戦国ジジイ・りりのブログ

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2017年11月02日
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カテゴリ: 江戸めぐり
イエアスとの出会いがなかったら、あるいは天海はそのまま関東天台の
復興を続け、泉福寺などを再興していたかもしれない。
長沼宗光寺のホームページには、

 【天海法印は、宗光寺に入山してから慶長十五年(1610)比叡山で法華大会の
  探題となり、南光坊を名のるまで公文書には好んで「宗光寺天海」と署名しており、
  同寺の住持であることを誇りとしていたようです。】

とあり、関東天台の名刹を復興できたことに喜びと誇りを感じていた様子がうかがえる。
しかし、イエアスの横やり(笑)によって天海が復興にあたったのは
叡山であり、日光だった。


           関東天台の本山とする。

慶長18年(1613)家康が天台宗諸法度を定め関東天台を独立させる(本寺が末寺住持の
           任命権を掌握することなどを規定)。
           この頃、論議が活発になり、御前論議に天台宗が参加するようになる。
           天海、日光山の管理を任される。
           天海、北院を喜多院に改め、東叡山の号を賜る。
           同じ頃、天海が家康に天台の教義をたびたび伝授する。

御前論議については優秀な人材の発掘や宗教統制などの目的もあっただろうけど、
イエアスは「仏法による王法守護」を考えていたんだと思う。
慶長17年までは御前論議は真言宗によるものだけだったのが、
天台宗も食いこむようになっていった。

戦乱の影響を受けて叡山から関東に僧侶が流れてきていた
浦井正明氏が語るような事情もあり、「田舎天台」とも呼ばれていた
関東天台のレベルの底上げがあった時期でもある。
ソフトが叡山から関東へ移ってきたのであれば、
ソフトの落ち着き先を新しい「第二の叡山」と見なすことは不思議でもなんでもない。


思うけど、あらためてこの頃の流れを見直すと、それよりも徳川家の未来をつなぐための
関東天台の独立だったのかと思う。
質の向上に加え、経験も実績もあり、かつ教義を現実社会に活かすことのできる天海もいる。
ただやみくもに関東天台を独立させたところで長続きするわきゃないし、
そうなれば王法の守護どころの話じゃなくなる。
むしろ、独立できるだけの充分な要素はそろっており、
それがちょうどイエアスが自家の繁栄を願ってあれこれ思索していた時期と
重なっていただけじゃないかという考えも浮かんできた。


そして同じ年、関東天台の中心から離れた関東きっての霊場・日光を天海に任せている。
イエアスが今後のことを考えて考えて考えぬいていただろうこのタイミングで、日光。
実際はイエアスがどこまで踏み込んだ遺言を残していたのかはわからないけど、
少なくとも 1年後には日光に勧請するようにという内容は崇伝も聞いてる んだし、
神となって日光から関八州を守ろうっていう言葉も言ったんだろう。
となると、日光山を管理しているのは天海であり天台宗だから、
神号はどうであれ自分と天台宗が王法守護の中心となるという意思を
明確にしたものとも考えられるので、その後の天海の奮闘は自己の権勢を張るだけの
ちっぽけなものではなく、故人の遺志に沿ったと言うこともできるだろう。

もっとも、イエアスは「神霊の勧請」と言っただけで、
「遺骸を移せ」と言ったとは書かれていないんだけど、
結果論としては日光にごっそり移したのは正解だった。
遺骸は久能に、神霊は日光に、っていうんじゃ日光の御神威がどうしたって薄れる。
日光に集約させて 宗教界のトップに君臨する輪王寺宮 が日光で国家の安泰を祈願することで
精神的支柱がどっしりと据えられることになった。


さてと、関東天台は独立し天海の喜多院は「東叡山」となった。
山号については、泉福寺の前例にならったものかもしれない。
その頃の泉福寺は、存続していたとしてもおそらく細々とした経営だったろうから、
泉福寺に代わるあらたな関東天台の中心地として山号を戴いたのかもしれない。
そこまではいい。

問題は寛永寺で、寛永寺創建プランは家康の存命中からあったというけど、
すでに喜多院に東叡山の号を与えているのだから、
新たに寛永寺を創建する必要性が感じられない。
江戸には浅草寺という祈祷寺もあるんだし。
ま、この「祈祷寺」というのがまたクセ者なんですが、
その頃の浅草寺の別当をまだ後北条家家臣の出の僧侶が勤めていたというのを知って、
あるいは前時代の遺物を排斥しようという考えに基づく寛永寺創建なのかと
うがった見方もしてみた。

でも、後で書きますが浅草寺は江戸において定例の祈祷や東照宮の別当も勤めていて、
とくに家光頃にはかなり厚遇されていたフシがある。
江戸初期の3人の浅草寺別当は【すべて天海に引き立てられ、その影響下にあった
人物である】(『ニノ丸権現様興廃記』入口敦志)ということなので、
同じ天台宗だからそう浅草寺を邪険にした訳でもないようだな・・・

そこで、素直な見方に切り替えてみた。

これまでは当初の寛永寺が 天海の私寺的側面 を持っていたということが
どうにも消化できなかったんだけど、トータルで考えるのではなく
その時その時の局面で考えてみると、そう難しいことでもないように思えてきた。

「上野第二編(65)」 で寛永寺ができる直前の上野のお山の様子、
および天海が依怙地に1人で建設地周辺の地ならしを続けていたらしいという話を
紹介してますが、きっと最初は素朴に



か、

「天海、大丈夫?
 江戸に滞在できる寺でもひとつ造ったらどうだろう?」

 (By 秀忠)

てなもんだったんだろう。
なにせ、元和8年(1622)に徳川秀忠が上野の一部を与えた時点で、
天海は推定86歳。
江戸にひとつ拠点を、と思っても不思議ではない。
将軍家にしても、がっちり東照社を囲い込む天海が近くにいてくれる時間が長い方が
なにかと都合もいいだろうし。

上野をもらった翌年には、秀忠が御殿山の御殿と白銀5万両を与える。
ちまちまと土地の造成を続ける天海を見かねたのだろうか
同じ年には家光が将軍に就任し、ここからピッチが上がるかと思いきや、
本坊の竣工までさらに2年かかった。
もらうものはもらっても、まだ自力にこだわっていたのだろうか・・・

このあたりまではまだ私寺的側面があったと言っていいだろう。
完全自力なら「私寺」と言い切ってもいいだろうけど、
秀忠から結構な援助を受けているので、「私寺的側面」にとどまる程度だけど。

「上野第二編(16)」 で紹介した『落穂集』の話を再掲しますと、

私が聞いているのは、元和9年(1623)家光将軍の時代に建立のお考えがあり、
  翌年の寛永元年(1624)より普請が始まり、開山は日光山の別当・天海大僧正、
  惣奉行は土井大炊頭(利勝)殿と言うことでした。(中略)
  その時の惣奉行である土井大炊頭殿が言われるには、「東叡山は天下安全の
  祈祷の為にあり、公方様のお考えで幕府を挙げて今度建立するので、徳川家の恩を
  蒙る国主、郡主方は誰でも天下安全の祈祷に異論はないはずである」と言われ(後略)

「公方様のお考え」はいい。
「幕府を挙げて今度建立」もまあいい。
秀忠は実質的なスポンサーであり、寛永寺ができた時点での将軍は家光なので、
寛永寺の開基は家光ということになっている。
んが、初めっから祈祷寺だったというのはどうだろうか・・・
そう思うのもやっぱり家光が浅草寺を優遇していたからで、
優遇の内容については今は飛ばしますが、なんでそうなったかという推測を
先に述べますと、東照大権現様の「顕彰」であり「荘厳」だと思う。

もしも初めから祈祷寺という位置づけだったのなら、
そんなに浅草寺を遇する必要がないじゃないかと思ったんだよね。
天海大好きの家光なんだから、天海がバリバリギラギラに祈祷寺のポストを狙って
寛永寺創建に着手したのなら、家光はすぐにでも浅草寺の持つさまざまな権限を
ごっそり寛永寺に移したんじゃなかろうか。

まあ、そもそも寛永寺創建の企画が公になってから本坊の竣工までに
時間がかかっているので、どの時点を「最初」に置くかっていう問題もある。
『政界の導者 天海・崇伝』(吉川弘文館)の中で浦井正明氏は

 【それ(イエアスの入府時に浅草寺が祈祷寺に選定されたことを指す:ジジイ註)から
  三〇年程たって、祈祷寺を別に建立しようという話が、当時川越の喜多院にいた
  天海から出された。】

それを受けて、秀忠が用地や金を提供し・・・という文章を書いておられる。
どこかの史料にそういう記述があるのかもしれない。
が、その一方で浦井氏は天海がひとり土地造成を続け、建物も天海の自費で
つつましく建てられていたという点を指摘している。
ホントのスタート段階から幕府をあげての祈祷寺創建だったのなら、
もっと工事はスピーディーに進んでいただろう。

この矛盾する内容を解決できる推測としては、
まず第一段階としてはやっぱり天海が江戸で滞在するための自分の寺を
建立するプランがあり、秀忠の援助を受けつつも自力で作業を続けていた。
しかし、完成に至るまでの間に幕府の思惑がからんできて(←第二段階)、
その後創建の運びとなった、っていうぐらいしか今のわたくしには思いつかない。

『落穂集』のエピソードが史実かどうかはわからないけど、
早い段階から確かに幕府は寛永寺創建に関わっていた。
事実、本坊ができた2年後には堂宇建立ラッシュで諸大名の寄進などによって
法華堂と常行堂・仁王門・黒門・東照社・経蔵・多宝塔(天海建立)・
三重番神社(天海建立)ができている。
その翌年までには、早くも13もの子院ができている。


じゃあ、なぜに幕府の思惑がからんできたのか?

当時、江戸における東照社および幕府の祈祷・祭祀については浅草寺が
受け持っていた。
しかし、天海は今や東照大権現にもっとも近い祭祀者。
寛永寺がスタートするまでに東照社は日光のほか、
江戸では紅葉山と浅草寺、あと 尾張と紀伊・水戸の御三家がそれぞれ国許に
勧請
していたが、いずれも天海が深く関わっている。

そういう天海が、江戸城のすぐ近くに、しかも秀忠の肝入りで
ちまちまと時間をかけて新しい寺を造っている。
これは幕府・・・いや、家光としても見過ごせない重要事項だろう。

イエアスが幕府を開いてからここまでの間、
幕府が心血をそそいでいたのは「新しい秩序作り」だった。
朝廷や武家のほか、仏教各派にもそれぞれ法度が出されている。
「王法」の実質的な行使者となった幕府を近くで守護する仏法の一大拠点は、
イエアス入府時よりももっと真剣に求められていただろう。
そこに降ってわいたような天海の寺創建プラン。
京の朝廷に叡山が寄り添っていたように、
江戸の幕府にもこの際第2の叡山を!!
なんて誰かが考えたとしても不思議ではない。

でも、祈祷寺としてすでに浅草寺があるじゃないか。

当時の浅草寺は、古刹とはいってもあまり繁昌しておらず、寺の坊は昔から36坊と
  伝えられてはいますが、そのうち10坊ほどが清僧の僧坊で、残りは山伏同様の
  妻帯肉食をする坊主どもだったので、幕府の祈祷所には不都合ではないかと
  皆が噂をしておりましたが、何のお構いもありませんでした。


てな『落穂集』の話はホントかよ?ってカンジですが、浦井氏の

 ・浅草寺は古来より庶民の寺のイメージが強く、幕府が大々的に増改築したりという
  こともない。そのため、幕府の寺(=官寺)というにはちょっと庶民的すぎる。

 ・天海が描いた、比叡山延暦寺という勅願寺を江戸に移す壮大なプランを
  生かすには、浅草寺には地形の点で難がある。江戸城からの方角と宗派という点では
  問題はないが、上野にくらべ浅草は低地すぎる。

 ・比叡山延暦寺を東に移すのなら、当然本尊も同じ薬師如来が求められる。しかも、
  薬師如来は東照大権現となった家康の本地仏でもある。浅草寺の本尊が一寸八分の
  観世音菩薩だというのはよく知られたことで、庶民と観音のイメージが強すぎる
  浅草寺を、薬師如来を本尊とする寺に造り変えるのは至難の技といえる。

 ・比叡山を東に移すには、周辺の諸堂宇の移築、あるいは新築を伴うことを意味するが、
  既成の市中にある浅草寺周辺にはあらたな堂宇を造ることは困難だった。
  ( 「上野第二編(16)」 より再掲)

という推測のうち、1つめと3つめがポイントかなって思った。
4つめもかなり現実味のある推測だと思う。


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最終更新日  2017年11月02日 22時15分37秒


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