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シニアになると1年間に2%も筋肉が減ると云われているとか。シニアになると運動量が減る、筋肉を使う生活習慣が少なくなる。筋肉は反復して使うと増える、逞しくなる。筋肉は使わないでいると退化してゆく。シニアになっても毎日筋肉を動かす生活習慣、ルーティンにしてしまえばいいわけです。2ケ月前から相撲の四股を取り入れ始めました。1週間に5回づつ増やしてゆき20週間で連続100回の四股踏みができるようになるという計画です。現在9週目に入り、連続45回の四股踏みです。始めた頃はしゃがみ込むとその場で立ち上がるには、掴まらないとできなかったのが、今ではその場で何も掴まらずにスクッと立ち上がることができるようになりました。脚力が回復していることが自覚できます。片足づつ交互に足を上げ1本足でバランスをとるわけですから必然的に体幹が鍛えられるということになります。雪が降り寒くなると日課の散歩をサボり、やらなくなり、例年春先になると体力の衰えを感じていたわけですが今年はそういうことがなくなる予定です。散歩をしなくても四股を踏むことによって脚力退化を防ぐどころか脚力アップが実感できるわけです。毎日続けるといい、運動習慣。自分にあった運動をやり続けるのと、身体を動かすことをしない生活では雲泥の差ができてしまうでしょう。生活の一部にしてしまうのにはルーティンにしてしまえばいいのです。
2021/01/25
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🟡 兆しに気づく感度を磨く人は日々、無数の「兆し」に囲まれて生きている。体のわずかな違和感、気持ちの揺らぎ、相手の表情の変化、空気の微妙な緊張や緩和——それらはすべて、次に起こる何かを静かに予告しているサインである。しかし多くの場合、私たちはそれを見過ごしてしまう。忙しさや習慣、あるいは「まだ大丈夫だろう」という思い込みが、感度を鈍らせてしまうのだ。兆しに気づく感度とは、特別な才能ではない。むしろ「立ち止まって感じる力」である。例えば、夜に自然な眠気を覚えたとき、それに素直に従うだけで体は整い始める。逆にそれを無視すれば、小さなズレが積み重なり、やがて大きな不調となる。健康とは、劇的な改善によって得られるものではなく、こうした小さな兆しへの応答の積み重ねの上に成り立っている。この感度は、暮らしだけでなく仕事においても大きな力を持つ。人の言葉の裏にある意図を感じ取る、場の流れの変化を察知する、あるいは物事がうまく進まなくなる前の微細な違和感に気づく——これらはすべて、兆しを捉える力に他ならない。優れた仕事をする人ほど、大きな問題が起きてから対処するのではなく、その前段階で静かに軌道修正をしている。では、この感度はどうすれば磨かれるのだろうか。それは決して難しいことではない。日常の中で「少し気に留める」ことから始まる。朝の目覚めの質、食事の後の体の軽さや重さ、誰かと話した後の心の余韻。そうした些細な感覚に意識を向けることで、自分の内側にあるセンサーは徐々に研ぎ澄まされていく。重要なのは、正しく判断することよりも「気づくこと」である。気づきさえあれば、人は自然と調整しようとする。逆に気づかなければ、どれほど知識があっても活かされない。兆しに気づく感度とは、自分自身との対話の深さであり、外界との関係性の豊かさでもある。年齢を重ねるほど、この感度の価値は増していく。無理を重ねるよりも、崩れる前に整えるほうが、はるかに自然で持続的だからだ。兆しに気づくとは、未来を予測することではなく、「今」を丁寧に受け取ることである。その積み重ねが、結果として健やかな循環と、しなやかな生き方をもたらしてくれる。静かな変化に耳を澄ますこと。それこそが、人生を豊かにする最も確かな技術なのかもしれない。 🔶 🔶 🔶 🔶 🔶
2026/05/16
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🟡 童心、国を興すの例えを思い出そう「生きるということは、未体験の世界を歩いていくことだ」と言われると、どこか難しく聞こえるかもしれません。けれども、少し考えてみると、とても当たり前のことに気づきます。私たちは、これから先に何が起こるのかを知らないまま、毎日を生きているのです。思い返せば、赤ん坊の頃はすべてが初めての連続でした。見るもの、触れるもの、聞く音、すべてが未知の世界です。それでも私たちは、不安に押しつぶされることなく、手探りで前へ進んできました。転んでも、うまくいかなくても、また立ち上がる。その力は、特別なものではなく、誰の中にももともと備わっているものです。ところが大人になると、「知らないこと」に対して少し身構えるようになります。失敗したらどうしよう、うまくできなかったら恥ずかしい、そんな思いが先に立ってしまうのです。ですが、本来の私たちは、知らないことだらけでも平気で前に進める存在だったはずです。ここで言われる「童心国を興す」という言葉には、大切な意味があるように思います。童心とは、子どものような無邪気さだけではなく、未知のものに対して素直に一歩踏み出す心のことです。「やってみたい」「面白そうだ」と感じる気持ちに従う、その自然な力です。その心を取り戻すことができれば、人生はもっと軽やかに、そして豊かに広がっていくのではないでしょうか。不安の正体は、「知らないこと」そのものではなく、「知らないことを怖がる気持ち」なのかもしれません。赤ん坊の頃の自分を思えば、知らないことは怖いものではなく、新しい世界そのものでした。その感覚を少し思い出すだけでも、心の持ちようは変わってきます。未体験の中を生きるとは、大きな挑戦をすることだけではありません。日々の暮らしの中で、小さな「初めて」に出会い、それを受け入れていくことです。その積み重ねの中に、自分の中の「童心国」が静かに育っていきます。そうして私たちは、いくつになっても、新しい一歩を踏み出していけるのだと思います。 🔶 🔶 🔶 🔶
2026/05/17
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たのしみは 初めて登る 滝富士の まだ見ぬ景色 眺め見るとき登山クラブ4月例会、滝富士 2018.4.16シーズン最初の足慣らしでした。今年度からお握りを極力自分で握って持ってゆくことにしました。これは鮭と梅肉です。もう一個はフキ味噌でしたがパン持参の友人に分けてあげました。美味いものでも分け合って食べた方が美味しいわけです。淡いピンクの山つつじ!子供のころ春先の里山はこの山つつじがそこかしこに咲き乱れていました。萌黄色に染まる山々の眺めはこの季節ならではもの!!下山後は移動して田村市の針湯荘で温泉タイム♨ここは今が桜満開でした。
2018/04/16
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差別化とは、人と違うことをする。「印象に残る」=「心象に残せるには」差別化したのが、はっきりわかるようにしないと意味がない。量と質による差別化。例えば、このBLOGのコメント書き込みですが、相手に心象に残るインパクトのある書き込みをしようと思えばほんのちょっとした工夫の差が大きな差になるのです。あっ、どこかこの人、他の人と違うかもしれないと思う書き込みは・・・・、相手のために親身になって書き込みをしてくれる人は、そうたくさんいるものではありません。自分の書き込みをするのと同じ位の文字数を、相手のコメント欄に書き残す人などありません。もっともだらだらと文字数だけ書いたら、変った人だなと思われるだけかもしれません。ハートに響く書き込みを残す、おおいに響感するものがある書き込みを残す。 こんなことがありました。ずいぶん過去のことですが、創業まもない知り合いから、「仕事を依頼してくれる顧客をどうやったら探せるの?」と尋ねられたのです。 これって、仕事が断るほどある人以外は関心のあることではないでしょうか。 人間はしょせん 「 人 対 人 」 人が人に仕事を依頼するのだから 不効率だと思うかもしれませんが 本屋さんに行って○○関係の専門誌に広告を出している会社の社長さんに直接手紙と当地の有名なお菓子をいっしょにして 宅急便でおみやげつきDMを送ってみたらいいよと助言したわけです。 電話の応対に関しては、ピカ一の彼ですから、東京からお礼と確認の電話が福島までかかってくる中での会話で話がまとまってしまったのです。 相手様は、そんな方法でアプローチされるなど初めての経験なはずです。結果、彼は2千円弱の投資で数百万円の仕事につながったのです。 ハートに響くことができれば、人の心は動くのです。 ハートに響くことを実践すればいいわけです。 人それぞれに、その方法はいろいろあるでしょう。 やる人は少ないのです。人のやらないことを無駄を惜しまず、よくここまでやるよなぁ~をさりげなくやればいいのです。 その効果たるや絶大なものがある場合があります。(但し相手が左脳系の人には響かないかもしれませんが・・・)
2008/06/21
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脳力開発(城野宏氏考案)では、脳を活かすことは「口と手と足」を具体的に動かすこと。誰にでもわかる表現で教えてくれます。では、そのとき具体的に、「口と手と足」をどう使うかが肝心なわけです。問題解決は具体手にやっていかないと前進しないわけです。 仕事と人生の結果 = 能力 × 熱意 × 考え方これは京セラの稲盛会長が云った言葉ですが、「 能力・熱意・考え方 」のいずれかがゼロであればゼロであるのだ。まだゼロであればいいほうだ。いずれかがマイナスであれば結果はマイナスになるわけです。 成果は = 相手の意思あるところに × アクション(働きかけ)仕事や人生には、すべて相手があることです。相手の心にどう働きかけるかということです。相手の心を動かすことです。人の心を動かすには・・・・ものを動かすには、力が要ります。力の足りない場合はテコなども使います。では、人の心を動かすには・・・どうしますか。 (・・・つづきはまた)
2008/01/05
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1月10日午前6時から年初の集まりは、今年一年の所感を色紙にしたためその色紙を持って各自その文字にしたところを発表しあうというものでした。私の場合は、いざ何を書こうかと思い浮かんできたのは「新鮮美感・新鮮対応」でした。色紙に書いたことがなかったので1年間眺めてみようと思ったわけです。そうありたい理想の姿を描く場合となかなか達成できない課題のいずれかを書き込むようになるわけですね。もっとやさしくわかりやすい表現で、一口に表したかったですが、まぁいいか。参加した人の書き込んだ文字は以下の通りでした。・想像したものを創造す・全一統体・百八人の和・進化、気づきと発見・信じる心、希望、愛、光・一笑多笑・最善尽力、心即太陽・夫婦は一対の反射鏡・明朗は健康の父、愛和は幸福の母・言魂を育てる心・これがよい
2008/01/14
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漁業では、獲れる魚の種類が変化しているそうですね。海水温が高くなって南の魚が北上を始めているということです。時代の変化が加速しています。従来にない変化も現われています。環境サミットがこの夏、洞爺湖ほとりで開催されます。世界的に地球温暖化対策を進めなくてはならない状況である認識とアメリカ、中国、インドなどが共同歩調に難色を示しているようです。もっともアメリカ合衆国も大統領が共和党から民主党に変われば、その見解も変化することになるかもしれません。世の中の変化には、逆らえません。変化には、変化対応です。変化対応力を養うことです。変化対応するには、まず自らの体質改善からです。組織の体質改善から、変化対応できる体質をつくることです。組織の体質改善は、組織のコミュニケーション力をもアップします。国も企業も、組織の体質改善&変化対応力です。今、何からどこから手をつけたらいいのかを決め、着手・実践です。◆ここ10年の変化:パソコン・インターネット社会(情報化社会)◆これから10年の予測:危機の時代(地球温暖化による天災・食料危機&スタグフレーション)◆期待するもの:インターネット社会の進化(誰でも使えるTVのようなパソコン)
2008/05/31
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最近、思うことの一つにつくづく便利な世の中になったと思います。 パソコンの使い方、とりわけ【 検索 】をうまく使いこなせれば、おおよそのことはわかる。 Web上に情報蓄積されたものを自分で探し出す能力です。 この【 検索 】を自分のものにできるかどうかによって、ずいぶん違うでしょうね。 ■知りたいこと、調べたいこと、欲しいもの、等々 自分のパソコンで知ることが可能な時代なのです。 情報化社会に対応するには・・・ 情報を整理してWeb上にオンしておくことでしょうね。 検索されるように情報をオンすることです。 この方法を身につけておけば情報検索された人に確実に見てもらえるということです。
2008/12/28
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夏だ!ということであさかの学園・クラスの暑気払いに参加!1泊2食付き@3500、市内在住60才以上は宿泊料800円の逢瀬荘です。冷えたビール付き、温泉付き、信じられない低価格なのです。市外の在住の方は2900円で素泊まり可能。5人部屋でいびきの大合唱でとても熟睡できる状況ではありませんでした。冷房換気扇を一晩中、肌寒いのだけど寝汗をかく、前の晩の体重計と朝風呂後の測定差が約2kgそんなに寝汗をかく!?というわけで、今日は昼寝で睡眠補給でした(笑)次回からは、いびきの合唱を避け、泊まらずに帰った方が無難なことを学ぶ!!正式名称は「郡山市高齢者文化休養センター・逢瀬荘」とリーフレットにありました。価格表を載せておきます。逢瀬荘の前の斜面に山百合が群生アップで撮影したら、もう赤とんぼが草の葉に羽根を広げているのを発見する
2018/07/15
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雨がっぱ 紅葉に負けぬ 鮮やかさ 権太倉山 華やか登山朝起きて家を出た時は曇天、天気予報では午後3時ごろまでは何とか持ちそうな予報だったのだが、あにはからんや現地に着くと小雨が降りだすではないか。よって薄い雲の中を歩くような幻想的な景色が楽しめました。紅葉も雨で現れて美しかったかも。足元が雨で滑り、頂上まで1kmの馬の背分岐で登頂断念でルートを変えて下山しました。下見した方々が頂上直下の濡れた岩場の登り下りを懸念した判断だとのことだった。先月、磐梯山の下りを考えたら妥当な判断かも、なにしろ70台後半の方も多い団体です。今回は56名の参加だった。権太倉山は全山が火山岩でできているようだ、珍しい柱状節理が見られる場所もあり、隈戸川流域は一枚岩の滑床が見られた。来年の山開きの日にぜひリベンジ登山してみたい。参加者が56名もあり紅葉よりも参加者の雨がっぱのほうが色鮮やかだった。私の雨がっぱスタイルです。頂上まで1kmの馬の背分岐で休憩、ここで登頂断念しルートを変えて下山となりました。雨で頂上でも眺望は望めないし、山頂直下の岩場の上り下りが濡れて滑りそうだとの下見隊の危険回避判断でした。隈戸川の源流です。一枚岩スラブの珍しい滑床が見てとれます。聖ヶ池ビジターセンターに戻り、ここで昼食でした。隈戸川が脇を流れます。山を早めに降りたので1~3時までの2時間の温泉休憩タイム、藤沼温泉やまゆり荘の大広間貸し切りです。ビールの自販機が空になるほどでやまゆり荘もビックリだったらしい。藤沼温泉やまゆり荘の大広間から藤沼湖の眺め!藤沼温泉の露天風呂は源泉かけ流しですこぶるナイスな温泉でした。以前入ったときよりも湯質が良くなっていたように思う。これは新発見だった。
2019/11/11
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うどん&そばを食べるときに、それだけ食べる前に野菜を食べたいと思ったときに閃いたのがうどん&生蕎麦を茹でるときにキャベツの葉と一緒に茹であげるというものです。一石二鳥で茹であがります。栄養バランス的にもこれいいでしょう。蕎麦乾麺もうどん乾麺も茹でる時に、キャベツの葉を一緒に沸騰した鍋に入れるわけです。
2023/04/16
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生成AIを使って漢詩をサクサクつくれると云う事に気づいて、これは凄いことだと思った。高校生のころ漢文を習ったが漢詩をつくれるまで至らなかったわけです。使いこなせる漢字の知識が足りなかったわけです。ところが、生成AIを駆使すると、また琢磨にサクサクと漢詩ができあがる現実をかいま見るとこれは凄いと思わざる得ないわけです。趣味の詩吟の世界は、教本に印刷された著名な漢詩を吟詠するわけですが、10年20年30年と人の作った漢詩を詠ずるだけでは少し物足りないと思わないのだろうか。私だってい漢詩を詠んで自分でそれをいつの日にか吟詠してみたいとの想いを持っておりました。生成AIと云うものが世に出て、無料で使えると云うことを知り、これってもしかして漢詩をつくることに使えるのではないだろうかと思ったので、ものは試しとやってみたわけです。あっけにとられるほど簡単にサクサクと漢詩が生まれてくるのにビックリ驚愕。これは面白いと思ったのです。同じように詩吟を学び吟じている仲間にも、この体験を広めたらさぞや喜ばれるのではないかと思ったわけです。稽古の始まる1時間前に、希望される方にAIの操作を伝えますよと、レジメをプリントして持参したわけです。70代でもスマホを駆使してLINEグループで連絡網としてのやりとりもしているので難しいことではないだろうと思っていた訳ですが、これがなかなかやっていない事に足を踏み入れるのに二の足を踏む状況。ほんのちょっとしたことをのりこえるのが大変なのかも。この次は、興味があるか、どうかを見極める撒き餌作戦をやってみてからですね。私の試作した漢詩(五言絶句、七言絶句、五言律詩、七言律詩)を印刷したものを見てもらって、これらと同じような漢詩がサクサクとできるようになる方法を知りたくないですか⁉️と尋ねてみる。初めて作ったものですが30分もあればこの5本完成できるように成るんですよ。漢詩勉強会をやりませんかと。 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆🔳 漢詩における「平仄」と「韻合わせ」は、詩のリズムや音楽性を生み出す重要な要素です。 それぞれについて詳しく説明いたします。### 平仄(へいそく)平仄は、漢詩の音韻に関する規則で、音の高低を表します。具体的には、以下のように分類されます。- 平声(へいせい):音が平らで、穏やかな音調を持つ音。通常、第一声と第二声に該当します。- 仄声(そくせい):音が高く、強調された音調を持つ音。通常、第三声と第四声に該当します。漢詩では、平声と仄声を交互に配置することで、リズムを作り出します。例えば、五言詩や七言詩では、特定の位置に平声と仄声を配置することが求められます。### 韻合わせ(いんあわせ)韻合わせは、詩の末尾の音を揃えることで、音の響きを整える技法です。漢詩では、特定の韻を持つ言葉を使用して、詩の各行の最後の音を一致させます。韻は、同じ音で終わる言葉を使うことで、詩全体に統一感を持たせます。例えば、五言絶句や七言律詩では、特定の韻を持つ言葉を使用することが一般的です。韻の種類には、平韻と仄韻があり、詩の形式によって使い分けられます。### まとめ- 平仄:音の高低を表し、詩のリズムを作る。- 韻合わせ:詩の末尾の音を揃え、音の響きを整える。これらの要素を考慮しながら漢詩を作成することで、より美しい詩を生み出すことができます🔳Britannica AIは、無料で使えるの⁉️Britannica AIは、Encyclopaedia Britannicaが提供するAIチャットボットで、信頼性の高い情報を提供することを目的としています。 ブリタニカこのサービスは、無料で利用できるとされています。 ブリタニカただし、詳細な利用条件や機能については、公式ウェブサイトで確認することをおすすめします。 ブリタニカまた、Britannica InsightsというMicrosoft Edgeのアドオンも無料で提供されています。 MICROSOFT EDGEこのアドオンを利用することで、ウェブ検索時に信頼性の高いブリタニカの情報を簡単に参照することができます。さらに、ブリタニカ・ジャパンは日本向けに「ブリタニカ・クエスト&サーチ」というデジタル教材を提供しています。 ブリタニカこれにより、画像や動画を通じて新たな発見の喜びを知る創造性と探究心を育むことができます。これらのサービスを活用することで、信頼性の高い情報にアクセスし、学習や調査に役立てることができます。🔳 将棋の世界で藤井聡太さんがAI将棋ソフト研究で棋力を高めてきたと云われましたが、AI将棋ソフトはいつ頃から世に出回り始めたのでしょうか。AI将棋ソフトは1990年代から研究が進められていましたが、実際に注目を集めるようになったのは2000年代以降です。以下はAI将棋ソフトの主な発展の歴史です。1. 1990年代:初期の将棋プログラムこの時期には、将棋プログラムはまだプロ棋士には及ばないレベルでしたが、アマチュアレベルでは実用的になりつつありました。代表的なプログラムとしては「Bonanza」の前身となるソフトなどがあります。2. 2000年代:Bonanzaの登場と評価関数の革新2006年にリリースされた「Bonanza」は、機械学習を取り入れた画期的な将棋ソフトとして登場しました。ボナンザメソッドと呼ばれる手法は、大量の棋譜データを学習させることで評価関数を自動生成し、人間を超える判断力を持つようになりました。3. 2010年代:ディープラーニングと将棋電王戦の盛り上がり2012年から2017年にかけて「将棋電王戦」が開催され、AI将棋ソフトとプロ棋士の対局が注目を集めました。特に2013年には、「Puella α」や「GPS将棋」がプロ棋士に勝利し、AIの強さが世間に広く認知されました。4. 2017年以降:ディープラーニングの進化とAlphaZeroの登場2017年に登場したGoogleの「AlphaZero」は、従来の手法とは異なり、ディープラーニングと強化学習のみで圧倒的な棋力を持つAIとして話題となりました。AlphaZeroの登場に刺激され、日本でも「elmo」や「水匠」などの強力な将棋ソフトが登場し、現在のAI研究を牽引しています。藤井聡太さんとAI研究藤井聡太さんはデビュー当初からAI将棋ソフトを活用して研究を行い、序盤や終盤の新しい戦術を生み出してきました。特に「水匠」や「やねうら王」などのソフトを参考にして分析し、独自の棋風を磨いているとされています。このようにAI将棋ソフトは2000年代から進化を続け、現在ではプロ棋士も日常的に研究に活用する重要なツールとなっています。冬の青菜は貴重ですね。葉が縮れている何という名の野菜だろうか。茹でただけで甘くて美味い。サラダドレッシングorポン酢をかけて食べる。煮込みうどんに入れても良いわけです。味付け油揚げも美味しい。
2025/01/09
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2年ぶり位だろうか、顔を見たのは、70代も後半になるとずいぶんと老化現象が進むものです。いわゆる見た目ですね。12年前に初対面の頃はまだ若々しさがあった。あれから12年経過して70代後半、無理からぬことかも。私もあと12年経過したら85才。詩吟コンクールで昨日会った92才は若々しかった。歩く姿勢と歩くスピードが若々しい。姿勢を保つ筋力というものがある。老化速度は人によって違います。意識して日頃から鍛錬している人との差は歴然です。継続して鍛えていけるかの差でしょうね。歳をとる事は避けられません。だがそこに歳の取り方というものが存在するかと思われる。今後は意識して元気な老人にインタビューを心掛けてみよう。若々しくみえる人は、背筋がまっすぐと伸びている。歩くスピードがはやい。言語明瞭でもって、目の輝きがあるなどの共通点がある。そうした若々しさは、決して偶然の産物ではないと思う。日々の積み重ね、習慣の力、そして何よりも「まだまだこれから」という前向きな心持ちが、身体全体に表れてくるのだろう。歳を重ねるごとに、諦めの感情が顔を出すことがある。だが、そのたびに「いや、まだできる」と自分に言い聞かせ、小さな挑戦を続ける人が、老いを老いとして感じさせない存在となるのかもしれない。このごろ、「姿勢を保つことは、意志を保つことだ」と感じることが増えた。背すじを伸ばすと、気持ちも引き締まる。歩幅を広く、リズムよく歩くと、不思議と前向きな気持ちが湧いてくる。身体の使い方一つで、気分も思考も変わるということなのだろう。元気な高齢者を観察していると、彼らは話題も豊かで、時代に取り残されまいとする姿勢がある。新聞、スマホ、テレビ、書籍、あらゆる情報に触れ、自分の世界を狭めないようにしている。つまり、「自分はまだ発展途上だ」という気概があるのだ。年齢を重ねても、学びを止めない人は、やはりどこか光っている。今後、自分もそのような生き方を志したい。ただ歳を取るのではなく、「どう歳を取るか」を問い続けていきたい。老いは衰えではなく、完成に向かう過程でもあると信じたい。明るく、凛として老いていく――それが私の理想だ。 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆「人生とは何ぞや⁉️」or「生きるとは❗️」そんな素朴な疑問を高校1、2年の頃に随筆にしたことがあった。所属していたワンダーフォーゲル部の活動誌への投稿を見た部活顧問の先生からそう言うことも考えているの‼︎と声をかけられた事があります。この本は、そんな素朴な課題のヒントが書かれた書物かも。「人生は1冊の漫画だ」水木しげるが描いた“死”の比喩が鋭すぎて、ぐうの音も出ない(久坂部 羊)『死が怖い人へ』(久坂部羊、SBクリエイティブ)
2025/08/08
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AIが登場することによって取って代わられる仕事、事務系ホワイトカラーの仕事などが挙げられています。一方で人間対応だからこその仕事と云う分野もあるわけです。「気功手当」と云う分野は人の手による波動体温によって気の流れ、血液の流れ、リンパの流れを整えて治癒に至るわけです。掌の温もりが人を癒すわけです。AIとの融合はあるかもしれませんがAIだけでは到底できない分野であろう。 テクノロジー進歩著しいAI社会においては、人間だからこその分野しか生き残れないかも。でもそこにもAIとの共存は不可避かもと考えます。テクノロジーの進歩が目覚ましい現代、AIの活用範囲はますます広がり、医療、教育、経済、創作活動など多岐に渡っています。けれども、どこまで進化してもAIにできないことが確かに存在します。それが「人と人とのあいだに生まれる、非言語的で感覚的な交感」です。気功の「手当」はまさにその最たる例でしょう。施術者の掌から伝わる温もり、呼吸の共鳴、場の気配――それらは言語や数値ではとらえきれない、身体と心の奥深くに作用する力です。一方で、気功の技術を科学的に解析し、より効果的な実践へ導く補助手段としてのAIの可能性は否定できません。例えば、脈拍や皮膚温度、脳波、筋肉の緊張度といった生体データをリアルタイムで測定し、それを気功師にフィードバックすることで、より個別性の高い施術が可能になるかもしれません。また、AIは気功師の経験則をデータ化・体系化し、次世代の学習や訓練にも貢献できるでしょう。しかし、AIがどれほど補助的な役割を担おうとも、「気の流れを感じ取り、共鳴させて整える」といった“共感”の技術そのものは人間にしか担えない領域といえます。これは単なる治療ではなく、人の心と体のバランスを整える「癒しの芸術」であり、AIの計算では到達し得ない「間(ま)」や「気配」の世界なのです。つまり、AIがいかに進化しようとも、気功の本質は人間の“在り方”そのものに宿ります。だからこそ、これからのAI社会においては、「人間にしかできない仕事」を意識し、その価値を高めていくことがますます重要になるでしょう。AIとの共存を視野に入れつつも、人間性を磨き続けること。それが、これからの時代を生き抜く鍵になるのかもしれません。 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆春こま食堂deみそラーメン¥900(郡山市小原田)表ののれんの上に出ている看板に「みそラーメン」とあるのだ。これはこの店の一番の売りなのだろう❗️味噌味は日本人のソウルフード。安心の味なのだ。ここの味噌ラーメンは素朴で実に美味しい。春こま食堂の入口に置いてあった鉢植え、葉っぱから想像するにタンポポの亜種或いは突然変異か、いずれにしても珍しい花だと思ってパチリ❗️
2025/08/09
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🟡 気づいた時が、始まりでいいのだ「わかっていること」と「できていること」は、似ているようでまったくの別物だ。頭では理解しているのに、いざ行動となるとできない――そんな経験は誰しも山ほどあるだろう。「わかったつもり」は案外くせ者で、理解した安心感だけが先に立ち、実際の一歩が伴わない。知識と実践が一致して初めて、本当に身についたと言えるのだろう。この“知っている”と“できている”の一致を、古くから「知行一致」と呼ぶそうだ。言葉にすれば簡単だが、これを日常で貫くのはなかなか骨が折れる。「わかっちゃいるけどやめられない」という古いフレーズがあるが、まさに人間の弱さを言い当てている。健康にいいと知りつつ運動を先延ばしにし、やるべきことを後回しにする。理解と行動の間には、思いのほか深い溝がある。しかし、その溝に気づいたときが転機でもある。できなかったことが、少しずつできるようになる。それはとても単純だが、確かな進歩だ。大きな変化でなくてもいい。昨日より一歩踏み出せたなら、それは立派な前進である。ふと振り返れば、「もっと早く気づいていれば」と思うこともある。気づいた頃には、もういい歳だと苦笑したくなるかもしれない。だが、遅すぎるということはない。情けなさを感じるのも、人が成長しようとする証拠だ。大切なのは、そこで立ち止まらず、「ここから始めればいい」と腹をくくることだろう。生きている限り、今日が始まりでいい。知ったことを、ほんの少しでも行いに移す。その繰り返しが、やがて自分の地力になる。知識を飾りにせず、暮らしの中で息づかせること。それこそが、年齢に関係なく続けられる静かな挑戦なのだ。気づいた今この瞬間が、いちばん新しいスタートラインなのである。ものごとを始めるのに、遅いと云うことはない。今日から始めようと思えばいい。始めれば始まるのだ。気づいた時がタイミングなのだ。 🔶 🔶 🔶 🔶 🔶
2026/03/13
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🟢 自分軸に生きる生き方自分軸に生きるとは、自分に正直に生きることである。他人の評価や世間の物差しをまったく無視するという意味ではない。しかし、それらを最終判断の基準にしてしまうと、いつの間にか自分の心の声はかき消されてしまう。周囲に合わせ、波風を立てず、無難に整えていく生き方は一見安全に見える。けれどもその裏側で、自分の本音や願いを押し込め続けるならば、それは「自分を殺して生きる」ことに近づいてしまう。今生を授かった意味は、他の誰かになることではなく、「この私」として生きることにあるのではないだろうか。自分軸とは、特別な才能や強烈な個性のことではない。日々の小さな選択の中で、「本当はどうしたいのか」と問い続ける姿勢そのものが軸になる。最初から明確な軸を持っている人は少ない。あれが良さそうだ、これも面白そうだと、見よう見まねで始めてみる。人に勧められてやってみる。少し背伸びをして挑戦してみる。そうした試行錯誤の中で、「これはしっくりくる」「これはどこか違う」という感覚が少しずつ磨かれていく。継続は不思議なもので、続けているうちに他人の価値観だったものが、自分の体験として血肉化していく。やり続ける時間は、自信を育てる土壌でもある。大きな成功でなくていい。昨日より少し前に進めたという実感が、静かな自己信頼を芽生えさせる。その自己信頼こそが自分軸の芯になる。芯ができると、外からの評価に一喜一憂しにくくなる。褒められても舞い上がりすぎず、批判されても必要以上に崩れない。なぜなら、自分の中に拠り所があるからだ。自分軸に生きるとは、頑なになることではない。むしろ柔軟である。他者の意見に耳を傾けつつも、最終的な選択は自分で引き受ける覚悟を持つことだ。失敗しても人のせいにせず、成功しても驕らない。その積み重ねが、オリジナルな自我を形づくっていく。人生は一度きりである。だからこそ、自分の内なる声に耳を澄まし、自分という存在を丁寧に扱いながら歩んでいきたい。自分軸に目覚めるとは、特別な変身ではなく、静かに「これが私だ」と引き受けること。その覚悟が、日々を確かなものへと変えていくのである。 🔶 🔶 🔶 🔶🟢自分軸に生きる――それはオンリーワンな生き方に目覚めること自分軸に生きるということは、ただ単に他人に依存せず自由に振る舞うことではない。それは自分自身の「価値観」「志」「生きる意味」を丁寧に掘り起こし、それを人生の羅針盤として使うことである。横並びの価値観や、世間の常識が強制する枠組みに従うだけの人生は、一見安全だが、知らず知らずのうちに自分の本当の感性や願いを埋没させてしまう。自分軸とは意志の中心であり、それが確立されたとき、誰とも比較する必要がなくなる。なぜなら、あなたの「基準」は他の誰でもなくあなた自身が創り上げるものだからである。「オンリーワン理念」とは、こうした自分の根っこを言葉として言語化し、志として定める営みである。それは単なるスローガンではなく、自らの内面と向き合い、人生における自分の位置づけを明確にするプロセスだ。「自分のやりたかったことをやろう」「人生の主人公になる」という発想は感情論ではなく、自己実現へのロジックでもある。まず自分の思いや価値観を書き出し、それを日々の行動に落とし込むことこそが、自分軸を確立する第一歩である。これは単に「好き」を列挙する作業にとどまらず、優先順位をつけ、実際に動くための設計図を描く行為でもある。もちろん、「自分」を発見することは一回で完了するものではない。最初は見よう見まねでも構わない。無理に偉大な理想を掲げる必要もない。自分軸は、試行錯誤を通して徐々に形づくられていくものであり、その過程が価値ある経験となる。行動し続けることで、自信が育まれ、やがて自分が何を大切にしているのかが明らかになってくる。努力は目に見える成果として現れる必要はない。自分自身を信頼できるようになるその変化こそが、唯一無二の生き方を創り出す原動力となるのだ。自分軸に生きるということは、オンリーワンな存在としての自覚を持つということでもある。他者と比較して優劣を競うのではなく、他者にはない自分だけの視点と感性を大切にする。それは「自分の価値は自分で創る」という発想につながる。オンリーワン理念には、まさにこうした価値観の根幹がある。自分の志を明確にし、それを日々の行動に変換するとき、人はもっと主体的に人生を切り拓くことができるのである。また、自分軸で生きることは、決して孤立ではない。他者との関係性の中で、自分の理念が磨かれ、共感と対話によってさらに深まることもある。他者との違いを認め、互いの価値観を尊重することは、自分軸を育むうえで重要な要素だ。その意味で、オンリーワンな生き方は他者を否定するのではなく、他者とともに自分自身を表現するという豊かな生き方でもある。結局、人間の幸福とは、誰かと同じ人生を歩むことではなく、自分自身の人生を主体的に創造していくことにある。自分軸で生きるとは、他の誰でもない「自分自身」と向き合い、その生き方を選び取る覚悟を持つということだ。そしてその選択こそが、真に自分らしい、オンリーワンな人生を形づくっていくのである。 🔶 🔶 🔶 🔶🟢 自分軸に生きる――オンリーワン理念・第2章自分軸に生きるとは、オンリーワンな生き方に目覚めることである。人はつい、ナンバーワンを目指そうとする。順位、評価、比較。社会は常に横並びの物差しを差し出してくる。しかし私は思う。人生とは競争の場ではなく、表現の場ではないかと。誰かに勝つためではなく、「自分という存在をどう生き切るか」という問いこそが本質である。オンリーワン理念とは、自分の内奥にある志を言葉にし、自らの人生に宣言する行為である。これは理屈ではなく、覚悟である。「私はこう生きる」と静かに定めることだ。若い頃は他人の価値観に揺れ、時代の風に流されもした。しかし、揺れ動いた歳月があったからこそ、今ようやく見えてきたものがある。自分にしか果たせない役割、自分にしか書けない言葉、自分にしか歩めない道筋である。最初から確信があったわけではない。見よう見まねもあった。影響も受けた。だが、続けるうちに気づくのである。「ああ、これは私の声だ」と。継続とは不思議なもので、やがて他人の言葉は剥がれ落ち、最後に残るのは自分の本音だけになる。そこから芽生える自信は、声高ではないが揺るがない。オンリーワンとは孤立ではない。むしろ逆だ。それぞれが自分軸を持てば、比較は不要になる。他者は競争相手ではなく、尊重すべき異なる表現者になる。違いがあるから世界は豊かになる。私が私を生きることは、あなたがあなたを生きることを肯定する行為でもある。人生は一度きりである。ならば、自分を抑え込みながら終えるのは惜しい。自分軸を立てるとは、自分を解放することだ。遠慮や恐れを少しずつ手放し、「これでよい」と腹を据えることだ。オンリーワン理念は理想論ではない。日々の小さな選択の積み重ねである。今日何を選ぶか。誰のために働くか。何を大切にするか。その一つ一つが、自分軸を太くする。やがて気づく。自分軸に生きるとは、特別になることではない。本来の自分に還ることなのだと。そのとき、人は静かに強くなる。そしてその姿こそが、オンリーワンな人生の証なのである。 🔶 🔶 🔶 🔶
2026/03/31
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🟡 文芸 & AI研究会何かを始めようとすると、不思議なことに、それまで見えなかった世界が急に輪郭を持ちはじめます。街の看板、書店の棚、新聞の片隅の記事、インターネット上の小さな投稿まで、自分の関心に呼応するように目に飛び込んでくるのです。人は関心を持った瞬間から、世界の見え方そのものが変わるのかもしれません。昨年秋に「文芸同人誌をつくってみたい」と思い立ち、仲間を募って活動を始めました。文章を書くことが好きな人、読むことが好きな人、自分の思いを言葉にして残してみたい人。そんな人たちが集まり、一冊の本を目指して知恵を出し合う。これは単なる冊子づくりではなく、人と人との創造的な出会いでもあります。昔、同人誌といえば印刷費も部数もそれなりに覚悟が必要でした。しかし今は時代が変わりました。一冊から本をつくれるオンデマンド印刷もあり、個人でも気軽に作品集を形にできる時代です。自分史でもよし、随筆集でもよし、詩や短歌、俳句でもよい。人生の節目に記念として本をつくることさえ可能になりました。書く人にとって、これほど追い風の時代はないでしょう。さらに現代ならではの特色として、生成AIの存在があります。文章の構成相談、題材の掘り下げ、表現の推敲、アイデアの壁打ち相手としてAIは実に頼もしい存在です。AIと共作する文芸、AIを一人の作家として迎える試みさえあり得る時代です。人間の感性とAIの補助能力が交差するところに、新しい文学の芽が生まれる可能性もあります。また、noteなどの発信の場に短文を載せていると、#ZINE、#ZINE活動 という世界があることにも気づきます。小さな冊子を自主制作し、自分の思いや作品を自由な形で世に出していく文化です。商業出版とは異なる、手づくりの熱量があります。こうした周辺文化に触れると、「本をつくる」とはもっと自由で、もっと身近な営みなのだと感じさせられます。文芸同人誌づくりを進めながら、並行してAI研究会で学びを深めていく予定です。創作と学びを同時に進めることは、車の両輪のようなものです。感性だけでも足りず、知識だけでも広がらない。その双方が刺激し合うことで、表現はより豊かになっていきます。何かを始めると、その周辺の情報が次々に目に留まるようになる。これは偶然ではなく、自分の内側に新しいアンテナが立った証拠でしょう。行動した人にだけ見えてくる景色があります。文芸同人誌づくりもまた、その景色の中で始まる新たな試みなのです。 🔶 🔶 🔶 🔶 🔶🔲 ちょっと気になる言葉に 「ZINEとは」今、再注目される「ZINE」とは?起源と魅力、PR・販促としての ...ZINE(ジン)とは、個人や小さなグループが自由なテーマで、好きなように制作・編集して発行する「自主制作の小冊子」のことです。営利目的の出版物とは異なり、編集者を通さず、表現形式(内容、紙、製本など)が完全に自由である点が大きな特徴で、近年クリエイティブな表現手法として再注目されています。 ZINEの主な特徴と魅力「好き」を形にする: 趣味、写真、エッセイ、コラージュなど、テーマは自由。特定のファンに向けた小冊子(ファンジン)が語源。高い自由度: 商業出版物ではないため、誰にも縛られず自分のアイデアを表現できる。ハンドメイド感覚: コピー機で印刷してホチキス留めする「コピー本」や、手書き、切り貼りで作るなど、あたたかみがある。DIY(Do It Yourself): 制作、印刷、販売まで全て自分たちで行うため、インディペンデントなカルチャー。交流のツール: 自身の世界観を伝える手段であり、イベントなどで読者と直接繋がることができる。 ZINEと似た言葉との違い同人誌: アニメ、漫画、小説などジャンルが特化していることが多いが、ZINEはより表現の幅が広い。ミニコミ: 情報共有が目的の「ミニ・コミュニケーション」誌。ZINEの方がより個人的・情緒的な表現が強い。 SNS時代にあえて「紙」という物理的な形にこだわることで、自分の想いや個性を深く伝えられるメディアとして、アートやファッションの分野でも人気が高まっています。
2026/04/25
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🟡 天体観測という趣味 天体観測という趣味は、単なる星空の鑑賞にとどまらず、人間の知的好奇心と探究心を極限まで引き出す営みであるそうだ。そう言われるとどんなものだろうと興味も湧きます。福島県三春町に住む62歳の観測者が、口径25cmの天体望遠鏡を用い、太陽系の外周、海王星の外側を回る天体に薄い大気の存在を見出したという新聞報道は、その象徴的な例といえるだろう。趣味の域にありながら、未知の領域に迫るその姿勢には、並々ならぬ情熱が感じられる。天体観測は、決して気軽な娯楽ではない。夜間の観測は天候に左右され、月明かりや街の光にも影響を受ける。機材の調整や継続的な記録も必要であり、忍耐力と集中力が求められる。福島のように四季の変化がはっきりした地域では、冬の冷え込みや夏の湿気といった自然条件とも向き合わなければならない。それでも観測を続けるのは、夜空に広がる宇宙への尽きない魅力があるからにほかならないだろう。とりわけ印象的なのは、「趣味」と「発見」が地続きになっている点である。専門の研究者だけでなく、個人の観測者が積み重ねたデータや観察が、新たな知見につながることがある。今回のように、遠方天体の大気の存在に気づくという成果は、日々の地道な観測の積み重ねがあってこそ生まれるものである。そこには「好きだから続ける」という純粋な動機と、「まだ見ぬものを知りたい」という探究心が融合している。また天体観測は、人間の時間感覚を拡張する体験でもある。遠い天体から届く光は、何年、何十年、あるいはそれ以上の時間を経て地球に届く。その光を受け取る瞬間、観測者は過去と現在、そして宇宙の広がりの中に自らを位置づけることになる。日常生活では得難い、静かで深い思索の時間がそこにはある。日常ではなかなか経験できないことです。さらに、この趣味には「待つ」ことの価値が含まれている。観測に適した夜を待ち、星の動きを追い、わずかな変化を見逃さないよう集中する。効率や即時性が重視される現代において、こうした時間の使い方はむしろ贅沢であり、人間らしい営みとも言えるだろう。天体観測とは、結局のところ「見えないものを見ようとする意志」である。福島県三春町の一人の観測者が示したように、その意志が積み重なったとき、趣味は単なる個人的な楽しみを超え、未知の世界への扉を開く力となる。そこには、宇宙への憧れと人間の可能性が静かに息づいているともいえよう。 🔶 🔶 🔶🔲 無料でweb集客をしませんか。
2026/05/06
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🟢 物事をどう解釈するかが行動に現われる人間の行動は、目の前に起きた出来事そのものによって決まるのではない。「その出来事をどう意味づけるか」という内面的な解釈によって方向づけられている。たとえば同じ出来事でも、ある人は「好機」と捉え、別の人は「脅威」と感じる。この違いが、その後の行動の差となって現れる。つまり、外界の事実よりも、内面の解釈こそが行動の起点なのである。そして重要なのは、この解釈が一時的なものではなく、長年の思考の積み重ねによって形成された「傾向」や「習慣」であるという点である。人は無意識のうちに、自分なりの枠組みやフィルターを通して物事を見ている。そのフィルターは、過去の経験や価値観、信念によって形づくられ、繰り返し使われることで固定化していく。結果として、似たような場面に出会うたびに、似たような解釈をし、似たような行動をとるようになる。講演会で常に前の席に座る人の例は、その象徴である。彼らは「前に座るとよく学べる」「積極的に関わるべきだ」という解釈を持っている可能性が高い。その解釈が自然と行動に結びつき、やがては意識せずとも同じ選択を繰り返すようになる。一方で後方に座る人には、「目立ちたくない」「気楽に聞きたい」といった別の解釈が働いているかもしれない。どちらが正しいかではなく、解釈の違いが行動の違いを生んでいるのである。このように、人の行動パターンは偶然ではなく、日々の解釈の積み重ねによって形づくられている。言い換えれば、行動を変えたければ、出来事そのものを変えるよりも、その受け止め方、すなわち解釈の習慣に目を向ける必要がある。解釈が変われば、見える世界が変わり、自然と選ぶ行動も変わっていく。人は自分の解釈の中で生きている。その解釈は無意識に繰り返され、やがて人格や運命と呼ばれるものにまで影響を及ぼす。だからこそ、自分は物事をどう捉える傾向があるのかを知ることは、単なる自己理解にとどまらず、未来の行動を選び直すための重要な鍵となるのである。 🔶 🔶 🔶 🔶 🔶 人間というものは、出来事そのものに動かされているのではない。その出来事をどう受け止め、どう意味づけるか――すなわち「心の解釈」によって、すべての行動が決まってくるのである。同じ境遇に置かれても、ある者は勇み立ち、ある者はしり込みする。その違いは外にあるのではない。内にある。心の持ち方一つで、世界は明るくも暗くもなるのだ。しかもこの解釈は、偶然に生まれるものではない。日頃の思い方、考え方の積み重ねによって、知らず知らずのうちに型となり、習慣となる。一度身についた心の癖は、同じような場面に出会うたびに、同じような判断を生み、同じような行動を繰り返させる。たとえば、常に前へ出る者は、前へ出る心を持っている。機会を見れば退く者は、退く心を養っている。行動の差は、すでに心の中に準備されているのである。だからこそ人間は、外の出来事をどうこうする前に、自分の心を正しく統御しなければならない。いかなる場合にも、「積極的に解釈する」という習慣を養うことだ。不運と思えることに出会っても、それを試練と受け取るか、成長の機会と見るかで、その後の人生はまるで違ってくる。心が変われば、解釈が変わる。解釈が変われば、行動が変わる。行動が変われば、運命すらも変わっていく。人生を切り拓く鍵は、外にはない。常に、自分の心の中にあるのである。 🔶 🔶 🔶 🔶 🔶
2026/05/08
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