戦国ジジイ・りりのブログ

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2016年05月16日
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カテゴリ: 城(東北・関東)
将軍・綱吉への拝謁の3日後の1692年4月24日、
ケンペルら一行はふたたび江戸城へ登城した。

前年の訪問の記事 で、拝謁した2~3日後にまた登城して
オランダ人に対する法規を守ることを約束させられると紹介しましたが、
そのシメの儀式のために再登城をした訳です。

前年の参府の時にももちろん再登城はあったんだけど、
あっさりした記述なので記事の中ではカットしました。

毎年繰り返し宗門改めがカピタンの前で読み上げる「法規」は、ケンペルによると

大体次のようなことである。
  日本に渡航する中国人や琉球人に妨害を加えては相成らぬこと。
  またポルトガル人およびその供の者を連れ込んではならぬこと。
  その方どものみ自由に交易し、入港を相許すこと。



幸福の手紙は「お墨付き」のことのようで、あわせて時服が下賜されて
江戸での主要な儀式は終わる。

たぶん、前年は例年通りこれだけの儀式で終わったから詳細な記述がないんだと思う。
が、今回はまたもや第2幕が待っていた。
この日は朝7時に宿舎を出たようで、カピタンの儀式が終わると
【将軍の台所から出たと思われる食事】に招かれた。

各ガイジンの江戸参府記には何を食べたという内容もそれなりに載っていて、
特にケンペルの記述は詳細なので、オランダ人へのもてなしにどんな料理が出されたのか
できればすべてをご紹介したいところですが、今のところはちょっと無理そうなので、
せめてこの時に城内で出されたものを引用して紹介します。

で、【どうみても将軍が出すには粗末な朝食】の内容は、

・5個の温かい甘菓子。それは四角形で白い形をしていたが、にかわのように
  なかなか噛み切れなかった。
 ・小麦粉と砂糖を混ぜて焼いた厚いパンのようなものが2個。周りは二指尺ぐらいあり、
  中空になっていて白ゴマがふりかけてあった。
 ・陶器の小皿に細く切った塩味の生ザケに醤油のような褐色のソースを少々かけたもの。
  そのソースの味はたいして辛くはなく、かえって少し甘みがあった。


2つめは和菓子の「松風」みたいなもんかな?
あ、でも「中空」って書いてあるな・・・
3つめはまあそのまんまの「肴」的なもんだと思うけど、
1つめのなかなか噛み切れない白い温かい甘菓子ってなんだろ?
「すあま」とか連想してみたんだけど。


「もっと食べなさい」と勧められてもそれほど食べなかったらしい。
別に不味かったと書いてる訳でもなく、

・すでに宿舎でも軽く朝食を食べていたこと
 ・城内の待機所である番所で出されたまんじゅうを食べていたこと
 ・礼儀上のマナー


という理由によるものだと言っている。

それから場所を変えて控えの間で待たされたが、待っている間に

奥まった将軍の部屋に運び込まれたのは、疑いもなく銀製の3つの洗面器であった。
  その後から黒漆を塗った小さい重ねた膳部の、下の方には2,3枚の皿と小さい盆が
  重ねてあるのを、再び運び出してきたので、我々はそこで恐らく将軍が食事をとられた
  ものと想像した。


と書いている。
その想像が正しければ、お別れの拝謁の第2幕のイベントは中奥で行われたという可能性が
濃厚な気もするけど、しばらく待たされたあとでギャラリーが大勢居並ぶ広間へと入る。

そういうわけで、我々は日本流に床に坐って頭を下げたが、命じられて1人ずつ御簾の前に
  進み出て、ヨーロッパの流儀で将軍に対し敬意を表さねばならなかった。それから私は
  またしても歌をうたえという命令を受けた。そこで私は、私をいつも信頼してくれた
  昔馴染みのフロリメーネを讃えて、昨年ここで歌ったのと同じ歌を歌った。(中略)
  結びの所を私は作り替えて「その数知れぬ黄金も、いとしきフロリメーネにくらぶれば、
  なんの値打ちのあるべきか」と歌った。これについて将軍は説明を求められた。
  「私はこの歌の中で、天上の神が将軍とその御一族に、はかり知れぬ幸福と泰平と祝福を
  もたらしますように、と申したのでございます」とお答えした。

  歌い終わってから我々は外套を脱ぎ、部屋の中をぐるぐると歩き回らねばならなかったが、
  カピタンも一緒だった。それから親しい友人と思いがけず会った時の挨拶や、友人や父や
  恋人との別れの挨拶を演じた。喧嘩口論の末、仲直りして再び別れる仕草もやらされた。


よくまあ飽きもせず次々と要求するもんだと感心するけど、
言葉が通じないのを幸いに親しい女性への愛を替え歌にするなど、
ケンペルもしゃあしゃあとおふざけに興じている。

その後はちょっとしたお医者さんごっこが始まる。
まず1人の足の悪い坊主を診察したあと、外科担当の奥医師が2名入ってきて
質問を受けたりした。
すると、また軽食が出された。

・ゴマを付けた中空の小さいパンのようなもの2個。
 ・白い縞のついた精製した砂糖1個。
 ・我々の国のハタンキョウによく似た、皮のついたカヤの木の実5個。
 ・四角の小さい焼菓子1個。
 ・蜂蜜の入ったじょうごの形をした厚く巻いた褐色の菓子2個。これは歯切れが悪かった。
 ・豆粉と砂糖で作った赤褐色のもろい四角の薄いせんべい2個。
 ・米の粉で作った焼いた黄色の歯切れの悪い餅2個。
 ・同様に焼いて小さく切った2個の四角い菓子。中に粘りのある求肥が入っていた。
 ・豆から煮て作った褐色の砂糖(餡)入りの饅頭1個。
 ・それより小さい、普通の大きさの饅頭2個。


ケンペルの記述を基にして、これらの菓子をあの「とらや」さんが再現しています。
とらやさんのホームページに写真が載っていますので、興味のある方はどうぞ。
(トップ⇒菓子資料室 虎屋文庫⇒歴史上の人物と和菓子⇒ケンペルと将軍綱吉から下された菓子)
余談ですが、『歴史上の人物と和菓子』には申維翰の記事もあります(『申維翰と求肥飴』)。

ほとんどが甘いお菓子のようだし、まともに食べたら結構お腹いっぱいになりそう。
あるいはがっついてペロリと平らげるのはマナーに反すると思ったのか、
すべての品を少しずつ食べてあとは残したらしい。
ちなみに、前年もこの時も一行が城内で食べ残したものは
すべて通詞たちが包んで持ち帰らされている。

軽食が終わると、

我々は命じられるままに、外套を着て1人1人御簾の前に進み出て、相応の臣下の礼をとって
  別れの挨拶をした。

して、最初は若年寄らに、途中からは宗門改めと長崎奉行に導かれて控えの間に退出したが、
控えの間の前で長崎奉行は一行に別れの挨拶をした。

 彼は同僚と一緒に、我々が将軍から異例の有難いもてなしを受けたことに祝意を述べ、
  「長いこと思ってもみませんでしたが、オランダ人がこんなに厚遇されたことは
  初めてです」と言った。

ということで、この年の参府は前年にも増して大成功を収めたらしい。
あくまで医師として参府したケンペルが役者になりきって
大奮闘した甲斐があったというものだけど、やっぱり
世渡りの上手いコルネリウス・アウトホルン氏も自ら
日蘭友好のために頑張ったのかもしれないな。


ところで、ケンペルはその日その日の出来事を1日ずつ日記形式で書いていて、
個別の記述についてはわたくしが読んだガイジンの参府記の中でケンペルが群を抜いている。
その情報量たるや大変なものだけど、惜しむらくは江戸城のトイレに関する記述がないこと。

江戸城にももちろんトイレはある。
わたくしの持っている御殿図にも、「これがそうかな?」ってのがいくつかある。
御殿図にはわざわざ「雪隠」とか描かれてはいないので
全部のトイレを把握できてる訳じゃないんだけど、確かにトイレはある。
しかも、『江戸城のトイレ 将軍のおまる』(小川恭一/講談社)によると、
小さいの用のトイレと大きいの用のトイレに分かれていて、
大きい方のトイレが「雪隠」と呼ばれ、小用場(小便所)の奥にあったらしい。

カピタンの参府の時は、日本側の衣裳は朝鮮通信使を迎える時ほど
堅苦しい儀式用衣裳じゃなかったかもしれない。
ただ、重要な儀式の時には大名たちは長い袴を引きずったりして、
気軽にトイレに行かれるいでたちでもない。
大きい方なんかもよおしたりしたらそりゃ~大変だっただろう。

平安貴族のトイレ事情を 「叡山攻め(102)」 で簡単に書いてますが、
江戸期にも尿筒(しとづつ)はまだ健在で、将軍が御所に参内した時に
尿筒をもって小用のお世話をするためだけの役職があったらしいし、
前掲書では下野黒羽藩主・大関増業の書いた『柳営勤仕令』にこんな文章があると
紹介している。

 【増上寺御拝礼に際し、着衣は衣冠なので、持参する三品を再確認する。「金剛草履」は
  自分の懐中に、小用筒と渋二尺四方(用途不詳)は、留守居、刀番に持たせる。途中から
  留守居は控場所に戻し、刀番は宿坊に戻す。】

束帯衣冠などの正装でどんだけ着こむか考えれば、
フツーに用を足すのはまず無理だと誰もがわかることで、
そういう時は着物の脇から尿筒を差し込んで用事を済ませたようだけど、
はたして本丸御殿で尿筒を使えたものだろうか・・・

ケンペルに話を戻すと、もし自分が長い外国旅行をしてその日記を書くとしたら、
やっぱり自分の生まれ育った環境との違いについての記述が中心になるだろう。
それが軽蔑であれ面白いという感情であれ、沢山書くことがある中で
目新しくもないものまで微に入り細に入り書くことはあまりないだろう。

ケンペル一行は、結構長い時間を御殿内で過ごしている。
当然トイレにも行きたくなるだろうし、トイレに行かれなくて苦労したなんて
わたくしのような記述は見当たらないから、たぶんトイレに行ってるだろう。

御殿のトイレだけじゃなく、排泄関係で他にも気になることがあったので
食事中にまで糞便の本を読んでこのところ糞尿まみれの日を過ごしているわたくしですが、
ケンペルの時代、ヨーロッパの高貴な方々のトイレは奔放だった。

 【フュルティエールの伝えるところによると、王妃アンヌ・ドートリッシュの侍従であった
  ブランカース伯爵はある日王妃の手を放すと壁のタペストリーのところへ行って放尿したと
  いう。アンリ4世は1606年、ルーヴル宮殿内を汚物で汚すことを禁じ、違反者には
  4分の1エキュの罰金を科すことにした。ところが、まさにその日にアグル嬢は王太子が
  自分の部屋の壁に向かって用を足しているところを取り押さえた。(中略)また大蔵卿
  ショーンベルク殿の甥リュード伯爵は伯父の家へ入ると真直ぐに暖炉の方へ行き、
  そこで長々と放尿したので、居合わせた人々は大笑いをしたという。】
  (『トイレの文化史』 ロジェ=アンリ・ゲラン/筑摩書房より)

しかし、そういう時代に生きたからってさすがに江戸城の好きな所で立ちションはしないだろう。
どんなに過ごしやすく配慮してくれたところで、御殿内では必ず監視の目があったハズだから、
3人のオランダ人のうち誰かがお行儀の悪いことをしたら大目玉をくらっただろうし、
そういう出来事があれば不本意ながらもケンペルが書き残してるんじゃないかと思うのだ。

幸い、カピタン一行の服は日本人の儀式服とは違って用を済ませやすい作りだった。
ので、きちんとトイレを借りてお行儀よく定められた場所で用事を済ませたのだろう。
そして、金ピカの便器だとか特段変わった作りのトイレでもなかったので
ケンペルの記述からはもれてしまったのだろう・・・
残念です。実に残念です。

小川恭一氏によると、江戸城のトイレに関するあれこれはわかっていないことが多く、
史料に見られるわずかな記述から推測するしかないようで、
鋭い観察眼を持つケンペルがどんなトイレだったか書き残していてくれればと惜しむのは
わたくしだけではありますまい・・・(たぶん)。



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最終更新日  2016年05月16日 22時43分40秒


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