戦国ジジイ・りりのブログ

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2016年07月31日
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カテゴリ: 城(東北・関東)
レフィスゾーン:
  会社は最初、1602年にジャワ島のバンタンに商館を建設した。
  1620年にはバンタン商館をバタビアに移し、各地に広がっていった商館を統括した。
  バタビア大商館といい、アジア各地のオランダ商館の本店であり、
  のちの長崎商館はその支店にあたる。
  長崎の商館はコンツワール・ナカサキ Comptoir Nangasackij という。


りり:
  ナカサキ?「ナガサキ」と濁らないんだ・・・
  私はオランダ語は話せないけど、オランダ語って鼻から息が抜けたドイツ語みたいな
  印象があるんだよな。


ツュンベリー:
  17世紀のオランダ人は、自分たちの住んでいる地域を「ドイツの一部」といい、
  言語を「ドイツ語」と表現していたから、お前の印象もあながち外れてるとは
  言えないかもな。


ズーフ:
  実際の貿易を行うアジアの各商館を束ねるのがバタビアだが、
  会社としては本社を持たなかった。
  そもそも会社の正式名称は「総(または連合)オランダ特許東インド会社」で、
  本国では略して「連合東インド会社」と呼び、頭文字からなる「VOC」の略語が
  用いられた。

  前回話したように、各地の先駆会社を包括的に合併したから「連合」な訳だが、
  形式上は旧各社は同格で、定款では取締役の数は60人と決められたが、
  旧各社の取締役がそのままVOCの取締役にスライドしたので、最初は73人もいた。
  その中から17人の重役を選びだして構成された最高機関を「十七人重役会」といい、
  これは本国にあって輸出額の決定や各商館の管理などの会社の重要事項を司る。


申維翰:
  重役会からの指令が東アジアへ届くのにも相当の時間がかかるだろう。
  なんとも壮大な話だな。


り:それに、最初はスペインやポルトガルの支配領域に割り込んで追い落としながら
  会社の拠点を増やしていく訳ですからね。

ケンペル:
  まあ、商館の中には軍隊を駐留させて要塞を築いているところもあったがな。
  とある東インド総督で、
  「戦争なくして貿易はなし得ず、貿易なくしては戦争はなし得ず」と言った者も
  いたそうだ。
  会社の特許の中に軍隊を置くことが認められていたというのは、そういう実態や
  必要に応じて現地国との武力衝突もやむなしと考えられていたからだろう。
  現に、私が来日する数年前の時点の会社の駐在員の職種の中では軍人が圧倒的に多かった。


り:ふ~ん。
  ヨーロッパ人の海外進出というと、まずコルテスやピサロなどのように
  軍事力で制圧したようなイメージがあるけど、英蘭の東アジア進出は、
  最初は必ずしもそういう訳でもなかったみたいですね。


レ:それはそうだよ。スペイン人なんかと一緒にしないでほしいな。
  まあ、現地の状況によっては侵略行為もあったけど、つとめて地域の権威者と
  有利な条件のもとで商館を設ける権利を得て拠点を増やしてるんだから。
  日本の商館では我々は幕府や高官たちに多大な贈物をしてきたけど、
  ペルシアやインドや他の国でも同じように献上品を贈ったりしてるんだよ。

り:ふむ、手を変え品を変え東アジアの支配にいそしんだ訳ですね。
  「植民地」の性質が変わるのは、やっぱ1757年のプラッシーの戦い以降なんだろうな。
  時代が下ってヨーロッパでの動乱の余波がアジアにまで及んでくると、
  増える一方の軍事費が会社の経営を圧迫するようになるんだな。


レ:幸い、日本では武力を行使する必要はなかったけどね。

り:なんで日本は植民地にならなかったのかな~。
  一つの説として、日本は資源が少なくて利用価値がなかったからだというのが
  あるっていうんだけど・・・


ツ:それは我々がスペインやポルトガルの魔の手から日本を守ったからじゃないか!


り:でもオランダだってチャンスがあれば攻略してたかもしれないでしょ?
  まあ私が思うに、タイミングが良かったってのはありますよね~。
  スペイン人やポルトガル人が入ってきた頃は戦国の直後だったし、
  オランダ人が割り込んできた時は江戸幕府が開かれていたといっても
  まだ戦国の気風をバリバリに残してた頃だったからな~。


ズ:どうも言葉のはしばしにトゲがあるような気がするんだが・・・

ケ:いちいち気にしてたら身が持たないぞ。

金仁謙:コイツの性格の悪さは救いようがないんだ!!


り:(無視)え~っと、それじゃリーフデ号。
  前回の流れのところでも書きましたが、リーフデ号は1598年6月24日、
  先駆会社が派遣した5隻の艦隊のうちの1隻ですね。


レ:そう、「リーフデ」はオランダ語で「愛」を意味する言葉なんだ。
  はじめこの船はオランダの誇るエラスムスの名を冠した「エラスムス」号だったが、
  のち「リーフデ」号に変えられたらしい。


り:ふむ、人文主義者として有名なエラスムス先生ですね。
  だから船尾にエラスムス先生がくっついてたんだろうな。


ズ:くっついて・・・?
  どういう意味だ?


り:ほらこれ。

C0098429[1]
   (画像提供: 東京国立博物館

ケ:これは・・・?

り:リーフデ号のおしりにくっついてたエラスムス先生の像ですって。

ツ:うっそ!マジで!?

り:この画像はレプリカの像ですけどね。
  本物もちゃんと残っていて、下野の龍江院というお寺が所有していて、
  寛永寺があった場所にできた博物館に寄託されてます。
  こんなのがあったなんて全然知らなかったから私も驚いて、ソッコー
  仕事の帰りにトーハクに寄ってエラスムス先生に会いにいこうかと思ったんですが、
  実物が展示されてるかもわからないし、とりあえずこの画像で我慢することにしました。


ケ:下野というと、江戸より北か?
  なんでまた、そんなところに?


り:え~と、「佐野市仏教会」様のサイトによると、旗本の牧野成里さんという人が
  ウイリアム・アダムスから砲術を教わって、その縁でエラスムス先生をもらったらしいです。
  んで、牧野氏の菩提寺の龍江院に所有者が移ったみたいですね。


ズ:これは感動的だな・・・
  日本人のもの持ちの良さは我々もあちこちで見てきたから、
  この像もさぞかし大事にされてきたのだろう。


り:いやそれがね、色々見てみたら、笑っちゃう歴史があったようなんですよ。
  龍江院の方ではいつの頃からか来歴もわからなくなっていたようで、
  エラスムス先生はなんと古代中国の伝説上の船の発明者である貨狄(かてき)だろうと
  考えられて、「貨狄尊者」(かてきそんじゃ)とか「貨狄さま」と
  長いこと呼ばれてきたらしいです。

申:この風貌をなぜ貨狄としたのか理解に苦しむ・・・
  倭人の発想は実に奇怪だ。


り:でも正体不明の像を船にゆかりのある貨狄になぞらえたということは、
  「船にあった像らしい」という伝承だけは残っていたのかもしれないですよね。
  ただ、貨狄だとしながらも像の風貌がイマイチなんで、江戸期の地元では
  「小豆洗い婆」とか「小豆研ぎ婆」と呼ばれて、夜になるとムジナに化けて
  不気味な歌を歌いながら町を徘徊すると思われてたらしくてね。
  その話を読んだ時、も~うゲラゲラ大爆笑しましたよ


ツ:ちっともおかしくないんだけど

レ:私なんかもう涙が出そうなんだけど。
  なんで婆?
  なんで小豆なのさ?


ズ:それで、不名誉なあずきババアの称号を脱出できたのはどうしてなんだ?

り:それが20世紀の大正時代に入ってから、バチカンで行われた世界宗教博覧会に
  「在日本キリスト教聖人像」として出品されたことで学者たちの注目を集め、
  詳しく調査した結果、リーフデ号に乗っておられたエラスムス先生の像だということが
  わかったらしいです。
  右手に持った巻物に文字が彫ってあって、欠損している文字もあるものの、
  「エラスムス」と「ロッテルダム 1598」とは読めるみたいでね。
  ま、江戸期には子供のいい遊び相手だったらしんですけど、
  今は国の重要文化財として大切にされてますから安心してくださいな。

レ:子供の遊び相手・・・
  しくしくしく・・・


り:像には鉄砲の跡があって、腹部には穴が開いてるらしいんですけど、
  途中で攻撃でもされたのかな?


ケ:ロッテルダムを出港した5隻の船団は、大西洋を横断するコースを取った。
  そのうち、トラウ号とフライデ・ボートスハップ号はそれぞれポルトガルとスペインに
  拿捕されている。
  その他、食料補給のために途中で寄港した際にインディオに襲撃されたともいうから、
  そういう中で銃撃を受けたこともあったのかもしれない。
  もっとも、インディオは銃は使わないだろうがな。


り:ふ~ん、それで2隻脱落。残り3隻は?

ケ:ヘローフ号は1隻だけはぐれてしまったので航海の継続を断念して帰国した。
  残った2隻のうち、ホープ号は沈没した。
  最後まで残ったのがリーフデ号だ。
  英国人ウィリアム・アダムスははじめホープ号に乗っていたが、
  沈没する以前に弟トマスとともにリーフデ号に配置転換されていたので、命拾いをした。

り:アダムスの弟も一緒だったんだ~。
  じゃあ、兄弟そろって日本の土を踏めたわけか・・・
  その割には知名度低いけど?


ツ:日本に着くまでの苦労は、外国人から攻撃を受けただけじゃない。
  寄港地では赤痢などの病気に感染もしたし、長期の航海だから壊血病も蔓延して
  出帆時に110人いた乗組員は日本に着いた時には24人に減っていた。
  トマスもインディオに殺されたそうだ。


り:なるほど~。
  じゃあまあ、会社の歴史としては輝かしい第1歩ではあったものの、
  実際はほうほうの体で漂着したってことだったんですね。


ツ:そんなとこだろうね。
  何しろ、船長まで重体でまともに動けなかったそうだから。
  24人が日本に着いたとはいっても、漂着の翌日に3人死亡したらしいし。
  それで、アダムスら動ける人間が船長に代わって大坂に船とともに召し出されて
  権現様に謁見することになったんだ。
  健康は何よりの宝だよ。


申:いかにも医師らしい発言だな(笑)。

り:この時はまだ家康はいわゆる「五大老」という身分で天下人ではなかったけど、
  秀吉はすでに死んで幼い秀頼が跡を継いでいた・・・
  それで五大老のトップである家康が代わって漂流者を吟味した訳ですね。
  秀吉が生きてるうちに着いてたら、会社のその後の運命もまた変わってたかも
  しれませんよね。
  その点でもツイてたよな。


ズ:それはお前の言う通りだろう。
  リーフデ号の漂着当時、日本にはイエズス会の宣教師らがのさばっていた。
  リーフデ号の日本漂着の報を聞くと、奴らはすかさずリーフデ号の乗組員を処刑するよう
  上申していたらしい。


り:すでにこの時から先住ヨーロッパ人との戦いは始まっていた訳だ。

ズ:だが、家康公は公正寛大な方で、宣教師らのホラを心に留めながらも、
  実際に乗組員に会って話をする中でオランダ人やイギリス人に対する誤解を解いた。
  その後も宣教師らによる処刑の要求は執拗に続いたらしいが、自分の目を信じる家康公は
  それを黙殺して、ついには江戸に招くまでになった。
  アダムスとヤン・ヨーステンは江戸で重用され、持てる知識を駆使して幕府に仕えたので
  これがのちの通商への土台となっていく。

り:オランダ人のヤン・ヨーステンはちょっと調べたぐらいだとあまり具体的な経歴が
  出てこないですね。
  ただ、彼が与えられた 和田倉門 外の屋敷のあった付近が、ヨーステンの日本名の
  耶楊子(やようす)から転じて八重洲という地名になり、それが今も残っているので
  現代日本人にも名前だけはそれなりに知られているというぐらいで。

それよりは、やっぱウィリアム・アダムスのが有名だよな。

ズ:なんでイギリス人の方が有名なんだ。
  納得がいかん。


り:まあまあ。
  で、「外国」との交流ですが、前回の流れを一部再掲しますと 


1600 3月、リーフデ号が豊後に漂着

1602 オランダ東インド会社設立。

1604 家康が松前藩にアイヌとの交易独占を認める。


   対馬藩を介し、朝鮮との交易が再開される。

てことで、きちんとした歴史を知らない現代日本人のイメージといえば
  「外国=出島=南蛮貿易」ってカンジじゃないかと思うんですが、
  もう少し知識のある人なら前回の教科書からの引用にあるように
  「長崎でのみオランダと中国との交易があった」という認識になるかもしれません。
  でも実際は松前藩がアイヌと、対馬藩が朝鮮と、薩摩藩が琉球と交易があって、
  スタイルの違いはあれ都合4ヵ所で5ヵ国との交流があった訳ですね。
  なのに何で長崎ばかりがクローズアップされるのかと思ったんですけど、
  朝鮮は別として、アイヌと琉球は結局のちに「日本」に組み込まれちゃったから
  あんまり目立たないのかな~っていう風にも考えました。

ツ:へえ、アイヌと琉球は吸収されたのか。
  でもまあ、朝鮮だって属国だろう?


申:そんな訳ないだろう!!

金:野蛮な倭国の属国だなんて、侮辱もはなはだしい!!

り:ちょっとツンさん、朝鮮人を刺激しないでください。
  外国との窓口となった松前・対馬・薩摩・長崎は今では「4つの口」という
  言い方をされてるようで、このうち最も整備が遅かったのが長崎なんですが、
  『オランダ風説書』(松方冬子/中公新書)によると、

 【この「四つの口」は突き詰めれば日本が国交をもたない中国へと間接的につながる
  ための経路であった。中国で生産される生糸、絹織物などを安定的に手に入れ、
  漢籍や絵画などから学びたいという欲求は日本国内で非常に強かったのである。】

  ということらしいです。


ケ:中国とつながる?
  日本は古くから中国に朝貢したりして、関係の深い国だったじゃないか。


り:いやそれが、豊臣秀吉の朝鮮出兵によって朝鮮だけではなく、中国(当時は明)との
  国交も途絶えちゃったらしくて。
  でもケンペルさんの言う通り、日本の歴史は良くも悪くも中国との関係をヌキにしては
  語れませんから、なんとか国交を回復させたいと思ったらしいんですけど、
  結局明に拒絶されたままで直接の関係を復活させることはできなかったんですって。


金:我らの神聖な国土を侵したりするからだ!
  身の程を知らないにも限度がある!!


ツ:りりだって興奮させてるじゃないか。

ケ:それで何でアイヌや琉球なのだ?

り:松方冬子氏によると、

 【蝦夷地のアイヌは、サハリン(樺太)に住むアイヌを介して大陸との交易ルートを
  もっていたし、琉球は明の朝貢国であった。こうして家康は、とりあえず間接的に
  明との関係を保持しようとした。】

  なんですって。
  言われてみるとなるほどってカンジですけどね。
  だから、松前口・対馬口・薩摩口の3つは「中国とつながるための装置」。
  これに対して長崎口は他の3つの口とは全く違う性格と重要度を持っていて、
  それについてはまた後ほど話題にしたいと思いますが、
  とにかく長崎だけが外国との接点だったと思ってる日本人は多いと思うので、
  いちおうここで紹介しておきました。




※今回の主な参考文献は
・『栄光から崩壊へ オランダ東インド会社盛衰史』(科野孝蔵/同文館)
・ 『オランダ風説書 「鎖国」日本に語られた「世界」』(松方冬子/中公新書)
 とウィキペディア。


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最終更新日  2016年08月16日 23時56分25秒


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