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今回から、中二へ上がります。先ずしばらくは英語の未来表現について考えてみましょう。 「どぶネズミ英語」では未来表現に関しては、「will は未来を表し、be going to と同義である」「往来発着を表す動詞は現在進行形の形で未来を表す」と言うだけである。それどころか、will+原形 を「未来形」とまで呼んでいる。「未来表現」という用語すらない。 だから、日本人全体が「willは未来、未来だから will になる」と信じ込まされているわけである。自分もそうだった!! 予備校の夜間の高校部でキリスト教系中高一貫の女子高の生徒だけが来ていたクラスを担当したことがあった。そこで「私たちの列車はあす朝8時に出ます」という英作問題があったが、20人ほどの生徒全員が何と“will leave” としたのであった。 その理由は「未来だから will になる」であった。そして「それは違う」と言うと「未来なのに will にならないのが分からない」と言って理解することを放棄してしまった。 キリスト教系の学校だから外人先生もいろいろ居るだろうに、日本人の「どぶネズミ教師」が彼女らのアタマをこのような「willゾンビ」にしてしまうのだ。そして日本人全体がこれと同じになっているはずだ。 「will は未来を表さない!!」。willは can や may と同列の単語で、それ自身固有の意味を持っている。 「will が“未来”という時を表すのではない」。しかし、「どぶネズミ」さんたちのアタマの中は「will は未来」で固まってしまっている。そしてそのガン細胞をそっくりそのまま生徒のアタマの中に移植しているのだ。 will の意味は「意志」と「予測」である、「時」ではない。 現代ドイツ語では「意志」には wollen [ヴォレン](=will)を用い、「予測」には werden [ヴェルデン]を用いる。 古代英語でもこの werden に似た綴りの単語が「予測」を表していたが、英語ではこれが will に吸収されてしまった。だから今のwill は「意志と予測」という何の脈絡もない二つの意味を持っているのである。zawanak@gmail.com (中沢俊一)
March 14, 2008
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「学校英語」ではいとも簡単に「as~as は同等比較を表す」と言うが、生徒はまた分からないままにこれを丸暗記するわけだ。何で“as~as”が同等比較なのだ。そもそも“as”とは一体何なのだ。こういったことは何も教えないでいて「as~asは同等比較を表す」として暗記を強いる。これが「どぶネズミ英語」の実態である。 語源辞典によると、“as”は古代英語で「全くそのように」の意を表した単語の短縮形だそうだ。「全くそのように」とは対象となる相手があることになる。だから現代英語では“as”は「二つの物または人が同じである」ことを表す。だから「比較」に用いると「同等」を表すのだ。 She is as tall. 「彼女は同様に背が高い」では何と同様なのかが分からない。だからその後に説明が必要だ。それで She is as tall as he is (tall). 「彼女は同様に背が高い、彼が高いようにね」で話が分かる。「二人の背の高い感じが同じ」なのだ。これで同等比較が出来上がる。 “as”は多義で難しい。しかし、「同じ」ということでそれぞれ説明がつくと思う。(1) 時:~する時に(=同時) (2) 比例:~するにつれて(=二つの事柄の平行した同時進行)(3) 様態:ように(=対象と同様に)(4) 理由:~なので(=ある行為と原因が同根)(5) 比較:同様に (6) 譲歩:~ではあるが(=ある常識とは反対の状態・行為または結果が原因と同根)[← Young as he is, he is very cool and wise.] when も「時」を表すが、“as”は「同時」なのだ。「E-Gate」から文例を貰うと I saw him walking up the street just as I was getting on a city bus. (ちょうど市バスに乗ろうとしていたときに、私は彼が通りを歩いていくのを見かけた) この“as”は正に「同時」である。だが、ここに“when”を使うことは出来る。「“when”は同時をも表す」からだ。 しかし「when は時間的差をも表す」。 When I arrived the station, the train had already left. (駅に着いたら列車はもう出ていた)「同時」ではないからこの“when”の代わりに“as”を使うことは出来ない。「訳語」だけ暗記していないで、事柄の理解が必要だ。zawanak@gmail.com (中沢俊一)
March 11, 2008
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先日のマイクロソフトのホームページに、ベネッセが高校生に対して日本と韓国で行った英語の学力テストの結果が出ていた。その見出しは“日韓英語対決 高校生「読み・聞き」大敗”とあった。小生のブログは「日本人は英語ができない」ということで始めたわけだが、この結果は正に国辱ものである。 「リーディング」部門で日本と韓国の差は50点もあったという。日本の学校英語では、聞く・喋るは初めから問題外としても、「訳す」ことはやっているものの、テキストにある本当に少ない英文をグチグチと返り読みで訳を付けていくだけで、多量の英文を短時間のうちに読みこなして内容を把握するという練習は普通やっていないので、「読み」の実用力は付かないからこれは当たり前のことだ。 韓国の生徒は76%が「教科書以外の英語の本を進んで読む」のに対し、日本の生徒はこれが27%に留まっているという。日本の生徒に英文を読む意欲がないのは、英文解釈の公式に合わせて「訳」を当てはめていくというお決まりの授業で、英文読解に対する楽しさが無いからではないのか?これに毎週の「単語テスト」で苦渋を強いられ英語アレルギーとなる。 それでいて多数の人が英語が喋れることには強い憧れを抱いており、「駅前留学」などをするのだが、これもこのブログで書いた通り、「学校英語」で英語感覚を完全に破壊されているので、こんなことをしても喋れるようにはならない。こういった「留学」をしても効果はないことを悟って、解約しようとすると戻ってくる前納授業料がえらく少ないということで色々と問題が起きている。しかし、こういった「留学」が役に立たないということを知った人々の数が増えていることは、一歩前進という皮肉なことだ。 英語音声ニュースを聞くのも韓国では61%、日本では27%だそうで、英語で書かれたブログなどを読むのも韓国79%に対し日本21%ということで、「生きた英語」に接する度合いが日本は韓国の半分から1/4 だと結論つけられている。 更には、この800点満点のテストで6段階に分けられた成績で、日本は下の2段階という最低レベルの生徒が49%と半数だったとある。ことほど左様に日本の生徒は出来ないのだ。この原因は「学校英語」にある。 中学・高校、塾・予備校の「どぶネズミ」さんたちの英語使用能力をテストしたら、上記と同じような結果が出るのではないか? 英語を教える側はNHKのラジオ英会話の日本人講師と同等のレベルの教師が当たらなければならない。zawanak@gmail.com (中沢俊一)
March 7, 2008
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今回は最上級について記す。例の「現代英語用法辞典」(桐原書店/オックスフォード)p.146 に「最上級は、ある1つのグループの構成メンバーと(その構成メンバーを含む)グループ全体とを比較するのに用いられる」とある。 最上級は、比較の主体を、比較の対象とは別に分けないで、主体自体がグループのうちで一番~だと述べるのに使う。 グループが数あるものなら「うちで」には of を使い、グループ名や場所なら in を使う。「of は“の”という事です」と「“of-の”症候群」というよりは「“of-の”ゾンビ」にされてしまってそこから抜け出せない者には、何故ここに“of”が使われるのかは死んでも分からない。「訳語」だけを与えて、英語に於ける“of”の意味や機能を教えることのない「学校英語の犯罪」である。ここの“of”は「一部」を表す。即ち、「含まれている」ことを表す。 上記辞典のp.146, 147 から例文を引用する。 Mary’s the nicest of the four girls in the family. (メアリーはその家族の4人の娘の中でいちばんいい子だ) [メアリーを4人の中に含めて考えている] Mont Blancs is the highest peak in the Alps. (モンブランはアルプス山脈の最高峰だ) [モンブランはアルプス山脈の中に含まれた山だ](注) 上記の the nicest は「最上級だから the になっている」のではない。the nicest girl の girl が省略されているので、the はその girl に付いていたものだ。だからその下の文ではちゃんと peak がある。the はこの peak に付いている冠詞である。最上級の前の the はその後ろの「名詞(代名詞)の省略」を表す。 だから、後ろに名詞の来ない叙述用法では the が現れたりはしない。即ち、She is happy. の happy が最上級に使われると She is happiest when she is cooking. でなければならないが「最上級には the を付ける」と「最上級ゾンビ」にされてしまった生徒たちはこれを「分からない」と放棄してしまう。これまた「学校英語の犯罪」である。 しかし、後ろに名詞が来ているのに the の付かないケースがある。Most people think so. といった most だ。「最上級には the を付ける」と生徒たちを「最上級ゾンビ」にしてしまう「どぶネズミ」たちは「この most は“殆どの”と訳す」と、また「訳語」だけを与えて、ここに何故 the が無いのかは説明しないで、というよりは説明出来ないで、そのまま逃げてしまっているはずだ。「the は“その”と限定する」で、それ以上the の意味を考えることがないからだ。 「訳語」だけもらった生徒のうちで、この most がmany の最上級であることを知っている者はまずいない。この最上級は強調用法とも言えるもので「非常に多くの」から「大多数の」という意味である。これを「殆どの」と訳すとするものだから、most と almost の区別が付かない浪人がウヨウヨいる。これも「学校英語の犯罪」だ。 the は「それしかない」、裏からいうと「それで全部」ということだから「大多数の人々」は「全部」ではないから、ここには the は使えないのだ。 zawanak@gmail.com (中沢俊一)
March 4, 2008
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今回は最上級について記す。例の「現代英語用法辞典」(桐原書店/オックスフォード)p.146 に「最上級は、ある1つのグループの構成メンバーと(その構成メンバーを含む)グループ全体とを比較するのに用いられる」とある。最上級は、比較の主体を、比較の対象とは別に分けないで、主体自体がグループのうちで一番~だと述べるのに使う。 グループが数あるものなら「うちで」には of を使い、グループ名や場所なら in を使う。「of は“の”という事です」と「“of-の”症候群」というよりは「“of-の”ゾンビ」にされてしまってそこから抜け出せない者には、何故ここに“of”が使われるのかは死んでも分からない。「訳語」だけを与えて、英語に於ける“of”の意味や機能を教えることのない「学校英語の犯罪」である。ここの“of”は「一部」を表す。即ち、「含まれている」ことを表す。 上記辞典のp.146, 147 から例文を引用する。 Mary’s the nicest of the four girls in the family. (メアリーはその家族の4人の娘の中でいちばんいい子だ) [メアリーを4人の中に含めて考えている] Mont Blancs is the highest peak in the Alps. (モンブランはアルプス山脈の最高峰だ) [モンブランはアルプス山脈の中に含まれた山だ](注) 上記の the nicest は「最上級だから the になっている」のではない。the nicest girl の girl が省略されているので、the はその girl に付いていたものだ。だからその下の文ではちゃんと peak がある。the はこの peak に付いている冠詞である。最上級の前の the はその後ろの「名詞(代名詞)の省略」を表す。 だから、後ろに名詞の来ない叙述用法では the が現れたりはしない。即ち、She is happy. の happy が最上級に使われると She is happiest when she is cooking. でなければならないが「最上級には the を付ける」と「ゾンビ」にされてしまった生徒たちはこれを「分からない」と放棄してしまう。これまた「学校英語の犯罪」である。 しかし、後ろに名詞が来ているのに the の付かないケースがある。Most people think so. といった most だ。「最上級には the を付ける」と生徒たちを「ゾンビ」にしてしまう「どぶネズミ」たちは「この most は“殆どの”と訳す」と、また「訳語」だけを与えて、ここに何故 the が無いのかは説明しないで、というよりは出来ないで、そのまま逃げてしまっているはずだ。「the は“その”と限定する」で、それ以上the の意味を考えることがないからだ。 「訳語」だけもらった生徒のうちで、この most がmany の最上級であることを知っている者はまずいない。この最上級は強調用法とも言えるもので「非常に多くの」から「大多数の」という意味である。これを「殆どの」と訳すとするものだから、most と almost の区別が付かない浪人がウヨウヨいる。これも「学校英語の犯罪」だ。 the は「それしかない」、裏からいうと「それで全部」ということだから「大多数の人々」は「全部」ではないから、ここには the は使えないのだ。 zawanak@gmail.com (中沢俊一)
February 29, 2008
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今回は最上級について記す。例の「現代英語用法辞典」(桐原書店/オックスフォード)p.146 に「最上級は、ある1つのグループの構成メンバーと(その構成メンバーを含む)グループ全体とを比較するのに用いられる」とある。最上級は、比較の主体を、比較の対象とは別に分けないで、主体自体がグループのうちで一番~だと述べるのに使う。 グループが数あるものなら「うちで」には of を使い、グループ名や場所なら in を使う。「of は“の”という事です」と「“of-の”症候群」というよりは「“of-の”ゾンビ」にされてしまってそこから抜け出せない者には、何故ここに“of”が使われるのかは死んでも分からない。「訳語」だけを与えて、英語に於ける“of”の意味や機能を教えることのない「学校英語の犯罪」である。ここの“of”は「一部」を表す。即ち、「含まれている」ことを表す。 上記辞典のp.146, 147 から例文を引用する。 Mary’s the nicest of the four girls in the family. (メアリーはその家族の4人の娘の中でいちばんいい子だ) [メアリーを4人の中に含めて考えている] Mont Blancs is the highest peak in the Alps. (モンブランはアルプス山脈の最高峰だ) [モンブランはアルプス山脈の中に含まれた山だ](注) 上記の the nicest は「最上級だから the になっている」のではない。the nicest girl の girl が省略されているので、the はその girl に付いていたものだ。だからその下の文ではちゃんと peak がある。the はこの peak に付いている冠詞である。最上級の前の the はその後ろの「名詞(代名詞)の省略」を表す。 だから、後ろに名詞の来ない叙述用法では the が現れたりはしない。即ち、She is happy. の happy が最上級に使われると She is happiest when she is cooking. でなければならないが「最上級には the を付ける」と「ゾンビ」にされてしまった生徒たちはこれを「分からない」と放棄してしまう。これまた「学校英語の犯罪」である。 しかし、後ろに名詞が来ているのに the の付かないケースがある。Most people think so. といった most だ。「最上級には the を付ける」と生徒たちを「ゾンビ」にしてしまう「どぶネズミ」たちは「この most は“殆どの”と訳す」と、また「訳語」だけを与えて、ここに何故 the が無いのかは説明しないで、というよりは出来ないで、そのまま逃げてしまっているはずだ。「the は“その”と限定する」で、それ以上the の意味を考えることがないからだ。 「訳語」だけもらった生徒のうちで、この most がmany の最上級であることを知っている者はまずいない。この最上級は強調用法とも言えるもので「非常に多くの」から「大多数の」という意味である。これを「殆どの」と訳すとするものだから、most と almost の区別が付かない浪人がウヨウヨいる。これも「学校英語の犯罪」だ。 the は「それしかない」、裏からいうと「それで全部」ということだから「大多数の人々」は「全部」ではないから、ここには the は使えないのだ。 zawanak@gmail.com (中沢俊一)
February 26, 2008
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今回は最上級について記す。例の「現代英語用法辞典」(桐原書店/オックスフォード)p.146 に「最上級は、ある1つのグループの構成メンバーと(その構成メンバーを含む)グループ全体とを比較するのに用いられる」とある。最上級は、比較の主体を、比較の対象とは別に分けないで、主体自体がグループのうちで一番~だと述べるのに使う。 グループが数あるものなら「うちで」には of を使い、グループ名や場所なら in を使う。「of は“の”という事です」と「“of-の”症候群」というよりは「“of-の”ゾンビ」にされてしまってそこから抜け出せない者には、何故ここに“of”が使われるのかは死んでも分からない。「訳語」だけを与えて、英語に於ける“of”の意味や機能を教えることのない「学校英語の犯罪」である。ここの“of”は「一部」を表す。即ち、「含まれている」ことを表す。 上記辞典のp.146, 147 から例文を引用する。 Mary’s the nicest of the four girls in the family. (メアリーはその家族の4人の娘の中でいちばんいい子だ) [メアリーを4人の中に含めて考えている] Mont Blancs is the highest peak in the Alps. (モンブランはアルプス山脈の最高峰だ) [モンブランはアルプス山脈の中に含まれた山だ](注) 上記の the nicest は「最上級だから the になっている」のではない。the nicest girl の girl が省略されているので、the はその girl に付いていたものだ。だからその下の文ではちゃんと peak がある。the はこの peak に付いている冠詞である。最上級の前の the はその後ろの「名詞(代名詞)の省略」を表す。 だから、後ろに名詞の来ない叙述用法では the が現れたりはしない。即ち、She is happy. の happy が最上級に使われると She is happiest when she is cooking. でなければならないが「最上級には the を付ける」と「ゾンビ」にされてしまった生徒たちはこれを「分からない」と放棄してしまう。これまた「学校英語の犯罪」である。 しかし、後ろに名詞が来ているのに the の付かないケースがある。Most people think so. といった most だ。「最上級には the を付ける」と生徒たちを「ゾンビ」にしてしまう「どぶネズミ」たちは「この most は“殆どの”と訳す」と、また「訳語」だけを与えて、ここに何故 the が無いのかは説明しないで、というよりは出来ないで、そのまま逃げてしまっているはずだ。「the は“その”と限定する」で、それ以上the の意味を考えることがないからだ。 「訳語」だけもらった生徒のうちで、この most がmany の最上級であることを知っている者はまずいない。この最上級は強調用法とも言えるもので「非常に多くの」から「大多数の」という意味である。これを「殆どの」と訳すとするものだから、most と almost の区別が付かない浪人がウヨウヨいる。これも「学校英語の犯罪」だ。 the は「それしかない」、裏からいうと「それで全部」ということだから「大多数の人々」は「全部」ではないから、ここには the は使えないのだ。 zawanak@gmail.com (中沢俊一)
February 22, 2008
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前回に引用した「現代英語用法辞典」(桐原書店/オックスフォード) p.146 には「比較級は別々に分かれた物や人を比較するのに用いられる」とある。まず我々のアタマをこのように切り替える必要がある。 同所の文例をも引用して上記の件を検証してみよう。 Mary’s nicer than her three sisters. (メアリーは彼女の姉妹よりいい子だ) [この文では、メアリーと他の3人とは別だ。メアリーは3人の中には含まれていない] I’m younger than my sister. (私は姉より年下です) [私と姉とは別人だ] Mont Blanc is higher than all other Alpine peaks. (モンブランは他のすべてのアルプスの山より高い) [モンブランは同じアルプス山脈に属する山だが、ここに other を用いることによ り、他の山々とモンブランとを二つに分けた。こういう時に other が必要なのだ!]同じように山を比較しても、地区が別であれば other は要らない。プログレスの Book 5 p.57 に次のような文例がある。 Mount Fuji is higher than any mountain in Korea. [ここでは in Korea があるから other は要らない。こういった文例により other の効用が分かろう]同様の文例が「英文法解説」(江川泰一朗:金子書房)p.183 にもあがっている。 New York is larger than any city in South America. [ここの in South America (南米) は上記の Korea と同じ働きをしている]同じグループに属す物や人と区分することに使う単語が other のほかに else がある。この単語は anything や something、anybody や somebody などの後ろに付ける形容詞だが、元は elles と書き -s で終わる事からいわゆる「所有格」(厳密には現在の英語には“所有格”なるものは存在しない)で of other ということだそうだ。だから後ろからかかる。 これを使った文例を作ると、 He is taller than anyone else in his class. (彼は自分のクラスで他の誰よりも背が高い) となる。 しかし実際には、other や else を使って厳密に他と区別をしないで言っている場合が頻繁に見られる。日本語でもこれは同じことで、わざわざ「あの子はクラスの中で他のどんな子よりも背が高い」と言わないでも「あの子はクラスの中でどの子よりも背が高い」で話が通じてしまう。「無くても分かるウザイ言葉は省略される」のだ。これは英語でも同じで、other も else も無くても分かれば無くて済まされる。だから、 He is taller than any boy in his class. でも He is taller than anyone in his class. でもよい。こういう現象を「言語経済」というのであろう。だから otherにカッコがつくのだ。学校の「教室英語」で比較の構文の導入に当たり以上のような事は等閑に付されてはいないか?zawanak@gmail.com (中沢俊一)
February 8, 2008
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比較の構文で「他のどんな~より」という所で、参考書には than any (other) ~ としてあるが、このother はあっても無くてもいいのかどうかを解説してあるのを見たことがない。無くてもいいのならいつ抜くのかも自分は「教室英語」では習ったことはない。また「他の~」で比較の対象が一つではないのにこの any の後ろの名詞は、He is taller then any other boy in his class. と単数である理由を聞いたこともない。 これはany が元々不定冠詞の “a” と関係があるからかも知れない。が、自分の居た大手予備校の非常に優秀な英国人講師は、「比較の対象が複数ということは分かっているから、日常会話では any other の後ろは複数で言うことはいくらでもある」と言っていた。 こういうことは「学校英語」では習うことがないのだ。我々は「生の英語」に接する必要があるのだが、「どぶネズミ」さんたちは英語が喋れないのでネイティブが来ると逃げてしまう。中学や高校にネイティブ講師を入れることが広く行われるようになったが、どれ程の効果が上がっているのだろうか? 話が少し横道に反れたが、No other boy is taller than he. No other boy is as tall as he. と than や as の後ろの三人称の代名詞をそのままで止めることには彼は厳しかった。「ここは主格で言うのが正しいのでございます」と言わんばかりの文法談義を押し付けられているような感じがするという。 ところが、この than や as は前置詞のような感じがするからだろうと思うが、非常にくだけた会話では him とか her とか、me やus と言われるという。「実例英文法・第4版」(オックスフォード大学出版)のp.23 にも同じことが書いてある。 ところで (other) だが、「現代英語用法辞典」p.147 に、“文法書では「比較級は2つのものの間の比較に用い、最上級は3つ以上のものの比較に用いる」と述べられているが、これはあまり適切な規則ではない”とある。自分もこの通りに信じ込んでいたのだが、まずここの所を思い直す必要があるので、次回はこれに関して記すことにする。zawanak@gmail.com (中沢俊一)
February 5, 2008
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前回は「クジラの公式」などを持ち出して中一のレベルを逸脱してしまったが、比較級・最上級は中一の終わりか中二の初め頃に出てくるので、今回は「ゼロ主語」と「比較の構文」を組み合わせて書いてみる。有名な文句に “There is no place like home.” (我が家に勝る所はない)というのがある。日本語訳の主部は「勝る所」で、述部は「~はない」であるが、英語の方の主語は “no place” でゼロ主語だ。英語を直訳すると「我が家のような“ない場所”がある」であって、日本語とは考え方が全く違う。日本語でも「今日の気温は0度だ、マイナス2度だ」と言うが、科学的にものを見る英語人にとっては「ゼロは確定数」だからゼロもプラス5やマイナス2と同列に扱われる。そしてこれが当然のこととして比較の構文にも出てくるわけだ。No other boy in his class is as (so) tall as he is (tall). (他に居ない子が彼と同じだけ背が高い)No other boy in his class is taller than he is (tall). (他に居ない子が彼より背が高い) (注) 比較の構文で as や than の後ろの主語が he, she, it, they といった3人称の代名詞の場合、その次に来る(助)動詞を省略すると、非常に堅苦しい、形式ばった感じを与えるという。自分はこれも「教室英語」では習わなかったので注意が必要である。これらの文を he を主語にして書き直すと日本語と同じ感覚の言い方となる。He is taller than any other boy in his class. (彼は他のどんな子よりも背が高い)He is the tallest (boy) of all the boys in his class. (彼は全部の子のうちで一番背が高い) (注) 「最上級だから the になる」のではないことに再度注意。言わなくても分かるから省略した名詞に付いていた the が残っているのだ。比較の構文では普通 of の前の名詞を省略する。自分の大手予備校勤務から、「学校英語」に毒されきった「どぶネズミ」講師たちには、以上のようなことを全く何も知っておらず、また彼らのうちの何人かが人気を博すと、英語とか教育とかには何の関連もない「鼻汁しみったれレベルの事務員」たちが彼らを「学力のある偉い先生」として本部の「教務本部教材事業部」という厳めしい名称の付いた所に集め、「有名だから信用できる大手予備校の英文法テキスト」の作成に当てていることを実体験した。小生がメルマから出している「行ってはいけない塾・予備校」というメルマガを是非ともご購読頂きたい。世の中の親御さんたちに覚醒をうながすために書いているこの分野では、多分、本邦初の内情描写である。zawanak@gmail.com (中沢俊一)
January 29, 2008
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(其の 52) 中一英語の恐ろしさ! (43)前回は「クジラの公式」などを持ち出して中一のレベルを逸脱してしまったが、比較級・最上級は中一の終わりか中二の初め頃に出てくるので、今回は「ゼロ主語」と「比較の構文」を組み合わせて書いてみる。有名な文句に “There is no place like home.” (我が家に勝る所はない)というのがある。日本語訳の主部は「勝る所」で、述部は「~はない」であるが、英語の方の主語は “no place” でゼロ主語だ。英語を直訳すると「我が家のような“ない場所”がある」であって、日本語とは考え方が全く違う。日本語でも「今日の気温は0度だ、マイナス2度だ」と言うが、科学的にものを見る英語人にとっては「ゼロは確定数」だからゼロもプラス5やマイナス2と同列に扱われる。そしてこれが当然のこととして比較の構文にも出てくるわけだ。No other boy in his class is as (so) tall as he is (tall). (他に居ない子が彼と同じだけ背が高い)No other boy in his class is taller than he is (tall). (他に居ない子が彼より背が高い) (注) 比較の構文で as や than の後ろの主語が he, she, it, they といった3人称の代名詞の場合、その次に来る(助)動詞を省略すると、非常に堅苦しい、形式ばった感じを与えるという。自分はこれも「教室英語」では習わなかったので注意が必要である。これらの文を he を主語にして書き直すと日本語と同じ感覚の言い方となる。He is taller than any other boy in his class. (彼は他のどんな子よりも背が高い)He is the tallest (boy) of all the boys in his class. (彼は全部の子のうちで一番背が高い) (注) 「最上級だから the になる」のではないことに再度注意。言わなくても分かるから省略した名詞に付いていた the が残っているのだ。比較の構文では普通 of の前の名詞を省略する。自分の大手予備校勤務から、「学校英語」に毒されきった「どぶネズミ」講師たちには、以上のようなことを全く何も知っておらず、また彼らのうちの何人かが人気を博すと、英語とか教育とかには何の関連もない「鼻汁しみったれレベルの事務員」たちが彼らを「学力のある偉い先生」として本部の「教務本部教材事業部」という厳めしい名称の付いた所に集め、「有名だから信用できる大手予備校の英文法テキスト」の作成に当てていることを実体験した。小生がメルマから出している「行ってはいけない塾・予備校」というメルマガを是非ともご購読頂きたい。世の中の親御さんたちに覚醒をうながすために書いているこの分野では、多分、本邦初の内情描写である。zawanak@gmail.com (中沢俊一)
January 25, 2008
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「中一の時」「not は普通の否定、never は強い否定」と習ったが、どの辺りからが強いことになるのかが何も分らなかった。 英語では一時と常時をハッキリと区別してものを言う。not は一時の否定に使い、never は常時の否定に使う。大学入試の公式に「never fail to ~:決して~しない」というのがある。この公式の「訳」だけを丸暗記していて、「あしたは決して遅れるな」に対して Never fail to be late tomorrow. を正解として答えさせる入試問題があった。あした一回のことに、常時の never を使っているわけだが、大学の入試問題を出す教授がこういうことを知らないのだ。そして、そんなのが中学・高校の英語の教師を作っている。[「これでいいのか大学入試問題(上・下)大修館」参照] “You’ll never know!” と言われたら「お前なんかに死ぬまで分るもんかッ」ということで、また “Never!” というのは「そんなこと(永遠に)ありえない」「ウッソゥ!」という強い否定となる。少なくとも自分には「教室英語」でこういうことを習った記憶が無い。 また not は普通の否定に使い、no は感情的に強い否定に使う。He is not a fool. と言えば「あいつはバカじゃないよ」くらいだが、He is no fool. 「あいつがバカだなんてとんでもない」(凄い能力を持ったヤツだ)ということになる。この not と no の違いが比較の構文でなかなか分らなくて覚えられない “no more than” “not more than” の理解に深く関わってくるのだが、生徒は no と not の「気分の違い」など習ったこともないので、A whale is no more a fish than a horse is. などは「クジラが魚ではないのは馬が魚でないのと同じ」と分らないままの丸暗記を強いられている。これは A whale is not a fish any more than a horse is. と not と any を使って言い換えることができ、「教室英語」ではこれらは同意とされているが「気分」に違いがあるだろう。 二つの言い回しや、二つの単語が全く同意ということはない。「教室英語」では must = have to としているが、これは will = be going to としてしまっているのと同じことだ。zawanak@gmail.com (中沢俊一)
January 22, 2008
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「中一の時」「not は普通の否定、never は強い否定」と習ったが、どの辺りからが強いことになるのかが何も分らなかった。 英語では一時と常時をハッキリと区別してものを言う。not は一時の否定に使い、never は常時の否定に使う。大学入試の公式に「never fail to ~:決して~しない」というのがある。この公式の「訳」だけを丸暗記していて、「あしたは決して遅れるな」に対して Never fail to be late tomorrow. を正解として答えさせる入試問題があった。あした一回のことに、常時の never を使っているわけだが、大学の入試問題を出す教授がこういうことを知らないのだ。そして、そんなのが中学・高校の英語の教師を作っている。[「これでいいのか大学入試問題(上・下)大修館」参照] “You’ll never know!” と言われたら「お前なんかに死ぬまで分るもんかッ」ということで、また “Never!” というのは「そんなこと(永遠に)ありえない」「ウッソゥ!」という強い否定となる。少なくとも自分には「教室英語」でこういうことを習った記憶が無い。 また not は普通の否定に使い、no は感情的に強い否定に使う。He is not a fool. と言えば「あいつはバカじゃないよ」くらいだが、He is no fool. 「あいつがバカだなんてとんでもない」(凄い能力を持ったヤツだ)ということになる。この not と no の違いが比較の構文でなかなか分らなくて覚えられない “no more than” “not more than” の理解に深く関わってくるのだが、生徒は no と not の「気分の違い」など習ったこともないので、A whale is no more a fish than a horse is. などは「クジラが魚ではないのは馬が魚でないのと同じ」と分らないままの丸暗記を強いられている。これは A whale is not a fish any more than a horse is. と not と any を使って言い換えることができ、「教室英語」ではこれらは同意とされているが「気分」に違いがあるだろう。 二つの言い回しや、二つの単語が全く同意ということはない。「教室英語」では must = have to としているが、これは will = be going to としてしまっているのと同じことだ。zawanak@gmail.com (中沢俊一)
January 19, 2008
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「中一の時」「not は普通の否定、never は強い否定」と習ったが、どの辺りからが強いことになるのかが何も分らなかった。 英語では一時と常時をハッキリと区別してものを言う。not は一時の否定に使い、never は常時の否定に使う。大学入試の公式に「never fail to ~:決して~しない」というのがある。この公式の「訳」だけを丸暗記していて、「あしたは決して遅れるな」に対して Never fail to be late tomorrow. を正解として答えさせる入試問題があった。あした一回のことに、常時の never を使っているわけだが、大学の入試問題を出す教授がこういうことを知らないのだ。そして、そんなのが中学・高校の英語の教師を作っている。[「これでいいのか大学入試問題(上・下)大修館」参照] “You’ll never know!” と言われたら「お前なんかに死ぬまで分るもんかッ」ということで、また “Never!” というのは「そんなこと(永遠に)ありえない」「ウッソゥ!」という強い否定となる。少なくとも自分には「教室英語」でこういうことを習った記憶が無い。 また not は普通の否定に使い、no は感情的に強い否定に使う。He is not a fool. と言えば「あいつはバカじゃないよ」くらいだが、He is no fool. 「あいつがバカだなんてとんでもない」(凄い能力を持ったヤツだ)ということになる。この not と no の違いが比較の構文でなかなか分らなくて覚えられない “no more than” “not more than” の理解に深く関わってくるのだが、生徒は no と not の「気分の違い」など習ったこともないので、A whale is no more a fish than a horse is. などは「クジラが魚ではないのは馬が魚でないのと同じ」と分らないままの丸暗記を強いられている。これは A whale is not a fish any more than a horse is. と not と any を使って言い換えることができ、「教室英語」ではこれらは同意とされているが「気分」に違いがあるだろう。 二つの言い回しや、二つの単語が全く同意ということはない。「教室英語」では must = have to としているが、これは will = be going to としてしまっているのと同じことだ。zawanak@gmail.com (中沢俊一)
January 15, 2008
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前述の通り日本語では「誰もそんなことはしないよ」と言うのだが、英語では Anyone does not do such a thing. とは言わない。「中一の時」から「訳して」分ったような気にさされ続ける我々には、日本語でこう言うのに、何故英語ではこれがいけないのかが分らない。参考書類を見ても「英語では any ~ not とは言わない。否定語は any の前に入れる」と書いてあるだけで何故なのかは書いていない。多分「どぶネズミ」さんたちも、分らないままで丸暗記をしていることを、そのまま生徒の前で垂れ流しているだけに過ぎないことと思う。少なくとも小生自身は学校の「教室英語」ではこのわけもまた理解できなかった。 英語には「ゼロ主語」があり、日本語にはそれがないことがその理由だ。また、英語では日本語のように「する/しない」「ある/ない」を文末の動詞で表すことをしないで、こういうことを冒頭で明確に表明するからだ。だから「ゼロ主語」が活躍し、Any ~ do not とはしないのだ。 ここで注意すべきことは、「生徒は誰もそれに解答できなかった」を 、無論 Any students could not answer it. とはしないが、意味的にはほぼ not any = no なのにNot any students could answer it. と “Not any ~” を主語とはしないで、No students could answer it. とすることだ(英語では not による否定と、no による否定との間には「感情的な違い」がある)。また、none を使って None of the students could answer it. とも言える(ここの no は形容詞だが冠詞の代わりをする「限定詞」だ。none は「ゼロ主語」を表す代名詞である)。 更に、英語には「ゼロ目的語」というものも存在する。日本語で「彼は何もしなかった」というのを He did nothing. というのは感じが良く似ていて分ったような気がするが、よく睨むと英語の言い方は「彼はゼロのことをした」と言っており、これまた日本語にはない発想である。だから He is good for nothing.「彼はゼロのことに有用だ」→「あいつは役立たづだ」という言い方もある。目的語にnot ~ any を使った言い方と no や none を使った言い方とは「気持ち」が違うことにも注意が必要だ。「ある種の同一物」について no や none を使った言い方は「強調的否定」で any ~ not は「普通の否定」なのだ。 オックスフォードの「実例現代英語用法辞典」(桐原書店) の p.562 から文例を引用すると、 We haven’t got any time. (我々には時間がない) We’ve got no time at all. (我々には時間が全く無い) There aren’t any left. (1つも残っていない)[← この any は“形容詞の代名詞 化”。小生の入れた注] There are none left ―― not one. (全く1つも残っていない、たった1つも) [引用終わり] 可算名詞に対して使う肯定文中のsome で見た通り、「単数には “a”」「二つ以上には “some”」を使う。any も同じで「否定文ではany は単数可算名詞には使わない」。”a” を使うのだ。上記 p.562 からもう少し引用すると、 I haven’t got a car. 「車を持っていない」と言い I haven’t got any car. とは言わない。[引用終わり] 「中一の時」に出てくる any だが「教室英語」でこういったことを習うかどうかを考えてみると恐ろしいことである。zawanak@gmail.com (中沢俊一)
January 11, 2008
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自分の勤務していた大手予備校の英文法のテキストには「状態動詞は進行形にしない」と記してあった。しかし、He is riding a bicycle. She is wearing a red ribbon today. といった英語は幾らでもあるではないか。「”get on” 乗る、”ride” 乗る」「”put on” 着る」「”wear” 着る」といった「訳語」を与えていたのでは、状態動詞も動作動詞もへったくれはないが... 予備校のみならず、中学でも高校でも同じレベルのはずだ。そして生徒は教師と同じ様に仕上げられていく。 「中一の時」に「進行形は“~しつつあるということです”」という「訳」を頭蓋骨に焼き付けられてしまうと日本語の「“ている”は進行形」だと思い込んでしまう。前回記した博士課程の学生がそうだった。そして、かく言う自分がそうだった。 ここで学校では習うことの無い「進行形の意味」を考えてみる。丘の上に男の子が「立っている」としよう。これを英語でいうと、A boy is standing on the hill. となる。だがこれが教会だと「建っている」は A church stands on the hill. となる。日本語の「ている」に対し、英語では二つに言い分けなければならない。 男の子は「其のうちにどこかへ行く」ことは誰にでも暗黙の了解事項だ。更にいうならば「どこからか来た」ことも暗黙の了解事項だ。しかもこれは男の子が自分で「あそこへ行こう」と思ってやったことだ。そしてそこに居るのはしばらくの間だけの話だ。 これをまとめると、進行形は「自分からしようと思って(自意志で)」「しばらくの間」やっていることを表す。動作動詞の状態動詞のといったことは関係ない。それはそうだ。英語本国の幼稚園児が「これは状態動詞だから進行形にしてはいけない」などと考えておいてからものを言いつつ走り回っていたりはしない。「絵で見る英語」(English Through Pictures: Yohan)で日本語を通さないで英語を習うと子供たちは、進行形・状態動詞・動作動詞という文法用語とは無関係に仕上がっていく。 例の「青少年有害図書」では、be 動詞という状態動詞の代表株にも進行形があることを発見して、鬼の首でも取ったような感激の仕方をして記述している所がある。アホゥなことだ。 ところで It is raining now. という英語もある。自意志は人間と動物にしかなく、モノには意識がないからモノに関して言う時には「自意志」は考える必要はない。「今だけちょっと」という時間的制限が感じられれば進行形でその気持ちを表す。 一方、教会の方は「今だけちょっと」建っているとは誰も思わないから、「単純現在形」で言う。単純現在形は明確な「決定事項」を言うのに使うから、The sun rises in the east, and sets in the west. という風にも使うが、これを時間的に見ると、過去・現在・未来に通じることを述べている。これがいわゆる「現在形は真理を表す」というヤツに繋がるわけだが、教会もこれに準じて単純現在形となる。zawanak@gmail.com (中沢俊一)
January 11, 2008
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前述の通り日本語では「誰もそんなことはしないよ」と言うのだが、英語では Anyone does not do such a thing. とは言わない。 「中一の時」から「訳して」分ったような気にさされ続ける我々には、日本語でこう言うのに、何故英語ではこれがいけないのかが分らない。 参考書類を見ても「英語では any ~ not とは言わない。否定語は any の前に入れる」と書いてあるだけで何故なのかは書いていない。 多分「どぶネズミ」さんたちも、分らないままで丸暗記をしていることを、そのまま生徒の前で垂れ流しているだけに過ぎないことと思う。少なくとも小生自身は学校の「教室英語」ではこのわけもまた理解できなかった。 英語には「ゼロ主語」があり、日本語にはそれがないことがその理由だ。また、英語では日本語のように「する/しない」「ある/ない」を文末の動詞で表すことをしないで、こういうことを冒頭で明確に表明するからだ。だから「ゼロ主語」が活躍し、Any ~ do not とはしないのだ。 ここで注意すべきことは、「生徒は誰もそれに解答できなかった」を 、無論 Any students could not answer it. とはしないが、意味的にはほぼ not any = no なのに Not any students could answer it. と “Not any ~” を主語とはしないで、No students could answer it. とすることだ(英語では not による否定と、no による否定との間には「感情的な違い」がある)。 また、none を使って None of the students could answer it. とも言える(上の no は形容詞だが冠詞の代わりをする「限定詞」だ。none は「ゼロ主語」を表す代名詞である)。 更に、英語には「ゼロ目的語」というものも存在する。日本語で「彼は何もしなかった」というのを He did nothing. というのは感じが良く似ていて分ったような気がするが、よく睨むと英語の言い方は「彼はゼロのことをした」と言っており、これまた日本語にはない発想である。だから He is good for nothing.「彼はゼロのことに有用だ」→「あいつは役立たづだ」という言い方もある。 目的語にnot ~ any を使った言い方と no や none を使った言い方とは「気持ち」が違うことにも注意が必要だ。「ある種の同一物」について no や none を使った言い方は「強調的否定」で any ~ not は「普通の否定」なのだ。 オックスフォードの「実例現代英語用法辞典」(桐原書店) の p.562 から文例を引用すると、 We haven’t got any time. (我々には時間がない) We’ve got no time at all. (我々には時間が全く無い) There aren’t any left. (1つも残っていない) [← この any は“形容詞の代名詞化”。小生の入れた注] There are none left ―― not one. (全く1つも残っていない、たった1つも) [引用終わり] 可算名詞に対して使う肯定文中のsome で見た通り、「単数には “a”」「二つ以上には “some”」を使う。any も同じで「否定文ではany は単数可算名詞には使わない」。”a” を使うのだ。上記 p.562 からもう少し引用すると、 I haven’t got a car. 「車を持っていない」と言い I haven’t got any car. とは言わない。[引用終わり] 「中一の時」に出てくる any だが「教室英語」でこういったことを習うかどうかを考えてみると恐ろしいことである。zawanak@gmail.com (中沢俊一)
November 30, 2007
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「何も無い・ゼロ」というのは「不定数」ではなく「確定数」である。数字を並べて眺めればそれがハッキリする。-2, -1, 0, +1, +2 : -2 も +1 も数値的には「確定数」だ。そして、その間にある 0 も「確定数」である。 その「確定数」を使って「一冊の本が机の上にある」と言うことは日本語でもやらないことはないが、「机の上に本が一冊乗っている」と言う方が自然だろう。「新聞が書く」「ラジオが言う」という日本語も無いではないが、日本語では「物」、特に「状態」を主語にすることは普通やらない。 だが英語は違う。ものの表現の仕方が (1) 具体のレベル (2) 半抽象のレベル (3) 抽象のレベル と段階的に広がっていくのは日本語も英語も同じだが、英語は4段階目としてもう一つ「物(無生物)への応用」という表現法を持っている。 即ち、人も動物も物も同列扱いで主語になる。それで「物主語構文(無生物主語の文)」という「擬人化表現」がしごく当たり前なのである。「教室の暑さが生徒をだらけさせる」というのは英語では何の抵抗も受けることのない日常表現だ。 一方、日本語ではこれは極めて不自然な言い方で「教室が暑いので生徒がだらける」と「教室の暑さ」を副詞表現にして、「生徒」という「人」を主語にとり、それが「どうこうする」という「動詞表現」にする。だから、この「副詞表現」による日本語の文を「無生物主語」による英語の簡潔な文に書く英作の練習は非常に成績が悪い。 これは「英語の物・状態を主語にする名詞表現」対「日本語の生き物を主語にする動詞表現」ということになるが、その上日本語では動詞が文末に来るので、何かを「する」のか「しない」のかは、文の終わりにならないと分らない。 だが英語では「一冊の本が机の上にある」という「確定数」を使った「物主語構文」は日常英語なので、ゼロという「確定数」を使った「物主語構文」もまた日常英語である、即ち「ゼロのもの=無い物」が主語になるのが何の抵抗もなく受け入れられる。 これは英文をそのまま直訳したパソコンのメッセージで「ゼロ個のタスクが実行されました」というのでよく見ることだ。だから英語では「する・しない/ある・なし」は冒頭の部分で明確となる。 日本語には「ゼロ主語」構文はない。ここのところが学校の「どぶネズミ英語」ではしっかりと教えられていないので、これが「他に無い人が彼より背が高い」といった比較の構文がなかなか理解できない上、「誰もそんなことはしないよ」という日本語に合わせて “Anyone does not do such a thing.” という非文を書いて、これでいいと思っている生徒が極めて多い原因となっている。zawanak@gmail.com (中沢俊一)
November 27, 2007
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any は肯定文にも使う。「中一の時」「some は“幾つかの・いくらかの”ということで、肯定文に使います。否定文・疑問文には any を使います」と吹き込まれて、脳にキズが付き、生徒はこれをいつまでも患うことになる。 即ち、「any は“some の裏だ”」と思い込んでしまうことになるのだ。だから any も「幾つかの・いくらかの」ということであると信じ込んだまま、それ以外の意味を知らず、または頑固に受け入れず、その後を過ごすことになる。 any は“ “a” 的な性質を帯びた”ということだが、学校の「教室英語」では「“a”は一つのということです」と吹き、“a”の持つ「どれでもいい」という「意味」を教えることが無いから、any の「どんな(何でも)」という「意味」を知っている者は非常に少ない。 おまけに上記のように「疑問文・否定文には any を使います」と吹き込まれているから、「条件文にも any を使う」ことは殆ど指導されていないようである。これは予備校生を扱って知ったことだ。 any は「疑問文・否定文に使う“some”の裏だ」と思い込まされた「any ゾンビ」は、any が肯定文に使われてあるとどうしていいのか分らなくなってしまう。 ある時、京大卒の男の子が自分の訳したものを見て下さいと持ってきたものを見たことがあるが、極めて正確に訳してはあったものの any を肯定文に使ってある部分の訳だけがおかしかった。こういった「犠牲者」が「中一の時」作られるのだ。 肯定文中の any は「“どんな(何でも)”という“無制限・不確定”」を表す。 小生の非常に注目している英和辞典「E-Gate」から肯定文に使った any を含む文を引用しておく。・I will accept any help (that) I can get. ・You can take any box on the table. ・Choose any beer you like.・Any member can use these facilities. ・You can do it any way you like. ・Jane is smarter any (other) student in her class. ・Any child could understand that. ・Any place would be better than here. ・Any reform is better than none. (注:reform は「制度などの改革」の意で「服の仕立て直し」や「家の改築」には使わ ない) ・I am ready to accept any proposal(s). これらの any は全て「どんな」という意味の形容詞だ。 zawanak@gmail.com (中沢俊一)
November 23, 2007
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中学・高校、塾・予備校で「英語教師」として教壇に立っている大方の「どぶネズミ」さんは、何故「some は肯定文に使い、any は疑問文・否定文に使う」のか、また「疑問文でも肯定の返事を期待して聞く時には some を使う」のは何故なのかを分って生徒に伝えているか? 自分も「中一の時」先生から言われたことを丸暗記したまま、「分っている」として、そのままオウム反しに生徒に口伝えし「自分たちと同じもの」を作ってはいないか? 何故彼らにこんな「容疑」をかけるのかというと、英語国人が「可算・不可算」をどう「感じ分けているか」を根源的に説明できず、「中一」の生徒たちに「物質名詞は数えられません」などと吹き、彼らの「可算・不可算」感覚を潰しに潰していることを知っているからだ。 これは、予備校で何故「黒板消し」が数えられ、「水」が数えられないのかを毎年具体的に「見せて」導入すると生徒たちは、初めて教えられたというような顔をしていたから分ったことだ。 some と any に話を戻すと、「some」は一応の範囲という「確定感」を表し、一方 any は一切の範囲をもたず“どんな何でも”という「不確定感」を表す。これは前述した。 I have some pencils in my pencil case. (可算名詞に使った some)、I have some money in my pocket. (不可算名詞に使った some)と言うとき、言う人の「気持ち」の中には“何がしかのものが有る”という「あて」があるのだ。これらは「肯定文に使った some」だ。 一方、「君、少しはお金を持っているだろ?」と聞くときにも、聞く人の「気持ちの中には“あて”がある」ので「肯定の答えを期待して尋ねる疑問文にも some を使う」のだ。 相手がお金をもっているかどうかも分らないで Do you have any money? と尋ねるときには、聞く人の「気持ちの中には“あて”」が全くないのだ。If I had any money, …(お金があればなぁ) でも、これを言う人にはお金に対する「あて」はないのだ。 「あて」のあるなしで some と any の使い分けが決まる。 話しが別項目になるが、自分は「お金は物質名詞で数えられません」という説明が「教室英語」ではどうしても分らなかった。 「どぶネズミ」さんたち自身がよく分らないままに伝えているからではないのか?zawanak@gmail.com (中沢俊一)
November 20, 2007
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「中一の時」some は「幾つかの、いくらかの」と言うことですと「訳語」を暗記させられ、これに次いで「some は肯定文に、any は疑問文・否定文に使います」と暗記させられる。これにより any の「意味」を知らないままの生徒がライン生産される。 何で「some は肯定文」で、any は「否定文・疑問文」なのだ?この理由も知らないまま、「中一」の先生が言ったことをそのまま暗記して「分かっている」と信じ込んで疑わない「ゾンビ」が浪人のほぼ全員を占めていた。 正誤問題でこれに絡む問題が出た場合、「中一の時」に暗記した上の規則に合わせて解答すれば○が貰える。そして○を貰うと「出来た」と得意満面なのだ。 だから予備校でも上記の規則をそのまま伝えておれば、その「どぶネズミ講師」は「あの先生は学校で習った通りに教えてくれるから分かり易い」となって人気が上がる。 教育とか英語に関する理解などは何も持ち合わせておらず、自分の身の保全のために社長向けの点数稼ぎに汲々としている「鼻汁しみったれ事務員」たちも、こういった講師を「人気のある学力の高い講師」としてへつらい腰で奉って、己の点数稼ぎの足しにする。これが大手予備校で見た裏事情だ。何ともアホゥなことだが「何で ”some は肯定文” “any は疑問文・否定文” なのだ? この some と any にも英語の「確定・不確定」という根本思想が働いている。 「some」は「同種のもののうちの一まとめ」を表すからハッキリとした「確定」とまではいかなくても「一応の範囲」をもっている。 一方、「any」の方は「”a” の性質を帯びた」ということで「a」の「意味」、「どんな何でも」ということに通じるものを持っているが、「中一の時」に「”a” は ”一つの” ということです」と焼き付けられ、「a」の意味、即ち「同種のもののうちの “どれでもいい” もの一つ」ということを習うことがないから any の意味を知らない生徒が量産されているのである。この「どれでもいい」ということが「不確定」思想を表す。 これで some は「一応の確定」、any は「不確定」ということが出揃った。some は点線で描いた○、any は囲む線すら無いものとイメージするといい。これが「some は肯定文、any は疑問文・否定文」、そして「肯定の返事を想定している場合は疑問文にも some を使う」ことの土台となる。 こういうことを探求して英語の「気持ち」を分かって使えるようにしようとするのが「意味文法」。 クソ喰らえ学校の「型文法」!! zawanak@gmail.com (中沢俊一)
November 16, 2007
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some を語源辞典で調べてみると「same, simple などと同根」「古代英語では sum と綴り“一つの”の意」「ラテン語の similis が現代英語の similar の語源」「sem- という接頭語は one の意」などと出てくる。 ともかく元は「一つ」ということだったが、英語の日常語となった some は「同種のものの一かたまり」を表す。 「中一の時」こういったことは何も教えられないままに「幾つかの、いくらかの」という「訳語」を暗記させられる。何故かこの訳語はすぐに暗記でき、生徒は「訳語」が暗記できたから some は分かったものと思い込んでしまう。 可算名詞にも不可算名詞にも使えるわけだが、可算名詞に使った場合、幾つの数から some が使えるのかは教えられることはない。「中一」を担当している「どぶネズミ」さんの大方の者も知らないだろうと思う。自分も習ったことがなかったから知らなかった。 some の使える最定数は「2」である。 同種のもののうちの「一つ」を取り上げて紹介するには「a」を使う。同種のもののうち「2つ又はそれ以上」のものを取り上げて言及するには「some」を使う。 some は「数を明確に言うことに関心がない」時に使う。普通レールは2本と決まっている。トロッコがあって「レールが2本敷いてある」と数を言いたければ “There are two rails.” となるが、ただ「レールが敷いてある」とだけ言いたければ “There are some rails.” でよい。 自分は some が「二つのもの」に使えることは子供用の絵本を見ていて知った。 可算名詞に対して使う場合、「a」は単数用不定冠詞であり、「some」は複数用不定冠詞の働きをする。フランス語の不定冠詞 un(男性名詞用)、une(女性名詞用)、des(複数名詞用)の des に当たろう。これに対する訳語が「幾つかの」である。 不可算名詞に対して使う場合は訳語が「いくらかの」となるが、これはフランス語の de という「部分冠詞」のような感じだ。 「中一」の生徒から聞いた話だが、先生が「水、ミルク、コーヒー、紅茶は不可算名詞だと暗記しておきなさい」と言ったというが、英語国人が「可算」と「不可算」の区別をどう感じ分けているのかをうまく説明できない「どぶネズミ」さんが圧倒的に多いようだ。 更にこの上「some は肯定文に、any は疑問文・否定文に使います」とやぶから棒に暗記さされ、生徒はそれが暗記できると「分かっている」と思い込んでしまうこととなる。 そしてこの悲劇は毎年繰り返されているのだ!!zawanak@gmail.com (中沢俊一)
November 13, 2007
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「中一の時」に「a は“一つの”ということです」と習う。しかし「一つの」はもう一つ one が Lesson one と教科書の一番初めから出てくる。「a と one はどう使い分けるのだ?」。「どぶネズミ英語」では、こんなことすら習うことはない。自分も大学を卒業するまで、教室でこういう説明を聞いた記憶はない。a は古代英語の数詞 an の弱形で、強形は one となって行った。ドイツ語でもフランス語でも、不定冠詞 ein(アイン:男性・中性名詞用)、un(アン:男性名詞用)は数詞の1と同じだが、英語では二つに分かれた。 one は数をハッキリさせたい時に使う。「リンゴを3つやると言ったのに1つしかくれなかった」He said, ”I’ll give you three apples,” but he actually gave me only one (apple). といったケースに使うのだ。 a にも「一つの」という意味はあるが、「同一種類のものの中のどの一つを取り上げても」、即ち「どれでも」ということで、「同種のものが他に幾つもある」ことを含意している。裏返していうならば「一つの」といいながらも「複数個」を意識している。 A dog is a faithful animal. と言った場合、犬は何匹でもいることは暗黙のうちに了解されている。「型文法」ではこういう「抽象のレベル」のことは決して考えることはないから、「a は“一つの”ということです」とやるだけで、「同一種類の中でどの一つを取り上げても」という意味を伝えることが完全に欠落しているのだ。 「中一の時」に習うany が持つ「どんな何でも」という意味を浪人たちは殆ど知らない。any は a と関係がある。また、a には上記のように「どれでも」という意味がある。語源辞典を見れば any は古代英語で aelig(aelig の上に横棒あり)と綴ったと書いてある。aelig の部分は今のドイツ語の ein(=one)に当たり、g の部分は今の英語の -y という接尾辞に当たる。これは「~の特徴をもった」という意味を持っている。即ち、「any は“aの特徴を持った”」ということだ。 「中一」で習う「some と any の用法」を叩くために、こういうことをやり始めた。zawanak@gmail.com (中沢俊一)
November 6, 2007
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動詞の「単純現在形」は確定している事を言うのに使い、また時間的には過去・現在・未来に通じる事を述べている。「中一の時」I play tennis on Wednesday. といった英文を習う。「私は水曜日にはテニスをします」と訳せば何やら分かったような気にはなるが、よく考えてみると、先週もやった、今週もやる、来週もやるというわけで、過去・現在・未来に通じている。 毎週決まってやるから「現在形は習慣を表す」と習うがこれもまた「分からないままの暗記事項」になってはいないか?「型文法」では「具体のレベル」でしか英語を扱わないからだ。 言葉の用法は「具体」→「半抽象」→「抽象」と次第に使用レベルが上がり、使用範囲も広がって行く。「半抽象」とは時間・距離・温度など、在ることは分かっているが形が感じられないものを指す。「型文法」では、このレベルの観察すらしない。 学校の一時間目が9時から9時50分までだとしよう。その教室の中で9時半頃に We are here. と言ったとすると、自覚は無くても、9時から9時50分という時間の広がりが頭の中にある。この時間領域は50分である。 上記のテニスに関しては、言う人が水曜日にテニスをすることを始めてから、やめるまでである。50分よりはだいぶ長い。 The sun rises in the east, and sets in the west. での時間領域は無限にまで広がる。「学校英語」ではこのような観察は何もしない。ただ「現在形は習慣を表す」と言うだけで「暗記」を強いる。「will の特殊用法」というアホゥ項目を参考書やテキストで何度も見たことある。未来のことを述べていない文に使われている willが「特殊用法」だというのだ。しかも「ものだ」と訳すとまたも「訳」が与えてある。「どぶネズミ」たちに 「will は現在形である」ことが分かっちゃいないことを披瀝するものだ。 この「現在形の will 」も「習慣」を表す。この場合の will はあることを自分からやろうとしてやる「意志のwill」 である。 ジーニアスの助動詞 will の6「習慣・習性・能力」の項を見るといい。日本語では決まってそうする、そうなる事を人には「習慣」、動物には「習性」、ものには「特性」という言葉で言い分けている。1.人間の習慣:Mary will sit still and look at the sea for hours. (ジーニアス)2.動物の習性:Dogs will bark at strangers. (自作)3.ものの特性:Oil will float on water.(ジーニアス) [(1) Oil floats on water. でもよいが will を用いると、油には水に浮こうとする特 性があることを強調] [(2) 自然法則で繰り返される動きには単純現在を用いる。 The sun rises [×will rise] in the east.] (この二つの注もジーニアスの同所にあるものを引用) 太陽に関して単純現在形を用いるのは「太陽にそういう特性がある」とは誰も思わないからだ。一方「油」に関してはこういった特性が話題になる。 こういうことも、ただ「暗記」に走ろうとせず、下に流れる「気持ち」を抑えることが大切だ。そうすれば、何故そう言うのかが自覚できる。分からないままに暗記してはならない。 この「特性」の will は「性能」を述べる用法にまで広がる。 This hall will hold more then 1,000 people. (このホールは1,000人以上収容できる) [E-Gate]「どぶネズミ」たちが「will の特殊用法」なるものを教室の中で、真顔をして「“ものだ”と訳す」などというアホゥ行為を行っているその根源は「中一の時」に「will は未来」というガン細胞を脳の中に移植されてしまって生徒たちと同様にそこから逃れ出られないからだ。 だから彼らは 「will+完了形」という willの過去向け用法を決して教えることが出来ない。それは「will は未来なのに、それが過去の事に使われることが分からない」という「生徒たちと同じレベル」に留まっているからである。 will は未来さん、おとといおいで!! zawanak@gmail.com (中沢俊一)
November 2, 2007
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自分の勤務していた大手予備校の英文法のテキストには「状態動詞は進行形にしない」と記してあった。しかし、He is riding a bicycle. She is wearing a red ribbon today. といった英語は幾らでもあるではないか。「”get on” 乗る、”ride” 乗る」「”put on” 着る」「”wear” 着る」といった「訳語」を与えていたのでは、状態動詞も動作動詞もへったくれはないが... 予備校のみならず、中学でも高校でも同じレベルのはずだ。そして生徒は教師と同じ様に仕上げられていく。 「中一の時」に「進行形は“~しつつあるということです”」という「訳」を頭蓋骨に焼き付けられてしまうと日本語の「“ている”は進行形」だと思い込んでしまう。前回記した博士課程の学生がそうだった。そして、かく言う自分がそうだった。 ここで学校では習うことの無い「進行形の意味」を考えてみる。丘の上に男の子が「立っている」としよう。これを英語でいうと、A boy is standing on the hill. となる。だがこれが教会だと「建っている」は A church stands on the hill. となる。日本語の「ている」に対し、英語では二つに言い分けなければならない。 男の子は「其のうちにどこかへ行く」ことは誰にでも暗黙の了解事項だ。更にいうならば「どこからか来た」ことも暗黙の了解事項だ。しかもこれは男の子が自分で「あそこへ行こう」と思ってやったことだ。そしてそこに居るのはしばらくの間だけの話だ。 これをまとめると、進行形は「自分からしようと思って(自意志で)」「しばらくの間」やっていることを表す。動作動詞の状態動詞のといったことは関係ない。それはそうだ。英語本国の幼稚園児が「これは状態動詞だから進行形にしてはいけない」などと考えておいてからものを言いつつ走り回っていたりはしない。「絵で見る英語」(English Through Pictures: Yohan)で日本語を通さないで英語を習うと子供たちは、進行形・状態動詞・動作動詞という文法用語とは無関係に仕上がっていく。 例の「青少年有害図書」では、be 動詞という状態動詞の代表株にも進行形があることを発見して、鬼の首でも取ったような感激の仕方をして記述している所がある。アホゥなことだ。 ところで It is raining now. という英語もある。自意志は人間と動物にしかなく、モノには意識がないからモノに関して言う時には「自意志」は考える必要はない。「今だけちょっと」という時間的制限が感じられれば進行形でその気持ちを表す。 一方、教会の方は「今だけちょっと」建っているとは誰も思わないから、「単純現在形」で言う。単純現在形は明確な「決定事項」を言うのに使うから、The sun rises in the east, and sets in the west. という風にも使うが、これを時間的に見ると、過去・現在・未来に通じることを述べている。これがいわゆる「現在形は真理を表す」というヤツに繋がるわけだが、教会もこれに準じて単純現在形となる。zawanak@gmail.com (中沢俊一)
October 30, 2007
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(其の 42)中一英語の恐ろしさ! (33) 自分の勤務していた大手予備校の英文法のテキストには「状態動詞は進行形にしない」と記してあった。しかし、He is riding a bicycle. She is wearing a red ribbon today. といった英語は幾らでもあるではないか。「”get on” 乗る、”ride” 乗る」「”put on” 着る」「”wear” 着る」といった「訳語」を与えていたのでは、状態動詞も動作動詞もへったくれはないが... 予備校のみならず、中学でも高校でも同じレベルのはずだ。そして生徒は教師と同じ様に仕上げられていく。 「中一の時」に「進行形は“~しつつあるということです”」という「訳」を頭蓋骨に焼き付けられてしまうと日本語の「“ている”は進行形」だと思い込んでしまう。前回記した博士課程の学生がそうだった。そして、かく言う自分がそうだった。 ここで学校では習うことの無い「進行形の意味」を考えてみる。丘の上に男の子が「立っている」としよう。これを英語でいうと、A boy is standing on the hill. となる。だがこれが教会だと「建っている」は A church stands on the hill. となる。日本語の「ている」に対し、英語では二つに言い分けなければならない。 男の子は「其のうちにどこかへ行く」ことは誰にでも暗黙の了解事項だ。更にいうならば「どこからか来た」ことも暗黙の了解事項だ。しかもこれは男の子が自分で「あそこへ行こう」と思ってやったことだ。そしてそこに居るのはしばらくの間だけの話だ。 これをまとめると、進行形は「自分からしようと思って(自意志で)」「しばらくの間」やっていることを表す。動作動詞の状態動詞のといったことは関係ない。それはそうだ。英語本国の幼稚園児が「これは状態動詞だから進行形にしてはいけない」などと考えておいてからものを言いつつ走り回っていたりはしない。「絵で見る英語」(English Through Pictures: Yohan)で日本語を通さないで英語を習うと子供たちは、進行形・状態動詞・動作動詞という文法用語とは無関係に仕上がっていく。 例の「青少年有害図書」では、be 動詞という状態動詞の代表株にも進行形があることを発見して、鬼の首でも取ったような感激の仕方をして記述している所がある。アホゥなことだ。 ところで It is raining now. という英語もある。自意志は人間と動物にしかなく、モノには意識がないからモノに関して言う時には「自意志」は考える必要はない。「今だけちょっと」という時間的制限が感じられれば進行形でその気持ちを表す。 一方、教会の方は「今だけちょっと」建っているとは誰も思わないから、「単純現在形」で言う。単純現在形は明確な「決定事項」を言うのに使うから、The sun rises in the east, and sets in the west. という風にも使うが、これを時間的に見ると、過去・現在・未来に通じることを述べている。これがいわゆる「現在形は真理を表す」というヤツに繋がるわけだが、教会もこれに準じて単純現在形となる。zawanak@gmail.com (中沢俊一)
October 26, 2007
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自分が小倉に移り住んで北予備だけに勤務するようになった初年度に「早稲田・慶応受験組」の英作担当に当たった。ここで成績上位の生徒に現在進行形が使えないことを発見した。過去進行形に至っては、知識皆無の状態であった。それは、原爆の落ちた後の広島の写真を見る思いがした。ともかく進行形そのものの理解が何も無いのだ。 現在進行形は「中一」で習う。「型文法」流で例によって例の如く「進行形は be+ing形で作ります。“何々しつつある”ということです」と「型」と「訳」を与えるだけでチョンである。生徒はやすやすとこれを暗記して「分かった!」と喜んでしまう。だから、もうそれ以上の学習はしない。「どういう気持ちを伝えるために、どう使うのか」という進行形の「意味用法」は何も知らないままで投げ出されている。だから使えないのだ。 教える側も殆どの者が「中一の時」のこの説明を暗記して以来、これらの生徒と同じレベルに留まったままなのだ。「~しつつある」だから分かっているとして、進行形の実態を知らない大手予備校英語講師がボロボロいることに自分は気が付いた。中学・高校の「どぶネズミ英語教師」も大半がこういった状態であるハズだ。 大阪のイギリス系英会話教室に通っていた時、受講生の中に大阪市立大学英文科の博士課程に在学中ですという生徒がいた。だがその彼が進行形を理解しておらず、とんでもない使い方をしたので、英国人講師が目をまん丸にしたのを覚えている。難関大学の博士課程に居る者ですらこの状態だが、これで其のうちに何とか大学に職を得て、中学・高校の英語教師を作るのだ。正に、正に「中一英語の恐ろしさ!」だが、この悪循環には「金太郎のマサカリ」を打ち落として、ぶった切らなければならない。 zawanak@gmail.com (中沢俊一)
October 23, 2007
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(其の 40)何と大手予備校が「どぶネズミ英語」の最終的強化訓練の場だった!(続き) 自分は大手予備校福岡校に移籍する前には、北九州市の小倉にある北九州予備校(愛称:北予備)に居た。そこでは、今でも其の原因は全く分からないが、物凄い人気を博し、カリスマになってしまった。夏期講習、冬期講習の登録申し込みには、前夜から生徒が校舎を取り巻いて順番待ちをするほどフィーバーした。そのため、自分に与えられるコマ数が極めて多くなり、ギャラはうなぎ登りに増えたが、もはや体力の限界をはるかに超えてしまい、フラフラになってしまった。それで、これから脱するために移籍した。 福岡の大手に移った後も、一年目は同じ状況となり、「この本ええデ」と言うと、天神の大型書店から一日でその本が売り切れ、次に入荷した時には書店の方で勝手に「○○予備校推奨○○本入荷」という垂れ幕を下ろしていたりした。 だがこの予備校は小倉という地方都市の予備校とは違って講師室の中では「村の長(おさ)」とその取り巻き連がのし歩いて睨みを利かせている「村社会」であった。しかも彼らは、安保闘争で超過劇な活動をした連中の残党で、事務員の中にもオルグを潜ませ、この予備校を乗っ取ろうとする隠然とした強力な勢力範囲を築き上げてあった。 その彼らにとっては「関西弁を喋る“よそ者”が人気を独り占めする」ことには我慢がならなかったらしい。二年目から、ちょっと普通には考えられないような陰湿なイジメが始まった。 一方、外人講師による「学校英語批判」講座で授かった「本物英語」を授業で伝え始めた自分は、彼のレッスン内容が理解できず、相も変わらす自分たちの受けた「どぶネズミ英語」を説き続ける講師たちにとっては、えらく目の上のタンコブとなったようで「あの講師は英語が出来ない」というような風評を生徒の間に流していたようだった。小生の云うことに対し「××先生はこう云った」と凄みに来る生徒もいた。また「あの講師の言うことは学校で習ったことと違うから“分かりにくい”」と言う、望みのない愚かな生徒も多数いたりした。 予備校では教育や英語とは全く無縁の「ただの事務員」が人気さえあれば「学力のある偉い先生」として奉る。しかも、大学は出たものの一流企業に入れないで、予備校事務員になるしか能力のなかった連中だ。ここを首になったらもう行く所がない、というわけで、やっていることは社長向けの点数を稼いで、身の保全を図ることに汲々としているだけである。こいった「鼻汁しみったれ事務員」の耳に「あの講師は英語ができない」「学校で習ったことと違うことを言うから分かりにくい」といった声が入ると、「あいつはダメだ」となっていく。 自分は夜間部の高校生にも「本物英語」を伝えた。生徒たちは喜んで、学校に帰ってから英語教師たちに「それは違います。本当はこうです」といったようなことを伝えたらしい。すると高校の「どぶネズミ教師」たちから、予備校の方に轟々たる抗議が入り始めたという。すると「鼻汁事務員」上がりの本部長が「これでは来年の入学者数が減る」とばかりに震え上がってしまい、小生に対する次長と組んで思いつく限りの「イビリ潰し」を始めた。 「村社会の講師団」と「鼻汁事務員団」との一致協力で自分はイビリ貫かれることとなった。この実体験記をメルマ(http://melma.com)から「行ってはいけない塾・予備校」というメルマガにして出し始めたばかりだ。また、この予備校のどぶネズミ英文法テキスト批判「英文法革命」もその少し前に出し始めた。メルマのHPを開き「マガジンカテゴリ」で「学校・教育」をクリックし「英語」をクリックすると「英文法革命」という題が出る。これをクリックして「マガジンの登録/解除」の下にある四角の空欄に自分のメルアドを打ち込み「利用規約に同意して登録」が選ばれていることを確認して「送信」を押すと購読できる。「行ってはいけない塾・予備校」は「学校・教育」の「受験」の方に入っている。 初めの何回かは「機種依存文字」の処理の仕方が分からず、「文字化け」が出ておりますが、その対処の仕方も心得ましたので、この頃は「文字化け」はしていないハズです。週一回の配信です。宜しくご購読ください。zawanak@gmail.com (中沢俊一)
October 19, 2007
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何と大手予備校が「どぶネズミ英語」の最終的強化訓練の場だった! 自分は予備校英語講師に転職してから予備校を3つ回り、最後はYSK(代ゼミ、駿台、河合)と言われる御三家の一つのうちの福岡校で終わった。 この予備校に、極めて優秀な英国人講師を紹介した「本物日本人講師」がいて、その英国人講師は我々日本人講師にレッスンをしてくれていた。そしてそこで日本の学校で教えられている「どぶネズミ英語」を指摘して我々の英語を直してくれた。だから全国組織を持つこの予備校で、彼の理論を教えておれば、この予備校は日本の英語教育の改革に大きく貢献できたハズだった。 例の「青少年有害図書」の著者の片方もこのレッスンを聞きにきていた。「東大さん」の方は、自分に英語が喋れないことがバレルと「東大さん」の権威にキズが付くとでも思ったものか、一度も出席しなかった。彼の発音の汚さもよく知っているが、発音の綺麗さは「本物度」を表す。また、言うがNHKのラジオ英会話の日本人講師の英語を聞くとよい。 このレッスンで彼は「willは未来という時間とは無関係」ということを強く指導し、またレッスンの講義録が2冊の本となってこの予備校から出版されてもいた。 だが「will は未来」でアタマ凝り固まってしまっている「有害図書」の著者にはこれが全く理解できず、このアタマのままシャァシャァと「時の副詞節や、条件節の中では未来のことは現在形になる」とした学習書を出したところ、彼と同じレベルにしかない高校英語講師から良書として推奨され、非常に多数の高校生がこの学習書を持つに至った。 そして、この講師が人気を博すると、ただの「事務員」たちが、新聞の広告で彼のことを「文法・語法の達人」と持ち上げていた。英語とか教育とかには全く関係のないこれら「ただの事務員」には、ともかく売り上げを伸ばすこと(=生徒の数を増やすこと)が彼らの社長向け点数稼ぎであって、この方面に狂奔する。だから「どぶネズミ講師」が生徒の英語感覚を潰そうがどうしようが、それは全く眼中にはないのである。 その上人気の出た講師たちを「学力のある偉い講師」と奉りテキストの執筆を依頼する。だから生徒たちは「合格」という錦の御旗の元に「どぶネズミ英語」の強化訓練を受けるハメになるのである。 こういった「どぶネズミ人気講師」の英語を真正面から否定する英国人講師の講義録は営業上邪魔になったものか、今では絶版になっているが、2冊のセットの古本に何と \7,500 という値が付いているそうだ。しかし、心強いことに、これだけの値段を払っても「本物英語」を求める人々が居るわけだ。「どぶネズミ英語」を撲滅して頂きたい。zawanak@gmail.com (中沢俊一)
October 11, 2007
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「時を表す副詞節や、条件節の中では未来のことは現在形になる。名詞節では will になる」と説く「青少年有害図書」の中では、どうしても副詞節と名詞節との見分けがつかない生徒のために「訳して」みてこうなら副詞節、こうなら名詞節という説明を長々と入れている。ものに対する理解能力に恵まれずに生まれてきて(視覚障害、聴覚障害があるのと同じことだ)こういうことが分からない生徒が多数いることは自分も体験してよく知ってはいる。だが、英語本国の幼稚園児が走り回って遊んでいる最中に「これから言うことは名詞節だから will になる」と考えておいてからものを言ったりはしない。どだい、幼稚園児が「名詞節・副詞節」などという言葉も知らなければ、これらを区別する必要もない。「どぶネズミ講師」たちは何ともアホゥな説明をするものだ。それ向けの能力に恵まれていない者はその方面のことは「やっても出来ない」ことすら分かっちゃいない。視覚障害者が画家になれるか? 普通、この部分の解説では「形容詞節」ではどうなのかの説明が抜けている。自分の居た大手予備校のテキストでも抜けていた。しかし、上記の「有害図書」では珍しくこの説明が入っている。だが、例によって例の如く「形容詞節では現在形になる」なのだ。「現在形の“意味用法”が分かっちゃいない」のでまた、自分たちも「分からないままで暗記していること」を受け売りして、生徒にまたその暗記を強いている。 「私の車を洗ってくれる人には5ドル払います」と言いたいときには I’ll pay $5.00 to anyone who washes my car. となるが、これを言う人の気持ちの中では「洗ってくれる人には」という「確定事項」があるから「単純現在形」で言うのであって、どんな人にも5ドル払うわけではない。ここの will は「払うのはこれから。だから will になる」のではなくて、「払います」という「自分の意志」を表す現在形である。 この「有害図書」では、「if 節でも相手にものを依頼するときには will が入る」という注を入れているが、「will の意味」を考えれば、これは当たり前のことだ。「手伝ってくれれば(有難い)」と言うとき If you will give me a hand, となるが、「君に“その気”があれば」という「相手の意思」を問うものだから will が必要なのだ。 これをもっと丁寧にして仮定法で言うには If you would give me a hand, となるが、普通の「どぶネズミ英語」では「if 節では現在形になる」で済ませてしまうから「学校英語」ではこの if 節に would の入る仮定法は習うことがない。自分の居た大手予備校のテキストでも、これを生徒に教えることはなかった。 この障害は全て「中一の時」の「will は未来を表す」から来ている。zawanak@gmail.com (中沢俊一)
October 9, 2007
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(其の 37) 中一英語の恐ろしさ! (30) 「時を表す副詞節や、条件節の中では未来のことは現在形になる」は「中一の時」に「will は未来」という「未来ゾンビ」にされてしまったアタマから出て来るお笑いを極めた「型文法の超傑作」である。 話し手の気持ちの中に「だろう」と言いたい気持ちがないから、「だろう」という意味の will を使わないだけに過ぎないものを、「will は未来」で固まりきってしまったアタマには、「will を使わないことが現在形になる」と見えるのだ。「現在形の意味用法」が分かっちゃいないから、何故現在形を使うのかは分からないままで「現在形になる」と「生徒と同じレベル」で丸暗記しているわけだ。 しかも「will は現在形」なのに「will を使わない」ことが、彼らにとっては「現在形になる」なのだ。こういう「どぶネズミ」が教壇に立っており、生徒にも自分たちと同様に「分からないままの丸暗記」を強いている。 if 節においても事は同じだ。「彼がパーティーに出席するのなら...」と言うのに If he attends the party, とするのは「彼が出席する場合は」と「条件を確定」した発言だから「確定事項には助動詞を使わない単純現在形」で述べるのだ。 また言うが「英語のいわゆる時制は日本語の時制と重複する部分が非常に多い」から、この場合も日本語では「彼が出席するだろうなら」などとは言わない。英語でもその時の気持ちの動きが全く同じなのだ。「どぶネズミ」たちの振り回す「型文法」では「抽象のレベル」での詮索には全く触れない。 だから、英語本国の幼稚園児でもこういった if 節は、走り回って遊んでいる時に幾らでも自然に使えてしまうわけで、園児がものを言う前に「これから自分が言うことは時の副詞節だから、if 節だから現在形になる」などと考えておいてから発言したりはしない。 だが、「どぶネズミ英語」では「時の副詞節、if 節では未来のことは現在形になる」は「重要事項」であって、わざと will を含ませた文を作って正誤問題として出題し、will を消したら○などということをやっている。「どぶネズミ教師・講師」たちは己のアホゥさ加減を振り返って、ジッと見つめ直し恥じ入るといい。 この「アホゥの最果て思想」で書かれた学習書が、極めて多数の高校の「どぶネズミ教師」によって推奨され、殆どの高校生が持っているようである。執筆者は二名で、片方は何と「東大さん」だが、その「どぶネズミ度」が極めて多数の高校英語教師たちと同じレベルにあり、非常に共感を呼ぶものらしい。 この二名による学習書は複数あるが、これによって高校生たちの英語感覚は全国規模で「ヘドロ状に汚染」されていく。正に「犯罪」である。自分は、彼らの書いた学習書を教壇の上から「青少年有害図書」と呼び捨てて憚らなかった。zawanak@gmail.com (中沢俊一)
October 4, 2007
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現在進行形の「意味用法」がきちんと理解できている教師・講師は殆ど居ない。それどころか現在形の「意味用法」が理解できている者も殆ど居ないのだ。こんな「どぶネズミ」が教壇に立って生徒を潰し続けている。 「中一で」現在形を習う。大抵I play tennis on Wednesday. といった文例で入る。これまた「私は水曜日にはテニスをします」という「訳」を貰って何やら分かったような気になる。ここが「学校英語のダマシ」だ。「現在形」が何を表すためにどう使うのかという「抽象のレベル」の事については何も習ってはいない。「現在形」は確実であること、確実だと思うことを言い表すのに使う。だから前回の I can see you tomorrow. も手帳か何かを見ながら、あしたこの時間なら空いているから会えるという「確実性」を述べている。 今日は月曜日だとしよう。会社で出張命令書を見ながら「水曜日は大阪だ」と言うには I’m in Osaka on Wednesday. となる。「確定未来」を表すには助動詞は要らない。これを「未来だから will になる」として I’ll be in Osaka on Wednesday. とすると 「will の意味」により「水曜日には大阪に居るだろう」という「不確実性」を言うことになる。「中一の時」の「will は未来を表し be going to とイコールです」ではこういうことはカケラも習うことはなく、また「未来だから will になる」という「will ゾンビ」にされてしまうのだ。 自身も「中一の時」に「will ゾンビ」にされたまま「will は未来、未来だから will になる」を信奉したまま教壇に立っている「どぶネズミ教師」たちは、I will play tennis this afternoon. といった文の説明で、「テニスをするのはこれから、だから will は未来」とやってしまう。これでは afternoon を見ているだけで「will の意味」は見ていない。こういう説明をする「どぶネズミ」は I want to be a doctor when I grow up. といった文をも「医者になるのはこれから、だから want は未来」とすること。 「現在形の意味用法」がてんで分かっちゃいない「どぶネズミ」たちは、更に「時を表す副詞節や、条件節では未来のことは現在形になる。これは重要事項」などと真顔で言うことになる。上の文では、これを言っている子供は「大人になる」ということを「確実視」しているから「助動詞のない現在形」を使うのであって、これを「未来だから will になる」として when I will grow up とすると、大人にならないかも知れないという「不確実」な気持ちを持っていることになる。だからそうは言わないのだ。 「時を表す副詞節や、条件節では未来のことは現在形になる」と言っている「どぶネズミ」たちにとっては、あくまでも「will は未来」であって「will doの形は未来時制」なのだ。そして「will は現在形である」ことを己のアタマが受け付けない。「未来のことは現在形になる」というのは何ともお笑いを極めた「型文法の傑作」である。zawnak@gmail.com (中沢俊一)
October 2, 2007
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(其の 35)中一英語の恐ろしさ!(28) be going to は I am going to, You are going to, He is going to などと使い、形は「現在進行形」である。これを will とイコールとして「未来を表す記号」と信じ込んでいる「どぶネズミ」さんたちには、これが「現在進行形」には見えないようだ。再度記すが、英語の直説法では「未来表現」に現在形を使う。「現在進行形」も現在形の一種である。「中一の時」にこの be going to と普通の進行形を習う。そして「進行形は be+ing形で作り“~しつつある”ということです」と「型文法」では、これまた「訳」と「型」だけの説明に終わってしまう。「進行形はどういった気持ちを表すために、どう使うのか」については全く説明がないのが普通だ。予備校英語講師を見ていて、「“~しつつある”と訳せるから分かっている」として進行形の学習をしていない「理解度のレベルが生徒と同じ」者がボロボロ居ることを知った。進行形を理解できている講師は殆ど居ない。中学・高校の「どぶネズミ」さんたちも同じハズだ。 更に其の上、学校英語では「往来・発着を表す動詞の進行形は未来を表す」などとやっている。だが、I’m meeting Tom tonight. などという言い方はいくらでも出てくるが、meet は往来・発着の動詞ではない。「どぶネズミ」さんたちは自分のやっていることをどう思っているのであろうか? 往来・発着以外の動詞も進行形は「未来表現」に使う。だだし、相手との取り決めが決まっている時に使うのだ。上記の I’m seeing Tom tonight. は二人で会おうと約束ができている時に使う「未来表現」だ。will=be going to とし、「will は未来を表す」と決め込んでいる「学校英語」ではこういったことを習うことは先ず皆無だ。往来・発着の動詞は「相手との約束があっても無くても使う」ので使用範囲の枠が他の動詞より広いのだ。 また be going to も「相手との約束が無くても使う」。即ち、「よし今夜 Tom に会おう」I’ll see Tom tonight. と自分で勝手に決めて、その後になら使える。だから、この言い方では聞く方に二人の間に約束があるのか無いのかは分からない。そこを明確に相手に伝えたければ I’m meeting Tom tonight. の方を使う。 「現在進行形」は「未来表現」に幾らでも使うのだが、「現在進行形の意味用法」をちゃんと理解できている教師・講師が殆ど居ないのだ。zawanak@gmail.com (中沢俊一)
September 28, 2007
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will が未来でないと頭が分からなくなる「どぶネズミ」さんたちのために、ジーニアスで助動詞 willの項4[可能性・推量]の所から文例を二つ引用しておこう。(a 項)You’ll be starving now after your long walk.(長い間歩いたのでもう腹ペコでしょう)[現在用法]、(b 項) She will have posted the letter yesterday. (彼女は昨日その手紙を投函したのだろう) [過去用法:注も同時に参照のこと]。(a 項)の注には “be going to では代用できない”とあるが、「中一で」“will は未来を表し、 be going to とイコールです”とやってしまう。「プログレス」ですら book 2 で「will = be going to」とやっている。もっとも、一部には英語本国でも be going to を「だろう」の意で使う「くずれ」(?)があるようで、この部分では両者は同意とはなるが、本来は完全に別物だ。こういうことが「どぶネズミ」さんたちには全く分かっちゃいない。 英語の直説法では「未来表現には現在形を使う」。will は前述の通りcan と同列で「現在形」だが、is going to で分かる通り、これは「現在進行形」であり「事態が現在、その方向に向かって進みつつある」ことを表す。ジーニアスの go の項で熟語の所に be going to があがっており、will との違いが書いてある。基本的には「will はその場での初回意志決定」に使う。電話が鳴って「私が出ます」と言うときには “I’ll answer it.” だ。ここには be going to は使えない。「be going toは一旦決めたことに向かって事態が進展中であることを表す」のに使うからだ。女の子が「看護婦さんになろう」と決めて現在そのために勉強をしている最中なら She is going to be a nurse. とする。この時には will は使えない。 be going to はまた周囲の状況を見踏まえて「この調子だと雨になるぞ」といった時にも使う。「お天気が雨降りの方向に向かっているぞ」というわけで、このIt’s going to rain. を未来のことだからというわけで It’ll rain. とやってしまうと意味が変わってしまう。will を使うと踏まえる事柄なしで、「雨がふるだろうよ」と占いめいた言い方となる。だが、「中学の学校英語」では「can には未来形がないので can の未来は will be able となります」などとやっている。ジーニアスの can の所で (2) [可能性・推量] の第一文例が I can see you tomorrow. だ。これは「あした会えます」という「確定未来」の表現で I will see you tomorrow.(あした会えるでしょう:will が“予測”を表していることをハッキリさすためにこの willに probably といった副詞を加えることが多い)という「不確定未来」とは意味が違う。「どぶネズミ」さんたちにはこういう認識が何もないのだ。そして生徒たちを「潰し続けている」のである。zawanak@gmail.com (中沢俊一)
September 26, 2007
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will は「未来を表す記号」ではなく、「意志」「予測」を表す、助動詞の現在形である。もう一度記すが、その活用は [will, would, ナシ] で英語ではその過去分詞分詞を捨ててしまった。will が「未来」という「時」を表すのではない。can と全く同列に考えること。英語の「未来表現」には、普通の言い方(直説法)では日本語と同様に現在形を使う。 will が「意志」「予測」という全く無関係な二つの意味を持っていることにはわけがある。現在のドイツ語では「意志」には wollen (ヴォレン=will)を使い、「予測」には「~になる」という意味の werden(ヴェルデン=become)を使い、両者は区別されている。古代ゲルマン語がブリテン島に侵入し古代英語となっていった時代には、英語でもこの両者は区別されていた。そして「~になる」にはこの werden に似た綴りの単語があった。ところが、will がこの単語を吸収して、この両者を will が兼任するようになった。 ところがこの「予測」を本国の文法学者たちですら「未来を表す」と思う重大な誤りを犯してしまっている。「~だろう」ということは何も未来にだけにしか使うのではないいことを見逃している。いわゆる「時制」なるものは英語と日本語とには共通点が極めて多い。日本語でも「あそこに居るのは太郎だろう」(現在)、「もう宿題は済んだのだろう」(過去)、「後で遊びに来るだろう」(未来)と「だろう」は現在にも過去にも使う。英語でもこれは同じだ。だが、「どぶネズミ英語教師」にとっては will はあくまでも「未来」なのだ。そして生徒にそう教えて潰し続けている。 予備校の講師室へ生徒が英語の質問を受けに来ていた。答えていたのは「高校英語教師」出身の年配講師だった。何かで話が will のこととなり、年配講師が「“だろう、でしょう”未来」と言うと、生徒の方も「学校で習った通り」で自分も十分に分かっていると言わんばかりの満面の笑みを浮かべて両者しっかりと握手を交わしていた。年配講師は「だろう、でしょう」が現在にも過去にも使われるということが日本語のレベルで分かっちゃいないのである。恐ろしい現状だが、こういうのを自分は「英語に対する理解度のレベルが生徒と同じ」という。「will は未来を表す」「最上級には the を付ける」で「理解度が生徒と同じ」教師はボロボロといる。 ジーニアスは素晴らしい学習辞典で、自分はその中の中学・高校レベルの単語は文例を全部読みつくすということをやったが、この辞典ですら will には「意志未来」、shall には「単純未来」と記されている。何ともかんとも残念なことだが、他方、意味論を踏まえて書かれているベネッセの「E-Gate」英和辞典の will の項には「未来」などということは一言も書かれていない。この辞典は熟読する必要がある。zawanak@gmail.com (中沢俊一)
September 25, 2007
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「英語には未来形なるものはない。will は can と同様に現在形であり、自己固有の意味を持つ単語である」。この犬釘が頭蓋骨に打ち込まれない限り、英語で未来のことを述べることに関しては全く望みはない。 しかし、「中一の時点」でこの望みはが破壊され尽くすのである。前回記したように「will は未来を表し、be going to とイコールです」が日本人全体を「未来ゾンビ」にしてしまっている。 その結果、先ずは日本人全部が「will は未来」と信じ込んでいる。 do の活用は do(現在形)、did(過去形)、done(過去分詞)で「do 自体の未来形はない」。英語には時間を表わすための動詞形は現在形と過去形しかないのである。これはドイツ語も同じだ。 一方、フランス語には動詞自体の未来形がある。「する」という意味の動詞の不定形は faire (フェール)だ。フランス語は各主語の人称によって定形が別々にあるから、ここでは je(=I)の定形を並べてみる。je fais (ジュ・フェ:現在形)、je fis (ジュ・フィ:過去形)、je ferai(ジュ・フレ:未来形)である。 フランス語では英語の will と同様に使われる vouloir (ヴルワール:欲する)は動詞として扱われるから「vouloir は未来」などというアホゥな説明は行われない。無論 vouloir 自体にも未来形がある。 「どぶネズミ英語」では 「can は現在形で“できる”ということ」と言いながら「中一の時」既に「will は未来という“時”を表す記号」としてしまっている。will は“~したい、~しようと思う”という「意志」と“~だろう、~でしょう”という「予測」を表す現在形の単語だ。 will が「未来という時間」であったりはしない。「どぶネズミ」さんたちも「中一の時」にここの感覚を完全破壊され、それを硬く信奉し続けているのだ。そして生徒たちを自分たちと同じものに仕立て上げるという「学校英語の犯罪」を犯し続けているのだ。 昔の英語には「to なし不定形」を目的語に取る少数の動詞があった。他は皆「to 付き不定形」を目的語に取った。例えば I will do it. I want to do it. といった具合だ。この少数の動詞が後に「法の助動詞」と呼ばれるようになった。「助動詞」の元は動詞である。だから辞書で will の項を開けば will はまだ動詞用法を残していることが分かる。ドイツ語では英語の助動詞に当たる語は全て動詞用法と助動詞用法の両方を残し持っている。例えば will に当たるものは wollen(ヴォレン)だが、wollen(ヴォレン:現在形)、wollte(ヴォルテ:過去形)、gewollt(ゲヴォルト:過去分詞)と活用し、助動詞に使ってもこの過去分詞を使う構文をまだ持っている。 一方、英語では助動詞の過去分詞を使う構文を捨ててしまったから will の活用は 「will, would, ナシ」なのだ。だから can も同様に「can, could, ナシ」であって will は can と同列の「現在形」なのである。 英語には未来形はないが「未来を表す言い方(未来表現)」はある。仮定法ではない普通の言い方(直説法)では未来表現には日本語同様現在形を使う。「きのう学校へ行った(過去表現)」「毎日学校へ行く(現在表現)」「あすも学校へ行く(未来表現)」。こう見ていくといわゆる「英語の時制」は日本語と共通点が極めて多い。 zawanak@gmail.com (中沢俊一)
August 31, 2007
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「will は未来を表さない!」。「中一」で助動詞が幾つか出てくる。先の疑問文に使う do も一般には「助動詞」と呼ばれているものであるが、この仲間に完了形を作る have と、進行形を作る be がある。自分から見るとこれらは普通の動詞である。 再度言うが、普通の動詞だから人称変化をする。He has finished his homework. He is going to school. これらの動詞は過去形にすると話が過去のことだと分かる。He had finished his homework. [(あの時には)宿題を終えてあった]、He was going to school. [(あの時)学校に行く途中だった]、Did he like the meal? [あの食事喜んでいたか?] 。とういうことから、これらの be, have, do は「時の助動詞」と一般に呼ばれている。 他にもう一つ別系統の助動詞がある。これらは「気分とか可能性」を表すもので、一般には「法の助動詞」と呼ばれている。will, can, must などがそれだが、「学校英語」では will を「時の助動詞」の方へ入れてしまっている。これが「日本人は英語が出来ない」原因のもう一つの大きな元凶である。「中一の時」に「willは未来を表します。be going to とイコールです」というガン細胞が「どぶネズミ教師」の脳から生徒の脳内に移植されてしまう。これによって日本人全体が「willは未来」と信じ込んだままで墓石の下に入るように運命付けられるのだ。日本人全体が「willは未来ゾンビ」にされてしまっている。 will は can やmust と同列の助動詞であって、これらと同様「自己の意味」を持つ単語だ。だが「どぶネズミ教師」たちにとっては「willは“時”」という「時間」なのである。自分たちも「中一の時に」ガン細胞を植え付けられて、それを信じ込んでいるからだ。まず教師の脳内を切開手術してこのガン細胞を切除しなければならない。でないとこのがん細胞は果てしなく繁殖して転移していく。 前段階として大方の彼らには「時制」(tense)という言葉の意味がてんで分かっちゃいないことをあげつらっておこう。「時間」(time) との区別がついていないのだ。それは生徒に「時制とは何か?」と聞いてみると分かる。先ずは全員が「時」と答える。中学から高校を卒業するまで「時制とは時と同義の文法用語」と思い込んだままでいる。自分もそうだった。これは教師がそう思っていることが転移して来るからだ。 自分のいた大手予備校の高一用のテキストで、「不定形」を「進行形」に書き直させる練習問題があった。is doing にするのか was doing にするのか will be doing にするのかは英文中の yesterday とかtomorrow をよく見てやりなさいという注に「時制を良く見よ」とあった。「時制とは“動詞”の変化形で話がいつのことなのかを分かるようにすること」だ。副詞は関係ない。大手予備校でテキストの編纂をする講師ですら「時制」なるものが分かっちゃいないのである! will は現在形であり、英語には「未来形」なるものは存在しない。これは次回に記す。zawanak@gmail.com (中沢俊一)
August 28, 2007
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「will は未来を表さない」「最上級には the を付けない」これが自分の40歳からのやり直し英語の根底である。それまでは学校で習った「どぶネズミ英語」しか知らなかったから、勉強の仕方も「どぶネズミ英語」で試験の点数を上げるように勉強するのが英語の勉強だと思っていた。今回でこのブログも30回目の投稿となったが、「試験の点数を上げる」ために、アルバイトの大学生を家庭教師に雇うことがどれ程愚劣なことであるかは骨身に滲みて分かって頂けたことと思う。 英語講師に転身した時「中学・高校で自分が受けたのと同じ授業をしてはいけない」と思って、それではどうしたらいいのかと、色々本を読んだりしていた。そこへある日「英語講師養成講座」という新聞広告が目に留まり、早速行ってみたら、例の「絵で見る英語」をテキストにしたGDMという英語導入法の研修会だった。そして、あのテキストの下地になっている理論の解説を受け、本当に文字通り「目からうろこが落ちる」激震を受けた。特に「意味論」に目覚めたことは、自分にとって奇跡的な変化をもたらした。ここで始めて「直説法」による英語の導入法を知ったのだった。そして、誰が見ても「何これ!! こんな易しい英語」と思うあの易しい英語とそれに付いているマンガのような絵、普通の人なら見ただけでバカにしてしまうようなあの本を、正に聖書の如くにして熟読、再読。あの絵とあの極めて簡単な英文との下にある理論を探り出そうと読むうち、あの本はボロボロになった。あれ程熱中して読んだ本は今までに無い。このGDM の知識を基にして眺めることにより、大修館の「英語指導法ハンドブック(1)」にある他の3つの指導法も大いに参考にすることが出来た。その後、あの「プログレス」という物凄いテキストに出会って、これを指導することになり、それこそ「舐めるように」内容を観察した。作成者のフリン神父は「直説法は時間のムダ」として「直説法」にはハナも引っかけないが、完全に対極にあるものを注視するのも大いに勉強となった。「GDM」と「プログレス」、この二つを知ったことで自分は奇跡的に「どぶネズミ」から脱却できたのである。 zawanak@gmail.com (中沢俊一)
August 24, 2007
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(お詫び)昨日は、先の方まで書き溜めております原稿の最新版を誤って送信し、怪訝な感じを蒙らせてしまい、済みませんでした。誤りに気が付いて直ぐに削除しようとしたのですが、消すことが出来ませんでした。(ここから本日の原稿) 英語では「be 動詞」だけが、形・用法共に昔のままで残っている。形の方は前回見たので今回は用法を見てみよう。「中一」で疑問文を習う。以下で「be 動詞」以外の動詞を「一般動詞」と呼んでこれと区別することにする。「be 動詞」の疑問文では主語と動詞をひっくり返して疑問文を作る。 He is a teacher. → Is he a teacher?一方、「一般動詞」では do を使って疑問文を作る。 I like tennis. → Do you like tennis, too? 何故「be 動詞」だけ主語と動詞をひっくり返すだけで疑問文が作れるのか?実はこれが本来の疑問文の作り方なのだ。ドイツ語では「be 動詞」のみならず「一般動詞」でも主語と動詞をひっくり返すだけで疑問文を作る。フランス語でも同じだ。実にたわいのないやり方で済む。「あなたは東京へ行きます」”You go to Tokyo.” を「あなたは東京へ行きますか」という疑問文にするには “Go you to Tokyo?” でよい。実は英語でも昔はこうやって疑問文を作っていたが、この形がただ「be 動詞」のみに残っているのだ。ただそれだけ。 しかし英語では「一般動詞」には “do” を使うというドイツ語・フランス語にはないやり方をするようになった。「学校英語」ではこの “do” を「疑問文をつくる助動詞」というが自分はこれを「する」という意味の「一般動詞」だと見る。だから三人称単数には人称変化をする。He likes tennis. → Does he like tennis? と人称変化し、三単現の -s も付く。 この文意は「彼はするか、テニスを好むことを」である。ここの “like” は前回見た、主語に付いていない「不定形」である。「不定形」はこのように名詞としても用いられる。 文法項目の中に「不定詞」なるものがある。その中には「to 付き不定詞」と「to なし不定詞」とがある。そして「不定詞」には“~すること” という「名詞用法」がある。上記 “like” をこの「to なし不定詞」の「名詞用法」と見れば事は実に簡単である。He doesn’t like tennis. は「彼はしない、テニスを好むことを」に過ぎないのだ。 英文法では「不定詞」なる言葉を立ててしまったので大混乱が起きている。不要な言葉だ。「to なし不定詞」は「不定形」と同じものなのに「原形不定詞」などと呼ぶのでこれらが二つの別物みたいに聞こえてしまう。zawanak@gmail.com (中沢俊一)
August 21, 2007
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比較の構文で「他のどんな~より」という所で、参考書には than any (other) ~ としてあるが、このother はあっても無くてもいいのかどうかを解説してあるのを見たことがない。無くてもいいのならいつ抜くのかも自分は「教室英語」では習ったことはない。また「他の~」で比較の対象が一つではないのにこの any の後ろの名詞は、He is taller then any other boy in his class. と単数である理由を聞いたこともない。 これはany が元々不定冠詞の “a” と関係があるからかも知れない。が、自分の居た大手予備校の非常に優秀な英国人講師は、「比較の対象が複数ということは分かっているから、日常会話では any other の後ろは複数で言うことはいくらでもある」と言っていた。 こういうことは「学校英語」では習うことがないのだ。我々は「生の英語」に接する必要があるのだが、「どぶネズミ」さんたちは英語が喋れないのでネイティブが来ると逃げてしまう。中学や高校にネイティブ講師を入れることが広く行われるようになったが、どれ程の効果が上がっているのだろうか? 話が少し横道に反れたが、No other boy is taller than he. No other boy is as tall as he. と than や as の後ろの三人称の代名詞をそのままで止めることには彼は厳しかった。「ここは主格で言うのが正しいのでございます」と言わんばかりの文法談義を押し付けられているような感じがするという。 ところが、この than や as は前置詞のような感じがするからだろうと思うが、非常にくだけた会話では him とか her とか、me やus と言われるという。「実例英文法・第4版」(オックスフォード大学出版)のp.23 にも同じことが書いてある。 ところで (other) だが、「現代英語用法辞典」p.147 に、“文法書では「比較級は2つのものの間の比較に用い、最上級は3つ以上のものの比較に用いる」と述べられているが、これはあまり適切な規則ではない”とある。自分もこの通りに信じ込んでいたのだが、まずここの所を思い直す必要があるので、次回はこれに関して記すことにする。zawanak@gmail.com (中沢俊一)
August 20, 2007
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There is, Here is をやったので is という be 動詞が出た。今回はこの be 動詞について記す。予備校の生徒から「何故 be 動詞だけは原形が be なのですか、他の動詞は全て原形と現在形が同じなのに」という質問を受けたことがある。自分も含め、生徒は全て6年間に学校英語でここの所の説明を聞いたことがないのだ。I am, you are, he is と各人称によって形の違うのも説明がないうえ、これらをひっくるめて「be 動詞」ということで入ってしまう。それで終わりだ。英語では be 動詞だけが古代英語のシッポを引きずっているのだ。科学的な西洋の言葉は少しでも違うことには違う周波数を与える。だから人称が異なればそれに続く動詞も違う形をしていなければならないのだ。ここにもまた例の「確定・不確定思想」が働く。各人称に対して決まった形を「定形」というが、人称に付く前の形もまた別の形でなければならない。これをまだ行き先が定まっていないというわけで「不定形」という。これは普通完全な別形だ。英語ではこの「不定形」を「原形」と呼ぶが、「不定形」としたほうがいいだろう。前述したように英語の元は古代ドイツ語だ。そして現代ドイツ語は古代ドイツ語の面影をまだよく残している。これら二つの言語の be 動詞の変化を対照表にして並べてみる。ドイツ語の表の中には単語の読み方をカタカナで記入はしないが、ただ対照して眺めて下さればよい。 (be) I am, we are you are, you are he is, they are (sein)ich bin, wir sinddu bist, irh seit (sein は ザイン と読む)er ist, sie sindこれで上記したことはハッキリしたと思う。ところが英語は他の動詞に対してはこんな面倒なことは放棄してしまった。go という動詞の対照表を次に示す。 (go) I go, we go you go, you go he goes, they go (gehen)ich gehe, wir gehendu gehst, ihr gehter geht, sie gehen 英語では he の所だけ -es という古代の語尾を引きずっているが、ドイツ語の er heht に見るように元は “t” で終わっていた。これが後で “s” に変化したという。戦後日本では「ラ抜き言葉」というものが自然発生し、それが定着してしまったのと同じ現象だ。英語本国でこの he の所も he go としてしまえという過激派が居るとか。be 動詞以外の動詞では「不定形」まで現在形と同形でいいのだ。 英語では be 動詞だけが古形で、その用法まで昔のままだ。zawanak@gmail.com (中沢俊一)
August 17, 2007
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this, that をやったから今回は here, there について記す。「中一の時」に生徒たちは「here は“ここ”」「there は“あそこ”」という、これまた「訳語」を覚えてしまう、これがどれ程有害かも知らずに。 予備校の英作で「あそこは散髪屋ですか」に対し “Is there a barbershop?” とか、「ここは名古屋です」に対し “Here is Nagoya.” という解答が出る。「中一の時」に暗記した「訳語」の弊害である。「訳語」に目隠しされてこれがいけないということが、生徒たちには分からないのだ。更に言うなら、この状態で6年間きたわけだ。 「訳す」ことでわかったような騙された状態になっていたなどとはカケラも気が付いていない。彼らはこれでいいと信じ込んでいて、全くそれを疑いもしていない。「訳す」ことで英語と日本語を同列に置き続けてきたので「英語と日本語とは全く別系列の言葉」だということを何も知らないからだ。 日本語は「膠着語」といって、ある言葉に助詞を付けると、その言葉が主語になったり、助詞の付いた状態でそれ全体が副詞になったりする。「ここは、ここが」と使うと、この「ここ」は主語で名詞の働きをしている。「ここに、ここへ」とすると、この3文字が副詞になる。だが英語は全く別系列の言葉で助詞はなく “here, there” それ自体が副詞で「ここに、ここへ、そこに、そこへ」ということだ、などと説明しようものなら「ハッ?」と絶句して混乱状態に陥る。「中一の時」の「訳語」はこれ程有害だ。 だから “Is there a barbershop?” というのは「“あそこに”は散髪屋ですか」、”Here is Nagoya.” も「“ここに”は名古屋です」ということだ。「どう直す?」と迫るともう分からなくなってしまって右往左往する。「here は“ここ”」と暗記していたことを打ち砕かれた彼らに「それでは“ご当地”という名詞は何という?」と尋ねると全員が何も分からないという惨状だ。「当地」というのは「場所」を指すから、「この場所」ということで「ご当地」は “this place” となる、と言うと初めて聞いたような顔をしている。だから、散髪屋も名古屋も場所だから “Is that place a barbershop?” “This place is Nagoya.” だが「場所」であることは分かっているから省略して “Is that a barbershop?” “This is Nagoya.” となるというと、日本語の「ここは名古屋です」と英語の “This is Nagoya.” とが感覚的に一致せず何やら納得できていないような感じだ。これを「訳語の弊害」という。 中一の生徒を預かったことがある。 “There is a book on the table.” の “There is” は分かるという。「何々があります」という時の熟語として丸暗記したらしい。だが「ここに本があります」に対する “Here is a book.” は分からないと言うのだ。どうも「ここは本だ」と見えるらしい。「中一の時」既に生徒はこういう状態になってしまっている。 浪人に対し、さっきの “Here is Nagoya.” も正しい英語であることがある。地図の上で名古屋を探していて「ここに名古屋がある」と言う場合にはこれを使うと言うと嬉しそうな顔をしていた。zawanak@gmail.com (中沢俊一)
August 14, 2007
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the は「さっき言った、例の、あの、そこに居る」を表す。これには「分かっているでしょ」という「気持ち」が入っている。the はこの「気持ち」を表すのに使うから、初めから「抽象用法」しかない。 一方、this は「この」、thatは「その、あの」と指で指しながら言うので出発点は「具体用法」だ。「中一の時」の“What is this?” “It’s a book.” はくどく言うと “What is this (thing)?” “The (thing) is a book.” だ。日本語でも「このモノは何ですか」「そのモノは本です」とは言わない。「モノであることは見れば分かる」、英語でもここは同様だ。「the+名詞」は it で言い換える。だからここの答え方は “It’s a book.” となるが、the は「気持ちの上で指す」のに使うと言えるだろう。 しかし、生徒は先生に聞かれて “That (thing) is a book, but this (thing) is a dictionary.” と答えてもいい。ここには「比較対照」があるからだ。 会社帰りの二人が “How about a beer? “ “It (the idea) is good.” となろう。しかし、誘った方が”How about a beer, on me?”とでも言ったら、誘われた方は喜んで “That (idea) is good” (そいつはいい)となろう。ここには「感情移入」があるから、this, that は「抽象用法」をも持っている。 自分はthis, that の出発点は「形容詞」だと思っている。だが上に記したような会話では分かりきった「名詞」を省略しているから「形容詞」が「名詞」の分までカバーすることになる。これに自分は「形容詞の代名詞化」名づけている。 何故こういうことを言うかというと、早い所では「中一の終わり頃」に「最上級には the を付けます」とやってて生徒のアタマを潰してしまうからだ。生徒は「分からないままにこれを棒暗記して、分かった」と信じ込んでしまうのである。ご当地のガス会社の広告に Gas is best. 「ガスが一番いい」とあってえらく感心したことがあった。「ガスが一番いいモノです」とはいっていない。棒暗記の生徒たちは「最上級なのに the にならないのが分からない」と騒ぎ回ることになる。「どぶネズミさん」たちもここの所が分かっていないことが大手予備校の英語講師の話で分かった。入試の英作の整序問題に「形容詞の最上級を」the なしで出題していたものがあった。それで外人講師に何故ここにtheがないのか聞きに行ったら「一番いいモノ」だとは言ってないからだと答えたと言ったと全国の各校舎に流す教師用マニュアルに書いて流した。「最上級の前のthe は省略した名詞についていたもの」で、英語では「形容詞の語尾変化」も捨ててしまったが、ドイツ語にはまだあるので、これを見れば後ろの名詞が省略されていることはすぐに分かる。 ここの the は「これしかない」という「確定感」を表したもの。「海の名前には the を付けます。だから太平洋は the Pacific と言います」とこれまた「分からないままの暗記」が強いられるが、この Pacific は元来「穏やかな」という形容詞だったという。だからこの the は the Pacific Ocean の省略された Ocean に付いていたものだ。そして太平洋は「これしかない」のだ。zawanak@gmail.com (中沢俊一)
August 10, 2007
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予備校の生徒に見るだけでなく、自分の体験からも言えることだが、「英語には不定冠詞 “a” の複数用綴りがない」ということは「教室英語」では全く知らされていない。この「”a” の複数形」についてもう少し記してみる。 英語では名詞の性別は放棄してしまったが、今でもドイツ語には名詞に性別が3つある。人間、動物の持つ自然の性別の他に、モノに対しても性別がある。テーブルは der Tisch(デァ・ティッシュ=the table)、壁は die Wand (ディ・ヴァント=the wall)、窓は das Fenster(ダス・フェンスター=the window)といった具合だ。 上記の通り、定冠詞も性別によって der(デァ・男性用)、die(ディー・女性用)、das(ダス・中性用)と3種あるが、複数には共通の die (ディ)を使う。無論、これらを指す人称代名詞にも、3つあり er(エァ=he)、sie(ズィー=she)、es(エス=it)で、複数には共通の sie(ズィー=they)を使う。 フランス語の性別は2つだが、定冠詞は le(ル・男性用)、la (ラ・女性用)、les(レ・複数用)がある。不定冠詞は un(アン・男性用)、une(ユヌ・女性用)で、複数形には des (デ・共通)がある。 一方、ドイツ語の不定冠詞は ein(アイン・男性用)、eine(アイネ・女性用)、ein(アイン・中性用)と3つあるが、複数形はない、無冠詞でやる。そして英語の不定冠詞は “a” 一本で、その複数形はない。この「無冠詞複数形名詞」に関して「学校英語」では全く指導がなされていないのだ!!「ぼかしの日本語」にはないこの2種類の冠詞が何故ヨーロッパ語にはあるのか?その根底には「確定・不確定思想」があるからだ。「科学的」にものを表明する言語では、聞き手が聞いて明確な心像を描けるか、描けないかをハッキリと区別して述べる。日本語では「相手にハッキリものを言うと角が立つ」としてぼかすことを「美徳」としてきた。言えば相手にハッキリとした心像が描けるものには単数にも複数にも “the” を使い、the book, the books とする。だから「the の意味」は「さっき言った、例の、あの、その」だ。相手にまだ伝えていないことには “a” を使い、単数には a book、この複数には無冠詞で books とする。これは日本語で「本はねぇ」と話し出す時と同様の気持ちを表す。どちらかというと、英語では複数形を使う方が普通だ。これも「単数思考」の日本語にはない感覚である。だから英語では「リンゴが好きです」は “I like apples.” の方が普通なのだ。「気持ち」という「抽象のレベル」での観察を全くしない「どぶネズミ英語」では「中一の時に」「the は“その”と限定し、a は“一つの”ということです」とやってしまうから、日本人のほぼ全員が冠詞のことは分からないまま墓石の下に入ってしまうこととなっている。zawanak@gmail.com (中沢俊一)
August 7, 2007
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「不定複数」という英語の重要基本概念を「どぶネズミ英語」では中一から高三までの6年間に教えることはない。だから、一般の日本人には「私はリンゴが好きです」を英語では普通 “I like apples.” と言うのだという発想ができない。予備校で生徒に「不定複数」など言おうものなら、ポカーンとした顔をしてしまって何のことやら全く分からない。過去6年年間にそんな言葉など聞いたこともないからだ。 どだい「不定冠詞」の “a” をまともに教えていない。「中一の時」に、例によって例の如く「”a” は“一つの”ということです」と「訳語」を示すだけで「”a” の意味」は何も理解させることはないのである。「”a” の意味」は「どんな何でも・どれでも」ということで「同種類のものが幾つもある中で、どの一つを取っても」ということを表す言葉だ。だから「不定」というのだ。更にこの上、この「複数形」について「どぶネズミ英語」では指導することもない。だから我々日本人には、この系統の複数名詞が使えないのだ。 先日も記したことだが大手スーパーの英語表示に「野菜」を “vegetable” と単数表示してある。これを “vegetables” という「不定複数」表示にしなければならないという英語感覚は「学校英語」では習ったことがないからだ。外人客も泊まるホテルのロビーに置いてある新聞販売スタンドに何種類もの新聞が置いてあるにも拘らずその英語表示は “newspaper” と単数表示なのだ。 何度も書くが「英語ではものの見方が科学的」なのだ、そして「日本語ではボカシ的」なのだ。この両言語の考え方の基本は全く異なるので、「英語を日本語に訳して分かったような気にさせるダマシ」を行っている「教室英語」では英語感覚は全く育たない。「机の上に本がある」と言えば、ボカシの日本語では一冊であろうと何冊かであろうとこれでいい。しかし、西洋の言語では単数・複数を厳格に峻別して言い分ける。一冊なら “There is a book on the table.”、何冊かなら “There are some books on the table.” (some は「冠詞類」の一つ。これは下記フランス語の “des” に似た働きをする)。数をハッキリ言いたければ “There are three books on the table.” と言い分ける。 ドイツ語では “a book” は “ein Buch” (アイン・ブーフ)だが、 “books” は“Bücher” (ビューヒャー)と綴りも音も別語となる。西洋人にとっては単数と複数とはこれ程異なるものなのだ。そこを「教室英語」では全く指導していない。 フランス語には「不定複数冠詞」の綴りに “des” があるが、上記、英語・ドイツ語にはそれがない。なくて見えないから教えていないらしい。英語には「不定複数冠詞」はないが、不定複数名詞という考え方は厳然として存在する。zawanak@gmail.com (中沢俊一)
August 3, 2007
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予備校生を通して知ったことだが、先ずは全員が「雨が降る」は “It rains.” しか知らない。”Rain falls.” とか “Rain comes down.” というごく普通の言い方は習ったことがないらしい。中学の時に「“雨が降る”は “It rains.”」と言いますと暗記さされ、「雨は降る」はこうとしか言わないとまた「分からないままでの暗記事項」を固く信じているようだった。雨は上から落ちてくるから “Rain comes down.” とそのままにも言うのだと言うと、ビックリしたような顔をする。 このいわゆる「天候の it」なるものに関してもう少し記してみたい。英語史の本に確か「天候の変化は誰が起こしているのか分からないから、初めは主語なしで言った。即ち、Rains. だけだった。しかし、英語では一般にどの文にも主語があるので、後から it を入れるようになった」とあったように記憶する。 自分は、この it をいつの頃からか「雷さん」だと思うようになっていた。そしてある時、有名なデンマークの英語学者イェスペルセンの本の中に「この it は天上に棲む魔物を指すのだ」とあって「やった」と思ったことがある。日本では雨が降るのを「雷さんがじょうろで水を撒いている」と思っていたし、ゴロゴロという雷鳴は「雷さんが太鼓を叩いている」と思っていた。 西洋のお伽話にも同様の「鬼」が出てくる。「ジャックと豆の木」で、ジャックが豆の木を昇っていくと雲の上に巨大な「鬼」が棲んでいて、割れ鐘のような声で喋り、いびきで窓が震える程だったとある。このような「鬼」のことを、ogre というが、西洋の絵でも風が吹く様を、巨人が頬を膨らませてフーッ吹いている絵がよくある。 日本語では「おにごっこ」や「かくれんぼ」の「シケ役」を「オニ」というが、英語ではこれを “it” という(辞書で it の名詞の項を参照)。どうもここの所の感覚に共通のものがあるような気がして、自分は「天候の it」を「オニ」、即ち、「雷さん」だと思った。これをイェスペルセンがバックアップしてくれたような気がして嬉しかった。 自分は “It rains.” を「雷さんが水撒きをする」、”It snows.” を「雷さんが白い結晶を撒く」、”It blows.” 「雷さんがフーッやる」と思って見ている。天候の変化は「オニさん」が色々と小細工をなさるわけだ。zawanak@gmail.com (中沢俊一)
August 1, 2007
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he, she, it, 及びその複数形の they は「the + 名詞」の代わりの代名詞。the の根底にある「気持ち」を導入することなしに、これらを I, you, we と一緒くたにして教えてはいけない。小生が「聖書」の如く崇拝して熟読・拝読を繰り返した「絵で見る英語」でも、p.1 から p.7 にわたって he, she, it, they を I, you, we と同列に扱っていることには非常な不満を感じている。そしてp.8, p.9 で this, that, と不定冠詞の “a” を導入してから p.10 で “the” をやるのだ!! この本では英語を英語のままで導入するのでまだましだ。だが、「日本語訳によるダマシ」で授業を進めていく「どぶネズミ英語」では “it” に対して「それ」という「訳語」を与えてしまう。前述の通り、英語には日本語の「これ・それ・あれ」の「それ」に対する考え方は存在しない。”this” は「これ」、”that” は「それ・あれ」である。ここへ “it” に対し「それ」という訳語を与え、”the” の訳語にも「その」を与える。これが全て「中一の時」に行われているのである。it を「それ」としてしまった「どぶネズミ英語」では「時・天候・寒暖を表す it」を「it の特殊用法」とせざるを得ない。「時の it」は “the time” という「the+名詞」を踏まえている。日本語で「時刻は12時です」と言うのと同じで、「時刻」が言いたければ “The time is 12:00.” だ。単に「12時です」なら “It’s 12:00.” で済ます。英語では分かりきっている名詞を繰り返すのを「ウザイ」として嫌う。「桃太郎」の話でも「新情報」の提供には “Once upon a time, there lived an old man…” と始まるが、「お爺さんは山へ芝刈りに」となると “the old man” はもう「ウザイ」。それで “he” とするのが普通だ。「暑いな」「うん」でも “the air” は分かりきっている。これを殊更に口にするのは「ウザイ」。だから、のっけからでも “it” で二人の間では了解がつく。だが、本当にのっけから “it” が出てきてまごついてしまうことがある。”I made it!” (やったっぁ!!)とか “You’ll get it (from the teacher).” ({お目玉}喰らうぞ)といったやつだ。いきなり「やったぁ!!」と言われても、聞き手の方では何をやったのだか分からない。しかし、「何か目論んでいたことがうまく行ったのだ」と了解はできる。教室の中でいたずらをしている子の所へ友達が来て、角を生やした仕草でもしながら「喰らうぞ」と言ったら、相手は「叱られるのだ」ということは了解できる。このような聞き手にとって「新情報」であっても、相手の言うことが理解できることにも使う it もある。これらの it は「気持ち」と「気持ち」が通じ合う「it の抽象用法」とでも言うべきか?ここまで「抽象のレベル」が高くなくても、次に言うことを指すいわゆる「仮主語の it」や「仮目的語の it」、例えば It is important that … とか I think it important that … という it は、「中一の時」に「it は “それ”」という「訳語」を焼き付けられ、その上「it は “それ” だから分かっている」として勉強しないできた浪人生がなかなか理解できないでいることを多数見た。特に、「仮目的語の it」が不定詞を指す場合は悲惨だ。「この it は “the following thing ” (以下のこと)を指している」と言ってももう彼らのアタマは受け付けない。ここにあくまでも「それ」という「訳語」を当てはめようとするからだ。
July 27, 2007
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the は「あああれ」という気持ちを表すのに使うと記した。もう少し詳しく言うと、theは聞き手が聞いてが「あああのことだ」と分かることを「気持ちの上」で指す言葉だ。二人の間で改めて紹介する必要のない「共通の話題」に使う。 確かマーク・ピターセン氏がその著書の中で「桃太郎」の話を使って、the の用法を説明しておられた。「ある所におじいさんとおばあさんがおりました」という冒頭は、聞き手にとっては「新情報」で初めて聞く事柄だ。だから the は介入しない。冠詞は “a” だ。しかし、次へ進んで「おじいさんは山へ芝刈りに...」となると、聞き手には「あああれ」と誰のことかが分かる、即ち、共通の話題になったから今度の「おじいさん」は “the old man”、又は「the+名詞」だから “he” となる。確か、同所に英語の “a” と ”the” は日本語の “は” と “が” に似た働きをしているとあったように記憶する。 英語の根底には「明確・不明確」、または「確定・不確定」思想がある。これによって「冠詞」または、「冠詞相当語句」が選定される。この「冠詞相当語句」のことを determiners (限定詞)というが、日本の学習参考書からはこの項目はスッポリと抜け落ちており、「学校英語」ではこれがそれ相応に教えられることは全くない。例えば「中一の時」に「some は “幾つかの・いくらかの” ということです」とまたしても「訳語」を与えてしまう。これで日本人が英語を使うに当たって「確定・不確定」で冠詞類(=冠詞と冠詞相当語句)を選ぶという英語感覚は完全に轢き潰されてしまう。 英語の使用では「新情報」と「旧情報」の区別が大切だ。自分は学校でこういう注意を受けた記憶はない。the は「旧情報」に使う。だから the の「意味」(←「訳語」ではなくて「表す気持ち」)は「例の、あの、この前言った」である。「新情報」についていきなり the を使って「例のねぇ」とやってしまうと聞かされた相手には何の事だか分からないでドギマギしてしまう、というよりはイライラするだろう。不愉快だ。 だが、初めての話題でも、相手に改めて説明するまでもないことには the を使う。その場で初めて口にすることでも「旧情報」に入るからだ。 目の前で遊んでいる女の子のことを、いきなり “The girl is cute.” といっても相手にはどの子のことなのかは分かっているから、いきなりの話題にギョッとすることはない。 だが「中一の時」に「the は “その” と限定する」という厳命が下され、その「訳語」の暗記は至上命令に近いものであるようだ。自室で中一の12月頃から来始めた生徒を指導した時のことだが、the の出てくる度に「その」と殊更に強く訳して「分かっています」と言わんばかりの得意満面顔だった。高三の生徒を預かった時にも同じように「その」と訳して得意満面だった。6年間、the を「その」と訳して先生に褒められ続けてきたようだったが、「鳥は飛ぶ」を6年間 ”Bird is fly.” でいいと思い続けていた専門学校生を見る思いがした。 zawanak@gmail.com (中沢俊一)
July 24, 2007
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大学の時に「考えるが故に、われあり」というデカルトの言葉をラテン語にすると Cogito ergo sum. (コギト・エルゴ・スム) となると習った。cogito は I think, ergo は therefore, sum は I am に当たる。このラテン文には I という主語が無い。本来のヨーロッパの言語は、各人称によって動詞の変化語尾が別々に割り当てられていて、動詞の変化語尾を知るだけで動作主が「私」なのか「あなた」なのか「彼」なのかが分かるから主語は言わないでいいからだ。ラテン語の現代語版、イタリア語ではそうなっているという。 しかし英語では上記に対し I think, therefore I am. と主語が必要だ。古代の趣を色濃く残すドイツ語では I think, you think, he thinks に対して ich denke(イッヒ・デンケ)、 du denkst(ドゥー・デンクスト)、er denkt (エア・デンクト)と人称によって動詞の変化語尾が異なる。だが、ドイツ語では主語が必要だ。英語は古代ドイツ語を母体にした言語だ。こういうこともあってか、英語では普通主語は省略しない。一部の例外はある。親しい仲での言い方で、無くても分かる主語を省いて “(I) hope to see you soon.” と言ったりする。一方「(また)じきに会えるといいな」と日本語では普通主語は言わない。 二人の人が部屋に入るとムットきたとしよう。日本語では「暑いな」「ウン」で済む。主語の必要な英語では “It’s hot、isn’t it?” “Yeah.” となる。「どぶネズミ英語」ではこの it を「天候・寒暖を表す it の特殊用法」などとして暗記を強いる。また「分からないままの暗記」で「アホの二乗」の製造だ。 it は「the+名詞」の代わりだ。この場合 it の踏まえる「the+名詞」とは何だろう?予備校の教壇の上から「夏になると暑いが、外へ出て暑いのは何だ?」と尋ねたところ「アタマ!!」という予期もしなかった返答が返ってきた。これも正解だが、ちょっと待ってもらって、「暑い時には部屋に冷たい空気を流し込んで冷房する。冬には暖かい空気を流し込む」と説明して納得してもらった。上記の it は「入った部屋の空気、the air」だ。日本語で「ここの空気熱いな」では言い過ぎだ。くどくておかしい。英語でもここは感覚が同じで ”The air is hot.” としないで、「あああれ」と分かるものを、初めから代名詞で言い表し「くどさ」を逃れている。英語には主語が必要だからだ。 zawanak@gmail.com (中沢俊一)
June 29, 2007
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英語表現の根底思想は「確定・不確定」である。一方、日本語は以心伝心用の「ぼかし」の言語である。この違いは西洋人と日本人という生き物に見られる動物的習性が「シェパード」と「秋田犬」ほども違うことに起因するものであろう。だから、この「確定・不確定思想」を何も踏まえることなく「英語を踏み台にした“国語教室”」で「“訳すこと”により日本語に移し変え分かったような気にさせるダマシ」では、英語の本質を何も教えてはいないのである。しかも「型文法」では「気持ち」という抽象のレベルでの観察などは何もやらない。 英語の冠詞には「定冠詞と不定冠詞」とがある。名詞にもこの区別があるが「型文法」ではこんなことは取り上げることも無く「中一の時」に「物質名詞は数えられません」などとやって、学習者の英語感覚を轢き潰してしまう。 定冠詞の the は「あああれ」という「気持ち」を表すときに使うと記した。「あああれ」というのは「話を聞く人が改めて説明されるまでもなく分かっている」ということだ。二人の人の前で女の子が遊んでいるとしよう。二人にはこの子が見えているから改めて説明する必要はない。それで the を使う。だから「あの女の子可愛いね」と言うには “The girl is cute.” だ。これを「彼女可愛いね」と言うなら “She is cute.” となる。「he, she, it にはthe が絡む」とも記したが、「the が絡む」とは以上のようなことで、he, she, it そしてこれらの複数形 they は「“the+名詞の代わり”をする代名詞」なのである。だから the の「気持ち」を導入してからでないと教えてはならない。だが「どぶネズミ英語」では「中一の時」に「the は“その”と限定する」として、「the の気持ち」を伝えることもないどころか、これらを I, you などと一緒くたにしてこれまた「彼」「彼女」「それ」という「訳語」を与えるだけで済ませてしまっている。これらがどういうものを指すのかなどは全く教えてはいない。「中一の時」の 「“What is this?” に対する答えは “It is a book.” とします」も分からないままの暗記の強制で、これで「アホの二乗」がまた増える。日本語でも「このものは何ですか」「そのものは本です」では「もの」が言い過ぎでクドイ。だから「これはなんですか」「それは本です」、更には「本です」となる。英語でもここは同じで “What is this thing?” “The thing is a book.” ではクドイ。だから “What’s this?” “It’s a book.” と簡潔に言う。ここの it は the thing (= the+名詞)の代わりだ。ここで「それは本です」が単に「本です」となる時の「気持ち」の違いを覚えていてもらいたい。この違いが it と that の使い分けに絡む。zawanak@gmail.com (中沢俊一)
June 26, 2007
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