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僧伽難提ソウギャナンダイ尊者:心とは何か『第十七恁麼』17-3-1a(正法眼蔵)僧伽難提ソウギャナンダイ尊者:心とは何か『第十七恁麼』17-3-1b(聞書抄)
2026.09.06
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〔『正法眼蔵』原文〕 しるべし、十方仏の実ならざるにあらず、 もとこれ眼中花なり。 十方諸仏の住位せるところは眼中なり、眼中にあらざれば諸仏の住処にあらず。 眼中花は、無にあらず有にあらず、空にあらず実にあらず、おのづからこれ十方仏なり。 いまひとへに十方諸仏と欲識すれば、眼中花にあらず、ひとへに眼中花と欲識すれば、十方諸仏にあらざるがごとし。 かくのごとくなるゆゑに、「明得」「未明得」、ともに眼中花なり、十方仏なり。 欲識および不是、すなはち現成の「奇哉キサイ」なり、大奇タイキなり。 仏々祖々の道取する、空華地華の宗旨、 それ恁麼の逞シン風流なり。 空華の名字ミョウジは経師論師もなほ聞及モンギュウすとも、地華の命脈は、仏祖にあらざれば見聞の因縁あらざるなり。 地花の命脈を知及せる 仏祖の道取あり。 〔『正法眼蔵』私訳〕知るべきである、十方の仏は真実でないのではなく、もともと眼中の花である。(しるべし、十方仏の実ならざるにあらず、 もとこれ眼中花なり。) 十方の諸仏が住むところは眼中であり、眼中でなければ諸仏が住む処ではない。(十方諸仏の住位せるところは眼中なり、眼中にあらざれば諸仏の住処にあらず。)眼中の花は、無でもなく有でもなく、空でもなく実でもない、自ずから十方の仏である。(眼中花は、無にあらず有にあらず、 空にあらず実にあらず、 おのづからこれ十方仏なり。)今ひたすら十方の諸仏を識りたいと思うなら、それは眼中の花ではなく、十方の諸仏だけである。ひたすら眼中の華を識りたいと思うなら、それは十方の諸仏ではなく、眼中の花だけである。(いまひとへに十方諸仏と欲識すれば眼中花にあらず、 ひとへに眼中花と欲識すれば十方諸仏にあらざるがごとし。)〔一方を証するときは一方はくらしの道理。〕このようなわけで、「明らめることができる」のも、「まだ明らめることができない」のも、どちらも眼中の花であり、十方の仏なのである。(かくのごとくなるゆゑに、明得未明得、 ともに眼中花なり、十方仏なり。)「識りたいと思う」のも「そうでない」のも、その時に現成する不思議なことであり、はなはだめずらしいことである。(欲識および不是、 すなはち現成の奇哉なり、大奇なり。) 仏々祖々が言う、空華や地華の主旨は、このように風流なところがあるのである。(仏々祖々の道取する、空華地華の宗旨、 それ恁麼の逞風流なり。)空華の文字は、経典の学者や論典の学者も聞き及ぶことがあったとしても、地華の命脈(血脈不断なるいのち)は、仏祖でなければ見聞きする縁はないのである。(空華の名字は経師論師もなほ聞及すとも、地華の命脈は、仏祖にあらざれば見聞の因縁あらざるなり。) 地華の命脈を知り及んだ仏祖の言葉が〔次の段に〕ある。 (地花の命脈を知及せる仏祖の道取あり。) 十方の仏は真実でないのではなく、 もともと眼中の花なのである『第十四古鏡』14-6-3b 合掌
2025.12.26
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