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前回のタイムテーブルの中に 弘仁6年(815) 空海が徳一や勝道とみられる「東国の某師」に真言宗普及のための協力を 要請し、広智に真言密教の経典書写の援助を依頼。という出来事を織り込みましたが、「広智」というのは道忠の弟子で、熊倉浩靖氏によると【1、最澄東国巡錫に際して緑野寺法華塔前で両部灌頂を受けたこと 2、下野国大慈寺の安北宝塔は広智により守られたこと 3、第4代天台座主安恵(あんね)も広智の弟子で、最澄東国巡錫の際、 最澄に託されたこと 4、最澄入寂のため直接に渡すことができなかった徳円への印信はその師広智より 付嘱されたが、徳円は第5-7天台座主円珍・惟首・猷憲の師となったこと 5、「師師相伝之明験として、最澄が唐より将来した天台香爐峯栢木文笏4枚のうち 1枚が付されたこと 6、空海からも弘仁6(815)年・天長4(827)年の少なくとも2回、 働きかけのあったこと】 (『東国仏教と日本天台宗の成立-最澄東国巡錫の意義と背景を導きとして-』より。 人物解説などについては一部割愛))が知られているというお人だそうです。で、6つ目の項目の1回目が上の援助依頼で、2回目が前回のタイムテーブルの 天長4年(827) 空海が広智に「十喩を詠ずる詩」を贈る。にあたる訳ですが、「叡山攻め」でもさんざんお世話になった佐伯有清氏によると、1回目の援助依頼に広智が具体的にどういう返事をしたのかは不明だが、京都高山寺所蔵の密教経典に 【「弘仁六年五月、海阿闍梨の勧進に依りて、上毛の沙門教興、書き進ぜり」】 (『人物叢書 円仁』佐伯有清/吉川弘文館)より)という記載などがあることから 【広智とならんで道忠の門下であった上野の国浄土院(浄院寺・緑野寺)の教興が、 空海の勧進に応えて経典の書写に携わったことが確かめられる。】 (前掲書より)そうなんだけど、佐伯氏が『円仁』を執筆した時点では空海たんと教興を直接に結び付ける史料が見当たらないそうで、広智が両者の仲立ちをしたんじゃないかと推測されているそうな。空海たんに関する記事で幾度かお世話になった密教21フォーラム様のサイト「エンサイクロメディア空海」によると、弘仁6年の際には広智・徳一のほか甲斐・武蔵・常陸や大宰府などにも密教の流伝や経典書写依頼のための使者を送ったそうなんだけど、広智へのお手紙には 【「闍梨は遐方に僻処すれども、善称は風雲と与(とも)んじて周普す (広智阿闍梨は、辺境に居住しておられるけれども、すぐれた名声は、 風雲とともにひろく知れわたっております)」】 (前掲書より)と書いてあったそうで、多少のリップサービスが含まれていたとしても、広智が遠く離れた空海たんからご指名を受けたことに変わりはなく、佐伯氏は前掲書で 【これによると、弘仁六年当時、広智の名声は、空海のもとにまで 達していたのである。】とする。それで、2回目の天長4年の時については 【真言修行の要諦を詩に託した「十喩を詠ずる詩」を空海が広智に贈ったのは、 空海が最澄没後の空隙をねらって、広智のもとで東国の地にひろまっていた 天台の教学に楔を打ち込もうとしたためであろう。】 (前掲書より)と語る。これについてはまた別の解釈もあるのかもしれないけど、いずれにせよわかっているだけで2回、空海たんは広智に熱いラブコールを送っている。ここから、 【最澄、空海共に依拠・協力を願う強力な仏教集団が東国周辺に居たこと、そして、 それらの人々の中に、空海よりは最澄に近い存在があったことを重視すべきだろう。】 (以下【】内は熊倉氏の論文より)と熊倉氏は言っておられる。最澄との関係についてはこれから紹介していきますが、道忠を中心とする「強力な仏教集団」とはいかなるものであったのか、引き続き熊倉氏の論文に沿って見てみましょう。 【道忠・広智教団の社会像としては次の4点が指摘できる。 1、円仁の俗姓は壬生氏で壬生氏は円澄の俗姓でもあったこと 2、緑野寺に一切経があることは広く知られており全国から注目されていたこと 3、幾つもの寺院を建立し一切経を書写できるだけの経済的基盤を有していたこと 4、菩薩戒に立った利他行を活動の中心としていたこと】詳しくは氏の論文を読んでいただきたいのですが、壬生公は【東国六腹の朝臣に比べればセコンダリークラスに属する氏族と見られ】、上野国甘楽(かんら)郡・群馬(くるま)郡・下野国都賀郡を中心に勢力を張った氏族で、【一般に奈良・平安時代の1郷の人口は1250人前後と見られて】いるのに対し、【緑野郡の人口は12,000-14,000人程度】で現在の藤岡市・鬼石町と比較して人口の伸びは5~6倍。同じく壬生氏の勢力範囲あたりと思われる甘楽郡・多胡郡の伸びはそれぞれ8倍程度、4倍程度。ところが、全国で見ると人口の伸びは21倍程度、群馬県では17倍程度と緑野郡・甘楽郡・多胡郡とは比べ物にならないほど高い伸び率となっている。ここから 【緑野郡は極めて人口密度の高い、つまり生産性の高い地域であった。】という、群馬県人には失礼だけどかなりオドロキの結論が導き出される。『日本書紀』には緑野郡には屯倉が設置されていたという記述があり、またかつての緑野郡に相当する現在の藤岡市の平井地区というところでは、昭和10年の調査で県内最多の古墳が確認されたそうな。古墳・・・てそういえば、奥武蔵から上のエリアにかけて古墳が多いもんな。それで、緑野寺は緑野郡最有力の勢力と推測される 【佐味君が中央の有力な貴族・官人になった後、なお高い生産性を維持したこれら 中小豪族と彼らに率いられた人々によって建立されたと見てよいだろう。】と熊倉氏は語り、下野大慈寺・武蔵慈光寺にも建立・経営主体の類似性が認められるとする。 【結論を急げば、道忠・広智教団が活動した8-9世紀の東国は、農業生産以外の 各種手工業生産によって、当時の平均的人口密度を数倍するほどの人口を食べさせ られるだけの成熟を遂げていたと考えられるのである。これら手工業生産は当時の 最先端の産業技術であり、それらによって高い人口密度が維持されていたとすれば、 そこには、いわば古代の地方都市が芽生え始めていたと言ってよいであろう。 道忠・広智教団の登場は、古代東国社会が「地方都市」を析出させるまでに成熟 していたことの宗教的、思想的表象とさえ言えるのである。】いつも以上に引用が多くて恐縮ですが、今までは想像もしなかった内容を極力そのままに紹介したいので、致し方ありませぬ。「手工業生産」てのは、人物埴輪や瓦の製造、機織り、採鉱・冶金、金属加工などを指し、当然渡来系氏族の指導・サポートも考えられる。しかし、裕福なエリアだってのはわかったけど、それがすぐに仏教に結びつくとも限らんじゃろ?どっかの国みたいに軍事費につぎこむ場合だってあるだろうし、成熟も過ぎると頽廃へと向かうのは人間の性ともいえる。しかし、これらの地域にはちゃ~んとキヨラカな方向へと向かう素地があった。まずは識字。 【(前略)建碑という形式自体が注目される。つまり相当数の人々が文を読み、書き、 残し、伝えあることに価値を見出していたわけで、このことは手工業生産への関与とも 関係すると考えられるが、こうした知的伝統があってこそ、膨大な写経、造塔活動も 可能だったと思われる。】膨大な写経・・・なるほど。即座に脳裏をかすめたのはもちろん、延暦16年の最澄の一切経書写です。だいたい、この事業に協力したのは大安寺の聞寂と道忠ぐらいしか名前が出てこないので、わたくしも「叡山攻め」ではそのように紹介をしましたが、熊倉氏が言うには 【『開元釈経録』によれば1076部5048巻に及ぶ一切経の4割、二千巻余は 道忠による助写だった。】というからまたオドロキ。「ひとつの鉢ごとにひとさじの米」なんてレベルの協力じゃないじゃんか~!!最澄の歴バナでは、最澄だけ見ていてもわからんという趣旨に基づいて長々と政治的状況まで書いていったけど、さすがに協力者の詳しい背景までは考えが及ばなかった。簡単に調べただけで終わらせた程度だった。実は現在のわたくしのマイブームはすまほゲームのオセロなのですが、レベルを上げるともう負けっぱなし。この記事を書いていて久々に一切経書写事業の記事を読み返してみたところ、熊倉氏の論文を読んだ今では当時の記述が見事にひっくり返されて、まさにオセロの終盤で血も涙もないコンピューターに綺麗に黒石をぱたぱた裏返されるのと同じ状況。なんでそこまでひっくり返されたのか、もう少し論文の紹介を進めますね。んで、仏教についてですが、7世紀後半には「知識」と呼ばれる同信の結社(講)が現れ、東国でも高崎・・・のちの山名氏を輩出するあたりですが、726年には佐野三家の子孫を中心とする9人の知識による金井沢碑という先祖供養・入信表白の碑が建てられているそうな。そして佐野三家の一族は681年時点で早くも僧を出しており、 【一人の僧を出すことから在俗の知識結成へと進んでいる。そして「三家(みやけ) 子孫」嫡系の6人を中核としながらも、他の3人が知識に参加する形となっており、 血縁から地縁・職縁へと知識が拡大されていく傾向が見られる。こうした地域での 動きを発展させるところに道忠・広智教団の活動は存在した。在俗の様々な職種の 人々が進んで参加できる活動形態こそ大乗戒に支えられた知識という形態であった。】職種の広がりは身分の広がりをも意味する。 【つまり、道忠・広智教団に結集した人々は、単に苛酷な律令国家の収奪体制から 逃れようとした人々ではなく、手工業生産という付加価値の高い産業技術をもって 自立性を高めようとした人々だった可能性が高いのである。だからこそ進んで、 その中から多くの菩薩僧を出して中央-世界の最高の学問を吸収させようとし、 自ら一切経を揃えんとしたのである。】そうして緑野寺に一切経が整った。この時期、一切経を有する寺院なんて全国でも数えるほどしかなかったハズだ。また、同じような発展を遂げた下野・武蔵の各「地方都市」はネットワークを持っていた。でも、そんな古い時代に自立性を求める民衆がいたとして、権力者が危険視しなかったのか?ところが、 【先に挙げた有姓の壬生氏の多くは、窮民に代わって調庸を納め、戸口増益に功があったと されており、壬生公、壬生吉志、及び彼らと同じ社会階層に属する人々は、氏姓を異に しながらも、民衆に密着した地域有力者として、地域民衆の「利生」に身を尽くしたと 見られ、彼らのそうした行為を実践的に裏うちする思想こそ大乗仏教の菩薩行、利他行に 他ならず、事実「化主」あるいは「菩薩」と呼ばれた僧侶の行った架橋、造寺、衆僧供養、 病患者の治癒、飢者への施食、寒者への給衣などは華厳経や梵網経では福田つまり菩薩行 の内実とされている。 言い換えれば、地域最優勢豪族による多分に勢力誇示的な造寺行為ではなく、地域民衆の 学習・修行・救済センターとして寺を建てようとする意識の高まりという社会基盤の成熟が あってこそ、東国化主としての道忠・広智の菩薩行は具現化できたものと見られ、そのこと が最澄に大きな影響を与えたと考えられるのである。】全国各地に造寺・造仏の伝承を残す行基様はよく「行基菩薩」と表現されるのを不思議に思ったことはないですか?「菩薩」といえば観世音菩薩、弥勒菩薩、地蔵菩薩、勢至菩薩などなど、現代一般人には「ほとけ」と同格のイメージが強いと思うのですが、なにゆえ生身の人間を菩薩と呼ぶのか・・・それはこーゆーことだったんですね。そうしたことを踏まえると、最澄たんがどういう気持ちで「山家学生式」を書いたのか感覚的に理解できそうな気もしてきますが、その全文はもそっと後で紹介しましょうね。にほんブログ村
2018年01月08日

人間は色んな面を持っている。世間を震撼させるような事件を起こした人間だって、近所の人にインタビューしてみると「ごく普通の人だった」とか「きちんと挨拶もできるし、感じのいい人だった」なんて答えが案外よく返ってきたりする。天海も、多くの事績を遺しただけに両極端の評価をもらっている。確かに、エグイよな~と思える行動もある。人より長く生きて政治の中枢にかかわるようになって数多くの経験をしてきた天海だからこそ、自身の中に数多くの面を持っていただろう。それでも、先ごろの衆院選で議席獲得のために所属する党を簡単に乗り換えたセンセイ方とは違って、天海は数多くの面を統括するポリシーとプライドを持っていたんじゃないかと思う。今まではあまりそういう考え方はしなかった。せいぜいが、東照大権現と天台宗の発展に心を砕いた、っていう程度だった。でも、これまで興味のおもむくままに色々な勉強をしてきた後であらためて天海の前半生を見た時、ずっしりと来るものがあった。派手やかなイベントをいくつも開き、権門と組んだと冷ややかな誤解を受けながらも死を意識した良源さんが「病僧の本業はこの道(講説論議)にある」としたように、天海の「本分」もまた「学僧」だったんじゃないかと思うようになった。もちろん、考え方なんて周囲の状況や自分自身の変化でどんどん変わる。わたくしだって、このブログを始めた頃の脳内メーカーは100%戦国だったのが、今じゃ寛永寺+輪王寺宮、南北朝+室町期、仏教史、長崎、江戸、平城京時代、のあとにわずかに戦国が占めるぐらいなもんで(笑)、天海の脳内メーカーだって前半生と後半生じゃかなり割合が変わるだろう。それでもその奥をつらぬくものは一貫してたんじゃないかって気がした。それで、あらためて関東における天台宗のスタート時を少し調べたりしてみて、寛永寺創建とは直接の関係はないけど、ちょっとここで書き留めておいた方がいいと思ったので、長らくの読者様はサブタイトルですぐに察したでしょうが、時間軸を思いっきし戻します。ま、最澄の歴バナにからめて同時代の関東についても少し書いているので、同じ内容だったらリンクだけ張っときゃいいんですが、過去に紹介した内容と180°解釈の異なる論文を読んで、さらにそちらの説の方が腑に落ちたもんですから、今回は『東国仏教と日本天台宗の成立-最澄東国巡錫の意義と背景を導きとして-』(熊倉浩靖/「高崎経済大学論集」第47巻第4号)を中心に紹介いたします。まずは、最澄の経歴の中から今回と関係するところを簡単におさらい。主語がない文はすべて最澄の経歴です。 天平神護2年(766)勝道が日光山を開山。 延暦4年(785) 東大寺で受戒。その直後、比叡山に入り山林修行を開始。 延暦7年(788) 比叡山上に一乗止観院(のちの根本中堂)の建立を開始。 延暦16年(797)内供奉禅師に補任される。一切経などの書写に勤め、大安寺の 聞寂や東国の道忠の援助を受ける。 延暦17年(780)円澄が叡山に登り、師の道忠と共に一切経を納める。 延暦23年(804)最澄・空海が遣唐使船に乗って入唐。 延暦24年(805)唐での留学を終えて最澄帰国。 高雄山寺(神護寺)にて勤操・修円・広円ら当代の碩学8人に 三部三昧耶の妙法を伝授する。 延暦25年(806)日本天台宗が公認される。空海が唐から帰国。 大同3年(808) この頃、広智に伴われて円仁が最澄に師事する。 弘仁3年(812) 空海より金剛界・胎蔵界の結縁灌頂を受ける。 弘仁5年(814) 九州巡錫。空海が勝道のために「沙門勝道歴山水螢玄珠碑」を撰す。 弘仁6年(815) 東国巡錫。 空海が徳一や勝道とみられる「東国の某師」に真言宗普及のための協力を 要請し、広智に真言密教の経典書写の援助を依頼。 弘仁7年ごろ? 空海と決別。 弘仁8年(817) 勝道没。 弘仁9年(818) 自ら具足戒を捨て、叡山に大乗戒壇の設置を主張。 六所宝塔造営の願文を起こす。「山家学生式」を発表。 弘仁13年(822)最澄没。その7日後、大乗戒壇設立の勅許が下りる。 弘仁14年(823)「延暦寺」の寺号を賜り、官寺となる。 天長4年(827) 空海が広智に「十喩を詠ずる詩」を贈る。 天長10年(833)円仁が初めて如法経書写を行う。リンク貼りまくり~。いや、「叡山攻め」は我ながらホント頑張ったよなあ。・・・じゃなくて。経過を思い出していただくために直接には関連のないものもピックアップしてますが、今回中心となるのはもちろん東国に関する部分。青字の文は過去の記事にない部分で、一覧にした方が流れがつかみやすいと思ったので、初出の出来事も一緒に並べました。 空海と別々の道を歩み始めたのは「弘仁7年ごろ?」としてますが、最澄が東へ伝道の旅に出る前という可能性もある。んで、熊倉氏の論文によると最澄が東へ下向した理由はいろいろと説があるそうで、その1が泰範は帰ってこないし空海たんには説教されるし、でプランの変更を余儀なくされた最澄たんが「失意と失地を挽回するために」(前掲論文より)新天地を求めて旅に出た、というもの。その2は徳一さんとの関係によるもので、徳一さんと最澄たんのバトルが激化した頃と東北巡錫の時期が重なることから、それに関連したのだろうということ。その3・・・これがオドロキの内容なんですが、上野の緑野(みどの)寺と下野の大慈寺に塔が完成したので、最澄たんの来訪を招請したというもの。ここのところ、前掲論文では2つの塔のことを「安東・安西両塔」と表現している。・・・安東・安西両塔?「六所宝塔」のこと!?いやでも、緑野寺と大慈寺は確かに最澄たんの六所宝塔に含まれてるよな。その3の説は菅原征子氏によるものだそうで、前掲論文を読み進めると 【両塔は六所宝塔の一で、最澄の発案とされるが、『最澄の上野、下野での活動は、 史料上で確認できるのは、半年ほどの、ほんの短い期間なのである。従って 最澄自らが、上野、下野でのそれぞれ法華一千部八千巻ずつの写経に加わったり 塔の造立の過程を見守っていたとは考えられ』ず、両塔造立は、東国の知識集団が 『法華経写経と共に進めていた活動であって、その完成にあわせて最澄の赴向を 要請し、彼によって、完成した一千部法華経の宝塔への安置、四種の会衆とも いうべき両毛の知識を集めての連日の法華経の長講、大乗菩薩戒の授戒、付法潅頂の 伝授等々を計画実施したものと考えられる。』】は!?あくまで最澄たんは完成披露に華を添える豪華なグェ~ストで、両毛の知識集団あげての華々しいイヴェ~ントに最後の仕上げとして授戒・伝法や長講を行いに出張したってことデスカ!?オドロキの内容はまだ続く。 【『広智らの一連の活動に対する最澄の東国赴向の関係は、画龍点睛というべきもので、 あくまでも主体は在地の知識集団にあったといえる』とし、翌年の六所造宝塔願文は 『東国での体験をふまえてつくられたものであろう』とされた。】ぶっちゃけ、最澄たんの六所宝塔はパクリだってことッすか!?いやもう、目がテンどころじゃないんですけど・・・さらにダメ押しの内容は続く。 【薗田(香融:戦国ジジイが追加)氏もまた、東国仏教が最澄に与えた『その一は鑑真の 遺弟道忠の門徒との接触による無遮戒(道俗貴賎男女をとわずに授ける大乗菩薩戒)の 理念に洗礼されたことである。その二は彼が新しい理念の表詮として、大乗戒の独立 という形を以ってしたことである。授戒という結縁の儀式によって民衆を教化した 最澄の東国伝道の結果として、最も注目したいのは、この大乗戒問題に及ぼした影響 である』と結ばれている。】こ、今度は大乗戒の独立デスカ・・・話がデカすぎてもう腰が抜けそうですぅ~。最澄たん信奉者なら「おのれ、最澄たんを侮辱するか! 無礼者! そこへなおれ~い!!」って激怒するかもしれない内容ですが、別にィ最澄たんのオリジナ~ル性がいくつか削られたところで~、彼自身の事績に大きなキズがつくわけでもないですし~。て動揺のせいで言葉が少しおかしくなってますが、ホントにびっくりしたんです、この内容。「叡山攻め」では最澄の経歴・事績が大きなファクターだったので、シロートなりに「戒」についても真面目に書いてきましたのでね。それで、そもそも東国の仏教ってどんな状況だったんだ?最澄のサポートをした道忠は鑑真に学んだ人だったのか・・・鑑真といえば本格的な授戒を行うためにはるばる日本にやって来た人として有名なのに、なんでその弟子が師の教えに反するような大乗戒独立の協力メンバーなんや?とか次から次へと疑問がスパークして、手持ちの資料などをあちらこちら読みあさり・・・で、「ライトに」路線変更してシリーズを再開したハズなのに、結局それまで以上にドツボにはまり込んでしまったというギャグのような事態に陥って、ふたたび更新がストップしてしまったというのが2017年末のわたくしでした。にほんブログ村の統計によると、過去365日でわたくしが記事をアップしたのはたった15回・・・わたくしらしくない更新頻度に我ながら大笑いですが、たとえ脱線と言われようが食いつくところに食いついて考え、書き続けていく性分はどうしようもないので、仕方ありません。勉強に何一つ無駄はないしね。てことで、気長にお付き合いいただける奇特な方は本年もどうぞよろしくお願いいたします。次回は熊倉氏の語る東国仏教の状況などについて紹介をしていきます。にほんブログ村
2018年01月02日

イエアスとの出会いがなかったら、あるいは天海はそのまま関東天台の復興を続け、泉福寺などを再興していたかもしれない。長沼宗光寺のホームページには、 【天海法印は、宗光寺に入山してから慶長十五年(1610)比叡山で法華大会の 探題となり、南光坊を名のるまで公文書には好んで「宗光寺天海」と署名しており、 同寺の住持であることを誇りとしていたようです。】とあり、関東天台の名刹を復興できたことに喜びと誇りを感じていた様子がうかがえる。しかし、イエアスの横やり(笑)によって天海が復興にあたったのは叡山であり、日光だった。慶長17年(1612)天海が無量寿寺北院の再建に着手し、寺号を喜多院と改めて 関東天台の本山とする。慶長18年(1613)家康が天台宗諸法度を定め関東天台を独立させる(本寺が末寺住持の 任命権を掌握することなどを規定)。 この頃、論議が活発になり、御前論議に天台宗が参加するようになる。 天海、日光山の管理を任される。 天海、北院を喜多院に改め、東叡山の号を賜る。 同じ頃、天海が家康に天台の教義をたびたび伝授する。御前論議については優秀な人材の発掘や宗教統制などの目的もあっただろうけど、イエアスは「仏法による王法守護」を考えていたんだと思う。慶長17年までは御前論議は真言宗によるものだけだったのが、天台宗も食いこむようになっていった。折しも、戦乱の影響を受けて叡山から関東に僧侶が流れてきていたと浦井正明氏が語るような事情もあり、「田舎天台」とも呼ばれていた関東天台のレベルの底上げがあった時期でもある。ソフトが叡山から関東へ移ってきたのであれば、ソフトの落ち着き先を新しい「第二の叡山」と見なすことは不思議でもなんでもない。うがった見方をすれば天台宗を分裂させて弱体化を図ったというのもアリだとは思うけど、あらためてこの頃の流れを見直すと、それよりも徳川家の未来をつなぐための関東天台の独立だったのかと思う。質の向上に加え、経験も実績もあり、かつ教義を現実社会に活かすことのできる天海もいる。ただやみくもに関東天台を独立させたところで長続きするわきゃないし、そうなれば王法の守護どころの話じゃなくなる。むしろ、独立できるだけの充分な要素はそろっており、それがちょうどイエアスが自家の繁栄を願ってあれこれ思索していた時期と重なっていただけじゃないかという考えも浮かんできた。そして同じ年、関東天台の中心から離れた関東きっての霊場・日光を天海に任せている。イエアスが今後のことを考えて考えて考えぬいていただろうこのタイミングで、日光。実際はイエアスがどこまで踏み込んだ遺言を残していたのかはわからないけど、少なくとも1年後には日光に勧請するようにという内容は崇伝も聞いてるんだし、神となって日光から関八州を守ろうっていう言葉も言ったんだろう。となると、日光山を管理しているのは天海であり天台宗だから、神号はどうであれ自分と天台宗が王法守護の中心となるという意思を明確にしたものとも考えられるので、その後の天海の奮闘は自己の権勢を張るだけのちっぽけなものではなく、故人の遺志に沿ったと言うこともできるだろう。もっとも、イエアスは「神霊の勧請」と言っただけで、「遺骸を移せ」と言ったとは書かれていないんだけど、結果論としては日光にごっそり移したのは正解だった。遺骸は久能に、神霊は日光に、っていうんじゃ日光の御神威がどうしたって薄れる。日光に集約させて宗教界のトップに君臨する輪王寺宮が日光で国家の安泰を祈願することで精神的支柱がどっしりと据えられることになった。さてと、関東天台は独立し天海の喜多院は「東叡山」となった。山号については、泉福寺の前例にならったものかもしれない。その頃の泉福寺は、存続していたとしてもおそらく細々とした経営だったろうから、泉福寺に代わるあらたな関東天台の中心地として山号を戴いたのかもしれない。そこまではいい。問題は寛永寺で、寛永寺創建プランは家康の存命中からあったというけど、すでに喜多院に東叡山の号を与えているのだから、新たに寛永寺を創建する必要性が感じられない。江戸には浅草寺という祈祷寺もあるんだし。ま、この「祈祷寺」というのがまたクセ者なんですが、その頃の浅草寺の別当をまだ後北条家家臣の出の僧侶が勤めていたというのを知って、あるいは前時代の遺物を排斥しようという考えに基づく寛永寺創建なのかとうがった見方もしてみた。でも、後で書きますが浅草寺は江戸において定例の祈祷や東照宮の別当も勤めていて、とくに家光頃にはかなり厚遇されていたフシがある。江戸初期の3人の浅草寺別当は【すべて天海に引き立てられ、その影響下にあった人物である】(『ニノ丸権現様興廃記』入口敦志)ということなので、同じ天台宗だからそう浅草寺を邪険にした訳でもないようだな・・・そこで、素直な見方に切り替えてみた。これまでは当初の寛永寺が天海の私寺的側面を持っていたということがどうにも消化できなかったんだけど、トータルで考えるのではなくその時その時の局面で考えてみると、そう難しいことでもないように思えてきた。「上野第二編(65)」で寛永寺ができる直前の上野のお山の様子、および天海が依怙地に1人で建設地周辺の地ならしを続けていたらしいという話を紹介してますが、きっと最初は素朴に「老体には仙波~江戸間がキツくなってきたのう・・・」か、「天海、大丈夫? 江戸に滞在できる寺でもひとつ造ったらどうだろう?」 (By 秀忠)てなもんだったんだろう。なにせ、元和8年(1622)に徳川秀忠が上野の一部を与えた時点で、天海は推定86歳。江戸にひとつ拠点を、と思っても不思議ではない。将軍家にしても、がっちり東照社を囲い込む天海が近くにいてくれる時間が長い方がなにかと都合もいいだろうし。上野をもらった翌年には、秀忠が御殿山の御殿と白銀5万両を与える。ちまちまと土地の造成を続ける天海を見かねたのだろうか同じ年には家光が将軍に就任し、ここからピッチが上がるかと思いきや、本坊の竣工までさらに2年かかった。もらうものはもらっても、まだ自力にこだわっていたのだろうか・・・このあたりまではまだ私寺的側面があったと言っていいだろう。完全自力なら「私寺」と言い切ってもいいだろうけど、秀忠から結構な援助を受けているので、「私寺的側面」にとどまる程度だけど。「上野第二編(16)」で紹介した『落穂集』の話を再掲しますと、 私が聞いているのは、元和9年(1623)家光将軍の時代に建立のお考えがあり、 翌年の寛永元年(1624)より普請が始まり、開山は日光山の別当・天海大僧正、 惣奉行は土井大炊頭(利勝)殿と言うことでした。(中略) その時の惣奉行である土井大炊頭殿が言われるには、「東叡山は天下安全の 祈祷の為にあり、公方様のお考えで幕府を挙げて今度建立するので、徳川家の恩を 蒙る国主、郡主方は誰でも天下安全の祈祷に異論はないはずである」と言われ(後略)「公方様のお考え」はいい。「幕府を挙げて今度建立」もまあいい。秀忠は実質的なスポンサーであり、寛永寺ができた時点での将軍は家光なので、寛永寺の開基は家光ということになっている。んが、初めっから祈祷寺だったというのはどうだろうか・・・そう思うのもやっぱり家光が浅草寺を優遇していたからで、優遇の内容については今は飛ばしますが、なんでそうなったかという推測を先に述べますと、東照大権現様の「顕彰」であり「荘厳」だと思う。もしも初めから祈祷寺という位置づけだったのなら、そんなに浅草寺を遇する必要がないじゃないかと思ったんだよね。天海大好きの家光なんだから、天海がバリバリギラギラに祈祷寺のポストを狙って寛永寺創建に着手したのなら、家光はすぐにでも浅草寺の持つさまざまな権限をごっそり寛永寺に移したんじゃなかろうか。まあ、そもそも寛永寺創建の企画が公になってから本坊の竣工までに時間がかかっているので、どの時点を「最初」に置くかっていう問題もある。『政界の導者 天海・崇伝』(吉川弘文館)の中で浦井正明氏は 【それ(イエアスの入府時に浅草寺が祈祷寺に選定されたことを指す:ジジイ註)から 三〇年程たって、祈祷寺を別に建立しようという話が、当時川越の喜多院にいた 天海から出された。】それを受けて、秀忠が用地や金を提供し・・・という文章を書いておられる。どこかの史料にそういう記述があるのかもしれない。が、その一方で浦井氏は天海がひとり土地造成を続け、建物も天海の自費でつつましく建てられていたという点を指摘している。ホントのスタート段階から幕府をあげての祈祷寺創建だったのなら、もっと工事はスピーディーに進んでいただろう。この矛盾する内容を解決できる推測としては、まず第一段階としてはやっぱり天海が江戸で滞在するための自分の寺を建立するプランがあり、秀忠の援助を受けつつも自力で作業を続けていた。しかし、完成に至るまでの間に幕府の思惑がからんできて(←第二段階)、その後創建の運びとなった、っていうぐらいしか今のわたくしには思いつかない。『落穂集』のエピソードが史実かどうかはわからないけど、早い段階から確かに幕府は寛永寺創建に関わっていた。事実、本坊ができた2年後には堂宇建立ラッシュで諸大名の寄進などによって法華堂と常行堂・仁王門・黒門・東照社・経蔵・多宝塔(天海建立)・三重番神社(天海建立)ができている。その翌年までには、早くも13もの子院ができている。じゃあ、なぜに幕府の思惑がからんできたのか?当時、江戸における東照社および幕府の祈祷・祭祀については浅草寺が受け持っていた。しかし、天海は今や東照大権現にもっとも近い祭祀者。寛永寺がスタートするまでに東照社は日光のほか、江戸では紅葉山と浅草寺、あと尾張と紀伊・水戸の御三家がそれぞれ国許に勧請していたが、いずれも天海が深く関わっている。そういう天海が、江戸城のすぐ近くに、しかも秀忠の肝入りでちまちまと時間をかけて新しい寺を造っている。これは幕府・・・いや、家光としても見過ごせない重要事項だろう。イエアスが幕府を開いてからここまでの間、幕府が心血をそそいでいたのは「新しい秩序作り」だった。朝廷や武家のほか、仏教各派にもそれぞれ法度が出されている。「王法」の実質的な行使者となった幕府を近くで守護する仏法の一大拠点は、イエアス入府時よりももっと真剣に求められていただろう。そこに降ってわいたような天海の寺創建プラン。京の朝廷に叡山が寄り添っていたように、江戸の幕府にもこの際第2の叡山を!!なんて誰かが考えたとしても不思議ではない。でも、祈祷寺としてすでに浅草寺があるじゃないか。 当時の浅草寺は、古刹とはいってもあまり繁昌しておらず、寺の坊は昔から36坊と 伝えられてはいますが、そのうち10坊ほどが清僧の僧坊で、残りは山伏同様の 妻帯肉食をする坊主どもだったので、幕府の祈祷所には不都合ではないかと 皆が噂をしておりましたが、何のお構いもありませんでした。てな『落穂集』の話はホントかよ?ってカンジですが、浦井氏の ・浅草寺は古来より庶民の寺のイメージが強く、幕府が大々的に増改築したりという こともない。そのため、幕府の寺(=官寺)というにはちょっと庶民的すぎる。 ・天海が描いた、比叡山延暦寺という勅願寺を江戸に移す壮大なプランを 生かすには、浅草寺には地形の点で難がある。江戸城からの方角と宗派という点では 問題はないが、上野にくらべ浅草は低地すぎる。 ・比叡山延暦寺を東に移すのなら、当然本尊も同じ薬師如来が求められる。しかも、 薬師如来は東照大権現となった家康の本地仏でもある。浅草寺の本尊が一寸八分の 観世音菩薩だというのはよく知られたことで、庶民と観音のイメージが強すぎる 浅草寺を、薬師如来を本尊とする寺に造り変えるのは至難の技といえる。 ・比叡山を東に移すには、周辺の諸堂宇の移築、あるいは新築を伴うことを意味するが、 既成の市中にある浅草寺周辺にはあらたな堂宇を造ることは困難だった。 (「上野第二編(16)」より再掲)という推測のうち、1つめと3つめがポイントかなって思った。4つめもかなり現実味のある推測だと思う。にほんブログ村
2017年11月02日

さて、ぼたもちの2つめは「東叡山」の名称。長らくの読者様で記憶力のいい方は、何を今さら・・・って思うでしょうが、「東叡山寛永寺」で一般的に紹介されるのは、天海が「東の叡山」を造ったというもの。ただ、わたくしが知る限りでは寛永寺を紹介している歴史ファンの中で寛永寺以前に関東に東叡山が存在していたことを知る人って案外少ないように思う。史跡めぐりの記事をアップする自称・歴史ファンなんて、自分で検証や考察をすることもなく、他人の文章をほとんどコピーしてるくせにさも自分が書いてますって形態の人が多いからな。おっといかん、つい毒が寛永寺以前の東叡山は、仙波喜多院。もともと喜多院・・・つか、北院が属する無量寿寺は「星野山」だったのが、慶長18年(1613)に東叡山の号を賜った。が、その後寛永寺ができて東叡山の号を遷したので、喜多院はもとの星野山に戻った。ここまでが過去の記事で紹介してきたもの。ところがですね、無量寿寺以前にも「東叡山」の号を持つ寺が関東にもあったんですよ。これにはマジたまげましたね~。しかも、そちらの東叡山は今もって「東叡山」だというんです。そのもうひとつの東叡山は、埼玉の桶川にある泉福寺。正式名称を東叡山勅願院円頓房泉福寺といいます。泉福寺の歴史は古く、慈覚大師円仁様が天長6年(829)に開山したと伝えられ、無量寿寺よりも長い歴史を持つ古刹です。わたくしが泉福寺の存在を知ったのはほんの数日前のことで、年内いっぱいで切れる東武のタダ券消化のために円仁さんゆかりの寺でも行こうかな~とご飯を食べながら叡山のおじさんにもらったムックをぱらぱら見ていた時でした。「円頓房」とはいかにも天台らしい名称ですが、「勅願院」というのは淳和天皇の勅願によって開山されたという朝廷とのゆかりを示すもので、「東叡山」の方は鎌倉期に中興されて以降の山号だそうです。なんでも、源平の乱の時にまきぞえ食って荒廃していたのを叡山の僧・信尊さんが中興したそうで、ついで信尊さんの弟子・尊海さんは無量寿寺の中興をしたことから、泉福寺が関東天台の祖山としてあおがれて東の叡山を名乗ることになったという流れらしいのですが、イエアスが入府した際には五石の朱印状をもらったものの、 【朝廷とのゆかりの深さから領地を与えるという徳川幕府の使いからの申し出を 拒んだこともある。】 (「慈覚大師円仁と行く ゆかりの古寺巡礼」より)という関東天台の中心らしい、気骨のあるお寺だったようです。しかし、天海だけを見ていると「東叡山」てものすごく重要な意味を持つ号なのに、一体これはどういうことなんだ?仙波と桶川なんて近いんだし、関東天台の中心だったらなおさら、天海が泉福寺のことを知らなかったハズもなし・・・ウィキペディアには、泉福寺は戦国時代の永禄3年(1560)兵火で焼失し、江戸期の正保4年(1647)に復興されたとある。天海の死から4年経ってのことだった。復興前がどの程度すたれていたのかがわからないので何とも言えない部分はある。ほとんど廃絶した状態だったのなら、とりあえず天海の存命中は2つの東叡山は併存しなかったという見方もできるけど、寛永寺はその後もずっと繁栄を続けていくんだから、泉福寺復興以降は現在に至るまで2つの東叡山が関東にあったことになる。少し話は変わりますが、ブログをほとんど書かなかったこの1年、にほんブログ村のデータによるとわたくしが365日で記事を更新したのはたった16回だけだそうで(しかもほとんどカレーとかだし)、1ヶ月間1日も休まずに記事をアップしてた時期と比べてのあまりの変わりように我ながらびっくりですが、歴史への興味がなくなった訳ではなく、本はそれなりに読んで勉強だけはしておりました。そのうちの1冊、『満済』(森茂暁著/ミネルヴァ書房)は図書館の書架に並んでいるのをたまたま見つけてなにげに借りた本ですが、足利6代将軍・義教の将軍選任時のエピソードで出てきたぐらいで満済がどういう人かほとんど知らなかったし、室町初期に関心の高い時期だったのでいっちょ読んでみるかあ~!と思った程度でした。ところが、読み進めるうちに満済についての経歴だけではなく、大変示唆に富む内容が多いもので、しぜん天海に思考が向かっていった。似てるんですよ、満済と。それから、満済がひそかに敬慕していたフシのあるという、満済の何代か前の師・賢俊とも似てる。将軍に信頼され幕政に深く関与して「黒衣の宰相」と呼ばれたところとか。もっとも、江戸初期の「黒衣の宰相」は天海じゃなくて崇伝なんだけど、名称の問題じゃなくて中身が崇伝よりも天海に似てるとわたくしは思った。それで、『満済』の書き出しにこういう文章がある。 【日本の中世国家の性格を考えるとき、政治(王法)と宗教(仏法)との関係は 大変重要な論点の一つとなる。宗教が精神的な面から政治を支えるという役割を 担っていたからである。そのことは当時の史料にみえる「王法は仏法に寄りて栄へ、 仏法は王法に依りて弘まる」といったような表現に如実にあらわれている。 神道については「神は人の敬によって威を増し、人は神の徳によて運を添ふ」という 言葉があるが、これも広い意味では同種の表現と言えよう。 政治と宗教の関係は、いわば鳥の両翼、車の両輪である。両者は相依関係によって 固く結ばれていた。国家的な宗教行事の主催権の所在は、王権をめぐる問題を 考えるための手掛かりを提供する。】 (文中の出典は割愛しました)平安期は現実と目に見えない世界との境界がものすごくあいまいで、目に見えない世界に政治が大きく左右される時代でもあったから、なんとなく平安期頃の古い時代の方が宗教べったりってイメージがあったんだけど、これを読んであらためて考えてみると、べったりはべったりでも案外政治と宗教は切り離されていたのかもな、って思った。サポートはしても、政治には介入しない。政治の方からは介入したけど。諮問ぐらいはあっただろうけど、後世の密着度とは質が違う気がするのだ。むしろ、後の時代の方がより政治に深く関わっていくというのが意外だったんだけど、キビシイ戦国時代を経て朝廷や宗教界をも管理するようになった江戸幕府においてさえ、時には大きな発言権を持った僧もいた。天海についての勉強を始めた頃は、ギラギラしたイメージが強かった。 【こうした例は挙げていけば際限がない訳で、要は天海僧正が如何に 比叡山を東に移すということに執心していたかを知っていただければよい。】 (『寛永寺』より) 前にも書きましたが、『寛永寺』は私のすべての出発点。 この文章を読んだ当初は、叡山のコピーから始まってしまいには叡山のお株を 奪おうという、ギラギラした天海像をイメージした。これは「上野第二編(52)」で書いた文章ですが、『満済』を読んでするりとその呪縛から抜け出たような気分になった。 さてそれでこれらの材料を基にあらたな推測を加えた「寛永寺創建のナゾ2017バージョン」ですが、ハデな変化はないです。それどころか、考察の結果はどんどん地味になっていってます。でも、最初の頃よりはずっとマシになってきたんじゃないかと自分では思ってます。まあどのみち手持ちのカードは少ないんだし、第一人者の浦井正明氏にだってわからないことが多いナゾを解き明かしてやろうなんて気負いはさらさらありません。過去の材料をそのまま使う場合は極力リンクを貼るようにしますので、興味のある方はご自分でも考察を広げてみてください。まず今回思ったのは、寛永寺にせよ輪王寺宮のことにせよ「最初から最後まで一貫したプランに基づくと考える方が無理がある」ってことだった。家康との出会いから天海の死までには、長い年月の経過がある。2人の出会いは徳川政権の草創期にあたり、三河の土豪の小せがれが戦国の最終勝利者となって、鎌倉幕府も室町幕府も秀吉でさえも、かつて武家が誰も踏み込んだことのない領域にまで到達し、それを軌道に乗せるための施策を続けていた、そういう社会の転換期にあった。フツーの人が江戸時代と言われて思い浮かべるのは、時代劇で見るような風俗とか慣習とか封建制じゃないかと思うけど、例えば女性の髪型ひとつ取っても、島田とか丸髷とかの「高く髷に結った結髪」ってのは江戸も中期に入ってから広く浸透して確定したスタイル。髷の基が結われ始めたのは天正期の遊女だと言われてるけど、一部のモードな遊女が男髷を真似たとか、忙しく立ち働く下々の女性が実用性のために下ろした髪の先っぽを丸く結ったりとかする程度で、江戸に入った頃の身分の高い女性は、まだまだ昔さながらの垂髪だった。有名どころでは淀殿の肖像画として有名な(奈良県立美術館所蔵)赤っぽい着物を着た女性も垂髪だし、菱川師宣の「見返り美人」(東京国立博物館所蔵)も17世紀中盤~後半に描かれたのに(菱川師宣:1618-1694。割りと早い段階の作と言われるけど、どんなに早くても17世紀中期以降のハズ)、下ろした髪をねじって結っている。髪型に限らず「江戸時代らしい」スタイルや制度はかなりあとになってから確立したもので、特にイエアスが生きてた頃なんかは戦国時代や安土桃山の前時代の雰囲気を色濃く残していた。それを、新しいものに変えていく。その過程で豊臣家を滅ぼし、朝廷や宗教界を抑え、幕府の権威も右肩上がり。イエアスの信任を得た天海は「東照大権現」の成立も成功させ、これまた右肩上がりで栄達を遂げていく。社会の変化に応じて考えや方針が変わるのはむしろ必然。変わらなきゃ乗りきれない。さて、天海。前半生はひたすら吸収に努めた。色んなものを学び、山門派出身の天海が寺門にまで教えを請うている。その勉学の末に、やっぱり山門にとどまっている。世はあちらこちらでドンパチやってる戦国末期。天海自身も戦乱の影響で常陸に引っ越したりしている。 【「東源記」によると天文末年、20代の天海は、叡山神蔵寺の実全から 玄旨帰命壇(げんしきみょうだん)を学んでいる。また、36歳の元亀2年 (1571)には、豪盛から三重七箇大事(さんじゅうしちかのだいじ)を 授与された。これらは叡山の檀那・恵心両派を代表する教学であり、その内容は 本覚思想、つまり現実の徹底的肯定である。】 (『神君家康の誕生』(曽根原理/吉川弘文館より)「檀那」は檀那院覚運、「恵心」は恵心僧都源信の流派で、覚運・源信のどちらも良源さん門下の四哲と称された方です。関東天台では主に恵心流が伝わったと言われることが多いけど、檀那流の方も入ってきてたようです。それで、本覚思想を学んでいた・・・キビシイ現実にさらされながら、現実の肯定を続けてきた。 【幅広く学ぶこと自体は、あるいは当時にあっては特別なことではなかったかもしれない。 ただ天海の場合、そうした成果を終生おろそかにはしなかったようだ。】とは前掲書における曽根原氏の言ですが、おろそかにしなくっても寺の奥でただ自分の研究だけに打ち込んでいたら花は咲かない。研究の大成を見たなら「ひとつの花を咲かせた」ということもできるかもしれないけど、仏教はやはり実践を伴ってこそだし、長寿に恵まれたために天海には長い期間で培ったものを実践するだけの充分な時間もあった。その実践段階で食いついてきたのがイエアスで、大坂の陣直前3年間での御前論議の回数は尋常じゃない。イエアスは確かに悩んでいた。長く戦国武将として戦いぬいてきた自身の罪業滅消、豊臣家との決着、徳川政権のゆくすえ・・・およそ仏教とはかけ離れたテーマでの論議も催される中で、天海は持てる知識をいかんなく発揮しただろう。浄土宗の家に生まれたイエアスが天台宗に改宗すると言い出したのもうなずける気がするけど、そういうイエアスを押しとどめた天海はシビアに現実を見ていたイエアス以上に冷徹なまでの現実的思考を持っていたのだろう。にほんブログ村
2017年10月29日

さてここからは江戸の前期を中心に浅草寺の歴史を見ていきます・・・んが、浅草寺というのは寛永寺を考えるうえで大変重要な役どころにあります。それゆえに、前回言い訳した通り本シリーズがなかなか進められなかったワケで、テーマは浅草寺でありながらポイントは寛永寺に置くという、例によって視点のズレた記事になることをご了承ください。前回は現地の看板に沿って江戸期まで入りましたが、解説板が頼朝からイエアスまで飛んだからといって、その間有力者の庇護を受けなかった訳じゃない。寺社の保護は為政者の重要な責務だからね。現に、浅草寺のホームページでも、足利尊氏が参詣して寺領を安堵したとか、鎌倉公方の足利持氏が経蔵を寄進したとかいう歴史を紹介している。現地の為政者の崇敬だけではなく、明応年間(1492-1501)には後土御門天皇より天下安全の祈祷を命ぜられるといったニュースもあり、浅草寺の観音様の霊験は遠い貴人にまで届くほどのものだった。室町期も後期に入ると、建前は室町幕府の出先機関だった鎌倉公方は古河へ逃げ、代わって関東初の「侵略者」・後北条氏が次第に坂東に食いこんでくる。当然、後北条氏も浅草寺を庇護する。大永年間(1521-1528)には北条氏綱が浅草寺を祈願所に定め、以後浅草寺の別当は後北条氏配下の遠山氏か伊丹氏から出すこととされる。天文4年(1535)および元亀3年(1572)には浅草寺が火災で炎上するが、時の当主北条氏綱や氏直は火災からほどなくして浅草寺の再建にあたっている。天正18年(1590)の小田原攻めで後北条氏が滅ぶと、同年関八州を与えられたイエアスが入府してあらたに浅草寺が祈願寺に定められる。その後をかいつまむと、前回の解説板のようなカンジになるのですが、もうちょっとだけ付け加えると、5代将軍綱吉の不興を買った浅草寺の別当は追放され、以後は輪王寺宮が浅草寺別当を兼帯して寛永寺の支配下に入り明治を迎える。綱吉以降、将軍家からまったく見はなされた訳でもないけど、それ以前ほどの強いつながりはなくなった・・・が、庶民の強い信仰がその後の浅草寺の繁栄を支え続ける、という感じかな。て、ここで終わらせればわたくしも実にラクなんですが、それじゃロクな紹介にもならんし、いくつか勉強したことなどもあるのでもう少し続けます。浅草寺も寛永寺も、ともにメジャーな大寺。しかし、江戸期においては両者はかなり対照的な歩みをすることになった。対照的だからこそ、浅草寺の歴史をたどっているうちに寛永寺のことが頭から離れなくなり、寛永寺シリーズや日光シリーズなどでさんざん考えた寛永寺の創建のナゾをゼロからおさらいするハメになった。まあ、結局は収拾がつかなくなって知恵の輪がさらに複雑にこんがらがっただけですが、数日前、行方不明の資料を探しているうちにとある論文を印刷しておいたものを見つけ、「天台談義所」なるものの存在を知った。「檀林」という言葉を聞いたことがあるでしょうか。仏教界における学問所のことだそうで、論議・談義をする談義所は大ざっぱに言って檀林と同義語になると思います。『中古天台に於ける談義所』(尾上寛仲)によると南北朝・室町期に入って天台談義所は次第に数を増していったらしく、【(1)近江國一、(2) 美濃國六、(3) 尾張國一、(4) 信濃國一、(5) 上野國八、 (6) 下野國十、(7)常陸國四、(8) 下総國一、(9)上総國一、(10)相模國一、 (11)武藏國七、(12)肥後國二、(13)計四十三となる。此の外國名の到明しない もの若干がある。】だそうな。ぶっちゃけ、もういつ印刷したのかも覚えてない論文で、内容の把握も全然していなかったけど、あらためてこれを読んではっと天海の前半生頃を思い出した。あいにく、同論文には各談義所の名称がすべて掲載されている訳じゃないけど、室町期に入ってできた談義所の中に「長沼談所」、「仙波佛藏院談所」がある。さらに、ウィキで「檀林」を検索すると、天台宗の著名な檀林の中に「中院」と「江戸崎不動院」の名がある。これらの寺や地名は、「上野第二編(14)」に出てくるもので、「長沼談所」は長沼宗光寺のことで、天海が復興させた寺。「仙波佛藏院」は仙波無量寿寺の北院のことで、中院も無量寿寺に属する。北院はのちイエアスと出会った後に喜多院として天海が復興させている。「江戸崎不動院」は蘆名盛重とともに常陸に移ってきた天海が入った寺で、関東八壇林のひとつに数えられている。そうか、天海って「学僧」だったんだな。あちらこちらで勉強しまくってたもんな。天海というと政治向きの話題が多くて学僧ってイメージは一般的に薄いと思うけど、『寛永寺』が語る天海の事蹟のひとつとして天台教学の振興が挙げられてたしな。天海が学僧だってことを思い出すと、それまでとはまた違った見方ができるようになる。武蔵には7つの談義所があったと尾上氏は言っているけど、当時の武蔵って広かったからね。武蔵の談義所のすべてを知っている訳ではないので確実なところは言えないけど、おそらく奥武蔵がほとんどで神奈川にいくつか、といったところじゃないかと思う。つまり、いわゆる「江戸市中」あたりは関東天台からすると辺境の地で、ロクな・・・いへ、教学の盛んな寺はやっぱりほとんどなかったんだろう。別に浅草寺をおとしめるつもりはさらさらありませんが、もし浅草寺サイドが採用している「天海の推挙によって浅草寺が祈願寺となった」という説が本当であれば、なおさら江戸市中は天台教学の空白地帯だと言えるんじゃないかとも思った。だって、もしそういう寺が沿岸付近にあったなら、学僧の天海はまず教学の盛んな寺を推したんじゃないかと思うから。でも、そういう寺はなかった。わたくしは天海が推挙した説はないと思ってるけど、誰かが祈願所となる寺を探していたことには違いがないワケで、天海でなくとも向学の気風の高い寺をリストアップするだろう。あるいは、大道寺重祐は祈願寺となるような天台の寺を探せと下命があったと言ってるけど、イエアスは「天台か真言の寺」と言ったかもしれない。とりあえず、祈願ができれば良かったんだもの。まだその頃のイエアスは天台に執心してた訳でもないだろうから、天台でも真言でもどっちでも良かったのかもしれないよな、と思った。ま~、真言宗は皆無といっていいほど縁がないので、実のところはどうだか知りませんが、たぶん真言も付近には大した寺はなかったんじゃないのかな。だから、古刹の浅草寺がクローズアップされて祈願寺の地位をゲットした。天海とイエアスの出会いの時期については、これまでは状況から考えてただ漠然と慶長12年(1607)説を採っていた。それ以前に顔合わせぐらいのことはあったかもしれないけど、きちんと面識を得るのは天正18年(1590)じゃちょっと無理があるだろうと思っていた。でも、天正17年(1589)に天海が入った江戸崎不動院、慶長4年(1599)に不動院と兼帯で天海が入った無量寿寺、慶長9年(1604)に天海が久下田の地から旧地の長沼へ移転して復興させた宗光寺。これらの寺を復興させたこと自体は知っていたけど、その中身が教学の盛んな寺だったということになれば、天海の経歴はただいくつかの寺を復興させただけのものではなく、関東天台の重要な古刹を次々復興させたという華々しいものになる。その手腕がイエアスの耳にまで届き、慶長12年(1607)の叡山の紛争解決依頼につながる流れなのか、と1人で納得した。そこで見事にミッションを果たした天海はイエアスの信頼を得、その後の御前論議などでこれまで培ったものをいかんなく発揮して2人の親密度が深くなっていったんだろうという推測はそう無理がないと思う。2015年にニホニウム(元素記号113)が新元素として認定されたというニュースは日本人にとっては感動的なものでありましたが、研究グループのリーダー・森田先生のことをニュースか何かで見てた時、「新元素はゼッタイある!!!」という信念に基づいて、先生が「113」という数字にこだわる生活をずっと続けていたというのを知った。あんまり細かいことは覚えてませんが、お賽銭は必ず113円というこだわりを持っていつも持ち歩いていたって話がすごく印象的だった。「あきらめないで信念を持ち続ければ、いつか道は開ける」そういうエピソードを知って、いくつか抱えている歴史上のナゾを自分も食い付き続けていこう・・・TVを見ながらひそかに決意したわたくしは、その後もスキあらば寛永寺や小早川隆景の相続問題についてあれこれ考察を続けてきましたが、浅草寺の勉強を始めて以降寛永寺と輪王寺宮の洗い直しに取り掛かった1年前は、考えすぎてほとんど自滅したようなもんでした。どうにも考えがまとまらなくて、「もういいや~、ライトにいこう」とやっつけモードになって再開したとたん、タナからぼたもちがいくつかぼとぼとと落ちてきました。めぐりあわせというのは実に不思議なものだと思わず苦笑いも出ましたが、まあ人生なんてそんなものでしょう。ぼたもちの1つは談義所を知ったことですが、次回はほかのぼたもちを基に考察のしなおしの簡単なまとめをしようかと思います。※これまでの寛永寺創建についての記事は「上野第二編(16)」以降数話「上野第二編(52)」「上野第二編(65)」あたりかなあ・・・あちこちで書きちらかしているので、わずかな記述の分はもう思い出せませぬ・・・にほんブログ村
2017年10月27日

さて、平安期の終わりにはこの方の登場です。 【源頼朝の参詣 治承4年(1180)、源頼朝は平家追討に向かうため浅草の石浜に軍勢を揃えた際、 浅草寺に参詣して戦勝を祈った。やがて鎌倉に幕府を開いた後も信仰を寄せた。 鎌倉鶴岡八幡宮造営に際しては浅草からも宮大工を召している。このように武将や 文人らの信仰を集めた浅草寺の霊名は次第に全国に広まっていった。】ものによっては、文治5年(1189)の奥州征伐の際にも頼朝は戦勝を祈願し、土地を寄進したとある。浅草寺のホームページにもそう書いてある。このところ、ブログをサボって休んでいたわたくしですが、勉強だけは続けておりました。ぼちぼち本編を再開しようかな~と思い始めた頃はちょうど『吾妻鏡』を読んでいたところで、まだ義経が謀叛を起こしたあたりまでしか読んでいなかったので、少し先へ飛んで奥州出陣にからむ浅草寺の記述を探したのですが、そういう記述は見つけられなかった。『吾妻鏡』に書かれていると言っている人もいるのに。『吾妻鏡』を読む限りでは、頼朝という人はなかなか信心深い人だったらしく、特に法華経を大切にしていたので、誰かと対面したりしても、相手が法華経信者だったりすると途端に気を許して待遇を良くしたりしている。まあ囚人生活が長かったから、心のよりどころにしていたんだろうな~と思った。で、自分のステータスが上がるにつれ、寺社の保護なども積極的に行うのですが、奥州征伐にあたってはかなり力を入れていたらしく、縁の深い寺社に念入りな祈祷を依頼している。まずは、当然の鶴岡八幡宮。それから武蔵の慈光山。こちらには自身が日頃から崇敬していた愛染明王の像を送りつけ、愛染様を本尊として戦勝祈願に専念するようよくよく命じたとある。それから、出陣前にはちょうど出雲の杵築大社の神主が鎌倉に来ていたそうで、出雲に帰って丹精込めて祈祷するようこれまたよくよく命じている。祈祷の目的ははっきり書いてないけど、時期的に当然奥州での勝利と思われる。あと駿河の帝尺院にも田地を寄進して勝利の祈祷を行わせている。他には、舅の北条時政が伊豆国北条の先祖ゆかりの地に伽藍の造営をしている(願成就院)。出陣の前夜には、伊豆山の僧・良暹に留守を守りしっかりと祈祷するように命じ、さらに出発してから20日ののちに邸の後ろの山に仏堂を建て、頼朝が年来本尊としていた正観音像を安置するように言い渡している。建てるといっても柱ばかりの簡素なものだけど、それは他の大工などにはさせずに良暹自ら建てるようにと厳命している。んで、出陣してからは途中の下野で宇津宮(うつのみや:現宇都宮神社)社に祈願をし、無事に征伐ができたなら、捕虜1人を神職に進めますとの願を立てて上矢を奉幣したとある。その言葉の通り、帰路にまた宇津宮社に立ち寄り、荘園1ヵ所を寄進してとある捕虜の一族を神社の職掌としたそうな。頼朝の遠征中には妻の政子が女房に鶴岡八幡宮でお百度詣りをさせ、頼朝が帰還してからは鎌倉長谷にある甘縄明神社にお礼参りをしているので、甘縄社にも政子が願をかけたものと思われる。と、身内を含めあちらこちらに祈りちらかしたことが「吾妻鏡」には書かれているけど、浅草寺に大々的な祈祷を依頼したとの記述は見受けられない。もちろん、書いてないからそういう事実がなかったという断定にはならない。このページ最初の引用文にある、鶴岡八幡宮造営にあたって浅草から宮大工を招集したというのは有名な話なので、当時も浅草は充分進んだエリアだったんだろうし、石浜まで来れば古刹に立ち寄るという可能性は充分にあるだろう。さて、現地の解説板では頼朝の後はイエアスまで時代が飛ぶ。が、鎌倉幕府と江戸幕府のあいだの室町幕府将軍も浅草あたりへ来た記述が「太平記」にある。浅草寺には直接の関係はないものの、ちょっと面白かったのでここで紹介しておきましょうかね。時は足利尊氏の弟・直義が急死した翌年の1352(正平7年/文和元年)。南朝方の北畠親房らが中心となって京と鎌倉の東西の都の奪還に乗り出すと、新田義貞の遺児や中先代の乱を起こした北条時行、さらには直義派の面々も参戦したといわれる。尊氏は現在の東京都小金井市および府中市あたりで新田軍を迎え撃ち、かなりの激戦になったらしい。新田義貞の三男・義宗は「尊氏は天下にとっては朝敵。 俺にとっては親の仇。 今こそ尊氏の首を取って軍門にさらす時!!」と、他の兵には目もくれず、ただひたすら尊氏の所在を示す丸に二引の大籏を目指して遮二無二尊氏を追い続けた。逃げる方も必死で馬を走らせてとうとう石浜までやって来た。尊氏はもうこれまでと鎧の上帯を切って投げ捨て、今しも己の腹に剣を突き立てようとしたが、必死にいさめられ、近習の20騎ばかりが引き返して敵を足止めし討ち死にする隙に対岸へ駆け上がることができた。新田義宗は歯噛みしたが、すでに日が落ちていたのでやむなく本陣へ引き返した、とな。(「太平記」武蔵野合戦の事)ま、「石浜」の具体的な場所については諸説あるらしいんだけど、浅草近辺とは言えるだろう。当時はまだ付近の干拓もされてなかったし、水っぽい土地ではあったもんね。場合によっては浅草は尊氏ご臨終の地だったかもしれないと妄想するとちょっと楽しいで、解説板に従い今度は江戸まで飛びます。 【徳川将軍の篤い保護 天正18年(1590)江戸に入った徳川家康は天海僧正の勧めで浅草寺を祈願所と 定め、寺領500石を寄進した。元和4年(1616)には家康を祀る「東照宮」の 造営を認め、随身門(現、二天門)も建立されるなど浅草寺への信仰は篤かった。 寛永年間に観音堂が炎上した際も徳川家光により慶安2年(1649)再建された。 以後、関東大震災にも倒壊せず、国宝観音堂として参詣者を迎えた。だが、昭和20年の 東京大空襲により焼失、現在の本堂は昭和33年に再建された。】 (【】内はいずれも現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)うむ・・・説明のためのスペースは限られているし、これはこれで致し方ない。が、過去の記事から少しおさらいしますと、天正18年のイエアスの入府は確か。ただ、天海とイエアスの出会いには2つの説があり、2つの説は17年もの開きがある。解説文では天正18年説を採用し、天海が祈願所の進言をできるだけの関係を築いていたとする。でも天正18年の出会い説の方は、その後しばらく2人の接点が確認できないことからちょっと疑問視されている。もし天正18年に天海が祈願所の選定に関われる関係があったのなら、その後10年以上も空白の期間があるのはおかしい気もする。大道寺友山重祐が語る菩提寺と祈祷寺のなれそめについては「上野第二編(16)」で紹介した通りで、そちらではただ単にイエアスの入府当時、江戸に浅草寺以外にロクな天台の寺がなかったからだとしている。おおかた、そんなところだろうなとわたくしも思っている。関東は歴史的に天台の強いエリアではあるけど、割と内陸の方により強いカラーが集中してるように思うんだよな。いわゆる「江戸市中」にはあまりそういう寺はなくて、ゆえに浅草寺に白羽の矢が立ったんじゃないかという気がしている。さてね・・・最後の浅草寺の記事を書いたのが、去年の11月18日。なんともう1年近くの日々が経とうとしております。ブログを書いてる時間がなかった諸事情もありますが、それにしたって1年。日帰り(それも半日)だからスコーンと上げられると踏んでスタートしたはずなのに、なんでここまで滞ったかとゆーと、江戸初期の浅草寺の歴史がわたくしの食い付きポイントと見事にクロスして、またもや巨大なジャングル、もしくはシュヴァルツヴァルトの黒い森をえんえんさまよい歩いていたからなのです。じゃ~、1年経って抜け出せたのかとゆーとそういう訳でもなく、それどころか「もうヤダ・・・ 浅草寺、書きたくねえ~~~~・・・」って拒否反応が出るようになってしまいました・・・ホントは、別のシリーズを始めたい。もっと「安産」で済むハズのネタも沢山あるし。でもいつまでも中断したままという訳にもいかないので、1年ぶりに自分にムチ打って再開することにしました・・・でもね。「考えすぎるのやめよう。 ライトに行こうぜ、ライトによ」というスタンスに切り替えたので(←どこがムチじゃ)、極力ライトに続行しますにほんブログ村
2017年10月22日

引き続き、ホネ。 元の姿がこれ↓。 【アロデスムス 誕生したばかりの日本海に最初にすみついた海生哺乳類のひとつがデスマトフォカ科 の鰭脚類(ききゃくるい)である。その姿はアシカのようでもあるが実際はアザラシと 共通の祖先をもつ、絶滅した系統群である。アロデスムスは、温暖な外洋で魚や タコやイカなどを捕食していたが中新世中期後半の冷温化に伴って束柱類とともに 絶滅した。】アロちゃんは石川県珠州市で見つかったものだそうな。 ↑その隣にいるのがパレオパラドキシア・タバタイという早口言葉に良さそうな名を持つ束柱類(そくちゅうるい)で、元の姿がこちら↓。 【パレオパラドキシア 日本海が誕生したちょうどそのころ日本から北アメリカにかけての 太平洋沿岸に生息していたのが束柱類のパレオパラドキシアである。 パレオパラドキシアは温暖な海域に分布し、河口近くの内湾で生活 していたと考えられている。この標本はもっとも完全なものでネオタイプ (ホロタイプが失われた時に新たに分類の基準となる唯一の標本)に 指定されている。】束柱類って聞かない名称だけど、コトバンクで調べると 【およそ3000~1000万年前に日本や北米などの北太平洋沿岸に生息していた 哺乳類。歯が柱を束ねたような形状をしていることから名付けられた。(中略) 陸生か海生かといった生態については研究者の間で見解が分かれていたが、 2013年4月、海中で生活していた可能性が高いとする研究成果が日独の研究チームに よって発表された。】 (知恵蔵miniの解説より)だそうな。前から見るとこんな風で↓ 結構大きいし、何も教えられずにこれだけ見たらたぶん恐竜だと思う人が多いんじゃないかな。それから2Fの北翼へ移動。え~っと、これ、何観に行ったんだっけ・・・(←もう忘れた)ここは去年、江戸時代の屍蝋をお目当てに行ってるんだけど、今回は去年撮らなかったものを撮ってきました。 今度はヒトのホネでございます。 【骨を読む 縄文人はどんな人たちだったか 縄文人の骨は、北は北海道から南は沖縄に至るまで、時代の古さの割には 比較的たくさん発見されている。これは、カルシウム分を多く含む貝塚、 あるいはその周辺に埋葬されていることが多いためである。同じ縄文人でも 早・前期の人骨は全体的に華奢であるが、中・後・晩期になるとがっしりと 筋骨たくましくなる。現代の本土日本人と比べると顔や眼球の入る眼窩は 上下に短く、鼻筋が通っている。中・後・晩期人の平均身長は男性が158cm 女性が149cmほどである。】その先におわすのが 【骨を読む 弥生人はどんな人たちだったか 弥生人とは弥生時代の日本列島に住んでいた人々のことであるが、骨の 特徴を調べると大きく2種類の人々がいたことがわかる。ひとつは北九州や 本州西部から発見される、いわゆる渡来系弥生人、もうひとつはそれ以外の 地域から発見される縄文人的な特徴を残した在来系弥生人である。渡来系 弥生人の顔形は縄文人とはずいぶん異なり、鼻の付け根が平坦で顔は全体的に のっぺりしていた。渡来系弥生人の平均身長は男性が163cm、女性が 151cmほどで、縄文人よりもかなり高かった。】へえ、弥生人の方が大柄だったんだ。すらりと立つ全身骨格の他に、こういうホネもある↓。見てこの細いホネ!! 【縄文時代の手厚い介護 この縄文時代の10代後半の個体(おそらく女性)の四肢骨は、異常に細い。 おそらく幼少時に小児麻痺か何かの病気にかかり、麻痺したまま一生を寝たきりで 過ごしたものと思われる。 彼女がこの年齢まで生きることができたのは、縄文時代にあっても仲間の手厚い 介護があった証拠と考えられる。】全身の骨すべてが揃っている訳ではなさそうだけど、これだけ綺麗な状態で見つかったということは、手厚い介護のみならず手厚い埋葬があってのことだろう。家族の人情はいつの時代も変わらぬことよ・・・さて次はなかなか迫力がありんす↓。 日本各地で見つかった、時代別の頭部のホネが一同に会した一瞬ぎょっとするような展示です。まあ、時代ごとの差というのもあるんだろうけど、個体差ってのも当然あるからな・・・向かって左半分の真ん中へんに横向きになってる黒っぽいのが弥生人男性で、右半分の真ん中へんの黒っぽいのが江戸時代男性のもの。個体差があるといっても、江戸期男性のは他とくらべてかなり小さい。これが今の若い人になると、もっと小さくなるんだろうな・・・しかし、これだけ頭骨がずらり並んでるとちと写真を撮っていいものかと小心者の面が顔を出す。が、展示品に付けられているプレートを見るとここまでのところどれもレプリカだったので、ほっと胸をなでおろす。で、この隣にあるのがこちらのホネ↓。 おデコの部分に損傷がある・・・生前に傷でも負ったのか、あるいは死亡から発掘されるまでの間に外的な力によってなんらかの損傷を受けたのか・・・ところが、そんな理由でこうなったワケではなかった。 【梅毒 梅毒が江戸時代の、特に江戸市中で猛威を振るっていたことは有名である。 この標本は江戸時代の男性個体のものであるが、頭骨の前頭部は梅毒性肉芽腫 により壊死化して破壊性骨病変を、また脛骨は梅毒による骨膜性骨増殖に よって肥厚を呈しているのだと判断される。江戸市中の梅毒の蔓延は、当時の 特殊な社会的状況により結婚適齢期の男女の比率が極端に男性に偏っていたことと 関係がある、と考えられている。】うっひゃああああ、梅毒って骨まで破壊しちゃうんだおっそろしい病気だの~。過去の記事でもちょろりと書いたけど、江戸市中の男女比率は7:3ぐらいだったとされる。だからつまり、女遊びで梅毒患者が増えてったって言いたいんだろう。戦国武将も海外遠征で梅毒にかかったとか言われてる人は結構いるしな。武将の中でもこうしたホネを持つ人もいたのかもしれない。皆様、梅毒には気をつけましょう。この隣が例の屍蝋で、このフロアはここで終わり。あとはいくつかさらっと展示を見て、休憩がてら「日本の四季」みたいなビデオを観てかはくを出る。さて、上野の山内に入れば当然寛永寺にも寄る。できれば本堂の方へも行きたかったけど、今回は両大師だけ。あとひとつどうしても観なきゃならないものがあるんだけど、両大師とどちらから行くべきか・・・もんもんと考えたあげく、先に旧寛永寺本坊・・・現在のトーハクへ向かう。チケットを買って中に入ると、こんなものが置いてあった↓。 すげえな、日傘の貸出まで始めたんだ今回のお目当ては常設展。常設展示といえど各室では色々とテーマを組んで展示品の入れ替えもあり、今回は 1室/仏教の興隆 3室/仏教の美術 8室/書画の展開 と11室の彫刻、13室の金工・密教法具あたりを狙っていた。あと、5室には榊原康政所用の甲冑の展示もあったな。長らくの読者様にはわたくしの良源さん好きをよくご承知と思いますが、ここへ来る少し前、何かの調べ物をしていた時に良源さんの御遺告(国宝)がトーハクで展示されていたことを知って思わず身体がくずおれた。 だって、去年(2016年)だよ、去年!!そんなの、知らなかった!!!知ってれば絶対観に行ったのにィィィィィィ~・・・・めそめそ。御遺告は良源さんと縁の深い廬山寺の所蔵です。でもトーハクに寄託されてるんだな。わたくしの持ってる本にも写真が載ってるけど、実物が観たかったんだよお。それ以来、時々思い出してはトーハクの展示を確認するのですが、国宝ゆえかなかなか開示されず今回もあいにく御遺告の展示はありませんでしたが、でも今回はこれがある↓。 【重要文化財 慈恵大師坐像 蓮妙作 木造、彩色、玉眼 鎌倉時代・弘安9年(1286) 滋賀・金剛輪寺】かつて、天台宗寺院で良源さんを祀らない寺はないと言われたものの、現在良源さんの木造がどれだけ現存しているのかは知らない。でも写真で公開されてるものもあるんだけど、割合的には元三大師像といえばわたくしが知る限りではこの金剛輪寺のようにキツい顔をしたものの方が圧倒的に多い。こーゆー顔にした方が威圧感があって良源さんのイメージに合うのだろうか・・・ともかく、墓参りの時期にこの像の展示があってラッキーだった。もうこれでトーハクでの用はほとんど済んだようなもの。あとは狙っていた部屋をガスガス目指してさらっと観る。写真撮影禁止のものもあるし、いちいち写真を撮ってたら遅くなるのでほとんど写真は撮らなかったけど、でもこんなものもあった↓。 「普賢延命像」。この仏画自体が眼をひいたのではなく、描き手の方です。これを描いたのは武田逍遥軒・・・武田信玄によく似ていたので信玄の影武者を務めたともいわれる、信玄の弟です。書画に長けた人とは聞いたことなかったけど、うまいもんじゃないか~。あと、これね↓。 こちらは絵の方ではなく、その上の賛(さん)の方です。 一番右にあるように、この賛を入れたのは一休さん・・・もとい、一休宗純なんだそうな。書の良し悪しなんぞさっぱりわかりませんので、ほ~・・・としばし足を止めてからガスガスと部屋を出る。トーハクを出ると、上野公園入口にはアイス屋さんがあった。 暑いし、色んな味があるので食べようかとも思ったけど、300えんだか350えんだかやたら高かったのでやめた。でも通りがかった中国人はこの高いアイスを買ってべろべろなめていた。さて、ラストはおなじみの両大師。 いつものように宮の墓域にお参りしてから本堂へ。今回はちと思うところがあり、お参りのあと隅っこの方にしばらく座っていた。本堂の入口は閉まっていることがほとんどなので、中に入れることを知らない人は外からの参拝だけで帰っていく。中に入る人もぼちぼちいるけど、わたくしが行く時はほとんど人は来ない。が、この日は珍しく数組の客が中で座ったりしていた。1人で静かに浸りたい時に限ってこうなので、ぼんやりと他の人を見るともなしに見ていると、明らかに両大師にはそぐわないロリ系のカッコをした若い女の子が上がってお参りをしていた。若い子には珍しく、感心じゃないか~と思って見ていると、受付で御朱印を受け取って帰っていった。なんだ、御朱印集めかそのあとでわたくしが出ていくと、彼女は長玉の大きなカメラを構えて本堂を撮っているところだった。いわゆる御朱印ガールってとこだろうな。あとで写真とともにブログにでもアップするのだろう。以上で今回の訪問は終わり。駅ナカで恒例のパイを買いにいくと、鯖寿司があった。京都駅に寄るといつも買って帰るような肉厚のサバだったので、パイとともに土産にして帰ったら、美味しい鯖寿司だった。お店の名前は忘れちゃったけど、また今度も買って帰ろうにほんブログ村
2017年10月08日

お久しぶりでございます。長らく間が空きまして、お待ちいただいていた方がいたら申し訳ござりませぬ。あまり間が空きすぎて、深海展のシリーズはあれで終わりかと思っていた方もおられるかもしれませぬが、実はまだ終わってはおりませぬ(笑)。会期の早いうちに行ったので今回こそは充分に宣伝をできると思っていたのに、このていたらくまあ、10/1に深海展は終わってしまいましたが、かはくのホームページによると、最終日には入場者数が60万人を突破したそうで、盛況でようございました。しかし、終わったからといってこのシリーズを未完に終わらせることもできないので、とりあえず残りの報告をいたします。会場には、しんかい君の他にも地球深部探査船「ちきゅう」の1/100模型もあった↓。 全長 210m 全幅 38m 総トン数 56,752トン 航海速力 12ノット 定員 200名 【2005年に就航した、海洋研究開発機構所有の世界最大の科学掘削船。 全長210m、幅38m、船底から高くそびえるやぐらの頂点までが130m。 6基のアジマススラスタにより、誤差数mの精度で海上の同じ場所に留まることが できる。国際深海科学掘削計画(IODP)の主力船として、地震発生帯や 海底下生命圏などの研究航海を行い、生命地球科学に貢献している。将来的には、 前人未到のマントル掘削を行うことが期待されている。】マントル掘削!?そんなことが可能なのか?この近くにはダミー研究者がいて、 【ドリラーズハウスとサイバーチェア サイバーチェアは、船上で掘削作業の全てをつかさどるドリラーズハウス内に 2台設置されており、ドリラーとアシスタントトリラーの2名で作業を分担 する。金網に囲まれているのは、掘削パイプなどの重量物が落ちてきた時のため。 展示のスクリーンに映っているのは、ドリラーズハウス内と、ドリルフロアの 様子。ここに映る様々な掘削機器をサイバーチェアに座って遠隔操作する。】上の写真ではサイバーチェアの前は黒く映ってるだけだけど、実際の船上を写したパネルには確かに金網に守られたハウスの中に研究者たちがいて、金網の向こうはフツーに外の世界が広がっている。危険と隣り合わせの研究だけど、ちきゅう君を所有するJAMSTEC(国立研究開発法人 海洋研究開発機構)ではJFAST(東北地方太平洋沖地震調査掘削)というプロジェクトが進行中で、JFASTの成果も簡単に紹介されている。まずは温度計測をしたそうで、 【温度計測をしたところ、2011年東北地方太平洋沖地震で生じた摩擦熱により、 プレート境界断層は周囲より温度が高いことが判明した。この温度異常をもとに 地震時の断層における摩擦係数を求めたところ、約0.1と非常に低い値が 得られた。このことは、地震時に断層が非常にすべりやすかったことを意味する。 これにより断層上の陸側プレートが大きくすべり、その結果、海底が大きく 変動して巨大津波を引き起こしたことがあきらかとなった。】さらに 【採取したコア試料を分析したところ、プレート境界断層の大部分はスメクタイトと よばれる非常に細かい粘土で構成されていることが明らかとなった。このスメク タイトを用いて地震時の断層運動を再現する実験を行ったところ、0.1前後の 非常に低い摩擦係数が得られた。この結果は温度計測結果とよく合っており、 断層運動の再現実験からも地震時に断層が非常にすべりやすかったことが 実証された。】で、徳島から採取された「鱗片状構造」というものが展示されていて、これに直接さわれるようになっている↓。 お子ちゃまに交じってわたくしもこれをさわってみましたが、おっそろしいほどツルツル。断層がこんな状態になっているなんて、考えるだにオソロシイこのあたりからは地学的分野の展示にスライドしてきていて、世界有数の地震国である日本における地震観測システムについての展示もあった。 【DONET(海底地震・津波観測監視システム) 海洋研究開発機構が開発した「DONET」は、海底に設置した多数の地震計と、 津波観測の水圧計を接続したケーブルを、陸地まで延ばしてリアルタイムで 南海トラフの海底地震や津波を観測する装置。東南海地震震源域に「DONET」、 南海地震震源域とその周辺に「DONET2]が設置されている。】その観測網がこちら↓。 ええと、これはDONETとは違うのかもしれないけど、こういう長期観測ステーションを海底に置いて堆積物とか生物などの観測を続けているんだそうな↓。 この先も、海底資源とかについての展示が続く。レアアースの展示なんかもあったな。人目をひきやすい深海生物から始まって、ちと地味な地学系の展示で終わる「深海展2017」。最後の方はあまり丁寧には解説は読まなかったけど(スイマセン)、それでも個人的には地学系の展示の方が面白かったな。かはくの夏休み大型企画展といえばお子ちゃま向けのイメージのが強いような気もするけど、大人にも十二分に楽しめる展示でございました。深海展はこれで終わり。なんか面白いモノないかな~と売店コーナーも覗いてみたけど、目ぼしいモノはあいにく見つからなかった。 さてと、駆け足で企画展を観てきたけど、1時間半ぐらいいたのかな。実はかはくの後にもいくつかぱぱっと見ようと思っているのがあるので、早く次に移動したいところではあるけど、せっかく入場料を払って入ってるのだから(←貧乏性)、常設展で去年観られなかったものを観ていこう。 去年も書いたけど、かはくってなにげにフクザツな造りでね。建物自体はたった2つなんだけど、建物間の移動でも出入りでも通路を通っていくので、慣れないと結構わかりにくい。ので、企画展を出たところにある屋上のスカイデッキでおやつを食べながらお目当てがどこにあるかを下調べして、常設展のある日本館へ向かう。で、まずは日本館3F北翼に鎮座ましますこちら~↓。 へい、こちらが去年諦めたフタバスズキリュウでございます。去年も朝から暑かったし、おしゃべり好きの京都のジジイのせいで余計な時間を使ってしまったので、時間切れになって諦めたのだ。ま、時間切れといってもたかが都内。夕方まで頑張れば時間はたっぷりあるにはあるんだけど、どうも最近、近場だとあれこれ見たい反面、早い時間に帰りたいという衝動にかられてしまう。そういう訳で、今年も暑いというのもあったし、手早くお目当てを済ませて昼すぎには帰ろうと目論んでおるので、今回も常設展を丁寧に観る予定ではない。ん~で、フタバスズキリュウ。 綺麗な首長竜・・・これが実物かあ~とひたすら感動してたら、これは復元のレプリカらしい。んじゃ、実物が展示されてるってのはウソか!?と思ったら、宙に浮かぶ骨格標本の下にあるこちら↓ これが発掘された現物らしい。これだけじゃよくわからないけど、図が置いてあって 全身のうちのグレーの部分だけがここにあるということらしい。 【フタバスズキリュウ産状 展示されているフタバスズキリュウは、環太平洋地域でも有数の、良好な首長竜化石 である。ほぼ1体分の化石が仰向けになった状態で発見されたが、化石が発見された ときには川の流れによって、尾と後頭部などが浸食されて失われていた。また、長い 首が付け根付近で切断され、首の大部分も浸食などによって失われたのではないかと 考えられる。】ということだそうな。ここ3F北翼は「日本列島の生い立ち」というテーマで、日本列島誕生前後あたりを中心にした展示となっている。で、かつての日本列島に生息していた大型動物たちの骨格標本も多い。わたくし、ホネって結構好きなんだよね。 (ヤベオオツノジカ)元の姿がこれ↓。 【大型哺乳類の絶滅 更新世後期の日本列島には、現在よりもずっと多くの大型哺乳類が生息していた。 しかし、今からおよそ2万年前にあった最終氷期のピークの、前とあとの二つの 事変をへて、絶滅したことが明らかになってきた。すなわち、比較的暖かいところを 好むナウマンゾウを中心とした動物たちは、氷期のピークに達する前(23000年 前頃)に絶滅し、寒冷気候に適応したマンモス動物群は、氷期のピークのあと 急激に温暖化が進んだとき(16000年前頃)に絶滅したと考えられている。】 ↑こちらはかつて日本にいたゾウたちの化石だそうで、向かって左がアケボノゾウ、右がトウヨウゾウ。 【日本にいたゾウたち 更新世以降の過去約200万年間で、化石の年代や産地などがもっともよく わかっている陸生動物はゾウのなかまである。この期間に日本からは、5種類の 化石ゾウ類が知られている。アケボノゾウは鮮新世から日本にいたミエゾウの 子孫である。ムカシマンモス、トウヨウゾウ、ナウマンゾウは、それぞれ約110 万年前、60万年前、34万年前に、中国南部または朝鮮半島経由で九州や 本州へ移住した。また、ケナガマンモスは約6万年前以降に、シベリアから サハリン(樺太)経由で北海道に移住したことがわかっている。】 (ここまですべて【】内は展示解説より) (更新世中期) (更新世後期)へえ~っ、そんなにゾウがいたなんて知らなかったゾウ。にほんブログ村
2017年10月07日

深海生物たちの展示が終わりに近づく頃にはこういうものがあった↓。 【フルデプスミニランダー このランダーは従来のものよりコンパクトに作られている。1万mを超える 海底での撮影や観測が行えるよう、浮力材やガラス球などには、高圧に耐えられる 特殊品が使用されている。ライトは小型で安価にするために研究者の手作りである。 カメラをはじめとする電子製品はガラス球の中に組み込まれ、超深海の生物などを 撮影できる。水温・塩分・水圧を記録する装置(CTD)はランダーの背面に 搭載されている。】 これを船に積み込んで、目的の海域に沈めて頑張ってもらうらしい。その先にはこんなのも↓。 オレンジ色のヘルメットが3つかかっているようにしか見えないこれは 【無人深海探査機 江戸っ子1号 世界初の深海撮影~下町の町工場の挑戦~ 無人深海探査機「江戸っ子1号」は、東京都と千葉県の町工場が中心となり、 研究機関、大学、金融機関、協力企業などからなる「江戸っ子1号プロジェクト」 で共同開発された。おもりをつけて海中を降下させ、3個のガラス球(日本製)の 浮力で浮き上がらせる構造。強い圧力がかかる深海では、ガラス球が圧力に 耐え切れず砕けてしまう。 2013年、日本海溝の水深約7000m付近において、ハイビジョンカメラで 生物の撮影に成功した。ガラス球は1万2000mの耐圧試験に成功し、 今後の実用化が期待されている。】 でたっ!日本の技術を支える下町の町工場。水深6000mを超えるとそこは「超深海」。その苛酷な環境に生きる魚もおるらしいんだけど、 【約8000mをこえると、魚は圧力によって体の中のタンパク質がこわれてしまう。 そのため、魚がすむことができる深さの限界は8400mぐらいと考えられており、 それよりも深い場所にはカイコウオオソコエビなど、魚以外の生物しか発見されて いない。】 なんだそうな。現時点では深海魚の限界点での撮影には成功していないようだけど、実験ではもっと深い場所での耐圧に成功してるんだから、今後限界点付近での魚の撮影に成功する日が来るかもしれない。ちなみに、「江戸っ子1号」はこういう構造になってるんだそうな↓。 1コだけ離れてふわふわ浮いてるヘルメット(ガラス球だって・・・)が通信球で、枠にはまった3コのヘルメットは上から通信用中継器・照明球・撮影球・・・で、その下に「エサ台」とあるのが面白い。そうか、やっぱそーゆーおびきよせるモノも必要なワケね。この先からは、生物ではなく地殻系の内容に移っていく。まず最初が日本および日本海の成り立ちで、 【日本列島周辺の海底で最も目を引くのは、大陸と日本列島に囲まれた 閉鎖的な海域である日本海と、日本列島周辺を走る複数の海溝の存在だろう。 日本列島はもともと大陸の一部だったが、そこから切り離されることで、 1500万年前ごろに成立した。このとき同時に形成されたのが日本海である。 成立当初の日本海は北側に広く開いていたが、東北脊梁山地の隆起にともなって 徐々に閉鎖的になっていった。 一方、太平洋側は、大陸と海洋の境界にあるような環境が長く続いていた。】 その海底の様子がこちらで↓ なるほど~、太平洋側と全然色が違うわ。日本海って浅い海だったんだ~。・・・それにしても、やっぱり日本海溝の深さが目を引くな~。自然と思考はさきの震災に向かっていくのですが、この先が「深海と巨大災害」のコーナー。ここにはシアターがあり、2011年の地震と巨大津波発生のメカニズムを簡単に紹介している。パネル展示ももちろん東日本大震災のものが中心で、縦ズレ↓ 横ズレ↓ 絵だけじゃなく、写真もある。 【「しんかい6500」が見た巨大な亀裂 震源域近くの深海底で巨大な亀裂を観測 2011年7月30日~8月14日、「しんかい6500」を用いて 地震による海底変動の様子を調査した。潜航地点は日本海溝陸棚斜面の 3地点。いずれの地点でも、幅・深さともに推定1m程度の海底の亀裂と 段差が観察された。亀裂の底やその付近の海底には白色の変色域が多数見られ、 いずれも南北方向に長く続いていることが確認された。】 あな恐ろしや・・・その先にはしんかい君もおわす↓。 有人潜水調査船「しんかい6500」。でもこれは1/2のレプリカ。そりゃそうだ、しんかい君の前から動かないので写真に映り込んでしまった坊っちゃんだって、このサイズなら厳しかろう。しんかい君のプロフィール。 全 長 9.7m 全 幅 2.8m 全 高 4.1m 空中重量 26.7トン 最大潜航深度 6,500m 乗員数 3名(パイロット2名、研究者1名) 竣 工 1989年 建造所 三菱重工業株式会社 神戸造船所 (ここまで、【】内もすべて会場の解説文より) しばらく進んだ先にも縮尺1/10のミニしんかい君の展示ブースがあったのでそちらとあわせて紹介しますと、 (縮尺1/10) しんかい君の先端はこうなっていて↓ (縮尺1/2) (縮尺1/10)ちとブレてますが船体を拡大すると (縮尺1/10)この部分の船体内部がこちら↓。 てな訳で、ここから直接覗いたりアームを操作したりするようです。展示されている小部屋は見やすいように手前側半分がぱっくり開いているので思ったよりも広いなと思ったけど、実際は密閉された空間だし、椅子を置いたりとかもするんでしょうから、研究者1名だけがここに詰めるんだとしても圧迫感のあるミニマムな空間だろうなと思った。にほんブログ村
2017年07月30日

上野に着いたのはちょうど9時。パンダの赤ちゃんはまだ公開されてないけど、駅構内から祝賀ムードがムンムン。 あとで上野公園内のみやげショップに寄ってみたところ、こちらもお祝いムードで「パンダご出産記念」みたいなことが書いてあった。「ご」はいらんだろ、「ご」は・・・かはくは9時からだから、まだ今の時間なら多少すいてるだろ・・・そう思って駅を出ると、上野公園入口にはすでに結構な人がいた。上野公園内には沢山すぎるほどのスポットがあるから、ここからそれぞれお目当ての場所に分散していくんだけど、一番手前にある国立西洋美術館のアルチンボルト展は9:30から。トーハクも確か9:30スタートじゃなかったっけ?イヤな予感が頭をよぎる。道を右手に曲がってかはくに近づくと うわあ~、ナニアレ!!「みんなで一緒にかはくを観よう!」的な?前売り券を握りしめて、当日券を買おうと並んでる人達の脇を通り過ぎて奥へ向かうとすでに大層な行列ができているどうやら、人が多すぎて入場制限がかかっているらしい。なんてこった・・・まだ会期は始まったばかりだし、人が多いだろうなとは思ってたけど、入る前から並ばされるとは思ってもみなかったぞ。今日は深海展を諦めようかとも思ったけど、この暑さの中また来るのもな・・・とりあえず、音楽でも聴きながら気長に待つしかない。ヘッドホンを耳にぶっ刺して周りの人を眺めてみると、お子ちゃま連れやカップルが多いのはもちろんだけど、そのカテゴリーに入らない大人たちも結構いる。ガイジンもいる。やっぱり深海は世間の関心が高いんだな~とあらためて思った。20分ぐらい待って、ようやく中に入れた内部は去年と同じく、フラッシュをたかなければ撮影OK。ただし、映像資料はすべて撮影禁止となっていた。最初は深海魚から始まる。ちとボケてますが、深海2017展のポスターにも載っているこんな妖しげなクラゲ↓ も最初の方にいた。が、 実物はやっぱり色がない。それに、会場内には生きた深海魚は1体もいなくてすべて標本展示。まあ、そりゃそうだよな。このクロカムリクラゲは【刺激を受けると体全体を光らせることができ、さらに体の下の方から発光する発光物質を放出する】そうで、身の危険が迫った時にはその光をおとりとして敵が光を狙っている間に本体はトンズラしたりもするんだそうな。深海生物の中で発光することができるのは全体の9割にも及ぶとある。標本はお子ちゃまでも見えるように低い位置に置かれている。入場制限がかかっているとはいえ、次から次へとギャラリーが入ってくるので混みコミでとてもゆっくり観られる状況じゃない。「すいている所から御覧くださ~い! 先の方はまだ余裕がありま~す! 次の方のために前にお進みくださ~い!!」とまるで上野動物園のパンダ舎のような係のお姉さんの大きな声が響く。その他にも、「小さいお子さんに前を譲ってあげてくださ~い! 後ろからでは小さいお子さんは見えませ~ん!!」などとも言っている。それは確かにそうだけど、「小さいお子さん」には必ずと言っていいほど「大きな親御さん」がセットでついてくるのだ。そしたら「大きな親御さん」が邪魔で大人も見えなくなるじゃないか。それに、「小さいお子さん」がガラスケースにへばりつくと低い位置にある小さな標本は後ろからはほとんど見えなくなってしまう。まあ、混んでるのは仕方ないし、すべてをくまなく観ようと思っていた訳でもないので少しばかり写真を撮りながら人の間を抜けていった。 ↑ヒオドシエビ。水深900~1800mに生息する。 水深100mほどになるとほとんど太陽の光は届かないそうで、暗闇の世界だから深海魚も色がないのかと思ったら、多少は色つきのものもおるらしい。でもやっぱり展示されている中では白いものの方が多かったように思うけどね↓。 この3段のひな段の2段目、向かって左のが 「ダイダラボッチ」だって。で~だらぼっちって、民話の中だけかと思った。こういう名前の生物もいるんだ。 体の大きさと標本ケースの大きさが見合ってなくて、どういう構造をしてるのかよくわからないものもあります上の2枚目の黒々してる方は「コンドウアナゴ」だそうだけど、これって入ってるのは1匹だけなのかな?だとしたら、アナゴさんの範疇を大きくはみ出したえらい長い体を持っていることになる。さて、少し進むと今度は小さな標本ではなく、大きな深海生物の展示となる。 (ユメザメ) 映りが悪くてごめんあそばせ。解説板も撮ったんだけどそちらはもっとひどくて、なんてサメだか読めませぬ。 ↑グロテスクな人の手みたいなこれは、マダコ科の「ナンキョクオオイチレツダコの一種」だそうな。 ↑ライギョダマシ。ダマシと付くだけあって、こちらはナンキョクカジカ科。(ライギョは、スズキ目タイワンドジョウ科) ↑ソコボウズ。 ↑名前不明。でもサメの仲間かな。顔の方を見ると 上のちっこいくぼみが目?ましゃかね・・・ ↑ダイオウグソクムシ。「オーム(By ナウシカ)だ」と思ったのはわたくしだけではないハズ。ここらあたりまで来ると、最初よりはだいぶゆったりと見られる。会場にはいくつか大画面のシアターもあって、ここがまずひとつめだったかな。短いシアターを観てブースを出ると、ダイオウイカが空を飛んでいた↓。 うおっ、でけえ・・・・・かはくでは2013年にも「深海」展をやったそうで、かはくのホームページによると生きたダイオウイカの映像資料や巨大標本の展示が話題となって60万もの入場者があったそうな。そりゃあ、話題にもなるよな。これぞ深海のロマンだ。その先にはこんなのも↓。 このすぐ後にダイオウイカの解説文を撮ってるから、これもダイオウイカなのかな?人の背丈はゆうにある。 【ダイオウイカ ツツイカ目 ダイオウイカ科 生息域:北海道・南極海を除く世界中の深海 水深:200~1000mの中層・深層 世界最長の無脊椎動物で、とくに獲物を捕らえる際に使う触腕が長い。 ほかの深海性のイカ類と同様に体にアンモニアを含むことで、浮力を得ている。 巨体の重さを水中でゼロに近づけ、エネルギーの浪費を抑えて活発に泳ぐ。】 (解説文より)にほんブログ村
2017年07月24日

書中お見舞い申し上げます。今年も行って参りました。恒例の巣鴨への墓参り。さっとあげられると思って始めた浅草寺シリーズが諸事情により思いがけず滞っておりますが、こちらのシリーズは確実にさっさと進められるので先に紹介いたします。2017/7/22(土) 死ぬほど暑い去年は墓参りの後でかはく(国立科学博物館)の「海のハンター」展に行きましたが、少し前にコープのチラシを見てたら今年のかはくの大型企画展は「深海」展だという。『鉄腕DASH』でも東京深海底とか(確か)相模沖あたりで深海魚を引き上げたりしているのを見て面白いな~と思っていたので、墓参りの後はコレだ!!と迷わず前売りを買っておいた。墓参りの後でコープで買った深海展を観に行くと言ったら母親は「コープのチケットのチラシはたまに見るけど、 こんなの買う人いるのかしらって思ってたのよ~。 こんな近くにいたわ」と笑っていた。ふん・・・家にいながらにして200円安い前売りが買えるんだから、便利じゃないか。それで、墓参りを早々に済ませたら深海展を見るつもりだったのが、直前になって他でも興味深いのを色々やってるのを知って迷った。まず、日本橋高島屋では「沖ノ島」展をやっているという。沖ノ島は全島が神域だそうで、一般人、特に女人の立ち入りは今でも禁止されているそうな。なら貴重な展示だよな、と思ったらどうも写真パネルの展示がメインらしいので、これは機会があればにすることにした。その次は根岸で面白いテーマの展示をやっているのを知った。根岸なら鶯谷で降りるから、根岸から寛永寺の方に回っていってもいいよな、と思ってそのセンでコースを組んだ。深海展はまだ始まったばかりだから、また日をあらためてもいいしな。ああ、鶯谷のラブホ街をてくてく歩いていったのが懐かしい・・・あれって確か寛永寺訪問を始めた頃だったから、もう4年ぐらい経つのか?時の経つのは早いものよ・・・・・し・か・し・・・梅雨もあけて本格的な暑さが続くこの中、やはり観るべきものを先に観ておくべきだろうと思い直して、去年と同じく巣鴨⇒かはくコースを取ることにした。さて、当日。朝は6時過ぎに家を出たけど、もうすでにもわっと暑い。それでも今年も忘れものはしなかったし、電車でも座れて順調に着いた。が、順調すぎて巣鴨に着いたのは7:15。早すぎたかな・・・お寺の門が開くのが何時かわからないので、去年は少し駅のトイレで時間調整をした。まあ、少なくとも8時には開くのは去年わかったし、てろてろ歩いてればそれなりの時間にはなるだろ・・・で、7:45ぐらいにはお寺に着いたけど、もう門は開いていた。助かった・・・まあ古いお寺だから、近場の人なんかは朝早くからお参りに来ることもあるだろうしな。幸い、少し雲があったのでかんかん照りというほどでもない。手早く2つのお墓のおそうじをしてお花を供える。最後の線香への点火は去年の悪夢があったので少しキンチョーしたけど、あれを教訓に今年はその対策を立ててきていたので、根性焼きにならず無傷で線香を供えることができた。ふっ、失敗は人を育てるのさ・・・で、今日のメインを無事に済ませ、お寺を出て染井霊園の中を駅に向かって歩き出す。と、ふと周辺に目が吸い寄せられた。 あっっ、竹垣!!実は少し前から、ふとしたことで竹垣に興味を持って例のごとく独学でぼちぼち竹垣の種類などについて勉強し始めてね。京都のような由緒ある大寺院の立派で大きな竹垣などはうちの方じゃそう見ることはできないけど、小さなものなら割とフツーの民家にもある。で、最近では通勤の際にはそうしたささやかな竹垣をきょろきょろしながら探して歩いてる訳ですが、そんなに沢山あるワケでもない。ので、ちと竹垣の現物に飢えていたのですが、思いがけずこんなところにもあった。で、喜んで写真を撮った訳ですが、ひとくちに竹垣といっても代表的なものが2~30種類あって、さらにバリエーション形とか独創的な形もあって、勉強したてのシロートにはなかなか判別が難しいものもある。とりあえず、背の低い竹垣は「足下垣」(あししたがき)というそうで、これも足下垣には違いないけど、どうやら足下垣の中でも最も格式が高い「金閣寺垣」と言ってよさそうだな。これはお寺を出てすぐのところにあったもので、その先には井戸があり、ごみ捨て場がある。そのごみ捨て場も竹垣が廻らされていた↓。 これは「四つ目垣」だな。最もポピュラーな透かし垣で、横に4本渡すのがスタンダードだと思うけど、ここのは二段式になっている。ここから霊園を出るまでの間、竹垣を探すわたくしの眼が獲物を狙うタカのように鋭くなっていたのは言うまでもありませぬ。 これも三段式の四つ目垣だ。よく見ると本物の竹ではなくフェイクだけど、竹垣に飢えているわたくしには別にどーだっていい ↑こちらもフェイク。さっき来た時にお寺まで歩いた霊園内の道沿いで竹垣を見た記憶がなかったので、帰りは少し違う道を通っていくことにする。と、 ほお、結構あるんだな~。これも手前側の垣根は二段式の四つ目垣だけど、 別の面は矢来垣になっている。四つ目と矢来のミックスだ。進行方向を左に変えて歩きだすと、去年オカマ風のジジイに捕まった場所付近に出る。おしゃべり好きなジジイのおかげで去年は大ブレーキになったけど、まああれも笑える思い出だ。あのジジイはどうしておるのだろうか・・・その先は見覚えある公園。3年前にカラスに見守られながら休憩を取った花吹雪公園だ。 ああ、ここにも三段の四つ目垣が・・・知識や興味があるのとないのでは、視点がまったく違うんだな~としみじみ思う。別に竹垣の種類を覚えたからってお腹がいっぱいになる訳じゃないけど、見どころが増えるのは史跡めぐりの楽しみがまたひとつ増えることにもなる。ま、京都や鎌倉なんかの古都を歩く時は今まで以上に写真撮りまくりでさらに時間がかかることになる訳だけど霊園内をくまなく回った訳じゃないので、出会えた竹垣はこれだけだったけど、満足して上野へ向かう。にほんブログ村
2017年07月23日

では、また五島軒シリーズから。 表には【創業以来百三十年余、歴代料理長伝承のこだわりカレーは霜降牛肉、 野菜たっぷり通の味】とあり、裏には【このカレーは、歴代の料理長が数量限定のため、ごく限られたお客様にのみ ふるまい、”幻のカレー”とも言われた特別カレーを現代風に再現したものです。 ステーキ用の鞍下肉とバラ肉の間にごく僅かしかない柔らかなスジ入り霜降り牛肉と、 厳選した野菜を使用した弊社の隠れたカレーの逸品です。】と、大変期待を持たせる紹介文が書かれている。ま、フツーのカレーだったらここまでぶち上げられると逆にコワくもなるけど、そこはさすがの名店。期待を裏切らない美味しさでありました。・・・ただ、牛肉を前面に打ち出しているのでしぜん肉が満載のカレーかと思いきや、前回の「究極のまろやかカレー」ばりに野菜が多いのがちょっと意外。「野菜たっぷり」とは確かに書いてあるけどね。でも、ルーにはしっかり肉の旨みが溶け込んでいる。もしこれで、大きめ野菜がゴロゴロ入っていなかったら、前回の「明治のカレー」みたいに肉々しさがちょっち鼻についたかも。だから、肉と野菜のバランスのいいカレーだと言えるかもしれない。486えん。お次はこちら↓。 【牛肉とシャンピニオンを贅沢に使い、厳選したスパイスと本格スープで じっくり煮こんだ欧風カレーです。】五島軒は函館にあるお店なので、海を越える分送料が高い。だから、すべての種類をまとめて買っておけばよかったんだけど、沢山の種類があるので、ちょっと平凡そうなものはいくつか買わずにおいた。が、ふとしたことで2箱までならネコポス便で送料が安く済むことを知ったので、五島軒にハズレなしと確信したわたくしは後から2箱追加して買った。そのうちのひとつがコレ。シャンピニオンてなんだ?と思ったら、マッシュルームのことなんだってね。確かに、大きいマッシュルームがごろごろ入っていた。でもこのカレーの特色は、マッシュルームというよりはそのスパイシーさにある。「えっ、これ中辛だよな!?」と思わず箱を見返してしまったほど、スパイシーさが際立っていた。もちろん、美味しいんだけどね。432えん。それにしても、世間ではよく似た平凡な美味しさのレトルトカレーが多いというのに、ひとつの店でこれだけ色んな美味しさのカレーを出すのは実にすごいことだと思う。スーパーに並ぶものよりは平均してお値段は高めだけど、美味しくて満足感もあるし、コスパは素晴らしい・・・と、これは前回も書いたな。まあ、好みは人それぞれだけど、レトルトでこれだけの味のラインナップを誇る五島軒さんのカレーはわたくしが自信を持っておススメできます。次はこちら↓。 これは、かなり楽しみにしていたカレーだった。売りだしているのは五島軒だけど、【函商生の「熱意」を、五島軒が「形」にした 函館の歴史を支える二者の産学連携商品。】というもの。「函商生」とは「北海道函館商業高等学校」の生徒さんを指し、【函商(はこしょう)は、今年創立130年を迎える北海道内で一番古い歴史を もつ公立高校です。 流通ビジネス科3年生が課題研究の授業「HAKOSHOP」(はこしょっぷ)で、 商品開発や地域イベントでの販売実習、観光に関する学習などを行っています。 本商品の開発を行う過程で、これまでの知識中心の学習をもとに、本物の仕事を 体験できたことで、実学につなげることができました。 全国の函生同窓生をはじめ、多くのお客さまにお楽しみいただきますことを お祈りしております。】 (パッケージ裏面の紹介文より)なんだそうな。へ~、じゃあ、はこしょっぷにも注文できるのか?と思って函商のホームページを見てみたら、五島軒とのコラボ商品は原則五島軒へ注文するものらしい。ただ、他にもどらやきとかカレーデニッシュとか各種開発商品があるらしく、FAXで直接函商に注文することもできるみたいだけど。でこれね、カレー弁当として持っていったんです。弁当にすると漫然と食べちゃうから、五島軒のカレーは基本家でじっくり味わいながら食べたいところではあったんだけど、手持ちの中でこれが一番ナンに合いそうだったので。しかし、これがアカンかった。この時持っていったナンはコープで買った冷凍モノで、解凍してそのまま食べることもできたんだけど、やっぱり温めた方がウマかろうと職場でチンしてみたところ、予想以上に美味しいナンでね。別にこのカレーに不満があった訳じゃないんだけど、まあ要するにナンの美味しさに負けちゃったんですわ。「11」で、柏で本場のカレー&ナンが食べられるお店を2つ紹介しましたが、本場のカレーはもっちりほかほかのマジ美味いナンに負けてなかった。普段、コメでカレーを食べるわたくしが「やっぱカレーに合うのはナンだな」と思ったぐらいだから。それだけ、あちらのカレーは「濃い」ってことなんでしょうけどね。それに対して、函商のは「日本人が日本人向けに作ったカレー」なんだと思う。たぶん、このカレーもいつものように家でコメで食べてれば充分美味しいって感想が得られたんじゃないかと思います。函商生さんには悪いことをしました540えん。失敗したのは、こちらも同じ↓。 これも弁当に持っていったもので、ナンには負けてなかったけどつい漫然と食べてしまってあんまり記憶に残ってない。ただこれ、結構スパイシーでね。食べてるうち暑くなってきて、休憩が終わってもしばらくうちわであおぎながら仕事してたので、暑い時期に弁当にするのはイマイチだなと思った次第。さて、次の五島軒シリーズに行く前にこちらを紹介↓。 新宿中村屋からも結構色んなシリーズが出てる。同じ関東圏ゆえ、あちこちのスーパーに1つは必ず置いてあるといっても過言ではないぐらいのおなじみさんですが、過去いくつか食べた中で正直それほど美味しいと思った記憶はない。が、「特選」とデカく書いてあるし、お値段も598えんと立派な高額商品なので、まあこれは期待できるんじゃないかとカゴに入れ。【牛肉を天火で香ばしくグリルし美味しさを閉じこめました。じっくり炒めた 淡路産玉ねぎの甘みと、果実やデミグラスソースのコク深い味わいに オリジナルブレンドのスパイスが豊かに香る「特選ビーフカリー」です。】 (箱表の紹介文より)写真を見るに、具も結構入ってそうだしな・・・で、期待にない胸をふくらませて朝カレーしてみたのですが・・・・・最初は、まずまず美味しいと思った。具は思ったほど入ってなかったけど、ルーが玉ねぎたっぷりで「玉ねぎカレー」を前面に出してるカレーでさえ、これだけの玉ねぎ感はないと思った。が、食べてるうち段々苦しくなってきた。何が苦しいって、味に深みがないんですよ。だから、食べれば食べるほど美味しくなくなってくるの。比較しちゃ悪いとは思うけど、五島軒のルーはどれもしっかりと旨みが出ていて「じっくり味わう」という言葉がぴったりくる食べ方になる。いやあ、ホント、美味しいカレーを作るのって大変なんだな~としみじみ思った次第でございますよ。それで、口直しに翌日食べたのがこちら↓。 これは柏のスーパーでも見かけることがある。だからとっくにこれで五島軒デビューは果たしていたと思いこんでたんだけど、過去の記事を見るとどうもまだだったみたいだから、取り寄せてみた。割と何度もスーパーで見かけた記憶があるから、たぶんノーマルなカレーなんだろうと思っていたら、ホントにその通りだった。【北海道産の豚肉と国産の野菜(玉葱、じゃがいも、人参)を本格的ソースで じっくり煮込んだ手作り風カレーです。】 (箱表の紹介文より)ということでポークカレーなんですが、ノーマルとは言っても前日の「特選」よりはずっとずっと旨みがしっかりしている。ほっと一息つける美味しさでございました。五島軒シリーズは以上で、今度は御当地モノ。 道産肉シリーズは過去にウシ・ブタ・トリの3つを紹介しましたが、今度はウシのブラックカレー。【北海道産の牛肉、玉ねぎ、じゃがいもを使用した黒いビーフカレーです。 北海道の大地をイメージした黒いカレーを見て、食べてお楽しみください。】 (箱裏の紹介文より)道産鶏のが予想以上に美味しかったので、このシリーズは比較的好印象なんだけど、まず大きい具材がいくつかごろっと入っていた。ビーフカレーなのでそれはすべて肉のかたまりだろうと思ったものの、そういう浅はかな先入観は見事に裏切られ、大きな具材のほとんどはおじゃがだった。おいしくなかった訳じゃないんだけど、具材として入っていたお肉はほんのちょっぴりでちょいと肩すかしっつーか・・・もっと肩すかしだったのがこれ↓。 日本橋の洋食屋「たいめいけん」のシリーズも過去に2つ載せてますが、こちらはそのデラックス版らしい。しかも、金のウシにはデカデカと「肉」と書かれているので、ここから想像するのは肉自慢のプレミアムカレー。前に食べた2つは特に美味しかったという記憶もないけど、これだけ高級感を打ち出しているならさぞ自信もあるのだろうとコープで買ってみたひと品。【カレー粉をベースにジンジャー、カルダモン、唐辛子等を独自にブレンドして スパイシーに仕上げました。】(箱裏の紹介文より)というデラックスカレーは、中辛と箱に書いてあるもののかなりスパイシー。・・・それだけのカレー。肉を前面に打ち出している割には、中ぐらいの肉が2つばかり入っているだけ。そして、食べるごとに気になってくるのが、味の奥行きのなさ。そうですね、味噌汁に例えれば、お湯に味噌を溶いて具材を入れただけみたいな味。いくらだし入りの味噌でも、ホントの味噌だけじゃおいしい味噌汁って作れないでしょ。ちゃんとダシを取らなきゃ。そーゆーカンジ。グルメな舌を持ち合わせていないわたくしは、200種類のカレーを紹介してきた中でもはっきりと「美味しくない」とこきおろした記憶はあまりない。が、旨みのなさでは先に紹介した新宿中村屋の「特選」カレーといい勝負。値段が高いだけに、裏切られた感も倍増する。・・・まさかこれって、五島軒シリーズをいくつも食べたことによってちょっとグルメな舌になってしまったんじゃなかろうなもしそうだとしたら、もうこれ以上の探索はできなくなるなという考えが頭をよぎったのですが、しかし五島軒以外でも美味しいと思えたカレーはある。だから、今回はちと「ハズレ」が続いただけだろうと自分に言い聞かせ・・・で、その美味しいと思えたカレーがこちら↓。 これもコープで売りだしていたもの。神戸三田屋さんのは常温の箱入りビーフカレーが結構あちこちのお店に置いてあるし、このカレーもだいぶ以前に食べたことあるような気がするんだけど、過去の記事では紹介していないようなので、今回買ってみました。これは冷凍で売ってるもので、湯せんしようと冷凍庫から取り出したら、ずっしりしている。それもそのはず、通常のレトルトカレーって190g~210gあたりなんだけど、これは250gと書いてあるのだ。朝カレーだし、ちょっと一度では食べきれんかもな・・・と思って、あらかじめ少し取り分けておいた。さて、肝心のお味ですが、ごろごろといくつもあった具材は立派なお肉。しかもこの肉、かなり美味い。てことで、「美味しいカレー」というよりは「お肉が美味しいカレー」。ボリューミーではあるけれど、お肉の美味しさにつられてよけておいた分まで一気に完食しました。最後はこちら↓。 たぶんこれはまだ食べたことないと思うけど、食べたことあっても別にどうでもよかった。このところのマイブームは、冷凍パイシートを使って作る簡単パイ料理でね。フツーに買うとパイシートって結構高いんだけど、わたくしの御用達の東武ストアでは頻繁に冷凍食品半額セールをやってるので安く手に入れられるのだ。それで、いろんなものをパイに入れては弁当に持っていったりしてるんだけど、ふと「カレーパイ」を作ってみたくなった。でも、フツーのレトルトカレーだと汁っ気が多いので向かないだろうな・・・ちょうどゴーゴーカレーを食べたあとだったので、あれくらいねっとりしてればイケるかもしれん・・・と買いに行ったところこれを見つけて、ドライキーマなら大丈夫かもな、と思ってこっちにしてみた。パイにルーを載せてみたらやっぱり水分が少ない分扱いやすかったので期待が持てたけど、ちょっと生地のつなぎ目の押さえが足りなかったようで、焼いてるうちに「切腹もなか」よろしく中身が少し流れ出てしまったでもまあ、残留したルーだけでも結構美味しくできました。今度はぎっちり押さえて「切腹カレーパイ」にならないようにしよう・・・にほんブログ村
2017年06月18日

では、今回もご当地モノから。まずは豊後人の義兄の帰省みやげ第三段↓。 【大分県産の「乾椎茸」は品質、生産量ともに日本一を誇り、「豊後の国おおいた」を 代表する特産品として、その名は海外まで広く知れ渡っております。本品は椎茸専門 農協である当組合が厳選した肉厚の「若芽どんこ」をまるごとじっくりと煮こんだ オリジナルカレーです。 自然素材の旨みを最大限に引き出すために乾椎茸をじっくりと戻し、肉や野菜と一緒に 時間をかけてコトコトと煮込み、手間暇かけて仕上げました。ご家庭で温めるだけで 美味しく召し上がれます。お子様からお年寄りまで、馴染みのある椎茸とカレーの調和を 是非ご賞味ください。】 (箱裏解説より)豊後といえば大友宗麟か「どんこ」かってね(←いちおう戦国ジジイ)。姉が豊後人に嫁いでから、あちらのおうちからはよくどんこを戴きましたが、カレーにするとさすがの肉厚も見かけフツーのシイタケ程度にまで縮まってしまう。まあ下品な例えをすれば、20歳台の頃はピチピチの巨乳だった姉ちゃんが、70歳になる頃には自慢の胸もすっかりしょぼんでしまったみたいな・・・まあでもね、元が肉厚なので、煮込まれてしょぼんでも噛みごたえは充分ある。文字通りどんこが主役のおいしいカレーでございました。さて、前回函館の五島軒のカレーを取り寄せたことを書きましたが、早速いくつか食べてみました。まずはこちら↓。 これを最初に選んだのは、箱の表面に 【創業より幾星霜、大正期に二代目が完成させ本店レストランで今日まで 愛され続けてきた当社伝統のビーフカレー】とあったからで、スタンダードをまずいってみようと思ったからです。箱裏には「五島軒 歴史散歩」という文章がある。 【イギリス風カレーと二代目若山徳次郎 イギリス風カレーは、二代目店主、若山徳次郎が帝国ホテルで修行して 帰郷した後、改良を重ね、大正時代に完成しました。以来、弊社を象徴する 献立として、高い人気を保ち、今日に至っております。二代目は、オーナーシェフ として生涯厨房に立った人で、五島軒におけるフランス料理と洋食の礎を築き、 多くの献立を残しました。 フランス産のモリーユ茸のかわりに椎茸を使用したシチューソースを考案したり、 鮑のクリーム煮、鮭のパイ包みや、フレッシュトリュフのバターソテーなど、 従来なかった斬新な料理で人々の味覚を楽しませたと言われております。】ふんふん、帝国ホテルでね・・・イギリス風ってのがどんなもんかはわからないけど、欧風カレーってカンジなのかな?で、食べてみると、特にこれといった特色はない。でもそれは別に悪い意味で言う訳じゃなくて、ヘンなクセがないってゆーか、食べやすいっていう意味でね。悪い意味どころか、日本人的王道カレーとでも言った方がいいような、素直に「マジうんめえ~」と言えるカレー。さすが、本店で伝承される味といったところでしょうか。そりゃ~、レトルトよりは店で提供されるカレーの方が美味しいでしょうけど、わざわざ函館まで行かなくてもこれだけのものが食べられるんだから、タブーを破ってお取り寄せした甲斐があったというもの。540えん。次に食べたのがこれ↓。 これは「究極の味シリーズ」だそうで、他のカレーも沢山ある中で早い段階で究極モノを食べるのもどうかと悩んだのですが、なにしろパッケージを飾る絵が ちょっとカピタンちっくだからさ(笑)。カピタン達との妄想座談会はまださわりの段階でしばし中断したままですが、別に興味を失った訳ではございません。ただ、あれ書くの結構大変なんでね。カピタン達の食事風景を描いた絵は色々ありますが、まあ似てはいるもののこれは出島の商館員を描いたものではないでしょう。というのも、 【弊社は初代店主若山徳太郎が、ハリストス正教会でロシア料理とパン作りを 学んだ五島英吉と共に、明治12年に創業。明治19年の大火後フランス料理店 として再出発し、以来今日迄洋食やカレー、洋菓子など多彩な味を皆様にお届け しております。】 (箱裏の紹介文より)だそうで、ロシア系料理が出発点だったようですね。日本のいわゆる「開国」は「いやござんなれ」(1853年)のペルリ来航をきっかけとするとは教科書で習うところですが、それ以前、19世紀を迎えようとする頃から日本近海への外国船の出没が増えたようです。単発的なものはもっと前からあるにはあったけどね。座談会の登場人物でいえばちょうどドゥーフが日本に滞在した頃、イギリスやロシアからの圧力も強くなってきて、幕府が通商を認めていなかった外国人との交渉には出島のカピタン達も幕府に協力してことにあたったようで、結構その過程は感動的なものがありますが、ドゥーフ:そうだろう? 我々の献身的な協力を忘れないで欲しいな。りり:うわっ!ズーフさん!! よそのシリーズにいきなり割り込まないでください!! それに、献身的は確かに認めるけど、オランダが日本貿易を 独占したいっていうヨコシマな思いもあったでしょ~?レフィスゾーン:え~、そーゆー言い方は傷つくなあ。ケンペル:それよりお前、いつまで我々を待たせる気だ?り:あ~、はいはい、わかってますって。 でも、皆さんと違って生きてる人間は色々と忙しいんですよ。 もうちょっとしたら戻りますから、あのレストランで 待っててくださいよ。ツュンベリー:しょーのない奴だなあ、まったく もうケガしたくないから、戻ろうか。 (「ガイジン達の夕べ」参照)・・・てことで、1793年のラクスマン函館入港があり、1858年には函館に初のロシア領事館が置かれた地理的関係などもあって、ロシアと関係の深いお土地柄なので、そちら系の絵じゃないかと思われます。んでカレーに戻りますが、 【このカレーは、1904年に英仏協商を成立させたイギリス国王エドワード7世を 称えてその名をつけたフランスの古典料理をヒントに、厳選した北海道産の SPFポークと、野菜、乳製品をふんだんに用いたクリーミーでコクのある 欧風カレーです。通常のカレーの中辛よりやや甘口ですので、お子様にも好適です。】 という説明がついております。で、お味はというと、ホントにポークカレー。ポークカレーなんだから当たり前だろうとツッコミを入れる方もおるでしょうが、フツーのレトルトのポークカレーってビーフに比べてパンチが弱いというか、おとなしめなカンジなんだけど、これは口に入れた瞬間「お~、ポークカレー!!」ってカンジ。・・・それじゃわからない?わからなかったら、ぜひ食べてみてください。とにかく、ポークの旨みの強いカレーだってこってす。とはいえ、実は具は野菜がゴロゴロと入っていて、「あり?野菜カレー?確かポークカレーって書いてあったような・・・」ってぐらい、野菜が多い。もちろんお肉も入っていてそれはそれで美味しいんですが、具材だけでいえば野菜が主役のカレーみたいなカンジ。たぶん、そういう点でもお子ちゃまが食べやすいんじゃないかな。(野菜ギライの子は除く)486えん。んで、五島軒第3段がこちら↓。 「函館限定」とあるのに、柏にいながらにして入手できるというこの矛盾・・・しかし、海を越えなくても食べられるのはありがたい。この「明治のカレー」は 【明治12年創業当時の初代若山徳太郎のカレーを高品質な北海道産SPFポークや 吟味した材料にこだわり再現。本格レストラン雪河亭自慢のプレミアムカレーです。】とある。「レストラン雪河亭」ってのは、本店のことらしい。具は例によっていっぱい入ってるけど、同じポークカレーでも2番目に食べた「究極のまろやかカレー」とは違ってお肉が主役。これもポークの旨み満点で実に美味しい。旨みぎっしりなのは、ルーを真空パックから絞り出した時点でわかる。だって、ルーがプルプルしてるんだもん。実際、食べてみると肉の旨みや脂ががっつりルーに溶け込んでいて、やっぱりねってカンジだった。が、プルプルの脂身も大きいまま結構入っているので、脂身が苦手な人にはちょっとキツイかも。わたくしは脂身は好きな方ですが、後半はちょっちキビシかった。まあ、真正の肉カレーだと思っていただければ・・・540えん。五島軒はここまでで、次はこちら↓。 イオンの「四国味めぐり」コーナーで入手した3つのうちの最後がこれ。オリーブのカレーという訳ではなく、 【日本のオリーブ栽培発祥の地であり、100年を越えた歴史を誇る、 香川県・小豆島オリーブ。瀬戸内の温暖な気候風土のなかで、古くから 育まれてきた讃岐牛。二つの歴史が融合し、香川県だからこそなし得た プレミアム黒毛和牛。県木・オリーブ搾り果実を与え育て上げた讃岐牛。 それが「オリーブ牛」です。】 (箱裏の説明文より)オリーブを食って育った牛さんのお肉を使ったカレーってことらしい。税込780えん。バリィさんのカレーは585円、カツオ人間のは750円なので、3つのうちでこれが一番高い。高いカレーというのはもはやギャンブルに等しく、買ったはいいけどはたしてお値段に見合うお味なのか、食べるのに勇気がいるで、味わって朝カレーしたけど・・・美味しいですよ。美味しかった。ただ、お値段を考えるとどーも・・・せっかくだからオリーブそのものを入れても良かったかなって気もした。五島軒のカレーも500円台のものがほとんどなので、スーパーに並ぶレトルトよりはお高めだけど、正直言って五島軒のカレーの方がコストパフォーマンスは抜群に良いよなって思った。さて、御当地系は以上。生協でナンを売っていたので、今度はこれでカレー弁当しました↓。 4種類あった神田カレーグランプリシリーズのうち、これがラストで「100時間カレー B&R」さんの「欧風ビーフカレー」。(B&Rさんの場所はこちら)まず、色が黒い。ブラックカレーってカンジ。原材料の欄には、肉を抑えて「ソテー・ド・オニオン」がトップにきてるからその色なのかね。辛さはお店の中辛を表現していると書いてあるけど、S&B基準の辛味順位表では5段階のうち甘めの「2」に相当するらしい。確かに、見てくれはスパイシーな感じなのに甘かった。でもそれは「辛さを抑えた」お子ちゃま向け風に作られたという甘さではなく、ほどほどスパイシーなんだけど、一方で強い甘みもあるという印象。結構コクもあっておいしかったです。次はこれ↓。 「10」できのこのホクトさんの別のシリーズを見つけたことを書きましたが、その1つめがこれ。「デュクセルソース仕立て」ってあるけど、どんなソース?と思ったら、【玉ねぎやマッシュルーム、セロリなどをみじん切りにして炒め、ブラウンソースを加えたソース。 】(weblio辞書より)だそうな。以前紹介した2つのきのこカレーもきのこ満載だったけど、こちらもやはりきのこのボリュームがすごい。原材料を見ると、エリンギ・ひらたけ・マイタケ水煮が入っているらしい。きのこ好きには満足のいくひと品でございます。399えん。最後はこれ↓(228えん)。 辛口カレーに目覚めたわたくしでも、相当辛いことはわかっているのでなかなか食べる勇気が出なかった。それより、冬季限定だという5倍カレーの方を先に食べたかったんだけど、あいにくどこのお店にも5倍は置いてなかった。それでも、最近になってコープで5倍のブラックカレーが出ていたのでようやく5倍をゲットすることができた。で、まずはそれを食べたあとに・・・と思ってまた延期してたんだけど、最近暑い日もあるようになってきたので、これ以上暑くなってから20倍を食べたら大汗をかくのは目に見えてるし、きっと食べる気すら起こらないだろうと思って先に20倍を食べることにした。・・・もう、やめときゃよかった~と思う辛さでした。いやもう、辛いなんてもんじゃ~ないんだっぺ。一口食べて「無理!!!」と思ったので、牛乳を大量に投入したものの、それでも辛くてたまらない。辛いのが好きな母親に、牛乳のかかってない部分を食べさせてみたら、さすがの彼女もあまりの辛さに笑ってました。実は少し前、コープに30倍のが出てるのを見たんだけど、それにチャレンジしようなんて気はさらさらなかったので買うのは見送りました。箱裏の「辛さレベル」にはまず「幼児」があって、その上に5段階ある。その上が「大辛」でこれが10倍。「大辛」の上が「超辛」で、これが今回の20倍。「超辛」の上は何も書いてないけど、「激辛」とでも言うのだろうか。30倍なんて、もはや人間の食べる辛さじゃないッス。「やっぱ30倍買わないでよかった~」と思ったのは言うまでもございませぬ・・・にほんブログ村
2017年05月14日

探索を始めてもう4年目になりますが、手近なスーパーのカレー棚を見ていて最近思うのは、レトルトカレー業界も製作だけでなく販売にもずいぶん力を入れておるようだな、ってこと。最初の頃の記事を読み返してみると、もらったものを除いては大手食品メーカーの有名シリーズが実に多い。それか、関東圏のお店が出してるものだよな。たまに寄るデパートには、地方発の高級カレーがあったりしたけど、あまりそういう所へは行かない関係もあって、割合で言えば決して多くはない。ところが、近場のスーパーでも最近じゃ地方発のカレーをマメに仕入れるようになった。新しいものを見かけると嬉しい反面、どこまで続くイバラの道・・・って心の中で嘆きつつ、またカゴに入れてしまうわたくしてことで、今回も地方色豊かなものから始めます。 帰り道にあるカスミに新しく入っていたもので、398えん。裏を見ると「販売者:有限会社 伊藤牧場」とある。三重にある牧場らしゅうございます。シンプルながらも黒に金字でインパクトのあるパッケージには、【松阪牛と野菜をじっくり煮込んだまつさかビーフカレー】と控えめな説明が付く。このテのカレーって、実は結構悩むのだ。どれがどうとは言わないけど、ブランド牛さえ使えば美味しいカレーができるという訳じゃない。しかも、有名であればあるほど、ブランドと味の乖離が激しくなる場合だってある。どうしたって、ブランド牛となれば期待しちゃうのが自然な心理でしょ。だから、ブランド肉ってのは諸刃の刃だとわたくしは思っている。もちろん、とびきり美味しいカレーだってあった。でも、統計的にはそういうのはお値段が張る傾向にある。が、こちらは松阪牛なのにサンキュッパと比較的手ごろなお値段。悩んだ。ま、結論を言いますと、最初口に入れた時は平凡な美味しさだった。あ~、やっぱお値段相応ってとこだよな~と思いながら食べていたのですが、食べてるうちじんわりと美味しいと思うようになった。ので、まずまず満足ってカンジでございました。次はこちら↓。 これは前々からおなじみの東武ストアで見かけてたんだけど、なかなか買えなかった。お値段は548えんとお高め・・・だけど、値段のせいで買えなかった訳じゃない。コレ、2食入りなのだ。だから1食分に換算すれば特別高いという部類でもないんだけど、まず自分1人で食べるんだから2食もいらない。それから、裏には【”濃厚”なカレールーですので、ルーとゴハンの割合は1:2がおすすめです】とある。濃厚なカレーなんて、なおさら2食もいらない。表面には【金沢カレーブームの火付け役】とあるので金沢発のカレーらしいけど、「金沢カレー」の作り方が裏面に書いてあって、それにはご飯の上にキャベツとカツを載せ、カレーをかけてフォークで食えとある。要するにキャベツを載せたカツカレーってことらしいです。ご飯多めのカツカレー・・・想像しただけでもうお腹いっぱいしかも、なぜかゴリラが大きく描かれていて、これまた食欲をそそられない・・・と、難点の多いカレーだったのでございます。でもまあとりあえず買ってはみたものの、やっぱりそそられなくてしばらく食料箱で眠っておりました。で、最近になってふとスーパーでカツを買えばいいことに気が付いて、ちょうどキャベツの残りもあったし、晩御飯として食べることにしました。さすがに朝からカツカレーはね・・・指示の通りご飯は気持ち多め、カツは半分だけ載せてカレーを絞り出したところ、すごく重いカレールー。それでもフツーはチンすればとろっとなるんだけど、これはあまり変わらなかった。「濃厚」ってこーゆーことか・・・と思いながらスプーンでカレーをのばしのばし。でお味の方ですが、カツカレー自体相当久しぶりだったこともあってか、美味しかった。ただ、全体的にかなりのボリュームになるので、後半はしんどかったッス(笑)。半分のカツでこれだけお腹いっぱいになるんだから、お店で出してる金沢カレーってのは相当お腹をすかせておかないと完食はキビシかろう。残りのもう1食の方は家族に譲ったので、カツ抜きでどういうお味になるかはわかりませんが、これはたぶんカツカレーにした方が美味しいと思う。今度はずんと北に飛びまして、海を越えます↓。 これはコープで売っていたもので、800えん。たけえ~・・・ともちろん思ったけど、なにしろ五島軒。函館には行ったことないけど、五島軒のカレーはスーパーに置かれてたこともあったし、コープで最近取り寄せたチョコレートケーキは濃厚ですごく美味しかった。ので、高額なのが少々ネックではあるものの、まず裏切られることはなかろうと買ったものです。箱を開けてみると、パックが2つ入っている。ひとつはルーで、もうひとつは具材に分かれているらしい。作り方は湯せんで2つをパックのまま温め、まずルーを盛る。具材の方はスープに浸かっているので、具だけを取り出してルーに載せろとある。ただ、 【お好みにより、具材袋に入っているスープを混ぜますと、コクのある 海鮮スープカレーとしても美味しくお召し上がりいただけます。】とある。チンしてはいけないとは書いてないから、最初は袋から具だけを取り出してルーに載せて一緒にチンしようかと思った。が、スープカレーにも興味があったので別々にチンして、まずはフツーに食べてみた。具材の袋から出てきた具たちはホタテ・えび・イカ・カニの4種類。結構大きな具がゴロゴロ出てきたものの、ぱっと見そんなに具が多いとは思えなかった。ところが、食べてびっくり。かなりスパイシーなもので、ご飯と具とを一緒に載せながら口に運んでいくのですが、毎回どれかの具を載せて食べてもまだまだ具は残ってる。別に、「おたま」で食べてた訳じゃないですよ。フツーのスプーンです。フツーのスプーンに山盛りにして食べてた訳でもないです。スパイシーなので結構ちびちび食べてた方だと思います。それでも、毎回具が載るほど沢山入ってたんです。いやもう、「買ってよかった~」ってうなりながら食べてました。途中からはスープを少し混ぜてみましたが、確かにより海鮮ぽくて美味しい。スープを混ぜると、スパイシーさもやわらぐし。ひと箱で2度美味しい五島軒さんの海鮮カレー。高いけど、オススメです。あまりの美味しさに、他のカレーを出してないのかとネットで見てみたところ、あるわあるわ食道ガンの恐怖はどこへやら、次から次へとカートに入れまくりただ、種類が沢山あるのでさすがに全部買うことはせず、少々地味そうなもの、すでに食べたもの、タン(←嫌い)のカレーは外したけど、それでもかなりのオトナ買いとなってしまいました。他に制覇したい「お店のカレー」は鎌倉の珊瑚礁さんだけど、鎌倉なんざ行こうと思えばいつだって買いに行ける。しかし、函館となるとそうはいかないので、「お取り寄せはしない」というタブーを破るハメになってしまいました・・・でも、それだけの価値はあると思うんだ。ちと不安なのは、五島軒の味に慣れてしまうともうそこらのカレーじゃ満足できなくなるカモ・・・ってことだけど、まあなるようになるでしょう。通販で買える五島軒さんのレトルトカレーの中では、今回の海鮮カレーが一番高かったので、プレミアムなひと品だったようです。同じく、北は北海道からこんなカレーを手に入れました↓。 どこぞへお出かけするとその場の勢いでついチャレンジ精神を発揮してしまうわたくしですが、これは自分で買ったものではなく、誕生日のプレゼントにもらいました。「札幌有名店のカレー」「インド料理専門店『クリシュナ』監修」「冬のオホーツク海を表現したマリンブルーカリーに、流氷に見立てたホワイトチキンカリーを盛りつけて食べる新感覚なカレーです」という文言がパッケージの表に並ぶ。写真の盛り付け例は、海に浮かぶ流氷をイメージしたものらしいです。うっわ~、そそられねえ・・・まずはそれが第一印象。箱裏面には 【オホーツク海の青さと、海面に浮かぶ白い流氷の景色に魅せられた料理長 マスクード・アラムが、「何とかこの海をカレーで表現できないものか」と 試行錯誤して完成したのがこの「オホーツク流氷カリー」です。】と誕生秘話が書かれている。これを食べた人の感想をネットで見ると、皆様もれなく「何もカレーで表現せんでもええじゃろう」と(実際は広島弁じゃないけど)ツッコミを入れていらっしゃいます。それは確かにそうなんですが、それよりわたくしは「さすがインド人。シュールだぜ」って方に頭が行きました。その昔、友人がインド映画にハマってたことがあって、1度連れていかれたことがあります。えっと、たしか『ムトゥ 踊るマハラジャ』だったと思うけど・・・ストーリーなんかロクに覚えちゃいません。たぶん、王様だか大富豪だかが一度失敗して落ちぶれてまた這い上がるとかそういう内容だったと思うんだけど、そもそもミュージカルなのでストーリーは大して重要じゃないでしょう。その映画が何ともまあド派手で演出もすごくて、インド人のぶっとんだ一面を垣間見た気がしたものですあ、でも観ていて面白いには面白かったですよ。何しろ相手役の女性が美人で、しかもひとつのダンスシーンで色んな民族衣装を着て踊りまくるもんだから、目の保養にはなりました。なので、このカレーもインド人特有のぶっとび能力をいかんなく発揮した訳だな・・・と妙に納得したものでございます。しかし、もらっておいて何だけど、ぶっちゃけ食べる気しない。で、しばらく食料箱で待機しておりましたが、いつまでたっても食欲はわかない。食べなければ永遠に姿を消すことはないので、今朝勇気を出して食べてみました。まず、箱を開けると2つパックが入っている。青いカレーと白いカレーが別々になっているので、まずは湯せん。青い方のパックには「マリンブルー」と書かれた水色のシールが貼ってあるので、あわなほ~じゅ~、あげ~んと昔なつかしい杉山清貴&オメガトライブの「君の瞳はマリンブルー」なぞ歌いながらどうやって盛り付けるか考えながら温めてました。この段になってもまだ食べたくなかったので、少々気を紛らわそうと思ったのでございます。さて、綺麗に盛り付けるためにはやはり一度別々の皿に絞りだしてからの方がよかろうと思い、まずはマリンブルーから絞ってみたところ・・・写真だと比較的明るいブルーに見えますが、実際はもっと暗い。うわ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・白い方はフツーのホワイトカレーってカンジで、皿の真ん中にご飯とホワイトカレーを盛り上げて「青い海に浮かぶ須弥山」をやってみようかとも思ってたのですが、そんな気力はふっとびました。それでまあ、セオリー通りに盛り付けたのがこちら↓。 海にいくつか浮かぶ流氷は、ホワイトカレーに入っているチキンです。それで、お味ですが・・・まあご想像にお任せしますので、ぜひ食べてみてください・・・・・と、お茶を濁して終わらせようと思ったのですが、ネットで世間の評判を見てみると、意外にも好意的な評価が多い。中には激ウマと言っている人もいるけど、そこまで行かなくても「青色はちょっとカンベンだけど、目をつぶって食べれば充分美味しい」と言ってる人は結構おった。そうか、評判いいんなら、1人ぐらいぶっちゃけた感想を述べてもよかろうと開き直り、素直に書くことにしました。だって感想書かないと紹介になんないし。え~、ふた昔前ころの缶詰デリカって、味がどーのというよりは開けた時に独特のニオイがして、たとえば高級ホテルのスープなんかでもとても美味しいとは思えなかったのですが、まずカレーのパックを開けた時、同じニオイがした。それでイヤな予感がよぎったのですが、青いカレーはマリンブルーではなくもっと毒々しい色をしている。いやあ~、無理!!と思いながらまずはご飯にかけた白いカレーから食べました。こちらは味もフツーのホワイトカレー。で、青い方は・・・ちょっと美味しいとは言えない。心なしか、香料のような独特の味・香りがある。それになにより、このドドメブルー。ご飯にかけると、とても食べ物とは思えないビジュアルになります。絵の具だったら白と青を混ぜれば薄い水色になりますが、このカレーは白と青は融合しません。あまりのグロさに、これを紹介している人の中にはわざわざ【閲覧注意】という見出しを付けている人もおるくらいです。見てくれからして脳が受けつけないので、味わうどころじゃありまへん。見なきゃどうにかなるだろ・・・と思っても、味もどーも君だし、目をつぶっても脳裏にまざまざと甦るあのブルー。正直言って、朝から苦行以外の何物でもありませんでしたが、それでもちびちび食べておりましたところ、段々気分が悪くなってきた。味のせいというより、わたくしの脳ミソがどうしても受け入れようとしないんでしょう。まずい、このまま我慢すると本当に吐いてしまいそーだ・・・受け付けないものはもうどうしようもないので、白い部分だけ食べてあとは仕方なくポイしました。もらったものだし、食べ物を捨てるのはわたくしのポリシーに反しますが、ホントにどうしようもなかったんです・・・・・・・・まっ、でもね、世間じゃ美味しいと言ってる人も沢山いるので、機会があったら皆様もぜひチャレンジしてみてください。ネットで世評を見たのは食後でしたが、レトルトカレーの食べ比べをしている人も世の中にはおって、ちょいとそういうブログを読んでみたところ、他の商品に対してもわたくしとことごとく正反対の意見を述べてる人もいたので、味の評価なんて人それぞれなんだなあ~とあらためて思ったものです。なんでね、世にも珍しい「オホーツク流氷カリー」をぜひ食べてみてください。(さんざんこきおろしたので、お店の名誉のためにちょいとだけフォロー。)さて、ご当地モノはここまで。東武ストアに最近こんなのが入りました↓。 これの姉妹版がもうひとつあって、そちらもゲット。まずはワイン&ペッパーの方から食べてみました。 【やわらかな牛肉をこだわりのソースで煮込みました。牛肉を美味しく食べられる 技で仕立てたカレーをお楽しみください。 赤ワインソースとブイヨンを使い、香り高くコク深いソースに仕上げました。 粗挽き黒胡椒の爽やかな香りと辛さが、牛肉の味わいを引き立てます。 「ビーフマイスター」とは資格名を表わすのではなく、味のこだわりを表現した 名称です。】 (裏面の解説より)ペッパーを打ち出すだけあって、確かにスパイシー。「辛味順位」を見ると、5段階のうち辛い方から2番目となっている。「激ウマッ!!」てほどではないけど、充分美味しかったです。最近、柏にある本場のお店でカレーを食べる機会がありました。ひとつはインド系(つか、ご主人はネパールの方の人らしいけど)で『ルンビニ』さん。(場所はこちら)もうひとつはスリランカ系で『アーユーボーワン』さん。(場所はこちら)こんな探索を続けているもので誤解をしている方も多いでしょうが、わたくし別にカレーが好きという訳ではありません。ゆえに、外でカレーを食べることも皆無に近いです。ですが、たまたま本場のお店のカレーを食べる機会があったので食べてみると、どちらもすごく美味しかった。カレーには色々種類もあるので好みもあるでしょうが、カレーだけじゃなくて焼きたてのナンもこれまた美味しい。スーパーで売ってる冷蔵のナンをこんがり焼いて食べるのがわたくしの食べ方でしたが、焼きたてふわふわのもっちりしたナンはやみつきになる美味しさ。ルンビニさんの方はテイクアウトメニューも種類が豊富なので、色々食べてみたいと思ってはいるのですが、そうしょっちゅう行かれるもんでもない(行けないこともないけど)。しかし、先日寄ったパン屋さんにちゃんと個包装されているナンがあるのを見つけて、早速買って帰った。焼きたてにはそりゃ及ばないだろうけど、持ち運びしやすいのが利点。そういうものがあれば、お昼の弁当にカレーを食べることが可能になる。別にナンがなくたってカレー弁当はできるけど、保温のできる弁当箱を1コしか持っていないので、冷めたご飯でカレーすることになってしまうのだ。職場ではチンもできるけど、めんどくさいのでやりたくないし。が、ナンがあればチンしたレトルトカレーをスープジャーに入れてそこそこ温かいカレー弁当が食べられる。それで、記念すべき(←大げさ)第1回のカレー弁当に持っていったのがこちら↓。 「神田カレーグランプリ」の第2回と第3回優勝カレーは「8」で紹介しましたが、こちらは第1回の優勝作品。『ボンディ』さんのチーズカレーです(場所はこちら)。当然のことながら、味なんて食べてみなけりゃわからんのですが、メニューとしてメジャーなものは、裏を返せば平凡でもある。ビーフカレー、欧風カレー、チーズカレーなんてのはその代表格。ので、買ったはいいけどそのテのカレーはつい寝かせがちになってしまう。要するに、「あんまそそられない」んですわ。でも、これは比較的濃いだろうからナンにも合いそうだなと思ってチョイスしてみました。御存知の通り、レトルトカレーは朝に食べることが多いもので、昼に、それも弁当として食べるのは新鮮な気分でしたが、ナンにもよく合っておいしかった。スパイシーではあるんだけど、甘さも結構あったな。てことで、「平凡」な部類に入るカレー達も今後弁当として活躍する場を得た訳ですが、そのパン屋さんではいつでもナンを売ってる訳ではなさそうなので、しょっちゅうカレー弁当にすることもできないかもしれない・・・ま、これまでよりはカレーを消費する機会も増えそうなので、嬉しいところではございます。最後はこちら↓。 見ての通り、コープから出ているキーマですが、実は食べた記憶がないでも写真は残っていてブツがないので、確実にわたくしが食べたんでしょう。箱入りの商品なら食べたあとに箱を残しておけるので、「ああ、これ書かなくちゃ」って気にもなるのですが、これは箱に入ってないので食べてすぐにパックを捨てちゃって食べたことすら忘れてしまったんだと思われます。それでも、真面目に食べた感想を残しておこうと思ったあとの出来事ならこーゆーポカもやらかさないハズなので、「8」より前に食べたものだろうな・・・箱といえば、このブログを読んでくれているらしいわたくしの上司はわたくしがカレー好きだと勘違いをしていて、果ては「カレーの箱、取っておいてるんだろ?」と思いこんでいたらしいことが判明しました。もちろん、「しない、しない!そんなのいちいち取っておいたら大変じゃん!!」(←タメ口)ときっちり否定しておきましたが。世の中にはそういう人もおるかもしれませんが、わたくしはそんなマニアじゃございません。とはいえ、好きでもないモノに結構なカネをつぎこんでいるという奇妙な現実・・・にほんブログ村
2017年04月23日

昨年度の人間ドックはちとショックでした。胃は毎年それなりの不具合があるもんだけど、今年はさらに不具合が増えていて、その上食道の不具合まで増えている・・・胃カメラの後の先生の説明でそれを聞いて寝耳に水だったわたくしは思わず「ええっ、食道ですか!?去年までは何も言われなかったんですけど・・・」「いや、以前からあるにはあったんですよ。言わなかっただけでね。ホラ、心配しちゃうでしょ?」そういや、確かにそういうことは書いてあったな。でも別に再検査も指示されなかったし、大したことないと思ってた。今年は少し症状が進んだみたいで病名がついたんじゃないかと思うんだけど、ネットで調べてみると不安をあおるようなヤバいことしか書かれていない。えええ~、不安になるから言わなかったってナニ!?知ってればそれなりに対処したかもしれないのに、ちゃんと言ってよ!!と憤慨もしましたが、これ以上ひどくしないためにはどうしたらいいのか読んでたら、まず酒・タバコはよろしくないと。まあ、この2つはいつだってやり玉に上がるのだ。誰だって別に健康のためにタバコを吸ってる訳じゃないさあとは胃の内容物が上に上がりやすくなってるので、食べたらすぐに横にならないとか、上半身を起こすような形で寝るようにするとか。う~ん、横になってお菓子を食べながら本を読むのが長年の習慣だったんだけど、これは改めねばならんな・・・それから、胃酸を過剰に分泌しないように刺激物を避けろと。甘いものとか、辛いもの・・・辛いものは基本的にダメだから問題ないなと思ったら、カレーがあったううむ、確かに朝からカレーとか、胃に負担かかりそうだしな。しかし、わたくしの食料箱には常に沢山のレトルトカレーがスタンバっている。彼らを一体どうしたらいいんじゃ・・・普段、胃周辺の症状はなにもないわたくしですが、ドックのあとしばらくはストレスもあってかあまり調子がよくなかったので少しカレーを控えておりました。ま、そうは言っても当面は探索をやめるつもりはないので、もうしばらく探偵団シリーズは続くかと思います。それでは、紹介に入ります。まずはご当地カレーの類から。 これは長崎の長崎歴史文化博物館で入手したものですが、博物館のショップにはこれの他、あと1つか2つご当地カレーがあった。早速手に取ってみたものの、正直どうにもそそられない。てか、お値段と説明文から想像した味がイマイチ見合ってなかったのだ。しかし、1つも買わないってのもな~・・・とさんざん悩んでパッケージで選んだのがコレ。伊東マンショ・千々石ミゲル・原マルティノ・中浦ジュリアンの天正少年遣欧使節団がプリントされた、その名も「天正夢カレー」。表面には「大村町おこしカレー」とあり、さらに【昔から変わらず手間ひまかけて大事に育てた長崎県大村市産「黒田五寸人参」。 生でも果物のように甘いこの人参を一番美味しい時期に収穫し、数量限定で こだわりのカレーにしました。】とある。う~~~ん・・・箱をひっくり返すとこちらにも何やら書いてあり、【長崎街道大村宿カレーマップの店とは 「子供たちに伝えたい季節の行事とふるさとの心」をテーマに、子供たちと一緒に 野菜づくりやカレーづくりを行い、ふるさとの食を考え、理解を深める食育活動を 行っている街おこしの会です。天正夢カレーは、「大村はカレーの街」を合い言葉に、 地元食材を積極的に活用して生まれたカレーです。】とゆー訳で、天正少年遣欧使節は毛ほどもかすらないことが明らかな大村の町おこしカレーでございますいやせめて、彼らの肖像画を使うんなら、彼らが食べたカレーの再現にチャレンジしてみましたとか何とかって理由が欲しかったな。でも彼らは日本では確実にカレーを食べたことはないだろうし、ローマまでの道中でも恐らく口にはしなかっただろうからな・・・そもそもカレーに縁のない彼らを使うことに無理があるんで、伊東マンショたちがこれを見たら「おお、神よ・・・なんだか得体の知れないモノに僕たちの顔が使われちゃってますう~」と嘆くんじゃないか、とか色々と頭の中でツッコミを入れて笑ってましたが、結局買いました。大村には行ったことないのでどの位カレーの店があるのかは存じませんが、説明文を読むに、たぶんフツーの美味しさのカレーだろうなと思ってしばらく放置しておりました。が、レトルトにしては意外に賞味期限が早かったので食べてみたところ、フツーだけど結構美味しかった。これには、「全然期待してなかっただけに」というオマケの言葉も付きますがさて次はこちら↓。 前回、正月に豊後人の義兄がカレーを買ってきてくれたことを書きましたが、その第2段がこのカレー。義兄は由布市の出身なもので、両親などは湯布院にも連れていってもらったりしてますが、湯布院の誇る由布岳はこんな山らしいです↓。 由布岳よりは温泉の方が一般的には有名かもしれませんけどね。で、肝心のお味ね。ビーフカレーなので、ぶっちゃけ目だつ特色なんかはないのですが、かなり美味しかったです。湯布院牛ってのは聞いたことないけど、結構「ブランド牛使用のカレー」でも平凡な味になってしまってるものって割と多いのに、ナイスファイトってカンジかな。それから、これも前回書いたイオンでの四国物産コーナーでゲットした第2段↓。 このインパクトのあるパッケージ。ぱっと見、ウルトラマンのカレーかと思った。どうやらこの巨大スプーンを持っているのが「カツオ人間」らしいけど、裏には がいる。 表のは『雄!』と言っているので、お腹のあたりの白いのはふんどしってことか。裏のには(「ハチキン」というらしい)白いのは高い位置に描かれてる。女だから胸を隠しとるのか?下半身は隠さんでええのんか?さらにはちっちゃくこんなのも↓。 ・・・なんや、ようわからん世界どすでこれ、税込750円もするんどす。迷いましたよ、そりゃ~。だいたい、カツオなんて火を通したら堅くなっちゃうじゃん?クジラの煮付けみたいのを想像して、あんまり食欲をそそられなかったんだけど、でもカツオのカレーなんて珍しい。土佐といえばそりゃカツオだからな。しかし750えんも出す価値が果たしてあるのか?3つゲットした中でこれが一番迷いました。で、これまた期待せずにおそるおそる食べてみたのですが、これがすっげ~ウマかった口に入れた途端、「あっ、カツオ!!」ってカンジで、かつおぶしのまんまの風味が口いっぱいに広がるの。裏切られた感は「天正夢カレー」の比ではありません。カツオは小さいのがコロコロ入ってたな。それよりとにかく口の中に広がる香りがたまらなくて、ペロリと平らげました。これ、オススメご当地カレーといえるのかはちとビミョ~ですが、地元の東武ストアに入っていたのがコレ(300えん)↓。 【TOKYO X とは、東京都が長年の歳月をかけて作り上げ、従来の豚肉の イメージをくつがえした柔らかさと旨味が特徴の東京限定発売の貴重な豚肉です。 そのわけは脂肪の質と味が良い「北京黒豚」、筋繊維が細かく肉質が良い 「バークシャー種」、脂肪交雑が入る「デュロック種」をもとに、各々の良い ところを取り込んで改良した系統豚だからなのです。東京X豚肉の旨みが生きるよう カレーソースは多種類のスパイスで煮込みました。】 (裏面の解説より)東京限定って、柏で売ってんじゃんて内心笑ってましたが、あらためて読むとカレーの話じゃなくて豚肉が都内限定って意味なのかな。そこまで言うなら期待してやろうじゃんと即買いしましたが、うん、まあ、フツーの美味しさでした。で、これ↓。 これはコープで売られていたもので、600えんといいお値段。しかし、小岩井だぞ・・・高いのがネックだが、小岩井ならきっと美味かろう・・・そう思い込んで買ったものです。これね、もうさすがの美味しさでした。名店なら全部が全部美味しいって訳でもないですが、やっぱり名店は違うなと脱帽しました。ウソがつけないタチなもので、本シリーズでもあまり堂々とオススメとは書かないわたくしですが、これもオススメの逸品でございます。ご当地カレーはここまでで、あとはそれ以外ですが、まずはこちら↓。 「8」で紹介したきのこのホクトさんの姉妹版で、こちらはその名の通りエリンギ満載のカレーです。これは味がっていうより、キノコたっぷりがウリなんでね。キノコ好きにはうれしいひと品です。マイタケと同じく、こちらもエリンギがいっぱいなので、満腹感が得られます。あ~あ、これでキノコカレー食べ終わっちゃった・・・と思っていたら、少し前からおなじみの東武ストアにホクトさんの別のキノコカレーが入ってました。今度も2コ並んでいたのでパッケージを替えただけかと思ったら、まったく別モノのキノコカレーを出していたらしい。もちろんそれらもゲットして、今はわたくしの食料箱の中で出番待ちです。そちらも食べたら報告します。最後はこちら↓。 S&Bのディナーカレーはまだ最初の頃の「2」で中辛を食べて、辛口は最近になって食べましたが、それのプレミアム版らしい。お値段も419えんとお高め。これもビーフカレーらしいけど、【国産の仔牛の骨と肉、香味野菜を丹念に煮込んだ国産フォン・ド・ボーを ベースに、国産ソテー・ド・オニオンの甘み、フランス産発酵バターのコクを 加えた上質で深みのある大人の逸品。赤ワインに溶け込み、やわらかく仕上げた 厚切りリブロースと芳醇な欧風ソースとの相性をご賞味ください。】 (裏面の解説文より)とプレミアム感を前面に打ち出している。フツーのディナーカレーの方は平凡な美味しさだったからな・・・いや、でも辛口のは美味しかったんだっけか。それで今朝、朝カレーしたみたのですが・・・さすがにプレミアムというだけのことはあった。ソースは風味がよくて濃厚、そして大きめ具材がごろごろ入っている。フツーの肉系カレーって具はちいちゃなもので、具材の大きさをウリにしたものでも大きいものは入ってはいるけどゴロンと1コだけだったりであまり具に満足するものってないんだけど、これはしっかりした中くらいの肉が沢山入っている。しかも肉はやわらかい。さらに、カレーマルシェよりも大きなマッシュルームが2~3コ入っていて、具の点でもかなり満足感が高い。・・・ただ、惜しむらくは、味があとちょっとだけ欲しい。塩が5~6粒足りない、みたいなほんのわずかな差なんだけど、もうちょっとだけ辛味というかしょっぱさが欲しいな、って感じの味だった。とても美味しいのに、とっても惜しい!!みたいな~。そのちょっとの味が加えられていたら、これも自信を持ってオススメするひと品でございました。にほんブログ村
2017年04月08日

今年は世間の皆さまより長い正月休みをいただいたので、毎日毎日朝カレーを続けていました。昨年の秋以降、外食などが多かったためにもともと太めだったわたくしの身体はどんどん肥え太り、真剣に危機感を抱いた12月なかばのある日意を決して乗った体重計に表示された数字は目を疑うとんでもないものでした。そこで、無理のない範囲で少しずつ体重を落としていこうとダイエットを始めた結果、地味ながらも地道に体重は落ちていき、日々変動はあるものの年末休みに入る頃には2~3キロ落とすことに成功していました。ところが、1月に入って1週間を過ぎようとする頃、なんかお腹がぽっこりしてるな~と思って体重計に乗ったらまた体重が増えている・・・ええっ、年末からずっと忙しくて間食をしてるヒマもなかったし、なんでこんなに体重が戻ってるの!!愕然として生活を振り返ってみると、カレーが原因としか思えない・・・確かにな、カロリーは高そうだし、朝からがっつり食ってる訳だもんな・・・1週間以上レトルトカレーを食べ続けるとこうなるのかと思い知りました。前回「8」で紹介したマツコの番組に出ていたお姉さんは、とてもスリムだった。あるいは年間860食を食べているというカレーのすべてがレトルトという訳ではなく、自分で作ったカレーも含まれているのかもしれない。食べる量や代謝などの関係もあるんでしょうが、レトルトカレーを食べてその他の食事もフツーに摂ってたらカロリーオーバーになることはわたくしが実証済ですので、皆様もご注意ください。で、マツコの番組でも紹介していたこちら(248円)↓。 辛口にチャレンジするようになってから、これの10倍と20倍を入手。が、辛さがウリのこのシリーズは冬だけ5倍の辛さのものが出るのだと年860食のお姉さんが言っていたので、まだ自信のないわたくしはまず5倍から始めてみようと思って10倍と20倍は保留にしておいた。それで近くのスーパーなどに行くたびに5倍を探したけど、なかなか見つからず・・・なんで、仕方なくまず10倍を食べてみました・・・が、やっぱり辛かった。最初は一度に全部は食べきれんな、と思っていたのですが、食べてるうちに慣れてきて、牛乳を入れてマイルドにしなくても、ご飯を追加しなくても一度に完食できちゃった。ふふふ、だいぶわたくしもスパイシー慣れしてきたようだな・・・しかし、箱裏を見るとグリコの辛さレベルは5段階あって、この10倍はレベル5のひとつ上の「大辛」。20倍になると「大辛」のさらに上の「超辛」となっている。ので、20倍を食べるのには相当な勇気がいります。 今半(いまはん)はスキヤキなどで有名なお店ですが、こちらは人形町の今半から出ているカレー。なかなか進まない浅草編でも帰りに今半のカレーを買って帰ったのですが、そちらは浅草今半から出しているカレー。あちこちにある今半のお店はすべて同系列の支店なのかと思っていたら、もとは「今半本店」からスタートしたものの、現在は浅草今半や人形町今半などはそれぞれ独立して経営をしているんだそうな。【明治28年東京本所に開業以来、お肉にこだわり続け高級精肉を取り扱う 人形町今半が、お肉の美味しさを最大限に引き出した牛すじカレーです。 コラーゲンたっぷりの牛すじをとろとろになるまで煮込み、食物繊維たっぷりの 根菜とあわせてやさしい味に仕上げました。】 (箱裏の解説より)近所のスーパーで見つけたものですが、459えんとお高め。仕方ないな、今半だもの。浅草今半のも確か500えんぐらいしたんだよな~。まあでも、牛すじのカレーなのにパッケージに描いてあるのはレンコン。牛肉とレンコンは相性がいいし、今半から出ているならハズレのハズがない。それで、高いけど迷わずカゴに入れたのですが、思っていたよりレンコンのシャキシャキ感はなかった。「3」で紹介した、くまもんのカレーみたいのを想像してたんだけどな。ま、くまもんの方は商品名が「黄のれんこんカレー」でレンコンが主役だもんな。入ってるレンコンの量も違うし。という訳で、想像とはちと違っていたものの、今半の名に恥じないさすがの美味しさでした。レトルトカレー市場において、肉系のカレーはやはりビーフが多い。ビーフに比べればポークやチキンはライトな感じになるので正直言って買う段階ではあまりそそらないのですが、「7」で紹介した北海道の「道産鶏のバターチキンカレー」を最近になって食べてみたところ、とっても美味しかった。バターチキンも最近増えてきて、「1」でも2種を紹介してますが、正直言ってフツーの美味しさで特別美味しかったという記憶はない。ので道産鶏もぶっちゃけ期待していなかったのですが、へ~、バターチキンて美味しいものなんだな~と認識をあらためて食べてみたのがこちら↓。 コープから出ていて、たしか250えんぐらいだったと思いますが、これも美味しかった。ビーフとは違うコクがある。バターのコクなのかな。コクといえばこちら↓。 【溶け合うチーズのキーマカレー たっぷりの炒め玉ねぎと牛挽肉で仕上げた香り高いカレーソースに、 マーブル状のチーズがからみ合う濃厚なおいしさをお楽しみください。】 (箱裏の解説より)275えん。キーマはハズレが少ないというのがわたくしの持論。それにチーズがプラスされるなら、これもハズレのハズがないだろう・・・そう思ってカゴに入れたのですが・・・美味しくない訳じゃない。美味しい部類に入ると思う。ただ、「ひき肉たっぷりのキーマにチーズがプラスされた」というわたくしの想像とは違っていた。なんつーの、数字で表現するなら、ひき肉たっぷりのキーマを100として、それにチーズの20がプラスされて120になるというのがわたくしの想像だったんだけど、チーズの分ひき肉がマイナスされて、合計で100になったというのが感想。しかも思っていたよりチーズが多かったので、チーズ30でひき肉70みたいな。要するに、濃厚は濃厚だけどチーズが邪魔してキーマとしてはちょっと散漫になってしまったカンジ。決してマズかった訳じゃないし、人によってはすっげ~ウマい!!という評価にもなるんでしょうが、個人的にはちょっと残念な結果でした。美味しい具材を組み合わせればなんでも美味しくなるってことでもないんだな、と思ったし、美味しい商品を作り出すのって大変なんだなとしみじみ思った次第でございます。さて、セブンイレブンで見つけたのがこちら↓。 S&Bとの共同開発品。あまりにパ行が多い商品名なので、最初は「ペンパイナッポーカレー?」と笑いを誘いましたが、【ココナッツミルクの濃厚なソースに、カニと卵を加えた、 カレー粉が香り高いタイカレーです。】 (箱表の解説より)カニと卵か・・・要するに、以前食べたタイダンスシリーズのと同じようなやつだよな。タイダンスシリーズのは美味しかったので期待して買いましたが、「カレー粉が香り高い」とあるものの、かなり甘口。5段階の辛味順位表では甘い方から2番目の評価になっていた。肉系に比べればあっさりした感じにはなるけど、カニと卵のカレーはわたくしは好きですね。 こちらは【ミシュラン5年連続星獲得 予約のとれない人気店「季旬 鈴なり」店主村田明彦氏監修】のカレーだそうで、 【ミシュランガイドで5年連続星を獲得し、予約の取れない人気店として日本の和食文化を 代表する「鈴なり」。日本食の要となる「旨み」を追求し、枕崎産かつお枯節からとった だし、牛すじ、里芋、ごぼう、油揚げなど素材の旨みをとことん引き出した唯一無二の カレーを作りました。自宅のカレーでは味わえなかった、深い旨みをお楽しみください。】 (箱裏の解説より)というすごい宣伝文句のお品です。399えん。和だしのカレーといえば、わたくしのカレー探索のそもそもの出発点となったろくさんのカレーを思い出す。まあ、和風カレーならなんでも美味しいって訳でもないだろうけど。で、鈴なりカレーをパッケージから絞り出すと、割と大きい具材がごろんと入っている。食べてみると、大きなお肉2つはどちらもプルプルの牛すじっぽいものだった。ちょっとプルプルすぎてなんかな、って部分はあったけど、味は良かった。辛さは控えめ。最後に食べた具材が、なんだろ、コレ?って食感だったんだけど、もしかしてゴボウかもしんない。油あげが入ってるのかどうかはわかりませんでした。さて、豊後人の義兄はこの正月も帰省しておりました。今回は義兄1人だけが帰って、わたくしも年末は大変に忙しかったのでこれまでのようにカレーを土産にせがむことはしなかったのですが、わたくしのレトルトカレー探索のことを覚えてくれていたらしく、3つも豊後のカレーを買ってきてくれました。どれも地域の産物を生かしたものだったのですが、もっともわたくしの興味をひいたのがこちら↓。 まず、ネーミングがすごい。「至福の翼カレー」。その下には、【第1編・冠(かんむり)地どり】とある。第1編てナニ?続編もあるってこと!?冠という名の地鶏を使ったカレーなのでチキンカレーってことらしいですが、パッケージ下の帯風にデザインされた部分には【おおいた冠地どりは羽ばたいた】と爆笑を誘うキャッチが書かれ、その下には【飛騨高山の熟成唐辛子と出会った】と表面だけでツッコミどころ満載。オキナワのカレーもはっちゃけてたけど、これもすごいな・・・豊後ってこーゆーお土地柄だったの?よくわからん不思議なカレーだな・・・箱を裏返すとこちらも何か書いてあるので冠地どりの説明かと思いきや、 【「飛騨高山の熟成唐辛子」とは 標高1,200mにあるトンネルで赤トウガラシを米酢と塩で漬け込み、熟成、 撹拌を繰り返すこと18ヶ月。熟成が極みに達したとき、さらに米酢をたっぷり加え、 充填所地下タンクで再熟成させやっと完成です。トンネル熟成効果と飛騨の自然が 「微笑むうまさ」を作り出してくれました。感謝!!】・・・よその唐辛子の宣伝だった「甘口」とあるので、辛いカレーを中心に攻めている現段階ではう~ん・・・て感じもあるのですが、とにかく一体どんなカレーなんだと興味津々で食べてみました。味は、やっぱり甘口。なんだけど、そんなに甘くて物足りないという感じでもない。どころか、甘い中にも結構スパイシー。そうか、これが飛騨の唐辛子の辛さなんだな。そう思いながらペロリと平らげました。美味しかったですよ、これ。他のシリーズもあるんなら食べてみたいな。地方のカレーは旅のついでに自分で買うか、もしくは土産にもらうかのどちらかが多いパターンですが、柏にいながらにして手に入れるチャンスもある。それが物産展で、先日イオンに行った際、「四国味めぐり」という物産コーナーが設けられていたので、あごだしの味噌がないか寄ってみたところ、カレーを発見し3点入手いたしました。で、まず最初に食べたのがこれ↓。 【やきとりのまち・今治から発信する今治産のタマネギ、ニンジンを使用し ローストした国産鶏肉を使用した、こだわりのカレー!】今治のゆるキャラ、バリィさんがパッケージで「おいしいけん たべてみとん!」「げきうまっ」と絶賛しているし、やきとりのカレーなんてどんなだろうとそそられた。585えん。口に入れると、焼き鳥のあの少し焦げたような香ばしい香りが広がる。おお、確かに焼き鳥だ~と思ったものの、ぶっちゃけそれ以外に特筆すべきものはない。いや、別にマズかった訳じゃないですよ。充分美味しいです。ただ、なんかもっと肉ニクしいものを想像していたので、ちょっとそれとは違っていただけで。げきうまはちょっと言い過ぎかな~。てか、バリィさんが食べたら共食いなんじゃ・・・とかツッコミ入れながら食べてました。にほんブログ村
2017年01月31日

本シリーズを始める前にも雑談でいくつかカレーを紹介していたことを思い出して数え直してみたところ、10コ間違ってたのでナンバリングを修正しました。それ以外にも、旅日記の方で紹介した御当地カレーがいくつかある。「史跡探勝路20」では栃木のいちごのカレー。「寛永寺にほとけが集結してます(3)」ではインドの仏カレー。あと、写真を摂らなかったので紹介しなかったけど、生協で「蜂の家カレー」というのを買って食べてもいる。他にもあったかもしれないけど、とりあえずこの3つは今回の記事の中に含めて数えておきますね。行く先々でカレーを買ってる訳でもないけど、見かけると買いこんでいたりもするので。ということで、軽く150種類を超えてしまいましたが、まあ3年も食い続けてればそれなりの数字にはなるだろ・・・以前の記事でも書きましたが、カレーの探索にあたり基本「お取り寄せ」はしない。だって、ネットで探して買ってたらキリがないから。生協で買いはするけど、あれは店頭で買うかわりにチラシで選ぶだけの話で、スーパーで買うのと大した違いはない。わたくしがカレーの探索をしていることを知っている人からもらったりもしたけど、全部をあわせても20をちょっと越えるぐらいかな。つまりは7割強を自分で買っている訳ですが、手近なところで買っただけでもすでに100食をゆうに超えている・・・それでもまだまだ探索は終わりそうもないので、レトルトカレーの世界の奥深さに今さらながら驚いております。一体、現代日本でどれだけのレトルトカレーが販売されているのだろうか・・・過日、『マツコの知らない世界』のレトルトカレーの回を観ましたが、それに出ていたお姉さんはカレーを年間860食ぐらい食べているらしい。なんと、朝昼晩の3食カレーを食べているそうで、ホントにカレーが好きな人だったんだけど、わたくしの場合はカレーが特別好きという訳でもない。ただ、たまたま食べたレトルトカレーが意外にも大変美味しかったので、カレージャングルの奥深さを知らずになんとなくうっかり足を踏み入れてしまったのが運のツキ。2016年も段々と終わりに近づいた頃、福袋のニュースをやり始めましたが、今年の福袋は「体験型」が人気だそうで、どこの福袋だか知らないけどレトルトカレーの箱を好きなだけ積み上げて、崩れなかった分のカレーをゲットできるという福袋が登場したそうなんですが、TVに映っているカレーの多くが見知ったものだったというオソロシイ現実が判明しました。しかし、ホントにカレーを愛する人を目にして自分を振り返ると、これまで沢山のカレーを紹介してきたものの、まだ食べてないものも紹介していたり、数がたまってきたらまとめて書くスタイルだったため、賞味後でも書く頃には味をすっかり忘れていてロクな紹介をしていないものも多い。レトルトカレーはたとえ平凡なものでもそのほとんどが素直に美味しいといえるもので、それは製造者の努力の成果だと思うので、今後は極力食べたあとに感想まで述べておこうという気になりました。まとめて書かないで、食べた都度書き残してためておけばいいんだもんな・・・さてと、それではカレーの紹介に移りますが、前回紹介した小笠原パッションフルーツカレー。前回「7」をアップした後に食べてみたところ、フツーのフルーツカレーはフルーツがカレーの味に消されてしまうもんですが、これははっきりとパッションフルーツの味がしました。カレーの味に負けずにブイブイと自己主張をするパッションフルーツの根性は見上げたもんですが、なかなかビミョ~な味だったぞえんで、待望のカレーマルシェの辛口バージョン。 確かに辛めではある。でもすっげ~辛いという訳でもないので、ほとんど中辛感覚で食べられる。マッシュルームがゴロゴロ入っているのは相変わらず。でもさすがに安定の美味しさという感じでした。黒いパッケージの「大辛」をどこかで見たような気がするんだけどな・・・辛口の間違いだったのかな。 S&Bのディナーカレーの中辛は「2」で紹介してますが、その辛口バージョンです。 【「極上のおいしさ」へようこそ フランス料理で最高級の味のベースとされる、仔牛肉と香味野菜を丹念に煮込んで 生まれる「フォン・ド・ボー」。このおいしさの原点にこだわり続けるS&Bの 最高級カレーです。具材はほろっと崩れる角切りリブロースとマッシュルーム。 重厚な欧風ソースとの相性をご賞味ください。】 (パッケージ裏面の解説より)レトルトカレー市場において、このテの欧風カレーは多い。最近では過去の記事でも紹介してきたように、本場インドをはじめアジア各国の独特の味を追求しているものなんかも増えたので、正確なところはわからないものの、それでもまだ4割ほどは欧風カレー系なんじゃないかな。おそらく、年代をさかのぼるほどに欧風カレーの割合は高くなっていくだろう。でも、ぶっちゃけ欧風カレーはどれも同じような感じで、数が多いだけに「平凡な味」と化してしまって、あまり購買意欲をそそらない。が、これは美味しかったな。「重厚な欧風ソース」のせいか、それほど辛くもなかった。 キーマのスパイシーだから買ったんだけど、食べる前になって箱をよく見たら「ベジタブル」となっている。裏を見ると「品名:野菜カレー」となっていて、原材料のトップには「野菜」が来ている。肉の表示らしきものはない・・・アレ?キーマといえばひき肉たっぷりが特徴だけど、これってもしかして、細かく刻んだ野菜を肉に見立てた「キーマカレー野菜バージョン」なのか?すでにわたくしの胃袋は、ひき肉を想定してスタンバっているのに、マジもんのベジタブルだったらとても満足はできないカモ・・・迷ったあげく、そのまま食べることを決断しましたが、開けてみるとひき肉もちゃんと入っていて安心したこの日の朝はあまり時間がなくて、急いでこれを食べたのですが、ポッポッと身体が温まりました。 箱裏には「銀座洋食物語(5)」が書いてある。【文明開花で肉食が日本に入ると、まず大人気を博したのが牛鍋でした。次に洋食が入って くると、ビフテキやビーフシチューが憧れの料理になります。銀座カリーのルーツ・ 昭和初期になると、庶民に手の届く洋食・カリーも、ビーフが主流になりました。 ビーフの香りの魅力は、今も昔も変わらないのですね。】ふ~ん、庶民に手の届く洋食か・・・で、続けて【古き良き銀座の洋食文化を今に伝える「銀座シリーズ」。辛口は、香り立つ二段仕込み ブイヨンと、たっぷりのソテーオニオンの旨みの中から、じんわり効く古風な辛さが 立ち上がります。薄切りビーフが炊きたてのご飯によくからみ、まさに「ひと皿のぜいたく」。 手間暇かけた、誰もが笑顔になる美味しさです。】誰もが笑顔になると豪語するだけあって、確かにコクがあって美味しい。今まで辛口は食べなかったから知らなかったけど、めちゃくちゃ辛いというんでなければ辛口の方がカレーの美味しさが引き立つような気がするな。んで、こちらは初の大辛カレー↓。 お値段(88えん)からして、たぶん言ってるほど辛くはないだろうと思う。でも大辛は食べたことないし、わたくしには一生縁がないものだと思っていたのでさすがに勇気がいる。それでもこれを今日の朝カレーにチョイスしたのには理由がある。以前、姉から飛騨牛の肉をもらって、疲労困憊の大みそかにそれを食べた残りがまだあった。高級な牛肉ってかなりの脂肪があるので、美味しいかどうかに関わらずわたくしの場合は食べた瞬間から脂が血流にのって全身を駆け巡るような感覚を覚える。身体が油でカア~っと熱くなるような気がするので、身体に負担がかかりそうであまりいいもんじゃないな・・・という風にいつも思う。「それは実は高級な肉じゃないんじゃないの?」って思う方もいるかもしれませんが、安い肉で脂身の多いのを食べてもそうはなりません。高級な牛肉に限ってそう感じるんです。でも自分で高級な牛肉は買わない(高くて買えない)ので、もらえるとなれば喜んでもらいます。で、今回の飛騨牛は歯が悪い母親には少し固く感じたようで、わたくしがほとんどを消費することになったのですが、一度に沢山は食べられないので少し残しておいたんです。それを88えんのカレーに入れれば脂でカレーのグレードもアップし、大辛でも少しは食べやすく感じるかもしれない・・・そう思って、このカレーに飛騨牛のお肉をトッピングしてチンしてみました。結果的に、これはアタリでした。ただ、肉の脂肪分が辛味を和らげたのかもしれないけど、たぶん元の味もそれほど辛くはなかったんだと思います。まあ、辛口に手を出すようになってからスパイシー慣れしたせいもあるかもしれません。さて、買っても買っても終わらないレトルトカレー市場。それでも、手近なところでのみ入手するという探索ルールがあるゆえに、よく行くスーパーなどで「初めてさん」を見かけても、せいぜい1コか2コ程度。なので、最近じゃ一度に買うカレーの数はその程度の数なのですが、いつもの東武ストアでこれを見つけた時には思わず頭を抱えた↓。 『日本屈指のカレー激戦区の祭典 神田カレーグランプリ』で優勝したカレーがシリーズでS&Bから商品化されていたのです。しかも、第1回から第4回までがずらりと並んでいる。うおお、マジかんべんしちくり~!!どこまでやれば気が済むんだ、レトルトカレー市場!!探索を続けている身とはいえ、一度に4コも買いたくない・・・しかし、「期間限定」の文字がわたくしを誘惑する。箱裏を見ると、「神田カレーグランプリ」とは【300店以上のカレー提供店舗が密集する東京神田で、年に1度開催される】祭典だそうな。確かに水道橋から神保町あたりなんかはカレーの店が多いけど、300店以上もあるのか・・・結局、4コまとめて買いましたよ。だって、いつまで置いてあるかわからないもんてことで、食べたものから順にご紹介します。まず上の写真は第2回優勝のマンダラ(mandara)さんの「サグチキンカレー」。マンダラさんの場所はこちら。「6」で紹介したS&Bのほうれん草カレーは美味しかったよな・・・ので、シリーズの4つのうちで最も期待していたのがこのカレー。【香り立ち豊かなスパイスとほうれん草の甘みにカシューナッツを合わせた コク深い一皿をお楽しみください。】とあるけど、ほうれん草カレーよりはあっさりした味だった。「お店の中辛」とあるものの、S&B基準での辛味順位表では上から2番目の「4」。その通り、ほうれん草やカシューナッツの甘みというよりはスパイシーさが勝っていた。「神田カレーグランプリ」のルールは知らないけど、レトルトとして商品化された4品はいずれも278円と同じ値段。材料や作り方の異なる優勝作品を、レトルトカレー市場では低価格のうちに入るこの値段でなるべくお店の味に近づけて商品化するのって結構大変なんじゃないかとふと思った。 ↑こちらが第3回優勝の日乃屋カレーさんの「和風ビーフカレー」。日乃屋カレー(神田店)の場所はこちら。【和風だしの濃厚な旨みに牛肉とフルーツのコクと甘みが広がる スパイシーで余韻が残る一皿をお楽しみください。】(パッケージ裏面より)こちらも「お店の中辛」だけど、S&B基準での辛味順位表では最高レベルの「5」。その通り、かなりスパイシーだった。和風だしという感じはしなかったけど、その代わりフルーツの甘みが高い。だから、甘いけど辛い。「江戸前カレー」ってカンジだな、と思いました。さて、こちら↓。 きのこっここ~のこげんきのこのホクト(株)さんもレトルトカレー市場に参戦しております。箱の表面には『きのこで菌活』と愉快なキャッチが書かれ、裏面には【「菌活」とは菌の力を利用した食品を食べることで、健康やキレイを目指す活動のこと。 きのこは菌そのものだけを食べられる唯一の食材です。】とある。ほう、菌そのものだけをね・・・考えたことなかったなキノコの好きなわたくし、キノコ会社から出されているカレーがハズレのハズないと迷わず2種をカゴに入れましたが、やはり期待は裏切らなかった。とにかく、マイタケの量がすごい。味は中辛だけど、たっぷりのマイタケで満足の美味しさでした。もうひとつはエリンギカレーで、これも期待できます。食べたらまたご紹介します。 欧風カレーってホント多くて、それよりインド風カレーとかのを増やしてほしいんだけど、先日寄った東武ストアのカレー棚でひとつ欠品の商品があった。よくは見なかったんだけど、確かこのシリーズだったような・・・TVの影響ってすごいから、前述の番組でマツコが試食でもしたかな?と思ったけど、番組サイトのアーカイブを見返してみたところ、これは食べなかったらしい。それで、「具の逸品」と銘打つだけあって、ごろんと大きいお肉が入っている。ただ、薄切り肉を煮込んだものではなく、火を通した角切り肉をカレーに入れたみたいで、「煮込んでとろけるようなお肉」ではなかった。母親はそれが気に入らなかったみたいだけど、美味しかったです。448えん。え~・・・最近またアグレッシブに攻めるようになってきたので、わたくしの食料箱には大量のカレーが山と積まれておりまして、平日にレトルトカレーを食べることがほとんどない関係上、胃袋をひとつしか持たずに生まれてきたことが実に悔やまれますが、まとまった休日は絶好のカレー消費期間。ので正月休みは毎日朝カレーしてますが、元日の朝はいいカレーを食べようと思って取りだしたのがこちら↓。 これは鎌倉の名店「珊瑚礁」さんが出しているカレーで、ずっと食料箱に眠っていたのでいつどこで買ったのか思い出せない。が、写真が鎌倉に行った時のフォルダに入っていたので、おそらく地元鎌倉のスーパーで買ったんだと思います。少し前に、ふとしたことで他の種類もあることを知りましてね。それは仕事関係の販売協力のお願いだったんですが、添付されている注文書を見ると、ホタテの他にビーフ・ポーク・キーマとあっていずれも799えん。そんなに高いものだった記憶は全くないんですが(←何しろ1年前)、スーパーであれこれ悩んだ記憶はあるので、他の種類も置いてあったのに高いがゆえにおそらくホタテのみをカゴに入れたんだと思います。わたくしは珊瑚礁のお店には行ったことはありませんが、以前S&Bから出ている「噂の名店」シリーズの「湘南ドライカレー」を食べたことがあって、それはすごく美味しかった。「マツコの知らない世界」でマツコも食べているのを見てもう一度食べたくなって先日食べましたが、やっぱり美味しかった。珊瑚礁さんとはそういうお店なので、これもウマいハズだ。しかも、ホタテで高級感がある・・・それで2017年の1発目を飾るカレーにこれを選んだのですが、大きいホタテがごろごろ入っていて濃厚で、これまたやっぱり美味しかった。ただ、時々ヘンな食感の具材がある。じゃがいもを冷凍したりすると、ポソポソしたようなヘンな食感になるじゃないですか。最初、わたくしはそのテのじゃがいもかと思った。これまでレトルトカレーでこーゆーじゃがいもが入ってたことってなかったよな・・・味はいいんだけど、これはマイナス点だなと思って食べていたのですが、最後の方になってそのポソポソはホタテ独特のオレンジ色のあの部分だったことに気づいた。のでマイナス点は取り消し。新年にふさわしい、満足感のあるカレーでした。また鎌倉に行ったら、他の種類も買ってみよう・・・高いけど。それで、久々に鎌倉の写真を見返したらこんな写真もあったので一緒に買ったんだと思う↓。鎌倉編の公開は2年ぐらい先になるかもしれないので、ここでまとめて紹介しておきます。 これを食べたのはかなり前のことなので、あまり味は覚えていませんが、たしか美味しかったと思う。似たような味の欧風カレーを数多く出すより、こういうチャレンジ系カレーが多く販売されることを期待します。にほんブログ村
2017年01月03日

雷門をくぐると、まずはずらっと長屋状に長く軒をつらねる仲見世がお出迎え。 写真に写っているだけではなく、裏手にも店が並んでいて現在は89店舗あるとのこと。「仲見世」の名称の由来は、雷門前の広小路とこの先にある仁王門との間にあったからだといい、元禄の頃、花川戸の住民に境内の清掃と引き換えに営業を認めたものが始まりだとされる・・・が、たぶんそれ以前から小さな屋台とかの類は周辺に集まって営業してただろうと思うんだよね。古くから人気の浅草寺だもの。それらを整理して境内清掃の義務を負わせるなどして整えたのが江戸中期なんじゃないかと個人的には推測します。明治維新の折にはさすがの浅草寺も寺領の没収は免れえず、仲見世は一旦立ち退きを命じられたあとで明治らしい赤レンガの洋風なものにリニューアル。が、関東大震災や戦災などでも被害を受け、その後復興。商売人のしぶとさ・・・あやや、たくましさを物語る仲見世の歴史ですが、まだ7時を過ぎたばかりのこの時間はどこの店も開いていない。店が開いてたら開いてたで色々見たくもなるだろうから、時間のない今回はこれでいいのだけど、江戸期の人々の娯楽の場でもあった寺の雰囲気を味わうには店が開いてる時間帯の方が望ましいだろうな。とはいえ、休日のオフィス街だとか普段人通りの多い場所が閑散としている中を歩くのは好きなので、これはこれで気分がいい。人が多ければイラつくのは目に見えてるし。それに、浅草寺仲見世には店が開いてる時には見られないものがある。 店舗のシャッターに描かれたこれは、平成元年にあの平山郁夫氏の指導によるグループが「浅草絵巻」と題して浅草の歳事を描いたものらしい。「いかにも江戸!」ってカンジの絵だけではなく、鎌倉期を思わせるような風雅な絵もあるので、人の少ない静かな門前街で絵を眺めながら歩くのもオツなもの。仲見世をずっと進んでいくと、左手に道がのびている↓。 ここには今も下馬札が立っている。馬でお越しの方はここで下馬してください。ここはそのまま正面へ進みます。伝法院通りは浅草寺の本坊・伝法院の敷地の南側に沿った通りで、敷地の東側は本堂へ向かう参道に面している。そこには浅草寺の歴史を語る文章や絵が並んでいた。浅草寺創建や檜前(ひのくま)氏については簡単に「将軍たちの宝(7)」で書いてますのでここでは解説の全文を紹介はしませんが、絵の方は少しご紹介していきましょう。 ガラスケース入りの絵なので、ガラスに映った後ろの建物も写りこんじゃってますが、これが浅草寺ができる以前の浅草を描いた場面。奥の方に広がっているのは今はなき千束池かな。この辺は今ではただの平地だけど若干の土地の起伏もあったらしく、水没することを免れた7つの小山が水面から顔を出している。そういう場所には古墳があり、浅草寺本堂裏手の熊谷稲荷の塚から出土したという石棺が現在も伝法院に保存されている。浅草寺のホームページでは、境内域から石棺が出土したことについて 【浅草寺のご本尊さまご示現以前において、浅草の地に有力な豪族が住んでいたことを 示している。】 (伝法院のページより)としている。さて、そういう古い歴史を持つ浅草でヒノクマ兄弟が観音様を曳き上げる↓。 個人的には、上記リンク先で紹介した塩見氏の創建についての推測もアリだと思うけどね。というより、その方が現実的だろうと思う。もちろん寺伝にケチをつける訳じゃないけど、浅草寺サイドでも檜前兄弟&土師中知の伝承以外にも 【そうした縁起とは別に、十人の童子がアカザという草で御堂を建てたという 伝承もあった。】 (現地解説板より)という文章を加えているし、十童子が草庵を作っている絵も並べてある↓。 絵の右下にちょこんと座っている坊さんが土師中知(はじのなかとも)ね。「無事故(645)で終わった大化の改新」の年に浅草寺を訪れて観音様を秘仏と定めた勝海(しょうかい)上人がいかなる人だったのかはわからない。でもまあ、公的な仏教伝来より100年ほど経ってるとはいえまだまだ日本仏教の草創期ともいえる時期のことだから、日本では「○○宗」というような明確な区分はなかった頃かもな。ちなみに、645年は仏法興隆の詔が布告されて、国家として仏法を奉じることが定められた年。浅草寺は国家仏教とほぼ同じ長い年月を歩んできた古いふる~いお寺でございます。さて、「将軍たちの宝」で浅草寺の歴史に触れる以前にわたくしは寛永寺シリーズで浅草寺に親近感を持ちました。現在の浅草寺は「聖観音宗」の大本山。これは昭和25年からで、じゃあその前はというと天台宗なんだな。「上野第二編(16)」でイエアスが入府した頃に菩提寺と祈祷寺の選定についての『落穂集』の話を紹介しましたが、浅草寺が天台宗だったことを知って自称・大乗なら天台!!のわたくしは急に浅草寺をぐっと身近に感じるようになりました。戦後になって天台から独立して聖観音宗を打ちたてた訳だけど、ぶっちゃけそんなものどーだっていいです。天台の歴史の方が長いし、わたくしの中では今でも浅草寺は天台宗です(勝手に・・・)。そもそもが何宗だったのかもわからないし、はっきりナントカ宗から天台宗へ改宗したと言っていいのか、いつ名実ともに天台宗となったのかなど詳しいことはよくわからんのだけど、少なくともこの時点からは天台宗寺院と言えるでしょう↓。 天台座主第3代の慈覚大師円仁さんの登場です。円仁さんが座主となる頃の話については「叡山攻め(81)」でも少し触れてますが、叡山のトップという立場にあった円仁さんが訪れたという寺はかなり多い。それだけで1冊の本ができてしまうほど多い。 記事はまだアップしてませんが、「叡山攻め」の後、再び叡山に行きましてね。「叡山攻め」の時はオフシーズンで泣く泣く下界に宿を取りましたが、再訪した時は念願の宿坊に泊まってきました。荷物を送る手配をしてチェックアウトしようとした時、「あっ、ちょっと待って」と言って奥に引っ込んだ延暦寺会館のおじさんが戻ってきた時手にしていたのがこの本。これを気前よくタダでくれるというので、「えっ!いいですよ、そんな・・・てか、これどこにあったんですか?」「いや、なんかあったから・・・こういうの、好きかなと思って」「好きですよ~、大好き!!うわあ、いいんですかあ~」・・・とちゃっかりもらってきたので今わたくしの手許にあるワケですが、チェックインの時わたくしはぶりぶり怒っていてチョ~態度悪かったので、おじさんはカンジの悪い客をなだめようと色々勧めたりしてくれた。ので、これもその一環だろう・・・手に入れたい方はこちら↓。【楽天ブックスならいつでも送料無料】慈覚大師円仁と行くゆかりの古寺巡礼と、それはともかく、この本の表紙には「ゆかりの550社寺」とある。550だってよ!!国内だけでもゆかりの地といわれる場所は沢山あるのに、その他唐にも渡って沢山の苦労をしてきてるんだから、強靭な肉体と精神力、それと運がなければこれほどの伝承は生まれ得ません。で、その円仁さんは浅草寺で何をしたかとゆーと、絵の中で光輝く仏像を彫ってますね。勝海上人が観音様を秘仏と定めた後に浅草寺を訪れた円仁さんは、もうお目にかかれなくなった観音様の御前立(おまえたち)を彫ったとされます。もっとも、現在ではその御前立も秘仏化しているようなんだけど、1年に1回、年末の煤払いの翌日の法要の時だけは御開帳となるんだそうな。いくら御利益のあるありがたい観音様とはいえ、まったくそのお姿が拝めないんじゃ参拝した善男善女もテンション下がる。パンピーにはやはりビジュアルに訴えるものが必要だと考えたのか、「柳の御影」という観音様のお姿を彫った版木も円仁さんが作ったとされる。そのほか、円仁さんが将来したという伝承を持つ仏具も数点伝えられているんだそうな。これは写真で見ると密教法具のようで、円仁さんが持ち込んだものでなかったにせよ確かに浅草寺が天台宗として歩んだ歴史のかほりを匂わせている。そういう事蹟を遺した円仁さんは、浅草寺において中興開山とされる。現地での解説板ではこのあたりを 【版木が作られたことは、参詣者が増えてきたことを物語るのだろう。】としているけど、わざわざ中興の開山として今でも尊崇しているんだから、観音様が秘仏とされてしまったことによって一時は客足も遠のいていたのを、庶民向けの施策を円仁さんが打ち出したことで再び呼び戻してその後の発展の基礎を築いた、という風に考えることもできると思う。さて、円仁さんより100年近く後になると、また強い味方が登場する。 【平公雅(きんまさ)堂塔伽藍を建立 平安時代中期、天慶5年(942)安房の国守であった平公雅は京に帰る途次、 浅草寺に参拝した。その折、次は武蔵の国守に任ぜられるように祈願した処、 その願いがかなったことから、そのお礼に堂塔伽藍を再建し、田地数百町を 寄進したと伝える。その伽藍に法華堂と常行堂の二堂があったことから、 浅草寺が天台宗の法の流れに属していたことが知られる。】 (現地解説板より)平氏の簡単な略図については「将軍たちの宝(9)」などでも載せていますが、その系図には書かなかったものの平の姓を賜った高望王の子に良兼という人がいて、良兼の子が公雅。つまり、平将門のいとこにあたる方のようです。ウィキペディアによると、公雅さんが安房守となったのは将門の乱のあとのことで、乱によって浅草寺も荒廃していたのだという。ウィキではさらに 【天慶8年(945)の3月18日に公雅の枕元に観音様が立ち「この沖合に生ずる青、赤、 黒三通りの海草を食すれば、無病開運、来世は必ず仏果を得べし。」 と告げたので、 教えの通りにそれらの海草を集めて食してみたところ、非常に美味しくて体にも 良いことから「観音様の法(のり、教え)だから『浅草のり』だ」と評判になったという 伝説も知られている。】という愉快な伝承も紹介している。いや、浅草海苔はともかく、ここはやはり公雅さんが再建した中に法華堂と常行堂があったというのが目をひくよな。寺院の規模にもよるんだろうけど、天台宗ではこの2つのお堂はセットになってるからね。(「叡山攻め(111)」やその次あたり参照)浅草寺のホームページには年中行事の一覧も載ってるんだけど、正月の修正会(しゅうしょうえ)に始まり、中興開山である円仁さんの命日には「慈覚大師忌」の法要が行われ、日本天台宗開祖の最澄の命日には叡山と同じく法華八講が行われ、10月には「十夜会」として常行三昧があり、中国天台宗開祖の天台大師・智ギ(ちぎ)の命日には「霜月会」としてこれまた法華八講が行われるんだそうな。(「叡山攻め(62)」などなども参照)しかも、これまでまったく知らなかったけど、1月3日の元三の日には・・・長らくの読者様にはもうおわかりですね。元三(慈恵)大師・良源さんの命日であるこの日は、ぬわんと浅草寺でも良源さんの徳を讃える「元三会」の法会を行うんだそうな!!これ、過去の話じゃなく現代の話です。ちょっとネットで検索してみると、『浅草寺って天台宗なの?法要のスタイルも天台宗と同じなんだけど』なんてのが見つかるので、聖観音宗独自の法要も当然あるものの、古くから引き継がれてきた法要などは天台宗形式で行われているようです。円仁さんは中興の開山だからまだわかるとして、智ギや最澄、さらには良源さんの法要まで聖観音宗本山寺院が行っている・・・その上ホームページでは、「円仁さま」「最澄さま」「天台大師さま」と表記している。もちろん、わたくしの良源さんも「良源さま」となってます。延暦寺会館のおじさんにもらった本には、 【(浅草寺の)境内で円仁を見かけるのは、宝蔵門の手前、浅草寺幼稚園を過ぎた 参道左手にある絵説きの浅草寺縁起ぐらいだろう。】とある。確かに、ハード面ではそうかもしれない。でもソフト面をちょいと覗けば、今でも天台カラーがムンムンしている。浅草寺の宗派なんかどうでもいい?ま~、たいていの人はそうでしょうよ。でもわたくしにはテンションがチョモランマよりも高くなる重要事項なのだああ、浅草寺の元三会ってどんなだろ・・・でも浅草寺の元三会は伝法院でやるらしく、普段伝法院は一般公開していないので元三会も見られない可能性のが高そうだなそういえば、寛永寺の元三会にもまだ行ってないんだっけ。今年は行こうかと思ってたんだけど、すぐ後の連休のお出かけの準備で忙しかったから行くのをやめたんだよな。叡山横川の元三会も狙ってはいるんだけど、前回横川を訪れた時はちょうど四季講堂で良源さんのバースデーパーティーが行われる前日でね。「叡山攻め」の時と同じく参拝客はいなかったけど、翌日の準備で大わらわなのが門をくぐった直後からわかった。普段は静かな四季講堂が、ご住職らしきお坊さんまで総出でワイワイやっている・・・もうまともな参拝すらできないような状態で、良源さんを愛してやまないわたくしですから重要な法要だってのは十二分にわかってはいるんだけど、やっぱイベント嫌いだ~と心の中でぶつくさつぶやいたのも事実。時間が経った今となっては、もはやそれも懐かしい記憶ですが。にほんブログ村
2016年11月18日

都合により、ガイジンとの座談会を一旦中止してあげやすいものからアップしていきます。これは約1年前の日帰りのお出かけで、寛永寺から法要への参加のお誘いをいただいたので出かけていったものです。<2015年11月28日(土)>はれせっかく柏のイナカから都内まで出かけていくのだから、ついでにどっかへ寄りたい・・・とはいえ、時間を有効に使うには寛永寺のあとでどこかへ行くよりも法要の前に先に「ついで」を済ませてしまう方が都合がいい。(↑連休でもなんでもないフツーの土曜日だからあまり長居したくない)朝の早い時間ならまだ人も少ないしな。どこへ行こうかと色々考えて調べたところ、浅草寺が早い時間から開いていることを知った。観光寺院て拝観時間は9時スタートってところが多いけど、中にはかなり早い時間から拝観できるところもある。以前TVで「京都の穴場」的な番組を観た時、清水寺のスタートが早いというのをやっていて驚いたもんです。浅草の浅草寺にはもちろん行ったことはあるけど、「ただ行った」だけなので、仏教や建築に興味を持ってからあらためてあの有名なお寺を拝観したいと思ってた。が、都内で手軽に楽しく参拝できる人気の浅草寺とくれば、日本人のみならず世界中からやって来たガイジン達もわんさか集う。TVに浅草寺が映るたび、群がる観光客の多さに「うわ~、行きたいけど無理!!」と毎回思っていた。でも朝早い時間なら仲見世も開いてないし、ゆえに昼間よりは人は少ないだろう・・・この時期の浅草寺の拝観スタートは6:30で、寛永寺の法要は10時から。法要の前には何か食べておきたいし、移動の時間を抜いても浅草寺には2時間から2時間半ぐらいは取れる。仲見世での買い物は考えなくていいし(まだ店が開いてないから)、そのぐらいの時間があればまあ何とかなるだろう。ということで、寛永寺に行く前にちゃちゃっと浅草寺見学をこなすことにした。わたくしが浅草寺に行きたかったのは、仏教や建築面のほかにもうひとつ理由がある。この頃は「将軍たちの宝」を書き始めて間もない頃で、浅草についても少し触れたから。(「将軍たちの宝(7)」あたり参照)浅草といえば浅草寺のイメージが強すぎてあまり「歴史」を考えることはなかったけど、塩見鮮一郎氏をして「江戸は浅草があってはじめて成立したといってもいいすぎではない」と言わしめた歴史を感じたいと思ったのだ。して、色々と準備をして朝早くに家を出た。柏から浅草に行くには上野を回っていくか、もっと手前で京成に乗り換えるかの2つのルートがある。この日は久々に京成に乗って浅草へ出た。着いたのは7時頃。ここからはさすがにスカイツリーが近い。 古い人間のわたくしには、浅草駅前といえばスカイツリーよりも金色のウンコの方がずっとおなじみなんだけど、ここからはちょうど木のかげになってお尻の部分しか見えない知らない方のために一応書いておきますと、スカイツリーの横に映っている黄色いビルがアサヒビールの本社で、その横の低い建物の屋上にデカい金のウンコがでーんと載っているのでございます。ビール会社のオブジェだから、あのウンコはビールの泡を表現していると聞いてたんだけど、あらためて調べてみるとビールの泡ではなく(もちろんウンコでもなく)燃えさかる炎を表現したもので、アサヒビールの心の象徴なんだとか。しかもデザインしたのはフランスの著名なデザイナー、フィリップ・スタルク氏だというんだからオドロキ・・・色といい形といい、ウンコにしか見えないんだけどえ~、ウンコはともかく、浅草駅は大川(今は隅田川という)のすぐ近くにある。両国のあたりも大川端は整備されてたし、浅草なら川沿いにベンチとかの休憩スポットもあるだろうと思って、確認しに一旦大川に出てみた。浅草寺を見終えたら寛永寺に行く前にどこかで腹ごしらえをしたいんだけど、大川端に休憩できるようなところがあればパンか何かを買って水辺で食事を摂ろうかと思ったのだ。が、駅周辺ではあいにくいい場所は見当たらなかった。ちょっと歩けば見つかったかもしれないけど、今日はそんなにのんびりしている訳にもいかない。仕方ない、大川を眺めながらのランチは諦めるしかないな・・・それで、向きを変えて商店街を歩き出す。 まだお店の開く時間じゃないので、さすがに人は少ない。少し歩くと、前方でガイジンたちが写真を撮っていた。 あ、ここのようだな。浅草寺に行ったことがあるとは言ってもかなり以前のことで、しかも数えるほどしか行ったことはない。当然今とは全然視点も違うし、ゆえに「初めての経験」と何ら変わることはない。それで、ガイジン達のところまで歩いていってみると、浅草寺に行ったことのない人にもすっかりおなじみのあの門があった↓。 【雷門(風雷神門) 天慶5年(942)、平公雅(きんまさ)によって創建されたのが始まり。 門の正面向かって右に「風神」、左に「雷神」を祀る。このことから「雷門(風雷神門)」 と呼ばれる。ともに鬼面蓬髪、風袋を担いで天空を駆ける風神と、虎の皮の褌を締め連鼓を 打つ雷神の姿は、お馴染みのものである。また、門の裏側には、向かって右に「金龍」、 左に「天龍」の龍神像が祀られ、これら四神は、浅草寺の護法善神として、伽藍守護・ 天下泰平・五穀豊穣の守り神とされる。 現在の門は、慶応元年(1865)の浅草田原町の大火で炎上した門に替わり、昭和35年 に松下幸之助氏のご寄進により復興された。浅草寺参詣の入口にあたる「総門」として、 また、東京・浅草の顔として全国的に有名。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)という訳で、パナソニックの松下氏による鉄筋コンクリート製の再建門。古くはこの場所ではなく、もっと南の駒形にあった門で、火災による焼失と再建を繰り返して慶応元年の焼失以降約100年再建されなかったのが、昭和に入って新しい浅草寺の顔としてお目見えしたもの。ウィキによると、「浅草観音に祈願して病気平癒した報恩のために寄進したもの」なんだそうな。雷門のシンボルがデカい「雷門」の赤ちょうちんだけど、これも松下電器産業からの寄贈。浅草寺の裏にある浅草神社の祭礼「三社祭」と、台風の時以外には畳まれないというツワモノのちょうちん。ま、これが開いてないと雷門てカンジがしないしな。しかし、10年に1度はこのちょうちんが姿を消す。ちょうちんの張り替えの時には実物に代わってちょうちんの写真のシートが架けられるそうで、2013年の張り替えの時には約2ヶ月シートが代役を務めたらしい。その張り替えも松下が受け持つんだそうな。重さが700kgもあるそうだから、張り替えも大変だろう。雷門の焼失は江戸期の火災によるものだけど、その他にも浅草周辺も確か東京大空襲とかの戦災にあってるし、都内の寺院に再建の伽藍が多いのは致し方ない。もちろん古建築が残ってればベストだけど、再建された建物でも面白いものはある。湯島天神の蟇股群なんか見応えあって写真撮りまくりだったしな~。火災といえばわたくしの食いつきポイントですが、雷門の前の道は「浅草広小路」だそうな。明暦の大火の後、各所に火除地としての広小路が作られたと「本所Wデビュー(28)」で紹介しましたが、たぶん浅草の広小路もこの一連の流れの中で作られたんだと思う。明暦の大火では浅草も本郷から出た第一陣の火によって被害が出ているけど、浅草寺までは届かなかった。保科正之が噂で聞いた浅草門付近の大勢の大火の犠牲者というのは、浅草寺より南の浅草橋にある見附の門を閉め出された人達のことで、罪人が脱獄したという誤報を受けて浅草門が閉じられてしまったので、逃げ場を失った市民がそこで多く犠牲になったと言われている。ちなみに両国・下谷(上野)・浅草の3つの広小路を「江戸三大広小路」とも呼ぶらしい。でもそれぞれが回向院・寛永寺・浅草寺という大寺院の門前にあって賑わった場所なので、繁華街という意味合いの「三大」だろうと思うんだけど。では、広小路に面した風雷神像から紹介していきますか。あみあみのフェンス越しなのであまり映りはよくないですが、まずはこちらが向かって右側の風神様↓。 こちらが雷神様↓。 風神と雷神の門だから「風雷神門」が正式名称なんだけど、江戸時代から「雷門」と呼ばれていたらしい。で、これが赤ちょうちんの下面で↓ 龍だ・・・立体的な彫刻が迫力ある。門をくぐって歩いている時、脇にこんなものがあるのが目に入った↓。 おお~、デカい寄進をするとこうやって名前が残せるんだな。そもそもわたくしがこの日寛永寺に招かれたのも、微々たる寄進のゆえだし。 さて、門の裏側にも2体の像がある。説明文の通りならば、向かって右側のこちらが「金龍」だろう↓。 おや、なんだか端正なお姿・・・護法善神としてはいいビジュアルだけど、なんでこれが龍?と思ったら、 光背にで~んと龍が描かれていた。それに、脇から見ると うしろの着物の裾からにゅきっと持ち上がっているものがシッポに見えなくもない。(ホントに尻尾かは不明です)そう思って見てみると、金龍が左手に持っているボールは龍の持つ宝珠なのかもしれない。で、こちらが向かって左側の「天龍」↓。 こちらは無表情の金龍と違って、武張ったスマイルがチャーミング↓。光背に龍を背負っているのは金龍と同じ。 金龍と天龍の像は開帳1350年を記念して彫刻家の平櫛田中氏が制作したものだそうな。そもそも浅草寺の山号は「金龍山」。寺伝によると、御本尊の観音様が現れた時、金龍が寺の周辺で舞うと一夜にして千株もの松林が生じたという伝承がある。現地でもらってきたチラシによると浅草寺には3つの寺舞(じまい)があるそうで、 3つのうちの1つが「金龍の舞」。 (チラシより)これだけ見ると中華街かおくんちかってカンジですが(笑)、昭和33年の本堂再建を記念して始められたのがこの舞だそうで、参詣の際にまずくぐる雷門から龍づくしは始まっております。にほんブログ村
2016年11月05日

このところ、なかなか更新ができなくて申し訳ありませぬ。今回は久々のカレー行きます。 箱の裏側には【京都玄琢の料亭「雲月」の技法に習い、吟味した素材を使用し、調理しました。】とある。これは近所のスーパーで買ったものだけど、料亭のカレーってどんなだろう・・・でも以前食べた山椒のカレーはちょ~おスパイシーだったしな。でも料亭のカレーだぞ・・・しばらく陳列棚の前で悩んだあげく、意を決してカゴに入れました。開けてみるとさらっとしたスープカレーってカンジで、あんまりカレーって感じもしないし、前の山椒カレーほど辛くはなかった。それなりにスパイシーではあったけどね。それより、具が多かった。特に玉ねぎが沢山入っている。「お好みで、うどんなどにかけてもおいしく召し上がれます」とあるけど、これだけ玉ねぎが多ければ確かにうどんカレーもいいと思う。美味しかったのでこれは気に入りました。具が多いといえば、確かこれもそうだったな↓。 パッケージがお子ちゃまっぽいのでどうかと思ったけど、なかなか美味しかった。きのこ大好きだし。たいていのレトルトカレーは「チン」ができるんだけど、具材が大きかったりすると破裂するからチンはだめで、湯せんオンリーになる。わたくしがレトルトカレーを食べるのは休日の朝ばかりなので、朝から地道に湯せんするってめんどくさいんだけど、これも湯せんオンリーのカレーでした。具材に飛び付いたといえば、これもそうだな↓。 鴨肉は脂っぽいけど、わたくしは好きなんだよな。マッシュルームも好き。そしてカレーマルシェから出ているとくれば、ハズレのハズがない。箱の裏には【「カレーマルシェ」はビーフとマッシュルームが入った、生クリーム等の乳製品の まろやかさが特徴の欧風カレーとして、長年親しまれています。 その中で「カレーマルシェ スペシャリテ」は欧風高級カレーとして、こだわりの 食材とプロの技を使っておいしさを磨き上げました。 オレンジでマリネした鴨肉の旨みと、オレンジピールのさわやかな香りがソースの コクを引き立てたこだわりの逸品です。】とある。カレーマルシェはもう30年ぐらい続いてるのかね。息が長いだけあって、これもコクがあり美味しかったです。ただ、オレンジはわからなかったけど。こちらはお手頃なお値段の「カレー職人」シリーズ↓。 安いからといってあなどるなかれ。ふわふわ玉子がやさしい味わいで、とっても美味しかったです。ただし、甘口なのでスパイシーさを求める人には物足りないかもしれない。わたくしのようなお子ちゃま向けとも言えるでしょう。これはリピ確定。こちらは生協で取り寄せたにしきやさんのカレー3種↓。 どれも個性的で美味しかった。レモンクリームのは黄色っぽいホワイトカレーで、カレー好きには「これがカレーか?」ってカンジかもしれないけど、ホワイトカレーってのはたいていそんなもんです。レモンクリームのカレーは、仙台に行った姉も土産に買ってきてくれたので、場所によっては店頭にも出回っているらしい。カレーじゃないけど、シチューやグラタンに使うホワイトソースは意外にレモンが合います。鎌倉のとあるレストランでランチにえびドリアを食べた時、スライスしたレモンが上に載っていて、スプーンでつぶして食べてくださいと言われた。ええ~、レモン!?と思ったけど、つぶしてまぜまぜすると確かに美味しかった。意外な組み合わせだったので、会計の時にとっても美味しかったと伝えたら、奥さんは嬉しそうにしてました。鎌倉編はそのうちアップしますが、順番通りに行けば相当先の話になると思うので先にここでご紹介しておきます。興味のある方はぜひやってみてください。スーパーのカレーでやっちまったのがこちら↓。 「金沢のシーフードカレー」。・・・そういう認識でぽいっとカゴに入れて、例によって休日の朝食べようとしたところ、温め方を読んでいてはじめて「カキのカレー」だということに気がついた高かったのに、コレ・・・しかし、あらためて外箱を見てみれば青い帯の「シーフード」の文字の隣にちゃんと「能登かき使用」と書いてある。イメージ写真にもばっちりカキが映っている。なんというミステイク。しかし、何をどう頑張ってもこれはわたくしには食べられない。ので、泣く泣く家族に譲りました。後から感想を聞くと、「美味しかった」らしいです。ふん・・・もひとつ、やってしもうたスーパーのカレーがこちら↓。 これが2つ並んでたんだけど、な~んかこのシリーズ、以前買ったことがあるような・・・でも、初めて見たのを見つけても全部が全部ソッコー買ってる訳でもないしな。「初めて」さんがいくつもある場合、時には買わずにおくものもあるのでその類かもしんないし・・・てことで、迷ったあげく2つともカゴに入れたんだけど、後から過去の記事を探してみたところ、やっぱりポークの方は「4」で食べたやつだったまあ、100種類以上食ってりゃこーゆーこともあらぁな。でも「黒豆チキン」の方はお初。【ハバネロのキレのある辛さと、こだわりの富良野産玉ねぎ、富良野産黒豆の旨味・鶏肉の コクが合わさったスパイシーながら上品な辛口カレー。化学調味料不使用、ベーシックな 原料だけを使用し、仕上げました。】 (パッケージ裏面の説明)えっ、辛いの・・・?チンする段になって初めてスパイシーだということに気が付いたので食べる直前になってビビりましたが、確かに辛かった。辛いのが好きな母親も、「ずいぶんスパイシーねえ」と言っていたので間違いなく辛かったんだと思う。この時、食べる前にチーズを載せて焼きカレーにしようか迷ったんだけど、結局チーズは載せなかった。食べながら辛さにハアハアしてきたので、やっぱり今からでもチーズのっけようかな~と考えながら食べ続け、結局最後までチーズは載せなかった。この前日は帰りも遅くて、精神的にもかなり疲れていた。おまけに本格的な秋の空気に変わって急に寒くなってきた時期で、変温動物のわたくしはこーゆー時は再び布団に入ってゴロゴロしがちなんだけど、この日はなんだか妙にやる気がみなぎっていた。もしかして、辛いカレーのおかげで身体が温まって珍しく身体のエンジンのかかりが良くなっているのかもしれない・・・そうだ、きっとそうだ。3年前、初めてTVで「朝カレー」が流行ってるってニュースを見た時も確かそういう理由で流行ってるとか言ってた気がするもんな。てことで、今さらながら朝カレーの効能を実感した次第でございます。それで、すぐさま辛いカレーを買って試してみました。 【チカラみなぎる、こだわりの旨さ たっぷりの炒め玉ねぎをベースに、3種の辛味ブレンドとローストガーリックを きかせ、ビーフの旨みをとじこめた絶品の辛さに仕上げました。南米の活力素材 「マカ」入りの、クセになるおいしさのカレーです。】 (パッケージ裏面の解説より)これはカレーシリーズを始める前の「夏休み日記(2日目)」(上のリンク先参照)などで紹介した「男のカレー」シリーズですが、辛いのでずっとパスしていたものです。パッケージを見るとなかなかの辛さのようなので、買うのには勇気がいりましたが、たしかに辛かった。辛いカレーが好きな母親は、「辛いけどおいしい」と言って喜んで食べていましたが、わたくしは辛いカレーには味は期待しない。ただ、エンジンをかかりやすくさえしてくれたらいいのだ。で、効果のほどですが・・・効きました。やっぱり。この日は体調が悪かったけど頑張らねばならないことが山積みで、それで朝に食べたのですが、これで1日もった。マカの効果もあるかもしれないけど、恐るべし、朝の辛いカレー。翌日はこれ↓。 辛口だけど、割とマイルド。辛さにも少し慣れてきたのかもしれない。母親は男のカレーの方が印象深かったようで、「昨日のが美味しかったわね」と言っていた。次の朝はこれ↓。 こちらは辛口じゃないけど、コープとエスビーの共同開発品だそうで、インド風カレーというだけあってスパイスがきいていた。これもまずまずの効果だった。最近は以前ほど朝カレーを食べなくなってたんだけど、本格的な秋を迎えて気温が下がってきたせいか、はたまた老齢により身体の衰えが加速しているためか朝カレーの効果をはっきりと実感したので、ブームが再燃しつつあります。ただ、しばらくは辛口が中心になっていくでしょう。たしか、カレーマルシェからも大辛が出てたよな・・・(←狙ってる) 失敗じゃないけど、ちと肩すかしだったのがこちら↓。 パッケージと「国宝」の高級感に惹かれてカゴに入れた。箱には【食べられるハンガリー国宝マンガリッツァ豚。赤身の旨みと脂身の甘みを 楽しめるようにカットした肉とマッシュルームを使用した欧風カレーです。】とある。んが、結構フツーのカレーだった・・・んじゃ、あとはサクッと。だいぶ前に食べたのでもう覚えていないものもあるし、まだ食べてないものもこちらに含めておきます。 最後の道産肉シリーズのうち、牛すじは今朝食べた。大きめのやわらかい牛すじも入っていたし、コクがあった。美味しいには美味しかったけど、なんてゆーのか・・・「美味しいと素直に言えるレトルトカレー」を作るのって大変なんだな、とも思った。我が家は味噌汁でもシチューでもカレーでも、汁ものは山吹汁ではなく具だくさんなのが伝統。なので、レトルトカレーを食べる時も、味のよしあしももちろんだけど、具材の多さも判定に影響する場合がある。具が沢山入ってると、「食べたあ~」って気がするんだよね。で、牛すじのカレーは牛すじ以外に具らしい具はない。味は良いんだけど、食べててなんかさみしい気がした。お世辞の言えないタチのわたくしが100食以上食べてきたレトルトカレーの中で手放しで称賛してきたカレーってそう多くはない。リピしようと思ってるカレーは10本の指で充分足りる。もちろん個人の嗜好の問題なんだけど、なかなか奥が深いな~と牛すじしか入っていないカレーを食べながらあらためて思った次第でございます。にほんブログ村
2016年10月10日

りり: 前回は東照宮の拝観料を払いさえすれば見られるVOCの献上品を まとめて紹介しましたが、日光にはそれ以外にも会社からの献上品が現存しているようです。レフィスゾーン: へえ?それは興味あるな。 どんなの?り:現物の写真はないのでここにはお載せできませんが、1671年に献上された ユニコーンの角と「聖遺物箱」が『輪王寺 宝ものがたり』に載ってます。 白黒の写真ですけど、ほらこれ。(と、本を回覧する)ケンペル: ほう、私が来日する20年ほど前の献上品か。 ユニコーン・・・一角(イッカク)の角はずいぶんと長いままが、未使用なのか? (イッカク:国立科学博物館『海のハンター展』より)金仁謙: ・・・これをどうやって使うというんだ?ツュンベリー: 日本人はイッカクの医学的効能・効果を、寿命を延ばし、精力をつけ、記憶を増進し、 どんな愁訴にも効くと誇大に考えていたんだ。 そういう事情を我々が偶然知ってからは、注文できる限りのイッカクを ヨーロッパから取り寄せて日本で売り、莫大な利益を挙げた。 イッカクは以前は頻繁に密輸され、信じられないほどの利益をあげたそうだよ。り:利益に目がくらんでそうやってヨーロッパ人が色んな生き物を見境いなく乱獲するから、 絶滅の危機に追い込まれた動物たちが沢山出たんですよ。 反省しなさい、反省。申維翰: しかし、倭人だって喜んで密買していたのなら、オランダ人ばかりを責められないだろう。り:ふん。 『宝ものがたり』のイッカクの解説には、【今日まで長いままということは使用法がよく わからずにしまわれていたのかも知れません】とあるんですけど、 申さんの前の通信使が1711年に来日した際に、毛利吉元に贈った品々が 県立山口博物館に現存しています。金:どのような品だ?り:黒麻布・黄毛筆・真墨・色紙・栢子・硯石・扇子といった品々のようです。 このほか、朝鮮人参もあったようなんですが、それだけは使用されて残ってないらしいです。 てことは、使えるものは使ってしまおうというスタンスもあったと思われるので、 イッカクがそのまま残っているということは、『宝ものがたり』が推測しているように 使い方がわからなかった可能性もありますね。 もっとも、日光への献上品だから使おうという意識が湧かなかったのかもしれませんが。 イッカクと同時に献上された聖遺物箱の方は、カラーの写真もありますよ。 (と、『日光東照宮と将軍社参』を回覧する)ツ:ほおお~、全体的にシックな色合いにまとめられているな。 この下に日本語で書かれているのは解説文かな? ドゥーフ君、ちょっと読んでくれないか?ズーフ: どれ・・・ 【聖遺物箱は寛文11年(1671)、家光の21回忌にユニコーンの角などとともに オランダから献納された箱で阿蘭陀箱ともいわれる。周囲を象牙で覆った木製の箱は 宮殿を模し、蓋上には金工で旧約聖書ダニエル記第13章「スザンナと長老たち」の 図柄がレリーフされる。側面にはグラビュール技法を用いて草花や人物などを彫刻した ガラスが嵌められ、箱底にはラピスラズリなどの宝石が埋め込まれる。本品は美しい 宝石でスザンナを象徴し、側面の透明なガラスで真実は全て白日のもとに晒されるという 聖書の一説を具現化した工芸品である。】 (「日光東照宮と将軍社参」企画展図録(徳川記念財団・江戸東京博物館)より)申:もとになったのは一体どういう話なんだ?レ:裕福なユダヤ人の妻スザンナは、庭で水浴をする習慣がありましてね。 それを知った2人の長老は、よこしまな思いを持ってスザンナが1人で 水浴しようとしている時を見計らって近づき、自分たちと関係を結ばなければ お前が若い男と密通しているのを見たと公言してやるぞ、と脅したんです。 当時、姦通罪は死刑に相当する重罪でね。 ところがスザンナはきっぱりと彼らをはねつけ、大声を上げて助けを求めました。 願いが果たせなかった長老たちはその腹いせに、スザンナを脅迫した通り 彼女が密通しているとウソの申し立てをしました。 法廷に召喚されたスザンナには有罪の判決が下り、死刑宣告をされてしまいますが、 そこへ青年ダニエルが登場して彼女の無実を証明する、というお話です。り:もっとも、芸術家たちにとってのスザンナは女性の裸体を描くための 格好の題材だったという話もありますけどね。金:なぜそのような話が関白の墓所に納められたのだ? ちょっとこの絵は小さくて、どういう図柄になってるのかまでは確認できないが・・・ (と、食い入るように写真を眺める)ズ:いや、「本品は美しい宝石でスザンナを象徴し」とあるから、 スザンナの水浴の場面をそのまま描いているのではないのだろう。 そもそも当時の日本では宗教に関する本やロザリオ・キリスト像・聖母マリアの絵など、 信仰を表わすすべての物を持ちこむことは厳禁されていた。ツ:本の持ち込みは自由だが、宗教に関する本はすべて、特にそのなかに銅版画の 挿し込みがある場合は持ちこむのは非常に危険だったな。り:持ち込んだ物が宗教関係かどうか、判別できる日本人がいたんですか?レ:日本人にはキリスト教は禁止されたけど、隠れキリシタンを除く日本人が キリスト教をまったく知らなかった訳じゃない。 商館を平戸から長崎に移すよう命令した当時の大目付・井上政重殿などは 宗門改という役目柄、キリスト教には精通していたと聞くよ。 その他にも、目利(めきき)がいる。り:目利?レ:前時代にはキリストや聖母像などの聖画をはじめとする、いわゆる南蛮画がもたらされた。 肥前有馬では、天正8年にセミナリヨがつくられ、ここで絵画教育が行われ、 多くの銅版画が作成され、いわゆる南蛮絵師が出現した。 その後、弾圧の時代になると絵師は絵筆を折り、急速に衰えた。 ところが長崎ではこれらの伝統のうえに立って、絵師が細々とながら生き続けていた。 その彼らが地役人に取り立てられて「唐絵目利」と「出島御用絵師」となって復活した。 唐絵目利というのは、日本に輸入される絵画を、キリスト教と関係がないかどうか、 あるいはその価値について検分するのが一つの重要任務だった。 その検分は、単に中国からだけのものでなく、オランダからのものも対象とされた。り:ほお~。ズ:それだから、毎年日本に来るオランダ船の船長は、信仰を表わすすべての物を 箱に入れさせる義務があった。 この箱は船上で検使が封印するが、陸揚げし、出島に運ばれた後は船の出帆まで 出島乙名が保管し、出帆の前に封印されたままの状態で船に運ばれて返還される。り:武器類と同じ扱いってことですか。「危険物取扱注意」だな。ズ:それでも、私の時は新旧訳聖書や詩篇は自由に持ちこめた。 オランダ人が日本で守らなければならないことは、本の封印と、人員点呼だけであり、 これは多くのカトリックの国で、オランダ人が礼拝をするために受ける弾圧より はるかに少ないものだ。り:そもそも、スペイン人やポルトガル人が日本から追い出されたもっとも大きな要因と 考えられるのがキリスト教でしたからね。 この聖遺物箱がスザンナの話をそのまま表現したものだったら、 目利のチェックに引っかかって献上どころか日本に持ち込めなかった可能性も ありますよね。 別の言い方をすれば、キリスト教関連ってバレたら大問題になるとわかっていながら 持ち込むオランダ人も相当ふてぶてしいっつーか。レ:ふふっ。 まあ、これだけ美しい品だし、ちゃんと日光に奉納されたんだからいいじゃないか。 ところでこっちの白黒のページには美しい皿のようなものが見えるけど、 これも日光の所蔵品かい?り:あ、それも渡来品のガラスのお皿らしいです。 ちょっとどこから贈られた品かはわからないんですが・・・ 皿の真ん中に何か文字が描かれてるんですけど、ちょっと虫眼鏡で見ても なんて書いてあるのかよくわからないなあ・・・ツ:どれ?貸してごらん。(と、虫眼鏡と「宝ものがたり」を取り上げる) う~ん、確かに読みづらいなあ・・・ それより、文字の下にある絵はキリストとエンジェルのように見えるけど・・・ いや、胸を布で隠してるから女性かな? 少なくとも、エンジェルは間違いないな。 これは「ヤバい品」に該当するんじゃないのか?り:でも、この皿は天海の所蔵という伝承があるらしいです。 天海の没年は1643年だから、キリシタンの弾圧が激しくなる前の舶来なら 問題はなかったかもしれません。 あるいはポルトガルからの献上品だったかもしれませんよね。 『宝ものがたり』によると、この他に鼈甲の燈籠もオランダから献上されたようです。 写真が載ってないので、現存するのかはわかりませんが。 鼈甲の燈籠なんてどんなだろ? たぶん、材質から言ってそう大きくはないランプのようなものなんじゃないかと思いますが。 残ってるのなら見てみたいよな~。ツ:会社が持ち込む品には会社の商品として販売する品と、個人が私貿易で売る商品があった。 スマトラ樟脳と鼈甲は会社が貿易の権利を有しているので、私貿易は許されなかったんだ。り:へえ~。 ちょっと話はずれますが、静岡の東照宮にあるイエアスの遺品の中に 鼈甲の鼻眼鏡の枠があるらしいですよ。 それもオランダ人から献上されたという伝承を持っています。ケ:ほう、本当に日本人はもの持ちが良いな。レ:会社からの日本の輸入品のうち、ガラス製品では眼鏡が輸入の頻度と数量で最高だった。 とりわけ鼻眼鏡が多い。 鼻柱を挟んで使う左右2つレンズの蔓なしの眼鏡で、老眼鏡だよ。 これは50歳用から100歳用まである。 ほとんど輸入しない年がないほどで、主として江戸で売った。 多い年には500個を超える販売がある人気商品だ。 お前がさっき使っていた虫眼鏡もこの時代には読書に用いられたので輸入は絶えないな。 これは初め、「虱のめがね」といった。申:虱を取るための眼鏡ということか?レ:申さん、察しがいい(笑)。 船の船員などが、体についた虱をとるのに使っていてね。 日本人はこれを「虫眼鏡」とうまく訳して、読書に用いた。 それで我々ものちには「読書用のめがね」と書き改めるようになったんですよ。り:1636年の段階でポルトガル人がもたらしたものの中に「鼻眼鏡 19,435個」が ありますね。 江戸初期から鼻眼鏡は日本人にとって必需品レベルだったようですね。 ちなみに、同じ年のポルトガルからの輸入品に「魚取り用糸」があって、 1,244,900ってすごい本数なのが笑えますね。 ・・・え~と、じゃあついでに日光にある朝鮮からの献上品も紹介しますかね。金:ついでとは何だ! 無礼な!!り:じゃあ、紹介しなくていいですか?金:むっ・・・・・・・・ 生意気な。 またこらしめられたいのか?り:死人なんかに負けるかよ! 生きてる人間の情念の方が強いに決まってんだろーが!!ツ:お~い、こらこら。 意地悪しないで、見せてやりなさいレ:そうだよ、きっと素晴らしいものだろう。 ね?申さん。申:もちろんだ。 さっさと見せろ、倭人。り:ちっ、えらそーに・・・ じゃあこれ。 これがVOCのスタンド型燈籠の隣にある朝鮮鐘↓。 ・・・・・あっっっ!!ケ:なんだ、どうした?り:撮りもらしたと思ってた1640年献上のブラケット型灯架が 隅っちょに映ってるう~!!レ:えっ、どれ!?り:ちょっと見づらいけど、隅っちょだけ拡大しました。 ツ:なるほど、確かにブラケット(壁面に取り付けた照明器具)だ。 これが12本取り付けられているという訳か?り:たぶん。 今度行ったら必ず綺麗に撮ってきますね。ケ:だが、確か日光へは4~5日ほどかかるんじゃなかったか? そんなに気軽に行かれるものなのか?り:現代ならうちから3時間ほどで行かれます。 充分日帰り圏内ですよケ:ほお、300年ほどでずいぶん技術も進歩したようだな。申:それより鐘の紹介をしろ。り:へいへい。 鐘を吊るしている上屋にはこんなのが付いていて たぶん、特徴からしてこれは獏(ばく)だと思われますが、 VOCの回転燈籠の上屋にもよく似たものが付いているので↓ 日本側で建造したものかもしれませんね。 ちなみに獏は 【『白氏文集』によれば、獏の食料は鉄や銅で、世の中が乱れている時は、食料となる 鉄や銅が武器になってしまうので、武器を必要としない、平和な時代にしか生存できない 動物である、と記されている。】 (『東照宮再発見』より) ということで、特に東照宮の御本殿に集中して用いられているのは、徳川によって 平和な時代がもたらされている象徴だと考えられる、と高藤氏は解説してるんですが、 回転燈籠も朝鮮鐘も銅製なんだから、銅が大好物の獏にこれらの献上品を 守らせるっていうのも何かおかしな話ですよね。申:どのみち獏は想像上の動物だ。 現実と混同しておかしなツッコミ入れるんじゃない。り:冗談の通じない石頭め・・・ 雨森東(雨森芳州)も苦労しただろうなツ:あ~、もう・・・ どうしてお前たちはそう仲が悪いんだ。申:無礼な倭人は適宜こらしめる必要がある。 オランダ人も言われっぱなしにしないで、少しはやり返したらどうだ。ツ:仲裁に入って朝鮮人にカウンターを食らわされた・・・ 割に合わないり:ツンさんが可哀想だから、話を続けてあげる。 これは1642年の作で、翌1643年に来日した第5回の通信使が 日光に参詣して奉納したものです。 江戸期に12回行われた朝鮮通信使のうち、3回の使節が日光を訪れてますが、 最初がノイツを救った灯架が献上されたのと同じ1636年。 2度目がこの鐘を奉納した時で、同じ年にVOCの回転燈籠が献上されました。 3度目が1655年で第6回の通信使が参詣しました。 『宝ものがたり』によると、初回の参詣人数は214人で3度目は322人。 2度目の人数はわかっていないらしいですが、まあ300人前後でしょう。 「(2)」でも話したように、朝鮮通信使はこういう楽人やら↓ (以上3点の画像は長崎歴史文化博物館展示資料「朝鮮国信使絵巻」より) 珍奇な朝鮮人で構成されていたので、どこでも日本人に大人気でね。 現代でも通信使のパレードを模した「唐人おどり」が各地に遺されているんですが、 1814年に描かれた『東照宮御縁起』(日光輪王寺所蔵)にも 1636年の通信使参詣の様子が描かれてますよ。 ポルトガル人は遠く東北まで布教の手を伸ばしていたようですが、 「鎖国」が完成してからはオランダ人も琉球人も東上しても江戸止まりだし、 中国人は、と・・・ケ:中国人も我々のように参府を望んでいたが、彼らには許されなかったんだ。り:だから、江戸より西の街道沿いでは比較的ガイジンを目にする機会も多かったけど、 江戸より東になるとそういう機会はなかったから、朝鮮人の日光詣ではさぞ 東国人の目を惹いただろうなと思いますね。ツ:そういえば、1636年に朝鮮人が来た時には商館の助手のダニエル・レイニエルセンが 一行を目撃したそうだよ。 え~と、これは日本の暦でいうと1636年の年末のようだな。 長いからレイニエルセンの報告を要約すると、1637年1月4日(←西暦)に 朝鮮の2人の大官が通信使一行と多数の日本人貴族を従えて江戸に到着した。 まず舞踊や笛、太鼓の奏楽があって、その後に稲を打つ時のような大きな棒を持った数人が 2人ずつ道の両側を進む。その後には赤いのぼりのついた槍を持って馬に乗った若者が続き、 その両側は金と生糸をより合わせた綱を持った3人が警護する。 その後には小さな赤い幟を手に持って中国人のような着物を着て幅広の縁のついた馬の毛の 黒い帽子をかぶった30人の若者が馬に乗って続く。 それに続くのが国書だ。 これは内側に赤いビロードを張った駕籠で、5~60人に担がれていた。 しばらくするとまたあらゆる種類の楽器の奏楽が来て、青い幟を持った騎馬の若者が続く。 それに青い幟を持った30人の人々が続き、黒い繻子の着物を着た副使が駕籠で通る。 しばらくすると鋭い槍を持った約400人の騎士が続く。 これは正使の護衛だ。正使は一行の真ん中を黒い漆塗りの駕籠に乗って進んだ。 その後には同様の供が続き、それから15分ほどすると約200人の日本人護衛が 鉄砲や槍を持って1人ずつ続いた。 その後には使節の供をする日本の領主が乗る8~10挺の乗物が続き、駄馬に乗った 日本の貴族の一行が続いた。 最後に朝鮮人の荷物と贈物を運ぶ駄馬が約1000頭続く。 これらすべてが通り過ぎるのに、約5時間かかったそうだ。 日光へ参詣した朝鮮人自体は214人でも、多数の日本人の護衛も同じように 付いただろうから、これと同じような長い行列が日光まで続いてったんだろうな。り:この時、カピタンのクーケバッケルは先に平戸に帰ってたけど、レイニエルセンと通詞、 それから3人のラッパ手は江戸に残してたんですね。レ:そうだね。 ラッパは日本人には気に入られたらしいけど、朝鮮人の一行の到着が近付いていたためか なかなか平戸へ帰る許可が得られなかった。 平戸候の推測では、将軍は朝鮮人の歓迎の宴会で我々のラッパを 余興に使うつもりだということだった。 でも船の入港が近づいていたので、ラッパ手らを残してクーケバッケルは先に帰ったんだが、 結局平戸候の差配によってラッパ手が宴会の余興に使われることはなかった。り:惜しかったよな~。 うまくすれば、江戸城でオランダ人と朝鮮人の夢のコラボがあったかもしれないのに それで鐘ですが、 現代の日本の寺院で見かける鐘よりは小ぶり。 真ん中らへんにはこんな絵が彫られていたり↓ 下部には銘文が刻まれています。 『東照宮再発見』によると、 【鐘の表面には道教の神や、鶴に乗った仙人と思われる像のレリーフが施されているが、 残念なことに、これらの意味は未だ解明されていない。】 だそうです。申:絵の部分をもっとよく見せろ。 余が解明してやる。り:それがねえ~・・・ この鐘の周りにも柵があって全方面から撮影することができなかったので、 すべての絵をお見せすることができないんです。申:なんだ。 つまらんり:で、これが鐘の上の龍頭の部分ね↓。 この鐘には、見たところ撞木が付いてません。 もしかしたら、日光に着いて1度も鐘を撞いたことがないのかもしれませんね。 さっきもお話ししましたが、これはVOCのスタンド型灯架の隣にあります。 灯架の向かいには参道を挟んでノイツの灯架と回転燈籠があります。 つまり、入口から奥へ進む参道の向かって左手前にノイツの灯架、 奥に回転燈籠があって、向かって右手前にスタンド型灯架、奥に朝鮮鐘があるという 配置なんですが、『日光御宮総絵図』という境内の古絵図にも 同じ場所にこの4つの献上品が描かれているんです。 ただ、この絵図がいつ描かれたのかわからないのが痛いところなんですが、 江戸期のある時期から現代まで4つの献上品は同じ場所に置かれていたとは言えるでしょう。レ:へえ~・・・ あ、ホントだ。 ちっちゃく4つ、ぽつぽつとそれらしいものが描かれているな。り:さて、それじゃ東照宮を奥へ進みますね。 御本殿の前を通過して山道に敷かれた石段をず~っと登っていくと、 奥宮として東照大権現となったイエアスの墓所があります↓。 ここは当然、山内でもっとも神聖な場所ですが、江戸期に東照宮ができる以前から 神聖な霊域だったんじゃないかとわたくしは思っています。 (「史跡探勝路14」参照) ま、それはともかく、これがイエアスの墓↓。 ズ:これが墓なのか? 我々が見た日本人の墓とはだいぶ違っているが・・・り:わたくしの知る限りでは、歴代将軍はみなこのスタイルですね。 将軍正室でもこういうタイプの墓の人がいますが。 イエアスの墓の正面には立派な門があるんですが、その門は閉じられていて 現代の参拝者は脇から上がって墓所の周囲をぐるっと一周するようになってます。 なので、写真も脇から撮るしかないのですが、墓の真ん前にはこういうものがあります↓。 ケ:? よくわからんが・・・り:拡大したのがこれ↓。 手前から燭台・香炉・花瓶で三具足と言われるものです。 反対側から見たのがこちら↓。 これは朝鮮鐘と同じ1643年に献上されました。 申:おお、何と・・・!!り:でも残念ながら、今あるこれは朝鮮国から贈られた本物じゃないんです。 皆さんも日本滞在中に火事を見たり、中には危ないところをどうにか逃れた方もいますが、ケ:ああ、あの時は本当にどうなるかと思ったよ。ズ:私もだ。まさか参府中にあんなことになるとはな・・・金:私は山火事に遭ったんだ!り:日光山内も何度か火災がありましてね。 1812年も終わりというところで、東照宮の別所から火が上がって、 かなりの被害をもたらしたそうです。 その時に、三具足も焼失したそうなんですよ。金:な、なんだと・・・! 我が国王に対して、失礼極まりない!!り:火事なんだからしょうがないでしょ それで献上品を復元したのが現在奥の院にあるものらしいです。 まあ、朝鮮鐘が無傷だっただけでもよかったですよ。 3回の朝鮮通信使参詣のうち、2度目と3度目は公式に東照宮と家光の眠る大猷院への 参詣が行われ、その分立派な奉納品も沢山あったと思われますが、 東照宮の方は焼失したものもあったものの、幸い大猷院の方は結構奉納品が 残っているようで、「明暦元年朝鮮通信使関係資料」として大切に保存されています。 これも写真はここにはお載せできませんが、日光輪王寺境内にある宝物殿で販売している 『日光山と徳川400年の文化』に写真が載っていますので、読者の方は そちらをお求めくださいね。 「日光文化財愛護少年団育成会」様のサイト『わくわく!日光の社寺たんけん』にも 写真がいくつか掲載されてますので、そちらもどうぞ。(リンクはこちら)ツ:? また何か訳のわからないことを・・・り:ぶつぶつ言ってないで、ホラ、これ見て! (と、『日光山と徳川400年の文化』を回覧する)申:この書の朱印は国王印ではないか! ということは・・・り:時の李氏朝鮮第17代国王・孝宗の自筆による御額字(おんがくじ)だそうです。金:は・・・はあああ~~~~!!(←腰ぬけた)り:ぱっと見、とても楽器には見えない品の写真も載ってますが、 10種の朝鮮の楽器も奉納されたそうです。 今ではそのうち、4つしか残っていないようですが。申:御額字の下に見えるこれは・・・祭文(さいもん)か? これも現存しておるのか? 祭文ならば、儀式終了後に燃やすのが通例であろう。り:ところがね、これは日本側の要請によって保存されたんだそうです。 だからこれも歴史的史料として貴重なものですよね。 あとは大猷院の境内に、銅燈籠もあるようですね。 ちょっと今回は銅燈籠のことを知らなかったので、写真の用意がないんですが。金:銅燈籠ともなれば立派な品だろう。 日光には何度も行ってると言いながら、なぜお前はそのことを知らないんだ。 倭人は虚言が得意だから、お前も見栄張って嘘ついてるだけなんじゃないのか?り:あのねえ~・・・ 前回、オランダ燈籠を紹介した時にこんなものゴロゴロしてると言ったでしょう。 大猷院の本殿前には、諸大名から献上された銅燈籠が何基もあるんですよ。 数えてないけど、10基以上はあったよな。 オランダ燈籠は日本の燈籠とは全然違うスタイルだけど、朝鮮からの銅燈籠は 日本の銅燈籠と変わらない格好をしてるんでね。 ぶっちゃけ、目立つもんじゃないんですよ。 この写真の手前側に燈籠群があるんですけどね。 まあ、そうと知ったからには今度撮ってくるつもりですが、 近年になって大猷院も変な風に整備されちゃって、銅燈籠群には近寄れなくなったので わたくしの満足のいくような写真は撮れないだろうな。 なんであんな整備したろう? 宝物館にせよ何にせよ、貴重なる品々を大らかにオープンに惜しみなく見せてくれるのが 日光のいいところだったのに、テンション下がりまくりだぜ・・・ ぶつぶつ・・・ケ:なんか、雲行きが怪しくなってきたな。レ:不機嫌でりりが暴れ出す前に、いっぺん休憩挟みますか。ツ:私、トイレ行ってこようっと<今回の主な参考文献>『平戸オランダ商館の日記』(永積洋子訳/岩波書店)『江戸参府随行記』(ツュンベリー著、高橋文訳/平凡社東洋文庫583)『輪王寺 宝ものがたり』(日光山輪王寺)『日光山と徳川400年の文化』(日光山輪王寺)「江戸東京博物館企画展 日光東照宮と将軍社参」図録(徳川記念財団・江戸東京博物館)『謎と不思議 東照宮再発見』(高藤晴俊/日光東照宮)『長崎のオランダ商館 世界のなかの鎖国日本』(山脇梯二郎/中公新書)にほんブログ村
2016年10月09日

日朝間の闘争により乱れた部屋で、ケンペルとツュンベリーによるケガ人の治療が行われていた。 ツュンベリー: ほい、治療終わり!ペシッ!!りり: いったいなあ、もう れでぃーに対する思いやりってもんはないんですか?ケンペル: 何がレディーだ。 お前は仮にも司会者だろう? ゲストに手を出すなど、あってはならないことだ。レフィスゾーン: 止めに入った私までひっかくなんて、ひどいじゃないか金仁謙: それはあのサルの仕業だぞ。り:誰がサルじゃ!! だいたい、アンタには発言権は与えてないと言っただろーが!!ツ:あっ、それそれ。 金さん、もういいでしょう。 廊下なんかにいないで、一緒に飲み直しましょうよ~。金:い・や・だ!!レ:強情なんだから・・・ ドクトルも殴られたところが腫れてますよ。 ほら、冷たいタオルで冷やして。ツ:ああ、ありがとう。 誰かさんにも、こういう女性らしい気遣いがあればな・・・り:私はジジイですから。つ~ん。申維翰: こやつは頭も打ったのではないか? 自分の性別もわからなくなるほど、錯乱しているようだぞ。ズーフ: もういいだろう。 店員がテーブルも整えてくれたし、飲み直そう。 ・・・ところで、どこまで話したんだったかな?ケ:ノイツの釈放寸前までだろう。ズ:ああ、そうそう。 我々は辛抱強く交渉を続けたんだが、その都度「ノイツの件はうまくいくだろう」 という日本流の気休めを与えられただけだった。 貿易の件で閣老に大きな誤解を受けていたため、 なかなかノイツの許しを得るところまでいかなかったのだ。 転機は1636年の春に訪れた。 商館長はニコラス・クーケバッケルに代わっていたが、この時クーケバッケルは バタビアに向かっており、上級商務員となっていたカロンが参府した。 平戸候は我々の到着を待ちわびており、彼の貴族を迎えに遣わすほどだった。 カロンは例によって将軍や閣老への贈物を持参していたが、その中には 30本の腕のある銅の灯架1個が含まれており、献上品の目録を平戸候に見せると、 彼は灯架に非常に興味を示し、これを見たがった。 この灯架は非常に美しかったが、日本式に言えばはなはだ重かった。 翌日、灯架を持って平戸候の家に行くと、灯架は大広間の棟木に吊るされた。 すべての人は驚いてこれを見た。平戸候はこの灯架を非常に気に入り、 「これは日光にある大寺院の墓所、すなわち故老皇帝の墓所に使われるだろう」と 考えた。り:うふふ・・・ケ:なんだ、何がおかしい?り:わたくしにお任せください。 その灯架が日光に現存していることを知って、それだけを見に、 過日、日光に行って参りました。ツ:えっ、まだあるのか? え~と、今って西暦何年だ?り:2016年です。 灯架が献上されてから380年になります。レ:さすが日本だなあ~。 で、どんな灯架なんだ?り:ほらこれ。 日光東照宮、すなわちイエアスを祀る神社の境内に安置されてます。 手前にある白い立て看板にはいちおう由来が書いてあるんですが、 文字はほとんどハゲてて、「釣燈籠」ぐらいしか読めません。 これも歴史を物語る史跡なんだから、きっちり看板を整備しとけってカンジですよね。ツ;中にあるのがその灯架なのか? あんまりよく見えないんだけど・・・り:わたくしも、是が非でもよく観察したいところでしたが、 何しろ柵に囲われてて灯架を収めた上屋にも近寄れないんでねえ~。 ロクな写真が撮れないのが残念でなりませんでした。 でもまあ、こんな感じ↓。 幸い、『平戸オランダ商館の日記』にはこの灯架の大きな写真があるので 大体の姿はわかるんですが、この30本の腕全部にローソクをともしたら さぞ綺麗だろうなと思いますね。 今は灯架の下部も台を付けて支えているようですが、上から吊ってもいます。 確かに重そうではあるので、平戸候の家は大丈夫だったんだろうかと 思わず人んちの心配をしちゃいますよ。ズ:灯架は謁見の日まで平戸候の家の広間に吊るされたままだった。 灯架を外すまでの間、これを見に大勢の大官たちが平戸候の家を訪れ、 15日経った時点で客をもてなす菓子や宴会の料理にかかった金は 800テールに上ったそうだ。申:灯架を気に入ったのもあるだろうが、客を迎え入れる平戸の領主の得意な顔が 目に浮かぶようではないか。り:東照宮には、これの近くにあと2つ「オランダ燈籠」として陳列されているものが あります。 日光には長年通っているものの、東照宮にはめったに行かないので こんな燈籠のことは知らなくって、ホントに驚きました。ツ:今は一般人も気軽に東照宮に入れるのか。 なんでお前は東照宮に行かないんだ?り:だって人が多いんだもん。 真冬のオフシーズンでさえ、東照宮には結構人が来ますよ。 えっと、5年前の「世界遺産 日光の社寺」の来訪者数は862万人だと。 「日光の社寺」は二荒山神社と家光の大猷院に東照宮を合わせたものだけど、 同じ山内にある訳だし、フツーの観光客はまず東照宮に行くから、 ほぼこの人数が東照宮の拝観者数だと見ていいだろうな。 震災の後は参拝者が激減したと輪王寺のおじさんが言ってたけど、 5年経ってまた盛り返してきたようですね。ケ:震災? 大地震でもあったのか?り:も~、聞くも涙、語るも涙・・・ 5年前に超巨大地震が東日本で起きて、大変だったんですよ。ツ:日本は地震が多いからなあ。 我々も滞在中に何度も地震に遭って、恐い思いをしたな。り:それだけの数の参拝者が東照宮に行くのに、しかも「オランダ燈籠」は奥へ続く 参道のすぐ両脇にあるのに、ほとんど目立たない存在じゃないかと思うんですよね~。ズ:な・・・なぜだ? 客観的に見て、立派で美しいと思うのだが・・・り:美術工芸品としても、歴史的にも価値は高いと思いますけどね。 ただ、ぶっちゃけ日光にはこんなものゴロゴロしてるんですよ。レ:こ・・・こんなもの?り:東照宮だけでも真面目に真剣にすべてを拝観しようと思ったら、 私なんか何日かかるかわからないくらいです。 フツーの観光客はそんな見方はしないので、ガイドブックに載ってる幾つかの見所を見て さっさと境内を出ていきますよ。 まあ、3つのオランダ燈籠のうち1つはとある理由でそれなりに注目されることも あるようですが、オランダ人と日本人の間で熾烈なやり取りがあったとかの 背景となる歴史を知る参拝客はほとんどいません。ズ:ならば、ここでこの灯架について少し語っておくか。り:ぜひ、そうしてください。 これだけドラマティックで壮絶な商館の歴史を知らずに、 灯架を見た記憶すら残らないなんて勿体なさすぎる。ズ:日本の燈籠は置くスタイルだが、これは釣燈籠なので、平戸候は拝謁の時のために 灯架を吊るす高さ9フィート、幅8フィートの枠を上等の白木で作っておくよう、 我々に命じた。 そして、平戸候に灯架を初めて見せてから約1ヶ月後、いよいよ拝謁の日が近づいたので 灯架を閣老牧野内匠頭信成殿の家に運んだ。 灯架は内匠殿の2人の貴族が宮殿でセットする手筈になっており、我々は 日本人がスムーズに準備できるよう、灯架の至る所に日本語で説明を付けた。 任命された2人の貴族は内匠殿の家で手順を習い、翌日、我々は拝謁のために城に向かった。 1時間経ったあと、灯架とほかの献上品が奥の宮殿に運ばれたので カロンもすぐその後に続けるものと期待したが、2時間待たされたあとで あまり多数の領主が拝謁するためにオランダ人の順番は今日は回ってこないので 宿に帰ってよいと言われた。り:え~、それはひどい。 でもそういう失敗の歴史を踏まえて、大名の拝謁がスピーディーに進行するよう、 習礼をしたりするようになったのかもしれませんね。 商館の歴史はイコール日本の歴史だから、とくに初期の商館の記録は 江戸期の歴史を学ぶのに沢山の示唆を含んでいて興味深いものがあります。ズ:それで結局、次の拝謁日まで2週間ほど待たされることになったのだが、 その間に土井大炊殿がノイツの釈放に反対したことなどを聞かされ、悲観的にもなった。 将軍が日光に旅立つ日が近づいていたので、次の拝謁日を逃したら さらに長いこと江戸に留まらなければならなくなるからだ。 将軍が帰ってきても、1~2ヵ月は寺社での儀式や宴会などさまざまな催しがあるため 少なくとも3ヵ月ほどは待たねばならなくなる。 そこで平戸候は我々の拝謁を確実なものとするための策を講じ、オランダの蒸留酒を入れた 瓶を持ってこさせて平戸候の書状を添え、閣老加賀殿(堀田正盛)あてに送った。 平戸候はさらに牧野内匠殿にも書状を送り、翌日の恒例の拝謁日にはオランダ人を 朝早く内匠殿の家に来させて、そこで城に呼ばれるのを待つようにと内匠殿から 命じられた。 翌日、言われた通りに内匠殿の家で1時間座って待っていると、献上品を持って 奥の宮殿に来るよう呼び出しがあった。城でさらに2時間待ったあと、 「早く、早く」と呼ばれた。銅の灯架は例の木枠に架けられ、他の献上品と共に 将軍の目につくところに置かれた。内匠殿はカロンの上着を引っ張って、オランダ人が どこから膝行すべきか教え、その通りにすると閣老伊豆殿(松平信綱)が 「オランダ人は将軍に拝謁する」 と言葉を述べた。り:この時は智恵伊豆が当番だったんですね。 てことは、信綱も江戸城で灯架とカロンを目にした訳だ。 カロンと智恵伊豆のコラボレーション・・・なんてドラマティックツ:はいはいズ:この間、カロン達は膝行してきた広間に顔をつけて、お辞儀をした。 この言葉が述べられると、立って戸口の方に行くように脇から注意され、その通りにした。 将軍は非常に多数の人々を従え、三段の高座の上に、真ん中に1人で座っていた。 彼から10~12尋の所には誰もいず、オランダ人から15~16尋のところには 多数の領主、貴族が座っていた。り:ん~、やっぱりこの頃からザリガニだったのか。 この年は奇しくも東照宮の神忌21回にあたり、家光は寛永の大造替で 美々しくリニューアルした東照宮でのイベントに出かける直前。 カロンが江戸でザリガニになってた同じ頃、日光では天海がイベントの準備で 大わらわだったんだろうな。 歴史って、知れば知るほど面白すぎる。レ:日光の墓所の改葬についても、平戸の商務員あての手紙でカロンが触れているよ。 【これは以前日本では聞いたことも行われたこともないほど華美に、威厳をもって行われる。 日光の宮殿と建物は非常な大工事で、大きな木、大きな石、大量の銅、銀、金が使われ、 内側にも非常に高価な漆・鍍金を施し、2年以上かかって、今ほとんど完成した。 このために2万8千人以上の職人、人足が働いた。】り:『東照宮再発見』(高藤晴俊/日光東照宮)によると、大造替の 【総工費は米価に換算すると、現在の約4百億円、大工の日当から計算すれば2千億円】 だそうで、ガイジンも注目する文字通りの大工事だったようですね。 結局この灯架は東照宮に奉納され、同じ年の末には家光の招待で朝鮮通信使が 東照宮に参拝。 前掲書によると、これがガイジン初の東照宮参拝だそうで、 東照宮にとってはガイジンイヤーでもあった訳ですね。ズ:灯架は将軍に大いに気に入られた。 灯架を見て将軍は最近拝謁したオランダ人のことを思い出し、 彼らにスホイト銀200枚を贈るように、と言った。 閣老讃岐殿(酒井忠勝)は、将軍がオランダ人に好意を示したのを見て、 このよい機会にノイツの釈放を願った。これは平戸候が彼にたびたび頼み、 彼はこれをいつか必ず実現しよう、と引き受けていたのだ。 それで、ノイツの件はただちに彼に許された。 将軍の赦しが出たのは1636年6月4日だが、カロンらはすでに平戸に帰っていたので、 平戸候が自分の奉行、我々、及びノイツにそれぞれ飛脚を飛ばしてくれた。 ゆえに我々が釈放の知らせを聞いたのはさらに1ヶ月ほど後になった。 ノイツが日本に送還されてから4年近い歳月が過ぎていた。申:最後は意外にあっけなかったな。り:でもこの灯架1本にこれだけの歴史が詰まってるんですよ。 ドラマだよなあ。 平戸候はこれを見た時、東照宮に使われるだろうと考えた、と商館日記にはあるけど、 もともと東照宮に奉納されるために作られたんですかねえ。レ:さあ、注文の経緯についての詳しいことはわからないけど、 これだけの品だからその可能性はあるだろうね。 赦しが得られた場面だけを見れば、確かにあっけないようにも見えるけど、 そこに至るまでには我々の辛抱強い嘆願と、平戸候の充分な根回しがあった。 釈放の許可が出る直前には酒井雅楽殿(酒井忠世)が亡くなって、 我々は心強い友人を1人失った。 でも平戸候は引き続き讃岐殿に援助を依頼した。 この灯架は確かにノイツを救った。 けど、灯架はあくまできっかけに過ぎない。 讃岐殿はチャンスを逃さなかった。 讃岐殿にチャンスを掴ませたのは紛れもなく我々の努力であり、 平戸候の周到な根回しのおかげだったんだ。り:平戸時代の平戸候とのやり取りは実に面白いものがありますからねえ。 緊迫した時もあれば、カロンが江戸でなかなか拝謁を得られなかった時だって・・・ツ:あっ、ちょっと!!り:あんですか?ツ:他に2つ、「オランダ燈籠」があるって言っただろ? それ、見たいんだけど。り:ああ、そうですね。 じゃあ、まとめて日光に現存する会社からの奉納品を紹介しましょうか。 これが1640年に献上された、スタンド型の灯架↓。 これは参道を挟んでノイツを救った最初の献上燈籠の向かいにあります。 ケ:ほう、美しいな。り:上屋がない分、ノイツの灯架よりはいくぶん目立つかもしれませんね。 ただ、『東照宮再発見』によると、オランダ燈籠はいずれも国の重要文化財ではあるものの、 【釣燈籠と回転燈籠は覆屋があり、正式には「東照宮附燈台穂屋附銅燈籠」。何と 付け足しの、そのまた付け足しの指定なのだ。これには少々訳がある。】 ということなので、上屋も負けず劣らず重要なようですね。ツ:その訳って何なのさ?り:さあ・・・ 同書では【何れ書く機会もあろう。】ともったいぶっちゃって教えてくれませんので。 で、こちらの燈籠の歴史は?ズ:これについてはあまり記述がないのだが・・・ 1640年5月、この時はカロンが商館長に就任していたが、献上品とともに江戸にいた。 5月16日、平戸候とその奉行に相談した上で将軍への献上品を選んだが、 その中に銅の灯架1個、銅製二重の腕附灯架12個、このための白蝋燭500本が見える。ツ:そういえば、さっき見せてくれたのは「銅の灯架」だよな。 「腕附灯架」はもう残っていないのか?り:それがねえ~・・・・・・・ツ:なんだよ、はっきり言えよ。り:「オランダ燈籠」の先を左に入ったところに本地堂があるんですが、 本地堂の壁に12本のブラケット型燈籠が取り付けられてるとかって情報を得ていたので 本地堂の方へ行ったんですよ。 でもこの建物は正面側しか見られないようになっていて、見えるところからでは 燈籠は見えなかったので、もしかして下の参道からは建物の背面が見られるかもしれないと 思ってあとでチャレンジしようと思ってたんですが、すっかり忘れちゃってねえ~。ケ:では、見られなかったということか。り:結果的にはそうなんですが、後から別の本を見ると、どうもオランダ燈籠の付近から 見える場所に取り付けられていたようなんですよ。 惜しいことしたよな~。 普段の見方をしてれば気がついたかもしれないんですが、何しろこの時は お目当てだけをちゃっちゃと見てソッコー帰るつもりでいたもんで、 気が付かなかったんだよな~。金:そういうのを、詰めが甘いと言うんだり:今度行ったら撮ってくるわい でもこの灯架には、御丁寧にローソクまで献上された訳ですね。ズ:そのようだな。 それで5月21日にはまた平戸候の江戸の家に据え付けられた。 ちょうどこの頃は将軍が新宮殿に移るのでバタバタしていて、 さらに将軍の日光参詣も控えていた。り:ふん・・・この時は東照宮の神忌25年で、家光が8回目の社参に向かう直前だな。ズ:閣老讃岐殿と伊豆殿は、オランダ人の拝謁の件について将軍に話した。 しかし将軍は「日光から帰ったら、オランダ人に逢おう」と言った。 そこで閣老が我々の献上品の覚書を見せると、 将軍はその中に望遠鏡と銅の灯架があるのを見つけた。 彼は望遠鏡を長い間求めていたのだ。り:へえ~。 少し前の島原の乱に参戦したクーケバッケルの望遠鏡を、智恵伊豆や戸田氏鉄が 「よく見えるなあ~、コレ。しばらく我々に貸してくれない?」 って言ってる記述なんかがあるから、そういうウワサを聞いて 家光も欲しいと思ってたのかもな。ズ:それで、灯架はただちに日光に運んで据えるよう言いつけ、望遠鏡は彼のところに 持ってくるよう将軍は言った。 将軍はこの望遠鏡を大層気に入ったようで、絶えず彼のそばに持ち歩かせ、 日光に持っていくのを忘れないようにと命令したほどだった。申:子供が珍しいおもちゃを手に入れた時のようだな。ズ:灯架は将軍の命令通りすぐに運ぶ手筈が整えられ、伊豆殿はどれくらいの人数で運べるか、 計算や覚書と共に急いで彼の家に持ってくるよう我々に命令した。 5月30日、灯架は伊豆殿の家に運ばれ、取り付けられた。 灯架を見るために大勢の大官が伊豆殿の家に集まっていたが、すべての大官は 灯架を眺めて感嘆した。 そのあとでただちに包まれて、伊豆殿の家から日光に送るため、まっすぐ街道を通って 運び出された。り:う~ん、この灯架はひとときでも智恵伊豆の庭を飾ったのかツ:はいはいズ:将軍が日光から帰ったあと、カロンは拝謁を許され、スホイト銀200枚を賜って オランダ人はこの上ない栄誉を得た。レ:最初の灯架に比べるとあっさりした記述になってるけど、この時は同時に献上された 大砲の方に注目が集まっていたからね。 島原の乱の後は大砲に関する記述がものすごく増えるから。り:はい、じゃあこれが3つめの1643年に献上された回転燈籠↓。 これはノイツの灯架の隣にあります。 ケ:ほう、これも素晴らしいな。り:3つの中でこれが一番日本で言う「燈籠」に近いタイプだと思いますが、 私はこれが一番派手こくて好きですね。 実に素晴らしいものだと思います。 『東照宮再発見』によると、3つの燈籠はいずれも銅製で、アムステルダムで 制作されたものだそうで、 【オランダ側での研究の結果、設計はヨハネス・ルトマ、制作ヨースト・ヘリッツゾーンと 判明。特に回転燈籠は優秀な作品で、同国内にもこれに匹敵するものは幾つも無いとの事。】 とあるだけなので、どれか1つを指すのか、3つとも上記の人の作なのか はっきりしませんが、少なくともノイツを救った灯架は真鍮細工師のヘリッツゾーンの 制作に間違いないようです。 ただ、1636年・1640年・1643年とそれほど間が空いてる訳じゃないので、 3つともルトマ&ヘリッツゾーンの制作ってことなのかもしれない。ツ:お前、さっき、とある理由でそれなりに有名なものがあるって言っただろう? どれがその燈籠なんだ?り:あ、それはこの3つめのやつです。 というのも、 上部に付けられている葵の紋がさかさまだっていう、しょーもない理由なんですよツ:なんだそれり:でもねえ、1634年に平戸候が葵の紋の刀の鍔をバタビアの総督に注文した時、 『刀の鍔は上側から見て丸く、ここに送る紙に書いた見本と同じ形に作ること。この 丸形は皇帝の紋章である。これは特別に大きく書いてある。これにより、葉(三枚の 葵の葉)の形と葉脈がよく見え、小さい所まで一層完全に作られるように、と考えた からである。この円形の両面共、葉の模様、鳥、花等に七宝をほどこすこと。 三枚の葵の葉は白地の上に緑で七宝をほどこすこと。』 と実にこと細かく指示してますよね。 だから、葵の紋を扱うのが初めてって訳でもないのに、 なんでこんなミスを犯したのか・・・ オランダ人は学習能力がないのか?レ:それ、言いすぎ。り:んじゃ、こちらの燈籠の背景の紹介をお願いしま~す。ズ:この燈籠は1643年8月10日、バタビアからシャムを経由してきた スヒップ船ズワーン号で長崎の商館に到着した。 ズワーンがシャムを出帆したのは6月30日だったようだ。 8月21日には商館のあらかじめ定めておいた場所に燈籠を据え付け、夜に完了した。 8月29日、長崎奉行の書記官が来館し、燈籠を見たいというので見せたところ、 精巧なのに驚いて、主人に報告すると言った。 翌30日には多数の貴族が燈籠を見に来た。彼らは今までにこのようなものを見たことが ないと言った。 31日、奉行の書記官が来館し、奉行に燈籠の立派なことを話したところ、 奉行が明朝見に来ると言ったと報告してきた。 9月1日、奉行権八殿(山崎正信)が平蔵茂貞や長崎の町年寄4人、その他多くの 貴族をしたがえて燈籠を見に来館した。 点火したところ、美麗で精巧なことを誉め、参府の際に携行し献上する考えかと 聞かれたので、そのつもりでオランダで制作し、総督から日本に送られたものであるが、 奉行の意見に従って処置すると答えたところ、満足して彼らは帰っていった。り:ふふふ、まあ日本の燈籠とはだいぶ趣きが違いますからね~。 前2つの燈籠は平戸時代のものだから、長崎を出ることのない人達は 生まれて初めて見る外国製の風変わりで綺麗な燈籠にさぞ驚いただろうというのは 想像がつきますね。ズ:9月9日、燈籠を解体して磨く許可を得て、これを納める新しい箱を作ることを 命じ、陸路での運送に適するようにした。 11月6日、参府の日が近づいてきたので皇帝や太子に献上する品々の書きつけに 珍奇な品々を添えて奉行の一覧を求めたところ、奉行は満足して銅製燈籠は亡皇帝の 墓所に献ずれば喜ばれるだろうと言われたので、その意見に従うと答えた。 11月8日、商館長エルセラックは江戸へ向けて長崎を出帆した。り:エルセラックはカロンの2代あとのカピタンですが、まだこの頃は陸路ではなく 長崎から船で出発してたんですね。レ:まあそれも、大坂までだけどね。 あとは私達と変わらないさ。ズ:11月19日、大坂で献上品と手荷物を改装し、荷馬と燈籠運搬の人夫を雇い入れた。 20日にエルセラックらは大坂を発ったが、燈籠は別便で翌日送ったそうだ。 長崎奉行はそのために武士1名を派遣したので、途中彼を助けるために使用人4人を残した。 12月1日、江戸着。4日には奉行三郎左衛門殿(馬場利重)が燈籠は城中の適当な家に 据え付ける予定のため、早く送るようにと言った。 6日、銅製燈籠が江戸に着く。 9日、3日以内に謁見が許されるだろうから、燈籠を上覧に供するため宮城に据え付けるべき 旨が伝えられた。 この時も、燈籠とあわせて白蝋燭が若干贈られたようだ。 10日、日の出と同時に商務員補フェール、真鍮細工師カレル・ヨナスセン、および よいオランダ服を着た水夫6人を、燈籠を据え付けるために城中に遣わした。 皇帝がこれを日光に送る前に見ることを望まれたためだ。 夕刻、フェールの報告によると、翌日は諸大名が陛下の前に出て敬意を表する 定例の日なので、皆が燈籠を見られるように謁見の間の前に木の柱が数本立ててある間に 燈籠を据え付けることになったらしい。 そこで、長崎奉行やその他大勢の貴族の前で急いで仕事を進め、日没2時間前に据え付けを 終えた。 三郎左衛門殿が、このように大きな立派な燈籠がオランダには沢山あるかと尋ねたので、 フェールがこれは新案の製品で、これまで欧州で見たことも作ったこともないと 述べたところ、一同は喜んだようであった。 奉行その他は食事を勧めたが、フェールは宿を出る前に食事をしたので、 夕方まで辛抱できると言って丁重に断った。しかし奉行の命で宮内官から酒肴で饗応され、 各人に赤い土製の盃と烏賊を与えられ、盃は家に持ち帰ることを許された。 外国人が城中で酒肴を与えられたことはかつてなく、名誉なことだった。り:これ以前からオランダ人が江戸に捕らえられていて、エルセラックの参府は その問題の解決も兼ねていた訳ですが、かなり厚遇されてますよね。 エルセラックが酒肴でもてなされたってんならともかく、下っぱだもんな~。 もらった盃はかわらけですね。 オランダ人にとってはただの地味な土製の小皿にしか見えないだろうけど、 御下賜品だからな~。レ:まあ、燈籠はその価値に見合う働きはしたと言えるかもね。ズ:12月11日、謁見のために城へ行き、一室に案内されて呼ばれるまで待っていると、 奉行のほか牧野佐渡様、大目付築後殿(井上政重)が来て、燈籠が想像より立派なのに 驚いたと言い、早速故皇帝の墓所を飾るため日光に送られるであろうと言った。 拝謁にはエルセラック1人が呼ばれたが、将軍は黒い絹の上衣を着て頭には黒い頭巾を かぶり、立派な高い座に着いておられ、見たところ丈の低い痩せた人であった。 築後殿はカピタンよ、陛下に敬礼感謝せよと言い、終わってエルセラックの服装が 見えるようマンテルを開くことを命じた。しばらく座っていたあと、築後殿に外套を 引っ張られ、いざりながら退出し、控室に戻った。 捕らえられていたオランダ人達も解放されたし、築後殿や三郎左衛門殿は 外国人のうちではかつて朝鮮の大使にさえ与えられたことのない待遇を受けたと言って 祝福した。り:ははっ、やはりあの子の父。 内心は家光も綱吉みたいに色々やらせたかったんじゃないかな~。ズ:12月14日、カレルと水夫2人が燈籠解体のため城中に向かう。 解体にあたっては20名が注意して各片に記号を付け、 日光に送るために箱に納めたとのことだ。<今回の主な参考文献>『長崎オランダ商館の日記』(村上直次郎訳/岩波書店)『平戸オランダ商館の日記』(永積洋子訳/岩波書店)『長崎奉行』(外山幹夫/中公新書)『東照宮再発見』(高藤晴俊/日光東照宮)にほんブログ村
2016年10月06日

金仁謙: ところで、「のいつ」はどうなったのだ? 公開処刑か?レフィスゾーン: 物騒なことを言いますね(笑)。 割と早い段階から、幕府に対して釈放の要求をしていますよ。申維翰: 無駄なことを・・・ 冷酷な倭人が応じる訳がないではないか。ズーフ: もちろん、ノイツの責任は大きい。 商館長ナイエンローデや特使ヤンセンの書簡によると、事件が解決するまでの 長きにわたり日本で監禁されていたオランダ人の多くが病にかかり、 牢獄で死んだ者も結構いたようだからな。 ヤンセンによれば、タイオワン事件に関連して抑留されたオランダ人は約220人だそうだ。 だから、事件の直後には平戸でもタイオワンでも、ノイツのような男は使用せず 滞在させないことを決議したし、総督や司令官らはもしノイツが本国に帰ったとしても 日本に敬意を表して常に抑留しておくと言っている。りり: そもそも、タイオワンでの契約には行き先は長崎と決まっていたのに、 人質となったムイゼルさんたちにはそれは知らされていなかったんですよね。ケンペル: そうだ。 その場でオランダ語と日本語を話せたのはカロンしかいなかったから、 カロンが契約の訳文を公開した訳だが、ノイツの意向によって行き先はただ 「日本」としか書かれていなかった。 それで人質たちは当然平戸に向かうものだと思っていたのだが、ノイツは密かに 機を見て船を平戸へ向かわせるよう指令していた。 まあ、結局その目論見は失敗して長崎へ到着したんだが。ツュンベリー: 長崎へ到着するまでの間にも色々とやり取りがあって、 船の中で次々と悪い話を知らされたムイゼルは、 「この異教徒の手にかかって死ぬことが神の思し召しであるなら、その通りに 従わねばならない。我々にまことのキリスト教徒らしい祝福された死が与えられんことを。 アーメン。」 と死をも覚悟していたよ。り:その悪い予感があたって、ムイゼルさんも獄中で亡くなってしまったんですね・・・ 商館日記ではムイゼルさんの死の状況の詳しいことはわからないけど、 ヤンセンは1632年8月2日、平戸からの手紙によってムイゼルさんの死を知った、と。 翌月にはノイツが日本に送られてきて、一挙に解決に向かう訳だから、 あとちょっとの辛抱だったのにな~。 ホントにお気の毒ツ:被害者は人質だけじゃない。 ナイエンローデは日本について経験不足な上にこの大事件が重なったもんだから、 身体の病気のほかに精神もかなり病んでいたらしく、スペックスやヤンセンに対して ひどい暴言を吐いたりしているよ。 彼自身も問題のある男だったが、心労が重なった影響も見過ごせないだろうな。ズ:それだから会社では上のような決議をしたのだが、平戸候は意外にも ノイツの帰国後はオランダとオランダ国王の好きにしてよいと言っている。金:それでは、のいつは本国へ帰れたのか?ズ:結果的には釈放された。 だが、そこに至るまでにはまた長い時間がかかった。 これには色々と理由がある。 事件は終結したというものの、貿易の待遇については幕府と折り合いがつかなかった。 相変わらず我々の敵は多くいたし、奴らから虚言を聞かされた高官は 我々に対して非常な嫌悪感を持ち、それをはっきりと表明した。レ:「オランダ人は、これ以上持てないぐらいの敵を持っている」なんて 言われたこともありましたからねえ~(笑)。 長崎奉行の榊原飛騨守職直殿も我々を思いっきり嫌っていたようだし。り:職直(もとなお)? 私は榊原氏は詳しくはないけど、「職」の字は通し字じゃないよな。 「職」の字を使う家系は私はひとつしか知らないけど、まさか・・・ (と、すまほを取り出す)金:なんだ、その小さい板?り:今はホント便利な世の中になりましてねえ~。 ちゃちゃっと色んな事が調べられるんですよ。 えっと、あった。榊原職直・・・え?花房?ツ:ハナブサ? なにそれ?り:榊原職直は花房職秀(職之)の次男・・・やっぱり! すけべえさんの子供だったのか!! (「撫川城(3)」とか「日幡城」とか「岩崎山(2)」とかの備中シリーズ参照)レ:またヘンなとこに食いついてるみたいだよ。り:皆さんはそれぞれ日本の歴史の概略についても書いてるから 秀吉の前の戦国時代についても御存知でしょうが、 飛騨守職直のパパの花房すけべえ(助兵衛)職秀さんは備前の宇喜多氏に仕えた武将で、 対毛利氏の備中戦線などで活躍した人です。 宇喜多氏を離れた後は徳川に付いて旗本寄合となり、一時はイエアスの不興も買ったらしい。 へ~え、そうなんだ。 で、その次男の職直さんは池上本門寺の僧となっていた・・・ え~、池上本門寺!?ツ:その寺がどうかしたのか?り:あ、いや、うちの母親の実家の近くなもんで・・・ え~、マジかよ~。レ:で、それがなんで長崎奉行になったの?り:あ、すいません すけべえさんは関ヶ原にも出陣し、大坂の陣にも出張ったそうなんですが、 何しろ大坂攻めの頃にはかなり年くってたんで輿に乗って檄を飛ばしてたそうで、 その姿を見たイエアスが 「アイツ、まだ生きてたのか!そこらの若者よりも頑張ってるじゃないか。 さすがの武者よの~」 と気に入ったらしいです。 そういう自分だって駕籠で出陣してたんだから、ジジイはジジイを知るってとこですかね。ツ:りりだってジジイのくせに・・・り:それで、徳川四天王の1人である榊原氏の養子として職直を還俗させて 榊原を名乗らせたという流れのようですね。ケ:少し後の話になるが、飛騨守は島原の乱で抜け駆けしたことでも有名だな。 代官の平蔵茂貞は飛騨守のことを、激情家で感情を制御することが難しく、 非常に扱いにくい気難かし屋だから、私は彼が二度と帰ってこないよう希望している、 と言っている。り:ん~、まあオランダ人にとっては憎い相手でしょうけど、 飛騨守のパパの時代は日常的にドンパチやってたような頃だから、 飛騨守も戦国武将の気風を色濃く残していたと思って勘弁してやってください。レ:飛騨守のオランダ人に対する扱いは相当冷たいものだったようだけどね。 彼はオランダ人への中傷を信じてしまって、怒りを隠そうともしなかったし、 なにか弁解しようとしても全く聞く耳を持たなかったらしい。ズ:ノイツの釈放が延びた理由には、将軍の体調不良も関係している。 当時の商館日記には将軍の体調が悪くてなかなか謁見できなかったというような 記事も多いからな。り:平戸の商館日記にはそうしたこまごまとしたことも書かれていて、面白いですよね。 家光は外国の酒は全く飲まないとか、酒井忠世はアラク酒が大好きだとか。ツ:1633年12月の、通詞から聞いたという記事はもっと面白いぞ。 【確かなことを知っていると思われる数人から聞いたところでは、皇帝(将軍)は 病気中に記憶を失い、子供のようになってしまった。また彼の病気と衰弱は、絶えず 強い酒を飲んでいたことから起こったとしか考えられない。この数カ月以来、 彼は夜は一晩中起きていて、食べ物はほとんど何も食べず、一夜に5、60杯の酒を 飲んでいる。彼は夜10時に夕食をし、明け方に寝るまで、彼の側室の中から選んだ 数人と踊り、芝居、酒等で過ごしていた。そこで正月までは拝謁は得られず、その後も かなり長い間待たねばならないだろう、と聞いた。】り:ホントかなあ~。 そんな生活してたら、身体壊すぞ。ツ;でも実際、その話を聞いた翌日にカロンが平戸候の家に行ったら、同席していた 伊予領主の加藤出羽守殿は、自分たちも長い間皇帝の尊顔を拝していないと言ってるし。り:政務に支障が出るほどのそんな乱れた生活してたら、お福が黙っちゃいないだろうに。ケ:将軍が母のように敬い愛している、乳母のことか。り:まあ、幼い頃から病弱な人だったという噂はありますけどね。 世間でも家光の病について色んな憶測が飛び交ってたみたいだし、 商館日記はあくまで「オランダ人の見た日本」だから100%真実は伝えていないかも しれないけど、記録というのは大事なものだとつくづく思いますね。 会社が各地に持っていた商館の中でも、日本の商館日記や関係書類は よく残されてるみたいだし。申:そもそも、なぜこれほどの大事件に発展したのだ?ズ:弥兵衛がいう、タイオワン事件の我々の罪は、 ・我々が皇帝の朱印状を犯したこと ・我々が皇帝が歓迎した使節(新港の台湾人)を虐待し、枷にかけたこと ・我々が皇帝の彼らに与えた賜り物を取り上げたこと の3つだった。 この点に関して、なぜそんなことをしたのかと平蔵政直や長崎奉行は 繰り返しムイゼルに尋問している。申:要するに、関白に絡む不届きな行為を咎められたということか。 ツン君が前回言っていた、座り方などの個人の行為はあまり問題にならなかったのか。レ:座り方の件については、その話を聞いたナイエンローデも重要視しているんですが、 ムイゼルに言わせればノイツは確かに椅子に腰掛け、時々脚を組み合わせて 椅子の背にかけたりしていた。 だがこれはノイツの性格によるもので、彼は生来鷹揚で細かな礼儀作法は 意に介しないので、怒った時よりむしろ親密な話とか冗談の時によく行われた ポーズだという。 だから少しも侮辱を意味しない。 部屋の床には石が敷いてあったが、弥兵衛らが来る時には床の上に 人数分の赤い布を敷いておいた。 逆に彼らはスペインの酒や肴もほとんど口にせず、また持ち帰らなかった。 我々の礼儀では、これは侮辱と考えられる、ということです。 でも、日本人がどう思うかというのはまた別の話で、ムイゼル達の監禁は、 タイオワンにおける新港住民や弥兵衛らの拘束状態の仕返しとも取れる発言も あるんですよね。ズ:それと、真偽のほどはわからないが、タイオワンでの日本人達の扱いについては、 ナイエンローデの考えだとノイツが言ったという話が伝えられている。 それが平戸の商館までもが封鎖された原因のひとつかもしれない。 また、ナイエンローデのような男が商館長だったことも不運に拍車をかけた。 タイオワンでの事件が起こったことは直接的にはナイエンローデには関係ないが、 事件解決のために来日したヤンセンとよく協力して事にあたらなければならないのに、 ヤンセンが商館の経営などに触れると「それは越権行為だ」などと誹謗して ヤンセンの口出しを嫌い、また異常に金銭欲が強かったために人質たちの滞在費すら 出すのを惜しむほどだった。金:人質たちの生活費はオランダ人もちだったのか?レ:一般的には拘留する側が費用をもつのが常識なんですけどね。 ヤンセンはナイエンローデにできる限りの銀を送って欲しいと言っても、 大した額の銀は送ってもらえず、滞在費に充てるための積み荷は 平蔵に買い叩かれて損益を出し、ナイエンローデからは逆に節約を勧められる 始末だったようですよ。 日本人はかなり物欲の強い民族なので、交渉を円滑に進めるためにヤンセンは 平戸候や閣老たちに多くの贈物をしているんですが、それすらナイエンローデは 「君、金を使いすぎじゃないのか。総督からはそんな指令は受けていないだろう。 何かあったら君が責任を取るんだぞ」というようなことまでヤンセンに書き送ってます。申:ひどい話だな。 滞在費を出さないなど、いかにもがめつい倭人のやりそうなことだ。ツ:ずっと後の我々の時代だって、江戸への参府旅行の費用は全部商館もちだったんだから。ケ:オランダ人の費用だけじゃない。 何の役にも立たない多くの日本人がわが社の経費で参府についてくるのだが、 それについては私は話したくないね。り:申さんと金さんには耳の痛い話でしょう。申:・・・・・・・・・・ケ:どういうことだ?り:「(2)」で朝鮮通信使の一行がとんでもない人数だという話が出ましたが、 費用は全部日本もちですよ。 食費だけでも相当な金額な上に、客館があらたに建てられたり、 藩主の使う御座船が提供されたりと文字通りの莫大な金額が使われてるんです。 ま、それについては後の方で詳しくご紹介しますので、 お2人は首を洗って待っていてくださいね。ホホホ。ツ:早く矛先が朝鮮人の方に向かっていってほしいよズ:ナイエンローデは事件が解決した翌年、ヤンセンが帰国する直前に日本で死んだので、 残された商館員が彼の遺産を整理した。 商館には金がないとヤンセンには言いながら、その遺産は多くの絹織物、毛織物、 金銀の器物、銀貨、日本刀など実に大層なものだった。り:自分の財産だけはがっちり貯め込んでいた訳ですね。ズ:ノイツが日本に送還された時だって、ナイエンローデがきちんと 日本流の手順を踏んでいたなら、もっと早く将軍の赦しを得られたかもしれない。 金:手順とは?レ:ノイツが日本に着いた時、ナイエンローデはただスペックスの書簡を 江戸に回送しただけでね。 江戸では、事件の評議のためだけに閣老たちが集まる場が設けられたというのに、 平戸候からの口頭の報告だけではノイツの到着を信じてもらえず、 結局その時は何の進展も得られず、平戸候が大恥をかいただけに終わったんですよ。 ナイエンローデ、もしくは平戸の奉行の添え状があったなら もっと早く解決していたかもしれないんです。 平戸候は激怒し、悪しざまにナイエンローデを罵ってますよ。り:現存する戦国武将の手紙にも、その書状の信憑性を保証する添え状が付いてるもんな。 悪い条件が整いすぎてた訳ですね。 それに対してヤンセンは、ほぼ毎日のようにカロンを平戸候の所に使いに出して 密な相談をしたり、まめに贈物をしたりと実に細やかに辛抱強く交渉を続けてますね。ズ:ノイツの釈放についても、同じように辛抱強い交渉が続けられた。 我々の要求の主眼は貿易の待遇改善にあったから、ノイツについては時期を見計らいながら 要求を出したり控えたりした。申:これだけ会社に損害を与えたのだから、もう放っておけばよかったのではないか?レ:まあ、そうは言ってもねえ~。 ムイゼルと共に人質として日本に送られたノイツの息子のラウレンスは 1631年12月29日に大村の獄中で激しい下痢のため病死しています。 他のノイツの妻子は、彼に会うためにバタビアまで来たんですが、 彼らも皆亡くなったそうです。 すでにノイツ自身も日本で監禁されて数年になるので、せめてノイツだけでも 生きているうちに本国に帰してやりたいと同情したようですね。り:ナイエンローデからの書状では、「ノイツの妻は総督の所に食事に行ったが、 2時間後に急死した」とありますけど、どうなんですかねえ~。 まるでスペックスが殺したとでも言いたげですよね。レ:さあ、それは・・・ 商館日記では、ノイツが長く遠い日本の牢獄にいることを悲観して 妻子は亡くなったという風に書いてはいるけど。 でも、もしスペックスがノイツの妻を殺したなら、何年にもわたって ノイツの釈放を日本に要求したりはしないだろう。金:日本で死んだのいつの息子はどうなったんだ?レ:どうも遺体を大村に埋葬することを願ったものの、了承は得られず、 とりあえず大村の牢獄に預けたようです。 その後、ラウレンスがどうなったかはわかりません。り:ノイツは江戸へ送られたんですか?レ:詳しくはわからないけど、どうも平戸にいたみたいだね。 ただ、うかつに日本人に会わせて下手なことを話されると交渉が台無しになるから、 日本人とは接触させない方がよいとヤンセン達は忠告している。 ノイツが監禁されていたのは商館ではなかったらしく、途中でノイツの宿に盗賊が入り 銀の水差しと日本製の鏡台を盗まれたので、宿を替えたという記録がある。申:外国人を監禁している宿に盗賊? それは警備が甘すぎたのではないか?ズ:1631年11月には、有馬に抑留されていたオランダ人が逃亡したという知らせが入った。 それなりに厳重に監禁はされていたはずだが、抑留が長引くにつれ 警備が甘くなった可能性もないとは言えないな。 だが、仮に警備が甘かったところで、逃亡するなど傷口を広げるだけだ。金:それでは、逃亡者の捜索のために大騒ぎになっただろう。ズ:いや、有馬候から平戸に送られた書状には、 「彼らが平戸候の領地に来たら、大騒ぎをせずに、静かに黙って、彼らを有馬領に 送り返して欲しい。」 とあった。 閣老に知られたら大問題だから、秘密裡に処理しようとしたらしい。金:倭人はそういう姑息な手段を用いるのが大好きな、卑賎な民族なのだ。 私の時にもそういうことがあったと話しただろう?ズ:卑賎とは思わないが、「内々に」というのは大好きではあるな。り:交渉の過程を読んでると、あんまり現代人も変わってないな~と 思うところはありますね。 まず平戸候と綿密な相談をして、文書を作成する。平戸候は親しい高官や幕閣に 折を見て話を持ちかけ、根回しをする。 場合によっては対面での詮議が重要なこともあるけど、事前の打ち合わせで ほぼ結論は決められており、最後に対面で結果が伝えられる。 現代の国会でも、似たようなことが繰り広げられてますよ。金:何百年たっても進化しないなど、野蛮な倭人らしい話だな。り:朝鮮人よりはよっぽど進化してると思いますけどね。金:もともとの民族の格差があるだろう。 倭人が進化したところで、我が朝鮮民族には何千年経っても追いつけないわいり:なんだと!? やんのか、ゴルァァァ!!!金:上等だ!! かかってこい!!り:ウキ ッッッ!!!ツ:ちょ・・・ちょっと、やめなさい! やめろって・・・アイタタタ(←殴られた)ケ:どれ、ちょっと診せてみろ。 う~ん、患者を診察するのも久しぶりだなあ。レ:なに呑気なこと言ってんですか、もう・・・ 申さん、止めてくださいよ~!申:放っておけばいい。 我が朝鮮民族が、倭人などに負ける訳がない。レ:も~っ、どいつもこいつも・・・ 君達、ケンカはやめなさいって・・・ ※日朝間の闘争により、続きは次回へ持ち越します。<今回の主な参考文献>『平戸オランダ商館の日記』(永積洋子訳/岩波書店)『平戸オランダ商館日記 近世外交の確立』(永積洋子/講談社学術文庫)『長崎奉行』(外山幹夫/中公新書)にほんブログ村
2016年10月02日

ケンペル: ノイツがタイオワンに戻った5ヶ月後、また浜田弥兵衛率いる末次平蔵の船が2隻 タイオワンに入港した。 そこでノイツは弥兵衛や日本で将軍に拝謁してきた新港の台湾人を拘留した。金仁謙: こりない奴だな。 倭国で使命に失敗した意趣返しか?レフィスゾーン: 弥兵衛の船には数門の大砲が備えられていて、他にも大量の小銃やその他の武器が 積み込まれていたそうでね。 しかも乗組員も470人ほどもいたそうで、どう見ても武力でカタを付けに 来たようにしか思えなかったと言われてますよ。 それに、平戸のナイエンローデからの報告によると、平蔵は大坂で100人の 兵士を募集したそうで、ノイツも用心していたんでしょうね。 それで、まず日本人の上陸を禁止して弥兵衛を拘留し、その間に船を点検して 武器を押収し、さらに台湾人が将軍から下賜された品も取り上げたそうです。りり: ああっ、将軍様からもらったオラの土産が~! そんなご無体な~!申維翰: ふざけるんじゃない、倭人。り:ふざけてませんよ。 純朴な台湾人の気持ちを再演しただけじゃないですか。 武器はしょうがないとして、なんでそんなものまで取り上げる必要があるんですか。 オランダ人、ひどすぎるよな~。ズーフ: あれはノイツの単独プレーだ それに、船が出帆する際には武器は返却することになっていた。ツュンベリー: まあ、船に戻った弥兵衛が船での一連の出来事を知って抗議をしてもとり合わないし、 弥兵衛が生糸を積むために中国に渡りたいと願い出ても却下されるし、 なら日本に帰りたいと言ってもこれも拒絶されたりと可哀想といえば 可哀想とも言えるけどな。 日本人の気位の高さを知らないノイツは、弥兵衛と交渉する時はいつも高い椅子に座って 足台に足を置くという傲慢な態度だったとも言うし。ズ:おい、何を言い出すんだ!ツ:いいじゃないか、どうせノイツの単独プレーだろ?り:江戸でザリガニになったのちのカピタン達とはえらい違いだよな。レ:ああ、あれは屈辱だったよ。ズ:そうか? 「郷に入っては郷に従え」じゃないか。ツ:だいたい、日本人てのは実に素晴らしい民族ではあるものの、高慢という 大きな欠点を持っている。 自分たちは他の人種より優れていると思いこんでいて、特にヨーロッパ人は 劣っていると思っているので、たとえあらゆる他の不公正な仕打ちに耐えることが できたとしても、他人の高慢さには耐え得ない民族なのさ。 ノイツもそれを知っていれば、もう少し日本人に適した応対をしただろうに。ケ:それで、事件は起こった。 弥兵衛がどういうつもりで武器や兵士を満載してきたのかは知らないが、 これまでのことを踏まえてそれなりの覚悟もあったのだろう。 そういう相手に対し、ノイツの行動はあまりにも軽率だった。 弥兵衛が日本人の供を引き連れて再度帰国の嘆願にノイツの下に行くと、 またもや拒絶された。 ノイツとしては、近々オランダ船が中国の生糸を積んでやって来るはずだから、 それを待って弥兵衛に対応するつもりだったというが、ノイツの回答に 堪忍袋の緒が切れた弥兵衛らはいきなりノイツに飛びかかって、 ノイツとそばにいたカロンを取り押さえ、ノイツの胸に短刀を突き付けた。 その場にいたムイゼルらオランダ人は逃げ出して外の兵士に急を知らせたので 小競り合いが起こって死者も出た。り:キタ !カロン!! この事件を通して、カロンは男を上げたとも言えますよね。ズ:・・・・・・・・・(ジロリ)ツ:ねえ、それってやきもち?ズ:な!なにをバカなことを・・・り:あらやだ、ズーフさんたら金:倭人の図々しさには呆れて物も言えんり:へ~んだ、ひがんじゃって。金:誰がひがむか! 馬鹿も休み休み言え!!申:どうも倭人がからむと話が脱線するな。 お前、進行役だろう? 話の腰を折るんじゃない。 邪魔するだけなら、少し黙ってろ。り:ぶ っっっ・・・金:また屁こきやがって・・・り:屁じゃねえっつってんだろーが!!ツ:ダメだ、こりゃ 先輩、話の続きを。 カロンはこの時、通訳としてタイオワンにいたんですよね。ケ:そうだ。 この場にいる人間で日本語とオランダ語の両方を解するのはカロンだけだった。ズ:その先は私が話そう。 蘭人を集めたムイゼルらは、ノイツを開放しないと日本人を皆殺しにするなどと言って 弥兵衛に対峙したが、肝心のノイツは武力抵抗をやめるよう蘭人に命令したし、 強行突破した場合、この事件が元で日本在住の蘭人の生命も危うくなる上に 日本貿易が途絶える可能性がある。 そこで、武力ではなく交渉によって状況を打開する努力が続けられた。 そしてまとめられた条件が、 日蘭双方から人質を出し、長崎で人質の交換をすること。 新港の台湾人の監禁を解き、没収した下賜品を返却すること。 今回の船で妨害された生糸200ピコルとソンクが先に没収した生糸15ピコルを 返還すること。不足分があれば現金で支払い、あわせて 今回の生糸200ピコルの仕入れが遅延した賠償金を支払うこと。 生糸の受け渡しが済んだら双方の人質を交換してそれぞれの船に乗せ、 日本への帰路の安全を保障すること。 というもので、生糸や金の受け渡しは無事に済み、ノイツは開放された。 ケンペル君やツュンベリー君は、1630年にノイツの無礼な仕打ちを受けた日本人が タイオワンに切り込みに行って『そこで日本人は総督の頭を真っ二つに割いたのである』 などと書いているが、これは間違っているぞ。ケ:・・・・・・・・・ツ:・・・・・・・すいません・・・・り:まあまあ、ズーフさんは持論をもって色んな人にツッコミを入れる ツッコミ大王ですから、気にしないで。ズ:誰がツッコミ大王だ その後、互いの人質を乗せた船が長崎へ向かったが、オランダ側の人質には ノイツの息子のラウレンスやムイゼルがいた。り:ノイツの行動で一番のとばっちりを受けたのがムイゼルさんって気がする・・・ズ:長崎に着けば人質を交換してそれですべてが済むと思っていた。 ところが、我々は日本人の人質を解放したのに、日本人はオランダ人を解放しなかった。 それどころか、タイオワンからの人質のみならず船の乗組員まで 大村と有馬に分散して監禁し、タイオワンからの船および碇泊していた蘭船まで 武器を取り上げられた上に厳重に抑留し、平戸の商館は閉鎖された。金:いかにも卑賎な倭人のやりそうなことだな。り:弥兵衛はただの船長だから、長崎に帰れば発言権が小さくなるのも当然だし、 元はといえば勝手に割り込んできてデカい顔したオランダ人のせいでしょ。 タイオワン付近での小さな火種がついに大爆発を起こしちゃったんだな。 さあどうするオランダ人! 頑張れカロン、いよいよ君の出番だ!!ズ:・・・・・・・・・ツ:濡れタオルでこいつの鼻と口覆っちゃう?申:個人的には大いに賛成するが、君、医師だろう?ツ:冗談だよ、ジョーダン。 じゃあ、またドゥーフ君にジジイの手でも握らせておくか。 (ツュンベリー:長崎歴史文化博物館展示資料より)ズ:いやだ。私は別にやきもちを焼いてる訳ではない。 私が出島の商館に勤めていた間の苦労に比べれば、 りりの侮辱など大したことではない。レ:ドゥーフ殿は実に苦労しましたからねえ。り:ズーフさんは色んな経験をしすぎて話がべらぼ~に長くなるので、 ズーフさんについてはまた別の機会を設けようと思ってます。 邪魔者のいないところで、ゆっくりとねツ:客をつかまえて、邪魔者だってさズ:バタビアの総督クーンは事態を重く見てノイツを召喚し、プットマンスを後任に据えた。 そして日本との関係改善のためにウィレム・ヤンセンを日本に派遣した。 ヤンセンに与えられた使命は事件を根本から調査して、 もし参府の必要があれば美々しい行列をもって日蘭間にかかる暗雲を払拭せよ、 というものだった。 だが、もし日本側がタイオワンの主権と貿易の独占を主張するならば、 総督の決定を待つと回答せよ、ということも含まれていた。申:さきに弥兵衛が新港の台湾人を連れていったことの影響があるかもしれない、 という判断か。ズ:事実、日本側からはゼーランディア城の引き渡し、もしくは破壊を求めてきた。 特使のヤンセンは日本に到着したものの、船は抑留され、 交渉に入ることすらできなかった。 そして、日本の事情を説明し要求を伝える書状をヤンセンに持たせてバタビアへ 送ることになったが、中でも末次平蔵の書状はもっとも過激な内容で、 城を破壊し、タイオワンを割譲しなければオランダ人は2度と日本の地を踏めなくなるが、 もし要求を呑めば会社が日本貿易を存続できるよう自分が尽力するというものだった。 バタビアへの船には、カロンも同乗した。 この間にクーンは急死し、スペックスが総督に就任していた。金:あの「やこべ」のことか?レ:そうですよ。り:ヤコベとカロン、日本を熟知する役者がそろって真っ暗なトンネル内にも ようやく一条の光が見え始めましたね。ズ:書状を受け取ったスペックスは驚いた。 タイオワンの割譲や城の破壊など、これまでの幕府の考えからすれば あり得ないことだったからだ。 彼は、これは幕府の決定ではなく平蔵の一存に過ぎないだろうと看破した。 カロンも同意見だった。 そこでこの要求には断固として応じないことを決議し、一連の事件はノイツ個人の 過失によるもので、すでにノイツは監禁しその資格を剥奪したので、 貿易の再開を願う旨の回答をもって再びヤンセンやカロンを送り出した。り:ヤコベさんが平蔵のたくらみを見破った理由って?ツ:将軍はこれまで、外洋や外国での争いには関知しなかったじゃないか。ズ:ここまでの間に、日本でも重大な変化が起きていた。 ことあるごとにオランダ人と対立してきた平蔵政直が死んだのだ。 そもそも幕府がバタビアへの使者を送り出したのは平蔵の強い言い分に押されての ことだったし、タイオワンの割譲もスペックスの見立て通り、平蔵がさかんに 言い立てていたことだったので、平蔵の死後に来航したヤンセンらは 今度は参府が許されることになった。レ:平蔵政直はかねてから中風を患っていたが、不正、人を欺く悪漢めいたやり方などが 明らかとなり、最後には狂気となり、自分の罪を懺悔し、閣老、平戸候、有馬候、 その他大勢の高官を糾弾しつつ告白を始めた。 そしてその噂が江戸の大官たちに伝わると、発狂したという理由で平蔵を牢獄に幽閉させ、 最後には牢獄で将軍の家臣によって刀で袈裟がけに斬られたと 商館日記に書かれているよ。り:その話、ホントなんですかねえ~。レ:さあね。 でもまあ、あり得ない話じゃないだろう。 高官たちの朱印船への出資などについても、平蔵は知りすぎていた。ケ:長崎代官で著名な者は数人いるが、1592年(文禄元年)に長崎が内町と外町に 分けられた際、最初に外町の代官となったのが村山等安(とうあん)で、 等安はその多才を生かして太閤や権現様の信任を得、朱印船貿易でも巨利を収めた。 その等安を失脚に追い込んで代官職を奪ったのが平蔵政直だ。ズ:平蔵政直の死によって、幕府の対応も幾分やわらいだ。 そして閣老を前にしてヤンセンが述べたのは、オランダ人の釈放以外に 何も要求することはなく、タイオワンでの一件はノイツの経験不足と平蔵政直らの 虚偽申し立てによるものであるから、どうか許してほしいという しごく穏やかなものだった。 長崎代官の職は平蔵政直の死の直前、政直の息子の末次平蔵茂貞が継いでいた。 平蔵茂貞は放蕩や悪事に手を出していたという噂のある人物で、 政直との折り合いも悪かった。 そのためか、平蔵茂貞はこの件に関しては父が行ったことで自分は何も知らない、 オランダ人に対しても何も言うことはないと言ったので、 このまま解決に向かうように見えたが、同じ頃に大御所様(秀忠)が亡くなったので 事件の終結は先延ばしとなった。り:ここまでの間、平戸の商館はずっと閉鎖されたままだったんですね。レ:タイオワンから例の人質を乗せてきたエラスムス号は積荷も積んでいたんだが、 その荷は押収されて平戸の倉庫に封印されたままとなっていた。 一方、自由市民の船は自由で、取引も自由にできることが許可された。 だから、オランダ船による貿易が100%ストップした訳ではないんだけど、 会社の取引は一切禁止されたままだった。 オランダ人の出入国も、商館員を除いては自由だったよ。ズ:そして1632年9月10日、自由市民の船ワールモント号でノイツが送られてきた。 ヤンセンが再度日本に来航してから、2年近くの歳月が流れていた。 事件の解決が進展を見ないので、バタビアのスペックスが最後の切り札を切ったのだ。 これには日本人もオランダ人も非常に驚き、「これ以上適切な処置は考えられない」と 日本人はスペックスの決断を称賛した。 そしてついに、 「ノイツの送還によって総督が将軍の家臣としての誠意を示したので、はなはだ満足である。 ゆえにタイオワンでの過失を大目にみてオランダ人を許すことにする。 出帆を希望している無実のオランダ人は全員出帆してよい」 という将軍の下命が伝えられた。 これをもってようやく平戸の商館は再開された。 タイオワン事件から4年、ノイツが特使として初来日した時からは5年が経っていた。ツ:日本人の高慢、正義、そして勇気について知っていれば、この国民がひとたび怒りを抱けば、 自分の敵に対してまったく容赦しないということについて驚くことはないだろう。 この国民は尊大で大胆であると同様にまた、極めて執念深く無慈悲でもある。 そして己の激しい憎悪をむき出しにすることなく、しばしばそれを異常なまでの 冷淡さの内に隠し、復讐の好機をねらう。 日本人ほど激情に流されることのない者を、私は知らないな。レ:そういう日本人をよく理解し、日本人から絶大な信頼を得ていたスペックスだからこそ、 ノイツを人質として送る大胆な決断ができた訳だし、通訳として事件のすべてに関わった カロンも経験値を上げてそれが商館の存続につながっていくことになった。 ともあれ、日本との交渉は忍耐が第一。 タイオワン事件で会社はそう痛感したかもしれないな。※今回の主な参考文献『平戸オランダ商館の日記』(永積洋子訳/岩波書店)『平戸オランダ商館日記 近世外交の確立』(永積洋子/講談社学術文庫)『日欧通交史』(幸田成友/岩波書店)『長崎奉行』(外山幹夫/中公新書)『江戸参府随行記』(ツュンベリー著、高橋文訳/平凡社東洋文庫583)にほんブログ村
2016年09月24日

りり: さて、いよいよ「事件」の幕開けですね。ケンペル: まだ前段階がある。 会社と日本人朱印船貿易家の間での緊張が高まり始めた頃、バタビアから 日本に特使を派遣し、その代わりに恒例の参府で贈物の献上を行わないことにしては どうかという提案が2年続けてもたらされた。 申維翰: 緊張緩和のための特使派遣か?ズーフ: そんなところだろう。 しかし、この時は実際に特使が派遣されるには至らなかった。金仁謙: なぜだ? こういう状況下では特使派遣の方がいいように思うがな。レフィスゾーン: この頃、ポルトガル人は上方で我々について言いたい放題の虚言を撒き散らして いたから、そういう時に恒例の参府を取りやめるのは我々の不利になる。 かつ、参府は他の外国人も行っていたことで、日本では確かに関税はかけられなかったが その代わりに献上品を納めているのだから、その点でも我々の不利になる。 平戸候はじめ、我々と親しい間柄にある日本人がそう言って参府の取りやめに 強く反対をしたそうなんですよ。 それで結局恒例の参府のみとなったんですが、江戸での待遇は良かったので 商館長のナイエンローデはタイオワン方面でのトラブルにはまだしばらく そ知らぬふりをしていられると思ったようです。り:まだこの頃の参府というのは、必ずしもカピタンがみずから行っていた訳でも ないんですね。ツュンベリー: そうだな。 この時の参府もナイエンローデが行った訳ではなく、船長と下級商館員が行ったらしい。ケ:しかし、前回の1625年のソンクによる課税や積荷の没収、 その翌年にもタイオワンで末次平蔵の船とのトラブルがあり、 そうした出来事が将軍の耳にも入り、幕府からは朱印船の取り扱いを丁重にしなければ 今後会社に損害をもたらすだろうという注意があった。 それを受けたナイエンローデは、1年はタイオワンでの関税を中止し、 その間に特使を派遣して幕府に釈明をする提案をバタビアに送った。 そしてついに特使を派遣することになり、あらたにタイオワン長官に任じた ピーテル・ノイツを1627年1月に大使として日本に派遣した。 ただし、ノイツはバタビアに来たばかりでタイオワン長官となり、 日本の事情に通じていない。 そこで、日本での参府経験も持つ商人のピーテル・ヤンスゾーン・ムイゼルを 副使としてノイツに付けた。り:ノイツの日本での使命は、関税の件の弁明ですか?ズ:それはもちろんだが、他にもある。 まずは将軍と老中に贈物を献上してこれまでの会社に対する好意を謝し、 今後の継続を願うこと。 それから、タイオワンでの日本人とのトラブルを避けるため、今後は タイオワンへの渡航を許可した朱印状の発行を禁止してもらうこと。り:それはずいぶん勝手なお願いじゃないですか? オランダ人が割り込んでくる前から日本人はタイオワンにも行ってたんだから。 前に、中国人が尖閣諸島の領有権を主張している話をしましたけど、 少し前には尖閣諸島付近の領海に侵入した外国人は武力行使で排除するって 法令を定めたとかなんとかってニュースが流れて、 「ふざけんのもたいがいにしろよ!!」 と脳血管がブチ切れそうなほど怒りましてね。ツ:お前は確かに脳血管疾患でポックリ逝きそうな性格してるよな。り:中国人は国際法も何も通用しない暴力団のようだと思ったんですが、ふと 「そうか、往時のヨーロッパ人もこんな感じだったんだろうな~」 って思いましたよ。 人様の土地に勝手に来て、勝手に占領して勝手に 「はい、ここは我々の土地だから今日から関税10%ね~」 って言いやがったオランダ人とそっくりじゃないですか。金:おい倭人、暴力団て何だ?り:話、聞いてなかったんですか? 中国人やオランダ人と同じような人達のことですよ。ツ:またビッグウェーブが来たなズ:タイオワン行きの朱印状の廃止が不可能ならば、せめて1年~数年の間は 渡航を見合わせてもらうよう嘆願するのがノイツの役目だった。 こういった交渉を円滑に進めるよう、前年に会社にジャンク船の借入を却下されて タイオワンに足止めとなっていた浜田弥兵衛が船長を務める船を、 関税を徴収せずに出帆させることもノイツは命じられていた。 会社はお前の言うように一方的にゴリ押しをする中国人とは違う。 柔軟に妥協もしながら交渉を進めようとしていたんだ。 わかるな?り:全然わかんないッス。申:倭人の理解なんかどうでもいい。 話を続けろ。ズ:タイオワンでノイツは浜田弥兵衛の船について処理を委託してから日本へ向かった。 しかし、タイオワンでは事態が進展しなかったため、浜田弥兵衛は 新港の台湾人たちを引き連れて日本へ向かった。 日本に着いた特使一行は立派な献上品を持って江戸に着いた。 江戸では平戸候などから特使派遣の目的などについて繰り返し質疑が行われた。 まずここで問題となったのがバタビアの総督からの書簡で、 国王の血縁でもない臣下が将軍に対して書状を送るのは外交儀礼にかなっていないという 結論になった。 その上、特使の目的についてノイツは、同じ頃日本に着いた浜田弥兵衛の船について 不満を述べ、将軍に裁定してもらうつもりだとストレートに言ってしまったので、 日本人は驚いて騒然となった。申:なぜ倭人の船の件で大問題となるのかわからんレ:浜田弥兵衛が新港の住民を引き連れてきたのは、我々に対する不満を述べ、 タイオワンを将軍に捧げさせるためだったと言われてるんですよ。 浜田弥兵衛の船はそもそも長崎代官・末次平蔵のものだったんですけどね。ズ:ノイツの配慮のない言い回しによって、将軍に拝謁するどころか その発言の主旨にばかり焦点が集まってしまって、事態はまったく進まなくなった。 そのうち、オランダ人への待遇は露骨に悪くなり、食事も来訪してきた日本人が 顔をそむけるほどの粗末なものへと変わり、自由に外出すらできなくなった。 それどころか、平蔵らが江戸に到着するまで待機させられることになった。 先にも話した通り、ノイツは日本の事情にうとい。 膠着した状況に我慢できなくなったノイツは、なんとか拝謁の許可を得ようと あちこちの閣老の家臣に頼み込んだ。 商館が出島に移ってからはすべて長崎奉行を通じて事態を進めていたが、 この時代は平戸候がその役割にあたっていた。 その平戸候を無視してノイツはみずから閣老につなぎを付けようとしたため、 今度は頼みの綱である平戸候の機嫌まで損ねてしまった。金:八方塞がりだな。ズ:まったく先の見通しが立たないまま江戸にむなしく滞在するくらいなら いっそタイオワンに帰りたいとノイツは考えたが、拝謁を願い出ておきながら 回答を得てもいないうちに帰るのは無礼だとして、これも認められなかった。 しかし、どうにか出発の許可だけ得ると、副使のムイゼルを江戸に残して さっさとノイツはタイオワンに帰ってしまった。 商館長を務めた我々からするととても考えられない行動だが、 ノイツには経験と知識がなさすぎたのだ。り:平戸時代から出島時代を通じて、日本を熟知して日本人とうまく付き合った カピタンの中には、多くの日本人に慕われた人も結構いますよね。レ:そういう地道な交流が、我々が長く日本貿易を独占する土壌を養ったんだよ。 ドクトル・ケンペルだって江戸で相当頑張ったんだからさ。り:あれ、ほとんどヤケクソじゃないですか?ケ:仕方ないだろう。 人には持って生まれた性分というものがある。 フォン・ビューテンヘム氏は好奇心むき出しの日本人の気ままな要求に すべて応えるには向いていなかった。 商館長の威信もあるしな。 それで私が飛んだり跳ねたり踊ったり歌ったりと奮闘したのだ。 (ケンペル:長崎歴史文化博物館展示資料より)ツ:先輩のあの話は有名だもんな。 あ~、私は色々やらされなくてよかったあ。ケ:人の気も知らないで 特使派遣は結局失敗に終わり、オランダ人に対するいやがらせが増えた。 長崎での最高官僚はもちろん長崎奉行だが、奉行は江戸から派遣され、 しかも長く居続けるということがなかったので、在地の代官・平蔵が実力者だった。 大口の朱印船貿易家でもある平蔵とのトラブルが続き、平蔵を敵に回したのは 実にまずかった。り:ポルトガル人が追い出されるまでの過程でも、日本人の彼らに対するいやがらせって 結構激しいものがありますよね。 読んでて「うっわ~、陰険」って気の毒になっちゃうぐらいの。ツ:毎回、正面から我々に噛みついてくるお前とはまた違った陰湿さはあったな。 ポルトガル人やスペイン人に向けられているうちはよかったんだが、 タイオワン方面でのトラブルが増えてくると我々にも容赦なく 矛先が向けられるようになった。 ノイツの派遣は大失敗だったが、それでいてノイツはタイオワンに帰る前に 例年通り商館員を参府させるよう指示していった。 けど、総督からの特使が拝謁できなかったのに、商館員がすんなり拝謁できると 総督の権威が失墜する。 それに、ノイツに従ってはるばる江戸から帰ってきた商館員をまたすぐに 江戸に送るのもどうかという考えから、ナイエンローデは参府をさせなかったので 事態は一層悪くなるばかりだった。 こういう緊張状態が続くと、会社の船もいつ抑留されるかわからないので、 総督も平戸商館の経費を極力節約するようにという指令を出すほどだった。り:オランダ商館、危うし!ベン、ベベンベンベンベン ところで、平蔵が連れていった台湾人はどうなったんですか?レ:そちらは速やかに拝謁が叶い、多くの土産まで下賜されたらしいよ。 ただ、タイオワンを将軍に捧げるという話は幕府は取り合わなかったらしい。 なんにせよ、特使の面目は丸潰れだ。 オランダ人が拝謁を却下されたのは、ノイツの時が最初だった。 実に不名誉な話だが、日本と付き合いを続けていく難しさがここからもわかるだろう?※今回の主な参考文献『平戸オランダ商館日記 近世外交の確立』(永積洋子/講談社学術文庫)『日欧通交史』(幸田成友/岩波書店)にほんブログ村
2016年09月17日

かはくは地球館と日本館の2つの建物から構成されているようだけど、トーハク(東京国立博物館)のように一旦建物を出て他の館に向かうのではなく、地下の通路でつながっていて結構フクザツ。しかも、人が多い。ガイジンも結構多かったんだよな。ちょっとこれは意外でした。で、こちらが日本館の中央ホール↓。 昭和3年から3年5ヶ月をかけて建設された日本館の建物は、それ自体が国の重要文化財。して、日本館の2階に参ります。翼を広げた飛行機型の日本館2階は、南翼が「生き物たちの日本列島」、北翼が「日本人と自然」という大テーマで構成されている。ここでのお目当ては北翼にある。ここには動物たちの剥製が多くあり、わたくしのような愛らしい小動物がお出迎え~。 めんこいのうテンちゃんには夏の浅間山登山で至近距離で出会ったことがある。夏毛だったからもっと黄色かったけど、プレーリードックのようにぴょこんと立ち上がっていた姿が印象的だった。ちっさいのだけじゃなく、大型動物もいる↓。 かわいいバンビちゃんしかし、奈良公園にいた鹿は鹿せんべいを握りしめるわたくしの周りに大層群がって、コートを噛んで「せんべおくれよ~」とアグレッシブに催促してきたツワモノ揃いだった。鹿と戯れる夢破れ、鹿にむしられてあっとゆー間に鹿せんべいを巻き上げられたか弱いわたくし・・・(奈良編はそのうち公開します)ここでの第1のお目当てはこちら↓。 渋谷のハチさん(下)と南極においてきぼりにされたカラフト犬のジロさん(向かって右上)。向かって左上はタロさんではなく、甲斐犬の甲斐黒号だそうです。タロさんは苛酷な体験をしたにも関わらず14歳7カ月という長生きをして、今は北海道ではく製になって展示されているそうな。ジロさんはさすがにカラフト犬だけあって、毛が密集している。うちの娘さん(大)もジロさんばりに毛深くて、彼女をシャンプーするには体力を必要とする(いつも栄養ドリンクでドーピングしてからシャンプーに臨む)。まあ、(大)は幸い体臭も少ないうえに今では目も見えないしほとんど耳も聞こえない状態で彼女の負担になるため、以前よりもシャンプーの回数は減らしてるけど。それでも、こないだ久々にシャンプーしたら派手に鳴いた。「助けて~シャンプー嫌いなのよ~!!」て悲壮な鳴き声ではなく、「アタシに何すんだよお!アタシャ嫌なんだよお!おやめったらもう!!」てカンジの実にいやらしい声で鳴いたので、家人の失笑を買っていた。ハチさん達の近くには鳥もいる↓。 ウコッケイってこんなに奇麗なのか・・・少し前、何かの番組でかはくの収蔵庫拝見というのをやっていた。トーハクのように、中には寄託されたものもあるのかもしれないけど、実に沢山の剥製などがあるらしく、「へえ~」と思いながら観ていた。常設展の方だけでも、色々なジャンルにまたがる展示品はかなりの数になると思うけど、それでもごく一部だっていうんだからオドロキだね。さて、もうひとつのお目当てを探しながら歩いていると、奥の方に人だかりがあった。人の後ろから覗いてみると、そこに第2のお目当てがあった↓。 ※撮影禁止画像だとのご指摘をいただきましたので、画像を削除しました。(2020/7/12)これが「江戸時代のミイラ」として展示されているもので、 【火山性の酸性土壌が国土を覆っている日本では、埋葬された遺体は速やかに 分解されてしまい、骨が残ることすらまれである。そんななかで、この江戸時代の 女性は奇跡的に屍蝋(しろう)の状態となって発掘された。その後、遺体は 乾燥され、ミイラの状態になった。ミイラは見る者の心にさまざまな感慨を 呼び起こすが、科学分析はそれとは異なる過去の人々の生き様を明らかにする。 最先端の科学がミイラに何を語らせるかを見ることにしよう。】 (展示解説文より)かはくには全体を案内するリーフレットもあるけど、そのほかに「おたずねの多い展示」というものも置いてある。要するに人気が高い展示物ということで、イトカワの微粒子もハチさんやジロさんもこのリーフレットで存在を知った。で、ハチさん達と同じフロアに「江戸時代のミイラ」とあったので、日本でミイラができるはずもなし、これは屍蝋のことを指すに違いないと思って勇んで観に来た訳だけど(だって屍蝋なんてそうそう見られるもんじゃないし)、この解説文によると発掘された当初は確かに屍蝋だったけど、その後乾燥してミイラになったってことらしい。う~ん、それは残念・・・この女性は谷中の三崎町遺跡で発見された方だそうで、谷中小学校の東側だというから千駄木の団子坂の近くらしい。台東区のホームページによると、この場所にあった近世寺院跡の発掘調査で幕臣を埋葬した甕棺や庶民用の木棺など約350の墓が発掘されたとのこと。この女性の前の通路はそう広くない上に、子供から大人まで結構な人が集まっていたので人の後ろからぱっと写真を撮っただけで、ゆえに解説文を読んでおらず詳しいことはわからんのですが、まあ庶民だろう。屍蝋のリンク先で徳川将軍の埋葬方法について紹介しましたが、庶民ならあれほどの厳重な処理がなされるはずもなく、それを考えると屍蝋となって発見されたのは確かに奇跡に近い。ま、現在ではミイラ化してしまったとはいえ、外観はそう変わってないだろう。屍蝋の方がもっとみずみずしくて生々しいかもしれないけど。でも髪の毛もしっかり付いてるし、よくこんなに残ったもんだよな。こうなってくるといまだ手つかずの日光埋葬組の遺骸が気になるところだな。イエアスの保存状態にはさすがに期待できないかもしれないけど、家光や天海は生きていた頃の面影をまだ残しているかもしれない。さて、今回はかはくはこれで終わり。でも「おたずねの多い展示」に載ってるだけでも興味深いものは色々あるし、常設展を丁寧に観ていけば面白いものも沢山見つかると思う。ので、機会をあらためてまたかはくには行きたいと思っている。それに、かはくのホームページを見たら、9月13日~12月4日まで「日本の自然を世界に開いたシーボルト」と題して、シーボルトやその関係者が採集した標本の展示をやるんだそうな。う~ん、ぜひとも観たいところだけど、ちょっとこれから忙しくなりそうなので時間的にキビシイかな・・・かはくを出て、今度は寛永寺へ向かう。今回は両大師と観音堂に行くつもりなんだけど、かはくまで来たら両大師が近いのでまずは上野公園を出て両大師に向かう。 はい、すっかりおなじみの寛永寺両大師境内でございます。まずは本堂の向かって左手前にある手水舎でおきよめ。ここの水盤は寛永寺シリーズですでに紹介したので全部観たと思ってたのですが、ふと水盤に目をやると 鳥が沢山飛んでるようにも見えるけど、これおもだか(沢瀉)かな?・・・あれっ?前の時は持ち手や邪鬼にばかり気を取られていて、水盤側面の意匠は観なかったのかな?側面の図柄はこんなだった↓。 やっぱりコレ、観てないや。しかしこのアジアンな感じ、徳川家製作の銅灯篭のデザインとよく似てるな。おきよめをしてから、すぐ近くにある宮の墓所へ行って門の手前からお参り。ちょうどこの頃、拝観に来ていたジイさんが庭の掃除をしていた職員のおじさんに「この塀の向こうにはずいぶん立派なお墓があるようだけど、どなたのお墓なんですか?」てなことを聞いていた。(宮だよ、宮!上野の宮様がここに眠っておられるのだ)とわたくしがエアで答えていたのは当然のことですが、しかしこの塀は結構高くてほとんど見えないのに、このジイさん寛永寺のことを知らない割によく墓所に気がついたな。本堂と手水舎の間にある小さな池には、ちょうど蓮の花が咲いていた↓。 おっ、そういう時期か。なら、不忍まで足を延ばせば綺麗に花が咲いてるのが見られるかもしれないな・・・なんて考えながら本堂に行こうと向き直ると そこ、座るところじゃないし。しかも足で玉砂利をざらざらかき回しているとてもガイジンには見えないし、いい年をしてこんな非常識な日本人がおるのかと目を疑いました。それで本堂。今回は3つの目的がある。まずは今年もどうにか大殺界が終わったので良源さんへお礼参り。それから、良源さんのおふだの仕入れ。前に両大師のおふだはゲットしているのですが、職場で隣の席の人が「見える」人で、かつ本人の生活態度もいかにも悪いモノを呼び込みそうな危なっかしいものばかりなので、魔よけにと未使用の良源さんグッズとおふだを持っていったところ、全部持っていかれてしまったのだ。持っていった中からどれか好きなものを選んでもらうつもりだったのに、まるごと全部彼女が持っていってしまったのでまた新たに仕入れる必要があったという訳で。3つめの目的が御朱印。これまでわたくしは御朱印に興味はありませんでした。が、ちょうど1年前に某有名寺院で生まれて初めて写経体験をしまして。もともと写経をするつもりすらなかったのが、ひょんなことから写経をする気になり、写経の基本を教わったので、せっかくだから続けてみよう。書いたら納経しよう。そういう流れで御朱印をいただくことになりました。世間では御朱印ブームで、読者様の中にも御朱印を集めている方がおられるかもしれませんが、本来寺でいただく御朱印というのはお経を納めてその証としていただくもの。参拝記念でも、スタンプラリーでもありません。納経には御本尊の前でお経を唱えるのと、写経したものを納めるのと2通りあります。わたくしは写経を納めるやり方で、写経の最後には家内安全とか恋愛成就とか厄難消除とか先祖供養とかのお経を納める目的(為書き)を書きます。初めはわたくしもそういう一般的な為書きを書いていたのですが、せっかく歴史と思い入れのある寺に行くのだから、それに沿った為書きにしようと思いフツーの人はまず書かないだろうというような為書きにしています。もっとも、いただいた沢山の御朱印を紹介しているブログなどは数あるものの、実際に納経する人は少ない。なんでそれがわかるかってーと、ある寺では「えらいですね」と褒められたし、最近行った2~3の寺では納経の意味すら知らないようでした。もちろん、納経を知らなかったのは寺の事務員さんの場合で、お坊さんならさすがにそんなことはありませんが(あったらコワイ)。納経の目的は、わたくしの場合結縁(けちえん)。だから、どこの寺でも御朱印をいただく訳じゃありません。そもそも写経にもそれなりの時間がかかるものだし。それで、目的やエリア別にいくつかの納経帖に分けています。そのうちの1冊が良源さん用で、天台の中でも良源さんとゆかりの深い寺だけで構成されています。ので、本尊として良源さんを祀る両大師には良源さん用の納経帖を持ってきました。して両大師でまず納経をお願いすると、靴を脱いであがってお参りしてくださいと言う。おふだとかもついでに頼もうとしたら、まずお参りするようにまた言われた。離れたところからはさっきお参りしたんだけどな・・・まあいいや。通常バージョンの本堂の中に上がって、より良源さんに近いところでお参り。で、いただいたのがこちら↓。 よしよし、これで両大師での目的は果たしたぞ。本堂を出る前におみくじを引いたら、(やっぱり)大吉だった。最後に阿弥陀堂にお参りしてから今度は観音堂へ向かう。清水観音堂での目的も、納経。ここでは御朱印客の「待ち」がいたが、手にしていたのは御朱印帖だけで納経する雰囲気の人は誰もいない。寺離れの著しい昨今、寺によっては御朱印が貴重な収入源になってるところもあるかもしれないし、人それぞれと言えばそれまでですが、寺や仏教に興味のない人が300円払ってひたすら御朱印を集めて何が楽しいんだろう・・と正直思っちゃいますね。現在では神社でも御朱印をやってるところもあるようですが、御朱印本来の意味を考えれば神社での御朱印なんてさらに意味不明。神仏習合の時代ならともかく、今じゃ寺と神社はぱっきり分かれてるからね。これまでの旅で、訳あってここには是非とも納経したいって神社もありました。でも神社で納経なんて受け付けてくれるハズもないので、そういうところでは泣く泣く諦めます。納経して御朱印をいただく。これが仏教をわずかなりともかじった者のマナーだと思うからです。清水観音堂では良源さんを祀っている訳じゃないけど、個人的に良源さんを感じる場所だし、良源さんは観音様の化身とも言われるので良源さん専用の納経帖に御朱印をいただくのがふさわしいだろうと考えていただいたのがこちら↓。 納経とあわせて、観音堂恒例の「恐怖のおみくじ」もひきました。結果は(やっぱり)辛口で、「十に七八は死ぬ」でした。まあ、今回はちょっと思い当たることもあるし、毎回死ぬと言われて免疫がついたせいもあるけど、よく考えるとおみくじに「生死(いきしに)」の項目が含まれているところってほとんどない。他のおみくじではそもそも生死の項目がないんだから、死ぬと言われることがないだけなのだ。してみると、観音堂のおみくじはより古いタイプなのかもしれないな。これで今年のお墓参りは終わり。一時はアメ横に寄ろうかとも思ったけど、お腹もすいたし帰ることにする。で、上野の駅ナカで恒例のお土産を買う。わたくしはミートパイも好きなので、いつものマミーズ・アン・スリールで「ミートパイを置いてくれたら嬉しいんだけどな~」と美人のお姉さんに言ってみた。お姉さんは、「私もそう思うんですけど、認可とかの問題で許可が下りなくって。本店や他のお店にはキッシュとかあるんですけどね~。でもまたプッシュしてみます」と言っていた。ぜひにとお姉さんにお願いをして宮のこごめ大福を買いに行くと、以前あったブースに竹隆庵岡埜さんがいなかった。あれっ?おかしいな・・・この場所にあったはずなのに。上野駅のエキュートでは、わたくしはほとんど同じようなお店でしか買わない。たまに違うものも買うこともあるけど、たいがい恒例の品だけを目当てに行く。のであんまりエキュート内の店舗構成も憶えてないんだけど、何となく前回来た時とは構成が違っているブースがあるように思う。岡埜さん、なくなっちゃったのかな・・・こごめ大福を楽しみにしてたのに。諦めきれなくてエキュート内をぐるぐる回っていると、はじっこに岡埜さんを見つけた。「場所、変わりました?探しちゃいましたよ~」とお姉さんに言ったら、イートインができたので店舗スペースが縮小され、ブースの移動があったんだという。確かに、岡埜さんの近くには今までなかったイートインのコーナーができていた。ま、何であれ岡埜さんがあって良かった無事こごめ大福をゲットして家路に着く。この墓参りから1ヶ月以上たちますが、墓場で会ったジジイのアドレスはまだわたくしのすまほに入ってます(つか、入れたことを忘れてた)。あとでネットで調べてみたけど、何しろジジイのプロフィールの名前はひらがなで登録されていて漢字名がわからないので、ホントに芸能関係者なのかはわかりませんでした。別にどっちでもいいんだけどね。かはくの「海のハンター」展は10月2日(土)まで。金曜は夜8時までやってるそうなので、お近くの方はぜひどうぞ。にほんブログ村
2016年09月11日

かはく(国立科学博物館)に来たのなんて相当久しぶり。子供の頃以来か、少なくとも学生の時が最後の来館だろうと思う。特別展の会場に向かうと、さすがに結構人はいた。でも我慢できない程でもないし、展示物だけをぱっぱか見るつもりだからまあ大丈夫だろう。内部は撮影もOK。お子ちゃまたちが集う場所だから、やっぱり撮影できないとつまらないよね。てことで、わたくしもばっちりカメラを構えていざ中へ。最初は「太古の海のプレデター(捕食者)」というテーマで、古生代から新生代までのハンターたちが集まっている。まず最初に目をひくのがダンクルオステウスの頭部で、 ちとボケてますが、鎧のようなすごい堅そうな頭をしている。いちおう魚の部類に入るらしいが、もう恐竜だよな。コイツは噛む力がすごいらしい。 (名称不明)ふと映像資料に目をやると、なんだかすごいシーンが映っていた↓。 ああっ、お兄さんが丸呑みされるう~! サメみたいなコイツはカルカロドン・メガロドンといって、地球史上最強の「噛む力」の持ち主だと解説にある。最初のダンクルオステウスもかなりのアゴ力の持ち主だけど、アゴの力は0.7トンぐらいだったと考えられているという。1本の歯にかかる力は、巨大なホホジロザメが1.8トン、地上の王者ティラノサウルスが6トン。ダンクルオステウスがどのくらいの力の持ち主だったのかが気になるところだけど、ダンちゃんには歯がなかったから「1本の歯の力くらべ」には参加できないんだそうな。それで、カルカロドン・メガロドンとなるとなんと18トン。アゴの力じゃなくて、歯1本にかかる力だからね。そのうえ、【アゴの力に加え、切れ味の鋭い歯をもっていたので、最強の捕食者だったのだろう】(解説文より)という、最強クラスのプレデターだったようです。会場内では、頭上にも注意しなければなりません。 細長いのが、首長竜のタラソメドン。かはくには国内で初めて発見された首長竜のフタバスズキリュウの本物がいる。ただしここではなく、日本館3階の常設展の方にあるとのこと。今回はフタバスズキリュウは観なかったけどね。その隣にいるのが宙を泳ぐカルカロドン・メガロドンの全身模型↓。全長12.5m。 会場ではあまり丁寧に写真を撮らなかったので名前はわからないけど、 口のデカさもさることながら、歯がすごい。歯が。巻きビシをびっしり植えつけたようなオソロシイおくち。今回はホントに解説とか読まずにひたすら展示物を見て目の保養に努めただけなんだけど、もらったチラシを見ると展示標本の提供者に北九州市立自然史・歴史博物館の名前もある。あっ、これ、「いのちのたび博物館」のことだ。懐かしいなあ。あの時は大内氏の企画展を観に行っただけなので、常設展の恐竜ゾーンには行かなかったけど、あの時ショップで買った恐竜のクリアファイルは今も仕事で使っていて、恐竜好きの同僚には評判がいい。太古のゾーンを抜けると、今度は「大海原のハンター」にテーマが変わる。 海のハンターといえばまずサメを思い浮かべるけど、コアホウドリやオウサマペンギン、ビワアンコウなんてのもいるし、こんな海辺のハンターもいる↓。 でもやっぱ、花形はサメだよな~。今回はサメを観に来たといっても過言ではないのだ。 特にサメが好きって訳でもないんだけど、間近でサメを見るとテンション上がる。最後に寄ったショップにサメの形の海苔があったので姉への土産に買っていったんだけど、姉一家は「えっ、りりちゃんがこれ観に行ったの?どーしたの?」と不思議に思ったらしい。 上の写真でひときわ目をひく白いのはシロワニ。ワニじゃなくてサメ。「鰐」じゃなくて古代でサメを指す「和爾」なんだそうな。凶悪な顔がいかにもサメ~って感じだけど、凶悪なのは顔だけじゃなく 歯医者さんが職人魂をそそられるんじゃないかってほど見事に歯並びの悪い、何列もの歯。これに噛まれたら、逃れようともがけばもがくほど食い込みそーだつか、どんなものでも逃がさない反面、噛んだ本人も歯にひっかかってうまく獲物が飲み込めないんじゃないかなんて心配してみたりもするガスガスと会場内を進んで、いよいよ今回の目玉であるホホジロザメの液浸標本にあっけなく行きついた。あっ、あれっ?これが出たらきっと展示は終わりだよな・・・ちょっと勢いよく進みすぎたかな。チラシを見ると、ホルマリン漬けのホホちゃんで第2章は終わり、ブースを替えて第3章「海のハンターたちのテクニック」、第4章「ヒトも海のハンター」へと続くようだけど、実際には見応えのある標本展示は第2章までだった。今回の目玉であるホルマリン漬けのホホちゃんは日本初の成魚の展示だそうで、大きな水槽に口を開けたホホちゃんが静かに浮かんでいる。ホホジロザメの成魚は4~5mほどにもなるそうだけど、かはくにいるホホちゃんは成魚というもののそんなには大きくない。ちょうど若者の男女のグループがやって来て、180cmあるという男子がホホちゃんに並んでスーパーマンが飛ぶような姿勢をやってみせていた。ホホちゃんはその男子とそう変わりないサイズだったので、体長2mちょっとというところだろうか。人間でいえば高校生から大学生ぐらいってカンジかな。ホホちゃんの写真は、もちろん撮りました。が、これは目玉商品なのでここには載せません。お近くの方はぜひかはくに足を運んでホホちゃんの実物に会っていってくださいで、展示室を出て通路を歩いていくと壁にいくつかパネルが掛けてあった。 うっひょ~、すげえな。しかし、もっとすごい写真があった↓。 うひゃああああ、こんなやり方で撮影しとるのか。いくら防御柵があるといっても、カメラマンも命がけだな。ショップでお買い物して企画展を出ると、もうすぐ11:30だった。かなり急いで観たから、なんとかいい時間にまとまったな。さて、かはくを出ようかな・・・館内にあるリーフレットを取って、常設展の方には何があるのかな?と思って見たら、こんなのあるのか~ってのをいくつか見つけたので、目ぼしいものだけを見に常設展の方に向かう。だってせっかくお金を払って入ってるんだしさで、移動したのは地球館の2階。ここは科学技術のフロア。 まず最初にあるのが重要文化財のこれ↓。 【江戸期の和時計技術の最高峰 万年時計(万年自鳴鐘) 1851(嘉永4)年、田中儀右衛門久重製作 寄託者:(株)東芝 江戸末期から明治初期に活躍した田中久重が、その持てる技術の全てを傾注して 製作した和時計の最高傑作。不定時法に合わせた割駒式文字盤などの各種表示や 太陽や月が自動運行する天象儀が備えられ、日本独自の創意工夫が随所に見られる。 また当時の職人らにより、意匠的にも美術工芸的にも優れたものとなっている。】 (現地解説より)ほおお~、きっとこれも蘭学の影響を受けたものなんだろうな。現地ではその程度でオランダ萌え~してただけなんだけど、帰ってウィキペディアで調べてみると田中久重さんは後の東芝の重電部門である芝浦製作所の創業者なんだそうな。「東洋のエジソン」「からくり儀右衛門」とも呼ばれた発明家だとある。「鎖国」による泰平の世で世界の進歩から立ち遅れた日本は、明治に入って西洋に追いつけ追い越せでしゃかりきに頑張った・・・みたいに、一般的には「鎖国」はとかくマイナスのイメージで語られることが多い。「ガイジンの夕べ」の方でこの後書いていきますが、江戸期の日本は決して引きこもりになっていた訳じゃない。色々と制約もあったので、西洋のように自発的に科学技術全般が飛躍していった訳でもないけど、オランダ商館を通じて西洋文化もそれなりに入ってきていたし、少ない情報を熱心に学んで日本ナイズして研究・開発にいそしむ努力家もいた。和時計の先には、そうしたものも展示されている。 (18世紀初頭製作:日本人が作った地球儀) ↑これの来歴はちょっとわからないけど、日本語が書き込まれているので日本人の手によるものだろう。オランダ商館は地図ももたらしているので、それを基に描いたものかもしれない。日本の左下に描かれている島嶼部がVOCがテリトリーにした辺りで、大商館のあったバタビアは今のインドネシアのジャカルタ。緑と資源の豊かな無数の島々が連なるインドネシアを、ヨーロッパ人は「エメラルドの首飾り」と呼んだそうなんだけど、ちょっとこの地図では首飾りが台無し・・・「江戸時代の科学技術」のコーナーはすぐに終わって、近代へと突入する。ここに鎮座ましますのが いわずとしれた零式艦上戦闘機(二一型)。かはくにもあったのか・・・確か、靖国の遊就館にもあったよな。でもどちらかというと、人間魚雷「回天」とか特攻機「桜花」の方が記憶に残っている。「こんなちゃっちいのでホントに戦地で活躍してたのか!?」・・・それが遊就館での素朴な感想でした。でも、かはくの零戦はカッコ良く見える。零戦の足下には 【「YS-11量産初号機」募金のお願い 当館では、YS-11量産初号機を良好な状態で未来へ継承するため、現在、 羽田空港内で保管しております。YS-11量産初号機の維持管理等にご協力 くださいますようお願い申し上げます。】と募金箱が設置されていた。YS-11か・・・先日、アメリカへ向けて飛び立ったやつが空調トラブルで引き返したとかってニュースを旅先で見たけど・・・あ、あれはMRJか(笑)。ま、なんにせよ少子高齢化で人口減少が必須の日本を支えるのは世界に誇る技術力であることに違いはない。頑張れボクらのMRJ。てことで、寸志を募金箱に放り込んで本来のお目当てを探す。 近未来的なこの辺のブースは宇宙開発がテーマ。ここでは小惑星探査機はやぶさが小惑星イトカワから採取した微粒子が公開されている。と言ってもとてもちっちゃいモノらしく、光学顕微鏡を覗いて観察するようになっている。なんで顕微鏡の写真がないのかと思ったら、肉眼で見られるオープンな展示じゃないので、順序よく並んで1人ずつ見るようになっている。持ち時間は1分。人は少なかったけど、わたくしの前にも後にも人はいたので、悠長に顕微鏡の写真を撮ってる場合じゃなかったのだ。で、肝心のイトカワの微粒子ですが・・・うまく合わせられなかったので、全然わかりませんでした(笑)。まあ、お子ちゃまが来ることが多いので、ちびっ子があれこれ操作しているうちにターゲットに焦点が合わなくなってしまうのだろう。たった1分だから、焦点が合うまで粘る訳にもいかないし。てことで、残念な結果ではありましたが、ここにこんなものがあるなんて全然知らなかったので、そのことを知っただけでも収穫と申せましょう。さて、ここでの用事は済んだので出口を探していると、こんなスペースがあった↓。 ここでプチ講演会でもあるのかな。歩きながらどんなことをやるのだろうと思って見てみたら、【7月23日(土)ディスカバリートーク 「日本の植物とシーボルト」 植物研究部 秋山忍 開始時間:11:00~、13:00~(各回15分程度)】うわっっ、シーボルト!?植物への造詣は非常に浅いわたくしですが、シーボルトとなると話は別。ケンペルやツュンベリーと同じく、シーボルトはオランダ商館付医師だったので、もう旬もいいとこです。ま、個人的には今のところシーボルトさんてあまり好きじゃないんだけどね。しかし、2回目の講演まであと1時間以上あるぞ・・・ちょっとそこまでは待てないな。ので今回はパス。夏休みに入ったお子ちゃまたちで賑わう地球館を出て、日本館へ向かう。にほんブログ村
2016年09月08日

ブログネタがたまりすぎて大変なことになっている上に、「ガイジンの夕べ」は当面終わりそうにないので、短編で上げられるものを随時挟んでいきます。まずは今年のお墓参り報告から。2016年7月23日(土)はれ去年のクソ暑い中のケージョー行きからもう1年たつのか・・・早いのう。去年の墓参りはトラブル続きで、行きついたところが完全予定外の小塚原だったんだっけ。今年はあんな大失敗をせぬよう、気をひきしめていかねばな・・・てことで、朝早く出られたし、電車に忘れものもせずに順調に着いた。晴れとはいうものの、まだ朝方はうすぐもりで少しはラク。でもたいてい、わたくしが墓場に着くと見事に晴れてくるのだ。例によって、お墓参りのあとで寄るところを考えてきているので、暑くなる前に手早くお墓のお掃除をして上野に移動したいところ。隣接する染井霊園と違って、蓮華寺には門があるので何時から開いてるのかが気になるところだったけど、8時すぎに着いたら門は開いていたのでほっとして中に入る。累代のお墓と大おじさんのお墓のお掃除をまず済ませる。昔ながらの東京のお盆は7月で、先週の連休できっとまたいとこのSちゃんは来たのだろうと思っていたら、案の定累代のお墓の方には比較的新しいお花か供えられていた。Sちゃんは、大おじさんのお墓を知らなかった。いや、あること自体はなんとなく知っていたらしいんだけど、彼がお参りするのは累代のお墓と、彼の母親の意向に沿って無縁墓にお線香を供えるだけだと言っていた。3年前ここでSちゃんに会った時、Sちゃんにお線香を買ってもらって累代のお墓に一緒にお参りしたあと、わたくしが大おじさんのお墓の方に行っているとSちゃんもやって来て、しげしげと大おじさんのお墓を見ていた。ので、今年は大おじさんのお墓にもSちゃんはお花を供えてくれたかな?と思ったら、そちらにはお花はなかった。まあ、わたくしも母親から大おじさんの方はいいわよ~と言われてはいるものの、あるとわかっているのに行かないのもなんだし、これまでずっとそうして来たので今回もお花は2セット分用意してきている。1人なので、まず2つのお墓の掃除を済ませてお花を供えてから最後にお線香を捧げるんだけど、今年こそ早い時間に済ませる決意をしてきていて、朝早くからお線香を頼むのも少々気がひけたので、今年はお店で売ってる墓参り用の線香とチャッカマンを持参していた。そして、いよいよの点火・・・が、チャッカマンで綺麗に線香の束に火をつけるのって案外難しい。まだついてない部分に火をあててると、最初に火がついた線香が早くも灰になって手の上に落ちてくる。あっちいい~~~!!しかし、投げ出す訳にもいかずじっと耐えてどうにか火をつけた。で、線香立てに挿そうと思ったら、サイズがあわなくて(本数が多すぎて)入らねえ~!しょうがないから入るぐらいに束から線香を抜き始めたけど、ぽきぽき折れるわ燃えカスが容赦なく手に降り注いでくるわで大パニックようやくひと束挿して、もう一つの方はあらかじめ少し抜いておこうと思ったものの、抜き足らずにヤケドを増やしただけだった。大おじさんの方でも同じように苦戦して、全部挿し終えてから墓を眺めるとあたりに灰が散乱してせっかく掃除したのも台無しだし、手はヤケドだらけの惨憺たる状況もうほとんど墓場に根性焼きしに行ったようなもんです。この記事を書いてる今は墓参りから1ヶ月以上経ってますが、今なおわたくしの左手には根性焼きの跡がぽつぽつ残っております。ぐったりして蓮華寺を出て、染井霊園の中へ入る。そうだ、まだ長堤を見てないから、寄っていこうかな・・・と思って長堤のある方向へ歩き出す。近くまで来て案内図を見て位置を確認していると、後ろから声をかけられた。音楽を聴いていたので、何かな?と思ってヘッドホンを外したが、これがマズかった。声をかけたそのジジイはもはや通り過ぎていたのに、わたくしと目が合うと戻ってきておしゃべりを始めた。「何してるの?」みたいなところから会話が始まったと思うんだけど、長堤を見に来たと言うと、自分もそういうのが好きで、京都に住んでるんだけど今ちょっとこっちに来ているので、これからどこそこへ何々を見に行くところだと言う。おとなしく聞いてると、ジジイの話は自由奔放に墓場を駆け巡る。何でも自称・芸能関係者で、確かに75歳にしてはチャラい格好をしていた。も~うナントカ監督の話から、いくらでマンションを買っただの、どこそこの外国へ行っただの、ジジイの話は尽きない泉のよう。75年分のあなたの話なんて、とても聞いていられません・・・芸能関係者だといえば誰もがありがたがると思っているのかと思って、TVは見ないし一番いらない大型家電はTVだと言ってやったが、全然へこたれない。墓場だから蚊もいて、わたくしが蚊にさされた足をボリボリ掻きながら聞いてても全く意に介さない。出会った場所が墓場だから、ひょっとしてもう生きてない人なんじゃないかとも思ったけど、iPhoneとか持ってるし、いちおう生きた人間ではあるらしい。色んな話のほとんどがわたくしにとって興味のないものだったので、そんなに積極的に相槌を打った訳でもないし、むしろ邪険な態度だったと思うのにジジイはわたくしが相当気に入ったらしく、「アナタ、京都にいらっしゃいよ」とか言う。しまいには、「京都に来たら連絡ちょうだい。連絡先教えて」と言ってiPhoneを取りだしたえええええ~っ、マジ困るんですけど・・・しかしそこはジジイの悲しい性(さが)。iPhoneの使い方がよくわからなくて、自分のプロフィール画面を表示できない。「アナタ、わかる?」と言って自分のiPhoneをよこしたので、ジジイ以上にiPhoneの使い方を知らないわたくしがジジイのiPhoneで奮闘するハメになった。(なんで私がこんなこと・・・てか、見ず知らずの他人に個人情報満載のすまほなんか預けていいのか?)と思いながらいじっていると、どうにかプロフィールが出た。とっとと赤外線通信してオサラバしようと思ったら、赤外線のやり方がわからない。仕方ないので、手入力でジジイの情報を自分のすまほに入力することにした。わたくしがそうやって奮闘している間、ジジイはそばの低い塀に座って相変わらず滔々と自分の話を続けながら、「アナタもここ、座りなさいよ」などと呑気に言う。ナントカ監督のもとでナントカって人と一緒に仕事してたけど、ナントカさんの方はゲイの監督に気に入られて出世したんだという。自分はゲイじゃないから気に入られなかったとジジイは言ってたけど、話言葉は立派なオネエ言葉だった。どうにかジジイのデータだけわたくしのすまほに取り込んで作業完了の旨を告げたが、ここも高齢者ゆえ自分のiPhoneの電話帳を確認することはなかった。これが若い人なら、わたくしのデータが自分のiPhoneにちゃんと入っているか確認するところだけど・・・ジジイで助かった「アナタこれから上野に行くの?なら、一緒にお食事しない?ごちそうするわよ」カンベンしちくり・・・忙しいので用事を済ませて早く帰りたいから、と断ったら「忙しいの?なんで?何してるの?」とまた新たな話を展開する。「将軍たちの宝」シリーズにもかなりの時間をかけたけど、現在連載中の「ガイジンの夕べ」にもかなりの時間と手間暇をかけていて、この頃はマジで時間が惜しい時だったので、趣味の勉強で忙しいと言ったら「アナタ大学生?」ときた。おお、学生さん扱いされるのも久しぶりだな~。しかし、さすがにここ最近身も心も脳ミソもめっきり老けこんできているのを重々自覚しているので、嬉しくも何ともない。あとで家族に「大学生?って言われた」とメールしたら、各人の大爆笑を買った。これまでのわたくしの統計で言うと、さみしい場所ほど若く見られる傾向があるのが判明している。墓場なんてさみしい場所の最たるものだから、よっぽど若く見えたのだろう。ジジイのiPhoneを返したあと、わたくしが霊園内の配置図を見始めるとこれまであんだけ喋ってたのがウソのようにジジイは去っていった。最後にわたくしの名前を確認して。去っていくジジイの背中を眺めながら、彼はまさか自分のiPhoneにわたくしのデータが入っていないなど思いもしないだろう・・・とちょっと後ろめたさも感じたけど、たっぷり50分は話していった。その間、わたくしはずっと立ちっぱなし。あ~っ、腰いてえ・・・体調だって良くないのに、この後の予定をこなせるかしらとにかく用事を済ませて一刻も早く帰ろうと思い、長堤のある方へ入っていく。で、こちらが長堤跡↓。 ほとんど何の変哲もない墓地と化してますが、一段低いところが長堤の跡らしい。 【長池跡(谷戸川源流) 長池は、かっての谷戸川の水源にて、古地図(安政3年・・1856年・・の 「駒込村町一円之図」)によれば巣鴨の御薬園と藤堂家抱え屋敷にまたがる広大な もので、長さは88間(約158m)幅は18間(約32.4m)もあったという。 この池は現存していないが、この案内板下のくぼ地の一帯がその跡地(約半分で 残り半分は道路部分)と思われる。 かっては清らかな湧水が池を満たし、清流となって染井霊園沿いに流れていた。 池から西ヶ原あたりまでは「谷戸川」、駒込の境あたりで「境川」、北区に入り 田端付近で「谷田川」、さらに下流の台東区根津付近からは、「藍染川」と呼ばれて 不忍池に流れこんでいた。(全長約5.2km) 明治末期には周辺の開発等もあり、湧水も減少して池も小さくなり、大正に入って 埋め立てられた。ここに、在りし日の湧水清らかな「長池」とその清流「谷戸川」を しのび記念の一文を残すものである。 平成14年3月 ソメイヨシノの咲き乱れる佳日に 東京都染井霊園】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)ほお、不忍池まで流れ込んでたとな。ここは染井霊園の北東の端にあって、文中にある「道路部分」は2年前の「墓参り2014(2)」でバアちゃんが転んだ細道のことで、その先には慈眼寺などがある。ここについては全然知らなかったけど、湧水の大きな池があった場所だったのか。なるほどね。染井霊園内にはポンプ式の井戸があるし、蓮華寺にも同じくポンプ式の井戸がある。かつての長池と同じ地下水をくみ上げているのかもしれないと思った。さて、これで巣鴨はおしまい。いつも墓参りの後で大福を買う地蔵通り商店街はまだ開いてないかもしれないし、去年お気に入りとなった宮の大福を買おうかと思っているので、商店街はパス。んで、上野に移動。また上野~?はい、また上野です。でも、寛永寺にも寄るには寄るけど、今回はちょっと趣が違うのだ。旧寛永寺境内の上野公園に入ると、まず現れるのが国立西洋美術館。 今年の7月17日に世界文化遺産に決定した建物です。まだ文化遺産になりたてホヤホヤで旬なスポットなので、いつもよりこの建物にカメラを向ける人が多うございました。しかし、わたくしのお目当てはここじゃない。進行方向に目を向けると ああ、相変わらず人が多いな・・・だから早く上野に移動したかったのに。写真に映ってるように、制服を来た中学生ぐらいのお子ちゃまも多くて、コイツらと行き先同じじゃないだろーなとビクビクしながら旧寛永寺本坊方面へ歩き始める。これが西洋美術館を脇から見たところ↓。 この先にある国立科学博物館(通称:かはく)がわたくしの今回のお目当て。今日はこれを見にきたのだ↓。 今回は史跡めぐりじゃありません。別にサカナが好きって訳じゃないけど、コープのチケット関係のチラシを見ていた時にこれを見つけて、ハートをわしづかみにされたのでソッコー前売りを買いました。夏の大型企画展で、すでに夏休みに入っているし、お子ちゃま達でかなり混むだろう・・・まだ始まったばかりで、できれば夏休み前に来たかったけど、開始直後の先週は天気が悪かったので墓参りには向かず、今週に持ち越しとなった。ただ、10月までやっているので、あまり混んでるようだったら今回はパスしてまた後日あらためて来ようかと思っていた。週末なんかは結構遅くまでやってるみたいなので、仕事帰りに来てもいいしな。それで、入口から少し様子をうかがってみたけど、まだそれほど混んではいないらしい。ので、中に入ってみた。にほんブログ村
2016年09月05日

ツュンベリー: 会社がタイオワンに進出した頃から周辺の変動も大きくなっていくが、 どうする? そのままタイオワンの話を続けるか?りり: う~~~っと・・・ ただでさえ複雑な歴史なんで、なるたけ時系列でお願いします。ケンペル: よし。 平山常陳が処刑された同じ月の1622年8月、イギリス東インド会社のバタビア支配人 ファースランドは日本商館の採算が悪いことを理由に閉鎖を命じ、コックスらを召喚したが コックスはすぐには応じず、事務整理の都合上次の季節風期まで残留することを回答した。 しかしこれはバタビアの理解を得られなかったようで、コックスは手ひどくなじられた。 さらに抵抗する意思をなくしたコックスは商館での決議をへて閉鎖に応じることを決め、 日本人関係者に贈物をして暇を告げ、1616年に得ていた朱印状と商館倉庫の保管を 平戸候に託した。り:うん? アンボイナ事件で肩身が狭くなったので商館を閉鎖したって訳じゃないのか・・・ズーフ: まあ、まったく無関係ともいえないかもしれない。 バタビアからコックスへの叱責状が送られたのは、事件の後だからな。 だが、イギリスでは採算の悪い商館を閉鎖する案が事件の前から持ち上がっていたので、 事件が直接の原因ではないだろう。 イギリス側でも我々と同じように中国貿易の足がかりをつかもうと努力はしていたが、 成果を収めるには至らなかった。申維翰:何の事件が、なんだって?レフィスゾーン: モルッカはヨーロッパで珍重された香料を産出するので、争いが激しかった地でね。 我々がモルッカ諸島のアンボイナに進出したあと、イギリスも進出してきて競争が激化し、 それで英蘭防禦協定の中には香料貿易に関する項目も含まれていた訳なんですが、 現地では協定を無視した動きなどもあり、争いは相変わらずだったようです。 そして1623年2月、イギリスの傭兵だった日本人が我々の砦の内部事情について 聞き込みをするなどの不審な動きがあったのでこの男を拷問にかけたところ、 イギリスによるオランダ砦襲撃の計画を自白したので、ただちにイギリス人達を捕らえ、 拷問によって計画が事実であることが明らかになったそうです。 それでイギリス人や傭兵の日本人などを処刑して、同地でのオランダ支配を確立したのが アンボイナ事件です。金仁謙: それなら、倭国で肩身が狭くなるのはオランダ人なのではないか? 処刑した中に倭人も含まれているのだからな。レ:どうでしょうね・・・ ただ、前回の報告書の中でカンプスは 【皇帝(将軍)の名誉欲は帝国内に限られ、何人に対しても戦争を開かず、海外にいる臣民が 彼に迷惑をかけ、外国君主との戦争の原因となることを許さない。】 という解釈を示しているので、のちに日本人の海外渡航を禁止することになる ひとつの遠因になったという可能性はあるかもしれませんね。 別の見方をすれば、日本人を守るための措置だったとも言えるのかもしれませんが。り:ともかく、モルッカと日本からの撤退が重なって、イギリスはインドの方へ 重点をスライドしていく訳ですね。 で、ライバルが1人減ったと。 とはいえ、倉庫の管理を委託していくあたり、完全に撤退する気はなかったようだけど。ズ:今後に望みをつないでいたからこそ、穏便に退去する策を取ったのだろう。 現に、かなり時間が経ってからイギリスは通商再開を求めに来たしな。 そのほか、出国までに平戸候への貸付金の回収が進まなかったので、 コックスは我々に取り立ての継続を依頼していった。ツ:平戸候には、我々も多額の貸し付けをしていてねえ~。 オランダ商館が平戸から長崎に移されたあと、事あるごとに平戸候に借金の返済を 頼んだんだが、なんだかんだと理由を付けられてなかなか返してもらえなかったと 時の商館長が書き残しているよ。ケ:リチャード・コックスが日本を出国したのは1623年の末だったが、 同じ年にはポルトガル人の日本在住禁止と朱印船のマニラ渡航の禁止が公布された。 この段階ではまだ完全にポルトガル人が追い出された訳ではなかったが、 それまで宿としていた日本人キリシタンの家に泊まることは禁止され、 キリシタン以外の家に泊まることが定められた。り:ふん、いよいよだな。ケ:翌年は会社がタイオワンにゼーランディア城を築いた年だが、 ついにスペイン船が来航を禁止された。り:まずは小さな虫からか・・・ これで2匹目退治。 スペインが渡航を禁止されたのはなぜなんでしょうねえ。ツ:まあ理由は色々あるだろうけど、キリシタン関係も大きな理由だろうな。 キリスト教禁制を出しても宣教師の潜入が収まらないので将軍が怒ったともいうし。レ:日本に入ってきていた修道士はイエズス会だけじゃなかったからね。 日本での布教のパイオニアともいえるイエズス会はさすがに日本との関わりも深く 状況を判断できるだけの知識もあったけど、日本での経験が浅く、 甘く考えがちだった新参の宣教師の中には禁教下でも布教をやめなかった者もいたらしい。り:なんでそんなに頑張るんだろ?レ:頑張りはまだ続くんだよ。 スペイン人は追放されても布教は諦めなかった。 スペイン人が日本に入れないのなら、日本人をマニラで教育して布教にあたらせるしかない。 そう考えたスペインのマニラ総督アロンソ・ファハルドは日本人学校の建設に着手した。 しかし、ファハルドはブヨ(島人が噛んで楽しむ果実)や煙草を専売にして 学校の建設・運営費に充てようとしたので一般商人らの恨みを買い、ファハルドが死ぬと 学校建設計画は破棄された。 それに、もうすでに日本で禁令が出ているのに今さら学校を建てても遅すぎるし、 すぐに役に立つかどうかわからないものを建ててどうなるって意見もあったらしい。り:へえ、もはや執念だな。ケ:スペインも我々がタイオワンに拠点を持つ危険性を十分認識していたが、 後手に回った。 彼らが基隆(キールン)港を占領し、社寮島にサン・サルバドル城を築いたのは 1626年だ。り:スペインの台湾進出、やけに遅くないですか?レ:ちょうどファハルドが死んだりしたんだよ。 スペイン人は勇んで基隆に陣取ったものの、この頃のマニラの財政状況はあまり良くなく、 基隆に着いたスペイン人はすぐに困窮してねずみや犬を食って飢えをしのぐ ありさまだったらしい。 基隆でも早速布教を始めたから、現地人との関係はなかなか良好で、彼らから 食料を援助してもらったこともあったようだよ。ツ:それでタイオワンを攻めようとしたらしいが、応援の船は暴風雨で 基隆にたどり着けなかったりと困難もあり、また台湾遠征に反対する者もいた。 他にもっとやるべき事があるだろうとか、台湾にはろくな産物がないとか、 オランダ人はあくまで貿易の拠点を築いただけだから、別に今叩かなくてもいいだろうとか、 それより中国人と日本人対策のが先だとか。 スペイン人はずいぶんと海外に在住する日本人に手を焼いていたようだからな。 基隆は台湾北部にあってタイオワンと日本の間に位置していたから、 我々にとっては邪魔な存在で妨害されたこともあったけど、彼らは1642年には 撤収した。ケ:スペイン人がサン・サルバドル城を築いた年は後水尾天皇の二条城への行幸があったので、 参府は江戸ではなく京都で行われたが、我々はスムーズに将軍に謁見が許されたのに、 ポルトガル人は冷たくあしらわれたという。 り:日本に貼りついていた最大の虫にも、すでに逆風が吹き始めていたようですね。 もっとも、スペインの来航禁止にしても、オランダ人の地道な悪口運動が 後押しをしたというのが一般的な見方ですけど。 貿易面だけじゃなく、カトリックVS.プロテスタントの側面もあるからな~。 ホント、めんどくさいったらありゃしない。レ:めんどくさがり屋だなあ、お前(笑)。り:そういうレフィさんだって、参府日記で結構めんどくさいを連呼してるじゃないですか。レ:だって日本人てマメすぎるっていうか、ちょっとウザいっていうか お前だって大まかなところを知っているのなら、わかるだろう? 私の気持ち。り:そりゃあまあ、ズーフさんの次の商館長になったブロムホフあてに、通詞から 「お腹がすいたから、パンをひと切れわけてください」とか 「コーヒーに砂糖を少し入れてもらえませんか」とか言ってる書状も残ってるし、 シーボルトさんの参府記録なんかでもちょいちょい来客があって、 「うわあ、これ、ウザかっただろうな~」とは思いましたけどね。レ:だろ?ケ:話を続けるぞ。 少し話が前後するが、ここからタイオワンだ。 我々がタイオワンに拠点を置くと、その影響はすぐに現れ始めた。 日本人はタイオワンにも朱印船を出して交易していたからだ。 1624年に出た朱印船は航海に失敗して何の積荷も得られずむなしく帰国したが、 この失敗はすべてオランダ人にあるといい、しかもオランダ人の品はすべて略奪したもので、 略奪のなかった年には日本への輸入はないなどと罵倒した。申:痛いところを突かれたな。 敵はポルトガル人だけではなくなった訳だ。ケ:日本在住の中国人もタイオワンに来ていたので、彼らもライバルだった。 我々に好意を持たない中国人の海賊は、タイオワンへは全く絹織物を持ち込まず、 わざわざ他の港で荷を下ろしてひそかに陸路でタイオワンへ運び、闇に紛れて 日本人に荷を売るなどという行為をしていた。 そこで1625年、タイオワン長官のソンクは日本人に10%の関税を課し、 日本在住の中国人の渡航を禁じた。その頃、日本人の朱印船2隻が タイオワンに入港したが、自分達は将軍の朱印を持った商人であり、 以前からこの土地を所有していること、日本ではオランダ人に課税していないのだから 不当だなどと主張して関税の支払に応じなかった。 それでソンクは、日本人の買い入れた生糸のうちの15ピコルを没収した。 この船は長崎代官・末次平蔵政直の船だったので、平蔵はこの件について幕府に訴えた。り:この道は、いつか来た道~ケ:幕府はすぐには反応を示さなかった。 しかし、これ以降タイオワンに行く船に与えられる朱印状は一般の商人には与えられず、 限られた大商人だけに与えられることになった。 さらに、末次平蔵は幕閣の松平右衛門太夫正綱から関税を支払う必要はないという旨の 書状を得ていた。り:松平正綱? 智恵伊豆のパパじゃないか~。ズ:智恵伊豆・・・ 島原の乱で大将を務めた男だな。り:そう、それ! 実際には、信綱は正綱の養子ですけどね。ズ:前回、禁止されていたにも関わらず高官が朱印船に出資していたと話しただろう? 松平正綱もそのうちの1人だ。り:ほ~ほ~ほ~・・・それは・・・ズ:ほかの出資者に、永井尚政、井上正就などもいる。り:永井尚政か・・・ 小牧・長久手で池田恒興を討った永井直勝の子だな。 まだそういう時代の話か~。ズ:先に京都でスムーズに謁見がかなったとの話が出たが、実際はひと悶着あった。 これら幕閣の出資者は直接利害が絡むので、謁見を妨害しようとしてきたのだ。 平戸時代の我々の世話役は平戸候だったが、平戸候が必死になって我々の弁護を してくれたおかげで将軍への拝謁が叶ったのだ。り:ふ~む、皆さんが江戸に参府した折には時の幕閣の他に平戸候にも挨拶してますけど、 そういう平戸時代のあれこれがあったからなんですね。レ:もっとも、筆頭の閣老だった大炊殿が我々と親しい間柄だったというのも 大きいけどね。 そして将軍も我々に対し好意を示して下さったのが決定的だった。り:土井大炊頭利勝は、「不快な、苦い、黒い、醜い、絵に描いた悪魔のような 恐ろしい顔をした人」とオランダ人から恐れられていたって聞きましたけどレ:それはそれだよ。 最高閣老の口添えを得られたことは我々にとって非常な利益になった。り:オランダ商館は井上正就の弟とはのちに深く関わることになりますけど、 ここでもよく耐えていい関係を築けたことが商館の存続につながる訳ですもんね。 ズ:この時、商館長はコルネリウス・ファン・ナイエンローデだった。 ナイエンローデは、タイオワンでは日本人を決して雇わないよう勧告している。金:なぜだ?ツ:日本人同士で内通するに決まってるからさ。り:ナイエンローデはあまり評判のよくない商館長で、永積洋子氏も結構きついことを 書いてますが、ツ:実際、現地で色々トラブルがあったようだから仕方ないだろう。 もっとも、同情すべき点もある。 平戸の商館長はスペックス(2回目の就任)からカンプスに代わり、カンプスの後は ウィレム・ハイヘンが継ぐはずだった。ところが、ハイヘンは日本到着を目前にして 船上で亡くなった。 カンプスはすでに任期を終えて出国する許可を得ており、船長として来日した ナイエンローデに日本に留まるよう依頼し、ナイエンローデは総督からの指令が来るまで 日本に留まることにした。 しかし、その3ヶ月後、カンプスは急死した。ナイエンローデはなんの引き継ぎもなく、 日本についてのなんの経験もなく、急遽商館長になることになったんだ。 日本のような難しい地に、しかもタイオワンにからんで緊張が高まっている時期に、 何の経験も知識もなく商館長として立ち回らなければならなかったのは 気の毒な気もするね。 り:でも素直な目で見ると、ナイエンローデはそんなに 勝手なことやってる訳でもないんですよね。 てか、理を通そうとするまっすぐな人っていう気がしたんですけど。ズ:だが、これはもはや「政治」だ。 理は確かに大切だが、我々をねたむヨーロッパ人からどれだけ卑屈だと非難されようと、 相手国の状況や慣習に応じて柔軟に臨機応変に対処していく必要がある。 日本のような国はとくにそうだ。レ:ナイエンローデだけじゃなく、タイオワンの長官だったソンク、 その2代あとに長官となったピーテル・ノイツ。 微妙な時期に、日本を知らなさすぎる人物が重なった。 これが、事件に発展したひとつの要因でもあるだろうね。※今回の主な参考文献『日本大王国史』(カロン原著、幸田成友訳著/平凡社東洋文庫90)『平戸オランダ商館日記 近世外交の確立』(永積洋子/講談社学術文庫)『日欧通交史』(幸田成友/岩波書店)『西班牙古文書を通じて見たる日本と比律賓』(奈良静馬/大日本雄弁会講談社)『出島 異文化交流の舞台』(片桐一男/集英社新書)にほんブログ村
2016年09月04日

ケンペル: 平山常陳事件が落着した翌月には、長崎で教会関係者らが一斉に処刑された。りり: 「元和の大殉教」といわれるやつですね。 この時に火刑・斬首となった者は55名で、宣教師だけじゃなく、 彼らをかくまった女子供まで処刑されたとか・・・ツュンベリー: 一斉に大人数が処刑されたことや、ヨーロッパにもこの報がもたらされたことから 「日本二十六聖人」の処刑と並んで有名なものだけど、キリシタンの処刑は 太閤の時代から行われていたよ。り:キリシタンの歴史もまた色々あって、後半で少し触れようかと思ってはいますが、 元和の大殉教までにも前段階があった訳ですよね。レフィスゾーン: それはそうだよ。禁令が出されてからも果敢に布教する宣教師もいたしね。 幕府も宣教師を捕らえては投獄したりしてキリシタンの取り締まりを強化していたけど、 平山常陳事件をきっかけに堪忍袋の緒が切れたってとこだろう。 長崎奉行の長谷川権六は前回話したように宣教師をかばったので、 自身にもキリシタンの疑いがかけられて、その疑いを返上するために 弾圧に積極的に乗り出したといわれているよ。り:「鎖国」を形成する重要側面のひとつであるキリシタン禁制も、 ここで大きく動き出した訳だ。 そして、別のファクターである朱印船についても動き出すんですね。ズーフ: そうだな・・・ 前回、お前が言っていたように、日本人は朱印状を掲げて海外に買い付けに出ていた。 これは権現様が定めたものだったが、ヨーロッパ人の東南アジア進出によって 色々とトラブルが起こるようになった。 ヨーロッパ船によって拿捕されたり、朱印船を利用して宣教師が日本に潜入しようとしたり。 幕府は高官が朱印船貿易を行うことを禁じていたが、実際にはひそかに出資していた。 そういう裏事情があるので、ひとたび朱印船がトラブルに巻き込まれれば 問題も大きくなったし、我々ヨーロッパ人への風当たりも強くなった。 ・・・まあ、色々な意味で平山常陳事件がいい例と言えるな。り:大坂の陣も終わって名実ともに天下平定に至ったとはいっても、 まだ前時代の記憶が鮮明な時期だから、譜代であろうと個人に経済力を持たせるのは 危険だという考えだったのかな。ズ:我々としては、何としても中国に足がかりが欲しかった。 平戸の商館長はスペックスからレオナルド・カンプスに代わっていたが、 平山常陳らが処刑された同じ頃にカンプスが書いた報告書によると、 ポルトガル人の日本貿易は十分な成績を示し、利益は100につき 50より少ないことはなく、たいがい75を挙げていたと言い、 マカオは以前は寒煙荒涼の地だったのが、この称賛すべき甘すぎる利益により 富める町となった。 それゆえに、新たに有効で利益のある他の国土を探し、土着し、商業を行おうとするほど ポルトガル人やスペイン人は馬鹿ではないと考えられるといい、 【彼らは如何に日本において侮辱されても、如何に多数の人々が不法に生命を失い、 なお毎日殺されても、アンドレ・ペッソアのガレオン(大船)が皇帝(将軍)の命令により 兵力をもって攻撃せられ、長崎の前で沈没しても、我々のために海上で危険を冒しても、 日本を捨てて他へ行きかねるのである。ガレオンでは危難不幸多しとし、小さなガリオット (小舟)をもって代えた。すべてこれらは甘い利益が奴隷的のくびきの下に彼らの肩を 屈せしめたのでなければ、世界統一を志せる賢明高慢な国民の耐え得ざる所であろう。】 と分析している。 ツ:甘い利益は人を狂わせるからねえ。 我々がヨーロッパ人の中で日本貿易を独占してからも、命をかけて密貿易を 行う人間もいたしな。り:カンプスの報告書はまだ各国が競合してた時期のものだから、内容的にはかなり 生々しさがプンプンしてますけど、甘いあま~い蜜を持つ、日本という名の小さな花に 強欲な虫たちが群がってる光景が目に浮かびますね。レ:虫?・・・って、私たちのこと?り:当時の状況を端的に表すいい表現だと自負してますけど、何か?レ:・・・・しくしく・・・・・・・・ケ:日本人は世界を二分していたスペインとポルトガルを完全に追い出し、 次に覇者に躍り出た我々オランダをも日本国内では厳格に管理下においた。 その厳しい日本人の血を、お前も確かに受け継いでいると実感するよ。り:まあ、視点を変えればこれも痛快な話じゃ~ありませんか。 世界の覇者たちが揃いも揃って、極東の小さな島の強権にあらがえなかったんだから。ツ:そして今も、ジジイの凶暴性にあらがえない・・・金仁謙: いちいち相手にするな。女々しいぞ。申維翰: さっきの話に出てきたあんどれナントカとは何だ?り:朱印船に出資していた中には九州の大名などもいて、有馬晴信が出した朱印船の船員が マカオでひと悶着を起こしたので、当時マカオの総司令官だったアンドレ・ペッソアが 鎮圧して日本人が多数死傷したそうです。 その翌年、ペッソアが事件の申し開きなどのために来日したんですが、 色々といざこざがあって、大した成果も得られないうちに、有馬晴信らが ペッソアと船の捕獲をイエアスに嘆願し、イエアスもGOサインを出しました。 それでペッソアに召喚の命令が伝えられたものの、ペッソアは召喚に応じず 出国の準備を始めたので、有馬晴信らによってペッソアのガレオン船の マードレ・デ・デウス号を襲撃してペッソアは自殺、船は炎上したという事件です。 もっとも、一般的には船名は「マードレ・デ・デウス号」の方が有名ですけど、 ポルトガル側の史料では「ノサ・セニョーラ・ダ・グラサ号」とあるらしいですね。ズ:この事件のあと、ポルトガル船は2年来航しなかった。 高慢な国民にしては、ポルトガル人は貿易面や宗教面でうまく日本に入り込んで 長く日本との交流を深めていたとは思うが、随所でちらりとのぞかせる高慢な態度が 自らの首を絞めていったと言えるだろう。り:その言葉を額面通り受け取れば、ポルトガル人は自滅して日本貿易の道を閉ざしたって 想像しちゃうけど、ノサ・セニョーラ・ダ・グラサ号を攻めればポルトガルとの貿易が ストップすると懸念したイエアスに対し、 「ダイジョーブ、我々がちゃんと生糸を運んできますから、 大御所様は心おきなくポルトガル船を攻めちゃってクダサイ」 とスペイン人がそそのかしたって話もありますよ。ズ:それはスペイン人の悪事だろう。 我々には関係ない。り:さっきの虫のたとえで言えば、長らく甘い蜜を独り占めしてポルトガル虫は 大きく成長したけど、あとから蜜の花を見つけた小さなスペイン虫・オランダ虫・ イギリス虫が蜜の独占を目論んであの手この手で大きなポルトガル虫を花から 引き離そうとやっきになってる虫たちのサバイバル状態ってカンジだよな。 カンプスだって、例の報告書の中で「神これを与えよ」とポルトガルに取って代わる 欲望を堂々と述べてるんだから、今さら気取ることないじゃないですか。 さて、さっきの中国方面でのサバイバルに話を戻しましょうか。ズ:権現様が亡くなった年、我々とイギリス人は貿易を平戸に限定された。 どこでも好きに入港して交易してよいという当初の朱印状よりも自由が狭められた訳だが、 それでも主要な輸入品であった生糸のルートを我々が押さえることができれば、 その不自由さも挽回できる。 まずはポルトガルの拠点を奪えば奴らに打撃を加え、奴らがこれまで享受してきた利益を そのまま我々が手に入れることができる。 しかし、これだけでは生糸のルートをすべて押さえたことにはならない。 日本人は朱印船を出して、マカオのほかマニラやコーチシナなど様々な場所で 生糸の買い付けをしていたからだ。 だが、マカオを手に入れれば東アジアにおける日本人の朱印船貿易はみずからやむだろうと カンプスは考えていたらしい。 そうなれば、我々こそが日本貿易を独占できる。 カンプスが先の報告書を執筆したのは、その夢の実現に向けてバタビアがすでに 動きを始めていた真っ最中だった。り:時の総督は「(6)」でも出てきたイケイケのクーンですね。 カンプスは好戦的な総督の軍事行為を理詰めでバックアップする文章を書いたのか。ズ:1622年3月、クーンはライエルセン率いる艦隊を派遣した。 ターゲットはもちろんマカオだ。 そして6月に攻撃を開始したが、さすがにポルトガル人の抵抗は激しく、 死傷者130人を出した。 そこで一旦退いて、タイオワン近くの澎湖島の南西部に城を築き始めたが、 中国の福州総督がこれを危険視して船隊を送って妨害しようとしたので、 福州船隊との間に武力衝突が起こった。ケ:中国人も我々を快く思っていなかったからな。ズ:それで、福州総督との間に戦闘と外交交渉を重ねた結果、翌年我々は澎湖島対岸の タイオワンに移ることになった。申:オランダ人の拠点がわずかに東にずれだだけではないか。レ:福州総督が言うには、澎湖島はシナの領土である。もしオランダ人が澎湖島を出て タイオワンに移るならば、船を出して交易しようということだったんですよ。り:ほお?これは興味深い。 現代では台湾北東の尖閣諸島をめぐって日中間にトラブルがある・・・ つか、中国が一方的に尖閣諸島は歴史的にも中国の領土だ、てなことを 主張してるだけなんですが、少なくとも1620年代前半の時点では 澎湖島までは中国の領土だけど、そのすぐ東の台湾は領外だから、 オランダ人は台湾まで退けって言ったって意味ですよね? 台湾が領外なら、さらにその北東にある尖閣諸島なんて外国もいいとこじゃないですか。ツ:へ~、今はそんな話になってるのか。 中国も面白いこと言い出すな。り:今の中国はかつての「中華」を取り戻そうとして、周辺諸国の多大なヒンシュクを 買ってますよ。 あれだけ国土が広いんだから、その上ちっぽけな日本の領土を削ろうなんて セコい考えやめればいいのに・・・ 中国人の強欲さは、オランダ人と十二分に張り合えますね。ズ:(無視)我々と福州総督との意見はなかなか折り合わなかった。 そういう中、ライエルセンは辞職して後任のマルチヌス・ソンクが澎湖島に着いてみると、 多数の中国兵がいて、我々の少数の守備隊ではとうてい抵抗しうる見込みがないので、 ソンクは引き上げてタイオワンに移ることにした。 そして1624年、タイオワンにオラニエ城を築いた。 オラニエ城はのちにゼーランディア城と名を変える。り:台湾には私は行ったことないけど、地図で見ると結構大きな島ですよね。 ただ、ここでいうタイオワンは台湾本島南部の安平(アンピン:台南市)のことで、 「台湾」の名の由来には諸説あるみたいだけど、ひとつの説として オランダ人が安平に入植して周辺にもその勢力が及んだので、タイオワンが台湾に なったという話もあるようです。ツ:ポルトガル船が初めて台湾沖を航海した時、あまりの美しさに「美しい島」という意味の 「イル・フォルモサ」と呼んだとも言われているよ。 ポルトガル人の地図には大きな3つの島が描かれていて、南の島をレケオ・ペケノ、 中の島をイル・フォルモサと呼んでいたらしい。り:北の島は?ツ:北の島には名前が描かれていないんだ。り:ふ~ん。 ゼーランディア城跡は現在では「安平古堡」として史跡公園化していて、 ゼーランディア城の遺構は今ではだいぶ少なくなってるみたいですけど、 城を描いた絵や19世紀後半の朽ちた城跡を写した古写真を見ると、 かなり立派な要塞だったようですね。ケ:そうか、朽ちたのか・・・り:あ、すいません。 要塞を最終的に綺麗に破壊したのは、日本軍らしいです。 でも会社がバタビアから運んで築いた城壁が一部保存されているみたいですよ。 ちょっとゼーランディア城(跡)を見に台湾に行きたくなっちゃったな。ツ:タイオワン付近の海は荒れるぞ~。 お前も海に投げ出されないようにしろよ。り:船なんかで行きませんよ。 今はぴゅ~んとお空を飛んでいくんです。 ソウルまで確か2時間ぐらいだったから、2時間半ぐらいで着くかな?金:空を、飛ぶ、だと? 何を馬鹿なことを・・・申:倭人は虚言・妄言が多いからな。 どれだけ年月が経っても、倭人の性向は変わっていないと見える。※今回の主な参考文献『日本大王国史』(カロン原著、幸田成友訳著/平凡社東洋文庫90)『平戸オランダ商館日記 近世外交の確立』(永積洋子/講談社学術文庫) 『日欧通交史』(幸田成友/岩波書店) とウィキペディア。にほんブログ村
2016年08月27日

りり: さて、前回の1621年に英蘭両国に出された禁令ですが、 これも色んな話がからんでくるんだよな~。 壮大すぎて、もうめんどくさくなってきちゃったな~。申維翰: 思考を放棄するな。だからお前は馬鹿なんだ。り:へいへい。 人身売買とか奴隷なんてものはよその国で行われたことであって、 日本には無縁だと思ってる現代日本人は多いんじゃないかと思うんですよね。ツュンベリー: そうなのか?なんでだ?り:皆さんの死後、全世界を巻き込んだ大きな戦いが2つありましてね。 それを境に、それまでとはずいぶん違った考え方が生まれたんですが、 欧米人やクリスチャンは自分たちに都合の悪い情報を隠したがってねえ~。 自分たちが好き勝手なことをさんざんやってきたくせに、他者に責任転嫁したり、 情報の操作とかいろいろやってるみたいですよ。 調査捕鯨もイカンとか言っちゃって、お前らがドレスやコルセットに使うためだけに さんざん乱獲してきたんだろ!ってカンジですよね。レフィスゾーン: ・・・あの、クジラの話は禁令に含まれてないと思うんですけど・・・り:ああ、そうでしたっけね。 まあ、そんな事情も関係してあまり日本人には知られてないみたいなんですけど、 江戸初期頃までは日本人も自主的に、あるいは身売りなどで かなり海外に出ていってたみたいですね。 人身売買にはイエズス会の宣教師も関わっていたとか・・・ケンペル: ルイス・フロイスによると、太閤は九州攻めで下向した際、 初めてポルトガル人の宣教師に会って周囲が驚くほど彼らを厚遇していたのに、 1587年7月24日に豹変して布教を禁じたが(=バテレン追放令)、 その中に奴隷売買に関する項目もあった。 ポルトガル人が太閤の不興を買ったひとつの理由だとは言えるだろう。り:ええと、『完訳フロイス日本史』(松田毅一・川崎桃太訳/中公文庫)によると、 【予は商用のために当地方に渡来するポルトガル人、シャム人、カンボジア人らが、 多数の日本人を購入し、彼らからその祖国、両親、子供、友人を剥奪し、奴隷として 彼らの諸国へ連行していることも知っている。それらは許すべからざる行為である。 よって、汝、伴天連は、現在までにインド、その他遠隔の地に売られて行ったすべての 日本人をふたたび日本に連れ戻すよう取り計らわれよ。もしそれが遠隔の地のゆえに 不可能であるならば、少なくとも現在ポルトガル人らが購入している人々を放免せよ。 予はそれに費やした銀子を支払うであろう、と。】ケ:イエズス会の宣教師はもちろん奴隷売買を知っていた。 だが売買の主体は商人で、イエズス会では太閤以前から それに対する危機感も持っていたとはいう。 宣教師にしてみれば、あくまで自分達は布教のために来日しているのであって、 奴隷を扱う商人といっしょくたにされては布教の妨げにもなると考えて、 1571年には国王セバスティアン1世から日本人貧民の売買禁止の勅令を 取り付けてもいるが、太閤がコエリョに突きつけた内容を見るに、 1580年代後半まで売買は続いていたようだな。り:ふんむ。それで副管区長のコエリョは秀吉の叱責に対して 【日本人のように名誉をいとも尊ぶ国民にとり、人身売買を行うことは、たとえそれが 彼らの間であれ、国外に対してであれ、大いなる信用の失墜と言う外なく、寒心に 堪えざるところであった。だが、この忌むべき行為の濫用は、ここ下(シモ)の九ヶ国に おいてのみ弘まったもので、五畿内や坂東地方では見られぬことである。我ら司祭たちは、 かかる人身売買、および奴隷売買を廃止させようと、どれほど苦労したか知れぬのである。 だがここにおいてもっとも肝要なのは、外国船が貿易のために来航する港の殿たちが、 厳にそれを禁止せねばならぬという点である。】(前掲書より) と弁明してる訳だな。 でも結局、九州の大名が人身売買を行ってるんだからそいつらに言ってよ!って 責任転嫁してますよね。 それに、コエリョ自身が奴隷売買の契約書に署名している事実もあるっていうんだから、 なんだかな~。ズーフ: ヴァリニャーノやオルガンティノはコエリョの挑発的な身の処し方が追放令を招いたと 非難しているから、まあ仕方がないだろう。 ・・・ポルトガル人の弁護など決してしたくはないのだが、1596年に日本に赴任した 司教のペドロ・マルティンスは奴隷貿易に関係するキリシタンがいれば例外なく破門すると キリシタンの代表者らに通達したというから、イエズス会としてはそれなりに 善処したのだろう。り:日本人の人身売買については真っ向から否定している人もいて、 仮にそれなりの数が奴隷として外国に売られていったとしても、 当時の航海諸技術では売却先が遠方であればあるほど生命の危険にさらされる訳で、 途中で死んでしまったら海に捨てられただろうし、実際人身売買でどれほどの日本人が 海外に流出したのかは算出不可能でしょう。 それでも、人身売買をヌキにしても相当な数の日本人が海外に進出していたのは 事実なようですね。申:どういう理由で国外まで出ていったのだ?り:申さんや金さんは秀吉の話なんか聞きたくないでしょうが、秀吉の頃もまだ倭寇はいた。 倭寇と区別するために秀吉は朱印状・・・つまり身元証明書であり渡航許可証を与えて 朱印船貿易を開始したとされます。 明ではいわゆる海禁政策を用いて自国民の出入国の管理をしていたけど、 のちに一部解禁された。 それでも、相変わらず日本人は規制の対象になっていた。 ポルトガルの日本への主な輸入品は中国産の生糸で、これはのちにオランダ商館に 引き継がれますが、日本人は正面から中国の生糸の輸入はできなかったので、 解禁によって中国人が海外進出した先に日本人が出向いて、 そこで生糸を買い付けるようになった。 「出会い貿易」ってやつですね。 朱印船貿易家は、「出会い」の場にも駐在員を置くようになった。 こうしてできたのが、東南アジア各地にある「日本人町」で、その分布は のちにオランダ東インド会社がテリトリーとした海域とかなりの割合で重複する。 結構広い範囲にまたがるので、あらためて日本人町の分布図を見てみると オドロキですけどね。申:ふん、商売のためか。り:それだけじゃないッス。 東南アジアには、傭兵として活躍する日本人もいたそうです。 もっとも有名なのが山田長政ですけど、あるいは傭兵の中にも奴隷として 売買された人もいたかもしれない。 でも、戦国末期のうち続く戦いの中で、国内にはプータローになった武士もいたし、 秀吉から家康の時代にかけての大きな戦いで行き場を失った日本人もいて、 そういう武士がみずから新天地を求めて海外に渡ったケースもあったかもしれない。ツ:スペインがルソンを征服したのは1571年だが、 すでにいくばくかの日本人も在住していた。 また、タイオワン(台湾)に拠点を置いた日本人もおり、フィリピンに進出した スペインとしばしば激しい戦闘が行われたらしい。 甲冑を着込み武器を携えた彼らは、スペインの大砲に破れて多くの死者を出したりもしたが、 そうした戦闘を通じて向かう所敵なしと自信を持っていたスペイン側の恐怖と驚愕も 増していき、現地の太守からフェリペ2世に対して守備兵をもっと増やしてくれだとか、 フィリピン人と日本人を決して混同するべきではなく、十分な兵力をもって この地の日本人を掃討しなければ、到底安全に経営していけるものではないと訴えている。り:それはどちらかというと、倭寇の人間だったかもしれませんね。ツ:かもしれないな。 だが、精巧な武具とともに屈強な日本人兵士が海外で活躍していたことは事実だ。 日本人兵士に悩まされたスペインでは、保累を築いたり色々と日本人対策を講じたらしいよ。レ:よっぽど怖かったんでしょうねえ。ツ:マニラのスペイン人の間で中国を攻める話が持ち上がった時には発想の転換で 日本人傭兵を大量に雇う案が出て、具体的な方法まで煮つめられたらしい。 実戦を通して、日本人兵士の実力がそれだけ認められてたってことだろうね。り:アルマダの戦いで無敵艦隊がイギリスに敗れるのは1588年でまだ先のことだから ルソンを攻略した頃にはまだスペインは強さを誇っていた時期だったろうに、 わざわざ日本人傭兵を雇おうとしたんですか?ツ:強いと言っても本国から遠く離れたアジアでのことだし、スペインは手を広げすぎて 戦力をそう多くはアジアへ回せなかったんだよ。 まあ、結局傭兵の話は実現しなかったらしいけど。り:だから、よそ様の土地なんか狙わないで自分ちでのんびりオレンジでも 食ってりゃよかったのに・・・ ところで武器の話が出ましたけど、当時の日本は世界有数の鉄砲保有国だったそうですね。 日本への鉄砲伝来の時期は諸説あるものの、1540年代前半というのが大半のようですが。ズ:日本には高度な技術を持つ刀鍛冶がいたからな。 それで、わずかな期間で国内での量産化に成功したという。 権現様が天下を取った頃の全世界での日本の鉄砲は5割を占めたというぞ。 り:そんなの教科書で習った覚えない・・・金仁謙: 国史を学ばぬ愚か者だから、授業中寝ていたのではないか?り:まあ確かに、教科書の肖像画に落書きなんかしてましたけど・・・ あれ?落書きは世界史の教科書の方だな。ツ:どれ? へえ、これがお前の使ってた教科書か。ずいぶんと絵が豊富だな。 色々と線が引いてあったり文字の書き込みもあって、だいぶ使った感があるな。 それにひきかえ、こっちの日本史の教科書は綺麗なままだな~。レ:使用感が全然違いますよね。申:やっぱり勉強していなかったのではないか。 王安石(宋の政治家)の絵に変な色眼鏡なぞ描き込みしおって・・・り:うるさいな~、もう。 今やってるんだからいいでしょ 学生の頃なんてメじゃないくらい、勉強してますよ。 それで、秀忠の代で軍需品の輸出が禁止されたのは、高度な武具産出国であった 日本の武具を提供することで自国へのマイナスの影響が出ることを恐れたためですか?ズ:どうかな・・・ スペックスがバタビアの総督に送った書状によると、オランダの要塞、船、 東インドでの戦争に必要な軍需品を十分に供給できるなら、我々にとって ほとんど障害にならないと言っている。 ただし、今後もし鉄や銅も軍需品と見なされればその輸出も禁止されるかもしれないから、 それについては十分に考慮する必要があるとも述べている。 日本人の海外移送禁止については、ポルトガル人の主張によって設けられた項目だが、 ポルトガル人への好意によったものではなく、日本人を外国での戦争の危険に さらしたくないための命令だとスペックスは解釈している。 スペックス自身はこうした事態をかねてから予測し、日本人を輸送する際には 将軍の正式な許可を得るようにした方がよいと以前から総督に勧告していたらしいな。り:てことは、オランダ人も日本人を海外へ送り出してた訳だ。 永積洋子氏は、 【この命令書は、将軍の領土、領海内での無法な暴力を一切認めず、ポルトガル人の 主張といえども、それが正当なものであるならば承認し、将軍の権威を外国人にもはっきり 認めさせようとしたものだといえよう。日本に来航するヨーロッパ諸国民の中で、 オランダ人の優位はまだこの時期には確立していず、スペックスの目から見れば、幕府は ポルトガル人、スペイン人に好意を寄せている時代である。そして、日本近海での オランダ人の海賊行為が、日本商人の損得にかかわることはいうまでもない。 このような過渡期であればこそ、将軍秀忠はポルトガル人の主張の是非を判断しかね、 問題のフレガット船船長に対して閣老や平戸藩主が尋問する時、次の間に潜んで聞くほどの 熱意を示したものであろう。】(『平戸オランダ商館日記』より) と解説してます。 秀吉もイエアスも決してキリシタンに好意を持っていた訳ではなかったのに、 貿易を重視した結果、セットでくっついてきたキリスト教をやむなく黙認したと 言われますが、そのうえ同じキリスト教徒であるオランダ人とイギリス人まで受け入れたのは ポルトガルやスペインの対抗馬にする目論みがあったという解釈もありますね。レ:対抗馬かはわからないけど、リーフデ号のウィリアム・アダムスやヤン・ヨーステンを そばで見てきた家康公だからこその判断だったとは言えるかもしれないね。り:それを引き継いだ秀忠は、ま~大変だったろうなとつくづく思いますけど、 見方を変えればひとつの出来事に対する判断材料が増えたとも言える訳ですね。レ:そういう面はあるだろうね。 我々が海外事情を幕府に報告する「風説書」は1641年から義務づけられたものだけど、 そういう情報は中国人や他の「口」からも仕入れていて、幕府は常に他の情報と比較しながら 情報の信ぴょう性や我々の誠意を判断していたよ。り:日本の「鎖国」はオランダ人にハメられて引きこもりになったものだと言う人がいますけど、 ズ:それはとんでもない誤解だ! 我々が出島に移って日本との関係が安定期に入るまで、いや入ってからも 幕府は常にしたたかだったよ。り:・・・そのスリリングさは商館長がつづる商館日記を読んで初めて実感しましたけど、ツ:? 商館日記は読んでないって前に言ってなかった?り:あ、何年か分は手に入れました。 わたくしも色々と忙しいので、まだすべてを読破してはいませんが。 じゃなくて、4ヵ国ものヨーロッパ人が国内でぐちゃぐちゃやってたから、 日本人も対ヨーロッパ人について次第に鍛えられていったんですね。 にしても、貿易相手を入れ替えるつもりなら、英蘭を受け入れた時点で ポルトガル・スペインをばっさり切っちゃえば秀忠も次の間で盗み聞きするハメにも ならずに済んだろうに・・・レ:いや、我々やイギリス人は中国に拠点を持っていなかったからね。 ポルトガル人の強みは、マカオに拠点を持っていたことだ。り:日本人が欲しがっていた中国の生糸を輸入するために、ポルトガルを切る訳には いかなかったってところですか。 その弱みを補うために、英蘭は海賊行為を繰り返す訳ですね。 ところで、禁令の最後の長崎商人の船の宣教師って何ですか?ケ:それは、「平山常陳(じょうちん)事件」といわれるものだ。 1620年(元和6年)7月、マニラから日本に向かっていた平山常陳の朱印船が 我がオランダとイギリスの船隊に拿捕され、平戸に入港した。 朱印船にはポルトガル人とスペイン人も乗っていた。 積荷は我々が押収したが、相手が朱印船だったため平山常陳が訴え出て問題となった。り:英蘭防禦協定の後だから、両国が日本の周辺海域でバリバリ海賊してた頃のことですね。 威勢よく拿捕したはいいけど、相手が悪かったな。ケ:我々は朱印船が日本ですでに禁止されていた宣教師の渡航の告発に協力したので、 これは海賊行為ではなく正当なものだと反論し、長崎奉行らによって取り調べが 行われることになった。 平山常陳自身もマニラ在住のキリシタンだったが、宣教師も確かに2人乗っていたんだ。り:どうせ「たまたま」でしょ? マニラから出た船だからおい、あいつ捕まえちゃえ~って拿捕してみたら朱印船だった。 でも都合よく宣教師も乗ってたからいい言い訳になったってとこじゃないんですか?ケ:む・・・レ:確かに当時の朱印船は和船ではなく中国のジャンク船を使ったりしたようだから、 「マニラを往復する中国船」という防禦協定の定めに該当すると勘違いして 拿捕した可能性はあるね。 日本船の拿捕は厳禁されていたから、総司令官だったロバート・アダムスも 処置に迷ったっていうし。 でも船底に隠れていた宣教師を発見して、これを正当な行為とする決断をしたと いわれているよ。ツ:まあ、日本人の役に立つことにはなったんだしさ、結果オーライってことで。り:調子いいなあ、もう それで?ケ:そこからの攻防は大変だった。 長崎奉行の長谷川権六は、潜伏していた宣教師のことを知っていた。 それなのに、権六はしらを切った。 宣教師らは自分たちは商人だと言い張り、権六は 「ほら、商人だと言ってるじゃないか。ウソだというなら証拠を出してみろ。 証拠がないなら、こんな無法を犯すお前らとの貿易はもう終わりだな」 と我々を脅す始末だった。 しかし、我々だって負けている訳にはいかない。 そこで、身の潔白を証明するために奴らが宣教師である証拠探しに奔走した。り:身の潔白ったって、好き勝手な海賊行為のツケが回ってきただけじゃないですか。レ:お前はどうも噛みついてくるね。 そんなにオランダ人が嫌いなのか?り:嫌いだったらこんな座談会開かないですよ。 ズ:だったら少し大人しくしていなさい。り:ぶ っ・・・・・金:あっ、コイツ、屁こきやがった!!り:こいてないですよ! 近くにいればわかるでしょーが!!ツ:人前でも平気で屁をこくのは日本人の悪いクセだね。り:こいてないってば!!レ:あるフランスの作家は韻文でこの禁忌をこう表現しているよ。 「屁を洩らすことなかれ、 風を逃さず、中にて抑え 穴閉め、尻をばひたと寄せ合い、 こらえてぐっと締めつける、 たとえ切なさ昂まりて 産婦の苦しみ凌ぐとも。 悪臭芬々(ふんぷん)、忌むべき屁をば、 食卓などで放てば満座の男も女も 口を極めて汝は全く 仏国一の下司と言うは必定。」ツ:エラスムスはこうも言ってるな。 「屁をこらえるのは健康によくない、それを密かに出してしまうのは正しい行為である。 若者達に尻をぐっと締めて屁をこらえよと説く者がいる。ところがそれは違う。 礼節を守ろうとして病を得るのはよくない。もし部屋の外に出ることが可能ならば 人から離れた所で放出するべきである。それが不可能ならば古くからの教えに従い、 咳をして音を隠すべきであろう。」 私は医師だから、そりゃ我慢が健康によくないのはわかってるよ。 でもせめて、エラスムスの言うように咳で音を隠さなくちゃ。り:こいてないって言ってるのに・・・ 人の話、聞きゃしねえズ:何の話をしてるんだ、まったく・・・ケ:宣教師は我々によって拷問にかけられた。 それはイギリス商館長のリチャード・コックスが目をそむけるほどの 苛酷な拷問だったと聞く。 さらに、奴らを知る証人たちを見つけ出してきたので、ついに自白を得るに至った。 そして2年後の1622年8月、平山常陳と2人の宣教師は火あぶりにされ、 日本人の乗組員12名も斬首の刑に処せられた。り:なるほど。 両者の意見が真っ向から対立して落着するまでに時間がかかったから、 秀忠みずから盗み聞きしてどちらの言い分が正しいのか見極めようとした訳ですね。ズ:この事件を機に、流れは大きく変わり始めた。 スペックスが自分たちより優遇されていると感じていたポルトガル人は信頼を失い、 事件が解決した翌年に商館長になったナイエンローデが参府した際は 素早く拝謁が叶い帰路についたというのに、ポルトガル人にはなかなか拝謁の許可が 下りなかったそうだ。り:へえ、ポルトガル人も参府してたんだ。ツ:イギリス人だってしていたよ。 その時、コックスが朝鮮通信使を見たんだろ?※今回の主な参考文献『平戸オランダ商館日記 近世外交の確立』(永積洋子/講談社学術文庫)『完訳フロイス日本史』(ルイス・フロイス著、松田毅一・川崎桃太訳/中公文庫)『西班牙古文書を通じて見たる日本と比律賓』(奈良静馬/大日本雄弁会講談社)『オランダ風説書 「鎖国」日本に語られた「世界」』(松方冬子/中公新書)『トイレの文化史』(ロジェ=アンリ・ゲラン著、大矢タカヤス訳/筑摩書房) ↓娘さん(大)の抜け毛でヅラを作ってもらったうちの娘さん(小)にほんブログ村
2016年08月16日

りり: それじゃ、日蘭交流の幕開けに移りますか。 リーフデ号の漂着から9年後の慶長14年(1609)、平戸にオランダ船が入港、と。 少し間が空いたけど、満を持しての来日ってカンジですか?レフィスゾーン: ちょっと違うかな。 我がオランダ艦隊がマライ半島ジョホールに停泊していたところ、近々ポルトガル船が マカオから日本に向けて出航するとの情報が入った。そこで艦隊の指揮官は ローデ・レーウ号とフリウーン号の2隻にポルトガル船の捕獲を命じたんだが、 もし不成功の場合にはそのまま日本に向かって通商を開く交渉をさせることにして、 国王オラニエ公モーリッツの権現様宛の書簡を託した。 2隻はポルトガル船を発見できず、5月、そのまま長崎港外に到達し、 次いで平戸港外に投錨した。 入港の経緯はこんなところなんだ。申維翰: ならば、もし拿捕に成功していたら倭国に渡る時期はもう少し遅れたということか。ズーフ: そういうことになっていたかもしれないな。 それで、時の平戸藩主・松浦鎮信公はオランダ船の来航を歓迎して、通商許可を 権現様に斡旋した。両船の商人頭、アブラム・ファン・デン・ブロークとニコラス・ボイクは 同年7月、駿府で権現様に拝謁して、オランダ国王の書簡と贈物を進呈し、権現様から 我が国王宛の書簡と通商許可の朱印状を与えられた。 平戸に帰ったブロークらは、商館を平戸に開くことを決め、ヤックス・スペックスを 商館長とし、同年9月にバンタンに帰っていった。り:ヨーロッパ諸国の中でのちにオランダが日本貿易を独占するに至るには さまざまなラッキーが重なったことが大きいだろうと思うんですよね。ツュンベリー: 運だけじゃないさ。 多大なる努力のたまものでもある。り:えげつない努力のね。ツ:・・・・・・・・・ケンペル: それじゃ、お前の考える「ラッキー」を言ってみろ。り:ローデ・レーウ号とフリウーン号が首尾よくポルトガル船を仕留めたところで、 いずれ会社は日本へも触手を伸ばしてはきたんだろうけど、イエアスから朱印状を もらえたことは大きかった。 これは皆さんも認めるところでしょう?ケ:それはもちろんそうだ。 幕府は大御所様の時代に決められたことを「祖法」だと言って尊重したからな。申:その朱印状にはどんなことが書いてあったんだ?ズ:我々がどこに入港してもよいことを許可したものだが、 そこには何ら制限は加えられていなかった。 つまりは誰とでも、我々の自由な意思の通り、強制されずに取引できるというものだ。り:それから、重要な局面においてよく日本の事情や慣習をわきまえ、 それに見合った対処ができる人が商館長の立場にあったこと。 あるいは、そういう元商館長がバタビアで重要な地位にあって適切な対処をしたこと。 これも大きい要素ですよね~。レ:日本を熟知していたスペックスはかねてから、日本に来る人物はこの国の慣習に精通し、 勇敢、謙虚、慎重でなければならないと警告していた。 平戸時代は出島時代に比べてはるかに自由ではあったけど、競合も激しかったし 日本国内の情勢が変わっていく時期でもあったから、特に商館長にはそういう資質が 求められただろうね。り:平戸の商館長の中でもっとも有名なのはカロンだろうけど、 彼自身は結構激しい性格の人だったみたいなのに、よく耐えてうまく対処しましたよね。ズ:カロンの日本の知識なんて大したことないんだぞ。ケ:それは裏を返せば自分の方がカロンより日本についての知識があるということか? たいした自信だな。金仁謙:「かろん」て誰だ?レ:フランソワ・カロン。平戸のオランダ商館最後の商館長となった男ですよ。り:あの厳しい時期、日本と日本語に精通しているカロンがいなかったら、 オランダ人だって追放されてたかもしれないんですよ? ズーフさんも長く日本に滞在して、数々の苦難を切り抜けてきたから 「我こそ日本通の第一人者」という自負があるのかもしれないですけど、 わざわざ回想録でまでカロンをけなすことないじゃないですか。ツ:へえ、自分の回想録でもそんなこと書いてるんだ。 それはオドロキだな。り:もうライバル意識むきだしですよ。 私に言わせれば、カロンとズーフさんは結構似た者同士だと思いますけどね。ズ:りり・・・お前は私の味方ではなかったのか?(と、ジジイの手を握って見つめる)り:あっ・・・ツ:うわっ、出た、禁じ手の色仕掛け! さすが、百戦錬磨のカピタンだな。レ:人聞きの悪いこと言わないでください。 商館長がみなテクニシャンという訳じゃないんですから。ケ:ドゥーフ君は日本女性に子を産ませたって言ってたしな。 女性の扱いもうまいようだな。レ:1年交代だったお2人の頃と違って、私やドゥーフ殿の頃には任期が延びてましたからね。 ドゥーフ殿の先代の時の商館付医師も日本女性との間に子を儲けましたし、 ドゥーフ殿の次代の商館長あての遊女屋からの請求書も残っているくらいだから、 何もドゥーフ殿だけが女遊びをしていたって訳でもないし・・・金:そういう君も、結構ケッコーだったんじゃないのか?レ:え! い、いや私は・・・ゴニョゴニョ・・・り:え~っと、ちょっと脱線しましたが、話を戻しましょうか。オホホ。 平戸時代の32年を知らずして長崎は語れませんからね。 大きな事件とからめながら、オランダ人が最後の勝者になるまでと、 栄光の勝利者がみじめに出島に押し込められるあたりを、簡単にね。ツ:色仕掛けで凶暴性がやわらいだらしい。ケ:牙を抜かれたライオンのようだな。レ:そうですかね・・・相変わらず言葉にトゲがありますけど。り:オランダ人のラッキーのひとつはイエアスから直接朱印状をもらえたこと。 このタイミングは実に良かった。1603 家康が征夷大将軍に任じられ、江戸幕府を開く。1605 家康隠居。秀忠に将軍職を譲る。1609 平戸にオランダ商館を置く。1611 会社が社宅と倉庫を新築。1612 幕府が京都の教会を破却し、宣教師の国外追放を命じる。 会社が大坂(京・堺との取引を兼ねる)と江戸(駿府との取引を兼ねる)に出張所を置き、 各1人ずつ配置する。1613 禁教令。 イギリス船が平戸に来航し、平戸に商館を設ける。 前年、京都で行われた弾圧が全国に広められる。1614 大坂冬の陣。高山右近らキリシタンを国外追放。1615 大坂夏の陣。武家諸法度、禁中並公家諸法度を制定。1616 家康死去。秀忠によりキリシタン禁令が出される。 ポルトガルは長崎に、イギリスとオランダは平戸に寄港地を限定される。 り:オランダ人が来航した時、イエアスはすでに隠居はしていたけど、 大御所として変わらぬ存在感を保ち続けていた。 もう少し来日が遅れていたらイエアスは死んでたし、 イエアスが生きてはいても朱印状の交付者が秀忠だったら、 「つぶし」が効きにくかったかもしれない。 それに、オラニエ公の書簡を持っていったのも正解だった。 今回勉強する中で、江戸幕府の存続中に会社が解散していたことを知って 私は仰天したんですけどね。 「じゃあ、会社の解散以降、日本はいったい誰と貿易をしていたんだ!?」ってね。レ:そう、会社は国家から特許を与えられていたとはいえ、正式な国交ではなかった。 でも我がオラニエ公からの書簡に対して通商の許可を与えた訳だから、 幕府の認識では会社=オランダ国だったんだろうね。 ただ、それゆえにバタビアの総督の言葉が相手にされなくて困ったこともあったけど。 総督は国王の臣下でしかないからね。 り:ふ~ん。 秀吉の時代からすでに禁教の嵐は吹き荒れていたけど、 そういう中でキリシタンであるオランダ人も順調に勢力を伸ばしていったんですね。ケ:当初は布教が禁じられていただけで、キリスト教そのものが禁止された訳ではなかった。 貿易に従事するポルトガル人はまだ国内に残っていたぞ。り:そういう善良な商人まで追い落としにかかる訳だ。 平戸時代の歴史はドキドキハラハラで面白いんですけど、 同時にオランダ人のえげつなさも浮き彫りになりますよね。ツ:お前、「えげつない」を連呼するけど、当時の情勢からしたら必然なんだよ。 どこもやっていたことなんだし、競争って言い換えてくれないかな。り:だって、イギリスが日本貿易に参入して以降の会社の「競争」相手は 先住民のスペイン・ポルトガル、新参者のイギリス。 まあここまではわかるとして、当時朱印船で海外に乗り出していた日本人貿易者、 古くから関係の深い中国人、さらには自国の自由市民までも排除して 会社がすべてを独占しようとしてたんだから、これを欲深と呼ばずして何と言う 日本がわずかにでもつながろうとした中国人の排除を目論むなんて、 図々しいにもほどがあるってもんでしょ。ツ:だからそれが競争ってもんなんだってば・・・ケ:早くも新しい牙が生えてきたみたいだな。レ:しかも、前より鋭くなってませんか?ズ:自由市民の排除というのはあくまで商館長ナイエンローデの個人的な考えで、 会社の方針という訳ではないぞ。り:そおおですかねえ~。申:話の流れがさっぱり見えんのだが。り:あっ、ごめんなさい。 オランダ商館にからむ出来事というのは実に壮大で、各人の思惑はもちろんのこと、 いくつものファクターが複雑に絡み合うので面白くもあり難しくもあるんですけど、 各項目については後半の方で見ていくとして、ザビエルの来日(1549年)以来 長らく日本に根を下ろしていたポルトガル人は、オランダ人が割り込んできた頃には だいぶ落ち目になって不遇の時代を迎えていたようですね。ズ:それは奴らの浅はかな思慮と行為によるものだろう。 多くの著者は、1600年にオランダ船がはじめて日本に漂着した時に、 オランダ人のために、キリスト教迫害とスペイン人、ポルトガル人の追放が始まったという 誤りを犯している。 オランダはこの時、スペイン・ポルトガル両国と戦っており、戦争中の慣習どおり、 スペインがオランダを真っ黒に塗りつぶしていたことは事実で、ポルトガルも同様だった。 そこで1609年、オランダ人が貿易のためにはじめて2艘の船で到着したとき、 自国の利益のために、上記のスペイン人の話を確認したのは当然だろう。 しかし迫害の基礎はすでに築かれていたのだ。 有名なオンノ・ズウィール・ファン・ハーレンはその小著『ファン・ハーレン日本論- 日本キリシタンとオランダ』の中で、「この迫害を招いたのは1人のイギリス人であって、 オランダ人ではないということになろう」と我が国を弁護している。ケ:・・・・・・・ツ:・・・・・・・り:皆さん言葉を飲み込んでらっしゃるのでわたくしが代わりに言わせていただきますが、 それは詭弁てもんでしょ。ズ:なにを言う!どこが詭弁なのだ。り:ハーレンさんとズーフさんはウィリアム・アダムス(←イギリス人)1人に 罪を着せようとしてるみたいだけど、アダムスはイギリス人とはいえ、 そもそもオランダの会社の船に乗ってきてるんですよ。 それを言うなら、ここにいるケンペルさん(←ドイツ人)もツンさん(←スウェーデン人)も オランダ商館の人間じゃなくなっちゃうじゃないですか。ズ:それとは別の話だ。り:じゃあ、100万歩譲って、リーフデ号漂着以降しばしの迫害は イギリス人のせいだとしましょ。 もっとも、秀吉の時代にすでにバテレン追放令が出されているので アダムスのせいとも言えないんだけど。 それでも、その後のポルトガル人追い落としについてはズーフさんもはっきり 「悪事」と認めてますよね。申:ほお、どういう悪事なのだ?ズ:カピタン・モールと呼ばれるポルトガル人の日本商館長は、日本で生まれたカトリックの 熱心な信者だった。カピタン・モールは、密かにローマ・カトリックを信じる、 日本の大官と陰謀を企てた。彼がポルトガル国王に送った書簡には、 誓いを立てた仲間の名前が記されていた。 この書簡は、喜望峰付近で拿捕されたポルトガル船から押収され、オランダ人により 日本の当局に提出された。そこで日本人ははじめて警戒した。 誓いを立てた仲間は、もし長崎奉行の強力な支持を得ていたなら、 助かったかもしれなかった。 この書簡の真偽が疑われていた頃、カピタン・モールからマカオの長官に宛てた別の書簡が、 日本人自身により発見された。この発見により、彼らはさきの書簡を本物と納得した。 ポルトガル人とともに、この陰謀に加わった日本の大官は、国外に追放され、 ポルトガル船でマカオに向かった。 ・・・これが我々により行われた悪事であるが、スペインに我々は宣戦を布告しており、 ポルトガルも当時はスペインに属していたので、戦時の権利として完全に正当とされよう。 我々はポルトガル人の友人であり、同盟者である日本人にたいして、 ポルトガル人の奸計に注意するよう警告しただけなのだから。り:現代はグローバルとか言われてるけど、すでにこの時代にヨーロッパでの争いが アジアにまで持ち込まれて、日本でも代理戦争のようなものが行われてたってことですね。 迷惑な話だぜ、まったくレ:まあまあ。 世界の勢力図がまさに塗り替えられようとしていた時期だったんだからさ。 平戸では本館・長屋・倉庫のみならず、製材所・火薬庫・ロープ製作所・牧場なども 合わせて建設され、1618年にほぼ完成した。本館には講堂・貯蔵庫・台所などがあった。 我々は誰の監督も受けずに積み降ろしするなど、非常に大きな自由を享受していた。 ポルトガル人の場合、船が到着するやいなや厳封されて将軍の買い物係が参府して 相手の言い値で生糸が配分されるまでの数ヵ月の間は、何も出来なかったんだ。 当時、イギリスとオランダの商館はどちらも関税は免除、貿易地は無制限で 治外法権まで認められていた。ツ:オランダ人はかつて、日本人人夫が間違いを犯した場合、罰したり打ったりする自由まで 持っていたんだよ。り:新参者がずいぶんと調子よく権利を獲得していったみたいだけど、 その数年後には早くも新参者同士の間でも利権争いが勃発したようですね。ケ:まあな・・・ 大御所様が死去したその年(1616年)、バタビアの総督クーンは モルッカ諸島を往来する英船を敵と認めて処分する旨を宣言した。 これ以後、英蘭の衝突が烈しくなった。 翌年8月以降はイギリス船の日本入港が途絶え、さらに翌年にはオランダが イギリス船アッテンダンス号を捕獲して、同号を日本に伴って入港した。 イギリス商館長のリチャード・コックスは総督をイギリス王の敵とみなす旨を宣言し、 江戸入りして幕府にオランダの不法を訴えるが取り上げられなかった。り:なんで無視されたんだろ?ツ:これが国内で起きたことであれば幕府の役人を派遣するが、 今回は外洋で起きたことであって、将軍は外洋や外国の王じゃないからってことさ。り:なるほど。 それでなくてもオランダ人もポルトガル人もそれぞれがお互いの悪口を言いふらして ウザかったのに、その上外国で起こった外国人同士の争いにまで介入してたら 大変だもんな。ケ:次の年の1619年には、1617年にオランダが捕獲していたイギリス船スワン号を 率いて平戸に入港した。スワン号の乗組員はひそかに船を脱出してイギリス商館に 助けを求め、碇泊中のオランダ船7隻の水夫600名余がイギリス商館を襲撃すること 1日3回に及んだという。 平戸候はイギリス商館を護衛し、英蘭の調停を行うが、陸上でのみの誓約と解釈した オランダ人によるイギリス船砲撃・乗組員の拘留などは続き、再度コックスは江戸で 幕府に陳情するが、幕府の回答は平戸藩主の裁定に任せるというのみだった。り:オランダ船が7隻も平戸にいたんですか。それは壮観だったろうなあ。 でも当時のヨーロッパでは、東アジアに来ようなんてのはまともな人間の 考えることじゃないって思われてたみたいだし、実際当時の水夫を描いた絵なんか見ると うらぶれたやくざ者みたいな男たちってカンジで、そういう肉食人種が闊歩して 小競り合いなんか起こしたら平戸の町は大混乱だっただろうなあ。ケ:しかし、さすがにこれでは両国の利益にならないという判断のもと、ヨーロッパの 本国において1619年7月に英蘭防禦同盟条約が結ばれた。 これには双方ともこれまでの出来事を水に流し、一致協力して自由に商業を営み、 香料の買い入れ値段を協定で決めるなどの項目が含まれていたが、 両国の艦隊を平戸に集結させ、航海中マカオから平戸に向かうポルトガル船に出会ったら これを拿捕し、日本に向かう中国船は自由に航行させてよいがマニラを往復する中国船は 拿捕し、スペイン人に対しては可能な限り損害を与えよという内容もあった。 バタビアに防禦同盟の報が届いたのは翌1620年7月だった。ツ:当時、マカオにはポルトガル人が、マニラにはスペイン人がいたからな。り:つまり、東南アジアから日本へのルートの制海権を英蘭両国で握ろうとした訳ですね。 勝者が2人いる状況なんていつまでも続くハズがないのに・・・レ:それでも、当面はスペイン・ポルトガルから覇権を奪うことが重要だったからね。 りりの理論からすれば、外国の領海を勝手に分配するなって言うだろうけど、り:よくわかってるじゃないですか。レ:将軍だってオランダ人が海上でポルトガル人と出会った時、彼らを拿捕しても 差し支えないと言っていたんだから。り:でも分捕り品は平戸に運んで、自分達の積荷としてしゃあしゃあと日本で 売りさばいてた訳でしょ。 立派な海賊行為じゃないですか。 なんでも、持ち込む商品の大半はポルトガル船への海賊行為でゲットされたものだったので、 その質や量については安定性を欠いていたとか・・・ それでも元手はかかってないから、おいしい商売ですよね。ズ:まあ当時は白糸の品質の良し悪しに関わらず、値段は日本に一方的に決められていたから、 順当な貿易で積荷を得るよりは純利益は大きかっただろうがな。 捕らえた中国人を日本に連れてくれば、拿捕の事実を幕府に 訴えられるのではないかという恐れから、ある場合には彼らを小島に置き去りにしたことも あったと聞く。申:ずいぶんとひどい話ではないか。ズ:しかし露骨な海賊行為は平戸の藩主たちさえ不快にさせたと見え、スペックスは手紙の中で、 遠回しに、平戸藩主の留守中、奉行たちから妨害や中傷を蒙り、 少なからず当惑し不安を感じた、とも述べている。り:ヤコベさんも苦労したなあ。金:ヤコベって誰だ?レ:ヤックス・スペックスの愛称ですよ。 1度、我々の船が長崎付近でマカオのフレガット船(小型帆船)を追跡した時があって、 それを見た日本人の間に我々がフレガット船を長崎まで追跡してきて砲撃したという 噂が流れてね。そこで長崎奉行はその時長崎にいたエルベルト・ワウテルセンに向かって 「なにぐずぐずしてんだ。急いで船に行ってあれを止めてこい!!」 と厳しく命令したので、ワウテルセンは船に乗り込み、将軍の領内でポルトガル人を 攻撃してはならず、誰にも損害を与えてはならないことを伝えたので、ヤコベや商館員は フレガット船をそのまま航行させたということがあったそうですよ。 バタビアの総督などは日本を直接知らないから、可能であれば日本に碇泊中のポルトガル船の 錨を外してしまえなんて過激な命令も当時あったようでね。 初期の頃は日本を軽く見る人物もいたことは確かでしょうね。 ただ、ちょうど将軍の権威も高まってきていた時期でもあったから、日本に長く滞在して 日本をよく知る商館長はそういうバタビアの意識を変えさせようと、 日本の事情を伝える書簡を送ったりもしているけどね。ズ:それで1621(元和7)年9月、平戸のオランダ商館、イギリス商館長に 将軍からの命令が伝達された。 ・将軍の許可状なしに、日本人を(雇傭にせよ、人身売買にせよ)オランダ船、イギリス船、 ジャンク船で送り出すことを禁止する。 ・短剣、短銃、その他の武器、軍需品の輸出を禁止する。 ・オランダ人、イギリス人は、日本近海で略奪してはならない。 ・長崎では、外国からの大船も、その他の船も、大御所様の時に定められたとおり、 少しも変更することなく、取引を行うこと。 ・海上でオランダ人、イギリス人の略奪を受けた長崎商人の船には、調査の結果宣教師が 2人おり、押収されたのはそのためであるといわれている。宣教師がいたかどうかを、 厳しく調査させ、報告させること。 スペックスが聞いたところでは、フレガット船の船長は将軍の主要な閣老の前に呼び出され、 尋問を受け、その論議を将軍みずから別の部屋に隠れて聞いていたそうだ。 そこには平戸藩主と二人の主要な秘書も呼ばれた。彼等は口頭で尋ねられ、平戸藩主は みずからの領地・資格が傷つくほど、我々のために好意的に弁じたという。り:う~ん、皆さんが参府した際、恒例の法規の読み聞かせがありましたけど、 なんでああいう項目を毎年再確認させるのか初めはわからなかったんですよね~。 でも、こういう歴史があったから中国船や琉球船などの日本と交易をする船の保護を オランダ人に徹底させる必要があったってことなんですね。 日本の庇護のもとで交易する外国船は、それぞれ安全を保障されてたって訳だ。 人身売買などの項目については次回にしましょうかね。※今回の主な参考文献『平戸オランダ商館日記 近世外交の確立』(永積洋子/講談社学術文庫)『長崎のオランダ商館 世界のなかの鎖国日本』(山脇梯二郎/中公新書)『日本回想録』(ドゥーフ著、永積洋子訳/雄松堂出版 新異国叢書第三輯10)『日欧通交史』(幸田成友/岩波書店)にほんブログ村
2016年08月11日

レフィスゾーン: 会社は最初、1602年にジャワ島のバンタンに商館を建設した。 1620年にはバンタン商館をバタビアに移し、各地に広がっていった商館を統括した。 バタビア大商館といい、アジア各地のオランダ商館の本店であり、 のちの長崎商館はその支店にあたる。 長崎の商館はコンツワール・ナカサキ Comptoir Nangasackij という。りり: ナカサキ?「ナガサキ」と濁らないんだ・・・ 私はオランダ語は話せないけど、オランダ語って鼻から息が抜けたドイツ語みたいな 印象があるんだよな。ツュンベリー: 17世紀のオランダ人は、自分たちの住んでいる地域を「ドイツの一部」といい、 言語を「ドイツ語」と表現していたから、お前の印象もあながち外れてるとは 言えないかもな。ズーフ: 実際の貿易を行うアジアの各商館を束ねるのがバタビアだが、 会社としては本社を持たなかった。 そもそも会社の正式名称は「総(または連合)オランダ特許東インド会社」で、 本国では略して「連合東インド会社」と呼び、頭文字からなる「VOC」の略語が 用いられた。 前回話したように、各地の先駆会社を包括的に合併したから「連合」な訳だが、 形式上は旧各社は同格で、定款では取締役の数は60人と決められたが、 旧各社の取締役がそのままVOCの取締役にスライドしたので、最初は73人もいた。 その中から17人の重役を選びだして構成された最高機関を「十七人重役会」といい、 これは本国にあって輸出額の決定や各商館の管理などの会社の重要事項を司る。申維翰: 重役会からの指令が東アジアへ届くのにも相当の時間がかかるだろう。 なんとも壮大な話だな。り:それに、最初はスペインやポルトガルの支配領域に割り込んで追い落としながら 会社の拠点を増やしていく訳ですからね。ケンペル: まあ、商館の中には軍隊を駐留させて要塞を築いているところもあったがな。 とある東インド総督で、 「戦争なくして貿易はなし得ず、貿易なくしては戦争はなし得ず」と言った者も いたそうだ。 会社の特許の中に軍隊を置くことが認められていたというのは、そういう実態や 必要に応じて現地国との武力衝突もやむなしと考えられていたからだろう。 現に、私が来日する数年前の時点の会社の駐在員の職種の中では軍人が圧倒的に多かった。り:ふ~ん。 ヨーロッパ人の海外進出というと、まずコルテスやピサロなどのように 軍事力で制圧したようなイメージがあるけど、英蘭の東アジア進出は、 最初は必ずしもそういう訳でもなかったみたいですね。レ:それはそうだよ。スペイン人なんかと一緒にしないでほしいな。 まあ、現地の状況によっては侵略行為もあったけど、つとめて地域の権威者と 有利な条件のもとで商館を設ける権利を得て拠点を増やしてるんだから。 日本の商館では我々は幕府や高官たちに多大な贈物をしてきたけど、 ペルシアやインドや他の国でも同じように献上品を贈ったりしてるんだよ。り:ふむ、手を変え品を変え東アジアの支配にいそしんだ訳ですね。 「植民地」の性質が変わるのは、やっぱ1757年のプラッシーの戦い以降なんだろうな。 時代が下ってヨーロッパでの動乱の余波がアジアにまで及んでくると、 増える一方の軍事費が会社の経営を圧迫するようになるんだな。レ:幸い、日本では武力を行使する必要はなかったけどね。り:なんで日本は植民地にならなかったのかな~。 一つの説として、日本は資源が少なくて利用価値がなかったからだというのが あるっていうんだけど・・・ツ:それは我々がスペインやポルトガルの魔の手から日本を守ったからじゃないか!り:でもオランダだってチャンスがあれば攻略してたかもしれないでしょ? まあ私が思うに、タイミングが良かったってのはありますよね~。 スペイン人やポルトガル人が入ってきた頃は戦国の直後だったし、 オランダ人が割り込んできた時は江戸幕府が開かれていたといっても まだ戦国の気風をバリバリに残してた頃だったからな~。ズ:どうも言葉のはしばしにトゲがあるような気がするんだが・・・ケ:いちいち気にしてたら身が持たないぞ。金仁謙:コイツの性格の悪さは救いようがないんだ!!り:(無視)え~っと、それじゃリーフデ号。 前回の流れのところでも書きましたが、リーフデ号は1598年6月24日、 先駆会社が派遣した5隻の艦隊のうちの1隻ですね。 レ:そう、「リーフデ」はオランダ語で「愛」を意味する言葉なんだ。 はじめこの船はオランダの誇るエラスムスの名を冠した「エラスムス」号だったが、 のち「リーフデ」号に変えられたらしい。り:ふむ、人文主義者として有名なエラスムス先生ですね。 だから船尾にエラスムス先生がくっついてたんだろうな。ズ:くっついて・・・? どういう意味だ?り:ほらこれ。 (画像提供:東京国立博物館)ケ:これは・・・?り:リーフデ号のおしりにくっついてたエラスムス先生の像ですって。ツ:うっそ!マジで!?り:この画像はレプリカの像ですけどね。 本物もちゃんと残っていて、下野の龍江院というお寺が所有していて、 寛永寺があった場所にできた博物館に寄託されてます。 こんなのがあったなんて全然知らなかったから私も驚いて、ソッコー 仕事の帰りにトーハクに寄ってエラスムス先生に会いにいこうかと思ったんですが、 実物が展示されてるかもわからないし、とりあえずこの画像で我慢することにしました。ケ:下野というと、江戸より北か? なんでまた、そんなところに?り:え~と、「佐野市仏教会」様のサイトによると、旗本の牧野成里さんという人が ウイリアム・アダムスから砲術を教わって、その縁でエラスムス先生をもらったらしいです。 んで、牧野氏の菩提寺の龍江院に所有者が移ったみたいですね。ズ:これは感動的だな・・・ 日本人のもの持ちの良さは我々もあちこちで見てきたから、 この像もさぞかし大事にされてきたのだろう。り:いやそれがね、色々見てみたら、笑っちゃう歴史があったようなんですよ。 龍江院の方ではいつの頃からか来歴もわからなくなっていたようで、 エラスムス先生はなんと古代中国の伝説上の船の発明者である貨狄(かてき)だろうと 考えられて、「貨狄尊者」(かてきそんじゃ)とか「貨狄さま」と 長いこと呼ばれてきたらしいです。申:この風貌をなぜ貨狄としたのか理解に苦しむ・・・ 倭人の発想は実に奇怪だ。り:でも正体不明の像を船にゆかりのある貨狄になぞらえたということは、 「船にあった像らしい」という伝承だけは残っていたのかもしれないですよね。 ただ、貨狄だとしながらも像の風貌がイマイチなんで、江戸期の地元では 「小豆洗い婆」とか「小豆研ぎ婆」と呼ばれて、夜になるとムジナに化けて 不気味な歌を歌いながら町を徘徊すると思われてたらしくてね。 その話を読んだ時、も~うゲラゲラ大爆笑しましたよツ:ちっともおかしくないんだけどレ:私なんかもう涙が出そうなんだけど。 なんで婆? なんで小豆なのさ?ズ:それで、不名誉なあずきババアの称号を脱出できたのはどうしてなんだ?り:それが20世紀の大正時代に入ってから、バチカンで行われた世界宗教博覧会に 「在日本キリスト教聖人像」として出品されたことで学者たちの注目を集め、 詳しく調査した結果、リーフデ号に乗っておられたエラスムス先生の像だということが わかったらしいです。 右手に持った巻物に文字が彫ってあって、欠損している文字もあるものの、 「エラスムス」と「ロッテルダム 1598」とは読めるみたいでね。 ま、江戸期には子供のいい遊び相手だったらしんですけど、 今は国の重要文化財として大切にされてますから安心してくださいな。レ:子供の遊び相手・・・ しくしくしく・・・り:像には鉄砲の跡があって、腹部には穴が開いてるらしいんですけど、 途中で攻撃でもされたのかな?ケ:ロッテルダムを出港した5隻の船団は、大西洋を横断するコースを取った。 そのうち、トラウ号とフライデ・ボートスハップ号はそれぞれポルトガルとスペインに 拿捕されている。 その他、食料補給のために途中で寄港した際にインディオに襲撃されたともいうから、 そういう中で銃撃を受けたこともあったのかもしれない。 もっとも、インディオは銃は使わないだろうがな。り:ふ~ん、それで2隻脱落。残り3隻は?ケ:ヘローフ号は1隻だけはぐれてしまったので航海の継続を断念して帰国した。 残った2隻のうち、ホープ号は沈没した。 最後まで残ったのがリーフデ号だ。 英国人ウィリアム・アダムスははじめホープ号に乗っていたが、 沈没する以前に弟トマスとともにリーフデ号に配置転換されていたので、命拾いをした。り:アダムスの弟も一緒だったんだ~。 じゃあ、兄弟そろって日本の土を踏めたわけか・・・ その割には知名度低いけど?ツ:日本に着くまでの苦労は、外国人から攻撃を受けただけじゃない。 寄港地では赤痢などの病気に感染もしたし、長期の航海だから壊血病も蔓延して 出帆時に110人いた乗組員は日本に着いた時には24人に減っていた。 トマスもインディオに殺されたそうだ。り:なるほど~。 じゃあまあ、会社の歴史としては輝かしい第1歩ではあったものの、 実際はほうほうの体で漂着したってことだったんですね。ツ:そんなとこだろうね。 何しろ、船長まで重体でまともに動けなかったそうだから。 24人が日本に着いたとはいっても、漂着の翌日に3人死亡したらしいし。 それで、アダムスら動ける人間が船長に代わって大坂に船とともに召し出されて 権現様に謁見することになったんだ。 健康は何よりの宝だよ。申:いかにも医師らしい発言だな(笑)。り:この時はまだ家康はいわゆる「五大老」という身分で天下人ではなかったけど、 秀吉はすでに死んで幼い秀頼が跡を継いでいた・・・ それで五大老のトップである家康が代わって漂流者を吟味した訳ですね。 秀吉が生きてるうちに着いてたら、会社のその後の運命もまた変わってたかも しれませんよね。 その点でもツイてたよな。ズ:それはお前の言う通りだろう。 リーフデ号の漂着当時、日本にはイエズス会の宣教師らがのさばっていた。 リーフデ号の日本漂着の報を聞くと、奴らはすかさずリーフデ号の乗組員を処刑するよう 上申していたらしい。り:すでにこの時から先住ヨーロッパ人との戦いは始まっていた訳だ。ズ:だが、家康公は公正寛大な方で、宣教師らのホラを心に留めながらも、 実際に乗組員に会って話をする中でオランダ人やイギリス人に対する誤解を解いた。 その後も宣教師らによる処刑の要求は執拗に続いたらしいが、自分の目を信じる家康公は それを黙殺して、ついには江戸に招くまでになった。 アダムスとヤン・ヨーステンは江戸で重用され、持てる知識を駆使して幕府に仕えたので これがのちの通商への土台となっていく。り:オランダ人のヤン・ヨーステンはちょっと調べたぐらいだとあまり具体的な経歴が 出てこないですね。 ただ、彼が与えられた和田倉門外の屋敷のあった付近が、ヨーステンの日本名の 耶楊子(やようす)から転じて八重洲という地名になり、それが今も残っているので 現代日本人にも名前だけはそれなりに知られているというぐらいで。 それよりは、やっぱウィリアム・アダムスのが有名だよな。ズ:なんでイギリス人の方が有名なんだ。 納得がいかん。り:まあまあ。 で、「外国」との交流ですが、前回の流れを一部再掲しますと 1600 3月、リーフデ号が豊後に漂着1602 オランダ東インド会社設立。1604 家康が松前藩にアイヌとの交易独占を認める。1609 薩摩藩が家康の許可を得て琉球に侵攻、なかば領土内におさめる。 対馬藩を介し、朝鮮との交易が再開される。 てことで、きちんとした歴史を知らない現代日本人のイメージといえば 「外国=出島=南蛮貿易」ってカンジじゃないかと思うんですが、 もう少し知識のある人なら前回の教科書からの引用にあるように 「長崎でのみオランダと中国との交易があった」という認識になるかもしれません。 でも実際は松前藩がアイヌと、対馬藩が朝鮮と、薩摩藩が琉球と交易があって、 スタイルの違いはあれ都合4ヵ所で5ヵ国との交流があった訳ですね。 なのに何で長崎ばかりがクローズアップされるのかと思ったんですけど、 朝鮮は別として、アイヌと琉球は結局のちに「日本」に組み込まれちゃったから あんまり目立たないのかな~っていう風にも考えました。ツ:へえ、アイヌと琉球は吸収されたのか。 でもまあ、朝鮮だって属国だろう?申:そんな訳ないだろう!!金:野蛮な倭国の属国だなんて、侮辱もはなはだしい!!り:ちょっとツンさん、朝鮮人を刺激しないでください。 外国との窓口となった松前・対馬・薩摩・長崎は今では「4つの口」という 言い方をされてるようで、このうち最も整備が遅かったのが長崎なんですが、 『オランダ風説書』(松方冬子/中公新書)によると、 【この「四つの口」は突き詰めれば日本が国交をもたない中国へと間接的につながる ための経路であった。中国で生産される生糸、絹織物などを安定的に手に入れ、 漢籍や絵画などから学びたいという欲求は日本国内で非常に強かったのである。】 ということらしいです。ケ:中国とつながる? 日本は古くから中国に朝貢したりして、関係の深い国だったじゃないか。り:いやそれが、豊臣秀吉の朝鮮出兵によって朝鮮だけではなく、中国(当時は明)との 国交も途絶えちゃったらしくて。 でもケンペルさんの言う通り、日本の歴史は良くも悪くも中国との関係をヌキにしては 語れませんから、なんとか国交を回復させたいと思ったらしいんですけど、 結局明に拒絶されたままで直接の関係を復活させることはできなかったんですって。金:我らの神聖な国土を侵したりするからだ! 身の程を知らないにも限度がある!!ツ:りりだって興奮させてるじゃないか。ケ:それで何でアイヌや琉球なのだ?り:松方冬子氏によると、 【蝦夷地のアイヌは、サハリン(樺太)に住むアイヌを介して大陸との交易ルートを もっていたし、琉球は明の朝貢国であった。こうして家康は、とりあえず間接的に 明との関係を保持しようとした。】 なんですって。 言われてみるとなるほどってカンジですけどね。 だから、松前口・対馬口・薩摩口の3つは「中国とつながるための装置」。 これに対して長崎口は他の3つの口とは全く違う性格と重要度を持っていて、 それについてはまた後ほど話題にしたいと思いますが、 とにかく長崎だけが外国との接点だったと思ってる日本人は多いと思うので、 いちおうここで紹介しておきました。※今回の主な参考文献は・『栄光から崩壊へ オランダ東インド会社盛衰史』(科野孝蔵/同文館)・ 『オランダ風説書 「鎖国」日本に語られた「世界」』(松方冬子/中公新書) とウィキペディア。にほんブログ村
2016年07月31日

りり: え~と、最初は皆さんが参府の途中で見たあれこれなどについて お聞きしようと思ってたんですが、その前にオランダ商館について 少し知っていた方が理解しやすいかなと思ったので、東インド会社や商館の概略を 聞かせていただこうかと思います。 たぶん、多くの日本人は商館のことをほとんど知らないと思うんですよ。ツュンベリー: えっ・・・知らない? だって、オランダ商館は江戸幕府と長い歴史をともにしてきたのに?り:現に、私も知識ゼロだったもんケンペル:じゃあ、お前の知識とやらをちょっと語ってみろ。り:江戸期に入って徳川幕府はキリスト教を禁止し、出島でのみ外国との関係を持って ここに鎖国が完成した。ズーフ:うむ・・・それで?り:そんだけ。レフィスゾーン:え!? ツ:なんだそれ!知識なんて言えないじゃないか!!り:だから、知識ゼロだって言ったでしょ。 歴史に興味のない人の知識もこんなとこじゃないかなあ~。申維翰:どこにもオランダ人が出てこぬではないか。り:ん~、まあ、時代劇なんかでは「蘭学」とか「蘭方医」なんて言葉が出てくるから、 よく考えればオランダ人を指すのはわかるんですけど、 「外国」がどこを指すのか興味もなかったから、オランダ人がどーのこーのとか 別に考えもしなかったしなあ。金仁謙:勉強しないとこういうくだらない人間が出来上がるの見本のようだな。り:だって私は長いこと世界史派だったんだもん。 日本史に興味を持ち始めたのはほんの数年前のことで・・・レ:もしかして、学校でも我々のことを教えないのか?り:あ、それはね、私が使っていた教科書には結構ちゃんと書いてありました。 【幕府は、貿易の奨励のためにキリスト教を黙認してきた。しかし、イギリス人・オランダ人 が、ポルトガル人・イスパニア人には領土的野心があると中傷したことなどから、 しだいにキリシタンの圧迫をはじめた。1612(慶長17)年、京都の教会を破却し、 宣教師の国外追放を命じ、翌年、それを全国におよぼした。さらに、1614(慶長19)年 には、高山右近ら信徒300余人を国外に追放した。朱印船の海外渡航も、禁教の強化に ともなって減少していった。 家康の没後、禁教はさらに徹底したものになり、1616(元和2)年には、ヨーロッパ船の 来航を平戸・長崎に制限し、1624(寛永元)年には、イスパニア人の来航を禁じた。 さらに、1633(寛永10)年、奉書船以外の海外渡航を禁じ、海外在住者の帰国を 制限した。翌々年には、日本船の海外渡航、海外在住者の帰国を全面的に禁止した。一方、 1634(寛永11)年には、長崎港内に出島を築き、ポルトガル人をここに移した。 こうした中で、1637(寛永14)年、領主の苛酷な年貢取り立てに苦しんだ九州の島原・ 天草地方の農民が一揆をおこした。この一揆の参加者は3万5千人にもおよんだが、 その中にはキリシタンが多かったので、幕府は不逞なキリスト教徒の一揆であると宣伝し、 諸大名に出兵を命じて、これを鎮圧した(島原の乱)。 幕府は、乱の背後にポルトガルの布教活動があるとして、1639(寛永16)年には、 ポルトガル船の来航を禁じた。1641(寛永18)年には、平戸のオランダ商館を長崎の 出島に移し、オランダと清の商人に限り、長崎での貿易を許した。 このような、幕府の管理と統制のもとにオランダ・清だけに貿易を許し、他の諸国との交渉を 閉ざした状態を、のちに鎖国と呼ぶようになった。鎖国は、幕藩体制を維持・強化するために 幕府のとった政策であった。しかし、このため、国民の海外渡航の道は閉ざされ、世界の進展 から取り残されることになった。海外事情については、わずかに「オランダ風説書」に よって、幕府が知るだけとなった。】 (「高等学校 日本史」清水書院より)ケ:ずいぶん、ざっくりな歴史だな。レ:初期の頃は変動が大きかったから、 重要項目だけを羅列するとこんな感じになっちゃうんですかね~。申:清は出ても、我々を出さないのはなぜだ! 侮辱もはなはだしい!!り:教科書は効率よく歴史を紹介するために項目ごとに分けて記述したりしているので、 朝鮮通信使については別のところで少し紹介されてます。 ただ、対外関係については思っていたよりも紙面を割いてる一方で、 これじゃ全体像がつかみにくい。 それに、今では「鎖国」についても解釈が変わってきているようなので、 そのあたりも踏まえながらざっくりとした教科書の文章の陰に隠れている もっと生々しい実態について、色々皆さんにお話をうかがいたいと思います。 突っ込んだ話についてはもっと後の方でするとして、まずは入門編てカンジで。 じゃ、なれそめですが、1568 ネーデルラントの貴族・オラニエ公ウィレム1世(オレンジ公ウィリアム)が スペインに反旗を翻す。(「八十年戦争」、または「オランダ独立戦争」の始まり)1579 ネーデルラント北部7州がユトレヒトにて、対スペインの軍事同盟を結ぶ協定に調印。 (ユトレヒト同盟)1596 フランスとイングランドが北部7州を国家として事実上認める条約(グリニッジ条約) を締結し、ネーデルラント連邦共和国が成立。1598 6月24日(西暦)、リーフデ号を含むオランダ東インド会社の艦隊が ロッテルダムを出港。1600 3月、リーフデ号が豊後に漂着。同月、家康がアダムスらを引見。 9月、関ヶ原の戦い。1602 オランダ東インド会社設立。1604 家康が松前藩にアイヌとの交易独占を認める。1609 薩摩藩が家康の許可を得て琉球に侵攻、なかば領土内におさめる。 対馬藩を介し、朝鮮との交易が再開される。 7月、13隻のオランダ艦隊のうち、ローデ・レーウ号とフリフーン号が平戸に投錨。 平戸藩主松浦鎮信のあっせんにより両船の商人頭アブラハム・ファン・デン・ブロークと ニコラス・ボイクが駿府で家康に拝謁し、朱印状を与えられる。 オランダ東インド会社が平戸に商館を置き、ヤックス・スペックスが初代商館長となる。1648 ヴェストファーレン(ウェストファリア)条約で、スペインが ネーデルラント連邦共和国の独立を正式に承認。(八十年戦争の終結)り:日本史の教科書を真面目に勉強したところで、すでにこの時点で 教科書的知識はもろくも崩れ去るよな~。 ええと、リーフデ号よりも早くに来日したオランダ人もいたようで、 1585年(天正13)7月31日サンタ・クルス号に乗って長崎にやって来た ディルク・ヘリッツゾーンが、日本を訪問した蘭人第一号のようですが。ズ:ただ「来た」というだけではどうということもないだろう。 我がオランダと日本との関係は、リーフデ号以降の歴史に始まるのだから。り:オランダ船リーフデ号が関ヶ原の半年前に漂着したってのは有名だけど、 その時点でまだオランダは正式に独立してなかった訳ですね。 つか、ネーデルラント連邦共和国(←オランダの正式名称)の成立年自体も はっきりしてないみたいだし。 いちおう1596年ということになってはいるみたいですが。 それより、オランダ東インド会社(以下「会社」と表記)の成立が リーフデ号の日本到着以後ってどゆこと?レ:オランダは自然風土に恵まれない環境の国だった。 資源も少なく、国土も狭く、洪水もたびたび起こったので、 生計を海に求めるようになった。り:都知事選真っ最中の現在、「東京都だけでオランダのGDPを上回る」と しょっちゅうTVで言ってますもんね。 自国だけの経済力はもともとその位のレベルだったってことだろうな。ツ:「とうきょうと」って何さ?り:う~ん、「武蔵半国の経済規模がオランダ一国のそれを上回る」ってカンジ?レ:当時、スペインは新大陸を発見し、ポルトガルはアフリカ南端回りのインド航路を 開いて、世界の海を制覇していた。 その頃、東方商品に対するヨーロッパの支払いは銀か毛織物という手段しかなかったが、 暑い国に毛織物は必要ないので、とにかく銀が必要とされた。 新大陸貿易と東方貿易という世界商業の二大分野が銀で結ばれ、その接点に位置していた アントワープが国際的な中継・金融市場として栄えた。り:アントワープは南部の都市で、現在ではベルギーの所属ですね。 金じゃなくて銀が決裁手段だったんだ?ケ:東インドの住民には、金よりも銀のほうが喜ばれていたのさ。レ:オランダでは13世紀末頃から漁業に従事し、ニシン漁で発展するようになっていった。 ポルトガル人が香辛料など東方の品を持ち帰るようになると、リスボンなどで買い入れて 北欧へ運ぶことも始め、のち東インドの商品はオランダ人の取り扱う主要商品と なっていった。 まあ、中継貿易だね。 一方、神聖ローマ皇帝カール5世が退位すると、ハプスブルク領が オーストリア・ハプスブルク家とスペイン・ハプスブルク家に分割されて、 ネーデルラントはスペインの支配下に入った。 その頃のネーデルラントではプロテスタントのルター派が広まっていて、 弾圧も厳しかったが、そうした苦難を経てネーデルラント諸州に同胞の意識も 芽生えていった。 そしてカール5世(=スペイン王カルロス1世)は1555年にネーデルラント17州を 息子フェリペ2世に譲り、翌年にはフェリペ2世がスペイン王となる。り:おお、フェリペ2世!スペイン絶頂期の象徴!!ツ:フェリペ2世は知ってるのか。り:まあ、彼は有名だから一般常識ですけどね。 アメリカやフィリピンを領有し、ポルトガル王も兼ねて「太陽の没することなき大帝国」 を作り上げた人でしょ。レ:フェリペ2世の代になった頃、フランスからカルヴァン派が多く移住してきた。り:カルヴァン派もプロテスタントですね。レ:オランダではゴイセンというけどね。 そしてまた弾圧が強まり、独立運動へとつながっていく。り:ふ~む、それでグリニッジ条約でフランスとイギリスの後押しを受けて いちおう国家のナリを整えるようになったってことですか。 それにしても、グリニッジ条約のわずか2年後に極東へ向けた艦隊を出すなんて すごいじゃないですか!ズ:それにはもちろんそれなりの下地ができていた。 15~16世紀には毛織物が世界の主要な貿易品で、特に新大陸との取引には 欠かせないものだった。毛織物の主要な産地であるフランドル地方が戦乱に巻き込まれて 職人たちがオランダのライデンへ大量に移住してきたので、オランダでは原料から 仕上げまでの全工程をこなす独立工業と、イギリスで生産された白地製品を加工する 加工工業が発展し、新大陸へ輸出するようになり、新大陸の銀が直接オランダへ 流入するようになった。 東方貿易に銀が必要だったとさきほど話が出ただろう?り:だけど、スペインの栄光にも少しずつ翳りが見え始めたとはいえ、 そうそう簡単に長期の航海に出られる訳でもないでしょう?ズ:東インドからの輸入品の中でもっとも重要だったのは香辛料で、調味料としてだけではなく、 媚薬・強壮剤・防腐剤などとしても活用されて、その利益は莫大なものだった。 会社の原型ができる頃、ポルトガルの胡椒取引はポルトガル王の直轄で、 価格も指定されていたので、中継貿易では大きな利益は得られなかった。 当時、ただでさえヨーロッパでの需要に供給が追い付いていなかったのに、 胡椒の運送路にあたる東地中海の政情が不安定で、これが供給不足に拍車をかけた。 我が国はそこにチャンスを見込んだのだ。り:利にさといと言われるオランダ人らしいエピソードとも言えるかもしれないけど、 イギリスも同じ頃世界に羽ばたくんだから、スペインやポルトガルがいかにウハウハの ボロ儲けをして、周辺国がそれを妬ましく眺めてたのか想像もつくってもんだよな。ズ:長期の東インドへの航海についてのノウハウは、ポルトガルは秘密にしていた。 だが、メルカトル(ヘルハルト・クレメール)が図法を考案したり、 大司教ヤン・ハイヘン・ファン・リンスホーテンがインドへ航海した際の見聞録を 公開したりしたので、知識や技術の面でも準備が整っていった。り:「メルカトル図法」のメルカトルさんですか! 彼、オランダ人だったんだ。ズ:それでも、最初はポルトガルと出くわさない航路を開拓しようと苦労したらしい。 当時、シベリアの北海岸はオビ河の河口から東南へ屈曲していると考えられていたので、 ユーラシア大陸の北回りのコースを採った方が喜望峰を経由するコースよりも はるかに近道であると考えられていた。 それで、果敢に北回りの航路の開拓にいそしんだんだが、ある船はノバヤ・ゼムリヤ島 西海岸で氷に閉ざされて1年以上同地で越冬し、翌年9月にかろうじて スカンジナビア半島の北岸・コアに着くなどといった状況で、 結局北回りのチャレンジはすべて失敗に終わった。 その一方で、ポルトガル人と同じ南回りのコースで東インドへの航海を目指す動きがあり、 1595年4月にオランダから出港した4隻の船隊が、14ヵ月かかって ジャワ島西部のバンタム王国の首都・バンタムに着いた。 これが東インドへの自力航海の第1号だ。 出港当時240人いた乗組員は、帰国時には87人になっていた。り:喜望峰付近の航行は危険が多く、また熱帯地方を通過するために病人が続出したとか 言いますもんね~。 なにもそんな苦労してまで、よそ様の土地を狙わなくてもいいのに・・・ ヨーロッパ人は本当に強欲ですたいズ:(無視)最初の航海が成功すると、オランダでは航海熱が高まり、 各地に小規模の会社が設立されて乱立の様相を呈した。これらを「先駆会社」という。 しかし、当時は帆船だったので季節風を利用することが多い関係上、 東インドでの買い付けでも本国での売却でも各社の船が重なって、競合の弊害が現れてきた。 さらに、オランダに対抗して1600年にイギリスで東インド会社が設立されたので、 我が国でも様々な困難を経て多くの先駆会社を合併させることとなり、 1602年3月20日、「諸会社の特許すなわち合併」の議がオランダ連邦議会で可決され、 会社に特許が認可された。 これが「オランダ東インド会社」だ。り:長い話だったなあ~(笑)。 つまり、1600年のリーフデ号は先駆会社の派遣した船だったってことですか。レ:そういうことだね。 特許の中身は、会社の船だけがオランダから東インドへ航行できること、つまり貿易の独占。 それから外国の国家と条約を結び、軍隊を置き、要塞を設け、貨幣を鋳造し、 地方長官や司令官を任命できるというものだった。 特許だから期限があるんだが、その期間は21年間で、21年ごとに更新されることに なっていた。が、実際は会社の設立から解散までずっと継続された。り:ふ~ん、会社と一口に言っても、国家の運営する会社のようなもんだったのか。※今回の主な参考文献は『栄光から崩壊へ オランダ東インド会社盛衰史』(科野孝蔵/同文館) とウィキペディア。にほんブログ村
2016年07月23日

ツュンベリー: 私が日本へ向かう時のことだ。 1775年6月20日乗船、21日に大きな三層甲板船でバタビアを出港し、 8月13日、長崎へ入港した。 日本への航海はインド全域中で最も危険であると常に見なされており、 オランダ東インド会社は日本向けの5隻の船のうち、少なくとも1隻は 失われるとしている。 現に、私の航海は船を日本の港に3~4ヶ月安全に停泊できる、最適にして唯一の季節と いわれながら、5回もの暴風雨に見舞われ、速度の遅い帆船ブライフェンブルグ号は 沈没こそ免れたもののマカオで航行不能となり、広東で修復されることになった。 積荷の大部分である粉砂糖はほとんど全部がだめになり、水夫たちの間には 間歇熱が猛威をふるい続け、4回目の暴風雨ではついに乾いた衣服もなくなり、 5回目の時に大波で船が強い衝撃を受けた際、甲板にいた私は端から端へと投げ飛ばされて 右足にリンゴ大のこぶを作った。 これで日本への航海がいかに困難で危険であるか、台湾を取り巻いている海が いかに荒れ狂い暴風雨に襲われるか、おわかりいただけよう。りり:なんでみんな、海が荒れてる時に甲板に出るかな~。 頭、おかしいんじゃないッスか?ツ:・・・それが苦労してはるばる日本までやって来た人間に言う言葉か? 私が観察した日本人は、気に入らないことがあってもその場では顔に出さない 忍耐強い人物ばかりだったぞ。り:すいませんね、顔に出て。 もう江戸期とは違うんですよ。 でも、江戸っ子なんかはケンカっ早いって言いますけどね~。 わたくし、江戸っ子の血が入ってるもんで。レフィスゾーン: ま、まあまあ、我々は日本人に対して忍耐することに慣れてるじゃないですか。 ここまでの会話でりりが凶暴な性格だってことは十分にわかったから、 昔取った杵柄で、ここはぐっとこらえて・・・ね?ツ:ハア、死してなお日本人に忍耐を強いられるとは・・・り:まあでも、海に放り出されなくてよかったじゃないですか。 バタビアから日本への航海途上じゃ、荒れてる海に飛び込んで助けてくれる 勇敢な日本人はそばにいませんからね。ツ:ま、骨折しなかったのが不思議なくらいだとは思ったけどね。 他にも海で苦労した人、いる?ケンペル:そういえば、ドゥーフ君は本国へ向かう途中で遭難したと言っていたな。ズーフ: 私は私の半生を過ごした日本を出帆して、バタヴィアへ向かった。 もし私が東インドに留まりたいと望んだら、もっとも利益のある地位が与えられただろうが、 なにしろ21年祖国から離れていたので、私は帰国することを望み、 祖国への航海に軍艦アドミラル・エーフェルツェン号を選んだ。 1819年2月16日、私の乗った船は戦艦プリンス・ファン・オラニエ号、 フリゲート艦マリア・レイヘルスベルヘン号とともにバタヴィアを出帆した。 しかし前者は我々の先を航行し、後者は3月の末に視界から消えた。 我々は絶えずスコールと高波に奮闘しなければならず、我々の主檣の船首材を失った。 船は漏水し、我々は絶えずポンプで水をくみ出して、ようやく海上に浮かんでいた。 3月30日、浸水はさらに増え、全員がポンプに配置された。私もすべての乗客と同様、 4時間続けてポンプを押しては、4時間休息しなければならなかった。 漏水個所を発見するため、あらゆる手を尽くし、ついに水が烈しい勢いで流れ込んでくる、 2つの大きな穴を発見した。 その他にもいくつか小さな穴があり、これだけでも我々の船を座礁させるに十分だった。 高波と激しい風のため、もっとも大きな漏水個所をふさぐことができず、 我々はまったく悲惨な状況だった。申維翰:引き返すとか、近くに避難するとかの措置は取れなかったのか?ズ:いや、その時もっとも近いモーリシャスはなお400マイル離れていたし、 南東のモンスーンが待ち受けていたので、スンダ海峡、あるいはスマトラに引き返すのは 非現実的だった。 牽具の多くは損傷して帆走もできない状態だったが、その修理に乗組員を割くと 1つ以上のポンプが止まり、沈没を早めることになるので、修理もできなかった。金仁謙:にっちもさっちもいかないとはまさにこの事だな。ズ:それで、風を避けて200マイル離れているディエゴ・ガルシア島を目指すことにした。り:え~、註釈によるとディエゴ・ガルシア島はモルディブの南の英領シャゴス諸島の島、と。 けど、ディエゴ・ガルシアなら英語じゃなく思いっきりスペイン系の名前だよな。 もとスペイン領か、もしくはポルトガル領だったのかな?レ:お前はヘンなとこに食いつくね。り:疑問を持った時に調べておけば少しずつでも知識が広がるでしょ。 え~と、ウィキペディアって名前の物知りのトモダチによると、 【16世紀の初期にポルトガル人によって発見され、「ディエゴ・ガルシア島」と 名付けられた。当時は無人であったが、その後18世紀にフランス人が入植して 黒人奴隷を導入しココヤシ栽培とコプラ生産のプランテーションの経営を始めた。】 ふん、やっぱりそうか。 で、その後、イギリス人が強奪して、今はアメリカにレンタルしてると・・・ うん? 2014年のマレーシア機行方不明事件で、ディエゴ・ガルシアの米軍基地が 注目を浴びてるそうな。残骸が見つかったとかいう報道もいくつかされてるけど、 アメリカについての黒い噂も飛び交ってるみたいだな・・・ ふ~ん、今じゃそんな話になってるのか・・・ズ:・・・話、続けてもいいか?り:あ~、はいはい、すいません。 そこらへんの海で、みんなで必死こいて水をかき出してた訳ですね。ズ:時々生命の危険を冒していくつかの漏水個所を止めようとしたが、すべて失敗に終わった。 船を浮かせるために、大砲と火薬を若干、甲板から投げ捨てたが、漏水は減らなかった。 それどころか、ポンプの1つが故障して、水は再び増加した。幸いにも、艦内には 大変有能な鍛冶屋がいて、もっとも性能のよいポンプの1つが動かなくなると、修理した。 軍艦ナッサウ号から我々が買い取ったこの2つのポンプがなかったら、我々はこの船を、 これほど長い間海上に浮かべておくことはできなかったろう。 そうして3月30日から4月8日まで、船はまだ沈没しそうな状態にあり、死は目前に 迫っていた。我々の唯一の希望は、ディエゴ・ガルシア島だった。ここに人が住んでいるかは 知らなかったが、ただ、ここに碇泊所があることは知っていた。 我々が4月8日の朝、この小島を目の前に見た時の喜びと、神への感謝は どれほど大きかったことだろう。 島の小さな湾の入り口に近づいた時、アメリカの旗を立てたブリック船が近づいてきて、 その船長が我々の船に乗船したので、我々の喜びは、どれほど高まったことだろう。 ブリック船ピッケリング号の船長ジェームズ・B・イーズは我々の状態に唖然とした。 この船の名とその立派な船長の名は、私の記憶から去ることはないだろう。 我々は、彼とこの船のおかげで救われたのだ。申:生死の境をさまよったものの、助かってよかったではないか。ズ:しかし、逆風が吹いていたので、沈没しかかった船では湾内に入ることができなかった。 長い間待ち望んだ島に着きはしたものの、停泊することはできず、そのまま我々は 完全に島から離れてしまい、日も暮れてきて、船員は気力を失った。 ・・・こうなったらもう、我々全員を彼の小さな船に引き取ってくれるよう、 アメリカ人の船長に願うしか道は残されていなかった。 イーズ氏は、水が刻々と満ちてくる、我々の船の悲惨な状態を見て、さしあたり 我々の船に留まる決心をしてくれた。これは我々を少なからず安心させた。 さもなければ、乗組員たちは意気消沈して、我々は皆溺死しただろう。 そして船の司令官、海軍少将バイスケスは作戦会議を開いて皆の意見を聞いた。 こうしている間にも、船は風と潮流で次第に島から遠ざかっており、このままいけば モンスーンと潮流によってディエゴ・ガルシア島の北西の珊瑚礁で沈没する危険があった。 そこでは船を保護するものは何もなく、船にいる340人は食料も得られない。 熟慮の結果、船を捨ててピッケリング号へ移ることを決議した。ケ:やむを得ない選択だな。 そのブリック船の船長はディエゴ・ガルシア付近に住んでいたのか?ズ:島には9人のヨーロッパ人と150人くらいのモーリシャスの黒人がいた。 が、彼らは定住者ではなく、豊富なココナッツと魚から製品を作り、年2回、 彼らの製品をモーリシャスに送っているだけだった。 イーズ氏がディエゴ・ガルシアにいたのは、まるで我々を救出するために神から遣わされた 奇跡のような偶然だった。 ピッケリング号は3年前にアメリカを出帆し、アザラシの捕獲のために太平洋の小島に 乗組員の一部を下ろし、しばらくしてからまた迎えに行く船で、迎えに行くまでの間は マダガスカルに航行して、モーリシャスに食料用の家畜を運搬していた。 家畜の運搬には多くの水を必要とするが、マダガスカルは水がよくないし、 モーリシャスでは高価なので、水質がよくしかもタダのディエゴ・ガルシアに 水を得るために来ていたのだ。レ:おお、神よ・・・ズ:ピッケリング号には飲料水とココナッツが積まれていたが、これはディエゴ・ガルシアで 豊富に得られるものなので、これらを海に投げ捨て、我々の収容場所を作った。 そうして4月9日の夜、沈みつつある船から退去を始めたんだが、 アドミラル・エーフェルツェン号のように80門の大砲を備えた巨大な船が 突然沈没する際には、小さなブリック船は海のうねりで共に飲み込まれる危険があるので、 移動は慎重に行われた。 午前1時、まず何人かの病気の乗組員と共に私が移動する命令を受けた。ツ:なぜ健康な君が先に移動したんだ?ズ:それは私が臨月に近い妻を伴っていたからだ。 これまでの驚愕と不安で、妻はすでに重病で憔悴していた。り:ズーフさんには日本人妻と子もいたけど、彼らを国外に連れ出すことはできなかったんでね。 この時一緒にいたのは、バタビアに戻ってから娶った奥さんです。申:ああ、国禁があるからな。り:臨月の新妻を、危険な航海に連れ出したことがまず私には理解できませんね。ズ:・・・・・・ ツ:おさえて、おさえてズ:私は妻をできる限りハンモックで包んだ。 この時のイーズ氏の人道的な援助を、私は決して忘れることはないだろう。 その後ボートは何回も往復して、午前11時頃、すべての乗組員がブリック船に移った。 すでに水は一番下の甲板まで達していた。 ところが、船からかなり離れた頃、残した船から砲声が聞こえた。ツ:なに、怪奇現象!?ズ:直ちに点呼を行ったところ、砲手が1人足りなかった。 彼は疲労のためか刺激性飲料を飲みすぎる習慣のためか、眠っていて忘れられたのだ。 彼が目を覚ました時、沈んでいく船にただ1人震えていたが、大砲を撃つだけの 知恵がまだあった。金:ぶりっく船に当たらなくてよかったではないかズ:(無視)我々に選択の余地はなく、ふたたび沈没していく船に戻り、砲手を救い出した。 その後島に向かって更に一晩航行したが、翌朝見捨てた船から黒煙があがるのを見て驚いた。 恐らく、例の砲手が不注意に発射したため、船は水ではなく、火のために沈没したのだろう。り:最初にちゃんと点呼しておけばこんなことにはならなかったのに。 詰めが甘いよなあ。ケ:茶化すなよ、アジア人たち。 それで船は沈没し、緊急だったためロクなものも持ち出せなかったという訳だな。ズ:私は日本滞在の19年間で収集した、日本の珍しい物、書類、その他多くの持ち物があった。 しかし、このような状況だったのでそれらが大きな場所を占めることは許されず、 重ね着をした何枚かのシャツ、私にとって重要な若干の書類、それとかなりの額の現金しか 残らなかった。申:そんな中で多額の現金を持ち出すとは抜け目ないではないか。ズ:金は私が持ち出したものではない。 私がブリック船に移ったあと、大きなボートの漕ぎ手の1人が私のために取ってきて、 しかも正直に無傷のまま私に渡してくれたものだ。 ブリック船のおかげで無事、全員が島に移れたが、先に話したように島には人がいて、 我々は340人もいたので、ディエゴ・ガルシアに留まるのは好都合ではなかった。 かと言って、この人数でブリック船で20日以上かかる航海はできない。 そこで隊を2つに分けてブリック船でモーリシャスまで運んでもらうことになった。 私がモーリシャスに向けて出帆したのはようやく4月22日のことで、 私は辛うじて助かった妻をそこまで無事に連れていきたいと願ったが、 航海の4日目に妻は亡くなった。 妊娠中で、しかも船の難破でショックを受けていたので、妻の身体は 航海に耐えられなかったのだ。我々は結婚後10ヵ月しか経っていなかった・・・り:あ~、奥さん、ホントお気の毒!! それにしても、ズーフさんは初来日のあと一旦バタビアへ戻ってるし、 平戸の最後の商館長だったフランソワ・カロンもタイオワン(台湾)だの バタビアだのへ行ってるし、危険だと言いながら当時の諸技術で よくもまあ日本との間を無事に往復してますよね。 オランダ人、マジしぶといよな~。レ:今回の話のシメ、そこですか?にほんブログ村
2016年07月18日

りり:それじゃ申さん、朝鮮通信使の旅程の概略の説明をお願いします。 まずはざっとね。申維翰:我らはソウルからの出発だ。我が国内をずっと南下して釜山を出港し、 まずは対馬へ渡る。対馬の東海岸を伝って壱岐へ渡り、筑前領藍島へ渡る。り:藍島は六連島の北西にある島ですね。そこまでくれば、本土がもう目の前だ。申:藍島から赤間ヶ関を抜けて大坂まで行く。ここまでは船だ。 そして陸路で大坂から淀・伏見を通り京へ入る。ツュンベリー:あとは私達と同じ東海道だね。申:いや、京から大津へ出て、しばらく琵琶湖沿いを進んだ。 そして山を越えて大垣へ抜け、名古屋へ入る。その先からはオランダ人と同じようだな。ケンペル:すると、大きく北側へ迂回した道を進んでいったということか?り:カピタンの参府ではまんま東海道を東進したから、草津から水口を通って 亀山へ抜けてますけどね。 中身はどうであれ、朝鮮通信使は丁重にもてなされたので、こういうルートになってます。レフィスゾーン:迂回することと丁重なもてなしとどういう関係があるんだ?り:この道は関ヶ原を突っ切るルートで、一部美濃路を通ります。 読者の方には、東海道新幹線のルートだといえばわかりやすいかな。 関ヶ原の戦いで徳川家康が勝利したあと、家康はこの道を通って上洛しています。 また、その息子で2代将軍となった秀忠も同じ道を通って上洛しているので、 徳川家にとって吉例の道とされ、その後沿道には将軍の休息所も設けられて、 以後の将軍が上洛する際に使われ、将軍専用の道とされて、 参勤交代で国許と江戸を往復する大名たちには通行が許されなかったという、 特別な道なんです。ズーフ:我々とは差がつけられていたということか・・・り:まあ、そうしんみりしないで。 この後、おいおいわかってくると思いますが、とにかく朝鮮通信使への接待というのは 異常なほどなんですよ。 なもんだから、もともと傲慢な朝鮮人がますますつけ上がって・・・金仁謙:おい、そこの倭人!!り:(無視)旅程はこんなとこですかね。 どのぐらいの人数で旅をしたんですか?ケ:まず小倉までの陸路は100名。 これには馬丁や大名が護衛に付けてくれた人数が含まれる。 その先の海路では、水夫が含まれるのでそれほど少ない数にはならない。 大坂から江戸までの陸路では、荷物も人馬で運ばなければならないので 馬40頭に人足も同じだけの数がいて、150名にもなることがある。ツ:オランダ人は商館長と書記官、それに医師の私の3人なんだ。 あとは役人、通詞、従僕、召使のおよそ200人にも達する相当な数の日本人が随行する。り:200人という数については、「この人数は疑わしい。通常は60名ほどという」という 注釈がついてますけどね。レフィさんの時は?レ:私の時にはオランダ人は私とドクトル・モーニッケの2人だけで、その2人に対して 保護・監視を目的として61人の日本人が付いた。り:ふむ、回によって多少の増減はあるだろうけど、やっぱりそのぐらいの人数が スタンダードだったんだろうな。申:余の時は朝鮮側だけで475名。うち109名は大坂で船に留まるがな。レ:え?金:私の時は総勢484名だ!レ:申さん、今「朝鮮側だけで」って言いましたよね? すると、金さんの時も朝鮮人だけで484人てこと? なんでそんな大人数になるんですか?申:中心となるのは正使・副使・従事官で、これを三使臣という。 一行は上房・副房・三房の3つに分けられ、三使臣がそれぞれ、各房の上に立つ。 そして通事・書記・軍官・船将・小姓・水夫・従僕などがそれぞれの房に所属する。 もちろん医官もいる。ケ:それだけでそんな人数になるのか?り:いや、朝鮮通信使のメンバーには驚くべき職種も含まれてるんです。 金さんの回の名簿から変わりダネをいくつか拾ってみると、まず画員。ツ:絵描き?り:それから楽人。一行のパレードの際は、楽人たちが笛やラッパをピープー吹きながら 行進します。あと、各滞在地でも楽を奏でさせて内輪の宴をしたりしてますね。ズ:ずいぶんと優雅なもんだな。り:それから大旗の持ち手や毛槍の持ち手。ケ:そんなのの専任がいたのか?り:料理人や屠牛匠。ツ:牛の屠殺人てことか?我々の一行にも料理人はいたが、全部日本人だぞ。り:オランダ商館員は日本に住んでましたからね。 でも朝鮮人の場合は一時的な「お客様」だから、文化の違いもあるし、 全部が全部朝鮮人料理人が滞在中の料理を作った訳でもないみたいだけど、 自国の料理人を抱えていた方が何かと都合がよかったんじゃないですか? 朝鮮人は文句が多いし。申:文句が多いと言うが、宴で出された料理でまともに食べられないものは多かったぞ。り:それは儀式料理だから。 文化が違えば調理法とか盛り付け・味付けも異なるのは当然のことなんだから、 四の五の文句言う前に素直に色々食べてみればよかったのに。金:そこの倭人、無礼が過ぎるぞ!!り:(無視)あと馬上才。馬で曲芸する人のことです。 それと馬の獣医。 金さんの回の名簿にはちょっと見当たらないけど、鷹の飼育係もいるはずなんだけどな。 回によって鷹のいない時もあったのかな。ズ:ということは、馬や鷹もいたということか?り:左様でございます。将軍家への献上品でございまする。 こーゆーのを引き連れて、しめて500名近く。 この時点ですでに日本人随行者も含めたカピタン一行の人数をゆうに超えてますが、 対馬~江戸間はこれに対馬藩の護衛が付きます。 さらに、道中での案内・接待・護衛のために沿道付近の藩やそれ以外の藩からも 多くの人が供されたので、日本人随行者も含めると朝鮮通信使の一行や 接待に駆り出された人の数はとんでもないものになります。 ツ:はあ~・・・・・・(←開いた口がふさがらない)レ:私もちょっと見てみたかったな。り:いやあ~、オランダ商館の皆さんは見ない方がいいでしょ。 平戸時代の皆さんのライバルだったイギリス商館の商館長のリチャード・コックスが 1617年に大坂で通信使の一行を見ているんですが、 「皇帝の命でいたるところで王者のように待遇されている」と日記に書いてます。 コックスが見たのは第2回でまだ初期の頃ですが、 それでもすでに相当な待遇だったんだから、回を重ねるごとにエスカレートしていった 過剰なほどの接待を皆さんが直接見たら、これはもうフラストレーション 溜まりまくりだと思いますよ。ツ:あっ、なんか、「監獄」の記憶がよみがえってきたな・・・り:んじゃ、前回船酔いの話が出たので、海での苦労話を 申さんに披露していただきましょうか。申:余は釜山から1日で対馬に着いたが、それでも終日船酔いに苦しんでいる者がいた。 対馬から壱岐に渡る時には海が荒れて、我らはもとより櫓工・倭通詞までことごとく 船酔いのために嘔吐した。 起きてはたちまち扶擁しあい、すがりついても立つことはできず、転倒してしまう。 余は屋中で小臥しようとしたが、四隅の板を見ると板がゆさぶり動いてまさに壊れんばかり。 立って楼頭にあがり、足をのばして坐って天際の雲霞を望めばやや快かった。り:対馬海流は対馬をはさんで日本海に流れ込むけど、対馬~壱岐間よりも 対馬~朝鮮半島間の流れの方が早いみたいですけどね。 それでも壱岐までもずいぶん荒れたようですね。 そんな中、甲板に出るなんて危ないじゃないですか。 申さんは病気持ちだってのに・・・ツ:病気?なんの?り:「ちにてんてん」のツラい病気ですよ(笑)。ツ:あっ、「ぢ」かあ~!そりゃ辛かったでしょう。申:・・・・・り:それがもとで壱岐ではあんまり人の応対もできなくて船で休んでて、 ちょうどその頃、運悪く家が壊れるほどの暴風雨が吹いたので、 荒れ狂う船の中でじっと耐え忍んでたりと実にお気の毒でねえ~。ケ:お前、なんか楽しそうだな。 しかし、医師だって同行していたんだろう?り:さすが医者。食いつくなあ申:うるさい! 医官もいるにはいるが、余はもう長くアレを患っていたので仕方ないのだ。ツ:長崎に寄ってくれれば、最新のオランダ医学で治してあげたのに~。 つっても申さんの来日当時、私はまだ日本に来ていなかったけど。申:壱岐から藍島まで行けば九州はもうすぐだが、我らは九州へは上陸しないのだ。り:藍島からはほんのひとまたぎで九州だけど、その先の旅程を考えれば わざわざ下船して九州北部を横断する必要なんかないですもんね。申:長崎のことは余も聞いている。 中国商船が停泊する港で、その名勝は百物繁華とともに国中でもっとも有名である。 ぜひとも見たいと思ったものだが、路程から外れているので寄れないのが遺憾であった。り:申維翰(しんいかん)さんが遺憾・・・ぷぷぷ・・・申:日本語読みするな。我が名はシンユハンだ。レ:申さんが我々の居留地を見たらびっくりすると思いますよ。 オランダ人にとってあそこは監獄だから。り:オランダ商館員は出島のことを「海の牢獄」と呼んでいたそうですね。レ:監獄は出島だけじゃないけどね。どこでも日本国内、我々の行く所は牢獄だ。申:藍島に着いた時、早暁からの暴風雨がいよいよ激しくなって接岸できなかった。 船中に留まっていた櫓人や格卒たちは死ぬかと恐れ天を呼び泣き喚いた。 迎える岸辺でも対馬州の奉行などがそれぞれ倭人数百を率いて救済にあたろうとしたが、 海岸は荒れ狂い手も足も出ずに、岸でも船でもなすすべがなかった。 とつぜん、風威がやや衰えたとき、1人の各卒が海に飛び込み、 波間に浮かぶ碇綱をつかんで岸に泳ぎついたので、諸倭はこれを挽いて 船をつなぐことができた。また壮士ではあるまいか。ズ:風が強いなら、当然海も荒れていただろう? そういう中に飛び込むとは・・・ツ:日本人は勇敢だからな。り:私も、この話を読んで仰天しましたけどね。 ライフジャケットも何もないこの時代、荒れ狂う海に単身飛び込むなんて ちょっと信じられなかったけど、金さんの回でもそんな話があるので、 海の男は強靭な身体と精神を持ってたみたいですね。ツ:へえ、そうなの? 金さん、ちょっとその話を聞かせてくれませんか~?金:壱岐勝本でのことだ。 夕刻になると風雨が一層激しくなり、船をつないだともづなが切れて 沖へ流されそうになったが、肥前の奉行と裁判が身も軽やかに自ら海中へ飛び込み、 他の綱でかろうじて繋ぎ止めどうにか事なきを得た。ケ:ホントにすごいな。 彼らにはそれが当たり前のことなのだろうか。金:海での苦労話なら沢山あるぞ。 まず釜山を出港すると早速海が荒れて船酔い者が続出し、上船の舵棒が折れ、 副船も2度も舵が折れて大変だった。り:まるでその後の行程を予言するかのような悪すぎる船出・・・ ぷぷぷ・・・金:(無視)対馬から壱岐勝本への海路も荒れて船房の揺れがまたひどく、 体は左に右にと転がり回り、帆柱はきしんでばりばりと音を立てるのでびっくり仰天。 すっかり肝を潰す。 船中の人々はことごとく嘔吐に苦しみ、閻魔王国の十王殿とは板子一枚を隔てるのみ。 正使の船は三里も行かないうちに一抱えもある古木の舵棒が風濤に折られてしまい、 船が傾いて波間に浮きつ沈みつ荒れ狂う波濤が四方に立ちはだかり、 舵楼にいる者の衣服はびしょ濡れとなった。 ・・・正使は桃紅の帯をもって国書を背に縛り付け船上に待機され、 国書と運命を共にする御覚悟。大邱(テグ)通引の白太竜が上衣をお脱ぎ下されと 泣きながら頼むが、正使が言われるには「人の生死が着衣一枚に左右されると思うか」と ついに最後まで脱がれなかったとか。その気力は見上げたもの。 丁度その時、副船が傍らを通り過ぎ、正使の船に乗った者が副船に乗る同僚を見つけ、 手を上げて永訣の挨拶をする。その光景むごくも哀れ。哀れを極めたのは崔鳳齢で、 自分の兄の危急を副船から目撃し、気を失って倒れ込み、なかなか覚醒しなかった由。 無惨この上ないこと。上陸した後も死人同様だったという。 レ:上着を脱ぐ脱がないのところがよくわからないのだが・・・り:えっと、註釈によると「上衣を脱いで海に投げ込むことによって波を鎮めようという 一種の水神信仰」ということらしいです。 でもこの場合、上着を神に奉納するというよりは、正使が帯で背に縛り付けた 国書のことを指すと思われますね。 古い時代、船で大陸へ渡った沢山の日本人がいるんですが、 海上で暴風雨にあった時に仏舎利を海に奉納したエピソードなんかがあります。 当然、価値があるものほど霊験があるもので、朝鮮通信使の場合は国書に勝る貴重品はない。 なんたって、国王の親書ですからね。 だから、その貴重なる国書を神に奉納して海を鎮めてくださいと 部下が泣いて正使に頼んだということだと思いますが、 今回の使節団の総責任者でもある正使はついに脱がなかった、と・・・ レ:へええ~。 仲間の船が今にも難破しそうなのに、どうにもできずにただ見ているだけなんて 辛かっただろうな。 まして、自分の兄弟がその船に乗っているともなれば・・・金:壱岐勝本から藍島へ向かう時には、我等の船の舵が根元だけ残して折れた。 曳船がやって来ないので号砲などを放ってみたが、ついに一隻も現れなかった。 副船は岩にぶつかり船底より水が入りはじめ、副使をはじめ乗員はかろうじて 倭船に乗り移った。 この事故は曳船が来なかったためであるとして追及をしたが、倭人はなかなか 認めようとしない。 その後、この件について私を訪ねてきた倭人を懸命になだめすかして聞いてみると、 初めは隠していたが、ついに折れて語ってくれた。 「曳船を出さなかったのは対馬の裁判が前もって知らせなかったためである。 護行の船主は腰斬の刑となり、太守は江戸へ赴き、第三の奉行はこの地に居て 死罪となるか流罪となるか太守の処分を待っているところだ。 結局のところ心労の果て、自決するよりない」とのことであった。ツ:ひえ~、護衛の不手際で死者が出るのかあ~。 ところで、「前もって知らせなかった」って誰に?り:対馬の護衛団は国内では最初から最後まで通信使にぴったり寄り添いますが、 各領内を通る時には、それぞれの藩が領内での先導・護衛を務めます。 ひとつの領内を出る時には、次の藩の護衛にバトンタッチして 通信使一行を案内していくんです。 壱岐は筑前領だから、筑前への連絡がうまくいってなかったってことでしょう。金:・・・対馬人の悪行の数々、日増しにその度合いを高め、昨日も今日も賄賂があり 二人の者が金を持ち去ったが、その額はかり知れず。数万両はあったという。 そのくせ後になってこのことが知れ渡ったら死を免れぬ者多いといって 繰り返し口外しないよう頼み込む。 陰険極まりない対馬の奴らが間にあって勝手に振舞い、すべての事を隠してしまうから、 何一つ明るみに出なかったが、この話によりその片鱗を垣間見た思いだ。ズ:・・・? いきなり賄賂の話になったが・・・り:この件について、実際のところ対馬と筑前のどちらに落ち度があったのかはわかりませんが、 筑前領内でのトラブルは筑前の責任。 朝鮮通信使への抜かりない万全の対応は幕府から各藩へ厳命されていることなので、 註釈では筑前の不手際を知られないように筑前から対馬へ賄賂が贈られたのだろうと しています。 朝鮮人は対馬人をいつも悪く言うので、金さんの言うことだけを聞いてたら いかにも対馬人が腹黒みたいに思えてくるけど、武士は相身互い。 全行程に責任を持つ対馬藩と、領国内での責任を持つ各藩としては、 なるべく事を穏便に運びたいという思いもあって当然だと思いますけどね~。 それが、賄賂とかの形になるのも仕方のないことでしょう。ズ:私は日本に長く滞在したので、日本人の性向もよく心得ているが、 日本人は「内々に」とかが大好きな民族だからな。り:別に賄賂をヨシとする訳じゃないですが、何でもかんでも事を荒立てて 処罰者を出せばいいってもんでもない。 とはいえ、時にはそれに味をしめて賄賂をせがむ悪い対馬人もいたかもしれませんけどね。金:釜山で生まれて初めて見た対馬人はつるつるの頭に素足のまま。 人品まるでなく、いかにも汚らしかった。 壱岐勝本では金銀などあらゆるものを倭の通詞に渡し肥前の者にやってくれと頼み 部屋に戻ったが、朝鮮人がくれたと言い対馬の奴がすべて持ち去ってしまったと聞いた。 対馬人はそういう奴らなのだ。り:まあまあ、壱岐は豊かで自給自足も可能だったようだけど、 対馬は全島の9割が山岳地帯で土地もやせてるそうだし、 対朝鮮で色々と大変な訳だから対馬なりの事情はあったんでしょうよ。金:ふん。 まあ、折れて流された舵棒は筑前州に流れ着いたとのことで、筑前太守の使者が 壊れた部分の長さや形を描いて送り届けてきてくれたがな。 倭人の我々への応接、ここに極まるといえよう。申:荒れていない海でも危険はあるぞ。 対馬までの海には水宗という危険地帯がある。別に岡嶺があるのではなく、 大洋中の波濤が束立するところ、おのずから界隈をなし険しいのをもって かく名付けたのである。幸い、行きは気付かないうちに無事に過ぎたがな。金:対馬の鰐浦は屏風のような険しい岩が蔚山から伸びてきていて、 50里を横に塞ぎ海底に隠れているという。船一隻が通り抜けるだけの場所が一ヶ所 開いているが、わずかでも水路を間違えば瞬時に船は破壊されるという。 そこで倭人らが2隻の船を両側に並べ、船の通り道をつくり、その間を進めという。 我ら6隻は用心に用心を重ね順々に渡っていくが、荒々しい波が雪山のように襲いかかると 船は耐えきれず航路を誤りそうである。危険と恐ろしさは比べるものがない。 ようやくにこの難所を切り抜けた時は安堵の吐息を洩らした。申:たった1日の渡海といっても、決して安全という訳ではない。 鰐浦は巨石が海の中に屹立してサメの牙・虎の歯のようで船が転覆することもある。 実際、第5回(1643年)の時には、渡海した訳官がそこで溺死した。 私が製述官になったのは、正使公があやまって私の名を知り、指名してきたからだ。 私は母が老い、家が貧しく、さらに才鈍くして怯弱なため重責に応えられないと 断ったのだが、とりあってもらえなかった。 製述官の職務は煩雑で責任は大きく、かつ、使臣の幕下にありながら 万里波濤を越えて訳舌の輩とともに出入りし周旋するのは苦海であらざるはなく、 人はみな畏れて鉾矢に当たるのを避けるがごとくこれを避ける。 余の乗っていた駅馬は、釜山で余の乗船するのを待って帰るようにした。 馬卒は「どうか無事で帰られますよう。そのとき、またこの馬で迎えに来ます」と 泣いてたもとを濡らした。人情ここにいたる。 骨肉至親のものには岸上でこれを見せるべきでないと思った。金:釜山から出港する時、桟橋に行くと水夫の父母や妻子もそこここに集まっては 夫や息子を取り囲み、袖にすがり手を握り慟哭して別れを告げる様は むごたらしく哀れで、とても見ていられなかったものだ。 なにせ、こういう危険な旅だからな。ツ:ちょっとちょっと! 対馬や壱岐周辺の海が確かに危険だということはわかったけど、 たった1日の渡海でしょ? 私らなんか、大陸のはじからはじまで来てるんですよ。 お2人には悪いけど、ちょっと朝鮮人ひよわじゃないですか?り:ツンさんのおっしゃる通り。 朝鮮人はプライドだけは富士山よりも高いけど、ちょっと船が揺れたりすると ワーワーきゃーきゃー泣きわめいて、ヘタレもいいとこですよ申:見てきたようなことを言うな では、オランダ人の苦労話とやらを聞かせてもらおうか。 にほんブログ村
2016年07月13日

ここは三途の川の中州に建つ一軒のレストラン。その一室を借りきって、様々な風体の男たちが円卓を囲んでいた。 りり:皆様、ようこそおいで下さいました。 司会を務める戦国ジジイこと白川りりと申します。 本日は日本を訪れた皆様に、色々なことを語っていただきとうございます。 あ、料理や飲み物は好きなものを自由に頼んでくださいね。 江戸期に来日したガイジンの中には朝鮮人もいるんですが、 ここだけの話、ちょっと色々と難がありましてね、 今回はオランダ商館の方だけにお集まりいただきました。 え~と、ではまず、簡単な自己紹介から始めていただきましょうか。 まずは年寄り・・・いや、来日の古い順にケンペルさんから・・・ん?ケンペル:誰か来たぞ。お前の席の隣が一つ空いてるが、その客か?ツュンベリー:ここにいるのはジジイを除いてみなヨーロッパ人だが、 あの細い目は明らかに東アジア人だな。申維翰:おお、間に合ったようだな。おいこら、余への連絡が漏れていたぞ。 倭人は昔からずさんでいかん。り:え~と、すいません、どちら様ですか?申:なに、余を知らんのか?お前が待っていた申維翰とは余のことだ。り:えっ、申維翰さん?なんで!?申:金仁謙からこの座談会の話を聞いて、遅れてはいかんと慌てて飛んできたのだ。り:金さん!? そ、それで金さんも来てるんですか?申:一緒には来たが、倭人と同席はしたくないと言って部屋の外にいる。 ほら、こちらを覗いているあの男がそうだ。ツ:ここまで来たなら部屋に入ればいいのに・・・ お~い金さん、食べ放題飲み放題だそうですから、一緒に食卓につきませんか?金仁謙:誰が犬の陰茎のような倭人と一緒に食事などするか!り:ちっ、秘密にしてたのに、アイツ一体どこからこの座談会の話を聞き込んだんだ・・・申:なにか言ったか?り:いえ、何も。ホホホ。申:え~と、席は・・・なんだ、倭人の隣か。まあ考えようによっては、 進行役の隣は上席ともいえる。どれ、どっこいしょり:あっあっ、ちょっと待って!今すぐお席を用意しますから。 すいませ~ん、椅子ひとつ持ってきてくださ~い!! ケ:いいのか?たった今、難があるとか何とか言っていたが・・・り:何の話ですか?(←しれっ) もうおひと方は遅れてらっしゃるようですが、先に始めましょうか。レフィスゾーン:廊下にいる金さんも呼んであげた方がいいんじゃないのかな?り:いいんですよ、自分が来たくないって言ってるんだから。 あの人は頑固だから、イヤだと言ったら聞きゃ~しません。 なんせ、江戸まで行って江戸城に行かなかったぐらいですからね。 ちょっと金さん、テーブルにつかない人には発言権はないですからね!!金:うるさい!倭人のくせに私に命令するな!!り:アレだから。えっと、それじゃあ・・・ん?ケ:また誰か来たぞ。ドゥーフ:やあ、遅れて申し訳ない。り:あっ、ズーフさん!お待ちしておりましたあ申:声が変わったぞ。余が入ってきた時とはえらい違いだな。ツ:なに?お前、この男が好きなの?り:やだあ、ツンさん!そんなはっきり・・・ツ:ツンさん!?り:だって、皆さんの名前長いんだもん。めんどくさいから、長い名前の方は 縮めさせていただきますね。ズ:愛称だと思えばまあいいじゃないか。にしても、お前発音悪いぞ。 我が名はドゥーフだ。り:発音が悪いのは、日本人である証です。エッヘンツ:いばるな。 まあ、オランダ通詞もはっきりしたオランダ語を話しはしたが、 語順とかはまるでなってなかったしな。り:通詞は実力で選ばれる訳じゃなく、世襲でしたからね。 さあズーフさん、お席へどうぞ。ツ:ご指名だ。ジジイの隣へ座りたまえ。 しかし、りりがこーゆー顔が好きだとはな・・・ズ:い、いやしかし、男性に好かれてもな・・・ケ:いやドゥーフ君・・・これでも一応コイツは女だ。ズ:えっ!?ウソ!! だってジジイって・・・外見だって確かに・・・ツ:いや、いちおう女だ。医師の我々が言うんだから間違いない。ズ:う、ううん・・・ 釈然としないが、では、隣へ座らせて頂こうか。り:どうぞどうぞ。なんだったらお酌もしますよ さてそれじゃ、全員揃ったところで自己紹介から始めて頂きましょうか。ケ:私はエンゲルベルト・ケンペル、ドイツ人だ。 オランダ商館付医師として1690年来日、翌1691年と1692年の2回 江戸参府に随行した。申:余は申維翰(しんいかん/シンユハン)。朝鮮人だ。 1719年の第9回朝鮮通信使の製述官として来日した。ツ:製述官ってなに?り:一般には書記官という風に説明されるけど、文書起草を担当する高官てとこですかね。 はい、じゃあツンさん・・・じゃねえ、金さんがその前だ。 あの人には発言権は与えてませんからわたくしが代わりに紹介しますが、 金仁謙さんは第11回朝鮮通信使の従事官の書記として1764年に江戸入りしてます。ズ:・・・一体、誰のことを話しているんだ?レ:この部屋に入る前、廊下に男がいませんでしたか?ズ:ああ、中国人みたいな男がいたが・・・彼のことか? 廊下で盛んに飲み食いしていたぞ。り:なんだとお~!! まあいいや、このテーブルの上のものはわたくしが代金を持ちますが、 それ以外のものは一切責任持ちません。 金さんには自分で払ってもらおうツ:次は私の番だな。 カール・ペーテル・ツュンベリー、スウェーデン人だ。 ケンペル先輩と同じく、オランダ東インド会社の出島商館付医師として来日し、 1776年に江戸参府に随行した。申:オランダ商館といっても、ドイツ人だのスウェーデン人だのと、 オランダ人が1人もおらぬではないか。り:オランダ東インド会社は多国籍企業なんて風にも言われますけど、 各商館に勤めたのはオランダ人だけって訳でもなくてね。 ま、ここからは正真正銘のオランダ人ですから。ズ:私はオランダ人のヘンドリック・ドゥーフ。 オランダ東インド会社出島商館の第156代商館長を務めた。 初めは下級商務員として1799年に来日したが、 色々な混乱のあとで商館長になったのだ。 ・・・ここでその経緯をすべて話してもいいかな?り:いや、長くなるからあとにして下さい。 じゃあ、最後にレフィさん。レ:ヨセフ・ヘンリー・レフィスゾーン。私もオランダ人だ。 出島のオランダ商館の第164代商館長を務め、江戸には1850年に参府した。り:と、いうわけで17世紀ラストから19世紀なかばの開国直前までの江戸期に 日本に滞在した方にお集まりいただいております。 江戸初期からのメンバーを揃えられればベストだったんですが、 ちょっとそこまで手が回りませんでした。ケ:それにしても、お前の前に積み上げられた本の山はなんだ? 食卓にそんなもの積み上げるなんて無作法じゃないか。申:倭人は礼というものを知らんり:うるさいな。気にしないでください。 も~、皆さんが膨大な内容の本なんか書き遺すから、こんなことになるんです。ズ:どれどれ?おお、これは私の書いた回想録じゃないか!ツ:ドゥーフ君、日本語読めるの?私は日本語をマスターするところまではいかなかったからな。 ・・・ちなみに、私の本もある?ズ:ああ、あるとも。ここにいる諸氏の本はすべてこの中にあるようだな。レ:じゃあ、私の書いたものも邦訳されてるってことか。それは嬉しいな。り:この座談会での皆さんのセリフは、主要な部分についてはこれらの本から引用します。 いちいち出典は書きませんが、ラストにまとめて参考文献の一覧を載せますので、 読者の方はそちらをご参考になさってくださいね。 も~、この番外編へ漕ぎつけるまでにわたくしがどんだけ苦労したか・・・ こんなもの書こうなんて思わなければ、もっと早く本編も終わらせることができたのに・・・ケ:・・・誰に向かって、何の話をしてるんだ?り:いえ、こちらの話です。 さあて、それじゃまず参府関係の話から始めましょうか。 朝鮮通信使とカピタンの参府では少しルートが違うので、 まずオランダ商館の方から簡単に旅程を説明していただけますか?ケ:この国の大名や重臣の参府の日が将軍によって決められているように、 我々の出発の日も日本の1月15日または16日(陰暦)と決められている。 したがって、出発の日が近づくと色々な準備に入るのだが、 まず西暦の2月20日に長崎出島を出発し、時津から大村湾を渡り彼杵(そのぎ)へ行く。 彼杵から飯塚~直方と進み、小倉へ出て、下関へ赤間ヶ関を渡る。 そこで先行させていた船に乗り込んで、港々を転々としながら兵庫まで船で行く。り:先行させていた船? どうせなら、皆さんも長崎から兵庫まで一気に船で行っちゃえばいいのに・・・ケ:昔は我々もそうしていた。だが、ある時ひどい暴風雨にあって危なかったことがあってな、 死ぬのはごめんだから、将軍の赦しを得て荷物だけ小倉へ先回りさせておいて、 我々は陸路で小倉まで行くことになったんだ。り:荷物って?ケ:献上品や大きな荷物だ。陸路だと費用もかかるし、色々と煩雑だからな。 この船は参府旅行専用に建造された船で、2年ごとに幕や調度品を綺麗に手入れしておき、 船が古くなったら取り換える。これだけでも結構費用がかかるものさ。り:ふ~ん。しかし兵庫なんて、ずいぶん中途半端な所で下船するんですね。ケ:大坂の港は浅くて我々の乗ってきた船では行かれないので、 兵庫からは小舟に乗り換えて大坂へ向かうのだ。 大坂からは京に出て、あとは東海道をひたすら行くだけさ。 長崎から小倉までは陸路で通常5日。小倉から船で大坂もしくは兵庫まで行き、 大坂から江戸まで2週間かそれ以上。海路だと、いい風を得られなければ かなり時間がかかることがある。 船旅の時は用心して夜は停泊するので、あまり距離は稼げない。 江戸で20日滞在し、同じように長崎へ戻り、3ヶ月以内ですべての旅を終える。 と、これは初回の参府で、行きに29日かかり、帰りは3月2日に江戸を出発したのに、 出島に戻ったのは5月21日だった。 2度目の参府は、出島を出て諫早・竹崎から有明海(湾)を渡って柳川付近へ。 あとは前年と同じだが、帰りは兵庫から船に乗った。ツ:私も先輩とおおむね同じルートだよ。少しだけ違う箇所もあるけどね。 私の時は小倉まではずっと陸路で、九州で船を使うことはなかった。 大坂への大型船の乗り入れは禁止されていたから、兵庫で降りたのは先輩と同じだけど、 兵庫からは西宮・尼崎経由で神埼まで陸路で行って、そこから大坂まではまた船。 あとは京から東海道だね。 ただ、先輩の時は商館長だけが駕籠に乗って、先輩と書記官は馬だったけど、 私の時はみんな駕籠だった。レ:私は商館長だからもちろん乗物だったけど、ずっと乗ってるのは好きじゃなかったので 結構自分で歩いたよ。 私の時には、下関から室まで行く船は下関で借りた。 行きには50日かかったし、帰りは5月4日に江戸を出て6月12日に出島に着いた。ツ:私の時も行きには海上で26日もかかっちゃってさあ~。 行きは3月4日出発で江戸に着いたのは4月27日。 帰りは5月25日に江戸を出て、長崎には6月30日に戻った。り:大変な長旅だなあ~。片道でゆうに1ヶ月はかかるってカンジですかね。 瀬戸内海なんてその名の通り内海なんだから、スコーンと兵庫まで 行っちゃいそうなもんだけど、ここにいる誰1人として海で難儀しなかった人は いないという・・・ツ:私の時には、下関から兵庫までの船は会社が毎年480レイクスダールを支払って 借りてたんだけどさ、順風なら8日で兵庫に着くそうだよ。 だけど、私の時は下関から家室(かむろ)へ行き、その先の中島で逆風となって 嵐になったので、上関まで戻って3週間停泊せざるを得なかった。 ほとんどは船上で過ごしたけど、時には上陸して寺院観光などもした。 それに、もし順調に旅が進んでいたら長崎に戻るまでに花々は まだ咲いてなかっただろうから、いい面もあった。 ケンペル先輩は、献上品も船に積み込んで先回りさせたと言ってたけど、 こんな風に波浪に左右される海路に大事な献上品を託すことはできないので、 私の時は320里の全行程において献上品を携行せざるを得なかった。ズ:私の時も、会社の印をつけたオランダの旗を掲げた船には重い荷物を積んだ。 私は3回参府したんだが、私の最初の参府(1806年)の時から出発の日程が 早められ、それまでは(陰暦)正月15日に出発していたのが、正月7日になったのだ。レ:私の時の帰りは風が強くて、なかなか兵庫から出港できなかった。 あまりに船を出さないもんだから、出帆に適当な風を利用しないならば再び岸へ戻るという おどしさえして熱心に説いたので、やっと抜錨したんだ。り:ふむ。じゃあ、ケンペルさんの時だけ、小倉へ着くまでに大村湾や有明海を渡ったけど、 あとは小倉から兵庫まで船で行って、東海道の起点から終点までを陸路で行った訳ですね?レ:私の時は、室から上陸して陸路を進んだんだ。ツ:え?なんで?レ:・・・大いに船酔いしていたからだ。ここで古い習慣に従って申し出なければ、 兵庫まで船で行かなければならなくなる。兵庫までもとても難儀で不快であると 言われているのに、とてもじゃないけどもうそれ以上は耐えられなかったんだ。ケ:船酔いか、それは仕方ないな。 で、帰りは?レ:帰りは通常通り兵庫から出港したよ。帰りは上検使が船酔いしていた。り:船酔いねえ~・・・ 朝鮮通信使は、オランダ商館員より長く船に乗っていたので、 相当船酔いにも苦しんだみたいですよ。 じゃあ、次は朝鮮通信使の方に語っていただきましょうか。ツ:ちょっと待ってよ。 ドゥーフ君、やけに口数少なくない?ズ:それは・・・り:ツンさん、痛いところを・・・ ズーフさんはね、バタビアから本国に向かう途中で海難事故に遭って、 多くのものを失ってるんです。 この座談会は皆さんの著述で成り立ってるので、他の方のように細々と書いたものが 残っていないズーフさんにはあんまり喋らせられないんですよ。 商館日記の方には書いてあるのかもしれないけど、わたくしは持ってないのでね。ケ:お前は時々、訳のわからないことを言う。り:わたくしにも色々と事情があるんです。 ま、細かいことは気にしないでください さて、それじゃ次回は朝鮮通信使の旅程から始めますね。にほんブログ村
2016年07月08日

大手門を出て、橋の上から丸の内を眺めたところ↓。 右奥の建物がパレスホテルかな。その手前にちっこく車の列が写ってますが、これが内堀通りで、このまま大手町の駅から電車に乗っていっちゃってもいいんだけど、ついでなのでもう一ヶ所だけ寄ります。てことでしばし内堀通りを南下しますが、結局東御苑に入る前に外苑の手前まで歩いていった(「8」参照)のと同じ道を再び通っていったワケで・・・いや、この時はどこをどう見ていこうとか計画立ててた訳じゃなかったんでさ。で、気になるのは社会問題にもなっている皇居ランナーの存在ですが、もうそろそろ夕方にさしかかろうという時間帯だったので、来た時ほどはいないかなと思ったら、 まだいやがったしかも、見ているこちらが恥ずかしくなるようないでたちで堂々と走っているツワモノもおる。きっと自分じゃイケてるなんて思いながらコーディネートしてるんだろうなと内心笑いながら歩いていくと、和田倉が近くなる↓。 左の白い建物がパレスホテルの終わりの部分で、かつては御畳蔵があった場所。そこから奥は、道路部分も含めて幕末には会津松平容保の屋敷がでーんと広がっていた。容保さんちを突っ切っていくと、皇居外苑に出る↓。 だだっ広い外苑の中にもかつて屋敷が色々と建っていたが、今はない。古くは阿部豊後守屋敷(忠秋さんちの系統)などがこの場所に建っていた。外苑の奥の方には売店やら楠木正成の銅像やらがあるらしいので、売店で皇居みやげでも買おうかと当初は思ってたんだけど、今回はもうやめた。次回のお楽しみとしよう・・・さて、外苑の入口で向きを東に変えると、内堀通りの向こうに和田倉噴水公園がある↓。 名前の通り大きな噴水があるが、ここも容保さんち。公園脇の「行幸通り」をまっつぐ行くと東京駅なので、早く東京駅で買い物をしたいわたくしは公園内には入らず、行幸通りを進んでいった。と、 おおっ、石垣だあ~(←知らなかった)行幸通りの向かい側を見てみると、 おお、向こうにも!後から図を見てみると、道路向こうの石垣は櫓台のような形をしているので、櫓が置かれていた時期もあったのかもしれない。ちょうどこの辺りに、史跡解説の看板があった。 【特別史跡 江戸城跡 江戸城は長禄元年(1457)に太田道灌によって創築されたが、天正18年(1590)に 北条氏が滅亡し、徳川家康が居城をここに定めた。以来、家康、秀忠、家光の三代にわたって 西の丸、北の丸の増設や外郭の整備が行われ江戸城の総構が完成した。 明治維新後江戸城は皇居となり、昭和二四年に「国民公園皇居外苑」として一般に開放され、 昭和四四年からは北の丸地域が加えられ広く国民に親しまれている。この江戸城跡は、三百年 近くにわたる将軍の居所として、また政治の中心としての史的価値が極めて大きく、その 規模はわが国随一のものであることから、昭和三八年五月三十日に文化財保護法による 「特別史跡」に指定された。】 (現地解説板より)この解説板の後ろにある石垣も立派なもので、 これをアテにしていなかっただけに、石垣ファンとしては嬉しかった。石垣が切れるところから見えるのは これが和田倉堀。広い堀の向こうには、橋がかかっているのが見える↓。 堀に近代ビル群が映り込んでいるのは城跡としてはイマイチかもしれませんが、これはこれでなかなか風情があってしばし見とれる空間でもありました。 この時は行幸通りから噴水公園と和田倉堀を見ただけでしたが、あの橋を渡って公園内に入ったところにはかつて和田倉門があったらしい。明治天皇が入城した際には、和田倉門から入ったらしく、門はもうないけど石垣は残っているようなので、ここも今後の宿題だな。 満足してそのまま歩いていくと、東京駅に出る。 何年か前に旧観に戻す工事が終わって話題になった駅舎ですが、旧駅舎ってどんな姿だったっけ・・・丸の内側から駅を眺めたことなんてなかったから、どこがどう変わったのかぶっちゃけわからないで、たしか大丸のデパチカあたりに行こうと思ったんだよな。あれは八重洲側にあったような気がするから、構内を抜けていこうと思ってとりあえず向かって右手ドームにある丸の内南口から入ってみたら、なんと行き止まり うっそお~、東京駅ってどこからでも抜けられるもんじゃないの!?こちとら疲れてるところをえっちらおっちら歩いていったのに、行き止まりかよイライラしながら、北口の方へ向かう。フツー、駅舎ってど真ん中が出入口になってるもんだけど、東京駅の場合は東京ステーションホテルが陣取ってるから、そういう常識は通用しない。帰ってしばらくしてからたまたま東京ステーションホテルの紹介をしている番組を見たんだけど、ここって実は高級ホテルらしい。内装も素敵だし、南北のドームに沿った部屋からはドーム内の駅舎が部屋の窓から見下ろせるという面白い造りになっていて、人気も高いらしいとその時初めて知った。ただし、お値段も相当よろしい。ま、この時は南口から北口までホテルの前を歩いて通過する際に、チッ、こんなとこにホテルなんか作りやがって・・・通行の邪魔だ!!と思いながらヘロヘロ歩いていただけですが。あっ、そうそう、丸の内北口へ向かう途中、救急車やパトカーが何台もサイレン鳴らしながら駅前にやってきたんだな。結構な台数が出ていたので、一体何事が起こったのか、電車が止まって帰れなくなったらどおしようとビクビクしながら様子をうかがったけど、幸い電車が軒並み止まるような大した問題ではなかったらしい。皇居もすぐそばだし、休日とはいえ巨大オフィス街だから何か起こると即座に大勢で駆け付けるのかもしれない、と思った。して、北口から抜けてこんなものをやたらゲットして (銀座あけぼのの期間限定「白玉栗大福」)家路につきました。さて、これにて本編は終了です。書き始めが去年の10月24日だから、たかが日帰りの、しかも1日めいっぱい使った訳でもない短時間の行程に8ヶ月かけたんだから我ながらオドロキですが、以前のわたくしならとにかくどんどん記事を上げることを優先していたのが、本シリーズではあらたに手をつけたことが多く、それなりにしっかりと自分の中で消化してから書く必要があった内容なので、勉強の方を優先させて急がなかった結果こうなりました。でも、前々回の叡山シリーズなんかもそうでしたが、歴史というのは色々な側面があって、勉強すればするほど面白いしタメにもなるもので、本シリーズも叡山シリーズに負けず劣らず新しい世界が広がって、本シリーズで得たものは非常に大きかったので、記事を上げるペースは格段に落ちたものの、わたくしとしては満足しています。で、早速次の記事からわたくしの前に広がった新たな世界を展開していきますので、そちらも気長にお付き合いいただけると嬉しゅうございます。■旅日記から通しでの参考文献・徳川実紀(吉川弘文館 国史大系)・駿河土産(国立公文書館デジタルアーカイブ)・落穂集(国立公文書館デジタルアーカイブ)・今昔物語集(橘健二訳/小学館日本古典文学全集)・名ごりの夢-蘭医桂川家に生れて-(今泉みね/平凡社東洋文庫9)・江戸参府旅行日記(ケンぺル著、斎藤信訳/平凡社東洋文庫303))・江戸参府随行記(ツュンベリー著、高橋文訳/平凡社東洋文庫583)・日本回想録(ドゥーフ著、永積洋子訳/雄松堂出版 新異国叢書第三輯10)・江戸参府紀行(シーボルト著、斎藤信訳/平凡社東洋文庫87)・江戸参府日記(レフィスゾーン著、片桐一男訳/雄松堂出版 新異国叢書第三輯6)・海游録 朝鮮通信使の日本紀行(申維翰著、姜在彦訳/平凡社東洋文庫252) ・日東壮遊歌 ハングルでつづる朝鮮通信使の記録 (金仁謙著、高島淑郎訳/平凡社東洋文庫662)・南北朝内乱と東国(櫻井彦/吉川弘文館動乱の東国史4)・歴史散歩 江戸と東京(堤紫海/文化総合出版)・関東の名族興亡史(新人物往来社)・武蔵武士団((関幸彦編/吉川弘文館) ・源平合戦の虚像を剥ぐ 治承・寿永内乱史研究(川合康/講談社選書メチエ) ・賤民の場所 江戸の城と川(塩見鮮一郎/河出文庫)・真説【戦国北条五代】早雲と一族、百年の興亡(学研歴史群像シリーズ)・江戸東京年表(大濱徹也・吉原健一郎編/小学館)・徳川盛世録(市岡正一/平凡社東洋文庫496) ・江戸城のトイレ、将軍のおまる〈小川恭一翁柳営談〉(小川恭一/講談社)・逆説の日本史1 古代黎明編(井沢元彦/小学館)・鹿鳴館秘蔵写真帖(社団法人 霞会館) ・よみがえる江戸城(平井聖監修/NHK出版)・古地図で歩く 江戸城・大名屋敷(平凡社 別冊太陽)・江戸城 よみがえる日本の城2(学研歴史群像シリーズ)・図説 城造りのすべて(三浦正幸監修/学研歴史群像シリーズ) ・江戸城・大奥の秘密(安藤優一郎/文春新書)・お江と徳川秀忠101の謎(川口素生/PHP文庫) ・大奥のおきて(由良弥生/阪急 コミュニケーションズ)・図説 大奥の世界(山本博文編著/河出書房新社)・考証 大奥 Kindle版(稲垣史生/グーテンベルグ21) ・江戸美人の化粧術(陶智子/講談社選書メチエ)・日本の化粧(ポーラ文化研究所)・決定版 図説戦国女性と暮らし(学研歴史群像シリーズ)・公家の服飾 日本の美術339(河上繁喜/至文堂)・結髪と髪飾 日本の美術23(橋本 澄子/至文堂) ・都風俗化粧伝(佐山半七丸/平凡社東洋文庫414)・東京時代MAP 大江戸編(新創社)・日本の街道 歴史を巡る!(西東社)・皇居と江戸城重ね絵図(木下栄三/エクー)・復刻古地図 江戸城と近傍図(日本地図選集刊行委員会編/人文社)・江戸東京地形の謎(芳賀ひらく/二見書房)・特別展「東山御物の美-足利将軍家の至宝-」図録(三井記念美術館)・江戸東京博物館開館20周年記念特別展「大江戸と洛中」図録(江戸東京博物館)・江戸幕府大事典(大石学編/吉川弘文館)※あとは思い出したら適宜追加します。にほんブログ村
2016年07月02日

中雀門を抜けきるところ↓。 現在ではなだらかなスロープだけど、道路の真ん中へんにうっすらと引かれた横のラインのあたりにはかつて石段があった。そのすぐ先には、この建物がある↓。 【大番所 「番所」とは、警備の詰所のことで、百人番所、同心番所とこの大番所の3つが 残っています。中之門の側に設けられ、他の番所よりも位の高い与力・同心によって 警備されていました。前の坂を上ったところが本丸の入口で、中雀門がありました。】 (現地解説板より)カピタンの参府の時はいつも「番所」で時間調整させられた(「36」以降参照)。その番所は「百人番所」だったと書かれている場合もあるけど、この大番所で待機したんじゃないかという可能性が個人的に捨てきれない。登城した本人たちが「百人番所」と書いているのに、なんでわざわざ疑うんだと思う方もおられるでしょうが、ガイジンの書いた文章には伝聞や勘違いも含まれていて、結構間違った記述があったりするのだ。レフィスゾーンは待機した番所内部の配置図と思われるものを描いていて、その時には大目付は「欠席」とあるものの、宗門改めや長崎奉行といった高官がカピタンらの近くで一緒に座っていたように描かれている。上の解説文もあわせて考えると、そういう人達も一緒にいたのであれば、百人番所よりは大番所の方がしっくりくる気がする。「番所」で登城する幕閣たちを見送ったあと、本丸御殿へ向かう様子をレフィスゾーンは次のように書いている。 9時に、上検使が、われわれを城へ連れていく命令を受けた。そこで、そのために、 儀式用のマントを着て、降りしきる雨の中を、全く乾いていない、全く近くない道を、 徒歩で、向こうへ行った。 そこに着いてから、綺麗な石の階段をのぼって、その巨大な建物の門のところで、 坊主頭すなわち城の案内役によって受けつがれ、中に導かれて、沢山の大名や高官がいた 控えの間を通って、日本風にもっとも綺麗に飾った部屋に導かれ、まず、そこで待つように いわれた。上の文章をレフィスゾーンのセリフに置き換えて意訳すると、「も~、こんな雨の中行きたくないよ~。えっ、なにこの道!びしょびしょでドロドロじゃん!え~、まだ歩くの~?マジ勘弁して~!」てカンジになるかと思うけど、ここには重要な情報が含まれている。まず、「巨大な建物の門」をくぐるとすぐに「坊主頭」によって御殿の中へ案内されるんだから、「巨大な建物の門」は中雀門のことで、門の手前に「綺麗な石の階段」があることからもそれは確認できる。問題は「石の階段」までの距離。大番所を出ればすぐ目の前に「石の階段」があるんだから、いくら雨が降ってたからってレフィスゾーンがボヤくほどの距離はない。ので、やっぱり百人番所の方で待ってたのかなって可能性が濃厚になってくるけど、その場合重要な情報がひとつ欠けている。この大番所は周囲を石垣に囲まれていて、 右手前の石垣が中之門の石垣。「これより本丸」といった位置づけの中之門は、現在では門はない。が、 四半敷の部分がほぼ渡櫓門である中之門の奥行で、これだけでも門の大きさがわかろうってもんだけど、現地解説板には中之門の古写真が載っている↓。 これは明治に入ってからの写真なので、江戸期には限られた人しか入れなかったこの場所に、パンピーが好き勝手に入って記念撮影などしまくっている。ちなみに、左の奥に写っている多聞は「中之門多聞櫓」で、中之門の奥にちょっとだけ写っている櫓は位置および上層が逓減されていないことから、重箱櫓(前回参照)だと思われます。で、縄張図。 マル1が大番所で、マル2が百人番所。百人番所からスタートしたなら、必ず中之門を通っていくはずなんだけど、レフィスゾーンは大きな門をくぐって綺麗な石の階段へ行ったとは書いていない。惜しいな、中之門のことが書かれていたら、待機場所は百人番所で確定なんだけど。さて、中之門にも綺麗に礎石が残されている↓。 門を出たところの石垣↓。 綺麗な巨石が見事に組まれている。これより少し先、大手三之門に近いところには石垣の修復についての説明が色々と書かれていて、この中之門は平成17年から19年にかけて修復されたらしい。なんでも、【長い年月の間に変形し、はらみ出し、目地の開き、ひび割れ、剥離などが発生していました】とのことで、国の特別史跡なだけに最新の測量技術である「三次元レーザ測量」で事前調査をして、職人の技でもって慎重に修復にあたったとある。見よ、この巨石を↓。 (現地解説板より工事の様子)上の写真の石のことではないと思うけど、中之門の石垣の築石に使われている石は城内でも最大級の巨石が使われているそうで、重量なんと35トン昔の人ってホントすごいわ~。もうこの頃のわたくしは帰る気マンマンで、中之門のろくな写真もありませんが、現地解説板から中之門の簡単な歴史を紹介しますと、まず中之門の縄張が行われたのが慶長12年(1607)。藤堂高虎によるものだという。して、明暦の大火の翌年の万治元年(1658)、罹災した城内の復旧工事が始まり、中之門は細川氏によってあらたに普請された。元禄16年(1703)に関東を襲った大地震の時には中之門が崩落し、翌宝永元年(1704)に池田氏によって門が修復された。平成の修復時には鳥取藩主・池田吉明による修復の際のものと見られる刻銘が出土したそうで、解説板には親切に写真も載っていた↓。 風雪にさらされなかったためか、銘の保存状態はすこぶる良い。それから、その前の熊本藩主・細川綱利による再構築前の門の遺構と見られるものも出土していて、 (現地解説板より)↑まずこれが『江戸図屏風』に書かれた大火以前の江戸城本丸で、赤丸が中之門。その遺構がこちら↓。 (現地解説板より)うおお、そそられるな~(笑)。平成の解体修復工事ではずいぶんと色々なものが見つかったらしくて、 (写真は2枚とも現地解説板より) 【石垣構造としてはたいへんめずらしい大鎹(カスガイ)が出土しました。これは、 築石転倒防止のため築石裏側に設置された石と連結した補強材で特異な構造です。】 (現地解説板より)へえ、石垣にかすがいなんてそれは確かに珍しい。地震での被害によって修復されたものだから、地震の教訓を生かしたってところでしょうか・・・さて、中之門を出て右に向かうと西の丸ですが、前回の富士見櫓のところで書いたように、現在の皇居へ向かうこの道には宮内庁エリアが立ちふさがっているので、右には行かれません。ので左方面へ向かいますが、中之門の斜め前にあるのが百人番所↓。 中之門を出ればすぐこの光景だから、百人番所から御殿へ向かったってボヤくほどの距離じゃないんだけどね・・・でもわたくしのイメージでのレフィスゾーンは小言幸兵衛(こごとこうべえ)という訳でもないので、降りしきる雨にうんざりしてたってところかもしれないな。ちなみに、レフィスゾーンの図によると、彼と随行の医師が待機していたのは上の写真では手前側の一番はじっこの部屋の奥まったところだったらしい。百人番所の破風↓。 妻板は銅板葺だな・・・屋根には葵の紋が載っている。 が、その一方で明らかに「葵」を外した形跡も見受けられる↓。 江戸城で葵を外すことになんの意味があるんだろう・・・まあ、ここが「皇居」になってからの出来事だろうな。百人番所前から大手三之門方面を見たところ↓。 左の大きな石垣の奥にあるのが中之門修復工事の説明板で、ここには修復時に交換された石材が展示されている。近くにいる観光客と比べて石の大きさを実感してください。まずはこちら↓。 【中之門石垣の特徴である、表面が広く奥行きが短い築石です。(鏡張り)】その次がこれで、ベンチだと思ってガイジンが座ってやがるのも遺物です↓。 【角石の破損部を切断した石で、母材は中之門石垣の中で最大級の花崗岩です。】この2つは瀬戸内産花崗岩。その次が伊豆半島産安山岩で↓ 【傷により交換した築石です。安山岩は花崗岩に比べ節理が発達しており大材の採取が困難です。】(ここまで、【】内はすべて現地解説板より)これらは最後の大規模工事である池田氏の石ってことになるのかな。最後に平成の修復の中之門石垣の断面図↓。 これにて内郭は終了です。にほんブログ村
2016年06月26日

自転車で去りゆくお姉さんの背中を眺めながら歩いていくと、そこらへんが本丸域の最南端。 (現地看板の縄張図を加工したもの)赤丸で囲った箇所には、これがそびえる↓。 【富士見櫓 「櫓」とは、倉庫や防御の役割をもった建物で、かつて江戸城には19の櫓がありました。 今は、伏見櫓、桜田二重櫓と、この富士見櫓の3つが残っています。その中で、富士見櫓は 唯一の三重櫓です。明暦の大火(1657年)で消失した天守閣の代用としても使われ、 将軍が両国の花火や品川の海を眺めたといわれています。】 (現地解説板より)ふっ、品川の海・・・江戸城から品川まではちょっと距離があるし、今は高層ビルが建ってるので富士見櫓の最上層に登ったところで海を眺めるのはキビシかろう。が、江戸期なら遮るようなものはほとんどないし、今ほど埋立てられてはいなかったから確かに品川付近の海が見えたかもしれない。しかし、それよりさらに時代を遡ってこの付近から品川よりもっと近い海を見ていた江戸城主がいた。それが太田道灌さんで、「(1)」で中城に静勝軒という屋敷が置かれたと紹介しましたが、その静勝軒が富士見櫓の辺りにあったらしいのだ。太田氏時代の江戸城は徳川江戸城より城域が狭く、しかもまだ日比谷は入江だったので「海を眺める」どころの話じゃない。もっとも、静勝軒のあった場所については本丸域の対局にある大奥跡付近だとする説もある。ただ、もし塩見鮮一郎氏の推測の通り、2つの客館の「含雪斎」と「泊船亭」が静勝軒と連結していたのだとしたら、「含雪」(富士見)と「泊船」(オーシャンビュー)の眺望を得るには大奥跡より富士見櫓の場所の方が条件はいいようにも思える。ま、それはともかく、『江戸幕府大事典』によると富士見櫓の建設は慶長11年(1606)。すぐ近くにあった数寄屋三重櫓が明暦の大火で焼失したらしいのに、富士見櫓は難を逃れたのか、江戸期の修復は文化12年(1815)、嘉永元年(1848)でさらに明治に入って1度修復されたのが、関東大震災で惜しくも倒壊したらしい。現存する富士見櫓はその後の復元。富士見櫓は「八方正面の櫓」とも言われる。どこから見ても端正な姿が拝めるというのがその名の由来だそうだけど、『落穂集』では大道寺重祐が若い頃、北条氏長が「八方正面の櫓なんて、いかに太田道灌が築城の名人だといっても技術だけで作れるもんじゃないさ。第一に地形そのものの問題がある。次に地面取りのやり方による。諸国に城は数多くあれども、八方正面の櫓なんてそうそうあるもんじゃない。そういう櫓が江戸城にある。これは御当家が繁栄する印だろう。」と語っていたのを聞いたことがあるとしている。が、現在では色々と制限があるので、八方からの眺めを堪能することはできない。富士見櫓は現在の江戸城で数少ない櫓だけど、中には入れない。どころか、手前には柵があってあまり近寄ることもできない。チッ!と思いながらぼんやりと櫓を眺めていると、 ああ、鬼板んところにある紋、あれ菊だわ・・・なるほど確かに復元だな。で、破風に目をやると ほ~おおお、青海波(せいがいは)!これは面白い。ここの解説板には外側から見た富士見櫓の写真が載っていて、 いつの撮影とは書いてないから復元前なのか後なのかわからないけど、わざわざ白黒写真を載せてるあたり復元前のものなのかもしれない。細部まではあまりはっきり見えないけど、妻板は青海波のようにも見える。『鹿鳴館秘蔵写真帖』にも富士見櫓の写真はあるんだけどね、こちらはもっと遠くからの撮影でちっちゃくしか写ってないので、解説板の写真よりもっとわからない。んが、遠景なだけに『鹿鳴館秘蔵写真帖』の方の写真には富士見櫓下の本丸の高石垣もばっちり写っていて、それはそれは見事な眺め。富士見櫓があるのは、蛤堀を挟んで皇居外苑に近い場所ではあるけど、蛤堀に直接面してる訳ではないので、宮内庁の職員にでもならない限り、『鹿鳴館秘蔵写真帖』にあるような見事な高石垣の眺望をゲットするのは難しいかもしれない。ま、少しは外苑からでも見えそうだけどな。今度行ったらここも見てこよう。さて、言葉だけでは何で外側から富士見櫓下の石垣が見えないのかわからないでしょうが、現地はこういう構成になっております↓。 (現地案内図より)赤丸が富士見櫓で、ここはもう皇居のすぐ近くなのだ。濃いグリーンの部分は宮内庁エリアで一般の立ち入りは禁止されている。ので、富士見櫓脇の下埋門を通って宮内庁エリアに侵入することはおろか本丸最南端の石垣付近まで行って下段の宮内庁エリアを見下ろすこともできない。外苑から本丸を眺めた場合、蛤堀のさらに向こうに広がる宮内庁エリアが邪魔をして本丸最南端の石垣はあまり見えないだろうと思った訳です。上の絵図に描き込んだ青いラインは細い園路で、たとえばこれは下埋門に通じるルートだと思うけど↓ 途中何もないうえに(かつては上埋門があった)その奥は がっちり行き止まりざます。せめて門の近くまで行かれればとも思ったけど、このルートには 踏み入ることすらできないんざます。今、この下の宮内庁エリアには「馬車課」とか「自動車班」なんかが置かれてるようだけど、かつては金蔵などがあり、『鹿鳴館秘蔵写真帖』の写真にはびっしりと建物が写っている。ただし、明治の撮影なので屋根なんかはかなりボロボロになってるけど。さてさて、今回はこれにて本丸を退出いたします。通行禁止のルートを恨めしく眺めながら進むとそこにあるのが中雀門(ちゅうじゃくもん)跡↓。 縄張図だとこうなります↓。 ピンクのルートが上埋門から下埋門を抜けて金蔵などのある下段へ本丸から直接出られる道で、これは現在通行禁止。これから進むのが赤のルートで、これが正式な本丸への登城ルート。つまり、ガイジン達も幕閣たちもこの道を通って御殿へ入っていった訳です。日本の心臓部への最後の入口だから造りはとても厳重で複雑。この門を入るとすぐ目の前に御殿の玄関があった。乗輿のまま下乗橋の通行を許されていた御三家も、この門の手前で下乗したという。臣下で唯一、乗輿のままこの門を通れたのが我らが輪王寺宮だと思うけど、世間では輪王寺宮も門の手前で下乗したと言っている人もいるので、(ちょっと考えにくいけど)「乗物で御殿に横付け」の特権は時期によって変遷があったのかもしれない。で、上の写真で門の周りにたむろしている人がちっこく見えるので門の規模もおのずと想像がつくってもんですが、「玄関前門」「書院門」「書院大門」などとも呼ばれた門の石垣へ近づいてみます。 あら? おんやあ~?反対側も↓。 火災の痕跡がこんなにも・・・これは文久3年(1863)に本丸御殿が火事になった時、類焼したものなんだそうな。しかし、写真をよく見ていただくとわかると思いますが、門の内側の石垣、つまり本丸に面した側の石垣はところどころ赤くはなっているものの、石材自体は破損はしていない。表面の剥落がひどいのは通路に面した部分の石垣なので、門扉が燃え上がったその熱でこの部分がひどく傷んでるんだろうな。中雀門は明治以前に焼失しているのであいにく写真は残ってないけど、『江戸三十六城門画帖』に絵が描かれていて、それによると渡櫓門だったらしい。その重い門扉を支えた礎石もちゃんと残っている↓。 その先↓。 本丸を守る最後の砦なので、もちろん枡形。江戸城天守の概略については「(34)」で紹介しましたが、明暦の大火で家光の寛永天守が燃え落ちた後、天守を再建するつもりでまずは天守台を修復した。その時撤去された寛永天守の石垣の石がここに転用されたという話がある。まあ、現存する天守台の石もあれだけ火災でダメージを受けてるんだから、全部じゃなくて綺麗な石だけをここに持ってきたんだろうけど、写真手前の石垣の上には多聞が載っており、その奥にちょっとだけ写ってる石垣の上には書院ニ重櫓が載っていた。『鹿鳴館秘蔵写真帖』には書院二重櫓の小ぶりな姿が残っているが、『江戸幕府大事典』によると明治6年に撤去されたと考えられているとのこと。石垣に沿って先へ進む。 これが虎口を抜け切るところの石垣の先端で、この上には書院出二重櫓があった。似たような名前で紛らわしいですが、こちらには「出」が付いてます。書院出二重櫓の方は四間×四間の小ぶりな櫓で、【上下同大の重箱のような特殊な形式であった】(『江戸幕府大事典』より)ので別名「重箱櫓」とも呼ばれるようなんだけど、『鹿鳴館秘蔵写真帖』の写真を見るとすぐ近くにある書院二重櫓が通常の櫓のように上層が逓減されているのに対し、「出」の方はホントに下層も上層も同じ幅で、ものすごくおかしな形をしている。もし実物が残ってたら「えっ、これ櫓!?」って笑う人が多いんじゃないだろうか(わたくしはソッコー笑いました)「出」の方も明治6年の撤去と考えられているらしい。にほんブログ村
2016年06月20日

石室からさらに進む。広い江戸城の中では結構石垣も残っていて、一般的にはお堀端とかわたくしがこれまでたどって来た場所の派手な石垣が目を引くけど、こんなところにも地味に石垣は残っている↓。 石垣はいいんだけど、フェンス張られてるな・・・この先が少し小高い所に園路が付けられていて↓ おっ、高いところを通るならわずかばかりでも旧紅葉山が見えるカモ? わざわざ書く必要もないでしょうが、右手に組まれている石積みは明らかに公園整備のために近代になってから組まれたものです。この先にあるのが 【富士見多聞 「多聞」とは、防御を兼ねて石垣の上に設けられた長屋造りの倉庫のことで、多聞長屋 とも呼ばれました。鉄砲や弓矢が納められ、戦時には格子窓を開けて狙い撃つことが できました。本丸の周囲は、櫓と多聞で囲まれて万一に備えられていました。】 (現地解説板より)現地でもらえるリーフレットにも「富士見多聞」だと書かれているけど、この付近に埋まってる石碑には とある。わたくしの手持ちの資料のどれにもこれは「御休息所前多聞櫓」とあって、『江戸幕府大事典』にも富士見多聞なるものは載っていない。ので、なぜ宮内庁サイドがこれを富士見多聞だとしているのかはわからないけど、この先の右手は だめだあ~、完全に見えね~しかも、土塁の手前の低いフェンスには日米中韓の4カ国語で「立入禁止」と書いてある。ばかなわたくしは何も考えず、ただ江戸城址だというだけで紅葉山を眺めるのを楽しみにしていたのですが、よく考えれば立ち入り禁止なのは当たり前なのだ。もちろん、土塁や石垣の保護、事故防止という面もあるだろう。しかし、土塁の下を流れる蓮池濠を越えれば現在ではそこは天皇陛下のおわす皇居なのだ。誰もが気軽に眺められるワケがない。ちなみに、現地で初めて気が付いたことがある。お城ファンの方ならよくおわかりでしょうが、城址公園てのは道があちこちに延びていて、事前に縄張図などを眺めていても位置関係がよくわからないことがある。今回、おもに現地でもらったリーフレットを手に歩いたけど、現在地がよくわからなくなってすまほを取り出して位置を確認しようとした。そしたら、城内ではGPSが役に立たなかった。「おお~、一般公開されてる東御苑といえど、皇居だもんな!皇居内は情報を制限しておるのだな!!」と初めて知る現実に少々コーフンしました。ま、元々GPSなんて軍事用だからな。わたくしが山をやっていた昔はすまほなんて便利なものはなく、登山用のGPSを携帯して山歩きをしていましたが、一般用にはまだまだわざと精度を落としていた時代だったのでGPSだけで歩くなんて危険なことは到底できず、25,000分の1地図や登山地図などを併用しながら歩いたもんです。それが、今じゃよほどの山奥じゃない限り、かなりの精度で現在地と向きまでわかるようになったんだから、当時のことを考えれば「時代は変わったなあ~」て年寄りくさいセリフの一つもこぼれてきます。叡山の飯室から横川へ向かう中尾坂ではなかなか衛星が捕まえられないこともあったけど、こんな都心のど真ん中でGPSが機能しないなんて、わざとそうしているとしか思えない。こうやって情報を制限してるところは今の日本ではそうないでしょう。思いつくのは、自衛隊の基地内と原発施設ぐらいかな?でもどっちも気軽に入れる場所じゃないし、事前予約も何もなしに出入りできるのは皇居東御苑だろうな。山奥や地下などの周囲の環境によるものではない「GPS、使えね~」体験をしたい方は江戸城までお越しください御休息所多聞の少し先の蓮池濠に面したところには、かつて数寄屋二重櫓があった。御休息所多聞と数寄屋二重櫓の間には長い数寄屋多聞が建っていたが、現在その付近はこんなで↓ 土塁とわずかな石組が残るのみ。『鹿鳴館秘蔵写真帖』の写真に姿をとどめる数寄屋多聞は壮観ともいえる長さで、多聞へ上がる雁木も付けられている。数寄屋多聞の創建および撤去の時期についてはわかっていないらしいが、数寄屋多聞が接続する数寄屋二重櫓と同時期のものだとすれば、慶長11年(1606)頃から明治6~11年頃までの間、本丸に存在していたのだろうと『江戸幕府大事典』は語る。今は多聞も二重櫓もないけど、それでもこの付近には多くの観光客が足を止める。なぜって という場所だからで、例の事件で知名度が異様に高い廊下が園地の中に延びていたのだ。いちおう解説板の文章も紹介しましょうかね。 【松の大廊下跡 赤穂浪士討ち入りにつながったことで知られる、浅野内匠頭長矩の吉良上野介義央への 刃傷事件(1701:元禄14年)のあったところです。廊下に沿った襖戸に松と千鳥が 描かれていたのが名前の由来といわれます。江戸城中で2番目に長い廊下で、畳敷きの 立派なものでした。】この付近では、史跡めぐりツアーと思われる一団とバッティングした。 自分で何も準備せず考えることもせずお手軽に見られるあーゆーツアーは、人によってはラクでいいものかもしれないけど、自分で歩きながら何かを見つけたり想像したりするのが楽しいわたくしからすると、人に連れられて歩いて何が楽しいんだろうと思う。ま、時には耳寄りな話なんかも聞けたりするのかもしれないけど、少し距離を置きながら彼らの様子を見るともなしに見ていると、引率者に連れられて話を聞いてるだけなので、園地の中に地味に残っている土塁や石積みに目を留める人はいない。せっかく天下の江戸城に来ているのに、もったいないことよ・・・まあそれでも、わたくしが木々の間に見える地味な遺物にカメラを向けているのを見て少しそういうものに目を留め始める人もぱらぱらと見受けられたけど。松のお廊下を過ぎると、数寄屋二重櫓の石垣が残っている↓。 『鹿鳴館秘蔵写真帖』には数寄屋二重櫓も写っている。すでに撮影時点で本丸御殿はなく、御殿跡は悲しいほどの完全な更地となっているが、遮るものがない分、御殿跡越しにでも数寄屋二重櫓の全景がはっきりと確認できる。その姿は、多少漆喰が剥げているような部分もあるものの実に端正な二重櫓。ただ、当初は三重櫓だったのが明暦の大火ののち、二重櫓として再建されたという。てことは、数寄屋三重櫓も大火で罹災したってことだな。数寄屋櫓に火が移る頃には将軍・家綱は西の丸(現・皇居)に動座していただろうから、蓮池濠沿いに立つ数寄屋櫓の炎上の様子は西の丸からもよく見えただろう。堀越しの眼前に広がる惨状を、家綱はじめ智恵伊豆や阿部忠秋さん、保科正之ら幕閣はどんな思いで見つめていたのだろうか・・・だからね、やっぱり阿部忠秋邸火元説は絶対ガセと思うんだよね。家綱が江戸城を出たって、自分だけは絶対ここに残る!!って頑張った忠秋さんだもの、あとからでも自分ちから出火したなんて知ったら、腹を切ってるよ(←しつこい)。さて、園路に従っててろてろ歩いてたら、自転車に乗ったお姉さんに抜かされた。 おっ、おまわりさんだ。婦警さんもおるのか。この日、城内では結構な数のパトロールに出会った。車や徒歩、そして自転車を使いながら毎日毎日警備にいそしんでおるのだろう。にほんブログ村
2016年06月13日

ちとガイジンシリーズが長くなりましたが、大名や幕閣・役人が江戸城に登城するのは当たり前の話なので、そういう広く知られている登城者以外にも結構色んな人が出入りしていたんだよ、ってことでガイジンについて紹介してきました。同じコンセプトで、今度は日本人バージョンを紹介します。広い本丸御殿のうちで最も南にあるのが、ガイジン達も出入りした大広間。そのすぐ南側には能舞台が設置されていた。これは御殿とは別棟で、常設の舞台だったらしい。舞台は大広間御上段・御中段・御下段の南北3間続きの部屋の正面にしつらえられ、かなり遠くはなるけど将軍が御上段にいても舞台が見える作りになっていた。この能舞台では、将軍宣下や若君誕生、婚礼などのお祝いごとや遠忌の法会、日光参詣の折などの重要な儀式で「祝儀能」として能が上演された。儀式が無事に済んだことを祝う目的で、数日間にわたって上演されたそうなんだけど、その初日には江戸の町衆も能の鑑賞が許されたという。これを「町入能」(まちいりのう)という。町入能の歴史は意外に古く、慶長12年(1607)1月7日が最初。『江戸幕府大事典』によると、この最初の町入能は「江戸城入城祝儀能」というそうで、慶長12年といえば天下普請でリニューアルし、徳川江戸城に最初の天守ができた年でもある。ので、天下に号令してようやく天下人にふさわしいナリを整えた江戸城リニューアル記念祝賀会ってとこだろうか。で、最後が文久2年(1862)の家茂様結婚おめでとう祝賀パーチーで、255年の間に50回ちょっと町入能が行われたらしい。招かれた町人は、 【江戸八百八町(八百八町は東照宮関八州を領し給いたるときに江戸に置れたる町々にして 三河町・駿河町をもってその第一とす。その他数千町ありといえども爾後新開のものたれば このうちに加えず)の町人(家主(今いう差配人なり)一町二人ずつ)どもへ能楽の 見物を許さる。】 (『徳川盛世録』より)ということで、希望者が誰でも見物できた訳でもないようなんだけど、対象者にはあらかじめ町触で麻上下(あさかみしも)の着用や関係者以外の見物の禁止といった心得が示され、事前に鑑札も配られていたそうな。花のお~江戸はぁぁ八百八町~ぉぉぉ今日も決~めての今日も決~めてのぜ~にがぁぁ飛~ぉぉぉぶ~(by 銭形平次)とは言うものの、初期は300ぐらいだった町数も中期頃になると江戸の町は実に1000を越えていたそうで、『徳川盛世録』の八百八町の定義が果たして正しいのかはわからないけど、いずれにせよ町入能に招待される「町の名士」の数は結構な人数になったらしい。それで、4代・家綱の代からは午前と午後の二交代制になって町衆の入れ替えがあったそうな。二交代制になっても各回で2500人という数だったらしいから、大広間と舞台の間にある白洲は相当ぎゅうぎゅう詰めになったことだろう。大広間のある御殿と舞台は別棟だったため、町人席となる白洲には屋根がない。しかし、これだけの人数を招待するのだから準備も色々と大変だし、町入能に「雨天順延」という選択肢はない。「家綱様お誕生おめでとう祝賀町入能」の時にはあいにく雨が降ったそうで、それ以降、招待された町衆が二重橋を通って入城する際には、傘(からかさ)が手渡されるのが慣例となったそうな。慣例だから、当日の天候には関係ない。よく晴れた日でも1人1本傘が渡され、それはそのままお土産として持って帰れる。また、傘のほか強飯が配られた。さらに、午前の部と午後の部の入れ替えの際には町奉行から饅頭と御酒(みき)が配られ、後日には1人ずつに鳥目一貫文が下されたというから、メシ・おやつ・お土産にさらにおこづかいが付くという、江戸城での祝儀能にふさわしいものだった。小布団や煙管などの持ち込みは禁止されていたそうなんだけど、イベントムード満点だったためか、持ちこんじゃう不届き者もおったそうな。さて、町入能といっても別にわざわざ本丸を提供して町衆のために上演する訳じゃない。舞台正面の大広間には将軍をはじめ大名や公家衆もいた。『徳川盛世録』によると、将軍は舞台に近い御下段まで出て見物をしたという。各種おみやげもさることながら、お祭り好きで将軍のお膝元にいることをなによりの誇りとしていた江戸っ子のこと。そもそも町入能自体が何らかのおめでた系で行われることが多いイベントだったから、かなりハイになった町衆もいたらしく、ぎゅうぎゅう詰めの白洲から大広間にいる将軍や公家・武家などの高貴な方々に向かって「親玉!」「千両箱!!」などと叫ぶ輩もいたというから、なんとも江戸っ子らしいエピソードとゆーか・・・とまあ、本丸には結構色んな人種が出入りしていたようでございます。ところで、「(37)」でケンペルが雷よけの地下室について語ってる話を紹介しましたが、『江戸幕府大事典』によると、本丸御殿には「地震の間」なるものがあったらしい。これは中奥にあり、 【地震があった際に将軍が避難したとされる。五代将軍徳川綱吉の時代の中奥では、 二ヶ所あり、休息間の北の山・泉水などがあった庭と御座間の南の廊下に囲まれた 部分に建っていた。絵図には、ほかの部分とは違う描かれ方をしており、特殊な 構造であったことがわかる。】 (前掲書より)だそうな。手持ちのいくつかの御殿図を見たけど、あいにくはっきり「地震の間」と描かれているものはなかった。まあでも、御殿図に部屋が描かれているのなら、地下室ではなかったってことだよな。さてと、それでは久々に現地に戻りますか。え~と、「(35)」でカップルの邪魔が入ってイラつきながらご飯を食べたとこまで書いたんだっけかな。ここからは、ランチ場所のオレンジの★のところから蓮池濠の近くへ行って、そこからぐるっと園路沿いに反時計回りに歩いていきます。 この図で★の上に描かれている細い園路は所により少し小高い位置にあって、広々とした御殿跡の園地とは違って木々の間を歩くコースになっている。歩き出すと、明らかに江戸城時代の遺物であるこんな石もあった↓。 実はこの蓮池濠付近は、今回のわたくしのお目当てのひとつでもあった。なぜって、濠を挟んだ向こう側はかつての紅葉山なのだ。東照宮が置かれ、歴代将軍の霊廟があった紅葉山は現在の皇居なので、いつでも自由に立ち入れる訳じゃない。もちろん、紅葉山の霊廟はとっくに撤去されてるけど、別に霊廟なんかなくたってかまわない。とにかく、徳川時代には神聖な場所であった紅葉山がどんなところなのか、遠巻きにでも自分の眼で見て浸りたかったのだ。しかし、歩き出したあたりの濠方向は ・・・くっ、見えね~いつもなら楽しい土塁を、この時ほどうらめしく思ったことはない。上の写真を撮ったあたりはすでに大奥エリアで、将軍の大奥での御座所があったあたりだろうと思われるものの、 今ではその面影すら残っていない。でも、かつてはこの付近で珍妙な床入りが行われたりしていたのだ。その先にはこんなものがある↓。 【石室(いしむろ) 抜け穴とか、金蔵とか諸説がありますが、大奥御納戸の脇という場所柄から、非常の際、 大奥用の調度などを納めたところと考えられます。内部の広さは、20平方メートル あります。伊豆石(伊豆半島産の安山岩)で作られており、天上には長い石の板が 使われています。】 (現地解説板より)内部の撮影にトライしてみたけど、 こんなボケた写真にしかなりませんでしたので、解説板に掲載されている写真から内部の様子を紹介します。 おお、確かに金蔵っぽいな。解説文には「大奥御納戸の脇」とあるけど、石室の場所自体は大奥との境目に近い中奥で、この付近にはかつて慶長期の天守があったともいう。して、慶長期天守のあった場所が本丸エリアのちょうどど真ん中の位置にあたる。↓ぽちりとよろしく~。にほんブログ村
2016年06月06日

出島のオランダ商館にいたヨーロッパ人の中でも、歴史ファンを中心に広く世間にその名を知られているのは、ケンペル、ツュンベリー、そしてシーボルトの3人だろう。これは17世紀、18世紀、19世紀の各時代においてそれぞれが詳細な日本の記録を遺しているからで、中でもシーボルトは鳴滝塾で蘭学を教えたり、いわゆる「シーボルト事件」で教科書にも載っているので、歴史に関心がなくても、なんだか知らないけど名前だけは知ってる、という日本人は多かろう。ドイツ人のフィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・シーボルトは、「ズィーボルト」の方が原語に近いようで、ゆえに「ジーボルト」と表記されることもあるけど、ここでは「シーボルト」で通します。参考文献は『江戸参府紀行』(斎藤信訳/平凡社東洋文庫)です。んで、シーボルトさんはオランダ商館付の医師として来日し、カピタンと共に1826年5月1日に江戸城に登城した。ズーフと同じく朝の6時に宿を出て、大手門から入って例によって百人番所で待機。ここで出された茶はたいへん悪いものだったと言っており、ズーフがカピタンの名誉をかけて断じて動かなかった緋毛氈のかかったベンチのある奥の部屋の設備はすべて「堂々とした感じを与えはしなかった」と言っている。沢山の彫刻が施された仏教様式を思わせる門を通って御殿に入ると、まず控えの間に通される。 そこでは立っていても歩いていても腰かけていても構わなかった。これまで紹介してきたオランダ商館の人達は、足を崩してコートで隠しながらもみんなお行儀よく座っていたのでちょっとこの文章は疑問があるけど、「ここで座って待っていなさい」と事細かに指示されなかったのをいいことに、彼はあるいはウロウロと歩き回ったりしたのかもしれない。ここで待っている間、さっそく見物人がやって来て、扇子や紙にオランダ語でサインしてほしいと頼む者もいた。ズーフはサインを求められたとは書かなかったけど、すでにツュンベリーの以前からオランダ人にサインしてもらうのも定着していたので、ズーフもおそらくなにがしかを書いてやったかもしれない。ただ、カピタンには予行演習があったからな。シーボルトの時にも習礼はあったようで、 ここでまた奉行と外人接待係がわれわれを訪ねてきて、謁見式の次第を次のやり方で 説明した。使節は「拝礼を練習するために」謁見の広間に行くことを求められた。彼は 侍臣に導かれて進み、われわれも数歩はなれて黙って彼について行くことを許された。 (中略)すべての木造部には精巧な彫刻がしてあり金張りになっている。ひとつの 閉め切られた部屋が見え、その左には机の上と、白い檜、いわゆる日の木で作った担架に 似た進物台の上に献上品がうまくきちんと並べてあった。ここで使節は二度・三度と 拝礼する。そのうえ日本流にひざまずいて深く頭を下げ、拝礼と拝礼の間にはその都度 起き上がるのである。拝礼と拝礼の間は起き上がるって、なんだか五体投地みたいだな。イスラムの拝礼じゃないんだから・・・って笑ったものの、「立ち上がる」って書いてる訳じゃないから、まあ座ったまま上体を起こしたって意味だろう。面白いのはその次で、 第三回目の拝礼を終えると目立つほどの色の白い美少年がふたり、畳を敷いた階段を 三段目まで降りて来た。それは将軍のふたりの子であった。今や使節はなおしばらくの間 立ち止まっていて四方から見物されねばならなかった。時の将軍は11代・家斉(いえなり)。家斉といえば50人を越す子だくさんで有名な方ですが、26人いる男子の中で誰が見物にやってきたのかは不明。少なくとも世嗣でないのだけは確かで、ゆえにウワサを聞きつけて大奥から表まで見物にやって来たのだろう。大奥からはるばるやって来た美少年へのサービスのため、習礼が終わっても控えの間に戻れなかったカピタンの姿が少々哀れを誘うして、いよいよ本番。 奉行ならびに数名の侍臣が使節を案内し、ふたりの上席番所衆と通詞が随行し、そして われわれは静々とついて行った。 使節とそのふたりの随員にとってはたいへん 名誉であった 。これを素直に読むと、シーボルトも拝謁の行われる大広間までついて行ったように思えるけど、カピタン1人が連れられていって医師や書記などの随行員はフツー控えの間で待機しているので、ちょっと考えにくいんだよなあ・・・その後の文章も、シーボルトが自分の目で見たものを書いているのかイマイチ判然としない。ま、ともかく 広間のふたつ目の角のところでふたりの上席番所衆はあとに残り、通詞は三つ目の角まで 従った。そこで使節は一瞬立ち止まると、大名や他の高官達はじろじろと彼を眺めた。 それからすぐに低いシーという声が聞こえた。最も高い地位の人が近づいて来られる 合図であった。みなはめいめい決まっている席につこうと急いだ。他の人の記述を読むと、カピタンの拝謁は大広間が一分の隙もなく整ってから大広間に向かっていくという感じだったんだけど、シーボルトの記述からはあまりそういう雰囲気はうかがえない。それでまた「オランダ・カピタン!」と声がかかって拝謁と相成る訳ですが、シーボルトは 使節はここでひざまずき低く頭を下げていたので、前方の金張りの木彫を見ただけで、 将軍の影さえ目に入らなかった。と見てきたようなことを書いている。ホントに大広間までついていったのかな・・・わたくし的には、これは後でカピタンから聞いた話を書いただけじゃないかと思うんだけど。仮にシーボルトが大広間の外から見ていたとしても、カピタンと同じように平伏していなければならなかったハズだから、悠長に見物していられるはずはなかったと思うのだ。して、儀式を終えてカピタンが控えの間に戻ってくると、関係者から拝謁が無事に終わったことの祝辞をもらった。 ここでまた多数の大名や高官が姿を見せていて、その中には10-11歳ぐらいの たいへん礼儀正しい少年で将軍の世子のいちばん下の弟もみえ、2,3のオランダ語を 紙に書いてくれと使節に頼まれたので、書記はただちに書いて差し上げた。見物されるのも これが最後としばらく我慢してから、使節は随行者と共に退出することが許された。 儀式は終わった。エンゲルベルト・ケンプファーが述べたように、透き通って見える 竹の簾の後ろにかくれた将軍の前で踊ったり歌ったりするオランダ人の個人的な演技が 時の移る間に廃止されたことは、やはりわれわれの幸福というべきだった。・・・とまあ、「じろじろと見物されるのは閉口したけど、ケンペルん時みたいに色々やらされなくてよかった~」と言っている。5月4日には再び登城して、例の法規の確認の儀式があった。この時にもまたカピタンは習礼をしたようで、本番の儀式の その間、われわれだけが残っていることは不名誉と考え、拝謁のため使節に随行することが 許されるよう坊主に頼んだ。この願いは奉行や高官らの打合せののちに許されたが、 使節が将軍の前でお辞儀をしている間、われわれは広間の入口で立ち止まっていなければ ならないという点では、相変わらず名誉とはいえなかった。と興味深いことを書いている。ふむ、少なくとも再登城の時には大広間までくっついていったことは間違いなさそうだけど、立ったままで待っていたということは、将軍からは見えない位置にいたってことだろうな。「残っていることは不名誉」って、シーボルトもはいつくばってお辞儀をしたかったのだろうか。 さて、最後のガイジンはオランダ人のヨセフ・ヘンリー・レフィスゾーン。この方は第164代カピタンで、レフィスゾーンの後に2人のカピタンが続くので最後のカピタンではないけれど、江戸参府をしたのはレフィスゾーンが最後。その最後の参府(1850年)でレフィスゾーンが語る内容(『江戸参府日記』片桐一男訳/雄松堂出版)を簡単に紹介しますと、御殿に入るまでの段取りはこれまでと同じ。御殿に入って案内された控えの間は 高く、珍しい、描かれた天井と障壁、彫刻、金メッキの銅で飾られた柱と障壁などを 感嘆するのに、われわれの眼は十分ではなかった。と言っている。人によって御殿の評価が全然違うのがなかなか笑えるところですが、レフィスゾーンの眼はしごくノーマル。して、レフィスゾーンも習礼のために別室へ連れていかれたが、その移動の最中には数えきれないほどの人が彼らを見ようとしていたという。習礼を終えて控えの間に戻ると、 そこで、いろいろの領主、特に肥後、加賀、仙台、久留米の領主に、そして薩摩の世子、 人々がそういっているように、将軍の親戚にまでも尋ねられた。それらの人たちは、 われわれを感嘆し、さわってみたり、かつ私の懐中時計をみせてもらい、もっとも 鄭寧で、われわれに対して親切であった。持ち物や身につけているものなどを、せがまれて日本人に見せてやることはケンペルの昔から同じだけど、ここでは「おさわり」まで追加されている。ガイジン達の書き遺したものを読むと、それなりに各自の個性もうかがえるもので、『江戸参府日記』を読む限りでは、レフィスゾーンは比較的鷹揚な育ちの良さを感じさせるな~というのがわたくしの印象。で、ここでは「おさわり」までされながらもそれで気分を害したというようなことは書いていない。大藩の藩主たちが物見高くオランダ人を取り囲んでいたというのが興味深いですが、レフィスゾーンが登城した1850年4月26日は旧暦の3月15日。つまり、大名の定例登城の日だったらしい。これはちょっとオドロキだったな。そして、12代将軍・家慶に拝謁。レフィスゾーンがいた場所からは結構距離があり、また周囲が暗めだったので家慶の姿を全く見分けることができなかったと言っている。4月29日(←西暦)には再登城して、お約束の法規の確認をした。この時も習礼があったと言っている。レフィスゾーンはザリガニの儀式のことを、「私にとって大層屈辱的であった」と言っている。同じ時期の世界情勢を考えれば、これはごく当然の感想だと思うんだよね。カピタンの記録は、わたくしはズーフとレフィスゾーンのしか読んでいないので他の歴代カピタンがどう思ったのか、どう書いてるのかは知らないけど、割合からすれば屈辱だと考える人の方が多かったんじゃないだろうか。出島でも参府の道中でもオランダ人はかなり窮屈な生活を強いられていた。その上に、ザリガニの儀式。ウィキペディアによると、 【オランダ人の初の拝礼は慶長14年(1609年)の使節ニコラース・ポイクによる 駿府での徳川家康との謁見であった。】だそうな。その後、様々な変遷はあったけど、1850年のレフィスゾーンの参府まで241年。カピタンはじめ、オランダ商館員の数えきれないほどの様々な感情と忍耐の上に日蘭貿易は成り立っていた。その最も象徴的なものが、江戸城での拝謁の儀式とも言えるんじゃないかとわたくしは思う。にほんブログ村
2016年06月02日

さてお次はオランダ人のヘンドリック・ドゥーフ。この方は「(24)」でも少しだけ顔を出してまして、発音としてはたぶん「ドゥーフ」の方がより原語に近いんだろうけど、わたくしは桂川家関連でこの方の存在を知って、今泉みねにならって「ズーフ」の表記に慣れ親しんでいるため、以後も「ズーフ」で通します。ズーフが江戸に来たのは1806年、1810年、1814年の3回。この頃は参府が4年に1回の割合に変わっていたのでね。が、ズーフにはちと特殊な事情があって、3回の参府をそれぞれ書くのではなく、3回分を一括した形で書いている(『日本回想録』雄松堂出版)。ので、全体的にアバウトな内容ではあるんだけど、前回ケンペルの頃から儀式の基本的な内容は変わってないと書いてるにも関わらずまだオランダ人の登城について書き続けるのは、前のケンペル・ツュンベリーとは違ってズーフがカピタン(商館長)であるから。この後でもう1人のカピタンを登場させますが、色々な面でやっぱり「外野」的立場である商館付医師と主役であるカピタンでは違うのだ。ま、主要な部分はケンペルとツュンベリーの記述だけで充分かと思うので、あまり細かくは書きませんが。でまず服装ですが、拝謁には決まった宮廷服が定められていたとズーフは言う。 商館長はビロード、医師と筆者頭は黒繻子のマントを着るが、我々はこれを城の奥に 入るときに、はじめて身につける。商館長だけが、黒いビロードの袋にいれた刀を、 後ろにつける特権を得ている。それ以外は、医師や筆者頭、その他の職員、船の士官も、 日本では帯剣を許されない。彼らは剣と銃を、船の到着の後、直ちに手渡さなければ ならない。ツュンベリーが、「儀式には我々が帯剣することを求められる」と記して いるのは、間違っている。 とツュンベリーに対してツッコミを入れているが、ツュンベリーの参府からズーフの初回の参府までの30年間でオランダ人の帯剣の取扱が変更になったということでなければ、前回紹介した そしてまた、儀式の日とそれにふさわしいように剣を帯び、普通の牧師のコートに よく似た極めてゆったりとした黒いコートを羽織った。というツュンベリーの文章の「そしてまた」と「儀式の日」の間あたりには「カピタンは」という主語が入るべきだったのかもしれない。して、登城したのは朝の6時。下乗橋で乗物を下りて百人番所まで歩いていき、これまでと同じようにそこで本丸御殿の準備が整うのを待った。番所では一番奥の部屋に通され、赤い小さな絨毯をかけたベンチを勧められて、茶と煙草盆で接待を受け、長崎奉行や宗門改めが挨拶に来た。番所組頭も挨拶に来たが、 ここでは、それぞれがその序列を守る必要があった。番所組頭は、私がもっとも名誉ある もっとも奥の部屋から、それにつづく表の間に行くように、と言った。彼は身分が低いため、 奥の部屋に行くことが許されないのである。私の方からも、私に指示された最高の場所を 離れるつもりはない、と断言した。組頭は私から畳二枚(だいたい2フィート)の ところまで近づいて、私に挨拶した。これについては私は自分の立場を堅く守った(日本では 正当なことは、常に行わなければならない)。私は古くからの慣例を維持するよう、配慮 した。寛大にもこれを一度逸脱すると、それを復活するのは、大変難しいことである。別にズーフが底意地の悪い人という訳ではない。交易のみが許されたオランダ東インド会社の社員という立場ではあっても、カピタンはただの「支社長」じゃない。幕府に対してオランダ一国の代表者であり、責任も名誉もある重い立場なのだ。単に古くからの慣例を守ったというだけではなく、日本国内の慣例を理解した上での行動であり、ケンペルやツュンベリーの著述を先に読んだわたくしは、同行者である医師とカピタンとではこんなにも意識が違うものかと少なからず驚いた。で、幕閣が御殿に揃うと一行も御殿に入るよう促される。まずは玄関付近の控えの間に案内されるが、 ここで我々は脚を床につけて横座りした。足を見せることは、日本では無礼になるので、 我々のマントで足を覆った。ツュンベリーは「長く正座なんかできっかよ!」と足を投げ出し、ズーフは失礼にあたるからと言ってはいるが、やってることは同じそれで、 小憩の後、長崎奉行と外国人世話係は、私を拝謁の間に案内した。ここで私は先ず、 要求されている儀式の練習をしなければならなかった。「おおう、こ、これは『習礼』じゃないか・・・!!」「習礼」(しゅうらい)とは、大事な儀式の前に行う予行演習のこと。諸大名が江戸にいる時は定例の登城がある。定例のおつとめ以外にも、たとえば若殿が成人して初めて将軍に拝謁し、あらためて臣従を誓う儀式など、藩主には江戸城で果たさなければならない重要なおつとめがある。将軍のおわす江戸城にはさまざまな細かい「きまり」があり、毎年年末にドラマになる、抜刀して傷害事件を起こした誰かさんのような行為は当然のこと、ささいなミスでも場合によってはその代償は大きい。たとえば『江戸城のトイレ、将軍のおまる』にはこんなエピソードが載っている。 【小笠原伊予守忠徴が顔の吹出物に膏薬をつけて登城してしまいました。公方様に「御目障」 になってはいかがかと、御坊主を通じ御目付に申しあげ、ご覧をいただき、念のため 大目付にも御届をしておきました。】各自がノーマルな、あるべき姿から無断で少しでもはみ出ると後がヤバいってことでこんなことにまで気を遣ってたというんだけど、いちばん大事なところで不測の事態が生じる可能性だってある。同書によると、大広間で拝謁した大名が平伏した時、腰に差していた刀の鐺(こじり:柄と反対側の先っぽ)が障子に当たって破ってしまったり、烏帽子が落ちてしまったり、前の人の長袴を踏んだりしてしまうことなんかも結構あったそうで、そういう不調法を極力起こさせないためにあらかじめ練習をしておくんだそうな。その手順はざっと 1、諸席内の当人と有志(親類の大名、その席の古参の大名)に御坊主衆を加え、私的に 目立たない場所で大筋を打ちあわせする。 2、私的に諸席内で、誰々は奏者番、誰々は御目付と役割を決め、当人と坊主衆を加えて 別席で練習する。 3、御目付より「寄せ」(集合)の声がかかり、奏者番・坊主衆が出て、本番の定刻より 早めに実習をおこなう。 (前掲書より)というものだそうで、時には大名の屋敷に招いて拝謁RPGを行ったりもしたそうな。こういう地道な練習を繰り返して初めて、限られた時間内でのスムーズな儀式進行が可能になる。何か目立つ失敗でもして、儀式の進行の妨げにでもなれば、本人はもとより、責任者である御目付などの責任問題にもなる。カピタンの拝謁の場合は、 もし途中でつまってしまったら、奉行がこれを償わなければならないからである。とズーフは言っている。カピタンがらみで重大なトラブルがあった場合、長崎奉行が何らかの責任を取っている例は実際にある。ズーフの時にはある人は更迭され、ある人は切腹した。 ズーフは長崎奉行と外国人世話係に呼ばれて一緒に習礼を行ったようだから、ズーフの言う通り、カピタンの拝謁にはこれらの人が直接の責任を負うのだろう。習礼を終えて一旦控えの間に戻ったあと、長崎奉行と大通詞とともに大広間へ向かう。大通詞は途中で待機し、長崎奉行とズーフの2人だけが拝謁の間に入る。 献上品は私の左側に並べられていた。ここに将軍すなわち皇帝がいたが、その服装は、 その家臣のものと、何のちがいもなかった。老中の一人が「オランダカピタン」と呼び、 私の拝謁を披露すると、私はこの国の諸侯と同様に、拝礼した。私より数フィート 後ろにいた長崎奉行は、ここで私のマントを引っ張って、拝謁が終わった合図をした。 すべての儀式は、長くても一分以内だった。たった1分のためにわざわざ長崎から遠路はるばるやって来て、奉行たち相手に予行演習までやった上に、黒いザリガニに徹しなければならない。カピタンも大変だな~と思うものの、意外にもズーフは (前略)多くの人が、オランダ人を非難し、オランダ人が日本の習慣と礼儀に従うのは、 自己卑下であると考えている。私はこれが何故卑屈であるのかわからない。我々が日本人に たいして守る礼儀は、彼らが互いに守っている礼儀であり、彼らの大官に対して、日本人 自身が示している尊敬以上のものを、要求されているわけではない。彼らの国の習慣は、 そのようなものであり、世界のどこに到着しようとも、そこで行われている習慣と礼儀に、 一致しなければならず、さもなければ、そこから立ち去らなければならない。友好を求めて きた国に、訪問者の習慣と一致しなければならないと、要求できないことは確かである。 私の考えでは、そこの人々が互いに守っているもの以上ではない、習慣や礼儀に従うことは、 少しも卑下ではなく、義務である。と言っている。「習慣と礼儀」の中には、おそらくザリガニの儀式も含まれるだろう。まあ確かに、そう言われればカピタンの拝謁は諸大名の拝謁と変わるところがない。ケンペルの時のように、第2幕でいろいろやらされた訳でもないので、ズーフには気を悪くするほどのことでもなかったのかもしれない。ただ、これは長い期間を日本で過ごし、日本のシステムと慣習を知り尽くしたズーフだからこその見解という可能性は多分にある。して、その彼が見た本丸御殿は 豪華なものは何ひとつなく、広間には家具もなかった。すべての広間には引き戸があり、 日本式に金紙をはり、絵が描かれ、これを開けるために金色の引手がついていた。 これがこの広大で空の宮殿の唯一のぜいたくだった。広間と建物全体の大きさ、そこを 支配している陰鬱、これ程多数の人々の間の、考えられないほどの静寂、これらすべては 豊かに飾り立てられた宮殿を超えて、身震いするような敬意を抱かせた。日本でもっとも権威と格式のある江戸城本丸御殿をつかまえて、「豪華なものは何ひとつない」と・・・先日の伊勢志摩サミットは無事に終わってようございましたが、各国首脳が伊勢神宮に参拝するシーンをTVで観ていた時、母親は「伊勢神宮は素晴らしいって、きっとみんな言うわよ」とコーフンしていた。しかしわたくしは、「日本人だからそう思うけど、ガイジンはどうかな~。価値観違うからな~」と思った。というのも、ケンペルは入口ばかり立派で、そのずっと奥にある社殿があまりに簡素であっさりしたものである神社を評して「大山鳴動して鼠一匹」と言っているのを知っていたからだった。実際の本丸御殿は木目の美しい立派な木材をふんだんに使い、ふすまには障壁画、大広間の格天井にはきらびやかな絵が描かれて充分豪華だったハズだけど、調度品で部屋を飾り立てる西欧とはあまりに違うので、こういう評価になったのだろう。ガイジンの素直な感想は、価値観が違うと見方もこれだけ変わるのかという点で面白い。にほんブログ村
2016年05月30日

糞尿調べにも多少のメドがついて、さすがのわたくしでも食事中に糞尿だらけの本を読み続けるのはちときつかったので、糞尿調べはもうやめて『江戸幕府大事典』を眺めていたら、オランダ商館についての記述もいくつかあることに気がついた(←全然調べてなかった)。「江戸参府」という項目には、 【江戸滞在は2,3週間程度、江戸城大広間での将軍への謁見の儀は日本式で 商館長は膝行・拝礼を行った。白書院では将軍や家族、大奥の女性が娯楽見物の 目的で商館長らオランダ人に舞踏や歌謡を注文することもあった。】とあっさり書いてあった。なあんだ~、やっぱり白書院だったのか。一生懸命考えたのにまあいいさ、自分の頭で考えることに意義があるのだ。フン。さて、次なるガイジン。オランダ商館付医師であるツュンベリーは、カピタンに随行して西暦の1776年4月27日江戸に入った。カピタンの参府は基本的な部分はケンペルの頃から幕末まで変わっておらず、一行は旅の間は諸事制限を設けられていた。大都市では必要があって何日か滞在もして、旅の間もっとも長くひと所に留まったのは江戸だったが、オランダ人には自由な行動、特に外出は許されておらず、出入りする日本人も許可を受けた者だけという厳しいものだった。もちろんそれは、彼らが日本で禁教となっているキリスト教徒だからで、ポルトガル人など日本から追い出されたヨーロッパ人がカトリック系で日本でも貪欲に布教をしたのに対し、オランダ人の場合は新教系だったのが日本に居残ることができたひとつの理由だったとも言われるけど、キリスト教徒であることに変わりはなく、ヨーロッパ諸国の中でオランダ人が日本貿易を独占できたのは、日本で布教しないという条件を承諾したからでもあった。ゆえに、参府の途上でひそかに布教をしたり宗教グッズを配布させないための防止策のほか、密貿易の防止という目的のために常に厳しい監視の目にさらされていた。で、江戸ではこの旅の最重要目的である儀式に臨まなければならないのでさっそく献上品の準備に取り掛かったと思われるものの、それについてはツュンベリーは書いていない。その代わり、大勢の日本人の訪問を受け、特に桂川甫周と中川淳庵とは親密な関係を築いたと書いている(「(24)」~「(25)」参照)。して、5月18日にいよいよ登城。参府の旅というのは、出発の日は決められていたが、途中海路を利用することや東海でのいくつもの川越えを抱えていて自然現象に大きく左右されたので、あらかじめ謁見の日を決めることはできなかったという。登城のあとで高官宅への挨拶回りなども控えていたためか、 この日、事前に十分な朝食をとった後、早朝、一番上等な衣服を着て、将軍の宮殿へ 行くために乗り物にのった。とにかく我々は、高価な絹地で作られ、銀糸が織り込んであるか 金モールの縁どりのあるヨーロッパの衣服を身に付けた。そしてまた、儀式の日とそれに ふさわしいように剣を帯び、普通の牧師のコートによく似た極めてゆったりとした 黒いコートを羽織った。とお腹も外見も準備万端整えた。ツュンベリーの頃もカピタンの任期は1年交代で、積み荷を載せたオランダ船が毎年長崎にやって来ていたが、新商館長と士官全員が上陸するとまず火薬や武器類を取り上げられたらしい。その上で荷揚げ作業などをして、船が再び港を離れる時に、日本側が預かっていた武器類をオランダ船に返すのだとツュンベリーは書いている。こうして安全のための措置を取っていたのだから、出島に住む商館員の所持できる武器類というのも当然制限はされていたんだろうけど、儀式用の剣を持つことはできたってことだな。それに、ツュンベリーは旅の途中で銃を使っている。まあそんなものオランダ人に預けておくはずはないし、彼自身別のところで「鉄砲の使用が許されず、手に入れることもできなかった」と書いているので、おそらく必要な時だけ日本の銃を借りたってところじゃないかと思うけど。そして、乗り物に揺られて江戸城に到着。 最初の門のそばには、強固に構えた番人がいたが、第二の門には毎日1000人の男が 立っているそうである。我々はこの門を通ってすぐに、まず乗り物からおり、それから一室に 案内された。さらに将軍の宮殿に入ることができるまでに、まる一時間をそこで待たなければ ならなかった。ようやくそこへ行ける許可が出た。我々は宮殿の入口までの両側に、長い列を なして並んでいる武士のあいだを歩いた。彼らは全員、武具を身に付け、上等な身なりを していた。ここには書かれていないけど、おそらく番所で待っている間に幕閣たちがスルーしていったのだろう。大勢の武士が居並ぶ荘厳な道をしずしずと歩いて本丸御殿に入ると、まず「客間」に案内されて、そこでもまた1時間ほど待たされた。 我々の役人は一方の側に日本式に坐り、オランダ人ならびに通詞がもう一方に坐った。 我々にとって日本式に普通に坐るのはかなり困難であった。我々はそのような姿勢を長く 保てなかったので、足を一方に投げ出し、その上に大きなコートをかけた。このような場合、 コートはたいへん好都合であった。お行儀の悪さをコートで隠して坐っていると、控えの間に大勢の見物人がやって来た。中にはこっそりやって来た藩主もいたという。オランダ人は当然、ユーラシア大陸のはじからはじまでやって来ているので色んな国の人種を見たりもしている訳だけど、外国ではおおむね身分の高い人間ほどさまざまなアクセサリーなどを身に付けているものなのに、日本人の場合はそういうチャラチャラしたものは一切付けず、将軍から農民まですべて同じ髪型と衣服でそこには差がないと感じたらしい。言われてみればなるほどと思うんだけど、もちろん身分や経済力に応じて多少の差があることはガイジン達もわかってはいる。ただ、江戸城ではみんなきちんとした身なりをしているので、ぱっと見てだれが殿様か外見だけで区別するのは難しかったかもしれないけど、殿様が部屋に入ってくるとすぐにし~んとなったので、藩主のお出ましはすぐにわかったと書いている。そういう風に色んな人の出入りがあったので、長い待ち時間の退屈しのぎになったらしい。 彼らの好奇心はあらゆる事柄に向けられたが、最も熱心であったのは、我々がどのように 書くかを見ることであった。紙や彼らの扇子に何かを書くよう求められた。二、三の者は また、以前オランダ人がそこに書いた扇子を見せてくれた。彼らはその扇子を、貴重品として 大切に保管していた。色々とガイジンについて紹介してきていて、とりあえずここでは江戸城に関することだけに内容を絞っているので朝鮮通信使の記事ではあえて書きませんでしたが、朝鮮通信使の一行には沢山の日本人が押し寄せて書を求めている。申維翰も金仁謙も書に関する役割で同行しているので来訪者のターゲットとなり、申維翰は墨をすらせながらその求めに応じたものの、あまりに数が多いので墨をするのが間に合わなかったと書いているし、金仁謙も老体にムチ打って沢山の書を与えてやったと言っている。中には街道から遠い所に住んでいるのにわざわざ一行に会いにきた日本人もいて、漢詩の心得のある人は自作の漢詩を見てもらったり唱和してもらったりしてるんだけど、庶民までも書を求めて押し寄せたらしく、なんでそんなに人気があったのかと思ったら、朝鮮人に書いてもらった書は福を呼び込むという俗説があったらしい。それでなくても通信使の一行は楽を奏でながら進んだり、馬上才などの珍しい技を持つ人などもいたし、そのうえ滅多にやって来なかったので、一行が来日したら「キャ~、サインしてえ~!!」ってカンジで、韓流ファンが狂喜してヨン様を迎えに行くような感覚だったのだろう。ケンペルの時にも字を書く様子を見物されたりはしているけど、ケンペルが江戸の宿舎で書き損じを窓から投げ捨てた時、ヨーロッパの文字が書かれた紙を窓から捨ててはいけないと注意されている。それが、ツュンベリーの時にははっきりサインを求められた。しかも、江戸城で。85年の間にずいぶん変わったもんだと思うけど、ケンペルからツュンベリーまでの85年の間に朝鮮通信使は4回来日している。ので、時代が下るにつれ「ガイジンが来たら、とりあえずサインもらっとけ~!!」てな感じに福を呼ぶガイジンの範囲が拡大していったのかもしれないと思ったさて、その後もっとも重要なカピタンの拝謁の儀式がある。ツュンベリーは、ケンペルの時とは大きく異なっていたと言っているものの、基本は変わらない。まず、カピタンだけが老中や藩主の居並ぶ大広間へ連れていかれる。儀式の間中、将軍・家治とその世嗣は御上段の間で立っていたと言ってるけど、これホントかな? 謁見の部屋の右側には、献上・進物品がうずたかく積まれて置いてあった。謁見は終始 その部屋だけで行われ、商館長は部屋に入るとすぐに膝を曲げ、両手を床につき、頭を畳に つけて、ちょうど日本人がその従順さと尊敬の意を表すようにお辞儀をする。それから 立ち上がり、そして前とまったく同じ道を客間へ連れ戻される。本丸御殿でのイベントはこれだけ。ツュンベリーがケンペルの時と全然違うと言っているのは、見世物興業をやらされた第2幕がなかったという点だろう。ただ、カピタンが控えの間に下がって待っている間、なんと家治みずからもっと間近でオランダ人を見ようとこっそり控えの間に入ってきたらしい。もちろんこの時も部屋の中は水をうったように静かになった。家治が入ってきたことはその場で知らされたので、ツュンベリーは間近で家治を見たと思われ、 将軍は中背でたくましい体格をしており、40歳過ぎと見受けられた。と書いている。しばし待たされたあとで、御殿内を少し見物してよいとの許可が与えられた。が、御殿に関する記述は少なく、 我々が見た他の部屋には、何も家具がなかった。床には大きく真っ白な畳が敷かれており、 枠や扉にはきれいに漆が塗られ、そして金具には金メッキが施してあった。で、御殿内の畳は通常より大型のものだったと書いている。にほんブログ村
2016年05月25日

金仁謙は第11次朝鮮通信使の従事官の書記として宝暦14年(1764)2月16日に江戸入りした。その旅のことを書いた『日東壮遊歌』(高島淑郎訳注/平凡社東洋文庫)は副題が「ハングルでつづる朝鮮通信使の記録」となっていて、もちろんわたくしは日本語訳されたものを読んだ訳ですが、たぶん申維翰の『海遊録』の原文は漢文で、ゆえに和訳されていても相当読みづらかったのに対し、『日東壮遊歌』は原文がハングルなために読みやすい。(ただし、文士である金仁謙の記録がなぜハングルで書かれているのかは不明。解説によると、漢文で書かれた『東槎録』をハングルで書き写したのが『日東壮遊歌』らしい。)すでに「(38)」で金仁謙の文を一部紹介したように、彼自身は江戸まで行きながらも儀式に臨まなかったので、金仁謙の分の記事についてはカットしようかとも思っていたのですが、それなりに詳しい話も同僚から聞いて書き遺しているし、申維翰が書いていない内容も書かれているので、ついでにここで紹介しておきます。今回もより前掲書からの引用が中心になりますが、なぜわたくしが金仁謙に対していい印象を持っていないのか、本文を読むことで理解して下さる方もおられるんじゃないかと思います。さて、江戸に到着した一行は毎日日本人からの挨拶を受けたりしていたが、2月27日にいよいよ登城となった。この日は雨だったが、 使臣方は朝服を召され、裨将らは戎衣、文士訳官は官服に身を整える。 使臣方の輿が従卒らに担がれ、笛や太鼓を打ち鳴らし、六行の礼をもって進むしかし、金仁謙は「(38)」で紹介したような理由で登城を拒否した。三使臣は 「ここまで来た上はともに赴き見物してきたとて悪いことではないから出かけよう」と説得したが、金仁謙は上役の誘いにもガンとしてうなずかなかった。 使臣方が仕方なく笑って言われる。 「そうして帰国した後、ひとり良い格好しないでくれよ」 「良い格好などとんでもない。物事の理を申し上げたまでです」別に一行をおとしめるのがこの記事の目的ではないのですが、いちおう言葉を添えておくと、要するに朝鮮側では日本人をさげすんでいるので、帰国後の本国で日本人に頭を下げなかった金仁謙の株が上がる、ということを意味しているらしい。もちろん、三使臣がそんな駄々をこねたら任務が果たせない。さすがに国使なだけあって、三使臣は別の場面でもきゃんきゃんわめきたてる金仁謙を政治的判断で叱りつけたりしている。金仁謙は申維翰よりも下の立場だったようで、別に登城しなくても不都合はなかったんだろうけど、それでも三使臣は「まあ見物だと思ってさ。軽く行こうぜ、カルく」と穏やかに諭している。三使臣はこの旅の朝鮮側の責任者でトップの地位にあるのに、それでも金仁謙はひとり宿舎に残った。そして夕方になって帰ってきた同僚の南玉をつかまえて詳しく聞いたところによると、まず本丸御殿の玄関に入るまでは「(38)」で書いた通りで、 板の段を上り柳の間に入ると、使臣方の外の控えの間。 角一本出た紗帽を戴いた紅衣の者や、木靴を逆さにしたような冠を戴いた者がいたが、 素足で坐っている者の数がきわめて多かったという。 内の控えの間に入る。松が描かれた部屋である。使臣方の右手に倭人数十人が坐していたが 皆黒い絹の官衣を着け、一角帽を戴いている。通詞に尋ねると、執政(老中)らとの ことである。対馬島主は黒衣を着てそのかたわらに坐り、その後には紅衣を着た者が 十列ほども並んで坐る。これは各州の太守らで、林信言、林信愛はいちばん端に坐っていて 軽く会釈したとか。 執政に導かれ梅の間に入り、一度着座した後また退室。次に国書を奉じて入り四拝し、 私礼単(非公式な贈品目録)を差し出し、また拝礼。関白(将軍)の宴に臨んでまた礼。 退出する際また礼をし、前後合わせて四度も四拝する。堂々たる千乗国(大国)の国使が 礼冠礼服に身を整え、頭髪を剃った醜い輩に四拝するとは何たることか。退石(金仁謙)が 来なかったことがうらやまれてならない。 首訳と文士はそれぞれ一列に並び、拝礼を済ませ退室する。軍官と上官全員は二組に分かれて 拝礼。次官と小童らは落縁で拝礼。中官は前庭で拝礼する。 (カッコ内はジジイが追加)「こんなに拝礼させられたんだよ!」「ええっ、マジか!?」「も~お前、ホント来なくてよかったよ」・・・て金仁謙と南玉の会話の様子が目に浮かぶようですが、金仁謙や南玉の悪意のかたまりの部分を除いて一連の流れを見てみると、申維翰の頃とほぼ同じ流れであり、おごそかに儀式が執り行われたのがわかる。カピタンの謁見とはまったく違うことは言わずもがな。人から聞いただけの話の割に内容が細かいのが笑えるところで、「梅の間」は御殿図には見当たらないし、儀式が大広間以外で行われるはずがないのでふすまに梅の絵でも描かれていたのだろう。「松が描かれた部屋」は恐らく大広間に連なる「松の間」のことだと思う。江戸に出ていた諸大名が正装して儀式に参加していたこともわかる。この時の朝鮮通信使は、第10代将軍・家治の就任祝いのためだった。南玉の話は続く。 関白の坐っている所が遠く暗いので顔はよく見えなかったが、白い衣服を着ていたという。 使臣方の席は関白に近く時間も長かったので、仔細に見たそうである。細面(ほそおもて)で 顎がとがり、気は確かなようだが挙動に落ち着きがなく、頭をしきりに動かし折り本を弄び やたらにきょろきょろして泰然としたところがない。傍らには6,7人の者が侍っていたと いう。 饗宴の席に赴くと、膳は7つ出され、飯は3度、汁も3度運んでくる。肴を3度取り替え、 茶は1度持ってくる。一対の造花は先の振舞いのときと同じである。食べ物の奇怪さ、 箸を付けられる物はまったく無い。申維翰の記述だけを読むと、儀式の後の饗応で一体どんな料理が出されたのかはわからない。ので、一国の国使をもてなす宴としてはちょっと考えにくいものの、「三献の儀」で出されるようなまともに食べられる料理じゃなかったのかもしれないとも思った。が、金仁謙(つか、南玉の)話ではっきりわかった。これは式正料理(本膳料理)(おそらく三汁七菜あたりの豪華なもの)だったんだ。もちろん料理の内容まではわからないけど、幕府がメンツをかけて朝鮮国の国使をもてなす訳だから、本当に食べられないものを出すハズがないのだ。そりゃそうなのだ。まあ、わたくしの脳裏に焼き付いている式正料理といえば室町期の大内さんちのもので、江戸期のものとは多少違っているかもしれないけど、たとえば現代の懐石料理なんかよりももっと盛りつけなども派手だったろうし、初めて見る朝鮮人にとってそれが奇抜に見えたであろうことも想像がつく。その後には少し御殿の記述も出てくる。 楼閣や軒下は丹青(各種の色で描かれた絵や模様)を施さず、 柱、梁、垂木にはことどとく鍍金(めっき)し、屋根瓦は銅で葺いてあるようだ。 殿宇は狭苦しいうえ、回廊も薄暗い。特に贅沢とは思えないが、精巧かつ堅緻(けんち) である。木目の入った材木を使い、つるつるに磨き上げられている。 使臣方が退室される際には四人の執政が従ってきて、玄関の式台で揖して送る。 島主と目付らは式台の下で揖し、二人の館伴、二人の長老は第三門(中之御門)の外まで 来て揖して見送る。使臣方は第四門から輿に乗られ、第六、第七の門では皆それぞれ 馬や駕籠に乗る。行列の威容を整え、館所に戻る頃には雨もあがったので、雨装束を解く。 三絃鼓笛を打ち鳴らし、三重の濠を渡ると、長い多聞と白い築地の塀が続き、朱塗りの高い 門には金の彫刻が施され、銅で飾った家々が左右に連なっている。通詞に尋ねてみると、 執政や太守の屋敷とのことである。黒衣を着た執政らには気品ある者も見受けたが、 紅衣を着た者どもは形ばかりの人形のようであったという。御殿内部の木材についてはケンペルも書いているので、薄い漆だけを塗って木目の美しさを活かした立派な木材はガイジンの目にひときわ印象深く映ったのかもしれない。珍妙な冠の描写からすると参列者の服装はおそらく衣冠または束帯で、『徳川盛世録』によると四位以上が黒、五位が浅緋だそうな。江戸城で粗相でもあれば後が大変なので、黒衣より格下であろう紅衣の者が「形ばかりの人形のようであった」のは当然とも思える。南玉からこれらの報告を聞いた金仁謙は最後に こうして話をすべて聞いてみると、行かずに休んでいたことが真実良かったのだと 嬉しくもあり幸いとも思う。と述べている。翌日、対馬藩主がイベントの成功を祝いに来て、 更に言うには、関白より言葉があったとかで 「朝鮮国の使臣らは礼儀正しく気品も備わりなかなか立派である」 とのこと。聞いていて可笑しい。その2日後の3月1日。 三人の兵房担当と三人の首訳が馬上才を引き連れ関白の御殿に赴き、技を披露して帰る。 関白が大層褒めたということである。さらに3月6日には 射芸が催され、我が一行からも8名を選抜、関白の御殿へ遣わす。島主の采配で行われるが、 各州の太守も集まっていた。「馬上才」は解説によると曲馬を演じる者で、寛永12年(1635)に家光が観たいと朝鮮に交渉して初めて日本で馬上才が演技したそうで、それ以後朝鮮通信使の一行に加えられるようになったそうな。「射芸」はそのまま弓芸のイベントらしく、朝鮮側からは軍官らが参加したが、当日の成績が悪かった金応錫は「病みつくほどに気落ち」して、それに対して金仁謙は「可笑しくもあり哀れでもある」と言っている。これらの記述から、使臣が国書を持って江戸を発つまでに、儀式以外でも城内に通信使の一行が迎えられ、文武の文化交流が行われていたことがわかる。にほんブログ村
2016年05月21日

将軍・綱吉への拝謁の3日後の1692年4月24日、ケンペルら一行はふたたび江戸城へ登城した。前年の訪問の記事で、拝謁した2~3日後にまた登城してオランダ人に対する法規を守ることを約束させられると紹介しましたが、そのシメの儀式のために再登城をした訳です。前年の参府の時にももちろん再登城はあったんだけど、あっさりした記述なので記事の中ではカットしました。毎年繰り返し宗門改めがカピタンの前で読み上げる「法規」は、ケンペルによると 大体次のようなことである。 日本に渡航する中国人や琉球人に妨害を加えては相成らぬこと。 またポルトガル人およびその供の者を連れ込んではならぬこと。 その方どものみ自由に交易し、入港を相許すこと。だそうで、これを再確認して「いわゆる幸福の手紙」がもらえる。幸福の手紙は「お墨付き」のことのようで、あわせて時服が下賜されて江戸での主要な儀式は終わる。たぶん、前年は例年通りこれだけの儀式で終わったから詳細な記述がないんだと思う。が、今回はまたもや第2幕が待っていた。この日は朝7時に宿舎を出たようで、カピタンの儀式が終わると【将軍の台所から出たと思われる食事】に招かれた。各ガイジンの江戸参府記には何を食べたという内容もそれなりに載っていて、特にケンペルの記述は詳細なので、オランダ人へのもてなしにどんな料理が出されたのかできればすべてをご紹介したいところですが、今のところはちょっと無理そうなので、せめてこの時に城内で出されたものを引用して紹介します。で、【どうみても将軍が出すには粗末な朝食】の内容は、 ・5個の温かい甘菓子。それは四角形で白い形をしていたが、にかわのように なかなか噛み切れなかった。 ・小麦粉と砂糖を混ぜて焼いた厚いパンのようなものが2個。周りは二指尺ぐらいあり、 中空になっていて白ゴマがふりかけてあった。 ・陶器の小皿に細く切った塩味の生ザケに醤油のような褐色のソースを少々かけたもの。 そのソースの味はたいして辛くはなく、かえって少し甘みがあった。2つめは和菓子の「松風」みたいなもんかな?あ、でも「中空」って書いてあるな・・・3つめはまあそのまんまの「肴」的なもんだと思うけど、1つめのなかなか噛み切れない白い温かい甘菓子ってなんだろ?「すあま」とか連想してみたんだけど。肉食人種にこれっぽっちの軽食が食べきれないハズもないと思うものの、「もっと食べなさい」と勧められてもそれほど食べなかったらしい。別に不味かったと書いてる訳でもなく、 ・すでに宿舎でも軽く朝食を食べていたこと ・城内の待機所である番所で出されたまんじゅうを食べていたこと ・礼儀上のマナーという理由によるものだと言っている。それから場所を変えて控えの間で待たされたが、待っている間に 奥まった将軍の部屋に運び込まれたのは、疑いもなく銀製の3つの洗面器であった。 その後から黒漆を塗った小さい重ねた膳部の、下の方には2,3枚の皿と小さい盆が 重ねてあるのを、再び運び出してきたので、我々はそこで恐らく将軍が食事をとられた ものと想像した。と書いている。その想像が正しければ、お別れの拝謁の第2幕のイベントは中奥で行われたという可能性が濃厚な気もするけど、しばらく待たされたあとでギャラリーが大勢居並ぶ広間へと入る。 そういうわけで、我々は日本流に床に坐って頭を下げたが、命じられて1人ずつ御簾の前に 進み出て、ヨーロッパの流儀で将軍に対し敬意を表さねばならなかった。それから私は またしても歌をうたえという命令を受けた。そこで私は、私をいつも信頼してくれた 昔馴染みのフロリメーネを讃えて、昨年ここで歌ったのと同じ歌を歌った。(中略) 結びの所を私は作り替えて「その数知れぬ黄金も、いとしきフロリメーネにくらぶれば、 なんの値打ちのあるべきか」と歌った。これについて将軍は説明を求められた。 「私はこの歌の中で、天上の神が将軍とその御一族に、はかり知れぬ幸福と泰平と祝福を もたらしますように、と申したのでございます」とお答えした。 歌い終わってから我々は外套を脱ぎ、部屋の中をぐるぐると歩き回らねばならなかったが、 カピタンも一緒だった。それから親しい友人と思いがけず会った時の挨拶や、友人や父や 恋人との別れの挨拶を演じた。喧嘩口論の末、仲直りして再び別れる仕草もやらされた。よくまあ飽きもせず次々と要求するもんだと感心するけど、言葉が通じないのを幸いに親しい女性への愛を替え歌にするなど、ケンペルもしゃあしゃあとおふざけに興じている。その後はちょっとしたお医者さんごっこが始まる。まず1人の足の悪い坊主を診察したあと、外科担当の奥医師が2名入ってきて質問を受けたりした。すると、また軽食が出された。 ・ゴマを付けた中空の小さいパンのようなもの2個。 ・白い縞のついた精製した砂糖1個。 ・我々の国のハタンキョウによく似た、皮のついたカヤの木の実5個。 ・四角の小さい焼菓子1個。 ・蜂蜜の入ったじょうごの形をした厚く巻いた褐色の菓子2個。これは歯切れが悪かった。 ・豆粉と砂糖で作った赤褐色のもろい四角の薄いせんべい2個。 ・米の粉で作った焼いた黄色の歯切れの悪い餅2個。 ・同様に焼いて小さく切った2個の四角い菓子。中に粘りのある求肥が入っていた。 ・豆から煮て作った褐色の砂糖(餡)入りの饅頭1個。 ・それより小さい、普通の大きさの饅頭2個。ケンペルの記述を基にして、これらの菓子をあの「とらや」さんが再現しています。とらやさんのホームページに写真が載っていますので、興味のある方はどうぞ。(トップ⇒菓子資料室 虎屋文庫⇒歴史上の人物と和菓子⇒ケンペルと将軍綱吉から下された菓子)余談ですが、『歴史上の人物と和菓子』には申維翰の記事もあります(『申維翰と求肥飴』)。ほとんどが甘いお菓子のようだし、まともに食べたら結構お腹いっぱいになりそう。あるいはがっついてペロリと平らげるのはマナーに反すると思ったのか、すべての品を少しずつ食べてあとは残したらしい。ちなみに、前年もこの時も一行が城内で食べ残したものはすべて通詞たちが包んで持ち帰らされている。軽食が終わると、 我々は命じられるままに、外套を着て1人1人御簾の前に進み出て、相応の臣下の礼をとって 別れの挨拶をした。して、最初は若年寄らに、途中からは宗門改めと長崎奉行に導かれて控えの間に退出したが、控えの間の前で長崎奉行は一行に別れの挨拶をした。 彼は同僚と一緒に、我々が将軍から異例の有難いもてなしを受けたことに祝意を述べ、 「長いこと思ってもみませんでしたが、オランダ人がこんなに厚遇されたことは 初めてです」と言った。ということで、この年の参府は前年にも増して大成功を収めたらしい。あくまで医師として参府したケンペルが役者になりきって大奮闘した甲斐があったというものだけど、やっぱり世渡りの上手いコルネリウス・アウトホルン氏も自ら日蘭友好のために頑張ったのかもしれないな。ところで、ケンペルはその日その日の出来事を1日ずつ日記形式で書いていて、個別の記述についてはわたくしが読んだガイジンの参府記の中でケンペルが群を抜いている。その情報量たるや大変なものだけど、惜しむらくは江戸城のトイレに関する記述がないこと。江戸城にももちろんトイレはある。わたくしの持っている御殿図にも、「これがそうかな?」ってのがいくつかある。御殿図にはわざわざ「雪隠」とか描かれてはいないので全部のトイレを把握できてる訳じゃないんだけど、確かにトイレはある。しかも、『江戸城のトイレ 将軍のおまる』(小川恭一/講談社)によると、小さいの用のトイレと大きいの用のトイレに分かれていて、大きい方のトイレが「雪隠」と呼ばれ、小用場(小便所)の奥にあったらしい。カピタンの参府の時は、日本側の衣裳は朝鮮通信使を迎える時ほど堅苦しい儀式用衣裳じゃなかったかもしれない。ただ、重要な儀式の時には大名たちは長い袴を引きずったりして、気軽にトイレに行かれるいでたちでもない。大きい方なんかもよおしたりしたらそりゃ~大変だっただろう。平安貴族のトイレ事情を「叡山攻め(102)」で簡単に書いてますが、江戸期にも尿筒(しとづつ)はまだ健在で、将軍が御所に参内した時に尿筒をもって小用のお世話をするためだけの役職があったらしいし、前掲書では下野黒羽藩主・大関増業の書いた『柳営勤仕令』にこんな文章があると紹介している。 【増上寺御拝礼に際し、着衣は衣冠なので、持参する三品を再確認する。「金剛草履」は 自分の懐中に、小用筒と渋二尺四方(用途不詳)は、留守居、刀番に持たせる。途中から 留守居は控場所に戻し、刀番は宿坊に戻す。】束帯衣冠などの正装でどんだけ着こむか考えれば、フツーに用を足すのはまず無理だと誰もがわかることで、そういう時は着物の脇から尿筒を差し込んで用事を済ませたようだけど、はたして本丸御殿で尿筒を使えたものだろうか・・・ケンペルに話を戻すと、もし自分が長い外国旅行をしてその日記を書くとしたら、やっぱり自分の生まれ育った環境との違いについての記述が中心になるだろう。それが軽蔑であれ面白いという感情であれ、沢山書くことがある中で目新しくもないものまで微に入り細に入り書くことはあまりないだろう。ケンペル一行は、結構長い時間を御殿内で過ごしている。当然トイレにも行きたくなるだろうし、トイレに行かれなくて苦労したなんてわたくしのような記述は見当たらないから、たぶんトイレに行ってるだろう。御殿のトイレだけじゃなく、排泄関係で他にも気になることがあったので食事中にまで糞便の本を読んでこのところ糞尿まみれの日を過ごしているわたくしですが、ケンペルの時代、ヨーロッパの高貴な方々のトイレは奔放だった。 【フュルティエールの伝えるところによると、王妃アンヌ・ドートリッシュの侍従であった ブランカース伯爵はある日王妃の手を放すと壁のタペストリーのところへ行って放尿したと いう。アンリ4世は1606年、ルーヴル宮殿内を汚物で汚すことを禁じ、違反者には 4分の1エキュの罰金を科すことにした。ところが、まさにその日にアグル嬢は王太子が 自分の部屋の壁に向かって用を足しているところを取り押さえた。(中略)また大蔵卿 ショーンベルク殿の甥リュード伯爵は伯父の家へ入ると真直ぐに暖炉の方へ行き、 そこで長々と放尿したので、居合わせた人々は大笑いをしたという。】 (『トイレの文化史』 ロジェ=アンリ・ゲラン/筑摩書房より)しかし、そういう時代に生きたからってさすがに江戸城の好きな所で立ちションはしないだろう。どんなに過ごしやすく配慮してくれたところで、御殿内では必ず監視の目があったハズだから、3人のオランダ人のうち誰かがお行儀の悪いことをしたら大目玉をくらっただろうし、そういう出来事があれば不本意ながらもケンペルが書き残してるんじゃないかと思うのだ。幸い、カピタン一行の服は日本人の儀式服とは違って用を済ませやすい作りだった。ので、きちんとトイレを借りてお行儀よく定められた場所で用事を済ませたのだろう。そして、金ピカの便器だとか特段変わった作りのトイレでもなかったのでケンペルの記述からはもれてしまったのだろう・・・残念です。実に残念です。小川恭一氏によると、江戸城のトイレに関するあれこれはわかっていないことが多く、史料に見られるわずかな記述から推測するしかないようで、鋭い観察眼を持つケンペルがどんなトイレだったか書き残していてくれればと惜しむのはわたくしだけではありますまい・・・(たぶん)。にほんブログ村
2016年05月16日

前回はうっかり間違えて申維翰の登城を先に紹介してしまいましたが、ケンペルは2年続けて江戸へ参府しているので、時系列的にはケンペルの2回目の登城の方が先でした。すみませぬ・・・まあ、1回目の時と似たようなもんですが、ついでなのでケンペルの2回目の登城についても書いておきます。2回目の江戸入りは1692年3月31日(←月日も西暦)。着いたら早速長崎奉行や宗門改めなど幕府要人から歓迎のあいさつを受ける。長崎奉行といっても1人だけではなく、ケンペルの頃には3人の奉行がいて、江戸詰めと在勤とを交代で行っていた。そして登城までの数日間をまた将軍や要人への贈り物の準備に費やす。贈り物自体は長崎から運んできたものだけど、江戸で献上にふさわしいナリに整えるのはすべて江戸の専門家の手によるもので、彼らへの礼金はかなりかかったらしい。この準備は長崎奉行や旅を引率してきた付添検使、通詞などカピタンの参府の責任者たちの立会いの下に行われた。して、4月21日に登城。登城の2日前から強い雨が降り続いていたが、拝謁は雨天中止って訳にはいかない。ので、朝8時頃馬に乗って宿舎を出発。この時も大手から入り、本丸の手前の大番所で待機。雨はまだ降り続いていたらしく、靴や靴下が濡れてしまったので待ってる間に履き替えたと言っている。その横を幕閣たちが通り過ぎていき、御殿の準備が整って呼ばれたのが10:30。拝謁の儀式に臨んだのは前年と同じくカピタン1人で、それが12:30。かなり待たされたよな。そしてまた、ギャラリーにとってお楽しみの第2幕が始まる。カピタンが大広間から戻ってきたあとで長崎奉行の山岡十兵衛に連れられて奥へ進む。 (前略)献上品が並べてあった左手の広間の所を回って、畳2、3枚だけ高くなっている 将軍の座所のある部屋の傍を通り過ぎ、上の方に金張りの縁飾りがついた別の立派な 廊下を通って、拝謁が行われる広間のすぐ近くにある長い次の間に入った。というルートだとケンペルは書いていて、まず最初に通り過ぎたのがカピタンが拝謁した大広間だろうと思うんだけど、入側をぐるっと回り込んでいく場合、どうやっても大広間は右手になる。ので、ケンペルの言う「左手」とは一致しないんだけど、「将軍の座所」はまんず大広間の御上段を指すんだろうと思う。ただ、フツーに考えれば献上品は大広間内に陳列されたんだろうと思うものの、大広間からちょっと外れたところに「御時服置場」というのがあって、これの用途がよくわからないけど時服(将軍家と大名家の間で贈答される季節の衣服)を置く場だったのなら陳列スペースと考えてもよさそうだし、御時服置場に献上品を陳列していたのなら通路から「左手」にあたる。一行が通った廊下に「松が描かれていた」とか「竹の絵があった」とかケンペルが書いていてくれたら、第2のイベントの舞台ももう少し絞りやすいんだけど、少なくとも大広間より奥へ進んでいったとは言えるだろう。で、一旦「長い次の間」に入ったものの、ここまでで相当一行を待たせていることに自覚があったのか、 われわれが坐りきりで長時間待っていて疲れるといけないので、他の廊下にさがらせ、 そこで気楽に時を過ごすことができるようにしてくれ、しまいには近くにある庭が 見えるように戸をあけてくれた。『よみがえる江戸城』(平井聖監修/NHK出版)には本丸御殿をCGで再現したDVDが附属していて、ケンペルらはどこまで御殿内を進んだのだろうかと考えながらあらためてDVDを観たけど、やっぱり黒書院か白書院のどちらかじゃないかと思う。どちらもすぐ近くに庭があるので、ケンペルの記述だけでは判然としないけど、黒書院より白書院の方が広くて大勢のギャラリーを収容するのに都合がいいし、粋なはからいをしてもらった休憩所に見合うような場所もある。総合的に考えると白書院のセンが濃厚なのかな。しばらく待っているとお呼びがかかって、第2イベントの始まり~。今度も取り次ぎ役は側用人の牧野備後で、 彼は将軍の名において、よくぞ来られたと挨拶をし、それから、正座しなさい、 外套を脱ぎなさい、と言い、我々の氏名や年齢を言わせ、立ちなさい、そこらを 歩いてみなさい、向きを変えなさい、舞ってみなさい、、などと命令し、特に私には 歌え、と言った。我々は互いにお辞儀をしたり、叱り合ったり、怒ったり、客に何かを 勧めたり、いろいろの会話をやらされた。それから我々2人を親友とか、親子とかいう ことにし、互いに別れを惜しんだり、訪ねてきたり、互いに出会う2人の友人の仕草を したりした。また、1人の男が妻と別れる場面を演じたり、子供を甘やかしたり、 腕に抱いたりする真似をした。ケンペル1回目の参府は第59代カピタンのフォン・ビューテンヘム氏に従ったが、その次の第60代カピタンのコルネリウス・アウトホルン氏は「真面目で敏感な性格」のフォン・ビューテンヘム氏とは対象的な性格だったらしく、 2度目の参府の時はバタビア総督の弟のコルネリウス・アウトホルン氏に従ったが、 彼は博識で世故にたけ数ヵ国語に通じており、その生来の愛想の良さによって、 疑念を抱いている日本人にうまく取り入っていたので、それによって会社の利益を 非常にあげた。と評しているので、あるいはオランダ東インド会社座による一連の演目にはカピタン自らが参加していた可能性もありそうだけど、次から次へと出される「お題」がギャラリーの関心の高さを物語っている。皆さんが国の代表として言葉の通じない辺境の外国に行って、異性の役をやらされたり子供の役をやらされたり、歌えだの踊れだのガイジンから命令されたらどう感じます?楽しんで与えられた役にいそしむ人はそういないんじゃないかと思うので、ケンペルたちもよく辛抱したな~と感心するものの、ケンペルは前年の参府で免疫ができていたかもしれないちなみに、アウトホルン氏もこの時が2度目の参府になる。して、小芝居のほか、質疑応答も行われた。「その方はどんな職業についているのか?その方はこれまでに重病を治したことがあるか?」「捕虜と同じような状態にある長崎では治したことはありませんが、日本以外の所ではあります」「家はどんなか?習慣は違っているのか?」「はい」「その方どもの所では葬儀はどのように致すのか?」「遺体を墓場へ運んでいく日で、それ以外の日には葬儀は行いません」「その方どもの皇子(国王か?)の地位はいかなるものか?バタビアにいる総督は皇子より身分が低く、その下に立っているのか、それとも彼1人で国を治めているのか?」「その方どもはポルトガル人が持っていたような聖像を持ってはいないのか?」「持っておりません」「オランダやヨーロッパの他の国々にも雷が鳴ったり、地震で揺れたりするのか?落雷が家を焼き、人々を殺すことがあるのか?」ケンペルは一問一答形式で書いてはいないので、ケンペルがどのように答えたのかわからない部分もあるけど、多岐にわたる内容の質問を受けたらしい。それからケンペルに沢山の膏薬の名を挙げさせ、またダンスをさせた。カピタンは家族構成なども聞かれた。堅苦しい儀式の第1幕とは違って、第2幕では綱吉の興味のおもむくままに質問タイムや小芝居タイムが交互に繰り広げられ、 我々は帽子を脱ぎ、鬘(かつら)をとったり、また言葉を交わしながら、 15分ばかりあちこち歩き回らねばならなかった。記録というのは実に重要なもので、ここからケンペルがヅラを使っていたことがわかる訳ですが、もちろん現代のような薄毛の人用のヅラではなく、バッハやモーツァルトの肖像画に見られるオサレなヅラの方です。しかも、御殿内でもヅラの上に帽子をかぶってたってことだよな。ま、オサレなヅラとは言っても、くるくる巻き毛の下の自毛は短くするか剃っていたそうなので、当時の衣裳にツルッパゲや坊主刈りを組み合わせたのを想像すると笑いが込み上げてくる。ケンペルの肖像画は残っていないのか、ウィキペディアには想像図だけが載っていて想像図ではなかなかの悪人ヅラをしている。ツュンベリーの方は『江戸参府随行記』に肖像画も載っており、それによるとモーツァルトタイプのヅラをかぶっている。この回の第2幕の様子はケンペルが絵に描いて残していて、オランダ人の面々はみなもしゃもしゃのルイ14世タイプのヅラをかぶっているように見える。ただし、髪の長さは肩ぐらいまでだけど。ケンペルによると、御台ちゃまもこの場で見物していたらしい。役職にもよるけど、大奥の女性たちは好き勝手な外出はできなかった。その代わりに各種イベントが1年を通じて行われており、四季の花々や自然を楽しむための屋外でのイベントもあった。が、吹上の庭など大奥以外の屋外でイベントが行われる場合は幔幕を張り、出入口をきっちり管理して男性役人との接触を避けていたぐらいなので、御台ちゃまが表向に来るということが最初は信じられなかったし、ゆえにケンペルの初めての登城のところでも書いたように、儀式の後の第2幕は大奥で行われたんじゃないかとも一時は考えた。もちろん、御台ちゃまは御簾の奥にいた訳だけど、ケンペルは何度も御台ちゃまの方を見ていたらしく、「美しい将軍の御台所」と書いている。が、御簾ごしにそんなに見えるもんだろうか・・・さて、イベントが段々盛り上がってくると、遠巻きに見てるだけじゃ物足りなくなったのか、 それで私は御簾の所からもう少し近くに行かされ、鬘をもう一度とり、飛んだり跳ねたり、 一緒にダンスしたり、歩き回ったりした。(中略)さらに、我々は夫が妻に対して どういう風にするのかを、わかりやすくやってみせねばならなかったが、その際 不意に接吻してみせたので、婦人たちの所で少なからず笑いが起った。それから、 我々はまたしても飛び回ったり、最後には身分の低い人が高い人に対する、また王に対する ヨーロッパ人の敬意の表し方をやって見せねばならなかった。私は歌をうたうことを 求められ、いろいろの歌のうちから二つを歌い終わると、みなからそれ相応の喝采を受けた。 それから我々は外套を脱ぎ、次々と将軍に近づいて、ヨーロッパの王の前でするように、 てきぱきと別れの挨拶をした。そうすると、みなの顔に楽しげな満足な様子が浮かんだので、 我々はそれを見届けてから、退出の許可を得た。第2幕の上演時間は3時間半。退出できた時はもう16時だった。前年と違って、御殿で軽食を出されたとは書いてないので昼飯ヌキだよな。城を出てそのまま牧野備後の屋敷に行くと、「大層結構なもてなし」を受けたそうな。おそらく、役者たちが張り切ってキスのサービスまでしてギャラリーの要請に応えたので、見終えた満足感を反映した接待だったのだろう。もちろん、牧野備後が個人的に満足したところで興業の成功とはいえない。綱吉の上機嫌を見て、それにふさわしい接待を備後守が用意したのだと思われる。にほんブログ村
2016年05月13日

申維翰が江戸城へ正式登城したのが享保4年(1719)10月1日。江戸城へ向かう朝鮮の面々は正装に身を包み、国書を奉じて宿舎を出発した。朝鮮通信使の一行は、カピタンの江戸参府とはずいぶん趣きを異にしており、音曲を奏でる楽士も随行していた。登城の際にもそれら楽人の奏でる弦楽をまといながら、ゆるゆると一行は進む。ウィキペディアによると 【通信使の江戸城への入城については、幕府は江戸城裏門からの入城しか許さなかったと 言う説と、大手門から入城できたという説がある】ということなんだけど、申維翰の記述を簡単にまとめると 第一城門を入ると錦繍の衣を着た男女が多数見物しており、 第二城門を入るとまるで宮殿のような執政・太守・諸貴人の屋敷が連なり、 第三城門を入るとそこが宮城で、軍官以下は下馬し剣を外して歩いて入る。 その奥の門では堂上訳官が輿から下りて歩き、その奥の門では使臣が輿を下りた。 対馬太守などが迎えに出て、それに従って奥の門を入ると首訳は国書を両手に捧げて入る。 門内には丁字形の一高閣があり、板梯を登ると上に閣道が通じ、これを玄関という。となっていて、確かにどこから入ったのか判然としない。大手以外から入ったとしても、身分に応じて途中で下馬・下乗するのは当然のことだし。もう1人、金仁謙の書いた『日東壮遊歌』(平凡社)を読んだと前回書きましたが、じゃあ金さんはどう書いてるかとゆーと、この方は登城していない。高官というほどの役どころではなかったにせよ、身分が低くて登城できなかった訳じゃない。どころか、三使臣がせっかくだから一緒に行こうよ~と再三勧めたにも関わらず、 国書を奉じて行かれる使臣方は致し方なく行かれもしましょうが、 一介の文士である私としては、行事を見るために行き 犬の陰茎のような倭人に拝礼するのは苦痛です。 どうあっても行けません。とガンとして固辞しやがった。「こんの、ボケがあぁぁぁ~~~!!江戸に行って江戸城を見ずして何とする!海を渡ってはるばる江戸までなにしに来たんじゃ!!」とゲシゲシ蹴りを入れてやりたいところですが、わたくしがバカバカしいと思うのは、金仁謙は気取って登城しなかったにも関わらず、登城した同僚から詳しく城内の様子を聞いて、しかもそれを細かく書き留めていることで、同僚の言によると 55の正門、4つの橋、城門3つを次々と通過し、関白(将軍)の宮殿(江戸城)に 到着。第一の門がある橋の上に下馬の札があり、上官らは馬から下りる。旗指物・軍楽も ここで留まり、煙管を持つことも禁じられる。第二・第三の門で駕籠の者も下り、 第四・第五の門で使臣方も輿を下りられる。出迎えに従い中に入ると、通路には薄縁が 敷かれ、第六・第七の門より先は畳敷きの廊下である。だそうで、やっぱり詳しいルートはわからない。ただ、日本側では通信使一行にかなり気を遣っており、国書を奉じた正式な国使な訳だから、素直に考えれば大手門から入ったんだろうと思う。 申維翰に話を戻すと、迎える日本側も烏帽子をかぶっての正装で、まずは控えの間に入ったらしい。その後、大目付がやって来て儀式の開始を告げ、首訳が国書を奉じて進み、三使臣が次に従う。 一つの正庁にいたって卓上に国書を安置した。これすなわち関白の坐殿である。日本へ来るガイジンはそれなりに日本の政治形態も把握している。ツュンベリーなどは天皇を宗教上の皇帝といい、将軍を世俗的皇帝と言ったりもする。申維翰も朝廷と幕府の二重体制を知った上で、江戸城を「宮城」といい、御殿に入ることを「入内」などと表現している。まあこれは朝鮮の社会構造や文化の質から単にこういう表現になってるだけかもしれないけど、日本人からするとちょっと紛らわしい部分もあるので、いちおう申し添えておきます。で、御殿に入って場所を移動しているので、玄関付近の待合室から御殿内で最も格の高い大広間へ移動したってことだと思うけど、ケンペルの時と違うのは、三使臣以外の申維翰らの随行者も一緒に大広間へ移動していること。すでに大広間には幕府高官や大名たちがそろっており、大広間に入ると使臣は東に座り、世話役である対馬藩主はその向かいに座った。それから首訳が国書を対馬藩主に渡し、対馬藩主から老中へ渡し、老中から将軍・吉宗へ渡される。申維翰の回は吉宗の就任祝いのための来日であり、国書だけでなく贈り物も持参してきていた。御殿内に置ける贈り物は(おそらく)廊下へ陳列された。贈り物の一つである鞍付きの馬は中には入れられないので、庭先に立たせて披露された。朝鮮側から日本側へ渡された中で最も大事なものは当然朝鮮王からの国書で、これを吉宗に献じると儀式の最も重要な場面が終わる。ので、国書を献じたあとはさしあたって三使臣も首訳もすることがなかったと廊下の辺りから遠巻きに見ていた申維翰は書いているが、もちろんこれだけで終わるわけではなく、 使臣が入り、関白を拝して出た。ふたたび入り、酒礼を行って出た。これより諸上官が 順次に入る。「入る」といっても別に仕切られていた訳ではないだろうから、吉宗の着座する大広間御上段に近づいて拝礼を行ったということだろう。諸上官以下の随行員はその身分に従って、遠い場所からそれぞれ将軍を拝する。申維翰も「はしらの外」から拝したというから、入側から拝礼したってことかな。 余は拝礼のとき関白を望見したが、頭には一角烏帽を戴き、身には淡い青袍を着、 座ぶとんを重ねた上に坐っていた。床、椅などの諸物はない。余と相去ること 三、四間をへだたるにすぎないが、その坐所が奥深く、左右には珠簾や彩帷を設けて いるうえに、殿内の見通しがよくないため、そのひととなりを詳見することは できなかった。しかし、およそのところ、精悍にして痩勁、坐貌は秀でて高く、 顔色は白いがやや黄味があり、豊碩(豊かな顔つき)には欠けているようだ。吉宗といえば武芸を奨励し、自身も狩りを好んだともいうからがっしりした体格なのかな~というイメージだけど、申維翰から見た吉宗は比較的やせ形だったらしい。で、「一角烏帽」と「淡い青袍」ですが、 また聞けば、関白が戴くところの烏帽はすなわち執政の着帽と等しく、またその 淡色の青袍はすなわち木綿衣という。倭冠はほんらい君臣の別ないものであり、 平素においては倹を尚びこのんで木綿衣を服するが、しかし、正庁に坐して隣国の使臣を 引接する聘礼の盛事にいたるまで、どうして等しくするのだろうか。しかもまた 粗末な服や冠を用いてみずから賓にその栄意をなす者、その人が詭異を好んで行いながら、 もって俗をただしうるのだろうか。だそうな。申維翰にしろ金仁謙にしろ、儒教の国だけに朝鮮人は「礼」にはうるさく、前回の最後でも書いたように、朝鮮通信使の来日時には礼にからむトラブルが少なくない。読んでる方としてもウザいと思ってしまうんだけど、ことこれに関しては(申維翰が聞いた話が正しいのだとしたら)申維翰の言の方が正しいと思う。何も国使を迎える儀礼の席でまで木綿の袍なんか着ることはなかろうに。最も重要な儀式が終わると、老中から宴のお誘いがある。将軍はこれに列席せず、御三家が将軍に代わって一行をもてなした。ただ、尾張継友は病のために欠席。申維翰も宴に参加し、紀伊と水戸の藩主を見ているが (紀伊)宗直は年わずかに弱冠、(水戸)宗堯は年わずかに十四、五、 みな乳臭い児である。と言っているので2人とも相当若かったらしい。ま、この2人だけで通信使をもてなした訳でもなく、幕閣もいるので問題はない。 斑衣に袴を曳く者数十百人、一時に饌をすすめる。饌品は前と同じである。ただ高く 盛りあげた果物をならべ、金銀彩花が燦々として林を成すが、食うにたるものはない。 干しあわびを糸の如く細く切り、それを膠で貼り合わせ、高く円く盛り合わせて 唐帽状にしたのがある。見たところ驚き笑わざるをえない。 使臣は、酒を酌むこと三盃して、起ちあがる。執政四人が行閣の内まで揖して送り、 館伴と両長老は轎に乗る処まで揖して送る。諸官もつぎつぎと、あるいは轎に乗り、 あるいは馬に乗って出る。そして再び軍儀、鼓吹を列べて帰る。日暮に館に着いた。申維翰も金仁謙も何度も「食うに足るものはない」という言い方をしているので、単に日本食が朝鮮人の口に合わなかったのか、バカにして食べる気も起こらなかったのか、それとも本当に見かけばかりで食べられるようなものがなかったのかは不明。ただ、これは幕府主催の正式な饗応の場であり、細く切った干しアワビをうず高く積んだようなものが出ていたのなら、少なくともこの宴においては「三献の儀」のような儀式料理が並んでいて、ホントにまともに食べられる料理はなかったのかもしれない。その後で対馬藩主と「両長老」・・・まあ、この人たちは全行程における責任者みたいなもんで、その人たちが宿舎にやってきて、一連の儀式が無事に終わったことを祝ったという。11日になって、吉宗からの回書が届けられた。これをもって朝鮮通信使は帰国の途につく。琉球からの使節については勉強不足で把握しておりませぬが、まあ大体似たような感じでしょう。一国の正式な使者だから、ケンペルのようにあれこれやらされることはない。面白味がないっちゃ~ないんだけど、朝鮮通信使はしょっちゅう来るものではなかったので沿道でも沢山の民衆が見物した。江戸城内でもやはり見物の衆がおったらしく、 宮中宴享のとき、左右の庁壁に垂簾があり、観ると、その隙間から窺う者は必ずこれ 関白の宮女(大奥の女性たち)である。聞くと、関白もまたその中にあるという。つまり、オランダ人のようにしいて何かをさせるということはなかったけど、御簾の中から将軍と奥の女性たちが見物していたのは同じで、礼節を重んじる申維翰が当然これを快く思うハズもなく、 規模かくの如く、人を用いることかくの如く、儀度またかくの如くである。と述べている。にほんブログ村
2016年05月08日

17世紀を生きたオランダ人で、モンタヌスという牧師がいる。モンタヌスは1689年に『日本誌』という本を出した。その名の通り、日本に関することをまとめた本らしいが、モンタヌス自身は日本の地を踏んだことはなかったらしい。いや、日本どころがアジアにすら来たことがなかったそうなんだけど、宣教師や来日したオランダ人などから話を聞き、それを基にたくましい想像力で日本についてのあれこれを書いたんだそうな。その中には将軍家へ贈り物を献上するシーンを描いた絵もある。なにせ、アジアにすら来たことがない人が描いたものだから、何の解説も予備知識もなしにこの絵を見せられたら、ほとんどの人が日本を描いた絵だとは思わないであろう不思議な絵になっている。わたくしだったら「バタビアどすか?」って言うだろうな。建物とかのハードについては中国っぽいと言えなくもないけど、描かれた多くの人達の頭はたぶんちょんまげを描いたと思われるものの、おでこにも髪があるので、トンスラにしか見えない。着ている服もゆったりした修道服のような感じなので、頭もトンスラだし、アジアにやって来たキリスト教修道士たちがわらわらいるようにしか見えないのだ。ケンペルはこのモンタヌスの絵を目にしていたらしく、江戸城および拝謁の儀式はモンタヌス風なイメージを持っていたのが実物を目にして「全っ然違うじゃん、モンタヌスぅ~!!」と思ったものの、それでもすべてが美しく、大変貴重なものだと書いている。御殿内部についての記述はそれほど多くはない。 将軍の御殿は平屋建てであるが、かなり高い建物で、周囲は大変広々としている。 たくさんの利用されない廊下や、開けたり閉めたりして、大きくも小さくもできる 部屋がある。廊下(の戸)を開け放つと、狭い中間の場所を通して、中にある部屋は かなり明るくなる。これらの部屋のうち最も重要なものには、一つ一つ名前が付いて いる。(中略) これらはすべて建築術の非常に厳密な規律に従い、日本的な好みで造られている。 天井・梁および柱は、杉やクスノキや江尻材で、これには自然に花やその他の模様が 付いていて、それゆえ、ただ薄く漆をかけただけの部屋が多い。ほかの所では 漆を濃く塗ったり、あるいは鳥や木の葉を精巧に刻んで金を塗ったりしている。 引戸や襖や壁にはきれいな絵が描かれ、まだらに金箔が施され、床にはへりの所に 金色の布で縁どりした、清潔で美しい畳がきちんと敷いてある。御殿に入って最初にケンペルらが待たされた部屋は 金張りの柱や壁や襖でみごとに飾り立てられ、また襖を閉めた時には、それに続く 右手の家具部屋の、かなり高い所にある欄間を通してほんのわずか光がさすだけで、 大変暗かった。といい、第2幕のイベントが行われる部屋までの廊下には美術的な彫刻と綺麗に金箔が張られていたと書いている。ケンペルの時にはもう天守はなかったので、天守に関する記述は当然ない。それから、ケンペルが直接見たものではないけど、聞いた話として面白い事が書かれている。 殿中にはなお地下室があり、その上部の天井は水を入れた平らな広い水盤からできていて、 将軍は雷が鳴る時には安全のためにその地下室へ行く。なぜなら、その場合には稲光が 水の中で消されるかもしれないからだという。まあ地下室はね、武家屋敷・町方を問わず造られたっていうから江戸城にもあって何の不思議もないんだけど、天井に水を張った地下室に避雷に行くってホントかよ真偽のほどはわからないし、ケンペルが誰からこの話を聞いたかわからないけど、日本人が教えたんだとしたら、よく城内のヒミツを教えてくれたもんだよな~。さて、前回のような一連の出し物が終わった後、オランダ人1人1人に日本食の小さな膳が出された。これはあまり食べなかったらしいが、食べる様子ももちろんギャラリーからじっくり観察されていたのだろう。フォークとナイフは出されなかったので、箸で食べるしかなかったんだけど、ケンペルらはうまく箸を使えたのだろうか・・・それが終わると、外套を着てようやくお役御免となる。幕府高官が登城する前に城内で待機していたんだから相当早く宿舎を出たハズだけど、御殿でのイベントが終わったのは午後の3時をまわっていた。が、まだ宿舎には戻れない。この後、老中や若年寄などの重臣たちに挨拶回りをせねばならんのだ。で、29年飛びまして朝鮮通信使に随行した申維翰(しんいかん/シンユハン)。申維翰もケンペルもツュンベリーも、そこそこ日本の歴史について触れている。まあ、申維翰はお隣の国の人だから、国許で日本の歴史について学んだものだろうけど、当時の朝鮮人儒者がどのように日本の歴史を解釈していたのか、本人の言から一部引用して紹介しましょう。 関白(将軍のこと;ジジイ註)の先系は、天皇から出ている。唐の867年に、 皇子貞純は源氏の賜姓を受けた。源氏の摂政は貞純から始まるが、源頼朝にいたって、 ますます大となる。かれはよく天皇を斥逐して専横をほしいままにし、大将軍の 位に居りながら一国の威福を得るようになった。その由来するところ、すでに久しい のである。(中略) 万暦年間(1586年)に、平賊秀吉が奴隷から身を起こして源(織田)信長に代わり、 王となった。世伝では、秀吉は中華人で、日本に流入したという。そのひととなりは、 木こりをする下僕である。信長が関白となったとき、その容貌の奇なるを見て 宮中に引き入れ、近きにはべらせて寵愛し、事に用いた。よって秀吉は、信長を弑し、 みずから立って関白とかいう博陸候(関白の唐名)となり、諸酋を虐滅して 州島を統合した。 このとき源家康だけは、城に拠って服しなかった。家康はすなわち、いにしえの関白 源義定の11代目の世孫にして、関東に拠り、八州の衆を撫有した。(中略)家康は 秀頼を立て、久しからずしてこれを撃断した。ついに平(豊臣)氏一族を誅し、 源家の旧物をことごとく復した。けだしまた人傑である。 子孫を伝えて家光、家綱、家宣、家継にいたる、家継は、夭折して嗣子がない。吉宗は、 家宣の女婿であり、はじめ紀伊州の太守となってその統を承け、宗室の至親となる。 国俗として、婚娶に、従父兄弟を択ばないゆえである。ツッコミどころ満載の歴史解釈ですが、時の将軍は8代・吉宗。一行が江戸に着いたのは享保4年(1719)9月27日。実は「(29)」を書いたあとでもうひとつ、朝鮮通信使に随行した文士の旅行記を読んだのですが(金仁謙/『日東壮遊歌』)、朝鮮人は出島に滞在するオランダ商館員よりももっと日本慣れしていないので、読む側としてもある意味新鮮な内容となってます。まあその、「(29)」で申維翰が尊大だと書いたけど、申維翰も金仁謙も朝鮮人で儒家。金仁謙は日本人のことを何度も「犬のような倭人」と書いていて(原文では「犬」と「のような」の間に「の陰茎」という言葉が入るらしい)、相手が日本となるとしゃにむに勝ちに来る現代のスポーツの日韓戦を思い出して頂ければこの2人がどういう論調で旅行記を書いているのかイメージしやすいと思いますが、それでも日本の良さを認めざるを得ないような記述もある。本人としては、劣っているはずの日本の良さなど認めたくはなかったでしょうが、それでも認める文章を書いてるということはよっぽどだったのだろうと思う。で、面白いのは江戸に近づくほどその繁栄ぶりに驚いていることで、途中で通過する大都市・京や大坂、名古屋などの繁栄にも驚嘆しているんだけど、最終目的地の江戸はそれらの大都市をもしのぐほどだと言っていて、申維翰は江戸は京・大坂の3倍賑わっていると書いている。初期の朝鮮通信使の江戸での宿所は馬喰町の本誓寺だったが、それが焼失したため申維翰の頃の宿所は浅草の東本願寺となっていた。何度も書いているように、朝鮮通信使は国の正式な使者。ゆえに国書を奉じて江戸までやって来ており、宿所ではまず大事な国書を「正庁」に南向きに安置した。翌28日には日本側の接待役の主宰で宴が催される。やや遅れて老中もやって来た。そして、今後のスケジュールが言い渡され、夜遅くなって登城時の式次第とゆーか留意点のようなものが日本側でようやくまとめられたものの、翌朝に届けられたそれは日本語で書かれた上におそらく崩し字であったために解読できず、日本語を漢文に翻訳する係で対馬からずっと同行してきた雨森東(雨森誠清/芳州)が病で伏せっているので漢文に翻訳できる者がいないという。朝鮮通信使は正使・副使・従事官の3名を「三使臣」といって、これが一行のトップ。申維翰は三使臣ではなく、「製述官」という役どころで、一般には「書記官」という風に説明されるが、本人に言わせると 近ごろ倭人の文字の癖はますます盛艶となり、学士大人と呼びながら群をなして慕い、 詩を乞い文を求める者は街に満ち門を塞ぐのである。だから、彼らの言語に応接し、 我が国の文華を宣揚するのが、必ず製述官の責任とされるのである。というお役目でもあるらしい。通訳は他にいるので、レベルの低い倭人に漢文の書や詩文を与えてやる職務のうちでもっとも高い地位にあるといったところだろうけど、吉宗の時代に入って典礼儀式なども改訂があったらしく、従って登城における注意点や一連の流れがわからないまま儀式に臨む訳にはいかないと朝鮮側でゴネる事態となったが、申維翰らが出動してどうにか翻訳し、予定通り儀式に臨むところにまでこぎつけた。朝鮮通信使は新将軍の就任時などの節目に来日し、タテマエは両国の融和・親睦を深めるというものだったが、朝鮮人はとにかく上から目線で日本人をさげすんでいるし、日本側では通信使を「朝貢使」ばりに将軍権威の高揚に利用するという面もあったらしい。つまりはお互いに内心では「日本に行ってやる」「日本に来させる」というような意識もあったようで、そこに国家の威信やプライド、儒学的差別意識などの色々な要素が絡んで時には外交摩擦へも発展し、江戸への道中でも「態度が無礼だ」「礼にかなってない」と言って文書や贈り物をつき返すなど大小さまざまなトラブルがあった。で、申維翰の回では登城の直前までそういうトラブルが起こっていたらしい。まあ、朝鮮側にしてみれば、どうやって儀式を進めればいいかもわからないなんて困ったどころの話じゃないだろうとは思うものの、そこまでの旅程でいちいち細かいことに難癖を付けたり、日本を小馬鹿にする記述が続いているので個人的にはあまり同情する気持ちが起こらなかったというのがホンネ。にほんブログ村
2016年05月04日
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