 その瞬間、美並の感覚が『異常』を訴える。 シャツが、同じだ。 **************** 今までの話は こちら
2025.11.19
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**************** 伊吹のマンションに辿りついたのは覚えている。 まだ伊吹は帰ってなくて、怒られなくても済む、とちょっとほっとして。「水…」 コップを借りて、水道の水を飲む。喉がからからだったから、おいしかった。 ほてった身体がここへ来るまでに冷やされてしまって、寒気がして苦しかった。 よろめくように部屋を進んで、倒れ込んだのはベッドの上。ぱふん、と京介を受け止めてくれた布団が、懐かしい甘い匂いで一杯で嬉しくてたまらなくなる。「伊吹さん…」 気持ちいい。(中略) ずきずきしたのは下半身、一緒に疼いたのは鎖骨のキスマーク。「また…つけてもらわなくちゃ」 つぶやいた途端、視界が熱いもので満ちて零れた。「薄くなってた」 だからきっと、あんな目に合った。「ちゃんと徴つけてもらっておかなくちゃ」 僕が誰のものかってこと。 僕が美並のものだってこと。「ちゃんと強く、もっとイッパイ」 あっちこっちに。 大輔がすぐ気付くように。「抱いて…もらわなくちゃ」 でないと、今日みたいにわからなくなる。「美並の指」 美並の唇。「美並の…」 はっきり覚えておかないと、はっきり教えてもらわないと。 キスは違った。 だから惑わずに済んだ。「他のも全部」 美並のものを教えてもらって、京介に刻んでもらって。「さむ…」 震えて、さすがに上着は脱いでベッドに入り込む。「あ~……」 いい匂い。「駄目だろうけどね」 頭まで布団に潜って伊吹の匂いを確かめながら、小さく呟いて嗤う。「もう、駄目だろうけど」 マフラー駄目にしたから、駄目なんだ。大輔に会ったから、駄目なんだ。(中略)「もっと」 うとうとし始める。「全部」 愛してもらっておけばよかった、体裁なんか構わずに、誘うんじゃなくて自分を全部投げ出して、抱いてってすがりつけばよかった。「そしたら…」 そうしたら、最後は大輔しかいなくても、ちょっとは諦められたかもしれない。「駄目かな…それも」 抱かれるたびに伊吹のことを思い出すだろうか、今日のキスマークに触れられたみたいに。 でもそうなったら、そのまま伊吹に抱かれてるつもりで、それだけ思って狂っちゃえばいい……。 ようやく安心してくすくす笑った。 そのまま眠りに落ちて、京介が目覚めたのは明け方だった。「…ん…?」 柔らかくて温かい拍動に頬を押し付けている、そう気付いて目を開けて。「あれ…」 伊吹さん。 京介の頭を抱え込むように抱きしめて、伊吹が側で眠っている。「なんで…?」 いつもなら京介が抱き締めて眠っている。伊吹のベッドで眠る時は、伊吹が京介を抱き締めるということなんだろうか。「あったかい……」 駅のトイレって寒かったんだなあ。「気持ちい…」 あんなに煽られても全然気持ちよくなかったのに。「はぁ…」 こうしてくっついているだけで、身体が自然に揺れてくる。 何度か軽く押し付けて、そうだ、と唇を合わせてみる。「…あま……」 ふわりとしててやわやわしてて、唇で挟んで戻ってくる弾力に夢中になってキスして、そっと舌を入れてみたら、ちろんと舐めてくれたから、起きてるのかなと驚いた。「……眠ってる……」 もう。眠ってるのに、なんでキスに応えられるの。 何だかむかついて、ちゅうっ、と吸いついてみると、つるんと飛び込んできた舌がちょいちょいとなだめるように動いた。「あ」 いいこいいこ。「舌で…されちゃった」 もう一度欲しくて、またちゅううう、と吸いつくと、今度はさすがに眉をしかめられて、うん、と突っ張られてしまったから、慌ててそっとキスし直す。 そうしたらまた。「ん……」 いいこいいこ。「…へへへ」 もっと。 唇を合わせて。 ……いいこいいこ。「………へへへへ……っ」 嬉しくて笑っていたはずなのに、突然涙が溢れて京介は困った。「伊吹さん……どう…しよ」 起きていないとわかったから言えることば。「僕…戻ってこれない…」 今度はきっと、壊れちゃうよ。「壊れた僕でも」 いいこいいこしてくれる……? 唇を合わせて、京介は教えられたようにそっと舌を揺らせてことばを返す。 いいこ、いいこ。「……大、好き」 前はあれほど軽く伝えられたことばなのに、それしかもう言えなくて、京介はそっと起き上がった。 **************** 今までの話は こちら
2025.11.18
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人によって不愉快な場面があります。ご注意頂き、個人責任でお進み下さい。****************(中略) まさかこんなことまでされるとは思っていなかった自分の愚かさが腹立たしくてたまらない。(中略) 低くつぶやく胸には尖ったガラスがぎらぎら光っている。 時間が引き戻されていくようだった。ようやく得た外の世界が、今大輔に踏みにじられて崩れていく。抵抗できない自分も馬鹿馬鹿しいし、そんな自分にここまで執着する大輔も馬鹿馬鹿しい。 これで父親で夫で大人なんだ、ほんとに嗤える。(中略) がしゅっ、と何かが壊れたような音が身体の内側を満たした。暗転した視界が音の元を探って内側に落ち込む。 暗闇の空間で、ぎらぎら光りながら突き立っている透明で鋭いガラスの山が崩れ落ちていきつつあった。天辺近くから崩れたものは周辺に落ちて砕け、その山の底からも耳をつんざくような音を立てて崩壊していく。「京介…?」「………」 ぼんやりと瞬いて、覗き込む大輔を見た。 肌色の平面に動く眼と口と眉。動かない鼻と耳。(中略)「じゃあ、金曜日な」 もっと凄いことをしてやるから、楽しみにしてろよ。 言い捨ててあたふたと去っていく大輔を見送り、マフラーを一旦便器の蓋に置き、スラックスのベルトを締めた。シャツのボタンを止め、ネクタイを締め直し、上着を整え、マフラーを手に取る。 ぬちゃり、と指にくっついたものに視線を落として、洗わなくちゃ、と思った。 外に出て、眼鏡を外して汗と涙でべたべたになっている顔を洗い、眼鏡をかけなおして、マフラーを蛇口の下に差し出して汚れを落とす。「駄目だな」 きっとこのマフラーはもう使えない。「伊吹さんに謝らなくちゃ」 せっかく貸してくれたのに。「一緒にマフラー見に行かなくちゃ」 紺色がいいのかな、それとももっと明るい色がいいかも。 水を止めたのに、手に滴り落ちる水滴が止まらない。「伊吹さん、怒るかなあ」 そうだ、今すぐ行って謝ってこよう。 マフラーをトイレのごみ箱に捨てて、京介はふらりと足を踏み出した。 **************** 今までの話は こちら
2025.11.17
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**************** 大辻美術専門学校からもう数カ所、得意先を回って社に戻った時には、へとへとだった。いつもならスムーズに切り抜けられるやりとりも、細心の注意を払わなくては進められなくて、事故を起こさずよく戻れたものだ。 マフラーを返さなくちゃならなかったから待っていてくれるはず、そう思っていたのに、伊吹がいなくて京介は呆気にとられた。「…伊吹さんは…」「ああ、急に約束が入ってしまったとかで」 課長も遅かったですし、と続けられて、そうだよね、と手にしたマフラーを見下ろす。 何だか見る見る気力がなくなって座り込みそうな気がしてきて、伊吹に会える、その気持ちだけで戻ってきたのだとわかった。「マフラー、預かりましょうか?」「あ、いいよ、僕が返す」 そうだ、そうしよう。 思い出したのは内ポケットに入っている鍵。伊吹の部屋の鍵。 誰と会うのか、何の約束なのかは気にかかるけど、それでも先に部屋に居てもいいってことだよね。 少し元気が戻った。「はい、ここまでは終わってますから」「うん、ありがとう」 報告を確認して、お先に、と帰っていった石塚の後を追うように手早く周囲を片付けて部屋を出る。まだ居残ってる他部署に少しためらったけれど、伊吹のマフラーの匂いを嗅ぐともうどうにも止まらなくて、急ぎ足に駅に向かった。 会いたい。 会いたい。 もうずっと何ヶ月も会ってない気がする。たった数時間前に顔を合わせたはずなのに。 改札を抜け、ホームへ急ごうとしていた時、前から集団でやってくる男達が居て体を逸らせて道を譲った、その矢先。「おい」「っ」 いきなり腕を握られてぎょっとする。振り向いた先に笑っている顔を見て血の気が引いた。「奇遇、だな」「大、輔…」 なんだ、どうしたんだ、と背後から他の男が尋ねてくるのに、弟なんだ、ちょっと用事があるから先に行っててくれ、そう言い返す相手を茫然と見ていると、素早く京介の全身に視線を走らせた大輔はゆっくりと眼を細めた。「なんだ、いやにめかしこんでるな」「離してくれ」「ん、なんでマフラー持ってるのにしてない」「あっ」 握っていたマフラーを奪い去られてうろたえる。「大輔」「お前のじゃないのか」「返して」「ふうん?」 ふい、と鼻先に当てた大輔がにやりと冷たい笑みを浮かべる。「あの女のか」「返せ」「おっと」 腕を離されたから急いで手を伸ばそうとしたら、ひょいと背後に隠されて、しかもそのまま何を思ったか、くるりと背中を向けた大輔が急ぎ足で離れていく。「大輔っ」 何をする気なんだ。「待てよ」「言ってたろ、懇親会で、しばらくこっちだ」「そんなこと聞いてないっ」「だから、今日でもいいんだ」「っっ」 ぞくりとして足を止めた。「今日でもいい」 大輔は駅のトイレの前でゆっくりと振り返る。「京介?」「…嫌だ」「何が」「っ」「何を期待してる」「期待なんかしてない」「待てないだろ」「待ってない」 仁王立ちしてこぶしを握って睨み据える、その立ち方が伊吹そっくりだと気付いて、気力が戻ってきた。「俺もだよ、京介」 あいつらを待たせてるしな。 くすりと笑われて、少しほっとした矢先、「けれど、まだ時間はある」「え」「手付けを打っておこうか」「手付け……? ……っ」 ちらりと動いた大輔の眼が、トイレの奥の個室を見遣って京介は凍りつく。「神様ってのは、俺の味方らしいな、ずっと」 くすくすと大輔は笑った。「そんなことに応じると思うわけ」「応じなくてもいい」 いつだって選択はお前のものだ。 大輔は手にしていたマフラーを広げてみせる。「捨てるぞ」「……そんな、ことで」「じゃあ」 電車から降りた人波が一通り過ぎ去ったようだ。慌てたふうにやってきた年配の男が、入り口付近で睨み合う二人に眉をしかめながら通り抜け、急いで用を足して出ていった後は、静かになった。「これを使わせてもらうかな」「な、に……っ」 大輔が伊吹のマフラーを丁寧に折り畳みながら股間へ当てて、視界が真っ赤になった。「こ、のっっ!」「ほうら、そこのところが」 甘くなったんだよ。「ぐっ」 とっさに飛びかかってしまった無防備さを悔やんでも遅い、体をかわした大輔が傾いだ京介の鳩尾を殴りつけてくる。ほとんど何も入ってなかったけれど、強い吐き気に前のめりになったとたん、腕をとられて背後へ捩られ、柔らかな温かなものでぐるぐる縛られる。 伊吹のマフラー。「あ…っ」 僕は、馬鹿だ。 視界が眩んで、歯ぎしりしたいほど悔しいのに、そのまま後ろから掴んで押されて、個室へ押し込められる。「さて、お前が満足するほど時間があるかな」「嫌だ…っ」「大声を出してみるか? あの女が自分のマフラーでお前が縛られてたなんてわかったら、どう思うかな」「っ」 伊吹さん。 背後で鍵がかかる音に足下が崩れそうになった。**************** 今までの話は こちら
2025.11.16
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**************** 覗き込んで、壁際に身体を縮め蹲るように眠る真崎を見つけた。胸を抱きかかえ、上着を脱いだだけのシャツスラックス、ネクタイもそのままに布団の中に潜り込んでいて、冬眠しているクマかリスのようだ。乱れた髪の毛の下の顔は青くて苦しそうに眉を寄せていて、寝息も少し早い。「病気?」 慌てて額に手をあててやると、びくりと身体を震わせた相手が小さく呻いた。「い…や…だ」「課長?」「さ…わる…な…」 ぎゅうっとまた縮こまっていく体、眉をしかめて今にも泣き出しそうな顔を深く俯ける。熱はないが、全身で拒む気配、なのにそこら中震えているのが頼りなげで人の手を誘い込む。肩を握って声をかける。「課長、どうしたんですか」「や…ぁ」 大きく体を震わせた真崎が微かに仰け反って胸を掴んだ。音がしたんじゃないかと思うほど噛んだ唇に乾いた血の跡がある。「っや……だ……すけ…っ」 大輔。 掠れた声で呼んだ名前にぎょっとした。がたがた震えながらうっすら開いた眼には涙が一杯だ。「やめ…っ」 ひ、と息を引いたとたん、大きく目を見開いて真崎は固まった。次の瞬間、真っ青になって口を押さえ、呻きながら悲鳴を上げる。「う…ぐ…っ……ぁっ」 眼鏡を外した顔に広がったのは紛れもない恐怖、それも今にも精神を崩壊させていきそうな。「課、……京介っ!」「あ、やっ、やっ、……や……あっ」 身悶えながら絞り出す声、がたがた震えている手足がすがるところを求めて必死にシーツをかき寄せる。「京介っっ!」「っっ」 覗き込んで叫ぶと、はっとしたように動きを止めて振り返った。「み……なみ…」 掠れた声が弱々しく呼んだ。押し退けるように突っ張っていた腕から力が抜ける。ぱたりと腕をシーツに落とすと、ぽかんと開いた目からぼろぼろと涙が溢れ落ちた。「みな…み…」「…………どうしたの…?」 そろそろとあげた手が苦しそうにネクタイを掴む。指をかけて必死に引っ張っているがうまく緩められない。完全に起きてはいないのだろう、もどかしそうに何度も首に指を這わせる。「苦しいの? 緩めてあげようか?」 ほ、と小さな息を吐いて頷く真崎が声もなく泣き続けているのが痛々しくて、なぜこんな状態になって、しかも美並の布団に蹲っていたのかわからないまま、そろそろとネクタイを緩めて外してやる。汗に濡れたシャツが張り付く体はずっと細かく震えている。「汗びっしょり……お水飲む?」 全力疾走の後のように、せわしなく喘ぐ真崎が眉を寄せて見上げてくる。「…たす…けて」 掠れた声が続いて、元子との会話が頭を過った。「みなみ……僕を…抱いて…」 自分しかいない、そう言っていた男が助けてほしいと美並の寝床に蹲っている。何があったのかわからないが、今、はねつけるわけにはいかない、と思った。 抱けるかどうかはわからないけれど。 いやまず、女が男をどう抱くのかってあたりだけど。「少し待ってて」 とにかく落ち着かせよう。「シャワー、浴びてくるから」 待って、と唇を重ねた。 ほっとしたように吐息をついて、真崎が両腕を美並の首に巻きつけてくる。涙が止まらない目を閉じて、合わさった唇に必死に吸いついてくる。「ん、んん」 甘い声を漏らしてすりよってくる身体が熱い。シャワーに行くどころか、着替える間さえくれない。顔を引き寄せられたまま、とりあえず上着とスカートは脱ぎ捨てた。じれったがるように引っ張られて、残りは諦め、真崎の腕の中へ滑り込む。「みなみ……みな…み…っ」「っつ」 体を入れ替えられ、押さえつけられたが抵抗しなかった。喘ぐ息を首に寄せられ吸いつかれる。一瞬歯をたてられて、顔をしかめた矢先、急にぐたりと真崎が弛んだ。「……京介?」 脚を絡められて、きつく抱き締められて、首筋にぴったりくっつかれたまま、けれど動きを止めた真崎が次第に重くなってきて、やがて呼吸が寝息に変わる。「……おーい……」 なんじゃ、それは。 寝落ちるつもりならもうちょっと穏やかにやってくれ、そう思いながら押し退けようとしたが、しがみついた真崎は離れようとすると力を込めてくる。「…えーと…」 とりあえず半端に引き込んでいた腕を抜いて、真崎の頭に回してやると、またくったりと身体が弛んだ。「……何が……あったんだろう」 さっきのはおそらく、大輔との記憶で。 けれど、それをあそこまで蘇らせてしまうようなきっかけは思いつかない。大輔と接触もしていないはずだ。「明日……聞くか」 いつもなら冷たい布団が温まってくるまでが長いのに、今日は既に真崎の熱で気持ちいい。 そのまま美並は眠りに落ち………。 翌朝、美並が目覚めたときには、真崎の姿は部屋になかった。 **************** 今までの話は こちら
2025.11.15
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****************「初めて見た時はね、まあ整った男がいるもんだな、と思ったわよ」 元子は料理を気持ち良く平らげていく。がちゃがちゃせわしなく片付けるというのではなく、一品一品楽しんで食べているのがよくわかる機嫌よさ、村野にとっても貴重な客なのだろう、サーブされる手順も滞りなく丁寧だ。「面接でですか?」「そう、面接で」 大学卒とはいえペーペー、使いものになんかなるまいと思ってたからね、最初は総務の富崎さんのところでちょっと使ってもらったら、勘がいいし卒ないし、何より人あしらいがうまいと報告されて。「現場で2年ほど地方を回ってもらって、それから流通管理の方へ」 皿に描かれたソースをパンで拭い取り、次の皿を持ってきた村野に、新しい香辛料なの、インパクトあるけど、なじませるのが難しそうね、と笑いかける。「精進いたします」 村野も美並と元子が和やかに会話を始めたのにほっとしたのだろう、穏やかに微笑んで頭を下げる。「デザートはいかがいたしましょう」「アイスクリームでいいわ、伊吹さんは?」「同じものを」 迎合したのではなく、元子が何を好むのかが知りたかった。「レモンシャーベットでは?」「頂きます」「お願いします」 では、と運ばれてきたのは薄黄色のシャーベットにレモンピールが刻まれて乗せられているのが、濃い紫の器に入っているもの、おいしいね、とさくさくスプーンで掬っていく元子に習い、食べ進めていって美並はレモンシャーベットの真下に隠されていた絵柄に気付いた。 まるで暗闇に灯る明かりのように、淡くて白い桜の花弁、ただ一枚。「……誰か助けて」 低い声で元子が呟き、美並は桜に見入っていた顔を上げた。 元子も同じように花弁を見つめている。その花弁に誰を重ねているのか、それはお互いよくわかったことで。「なぜ、そんなに揉め事をおさめるのがうまいかと聞かれて、そう答えたわ」「?」「誰か助けて、そう思わないことだ、って」「……」「誰か、なんてどこにもいない。たとえ居たとしても、その『誰か』にリスクを負わせることでしかない、度重ねれば、その『誰か』も耐え切れなくなって居なくなる」 眼鏡の奥でゆっくり細められる、真崎の眼が見えるようだった。「何とかして、というのも同じこと」 コーヒーを、と命じた元子が、目の前から皿が下げられるのを見送りながら呟く。「何とか、なんて誰にもできない。何とか、という中身を考えられるのは自分だけだ、そう考えれば」 淡々とした静かな声で真崎は答えたに違いない。「自分しかいないとわかる、自分しかいないなら、自分がやるしかないと思う」「……」 運ばれてきたコーヒーの香りの高さに大石と真崎を思い浮かべた。あの夜、大石を振り切ってここを出た、壊れそうな真崎を抱きかかえた。「自分しかいないと思えばいいだけだって」 笑っていたんだけどね、この子は一生一人で生きていくんだろうなと思ったのよ。「有能で整った機械みたいな心のままで」 元子はコーヒーをゆっくり含み、唐突ににっこりと笑った。「だから、そういう男なら、仕事ぐらい貫けるものがあったほうがいいと思って」 早いと声はあったけれど、流通管理課の課長に据えた。「十分な仕事っぷりだったし、周囲は私を褒めてくれたわよ、大抜擢、英断だって」 くすくす笑いながらコーヒーを飲み干す。「けど」 一つだけ読み損なったわねえ。「え?」「あの子があんなに華が出るとは思わなかった」 こんなことなら秘書にして連れ回してたら気持ちよかったでしょうに。「私もまだまだだわね」「ふふ」 美並もつられて笑ってしまう。真崎が元子の秘書だとしたら、それは卒なくこなすだろうが、きっと戻ってくるたびにぶつぶつ言って拗ねるだろう、自分は人形やタレントじゃないとか言いながら。「あ、そうだ」「はい?」「あなた達結婚したら部署異動になるんだけど」 元子はとんでもなく嬉しそうに付け加えた。「伊吹さん、私付けの秘書になる?」 はぁい? 頭の周囲に疑問符をまき散らしている美並に頓着せず、元子は、そうねそうねそれはいいわね面白いわね、と一人で思いっきり盛り上がって帰っていった。 秘書? 美並が社長秘書?『そんなたいしたものじゃなくて、私が仕切れない事務作業と食事相手と話し相手ってところでいいから』 うふうふうふと楽しげに笑う元子の頭の中には、そうやって美並を振り回すことで真崎が苛立つのを面白がっているような気配もあって。「……やっぱり面倒な相手が多い……」 ぐったりしながらマンションに戻ってきて、鍵を開けて入り、違和感に気付いた。 空気が動いている。見下ろした三和土には見慣れない靴がある。明じゃない。「……?」 そろそろと部屋の中に入っていって、耳を澄ませると微かな寝息が聞こえてくる。 手前のリビングの電気をつけて、奥は付けないままで入っていくと、美並のベッドが盛り上がって上下していてどきりとする。「…課長……?」 **************** 今までの話は こちら
2025.11.14
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****************「おいしいです、が」「が?」 元子は笑みを深めた。 ひょっとしたら、答えを間違ったら料理は出て来ないのかもしれないな、と白いテーブルクロスを見つめながら美並は思う。待ち合わせ時刻よりも早く始まったこのやりとりは、つまりは元子が時間を費やすのに価するかどうか、一緒に食事をする価値がある相手かどうかの見極めなのかもしれない。 とすると、元子が行動に出てくる理由が一つ思いつく。 真崎京介という男は、元子にとってそれほど貴重な手駒だということだ。 女一人で人生を誤る男、潰れてしまう男は星の数ほどいるし、そんな男を元子はたくさん見てきているのだろう。 真崎を使えなくしてしまうような女では困る、そういう頭だということだ。 だからこその時間外、真崎抜きのこの会合。 きっと会議上で、真崎は彼らしくない不安定さを見せたのだ、美並のことで「やりあった」ときに。その真崎の変化に元子は警戒した。自分の有能な部下がまずい方向へ転がり落ちる危険性を感じた。 だからまず自分単独で美並を確かめることにしたに違いない。 とすると。「課長は知らないんですね?」 こちらも多少したたかにやるしかない、と踏む。「え?」 元子が僅かに眉を上げる。「今夜会うことは急に決められたことなんですね」「……気紛れにね」 うふ、と嬉しそうに元子は笑った。「真崎くんが急に綺麗になったもんだから」 グラスを取り上げ、いとしむようにじっくり中身を揺らせて眺めた。「これにそっくりな子だったのに」 村野さん、と元子は呼び掛けた。「あれを持ってきて」「かしこまりました」 村野がすぐに応じて、もう一つ、同じグラスによく似た色合いの酒を入れて持ってきた。「どうぞ」 村野が、料理は、と催促しないあたり、これはますます今夜の食事はここで食べられない可能性がでてきた、と美並は少し吐息をつく。できればコンビニにまともなものが残ってる時間に終えて欲しいな、ちらりと思ったのが伝わったのか、元子が顔を引き締めた。「なかなか、見かけ通りじゃないってことね、あなたも」「はい?」「たいした余裕よ」 微かに滲んだ悔しそうな気配、とっさに苦笑しかけるのを美並はかろうじて制した。 そんなもの。 酒の見極めなど、わからなければ美並が愚か、で済む話だ。万が一職を失ったとしても殺されるわけじゃない。真崎との仲を引き裂かれようが、真崎を死なせることにくらべれば傷みの内に入らない。 自分の手で大事な相手を殺す羽目になる状況を思えば、今のこのテーブルなど戯れ言だ。 ふいに、自分の中にも砕けたガラスがある、と感じた。 ただし、このガラスは人を傷つけるためのものじゃない。人を傷つけさせようとする見えない力に抵抗して、自分の命を消すためのものだ。そこまで踏み込む決意をした瞬間に、美並に未練があるわけがない、ためらいを持つわけもない。「頂きます」 味わえばいい、運ばれてきたものを、自分自身の舌で。そうして答えを出せばいい。その答えに後悔しなければ、それでいい。「…っ」 口にして驚いた。 いきなり広がった華やかな香りは鮮烈だ。視界を薔薇で覆われたような衝撃、しかもその余韻が緩やかに甘やかに変わっていく。 飲む、というより口にしみ込むようなその感覚に、唐突に重なったのは流通管理課でコーヒーカップから視線をあげてはにかんだ真崎の眼。甘えるように煽るように濡れた唇から舌を覗かせて誘う笑み。絡みつく視線は切ないほどに餓えている、満たされることをただ望んで。 誘惑と、懇願と。 声が掠れて囁く。 見て。 もっと、僕を。 全部、見て。 くらっと視界が揺れて、思わず瞬きした。「これは…」「……」 ごくり、と元子がその酒を容赦なく飲み下して、じっと美並を見つめた。「これは?」「さきほどのも食前酒には甘すぎると思いましたが、これは、無理です」「無理?」「………これは料理を、消してしまいそう」「似てるでしょう」 元子が満足そうに、今度はゆっくりと酒を舐めた。「鋭くて有能で、けれど中身はゼンマイ仕掛け、作りさえ知っていれば簡単だった。そこまで覗き込んで、構造さえ確認すれば怪我をすることもなく扱える」 にこやかに、けれど猛々しい冷酷さをたたえて笑う。「あそこが満たされるなんて不可能だと思ってたのよ。けれど、いつの間にか、あの子の中に何かが満たされて、発酵し密度をあげ、薫りを放って人を魅きつけるようになっていた」 始めのグラスを取り上げて、眺める。「今までは、見かけだけの綺麗さだったから、大抵は鮮やかだなと通りすがるだけで済んでいたのに、今のあの子は内側まで踏み込みたいと思わせてしまうのよね。底に隠された蜜を暴いて零させたい、と」 ちらりと美並を見た眼が冷えている。「本人はあなただけに開いているつもりなんだろうけれど、妙なちょっかいが増えているのも事実よ。そのうち牟田さんどころじゃないトラブルになるかもしれない」「ちょっかい?」「男女問わず誘われてるみたい。本人には自覚がないけれど」「男女……問わず…ですか」「あなた達、結婚するんでしょう?」「はい」「形だけでも早く済ませられない?」「は?」 ようやく元子が何を言いたいのかわかってきた。「えーと、それはつまり、課長を制御してほしい、ってことですか」「色気のない台詞ね」 元子はひょいと顔を上げて村野に料理を運ぶように命じた。「ウチは流通産業なのよ、商品を動かすのが商売、人を集めるバーじゃない」「はい」「好きな女を欲しがって、フェロモン垂れ流しにされても困るの。ホストは要らない」「……あの」 ふぅ、とうっとうしそうに溜め息をついた元子が、綺麗になったってからかわれてるのに、あなたに捨てられるのが怖いなんて言い出したのよ、あの男は、とぼやく。「あ~」 何とか元子のテストはパスしたらしい、と緩んだ相手の気配にほっとしながら、美並は居ない真崎に眉を寄せる。 あんたは一体、誰に何をぶちまけてるんだか。「えーと」 すみません、とやっぱりここは謝っておくべきなんだろうか。 考え込んでいると、元子がぼそりと唸る。「さっさとヤっちゃって、って頼んでるの、傍迷惑だから」 残った酒を含んでいた美並は危うく中身を吹き出しそうになった。 **************** 今までの話は こちら
2025.11.13
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**************** 『村野』の入り口でやはり村野自身に迎えられて、美並は曖昧に笑った。「あの」「はい」「先日のカフェプリン、おいしかったです」「ありがとうございます。お待ち合わせでしょうか」 尋ねられて少し困惑する。「まだ来られていませんか?」 この前の大石のように言い付けられて迎えたのではないのかと訝ると、村野が瞬きして戸惑った顔になる。「お姿が見えましたので」 答えた自分にはにかんだような柔らかな気配で笑みを浮かべ直した。「お席はいかがいたしましょう」「込み入った話ができる席がありますか?」「……ございます」 静かな瞳が問うように覗き込むのに微笑みを返す。「大丈夫、真崎さんじゃありません」「そうですか」 村野は小さく吐息をついて、そんな自分に驚いたようにまた瞬きした。「桜木通販の社長さん、桜木元子さんと食事するんですが」「ああ、それなら」 村野が頷いた。「もうお席におられます。御案内いたします」「ありがとうございます」 村野が先に立っていくと、奥の方から聞き覚えのある朗らかな声が響いた。「ああ、ごめんなさい、村野さん、お手間とらせたわね」 う。 思わず美並は固まる。 パールがかったショッキングピンクのスーツ、やや小太りで丸顔、ふっくらとした指には眩いほどのダイヤのリング、胸元にも大粒のダイヤのネックレスを飾って、艶やかに軽くまとめた栗色の髪を揺らしながら、中年女性が手を振っている。「こっちこっち、伊吹さん!」 店の中には半分以上の客が入っていて、数人が顔を上げて女性と伊吹を見比べ、面白そうに笑っていた。いろんな意味で人目を引く相手だ。 けれど、あれほど用心深い電話をしてくる人間が、自分の容姿が与える印象を無視しているわけがない。自分の言動がどう取られるか、わかっていないはずがない。 この派手な振る舞いも様相も、きっと全て計算のうちだ。 美並は気を引き締め直した。「遅くなりまして、申し訳ありません」 19時にはまだ10分ほどあったが、相手の手元に食前酒らしいグラスがあるのに、美並は頭を下げた。「ああ、これ? 今度扱おうかと思ってた商品の味見、そうよね、村野さん?」 美並の後ろにいた村野に向かって、おいしいわ、とグラスをあげてみせた。「さぁて、何を頼みましょうか」 上機嫌でメニューを開こうとする相手に、美並は席についてもう一度、頭を下げた。「すみません、まず自己紹介をさせて下さい」 ぴたりと元子が動きを止める。「伊吹美並です。今回の異動のことで御配慮頂いたと伺いました。ありがとうございます」「真崎くんが話したの?」「……」 黙って微笑み返す。本当は石塚が「会議で課長、あなたのことでやりあったらしいわよ」と教えてくれたのだが。そして、その情報源がおそらくは高山あたりからではないかというのは、何となく想像がつく。「この場は仕事だ、そういうこと?」 元子は美並の意図を的確に掴んだ。 どれほど時間外に別の場所で待ち合わせたからといって、プライベートなことについて触れるつもりはない、そういう枠をはっきりさせたのだ。 時々、こういう相手がいる。職場の外で気持ちを解していくように振るまいながら、その実、そこで手に入れた情報を職場に持ち込んでくる人間だ。 意識的に情報を集める相手ならいい。職場に持ち込んではならない情報、持ち込むべきでない情報もちゃんと理解し区別してくれる。最悪、それを悪用しようとする場合でも、自分の中にその区別があるから、ここから先は押してはまずいというポイントもはっきりしている。そこさえ掴めば、反撃もできる。 問題は無意識にそれをやることが習性の人間だ。 そういう人間は、職場外で距離を縮めたと感じるのを、そのまま確認もせずに職場に持ち込む。しかも、拒まれるとそのまままたプライベートの距離で受け取って、「自分の振るまい」が拒まれていると考えるのではなく「自分が」拒まれたと感じて、攻撃に転じてくる場合が多い。自分の「善意」をなぜ受け取らないのか、という怒りだ。 セクハラ、パワハラというのは、その最たるもので、自分の「役職」「性別」が相手にどのように認識されているかを確認しないで同等のつもりで距離を縮め、相手が「役職」「性別」に脅威を感じて抵抗できないのを好意と思い込むことから起こる。 元子はどちらの人間だろう。 アルバイトを転々としてきている分、そこはきちんと押さえておかないと、不利な状況で職を追われることになるのを、美並はよく知っている。「なるほど」 元子はグラスを持ち上げて、ゆっくり含んだ。鮮やかな濃いピンクに塗られた唇は、色は派手だがよく見るときちんと描かれ、押さえの色も重ねられていて、挑発的ではないとわかる。グラスに口紅の跡を残さないのも、相手が不愉快がる可能性を考えての化粧だ。「これと同じものを伊吹さんに」「はい」 命じられて村野がグラスを運んできた。 淡い黄金色の液体、滑らかに揺れる表面は食前酒には濃い印象、けれど、頂きます、と受け取って口にすると意外に舌触りは軽くて甘い。「どう?」 元子は楽しそうに指を組み、たぷっとした顎を乗せて微笑んだ。 豊満で溢れるような気配は、ある種の仏像に似ている。色欲を司る女性系の淫らな笑み、けれど、その奥には人間の業を呑み込み受け入れる慈母の器が見え隠れする。 男性ならば、この気配はきつい、と美並は思った。 呑み込まれ砕かれる甘美な破滅の感覚、大石相手ならば落ち着いた大人に見えた村野が、まるで少年のように感じ取れるほど怯んでいるのがわかる。 さっき、この酒を元子は『今度扱おうかと思ってた商品の味見』と言っていた。『思ってた』ということばから、これが既に元子の中ではリストから外されたことがわかる。おいしいわ、と村野に示してみせたことは、それが村野の勧めだったか、美並へのアピールだったのか、どちらかだ。村野の表情は背後にあったから読み取れない。けれど、この酒は元子の好みにあった、それははっきりしている。「おいしいでしょう?」 煽るように詰めるように元子は美並に重ねて尋ねた。顔は微笑んでいるけれど、眼は笑っていない。 まるで猛禽類のようだ、と美並は思った。 料理の出ていないテーブル、示された酒を元子はどう評価したか、それを読み取った上で美並はこの酒をどう評価するのか、テストされている。 なぜだろう。 美並はもう一口、酒を含みながら考えた。 なぜ、美並は元子に試されているのだろう、しかも真崎のいない状態で? **************** 今までの話は こちら
2025.11.12
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**************** こらこらここは会社だってば、おい。 外回りに出るという真崎を気遣ってマフラーを渡したのが刺激したのか。「課長、みなうちさまが打ち合わせに少し遅れます、とのことです。わたぎさまという方が代行説明されるそうです」「わかった、わたぎ、だね」 今にも美並に唇を押し付けてきそうな顔で揺らめいていた真崎が、石塚の声に我に返って身を起こした。「ありがとう。じゃ、いってきます」 自分でもまずかったと思ったのだろう、うっすら赤くなって部屋を飛び出していく。もちろん、片手には美並のマフラーをしっかり握って。「やれやれ」「すみません」 溜め息まじりの石塚に思わず美並は謝った。「別に伊吹さんが謝る筋合いじゃないでしょ」 それとも新手ののろけなの、と確認されて絶句する。そんなつもりなどなかったけれど、傍から見ればそうなのだろうかと思わず考え込むと、石塚はくすぐったそうな顔で笑った。「その様子だと本当みたいね」「はい?」「結婚するの」 式はいつ頃、年明けじゃないわけよね、夏ぐらい? 今から押さえても6月は無理かもしれないね、と自分のことのようにどこか勢い込んでことばを続ける石塚に、まだまだです、と苦笑する。「まだ高崎くんが来てないからいいようなもんだけど」 ちゃんと躾けておいた方がいいわよ。 石塚はキーボードを鳴らし始めながら突っ込んだ。「そうですね」「……そうですね、ときたか」「はい?」「いや、こっちの話だけど」 でも、あの課長がねえ。 小さな吐息をついて、目を細めた石塚は今度は笑っていない。「何です?」「絶対誰とも結婚しないと思ってたけど」 人当たりがいいから憧れるのはたくさん居たけど、大抵は門前払いっていうか。「それとなく、諦めちゃうのよね、自分には過ぎた相手だって」 そういうふうに持ち込むのがうまいというか。「さりげなく酷いやり方をしてみせるから」「?」「バレンタインの本命チョコレートなんか、おいしいのもらったから、って一気に周囲に撒くしねえ」「うわ」「それでもめげずに送り続ける相手には『注文』するし」「注文?」「あなたのチョコレート、凄くおいしいって喜んでました。今度作り方教えてくれる? ほら、喜ばせたいものでしょう、なんならあなたが作ってくれてもいいけど、なんてにっこり笑って頼んだりするの」「おいおい」 対象が誰とは口にしていないが、聞いた相手が想像するのは『付き合っている彼女』だろう、もちろん計算ずくの台詞のはずだ。「そのうち、何を思ったか牟田さんにアプローチしだして」 真崎が相子に近付いたのは親友の死の真相を探るため、それはさすがに事情通の石塚にも漏れていないらしい。「周囲は好き勝手なことを言ってたけど、マンションに出入りもしてたし、帰りも一緒だったりしたからねえ」 あ、これは言っちゃまずかったかしらね、と石塚が薄く笑って、美並は微かに揺れた気持ちを押し殺す。 帰りも一緒。そのことばは、朝も、のニュアンスを隠している。 真崎は相子との付き合いを詳しく話しはしないけれど、相子の話からすると、何度かきわどい状況までは行っていることになる。そのうえで相子は、抱けないと言ったんだろうな、とそこまで考えて、胸の底に苦いものが広がった。 今真崎のマンションには相子の居た気配は微塵もないけれど、その時には今の美並のように、身の回りのものを持ち込んでいたのだろうか。真崎が留守のときも部屋に居たようだから、きっと合鍵は持っていただろう。 真崎は美並にまだ合鍵を渡してくれていない。相子のことがあってから、特殊なものに変えたそうで、作るのに時間がかかるんだ、ごめんね、と謝ってくれていた。 望まない、そう思いながら、それでも微かに僅かに真崎の視界に居たいと望む自分がいるのに気付いている。 結婚、か、と小さく呟いた美並に、石塚はちょっと顔を強ばらせた。「ごめんなさい、何も聞いてなかった……?」「いえ、大体は聞いてますから」 笑い返して、美並もキーボードに向き直る。 圭吾と過ごした最後のクリスマスが脳裏を過った。 大きくて、鮮やかなクリスマスツリー。 一人で見るのは、辛いな。 苦く笑ったとたんに電話が鳴った。「はい、開発管理課、伊吹でございます」『ああ、早い対応ね』「は?」 電話の向こうの声は満足そうに笑った。『伊吹、美並さん?』「はい……あの、どちらさまでしょうか」『真崎くんは居る?』「申し訳ありません、真崎はただいま席を外しております」 名前を名乗らないが、真崎をくん付けにするあたり、伊吹には声の心あたりはないが、桜木通販のもっと上の役員か、もしくは外部かと忙しく頭を働かせた。メモを引き寄せ、時間を記入しながらことばを継ぐ。「御伝言を承りますが」『ああ、いいのよ、居ないなら好都合』 居ないなら好都合? 思わず眉を寄せた美並に、石塚が代わろうか、と合図してくる。首を振って声に集中する。『私が用があるのは伊吹さんだから』 でも、後で叱られちゃうなあ、と相手はくすくす笑う。 明るくてはっきりした声、隅々まで意識して伝えてくる話し方は、動きの早いトップかそれに近い地位を持つ人間特有のものだ。ひょっとして、と伊吹は注意深くボールペンを握り直した。「私に御用ですか」『そう、あなたに。今夜会えない?』 たぶん相手は故意に名前を伏せている。自分が何者か明らかにしないままで、美並がどう対応するか見定めている感じだ。「申し訳ありません。お名前を伺い損ねておりますので、お伺いしてもよろしいでしょうか」『あはは、そうね、まだ言ってなかったのよ』 笑い飛ばして流そうとするのに、微笑んで待つ。『なかなか丁寧だわ』「おそれいります」『真崎くんは話してないの?』 もう一度真崎の名前が出た。となると、この相手は真崎と何度か話しているばかりか、伊吹のことについても話し合っている可能性がある。真崎の上司で、伊吹のことについて話し合う必要があり、闊達な支配者の匂いを漂わせる女性は、と手早く手元の部署一覧を確認した。「伺っておりません」『で、どうなの、あなたは会ってくれるの、くれないの』「御用件をお伺いしてもよろしいですか」『いや、もう半分ぐらいは済みつつあるんだけどね』 あはははは、と相手はまた朗らかに笑った。 探し当てた名前は一つ、桜木通販の社長、桜木元子、その人だ。 用件が半分は済んだとは言うが、相手と伊吹はただ電話で話しているに過ぎない。しかもその大半はお互いの腹のさぐり合いのような状態、それで用件の半分が済んだというのだから、相手は美並の対応を知りたかったということになる。 もし元子だとしたら、他にどんな用事があるのだろう。 真崎は美並を開発管理課に残すように交渉したと言ったが、その手順に何か問題があったのだろうか。『名前を名乗ったら会ってくれる?』「はい」 美並は即答した。 相手が誰にせよ、かけてきている電話は真崎との関係を知っている。美並のフルネームを知っていて、職場の連絡先を知っている。それは、万が一別人であっても、或いは何かのトラブルだったとしても、この先何度か接触してくることを予想させる。今逃げ回っても意味がない。それよりは相手の意図を確認したほうがいい。「どちらへ伺えばよろしいでしょうか」『………ふぅん。思い切りもいいな。気に入ったわ』 相手は少し沈黙した後、静かな声になった。『私は桜木元子です。改めてお誘いするわ。今夜19時、「村野」で会いましょう』 真崎くんには内緒ね。笑う元子が、『村野』を選んだこと自体、明瞭な意志がある気がする。おそらくは後日真崎に漏れても構わない、むしろそれを狙っている、そう取れなくもない。「はい、伺います」 やっぱり組織は面倒な人間が多い、と美並は密かに溜め息をついた。 **************** 今までの話は こちら
2025.11.11
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****************「何か不備でも?」「いや、俺は満足です、凄く面白い。けれど、締め切りが過ぎてる」「10日ではなかったんですか?」「10日だったんですよ」 うんざりした顔で源内が唸った。「けれど、予想外に加わってくる企業が増えたんで、制しきれないとぶつぶつ言い出した人間がいて、急遽締め切りを早めたんです。7日で終了にするって」「……チラシの訂正は?」「今日してるはずです」 けど、全部には行き渡らないだろうなあ、と源内はうっとうしそうな声を出す。 たぶんそれであちこちに頭を下げて歩く羽目になっているのだろう、と京介は察した。が、察しはしてもここで引き下がるわけにはいかない。『ニット・キャンパス』の成功あってこその開発管理課、今は仮部局扱いになっているそれが滞ってしまえば、京介の立場もまずい。ひいては伊吹が他課に異動になるのは確実だろう。「実はさっきも一つお断りしてるところを回ってきていて。まあ、そこの相手も粘ってくれたから」 岩倉産業って御存じですか、そう尋ねられて、京介は一瞬口を噤んだ。「あそこの『Brechen』ってニット・シリーズをホールイベントのショーに使ってもらえないかっていう申し出だったんですが」「だめだ」 渡来がぽつりと呟いた。「何が」「つまらない」「それはお前の感覚だろ?」「困る」「………どういうことですか?」 渡来が譲らないのに京介が首を傾げると、源内は苦笑いした。「ハルはあれが嫌いなんですよ」「……どうして?」「デザインの押し付けだって」「デザインの、押し付け…」「まあ、言いたいことはわかるけど」 源内はとんとん、と指先でテーブルを叩く。「あの『Brechen』シリーズはいいと思うんです、俺はね」「嫌だ」「黙ってろって」 かっこいいでしょう? 使ってある糸も面白いし、色も綺麗だし、一つとして同じものがないというのもくすぐるでしょう? けどね。「同じじゃない」 渡来が眉を顰めた。「違う」「えーと…」「つまり、こいつの言いたいのはこういうことなんです」 源内はゆっくりとことばを重ねた。 人間はいつも同じじゃない。毎分毎秒変わっていく。一年ならばもっと変わる。だから、去年気に入って買った服、去年とても似合ってると思って用意した服でも、今年はもう着られなかったり、似合わなかったりする。 あの『Brechen』は完成されている。ニット帽とセーターの組み合わせにしても、単体にしても、とても完成されていて、それがぴったり着れる人間ならば問題はないし、他の誰も着ていないという優越感や特別感を楽しめる。 けれど、それがもし似合わなくなってしまったら? あるいはどれほど着たくても、そのままでは着られないとしたらどうする? 捨てるか? 諦めるか? 京介の頭の中に『Brechen』を着て街中を歩いたときのことが過る。若者向けのデザイン、新鮮で若々しくて、けれど、それに「似合わない自分」を意識せざるをえない者にとって、それは手に入らないものの象徴でしかなくなる。「完成度が高すぎて、あれを一番きっちり着ることができるのは、あれだけでぴったり似合う人間じゃないと、って気になってしまう。けれど、それじゃあ服じゃないだろう、こいつはそう言うんです。服というのは自分の表現であって、服に自分が表現されるのは間違っている、と」「全部だ」「ああ、わかってる、全部だよな?」 訂正を入れた渡来に源内が苦笑する。「表現は全てその人間個別のものであって、特別であることではない、それがこいつの理屈なんですよ」「つまり……『Brechen』は『専用』であって、『独自』ではない、と?」 ぴく、と渡来が体を震わせた。「さっき、この企画がいいと言ったでしょう?」 源内は京介の書類を広げた。「単純な黒のニット帽をどのように使うか、新鮮な感覚で提案してほしい、とある。これなら、誰でも何度でも自分の表現を試して探せる、提案された内容に刺激されて自分の新しい表現も見つけていける。そういう意味でこいつの理屈とぴったりなんです」「ああ……なるほど」「ゲンナイ」「なんだ」 渡来のことばを予想したのか、源内が溜め息をつく。「やりたい」「だから、今あっちを断ってる最中にだな」「させればいい」「増えちゃうだろうが」「マサキか」「そうだ」 渡来のことばに京介は心臓を握りしめられた気がした。「……まさき?」「ええ、そうです。偶然でしょうが、実はぶつぶつ言い出した人間っていうのは、この向田社会連絡協議会の連中で。その中に若手だけど力押しでくる一群が居ましてね、その中の一人が真崎大輔って言うんです」「……」 血の気が引いて、体が震えそうになるのを必死に堪える。「ゲンナイ」「言い出したら聞かないからなあ、お前は。……まあ、チラシ訂正間に合わなかったって言うことで、一度話してみますが」 どうだろうなあ。あの人、俺は苦手なんだよ、と源内が溜め息をついた。 足下が危うい。 車を運転しながら、いつの間にか携帯が鳴っていて、我に返って道路脇に寄せ、開いて画面を凝視する。 予想していたような気がする。「…はい」『ニット・キャンパス』 大輔の低い声がくつくつ笑いながら響いてきて、ぞくりと竦む背中に目を閉じ、唇を噛んだ。エンジンは止めたが、シートベルトは外さなかった。でないとこのまま、足下に開いた奈落に落ち込みそうだ。『運命ってやつか』「……参加は?」『俺の一存じゃなあ』 笑い声がねっとりと耳を侵してきて、携帯を投げ捨てたくなる。 伊吹さん。 助手席のマフラーを引き寄せて固く握りしめる。『いろいろ考えなくちゃならないし、手配しなくちゃならない。まあ、どうしても参加したいなら、口をきいてやってもいい』 いつがいい? 響く声に目を開いた。まだ昼を過ぎたばかりだろうに、周囲が暗くて体が震える。喉が乾いて口が開かない。『京介?』 無理にとは言わないが。まあ、そうなったら、いろいろ困るかもしれないな。会社としては? 楽しげに大輔は嗤った。『一度でいいんだぞ』 嘘だ。 恵子が何をしたのか考えれば、大輔がせっかくの機会をあっさり逃すわけもない。万が一、それこそメディアなどに残されたら。それをネタに脅されるだけではなく、伊吹にまで送りつけられたら。 伊吹、さん。 マフラーを痛む鳩尾に引き寄せ、目を閉じる。 それでも、このままでは『ニット・キャンパス』に参加できなくなるかもしれない。そうなれば、京介はいずれにしても伊吹を失ってしまう。『早めがいいな。今度の土曜日は? ちょうど懇親会で出向く……「ハイウィンド・リール」に』 505号室がいいか? 尋ねる声は嘲笑を満たしている。「……土曜日は、だめだ」 声が掠れた。 まだ僕は望んでいる、と霞んでくる意識に思う。 まだ伊吹と一緒に居られると、土曜日に彼女の実家に出かけると、そんな幻みたいな甘い夢にすがりつこうとしている。『せっかちだな、我慢しきれないか』 大輔が微かに唾を呑み込んだ。『じゃあ、金曜日だ。21時に「ハイウィンド・リール」のロビーにいろ』 慣れた部屋が空いてることを祈ってろよ。 ぷつり、と通話は切れた。 のろのろと目を見開いて携帯を閉じ、汚い物のように助手席に投げる。背もたれにもたれて、ぼうっと天井を見上げる。「金曜日…」 伊吹さん。「土曜日……無理かも…しれない…」 歪んだ視界が溶け落ちたのを、眼鏡を外して掌で拭いかけ、そのまま顔を覆った。「こんなところで……」 夢が、終わる。 噛み締めた唇に血の味がした。 **************** 今までの話は こちら
2025.11.10
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****************「いえ」 一瞬の戸惑いから立ち直ると、京介は笑みを浮かべて立ち上がり、差し出された相手の手を握った。「桜木通販の真崎京介です。お時間頂き、ありがとうございました」「真崎…?」 源内が奇妙な表情で顔をしかめる。「何か?」「あ、いや………珍しいが、全くない、というわけでもないか」 源内が軽く首を傾げながら、京介の手を握り返し、どうぞ、と改めて席をすすめる。それを合図にしたように、渡来が席を立った。「ゲンナイ。続き」 あ、ニ言になった。 しかもきっちり相手の返事を待っている気配に、渡来が源内へ向けている信頼を感じ取る。「ああ、わかった、俺がやる。そっちやっててくれていいぞ?」「うん」 渡来が頷き、畳の間へ上がって、散らばった色紙を眺めながらあちこち動かし始めた。時々、自分の膝や腹などに当て、視線を部屋の隅に向けるのを見ると、こじんまりとしているが全身映る姿見があるのを覗いている。「ああ…なるほど」 しばらくその動きを見ていて京介は気付いた。 渡来は色紙の組み合わせ方を確認していて、しかも白づくめの自分の服に合わせて鏡を見ることで、感覚を補正しているのだ。「ハルはオープンイベント担当だから」「?」「ここ。野外のオープンイベントは、来場者にタイルを渡して好きな色を塗ってもらって、それをあそこのコンクリート壁に張り付けていこうってやつなんですよ」 源内が笑いながら京介の前にミネラルウォーターのペットボトルを置き、好きにやって下さい、と言いながら、別の書類で屋台やホールなどの配置図を示した。「その場で?」「ああ」「でも……どんな色が集まるかわからないでしょう?」「ハルの手元にも多少白タイルを置いておくから、適当に足りない色は塗って足すらしい。塗る色はこっちで準備しておくから、まあ範囲は限られてくるけど」 それでも、数百枚にのぼるタイルを即興で一つの絵に仕上げていこうというのは、生半可なことじゃない、そう驚く京介に、源内はにやりと笑った。「あいつは天才だから」「天才…」「なんて言うのか、凄く精密で高度な計算能力を備えてて、そうだな、まあ、数万になるとわからないが、数千枚ぐらいの素材なら瞬間で数と色味を覚えとけるらしい」「ああ」 そう言えば、そういう特殊な才能を持っている人間が居るというTV番組を見たことがある、と京介も思い出す。「後、おおよその予測値も出せるんだそうです、人間が選ぶ色の傾向ってやつで」 源内は苦笑しながら、畳の間の渡来を示す。「だからああやって、大体の元絵は当たりをつけておくんだと」「凄いですねえ」「あたりまえ」 ぽつんと渡来が口を挟んだ。「当たり前じゃねえって、ハル」「できる」「お前はな」「できる」「いや、普通はできないって」「しないだけ」 ぎら、と鋭い目で渡来が振り返って源内を睨む。「ゲンナイも」「俺はできないの。……ああいうとこは頑固なんです。自分にできることは人にもできるって思ってるんで、時々あちこちとぶつかるんだ」 源内はさらっと流して書類を示した。「大体のところはわかりますか?」 慣れているやりとりなのだろう、渡来も気にした様子もなく、再び色紙選びに熱中する。「ホールイベント、オープンイベントはわかりました。このソーシャルイベントというのは?」」「さっきも言ったように、地域社会や世界と関わっていこうという『ニット』でもあるんで、各家庭で不要になったニットを集めて、必要なところへ送ろうという企画なんです」 源内は協賛団体の名前を示した。「向田市市役所、向田市教育委員会、PTA連合会、向田市社会連絡協議会…」 一瞬、何を思い出しかけたのか、不愉快そうな表情になったが、すぐに顔を和らげて、「そうそう、この『向田市くらしと世界を結ぶ会』っていうのは市民団体の一つで、地域のおばさん主体でいろんなことをやってるんだけど、そりゃまあエネルギッシュですよ」 文句は言うけど、よく動いてくれるし、と笑った後で、「口だけ出して、何もしないおっさん連中よりは頼りになるかな」 苦々しい口調で付け加えてから、真顔になった。「ところで、真崎さんは桜木通販として、『ニット・キャンパス』に参加したい、そうおっしゃってるんですよね」「ええ、そうです」 京介も作ってきた資料をテーブルに出す。興味深そうにそれを受け取った源内は素早く内容に目を走らせて、小さく溜め息をついた。「……いいですね」「参加させて頂けますか?」「面白いと思います。やってみたい学生も一杯いるだろうし……ハル?」「なに」「黒のニット帽、好きにデザインを加えていいって企画が来てる、いいよな?」「いい」「面白いものができたら、こちらで流通させてくれるって保証つき」 渡来がぴたりと動きを止めて、畳の間から降りてきた。源内の手元の資料を覗き込み、京介をまっすぐに見つめてくる。「いい」「ありがとう」「だが……だめだろうな」「え?」 源内の口から思わぬことばが零れて京介は眉を寄せた。 **************** 今までの話は こちら
2025.11.09
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**************** 『ニット・キャンパス』の企画本部は、駅からかなり山の方へ向かった高台の大辻美術専門学校に設置されている。地元に古くからある学校で、辻美と呼ばれて他の専門校とは一線を画しているけれど、規模も評価も羽須美芸術大学の足元にも及ばないのも確かだ。 なのに、そこに本部が設置されているのは、この『ニット・キャンパス』の発案者がその在校生、弱冠18歳の渡来晴だったからだ。 源内の代わりに説明をしてくれるというのは、おそらくその少年だろう、と京介はあたりをつけた。「さて、どんな人間か」 坂道を昇り切ったところで駐車場に回り込み、桜木通販の名前が入った車を降りれば、意外に広々とした敷地にぽつぽつと校舎が建っている。あちこちで点々と絵筆を握るもの、大きな石の塊を睨み付けているもの、長い布を幾重にも何かに巻きつけているものと、ここの生徒なのだろう、それぞれに創作に夢中になっていて、京介が運動場を横切っていってもたいして気に止めていない様子だ。 正面の古ぼけた木製の、けれど凝ったレリーフが施された押し戸を開けると右手には事務の受付、そこからひょいと覗いた女性ににっこり笑いかけながら名刺を差し出した。「お忙しいところ、申し訳ありません」「…あ」 一瞬ぽかんとした顔で京介を見上げた相手が、我に返って慌てて手元のノートを開く。「いらっしゃいませ、何の御用でしょうか」 明らかに慣れない口調で棒読みしたところを見ると、『ニット・キャンパス』がらみの客のために取急ぎ整えられたマニュアルなのだろう、ちらちらノートに目を落としてやや引きつり気味に笑った。「……江口さん、でしょうか」「あ、はい!」 どきっとした顔で大きく頷く。胸元の名札を見てとってのことなのだが、僅かに江口は赤くなった。「桜木通販の真崎京介、と申します。『ニット・キャンパス』のことで、渡来さんとお約束してまして」「新聞社の方ですか?」「あ、いえ」 うろたえた相手はばたばたと別のノートを確認し始める。「桜木通販、です」「あ、ああ、はい、聞いております、ちょっとお待ち下さい」 ぴんぽんぱんぽぉん、といささか調子の外れたチャイムが鳴った。『ニット・キャンパス、渡来くん、至急受付まで来て下さい、渡来…』「来てる」 ふいに真後ろで声が響き、京介は振り返って瞬きした。 上から下まで真っ白だ。白い長そでTシャツ、白いジーパン、白いデッキシューズ、肌もかなり白い、というかやや青いぐらいだ。髪と瞳が黒い。真っ黒で零れ落ちそうなほど大きな目でじっと京介を見て立っている。「ああ、渡来くん、この方が『ニット・キャンパス』について」「来て」 説明しかけた江口を軽く無視して渡来はくるりと背中を向けた。体の線は細いが脆い感じはしない。むしろ、京介がついてくるかどうかも確かめずにどんどん歩いていく動きには、傲岸不遜、唯我独尊、そういった不敵さがある。「ありがとうございました」「あ、いえ~」 相変わらず引きつった顔で頭を下げる江口に会釈を返して、京介は出しかけた名刺をポケットに片付け、急いで渡来の後を追う。 芸術家肌、そう言えばそうなのだろうけど、たぶん肩書きとか名刺とかは興味のない類だよね。 入ってきた入り口を再び抜けて運動場を通り抜けていく渡来は振り返ることもない。 やがて、校庭の隅にコンクリート二階建ての建物が見えてきた。正面からは少し入り込んでいてわからなかったが、良く見ると真緑のドアの横に『ニット・キャンパス本部』と書かれた紙が張り付けてある。墨汁で描いた跳ね飛ぶような文字だ。「へえ…」 勢いあるなあ、と思わずそれを眺めた京介に、渡来が初めてちら、と視線をよこした。「ゲンナイ」「え?」 一言言い捨てただけで、真緑のドアを開け、京介が入るのを待っている。「げんない? ……ああ、なるほど、これは源内さんが書いたんですね」 察して京介が、エネルギッシュですね、と笑うと、渡来は微かに頷いた。 中には、コンクリートの床に直に置かれたテーブルと折り畳み椅子が数脚、ホワイトボードと黒板を備えた会議室が一つ、その横に一段高くなって3畳ほどの畳の間がある。隅に布団が折り畳まれて積まれているから、寝泊まりできるようになっているのだろう。畳の間のはしっこに小さなレンジと流しの設備があって、畳の上には今掌サイズほどの色とりどりの紙が散らばっている。「折り紙?」「タイル」「は?」 京介が振り返っても渡来はそれ以上説明する気はなかったようだ。テーブルに数枚の書類を置き、椅子を引いて座り、促すように京介を見上げる。「説明して下さるんですね? ありがとうございます。お願いします」 京介は頷いて書類の前に腰を降ろした。何だか自分一人がしゃべっているみたいな気がするが、渡来にはいつものことなのだろう、淡々と書類を指先で示した。「申込書」「あ、はい」「内容説明」「えーと、はい」 『ニット・キャンパス概要』と書かれた書類に京介は素早く目を通す。 それによると、『ニット・キャンパス』はホールイベント、オープンイベント、屋台、ソーシャルイベントの四つで構成されていた。 ホールイベントは市役所裏の市民ホールで、舞台演出、服飾デザイン、身体表現などの舞台を中心として展開されるイベント。 オープンイベントは市役所横の公園で行われるイベント。同じ敷地で屋台も企画されるらしい。「ソーシャルイベント?」「世界」 京介が目を上げると、渡来はこくんと頷いた。 どうもこの少年は一度に一言しか話さない習性があるらしいな、と苦笑しながらことばを補ってみる。「えーと、社会的、世界に対して何か働きかけようっていうこと?」「……ああ、ま、そういうもんですよ、向田市の社会連絡協議会が関わってる」 がちゃん、と鉄扉が重い音をたてて開き、面倒くさそうな声が説明を付け加える。「それと、そこに書いてあると思うけど、向田市くらしと世界を結ぶ会、ってのも」「おかえり」「ハル、ちゃんと説明しろって言ったろ?」「した」 ハル、なるほどねえ、確かにこの子はコンピューターみたい。 思わず出がけに伊吹と交わした会話を思い出して微笑しながら振り返った京介は、また呆気に取られる。 今度は真っ黒だ。 黒い髪、黒いシャツ、黒いスラックス、黒い靴、黒いオールバック。まっすぐで太い眉の下には意志の強い瞳、だが今はぐったり疲れてへたっている。「遅れてすみません、源内頼起です」 源内は、のっそりと大きな手を差し出した。 **************** 今までの話は こちら
2025.11.08
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****************「じゃあ、行ってきます」 朝の会議を済ませた京介は昼近くなって席を立った。 『ニット・キャンパス』の締め切りが11月10日、今日は7日だからぎりぎりのところを何とか押し込むつもりだ。「いってらっしゃい」 声が二つ重なって、石塚はデータ入力でパソコンに目を据えたまま、伊吹がにこりと笑ってくれたのが嬉しくて、笑い返しながらついつい側に寄る。「伊吹さん、メール便は?」「もう少ししたら行きます」「今行かない?」「? 急ぎですか?」 きょとんと見上げてくる相手に思わず唇を尖らせた。 わかんないのかな、もう。誘ってるのに、と覗き込む。「外、寒そうだし」「そうですね」 今週に入って急に冷えてきましたよね、と伊吹は依然そっけない。「もっと冷えるかもしれないし」「大丈夫です、上着羽織っていきますから」「そうじゃなくて」 二人でそこまで一緒に行こう、って言ってるのに、と続けそうになって危うく制した。 伊吹の家に泊まって、昨日はついに鍵までもらって、それがもう嬉しくて嬉しくて仕方がない。少しでも離れていたくなくて、少しでも一緒に居たいけれど、仕事は容赦なく押し詰まってくるし、会社でべったりするわけにもいかないし、そういう僕の気持ちなんか全くわかってないんだよね、この人は、と睨みつけても、伊吹は平然としたもの、この書類処理が終わってからまとめて行きたいんですよね、とさらっと流されてがっかりする。 そんなことないと思うけど。 思うけどさ、ひょっとしたら、それほど伊吹さんは僕のこと気にしてないのかな、とか思うよね。 最近気が弛んでかっこ悪いところばかり見せてるからかな、と京介が思わず暗くなりかけた矢先、「あ」「何?」「課長こそ、それ一枚じゃ寒いですよ?」「ああ」 スーツ姿の自分を振仰いで眉を寄せた伊吹にちょっとほっとする。「すぐ車に乗るからいいよ」「運転できたんですか?」「一応ね」 免許は取ったけれど、車を持とうと思わなかったのは、このあたりでは電車の方が便利がよかったのと、今まで仕事以外にうろつくことなどなかったせいだ。 でも、と何かごそごそと俯いて鞄を探している伊吹を見下ろしながら考える。 伊吹さんを乗せてどこかへ行くのは楽しいかもしれない。 京介の頭の中に放置状態になっている通帳が浮かぶ。結婚のことも考えて、買えないことはないなと素早く計算する。 じゃあ伊吹さんと一緒に車を見に行こう。また楽しみなことが増えた。「あれ? あれ?」「何?」「んー、持ってきてたと思ったんだけど」「何を?」「使い捨てカイロ」 僕のために探してくれたんだ、とほんわり嬉しくなって微笑むと、仕方ないな、と伊吹が顔を上げた。「ありません。仕方ないから、はい」「はい?」 出されたのは濃い紺のカシミヤマフラー。「寒かったらこれ、どうぞ」「でも、伊吹さんは?」「そんなに遅くなります?」「あ、いや、帰社時間には戻るけど」「もし、遅くなったら」 伊吹がにこりと笑って小さな声で呟く。 家に持ってきてください?「あ……うん」 それって、今日も行っていいってこと、だよね? ひょっとして、また泊まってもいい、とか。 ごくん、と思わず唾を呑み込んでしまって、慌ててマフラーを受け取る。「あ、じゃあ、借りよう、かな」「どうぞ」「うん……」 ぎゅ、と握ると柔らかな甘い香りがする。それが側で眠る伊吹の体臭と同じだと気付いて、京介はなおさら相好を崩した。「はい、流通、じゃなかった、開発管理課、石塚でございます」 背後で鳴り出した電話に出た石塚が声を改めた。「申し訳ございません、真崎はただいま席を外しておりまして………あ、ええ、はい、そちらへ向かっている途中かと」「あ」 気をきかせてくれたらしい石塚に慌てて振り向いた。誰、と口の形で聞くと、「あ、はい、わかりました、申し伝えます、みなうち、さま、ですね」 軽く頷いて、ことさらはっきり相手の名前を発音してくれた。「みなうち?」 漢字が思いつかない風の伊吹に笑って、『ニット・キャンパス』の協賛企業の一つだよ、と説明する。「珍しい名前ですね?」「源、内側の内、でみなうちって読むんだって。みなうち、よりき」 源内頼起、と書かれた名刺を見せる。抽象的な模様の入った名刺には『企画・イベント 晴』との文字もある。「今回の『ニット・キャンパス』の発案は学生だけど、バックアップと企業側のまとめをやっているのがこの会社らしいよ」「はれ?」「はる」 有名なコンピューターの名前ですね、と伊吹が微笑んで、なるほど映画も伊吹の趣味の一つかと覚えておく。 じゃあ、映画にもまた一緒に出かけよう。 一つ一つこうして宝物みたいに伊吹が京介の中に満ちていく。 そうしていつか。 ずきりと傷んだ胸に思わず伊吹の手に触れた。問いかけるように見上げてくれた相手に京介は小さく笑う。 いつか。 苦しくて痛い過去も、伊吹の笑みや声や温もりにゆっくり埋められて消えていってくれるだろうか。「課長?」「………大丈夫」 引き寄せて、キスしたい。 ふらっと顔を寄せかけたとたん、背後から石塚の声が響いた。「課長、みなうちさまが打ち合わせに少し遅れます、とのことです。わたぎさまという方が代行説明されるそうです」「わかった、わたぎ、だね」 弾かれるように身体を起こす。「ありがとう。じゃ、いってきます」 さすがにちろりと冷たい視線を石塚に流されて、京介は慌てて部屋を飛び出した。 **************** 今までの話は こちら
2025.11.07
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**************** コーヒーの香りに誘われるように起きてきた伊吹は、明と京介が話し込んでいるのに嬉しそうに笑った。「いろいろ気になる部分はあるけど」 いいです、課長が楽しそうだから。 微笑まれて、胸が痛い。 トーストでも焼きましょうか、そう尋ねられたのを断って、一旦戻るからと明より先に部屋を出る京介を、伊吹は見送りに出てくれた。 早朝のことで、廊下には誰もまだ出ていない。 ぱたり、と閉まったドアから明は心得たように顔を出さない。別れの挨拶は一言、「京介、姉ちゃんの手を放すな」。「間に合いますか?」 シャツの替えぐらい、こっちにも必要かもしれないですね。 薄汚れた京介の格好を気にしてくれた伊吹と、そのことばの意味に微笑む。 これからも泊まりに来ていいってことだよね?「うん、大丈夫」 時間に焦りながら、聞きたかったことを確認した。「ねえ、伊吹さん」「はい?」 きょとんと見上げてくる瞳をじっと覗き込みながら、どんな変化も見逃すまいとことばを続ける。「あの、くま」「え?」「大石からプレゼントされた、くま」「……明ですね」 眉を寄せた伊吹に、無理に聞いたんだよ、彼を怒らないでね、と付け加えながら尋ねた。「部屋になかったけど?」「えーと、はい」 伊吹が一瞬照れたように視線を逸らせた。「大事に押し入れに隠してある?」 配慮はしてくれた、けれどやっぱりあれは大事なものなんでしょう。 少し拗ねてみたのは、ひょっとしてひょっとしたら、伊吹美並という人間に、自分がうんと釣り合わないのではないかと考えてしまったせい。「捨てました」「……は?」 一瞬、ぽかんとしてしまった。「……なんて顔してるんですか」「や、今なんて…」「くまでしょう?」「うん」「捨てました」「捨てた…?」 だって、あれは。 君が一番厳しい状況にも一緒に居たもので、君がそれを越えて頑張ろうとした象徴で。 口ごもりながら慌てて続けると、「明はどこまで話したんだ」 むっとしたように唇を尖らせた。 可愛い。 今の状況にも思考にも感情にも一切無縁で思ってしまった自分に呆れ返りながら、京介はなおも尋ねる。「それはいいから、くま、捨てたの?」「はい」「……どうして」 答えはきっとわかっている、けれど直接伊吹のことばで聞きたくて、京介はあえて首を傾げてみせる。「わかってるんじゃないですか」「わかってないよ」「想像通りですよ」「想像なんかしてない」「課長なら推測できるでしょう」「推測なんかじゃ、いやだ」 答えながら、自分の声が甘くなるのに気付いている。「教えて」「あのね」「教えて、美並」 体が勝手に伊吹を抱き寄せる。朝交わせなかったキスをそっと仕掛けて、眼を伏せて受け止めてくれる相手に有頂天になる。「僕のため?」「……」「ねえ、僕のため?」「……そうですよ」 ちゅ、と小さくキスを返された。同じ強さを伊吹の唇に返す。 もっと深くていいから、もう一度。 声にならない誘いは弾んだ息が伝えてくれる。 一瞬戸惑った顔で伊吹は京介を見上げて、両手で頬を挟んで近付けてくれる。「京介が、悲しむから、捨てました」「ん…っ」 口を開いて忍び込んでくる舌を受け入れたとたん、ごん、と衝撃が響いて目を開けると、あたた、と伊吹が後頭部を押さえて俯いていた。その向こうにうっすら赤くなった明の引きつり顔がドアの向こうから覗いている。「もう終わったかと思ったんだよ」 ふて腐れた声に京介は苦笑した。 **************** 今までの話は こちら
2025.11.06
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**************** 視界に何かがちらついて、京介は意識を取り戻す。「ん…」 ゆっくり開いた眼に最初に飛び込んできたのは、ベッドに眠っている伊吹の横顔。いつもの位置とは違っていて、何より腕の中にいなくて、ちょっと驚いたけれど、すぐに夕べのことを思い出した。 時計を確認して、一旦家に戻るためにはもう起きなくちゃいけない、そう思うのに、静かで穏やかな呼吸音は潮騒のように柔らかで規則正しくて、少しだけ、うっとり眼を閉じる。 楽しかったな。 確かにいろんな人間と食事をしたことも酒の席についたこともあるけれど、上機嫌でしゃべりまくる明とか、次々注ごうとするビールの缶を京介の手から奪おうとする伊吹とか、何より焼きそばを零して笑ったり、ビールを飲み干した後の泡を横殴りに手の甲で擦ったり、それでも口の周りに残っていて、伊吹に焼そばソースと一緒にティッシュで拭いてもらったりしている自分が信じられないほど軽くて楽で。 なんだろう、これ。 なんでこんなに僕、笑ってんの? 疑問符を浮かべて伊吹を見遣れば、もう止めましょう、ほら真っ赤、とか頬を突かれて、それが嬉しくてまた笑って。 何? 何? これは、何? 胸の中で小さな声が何度も何度も尋ねていた。 ネエ、コレハ、ナニ? シラナイヨ? こうして思い出しても、胸の中がどきどきではなく温かくなる。何だかたくさんいいものを注がれて、それで体中がほんわりと蒸し上がっているような感覚、うん、と思わず伸びをすると手足の先に触れた部屋の冷えた空気さえも体温を確認するためのもののように新鮮で。「生き返った、みたい」「…う~」 呟いたとたん、微かな唸り声がして、明がもぞもぞと身動きした。「明くん?」「い…て……」 体を起こして覗き込むと、相手はひどく不愉快そうな顔で瞬きして、のろのろと起き上がる。「頭いた……」「二日酔い?」 水持ってきてあげようか。 いつの間にか掛けてもらった布団をすり抜けると、後ろで恨めしそうな声が響く。「なに朝から元気なんだよ…」「何でだろうね」 くす、と京介は笑って、流しで近くにあったコップに水を入れる。はい、と振り向いて明に渡せば、さんきゅ、とまだうっとうしそうな顔で明が受け取ったコップの水を一気に飲み干す。「コーヒーでも淹れようか……インスタントしかないのかな」「うん。……たぶん、インスタントしかないと思う」「そうか」 それであれは京介のところへやってきたのか、と部屋に置いたままになっているミルクホイッパーを思い出した。それにまつわる記憶も思い出して、ちょっと切なくなって、それはひょっとしたら別の意味で元気になっている部分のせいかもしれないけれど、つい伊吹を振り返る。「もうちょっと寝かせといてやって」「うん……そうだね」「姉ちゃんがあれだけ笑ったり怒ったりしたの、久し振りに見た」「?」「ずっと、いろんなこと、抱えたままでいたから」 のそりと立ち上がった明が、顔洗ってくるね、と洗面所に消える。やかんで湯を沸かしながら、いろんなことっていうのは大石のことかな、と思ってまた切なくなって、気持ちよさそうに眠る伊吹を見下ろす。 いつもなら、おはよう、ってキスしてるんだけど、今日はだめだよね。 そう言えば、あのくま、どこに行ったんだろう、と部屋の中を見回した。 夕べも見つけられなかった。 京介が来ることなど、ましてや泊まることなど予定外だっただろうから、片付ける暇もなかったはずだが、それとなくあちこち探してみてもどこにもない。「押し入れとかに片付けてくれたのかな」 それはひょっとしたら京介のことを想ってかな、と嬉しくなって微笑むと、「何物欲しそうな顔してんの」「物欲しそう……」 明に突っ込まれて思わず憮然とした。「そんな顔してた?」「今にもいただきますって顔してる」「う」「今は諦めてくれ、俺が帰ったらいくらでもやっていいから」 おいおい、と思わず苦笑しながらコーヒーカップを探していると、これでいいんだよ、とカップを一つ、後は夕べの湯のみを洗って明が並べた。「一個しかないの?」「ここまで来て、コーヒーを呑ませるような関係のやつ、いなかったから」「でも、友達ぐらい」「…京介、姉ちゃんの能力のこと、知ってるんだろ?」 ぼそりと明が呟いて、口を噤んだ。「こんな近距離でずっと話してたりすると、何もかもわかっちゃう時があるんだってさ」 そんなのはどっちも嫌だよね、って笑ってたけど。「だからできる限り、あんまり人と関わらないようにして。仕事もあいつのことがあってから、一つのところに居ないようにして」「……そう」 ここへ戻ってくる道すがら、明から大石とのことを結構聞いた。知っていることもあれば、知らなかったこともあって、一番知らなかったことは、伊吹が大石のことで死のうかと思い詰めたこともあったらしいこと。『くまを抱えて姿消しちゃって。なんか嫌な感じがして探し回ったんだよ。そしたら、全然知らない家から出てくる姉ちゃんを見つけて』 その時伊吹はまっすぐに顔を上げて歩いていた。直前まで見た、消えそうな脆そうな気配はなかった。何があったのかと、その家の女主人に聞くと。『薮椿、ってのが落ちてたんだよ、庭の中に』 白地に紅、その光景で明が思い出したのは、昔聞いた伊吹の通い詰めていた寺の庭。『あそこにもそんなのがあった。そこのじいさんと仲良しになって、なんかいろいろ話してたみたい。でも、そのじいさん、胃ガンか何かで死んじゃったんだよね。……わかってたんだと思う、真っ青な顔してたから』 あきくん、私は、なんのために。『言いかけて止めたけど、後悔してたんじゃないかと思う、自分が何かできたはずだって』 それを聞いて京介の胸に落ちたのは、大石に助言をしたという伊吹の姿。そこまで好きだったのか、そこまで夢中だったのかと思っていたけれど、その実は、もう後悔なんかしたくない、そんな思いがあったのかもしれない。 でも、それは、うまくいかなかったってことだよね? 尋ねた京介に明が重く頷いて、高い月を見上げた。『うん』 美並のせいじゃ、ないのにな。 掠れた呟きが風に紛れる。 自分のせいで大石が自殺してしまったのだと思ったとき、伊吹はどれほど苦しんだだろう。 ずきずきしながら京介は思い出す。 自分の過去ばっかりに引っ掛かっていた京介は、その話をあんなに無理に引っぱり出して言わせてしまった。『じゃあ、そういうことをやったこともあるんだ?』『お金もらわなかったの』『幾らでも取れたんじゃないの』 馬鹿で無神経な台詞を並べてしまった。『…………失敗したから』『相手は納得しなかった。状況が悪化して、私のせいだと言われた。私は手を引いて……』『………相手は自殺した、らしいです』 最低だよね、僕。 知らなかったなんて言い訳だ。京介はあの時、伊吹の秘密を知って、伊吹の中に踏み込めて、わくわくしていた、楽しんでいた。同じような気持ちで伊吹が人の心の中を覗くのだと、どこかで安易に考えていた。 でも、違ったんだ。 見えるからこそ、相手の傷みもまともに抱えて、見えないからこそ、それをどこにも吐き出せなくて。 きっと京介のことも見えていた、だからこそ、話したくないといい、近付こうとしなかったのを、京介はしがみついて引き寄せた。 それでも、ちゃんと抱き締めてくれて。「僕じゃ…足りない…?」 初めて、迷った。 **************** 今までの話は こちら
2025.11.05
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**************** とるものもとりあえず、美並の実家にお邪魔した。急な来訪に夕飯の買い物に出掛けてくれ両親に代わり、迎えた明に七海の妊娠を告げられた。「赤ちゃん?!」 意外そうな声の、それでも嬉しそうに弾むはずの話題に、一瞬の戸惑いを感じ取って、京介はちらりと横目で伊吹を眺めた。明も同じように感じたのだろう、素早く京介に視線を投げて、微かに頷く。 いつもならこんな露骨なアイコンタクト、見逃すはずがない伊吹は忙しく瞬きしながら、明と奥へと視線を交互に投げている。「そう…そうなんだ……うん…あの……」「どうしたの、美並」 そこは身内の感覚、するりと明が伊吹の気持ちを確かめにかかる。「俺が悪い男すぎる?」「明ったら」 今後は本当にびっくりした顔で、伊吹は唇を尖らせた。「なあにそれ、課長が移ったみたい」 課長。 京介との間でも随分ご無沙汰だった、ましてや月曜日から『社長』になるはずの男に呼びかけるには、十分に不自然な呼称。誰だってわかる、今伊吹は故意に京介と距離を取った。「こぉら、美並」 明が苦笑いした。「今日、京介が何をしに来たと思ってんの」 本題は俺と七海のことじゃないだろ。 固まりかけた京介を解すようにやんわり責めてくれた。「婚姻届にサイン貰いに来てるのに、『課長』はないって」「…あ」 どきりとした。 伊吹が一瞬顔を強張らせて口を押さえた、それが計算ではないとわかったから。意識しての『課長』ならまだいい、無意識に『仕事上の関係』に戻したのが衝撃だ。「美並」 思わず手を握ってしまった。「ちょっと散歩したい」「え…あ…あの」「行っといで。父さん達には夫婦喧嘩の前哨戦だって伝えとくから」 溜息混じりに明が促す。「少なくとも」 ちらっと京介を見る。「京介にそんな顔させないようになったら戻ってきて」「…」 伊吹も急いで京介を見上げ、それで自分がどんな顔をしているのか気づいた。「あの…ごめん…なさい」「…行こうか」 手を握ったまま、入りかけた玄関を出て歩き出す。引っ張っている伊吹の気配が弱くて寂しい。 どうしてだろう。どうして美並は、今になって距離を取ろうとしてるんだろう。いざとなったら京介が面倒になったのか。目の前に現れた現実が重くて、それこそ、『赤』が絡んだ事件を追って走り回る方が楽しいと思い直したのだろうか。 謝られても困る。この手を離す気はないし、離すぐらいなら手首を切り落としてくれた方が諦められる。諦められる? まさかそんな。そんな人生に生きている意味なんかないじゃないか。「っ」 ぐるぐる考えていて、くいと握った手を引かれ立ち止まる。「?」「ごめんなさい」 振り返るともう一度謝られた。優しい瞳、穏やかな笑み、睨みつけると、作り物めいて綺麗な表情がゆらりと滲む。「謝ってなんてほしくない」「京介」「僕はただ、もうこの手はずっと離さないだけで」「うん」「それだけしか考えないし、それだけしか願わないし」「うん」「それしか真実じゃないし、それしか僕には残ってないし」「うん」「なのになぜ」 君は今にも消えそうな顔をして笑うんだ。「ごめんね」「だから謝ってほしく」「びっくりしちゃったの」「…何に」 真っ直ぐに見つめる伊吹の瞳に呑み込まれそうになって、思わず尋ねた。「私、京介との赤ちゃん、考えちゃった」 ぱす、と頭をスナイパーに撃ち抜かれたように思考が止まった。「ずっと子ども、って考えないようにしてたのに」 赤ちゃん、って聞いた時に、明と七海さんの赤ちゃんを考えずに、私と京介の赤ちゃんしか考えつかなくて。 恥ずかしそうに呟く伊吹の頬が、少しずつ薄赤く染まっていく。何て綺麗な淡い桜色、次第に濃く染まる桃色がかった紅色、掬い取り吸い取り味わいたい極上の甘さの果実の色だ。 ああ手なんて握るんじゃなかった。 考えつつ残った左手が勝手に伊吹の頬に添う。 いつもクールな物言いの伊吹が、少し舌足らずな口調になると、これほど可愛いなんて。 引き寄せて唇を含む。抵抗しない伊吹が、ゆっくりと応じてくれて、道の真ん中でキスを交わす、甘やかに蕩ける熱を渡し合って。「子どもを考えてくれた?」「うん。ずっと…考えないようにしてきて……私の力が移ったら怖くて」 でも。 触れたままの唇が小さく呟く。「力があっても、いいのかも知れない」「…美並」「京介みたいに…望んでくれる誰かが居るのかも知れない」 見開かれた瞳の深さに見入る。「そう思えて、二重にびっくりして」 いつもみたいに落ち着いた声音に戻っていくのを名残惜しく見送る。「もう一度、びっくりするよ」「え?」「その、望んでくれた誰かが、この先を一緒に生きるんですと言いに来るんだ、今日の僕みたいに」 世界中の宝物を手に入れた竜のように誇らしげな顔で。「…そうね…」 伊吹の瞳がなおも艶やかに溶けようとした矢先。「うぉっほおん! ごほんっ! ごほっがはっがはっがはっ!」「お父さん、大丈夫ですか、そんな無理矢理咳き込もうとするから、もう」 間近で派手にむせ込む声がして顔を上げると、顔を真っ赤にして体を折り曲げ咳き込む伊吹の父親がある。苦笑いしつつ夫の背中を摩る母親が、微妙な表情で付け加えた。「仲が良いのは嬉しいんだけど、もう少し人目も気にしてね」**************** 今までの話は こちら
2025.11.04
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****************「課長?」「あ、はい」 ぼうっと湯舟に浸っていた京介は我に返った。「もうすぐ御飯ですから、そろそろ出てきて下さい」「わかった……と」 急いで立ち上がろうとして、脚が不規則に痙攣し、倒れそうになって慌てて体を支えてシャンプーのボトルを倒す。「課長っ」「あ」 ばたんっ、と開いた扉に顔を上げる。湯気の向こうに伊吹の顔が浮かんでいて、それがみるみる赤くなっていくのがとんでもなく可愛くて、思わず見愡れた。「大丈夫ですか」「大丈夫」「のぼせたの?」「いや、久し振りに走り回ったから、脚が限界」 苦笑しながら手で脚を叩き、ああ、と頷きながら視線を降ろした伊吹が固まる。「っ」「伊吹さん?」「早く、上がって下さいっ」「あ、うん」 何なの、そんなに僕おかしな顔してたかな。 ぼんやりと考えて視線を降ろし、京介も固まる。 伊吹さんも入ってたお風呂なんだよね、僕じゃちょっと狭いけれど、伊吹さんならすっぽりここに入っちゃう、髪の毛濡れてたってことは、さっき入ったってこと、同じ場所で身体の隅々まで洗ってたってこと。 そんな妄想を暴走させてしまってたから、反応しかけた下半身は、さっき暴れかけたから余計に感度がよくて。「まず」 いきなりなもの見せちゃった、思いきり引くわけだ。 さすがにここでどうこうはできないから、なるべく気持ちを逸らせて何とかおさめて出ていくと、小さなテーブルには様々な種類の食器と大皿の焼そば。「お先~」 明がビールのコップをあげて笑い、あんたのはそこね、と示された。「あ、僕、お酒はちょっと」「飲めないの? ひどいなあ、義理の弟が選んだビールなのに」「義理の…っ」 ぎょっとした顔の伊吹にちょっと傷つきながら、京介もジャージに着替えた姿で座る。「何、どうしたの、明……何があったんですか、課長」「あ…うん」 大体明と会うなんて言ってなかったじゃないですか。 伊吹に睨まれて、少しうろたえてビールのコップを掴んだ。全く飲めないわけじゃないし、と一口含むと、冷えた感触が予想外においしくて、思わずごくごく飲み干してしまう。「おお~、一気!」「……おいし…」「大丈夫? って、こら、もう注いじゃだめ、明!」「や、だって、旨そうに呑むんだもん、ねえ、京介」「京介? 呼び捨て? いつのまに?」「あ、ありがとう」「こら!」 きょとんとする伊吹が、注がれたビールをまた掴もうとした京介を制した。「駄目です、ちゃんと御飯食べてから」「大丈夫、だよ」「お酒全然弱いんでしょ?」「うん、全然弱い」「あ、ほんと、もう赤くなってきてるし~~」 かーわいい、と明がけらけら笑って、伊吹が眉を寄せた。「あんたも弱いくせに」「うちで強いの姉ちゃんだけじゃん~」「はいはい、黙れ酔っぱらい」 制された明の側にはもう空いた缶が転がり始めている。「伊吹さん、強いの?」「普通です、って、こら、何次注ごうとしてるか!」「焼そば食べたよ、凄くおいしい」「あ、嬉しいなあ、俺、料理趣味なんだ」 にちゃ、と明が笑った。まっすぐ向けられる笑顔にほっとする。「趣味なの?」「七海も喜んでくれるんだよ、俺の飯は天下一品って!」「わかるな~、おいしいよ~~」 ななみ、って誰だろう、そう思ったけれど、それはどうでもいい気もして、こんなこと初めてだ、と京介は密かに驚く。 周囲のことを把握し切れなくても気にならないなんて。 お茶もいれときますね、と別のコップも差し出してくれた伊吹に、また気持ちが緩む。 明の作った焼そばを食べ、気持ち良くビールを呑む。どうしたの、そう何度か聞く伊吹に、大丈夫、と首を振って笑い、それがおかしな対応だとなじられる。世界がどんどんふわふわと軽くなっていき、体が温かくなる。 しばらくそうやって笑いあいしゃべりながら食べて呑んで、やがて明が空になった大皿の側で寝転んで鼾をかきだした。「明? もう、弱いくせに、機嫌よくなると止まらないんだから」 苦笑しながら伊吹が寝転んだ明に布団をかけるのを見ながら、京介も何だかずっと伊吹とこうやって暮らしていた気がしてきた。酔いも手伝っているのか、嬉しくてにこにこ笑っていると、ようやく、伊吹がそっと寄り添ってくれる。「京介?」「はい~」「何があったの?」「いっぱい~、でも、僕」 頑張ったんだよ~、いっぱいがんばったの、だからねえ、伊吹さん。 くっついて、頭を擦り寄せて、ねだる。「キスして~」「京介」「御褒美~ねえ~キス~」「あのね」 柔らかな色の唇がすぐそこにある。奪えばいいけど、今は伊吹から与えてほしい。なのに、伊吹がなかなかくれない。 くふん、と鼻を鳴らしてしまった。「伊吹さん、僕のこと嫌いなんだ~」「はいい?」「嫌いなんだ~悲しい~僕頑張ったのに悲しい~」 繰り返している間に本当に悲しくなって涙が溢れてくるままにしがみつく。「伊吹さぁん、僕のこと好き~?」 好きだって言ってよ、嫌いにならないでよ、死んじゃうから、抱き締めてよ、一人にしないでよ、そう繰り返していると、そっと顔を上げられて唇を塞がれる。「ん…」「静かにしましょうね?」 優しく低く叱られて、また嬉しくなる。「もう夜遅いから」「泊まっていい?」「何を今さら」「キスして?」 首を傾げてみせる。う、と伊吹が微かに唸って眉を寄せ、確信犯かよ、と呟いて続けた。「そうしたらもう寝る?」「京介って呼んで?」「……京介」 柔らかく呼ばれて、もう一度キスしてもらって、ちょっとだけ舌も舐めてもらって。「おやすみなさい」 髪を撫でられながら、京介は満足して眠りに落ちた。**************** 今までの話は こちら
2025.11.04
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**************** さんざんぶっ飛んだ発想であれやこれやと騒いで呑んで、明がまず一番に潰れて寝転がる。そのまますぐに鼾をかきだして、ようやく大人しくなったか、と溜め息をついて美並は布団をかけてやった。 やっぱりどこか、真崎のことを抱え込んでたのかもしれない。 余りにも危うい真崎を見せつけられて、それをどうしてやったらいいのかと、明なりに悩んだのかもしれない。「もう、弱いくせに、機嫌よくなると止まらないんだから」 口ではそっけなく言いながら、明は明で心配してくれたのだ、と思う。 ふと、真崎を見遣ると、ビールのコップを置いてじっとこちらを見ている。 さっきの「高崎」というのが誰だったのか、まだぴんとこないけれど、真崎も何か心配の種を抱えて、それで一気に弾けてしまったのかもしれない。急に静かになったのは、美並が行くのを待っているのかな、と思ってそっと側に近付くと、ほっとした顔でしなだれかかってきた。 温かい、というよりは、熱っぽい身体を押し付けられて、僅かに速い呼吸が喘ぐようにも聞こえて、どきどきする。「京介?」「はい~」「何があったの?」 一瞬僅かな間があった。 ふわりと見開いた眼鏡の奥の瞳はまだ潤んでいるけれどひどく透明、それを慌てて隠すように閉じてしまった睫の影が柔らかい。「いっぱい~、でも、僕~~頑張ったんだよ~」 いっぱいがんばったの、だからねえ、伊吹さん~。 掠れた声で繰り返しながら、両手を上げて肩にしがみついてすりすりと頭を肩に擦り付けてきた。「キスして~」「京介」「御褒美~ねえ~キス~」 甘えてきた表情はどこか切なそうで、今にも蕩けそうだ。 一瞬こんなふうに明にのしかかっていたのかと思ってしまい、固まった気配に相手はすぐに気付いた。少し身体を起こして眼鏡を外し、顔を寄せてキスを誘うように覗き込んでくるが、美並がなおも動かないのに見る見る不安そうに顔を歪める。 眉を寄せ、瞳をもっと潤ませて強く抱きついてきながら、半泣きの声で訴えてくる。「伊吹さん、僕のこと嫌いなんだ~」「はいい?」「嫌いなんだ~悲しい~僕頑張ったのに悲しい~」 濡れた声がなじる。肩が湿って、首筋が濡れた。くふん、くふん、と小さく鼻を鳴らしながらくっついてくるのが、まるで小さな男の子のようなのに、美並の膝を跨ぐようにくっついてくる、その膝の先に触れているものが次第に固く主張してくる。 京介、と呼び掛けたことばが聞こえなかったように、「伊吹さぁん、僕のこと好き~?」 ぎゅう、と押し付けながら身体を震わせ、感触に堪え切れなくなったようにゆっくり揺すぶってきた。頼りない幼い口調、けれど張り詰めてきている部分はもうほとんど臨戦状態で、状況とことばの落差に美並はくらくらする。 誘惑されてる。 こんなに好きだって体中で訴えられて、答えないなんてできやしない。 それでも動かない美並に、自分で煽られてしまったのだろう、「好きだって言ってよ~~嫌いにならないでよ~~死んじゃうから~~抱き締めてよ~~~一人にしないでよ~~」 微かに喘ぎながら切ない声で掻き口説かれて、何だか聞いていられなくなって、顔を上げさせて唇を塞いだ。「ん…」 ほっとしたように真崎が吐息をつく。 早急に忍び込もうとする舌を舐めて、そっと離す。 問いかけるようにうっすらと目を開けた相手に、「静かにしましょうね?」 言い聞かせると、嬉しそうに眼を細めて見つめてくる。「泊まっていい?」 熱に熟れた声で呟いた。少し顔を離して、もっと、と息で囁いて。「キスして?」 濡れた眼でぺろん、と唇を舐めてきた。「う」 凶悪だ。 人の克己心を粉々にする術を知っている。「確信犯かよ」 性質が悪い。「そうしたらもう寝る?」「京介って呼んで?」 ちょん、と首を傾げてはにかんでみせられた。 負けました~~。 美並の頭が白旗を掲げる。「京介」(中略) やばい。 まずい。 美並の頭の中で、灯ったのは赤い炎。 それはきっと大輔の、恵子の頭の中も染めた色だ、と気付いた。 押し流されるな。 踏み留まれ。 欲しがってくる舌をまたちょっと舐めて押し返す。 だめだ、今こんな状態で入っていい部分じゃない。 それに、いくらなんでも、もう寝させなくちゃいけない。何より美並も明日仕事だ。 蕩けた真崎の視線にそっと言い聞かせる。「おやすみなさい」 やだ、と小さくごねても、真崎は限界だった。 髪を撫でてやると、そのままずるずるカーペットに崩れて、それほど待つまでもなく真崎は眠り込んだ。 **************** 今までの話は こちら
2025.11.03
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**************** 「……ユーノ」 血の気が引く思いでアシャとギヌアのやり取りを見ていたユーノは、背後からの声に瞬きした。振り向くとシートスが厳しい顔でこちらを見つめている。「どういうことだ」「…」 ちらりとアシャを見たが、相手は止める様子もない。ことここに至っては、何を隠す意味もないということだろう。「…詳しくは省きますが」 何をどこまで説明しても、納得などできないだろう。小さく吐息し、ユーノは続ける。「『運命(リマイン)』は、昔、ラズーンが支配力を保つために作り出したものです。『氷の双宮』で生み出され、ラズーンに歯向かうものを粛清すべく、世界に配置されていました」 ぐ、と何かを問いたげに開こうとした口を、シートスが堪える。「…それがある日、世界の覇権を望んでラズーンに牙を剥いた………けれど、彼らは、『人』と違って自分達で次世代は作れない。『氷の双宮』で生み出されることでしか数が増えない………勝利を願うなら『氷の双宮』を手に入れる必要がありました」 シートスの顎の線が一層強張る。ユカルが先に口を挟む。「…だから、奴らはラズーンに宙道(シノイ)を繋ぎ、入り込んで時期を伺っていたのか」「……たぶん」 ともすれば、自分も疲労感に呑み込まれそうになりながら、ユーノは続けた。「外側からラズーンを諸国軍で叩き、その隙に内側から『氷の双宮』へ侵入する。表向きはギヌアを王とすれば、『運命(リマイン)』は『人』と入れ替わって世界を支配することができる、けれど…」 恐らくは、『氷の双宮』への籠城が成功した時点で、『人』の勝利は定まったのだ。 ただ、万が一、圧倒的な数で押し切られ、『氷の双宮』が奪還されれば、形勢は逆転する。新たな軍が生み出され、時には太古生物さえ作られて戦乱に投入されたかも知れない。 またあるいは、あまりにも戦乱が広げられて、世界各地で『人』が大幅に減少してしまうような状態になれば、身体能力が高く『人』に乗り移れる『運命(リマイン)』が、世界規模で優勢になる。『人』は少しずつ数を減らされ、『運命(リマイン)』支配下(ロダ)が増え、遅かれ早かれ、世界は『運命(リマイン)』のものとなっただろう。 勝てる道筋は非常に少なく、間違いは許されなかった。『氷の双宮』を封じ、各地に散っている『運命(リマイン)』軍をできるだけ引き寄せ、集めて一掃する必要があった。新たな『運命(リマイン)』を加えられない状況で、今動き回っている『運命(リマイン)』の数さえ減らせば、『人』の勝利は確定する。 そのためには。 ぎりっとシートスの奥歯が鳴った。「『人』は…また、生まれる、から、『運命(リマイン)』を、できるだけ、減らすための、囮として、戦線を、展開、した、のか」 苦しげに吐き捨てるように唸る。「集めた『運命(リマイン)』を、アシャが焼き尽くせば、『氷の双宮』を奪えない『運命(リマイン)』に勝機はない、数が、足りなくなる」「……そういうこと、です」 答えながら、ユーノは泣きそうになる。 多くの友人を失った。多くの絆が立ち切られた。『氷の双宮』さえ守り抜けば勝利すると、教えてくれれば、もっと苦しさが減っただろうか、悲しみが和らいだだろうか。 けれどまた、ラズーンが今にも落ちそうな、それを必死で堪えるような、全力の抵抗があったからこそ、『運命(リマイン)』は勝利を確信して全軍で乗り込んできて、待ち構えていたアシャに一掃された。もっと早くアシャが前線に出ていたら、ギヌアもシリオンも兵を温存し、今回よりもっと大規模な『人』に紛れて『氷の双宮』に入り込み、知らぬ間に『人』は追い詰められて消えていたのかも知れない。「主戦力を失い、『氷の双宮』を奪われ、世界に散っている『運命(リマイン)』をアシャが掃討すれば………『運命(リマイン)』は世界から消えていく」 ユーノは深く息を吐いた。「ラズーンの、勝利です」「……」 シートスがきつく唇を噛む。持って行き場のない怒りに拳を握りしめて俯く。「……勝利…って」 背中でユカルが低く呟く。「こんなものを…勝利って、呼ぶのか…?」 では、何を持って勝利とするのか。 ユーノの胸に問いが詰まる。 生き延びて、明日もまたこの世界で目覚めたい、それを望んでいたのではなかったのか。 脳裏を過ぎる、東の焼け野原、倒れていった平原竜(タロ)の声、これで終わりだと何度も覚悟して握った剣の重さ。 何を持って、正しかったと安堵できるのか。 地面を叩きながら何かを罵り続けているギヌア、それを見つめていたアシャが、ゆっくりと背中を向けた。歩き出す、だがそのまま無抵抗に前のめりに倒れていく。風に髪が煽られ、至上の美貌と評された顔の額から右頬が、赤く焼け爛れているのが見えた。「っ、アシャ!」 思わず駆け寄ったユーノの手を振り払おうとしてままならず、体を保つことさえできず、アシャは目を閉じ、意識を失う。 あれだけの攻撃をどうやって繰り出していたのか、どんな力を蓄えていたのか。今はひんやりと冷えた上半身を抱え上げると、見えている以上に全身傷だらけになっているのがわかった。むしろ今まで動けていた方が不思議なほどだ。「アシャ…」「……寄越せ」 ぐい、とシートスが手を出し、アシャを引きずるように担ぎ上げた。「ギヌアはユカル、お前が連れて行け。ユーノ、お前はこっちだ、アシャを抱えてろ」 『人』なら手当が必要だ。 突き放すように呟いて歩き出すシートスに、ユーノは慌てて従った。**************** 今までの話はこちら。
2025.11.02
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**************** 一瞬黙った美並に、おお、そうだ、と唐突に明が京介を振り向く。「さっき美並が京介のメイド服姿は可愛いだろうなあって言ってたぞ~」「、言ってませんっ」「えー、僕、スカート持ってない~」 唇を尖らせて真崎が拗ねる。「持ってなくていい」「やだ、伊吹さんに似合うって言ってほしい~」 こ~らぁ、あんたは一体何を求めてるのか、と突っ込みかけた美並を遮り、明が目をきらきらさせて提案する。「あ、なら美並に買ってもらえば、メイド服セット一式」「おい」 慌てて止めたが真崎が真剣な顔になる。「セットってどんなの~、伊吹さん~」「あのなー、確か真っ白なエプロンとぉ、真っ黒なワンピとぉ、真っ白なレースカチューシャとぉ、真っ白なエプロンとぉ」「知らなくていいから」 指を折って数え出した明の無限ループを断ち切って真崎に言い聞かせる。「いいですか、ごつい男がメイド服着ても引くだけですよ?」「可愛いだろうなあって言ったって~」「言ってないです」「言ったって~」「言ってない」「僕、伊吹さんに可愛いって言ってほし~」 可愛いです、そのままで十分。 一瞬まともにそう答えそうになって慌てて美並は口を噤む。「あ、そーだ!」 明が大きな声を上げる。「真っ白なガーターベルト!」「違うっっ!」「えー、あれ、きつそうだよね~」「あんたもまともに考えるんじゃないっ!」「だって~」 真崎が不安そうに眼を潤ませる。「伊吹さん、可愛いほうが好きなんでしょ~」「はい?」「僕なんかもーおっさんなんでしょ~」「あの~」「わはは、おっさんおっさん」 明が余計な茶々を入れる。「俺より六つもおっさん!」「やっぱり~」「明っっ」「じゃあ、やっぱり可愛くないと~」「間違ってますっ」「でないと、伊吹さん高崎くんに持ってかれちゃう~」「は?」 高崎? 思わぬ名前が飛び出して美並はきょとんとする。「高崎って、だれ?」「誰って誰~」「や、聞いてるのはこっちでしょ?」「伊吹さんごまかす気なんだ~」「おーい」 くすん、と世にも悲しそうな顔になって真崎が鼻を啜り、上目遣いに見つめてきた。「だから、高崎って誰?」「名前覚えてるんだ~」「いや、今課長が言ったから」「課長? やっぱり僕は課長でしかないんだ~」「あー、」「あ、そうだ、ねえ、京介、メイドセットは無理でも、フリルエプロンならすぐに買えるんじゃない?」「ふりるえぷろん?」「明っ」 あんたは何をけしかけて、そう美並が叫ぶ前に、真崎がほんわりと笑う。「あ、じゃあ今年の忘年会はそれで行こうかな~僕」「行かんでいいっっ!」 けらけら笑う明と脳みその隅々まで酔ったような真崎のやりとりに、むきにならなくていいと思ったのに、なんか本当にやりそうで、しかもそれを可愛いと思ってしまいそうな自分に呆れた。 いつのまに。 どこまで深く。 こんな危なっかしいのに魅かれてしまったんだろう。「もうっ」 居直って美並も温くなったビールを一気に開けた。 **************** 今までの話は こちら
2025.11.02
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****************「…なぜだ…」 ことばもなく相手を見上げていたギヌアが、堪え切れないように呻いた。「なぜ、そんな力を持っている…」 アシャは答えない。「そんな力を持っているなら…なぜ、もっと早く、使わなかった…」 背後に振動を感じた。肩越しに見やると、黒く焦げた敵兵を踏み潰して、ユカルとシートスが駆けつけている。ユーノの背後で平原竜(タロ)を降り、対峙するギヌアとアシャを無言で見守る。 四大公は力を失い、ラズーンは崩壊し、野戦部隊(シーガリオン)はほぼ全滅した。 それほどの力を、なぜもっと早く、使わなかった。 ギヌアの問いはシートス達の問いでもあっただろう。「……なぜ…もっと早く……『運命(リマイン)』を…潰さなかった……!」 ギヌアの声は悲痛だった。「不可能だ」 淡々とアシャが応じた。「そんなことはない、それだけの力があれば…っ」「『運命(リマイン)』は全世界に散っている。拠点を探し出し、虱潰しに潰したところで意味はない」 静かな声で理を説く。 かつて世界を闇から支えた力だ、確かにすぐに一掃するのは難しかっただろう。「だが……だが……『ラズーン』として正面からぶつかったところで、どちらが勝つかわからなかったはずだ…っ」 ギヌアが必死に訴える。 事実、アシャが黄金の奔流を放つまで、『運命(リマイン)』は勝機を掴んでいた。「例え、『氷の双宮』に立てこもって戦っても、お前さえいなければ十分に勝てた…! いや、今でも『運命(リマイン)』はまだ、世界に散っている。諸国から掻き集めれば…っ!」「今なら勝てる、と思ったのだろう?」 優しいほど静かな口調でアシャが尋ねた。「四大公を失い、野戦部隊(シーガリオン)を失い、兵力を失ったラズーンを、今なら潰せると軍を集めた。この戦いで勝てなくとも、『運命(リマイン)』は『人』にすり替わり、操ることもできる。減った軍勢は『人』で補える。そう過信して、多くの『運命(リマイン)』を集めただろう?」「しかし、それでも、まだ…っ」 髪の毛を振り乱して反論するギヌアが、聞き分けのない幼い子どもであるかのように、アシャは少し微笑んだ。「もう、足りない」「…え?」 何を言われたかわからない、そんな顔でギヌアが瞬く。「俺はこの後、世界を回る。手当たり次第に『運命(リマイン)』を減らすのだから」「…?」 ふいに悪寒に襲われて、ユーノは身震いした。「ユーノ? どうした?」「いや、今、何か」 とんでもないことを聞いたような。 ユカルの声に、不自然に震える自分の体をそっと抱く。 『運命(リマイン)』を減らす。 アシャのことばが頭の中に繰り返される。 『減らす』? 『殺す』ではなく? なぜ、『減らす』ことが『運命(リマイン)』の敗北条件になる?「まさか…」 思いついた戦略はユーノの体から力を奪う。「とっくに、勝敗はついていた、のか…?」 座り込みたくなる脱力感を必死に堪えて、話し続けるアシャとギヌアを見る。 信じたくない、見たくない真実が今、暴かれようとしている。 ギヌアが掠れた声を上げる。「そんなもの…っ、お前がいない場所で、『運命(リマイン)』はまた再び力を取り戻し」「無理だ」 アシャは一言で応じた。戸惑うギヌアを憐れんだように付け加える。「『運命(リマイン)』は性別がなく、子を為せない」「………は…?」「『氷の双宮』でしか生まれない」 ユーノの頭で目まぐるしく光景が切り替わる。ガラスの筒の中の不思議な生物。滅亡が予定された世界で、命を紡ぐべく作られた装置。「何の…話……」 問いかけるギヌアの顔は蒼白だった。質問とは逆に、第二正統後継者であったのだから、アシャが何を話しているかはわかったのだろう。アシャは躊躇うことなくことばを続ける。「『氷の双宮』は再生を止めた」「……」「もう何も生み出せはしない」「……ばか、な……」 そんなことをすれば、いずれ『人』も。「まさか…」 言いかけたギヌアが目を見開く。アシャが肯定するようにゆっくりと頷く。「もう、『正しい形』でなくても良いのだ」「……」 ギヌアは零れ落ちそうなほど開いた瞳でアシャを見上げる。「…『人』は既に世代を重ねている。『氷の双宮』に退避した『人』は、次の世代を繋ぐのに十分な数が揃っている……もう『氷の双宮』を必要としない」 あの場所を必要としたのは、『運命(リマイン)』だけだったのだ。「あ……あ……あ」 冷徹な声音に、ギヌアが崩れるように両手をついた。「ラズーンを……放棄した……? なぜ……なぜ絶対の……優位を……安全を……」「『氷の双宮』は遠からず破壊される」 アシャはなおも穏やかな口調で続けた。「もう、何人も、世界の未来に、手を伸ばすことは許されない」「ああ……ああ……あああああ!」 ギヌアが慟哭する。「バカな……そんな、馬鹿な……!」 がさり、と『運命(リマイン)』であったものが、風に崩れる。 **************** 今までの話はこちら。
2025.11.01
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****************「お先~……あんたのはそこね」 たぶん、出てきた真崎に美並の考えたものを重ねたのだろう、くつくつ笑いながら明が促す。「あ、僕、お酒はちょっと」 真崎が戸惑った顔で眼鏡を直しながらジャージ姿で座った。「飲めないの? ひどいなあ、義理の弟が選んだビールなのに」「義理の…っ。何、どうしたの、明」 十分テンションが高い明がなお不気味なことを言い出さないかと美並は焦った。それに、それよりも、そんなことがあったなら真崎の気持ちが心配だとそっと水を向けてみる。「何があったんですか、課長」「あ…うん」「大体明と会うなんて言ってなかったじゃないですか」 風呂上がりの温かい匂いを立ち上らせながら、真崎がうろたえた顔でビールのコップを掴む。あれ、と思う間もなく一気に飲み干し、美並はぎょっとした。「おお~、一気!」「……おいし…」 ちょっと驚いた顔で、けれど、ひどく嬉しそうに真崎がにこりと笑った。無防備な笑顔に一瞬見愡れ、我に返って、空になったコップにいそいそと追加を注ごうとする明を制する。「大丈夫? って、こら、もう注いじゃだめ、明!」「や、だって、旨そうに呑むんだもん、ねえ、京介」 そういえば、と今さら気付く。「京介? 呼び捨て? いつのまに?」「あ、ありがとう」「こら!」 戸惑う美並を放り出して男二人が勝手に酒盛りし始めて、あっという間に真崎が数杯ビールをあけた。こらこら、あんたは何をさくさくと、と思わず止めにかかってしまう。「駄目です、ちゃんと御飯食べてから」「大丈夫、だよ」「お酒全然弱いんでしょ?」「うん、全然弱い」「あ、ほんと、もう赤くなってきてるし~~かーわいい」 明がけらけら笑って、真崎がまた顔を赤らめた。 空腹だったところへ立続けに呑んだせいか、焼きそばを食べる手元が危うい。ぼろぼろ零すのに困った顔で拾っているのが異常に可愛らしく見える。かなり酔っている感じだ。 それとも酔っているのは自分だろうか、と美並は思った。 どうしてもどうしても真崎の仕草に眼が魅きつけられて、きわどい場面を重ねてしまう。 ま~ず~い~~。 焦りながら、そういう自分に歯止めをかけるように明をなじる。「あんたも弱いくせに」「うちで強いの姉ちゃんだけじゃん~」「はいはい、黙れ酔っぱらい」「伊吹さん、強いの?」「普通です、って、こら、何次注ごうとしてるか!」 潤んだ瞳で頬を赤く染めて、真崎がにこにこ笑う。その顔を、またついぼうっと見つめてしまった隙に明がビールを注ぎ、真崎がまるで操られたみたいにくいくい飲み干して、口元を横殴りにした。「焼そば食べたよ、凄くおいしい」 もう、あっちこっちべとべとですよ、とティッシュで拭いてやれば、へへへ、とくらくらするような甘い声で笑う。 そうですか、そうですか、あんたは酔っぱらうとこんなに可愛くなっちゃう系統だったんですか。 今まで会社の忘年会とか新年会とかは一体どうなっていたんだろう、と美並は頭が痛くなった。「あ、嬉しいなあ、俺、料理趣味なんだ」「趣味なの?」「七海も喜んでくれるんだよ、俺の飯は天下一品って!」「わかるな~、おいしいよ~~」 美並の懸念をよそに、ふわふわ男が二人でくすくす笑っている。「もう止めましょう、ほら真っ赤」 つん、と真崎の頬を突くと、くすぐったそうにちろんと視線を流しながら肩を竦めて笑ってきた。 この男は自分の性別とか年齢とか意識……してないんだろうなあ、とうんざりしながら思う。ひょっとして、こういう真崎に落ちちゃった『男』も実は結構居たんじゃないか。「お茶もいれときますね」 溜め息まじりに別のコップにお茶を入れると、またとても嬉しそうに頷くから思わず尋ねる。「どうしたの?」「大丈夫」「いつもと違いますよ?」「だいじょうぶ」 舌足らずの声で応じてこくん、とまた頷いた。「ほら、京介~」「うん」 明が投げ入れた焼そばを一所懸命に口に運んで、また注がれたビールを呑んで。 こんなに楽しく食事をしたのは初めてなのかもしれない、とふと思った。 **************** 今までの話は こちら
2025.11.01
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**************** 一度目の激しい炎を全身に浴びて、ユーノの感覚は冷えていた。 もし、考えていたことが正しければ。 もし、想像していたことが間違っていなければ。 たじろぎもせずにユーノに向かって炎を撃つアシャに、体が竦まなかったとは言えない。 けれど、他に、道はない。 轟音と共に体の外側を激しい風が荒れ狂う。身を削ぎ血肉を撒き散らすような容赦のない力。肌が焦げ熱風に喉を焼かれる。「んむっ…?」 目を閉じ口を噤んで覚悟した一瞬後、清冽とも言える冷たさに息が詰まった。周囲で上がる絶叫と悲鳴、すぐ側で何かが燃え上がる音、次々に消える気配と地面に伝わる振動音。だが、その音は想像していたよりも軽く短時間で途絶える。「……っ」 我慢できずに目を開けて、すぐ目の前の『運命(リマイン)』が炎に焼かれて踊り狂うように逃げ回り倒れるのを見た。隣に居た男が悲鳴を上げ、自らも焼かれているように身悶えし、やがて自分がどこも焼けていないことを知って座り込み、呆然と周囲を見遣る。「へ…ひ…っ」 心が耐え切れたかったのだろう、凄惨な周囲の状況にを見渡した後、男は虚な笑いを漏らしながら首を振り始める。「は、はは…っ ははは…」「どう言うことだ!」 ギヌアを囲む『運命(リマイン)』達が騒いでいる。「あんな力があるとは聞いていない!」「謀ったのか、ギヌア!」「罠だったのか!」 惑乱と動揺。狼狽えた表情を隠しもしない。 無理もない、ただ一閃の光が、あれだけ優勢だった軍を一瞬にして壊滅させたのだから。「あ、いや、あれは…」 ギヌアが驚きを顔をに張り付けたまま弱々しく顔を振る。「そんな、そんなことは、あれは、アシャは」「ギヌア!」 誰よりも響く声でシリオンが迫った。「お前は我らを騙したのか! お前は我らを引き込む駒だったのか!」「違…」 ギヌアは幼い仕草で首を振った。アシャを見、混乱し自分を責める配下を見、焦げて紙屑のように地面に撒かれた最強の軍勢を見。どこかに答えを見つけようと必死に足掻く顔に汗が流れ続けている。座り込んでしまった体は細かく震え、もう一人では立てないように不安げに揺れる。「そんなはずはない、アシャは、そんなことができるはずは…」「ちぃっ」 激しい舌打ちを漏らしたシリオンは、王とまで祭り上げた男をすぐに見限った。周囲を見回し、高らかに宣言する。「人の王は伏した。今、この時からは我ら『運命(リマイン)』こそが世を統べる!」「おおっ!」 竦みかけた十数騎が活気を取り戻し、シリオンの元に集まる。「アシャを倒す! 今こそ真の力を見せよ!」 馬を翻し、陣形を作り、シリオンはアシャと対峙した。これだけ兵を削られても、ぼんやりと魂を無くしたように立つアシャより、シリオン率いる『運命(リマイン)』の方が数倍覇気がある。最後の一雫まで絞り出そうとするように、シリオンがもう一度、高らかに声を上げた。「我ら『運命(リマイン)』こそ、この世界を継ぐ者だ!」「……」 アシャは不思議そうな仕草でゆっくりと首を傾げた。面倒くさそうに片手を挙げている。シリオンとギヌアを繋ぐ線に向けて、穏やかで静かな気配のまま。「アシャっ! 無用だっ!」 思わず叫んだのは勝者の優越と取られても仕方がない。ただ、ユーノが守ろうとしたのは、ギヌアや『運命(リマイン)』ではない。勝利が決まっていてもなお、兵器として動くことを選ぶアシャをなんとしてでも止めたかった。「もう撃たなくて…っ」 いい、の声は届かなかった。 アシャは無造作に二度目の光の奔流を放つ。誰かを害する意識もなく、ただ与えられた役割のままに。自分の攻撃が、生死を分けているとさえ感じぬままに。 視界が熱に霞み、胸が痛んだ。 わかっていた、『そのため』のアシャだ。『そのため』に生き残ることを許された存在だ。 だが、『そうなる』ことを、きっと誰よりも拒んでいたはずだ。 じゅ、と小さな音が響いて、奔流に飲み込まれた『運命(リマイン)』の一群が動きを止めた。光が通り過ぎた後、空中で躍り上がるように固まった馬も人の形も、黒く縮みながらばらばらと崩れ始める。 あれほどの軍勢、あれほどの戦略、あれほどの熱情が、ラズーンが配備していた、ただ1人の男に消し去られていく。 やはりそうだった。 アシャのあの炎は、『運命(リマイン)』の因子を含むものしか焼かないのだ。軍勢のほとんどが焼かれたのは、おそらく『運命(リマイン)』に体を開け渡したり影響を受けたもの、生き残った者は人でしかなかったのだろう。『氷の双宮』を炎で覆ったのも、退避するのに厳密に選別をしたのも、『運命(リマイン)』の因子を含んでいるならば、炎に触れた瞬間、焼失することになったからだ。「…アシャ…っ」 ユーノの声に振り向くこともなく、黄金の髪を煌めかせ、慌てることも恐れることもない静かな足取りで、アシャは座り込んでいるギヌアの元へ近づいてきた。衣服は裂け、血と泥で汚れ、腕や足に傷も負っている。けれど、何より酷いのは、自らを焼こうとでもしたように、あちこちを赤く爛れさせている火傷だ。 人ではない、その意味を改めて思い知る。アシャの中にもまた『運命(リマイン)』の因子があったのだ。そうしてアシャは、『氷の双宮』を出て、定められた仕事をした。炎を放ちながら、ラズーン内の『運命(リマイン)』を掃討してきた。「アシャ!」 ようやくアシャは視線を上げた。異臭漂う戦場の中、柔らかく輝く紫水晶の瞳は、生気がなく虚ろだった。微かに微かに笑みを返した、ように見えた。よろめきながら近づいていくユーノを待つこともなく、ギヌアの前に立つ。 **************** 今までの話はこちら。
2025.10.31
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**************** これは偶然だろうか、それとも思い過ごしだろうか。 速くなる心臓に美並は緊張する。 真崎によく似た気配の、バイセクシャルの男、名前が孝。 名前と殺されたという事件を確かめて、と明に頼み、それは真崎に言わないでね、と付け加えると、相手は一瞬真顔になった。「まさか、知り合い?」「そうでなければいい、けど」「…わかった」 京介には内緒、な。 明の声にはっきりと真崎への心配が含まれていて、美並はほっとした。真崎の危うさを気付いて受け入れてくれるとは思っていなかっただけに、実家に戻ったときの後ろ楯を得たようだ。 けれど、それもこれも。「京介が、頑張ったからだよね」 呟いて、深呼吸した。 落ち込んでいる場合ではない。この先まだ片付けなくてはならない問題は一杯あるのだ。 気持ちを切り替えて、相変わらず静まり返った浴室に呼び掛ける。「課長?」 はい、と微かな声が応じた。「もうすぐ御飯ですから、そろそろ出てきて下さい」「わかった…と」 ぼんやりした答えに眠りかけていたのかな、と苦笑して背中を向けかけたとたん、派手な物音が響き渡って慌てて浴室の扉を開く。「課長っ」「あ」 湯当たりでも起こしたのか、それとも。 うろたえて覗き込めば、湯舟から立ち上がった真崎が滑らかな背中を丸めて床に落ちたシャンプーのボトルを拾っている。うっすらと上気した顔に垂れ落ちた濡れた髪、ふわりと開いている唇も赤くて、着痩せする性質だったのか、思ったよりしっかり筋肉がついている身体は湯に濡れて、瞬きしながら見上げてくる顔が一瞬いつかのベッドの中と重なって見る見る顔が熱くなった。しかも首の付け根には、まだ消え切っていない淡い翳り、その一点でなおさら卑猥に見える。 動揺を隠して素っ気なく、大丈夫ですか、と確認すると、ボトルを拾い上げた真崎が苦笑しながら脚を叩く。「いや、久し振りに走り回ったから、脚が限界」「ああ………っ」 ごく自然に真崎の手が示したところへ視線を落として、中央付近で美並は硬直した。 真崎自身は気付いていないのか、微妙に力を貯えている部分が湯気の彼方に透けている。スーツをしっかり着込んでいることが多くて、この夏も碌に泳ぎにも行けなかったとぼやいていたように仕事三昧だったようで、肌はほとんど日焼けしていないだけに、そこが示す存在感は強烈で。 真崎が男だとはわかっていたのに、一瞬顔の前にそれを突き付けられたようにショックで、それがショックだと感じた自分にも衝撃を受けて、慌てて美並は身を翻した。「伊吹さん?」「早く、上がって下さいっ」「あ、うん」 今一つ状況の飲み込めていない真崎が腑に落ちない様子で頷くのにさっさと扉を閉める。「う」 わ~~。 思わず口を押さえて何度も瞬きしたが、映像が美並の脳裏から消えてくれない。 や、だって、そんなもの、明のだって見てるし、大石のだってまあそれなりにほら。 頭の中で必死に言い訳しながらよろよろと部屋に戻ると、大皿に焼そばを移していた明が奇妙な顔で見上げてくる。「姉ちゃん?」「う~」「何」「あ~」「どうしたの」 京介が倒れてた、わけじゃないよね。何でそんな妙な、と言いかけて明が唐突に口を噤む。「……おい」 はっきりと顔をしかめて唸った。「待てや、こら」「何っ」「ちょっと聞くけど、真っ赤になってんのは、ひょっとして京介の裸を」「わ~~!」「わーじゃねえだろ!」 夜一緒に過ごしたって言ったじゃないか。そんなとこ、もう終わってるだろっ。 明も美並の反応に照れたらしく、薄赤くなって怒鳴る。「や、だって!」「だって?」「今まで服を着てたから!」「………待て」 美並も明の強ばった表情に自分が言い放ったことばの問題点に気がつく。「美並」「はい」「ちょっとここへ座んなさい」「えーと」 もう京介が上がってくるけど。「いいから!」「はい」 あのね、一応常識として聞くけど。 明がうっとうしそうに唸る。「服、脱いでたんだろ?」「えーと」「周囲が真っ暗で気付かなかったとか、いろいろ夢中でわからなかったとか、そういうことではなくて?」「えーと」「まじ? 服着たまま、やったの?」「う」 さすがにそう表現されると凄いものがあるかもしれない、と美並は怯んだ。事実は単にそこまで到達しなかったってことでいいんだよね、と一人で確認していると、明がこそっと呟く。「コスプレ?」「はい?」「や、だからさ、姉ちゃんがナース服とか京介が……京介が」 思いつかなかったらしい明が半ば自棄のように言い放つ。「メイド服とか!」「違うっっ!」 なんでそこでメイド服なんだ、大きく何か間違ってるだろう。 そう思ったものの、脳裏に過ったのは湯舟にひょろんと立った京介の白い身体に着せた黒いワンピースと白いエプロン姿、レースカチューシャを頭に載せて、にっこり笑って眼鏡をかけて笑う顔。「わー」「姉ちゃん……なんか凄いもの考えただろう」「あきくんが悪いんでしょうっ」「や、俺は」 考えたのは七海のメイド服姿。「可愛いだろうなあ~~」 臆面もなく言い放ってへらりと笑った相手に、はっとしてテーブル横を覗けば、側にごろごろ転がったビール缶。 酔っぱらってんのか、と気付いたところで背後から真崎がやってきて、慌てて席を譲った。 **************** 今までの話は こちら
2025.10.31
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****************「ユーーノぉおおおっっ!」 野太い悔しげな叫びに、ユカルは瞬時振り向いた。戦場で敵から注意を逸らすなど愚の骨頂、それでもその名は全てを賭けて応じるべき相手、体が勝手に反応する。振り向いて流れる景色の中、彼方のシートスもまた同じ名前に反応した。戦乱の中で1人、光を纏ったかのように立ち上がる少女、その姿に叩きつけられる黄金の激流。「アシャぁあああああ!」 視界が眩み、けれど放った者が誰なのかを間違えるわけもなく、怒りと絶望に虚しく剣で顔を庇って怒鳴る、一瞬後には体全部を高熱の渦が襲い、「っ?」 冷たい。「ぎゃああああ!」「ぐああああっ!」「おおおおおっっ!」 周囲に絶叫が満ちる。鬨の声を上回る悲鳴、耳を弄する阿鼻叫喚の音量、すぐ側でごうっと確かに業火が走り過ぎる音がして、取り囲む敵が攻撃を止めて竦む気配、それでもすぐさま、生き残りが反撃してくるだろうと思い、開いた視界に映ったのは。「…は…?」 ユカルは呆然とする。 周囲が開けていた。 今の今まで皮一枚の距離に詰まっていた敵兵が1人も居ない。いや、居る、が。「ひいいいい……」「ああ…ああ…ああ…」「あ、はは、あははは!」 微かで哀れな悲鳴が響いている。奇妙な笑い声が混ざり込んでいる。1人か2人、多くてもたった数人の僅かな兵が、身体中を震わせ目を見開き、涙と涎に顔を汚し下から漏らし、剣も何も取ることなく、蹲り座り込んで泣いている。 のろのろと見渡す。遠く彼方に今もなお平原竜(タロ)に跨るシートスが見えた。別方向に、金の本流が辿り着く前と同様のユーノの後ろ姿がある。その両者の間を、無数の、黒焦げになった奇怪な形の塊が、積み上がり寄り集まって埋めている。異臭、炎で焦げたにしては生臭く、粘りつくような、喉を這い降りるのを咽せながら吐き出したくなるおぞましさを含んで。「…何…が…?」 声が詰まった。思考が追いつかない。一瞬前までユカルは死を覚悟して兵に囲まれていた。シートス、ユーノともどもにここで散るのだと思っていた。彼方にアシャが現れ、自分達諸共『運命(リマイン)』を炎で焼き尽くそうとした、はずではなかったのか。 何が起きた。「っ…っ……っ」 答えを探して必死に周囲を見回す。転がっている黒い塊、幾つかは人の形を残している。おそらくは高熱で焼かれたのだ、けれどユカルには焦げ痕一つない。そう言えば、金色の流れに飲み込まれた瞬間、熱は感じず、むしろヒヤリと冷たかった。アシャの秘法だろうか、敵兵だけを焼くような? けれど無事なものも居る、ほとんどが心を壊されてしまったようだが、それでも彼らは焼かれていない、なぜだ。疑問ばかりが心に積む。 脳裏に浮かんだのは敵兵を見聞していたユーノの姿だ。倒れた兵士を焦げている、焦げていないと訝しげに呟きながら確認していた。ひょっとして、ユーノはこの状況を予想していたのか? 『運命(リマイン)』が倒れ、自分達だけが生き残る可能性を思いついて、アシャに自らを撃たせたのか?「ユカル!」「っ、隊長っ!」 さすがにシートスは戸惑うばかりではなかった。敵襲がないと理解するや否や、ユカルの元に駆け寄ってくる。平原竜(タロ)が走る足元で黒い塊がぐずぐずと潰れ砕けて舞っている、まるで人の形の抜け殻のように。その光景にぞわぞわと体を震わせながらも、ユカルは堪えてシートスと合流した。側を駆け抜けてしまいそうなシートスと一緒に、今度は2騎でユーノの所へ駆けつけようとした矢先、再び声が響いた。「アシャっ! 無用だっ!」 はっとして視線を転じると、彼方の人影がゆらゆらと揺れながら、もう一度、黄金の髪を風に靡かせて片手を挙げている。「うぉおおおああああ!」 状況を見てとったのだろう、シリオンと名乗った『運命(リマイン)』を先頭に、怒号とともに残った『運命(リマイン)』軍が一気にアシャに押し寄せていく。「もう撃たなくて…っ」 いい、と続くはずの叫びを呑み込み、アシャの手から二度目の咆哮が疾る。****************今までの話はこちら。お待たせしました。本日より4日に分けて、『ラズーン』続編をお届けします。ようやくの決着です。ある意味、定まっていた、一つの未来。
2025.10.30
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****************「そのとき、何か外れちゃったらしくて」 姉ちゃんの名前を呼びながら泣きじゃくりだしたと思ったら、途中でぶっ飛んじゃったみたいで。「なんか意識がないみたいな顔で泣き笑いしながら、俺の上にのしかかったまま身体を揺すりだして」 月が出てたんだよね、それに気付いたのがきっかけだったみたいだな。「それがまた、なんていうのか、そーぜつに色っぽくて」 俺の上で溶けていきそうで。 明が我に返ったように中華鍋をまた揺さぶり、その動きに何を思い出したのか眉をしかめる。「俺が思春期の男だったらやばかったと思う」「やばかったって」「……襲ったかも」「おい」「ビール」「はい」 思わずもう一缶渡してしまった。火を止めて、缶を開けた明がごくごく呑むのを見守りながら、美並には容易に想像がついた。夜の公園、走り回ってくたくたになって、追い詰められた真崎の頭の中に刷り込まれた過去の光景が蘇ってくるのはあり得る話だ。 可哀想に。 胸が痛くて辛くなった。 そんなものを、ましてや付き合ってる相手の身内などに晒したくなかっただろうに。「……京介はさ、姉ちゃんを拠り所にしてるんだな」 ふいにぽつりと明が呟き、我に返る。「あのままぶっ壊れそうだったのに、姉ちゃんのことだけで踏ん張って」「明」「京介に姉ちゃんが必要だとか、かけがえないとか、そんなことどうでもいいと思ってたんだ、俺」 でも、あいつはもう死に物狂いで頑張ってて。「知らないやつは、いろんな不利な条件を始めから抱えてる人間が、どれだけ頑張って『普通のこと』をしなくちゃならないのか、わかってないと思うけど」 そういう明が七海のことを思い出したのはよくわかった。優しい深い瞳の色で、ビールの缶の底を見つめる。「そういうやつが、唯一これだと思ったものを、どんな理由があっても………奪えないよ、俺は」 夕べ姉ちゃんが言ったように。「楽じゃないと思うんだ。最悪、やっぱり美並は一緒に居られないかもしれない」「うん」「それでも、京介にはそれが要るよね?」 口調が幼くなった。美並を見遣ってくる、その表情も子供のもののように頼りない。「俺、美並を守るって言ったのに」「うん」「今も美並を守ってるつもりなのに」「うん」「俺は、あいつから美並を引き離せないよ」 ごめん。「わかってるから、いいよ」 そうだ、そんなことは、一番始めから、関わってしまった瞬間からわかってる。 手を出せば終わりだ。死なせないためには最後の最後まできっちり支えていくしかない。そして、支え切ったその報酬というのは。 唇を引き締める。 きっと、辛い。 これだけ気持ちを重ねてしまったのだからきっと、二つに裂かれる気がするだろう。 それでも、真崎にはそれが必要で。 それができるのは、美並ぐらいで。 大事なのだから、仕方ない。「ありがと、明」 吐息まじりに少し笑った。「惚れた方が負けだし」「だね」 ん、と頷いた明が冷めかけた焼そばに火を入れ直しながら、浴室を振り返る。「なあ、京介、出てこないぞ。見てきてやった方がいいんじゃない?」「そうね」 さっきからそう言えば物音一つしない。いくら真崎でも溺れてるなんてことはないだろうけど、と浴室へ行きかけた美並に、あ、そうだ、と明が振り向く。「それとちょっと気になることがあるんだけど」「何?」「俺が京介、バイじゃないかと思ったのは、知り合いに似てるからなんだ」「うん?」「でも、その人、殺されてるんだよね」「え」「まだ犯人は掴まってない。それがちょっと気になって」「……名前は?」「はっきり知らないんだけど、何なら確かめておくよ」 確か、孝、って言うはずなんだ、タカ先輩って呼んでたから。 そう明が続けて、美並はぞくりとした。 **************** 今までの話は こちら
2025.10.30
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**************** 飛び出してすぐに、泥だらけになってエントラスに向かってくる真崎と明に出くわし、戸惑いながらも、はいこれ、と差し出された材料を受け取って美並は部屋に戻った。 とりあえず一汗流すわ、と明が先に浴室に飛び込み、続いて真崎が入ってから、こっそり明に確認する。「一体何やってたの?」「さあね」「明」「男同士の話し合い」「………バスケットボールで?」「そう」 ぷしゅっと缶ビールを開けて一口呑んだ明が、レンジで手早く豚肉とキャベツを炒めながらぼそりと続けた。「……やばかったなあ」「え?」「京介ってさ、見えてる以上にアブナイやつだよね?」 何かを思い出すように視線を上げる。「もうちょっと溜まってたらやばかったなあ」「……ちょっと」 今とんでもないことを言わなかったか、あんたは。 思わず立ち上がって、明の隣へ行って顔を見上げると、微妙にひきつった複雑な表情になって見返してくる。「なんか、わかったよ」「何が」「あいつ、まだ男じゃないんじゃない?」「う」 いや、女性経験はあるはずだけれど、と相子や恵子のことを思い出し、ついでに男性経験もあるんだけどなと続けそうになって、危うく美並は自制する。「なんで?」「そうなの?」「ある、と思う」「……じゃあさ」 焼そばの麺を放り込んで解し、明が中華鍋の中を凝視しながら低い声で続けた。「どっちもいけるクチ?」「………」「あたり、か」 やっぱりなあ、と溜め息をつくのに、美並は眉を寄せた。「課長の趣味、というなら違うよ?」「…どういうこと」「たぶん、好みとしては女性なんだと思う」「思う、かよ」「でも、いろいろ事情があって、男性でもできるっていうか、できたっていうか」 でもなんでそんなことを? 尋ねる美並に明がひょいひょいと中華鍋を煽り出す。じゃあっ、と鮮やかな音をたてて焼そばがくるんと鍋の中で翻り、香ばしい匂いが広がる。一旦手を止めて、また側に置いていたビールを一口、いや、一気にごくごくと飲み干して美並は呆気に取られた。「あ、明」「呑まなきゃ言えない内容なんだ」「はい?」「俺は俺なりに納得できないものがあって、京介を呼び出してバスケ勝負を仕掛けたんだよね」「うん」 勝てなかっただろうと思ってしまった。真崎がスポーツをやっていたとは聞かなかったし、明はバスケットは十八番だ。「三回勝負、一回目は俺が入れて、二回目は京介が入れて」「課長が?」「見事なフェイク喰らった」「…フェイク…」 そんなことができたんだ、そう思うのと同時に、なるほどそれなら可能性はあったか、と頷く。「三回目は俺。まあ、勝負ははっきり言ってどうでもよくてさ」 俺は、あいつが、美並を受け止められる男かどうか見たかったんだ。で、そういうのって『負けた』時に見えるからさ、もちろん全力で潰すつもりだったけど。「でも、その最中に勝てないって煮詰まったんだろうな、飛びかかってこられて」「えっ」 真崎が腕力勝負という、なおさらあり得ない構図を聞かされて美並は驚く。 **************** 今までの話は こちら
2025.10.29
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何とか年内に辿り着きましたね!とても嬉しいです。本当にありがとうございます。今回は、『ラズーン』続編、もう既に準備ができております。もう少し整理してから、おそらくは4日間に渡ってあげさせていただく事になります。正直申し上げて、読後、がっかりされる方もおられるかと。『運命(リマイン)』との決着が付くからです。しかも、あまりにも淡々と、あっさりと、虚しいほどに。けれど、そこに費やされた命の数はとんでもありません。また重ねられた企みや時間も半端ありません。なのに、こんな結末です。どういうこと? 何でこんな事になっちゃうの? こういうものはもっとほら、高揚したり、劇的だったり、感動したり、そういうものじゃないの?不本意ながら、ギヌアに共感される方もおられるかも。でも、そういうものでした、昔から、戦争などというものは。主義や思想や生き様なんかに高揚したり感動したりしてるようですが、その裏で冷ややかに命の数をカウントするのが戦争です。そうして、賢明な皆様は思い付かれるはずです。ここからどうやって生きていこうとするんだろう。どんな風に過ごしていこうとするんだろう。『運命(リマイン)』との攻防、ラズーン崩壊を超えた後にも、暮らしは続くのです。アシャは既に生き方を表明しております。ただもう少し。次の2120000ヒットは昔話にお付き合い下さいませ。人の歴史など、時間の流れの中ではほんの一瞬の出来事ですので。『太皇(スーグ)』やセシ公と共に『ハテノトショカン』へどうぞ。
2025.10.28
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**************** 途中寄った店で京介は明と一緒に安いジャージ上下と下着を買った。「え? まじ?」 明が呆れて振り返り、買い物籠に焼そばとしょうが、キャベツ、豚肉を放り込む。「まだ姉ちゃんのところ、泊まってないの?」 結婚する気じゃなかったの。「えーと、そのつもり、なんだけど」 埃と泥に塗れた男二人の買い物光景は目立っているらしく、じろじろと見られるのに閉口しながら、手際良くビールまで放り込んだ明に苦笑する。「伊吹さんはゆっくりいきましょう、って言うだけで」「押しが足りないとは思えないしなあ」 明は何を思い出したのか、ふんふん、と空中に頷く。「あれだけの勢いで迫ったら、大抵の女なら」「伊吹さんが、大抵の女…?」「……そこが問題って?」 ばれたら殺されるよ、と明がくすくす笑って、京介も微笑む。 レジは京介が支払った。「お詫びと、伊吹さんへの御機嫌取り」「……そんなこと、さらっと言えるくせに」 にこりと笑うと、明が奇妙な表情で眉を上げる。「さっきはマジ、危なかったね?」「……そうだね」 夜道をこんなふうに話しながら同性と歩いたことは孝以来、伊吹と似た気配の男は京介の疲労を気遣ってか、それとなく速度を落として歩いてくれる、その配慮も伊吹と似ていて気持ちが緩む。「僕は、砕けたガラスなんだってさ」「姉ちゃんが言ったの?」「うん」 ふと頭上を見上げる。 月はさっきより遠くなっていたが、さっきよりも澄んで明るい。「砕けたガラスを内側に詰め込んでて、それでみんな正面切って僕と揉める気にならないんだそうだよ」 自分が大怪我するからね。「あ、それわかるなあ」 明が屈託なく笑った。「俺、もう少しで救急車に乗ってたかもしれない」「……ごめんね」「よくはないけど、いいよ」 京介同様、明が月を見上げる。「姉ちゃんは無事だったんだろ」「うん」 掠りもしなかった。そんなものないみたいに、僕の中にあっという間に入ってきて。「ずっとうまくバランス取っていたと思うけど」 見られて、暴かれるのが気持ち良くて。「融けそうだった」「…やばいヒト」 明が困ったように呟いた。「姉ちゃんだったから、無事だったんじゃん」「そうだね」「……男だから聞くけどさ」「うん」「他の女、殺してないよね?」「……うん」「何、その怪しい間合い」「殺さずに済めば、いいと思ってる」 恵子をうまく振り切れるだろうか。大輔から無傷で逃げられるだろうか。孝の幻から、狂うことなく戻ってこられるのだろうか。「だからか」「え」「京介、焦ってるだろ」「……そうかも、しれない」 伊吹を欲しがる男が増えるばっかりで、自分はちっとも変われなくて。「姉ちゃんが信じられない?」「信じられないのは」 自分だ、そう言いかけた矢先、「あきくん?」「へ?」「もう! どこ行ってたの、七海さんが帰ってこないって心配して何度も電話を………課長?」 エントランスから出てきた伊吹がさすがに驚いた顔で二人を見比べた。 **************** 今までの話は こちら
2025.10.28
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****************「戻り、なさい?」 響いた声を繰り返して、京介は身体を震わせた。 見ている。 伊吹がどこかで京介をじっと見ている。 周囲を見回す。公園に他に人影はない。けれど、脳裏に蘇ったのは京介を凝視する伊吹の視線。「あぁ…」 見て、美並。 吐息を零しながらうっとり笑う。 僕を暴いて。 蕩けながらのろのろと見上げた空は真っ暗なはずだったのに。「っ」 月が出ていた。 薄い雲をすり抜けて、鮮やかに照る、秋の月。 それが伊吹の視線のように感じて、呼吸を弾ませる。 抱いて。 全部、僕を暴いて、もっと。 無意識に身体を揺らせて微笑んだ。指先から力が抜けた次の瞬間、がつっ、といきなり手首を掴まれて、一気に跳ね飛ばされる。「あ、うっ」「…っ、もう、何しやがるんだよ!」 転がり落ちた京介を体を起こした明がむせ返りながらなじった。「興奮するにもほどがあっだろ!」「え…」「涙拭けよ、中坊か、あんたは」 明はなお咳き込みながらボールを取りに行く。その後ろ姿を茫然と見た京介に、ボールを拾って戻ってきた明が体中の埃を叩き落としながら顎をしゃくる。「ほら、続けるぜ」「は…?」「……要らないのか、美並は」「っ」 じろりと睨まれて慌てて京介は立ち上がる。手足が細かく震えて一度転びかけた。 何をしようとしていた? 何をしていた? 伊吹の弟、に?「もう一回、やろう」 明がうっとうしそうにランニングを引っ張り直した。「……俺には、わからない」「…」「あんたが抱えてるものとか、あんたが苦しんでることとか」 タンタン、と鋭くボールをついて、その固さを確かめるように両手の間に押さえつけ、ふいと京介を振り返った。「俺には、きっとわからない」 投げられたボールを受け止める。ばしり、と掌で弾けた痛みに、曇っていた視界も霞んでいた感覚も一気に晴れる。「ずっと、わからないだろうと思う」 明はゆっくり遠ざかって何かを拾い上げ戻ってくる。「ほら、眼鏡」 ランニングの裾で乱暴に拭われたそれを受け取ろうとして手のボールに戸惑う京介に、投げろよ、と明が片手を上げた。 おそるおそる投げたボールはくるりと翻った明の掌におさまる。「あ」 その動きが伊吹そっくりだ、と気付いた。「たぶん、美並もそうだ」「え…?」 眼鏡を渡されて、それを掛けながら相手を見ると、明は複雑な顔で京介を見た。「神様か何かだと思ってるのか」「あ、いや」「見えるかもしれないけど、見えない時もある。見えてもわからない時もある、見えても何もできないこともある、そう言ってた」「……」「でも、美並は、そのままでいるって」 明はボールを自分の両手の間でゆっくり渡し合いながら、それを見つめた。「………それも、俺にはわからない」「明…くん」「何度も死のうと思ったって」 ふいに幼い声になって明が呟いた。「俺が居ても、何度も死のうと思ったんだ、美並は」 静かに京介を見返す。「あんたは、そういう美並もわかるよね、きっと」 相打ちにします。 京介の脳裏に唐突に蘇ったのは、伊吹の静かで強い微笑み。 助かることは期待しない、けれど、矜持を守るために闘い抜くことは諦めない。 その、人としての最後を貫く誇り。 ぞくりと身を竦ませる。 ああ、どれほどそれを得たいと思ったか。「俺がわからない美並を、あんたはわかるんだろうな」 名前、真崎、京介、って言ったっけ?「あ、うん」「じゃあ、京介って呼ばせろ」「は?」「ほら、やろう」 明がぷい、と顔を背けてボールをついて走り出す。誘われているんだ、と頭のどこかが信じられないままに呟いて、京介ものろのろと動き出す。「遮れよ、美並がかかってるぜ」「っく」「……惜しいな………本気でやってたら、凄かっただろうな、あんた」 京介のガードを軽々潜り抜けて、明がゴールへ駆け上がる。まるで背中に羽でも生えているような鮮やかなジャンプで舞い、見上げる京介の前であっさりとゴールを決めた。「ああ、面白かった」 満足した顔で明が落ちてきたボールをドリブルしながら立ち竦む京介の元に戻ってくる。「こんなぎりぎり試したのは初めてだな」 あんたは? 面白かった? ちょっと上目遣いに見上げられて、突然沸いた理解に京介は瞬く。「それは、ひょっとして」 思わず口を覆った。 そんなこと、あるんだろうか。「勝負は俺の勝ち」 だろ? 明がにやにや笑う。「おっさんにはきついよね」 京介は幾つ?「28…」「にしては餓鬼っぽいよなあ、いい歳してんのに泥だらけになって」「あの…明、くん」「これからどうする? 腹減ったよね?」「あの」「あ、そうだ、飯の材料買って、姉ちゃんのところ、行こう」「え、えっ」 こんな凄い格好で。 驚く京介に明がなお嬉しそうに笑う。「汗塗れだし、それに」「風呂あるよ、姉ちゃんのとこにも」 知ってるんじゃないの? さらっと尋ねられて、京介は顔が熱くなる。「何? あ…そっか、いつもあんたのところなんだ」「は、いっ?」「何声吹っ飛ばしてんの」 ほら、ちゃんと持って。 ベンチに放っていた背広とネクタイを掴んで投げてくる。受け止めながら、京介は気になって仕方ないことを必死に確認する。「あの、明くん、それで僕は」「姉ちゃんは夜一緒に過ごしたこともあるって言ってたけど?」「あ、う」「……おーい、何、その微妙な反応は」「いや、その…」 なんで伊吹さん? なんでそんなことまで弟に? ってか、そんなこと話すもんなの、普通?? 「じゃなくて」「は?」「僕は今負けたわけ、だよね、でも伊吹さんは諦めないよ、いいの?」「ただの、ゲームだろ?」 明が生真面目な表情になって、くるりと背中を向けた。「これは、ただのゲームだ」 自分に言い聞かせるように繰り返す。「明くん」「あんたのは、そうじゃない」 そういうことだろ?「なら、俺に異論はない」 駅に向かって歩き出しながら、明が付け加える。「あんなやばいことされて、反対できるわけないだろ」「あ…」 顔に一気に血が昇ったのがわかった。「す、すまない」「殺されちゃう~~とか思ったし」「う」「それに」 肩越しに柔らかな視線を投げてきた明がふざけた口調を一転させる。「……たぶん、あんなあんたを制御できるのは美並ぐらいだよ」 他の女じゃだめだ。 びくりと震えた京介に、明がにっと笑った。「大丈夫だ」「……」「姉ちゃんは立派な猛獣使いだから」「はい?」 あんたは立派な変質者だけどね。 あはは、と声を上げて笑う相手に、京介は引きつりながら笑い返した。 **************** 今までの話は こちら
2025.10.27
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**************** 暗い公園に荒い呼吸音と激しく地面を蹴る靴音、時に速く時にリズムを保って叩きつけられるボールの音が響き続ける。「は…っ」 どれぐらい時間が経ったのかわからない。「んっ、つっ」 びしりと走った脚の痛みに顔を歪めながら、京介はひたすらボールをフォローする。 前へ後ろへ、右へ左へ、体を盾に突き進む明の侵攻を食い止めるたびに、がんっ、と骨に堪える振動を受け止める。 最初に投げ上げたボールはゴールへのんびりと近付いていった。それを見た明がすぐに身を翻してゴールの下へ走り寄る。軌跡から入らない、と判断したのは京介も同じ、元より入るとは思ってなかったから、駆け出したタイミングはコンマ数秒、明より早かった。コーナーにあたって跳ね落ちてくるボールにジャンプしたのはほぼ同時、落下地点と捕まえられる高さを読み合ったのは互角、着地を考えた明と体勢考えずに身を投げ出した京介の競り合いはわずかに京介が勝って、けれども姿勢の不安定さにボールは京介の指を弾かれて飛ぶ。「くっ」 明は素早くてしかもしなやかだった。不規則な動きをしたボールを一瞬にして掌に納め、自分の懐に入れようとする。 綺麗だな。 熱に浮かされた頭の隅で、こちらを見遣ってきた明にそう思った。 どこもかしこも、綺麗なやつ。 生き方も、愛し方も、守り方も攻め方も、これまでの人生で十分に力を貯えて成長してきたことが見てとれる。 叶わない。 歯を食いしばって体を捻り、明の懐に襲いかかる。指先が触れることなく奪われるボール、空中でバランスを崩してみっともなく転がり落ちながら、またどこかを強く打ったけれど、その痛みさえもう温いと感じるほど胸が痛くて。 京介は上がる息に喘ぎながらなおも地面を蹴る。 間に合わない。 京介がどれほど頑張って成長しても変化しても、きっと明には叶わない。なぜなら、京介の頑張った分だけ明はなおも努力を続けるだろう。京介よりも豊かな土壌を与えられた男は、京介よりも鮮やかな花を付け、香り高い実を成らせるだろう。 時間は惨い。 それが間違った方向に浪費されたと気付く瞬間、人は自分の存在意義を見失う。 京介が生き延びるためだけにもがいていた時間、大輔に蹂躙され恵子に弄ばれて耐えていただけの時間を、明は自分の可能性を育てるために使っていた。 その、歴然とした差。 その、圧倒的な差。 失ってしまって取り戻せない時間を、これほどの絶望で思ったことはない。「ちっ」 ボールが明の指を離れる一瞬にかろうじてジャンプして遮り、明がステップを踏み変えて身を翻す。 今は防げた、けれど次は? 次は防げるかもしれない、けれどその次は? 京介の頭の中に、大石の、高崎の、赤来の顔が次々と過る。 伊吹を望む男は一杯いるだろう。 二番目は嫌だ。 一番多く、一番強く、京介が伊吹を受け取りたい。 誰かとの逢瀬の合間ではなく、京介の逢瀬のために笑って駆け寄ってきてほしい。 けれど。 けれど。 それを可能にする何が、京介にある?「お、いっ」 明が投げつけようとしたボールの前に顔を突き出した。フェイクに引きずられて体が戻ってくれなかったから。「ばかっ、やめろっ」 明が舌打ちしながらボールを操る。 もうボールを奪えるなんて考えていない。 ただゴールされることを阻止するだけ。 この一本さえ入らなければ、まだ伊吹と居られる。 今さえしのげば、数秒は伊吹のことを望んでいい。「お前っ」「っっ!」 掠ったボールに眼鏡が飛んだ。 それでも立ち塞がる、両手を広げて、見えない視界で動く明に飛びかかる。「こ、らぁっ」 どすん、と明にまともにぶつかった。さすがに体重は成人しきった男とようやく大人になった男の差があった。今にも伸び上がろうとしていた明にのしかかるように押し倒す。ボールがばんっ、と鈍い音をたてて頭を殴って一瞬視界が真っ暗になった。とっさにしがみついた手に触れる布の手触り、握りしめたそれを一気に交差する。「う、ぐっ」 体の下で明が大きく跳ねた。相手に馬乗りになっていると気付くのに数秒、今何をやっているのか理解するのに数秒、自分が薄い靄に包まれて遠い感覚になっているとわかるのにまた数秒。「はな、せっ」「君には、ゲームなんだろうけど」 すう、と顔を降ろして、明の顔がはっきりわかるところまで近寄せた。相手がぎょっとした顔で瞬きするのに淡々と続ける。「僕には、違う」「あ」 自分が笑ったのが不思議だった。おかしくなんかないのに。 明が目を見開いて瞬きする、その頬にぽたり、と何かが音をたてる。「君には、たくさんチャンスがあるだろうけど」「ちょ」「僕には、もう、何もないんだ」 脚の下の体は温かい。びくびく波打っている筋肉が気持ちいい。ランニングシャツを思いきり引き寄せて、その布の交差で明の首を締めていると、自分が大輔そのものになっている気がする。「今度は違う種類のゲームをしよう」「お、い」「僕は君に勝てないけど、伊吹さんも諦めたくないんだ」「ぐ、う」「狡いよね?」 くすくす笑って、布を引き寄せる。明が狼狽した真っ赤な顔で見上げてくるのに、頭の中に霞がかかって自分で自分を襲っているような気がしてくる。 だって。 脚の間に熱い体があるからね。 何度か跳ね上がってくる感覚は、よく知ってるからね。「死ぬかい?」「っ」「どっちがいい? 天国にイキたい? それとも地獄?」 首を締められてもがくのは自分だった。泣きながら貫かれて、喘いで悲鳴を上げて助けてくれと叫んだのに何度も何度も揺さぶられて、そのうちうるさいと首を締められて、そうすると締まりもよくなると笑われて。「…助けて…」 囁くように呟いた。「く、」「助けて、伊吹、さん」「く、そっ」 頬を次々熱い感覚が伝う。「たす、けて」 いつか京介が吊るし上げた『くま』もそう呻いていたんだろうか。 京介。「伊吹…?」 遠いところから呼ばれたような気がして、顔を上げる。空耳だろうか。 けれど、どこかの闇から厳然とした声が命じた。 戻りなさい。 **************** 今までの話は こちら
2025.10.26
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**************** 京介がどれほどの闇を抱えて生き延びてきたのか、見抜いてくれたのは伊吹だけだ。見抜いた上でなおかつ逃げずに抱えてくれたのも伊吹だけ。「殺されることが……どんな…ことか……君は……知らない…っ」「え…っ」 ことばの衝撃に弛んだ明の気配に踏み込む。汗に張り付くシャツがうっとうしい。精一杯伸ばした腕と脚、明が素早く見切って体を捩った。ゴールの方を意識して京介の背後に視線が動いた矢先、思いきり低くから明の体を舐め上がるように顔をすり寄せて伸び上がる。「んっ」 紙一枚の近さに見合った顔に明が驚いた表情で体を引く。顔を見つめたままボールを押さえた京介の手の圧力を察して、叩き落とされる前にと体を横に振る、そのとたん、京介は体を沈めた。「あ!」 京介の背後にあったのは街灯、そこだけ少し低めの位置にあったのを明は気付いていなかったのだろう。顔を上げる直前まで京介が体で遮っていたのも計算なら、明の視界が街灯の光にまっすぐ向いた瞬間に体を沈めたのも計算、ふいに視界に飛び込んできた照明の眩さに明の動きが止まったのは数秒、それでも狙っていた京介には十分な時間だ。 叩かれたボールが二人の間に落下する、それを掬い上げるようにして放り投げる動きはさっきの明そっくりだと気付くはず、驚愕に顔を歪めた相手に薄笑いを残して、京介は目算通りにボールを弾く。 ぼ、ん。 コーナーリングに軽くあたったそれは、少し真上に上がって、それからすとん、とリングを通過した、まるで予定されていた航路のように。 そして京介は体勢を崩して思いきり転がる、とっさに眼鏡を押さえたせいで右肩を強く打って、それでも視界の端で確かにゴールしたボールを確認して微笑む。「はっ…は………はぁ…っ」 仰向けに寝そべったまま、必死に空気を貪った。真上には星の出ていない空、喘ぎながら両手足を投げ出して、がくがく震えている下半身、濡れたシャツがぞくぞくする。「…街灯…」 明はゴールから落ちたボールを見送ってゆっくり背後を振り向き、その姿勢のまま呟いた。「あんなところに、あったのか」「…っふ、は…っ…」 京介は瞬いて潤んだ視界を開いた。そっくりな光景、けれど少しずつ、何かが少しずつ違ってきている、そう感じる。「計算してたんだ?」「友人…が……教えて……くれて…」 一つ、裏技教えてやるね、京介。 孝がいたずらっぽく笑いながら言った。『試合が始まったら、全部を使うんだよ、体も心も感覚も。敵も味方も観客も』 どんな状況か見極めて、自分に一番有利になる方法を考えて。 孝が教えてくれた方法で取り戻せた未来。 きっと孝も手にしたかったはずだ、生き延びられるたった一つの道を。 なのに、孝が選んだ相手は大輔で、京介が選んだ相手が伊吹で。 運命はたったそれだけのことで命の行く先をこれほどはっきり分けてしまうのか。 漏れそうになる嗚咽を噛み殺す。 伊吹さん。 伊吹さん。 京介は失いたくない、どれほど理不尽で不当で傲慢な望みだと言われても、伊吹を失いたくないのだ。「これで……一対一、だ」 とっさに噛んだ唇から、また滲み出した血の味を感じながら、体を起こした。振り返った明が鋭い目で京介を見る。「次は、こういう方法は無理だよ」「わかってる」 京介にはもう手駒がない。 明がうっそりと長袖のシャツを脱いだ。黒のランニング一枚、黒のジーンズのベルトを締め直し、靴紐を確かめる。立ち上がった京介にボールを投げてくる、その顔がひんやりとしたものになった。「さっきの、どういう意味?」 殺されることを俺が知らないって言ったよね?「あなたは知ってるってこと?」「ふふ」 思わず笑ってしまった。ボールをとんとん、と地面につく。「知ってるよ」 自分の中でぎらぎら光る砕けたガラスに無数の自分が映ったのがわかった。どの京介も泣き叫び、震えながら悲鳴を上げている。「何度も死んでる」「え」「でも、誰も助けてくれなかった」 埃に塗れた手で顎に流れ落ちたものを拭った。汗なのか血なのかそれとも涙なのか、ただそれが流れた感覚が痛かった。「見つけてくれたのは、伊吹さんだけだ」 まっすぐ顔を上げて明を見る。「僕が死んでることに気付いてくれたのは、伊吹さんだけ」 だから、君にも、譲れない。「……行くよ」 京介はボールを高く放り投げた。 **************** 今までの話は こちら
2025.10.25
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**************** 京介は、明から受け取ったボールを一度地面に置いた。 上着を脱いで近くのベンチに投げる。首を反らせネクタイを緩め、引き抜いて、それも放る。シャツのボタンを一つ、考えて二つ外す。袖も肘まで捲り上げ、眼鏡を掛け直し、ちら、と周囲に視線を走らせる。「本気になった?」 明が面白がるような声をかけてくる。「……本気だよ」 明の声にとんとん、とジャンプして足下を確かめる。 まさかこんな勝負を持ちかけられるとは思っていなかった。革靴は不利だ。どうしてもとっさの踏み込みが鈍くなる。『相手の眼を見て、京介』 孝がいつか教えてくれたことはもっと他にもあっただろうか。『体の向きと爪先で方向はごまかせる。うまくなれば視線も。でも、大抵どうする気なのかは眼でわかる』 高校で、孝がそれだけは楽しみにしていたバスケットボール。『同好会だから、これ以上部員が減るとなくなっちゃうよ』 人気の絶えた校庭で、町中の小さなゴールポストで、孤独をまぎらせるようにボールを追っていた細い姿。『忘れられる、何もかも』 ボールを追ってさえいられれば。『京介ならできる。読んで、相手の動こうとする先。考えて、相手が何をしようとしているのか』 そう教えた孝が、大輔が何を考えていたのか、わからなかったはずはなかっただろうに。自分を大切にしてくれるとは思っていなかっただろうに。恵子の気持ちの揺れも気付いていたかもしれないのに。 全てを呑み込んで孝は逝ってしまった。「ずっと、本気だ」 京介は明の方へドリブルしながらまっすぐ走り出した。「正面、特攻っ?」 まさか。甘いでしょ。 笑いながらすぐに行く手を塞いでくる明に、まさかだよね、と笑い返して、突っ込むと見せ掛けて片足支点に身を翻す。「っ」 京介のターンが意外に鋭かったのだろう、明が笑みを消した。とっさにステップを踏み変え、京介の動きを封じてくる。のしかかるような威圧感に耐えながら、ボールを庇って地面に叩き付けたのはフェイク、跳ね返るところへ手を伸ばした明の指先でボールを掬い、バウンドさせてもう片方の手へ、同時に体をくるりと一回転させて明をいなす。「やるじゃん」「っ」 だが、明は振り切られてくれない。ばかりか、確実に先を読んで回り込み、両腕を広げて覆い被さってくるのに、一瞬大輔の姿が重なって、京介は竦みかけた脚で地面を蹴った。右へずれるステップ、けど置き去れない。着地と同時に逆に蹴る、すぐ再び追い付いてくる。「経験あるんだね」 明が嬉しそうに笑った。「年齢にしちゃフットワーク軽い」「ありが、とう」 応じた息がもう上がりかけていた。さすがに五歳を越える年齢差はきつい。「でも、遅い」 くす、と明が笑って先回りした瞬間に京介の手からボールを奪った。ぱん、と軽い音をたてて、生き物のようにボールが明の両手の間を跳ねながら動き、あっという間にその背後に隠される。舌打ちしながら回り込む、と見せて急な停止、回りかけた明の後ろを取れるはずだったが、ボールはあっさり明の支配圏に庇われてしまう。 形勢逆転、じりじりとゴールの方へ進む明の進行速度は格段に遅い。ボールを操って京介を振り回すのを楽しんでいるようにも見える。視線は京介の方へ固定されたままだ。額から汗を流し始めた京介に、柔らかな笑みを向けてくる。「もっと仕掛けてこないと無理だよ」「、っ」「違う、そっちじゃない」 京介の伸ばした指の先でボールは霧のように消えた。脚の間を潜ってどこかへ飛び跳ねそうだったのに、その先に明のがっしりした掌が待ち構えていて、それを追う前にまた消える。「諦めたら」「嫌、だ…っ」「無理だって」「くっ」「美並はあなたには重すぎる」「ふ、っ」「ちっ」 おしゃべりに気を取られたのか、一瞬動いた明の視線の先に伸ばした手がもう少しでボールに触れかけて、どすっ、と強く明の体があたってきた。熱の籠った固い筋肉、濡れてきた肌に押し付けられて、否応なく幻の自分の悲鳴が耳の奥で響き渡る。「重、すぎる、もんか」 喘ぎながら吐く自分の声が掠れている。「何も、知らない、くせに」 **************** 今までの話は こちら
2025.10.24
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****************「……こんばんは、真崎さん?」 明は既に待っていた。 公園の街灯を斜めに受けて立っている、その姿がいつかの昼間見た時よりも数段大きく見える。「お待たせしました」「お時間頂いてすみません」 物言いは柔らかだが、明は笑っていない。「一つ聞きたいんだけど」「はい」「あの時、もう俺が弟だって知ってた?」 弟だから奢ってくれたりしたわけ? 剣呑な口調は挑発ではない。はっきりとした挑戦だ。「で、黙って美並のことを話すのを聞いていたの?」 なら、あなたはずいぶん狡い男だってことだよね?「そうなりますね」 京介は微笑んだ。からかうつもりではない。自分が狡いことなど百も承知だ。「けれど、伊吹さんのことは本気です」「大石もそう言ったよ」 明は冷ややかに笑った。「俺は子供だったから、そのことばを信じた」 ぎらりと光った目の色は、京介を焼き尽すほど激しい怒りに染まっている。「それが、美並を傷つけた」 だから、二度は間違わない。 明は背中のバッグを引っ掛け直して、顎をしゃくる。「こっち来て」 公園の暗がりに向かって誘う後ろ姿に、また既視感が襲ってくる。表情を変えまいとしながら歩き出す。 すたすたと歩く明が次に立ち止まったのは公園の隅にあるバスケットゴールだった。「3on3って知ってる?」「名前ぐらいは」「そんなに大層なものじゃないよ」 明はバッグを降ろして、中からバスケットボールを取り出した。きちんと手入れされている美しいボールだ。「俺と3本勝負しようよ、真崎さん」 ゴールポストの下にバッグを置き、ゆっくり戻ってきて真崎の前を通り過ぎる。 やがてゴールからかなり離れた場所で振り返って立ち止まり、明は静かに笑った。「あの時、俺はべらべらしゃべっちゃったけれど、あなたは飯を奢ってくれたから貸し借りなし」 明が投げてくるボールを京介は受け止める。ばしり、と掌にあたって軽く痺れた。「俺は経験者だから、あなたにハンディを上げるよ。始めるのは3本ともあなたからでいい。3本試して、そのうち2本あなたが入れたら、美並とのことを認める」「駄目だったら?」「諦めて」 明が微笑んだ。「これ以上、美並を傷つけるやつを俺は誰も近付けない」 笑みを消さないまま、はっきりと強い口調で言い放つ。「過保護だね」 いつぞや社長に言われたことばを京介は繰り返した。暗にシスコンはやめろ、と響かせる。「……あなたは知らない」 明が表情をなくした。「美並は、独りでいい、と思ってる」「……」「どういう意味かわかる?」「……いや」「独りで生きる、独りで死ぬ、そういうこと」 人は誰も独りでしょう、そういう生半可なことばを京介が口にせずに済んだのは、明の声の悲痛な響きに気付いたからだ。「自分の能力が、子供に遺伝するかもしれないから」 明が冷えた声で続けた。「子供がどれほど辛い思いをするのかわかるから」 閉経手術受けようかな、そう言ったんだぞ。「っ」 自分にはそういうつもりがなくても、自分の体は命を宿してしまうから。意識せず子供に重荷を背負わせてしまうかもしれないから。両親に言えることではない、自分の命を、両親を責めかねないから。「きついとか、しんどいとか、そういうの、美並は俺に言ったことはない、けど」 次の命を紡ぐことを自分で閉ざすほど苦しかったんだ。「美並が女に産まれたのは美並のせいじゃない、けれど美並は自分の体に責任があるからって、自分を傷つけるつもりだったんだ」 その美並の覚悟を踏みにじった大石を、俺は許さない。「っ!」 ふ、っといきなり明が近付いてきて京介ははっとした。とっさに、抱えたボールをドリブルしようと地面に落とす、その瞬間に掬い上げられる。見下ろした京介の視線を、一瞬受け止めて明が薄く笑ったとたん、流れるような動作で体を引き起こし、伸び上がる。「あっ」 京介が振り向くと同時に明の指からボールが離れた。鮮やかな円弧を描いて吸い込まれるようにボールがゴールをすり抜けるのを茫然と見る。「まず1本」 明が跳ねたボールを拾い上げて戻ってきながら吐き捨てた。「待ってるだけの男に美並をやれるわけがないだろ」 ばし、とかなり強くボールを投げつけられる。「来いよ」 明が顎を上げて促した。「後はない」 **************** 今までの話は こちら
2025.10.23
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**************** 仕事が思ったよりも長引いて、京介が社を出た時には辺りはもう薄暗くなりつつあった。 何か問いたげな伊吹に微笑して背中を向けてきた、本当はもう一度抱き締めたかったけれど。 電車の窓ガラスに、不安そうに自分の体を抱いているスーツ姿の若い男が映っている。それをじっと検分するように凝視する。 どこまで説得できるだろう。 どこで納得してくれるだろう。 京介には伊吹が必要なのだ。絶対に、それこそ、生死をかけたぎりぎりの場所で。 第一、もう伊吹なしで眠れなくなりつつあるのを意識している。一人でベッドに入っていると、体が寒くてそのまま凍えてしまいそうな気になる。夕べだって伊吹の着ているジャージを抱きかかえて眠ったのに、夜中に目覚めた瞬間に温もりを探してジャージをまさぐっていたのに気付いて切なくて辛くて、また自分で慰めようか、それとも睡眠薬でも噛み砕いて貪るか、などと煮詰まりかけた。 駅についてホームから改札へ、外に出て暗くなった空に一瞬怯む。 釣瓶落としとはよく言ったものだ、濃紺に沈む視界にはもう微かな星が瞬いている。 それは駅の灯や街灯がなければ、あの大輔に襲われた夜そっくりの空で。「……」 思わず月を求めてあちこち見回した。 月が出ていれば、少しは早く大輔の意図に気づけたかもしれない。 月が出ていれば、少しは逃げやすかったかもしれない。 そんなことはありえない、そう思いつつ、月が見えない空がまるでこの先の運命を暗示してくるようで、無意識に体が竦む。 けれど、月はない。 ぞくりと震えたのは恐怖か、それとも。「っ」 唇を噛んで危うい境界を転げ落ちていきそうなのを堪え、京介は歩き出した。 駅から離れるに従って住宅街へ入っていく。市役所の横を抜け、公園に向かう道は街灯が少なくて、今にも背中から押し倒されそうな感覚になって冷や汗が滲む。 まるで、あの時、みたいだ。 両側を満たす草木、冷えた夜気はあの日ほどねっとりしていないけれど、それでも月がなくて足下が見えない不安定さ、細く続く通路に、馬鹿なことを考えるんじゃない、と繰り返す。 ここはあそこじゃない。 今はあの時じゃない。 大輔はいない。 大丈夫だ。 がさっ。「っっ!」 背後でいきなり茂みをかき分ける音が響いて、竦んで立ち止まりかけたのをかろうじて振り返る。「あ」「やだ」 出てきたのはカップル、きちんとした格好の割りには乱れた女性の髪と口紅、どこかぼうっとした表情が視界に飛び込んで、京介は瞬きした。「おいで」「うん」 男がちらっとこちらを見遣って慌ただしく女性を抱えて遠ざかる。女性の足下が少し危うい。何をしていたのかすぐにわかるような腰の不安定さに京介は凍りつくような思いで見送る。 あんな顔をしていたのだろうか、自分も。 あんな風に無防備に大輔の背中にすがっていたのだろうか。 全てを許して、踏み込まれてしまったものの弱々しさで。 きり、と歯を食いしばった。 フラッシュバックが現実の中で次々襲い掛かってくるようだ。 では、この先に進んだら、そこには何が待っているのだろうか。もしかして、大輔に弄ばれたあの瞬間が?「ぐ」 込み上げた吐き気とめまいに片手で口を押さえる。 嫌だ。 嫌だ。 もう一度、あんなことになるのは、絶対嫌だ。 悲鳴を上げて走って逃げ去ってしまいたい。 けれど、そうすれば、伊吹を失うことになる。 込み上げたものを呑み下し、京介は唇を噛んだ。感覚が鈍くて、必死に力を込め、苦い鉄の味が広がってようやく我に返る。「美並」 目を閉じて、名前を呟いた。「み、なみ」 荒くなった呼吸をゆっくりおさめる。「みなみ…」 嫌だ。 そうだ、嫌だ。 もうこれ以上、大切なものをただの一つだって失いたくない、ましてやようやく手に入れた居場所を幻などに奪われてたまるか。 口を手の甲で横殴りに擦る。血は止まっているようだ。ぺろりと舐めて顔を上げ、一歩ずつ公園に近付いていく。 やがて紺青の空に鮮やかな黄色の炎を広げる銀杏に囲まれたいつかの場所にたどりついた。 **************** 今までの話は こちら
2025.10.22
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**************** 鳴り響く電話にせき立てられて、美並は受話器を上げた。「はい、伊吹ですけど」『あの』 柔らかなハスキーヴォイスが控えめに切り出してくる。『わたし、葉延、七海、ですが』「あ、こんばんは」 名前と話だけは何度も聞いている、明の結婚相手だ。「はじめまして、の方がよかったかな」 控えめな印象のある七海が電話をかけてくるのは余程のことだろう、そう思いつつ、あえてあっさり応じた。「明がいろいろ困らせているかもしれないけれど、どうかよろしくお願いしますね」 美並が拒んでいるのかと気にしていたらしいから、二人が結婚するのを当然のこととしてことばを続ける。『あ…』 七海の声がふわりと軽くなってはにかんだ。『はい』 わたしがいつも明さんに助けられているんです。 優しい声が嬉しそうに応じて、美並も思わず微笑む。「ん、それならよかった。ところで……どうしたの? 明が何か?」 七海が電話をかけてくるのはそれぐらいだろうと尋ねる。『あの、まだ、明さん、そちらに?』「え? いえ、帰ったけれど」『帰った……?』「まだ帰ってないの?」『あの、一度は戻ってこられたんですけど、すぐに出ていかれたって』 デートだと言ってなかったか? 美並は思わず眉をしかめる。 少なくとも誰かと会う予定だったのだ、明は。てっきり七海だと思っていたのに、この様子ではどうも彼女じゃないらしい。 じゃあ、一体誰と? ふいに、いつ見たのだろう、夢を思い出した。 美並と真崎は向き合って立っている。 美並の背後には扉があり、そこがゆっくり開いていって、美並の背中から眩い光が差し込み始め、真崎は驚いた顔で眼を細める。それまでずっと美並を凝視していた眼を、美並の背後の光に向かって開き始める。 美並は真崎の変化に気付く。興奮と驚き、喜びと戸惑い。 世界はこんなに美しかったのか、そう悟って零れ落ちる溜め息。 綻ぶような笑みを浮かべ、真崎はゆっくり近付いてくる。 美並は顔を上げて、その真崎をじっと見つめる。 距離が縮まる。両手を差し伸べる真崎に、思わず知らず美並も両手をそっと上げて。 嬉しそうだ、と思う。 真崎はどんどん速度を上げて走り寄り、笑い声をたてながらついに美並の側までやってきて。 通り過ぎる。 確かにまっすぐ走ってきたはずなのに、幻のように美並をすり抜ける真崎に、美並は動けなくなる。 固まってしまう体をのろのろ振り返らせてみれば、光の中で真崎は確かに誰かを抱き締めている。 その背中が甘く震えていて、低い囁きが響く。『やっと見つけた』 君をずっと探していたんだ、それが今、わかった。 腕の中の人が美並を気にして、真崎は心配そうに顔を上げ、相手に笑いかけながら美並を振り向く。『大丈夫だよ、あの人は関係ない』 美並は上げた両手をそろそろと降ろす。『僕を支えてくれた優しい人だ』 だけど、それだけ。『欲しかったのは君だから、安心して?』 そうでしょう、伊吹さん? 振り返って笑う真崎に、美並は頷くことしかできなくて、遠ざかる真崎を見送って。 わかってた。 そんなこと、わかってたから。 大丈夫。 涙が吹き零れるままに俯いた。『何度かお電話させてもらったんですけど』 七海の声に我に返る。「ああ、ごめんなさい、いなかったのよ」『明さん……バスケットボール、持っていったんです』「はぁい?」 バスケットボール? ひょっとして、明は真崎と会うために出ているのか、そう思った発想が覆る。「なんでバスケットボール?」『………確かめたいことがあるって』「確かめたいこと?」『本音を引っぱりだしてやるって……誰のことですか?』 七海の声が不安そうに揺れる。「それで私のところかと思って?」『はい』「うーむ」 また謎が増えてしまった。「わかった、こっちでも探してみます」 携帯に出ないの? 尋ねてみると、繋がらないんです、と七海は心配そうだ。『何かあったんじゃないかとかも思ってしまって』「ん、ちょっと待って」 片手で明の携帯を鳴らしたが、やっぱり出ない。電池切れとか電波の加減ではなさそうだ。「出ないなあ」『どうしましょう』「何かわかったら電話します。今、お家?」 七海の家の電話番号を聞いて、舌打ちしながら受話器を置いた。「ばか明」 恋人を不安がらせて。 夢を思い出して唇を噛む。「ばか……京介」 なじって、そっと小さく笑う。 そんなことを言える資格は、きっと美並の手には入らない。 首を一つ強く振って、ざっと拭った濡れ髪で玄関から飛び出した。 **************** 今までの話は こちら
2025.10.21
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**************** なぁんか、ひっかかるなあ。 帰宅してまず一息とインスタントコーヒーを啜りながら美並は眉を寄せる。「うーむ」『キスして』 不安定な顔をしてねだってきた真崎、しかもどこか冷えた眼の色は殺気立つ一歩手前。『僕頑張るから、先に御褒美ちょうだい』 何を真崎は「頑張る」気なのか。 誰に対して、のほうがいいか、そう考えたときに頭に浮かんだ二つの顔は大石と大輔。「また、何か無茶しようとしてるんじゃないだろうなあ」 美並が先に退社しようとすると、あれこれ理由をつけてくっついてくるのが今日はなかった。 そりゃ、20代後半の男がべたべた甘えてくっついてこなかったからといって、不審がる方がおかしいのか。「うーむ…」 これはかなり真崎に毒されてる、と溜め息まじりにコーヒーを飲み干して立ち上がる。 今日はもうすることもないけど、何だか気分が僅かに沈んで食欲が湧かないから、気分転換に入浴することにした。 熱めの湯を満たして、ざっと体を洗って浸る。 湯舟の中にぼんやり揺れる自分の身体に、美並はまたちょっと落ち込んだ。 大石が連絡を絶ったとき、仕事で忙しいのだろうと思ったのも確かだけど、ほんの少し、美並に興味をなくしたのかもしれない、とも思った。 結婚を申し出てくれたのは一晩過ごした美並が『初めて』だったから、気遣ってのことで、本当はいろんな意味でがっかりしたんじゃないか、だからあえて急かすこともないのかもしれない。 自分が距離を置いておきながら、微かに微かにそうも疑った。「む」 湯に口元まで浸かって、ぼうっとする。『美並じゃない人を好きになる』 明の不吉な予言に胸がずきずきする。 その可能性はある、と美並は思っている。 真崎は、まあ言えば、成長途中で凍ってしまっていたようなものだ。 人を好きになることを知る前に恵子に踏み込まれ、大輔に踏みにじられて、他人と関係を持つことは自分を殺すことと同義になってしまった。 そこを美並がなお踏み入って、幸い真崎は美並を深くまで受け入れてくれた、それこそ殺されてもいい、ぐらいに。 だからこそ、美並は真崎が世界と通じ合う唯一の扉になってしまったのだ。 けれど、扉は少しずつ着実に開かれていく。それまで見えなかった世界が、見えなかった風景が、扉が開くに従って真崎の視界に入ってくる。 そして、心は動きだし再び成長し始める、本来の道をゆっくりと辿りながら。侵されなければ熟していただろう、豊かな実りを確かめながら。 その徴候はすでにある。美並に無防備に甘えてくる真崎が、人目を引くほど鮮やかな表情を見せるようになっている。「……」 大人になった真崎は、一体誰を求めるだろう。 それまで見ていた狭い世界の中だから、美並は価値があっただけで、もっと広くて美しい世界を眼にしたとき、美並なんて視界の端にも入らないかもしれない。 もっと心を動かす相手を見つけて魅かれていくかもしれない。 真崎が美並に甘えて側に居てくれるのは、今だけのことかもしれない。『その結果は変わらないにしても、少なくとも一つは鮮やかな思い出が手に入る。それできっと寂しくないよ』 明にはそう強がった。 でないときっと心配する。 ただでさえ、明は美並のやり方を案じている。 なのに、これほど真崎に魅かれていると知れば、もっと心配してしまう。 もう、明からは離れてやらなくちゃいけない、守るべき相手が居るのだから。 けれど、美並は?「……」 じっと眼を凝らして遠い記憶の光景を見る。 雪の上にぽつんと落ちた紅の光。舞い落ちた白い花びらを、めったにないこと、と女主人が言った。 仕方ない。 見えてしまうのだから、仕方ない。 一人で生きるしかない。 これで最後。「……」 ぷくん、と泡を吹いた。おどけたまねでもしなくては、零れた涙が辛かった。 これで最後だ。そう思えば頑張れる。真崎が背中を向けるまで、他の大事な相手を見つけるまで、素知らぬ顔で。 そう、思っていたのだけど。「……できる、かなぁ……」 初めて美並は不安になった。 ちゃんと離れられる、かなあ。 ざぶざぶと顔を洗う。 頑張るけど。 うんとうんと頑張るけど。 それこそ、自分の力にかけて。 でも。「できたら……」 目の前で真崎が他の女性を選ぶところは見たくないなあ……。 へへ、と笑ってみた。「その前に、辞めちゃえばいいかなあ」 新部署の話を思い出す。この先も一緒に働くことを望まれている、それはとても嬉しかった。 けれど同時に怖くなった。そんなにしっかり入り込んでしまっては、失う時にまた大怪我をする。大石を失った時のように、何もかもを削り落として立ち去る羽目になる。「二度は……やだなあ……」 中途半端な口調で呟きながら美並は膝を抱いた。熱い湯なのに、身体が冷えて重くなる。「きょ……すけ」 できる限り、名前で呼ばないでおこう。 できる限り、距離を保とう。 できる限り、負担を残さないように、不要になったらいつでも消えていけるように。「京介…」 それでも無意識に、名前を繰り返す自分が切ない。「もつかなあ…」 強いはずだけど。 慣れてるはずだけど。 ふ、と耳をそばだてた。 電話が鳴っている。部屋の電話だから真崎じゃない、そうとっさに思う自分に苦笑しながら、慌てて上がった。 **************** 今までの話は こちら
2025.10.20
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**************** ほのめかしにせよ何せよ、京介が思っている以上に伊吹はあちこちに顔を知られていて、しかも手元に置いてみたいと認識されている、そういうことだ。 それが恋愛だろうと使える部下としてであろうと、どちらにせよ他部署へ移動してしまえば、京介よりうんと長く、伊吹が他の男と時間を過ごすのは間違いないところで。 ただでさえ、一緒に居る時間が足りないのに。「っ」 思わずくっきり眉を寄せたとたん、電話が鳴って瞬時に意識を切り替えた。「はい、流通管理課、真崎です」『真崎京介さんですか』「はい?」 静かな男の口調にすぐに相手を悟った。『伊吹、明です』「……ああ、いえ、覚えていますよ」 伊吹をちらっと見たが、視線を向けていた相手はきょとんとした気配、すぐに慌てた顔でパソコンを覗き込む頬が薄赤くなっているのに、ちょっと気分を持ち直す。『あなたと話したいことがあるんです』 明はこの前と打って変わった大人びた口調で続けた。『姉の恋人である、あなたと』 甘いことばとは裏腹に、口調は冷然としている。どちらかというと、掌中の珠を奪われて怒りを堪えている父親のようだ。それは伊吹の落ち着きとどこかで繋がっているもののような気がした。『今日、会えませんか』「今日? そうですね……」 カレンダーを引き寄せる。学生が社会人を呼び出す気配ではない。へたをすれば、明は大石よりも遥かに聳え立つ岩になるのかもしれない。 踏み込む強さに怯みがない。こういう相手は厄介だと経験が教えてくれる。肉を切らせても骨を断てばよし、そういう気合い。 そっくりだな。 また伊吹を見ると、京介の視線に用があるのかと腰を浮かせるのがわかった。首を振って目を逸らせる。 これは伊吹には関係ない、というより、伊吹を伴った時点で失点がつくのは目に見えている。「会社が終わってからなら時間が取れます、それでは?」 十分な時間を取る用意がある、と示した。仕事中などのあっさりした話し合いで済ませる気はない、と。『嬉しいな』 明が軽く笑った。軽いけれども隙はない。気を抜けば斬られる。『ちゃんと俺と話してくれるんですね』 伊吹美並の弟じゃなくて。 付け加えたことばは京介の応対が正しかったと知らせてほっとする。 明についての情報を真崎はほとんど持っていない。何を要求し、何を評価する人間かわからない。 ただ一つ、身内感覚で話そうというつもりではないことはわかった。伊吹の恋人としてではなく一人の人間として、あるいは一人の男として、京介が話し合いに臨むことを求められている。「……ええ、僕もきちんとしたいと思ってましたから……連絡先は?」 一人の男として、明に誇れるようなもの、示せるようなものが、自分にあるだろうか。 思わず伊吹を見てしまう。「?」 伊吹が微かに眉を寄せた。京介の不安を感じ取ってくれたのか、心配そうな気配に譲れない、と思う。『俺の方が早く着いてるだろうから、待ってます』 指定された場所は公園だった。この前、伊吹がセーターを脱ぎ捨てた場所。 偶然なのか、それとも決着を付けるのに同じような場所を選ぶのが血の濃さなのか。「……わかりました。では、そこで」 切れた電話を置いて、メモした携帯番号を見つめた。 譲れない。 相手が誰でも、伊吹は譲れない。 伊吹だって、選んでくれたのだ、他でもない京介を。「伊吹さん」 それでも腹の底に滲むのはどす黒い不安。 僕に、彼を圧倒する何があるだろう。 机を回って近付いて、立ち上がった伊吹を思わず強く抱き寄せた。「課長」 甘い声。ここは職場、伊吹は部下、そんなことはわかっているけど、今はもっと確かなものが欲しい。「美並」「あの」「キスして」 ねだって返事を待たずに顎を押し上げる。「僕頑張るから、先に御褒美ちょうだい」 今拒まれたら崩れそうな気がする、やっと掻き集めた微かなプライドも。温かい唇を確かめて、吐息も全部吸い取って、今腕の中にいる伊吹が現実なんだと確かめなくては、きっと夜まで気力がもたない。「はあ? あの、ちょ」 開いた唇、柔らかな舌までもう少し、その瞬間。「課長~、細田さんが呼んでますけど~~」 ぶち。 一瞬石塚に殺意を抱いて、続いて自分の手落ちに気付く。「鍵かけとかなくちゃいけなかったな」 舌打ちしながら伊吹の唇を諦めた。 **************** 今までの話は こちら
2025.10.19
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**************** 考え込んだ顔をして帰っても、返事は悪くはないはず。 そう考えていたのに、翌朝になっても新部署への配置を了解したと伝えてこない伊吹に、京介は不安になった。 ちらりとパソコンを凝視している伊吹を見遣る。 真剣で真面目なだけ、怒っていたり不愉快そうではない、むしろ、今朝の伊吹は何だか落ち着いてて静かで、確かにこれまでも透明で綺麗な感じはあったけれど、いつもに増して清冽で。 まるで何かをはっきり決心したような表情。 それは夕べ携帯が繋がらなかったことと関係があるのだろうか、とついつい考えてしまう。 昨日は早く帰ったし、平日のことだから買い物に出かけたとしても夜には帰っているだろう、そう思ってもう一度かけたのに、やっぱり繋がらなくて。 さりげなく「昨日どこかへ出かけたの」と尋ねようと思ってたら、送ったはずの荷が紛失しただの届くはずの商品トラックが来ないだのでばたばたしているうちに昼近くなって。 三日伊吹と一緒に居て、伊吹の呼吸音を聞き慣れてしまったのか、夕べはあまり眠れなかったところへそれだったから、いつもより処理速度が落ちて手間取った。 とどめはコーヒーだけでも胃に入れておこうと自販機に向かった先に、経理の赤来課長が居たこと。 京介が卒なく、先日はうちの伊吹のことを配慮して頂きありがとうございました、と頭を下げると、茶色に染めた髪をくすぐったそうにかきあげて、ああ、あれ、と赤来は笑った。「いいよ、これで貸し借りなしってことだから」「貸し借り、なし?」「伊吹さんには助けてもらってるからね、二度も」 二度。 そんなことは聞いていない、と慌ただしく頭の中で情報を当たりながら、ついカフェラテのボタンを押した自分が微妙に情けない。 こくりと熱いのを呑み込んだはずの胃にひやひやとしたものが広がるのに、ようやく一つは思いつく。「阿倍野さんのお子さんのことですか」「さすが情報通」 赤来はにこやかに笑った。「あっちこっちのことをあいかわらずよく聞き込んでるなあ、真崎さんは」 まるで名探偵みたいだよね、彼女、と続ける。「アベちゃんからちょっと話を聞いただけで、何がどうなってるのかすぐ教えてくれたって、彼女も不思議がってた」 君が手放したがらないのはよくわかるよ、ましてや高山さんのとこじゃなあ。 苦笑する赤来の柔らかな雰囲気は京介とは違う種類、女性社員が富崎と並んで安心感のある男としてあげるだけのことはある。「俺だって、あの人は苦手だ」 伊吹さんならうまくやるかも知れないけどね。 さらっと優しく伊吹の名前を出されて京介はずきんとした。「もう一回っていうのは、俺が世話になったんだけど」「赤来さんが?」 これは初耳だ。 とっさに睨み付けてしまいそうになったのを堪えて、目を伏せながら、あつ、と呟き、カップに口をつける。「総務で書類を落としたんだよ」「総務…」「間の悪いことに、高山さんが来ててさ」 高山は女性に受けのいい赤来を煙たがっている。「これ幸いと、気持ちが緩むと指先も緩むんだなとか、ちょうどアベちゃんが体調崩して早退繰り返してた時だったから、それも当て擦られて」 部下の管理も緩みっ放しじゃないか、と。 ブラックコーヒーを含む赤来が薄く笑う。 大事な書類だったから、富崎さんも探してくれて、俺ももちろん探してて。「そうしたら、あの子が、この辺にないですか、って棚の辺りを覗き込んだかと思うと、ありましたって」 一瞬みんな呆気に取られた。俺や富崎さんはもちろん、高山さんだって、ぽかんとしちゃって。「彼女、直前に総務にメール便届けに来ただけなんだぜ? みんながさごそやってるから、どうしたんですか、って聞いて、総務の木崎さんだったかな、この机のあたりに落ちたらしいんだって言っただけ、それなのにまるで全部見てたみたいにすたすたって入ってきて、これですか、って」 京介は目を閉じる。 その光景はすぐに映像として想像できた。いつもみたいにシュレッダーの前で指先を翻すようなあの動きで、魔法みたいに書類を取り出してみせたのだ。 そうか、だから高山があれほど固執したのか。 納得と同時に、その伊吹が赤来の目にどう映ったかも察する。 きっと不思議で。 きっとひどく鮮やかで。「何だ、この子って、そう思った」「……」 そんな最初から、赤来は伊吹を見ていたのか。 じゃあ、今伊吹の側に京介が居るのは、たまたまか偶然、そういう僅かな確率だったわけ、か。 ゆっくり目を開けて、赤来が面白そうな顔をしながら横目を遣っているのに気付く。「…なんです?」「彼女と結婚するって?」「……ええ」「結婚したら、同一部署は駄目だよ?」「そうですね」「経理にもらえないかって、頼んでみようと思ってるんだけど」 じろり、と思わず相手を見返してしまった。「頭がいい子だよね?」「ええ」「仕事もきちんとやる」「そうです」「誠実で、丁寧だ」「………」「家庭を守るには最高の人かもしれないね?」「………それが?」「…そういう顔もできるんだ、真崎さん」 赤来が笑みを広げた。「感情がないのかと思ってたけど」「僕にだって感情ぐらいありますよ」「会議で見せてもらった」 やんわり指摘されて、京介は目を細めた。「……総務や人事に動かすぐらいなら、俺のところがましじゃない? もっとも伊吹さん次第だけど」 こくこくこくこく、ごくん。 一気にカフェラテを飲み干して、京介はぐしゃり、とカップを握り潰した。赤来がちょっと驚いた顔になって瞬きするのに、にっこり笑う。「決定権は僕にはない……もちろん、あなたにも」 **************** 今までの話は こちら
2025.10.18
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****************「七海には今週末に来るって言っとく」 翌朝、明はさらりと美並に約束させた。 もう少し真崎のことを突っ込んで聞いてくるかと思ったわりには拍子抜けできょとんとする美並に、「何?」「ううん、課長も一緒に行く、と思うんだけど」「ああ、親父達にも伝えとくよ」 あれだけ見栄えのする男を連れてくるなんて思ってないだろうから驚くぞ、と笑う。「明は」「ん?」 ぎゅ、ぎゅ、と玄関に座って靴の紐を締めている背中に尋ねる。「納得してくれた?」「……ガーディアン」「は?」「俺は、美並のガーディアンのつもり、だったから」 ぐい、と思い切るように足を踏み込んで立ち上がり、リュックを肩にかけ振り返らないまま吐く。「今まで姉ちゃんの判断が間違っていたことなんてない」 ちら、と肩越しに投げてきた瞳が一瞬鋭く光る。「俺の気持ちがどうであれ、姉ちゃんがもう決めているなら、俺に文句はない」「あ…うん」 そびやかした肩が開いたドアから差し込む朝日の中に溶け込む。『大石のくま、どうしたの?』 夕べ眠りにつく寸前に響いた声を思い出した。『捨てた』『ふぅん』 一言で答えた美並に唸って、小さな声で付け加えたことば。『なんで……って言うより、誰のために、って聞くべきなんだろうな』 それほど美並はあの人を守りたいのか。 そうだきっとこの気持ちは、真崎を守りたい、その思いが一番近い。 ようやく笑うようになった。 ようやく甘えるようになった。 ようやく安心した顔で眠るようになった。 ざくざくに砕かれた心をそっと拾い上げて見せてくれるようになった。 その信頼をもう一かけらでも傷つけたくない。『でも、美並』 それは恋愛じゃ、ないんじゃないか。 明は静かに優しく指摘してきた。『いいのか』 いいんだよ。『報われないかもしれない』 いいんだ。『もし、あの人が』 明は何度も美並と周囲の人間のやりとりを見ている。その上でのことばは重くて強い。『あの人が気付いたら』 うん。『その時、美並はあの人の前で「女」じゃなくなる』 わかってる。『それならまだいい、ひょっとしたらあの人は』 明だから一番言いにくいことばをはっきり口にしてくれた。『美並じゃない人を好きになる』 うん。『美並、俺はそんなの』 明。 零れた涙を一通り拭って閉じていた目を薄く開いた。 暗い部屋に幻のように浮かび上がる、白い雪の上の艶やかな紅。 これで、最後だ。『……っ』 一人で生きるつもりだった。 一人で死ぬつもりだった。 気持ちを近付けて、寄り添って、誰かとなんて、ずっと諦めてきた。『……』 これが私ならこれで生きていくしかない。その結果が一人なら、受け入れるしかない、そう思ってきた。 けれど、その結果は変わらないにしても、少なくとも一つは鮮やかな思い出が手に入る。 それできっと寂しくないよ。『美並…っ』 これで最後だ、明。ここまで踏み込むのは、これで最後にする。約束する。『……』 明?『……』 寝たの?『……寝た』 ふてくされた声に苦笑しながら眠りに落ちて見た夢は、深く暗い海の底で待っている真崎の姿。 みなみ。 海面から降りていく美並に両手を差し伸べてくるのを抱き締めてキスを落とすと、ほっとした顔で笑う、その笑顔がただ愛しくて、胸に強く引き寄せた。「じゃ、行くから」 明の声に我に返る。「今日は学校?」「いや……一度家に戻って、また出る」「デート?」「そんなとこ」 明がくすりと笑って出て行くのを見送った。 納得はしてない、だろうなあ。 出勤してキーボードを叩きながら美並は微かに溜め息をつく。 ガーディアン、なんて懐かしいことばを口にしたから思わず、「ぼくがみなみをまもるっ」と宣言した小学生の明を思い出してしまった。 あの頃流行っていたテレビ番組の主人公が確かヒロインを守るために「ガーディアン」に変身するとかいうもので、普段は運動音痴で引っ込み思案な少年が「がーでぃあーん!」と叫ぶとスポーツ万能リーダーシップのあるヒーローになって、ヒロインの巻き込まれた事件を解決していくという代物だったはずだ。 事実、幼稚園の時はどちらかというと大人しかった明がやたらめたらと張り切りだして、苦手だった体育も一気に得意科目になったのではなかったか。3 on 3というバスケットボールの一種にはまったのもその後で、中学のときは校外でも結構名前を知られていた。「はい、流通管理課、真崎です」 視界の向こうで、鳴った電話を取り上げた真崎が微笑みながら応対する。 その柔らかな物腰に今朝の明の厳しい気配を重ね、正面切ってぶつかったら、きっと真崎の体力負けだな、と考えた瞬間、相手が視線を上げてどきりとする。「はい? ……ああ、いえ、覚えていますよ」 何か商談なのだろう、微かに眉を寄せてメモを取り出すのにほっとして、美並はパソコン画面に意識を戻す。真崎が気付くほど凝視していたのだろうかと少し顔が熱くなる。「今日? そうですね……」 真崎が手元のカレンダーを引き寄せながら、またちらりと美並を見遣った。「?」 何か用だろうか、至急のコピーとか席を外している石塚に確認してほしいことがあるとかか、と席を立とうとすると軽く首を振って目を逸らした。特に美並に用というのではないらしい。「会社終わってからなら時間が取れます、それでは?」 急な仕事らしい。神経質そうにメモをボールペンの先で突いている。「……ええ、僕もきちんとしたいと思ってましたから」 連絡先は、とメモしている真崎がまた美並を見た。「?」 なんだ?「……わかりました。では、そこで」 そのまま電話を切った真崎が、妙に厳しい顔でメモを見つめていたかと思うと、「伊吹さん」「はい」 ぱたりとメモを伏せ立ち上がり、机を回って急ぎ足に近付いてきた。 やっぱり何か用があるのか、と美並も手を止めて立ち上がると、いきなりふわりと抱き締められて驚く。「課長」「美並」 低い声で耳元で囁かれてびくりとする。「あの」「キスして」「はい?」「僕頑張るから、先に御褒美ちょうだい」「はあ? あの、ちょ」 あわやそのまま重ねられそうになったとたん、「課長~、細田さんが呼んでますけど~~」 ドアの外から石塚の声が響いて二人とも固まった。「……鍵かけとかなくちゃいけなかったな」「違うだろ」 軽い舌打ちをした真崎に思わず美並は突っ込んだ。 **************** 今までの話は こちら
2025.10.17
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****************「なあ、美並」 ベッドの横にシュラフにくるまって寝転んだ明が夜更けに声をかけてきた。 美並、は明が大学へ行き出してから、改まった話をする時に使う呼び名になっている。「寝た?」「何?」「……あいつのこと、もう忘れた?」 あいつ、が誰を指すのか、お互いに確認しなくともわかっている。 美並は眼を開け、じっと天井を見つめた。「忘れてない」 明に隠し立てをするつもりはない。特に美並、と呼び掛けてきたときは。「……恨んでる?」「ううん」「………真崎、ってやつは、あいつのこと、知ってる?」「うん」 その応えは明にとってなぜか意外だったらしい。「……そんなふうには見えなかったけどな」「え?」「いつから付き合ってるの?」「うーむ」「うーむ……って何だよ」「どのあたりから付き合ってるって言うのかな……」「おい」 シュラフのジッパーを開いてむくりと明が体を起こす。「何だよ、そのどのあたりからって……っ」 覗き込んできた明が振り向いた美並に一瞬微かに息を呑んだ。「………何」「いや、その」 明らかな困惑を浮かべて顔を背ける。「なんか今一瞬、美並に見えなかったから」「はい?」「どっかの知らない女に見えた」「何よ、それ」 七海さんに言い付けるわよ、とからかうと明が苦笑する。「あ、そういうこと?」「ん?」「美並、もうあの人と夜一緒に過ごしたことあんだ?」「う」 あいかわらずはっきり物を言うよね、そう思いつつ、ふと明のことばに引っ掛かる。「あの、人?」「あ」「私、明に課長のこと話したのは初めてだよね?」「……ああ」「どこで課長見たの?」「……ちぇっ」 明が軽く舌打ちする。どたん、と大袈裟にシュラフに転がって天井を見上げる。「ばれちゃった」「何が」「一度、姉ちゃんの会社、見に行ったことがあるんだよ」「え?」「どうしてるかってみんな気にしてたから」「ああ」 美並、が姉ちゃん、に戻った。 美並も同じように天井を見上げながら眼を閉じる。 明は今嘘をつこうとしているんだ、とわかる。距離を取り、美並に知らせたくないことをそっと隠そうとしている。 明が美並を傷つけるような嘘をつくことはない。ならば、安心して、だまされればいい。そう思ったけど。「そうしたら、迷っちゃって、その時に会ったことがある人がそうかなと思って」 明は一人でキャンプに出かけたりすることもある。単独で行動するのも集団で行動するのも得意で、しかも今度就くのは営業職、このあたりの単純な街並で迷うとは思えない。「真崎さん、って呼ばれてたから」 なんかえらく綺麗な顔してる人だろ。『なんか男のくせに妙に華やかで綺麗な顔してるやつで』 綺麗な顔。 同じ表現が別人で二度重なることは少ない。ましてや「綺麗な」「男」となるとかなり限られてくる表現、それを明が立続けに口にして気付く。「明」「ん?」「課長に御飯奢ってもらったの?」「う」「なんで?」「あ~」 明が頼りない声を上げた。「やっぱり。姉ちゃんに隠し事できるとは思ってなかったけどなあ」 溜め息をついてがしがしと頭をかいた。やがて、その手をぴたりと止める。「あのさ、はっきり言うけど」 ゆっくりと大きな息を吐いて、明が静かに続けた。「あの人は、やめろよ」「……なんで?」 やっぱり明はそう言うだろう、と思っていた。 美並は少し息を吐く。「……綺麗、すぎるじゃん」 その理由もまた明特有だ。「欲しがる人、一杯いるだろ」「…うん」 眼を閉じたまま頷いた闇の視界には、大輔の強ばった笑顔や恵子の媚びる表情、相子の引きつった顔が次々と過る。「姉ちゃん、きっと怪我する」 明が不愉快そうに呟いた。「あの人じゃ、守り切れない」 力不足ってこと? そう尋ねると、明は少し黙った。 沈黙がゆっくりと夜気に冷えて凝っていく。「力は……あるよ、きっと」 見えてる以上にタフでしたたかな人なんだろうと思う。 考え考え明は呟いた。その口調に、ただ迷ったときに出会った、そういうことではないな、と美並は思った。 通りすがったより深く、おしゃべりしたより近く、明は真崎と接したことがあるのだ。 なのに、真崎は明と会ったこと、明のことを知っていることを露ほども見せなかった。真崎がそうやって感情を殺すとき、それは自分に関することだと美並はもうわかっている。大石に見せたように、美並に装ったように、自分の大切なものを手放そうとするとき、真崎は自分を殺してしまうのだ。 そして、それは時に一気に弾けてしまう。 会社で美並が辞めるのかと迫った激しい感情、あれはひょっとして明から何かを知って不安になったからなのか?「明」「ん」「京介に何を話したの」「え?」「私のこと、何か話したでしょう」 明がぎゅっと唇を閉じた気配がした。「あなたじゃだめだ、そんなこと言ってないわよね?」「……姉ちゃん」「何も言わずに黙ってただろうけど、」 それとも平然と笑っていたかもしれないけど。 美並はずきずきする胸に喉を詰まらせそうになりながら続ける。「私に言ったみたいに、京介に、諦めろとか、言ってないわよね?」 きっとそう言われても、真崎は理由も正さず聞いていただろうけれど。 閉じた目蓋の裏が一気に熱くなって美並は慌てて目を見開いた。ゆらりと闇が揺れる。真崎の、いつか見たベランダに立ちすくんで微笑んだ淡い笑みを底に溶かして。「やっと、好きだっていう気持ちがわかってきたのに、そんなひどいこと、してないわよね?」「……美並…」 ごそりと起きた明が零れ落ちた美並の涙に気付いて低い声で呟いた。「……決めちゃってるんだ?」「うん」「誰が反対しても」「うん」「俺が嫌がっても」「うん」 ごめん、明。「………昔から」 微かな溜め息をついて、明が首を振った。「こうと決めたら、もう引かない」 やれやれ、厄介な姉きだよね。 ゆっくりと寝そべりながら明は笑った。 **************** 今までの話は こちら
2025.10.16
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**************** こうなると明はめったなことではしゃべらない。やれやれと溜め息をついて美並は話を変える。「七海さんが、何を心配してるの?」「ああ、うん」 ぎゅっと握った手でパスタを二つ折りにして鍋に煮立った湯に放り込む。明得意のスープスパゲッティを作ってくれるつもりらしい。まかせて着替え、ざっと顔を洗って部屋に戻ってくると、テーブルにはもう皿とフォーク、スプーンが並べられている。「自分のせいで戻ってこないんじゃないかって」「違うよ」 思わず反論した。「そんなことは関係ない」「俺もそうだと言った。姉ちゃんは目が見えないとか、そういう『その他』のことで七海を拒んだりしないって」 明の彼女が視力を失っていることを知ったのは最近だ。両親は早くに亡くなったらしいが、おばさんと言うのが彼女の音楽系の素質を見抜いてくれ幼い頃から訓練してくれ、今ではハープ奏者としてイベントや結婚式で活躍している。「だけど、って言うんだ、家のことができないとか、子供が産まれたらとか、そういうことを心配されたりするのは当然だって…ほい、パスタ。食べよう」「あ、ありがと」 どさりと腰を降ろした明は炊飯器の具合を見ながら、この後のことを算段している顔、くるりと振り返ってにやっと笑った。「だから、姉ちゃんがずっと帰ってこないと、俺はずっと七海を悲しませなくちゃならないから、凄く辛いんだけど」「戻るってば」「いつ」「う…」「日にちを七海に教えてやりたい」「……えーと、あっちの都合も聞かなくちゃならないし」「あっち?」「だから、その、付き合ってる、人の」「ああ、なるほど」 くるくるんと巻き付けたパスタをぱくぱく口に運びながら明が頷く。「じゃあ、今週の土日とかでどう」「いきなり?」「先延ばしして何かある?」 この先って12月にかかってったらイベントだらけだし、七海も時間取れなくなるし。「忙しいの?」「うん。前はデパートとかのホールが多かったけれど、今ファミリーコンサートみたいなのによく呼ばれてる」「そっか……」 目が見えなくても七海には七海の仕事があり立派に社会人としてやっている、それが偉いと褒めた父親に、明は『見えなくても』って何だよ、と食ってかかったことがある。眼鏡かけてても社会人として働いてて立派だなんて言わないだろ、と。思わぬ明の剣幕に、両親ともにそういう意味ではない、と慌てて弁解したものの、そう言い返してしまうほど、明は七海の過ごしてきた日々を寄り添ってきたのだとよくわかる出来事だった。 そして今、その大事な相手を不安がらせている身内に直談判しに来たのだ、そう思って美並はちょっとくすぐったくなる。 大きくなっちゃったなあ、あの小さな『あきくん』が。「わかった、土日大丈夫か、聞いてみる」「約束な」「うん」 今日の様子ではそれほど強く嫌がらないんじゃないかと思うんだけど、そう美並が考えていると、御飯が炊けたと明が卵チャーハンを作りに立ちながら尋ねてきた。「そうだ、相手の名前もまだ聞いてないな。なんて言う人」「えーと、真崎、京介……今勤めてる課の課長、なんだけど」「げ」「明?」 ぎくん、と明が固まって思わずフォークを止めた。 **************** 今までの話は こちら
2025.10.15
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