2026
2025
2024
2023
2022
2021
2020
2019
2018
2017
2016
2015
2014
2013
全14件 (14件中 1-14件目)
1
今週はばてました。。 四月の健康調査で、肝機能低下ということもあり、ずいぶんと 体には気をつけているんですが、さすがに、今週はばてました。。。 水曜日木曜日と東京で会議 金曜日は朝からしゃべって昼から四国へ移動。 移動直後に、オフ会。50名もの熱気のなかで 行われました。 http://mixi.jp/view_diary.pl?id=125601782&owner_id=432 http://plaza.rakuten.co.jp/tamaoka/diary/200604290000/ http://oshikoku.com/weblog+details.blog_id+101.htm http://mixi.jp/view_diary.pl?id=125521545&owner_id=3990942 ドコイコ http://doiko.net/?m=pc&a=page_fh_diary&target_c_diary_id=2657 http://doiko.net/?m=pc&a=page_fh_diary&target_c_diary_id=2630 http://doiko.net/?m=pc&a=page_c_event_detail&target_c_commu_topic_id=271 その後、二次会で2時まで飲んで 朝8時に高速バスで徳島へ移動。 移動して資料作成して、親子での起業脳トレーニングの 講演。 http://blog.livedoor.jp/entre_jgs/ http://blog.livedoor.jp/partners2006/ http://blog.livedoor.jp/masters0914/ そのあと、第1次のみかかいでお世話になっている お店のオーナー夫妻と地域snsをしている友人とで ごはん、そしてもちろん、お世話になっている人と 飲み会。 ちょっと抜けて、徳島のカリスマビューティー ディレクターと歓談。 そして、また再び飲み会へ。。。 終わったのは3時。。 そしてその足で徳島港向かい、フェリーで 和歌山港へ。 和歌山港から始発で大阪へ。。。 そのあと帰ってきて10時までお礼のメールを書いて 爆睡。。 3時に起きて、ご飯食べて、また爆睡。。 5時過ぎには起きて、またお礼メールと仕事。。 さすがにこれでは体壊しますわな~~(笑) 13日はこんなんもあります。 http://mixi.jp/view_diary.pl?id=126188420&owner_id=2369078
2006.04.30
コメント(0)
ぼくは、思想的にはでたらめなのですが、 日本という国については、肯定的にとらえる立場に なります。 かつて「新しい歴史教科書を作る会」という会が 引き起こした教科書運動がありました。 今も続いています。 その教科書運動に、ぼくは立ち上げ時のころから 携わり、最初の教育雑誌デビューもこの運動を 教育から支えようという 『近現代史の授業改革』(明治図書) からでした。 僕は、いわゆる保守派とも異なるし、革新派でも ない。でたらめな立場なのですが、この教科書や 日本についての教科書の記述あるいは教育に おける人権派の行き過ぎた行為や行動には激しく 批判をしていました。 なぜ日本人が日本をスキになってはいけないのか? なにゆえに、事後立法で裁かれた東京裁判を 罪刑法定主義違反の裁判を支持しなければならないのか? 20世紀初頭までの帝国主義のさなかに、明治以降 において、あのような解決手段しかなかったことに 対して、歴史の糾弾を行える立場に我々はあるのか。 ぼくの疑問はそこにありました。 そして、教科書会社しか、教科書を作ってはいけない という論理に猛反発しました。 国語なら新潮社や講談社、文芸春秋社が作ったらいい。 家庭科の服飾をJJやcancamが作ってもいい。 体育をベースボールマガジン社が作ってもいい。 岩波が道徳の教科書を作ってもいい。 教科書が無理なら、副読本を作ったっていい。 それをなぜダメと言われなければならないのか? 教科書を豊かにし、教科書の内容に関心をもつ 出版会社が作ってもいいはず。 それを批判する左翼、韓国、中国。 ぼくにとって、教育の最前線にたつものとして しっかりいうべきことだ、ということで、取り組み始めたこと。 これがS学園との縁となりました。 もとのS学園(くしくも同じですが)は、この教科書を採択した全国7校のうちの 1校です。そしてS学園も同じ採択校。 勉強会で出会った先生方が、S学園の先生で、 その縁で、新天地が開かれたわけです。 そして現在の職場に至るわけです。 ここで、改めて問いましょう。 経営と教育の論理は両立しているのか。 S学園は、両立しているほうだとおもいます。 しかし、教育の論理が弱まっている。 つまり、バランスがかけ始めている時期だといって いいでしょう。 この問題は、私立ならば、常に葛藤するものであり、 それ故に、つねに、そのバランスが崩れる不安定な要素 のものです。 そのバランスをとるのは、どうすればいいのか、 まだ悩んでいるさなかです。。 <続く>
2006.04.23
コメント(1)
ども、おおにしです。日頃、一緒に仕事をしている仲間のビジネスモデルというのは意外と診断しやすいのですが、自分のこととなると、とたんに怪しくなります(笑)自分の夢は、あきらかに、ビジネスモデルにしにくい、もんだというのがわかっています。そこをどうにかして、モデル化したい。どうせやるならば、おもしろくてたまんないものをやりたい!!狂おしいほどの狂喜にゆだねたい。そんなことをしてみたいなあと思います。<今日の動き> 前日 四国での営業 仕事1ゲット。 今日 午前中仕事 午後、打ち合わせ1つゲット もうちょい仕事を増やしたい!!<今日の格言> やってみるもんだな、いってみるもんだな。
2006.04.21
コメント(1)
自伝(第7章9)新天地へ 子どもも楽しそう。 生徒指導ももんだいなし。 職員間のコミュニケーションもとれる。 ++ けれども、生徒の人数は増えない。。 +++++ つまり、この組織は、生徒数の増加を結果として 引き起こせない組織。 ひょっとすれば、後数年がんばれば、口コミで増えた かもしれない。 けれども、ぼくには「増える」とは思えなかった。 それは「経営者と現場の乖離」にある。 創業者から二代目経営者になるとき、 理念が変わる。 創業者は理念の体現者。 S学園の理念は 「己を滅して他に生きる。他が生かされる道は我の生きる 道なり。」 戦後すぐに塾を開き、幼稚園から高校までの総合学園を 作り上げた創立者は、ほんとうに人のために生きた人だった そうです。 その人柄にほれて多くのかたが、学園を支えたとのこと。 そして創立者の奥様が切り盛りをされて、ここまで大きくなってきた。 そういう歴史があり、理念はその歴史そのものをさしている わけです。 学園の創立者とは、創業者であり、教育者であり、経営者 であるという3つの顔を持ちます。 けれども、二代目は、とかく3つめの経営者の顔だけに なりがちです。 どうしても、数字が目に入り、教育者であり続けられない。 それよりも、経営者としての顔が目立つ。 そうなると、 「経営者の見る教育」 と、 「教育者の見る経営」 では全く視点が異なります。 その差が、結局 +++++++ 経営の論理で生きる「経営者サイド」 と 教育の論理で生きる「現場サイド」 +++++++ の溝を生み出します。 この溝は、ほんとうに根深いのです。 ぼくがそもそも最初の年に嫌われることになったのは まさに「経営者サイドの視点」からリストラを断行し、 戦える組織にしようと考えていたからです。 まさに、予備校の体験でつちかった、厳しさと競争の 要素をふまえたものを想定したからです。 ところが、子どもと向き会い続けた教師にとって、 経営者マインドは、顧客満足度を下げるものにしか 見えてきません。 経営者マインドなら当たり前の「悪いものは排除する」 それは、「教育をあきらめる」に写り、不誠実な態度に 見える。 そう、かつての飲酒事件で起こった問題について 「退学」・・・・・・経営者マインド 「引き留める」・・・教育者マインド の2つの対立軸が現場にとまどいを生むからです。 ぼくは、最終的に組織をまとめるために、教育者マインドで 経営者マインドを批判することで組織をまとめ上げました。 しかしながら、経営マインドのない教育では、私立は 運営できないし、教育マインドのない経営では未来が ないこともよくわかっていました。 ++ この二つのバランスをいかにとるべきか。 +++++++ ぼくはその答えを大阪に求めました。 そう、これが現在非常勤でいっているS学園 というマンモス進学校に。 <続く>
2006.04.13
コメント(0)
管理職3年目。 京大出身でスキルも高いH先生とのコンビは うまくいったと思います。 ぼくは書類やきっちりとしたことを遂行できる能力は 低いのはよくわかっているので、H先生とのバランスは よかったと思います。 ただ、ますます上からの締め付けは厳しくなってきました。 学園自体の存亡もかかってきますから、悠長なことも言えないわけです。 つまり、結果なくして存続ないわけです。 相変わらず営業しても結果は出ず、そして停滞し続ける 状況。 組織に関しては、どんどんよくなってきました。 教師同士もお互いのカバーにはいり、そして生徒指導面でも 岩野先生を筆頭に、きっちりとできるようになってきました。 保護者対策は僕が担当し、起業家教育もレールに乗り始めて、 新聞にも多く取り上げられたり、雑誌でも発表できる ほどの成果も出始めていました。 ところが、ぼくの運営したい組織とは、こういう組織では ありませんでした。 一見すればうまくいっているように見えるのですが、 厳しさのない、職員同士のモチベーションをさらにあげる ものがない組織は、結果を生み出せません。 そして、ワンマンである校長の悪口をいうことで 組織がまとまり始める。 新しく、小学校の校長が中学校にスライドしてなってもらい、 中学をいかにもりたてていくかの組織になったときに、 組織はまとまりますが、トップである経営陣を批判することで まとまり始めました。 これでは、中学校はうまくいっても、経営がよくなるわけは ありません。 そのことが明らかになるにつれ、そしてぼくもそれを いうことで、組織をまとめるたやすさを利用し始めたとき、 自分がこの場所から去らなければならないと思い始めました。 そして、給料もまたさらに減俸になったことも拍車を かけました。 そう、この学校から巣立ちの時がやってきたわけです。 <続く>
2006.04.11
コメント(1)
自伝(第7章7)組織をマネジメントする難しさ組織作りに失敗。 そして結果を出せなかった。 ++ 実はぼくは一人年俸制にしてもらってました。 理事長と校長にお願いして、やるなら、能力主義に してほしいと。。そのほうが頑張れるからと。。 しかし、結果が之ですから、10%ダウン となりました。。 現実は非常にきびしい。 そして、ぼくの降格も決まりました。 次に来たのは、高校で人格がすぐれて、情熱的な 指導を行っていたI先生。 I先生が中学校部長となり、ぼくが中学校主任を するという、形式上降格なしの人事でした。 僕ともめたM先生。 M先生とは職員室で大げんかをしたこともあるし、 皮肉たっぷりにいわれたこともありましたが、彼が ヒラに降格になったとき。 これまた寂しいものがありました。 ++++ 自分もそうなるかもしれない。 ++++++++ 管理職2年めがスタートします。 スムーズな組織運営を目指しました。 ぼくは、自分を殺し、表にはI先生にでてもらい、 すべてのクッションになってもらうようにしました。 とにかく、大西カラーが目立たないようにする ぐらいでちょうどいい。 しかし、I先生もはじめての管理職。 そして中学校の中身はわからない。 だから、黒子として、自分が再び運営せざるをえない 状況になりました。 痛い目にあった故に、アンテナの感度は上がってました。 子どもの家庭状況もすべて把握しているし、之までの 痛い経験が役立つようになりました。 たいていの事件事故の兆候はおおよそ、見えてきます。そこで、ちょんと芽を摘む。あるいは、事前に、防御網をはっておく。。自分に情報を持ってきてくれる子どももどんどんでてくるように問題解決を速やかに行う。僕自身、右腕がいなくて本当に苦労したので、 今年1年はI先生の右腕としてのポジションで いこうと考えて行動しました。 2年目から、じょじょに組織の歯車が回り始めマス。 硬直化していたほかの職員も、僕に対して少しずつ ココロをひらき始めました。 ぼくにはトップに立つ技量がないのかなと思う ことも多かったのですが、一人では何もできないし、 誰とでもチームを組めるほど、まだまだ自分に技量が 備わっていない。。 それがよくわかりました。 2年目は、独自性のある学校にし、 管理職としては調整役に徹し、 そして生徒募集に 力を尽くして結果を出すこと。 これにかけました。 まず、独自性は、昨年から起業家教育を 総合的な学習の時間に設定し、週2回とるようにし、 さらに本来の特色である英語教育に力を いれました。 管理職としては、できるかぎり、生徒指導の問題が 起きないように。 生徒募集のために、何が効果的か。 いろいろ取り組みました。 ところが、人数の頼みとなる野球部。 この苦戦が2年続きました。 担当の先生も、どうにもこうにもしようがないという 感じでした。 そしてI先生。 この中学校のトップというのは、かなり圧力のかかる ところで、ほんとうにいろいろ結果をすぐに求められる だれもが「なりたがらない」役職です。 小学校を見れば英語エリートを作る方向性だし、 高校を見れば、そこまでの準備が出来ず、 進学校とも言えない、その学園の矛盾を 一番感じる場所でもあったわけです。。 1年間、その矛盾に耐えかねたんでしょうね。。。だから、I先生は1年で退職を決意してしまいます。 精神的にも苦労したのでしょう。。 ぼくにとってはこの2年目は、 ぼくを最も支えてくれた学年が 卒業する年で、大変卒業式に力が入った年でもあるし、 いまでも交流のある学年でもあります。 そして、2年の時にはオーストラリアに修学旅行を連れていって、あの9.11をブリスベンで体験。余波で航空会社も倒産、3日間日本に帰るのを延期せざるを得なかったという大変な思いをした学年でもあります。 *いまでも修学旅行としては最高の旅行だったと思いま す。 そして、以前副部長もしていたことのあるH先生に 3年目バトンタッチされ、管理職として3年目の 春を迎えることになります。 <続く>
2006.04.10
コメント(0)
自伝(第7章6)ついにリストラ迷惑に迷惑をかけた1年。 年度末に近づき、ぼくをおろすための動きも 盛んになってきました。 一番思い出ぶかい会議がありました。 二人の女性教師と校長先生と4人での会議です。 校長「お二人からいろいろ先生の勤務のことを聞いて、 大西先生を呼んだのだけど。。」 大西「・・・」 K先生「大西先生には人をまとめる力がなく、ついていく ことができません。ぜひ変わって頂きたい。」 もうひとりのK先生 「大西先生には、モラルがありません。私が・・・ (以下憶えてません)」 という会議でして。 ぼくは、よっぽど女性に嫌われる才能に恵まれていたのでしょう(笑)。 このとき、特別進学コースの生徒でボス的女性が掃除を しなかったり、我が儘に振る舞うので、かなりきつく指導 していたら1年間一切取り巻きも含めて「しゃべってもらえない」ところまでいきましたから。 さて会議に戻りますが、校長も絶句です。。 ここで現場からの支持も取り付けられず、 結果を出せなかったぼくのリストラ(降格)は決定的と なりました。 今思っても、僕自身悪いところがたくさんありました。 そして、うまく人を使うこともできず、独断で決定し 動いたこともあり、ここまで言われることも重々 わかることもあります。 新しい転地で動く始めたとき、ぼくは必ず失敗するのです。 ただ、この時の孤軍奮闘は自分の大きな糧であり、財産 であります。 営業も協力してもらえなかったので、U先生と一緒に 車で走り、そして、一人で営業し続けるつらさ。 一人で駅前でチラシを配り、塾にも一人で営業しました。 それでもこの有様です。 むなしさが立ちこめる3月を迎えました。 <続く>
2006.04.09
コメント(0)
自伝(第7章)不幸の悪循環幸運も不幸も循環もの。 悪い巡り合わせのときには悪いことが やってきます。 ついに二人目の転校希望。 このときには、中1全体が悪い循環に 入りました。。 C子をコントロールできないのは、小学校のときからの 継続問題だったのですが、これに小学校の先生も巻き こんで、大きな自体に発展していきました。。 C子をとるか、それとも我々を大事にするのか。。 C子を転校させるように、他の保護者がいいます。 C子の保護者は保護者で、思いがあります。 すべての保護者と教員で会議が行われましたが、 結局、ぼくの力不足。 どうにもこうにもまとまらず、結局転校の キモチを変えることはできませんでした。 ぼくは会議で大泣きする失態まで犯しました。 力のなさ。 そう、僕にはこの事態を切り返す「チカラ」が なかったのです。 そのころには、すべてが悪です。 ココロよりも体が参ってきました。。 そして、職員室では、女性教師ともめ、 いすを蹴り、暴言を吐くところまでいきました。 誰も味方がいない。 四面楚歌の苦しみは、毎月ある部長会議でも つるし上げられます。 小学校校長からしめあげられ、 高校からもいわれ。。。 裏でも言われ、そしてそれを改善できるだけの 「結果」をだせない。 その毎日。 ココロだけは崩れまいとがんばった1年でしたが、 ココロもおれそうになり始めるころ、また 3年生の保護者にどなられ、保護者とも 大げんかをするところまで行きます。 毎回毎回校長に叱責され、成長させてもらう きっかけをいただいのですが、 そう、ここまで来ました。 人を「使う」こともできず、 「徹底」できる情熱も結果も伴わない。 それを思い知らされた、自分にとって 忘れられない1年となったのです。 <続く>
2006.04.08
コメント(0)
3月末の人事。 校長をはじめ、幼稚園・小学校・中学校・高校 の4部門の部門長とともに人事が決定されます。 ぼくは、正採用を考えていたのもあって、 実は、こうなる前の布石が他にもあったのです。 まず、校長先生が作っていた経営改善タスクチーム に夏頃から入っていました。 おもしろい人間がいるとのS先生とのご推薦 があったからです。 多くの経営改善案が、ここから発信していきます。。 そこで、多くの意見を求められたり、広告や 営業方法などを必死で提案していました。 ときには、幼稚園の募集をお手伝いし、営業も 廻っていました。 そして入学の時には、中学校の募集広告デザインまで タスクチームのなかで任されるようになりました。。 そのことなども大きく影響したようです。 さて、こういういきさつがあったにせよ、ぼくが 急にトップになることで、大きな問題点が生じました。 それは、中学校と特別進学コースがこれまで S先生が受け持っていたのに、これが ぼくとM先生の二人に分かれたということ ですから、どちらが意志決定権を持つのか。 朝礼もいっしょにやっており、カリキュラムも 連携しておこなっていましたから、このことは 大きな裁量権にわたる重大な決定事項なのです。 もっとも、最終決定権は高校の部長である i先生、事務面は副の先生に最終決定を 聞けばいいとのだんどりでしたが、実際の現場では そうもいきません。 最初に 「M先生とぼくとどちらが意志決定権をもてば いいのですか?」 と中学主任が決まった時点の会議で問いました。 すると、高校の先生方から 「協力してやったらいい」 ということであっさりと却下されました。。 ぼくは、このことが気になって仕方がなかったのです。 それでも、年長者であり、ベテランのM先生だから まあ、うまくいくかなと高をくくっておりました。 部長席をM先生にゆずり、副部長席である 職員室の窓際に座り、中学・特進コースのスタートが スタートが切られたわけです。 このことがすべての問題の始まりでした。。 ○問題の発生 早速入学式の準備。 担任の人事、そして校務分掌に。 とめまぐるしく動きます。。。 まず中学校の人事では 中1にM先生 中2にU先生(ベテラン国語教師) 中3にW先生(ベテラン体育教師 野球部兼任) になりました。 この人事、すべて僕よりもベテランの先生方。 ぼくは1年しかいないので、派閥もない。 つまり、僕一人が大西派閥なわけです。 *ただ、U先生だけは、理解を示してくれる 立場の人でした。。僕自身、だれか教務をできる 人が必要であったので、高校から呼び戻してもらった 先生でもあったからです。 W先生は、ベテランもベテランで生徒指導では これまで高校畑で実績ある先生でしたが、野球の 方針や、いろいろな面で、高校では冷や飯を食わ されつつある先生でした。 そして、他の先生は当然、ぼくがなったことを快く 思うわけがありません。特に、ぼくに職員会議で 卑怯だといわれた女性教師には、ほんとうに苦々しい 人事だったと思います。 そして、講師も同じく。 同じ講師だったのが、4月からは上司と部下の関係 ですから。そんなこと、受け入れられる訳がないです。 四面楚歌。 さあ、波乱含みの4月が始まります。。 ○5月の問題発生 5月、今でも忌まわしい事件が起きます。 中1の野外研修にて、いじめが起きます。 ひ弱な感じの子で、小学校の時から、どうやらちょくちょく いじめられていたようです。。 それが、研修先の宿泊所で集団でいじめられたと。。。 「いじめのない学校」 それがうちの「ウリ」でした。 少人数で、先生の目もしっかり行き届いている。 礼儀作法もしっかりできる。 それはぼくの前までの「こと」 過去のものになっているものでした。。 ぼくの指揮に関して、ココロから支えようとしない 先生方は、当然、指導も甘くなります。 そして礼儀作法の面でも、僕自身そこが弱い。。 右腕となる生徒指導の先生もいない。 海千百戦のW先生をどうのこうのできる指導力が ぼくにあるわけもなく、ずるずると前年度のカラーが 薄れていきます。 というか、前年度のカラーを壊そうとしていたのは 僕の方なのかもしれません。 去年学級崩壊を犯したベテランの先生をリストラ しました。そして講師の先生も選抜を始めました。 前年度まで、Sイズムで培われたチームワークを なし崩しにしている「破壊者」が僕であったろうし、 指導力のない男であったでしょうから。。 さっそく、M先生を信頼して、早急に対応して もらうこと、そして学級経営に関して、立て直しを お願いしました。 みなさんもおわかりでしょう。 このとき「お願い」しているようでは、甘いのです。。 この「甘さ」が命取りとなります。。。 ○「柔らかな権力」と「甘い平和」 M先生は、子どもに強くでられない先生でした。。 S先生が彼を中学部長に押さなかった点はここでした。 つまり、教師として必要な権力、それがかけていたのです。 クラスの子どもたちは、増長を始めます。。 曖昧な権力のもとでは、「秩序」などあり得ません。 最低限、「柔らかな権力」のないところに、学級の秩序など あり得ないわけですから。。 問題となったのは、K男とC子。 問題がどんどん発生し、我が儘がのさばり始めます。 C子は、小学校の時にもいろいろと問題を起こす、我が儘な 性格で、この子をコントロールできないことがさらなる問題を起こしていきました。 ところが、先に、問題は夏に起こります。 研修時いじめられた子どもが転校を決意します。。 そう、いじめの根本的な解決ができなかった。 そして、クラスをコントロールできなかった。 それが最大の要因でした。 校長から激しく叱責されます。 一人の生徒の転校は、収入源の減収をさします。 年間補助金を含めて100万以上の減収になります。 ぼくには、この問題を立て直す方法はわかっていました。 そうM先生を担任から外すこと。 これしかないのはわかっていました。 しかし、それは、旧派閥の人間たちすべてを敵にまわす ことになります。M先生を中心に、ほかの先生方はまとまっていたからです。特に反抗したのが女性の先生たちで かつてからいるK先生ほか、かなりの抵抗勢力となりつつ ありました。 つまり、動きようがなかったわけです。。。 未だに、あのときにどうすればいいのか。 四面楚歌での打開策は、結局、自分の力量なしには あり得ないなと、今でも思います。 再びのこの「甘さ」が命取りになりました。 徐々に徐々に、ぼくとM先生の火種は増え、 子どもたちにも目に見える形で対立構造がはっきり してきます。 朝礼では特別進学コースが別朝礼に変わるし、 中3は、ぼくを支持しない体制になってくる。 唯一の味方は、何も知らない外国人教師と 一緒に入ってきた2年生のみ。 *外国人教師には、絶大な人気があったので、 幼稚園から中学校までの英語教師はすべてヘルプ してくれました。 また問題が起きました。。 つぎは中1のC子でした。。。 <続く>
2006.04.07
コメント(0)
自伝(第7章)30歳で教頭になる。。部長S先生と副部長の退職。 このセンセーショナルな事件は、1年間の 問題点をすべて浮き彫りにしました。 なぜ学級崩壊のときに、もっと陣頭指揮を とれるはずなのに、縛りがきかなかったのか。 なぜ、生徒指導に置いて力量のある副部長が 遠慮がちに指導するように変化したのか。。 なぜあのときの職員会議が全体で行われたのか。 すべては、「この退職」に関わっていたわけです。。 退職するのを二人が決めていたからこそ、 少しずつ少しずつ手を引いていた。 というよりも、次年度辞めるのに、腹をくくった ことはいえません。面倒をみれないのですから。。。 力量ある二人の退職は、大きな波紋を投げかけました。。 次年度からどうすべきなのか。 だれが部長をするのか。。 だれが。。。 その答えは3月末の人事に驚愕の事実となって 現れます。 そう。 あの職員会議が 実は次年度の人事の面接で あったかのように そう。 はじめて正採用される、この僕に 部長という名前ではなく 「中学主任」という新たな名前で ポストが作られたのです。。 *S先生が退職時に、ぼくを推薦して いたことが後にわかります。 そう、30歳の事実上「教頭」の誕生です。。 このときの人事は、いまもって大変な人事でした。 ぼくが中学主任。 そして、3年生の担任をしていた M先生が特別進学主任 という二人体制になったのです。 *特別進学コースと中学は進学の面で 共通しているので、S先生が担当していました。 正採用にもなっていない自分が、 いわゆる末席からトップへの昇進。 このことは、この1年間が壮絶な戦いの 幕開けを物語るスタートとなったのです。。 <続く>
2006.04.06
コメント(0)
自伝(第7章)始まりはいつも波乱・・・スタートの出だしはよかった。 授業もまずは無難にスタート。 特に、中学1年と高1の学年とはいっしょに 1年生を迎えると言うこともあり、仲がよかった。 ところが波乱が起きる。 この仲がよかった中1。 担任はベテランの女性教師。 穏やかで、人のよい先生なのだが、 学級崩壊。 女の子たちが波乱を起こす。 もともと私学の子どもたちは、良くも悪くも 自我がしっかりしている。 まあ、我が儘といった方が早いだろうか。。 これを制するには、結構、やさしさよりも 「力量」が必要となる。 ところが、日が進めば進むほど、 崩壊は進行する。。 対応策を部長S先生以下矢継ぎ早にうっていく。 しかし、こういう問題の時は、いっこうに 静まらないもので、 選択肢とすれば 担任を変える ダブル担任にする(担任一人にさせない) 他教師による指導のてこいれ とあるが、担任の変更は、子どもの我が儘を 認めることになるので、ここはダブル担任 という選択肢と、てこいれしかない。 これは前任校でもあったことで、基本的には そのあたりの妥協点をみながら行わざるを得ない。 これでいったんは収まったかのように思えるが 火種が消えたわけではない。 ++++ あ、ここで一つ付け加えておきたいのですが、 学校で問題が起きるのは、ぼくは基本的に当たり前 のことだと思っています。 ただ、起こしてもいい問題と、起きてはならない問題の 2つがあって、生徒同士のトラブルは人間なので 当然起きうること。ところが、そのトラブルの解決方法や 事前に察知して、それなりに見守りつつ問題に対応するのでは 大きく異なります。 ベテランになればなるほど、事前察知がうまくなり、早い 場面で芽を摘むことが可能なんですが、結局周囲の問題解決能力の高い大人がいないと、うまくコミュニケーションとれない子どもを育てる可能性があるので、ほどほどの「加減」が大事です。ところが、このさじ加減は、いつまでたっても難しいとこなんですが。。 「今日も何事も起きずに、問題がなくてよかった。」 じゃなくて 「今日も問題が起きて、いい学びが出来た。」 と思える姿勢で行きたいものだと常に心がけています。 けど、この姿勢が後に問題となるのです・・・ ++++++++ さて、冬になると、3年生が問題を起こします。 この3年生の学年は、非常にパワフルな学年で 元気なんですが、ちょこちょこ問題をおこしていたんです。 実は、それのきっかけは、後になって知る 思いもよらないところにも原因があったわけ なんですが・・・ 冬にある生徒(仮にM男とします)の飲酒問題が発生します。 それも校内での飲酒です。 下で見たときには、すでに顔も赤く、酒臭い ところまでチューハイを飲んでいました。 この問題。 いろいろな背景がありました。 M男の家庭環境。 そんなによくありません。 母親との愛情に飢えていたと思います。 彼自身、悪ぶる事で、注目を浴びたがっている 寂しがり屋です。 しかし、これまでにも小さな事件を起こしています。 そして飲酒。 私学では、即刻「退学」です。 この「退学」を巡る職員会議が開かれます。 *ここで職員会議が行われる時点で、実は後にわかる 問題点が潜伏していたのです。。 3年生の進学や卒業前に、大きな事件を引き起こす。 部長S先生そして担任M先生を中心に会議が始まります。 *この担任がのちにぼくにとってキーパーソン となります。ぼくも末席に座り、議論の行く末を聞いていました。 ところが、ここのポイントは ++++ 「退学」が教育効果を持つのか? ++++++++ です。 議論は、紛糾します。というよりも問題点ははっきり しています。 M男に関して、家庭環境の問題や理解できる点もある。 しかし、「退学」は避けられない。 職員会議での実質の議論は、 「みんなが退学させるという強い判断に対して、 罪悪感なく納得できる理由を探している」 あるいは、 「退学させないで、彼を更正される方法を中学全体、 あるいは校長に対して説得できる方法があるのか」 の2点です。 校長は、はっきりいってワンマンです。 熱い情熱もありますが、逆鱗に触れれば大変なことに なります。 *創立者を慕ってやってきている創立者派閥の部下と 平成以降に二代目となったワンマン校長との確執は ずっと続き、平成以降生徒募集で苦戦しています。 このことがさらなるワンマン経営にして陣頭指揮を とらなくてはならない悪循環をもたらすわけなのです が。。 そして、打算的なところもあります。経営もありますから。 飲酒を起こした生徒を残すことは、すなわち、他の生徒へ 示しがつかず、また来年度の未来の生徒への悪影響がでます。 つまり、生徒募集に直接関わります。 飲酒する生徒を放置するだけの余裕は私立にはありません。 その校長を説得できる要素を見つけなければ、退学という 事に対して「良心の納得」をいくための「論理」が必要になるわけです。 教師は、基本的に、「善人」です。 また教育力のある人間ほど、「どうにかなる」と考えて しまう性格です。 だから、判断に揺るぎが生じてしまいやすい。。 そこで職員会議は硬直します。 ぼくは、そこで、沈黙や長い会議に耐えられず 2つのことをいいました。 1つは、黙っている先生方は「卑怯」であるということ。 意見をいわないということは、M男の人生に対して 何もしないといっているのに等しい。 2つめに、解決は2つ。 ひとつは、「退学」か否かで決断すべき。 ぼくは「退学」を支持する。彼にとってこれ 以上の甘えはなんの役に立たない。 そのかわり、ぼくが家で卒業まで面倒見る。 それぐらいの覚悟がなければ、ならない。 ふたつめに、「退学」を選ばないとしたら、彼を家から だして、こちらで徹底的に面倒見る。 とにもかくにも、それぐらいの覚悟がなければ 彼のためにも、学校のためにもならない。 そう言い切りました。。。 結局、S先生は、「退学」を選ばず、謹慎処分。 そして、徹底的な指導を行うことで、収拾をつけました。 校長も、覚悟の入ったS先生の態度で腹をくくったようでした。 さて、 そして、卒業式。 晴れ晴れとした天気のなか。 3年生は羽ばたいていきました。。 そして、この問題に対する僕の対応が、実は4月にぼくの人生が大きく変わる転換点になったのです。。 そう、部長S先生と副部長がそろって退職したのです。。 <続く>
2006.04.05
コメント(0)
カリスマS田校長の口添えで入ったS中学校。。。 ほとんど予備知識もなく、ただ教師がデキルという 思いだけで選択。 S田校長とともに、車にのり、学園の実力者であり、 高校野球部監督I部長と面接。 そして、中学部長のS先生と面接。 合格。。 ぼくの教師人生は皮一枚つながった。 29歳崖っぷちの転職となった。。 ぼくが担当したのは、中学校の社会と 高校の日本史ほか。 中学校は、S部長を中心とした組織体制で がっちりとできあがっている組織。 S先生は、とにかく誠実な姿勢ときびしい 態度が両立した、私立らしい先生だった。 とにかく、判断が的確。 S先生のために、という組織ができあがっている というのが印象だった。 これに生徒指導を野球部監督である副部長(年は1つ上) のコンビでまとめあげていた。 きちんと挨拶もデキルし、少数精鋭を地でいく 学校だと思った。 高校はというと、特別進学・普通・スポーツコースがあるが、 勉強の方はそれほどできるところでなく、いわゆる格差が激しい。 だから、高校ではチャイムが鳴ってもなかなか教室に入らないし、時には、廊下を歩いてくちゃくちゃとやっているヤツも いるようなこともある。 高校はというと、I部長・M副部長体制で 強固な基盤が出来ており、一枚岩の組織体制を 作り上げていた。 *あと幼稚園と小学校があるが、少しずつ紹介。 そして、その上に創立者の子息である M理事長(弟 経営者CEO) M校長(姉 運営者COO) M事務局長(弟の妻) という経営陣の柱で運営されている組織だ。 とりあえず、組織の背景はわかって頂けただろうか。 ここで再スタートが始まる。 <続く>
2006.04.04
コメント(0)
M中学校の最後の年。 これはぼくにとって、教員採用試験最後の年。 そして、ぼくの公立への道は絶たれた。。。 4月からどうしようかと考えたときに、 塾の募集欄があった。。 四国で一番大きい大手予備校。 そこそこ通用するのではないか。。 逆に、「渡りに船ではないか」 と考えていった。。。 それは大きな誤解であった。。。 全く通用しない自分のしゃべりにテクニック。 そして公立から来ていると言うことで、まず まっしろな状態に戻ってもらうために、一番 きつく指導される毎日。 研修担当は、同い年の課長。 そして最初に割り振られたところでは24歳の 女の子が上司。 怒られる。 日々楽しくもなく、愉快でもなく。 ただ、たんたんとキツイ研修で日々を過ごす。。 120人ぐらいはいる教室での発声練習 「蝉になれ」 「おまえなんかいらない、もしいたかったら全校舎の ぞうきんがけをしろ。。」 とか研修担当のN田の冷ややかな声で日々指導が入る。 +++ 通用しない自分の能力。 ++++++++ この経験が自分を大きく変えたと思います。 そして、前もって休むことをつげていたのに、 研修課長のN田のミスで、「逃げて辞める」ような 手はずになっていた。。 このことがきっかけで、あほらしくなって辞める 訳ですが。。この大手予備校での厳しい研修が 「しょせん、自分は公立のぬるま湯に使っていた」 ことに気づかされるのです。。 授業のテクニックやしゃべりかた、黒板の清掃などなど いろいろな面で参考になった時期でした。。。 さて、そこを辞めてしまい、次の行き場所がない。。 カリスマ校長再度の登場です。。。 S田校長先生のおかげで、私立S学園の講師の 口を紹介してくれました。。 この口添えがぼくにとって、怒濤の人生を送ることになる 前触れとなったのです。。。 <続く>
2006.04.03
コメント(0)
通用しない。 M中学校での2年間。 とにかく、うまくいかなかった点があった。 一つは、不良対策 二つは、女の子対策 とにかく、この2つで新人教師らしい失敗を多く 犯した。 まず、不良対策。 ぼくに刃向かってきたのは、のちにとある高校で 4番バッターともなり、甲子園で優勝もした子ども。 母校のときでもそうでしたが、基本的に 野球が強いときはみんな「悪い」(笑) 悪いぐらいで度胸が点いているから、たぶん 強いんでしょうが。。 まあ、彼とそのとりまきについて、いろいろ苦労しました。 授業中に言うことは聞かない。 昼休みのコンピュータールームでも無謀なことをする。 ちょうど、このころ、外国人教師のランスとともに ネットで英単語のチカラを身につけてもらおうと昼休みに ゲームをさせていました。 すると彼らがやってきました。 いつも態度が悪く、ポルノ系の内容を見るので、 「最初から、使うな。出て行ってくれ。」 ということで取り巻きたちを出て行かしたら、案の定 部屋の壁を蹴りながら帰る。 ここで、若かったせいでしょう。 「ぶちっ」 とキレて、思わず首根っこつかんで 職員室横の生徒指導室へ。。 6人だったでしょうか。。 思いっきり怒って、いやがる彼らを正座させて、 「おのれらー、ふざけたことしとったらゆるさんぞ、こら」 で怒号の嵐。 それでも、4番バッターは、ここでもさすがに度胸満点。 けっこう受け流すわけですよ。 それがまたおもしろくないから、火が点く。 周りの先生も集まってきますから、どうやって 収拾をつけようかと思いましたが、ベテランの先生 と一緒に指導するということで、示しをつけましたが。 ここからが大変です。。。 ことあるごとに、隙を見たら反抗しようとする。。 特にめんどくさいのが、体育の時に、 ちらりちらりと弱いヤツに対していじめを見えない ところでやるんですね。。。 それをきっちりとコントロールできないと信用が されない。 ここで、例え不良の子どもたちと仲違いになろうと なんだろうと、ぜったいに譲れない部分を示さないと いけない。 だから、当然、怒る。 お互いに胸ぐらつかみ合いになろうとも、残りの 子どもを大事にしないと秩序が保てない。。。 そういう思いで正面からぶつかっていきました。。 これが今思えば、「若い」んですね。。 いまなら、もっと賢くできます。 不良には不良へのアプローチがあって、正面からでなく 横から後ろからと攻め手を変えながら、決して正面に たつ機会を減らして、ここぞと言うときにしか、正面に はつかないというやり方。。。 けど、これは若いときに同じ事をやると、結局 おかしくなるんで。 しったかぶりして、理解しようとすると 彼らはめちゃくちゃそういうところのセンスが いいですから、見透かされます。 若い時には、上のやり方で良かったと思う反面、 苦労しました。 本当に気を抜けない毎日でしたから。 ところがもっと苦労するのが女の子です。。 初年度の問題は、不良でしたが、2年目に苦労したのは、 女の子です。。 とにかく「扱いがわからない」 ぼくは偶然社会だけでなく、体育も一クラスだけ 教えていたんですが、これがいうこと聞かない。。 まったく、思い通りにならない。。 列を作るところから、まず成立しない。。 怒ろうが何しようが、なかなか早く動かない。。 同じメンバーがソフトボール部ですから、 これまた同じ。。。 それがですね、僕の尊敬するS田先生というベテランの 教師がいました。 S田先生は、野球部の監督でもあり、豪快で 繊細。ほんとうにオヤジ的なキャラで誰もから愛される 先生なんですね。 このS田先生のすごいところは、タクトを振るが如く、 この彼女たちを操るわけですよ。。 いまだに体育の普通の授業であれだけすごい授業は みたことがありません。。。 *特別な授業とか、そういうのでもいっさいなく 普段の授業です。 不満もあるんでしょうが、たとえば、体育館で バレーボールをさせていて、ミスが出たら全員で 走るということをさせていたんですが、それも だまってみんなやるんですね~ 怒るときは、ほんとうに怖いんですよ。。 また。 ぼくはこの人のまねが出来ないか、当時一生懸命 みてました。仲もよかったので。。 ただ、S田先生は、学年主任でもあったのですが、 女の先生からはクレームが多くて(笑)。 女のひとって、ほんとうにむずかしいんです。。 このS田先生がまたタクトを振られるが如く 動かされていたのが、S田校長先生です。 この校長先生こそ、カリスマです。。 ぼくが出会った先生では、ナンバー1の指導力です。 ずば抜けていました。。 それもそのはず。 荒れに荒れた学校を5年で建て直し、町の教育委員会をして 「日本一の学校」といわしめた男です。。 そして、お坊さんでもあり、普通の教師を普通にさせない 先生でもありました。 豪放磊落で、お酒をこよなく愛し、飲んだら朝まで 飲むが、次の日は朝一番に校区の見回りを行っている という。 不良たちが卒業しても、まずはさきに校長のところに 挨拶に訪れるというぐらい、徹底して愛された校長です。 この校長先生と、夜に飲んだことがあって、 いろいろ質問させてもらったことがあります。。 そのときに教えて頂いたのが、 ++++ S田校長も先生不適格として辞めようと 思ったことがある。 +++++++ 昔、S田校長も生徒とうまくいかなかった時期が あったんだということを教えて頂きました。 つまり、悩み抜いた教師だからこそ、いまがある、 ということなんでしょうね。。。 そうそう、ある時に、とある罪を犯した生徒がいて 学年主任が職員室で迷惑をかけた先生のところを 廻って、謝罪をさせていました。。 そこに訪れた校長はいきなり「先生はそれはストップ。」 と急に止めさせて、 「先生、子どもに必要以上に恥をかかせたらいかん。」 と一言。 周りの教師にとっては、謝罪は当然かな、という雰囲気が あったのですが、このエピソード一つにしても校長先生の すごさがわかるというものです。。 このS田先生。さらにスゴイエピソードがあります。 S田先生は、ちょうど、退職の年でした。 ぼくも2年間お世話になって、いい卒業式ができれば いいなあと思っていました。 この中学校の卒業式は、ぼくの体験してきた卒業式 のなかでも最高の卒業式で、卒業式が終わってから生徒から 先生方へ全体で一言挨拶してお別れの歌を歌うんですね。 つい5年前には荒れてあり得なかった卒業式なんですから。。。 ですから、毎年感動の涙があふれるのですが、 このときの校長先生の祝辞はすごかったです。 「死ぬなー」 で終わりです。 生徒が死ぬことほどつらいことはない。 そして自分よりも先に死なれることほどつらいことはない。 だから、とにかく生きていてほしい。 そういう願いを込めて、最後の祝辞の締めが、 「死ぬなー」 です。 翌日の新聞にもでたぐらいです。。(笑) 僕自身、本当に通用しなかった時代ですが 周りの先生のすごさを学べた修行の時代でした。 いまでも、ぼくの目指すべき指導力のモデルは、 この時代です。 組織マネジメントでリーダーが果たすべきこと そのことはすべて、ここで学べた気がします。 <続く>
2006.04.01
コメント(0)
全14件 (14件中 1-14件目)
1