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仙台堀■○■○■○■○ ○■○■○■○■ 仙台堀というのは六郷堀と七郷堀のことです。 城下の船運、用水として作られたもので、現在も農業用水として活躍していますし、染物を洗う水としても活用していて(「らしいよ」という話)、今だ川に降りるステップや階段(「堰場(どうば)」)が残っています。(「堰場」という用水に由来する地名も残っています。)◆◆◆◆◆◆堰場(どうば)◆◆◆◆◆ 堰場というのは、これだけ有名な広瀬川と本当に関わりのある町。堰場を「どうば」と読むのは「堰」の方言が「どう」だからです。 旧七郷村や六郷村の農民は、七郷堰や六郷堰をめぐって水争いをしたので、そのたびに堰場は戦場になりました。 かつては、よく洪水に見舞われた場所でした。昭和26年に仙台市が六郷堀と七郷堀の取水口をひとつにする愛宕堰の建設をはじめ、4年で完成しました。 県は昭和28年から護岸工事をはじめ、昭和29年に完成し洪水からは救われました。 六郷堀は町筋にだいたいそっています。しかし、七郷堀は道路を横切って流れています。 七郷堀はもともと自然の流水路でした。自然をたくみに利用して水路をつくったわけです。 現在の仙台南署の西側には伊達家の米蔵があり、若林御米蔵と呼ばれました。 南署の前を通る国道ができたのは昭和9年、昭和11年には長町方面に電車が開通しました。★昭和のはじめころまではほたるのいた堀でしたが、堀は下流に行くにしたがってきたなくなり、卸町の水産市場のあたりでは、会社が燃やしたごみを堀に捨てたりしているものですから、もうドブになっています。(ここまで暗渠(あんきょ)になったりしています:一本杉に銭湯があります。そこらへんから暗渠に→堀→(愛染蔵のところで)暗渠→山善あたりで堀→卸町でどぶ川:これが大沼まで続き貞山掘にまで流れ込んでいます) ただ、若林区役所まではなんとか散歩できるのでそこらへんを紹介します。 ◆広瀬川からの引き込みのあたり(愛宕堰) ◆六郷堀と七郷堀の水量調整箇所(六、七郷堀分水堰) 水門の向こうに架かっている石の橋(中が空洞になっています)や川の流れを見ていても見なれていないと新鮮に見えます(流れが早い!緑色!) 渡っていると気づかないでしょう穴のあいたコンクリートの型取りの支柱や橋の下の石垣、配水口・配水口もだんだん目にできなくなっている「水」の文化です。 特に仙台南警察署の前は橋になっていることを車で走っていると気づかないでしょう。◆◆◆◆◆◆染物工場 ◆◆◆◆◆ :七郷堀は藍染川とも呼ばれました。 昭和41年の段階では染め物屋は7軒ありましたが、現在は2軒ですか? 藩政時代は伊達家の保護もあり栄えた町でした。この近くの三百人町、五十人町といった足軽の町からの「脚ハン」などを扱っていました。つまり同じく、染師の町である上染師町では絹ものを扱っていたので、江戸時代の上流階級とのつきあいが多かったのですが、ここは木綿類が多かった。よって、明治に入り、いわゆる大衆的な仕事を受注しやすかった町だったわけです。上染師町は明治から衰退し、戦前にはほとんど姿を消しました。 染めものにこの堀が使われるとしてもせいぜい荒落としに使うくらいで、染めものには水はきれいとはいえません。 しかし、上染師町には染め物屋はもうまったくないのだから命脈を保っているまちとも言えます。 名取屋染工場は木造の工場で屋根はトタンと木。サッシでない窓、木の壁、割れたままになっているガラス窓が昔の工場っぽい感じです。 中は薄暗く柱の押えが/と、なっている。(ディズニーランドのビッグサンダーマウンテンの建物みたい) ◆◆◆◆◆◆石橋屋◆◆◆◆◆ 駄菓子やの前、ここが一番写真にとられるところです。屋根の下の壁面のまっすぐでない横に走った柱はなんだ?デザインでしょうか?田舎のほうで、気を付けているとこういう柱のデザインは多くあります。 店の前に明りがともる時もよい風景になります。◆◆◆◆◆◆南材橋と谷風◆◆◆◆◆ 谷風は、身長189センチ、体重169キロ、胸囲221センチの大型の力士でした。七場所連続63連勝した力士で、錦絵にも登場しています。 谷風はこの堀さらいをしていたところを仙台場所に来ていた関ノ戸億右衛門にスカウトされました。(17歳のとき:南材橋のたもとで)。谷風が力士になってお礼参りをしたときに石の手洗い鉢に足型をつけたというのが「谷風の踏み石」が国分寺薬師堂の左のほうにあります。谷風の菩提寺の東漸寺(南鍛冶町)には「谷風の碑」があります。(墓は霞目にあります) (それから修業し、「27歳で江戸に出て部屋入り。翌年初土俵」という話と「19歳のとき初土俵」という話があります。40歳のときに横綱になり40歳(ん?)まで力士をつとめたということでも評価されています。::勾当台公園に「谷風の銅像」があります。)◆◆◆◆◆◆愛染明王:その前の橋が愛染橋◆◆◆◆◆ 愛染明王は1664年に南染師町の守り本尊として京都三条の愛染町から分霊をうけて祀りました。 5月25・26日はおまつり。 お堂は火災にたびたび失われており、現在のものは文久年間に修理がされたもののようです。 チベットの分怒の明王です。けっこう大きくて迫力があります。愛を守ろうとする激しい表情といいます。愛欲を表現するために体が赤く塗られています。「愛」なのか「愛欲」なのかは、道徳的なすりかえというより、「陰と陽」裏表の関係でどちらも正しいとか。 日本の仏像は「静」のイメージですが、チベットの像なんかではこんな感じのもが多いです。おまけに、女性を前にしているのも多くあるので、案外「愛欲」というのが正しいのかもしれません。愛染明王の右にあるのは火伏せの不動明王です。 堂の上に菊の紋がありますが、これは伊達の使った紋のうちの一つでしょうか、16なら菊の御紋。伊達の紋は20弁です。 石碑にある「山の神」は「春には里に降りて、秋には収穫が終ると山へ帰るという神で、農民、木こり、漁師、炭焼きなどから信仰される神です。 政宗が死んで経が峰に祀られて、花壇橋が架けられました。殿様、お姫様が瑞鳳殿にお参りするために渡るようになり、そこらへんは染物の職人がいた町でしたが、染物の晒しは「不調法千万」ということで、南染師町(農民町人下級武士相手の木綿染め)と上染師町(武士を相手の絹物染め)に移らされました。 それ以前の南染師町は東に小保町(おほまち)という遊廓(女郎屋)がありました。■■■■■■■■■■■■南染師町■■■■■■■■■■■■(仙台城下町方二十四町のひとつです。)霊屋下に、霊廟建設以前には政宗御供の染師が住んでいました。寛永13年の霊廟造営の時に移転させられました。伊達御供を誇る6軒を中心として七郷掘を利用しながら需要の多い木綿染めを独占的に扱って栄えました。◆◆◆◆◆◆東橋 ◆◆◆◆◆ 西行法師・能因法師・芭蕉も歩いた東街道ともクロスします。 七郷堀、鞍配堀の分岐点。ここにあるスロープは冬に水を止め際に、機械を入れて川底を掃除するためのものです。 文化町には桜並木もあり(文化町の桜:区役所前)、隠れた花見スポットになっています。樹齢60年ですが、30数本ある)この近所には「コーポ桜並木」というネーミングもあります。■この堀を行くと、刑務所になってしまいます。ここは、晩年の政宗の城下の仕上げとして、南の防備のための城として作った「若林城」の跡です。 政宗は机上計画をする人ではなく、現場に出て、若林城に自ら移りました。政宗はは晩年の8年間をここで過ごしました。 政宗が死んだ後、徳川将軍に謀反のうたがいを持たれないように「若林城」は壊しました。ただ、二重あった堀のうち一重だけが残っています。 このそばには行人塚と呼ばれる塚があります。
2006.10.02
■■■■■■■■■■■■北鍛冶町■■■■■■■■■■■■仙台城下町方二十四町のひとつです。 北鍛冶町は鍛冶職人たちが住んでいた町です。(町人と混住)。 開府当時は元鍛冶丁(もとかんちょう)に鍛冶職たちをおきましたが、寛永年間(1624ー44)末に、元鍛冶丁付近を侍屋敷に指定すると共に、南鍛冶町とここ北鍛冶町に分けてすまわせました。その後、鍛冶職衆の町として繁盛した、刀匠、鋳物師の店があったところです。 そうした店にまじって、飲食店などの商店もならんで繁盛したようです。 当時は陸羽街道沿いがひらけていて(芭蕉の辻、国分町、二日町、北鍛冶町、通町、堤町と抜ける)、ここは仙台城下の幹線でした。 戦後は、鍛冶屋はいっさい姿を消し、金物屋としてのこぎり屋が1軒残ったそうです。 土井晩翠はこの北鍛冶町の出身で、家は北鍛冶町18番地で質屋をやっていたそうです。(明治4年生まれ)。8歳に現在の木町通小学校に入学するまでをこの町ですごしました。
2006.10.02
■■■■■■■■■■■■姉歯横丁■■■■■■■■■■■■ 荒町から愛宕橋に向かって下がって行く横丁です。幸洋堂から東へはじめての信号のところを南(右)折れたところ、荒町小学校の東の道になります。かつては土樋止まりの横丁で、真福寺門前に突き当たっていて、愛宕橋まではつながっていませんでした。それが開通したのは明治の末のことです。昔、姉歯八郎右衛門という人が住んでいたので、その姓がこの横丁の名前になりました。明治維新の頃に仙台初代区長の松倉恂が、この横丁に住んでいたので松倉横丁とも呼ばれました。 荒町小学校校舎西の川村孫兵衛重吉の堀の跡(小さな石碑があります)。かつては、二軒茶屋を通り、宮城野原方面まで通っていました。■○■○■○■○■■○■○■○■○■○ 歩きながら確かめる旧町名 ○南鍛冶町から穀町南鍛冶町◆穀町◆南材木町◆河原町■○■○■○■○ ○■○■○■○■◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆南鍛冶町◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆ 南鍛冶町は北鍛冶町と同じく、寛永5年~11年(1628~34)、城下拡張に伴って、元鍛冶丁(もとかんちょう)から移ってきた町になります。鍛冶職衆の町でした。米沢以来従ってきた者が大部分です。 当時の手鞠歌に「金をたたいて長者とならば、南鍛冶町みな長者」と歌われています。刃物の鍛造の腕のある職人もいたようです。 「我妻紙店」は「洞口金物店」もともとは鍛冶屋だったそうです。 町の守護神三宝大荒神は火伏せの神様で、元和年間(1615~24)の創建といますから、寛永5年以前から鍛冶職衆が住んでいたとも考えられます。元和年間というと、元和2年、伊達政宗にひきいられて大阪の役に出陣した鉄砲町の鉄砲組足軽衆百二名が和光明神を町内の武神としてまつった時期と重なります。関係があるんでしょうか?◆三宝大荒神 御神体の御開帳をしないので有名です。この御神体を御開帳すると町に変事が起こると言うことで開帳はしていません。 南鍛冶町の鍛冶職たちが火伏せの神様としてまつりました。◆東漸寺 谷風の碑 のある寺です。 谷風の菩提寺の東漸寺(南鍛冶町)です。樹齢三百五十年のクロマツがあります。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆穀町◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆ 道が南材木町に入るところで城下町特有の軍事上の見通しをさえぎった曲がりくねった鍵型の道になっています。 すぐそばの三百人町に足軽がおかれていました。足軽の配置は、旗本足軽は城の近くにおかれましたが、普通の足軽は城下の外に通じる街道の端などにおかれています。 穀町は穀物売買の特権を許された穀物問屋の町でした。 仙台市発行の『辻標』には「高橋屋儀右衛門が権利を与えられて穀物問屋を開いたので穀町の名が生まれたという」ともあります。 寛永年間(1624ー38、44)に開かれました。新伝馬町、二日町、立町とで四穀町と呼ばれ、五穀の相場を決めていました。舟丁(船着き場)が近いので、七郷からの米を水運で運んだのです。明治末にメソジスト教会がありました。町内にいまでも土蔵が点在しています。■■■■■■■■■■■■舟丁■■■■■■■■■■■■御舟衆(船乗)が住みました。広瀬川、名取川を利用して、閖上から米や材木を運びました。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆石名坂◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆ 穀町保育園から西へ行った道で、弓の町に通じる道です。うどん市の通りの1本北です。うどん市の通りは土樋新丁(=閻魔堂横丁)です。 仙台では舟丁あたりにあった遊女宿に「石名」という遊女がいました。九州出身で、武士の娘でしたが、その父と一緒に仙台に流れてきたのです。ところが、美貌の上に学問もあったので、とある有力者が口をきき、江戸の吉原に移りました。(なぜ?。どの文献を見ても、すんなりと過ぎる説明ですが不思議です。とある有力者にだまされたか、父が失業などで困窮したのでしょうか?) この坂はこの「石名」が住んでいた場所ということで、そう呼ばれました。 石名は吉原随一となり、そのためつぶれた他の遊女屋もでたということです。石名は死ぬ間際、罪滅ぼしのためにと橋のなかった源兵衛堀に橋をかけてくれるように遺言し、石橋がかけられました。(なぜ?。どんな罪だというのでしょう。他の遊女屋をつぶしたことだとでも言うのでしょうか?) 亡くなった後、吉原の楼主や茶屋の旦那、遊女などが、その追善供養のため大般若経教600巻を、菩提となる当地の円福寺に納めたそうです。今も、円福寺に、山門を入って左手に石名さんのお墓があります。 源兵衛堀はのちに埋め立てられましたが、明治の末ころに、その石橋が掘りだされました。 約90センチほどの石碑で、碑は摩耗していますが、現在も円福寺の北の交差点にあるそうです。 碑面から「石名」が死んだのは承応3年(1654)ということです。円福寺には「石名」の追善に吉原の遊女らが贈った経が保存されています。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆南材木町◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆(仙台城下町方二十四町のひとつです。)寛永年間(1624ー44)に仙台城下の第一次工事がはじまりましたが、仙台城下を南に拡張する際の材木を供給するために割り出されました。最初は若林材木町と呼ばれました。仙台城下町方二十四町のひとつで、材木や煙草の専売権を与えられていました。仙台市発行の『辻標』に、「江戸道中南口、後の国道沿いの商人町として栄えた」と記述されています。江戸道中というのはイコール奥州街道のことになっていますが、狭義には江戸千住から白河までのことのようです。広義では青森三厩までですが。戦災をのがれたため、蔵や町屋風の古い建物が残っています。「平野材木」は創業明治10年。建物は昭和の始めのころのものです。■■■■■■■■■■■■竹屋横丁■■■■■■■■■■■■南材木町と南石切町とを結ぶ横丁です。ここにかつて、竹を売買する所があったことに由来します。(仙台市発行の『辻標』には「竹屋」となってます。)竹は弓矢、旗竿をはじめ、建築用材や日用雑器などに広く用いられるため特別の保護育成がされていたようです。他領への移出も禁じられていたといいます。■■■■■■■■■■■■南石切町■■■■■■■■■■■■寛永初期に城下を南に拡張する際に、石材需要に対応するため石垣衆をここに配置しました。石工の本場近江領から選抜されてきた人々で、特に細工物が得意でした。伊達家ゆかりの墓所や社寺に灯籠、鳥居などの作品を残しています。南石切町の南端は明治18年に南材小学校敷地となりました。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆新弓ノ町◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆仙台には鉄砲町も弓ノ町もあります。 昔の鉄砲は火縄銃。火縄銃が雨で使えないときにはどうしても弓が必要だったのです。 弓は兵器です。藩政下では、藩主から扶持を給されて兵器製作に従事していた職人を、兵具方(かた)と腰物方のふたつに分けていました。弓は兵具に入りますが、他には具足、弓、鉄砲、槍などが兵具方になり、定員94名とされていました。一方、腰物方は刀剣で、定員は49人になります。 これらの人達がそれぞれに弟子をかかえて製作にあたっていました。 製作はすべて分業で、弓などは 弓打・弓塗・弦指(つるさし)・矢師・矢鍬摺・靱張(るつぼはり)のように分かれていました。 比較的高給でしたが、弟子をかかえていためのようです。藩政時代、南材木町の西裏の2丁に、御弓衆(弓組の一隊)が居住していました。(弓の町のほうです)。ところが、寛永14年頃に南染師町の東の小保町(おほまち)から遊廓屋をこの弓の町に移しました。そこで、御弓衆は河原町北裏に移りました。それが、ここ新弓ノ町になります。仙台市発行の『辻標』によれば、「延宝6年(1678)に当時奉行職にあった布施和泉により新たに組織された御弓組が居住した町」とありますので、この遊廓屋からの押しだされ移転に布施和泉さんが関わったのかもしれません。???。町内の八幡神社は京都の石清水八幡宮の分霊といわれ、享保2年(1717)布施氏により勧請されました。ただし、『仙台地名考』によれば、京都の男山八幡宮の分霊で、仙台市発行の『辻標』によれば京都の石清水八幡宮の分霊です。同じなのかな?■■■■■■■■■■■■八軒小路■■■■■■■■■■■■南側は畑で、北側に八軒人家があった小路のようです。『仙台地名考』の表現では「町名のごとくかつては八軒程度の人家に過ぎない淋しい畑地」だとか。
2006.10.02
■●■●■●■●■■●■●■●■●■荒町■●■●■●■● ●■●■●■●■◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆荒町◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆ かつては、荒町の商店街通りは奥州街道の本筋でした。 寛永年間(1624ー44)に仙台城下の第一次工事がはじまりましたが、大町3丁目から南へ袋町にいたる本荒町から元禄8年(1695)ころ移ってきたものです(詳細は「本荒町」のところに)。 奥州街道が荒町を通るようになったのは、寛永四、五年です。街道に移り、荒町は麹(造酒用)やうちわの産地として知られるようになりました。回文師仙台庵の「渋うちわ」は伝統的な名産でした。町内のほとんどが麹屋だったそうです。 商人の町だったので、現在でも、「うなぎの寝床」と言われるように、間口は狭く、奥に長い建物が多いのが特徴です。 荒町の通りを東にいったつきあたり(穀町の南端)は城下の戦略上見通し悪く曲がっています。いわゆる「八門遁甲の図(多くの出入り口を設けて、人目をくらまして、身をかくす図式)です。 町割や屋敷割は、築城奉行らが設計しました。 穀町は仙台城の南端だったので防衛に重点がおかれたのです。 麹作りの店は、文政10年(1827)に55軒、明治時代は100軒程ありましたが、酒税の実施によって次第に姿を消していきました。銭形屋麹店があります。創業は慶長8年(1603)です。御譜代町六町のひとつです。●満福寺 仙台七福神のひとつ子育て毘沙門天があります。いつもはご開帳していませんが、小さな窓からのぞけます。毘沙門天は名取郡北目城下にあったのを政宗がここに移しました。 子育てというよりも戦いの神なのですが、ここでは子育てがご利益のナンバーワンになっています。祭礼の子供相撲というのがあって、土地の名物でしたが、戦後経費の理由から廃れました。 石の鳥居の左(西)に「奇縁二天石」という石柱があります。これは、昔の情報掲示板ので、「たずぬる方」に求人などの貼紙をすると、「をしゆる方」に答えが貼られたのです。(藩政時代) 本堂の裏にある日限(ひぎり)地蔵は、決めた日にお参りに通うと願いがかなうという地蔵です。その右にあるミザルイワザルキカザルの碑は拓本向きの構図です。 ●泰心院山門 藩校養賢堂の門だったものです。 4脚もなかなかこっていますし、門の上にある何個かの木のボールはなにを意味しているのか考えたり、山門にある家紋に「はーっ」と感動するのもいいでしょう。 綱村公寄進の仙台城からの傘松があります。●佛眼寺 ここで、仙台藩の医者、木村壽禎が、仙台ではじめて解剖をしました。処刑されたしたいを解剖したもので、その供養として、本堂に「木村壽禎解剖亊蹟之碑」があります。 この佛眼寺にある「飛曼茶羅」という、火災のときに青葉城まで飛んでいって難をのがれたという曼茶羅もありました。火事場泥棒が青葉城に売りに行ったのか?。それ以来、城のほうで保管されることになったとか。
2006.10.02
■■■■■■■■■■■■元鍛冶町(もとかじまち)■■■■■■■■■■■■ 国分町の交番があるところが元鍛冶町公園。その前の通りです。国分町の丸伊プラザの角から、ぐりんぴいすに至るところの道です(が、ぐりんぴいすまでの名称ではありません)。政宗が仙台城下を割り出した際、鍛冶職衆を配置しました。間もなく侍屋敷としたために、鍛冶職衆を南方は南鍛冶町、北方は北鍛冶町に移しました。
2006.10.02
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆石垣町◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆ 明治堂から北へ、荒町商店街につきあたるまで(そこは毘沙門天の入り口です)。 若林城普請に伴う寛永5年以降の城下の東南方への拡張期に際して、石垣衆と称された足軽衆の屋敷が置かれました。石垣衆は作事方足軽と改称されました。
2006.10.02
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆土樋◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆ パルメゾン土樋から北へ(国道4号線を渡って)円福寺の西裏にあたる住宅街の通りを行って、明治堂までです。 二代目藩主の忠宗のころ、堀を作った川村孫兵衛元吉・二代目の名前から、孫兵衛堀と呼ばれました。清水小路一帯のお屋敷の池から流れ出る水を集めて、南に流し、それを石垣町、石名坂、南鍛冶町を通り、七郷方面の用水としたものです。これは、川村孫兵衛の名前から「孫兵衛掘」と呼ばれました。そこで、町の裏を流れていたのですが、堀が土底の樋だった一角を「土樋」と称しました。川村孫兵衛は龍神の申し子でうなじに3枚の鱗(うろこ)があったという伝説もあります。 藩政時代は侍屋敷だったところです。江戸末期の組士らのこの地域での内職として、水引・染紙・提灯の上絵が知られていました。このほかに藩主の鷹狩りにお供する鷹匠(たかしょう)や鷹の餌を集める餌差衆(えさししゅう)の住居が集まっていたようです。(寛永年間には餌指屋敷が置かれ、正保の絵図には鷹師屋敷が描かれています)。鹿子清水入り口の辺に白川主殿の屋敷がありました。これは、元禄時代のころに。越後の高田騒動の首謀者の小栗美作の子どもが3人預けられていたことで一時期有名でした。 戦災は受けていませんが、市電の開通や、国道4号線の拡幅整備でたたずまいが変わりました。「昔はこれといった建物もない別荘地帯」だったようで、戦後、住宅や商店が建ちました。
2006.10.02
■■■■■■■■■■■■本荒町■太夫小路■■■■■■■■■■■■ 晩翠草堂の東に走る南北の道があります。この交差点から南に袋町につきあたるまでを本荒町といいます。 仙台の南のほうに荒町というのがありますが、この本荒町とは本家、分家の関係になります。お譜代町のひとつです。 他のお譜代町は大町、肴町、柳町、南町、立町、荒町の6町です。 伊達家の移動(福島の伊達郡、米沢、岩出山、仙台)にともなってきた人たちは、福島の伊達郡在住の頃は戦場にも立ちましたが、平和になるにしたがって、商工業をいとなみ、米沢時代には町人化しました。 米沢時代には「新町」と書いたそうです。仙台に移り、「本荒の里」(宮城野の萩の名所)という言葉にちなんで荒町と改められたそうです。 現在の「荒町」は、仙台平野の開発にともなって商工業がさかんになるにしたがって、人口が急増し、町屋敷が裏通りでは繁盛しにくいということで、現在の奥州街道ぞいに町屋敷を移転したものです。 つまり、本荒町の住民は「荒町」に移り住み、町屋敷が少なくなった「本荒町」には能楽の太夫(乱舞太夫(能役者))や、茶道の師匠、医者などが住むようになったそうです。仙台藩の乱舞頭であった桜井八右衛門(金春流)の屋敷もこの地にあったため太夫小路とも俗称されました 晩翠草堂の前にある「天地有情」の碑の石は、旧制二高生たちによって相馬市から運ばれた石です。
2006.10.02
■1737 丁巳 元文 2 ■1738 戊午 元文 3 本櫓丁から勾当台に火の見櫓が移さる。■1739 己未 元文 4 ■1740 庚申 元文 5 ■1741 辛酉 元文 6 寛保 1(かんぽう) 2/27~ ■1742 壬戌 寛保 2 ■1743 癸亥 寛保 3 ■1744 甲子 寛保 4 延享 1(えんきょう) 2/21~ ■1745 乙丑 延享 2 ■1746 丙寅 延享 3 ■1747 丁卯 延享 4 第116代桃園(ももぞの) ■1748 戊辰 延享 5 寛延 1(かんえん) 7/12~ ■1749 己巳 寛延 2 ■1750 庚午 寛延 3 ■1751 辛未 寛延 4 宝暦 1(ほうれき,ほうりゃく) 10/27~ ■1752 壬申 宝暦 2 ■1753 癸酉 宝暦 3 ■1754 甲戌 宝暦 4 ■1755 乙亥 宝暦 5 ■1756 丙子 宝暦 6 ■1757 丁丑 宝暦 7 古城神社に宝暦7年の石碑。■1758 戊寅 宝暦 8 ■1759 己卯 宝暦 9 ■1760 庚辰 宝暦10 ■1761 辛巳 宝暦11 ■1762 壬午 宝暦12 ■1763 癸未 宝暦13 第117代後桜町(ごさくらまち) ■1764 甲申 宝暦14 明和 1(めいわ) 6/ 2~ ■1765 乙酉 明和 2 ■1766 丙戌 明和 3 ■1767 丁亥 明和 4 ■1768 戊子 明和 5 ■1769 己丑 明和 6 ■1770 庚寅 明和 7 ■1771 辛卯 明和 8 第118代後桃園(ごももぞの) ■1772 壬辰 明和 9 安永 1(あんえい) 11/16~ 養賢堂がつくられる。■1773 癸巳 安永 2 ■1774 甲午 安永 3 ■1775 乙未 安永 4 ■1776 丙申 安永 5 ■1777 丁酉 安永 6 ■1778 戊戌 安永 7 ■1779 己亥 安永 8 ■1780 庚子 安永 9 第119代光格(こうかく) ■1781 辛丑 安永10 天明 1(てんめい) 4/ 2~ ■1782 壬寅 天明 2 ■1783 癸卯 天明 3 天明3年の大飢きん(冷害)■1784 甲辰 天明 4 ■1785 乙巳 天明 5 ■1786 丙午 天明 6 ■1787 丁未 天明 7 ■1788 戊申 天明 8 ■1789 己酉 天明 9 寛政 1(かんせい) 1/25~ ■1790 庚戌 寛政 2 ■1791 辛亥 寛政 3 ■1792 壬子 寛政 4 ■1793 癸丑 寛政 5 ■1794 甲寅 寛政 6 ■1795 乙卯 寛政 7 ■1796 丙辰 寛政 8 ■1797 丁巳 寛政 9 ■1798 戊午 寛政10 ■1799 己未 寛政11 ■1800 庚申 寛政12 ■1801 辛酉 寛政13 享和 1(きょうわ) 2/ 5~ ■1802 壬戌 享和 2 ■1803 癸亥 享和 3 ■1804 甲子 享和 4 文化 1(ぶんか) 2/11~ ■1805 乙丑 文化 2 ■1806 丙寅 文化 3 ■1807 丁卯 文化 4 ■1808 戊辰 文化 5 ■1809 己巳 文化 6 ■1810 庚午 文化 7 ■1811 辛未 文化 8 ■1812 壬申 文化 9 ■1813 癸酉 文化10 ■1814 甲戌 文化11 ■1815 乙亥 文化12 ■1816 丙子 文化13 ■1817 丁丑 文化14 第120代仁孝(にんこう) ■1818 戊寅 文化15 文政 1(ぶんせい) 4/22~ ■1819 己卯 文政 2 ■1820 庚辰 文政 3 ■1821 辛巳 文政 4 ■1822 壬午 文政 5 ■1823 癸未 文政 6 ■1824 甲申 文政 7 ■1825 乙酉 文政 8 ■1826 丙戌 文政 9 ■1827 丁亥 文政10 ■1828 戊子 文政11 ■1829 己丑 文政12 ■1830 庚寅 文政13 天保 1(てんぽう) 12/10~ ■1831 辛卯 天保 2 「青柳文庫」をつくる。■1832 壬辰 天保 3 大仏前に同心衆が配置される。■1833 癸巳 天保 4 天保4年に天台宗等覚院が建てられる。■1834 甲午 天保 5 ■1835 乙未 天保 6 ■1836 丙申 天保 7 天保7年の大飢きん■1837 丁酉 天保 8 ■1838 戊戌 天保 9 ■1839 己亥 天保10 ■1840 庚子 天保11 ■1841 辛丑 天保12 ■1842 壬寅 天保13 ■1843 癸卯 天保14 ■1844 甲辰 天保15 弘化 1(こうか) 12/ 2~ ■1845 乙巳 弘化 2 ■1846 丙午 弘化 3 ■1847 丁未 弘化 4 第121代孝明(こうめい) ■1848 戊申 弘化 5 嘉永 1(かえい) 2/28~ ■1849 己酉 嘉永 2 ■1850 庚戌 嘉永 3 ■1851 辛亥 嘉永 4 ■1852 壬子 嘉永 5 ■1853 癸丑 嘉永 6 ■1854 甲寅 嘉永 7 安政 1(あんせい) 11/27~ ■1855 乙卯 安政 2 ■1856 丙辰 安政 3 ■1857 丁巳 安政 4 ■1858 戊午 安政 5 ■1859 己未 安政 6 ■1860 庚申 安政 7 万延 1(まんえん) 3/18~ ■1861 辛酉 万延 2 文久 1(ぶんきゅう) 2/19~ ■1862 壬戌 文久 2 ■1863 癸亥 文久 3 ■1864 甲子 文久 4 元治 1(げんじ) 2/20~ ■1865 乙丑 元治 2 慶応 1(けいおう) 4/ 7~ ■1866 丙寅 慶応 2 ■1867 丁卯 慶応 3 ■1868 戊辰 慶応 4 第122代明治(めいじ) 明治 1(めいじ) 9/ 8~ ■1869 己巳 明治 2 ■1870 庚午 明治 3 ■1871 辛未 明治 4 ■1872 壬申 明治 5 ■1873 癸酉 明治 6 ■1874 甲戌 明治 7 ■1875 乙亥 明治 8 ■1876 丙子 明治 9 ■1877 丁丑 明治10 ■1878 戊寅 明治11 ■1879 己卯 明治12 ■1880 庚辰 明治13 ■1881 辛巳 明治14 ■1882 壬午 明治15 ■1883 癸未 明治16 ■1884 甲申 明治17 ■1885 乙酉 明治18 ■1886 丙戌 明治19 ■1887 丁亥 明治20 ■1888 戊子 明治21 ■1889 己丑 明治22 ■1890 庚寅 明治23 ■1891 辛卯 明治24 ■1892 壬辰 明治25 ■1893 癸巳 明治26 ■1894 甲午 明治27 ■1895 乙未 明治28 ■1896 丙申 明治29 ■1897 丁酉 明治30 ■1898 戊戌 明治31 ■1899 己亥 明治32 ■1900 庚子 明治33 ■1901 辛丑 明治34 ■1902 壬寅 明治35 ■1903 癸卯 明治36 ■1904 甲辰 明治37 ■1905 乙巳 明治38 ■1906 丙午 明治39 ■1907 丁未 明治40 ■1908 戊申 明治41 ■1909 己酉 明治42 ■1910 庚戌 明治43 ■1911 辛亥 明治44
2006.10.01
■●■●■●■●■■●■●■●■●■■1587 丁亥 天正15 ■1588 戊子 天正16 ■1589 己丑 天正17 ■1590 庚寅 天正18 ■1591 辛卯 天正19 家康、葛西大崎一揆の討伐の視察に来る。天正年間に、政宗は豊臣秀吉の先鋒として大崎の葛西氏を攻める。■1592 壬辰 天正20 文禄 1(ぶんろく) 12/ 8~ ■1593 癸巳 文禄 2 ■1594 甲午 文禄 3 ■1595 乙未 文禄 4 ■1596 丙申 文禄 5 慶長 1(けいちょう) 10/27~ 慶長年間に、当地方は伊達政宗公の領地になる。慶長のはじめに高山樗牛瞑想の松を植える。慶長年間に日形町(新伝馬町)できる。慶長年間に本材木町より北材木町に移される。慶長年間に北山町に寺々が移転する。■1597 丁酉 慶長 2 ■1598 戊戌 慶長 3 ■1599 己亥 慶長 4 ■1600 庚子 慶長 5 城作りの最初の事業に始まる。■1601 辛丑 慶長 6 慶長6年(1601)に東一番丁できる。滝前丁に延命地蔵をまつる。■1602 壬寅 慶長 7 慶長7年(1602年)に大崎八幡宮を仙台に遷座させる。■1603 癸卯 慶長 8 銭形屋麹店創業する。■1604 甲辰 慶長 9 大崎八幡宮造営する(~慶長12年)。■1605 乙巳 慶長10 ■1606 丙午 慶長11 ■1607 丁未 慶長12政宗、薬師寺・仁王像創建する。■1608 戊申 慶長13 ■1609 己酉 慶長14 ■1610 庚戌 慶長15 ■1611 辛亥 慶長16 第108代後水尾(ごみずのお) ■1612 壬子 慶長17 ■1613 癸丑 慶長18 ■1614 甲寅 慶長19 ■1615 乙卯 慶長20 元和 1(げんわ) 7/13~ 元和年間、三宝大荒神を創建する。■1616 丙辰 元和 2 和光明神をまつる。■1617 丁巳 元和 3 ■1618 戊午 元和 4 ■1619 己未 元和 5 ■1620 庚申 元和 6 ■1621 辛酉 元和 7 お伊勢さん(伊勢神宮の御分霊)を伊勢堂に政宗が祀る。■1622 壬戌 元和 8 ■1623 癸亥 元和 9 ■1624 甲子 元和10 寛永 1(かんえい) 2/30~ 寛永年間(1624ー44)に仙台城下の第一次工事。寛永初期に石垣衆を南石切町に配置寛永年間(1661~73)には北四番丁まで、正保・寛文年間には北六番丁まで、延宝年間は北七番丁以北を拡張した。寛永年間には土樋に餌指屋敷が置かれる。寛永年間に、穀町開かれる。寛永年間に若林材木町が取り立てられ、南寛永の頃、北三番丁に侍町ができ、北三番丁が上杉山通以東に延長される。材木町が成立。寛永期末、河原町横丁できる。連坊小路、割り出される。寛永年間末に、元鍛冶丁付近を侍屋敷に指定する。南鍛冶町と北鍛冶町に分けてすまわせる。■1625 乙丑 寛永 2 ■1626 丙寅 寛永 3 ■1627 丁卯 寛永 4 寛永4・5年頃、元柳町が南町と北目町のほうに移される。■1628 戊辰 寛永 5 定禅寺、1月の大火で焼ける。(復興する)寛永5年~11年(1628~34)、城下拡張寛永5年~11年(1628~34)、南鍛冶町が元鍛冶丁から移ってくる。寛永5年以降=城下の東南方への拡張期■1629 己巳 寛永 6 ■1630 庚午 寛永 7 第109代明正(めいしょう) ■1631 辛未 寛永 8 ■1632 壬申 寛永 9 このころ六十人町つくられる。■1633 癸酉 寛永10 寛永10年ころに柴田郡からのちに表柴田町に住んだ足軽が召し出される。■1634 甲戌 寛永11 ■1635 乙亥 寛永12 ■1636 丙子 寛永13 伊達政宗の霊廟建設される。■1637 丁丑 寛永14 小保町から遊廓屋を弓の町に移す。新寺小路に寺が元寺小路から移ってくる。■1638 戊寅 寛永15 二の丸の造営■1639 己卯 寛永16 ■1640 庚辰 寛永17 八幡宮を大仏前に勧請する。■1641 辛巳 寛永18 ■1642 壬午 寛永19 覚性院を東六番丁小学校の地に再興する。■1643 癸未 寛永20 土橋通の土橋を築く。第110代後光明(ごこうみょう) ■1644 甲申 寛永21 正保 1(しょうほう) 12/16~ 正保の絵図には土樋に鷹師屋敷。正保年間の絵図では、北五番丁の北鍛冶町以西にだけ侍屋敷が配置されている。正保の絵図では北目町通に侍屋敷と寺屋敷が配置されている。正保絵図では石切町に足軽屋敷が配置されている。■1645 乙酉 正保 2 ■1646 丙戌 正保 3 ■1647 丁亥 正保 4 芭蕉の辻は、正保4年から天政10年までに7回の火災にあっている。■1648 戊子 正保 5 慶安 1(けいあん) 2/15~ ■1649 己丑 慶安 2 半子町、配置?■1650 庚寅 慶安 3 東照宮を造営する。■1651 辛卯 慶安 4 ■1652 壬辰 慶安 5 承応 1(じょうおう) 9/18~ 蜂屋敷で蜂の飼育を始める■1653 癸巳 承応 2 ■1654 甲午 承応 3 東照宮完成 東照宮御旅宮をつくる 「石名」が死ぬ■1655 乙未 承応 4 明暦 1(めいれき) 4/13~ 土橋を掛けかえる。覚性院を覚性院丁に移転■1656 丙申 明暦 2 第111代後西(ごさい) ■1657 丁酉 明暦 3 ■1658 戊戌 明暦 4 万治 1(まんじ) 7/23~ ■1659 己亥 万治 2 ■1660 庚子 万治 3 延寿院を建立■1661 辛丑 万治 4 寛文 1(かんぶん) 4/25~ 伊達騒動寛文事件寛文年間に光禅寺通り割り出される。小田原大行院丁を屋敷割りする。寛文期:北五番丁、宮町方面に拡張「花京院」寛文から延宝の間に再建寛文の頃、東一番丁に糠藁の倉があった■1662 壬寅 寛文 2 ■1663 癸卯 寛文 3 第112代霊元(れいげん) ■1664 甲辰 寛文 4 二代藩主忠宗・三代藩主綱宗の霊廟が建設される。■1665 乙巳 寛文 5 袖振丁を寛文5年から元禄4年の間に作る。■1666 丙午 寛文 6 ■1667 丁未 寛文 7 ■1668 戊申 寛文 8 ■1669 己酉 寛文 9 亀岡町に、俳人大淀三千風が来る。■1670 庚戌 寛文10 ■1671 辛亥 寛文11 ■1672 壬子 寛文12 ■1673 癸丑 寛文13 延宝 1(えんぽう) 9/21~ ■1674 甲寅 延宝 2 ■1675 乙卯 延宝 3 北三番丁に堀が作られる。■1676 丙辰 延宝 4 ■1677 丁巳 延宝 5 ■1678 戊午 延宝 6 新弓ノ町に御弓組が居住■1679 己未 延宝 7 ■1680 庚申 延宝 8 ■1681 辛酉 延宝 9 天和 1(てんわ) 9/29~ ■1682 壬戌 天和 2 ■1683 癸亥 天和 3 梁川八幡を川内に移す。■1684 甲子 天和 4 貞享 1(じょうきょう) 2/21~ ■1685 乙丑 貞享 2 「三十三間堂」を設ける。■1686 丙寅 貞享 3 ■1687 丁卯 貞享 4 第113代東山(ひがしやま) ■1688 戊辰 貞享 5 元禄 1(げんろく) 9/30~ 新坂は、元禄までは袋小路元禄時代、大仏前は門前町としてにぎわう元禄期には、釈迦堂の門前坂下に茶屋があった。元禄の頃、「杉山焼き」始める。元禄時代に浪人が瓦生産をする。元禄から享保時代には、角五郎丁に木材貯蔵所、流木の木場があった。■1689 己巳 元禄 2 ■1690 庚午 元禄 3 ■1691 辛未 元禄 4 ■1692 壬申 元禄 5 ■1693 癸酉 元禄 6 ■1694 甲戌 元禄 7 ■1695 乙亥 元禄 8 長刀丁外記丁に抜ける。澱橋が新たに仮設(元禄7年説も)元禄8年ころ、荒町移ってくる。■1696 丙子 元禄 9 ■1697 丁丑 元禄10 ■1698 戊寅 元禄11 ■1699 己卯 元禄12 ■1700 庚辰 元禄13 ■1701 辛巳 元禄14 ■1702 壬午 元禄15 ■1703 癸未 元禄16 ■1704 甲申 元禄17 宝永 1(ほうえい) 3/13~ 元禄を過ぎる頃から、財政がきびしくなる。■1705 乙酉 宝永 2 ■1706 丙戌 宝永 3 ■1707 丁亥 宝永 4 ■1708 戊子 宝永 5 ■1709 己丑 宝永 6 ■1710 庚寅 宝永 7 第114代中御門(なかみかど) ■1711 辛卯 宝永 8 正徳 1(しょうとく) 4/25~ ■1712 壬辰 正徳 2 ■1713 癸巳 正徳 3 ■1714 甲午 正徳 4 ■1715 乙未 正徳 5 ■1716 丙申 正徳 6 享保 1(きょうほう) 6/22~ ■1717 丁酉 享保 2 新弓ノ町に八幡神社を勧請。■1718 戊戌 享保 3 ■1719 己亥 享保 4 ■1720 庚子 享保 5 ■1721 辛丑 享保 6 ■1722 壬寅 享保 7 ■1723 癸卯 享保 8 ■1724 甲辰 享保 9 ■1725 乙巳 享保10 ■1726 丙午 享保11 ■1727 丁未 享保12 ■1728 戊申 享保13 ■1729 己酉 享保14 ■1730 庚戌 享保15 ■1731 辛亥 享保16 ■1732 壬子 享保17 ■1733 癸丑 享保18 ■1734 甲寅 享保19 ■1735 乙卯 享保20 第115代桜町(さくらまち) ■1736 丙辰 享保21 元文 1(げんぶん) 4/28~
2006.10.01
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