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このブログを始めて10年経ってしまった。ブログの存在など知らなかった10年前、ぴかママさんに教えていただいて、本の宣伝もかねて始めた。最初は結構、何もかも書いていたけれど、今は書きたい、他人に何かを知らせたい、という意欲も薄れ、ほとんど書くこともなくなった。そう言えば、写真を撮る、という行為ももうずっとしていない。写真というのは、撮った本人や撮られた人には意味があるし、思い出の手がかりになるけれど、それ以外の人にはあまり意味がないように思う。私が死んだ後には、ただのデータゴミでしかない。だから、もう残したくない。死んだ後に残されるもの、つまりは遺品は、遺された者には重荷となる場合もある。父方の祖母の死後、まだ一度も使っていない晒しの「腰巻」が見つかった。祖母は下着は最期まで和式だった。昔なら、この真っ白な晒しでオムツが作れたけれど、その必要もなくなった当時、これは無駄に捨てられた。それ以外にも、山ほどの「遺品」がむざむざと捨てられることになり、その処理だけでも大変だった。両親の死後も、同じ作業があった。けれども、母が遺してくれた洋服や食器で、今だに私が着ている物、使っている食器も多い。質の良い洋服は、時代や年月がたっても、魅力を失わない。それどころか、私の娘も、母が遺したセーターをいまでも着ている。ヴィレロイ&ボッホ社の皿やカップは、さらに同じ製品を買い足して使っている。このように、遺品にも意味がある場合もあるけれど、今の住まいに溜まった物はできるだけ整理して、去りたいものだ。20年前ぐらいまでは、写真もプリントしていたから、これらだけでも大きな引き出しにいっぱいだ。これらの写真はこの20年間、見られることもなく、引き出しに眠っているだけ。無駄な存在だったわけだ。スライドもいくつものケースに収まっている。マダガスカル、インド、アルゼンチン、ベトナム、などなど、旅行先の写真には思い出がいっぱいなはずだけれど、何年も経った今、眺めることもない。無駄だなあ。というわけで、身辺整理を思い立ち、その手始めとして、このブログも終了いたします。とは言え、別のところに引っ越して、ぼちぼち別のスタイルで、小さく書くことも考えています。長いこと、拙文を読んでくださった方、深くお礼を申し上げます。また、どこかでお会いしましょう。お元気で
2018/10/14
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あらあら、ブログを持っていることも忘れてしまうほど、ご無沙汰していた。今はもう秋。娘夫の両親の家は当市の端、「黒い森」の麓にあって、自然に囲まれ、庭もものすごく広い。庭の果樹が、今年の猛暑のおかげで、たわわに実をつけた。地面に落ちるリンゴは、毎日山ほどあって、とってもとっても翌日にはまた山のように落ちているそうだ。拾ったリンゴを近くのジュース作りする農家に届けると、じか搾りのジュースを安く売ってもらえるのだそう。リンゴとニワトコの実を搾ったジュースはとても美味しかった。市販のジュースにはない自然な味。「リンゴもマルメロも好きなだけ持って行って」と言われて、山ほどもらってきた。マルメロは3キロぐらい。前にも書いたけれど、マルメロの加工はかなり厄介。生のマルメロは切ったり、皮をむくには力が必要で、時間もかかる。今回はネットで見つけたレシピに従った。まず、清潔な布巾で、皮を覆っている細かい毛のようなものを拭き取る(洗わないで拭き取る!)。これだけでも、1時間ぐらいかかった。マルメロは丸のまま、たっぷりの水で30分ぐらい茹でる。こうすると、切ったり、芯をとったり、皮を剥くのが簡単になる。芯と皮は先の茹で汁の一部でもう一度、グツグツ茹でる。この茹で汁をザルでこして、ジェリーシュガー(ペクチン入りのジャム用砂糖)と混ぜて煮る。これで、マルメロのジュレ(つまりはゼリー状のジャム)のできあがり。プルプルで、マルメロ独特の香りがする、優雅なジャム。皮と芯を除いた果肉と同量(私は3分の1)の砂糖を混ぜて、焦げ付かないようにかき混ぜながら、30分以上煮て、水分を飛ばす(この作業は小豆を煮て餡を作るのに似ている)。ムースのようになったマルメロを天板に2センチぐらいの厚さにのばして、50〜100度のオーブンで乾かす。好きな形に切る。甘酸っぱいお菓子のできあがり。前にもこれ書いた。毎回、「もうこんな作業は絶対にやらないぞ」と決心するのに、またもやってしまった。週末、3日もかかって、できたのはジャム8瓶と天板2枚分あまりのマルメロ菓子だけ。娘夫の両親とは気が合って、良い友人関係がもてて幸せだ。価値観とか興味、あるいは政治意識が似ているからかもしれない。ある友人(ドイツ人女性)が、子供のパートナーの親と意志が通じるというのはとても大切だ、と言っていた。ほんと、そう思う。娘夫のお母さんとは、しょっちゅう本の交換をしている。「xx読んだ?」「読んでいない」「じゃ、買わないで待ってて。読み終わったらすぐ送るから」「こちらからも、xx送るわよ」と言った具合。時には私が彼女に送った本が、その後、私の娘の手に渡る。そういえば、村田さやかの「コンビニ人間」(もちろんドイツ語版)も娘夫のお母さんにいただいて、読むことができた。お義母さんはこの本を読んで、日本社会においてはいまだに女性が抑圧されていると解釈したようで、『あなたが日本を出て、こちらで生き始めたわけがやっとわかった』と書いてきた。いやー、わたし自身は別に抑圧されたという意識はないんだけど、、、。まあ、いろいろな読み方があると思うけれど、「コンビニ人間」は面白かった。それにしても尊敬に値するよね。コンビニで働く人の気配りって。ドイツにはコンビニはない。まあ、できないだろうな。唯一、コンビニと似たような機能を果たしているのは、ガソリンスタンドかもしれない。
2018/10/02
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これまで、シャワー後のボディーローションや洗顔後に塗るデ一クリームは、自然化粧品ヴェレダの製品をつかってきた。添加物などが少ないみたいだし、パラベン(保存材)が入っていないようだから。ボディーローションが少なくなってきたので、新しいのを買おうと思っていたのだけれど、気が変わった。前回に書いた自家製デオドラントがとても効き目があっていい感じ。そんじゃあ、ボディーローションも自分で作ればいいのではないか。ドイツのサイトでいろいろ調べて、最後に行き着いたのは、結局いいかげんに色々混ぜる方法。カカオバター1、シーアバター1、ココナッツオイル2、オイル(わたしの場合はアーガンオイル)4の割合でいっしょにして、湯煎で溶かし、バラ水3から4もちょっとあたためて、オイルミックスに少しずつ入れながら、バーミックスでミキシング。エマルジョン剤を入れなくても、なんとか乳化できた。ほかに日持ちを良くするために、メンソレータムに似た香りのtee tree oilをちょっとたらした。大事をとって、冷蔵庫で保存。少々指にとって、手や腕に、ほっぺたに塗ったら、肌がモチモチにやわらかくなった。しっとりして、とってもいい感じ。バラ水のおかげで、ほんのりバラの香り。でも、ふつうの化粧品のようにどぎつくないから、料理にも移ることはなさそう。出来上がったのは、ボディーローションとクリームの中間のようなもの。いろいろ作り方を読むと、ローションとクリームはつまりは水分がどれだけ入っていて、どれだけ流動的かだけの違いのようなので、このままボディーローションと顔の両方に使うことにした。オイルはアーモンドオイルにすれば、保湿効果があるそう。ホホバオイルでも良いらしい。わたしはモロッコで現地の女性たちが実の収穫からオイルプレス、商品化まで、アーガンオイルを手作りしているのを見て、とても気に入ったので、食用のアーガンオイルを使った。これで問題ないみたい。一度塗っただけで、肌が今もしっとり。うれしくなった。とここまで書いたのが一昨日。冷蔵庫で保存したら、ココナッツオイルやシーアバターが固くなり、バラ水の水と分離してしまった。やっぱり乳化剤が必要みたい。それで、薬局でラノリンをちょっぴり買ってきて、すべてをふたたび湯煎で温め、溶かしてからミキサーにかけた。今回は一日たっても分離しなかった。やっぱりエマルジョンは必要なんだ。ほかの乳化剤も探してみなくては。
2018/04/25
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イースター休暇で来た娘が教えてくれた。ココナッツオイルとシアバターと重曹を成分にしたデオドラントを買った人がいて、ちょっぴりだけ(高いからちょっぴりだけ)試させてもらったら、とても効くのだとか。「材料があれば、作れるよね」とつぶやいた娘の一言が忘れられなくて、さっそく検索したら、いくつものレシピがあった。さっそく、オーガニックショップでシーアバターとココナッツオイルを買ってきた。レシピはとても簡単、シーアバター、ココナッツオイル、重曹、コーンスターチ(固めにするための成分)を各大さじ3杯、準備して、湯煎でやわらかくしながら、よく混ぜるだけ。好みでこれにアロマオイルを加える。ココナッツオイルと重曹が殺菌効果をもつので、デオドラントに向いていると、解説には書かれていた。市販のふつうのデオドラントとくらべても、効果は劣らなかったと書いている人もいた。従来の市販のデオドラントスプレーなどには、アルミニウム塩が含まれていて、その安全性が懸念されている。近ごろではアルミフリーを宣言した商品が多くはなったけれど、強い効果を期待するなら、アルミニウム塩が30パーセントも含まれる商品を使うしかないそうな。この成分が発汗を抑えるんだって。アルミニウム塩成分が大きい商品だと、効果は24時間以上も続くのだそうな、、、。なんだか不健康そう。ダンスをするとすぐに汗をかくので、デオドラントは欠かせない。個人レッスンの先生(娘よりも若いお兄さん)と肌をつけて踊るときには、とくに気を遣う。このお兄さんも、この点には気をつけているらしくて、まだ一度も臭ったことがない。毎時間、ちがった女性と踊るわけだから、大変だろうな(なんて、わたしが心配することではないけど)。ココナッツオイルのデオが効きますように。
2018/04/07
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大昔、ドイツにくらし始めて「エッ」と思ったことの一つは、子どもたちの偏食傾向だった。娘がお世話になった幼稚園の昼食時(親が交代で作る)、保育士が子どもひとりひとりに、出来上がった食事を見せて、「君は何が食べたい?」と聞くことだった。子どもは「わたし、野菜きらいだから、ジャガイモだけ」「ボクはサラダだけ」「肉だけちょうだい」「え。これナニ。焼き飯?そんなの嫌い」と口々に自分の好みを主張し、食べたいものだけしか食べなかった。ある姉妹(5歳と3歳、両親は精神科医)は麺類とジャガイモとライス、つまりは炭水化物だけで生きていて、果物と野菜は頑強に拒否、ジュースすら「果物だから」と言って、飲まなかった。わたしは親から、皿にのっているものはすべて食べるように強制されて育ったから、自分の子どもにもこれを半ば強制していた。それが当然だと思っていたので、ドイツの状況にはいささかびっくりした。子どもの自由意志を尊重して、食べ物は強制しないというのが、周囲では常識のようになっていた。強制すると、それがトラウマになるし、そもそも何を食べるか、といったごく個人的なことは、他人が強制すべきではない、ということなのだろう。たかだか、食べたくなるように仕向けるほかない、ということ。それはそれでわかる。ちなみに、上述の姉妹は後に、ものすごくできがよくて美人の女性に成長し、姉は小児科医(!)、妹は映画の台本制作者として成功している。両方とも3児の母親だ。子どもたちに何を食べさせてるのかな。今日まで娘家族がイースター休暇を利用して、ベルリンから到来、我が家に3泊していった。娘の子どもたちの偏食もすごい。赤ん坊時代は何でも食べていたのに、3歳を過ぎることから好き嫌いが激しくなった。上の男の子はもっぱらジャガイモとライスと餃子を好み、野菜はサラダや温野菜は絶対に食べず、唯一人参の天ぷらだけは好き、肉もたまに食べるだけ。みそ汁もカレーも絶対に口には入れられない。下の男の子はジャガイモよりもパスタ(ソースは絶対につけてはならない。バターを目の前で混ぜるだけにしてほしいと主張)を食べる。肉は食べず、魚はOK。鮭とマグロの寿司、ミニトマトとキュウリ(サラダドレッシングが少しでもかかっていると拒否)。餃子はなんと中身を出して、皮だけを食べた。みそ汁から豆腐だけを皿に出してもらって、食べていた。数日間、つき合って、食事を用意して、あーくだびれた。娘も娘の夫も料理が好きで、何でも食べるのに、どうしてこういうことになるんだろうか、不思議でならない。ある時、新聞に、こういう傾向は4歳から6歳ごろの子どもによく見られると書かれていたから、もしかしたら、これが当たり前なのかもしれない。本当かなあ。わたしは今になって思えば、親から何でも食べるように強制されたことに感謝している。三つ葉もセロリも蕗もきらいだったけれど、無理して食べているうちに、おいしさがわかってきたから。でも、父親に強制されたことはトラウマになってはいる。人間、なにがよくて、何が悪く働くのか、わからないね。今日から、娘一家は娘夫の両輪の家に泊まる。あちらの両親は、「ま、飢え死にはしないでしょう」と楽観しているのが、たのもしい。
2018/03/30
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昨晩は、久しぶりに音楽会に出かけた。早稲田大学交響楽団のヨーロッパツァーの一環で、フライブルクのコンツェルトハウスで開かれた。リヒャルト・シュトラウスの家庭交響曲、チャイコフスキーの「ロメオとジュリエット」その他、どれも演奏に緊張がみなぎっていて、若いエネルギーが聴いている側にも伝わってくる思いがした。プロの交響楽団にはない、新鮮さとでも言おうか。大学オーケストラというのはすばらしいと思う。音楽で飯を食っているわけではない人たち、音楽を飯の種にしようとしているわけではない若者が、音楽が好きで、ひたすら演奏するのだから(多分)。それにしても、若いお嬢さんがマジョリティーを占めるこのオーケストラ、すばらしい!弦楽器だけでなく、金管楽器や打楽器でも、女性の活躍が目立った。ドイツ人聴衆の目には、日本の若者は子どものように見えてしまう(ときには10歳ぐらい若く見えるから)。その子どものような「あどけない」若者たちが、エネルギッシュで高度な演奏を聴かせてくれるので、聴衆(その多くは、老人。お金と時間に余裕があるのは、どうしても老人!)は感激する。最後の曲は、林英哲&英哲風雲の会との共演。大小の太鼓の迫力ある演奏(聴いている者のお腹に「ドン、ドン」と響いた)に、聴衆は舞い上がった。アンコール曲は最初が「荒城の月」、二つ目は太鼓とコラボで「八木節」。これは楽しくて、迫力があった。ヨーロッパ人の耳にはさぞかし新鮮だったことだろう。最初、「あれ、このメロディー知ってるぞ。ちょいとでましたさんかくやろうが、、、という歌詞だったはず」と思ったけれど、何という曲だかわからなかった。そして、今朝になって、目が覚めたとたんに、「八木節」という単語が頭に浮かんだ。八木節のことを考えたことは一度もないし、八木節を最後に聴いたのは、たぶん50年以上前のはず。頭に浮かべた)ことは、それなのに、とつぜん曲名が意識にのぼったのだ。遠い昔の子ども時代の記憶というのはすごいと思う。思えば、荒城の月もそうだ。最後に聴いたのは、半世紀以上も前のはずなのに、いまだに歌詞を覚えていて、歌えるのだから。昨晩は本当に楽しいときを過ごすことができた。早稲田大学交響楽団のお若いみなさん、ありがとう。ヨーロッパツァーについては、ここをクリックしてください。
2018/03/10
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昨日、スーパーに行ったら、ちょうど目の前の棚に、乾燥青エンドウが一パックだけ残っていた。セールだったらしく、ほとんど売り切れた商品のようで、さらに値下げされて、500gのパックが88ユーロセント(120円ぐらい)。テレパシーだ!どういうわけか、数日前に「うぐいす豆は、乾燥青エンドウを煮れば作れるはず」などという考えが浮かんで、とつぜんうぐいす豆が食べたくなっていたところだったから。うぐいす豆を最後に食べたのは、何十年前のことだろう。そもそも、子ども時代から、家で作ることも、買うこともなかったから、食べる機会もほとんどなかったはず。でも、あのおいしさだけは知っていた。小豆の餡とは違う香りが独特で、食べたいなあというあこがれだけがいつもあった。塩味の煮豆は嫌いなのに、甘い豆は好き!白えんどうでも、甘納豆でも。で、インターネットで見つけたレシピにしたがって、青エンドウ500gすべてを10時間ぐらい水につけてから、重層を入れて二度、煮立てては水を捨て、を繰り返してから、たっぷりの水を入れて、3分ぐらい煮たあと、前に書いた、鍋帽子にくるんで一晩おいておいたら、すっかり柔らかくなった。煮汁をほとんど捨て、砂糖と水あめをくわえて煮てから、バーミキサーでグワンとつぶし、ふたたび火にかけて、ちょっと練った。これでうぐいす豆の餡子のできあがり。うーん、おいしいぞ。できあがった大量の餡のほとんどは、冷凍した。目の前にあると、すぐに食べてしまいそうで怖いから。それに、こうしておけば、アンパンが食べたくなったら、即座に作れる。白玉粉もどきのもち米粉を水で溶いて、電子レンジにかけて、求肥を作り、この皮で残りのうぐいす餡を包んだ。大福のようなもの。あー、おいし!実験のために、白玉粉にちょっと小麦グルテンを混ぜて、電子レンジにかけて作った生地でも、包んでみた。ちがいはほとんどなかった。どっちもおいし!うぐいす豆がこんなに簡単に作れるなんて。これまで何十年も生きてきて、一度も作らなかったことが悔やまれる。
2018/02/25
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ようこそ、難民! 100万人の難民がやってきたドイツで起こったこと [ 今泉みね子 ]価格:1620円(税込、送料無料) (2018/2/20時点)久しぶりに本を出しました。2015年から2016年にかけて、100万人もの難民を迎えたドイツで、どのようなことが起こり、ドイツのおとなや子どもが、どのようなことを体験し、考えたのかを、物語のようにつづった本です。小学校高学年から中学生向けの本ではありますが、おとなにも参考になることを念頭に書きました。現在は、新たに入ってくる難民は減りましたが、難民の問題は解決したわけではありません。シリアの紛争・戦争はいまだに続いていますし、アフリカからも多くの難民がヨーロッパに入ろうとし、途中で溺れ死んだり、リビアにとどめられて過酷なキャンプ生活を余儀なくされたりしています。一方では、難民がヨーロッパ、ドイツに着いたからといって、仕事が誰にでもあるわけではなく、難民をかかえる自治体の方も予算があるわけでもなく、問題や不満は山積みで、難民に対する市民の感情や意見も大きくわかれています。そんな中でも、難民と市民との交流、あたたかい友情関係、楽しい企画といった、小さな成功もあちこちで見られています。わたし自身も、ドイツ人から見れば移民の一人です。頼みもしないのに、勝手にやってきて住み着いたガイジンです。ですから、複雑な思いで、現状を観察しています。命からがら逃げて来た難民の立場、異文化・異なる宗教や習慣を背景とする大量の人がいきなり隣人となったドイツ人の立場、両方の気持ちや状況を思うと、これだけが解決策、といったものがないこともわかります。究極的な解決策は、そもそも難民が出ないような世界の状況をつくりあげることにつきるのでしょうが、それを誰が担うのか、、、。そのようなことが可能なのか、わたしにはそこまで言える資格も能力もありません。まずは、この2年間にドイツでどのようなことが起こったのかを、ドイツ人たちがどんなことをし、どんなことが起こったのかを、難民や移民とドイツ市民との付き合いなどを、楽しい出来事も含めて、生き生きとお伝えできえていれば、幸いです。
2018/02/20
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BFの姉が昨年末に、近くのイタリアデリカテッセンの店でパネトーネを買った。レシピは秘密なのだそうだ。といっても店の自家製ではなくて、イタリアのメーカーから仕入れたもの。たしかにフンワリ盛り上がって、クラムがゴムのように弾力があって(どこまでも伸ばせそう)おいしい。このパネトーネ、なんと3ヶ月も持つのだそうで、1月末になってもまだ残っている。食べてみたら、いささか乾いたものの、まだ弾力がある。こういう生地は家庭では作れないのではないかな。大量生産のパンには、パンをフワフワにして、しかも長持ちさせる酵素を添加するそうだ。実際、デンマーク製の酵素を入れた食パンは一ヶ月たってもいたまないし、押しても戻ってくるほど弾力がある。このパネトーネにも酵素が入ってるんじゃないかな、と疑いたくなる。そんなどうでもいいこと(パネトーネが好きなわけじゃないので)をツラツラ考えながら、ライ麦サワー種(小麦の場合には日本ではルヴァンと呼ぶらしい)を使ったパネトーネで検索したら、こういうのが見つかった。ほら、すごく膨らんでいるでしょう。タイトルは「パネトーネ‥・ついにトラウマを克服」だと。フンフン、そうまで言われると実験したくなる。このパネトーネはなんと3日もかけて作る。くわしい作り方はここでは省略。上のサイトにドイツ語でくわしく書かれています。イーストなどはまったく使わず、スペルト麦のサワー種(ウヴァン)だけでやってみた。第一日の前の晩ルヴァンのいわばエキス(継いできたルヴァン種)ほんの少量と水と粉を少量合わせて、15度のところで一晩置く。わたしは住まいの外に出した(野外ではなく、建物内の階段室)。家の中は玄関でも20度近くになるみたいだから。第一日上で継いだルヴァン種のほんの少量とまたまた粉少量と水少量を合わせて、15度のところで7時間置く。その後、これに粉やや多めと水を合わせて30度で3時間おいてやっと元種が完成。第二日目粉の半量と元種と砂糖、水、バターの一部をこねて、15度のところで15時間!!置く。わたしの場合には、15時間後は夜中の3時になることが判明したので、夜中の1時に冷蔵庫にしまって、早起きをまぬがれた。第三日目やっと本捏ねになる。残りの粉、卵黄6個分、生クリーム、バター、砂糖などで、ニーダーを使って15分捏ねる。これが大事らしい。上のサイトのパンオタクはKENWOODの捏ねマシーンを使っているらしい。あー、欲しくなった。捏ね上がってから、40分生地を休ませたあと、ラム酒につけたレーズン、オレンジピール、クルミなどをくわえてたたみ、成形。あとでわかったことだけれど、パネトーネの成形にはらせん状に回す技術が必要らしい。上のレシピの元となった人のサイトに紹介されていたYOUチューブを見た。生地をくるくる回すようにしてから、最後にムギュッと裏側をつかんて、型に入れるの。あー、成形前に見れば良かった。パネトーネの型なんかないので、上のサイトの人に見習って、18cmのケーキ型の内壁にクッキングペーパーをつけて、高さが18cmになるようにした。これに生地を入れて、22度から27度で、5時間半も二次発酵。そうしたら、5時間後には本当に16cmの高さまで生地がふくれた。200度に予熱したオーヴンで、レシピとおりに180度で50分焼いた。焼き終わるよりずっと前に生地がふくれて、ついにオーブンの天井にたどりついてしまった。型はオーヴンの一番下の段に置いたのに。アルミフォイルで上をおおったけれど、焼いている内に焦げる匂いがただよった。それでも、無視して焼き続け、時間がきたら、生地が生焼けかどうかも確かめずにスイッチを切った。自家製天然酵母で生地がこんなに膨らんだのははじめて。三日も時間をかけたのが良かったのか、捏ねが決め手なのか。生地はしっとりキメが細かくて、デリカテッセン店のパネトーネのような大きな気泡はないし、ゴムのような弾力もない。どちらかというとシットリ、ふわり。あと十分長く焼いていたら、ちがった結果になったかな。ルヴァンつまりはサワー種なのに、まったく酸っぱくない。これは元種を起こす段階や二次発酵を、30度以下の環境でするかららしい。この温度だと一定の菌(たとえば酢酸菌)が増えないからみたいだ。実験はおもしろかった。次は焼く時間をもっと長くして、焦がさない工夫をして、成形もイタリア人の職人を見習ってやってみよう。もしかして、来年になってから。https://www.kochtopf.me/der-panettone-endlich-das-trauma-ist-uberwunden
2018/02/10
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いつも行くスーパーマーケットのヴィーガンコーナーを見るともなしにながめていた。近ごろはふつうの店でも、エコ食品やヴェジタアンやヴィーガナー用の食品が増えた。大豆ミートとか真空パックの豆腐とか、スモーク豆腐とか。ふと「セイタン用の粉」という文字が目にとびこんだ。セイタンという名前をはじめて聞いた(目にした)のは、はるか昔、ドイツに住み始めたばかりの頃だった。友だちが「これって日本の食材でしょう」と言ったけれど、わたしは聞いたことも食べたこともなかった。そのまま調べもしなかったけれど、今回は家に帰ってすぐにググった。なんだ、セイタン(どうやら日本語らしい)とは麩のことらしい。つまりは、小麦グルテンからつくられた食材。スーパーにあったセイタン用の粉も、成分表に小麦グルテんと書いてあった。あら、待てよ。小麦グルテンは家にもある。前に、バゲットを焼き始めた頃に、改良を目ざして小麦グルテン粉を添加したことがある。そのために買ったグルテン粉1キロのほとんどは、その後使われることもないまま、ガラス瓶に待機している。だってね、バゲット用の添加にはせいぜい一回、3gぐらいしか使わないのだから。賞味期限などとっくに過ぎているけれど、カビもないし、虫が侵入した気配もないので、ダメでもともと、麩だかセイタンだかを作ってみよう。どっかのレシピにしたがって、小麦グルテン粉を水で練った。あらあら、おもしろい。グルテン粉がみるみる水を吸って、ゴムまりのようにふくれた。質感もゴムまりかスポンジのよう。これを適当に切って、熱湯で茹でた。茹でていく内にまたもどんどんふくれていく。ゆであがったセイタンだか生麩もどきだかを食べてみたけれど、日向臭いばかり。冷めるにしたがって、さっきのフワフワは消えて、引き締まってしまった。ゴムというかちくわというか。味がないのと日向臭いのが気になって、だし汁と醤油と味醂でひとまずは煮ておいた。それでも味がないので、ショウガとニンニクのすりおろしと醤油と砂糖に一晩つけておいて、翌日に唐揚げをしてみた。おおー、これはいいぞ。言われなければ、鳥の胸肉の唐揚げと思えるかも。少なくともファストフードのナゲットよりはおいしい。質感は固めのチクワかさつま揚げ、あるいは柔らかめのイカとでも言いましょうか。わたしは病み付きになりそう。日向臭さも消えていたし。で、このチクワかさつま揚げの食感から思いついて、さらなる実験をした。スケソウダラ(これはタラではありませんが、よくタラと呼ばれているみたいです。養殖ではないところととびきり安いのが長所。魚肉製品の材料になる代表的な魚らしい。味は素っ気ない)の冷凍を買ってきて、半ば凍ったままの状態でフードプロセッサーでミンチしてから、すり鉢ですって、そこに少量の小麦グルテンを混ぜてみた。グルテンがプリッとした食感を出してくれるのを期待して。でもね、期待は裏切られた。いつも通り、さつま揚げもどきはサクサクしすぎで、あのさつま揚げとか蒲鉾独特の食感は得られない。もっとグルテン粉を入れれば良かったのかな。それとも、もっともっと魚肉をすり鉢で摩って、魚肉の繊維のような質、ホロホロした質が壊れるまでねとねとにしなければいけないのだと思う。ネットに出ている手作り蒲鉾やさつま揚げのレシピでは、その点をくわしく書いてないのが残念。それとも他の方々はとっくにこの問題を克服しているのかな。さつま揚げや蒲鉾は特には好きじゃないけれど、手に入らない所にいると作ってみたくなる。で、さつま揚げのことは忘れて、次なる実験をした(昼食は抜きなのに、出来損ないさつま揚げの味見でお腹はいっぱい)。またまたネットで見つけたレシピで、生麩を作るには、小麦グルテンに白玉粉を加えることを知った。白玉粉の代用は、こちらではもち米の粉のようなものを使う。これで白玉も大福も作れる。で、どなたかのレシピどおりにグルテンと水同量をこね、白玉粉と半量の水もこね、これらを合わせて、またもこねた。これが生麩の生地らしい。たまたま冷凍庫に見つけた小豆の甘煮を煮詰めて餡子にした。で、生麩のやわらかい生地で餡を包み(実験だから4個だけ)、残りの生麩の生地は棒状にした。これら両方を15分ぐらい蒸した。今回は前回の生麩もどき(グルテン粉だけの)とちがって、モチモチとやわらかい。この方が食べやすいのかもしれないけれど、味はないなあ。おいしいとも思えない。昔、京都か金沢のすてきな和食レストランで食べた生麩とは大違い。あの上品さはどこにもないな。生麩まんじゅうもおいしいとはいえない。これなら白玉粉でつくった大福の方がおいしい。なんでかな。このやわらかい生麩を前のようにショウガとニンニクと醤油につけて唐揚げにしたら、どういう食感になるんだろう。グルテン粉だけの小麦グルテンミートの方がわたしには合っているかも。
2018/01/28
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この冬はまったく冬じゃあないみたい。ふつは、ドイツで一番暖かい当地でも、11月には零下になる日があるし、12月、1月ともなれば、氷点下はふつう、ときには零下15度などという日だってあるというのに、この冬は、これまで外に氷が張った日は1日か2日だけ。先週は、他の地域は雪や嵐があったけれど、当地は雪はふらなかった。そして、2、3日前から、もっとポカポカ暖かくなり、昨日は日中は17度になった。野鳥も花も、春がきたのかとまちがえているようで、シジュウカラがさえずり、ブラックバードも小声で歌っていた。一瞬、ヨーロッパコマドリもさえずった。バラは剪定もしない内に、なんと新芽を吹いてしまった。秋に残っていたバラの花もいまだに残っている。このまま冬なしで春になってしまうとは思えないから、いつかしっぺ返しがくるんだろうな。いったん、花を咲かせてしまった植物にとっては、大打撃のはず。地球の反対側では大雪になったり、気温が下がっていると聞く。そうなると、地球温暖化なんてない、と性急に思ってしまいがちだけれど、事はそう簡単じゃない。地球全体の気温が年々、上昇していて、北極の氷が融けているのは確かだから。氷がとけると、海水の温度が下がって、海流の状態も変わって、これまで寒くなかった地域が寒くなったり、天候の動きも大きく変わっていく。この先、どうなるのだろう。アフリカの干ばつがますますひどくなっている。この状態が続けば、政治状況や社会状況の悪さも手伝って、難民はますます増えるだろう。そうなったとき、ヨーロッパを始め、豊かな国はどう反応するのだろう。自分たちが享受している富を、飢えている人と分け合う気構えがあるのかしら。まず、自分に問うてみるほかないね。さあ、どうする?って。そのときには、「自分が飢え死にしている側の人間だったら、どうする?」と自問せざるを得ない。「もっとも大切なあなたというのは、幸運が尽きてしまったときに残されたあなただ」「人生で一番大切なのは、希望が失われたあとに残る自分である」とマーク・ローランズという哲学者は「哲学者とオオカミ」の中で書いていた。わたしは大戦後に生まれ、次なるカタストロフや戦争が起こる前にたぶん、消えているはずだ。それに、アフリカとか、シリアやイラクに生まれてわけでもなく、インドの道ばたに生まれたわけでもなかった。そう、とても運が良かった。ノホホンと生きてきた自分は、上の引用文に照らせば、まだ本当の自分、もっとも大切な自分を知らないのかもしれない。ホロコーストの記録や戦争のドキュメンタリーなどを読むと、どんな人間もおかれた状況しだいでは、想像できないほど残忍、卑怯になる可能性を抱えていることがわかる。個人の生活ではやさしい人間が、他の人間にどれほどひどい仕打ちができるかを知ると、人ごとではない気がする。ナチの時代に、強制収容所の監視員になっていたら、収容所に連れてこられ、仕分けされてガス室送りになる人を、身の危険をおかしてでも助ける勇気があっただろうか、それとも、他の監視員やナチといっしょになって、ひどい仕打ちをしていただろうか、、、。海の中のプラスチック、ナノ粒子(もう海水からつくられた食塩にすら微細プラスチック粒子は含まれているのだそうな)、昆虫や植物の激減、気候変動などなど、わたしも含めた人間たちがしでかした、自らの生きる基盤の破壊を思うたびに、ますます、自分も含めて人間嫌いになる。
2018/01/25
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エコスーパーでふと思いついて、乾燥白インゲン豆を買ってきた。大昔、母方の祖母はお正月のおせちの一つとして、白インゲンの甘煮を作っていた。砂糖で煮ただけの白インゲンだけれど、わたしは大好きだった。食べ始めると止まらなくなった。煮豆(醤油味、塩味)は好きではないけれど、甘い豆は大好き。ふしぎだな。白インゲン豆500gを3リットルぐらいの水で一晩ふやかしてから、ふっとうするまで過熱し、1分ぐらい煮立てただけで、すぐに火を止めて、前に書いた鍋帽子とクッションで保温調理。2時間ぐらいたった頃に、もう一度火にかけて、30秒ぐらい煮立てて、ふたたびクッションに置いて、鍋帽子をかぶせて放置。これだけで、豆はやわらかくなった。2リットルの鍋いっぱいになった豆。これをぜんぶ甘く煮るには、砂糖はどれくらい使うのだろう。しかたがない、一部は料理に使うかな。でもなあ、塩味の煮豆は好きじゃないのよね。とくに和食の煮豆はダメ。昔、フランス人の料理上手の女性が、ライスやジャガイモの代わりに、塩で煮た白インゲンを出してくれたけれど、あれもちょっと味気ないし、胸につっかえるような感覚だったよな。などとブツブツ言っていたら、BFが「イタリア風の豆料理がいい。ニンニクとかスパイスいっぱいのやつ」チッ、何も知らないくせして、無責任な提案をするんだから。と思いながらも、ドイツのサイトで調べたら、一つだけ出てきた。ニンニク、エシャロットをオリーブ油で炒めてから、やわらかく戻したドライトマトと下茹でした白インゲンをローズマリー、タイム、オレガノなどのスパイスといっしょに軽く煮込む料理。といっても、副菜としてで、レシピではこの上に肉のローストがどかんと載る。わたしはエシャロットだけでなく、小口切りしたセロリ数本と人参数本もくわえて、レシピ通りにつくった。レシピの指示どおり、最後に辛いスパイス、「ハリッサ」(唐辛子などのスパイスのミックス、偶然、レバノン製のが手元にあった)、ミニトマト、レモンの皮もまぜて。塩味の煮豆は好きでなかったのに、いっしょに入れた野菜のおかげか、かなりおいしく食べることができた。あとでわかったけれど、このレシピを新聞(インターネットの新聞も含め)に書いたのは、知人の一人だった。定期的に新聞に「男の料理」みたいな感じでレシピを書いている、当市在住の弁護士。だから、作り方が簡単だったのね。今回は肉のローストははぶいて、いっしょに食べたのは、前日につくった大豆ミートのハンバーグやブロッコリの残り物。これで、下茹でした白インゲン豆の3分の1は処理できた。残りの豆には砂糖をドカンと入れて、保温調理をもう一度して、甘く煮た。この甘い豆、子ども時代と同じく、食べ出すと止まらない。危ない、アブナい。一部は冷凍して、残りの煮豆で、人生初の「練りきり」を作った。白インゲン豆の甘煮をバーミックスでくだいて、白あんを作ってから、白玉粉(に似た、こちらで売っている米粉)といっしょに、電子レンジで過熱するだけ。練りきりが出来たのはいいけれど、これで何を作るかはわからない。味見している内に、いつの間にか、全部消えてしまうかもしれない。練りきりって、ちょっとマジパンに似ている。これをクリスト・シュトレンに入れたら、どんな味になるのだろう。
2018/01/20
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腸内細菌のたいせつさを報じる番組を見た。ふだんの食事だけでは、増えない、または存在しない腸内細菌があって、それが腸内に存在するかしないかでは、健康にかなりの違いがあるのだそうだ。ただし、ネズミでの実験だったけどね。この望ましい腸内細菌がいないと、腸に穴があいたり、、(あとは忘れた)、、といろいろやっかいなことが起こるかもしれないと、その番組はおどしをかけてきた。父親が直腸癌で早死にしたこともあるし(わたしは歯槽膿漏といい、50肩といい、あまり望ましくない性格や外見といい、父親に似ているので、腸の癌にかかりやすい遺伝子も染色体上に連鎖してのっかっているかもしれない)、身近な友人が最近、腸に穴があいて、手術を何回もしなければならなかったという話も聞いていることだし、望ましい腸内細菌は増やすには越したことはないようだ。こういう望ましい腸内細菌を増やすのにとくに良い食物は、食物繊維で、とりわけ全粒粉やオートミール、つまり燕麦なんだそうな。全粒粉100%で焼いたパンは毎朝食べているけれど、燕麦はほとんど食べていない。たまに、思いついてオートミールのフレークやナッツやフルーツのミューズリーは食べるけれど、しばらくするとやめてしまう。それで、ふと思いついて、久しぶりにオートミールの粥、つまりはポリッジを食べることにした。毎朝、起きるとまず(寝間着のまま)、オートミール(燕麦)の細かいフレークを大さじたっぷり二杯、小鍋に入れて、牛乳を適当にそそぎ、弱火で1、2分煮てから、中火で煮立たせて、すぐに止めておく。その間にコーヒーを淹れ、ライ麦(全粒粉)サワー種とスペルト全粒粉ルヴァン種で焼いたパンをトーストして、チーズとトマトをのせて食べる(まだ寝間着のまま)。この二枚を食べ終わる頃には、オートミールが牛乳の水分を吸い込んで、お粥状になっている。これに友だちがつくった自家製ハチミツ(ものすごく香りが良い。ハチミツがこんなにおいしいとは思いもしなかった)を小さじ一杯混ぜて、食べる。オートミールなんて、昔はおいしいとは思わなかったけれど、今はこの一瞬が幸せ。BFの姉はオートミールを水で煮て、バターを混ぜて食べるんだとか。この方が正攻法らしいけれど、わたしはミルクで煮るのが好き。これまで、牛乳を買う習慣がなかったけれど、オートミールがきっかけでミルクを買うようになって、牛乳ってなにかと便利だなと思うようになった。オートミールのお粥で望ましい腸内細菌が増えてくれるのなら、喜ばしいことなのだけれど、オートミールには一つだけ難点がある。それはね、腸内細菌が活発になるためか、腸内にガスが大量に発生すること。昔、サツマイモを食べるとそうなると言われていたけれど、わたしはそうはならなかったのに、オートミールはすごい効力を出す。これは、望ましい腸内細菌が増えてくれている証拠と言えば、喜ばしいことなのだろうけれど。わたしだけでなく、誰もが経験する現象らしくて、テレビで学者だか誰だかが、「オートミールは健康のために絶対に食べるべきだ。ただし、そのあと体から噴出する香りがたいへんだけれど」とか言っていた。オートミールのおかげで、腸の働きも活発になったらしくて、いらないものがドンドン出て行ってくれる感じ。体重も減った。
2018/01/19
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わたしの唯一のぜいたくは、ダンス(サルサ)のプライベートレッスン。自分の子どもよりも若いお兄さんに、ほぼ毎週、一時間、ひとりで習っている。別に高度なテクニックを教えてくれるわけではなく、基本的な姿勢や動きをなおしてもらい、インストラクターをパートナーにして踊る。サルサはパートナー、つまり男性のリードに女性がほぼ無条件にしたがって踊る、すごいマッチョ的なダンスだ。たとえリードがまちがっていても、女性はそれに従って動かなければならず、自分からフィギュア(振り)をはじめたりしてはいけないそう。でも、現実的には、パートナーがモタモタしていると、女性はつい自分から振りの動きをはじめてしまうのよね。それに、パートナー男性がどうリードしてよいか、次にどういう動きをしたいのか思いつかないこともたびたび。プライベートレッスンではこういう心配をしないで、ひたすら先生のリードのままに「踊りまくれる」ところがすばらしい。それと、微妙な動きから、相手(つまりはリードする先生)の意図を一瞬で理解して、それに対応する、その言葉を介さないコミュニケーションが、スリリングでおもしろい。しょっちゅう「こんな高い趣味は長くは続けられない」と思うのだけれど、レッスンに行って、体をぐるぐるターンさせ、足を動かし、腕を上げと、動き回る、踊るたびに「やっぱり続けよう」と思ってしまう。そういえば、再発しそうになっている「50肩」が、レッスンの間だけは治っていた。不思議。ダンスはそれ自体を楽しむ、ダンスをすること自体を楽しむ、まさに「内在的な価値」を楽しむ行為だ。内在的な価値とは、それ自体がもつ価値、他のものを得るために価値があるのではなく、それそのものにある価値。もちろん、ダンスにも、健康に良いとか、頭をぼけさせない、人と知り合える、ダンスがすごくうまくなって人に見せてお金をとる、などといった「道具的な価値」もあるけれど、まずはダンスをすることそのものが楽しくて、ダンス自体が目的で、人はダンスをするのだと思う。この内在的な価値、というのは人生でとても大事なのだと、以前に訳した「哲学者とオオカミ」や「哲学者が走る」の著者、マーク・ローランズは「哲学者が走る」の中で書いている。ランニングやジョギングは健康、若返り、友だちづくりなどの「道具的な価値」もあるにしても、究極的には人は走ること自体のため、つまり走りたくて走るのだと。(ちなみに、道具的な価値があるもの、というか道具的な価値しかない代表的なものは、金銭。これ自体には何の価値もなくて、これを使って何か別のものを手に入れたり、何かをすることができるからこそ、価値がある)内在的な価値をもつ代表的な行為は「遊び」だ。遊びが脳や体の発達に役立つのはたしかだけれど、人間や動物は第一義的には、遊びが楽しいから遊ぶのだから。今ではなんでも、「これをすれば寿命が延びるから」「これは健康によいから」「これはお金になるから」と、何でも何か別のことのために、何かをするようになって、何か別のことのためにならないことには価値がないように考える風潮がある。でも、短い人生だもの、内在的な価値だけのために、つまりそれをすること自体が目的のことをもっともっとすると良いと思う。花を育てる(飾るという目的だけでなく、花の成長を見ているだけで楽しい)、音楽を聞く、楽器を奏でる(別に演奏会に出るためでもなく、人に聞かせるためでもなく、脳のトレーニングのためでもなく、ひたすら自分で弾いて楽しむ)、パン焼き(食べるためよりも、焼きたくて焼く)はわたしにとっての内在的な価値をもつ行為だ。プライベートレッスンの若インストラクターの弟もサルサダンスのインストラクターで、この弟先生からもときどき習うことがある。彼はときどき、タイ、ベトナム、韓国、日本などを半年間ぐらい巡り歩いて、各国でダンスのインストラクターをしている。「どうやって、インストラクターの職を見つけるの?」と聞いたら、ある都市につくと、すぐにサルサが踊れる店に行くのだそう。彼は卓越した踊り手なので、おまけにヨーロッパ人だから目立つので、かならず声をかけられて、個人で、あるいはダンス教室で教えてくれないか、と頼まれるのだそう。そんなこと、ぜんぜん知らなかった。「ヨーロッパ人はアジアではやはり有利なのだ」と彼は言っていた。もうすぐ、この弟インストラクターはアジアに出かけるらしい。もしかして、日本のどこかの町で教えることもあるかも。以前に日本に行ったときには広島や神戸で教えたそうな。
2018/01/16
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1、3キロの牛肉の塊を買ってきた。一応、ビオ、つまりはエコ農業で育てられた牛の肉。脂がまったくない、煮込み用の肉。2リットルの水とローリエ、粒胡椒といしょに火にかけて、煮立ったら、弱火にして1分(たった1分)だけ煮て、火をとめた。すぐに厚いクッションの上に置いて、自作の鍋帽子をかぶせてそのまま放置。肉の存在すら忘れたころ(数時間後、いつでもかまわないの)、帽子をとって、前の作業をくりかえした。これを全部で3回したら、肉がすっかりやわらかくなった。火(つまり電気)を使った時間は、最初に沸騰させるまでの数分と、弱火で煮た1分、次からはふたたび沸騰させるまでに1分もかからないから(鍋帽子をかぶっていたので、まだ熱いまま)、全部合わせても、10分。こうやってゆっくりと、100度以下で肉を煮ると、煮汁、つまりはスープがものすごくおいしい。最後に上の鍋にセロリ、人参、丸のままのジャガイモを入れて、ふたたびふっとうさせ、たった1分だけ弱火で煮て、鍋帽子の下でお休みいただいた。そのまま放置した時間が長過ぎたのか、ジャガイモがこわれそうになるほど柔らかくなった。保温調理は水が多いほど、効果が大きい(これは当然よね。100度に近い温度が長い間たもたれるから)。だから、大きな塊肉の煮込みとかシチュー、あるいはジャガイモなどをゆでるなど、水分をたくさん使う調理に向いている。カボチャは30秒だけ煮立てて、そのまま保温しておけば、1時間もたたない内に柔らかくなった。20年以上前から日本の「はかせ鍋」も持っているのだけれど、わざわざこれを取り出してくるのが面倒で、あまり使わなくなってしまった。保温効果は同じなのだけれど。あるとき、おみかんさんのプログ「いつも食べることばかり」で鍋帽子のすばらしい効果を知って、作ってみる気になった。今、わたしが使っている鍋帽子は、とてもデカイ手製。まず、古いウールのロングスカートを三着、ミニスカートにした(この方が歩きやすい、ダンスをしやすい)。この作業で切り取った布(この内の2枚はフェルトなので、保温には最適)をはいで、鍋帽子の表布にした。裏布は古い木綿のシーツ、表と裏の間には古い厚手のセーターを詰めた(綿の代わり)。こうして出来上がった、分厚くてドデカイ帽子をキッチンの壁にかけておいて、いつでもさっと使えるように待機させる。この帽子は、両手鍋なら、大小どんな鍋にもかぶせられる。片手鍋も小さな鍋ならかぶせられる。鍋を厚いクッションの上に置いて、この帽子をかぶせるだけなので、なんの心構えも準備もいらない。だから、なにかを煮たり茹でたりするときに、さっと使う気になる。ここが、保温調理専用の鍋を使うのとちがうところ。それにしても、鍋帽子の効果がこんなに高いとは、思わなかった。それに、角煮やビーフシチュー、塊肉の煮込みは、ふつうに調理するよりも、保温調理の方がずっと失敗が少ないと思う。
2018/01/09
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昨日は日本からのお客様に、お餅や干しえび、そしてなんとなんと数の子をいただいた。こちらでは手に入らないから、実に30年ぶりの数の子。いま、塩抜き中。こちらではクリスマスを長々と祝うかわりに、正月はほとんど祝わない。祝うのは今日、大晦日だけ。スーパーで一昨日、昨日と打ち上げ花火が売り出されていた。今日は日曜日なのですべて店は閉店。夜中の零時に国中の路上や屋上で、花火が打ち上がる。たしかにきれいで感動的ではあるけれど、市民が毎年おおみそかに打ち上げるこ花火によって出る粒子状物質や有害ガスは、ディーゼル車からの排ガスに勝るとも劣らないという。そのほかに火事、火傷などの事故もものすごいらしい。戦争のような爆撃が国中にひびきわたる最中に、テロ行為は殺人行為も起こる可能性もある。実際、十年以上前、たまたまベランダで花火をながめていた人が、ピストルで撃たれた事件だってあった。花火をひそかに買いためておいて、あとで爆発物に使おうとする人だってあるだろう。もうこういう習慣はやめて、大晦日の花火は公的な機関や大きな催し物だけに許可して、個人の誰もが空に打ち上げることは禁止すればよいのにと思う。実際に、大気汚染の問題やおおみそかの消防にかかる大金を理由に、個人に対して禁止しようとした自治体もあるそうだが、大きな反発を買うらしい。おおみそかには、町のあちらこちらでおおみそかパーティーが開催されている。ダンス学校のダンスパーティー、おおみそかディナー、飲み屋のパーティーなどなど。今年はふんぱつして、市立劇場の観劇+パーティーの券を買った。まず晩の早めに音楽劇を観賞したあと、10時からパーティーがはじまり、真夜中すぎまで劇場内のいくつものホールがダンス会場になって、さまざまな音楽で踊ることができる。そして、夜中の零時になったら、劇場前で花火を打ち上げるつもりなんだろうな。怖いのはその後。家に帰る(徒歩で15分)までの路上で、かんしゃく玉を投げる輩がきっといるから。零時がとっくに終わっても、花火をとっておいて、ずっと後になって打ち上げるバカなヤツもいるだろうし。町中が花火の排気ガスやけむりで充満する中を歩くのは、たしかにいやだな。今年もこうやって終わっていく。あと何年、おおみそかを経験することができるのだろうか。命は加速度的に最終地点に近づいていく。お世話になった方々、久しぶりの書き込みを読んでくださった方々、ありがとうございました。来年はどうなることかわかりませんが、よろしくお願いします。
2017/12/31
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恒例のようになった、アフタークリスマスディナーを「開催」した。お客は、BFの姉、彼女の息子と娘、BFの妹(といっても、一時間違いの)、BFの長女と次男。つまりは、すべてBFの家族。彼の家族のために、一日半もかかって料理をするのは、マゾヒスティックかもしれないけれど、喜んでぱくぱく食べてくれるのを見ると、またやろう、と思ってしまう。今回のメインは、BFたち兄姉妹の生まれ故郷の料理、ケーニッヒスベルガークロプセ(ヴィキペディアではキングスベルガーとなっているらしい、ケーニッヒの英語がキングだから)。つまりは牛肉のひき肉団子をスープストックで煮てから、スープストックと生クリームでつくったケッパー入りのソースをかけ、ゆでたジャガイモを「主食」に食べる料理。付け合せは、紫キャベツの赤ワイン煮とバターでゆでた野菜。ケーニッヒベルクは現在のロシアの飛び地、カリーニングラード。戦前はドイツ領だった地域で、彼らは戦争末に、何年もかかる逃避行をして、命からがらドイツ本国に逃げきた(大量の人が途中で死んだ)。つまりは難民生活をしたということで、その体験談を聞くたびに、かれらのお母さんとおばさんの勇気と知恵、そして運の良さに感心する。こういう死ぬような体験をした人は強い。そしてとても、ほがらかで楽観的。まあ遺伝かもね。ということで、ケーニッヒスベルガーは作るのが簡単(作り方はこのブログの中にあります)なので、楽なのだけれど、問題は前菜。BFの姉が春巻きが好きで、毎回、食事に呼ぶたびに、これを期待される。でもね、毎回じゃあ、ノウがない。それで迷いに迷って、今回は揚げ餃子にすることにした。焼き餃子じゃあだめなのよ。パリパリした皮が好きらしいから。中身は、この姉がクリスマスイヴの食事につかった残りのキノコ類と大量のニンニク、これにエビとチーズをプラスした。ここまでは簡単。餃子の皮を買いに、遠くのアジアショップまで行く時間がない(24日は日曜日、25日と26日は、ドイツはクリスマスの祭日だっただから、店舗は3日間つづけてすべて閉店)。しかたがない、皮は手作りにした。これは意外に簡単だった。300gの小麦粉と150gの水をこねて、うすくのばすと30枚の皮になった。でも、わたしは餃子が包めない。あのひだ入れができない。中身をおいた皮を二つ折りにして、中央と両端をくっつけてから、その間を指でたたみながら、くっつけると、理論ではわかっていても、そううまく行くもんじゃないの。だから、できあがった餃子もどきは、とても不格好。しかも、揚げるまで(お客が着いてから揚げた、さめないように)に時間があったので、なんとなんと餃子の底が下のベイキングシートの紙にくっついて、一部穴があいた!!!前菜はほかに、マーシュのサラダ、スモークサーモンのムース(生のようなサーモンのたたき、エシャロット、キュウリ、サワークリーム、ディルをミキサーで合わせて、ゼラチンで固めた)とアヴォカドのムース。で、はたと気がついた。サーモンとアヴォカドのムースには、やっぱりパンがいるんではないか。一切れぐらいは必要。ということで、添えるためのバゲットも焼いた。前回に書いた無水鍋に入れて、オーヴンでしばらく焼いてから、蓋をとって、さらに焼いた。今回もやっぱり焼き上がりは軽く、クラムはフワフワになり、クラストは薄かった。ま、食べやすいけれど、味はオーヴンだけで、鍋なしで焼いた方がいい。それとも、今回はイーストだけで生地をおこし、ルアン(スペルト麦粉で起こしたサワー種)を使わなかったから、味がないのかな。香りもなかった。こんなことで、料理の準備に時間がかかった。デザートは定番のフルーツサラダのほかに、パンナコッタとフランボワーズムースを重ねたケーキ。牛乳と生クリームで前日にパンナコッタをつくり、当日はフランボワーズ(つまりはラズベリーね)をさっと煮て、ゼラチンをとかしいれて冷ましてから、泡立てた生クリームと合わせたムースをパンナコッタの上に重ね、さらにその上にフランボワーズのゼリーを薄く塗ったもの。生クリーム500mlと500gのラズベリーを使ったムースはすごいボリュームになった。揚げ餃子は一部はパンクしたものの、完売した。一つ一つがかなり大きめだったのにもかかわらず、BFの姉は4つも食べた(わたしは2個でせいいっぱい)。メインのケーニッヒスベルガーも肉、1、4kg分の大きめ肉団子(全部で25個)もジャガイモもほぼ完売。こうやって、お客がパクパク食べてくれるのを見るのは、気分がいい。だから、こりずにまた、ディナー招待をしたくなるのよね。餃子はどうやったら、うまく包めるようになるのかな。やっぱり春巻きにしとくかな。これなら誰でも包めるもんね。
2017/12/28
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いやいや、自分のブログがあるのも忘れてしまったほど、長く書かなかった。ことさら書くようなことも起こらなかった。何を血迷ったか、とつぜん、日本から無水鍋(広島アルミの元祖無水鍋)の最新版を取り寄せた。取り寄せは簡単かと思ったら、そうでもなかった。まず、高額の送料(7000円以上!)がかかった。古いタイプの鍋なら一つ買えてしまうほどの価格だ。注文してから1週間以上が過ぎて、やっと現物がフランクフルト空港に到着したらしいとわかったけれど、税関から「価格を証明するものと現金をもって、取りに来い」という手紙がきた。税関に行くと、小包を目の前で開けるようにと言われ、現物を見せなければならなかった。商品を一目見て、職員が発した言葉「これはアルミ製ですな」で、いささかビビった。ヨーロッパではアルミの鍋は健康に悪いと懸念されているので、もしかして禁止かもしれなかったから。隣の窓口で小包を受け取りに来た人は、中身が禁止品だったらしく、受け取りができないと言われていたから、もしかしてワタシも?と思った。でも、税関のおじさんは、長い時間かけて計算書をパソコンに打ち込んでプリントアウトしたあと、「消費税と関税を支払い窓口で払って」と言って、小包をくれた。こうして、こちらの消費税(19パーセント)と関税、合わせて5000円以上を払い、やっと現物を受け取ることができた。日本の通販元に払った商品価格にも消費税がかかっていたから、これでは二重払いではないか。というわけで、やっと手にした無水鍋。IHでも使えるタイプと聞いて、買ったのだけれど、いざとなったら、やはりアルミ製の鍋で煮炊きするのは、ちょっと迷いがある。それで、同時進行でやはり日本から取り寄せた「無水鍋で焼くパン」という本を参考にして。パンを焼くことにした。パンなら、生地が鍋にじかにあたるわけではないので、まあアルミでも気にならない。まず、カンパーニュを焼いてみた。わたしはガスコンロは持ち合わせてなく(というか、ガスは地下の暖房用ボイラーに配管されているだけで、地上階には配管されていない)、IHか電熱コンロで使うのだけれど、火力をどれほどにしてよいかわからない。最初に焼いたパンは、ふっくら盛り上がったけれど、まったく色づかなくて、最後はオーブンのグリル機能で色づけをしなければならなかった。味はまあまあ。クラストが薄いのが気になるかな。次に焼いたときには、生地にクルミやレーズンを入れて、前回よりも強火にしたら、ちゃんと色づいた。クラストが薄いのは同じ。今度は、予熱した無水鍋に生地を入れて、予熱したオーブンで焼く方法をためしてみた。オー、わたしが焼いたとは思えないほど、ぱっくりとクーブが開いたぞ。もっと驚いたのは、焼き上がりのパンの軽さ。これまでバゲットでも、どうしても実現できなかった軽さ。これはすごい。次にはミニバゲットを無水鍋に入れてオーブンで焼いてみようかしら。無水鍋で焼くパン(オーブンに入れないで、コンロで鍋だけで焼いた場合も)のもう一つの特徴は、クラムがものすごくフンワリして、翌日になってもフンワリが消えないこと。おもしろいので、今度は先のレシピ本にあった黒ごまパンなるものを焼いてみた。生地に少々のオリーブを入れ、ちぎりパンのように小さく丸めた小麦粉の生地をお互いにくっつくように円形に並べて焼いたパン。今回はオーブンは使わずに、電熱ヒーターだけで、強火で焼いたら、ちゃーんと色づいた。今回もフワンフワン。かるーく焼けた。でもね、考えてみたら、フワンフワンのパンが好きなドイツ人はいないし、わたしも実は好きではなくなってしまったんだった(忘れてた)。ただ軽くてやわらかいだけのパンて、味気がない。しょうがないから、ショウガ入りのカボチャのスープといっしょに昼飯に食べた。でも、まだ残ってる。無水鍋のパンがフワンフワンになるのを利用して、アンパンとかパネトーネなんかを作ったら、おいしいかもしれない。それとも、バターを生地に入れたら、パンが冷めたあとには、やっぱり固くなるのかなあ。誰か教えてくれないかな。パンが焼けたのは良いけれど、このパンを焼いたあとの無水鍋の内側の状態を見て、唖然とした。鍋全体に黒っぽいシミがついてしまった。何かを入れて焼いたりしたわけではなくて、蒸し板を鍋底に敷いて、その上にベイキングペーパーも敷いて、そこに生地を焼いただけなのに、鍋の底も壁面も、べったり焦げ茶色〜黒になったのはなぜなの?前回と前々回、パンを焼いたときにはちっともそうならなかったのに。知らない間に食物の粒子が内側にへばりついて、それが高温で熱されて、いわば炭素のこげになったのか。これを落とすために、まずは日本のクレンザーに似たような洗剤を買いにでかけ、スチールたわしでこすること、一時間。それでも、鍋は元のようにはきれいにはならなかった。パンを焼くよりも、洗う方に時間がかかるなんて。これは良い買物をしたと言えるのだろうか。しばらく、パン遊びをするのは面白いけれど。アルミといえば、振り返ってみれば、子ども時代はアルミやアルマイトの鍋や釜で炊いた食物をずっと食べていたんだ。ずっと使っている日本製の電気釜の内釜もアルミ製のようだから、無意識とはいえ、いまだにアルミ製鍋を使っているわけだ。もう歳だし、先は長くないのだから、鍋とか、健康とか、どうでもよいのかな。
2017/12/24
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十年近く前から、毎週、継ぎ続け、毎週焼き続けているライ麦サワー種。混ぜるたびに、「ぬかみそに香りがそっくりだよな」と思っていた。ぬかみそについて読んでみたら、やっぱり案の定、ライ麦サワー種で働いている菌も、ぬかみそで活躍する菌も、乳酸菌なんだな。そんなら、ライ麦サワー種でも漬け物ができるはず。米ぬかはこちらでは手に入らないので、ライ麦サワーでできるのなら、うれしい。それで、物は試し、ライ麦サワーの元種を大さじ3杯分ぐらい取り出して、いつも継ぐときのように、ライ麦(全粒のあらびき)と水を足して、混ぜて一晩おいた。塩をまずは入れなかったので、発酵が急速に進んで、もう乳酸菌の香りがいっぱい。これに塩をどっと入れて(入れすぎた)、ためしにキュウリとダイコンのしっぽを入れておいた。日中、30℃という暑さのせいで、半日でキュウリはまるで古漬けのようにつかった。しょっぱーい。明らかに塩の入れ過ぎ。水で塩抜きをしたら、ちゃんと漬け物として食べられた。糠どこには、ライ麦全粒のあらびきを足して、塩は足さず、またまたキュウリを入れて、今回は冷蔵庫に一晩。言われなかったら、違いがわからないほど、ぬかみそ漬けにそっくりな漬け物ができた。サワー種がすでに「育っていた」(発酵していた)おかげで、すぐに漬けることができたのがラッキー。でもねえ、漬け物がを毎日食べるほどは、米を食べないので、糠どこの保存がむずかしそう。
2017/08/27
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またプルーンの季節になった。プルーンを使った、ドイツの典型的なケーキは、菓子パン生地にのせて焼くシンプルなもの。プルーンのケーキは実はあんまり好きじゃない。BFがケーキを期待して買ってきたので、しかたなく焼くことにした。菓子パン生地は、牛乳の代わりに生クリームを使う(ほかに卵、バター、砂糖など)。こうすると、気のせいか、生地がふんわりするし、味もリッチになる。生地が厚いと、残す人がいるもんで、できるだけ薄くしたら、生地が余った。よし、これでButterkuchen(つまりバターケーキ)をつくってみよう。余生地をひらべったく延ばして、バターの小片をのせて、砂糖を振りかけて、プルーンのケーキの上段に入れて、いっしょに焼いただけ。アーモンドスライスをのせれば、もっといいけど、冷凍庫を探すのがメンドクサイので、なし。15分焼いて、バターケーキだけ取り出した。生地がきつね色になって、おいしそう。まだ11時で、さっき朝食たべたばかりだけど、食べちゃおう。ウー、フンワリして、生地のリッチさがつたわって、砂糖だけのケーキなのに、おいしい。アーモンドをのせたら、もっとウマかっただろうな。今日は昼食抜きにしよう。プルーンのケーキは、180℃で45分焼いた。プルーンから汁が出ると、生地がビショビショになるので、パン生地の上にパン粉やビスキュイのくだいたものをしき、ならべたプルーンには砂糖はまぶさなかった。そうすれば、いくらかビショビショはふせげる。砂糖は、焼き上がって、冷めてから振り、それでもたぶん酸っぱいので、ホイップクリームをかけて食べる方がおいしい。でも、あんまり好きじゃないので、出来上がったのを見ても、「お先に一口、試食」という気にならない。次は、この菓子パンの生地でアンパンとバターケーキを焼くことにしよう。
2017/07/25
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20年前に訳出した「ネコの行動学」の復刻が出版された。著者のライハウゼン博士は生前、日本にもたびたび訪れ、沖縄のイリオモテヤマネコの調査に同行したり、阪急動物園などで大型ネコ類の観察もされた。わたし個人にとってはこの本は、運命を変えた本といってもおおげさではない。大昔、結婚して一年ぐらいたった頃、元夫(当時はもちろん夫)のために、この本の原著の初版(初版はまだ論文のような形だった)を訳してあげるために、生まれたばかりの息子をお義母さんにあずけて、池袋のR学に学士編入して、ドイツ語を一から学んだのだ。これがドイツ語、ドイツを知るきっかけだった。この本がなかったら、ドイツ語を習おうとか、ドイツに来ようなどとは思わなかったはず。ドイツ語文法をひととおり習った八ヶ月ぐらいの頃に、無謀にもこの初版を一行ずつ、ゆっくりゆっくり訳した。その頃はまだ複雑な言い回しの意味もわからず、なにしろ知っている語彙がすくないので、一段落を訳すだけでも、数時間かかった。その後、R大学を退学し、再入学し、ふたたび退学した(「もう絶対に入れてあげません」と言われた)。そのあとしばらくたって、今度は娘を保育園にあずけて、渋谷の語学学校に、当時住んでいた山梨県のT市から特急「あずさ」で週に二回通った。それでもドイツ語への興味やドイツへの関心はおさまらず、娘連れでドイツに留学した。留学先がたまたま当地、フライブルクで、この町がすっかり気に入ってしまった。ドイツ人の友だちもたくさんできた。それで、ついにはこの地への永住を決めてしまった。その間に、「ネコの行動学」の原著は版を重ね、ちゃんとした本の形になっていた。それを二十年前に「正式に」訳して出した。時間がたつのははやい。30年以上前の留学のときに、わたしについてきた娘は5才から6才になるところだった。そしていま、娘の長男は6才になった。もし「ネコの行動学」がなかったら、わたしはドイツにもフライブルクにも来ることはなかったと思う。ということは、娘の子どもたち(ドイツ人とのハーフ)も生まれてなかったはず、ということになる。運命の分かれ道って、おもしろい。ちなみに、この「ネコの行動学」に書かれていることは、いまでも十分に通用します。先日テレビで、現代の行動学者たちが、GPSや自動ヴィデオ装置などの技術をつかって、イエネコの外での行動(なわばりとか行動圏とか、他のネコとの付き合いとか)を調べた様子を見たのですが、ライハウゼンがこの本で観察し、推論していることが、確認された部分がたくさんありました。ネコの飼い方を書いた本ではなくて、イエネコや野生ネコ類の行動を細かく記述し、しくみや行動の理由をときあかしているところが、他のネコの本とちがうところです。復刻にあたって、著者の未亡人や娘さんとメールを交換したり、電話で話すことができた。娘さん(といっても定年まじかな学者)とは、今度もう一度電話で話すことになっている。こういう出会いもおもしろい。偶然って、わくわくする。(余談)R大学は当時も華やかだったけれど、15年ぐらい前に、環境の話をしに、久しぶりに伺ったときは、もっと華やかだった。スターのようにおしゃれを決めて、完璧にお化粧をして、長い髪をモデルのようにフンワリさせたお嬢さんたちがいっぱいなので、おばさんのわたしは身をちぢめたわ。「環境」が専攻だったあのお嬢さんたち、今はどうしていらっしゃるのかな。
2017/06/06
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とつぜん、無性に白玉が食べたくなった。小さいとき、母がときどき作ってくれた白玉。料理がまったくできない祖母でもできた白玉。餡と混ぜたり、あんみつに入れるのも悪くないけれど、なつかしいのは、砂糖をかけただけの白玉。当地では、日本製の白玉粉は手に入らない。でも、Klebreismehl(粘りのある米の粉)という水磨(次にくる漢字は読めず、米へんに需)米と書かれた中国製の粉が代用できる。この粉で大福も作れる。この粉と水を適当に混ぜて、耳たぶぐらいの固さにして、団子状にまるめて、熱湯に落として、浮き上がってきたら、水で冷やして、もうできあがり。本当に5分でできる。デザートのフルーツサラダに混ぜて食べてみたけれど、なんだか物足りなくて、モラセスをかけたら、黒蜜のような味と香り。これはこれでおいしいけれど、やっぱり砂糖をかけただけの白玉がおいしく感じる。こういう質感と大きく関係した食物は、子どものころから親しんでいないとおいしいとは感じないみたいだ。ドイツ人にこのおいしさをわからせるのはむずかしい。みつ豆に入った味もそっけもない寒天も同じ。それでも、ときどきこういう、かれらにとってはストレンジな食材を最初からおいしいと感じる人もいるからふしぎ。今日、なべに残った白玉に砂糖をかけて、立ったままつまみ食いした。すっごくおいしかった。20年近く前に逝った母を思い出す。
2017/05/09
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どこかのプログ(日本の)に「トマトにはかならずアルペンザルツをかける」と書かれていた。こう読むと、なにかとくべつ高級のお塩のような印象を受ける。でも写真を見たら、あら、これはこちらのどこのスーパーでも売っている、ごくふつうの食塩ではないですか。昔は、わたしも買っていた、というか選んで買ったのではなくて、単に一番よく見かける塩で、一番安かったから。ヨードとフッ素入りのアルペンザルツ(これは日本では売っていないみたい)。アルペンザルツは筒型の容器が便利なので、今も容器だけは使って、中にはいくらかグレードアップして、ビオの海塩で、塩をサラサラにする素材無添加というのをもっぱら使っている。日本ではアルペンザルツは高級とみなされているのなら、たぶん高いはず、と思って、ネットショップで見たら、あらあら驚いた。500g入りで700円以上だって!!こちらのスーパーでは、日本円に換算して130円くらいで売っている。すごいわねえ。5倍以上のお値段。まあ、当然といえば当然。日本製の醤油やなんとか味噌(日本のスーパーでごくごくフツーに見かける大衆用の商品)も、こちらで買えば、日本よりはずっと高くなるのだから。輸入の手間、関税、運賃などなどが加算されるのと、希少価値のものは高くなるのは当たり前といえばそうだけれど。けれども、もしかしたら、お値段が高いからこそ、高級感がかもしだされて、喜ばれ、選ばれ、売れる、という面もあるのかもしれない。もし、アルペンザルツが日本の塩と同じような値段だったら、「これって特別の塩なのよ」という気持ちもなくなるだろうしな。もしかして、アルペンザルツっていう名前が高級に感じるのかな。アルペンっていったって、アルプス産というわけじゃなくて、単に岩塩だというだ。わたしは岩塩の塩よりも、海の塩の方がミネラルが多いということで、こちらを使うようになった(ホントかどうか知らないまま)。これも思い込みかな。なんて、くだらないことを考えて、仕事から気持ちがそれた。うー、たかが塩のことで、なんで考えたりするんだろ。化粧品にも同じことが言えるかもしれない。理由なくお値段が高いだけで、たとえ成分は似たようものでも、高級感が出て、そのおかげで売れるということはありそう。わたしも昔は一時期、そういう化粧品を買っていた。900円の化粧クリームと9000円のをくらべたら、9000円の方がアンチエージングに効きそうに感じてしまうから不思議だ。ある知人のシルバーレディーが、ながいことS生堂のど高い高級化粧クリームをずっと使っていた。S生堂の化粧品はドイツではお高いけれど、この高級クリームはさらにど高い。あるとき、彼女は決心した。「鏡をみたら、もうしわだらけ。これらのしわは今さらのばせるわけでもない。高いクリームを使っても、使わなくても同じみたい。やーめた!」やめてふつうのクリームにしても、しわが増えたわけではないようだ。高級化粧品や高級食材を使うのは、効果や味が問題なのではなくて、おしゃれな気分を楽しむものなのかもしれない。わたしには、アルペンザルツの味も、いま使っているエコ商品も、味のちがいはわからない。ただ、ものすごく安いフランスの塩(なんと500gで40円)だけは、混ぜ物で薄めているのがわかった。いくら入れても、ちっとも塩辛くならないから。こういう商品はやっぱり使いたくないな。
2017/05/05
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Obsttorte posted by (C)solar08最近、久しぶりにテネリフェ島に一週間ほど行ってきた。スペイン領、カナリア諸島の大きな島。数年前にはたびたび出かけたけれど、この6年間は行っていなかった。そういえば、歳のせいか、前のように南アメリカとか東南アジアなど、遠いところに出かけることも、ほとんどなくなってしまった。10時間以上の飛行時間をかけてまで、異国に行かなのが面倒になった。カナリア諸島は日本人にとってのハワイみたいな感覚で、4時間ぐらいで行かれるところが便利。テネリフェ島もドイツ人でいっぱい。住み着いているドイツ人も多いので、ドイツ人が経営するレストランやパン屋もたくさんある。海の見えるドイツカフェには、ドイツっぽいパンやケーキがずらりと並んでいる。旅の連れは、そこでゼリーで固めたフルーツがのっているケーキを食べて、「おいしい、おいしい」と言っていた。ケーキにあまり興味(食欲)がなかったワタシはそれを横目で見るだけにしておいた。一番底に薄いタルト生地、その上にビスクィ生地、その上にカスタードクリーム、一番上にゼリーで固めた色々なフルーツがのっていた。ドイツのインターネットでそれらしいケーキを探したら、一つだけ「スエーデン風フルーツトルテ」というのが出ていた。テネリファのとかなり似ているので、作ってみた。このレシピは一番下のタルト生地はなし。そうよね、いらないわね。せっかく焼いたタルト生地を残す人も近くにいるし。それで、一番下はスポンジ生地。そらママ。ロールの生地のレシピで焼いた。その上のカスタードクリームは、ヴァニラプディング用の粉(こちらで大昔から売られ、現在も家庭でプディングを作るときに使われている、発色剤とヴァニラとスターチのミックス)と生クリームでつくった(牛乳でつくるよりおいしい)。その上にイチゴ、パイナップル、キウイ、缶詰のミカンを何層も重ねてゼリーで固めた。季節外れの、味も香りもないスペイン製イチゴを買うのはシャクだったけれど、見栄えのために。16才のドイツ少年二人にホールで出したら、一人は2切れ、もう一人は3切れも食べた。ちなみにこのケーキの直径は26センチ、高さは9センチぐらい。これを八等分したのだから、一個は相当な大きさ。二人とも背の高さは183センチぐらいだけれど、ヒョロヒョロ。食べても食べても太らない時代ってあるんだな。
2017/03/23
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そば粉入り、ルヴァンで焼いたカンパーニュ posted by (C)solar08ホップ種をやめていらい、バゲットやカンパーニュはスペルト麦粉と水から起こしたルヴァンで焼いている。日本ではライ麦と水で起こした種はサワー種、小麦粉と水から起こした種はルヴァン(フランス語起源の名称)と区別して呼んでいるけれど、どちらもつまりはサワー種(ザウアータイク)。サワー種(ルヴァン)の良さは、継ぐのが簡単なこと。前回の種に粉と水をほぼ同量足して、よく混ぜて、一晩置いておくだけで、新しいサワー種ができる。こうしてできた新しい種の一部だけを取り分けて、新しい粉をいくらか足してそぼろ状にしてジャムの空き瓶などに入れて、冷蔵庫で保存すれば、二週間はもつ。この継ぎ方はライ麦サワー種でも、スペルト麦のルヴァンでも同じ。残り(つまり大半の種)の種に、粉や水などパンの材料を入れて、こねて、成形して、数時間二次発酵してから焼く。これがいつも焼いている、全粒粉70%のドイツパン。バゲットや上の写真のようなカンパーニュは別の方法をとっている。前回に継いだルヴァン(つまり空き瓶に入れて冷蔵庫で保存した種)の一部を人肌温度の水で溶いて、これを生地への加水に使って、他の材料といっしょにこねる。水に溶くのがかなり面倒。こうしてこねた生地を室温と冷蔵庫で、一晩一次発酵させて、翌日に成形、二次発酵して焼く。今回はスペルト麦粉や小麦粉に、10%ほどそば粉、10%ライ麦粒の粗挽きも足して焼いてみた。そば粉を入れると香りがとてもよいので大好きになった。今回はわたしとしてはかなりクープが開いた。被せ焼きしたわけでもないのに、開いたのは、クープを思い切って深く入れたからかもしれない。
2017/03/10
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とつぜん、大学一年生のときのことを思い出した。入学してすぐにコーラスのクラブに入った。たくさんの先輩の中で、とくに目立ったのは、4年生のsさんとhさんのカップル。sさんもhさんもとても魅力的で、かっこうが良くて、おとなっぽくて、18才の小娘のわたしには手が届かないような、まぶしくて遠い存在だった。hさんは、当時とても有名だった宝塚男役スターの妹さんだった。高校時代によく母と宝塚歌劇を見にいっていた頃、母もわたしもこの男役スターのファンだった。なにしろ、歌唱力が断然すぐれていたから。だから、hさんがその妹さんと聞いて、びっくりしたのは言うまでもない。hさんもちょっと女優のような風貌で、すらりと背が高くて、声に迫力があった。彼女のおはこは「サマータイム」だった。sさんは、加山雄三をちょっと思わせる顔立ちで、男っぽいのに包み込むようなやさしさのオーラがあった。あるとき、クラブのメンバーの会食(コンパと呼んでいたかな、今でもこの言葉、日本で使われているんだろうか)があった。sさんは、わたしの斜め向かいにすわっていた(どうしてこんなこと、今でも覚えているんだろう)。わたしの周囲で好きな料理だかの話題になったときに、わたしが一言コメントしたら、sさんが「ボクもそうだよ、握手」と手を差し出してきたので、わたしは一瞬、ドギマギしたけれど、もちろん手を差し出して、握手してもらった!!!会食がお開きになって、多くの学生は都の周辺部へと帰宅していったのだけれど、わたしの実家は都心なので、ひとりで帰ろうとしていたら、sさんが、「ボクが家まで届けます」と言ってくれた。sさんは実家の門の前まで送ってくれると、さっと踵を返して戻っていった。家に入って、両親にこの日のエキサイティングな出来事を口から泡をふきふき報告した。両親はほがらかに笑って、「握手してもらって良かったねえ」と言った(母親は、常日頃は「男性とは結婚するまで手を握ってもだめ、などという非現実的なことを言っていたくせに)。sさんはある大新聞社の就職試験を受けた。面接で「コーラスクラブにいます」と言ったら、面接者から「じゃ、何か唄ってみてください」と言われて、なんと、なんと大学の校歌を大声で唄ったのだそうだ。これが受けたのか、就職試験に受かった。そして、sさんとhさんはめでたく結婚した。新居に一度だけ、当時のBFと訪ねたことがある。hさんは幸せそうな奥さんだったけれど、女優みたいな人が家に留まっているというのがもったいないような感じがした。あの時から何十年がたったのだろう。とつぜん、今日、昼寝から目が覚めて、このカップルのことを思い出したのだ。sさん、hさんはまだご存命なのだろうか。日本人の平均年齢は高いから、ご存命にちがいない。インターネットで調べてみよう。けれども、最初はsさんの名前すらも思い出せなかった。hさんの名前は、お姉さんの元宝ジェンヌの名前がいまだに記憶に刻まれているので、すぐに戻ってきた。でも、記憶というのは不思議なものだ。まず、あれやこれや思い浮かべているうちに、姓が思い出され、グーグルってみると、見つかった。なんとsさんはあの大新聞社から退職されて、芸術的なお仕事をされているのだ。ホームページにイベントや活動、お仕事の略歴が出ていた。ホームページに出ているsさんの写真は、x十年前とあまり変わっていない。いまだにハンサムでやさしそうで、アトラクティブ。hさんのお顔はフェイスブックで拝見できた。彼女も当時のおもかげをのこしていて、きれい。ぜんぜん、所帯じみていない。お仕事もされているらしい。こんな遠い国から、こんな遠い昔のことを思い出しているなんて、歳をとった証拠なのかな。二度と戻らない、若い時代への憧憬なのかな。とココまで書いて、いったん「公開する」をクリックしたあと、もう一度、sさんの名前をグーグルってみた。最近の活動歴がないのが、気になったからだ。そしたら、なんと、sさんの訃報が見つかった。もう6年以上も前にsさんは亡くなっていたのだ。亡くなっても、ホームページはいつまでも遺るということか。でも、sさんはすばらしいお仕事を遺してくださった。そして、訃報に載せられていた未亡人の名前はhさんではなかった。hさんは今でも元気かな。今もサマータイムを唄うことがあるかな。
2017/02/18
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今、ケアスティン・ヘンゼル(Kerstin Hensel)というドイツ人女性作家の「いつわりのウサギ」(Falscher Hase)という本を読んでいる。東西ドイツがわかれていた時代に、歯科医の女性助手に一目惚れした主人公が、片思いのまま、この女性が住む東ベルリンへと、西ベルリンからわざわざ入って、東ベルリンで兵士から警察官になり、定年を迎えるという、かなり暗いけれど、どこか笑ってしまう話。話の面白さもそうだけれど、なにしろ文章がとても文学的な作家。とても気に入ってしまった。日本語版に訳したいほどだけど、これは日本じゃ売れないかなあ。この小説のタイトルである「いつわりのウサギ」は話の中でとてもひんぱんに登場する。BFはドイツ人のくせに、いつわりのウサギが何なのか、これまで知らなかった。いつわりのウサギとは、日本語というか英語でいうミートローフのことだ。おかしなことに、わたしのブラウザーで日本語でミートローフと書いてグーグルすると、日本語のサイトがたくさん出てくるだけでなく、ブラウザー画面の右側にちゃんとドイツ語でFalscher Haseと出てくる。勝手に訳してくれるんだな。この小説の主人公の母親は、家族のためにしょっちゅう、いつわりのウサギを作る。戦争中は食糧難だったために、肉がなく、肉の代わりに雑穀や野菜を細かく切って、「二重のいつわsり」のウサギを作ったりもする。小説に感化されて、昨日は何十年かぶりにミートローフを作った(日本にいたときには作ったけれど、ドイツにきてから作ったことなし)。牛肉のミンチ500gにグリーンピースや自家製パンのパン粉、いためた粗くおろした人参と刻みタマネギを入れて、真ん中にはゆで卵も入れて、オーヴンで焼いた。このいつわりのウサギは、ハンバーグステーキよりもおいしかった。汁が流れ出ないのでジューシーなためだろうか、何より味がメチャクチャにおいしかった。スーパーの安い牛肉ミンチだったのに、不思議。BFはミートローフを食べるのは長い人生ではじめてだったらしい。安くておいしい、いつわりのウサギ、これからはしょっちゅう食卓にのぼりそう。
2017/01/30
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目が覚めてすぐ、窓の外を見なくても、あたりの静寂だけでわかる。雪が降っていることが。窓の向こうの景色は、テレビの音を消した画面のようだ。近年は当地では、雪が降ることはまれになったけれど、今年は何かというと降っている。子どもの頃は、東京でも雪がしょっちゅう降っていた。雪を見るたびに思い出すのは、母が雪でつくってくれたウサギ。お盆の上に雪を盛って、赤い実の目と鮮やかな葉の耳をつけただけの簡単なウサギだったけれど、幼児のわたしにはとてもうれしかった。あのウサギが融けてしまったとき、せっかく作ってくれた母に悪いことをしたような気持ちになって、哀しかった。この思い出といつもいっしょに心に浮かぶのは、学校の工作の時間に作った模型飛行機。竹ヒゴにロウソクの炎をあてながら、ゆっくりと曲げて、飛行機の翼の枠をつくり、薄い紙を貼るという、かなり手のかかる作業が必要な課題だった。学校の授業時間では作りきれなくて、宿題として家に持ち帰ったらしい。こんなことが不器用なわたしに出来るわけはなく、器用な母が苦労をして、たいへんな時間をかけて作ってくれた。感謝の気持ちと宿題をもっていける安心感でいっぱいになって、飛行機を学校に持って行ったのだけれど、登校の途中で片方の翼が壊れてしまった。あのときの悲しみ、落胆。宿題を持って行けないことが悲しかったのではなくて、母の苦労を無にしてしまったことへの悲しみ、申し訳なさだ。母は父とちがって、口うるさくはなく、子どもを叱ることも少ないが、かといって子どもを抱きしめたり、声高に大げさに可愛がることもない、物静かな人だった。母の優しさは雪のウサギや模型飛行機を通して、ほのかに伝わってきた。雪のウサギが融けたとき、飛行機の翼が壊れたときには、母のこの静かな優しさを自分が無にしたような、母の想いを裏切ったようで悲しかった。母が生きている間に、このことを話しておけばよかった。まあ、母親の立場にたって考えれば、子どもから感謝の言葉をもらいたいといった気持ちはないから、どうでもよいのかもしれない。雪はまだ降り続いている。これを書き始めたときよりも、もっと降っている。何の音も聞こえてこない。外の世界から隔離されて、まったくのひとりぼっちの世界。自分の内側の声に向かって、内側の声で話している。
2017/01/15
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父の勤め先とわたしが6年間通った中・高校はかなり近かった。だから、夕方の時頃に、務めを終えた父と四谷駅で待ち合わせて、一緒に寄り道をすることがあった。あるときには動物店で大ヘビのゴアコンストリクターをいっしょに眺めて、二人でいたく感激して帰宅し、母に「ゴアを飼おうか」と言ったら、ふだんはやさしい母がこのときだけは声を荒げて、断固反対した。ピッツァが日本に始めて「上陸」したときには、食べ物には好奇心満々の親子は、四谷駅近くに開店したレストランにすぐさま行ってみた。その結果はまるで覚えていないから、あんまり感激しなかったんだろうな。父と一緒ではなくても、たまに友だちに誘われて、ケーキ屋などを試してみることもあった。いまでも印象に残っているのは、お茶の水駅のすぐ近くの地下にあった、とてもとても小さなうどん屋だ。安いのに、食券を買ってカウンターで食べる形式ではなく、ちゃんとテーブルにすわってサービスを受ける。麺つゆはうす口醤油の上品な味。それなのにたしか、かけうどんは40円ぐらいだった。この店を教えてくれた学友が、「ここはしっぽくがおいしいのよ」と言った。それまでしっぽくを知らなかったわたしは、興味をかきたてられた。父に「お茶の水の安いうどん屋さんには、しっぽくというのがあるんだ。とってもおいしいんだって」と教えたら、ふだんは老舗(蕎麦は薮、ウナギは伊豆栄、、」にたまーに行くだけで、名もないところには行く勇気がなかった父だったのに、このときは「行ってみようか」とのってきた。しっぽくは、薄味の汁にひたる太い麺の上に、キノコ、鶏肉、野菜、かまぼこなどがきれいに盛られた一品で、これも上品でとてもおいしかった。父は若い頃は気分屋でかんしゃく持ち、いつ雷や叱責が落ちるかわからなくて、家にはあんまり居て欲しくない人だったけれど、こういうデートのときには怖いほどやさしく、機嫌が良くて、食べ物に関しても母よりも話が合った(つまりは母よりも食物に関心が強かったということ)。父の死後もう30年近くがたった。今頃になって、なんでこんなことを思い出したんだろう。
2017/01/04
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またも年が変わった。大晦日の晩を打ち上げ花火(個人が路上のあちこちで打ち上げる)で祝ったあとの正月は、祝うこともほとんどなく、人々は国内大移動をして、日常生活に戻っていく。だから、正月気分のようなものはまったくない。子ども時代の元旦も地味だった。父親が勤め先(皇居の中)に新年早々に元旦のあいさつに行かなければならなかったので、家族で雑煮と煮物(煮しめとは呼ばなかった)、ナマスなどの朝食を囲んで、おめでとうを言い合って終わり。父親が不機嫌な顔で家を出たあと、母と弟と共に根津の家から都バス、地下鉄、私バスを乗り継いで、東長崎にある母の実家に出かけるのが毎年の正月行事だった。同じ敷地内の隣の家に住む父方の祖父母は正月を特に祝うでもなかった。祖父がいつも古びた旗を門の外に出すだけだった。ベルリンでも感じるが、大都市というのは市内の移動に時間がかかる。私にとっては、東長崎の祖母の家が唯一の「いなか」だった。小学校時代、お盆や正月に級友たちの多くが「いなかに帰る」とか「いなかに行ってきた」と話しているのを聞いて、「いなか」って何の事だかわからなかった。「いなか」のイメージは田んぼや畑、山や海、そこに古い家があって、おじいちゃんやおばあちゃん、親戚がいて、やさしく迎えてくれるところらしかったが、実感がともなわなかった。わたしの祖父母たちも東京以外の出身ではあるけれど、若い時代に兄弟姉妹共々東京に出て来ていて、出身地には遠い親戚がわずかに残るばかりだった。父母は東京生まれでしかも二人とも一人っ子だったので、おじさんとかおばさんとか従姉妹というのがどんな感じのものなのかがわからなかった。遠くに「いなか」があって「いなか」に「帰って」行ける級友がうらやましかった。でも、東長崎の祖母の家(祖父はわたしが9才のときに他界した)もちょっと「いなか」らしかった。そもそも子どものわたしから見れば、東長崎はかなり「田舎」だった。家の裏の方にはお寺があり、一部はまだ畑が残っていた。池袋だって当時は「場末」などと呼ばれ、小さな店や飲食店がごちゃごちゃのひしめいていて、どこか猥雑な雰囲気を漂わせていて、子どもの目にもエキゾチックだった(東南アジアに旅行して感じるような雰囲気)。母方の祖母は、父方の祖父祖母とは違って、フツーに正月を祝った。おせち料理を作ったり買ったり(そういえば、尾頭付きの鯛を買っていたなー)、母が大好きだった鶏とネギとゴボウの煮物を鍋にたっぷり用意し、ポテトサラダとロースハムを大皿に盛った(こういうものがご馳走だった時代がなつかしい)。母方の祖母の家の雑煮は、祖父母の出身地特有のものだとかで、焼かない餅を小松菜とダイコンだけで作った汁で煮込んだものだった。煮込まれた餅がとろけて、汁がどろどろになるのがおいしいんだとか。わたしはおいしいとは思わなかった。これじゃあ、山梨のほうとうみたいじゃないか。母が作る雑煮(つまりは父方の家系の)は、炭火で焼いた餅を汁をはった椀に落とすので、食べ終わるまで汁は澄んでいた(澄んだ汁が鉄則で、決して濁らせてはならなかった)。東長崎の祖母の家の近所には、祖母の姉や妹、弟が彼らの連れ合いや子ども、孫とともに住んでいた。2日になると、これらの親戚が祖母の家に新年の挨拶にやってきた。お客さんがくるたびに、祖母は客を床の間を背に座らせ、「おせちいかがですか」と勧め、おとそを差し出した。こういう習慣は実家にはなかったので、わたしは違和感・緊張感すら覚えたが、一方では知らない世界に来たように新鮮だった。あの時にかわされていた会話を、隠れていた障子の陰からもっと注意深く盗み聞きしておけばよかった。祖母がわたしたちを連れて、親戚を訪問することもよくあった。これが、子どものわたしにはものすごくエキサイティングで緊張するイベントだった。それぞれの家の、家族の暮らし方、雰囲気はまるで違う。祖母の姉夫婦、その長女(母にとっては、姉のような存在の従姉)、その長女の夫(後に有名なギターの先生)、彼ら夫婦の息子たち(わたしにとってははとこ)は古いけれど、どこかヨーロッパっぽい家に住んでいた。絨毯敷きの居間は当時としてはモダン(わたしの実家は築後100年ものの古い家でほとんど畳敷き)で、そこで母の従姉の夫がギターを奏で、アイロニーが隠された会話がかわされる。わたしは3、4才年上のはとこたちと、お互いが読んだ岩波少年文庫の本の話をするのが楽しかった。祖母の妹も近くに住んでいたが、彼女の家の雰囲気は祖母の姉の家とはまるきり違っていた。まず、「ようこそ」の暖かさがなかった。祖母の妹は祖母の顔を見るなり、毎回、愚痴をたらたらとこぼしはじめる。子どものわたしに見せる微笑みはどこか引きつっていた。祖母の一番下の弟は、物静かで温かみのある男性で、ピアノ教師をしている夫人とともに、洋風の家に住んでいた。子どもがいなかったためか、ここの家のたたずまいは所帯染みたところがなくて、親戚というよりも、遠い知人の家にお邪魔したような雰囲気で、椅子に座るにも緊張した。祖母の弟自身はくったくがなかったのだが、彼の夫人が緊張感を内に秘めて対処していたからかもしれない。ずっと後に知ったことだが、この祖母の「弟」は実は弟ではなくて、先述の祖母の姉が若いときに産んだ子どもで、子どもの父親が亡くなったので祖母の両親が養子にして引き取り、祖母の姉はその後に現在の夫と結婚したのだそうだった。当時はこういう例はよくあったようだ。こういう関係だったから、この弟は祖母に対してやけに丁寧で、その妻もどこかで距離感を保とうとしていたのか。母方の祖母は正月以外でも、よく彼女の姉や妹の家を訪ねていた。父方の祖母はその逆で、60才を過ぎてからは、門の外を出ることは一度もなく、庭を動物園のオオカミのように行ったり来たり歩くほかは、家の窓辺で新聞や雑誌(といっても文芸春秋だけ)を読み、ラジオを聞き、歌を詠み、祖父を叱責する毎日をおくっていた。たまに、親友の娘さん(化学者として資生堂に勤めていて、来るときにはいつも化粧水やクリームをお土産にもってきてくれた。だからわたしは資生堂のファンだった)が祖母を訪ねてくるほかは、祖母を訪ねる人もなかった。親戚関係がにぎやかな母方の祖母の家から実家に戻るたびに、別の世界から帰還したような気分で、なれるまでに時間がかかった。地理的に離れた「田舎」に行くことはできなかったけれど、母方の祖母の社会にひたったこういう体験も「いなか」に行くことに含まれるのかもしれない。今の私には「帰っていくいなか」はない。数年前に、東京の実家に住む弟夫婦を訪ねたときは、子ども時代の家のあの雰囲気を共有した唯一の人と話したという意味でとても楽しかったけれど、父亡き、母亡きの家は実家とかふるさととか呼べるようなものではない。今の私の「いなか」「ふるさと」「実家」はここ、この家、このアパルトマンだ。もう26年以上も住んでいるのだから、東京の実家(建て替える前のおんぼろ)よりも長く住んでいることになる。1月2日の午後、窓の外は雪、あらゆるものが白くおおわれ、静まりかえっている。向かいの庭のモミの木が、空にむかってそびえるクリスマスツリーのようだ。
2017/01/02
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小学校一年のときにもらった通知簿の、備考欄のような囲みに、「明朗だが注意散漫、根気に欠ける」と書かれていた。他のあらゆる通知簿の記憶はまったく忘却のかなたに消えているのに、この的を得た指摘だけは、しっかり心に刻まれている。もちろん、これらの言葉の意味が小さな子どもにすぐにわかったわけではなく、母にこれらの言葉の意味を教えてもらった。親を含めて、周囲の誰もこういう指摘をした人(おとな)は他にいなかったのだから、この担任の先生の人を見抜く目は鋭かったと言わざるを得ない。これまでの長い人生、まさに注意散漫と持久力のなさで、なんとか生きてきた。いろいろなことに興味はもち、ちょっと手を出してはみるのだけれど、奥を極めるまでには絶対にいかない。こだわれない。ちゃんと出来るようになる前に、もうわかったような気分になって、それ以上は追究しようとはしない。こだわれない。つまりは飽きてしまう。パンはいまだに毎週、焼いているけれど、一定のレベルで止っている。バゲットの気泡はいまだに大穴が開かないけれど、あくまで改善を重ねていこうなどという気はまったくない。前に書いたシルクペインティングも、ブラウス二枚とスカーフ二枚でいくつかの手法を試みてみたら、もうわかったような気分になって、それ以上進もうという気になれない。編み物も縫い物も、必要にかられて、あるいは時間つぶしに手がけるけれど、いまだに必要最小限のレベルで、できあがるものは、いまだに不格好。いつまでたっても向上しないし、向上させようという意欲もない(まあ意欲だけでなく、必要なスキルがないということだけなのかも)。学業(専攻は生態学)もそう、深く追究しなかったから、専門家になど絶対にはなれない。ピアノは数十年後に再開したけれど、中学時代にできたレベルを取り戻した段階で、飽きてしまった。ショパンの曲がなんとか一曲だけ弾ける(まちがえだらけで)ことで、満足。それ以上、練習を重ねて、むずかしい曲を弾こうという欲が出てこない。あることが、どういう原則や構造でなりたっているのかが知りたくてはじめるのだが、ある程度そのなりたちがわかってしまうと、それ以上のこだわりが出てこない。興味が、知りたい、出来たい、という感心や意欲がどこかに消えてしまうのだ。歌手にしろ、料理人にしろ、研究者にしろ、アーティストや作家にしろ、名をなした人は一つのことにものすごくこだわり、そればかりを考え、寝食やキャリアを忘れて、そればかりを追究してきた人だと思う。わたしと正反対。父方の祖父はそうだった。金への欲もなく(金を数えることもできなかった、祖母にどやされていた)、家族や娯楽にも関心がなく、死ぬまでひたすら地理学・地質学の興味だけを追究し、書き、語っていた(周囲に迷惑)。この祖父のこうしたこだわりの被害者の一人だった父はその逆で、職業だけは死ぬまでまっとうしたものの、学業を奥深く追究したわけでもない。けれども始終、趣味としてとつぜん何か(大工仕事、家具作り、ラジオづくり、フィンランド語、ギリシャ語、天体観測、、)を始めては、道具や機器を買い集め、何年間または何ヶ月または何週間か夢中になってやったあと、まるで何事なかったかのように、すっと止めていた。チェロに関心をもちだした矢先に逝去し、まだ手をつけていない楽器だけが遺された。どうやら父親にわたしも似てしまったようだ。とつぜん関心がわくと、どうしてもやってみたくなって、手を出すのだけれど、ある程度やると興味の火が消えていく。一応、ライターを職業したのだから、書き物だけはもっとこだわって、追究すべきだとは思うのだが、「わたしには創作力や創造力や想像力はないわ」とすぐに断念してしまう。ある時、元夫に「小説家は小説や文章にこだわり、常に何かを書き、書く事にこだわっているのだから、そう適当にはまねできないよ」と言われ、「あ、そうなのに。そんじゃあワタシには無理」とすぐにギブアップした。わたしの関心なんて、そんな程度なのだ。こんなに注意散漫で根気がなくても、これまでなんとか生きてこられたことに感謝、感謝。ダンスだけは、トロトロの続けるつもり(努力しないで、ただ教わったことをやっているだけだから、こだわりがなくても出来るというだけの話)。
2016/12/30
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BFが近くの学校で毎週一回、放課後に難民の男の子の宿題の手助けをしている。イラクから母親と逃げてきた、4年生の子どもで、父親は「イスラム国」の集団に捕われの身らしい。この子は宿題をする気はあんまりなくて、落ち着きがなく、手にした物をこわしたり、かきなぐったり、、、。それでも、工作のような手仕事には、とてもやる気を見せて、器用だそう。「この子の将来はどうなるんだろう」と話していたら、昔、日本の公立中学の代替教員をしていた頃の経験を思い出した。中学2年生のクラスの担任を一学期だけしたときのこと。マンモス校のその中学には、いわゆる「問題児」とされる子や貧しい子、暴力をふるう子など、さまざまな生徒がいた。先生たちは若い女性も含めて、威厳があって(私の目から見てだけど)、生徒を制していた。なにかというと手もだした(ビンタとか本で頭をたたくとか、、、)。それまで主婦をしていた私には威厳のオーラもなく、人様の子どもをたたくなど、どうしてもできなかった。クラスにはひとり、学校では一言も話さずテストにも一言も書かない(つまり白紙で提出)男子生徒がいた。目がクリクリと可愛い、まだ小学生のように見える小さな男子で、いつもニコニコと笑顔なのだが、口は絶対に開かない。生活指導の先生によると、家では家族と話すことができるのだが、学校関係者(つまりクラス仲間とか先生とか)が来たとたんに、口が開かなくなるのだとか。小学校生活の間に、何か大きなトラウマとなるような出来事があったのかもしれないという。それでも、毎日学校にやってきて、一番前の席にすわって、ニコニコと先生を見上げている。休み時間に、この男子とやさしくボールなどで遊んでいる少年がいた。この少年は顔じゅうにニキビなどのあざがあり、内気なこともあり、他の生徒からいささかいじめられていたようだ。もの静かで、勉強もさえなかったが、他人への思いやりがとてもあった。放課後の掃除のとき、掃除当番の生徒たちに「逃げられて」、わたしが一人で教室を掃除していると、いつの間にかやってきて黙々と手伝ってくれた。ちょっと怖い顔をした男子もいた。この子は、ときどき窃盗などで警察にも知られているらしかった。彼は最初から、わたしの「威厳のなさ」を見抜いたようで、いつも不満そうな目でわたしを見ていた。ある時、ホームルームの時間かなにかで、先の「口を絶対に開かない」男の子を、他の生徒たちがちょっと笑い者にするようなシーンがあった。それなのに、威厳のないわたしは、これに介入することができず、黙ってやり過ごしてしまった。その日の放課後、「怖い顔の窃盗」男子がわたしのところに、怖い顔でやってきた。「先生、あの子がいじめられているのに、何も言わないなんて、きたないんじゃないか。日頃、えらそうなことを言っても、これなら先生もみんなと同じじゃないか。」というような意味の言葉をつきつけてきた。彼は物事の核心、わたしの偽善や勇気のなさを見事に見抜き、見事に言い当てていた。それなのに、わたしは適当な言葉で、その場をつくろった(もう忘れてしまったけれど、心の中ではそうだった)。学校のイベントのために、木に彫り物をして、大きな看板をつくることになった。そのとき活躍したのは、この「怖い顔の」男子と、もう一人、普段は不機嫌そうな青い顔の少年だった。ふつうの勉強の時間(わたしが教えたのは生物と英語の時間)では、まったく何もしないどころか、授業の邪魔をする彼らが、このときは人がかわったように、積極的になり、持続力を発揮した。すてきなデザインを考え、休憩もせずに、木彫をせっせとして、作品を完成させた。こうした子どもたちは、教室に無理矢理すわらされて、面白くもない教師の話をただ聞くだけの、「授業」には合わないけれど、自分のアイディアで、手をつかって何かをつくりあげる創作活動によって、自己実現ができるのかもしれない。人はそれぞれ、まったく違う。今のような教育制度や教育形態に合う人もいれば、そうでない形なら自分の能力を見つけたり、発揮できる人もいるはずだ。今のような教育の場が支配しているかぎり、少なくとも一部の子どもは、せっかくもつ自分の能力や自分がしたいことを、実現できずに終わってしまう場合が多いのは、残念なことだ。知人のお子さんで、小学校時代に何かというと警察のやっかいになった少年がいた。銀行マンを父親にもつ、とても頭が良い子だったが、学校がきらいで、態度が悪く先生とも意見が合わなかった。オトナになってから、彼がわたしに「子どものときから、学校の勉強ではなく、仕事がしたかった。職人のような仕事がしたくて、学校が嫌いだった」と言ったことがある。その後、彼は自営業で成功したが、30代なかばで亡くなってしまった。先の中学校での子どもたち、目がクリクリの「学校で口を開かない」子、ニキビ顔のやさしい無口少年、怖い顔でわたしを批判した子、彼らは今では50代になっているはずだ。みんなどこで、何をしているだろう。いいお父さんになっているかな。そういえば、この怖い顔の批判少年は、わたしが代替え教員の1学期間を終えて、クラスの子にさよならを言った日の放課後、ひとりで教員室にやってきた。わたしの机のところに来ると、「先生、これあげる」とカセットを差し出した。わたしのために、いつかわたしが好きだといっていたバンドの音楽を録音してくれたのだった。うれしくて、言葉が出なかった。本当は彼をぎっしり抱きしめて、「みんなは君を不良というけれど、君は本当はとってもやさしいんだよ。とてもすてきな才能をもっているんだよ。それを発揮して」と言いたかったのだけれど、言葉にできなかった。今頃、後悔するばかりだ。
2016/12/11
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先日、こちらのテレビで、腸内細菌をテーマに「識者」たちが語り合っていた。腸内細菌の効力を得るために、他人の腸の内容物を摂取する療法もあるんだそうな。ギョッ。会談の中で、その道の専門家(ドイツ人女性)が「日本を訪問して、日本では様々な発酵食品が食べられていることに驚いた」と言っていた。そういえば、ここ1年ぐらい、納豆を食べてないな。納豆はアジア食品店で日本からの輸入品(冷凍)を売っているけれど、ミニミニパックの納豆が200円近くもするので、あまり買う気になれない。以前、BFがドイツの雑誌で「NATTO」のことを読んで、「ナットウが健康に良いって書いてある、食べよう」ととつぜん言い出したことがあって、「何をいまさら、そんなことわかりきってるじゃん」と回答しつつ、そのときは一応、冷凍物を買ってきて食べさせた。前にも納豆を自分で作ったことがある。大豆をゆでて、市販の納豆と混ぜておくだけで、できた。ただ、そのときは大豆の茹で方に欠陥があったのと、どうやら発酵させすぎて苦くなってしまったので、「苦い思い出」ばかりが残っていて、その後作る気にならなかった。シイラさんのプログによく、ダイコンおろしや納豆をのせたおそばが出ていて、いつもうらやましく眺めていた。ちょうどビオのダイコンもあることだし、久しぶりにつくってみることにした。大豆はビオ(エコ)食品のスーパーにしか売っていない。豆腐がこれだけ普及している今でも、大豆は日本ほどには食べられていないのがわかる。大豆を一晩、水に浸してから、圧力鍋で30分ぐらい茹でたら、ちょうど良い柔らかさに煮上がった。熱い大豆に冷凍納豆のミニパック一個分を混ぜて、オーブンに入れた。暖かい温度を保つために、熱湯を入れた大きめの茶碗もオーブンに入れ(これはパンを早く発酵させるときに、良く使う方法、いつもうまくいく)、茶碗の湯がさめるたびに、熱湯ととりかえた。あるレシピに、八時間発酵させると書いてあったので、試してみた。八時間というのは正解みたい。大豆はまだそれほど糸を引きはしないけれど、ネバネバしているので、納豆菌が増えているのは確か。発酵させすぎて苦くしないために、暖かい環境での発酵はこれで止めて、密閉容器に一食分づつわけた。すぐに食べない分は、数時間、冷蔵庫で寝かしてから、冷凍した。これでいつでも納豆が食べられる。シイラさんプログの写真に見習って、おそばに納豆、大根おろし、ワカメ、温泉卵(のようなもの)、ネギをのせ、蕎麦つゆ(濃さはもりとかけの中間)をかけて食べた。ああ、幸せ。納豆おろしワカメ温泉卵そば posted by (C)solar08冷凍した納豆は、食べる数時間前に室温で解凍して、たびたびグルグルかき混ぜたら、どんどんネバが出て、市販のよりもおいしい納豆になった。今回はぜんぜん苦くない。あの苦さはやっぱり発酵させすぎた結果だったらしい(本当かどうかはわからないけど)。実はわたしは大豆が好きなわけではない。大豆の煮豆もチリコンカーンも、きな粉もわざわざ食べたいとは思わない。豆腐だってきらいじゃないけど、好きかと聞かれたら、答えにつまりそう。でも、納豆作りで余った茹で大豆をカレー味の煮込みにしたら、それなりにおいしかったのにはちょっと驚いた。納豆づくりがきっかけで、大豆をちょっと見直した。
2016/11/29
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とつぜん、ふと思いついて、ハンドワークの大きな店でシルクペインティングの初心者セットを買ってきた。ものすごく薄いシルクの小さな布2枚、専用の染料5色、下絵のお手本2枚、グッタ2本(無色と金色)、筆2本のセット。まったくの初心者なので、まずはお手本どおりにやってみた。下絵の輪郭を布にエンピツでうつしとり、布の縁を枠にピンでとめて布がピンと張るようにしてから、輪郭をグッタ(輪郭用の染料)でなぞる。塗り絵のように、この輪郭にしたがって好きな色をつけていく。染料をいくらか水でうすめて、うっすらと染めていった。染料を一滴おとすたびに、染料が布にひろがりにじむ(当然だけど)、おもしろい。色が乾いたら、アイロンをかけてできあがり。シルクペインティング posted by (C)solar08シルクペインティング事始め posted by (C)solar08色を塗った時点よりも、できあがりの色が薄くなったり、ニュアンスが変わるのがちょっとした驚きがあって、楽しい。もっとやってみたくて、ついてきたシルクと同じ薄さで45センチ四角のシルク布を買って、今回は下絵を使わないで、小さくたたまれていた布の折り目を利用した格子に斜め線もいれた輪郭をグッタで描いてから、一つ一つの升目を色付けていった。シルクペインティング posted by (C)solar08写真よりも、実際はずっとグリーンがかっている。染料の混ざり具合、筆や皿の水による薄まり具合の微妙な違いから、厳密に同じ色の升目は一つもない。同じ色のように見えても、ニュアンスが微妙に違ってくる。ふつうの布用の黒の染料も薄めて混ぜたら、うっすらとしたグレーになった。オレンジ色の染料をそのまま塗ったら、どぎつくなったので、あわてて濃い緑を水でうんと薄めて上塗りしたら、複雑な色になった。この布も最初の写真の布もそれぞれ小さいので、この二枚を継ぎ合わせて、筒型にした。好みしだいで、どちらかの布の部分を前にしてスヌードとして使えそう。面白くなってきた。もっとやってみたいな。そうだ、古くなって、本来の白が黄ばんでしまったシルクスカーフがあるのを思い出した。古紙代わりに、引き出しの底に敷いておいたはず。探したら、やっぱりあった。古くさい刺繍が一角についているのも無視して、今回はグッタで模様を描かずに、いきなり色を流したり、無造作に色を混ぜて、塗り付けていった。古いスカーフにシルクペインティング posted by (C)solar08塗った直後は色が濃いめだったけれど、乾いたら、ちょっと草木染めのような柔らかな色に仕上がった。部分、部分で寒色だったり、暖色だったりするので、着ている物の色に合わせて、望みの部分が見えるように首に巻けるので、とても便利。古いシルクまだないかなあと思いめぐらしたら、やはり黄ばんだり、シミがついたりで着られなくなった白いブラウスがあった。赤と青の染料も新たに買ってきた。ダメでもともと、ようし、大胆に塗りたくってやろうと、赤を基調に奔放に(つまりはいい加減に)、思いのままに色をおとしていった。こちらが思いもしないところに、色がにじんでいって、輪郭のように濃い縁取りをつけたり、隣の色と混ざって、予想もしない色になったり、乾いたらちがった色だったりと、結果がわからないのが、エキサイティング。シルクブラウスにペインティング posted by (C)solar08写真で見るとおどろおどろしいし、実際にめちゃくちゃだけど、着てしまえば、もともとこういう模様のブラウスだったかのように見える(らしい。他人の意見)。もっとないかなあ、古いシルク(新しいシルクを高い金出して買う勇気はない)。着用することがない、無地のオレンジのスカーフでやってみようなか。紫のスカーフもタンスの底に眠っているぞ。色が乾かない内に、塩粒をまくと、塩がついた部分の染料が白っぽく滲んで、繊細な模様ができるらしい。これも試してみたい。シルクペインティングの良い所は、わたしのように不器用で絵心もない者でも楽しめてしまうこと。色が自分で動いてくれる。
2016/11/24
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とりたてて書くこともないまま、月日がどんどん過ぎ去っていく。ネタがないなら、書かないでおこうと思ったけれど、このプログでワタシの生存を確認してくれている方もいらっしゃるようなので、書いておきます。「まだ、なんとか生きてるよ」。とはいえ、先週は夜中に寝返りを打ったのをきっかけに、目眩に襲われた。これまでも、20年に一回ぐらい、朝立ち上がると天井がグルグル回って、まっすぐ歩けなくなるという症状を経験してきたけれど、毎回、一日で治った。一度は20年ぐらい前に娘とカナダを旅行しているときにケベックで起こって、その日に申し込んであったクジラウオッチングに娘を一人で行かせなければならなくなって、大いに心配したもんだ(自分の目眩じゃなくて、娘のことを)。でも、今回の目眩は寝返りと下向きにかがんだときだけに起こった。寝返りを打つ度に、背中の下がずーんと落ちて行くような感じで、吐き気も伴った。それなのに、ダンス講座を受けて、動き回っている間は快調そのもの、一度も目眩が起こらない。数日経っても治らないので、ホームドクターを訪ねた。わたしは内耳に石が入り込んだと自己診断していたのだけれど、彼は、わたしの肩や首がこちこちに凝っていることから、頸椎での血流が阻まれているからではないかと診断して、理学療法士の治療の処方箋を書いてくれた。理学療法士は市内に無数にあるのだけれど、近所はどこも満員で予約できない。やっと見つけた女性のところに30分歩いて出かけた。彼女の意見はわたしのと同じ、つまり内耳にクリスタルのかけら。これを治すには、ベッドにすわって、横向きにバタンと倒れるのをくりかえすと良いのだそう。でも、肩や首がパンパンに張っているのは確かなので、こちらが原因であることも考えて、首を前向き(下向き)に押す体操や、腕を大きく斜め上に広げるストレッチ体操も教えてくれた。両方とも、数回したけでも、体がほぐれて、血の流れが良くなるようで、爽快。マッサージもしてもらった。帰宅して、教えてもらった体操をチラホラしていたら、次の日には目眩は消えた。血の巡りの悪さだったのか、内耳の障害だったのか、わからないまま。理学療法士による治療は、あと数回、保険が効くので、安心だ。こういうことがあると、ワタシも本当は歳なんだと、自覚させられる。ほんのちょっとした目眩だけでも、何もする気になれないのだから、本格的な病気の方はどれほど苦しい思いをなさっていることだろう。そういう日もいずれワタシにも訪れる確率は高い。そういう状況になったとき、自分がいったいどんな反応をし、どんな姿勢で対処するのか、想像もつかない。あきらめてすぐに投げ出してしまう、というのが一番確率が高い。病気と闘おうという勇気はないのは確か。なんとか元気で、落ち葉掃きやダンスもチンタラできている現在の幸運に感謝、感謝。
2016/11/20
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最近、x回目の誕生日を迎えた。父が逝った年齢についに達してしまった。誕生日というのは、「また歳とった」となげく日なのか、「とにもかくにも、ここまで生きてこられたことに感謝」すべき日なのか。この歳になると、やっぱり後者だろう。もう、いつ死んでもいい、という気分にもなる。親に「わたしを生んで育ててくれて、ありがとう」と感謝すべき日なのだ、という人もあるが、育ててくれたことに感謝はしても、生んでくれたことをありがたく思うことは、正直いってあんまりない。子どものときから、「生まれて来たというのは、死にいたる電車に無理矢理のせられたようなものだ、終点には死だけが待っている」という意識につきまとわれているから。死そのものは怖くはないけれど、死にいたる過程を自分で選べないところが、怖い。途中下車することはできても、どこの駅も死でしかない。とはいえ、自分がアフリカでもなく、シリアでもなく、コロンビアやハイチでもない、恵まれた国に生まれ、しかも、第二次大戦と(おそらく起こるであろう次の)大戦やカタストロフの間に生きることができ、苦労もせずにノホホンと生きてこられたのは、ひたすら親のおかげだ。やっぱり親に感謝すべきだけれど、もう遅い。親にはもらうばかりだった。でも、親というのは子どもから何かをもらいたいとか、何かをしてもらいたいなどとは思わないのではないかしら。少なくともわたしは、自分の子どもからプレゼントをもらいたいとか、何かをして欲しいと思ったことは一度もない。娘の夫に窓ふきとバスタブ掃除をしてもらったことがあるけれど(恥)。とにもかくにも誕生日。ドイツでは誕生日はクリスマスと並んで、一年で一番たいせつな日。ただし、周囲に祝ってもらうというより、誕生日を迎える人自身が家族や友だちを招待するのが普通。幼稚園や職場などでも、誕生日を迎える子どもの親、誕生日を迎える人自身がその日にはケーキを焼いてもっていって、クラスの子どもたちや同僚に振る舞うことがある。もちろん、周囲の人がロウソクのともったケーキを用意して、本人を驚かせることもあるにはあるけれど。一般的には誕生日を本人が祝い、身近な周囲を招待することが期待されている節がある。そういう期待から逃れるために、旅行してしまった年もたびたびある。でも、今回は去年と同様に、身近な人を夕食に招待した。それでも、スペースの関係で、客の数を7人にしぼった。10年ぐらい前までは、立食式にして、20人以上は招待して、寝室を除く家のすべてを開放して、お客たちがどこでも食べられるようにしたこともあるけれど、こうすると、お客の知っている人どうしがかたまってしまって、スモールトークがかわされ、深い会話になることがなくて、なにか薄っぺらい感じがしないでもない。そもそも、こういうイベントを開催する気力や体力はないわ。お客(娘の義父母さん、悪友良友、BFの姉)はすべてドイツ人。今回は、彼らがふだん食べる機会がないものにした。例年はラムとかノロジカのローストをメインにするのだけれど。今回は中華と和食が中心。前菜は、BF姉(いつもおいしいワインやシャンペンをたくさん寄付してくれ、自分でもたっぷり飲む)のたっての要望で、エビ入り春巻き(これが一番手間がかかる)。メインはイベリコ豚のロースト、シーフード八宝菜、筑前煮、五目寿司、トマトのマリネ。デザートはパンナコッタとフルーツサラダ。筑前煮にはコンニャクや蓮根、五目寿司には金針菜(ハスの花の乾燥)など、ドイツ人が知らない食材をいくつかのアジアショップで買い集めてきた。コンニャクが買えるのはありがたい。トマトのマリネには、紫蘇の花穂を添えた。どの料理も、日本人にとっては日常的に食べる、ごくふつうのものなのだけれど、ドイツ人にとってはエキゾチックで特別なご馳走だったようで、大いに感激された。コンニャクとかハスは、味よりもどちらかというと質感を味わう食材なところも、彼らにとっては興味い体験だったようだ。わたしが個人的に気に入ったのは、イベリコ豚のロースト。値段が高いのが難だけれど、今回は思い切って、霜降り肩肉のブロックを1・6キロ買った。レシピは、AEGの日本のサイトで見つけたもの。AEGのコンベクションオーブンの宣伝と関連したレシピだろう。赤ワインでマリネしてから、焼き、焼き上がった肉に、ネギ・ショウガ・ニンニクを混ぜた、バルサミコ酢たっぷりのソースをかけてサービスする。酢の量の多さにぎょっとしたけれど、イベリコ豚の脂身のこってりを中和してくれて、酸っぱさも感じない。2時間近くかかって、じっくり焼き上げたイベリコ豚は、柔らかくてジューシーでとてもおいしかった。脂身が多い霜降り肉だったので、お客たちがいやがるのではないか(周囲のドイツ人たちはみんな、ハムやロース肉から脂の部分をいちいち取り除いて食べるほど、脂身をいやがる)と心配したけれど、イベリコ豚の脂身のうまさに誘惑されて、みんな食べていた。アハハ、脂の多さに気がつかなかったらしい。このレシピはAEGのよ、と言ったら、みんな驚いていた。「なんで、電気機器企業のサイトにレシピが載っているの?」と。AEG(ドイツの電気機器企業)が日本でイベリコ(つまりはスペインの)豚のレシピを出して、それをドイツにいる日本人が作って、それをドイツ人が食べているという巡り合わせが面白い。アルコールが飲めない人(元アルコール中毒で今はクリーンな人、運転をしなければならない人、元々飲めないわたし)のために、パッションフルーツジュース+紫蘇シロップ+水+レモンとライムの絞り汁を材料にしたノンアルコールカクテルを作った。これが意外においしかった。昨日、サルサダンスのレッスンに行ったら、先生(とても教えるのが上手な、すてきな若い女性)がぐぐっと近寄ってきて、いきなり私を抱きしめて、耳元で「おめでとう」とささやいたので、びっくりした。ダンス学校は、生徒たちの誕生日をいちいちチェックして、コンピュータのデータに入れて、毎回、教師が気がつけるようにしているようだ。銀行やデパートからも誕生日カードが届く。ドイツって、ほんとに誕生日が大切なんだな。でも、日本からも、息子が電話をくれ、弟からは、毎年おもしろい近況報告メールが届く。彼とはお互いの誕生日と正月だけ、メール交換をしている。こういう程度の付き合いがちょうど良いのかもしれない。
2016/10/12
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前回の続きを書こうと思っている内に、時間がどんどんたってしまった。何か特別なことをしたわけでもないし、忙しくもないのに、残された(たぶん)少ない日々がどんどん減っていく。おまけに、珍しいことに、理由もなく発熱して、数日間は元気がなかった。熱は下がったけれど、後遺症として食欲がなくなってしまった。料理やパン焼きはする気が起こるのに、食べたい気がしない。前はおいしい料理のことを考えただけで、食べたい気持ちが起こったのに、今はいささか逆、食べ物のことを考えると気持ちが悪くなりそう、、、。体重も減った(お腹は出たまま、体重だけが高校生の頃に戻った)。こんなことを書こうと思ったのではなくて、フィクションとノンフィクションのことについて思う事の続きを書きたかった。いろいろなプログを読んでいて、いつも思うのは、事実の重み。実際にどこかの誰かが体験したことは、たとえそれがどんな些細なことでも、どんな平凡なことでも、刺激がある、説得力がある。もし、小説の中で、プログに登場するような日常茶飯事や「こんなお料理ができた」「こういうパンを焼いた」といったことが細々書かれていても、たいていの場合は読者は退屈すると思う。ところが、実際に存在する人がプログで身の回りの体験を報告すると、それが奇怪でも大きな出来事でもなくても、引き込まれる。そして、次はどんなことを体験するのかな、どんなお料理を作るのかな、ご家族はどんなことをしているのかな、などと楽しみになる。これって、「覗き見」的な刺激なんだろうか。前にも書いたけれど、小説はどんなに感動的でも、エキサイティングでも、ホラーでも、終わってしまうと、夢を見たあとのような空虚感に襲われる。面白かったけれど、こんなことは実際には起こらなかったんだという、「がっかり感」。そんじゃあ、わたしも実際に体験した諸々の冒険を赤裸々に書けばいいじゃん、と意気込んでは見るけれど、ちょっと書いてみて、恥ずかしくなるんだなー。なんだか露出狂みたいでね。というわけで、キッチンをウロウロするだけで、日々は過ぎていく。
2016/10/07
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ドイツでは食料品はかなり安いのに、本と下着はやたらに高い。たとえば純生クリーム200mlは安いもの(十分おいしい)だと50円以下で買えるけれど、ハードカバーの小説は2000円から4000円、新書判になると1200円から1500円で買える。だから新刊の小説はすぐには買わずに、新書判になるまで二、三年待つ方が経済的ではある。それでも誘惑に勝てなくて、雑誌「シュピーゲル」の書評で誉められていた、新刊の小悦を二冊買ってしまった。一冊はドイツ人女性のもの、もう一冊はアイルランド人が書いた本(ドイツ語訳を購入)。前にも書いたことがあるけれど、読んでいる間はワクワク、ハラハラ、ドキドキし、話の展開を知りたくて、眠るのも忘れて読みつづけるくせに、最後の一文を読み終わったときに、いつも一瞬、むなしい気分を味わう。この話はすべて作り話なのだ。誰かがパソコンの前で、あるいは白い紙の前で、考え、考え、一つ一つの言葉を吟味し、想像力と創造力を投入して書いた、架空の話だったのだという事実を突きつけられる気分。それまで頭の中で生きていた登場人物たちの姿がかすんで消えていく。これらの登場人物は存在などしていないのだから。不思議なのは、本を読んでいる間、読み終わる前までは、登場人物はわたしの頭の中で生きているということ。テレビのドラマや映画も同じだ。わたしたちは、ドラマや映画が俳優によって演じられていると知っているのに、これらを見ている間は、まるで登場人物が本当に存在し、本当にドラマの中でのような生活をしているかのような錯覚に陥って、主人公の人生がどうなるかなど、本気で心配したり、同情したりしてしまう。ある時、撮影現場の風景を並行して見せながら、ドラマが進行する番組があった、つまり作り話であることを常に見せながら話が進んだのだが、それでも見ている者は、ドラマの成り行きにひたってしまう。どうやら、人間の頭は、目の前に見せられる光景や本などで読む話を、いわば反射的にそのまま認知する傾向があるようだ。「理性」が「これはフィクションだよ、嘘の話だよ」と知っていても、感性は目の前で演じられている光景や小説で描かれている出来事を、見せられるままに受け取ってしまうのだ。小説が「私小説」だったり、自伝的な小説とされている場合は、読後感のむなしさが少ない。読んだ話は作り話ではなくて、多少なりとも本当に誰かが経験したことだと思うと、安心したりして、、、。じゃあ、ノンフィクションとか自伝ばかり読めばよいではないかと思うけれど、実際には、目の前に新刊書、新しい作り話が並ぶと、どうしても読みたくなる。そういえば、知人(ドイツ人、日本人を問わず)の中には小説のようなフィクションはほとんど読まず、趣味の本とか実用書、ルポなど、ノンフィクションばかりを読む人もかなりいる。こういう人は最初から、フィクションの読後感のむなしさを知っているんだろうか。
2016/09/22
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スペルト麦ルヴァン種のバゲット posted by (C)solar08前回のサワー種バゲットが改良の余地ありありだったのと、サワー種から発展させたスペルト麦粉(日本でもドイツ語名のディンケルという言葉を使っている場合もあるみたい)のルヴァン種で、再度バゲットをつくってみた。あまり固くならないように、今回は全粒粉はほとんどやめてミネラル分がやや少なめのスペルト麦粉。それでも、クラストがとても厚く、カリッとなって、わたしのか弱い歯がこわれるかと心配になった。わずかなドライイーストを添加すれば、柔らかめになるんだろうけれど、変な意地がこれを許さない。ま、私一人が食べるんだから、いいの。パンへの添加と言えば、またしてもテレビでパンのさまざまな面を紹介する番組を見た。それによると、パン職人が焼く個人のパン屋にしろスーパーにしろ、ディスカウントショップにしろ、市販のパンの90%には、さまざまな添加物が含まれているんだって。そもそも、製粉所で売られている粉自体に、添加物が盛り込まれているそうだ。保存材、乳化剤、エンザイム(酵素)、、、、、パンテクノロジー研究によって、クラストをカリッとさせる添加物、見た目をブラウンにしておいしそうに見せる添加物、クラムをもっちり、ふんわりさせる添加物、日持ちを良くする、、、などがどんどん開発されている。だから、スーパーのすっごく安いパンも、それなりにおいしいし、見た目も「本物」なわけ。そして酵素、アミラーゼの「おかげで」、パンは何週間も腐らないんだって。添加用のアミラーゼ(わたしたちの唾液にも含まれている)は遺伝子操作から作られた生物から採られるとか、、、、。出来上がったパンにはアミラーゼの痕跡は残らないので、これが使われたかどうかは検査できないのだそう。だから酵素を使用したことの表示義務はないのだそう。ま、年寄りのわたしにはどうでもいいことだけれど、いろんな化学物質を添加したパンの方が見た目もかっこ良くておいしかったりしたら、がっかりするわね。わたしはライン川ほとりの製粉所から粉を買っているけれど、この粉には添加物がゼロなのか、今度確認しなければ。アンティパスティミスティのようなもの posted by (C)solar08冷蔵庫にあったズッキーニ、パプリカ、シャンピニオンと冷凍の殻つきエビにオリーブオイルと塩こしょうをふりかけて、オーヴンで焼いた。せっかくのエビなのに、なんだか味が物足りない。それで、ちょうど残っていたクリームチーズと自家製ドレッシング(タマネギ、マスタード大量、オリーブオイル、アセトバルサミコなどをミキサーにかけて作った)を半々にしてかけたら、とてもおいしくなった(写真の真ん中あたりの白いもの)。うーん、このソースはいける。クリームチーズの代わりにクレームフレッシュでも良いかもしれない。友だちの誕生パーティーに、エビのカクテルをもってきた人がいた。チコリの葉にのせた茹でエビに、オーロラソースみたいなのがかかっていて、とてもおいしかった。作った人に聞いたら、クレームフレッシュとケチャップを混ぜただけだって。ケチャップは買わない主義だったのだけれど、すぐに買って作ってみた。おいしい。身の回りのドイツ人が市販のマヨネーズを嫌うので、わたしもここ30年近く、買ったことがない。どうしても欲しいときには自分で作るけれど、日持ちが心配なので(なんといっても生卵だからね)、なかなか手がでない。でも、クレームフレッシュはマヨネーズの代用になる場合がある。クレームフレッシュはサワークリームのようなもの。半固形のクリーム(脂肪分は30%ぐらい)。クリームソース、スープ、カレーなどなどに入れることができて、とても便利。わたしにとってクレームフレッシュを使った一番簡単な料理は、魚をフライパンでオリーブで焼いてから、最後に白ワイン、クレームフレッシュ、醤油を入れて混ぜて、ちょっと煮て、レッドペッパーの粒を散らしたもの。「このソース、どうやって作ったの。複雑でおいしい」などと誉められる。あはは、インスタントよりも手抜きの料理なのに(写真なしですみません)。
2016/09/12
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何年も継いできたホップ種をついに断念した。2週間、留守にしている間に表面に白いものが浮かんでいたから。カビだといやだから、「断腸の思い」で捨てた。でも、ホップ種を新たに始める気力と忍耐力がない。これまでのは、だるまや。さんからいただいたのを玄米麹とジャガイモその他で継いできたもの。自分で一から始めるとしたら、5日間、毎日ジャガイモをつぶしたり、ホップ茶をつくったりして、徐々に育てていかなければならない。うー、そういう気にはなれない。だからと言って、毎週焼いているバゲットをドライイーストで作る気にもなれない。一方、10年近く継いできているライ麦サワー種の方は、いまだにカビが生えることもなく、コンタミネーションが起こることもなく、元気(作り方はこちら)。それで、ふと思い立って、継いだばかりのサワー種のほんの一部をスペルト麦の全粒粉と水と混ぜて一晩置いておいた。そうしたら、翌朝にはふっくらと膨らんでいた。ま、当然といえば当然だけれど。つまりは、スペルト麦のルヴァン種ができあがったということ(サワー種だって、つまりはルヴァン種と呼ぶことができると思うけどな)。このルヴァン種(適当量)にスペルト麦粉(適当量)、塩、水を混ぜて、30℃ぐらいのところに2時かンぐらい置いておいたら、この生地も膨らんだ。ルヴァン種が全粒粉だから、かなり茶色の生地。これをいつものように成形して焼いたら、まあまあのバゲットになった。ライ麦サワー種でつくったスペルト麦バゲット posted by (C)solar08全粒粉のせいで(?)、重々しいバゲット、クラストはかりっとして、バゲットっぽいけれど、クラムは相変わらず気泡がつまって(最高温度が230℃のオーヴンだから、いつもどおりオーヴンのせいにしておく)いる。ちょっと酸味もあるけれど、ジャムをつければ気にならない。このスペルト麦粉ルヴァン種もこれからは継いで(取り分けた適当量のルヴァン種にスペルト麦粉を足してホロホロの種にして冷蔵庫で保存)、今後はこれでバゲットを焼くことにしよっと。ライ麦サワー種+スペルト麦のドイツパン posted by (C)solar08サワー種の本来の目的はいつものドイツっぽいパン。サワー種(ライ麦全粒粉)、スペルト麦全粒粉、スペルト麦粉、これらの粉の量はそれぞれ3分の1ずつにルピヌス(葉団扇豆)の粗挽き、亜麻の種、ヒマワリの種、オートミールなどをミックスした。朝食は相も変わらず、このパン2枚にチーズとトマトマリネ、バゲット(今日からはルヴァンで焼く)5cm区画ぐらいに自家製ジャムとバター、コーヒー。どういうわけか、朝食だけは毎日同じものを食べてもちっとも飽きないし、毎回、ああ、なんておいしいんだろうと自己満足。
2016/09/05
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自家製柴漬け posted by (C)solar08もう夏が終わりそう。今年の夏は何もしなかった。ベルリンに行ったのと、2週間ぐらい続けてBFのフランスの田舎家にいって、両足と両脚をダニに刺されまくっただけ。それでも、広い庭の土の地面を歩き回るというのは体に良いみたいだ。フランスに行っている間は首の凝りも少なくて、腰もいたまなかった。家に戻ってパソコンの前にすわったとたんに、首の両側が痛み、10年以上前の50肩も再発しそう。家の中をちょっとウロウロしたり、町中のアスファルトの道路を1時間ぐらい歩き回る程度では、運動が足りないし、コンクリートやアスファルトの地面を歩くのは不自然なのかもしれない。今年は去年のようなプルーンや杏の梅干しも、プルーンの梅酒風も作らなかった。梅干しがすっかりまだ残っているから(それはそうだよな。米を食べる機会があまりないのだから)。ベランダの紫蘇(プランターに落ちた昨年の紫蘇の実から自生)は、いまや赤しそと青じその間みたいな色になってしまったが、それでももったいないので、収穫してゆかりだけを作った。収穫したのに、まだまだ葉が生えてきたので、柴漬けのようなものを作った。こちらのナスは米ナスみたいにでっかくて、皮が固い。だから皮をむいてから切って、塩水につけて灰汁抜き。キュウリもでっかくて長い。ナス、キュウリ、ショウガ(ミョウガはまだ咲かないのでなし)を塩と混ぜて、酢を足して、重しをして三日間。レシピどおりに発酵して、泡がたってきた。水をすて、野菜を搾ってから、酢とみりんと混ぜて、ビンに入れてできあがり。でもね、今回はちょっと塩辛くなってしまった。前回は塩少なめで混ぜて数時間だけ漬け、水気をしぼって酢とみりんと混ぜた。こちらの方が食べやすい。いずれにしろ、おいしいわ。自分で作った柴漬けの方が買ったものよりも、おいしいような気がする。
2016/09/01
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日本でもポケモンGoがリリースされたそうですね。今日、こちらの新聞に載っていた「ポケモン関係、おかしなニュース」。ある男性が野外で(って当然か)ポケスポットを探している内に、トイレに行きたくなったそうな。けれども、トイレまで行っている間に取り損ねるポケがどれだけありかを想像して、トイレにわざわざ行くのがもったいなくて、道ばたに止めてあった友だちのクルマにおしっこをひっかけたんだって。その友だちは当然ながら怒って、警察沙汰になったそう。ポケモン探しは相変わらず続いているドイツでは、一方では若い男性の拳銃乱射で9人の方が亡くなったり、先週は鉄道内で難民少年が刃物をふりまわしたりと、メディアでの話題はもっぱらテロや無差別殺戮。今回の拳銃乱射をした男性が、数年前に起こった高校生の乱射事件(生徒や先生を何人も射殺してから自殺した)を「見習った」ということで、あの事件を事細かに伝えたり、犠牲者の家族にくわしいインタビューした番組もあった。さらには、ちょうど5年前の7月ににノルウエーで起こった右翼男性の連続テロも、今回のモデルだったということで、ラジオでは数日前、一日中といってよいほど、この事件を扱うニュースが多かった。こういうメディアの反応、あるショッキングな事件が起こるとそればかり伝えることには疑問を感じる。こういう大きな反応は、まさにこういう行為をする(したい)人やテロリストが目ざすことなのではないか。不幸でひとりぼっちで、仲間はずれで、希望も生きる意味ももてなくて、死にたくて、どうせ死ぬなら他人も巻き添えにしたい、と思う人は、どうせするなら、世間やメディアをあっと言わせ、一瞬でも世間の的になってから死んでやろう、などと思うかもしれない。また、テロ集団は、テレビや新聞やインターネットが彼らの行為におののき、騒いでくれれば、まさに思うつぼのはずだ。もしかして、世間やメディアが大騒ぎしたり、恐怖を表には出さず、こうした行為を「無視」したら、テロリストは「え、反応してくれないの」とがっかりして、この方法はとらないかもしれない。報道は大切ではあるけれど、それによって政治や制度や社会が改善されるような方向に向けた報道以外の、余計な(たとえば、被害者の涙を見せたり、「今、どのようなお気持ちですか」みたいな、心のプライベートな空間を無視するだけで視聴者や社会には何の役にも立たないようなインタビュー)、ただ視聴者の好奇心を満たすためだけの報道は何も意味がない。そもそも、テロや乱射事件に出会う確率、それで死ぬ確率は、自動車事故や病院感染、手術ミスで死ぬ確率よりも、はるかに少ない。わたしはアウトバーンや国道を自動車で走る(って自分ではドライブできないから、助手席で)とき、「本当に本気で」いつも怖い。交通事故の死亡者は減ったとはいえ、今でも一年に3400人余りの人が亡くなっている。病院に対してわたしが持つ恐怖感はもっと大きい。ドイツで一年間に病院感染(抗生物質が聞かないマルチ耐性菌などの感染)で死ぬ人は4万人だそうで、手術や治療ミスで死ぬ人も19000人だとか。それなのに、こういう報告書が発表された翌日にメディアでちょっと騒がれるだけで、すぐにこういうニュースは忘れられる。本当は、こういうニュースこそ、一日中ラジオやテレビで問題視され、討論やインタビューすべきなのに。なぜテロや乱射事件だと大騒ぎされ、市民が実際に恐怖を感じる(らしい)のに、もっと死亡確率がはるかに高くて現実的に恐ろしいこうした事件は大きく扱われないのだろう。本当は、病院の衛生の抜本的な改善(それには金がかかるんだそうで、病院は尻込み、そんな無責任なことがあっていいんだろうか)とか家畜の大量飼育における抗生物質の激減(マルチ耐性菌が増えないように)が必要なのに、数万人の無駄な死は、政治からもメディアからも、ほとんど無視されているとしか見えない。テロや乱射事件でご家族を失った方には、もちろん深く同情を禁じ得ない(とくに、子どもや孫を失った方はどれほど辛いかと思う)。それと同じほどの同情を、自動車事故や病院事故でご家族を失った方にも感じる。どちらも無駄な死なのだから、わたし個人は病院事故や感染の方がずっと怖い。だから、もし大病になっても、病院には行きたくない。メリットとデメリットの確率をどうやってくらべたらいいのかな。
2016/07/25
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先週から、新聞でもテレビでも、まじめな雑誌でも、ポケモンゴーなるスマートフォン用ゲームが話題になっている。アメリカでリリースされた途端に、市民の何割かがダウンロードしたとか、子どもや若者がスマートフォンもって、外出するようになったとか。そして、数日前にはドイツでも出された。ダウンロードは無料だから、みんなすぐに手が出せるのかな。ちまたはスマートフォンもって町の要所要所を訪れる人でいっぱいとか。モンスターボールが学校の校庭にもあったと、ある高校生が教えてくれた。彼は学校の長い休み時間中に、中央駅までわざわざ行くのだそうだ。駅付近にはポケストップがたくさん集中しているから。ナチのホロコーストの記念碑があるところにまで、ポケストップがあったそうで、人々がスマートフォンもって押し寄せるので、苦情というか批判が出て、それはなくなったとか、、、。ああ、任天堂の株を買っとけばよかった。50%増だって。驚いたのは、半分は日本製であるこのポケモンゲームが日本ではまだ出されていないということ。え?本当?なんで?まあ、わたしにはどっちでもいいけど。長い人生でまだ一度もコンピュータゲームをしたことがないし、そもそもスマートフォンももってない。いまだに持っている原始的な携帯は15年前に買ったもの。電話をかけるのとショートメッセージしか出来ない、「純粋な」携帯なので、かえって使い安い。こんなアンチークな携帯電話をもっている人は、世の中にいないだろう。タッチスクリーンなんてないもんね。スマートフォンとタブレットの中間みたいなものも一度は買ってみたけれど、大きすぎて電話として使いにくいので、やめてしまった。そもそも、旅行中はインターネットもEメールもみないし、ふだんはほとんど家にいるのだから、こういう機械は必要がない。それにしても、ポケモンを発明した人(日本人の名前が雑誌「シュピーゲル」に出ていた)は、やったねー。でもね、世の中、日に日に恐ろしい事態が起きているのに、みんな呑気だな。ポケストップが集中しているような名所、ホットスポットって人間が集まるから怖くない?ま、そんなこと心配していたら、今の世の中、楽しく生きていけないかもね。
2016/07/17
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UEFA欧州選手権(って日本語では言うんだな、こっちでは単にEMって呼ばれてる)が進行中。テレビの通常の番組がこのために大幅に変更されちゃうし、ドイツチームの試合がある日は道路が空っぽになり、大型のテレビスクリーンを置く野外カフェや飲み屋はどこもいっぱい。準々決勝があったときにはザールブリュッケンという町にいたのだが、ドイツチームが勝ったとたんに町中はコルソ(警笛を成らしながら車を走らせる)でうるさい。15分ぐらいで収まるかと思ったら、1時間たってもまだプープー鳴らして走ってるやつがいる。準々決勝ぐらいで、こんなにはしゃいでいいんかい?しかも、自分自身が闘ったわけでもないくせに、まるで自分の成果のようにはしゃく子どもっぽさは、男性特有なのかな。サッカーのファンを見ていていつも思うが、女性のファンもますます増えてはいるとはいえ、とくに男性のファンの行動はとても子どもっぽい。喜び方、応援のしかた、騒ぎ方、、、、、男性はおとなになっても子どもの属性をたくさん保っているのかもしれない。女性は(実際はともかく、理論的には)子孫を生み育てなければならないから、子どもっぽさを早くに捨てなければならないんだ。いい歳したオッサンがレストランで、テレビの試合を見ながら、ゴールが決まったわけでもないのに、応援チームのちょっとした成功があるたびに、ラッパの代わりに植物のみずさしを吹き鳴らしていた。ユーモアだと思っているらしかった。準決勝の対イタリア戦が始まる前、近所のキオスクではおばさんとお客の間でこの試合が話題になっていた。最初の客におばさんはドイツ国旗の小さなシールみたいなのをあげていた。次の客(明らかに本物のドイツ人女性)はおばさんに「わたしが応援するのはウエールズとアイスランドよ。この二国に決勝まで勝ち残ってほしいわ。ドイツには勝ってほしくない。あの傲慢さが我慢でいないわ」ときっぱり言っていた。なるほどな。わたしもこれを望みたい。ドイツは2年前にワールドカップで優勝したことで、かなりいい気になっている。試合ではかなりモタモタするくせに。高い金で買われているスター選手いっぱいのドイツチームよりも、無名のおじさん選手がいっしょうけんめいプレーしているアイスランドの方がシンパシーを感じる。イタリア戦があった晩、テレビで試合は見ずに、別の映画を見ていた。それでも時々、チャンネルを変えてチラホラ経過をうかがっていたら、なかなか結果が決まらない。ドイツが負けたら、ちょっと面白いことになるなあ、なんて密かに望んでいたんだけれど、ドイツチームってワールドカップでもそうだったけれど、運がすっごくいいのよね。結局勝ってしまったじゃないの。フライブルクでは長時間の車のコルソはなかった。ここの市民は冷静なんだ。残念ながら、アイスランドはフランスに負けてしまった。あー。残念。サッカー戦に関連して思うのだけれど、わたしのアイデンティティーってなんだろな。そもそも、アイデンティティーという言葉は複雑だ。辞書には「自己同一視」という訳語が書かれているけれど、この言葉ですぐに感覚としてピンとくる人って少ないんじゃないかな。アイデンティティーというのは、「あー、わたしってやっぱり日本人なんだ」とか「わたしはいかにも江戸っ子だは」とか「わたしは何々家の人間らしく生きている」とか「わたしは女性」といったような自覚、自己の帰属意識といったら良いかもしれない。わたしの国籍は今はドイツだ。30年もいるから、考え方や物腰もかなりドイツ的かもしれない。でも、一方では冷めた目でドイツ社会を観察している自分がいて、そのときのわたしのアイデンティティーは「ドイツで生活するガイジン」だ。じゃあ、日本人としてのアイデンティティーがあるかというと、日本のメンタリティー、国民性、心情は外からでもよくわかるし、和食に関連した部分ではおおいにアイデンティティーありなんだけれど、日本人としての自覚みたいなものはない。関心はたくさんあるので、現在のような社会情勢や政治情勢にいささか心配になるとしても、つまりは外からの傍観者でしかない。だって税金払うのもドイツ、選挙もドイツだから、責任や義務もこちらの国にあるしね。そんなことを考えていて、気がついたけど、そもそも自分には帰属意識が薄い。自分の家族への帰属意識もなかったかもしれない。林間学校でホームシックになったこともないし(家から離れてせいせいした気分だった、林間学校が楽しかったわけではないのに、だって友だちがいなかったしな)、よその家に泊まって家が恋しくなったこともない。だからホームシックというのがどういう感情なのかもわからなかった。ドイツに留学したときも日本に帰りたいとかいった、ホームシックは経験しなかった。それなのに、当市からいったん日本に帰ったときに、はじめてホームシックにかかった。涙を流して「フライブルクに戻りたい」とダダをこねた。別にこちらにいる特別の人間が恋しかったのではなく、この町、この社会、この雰囲気に戻りたかった。そして、実際に戻ってしまって、永住を決めてしまった。ということは、わたしのアイデンティティーはこの町の社会にあるのかな。たしかに、サッカーのブンデスリーガでも、SCフライブルクに勝ってほしい。ドイツのナショナルチームに勝ってほしい気持ちよりも、SCフライブルクにブンデスリーガで勝って欲しい気持ちの方が強い。この度、第二リーグからま第一リーグに再昇進して戻ってきて、ほんとにほっとしたもんな。サッカーファンでもないのだから、この気持ちはひとえにこの町とのアイデンティティーのせいなのだろう。冷めた気持ちで考えれば、これも一方的だ。わたしがいくらこの町やこの国にアイデンティティーを感じても、相手側はわたしをフライブルク人とかドイツ人とはまずは見ないだろうし、、、。それでも、いつも驚くのだが、スーパーなどで、ドイツ人のおばあさんなどが、「目が悪くて読めないんだけれど、ここに何て書いてあるの」とか「これは何」とか聞いてくることがよくあるし、町を歩いていて、ドイツ人に道を尋ねられることもよくある。外見がガイジンかどうかなど気にしないで、同国人に対するように対応する市民がほとんどなのは、とても気持ちがよい。ドイツで生まれ育ち、自分としてはドイツ人のアイデンティティーがあるトルコ人などがよく、「ドイツ人から『あなたドイツ語がうまいですね』と言われるとカチンとくる」と言う。その気持ちもわからないではない。自分としては生まれも育ちもドイツ人のつもりなのに、自分のドイツ語を誉められることで「あなたはドイツ人ではなくて、ドイツ語がうまいガイジンなんだよ」と釘を刺されるような気分になるのだ。相手に悪気はなかったにしても。外見もドイツのドイツ人にむかって「あなたドイツ語がうまいですね」とは誰もいわないもんね。わたしは心のどこかでこう思っている。アイデンティティーなんていらないんだと。自分は自分、ただの人間でしかない。何人かだとか、女性か男性かだとか、敢えて決めつける必要はないんだと。
2016/07/04
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家の近くのエコショップでサヤエンドウの種を買った。食料品が怖いほど安いドイツにあって、サヤエンドウは高い。あんまり作らないから輸入品に頼っているのかな。ほんの一握りが300円以上もすると、買う気にはならない。ちょっとした彩りに欲しくなるときがあるんだけどね。それで、エコショップで種を見かけたとき、ほんの出来心で買ってしまった。もうベランダの床(木なので、湿気でくさりそう)には植木をおかないと決心して、今年はミニトマトの苗も買わなかったのに。でもって、寝室の窓のすぐ外に大きな鉢を置いて、そこにまいてみた。まあ、ベランダの手すりにかけたプランターやベランダのテーブルの上の植木鉢にもまいたけど。毎朝、目を覚まして窓を開けると、最初に目に入るのが、サヤエンドウの苗。大小の鉢に植えてわかったこと。土が深いほど、エンドウの苗もすくすく上に延びる。前年に育てたミニトマトの苗の「枯れ木」をそのまま残しておいたら、これにからみついてグングン育つ。普通の支柱では、エンドウにとっては太すぎるらしくて、なかなかからみつかない。大きな草の葉(表面に毛が生えていて、つかまりやすい)には喜んでからみついた。窓辺に育つサヤエンドウ posted by (C)solar08この二週間以上、雨ばかりが続いて、各地ですごい被害があった。当地はそこまではいかなかったけれど、毎日、雨ばかり。だから、サヤエンドウにとっても苦難の日々であったようで、一部の苗はほんの数センチしか育ってないのに、すぐに花をさかせ、すぐに実をつけ、さやが大きくならないまま、枯れたり、しぼんだ。そうだった、植物は苦しくなると花をつけるんだったっけね。死にそうになると、死にものぐるいで子孫を残そうとするってわけね。土の深さが足りなかったためか、雨のためか、栄養のためか、原因はわからないけれど、全体としては、すくすくと育たなかった苗には早々にミニサヤエンドウがついて、早々に苗はご臨終。雨にもまけず、風にもまけずに育った苗には、まともな形のサヤエンドウがついた。毎日、日に何度も、窓辺に出かけては、鞘が大きくなるのを見守る。いいね、窓辺っていうのは、目の前だから、細かいことが手にとるようにわかる。アブラムシの集中攻撃にも負けずに鞘をぶらさげている姿。小さなアリが蔓に集まっているのは、アブラムシの出す甘い汁を目当てになのかな。今日は二度目の収穫をした。上の写真のは、それの一部だけ。窓辺で収穫したサヤエンドウ posted by (C)solar08窓辺とベランダの何本かの苗から合わせて100g以上収穫した。これで種(豆)代の元はとれた。あとの収穫は儲けというわけだ。やれやれ。
2016/06/16
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DSC03873 posted by (C)solar08朝起きて、寝ぼけ眼でキッチンに行って、テーブルのバラが目に入ると、気分が明るくなる。ふだん、切り花を買うことはまれなので、たまにこういう状況にあると、ちょっと幸せ。このバラはどれも、自分で庭に植えたもの。一番右の黄色のバラは、元の木はBFのフランスの庭で、甘い香りを放つ花をたくさん咲かせる。そのバラの枝を挿し木して、家の庭で育てた。けれど、家の庭の土は肥沃ではないのと、土の相性が悪いのか、いつまでたっても横に大きくはならず、ただただ背が高くなるばかり。花も二、三個しか咲かない。その代わり、一つの花の大きさが元の木よりもずっと大きい。色も少しオレンジがかっているのが不思議。真ん中向こうのオレンジ色のバラは、十年前に青空市で買ったものを、挿し木でふやしたもの。これも、庭におろしたら、なかなか育たなかった。周囲に大きな木があって、日当りが今ひとつなのと、やはり土が問題なのかもしれない。これも、元のバラは鮮やかなピンクがかった赤だったのが、オレンジ色に変わってしまった。不思議、不思議。一番左のピンクのバラの木は、最初からやけに元気がいい。土や立地の相性が良かったのか、植えたとたんにグングン伸び、大きく枝も広がって、蕾をたくさんつけている。同じ場所に育っているのに、隣のバラと、成長の仕方がこれだけ違う(広がりにして10倍の違い)というのがおもしろい。手前の白くて、控えめな白バラは「白雪姫」という名をもつ。このバラだけはホームセンターで買ったもの。でも、こういう小さめのバラは、あんまり好きではない。でも、華やかなバラに囲まれると、この控えめな白がすがすがしさをもたらしてくれて、好きになりそう。その手前の小さなピンクは、買って鉢植えで数年おいてから、フランスの庭におろしたら、周囲の雑草に押し寄せられて息を詰まらせていたので、掘り起こしてまた鉢植えでベランダに置いている、ブッシュ(大きくならない)バラ。「飼い主」から、「可哀相だから、置いてやるよ」という待遇を受けているだけだけど、死にそうでしなないシブとさがあるみたいで、花の持ちがやけに長い(10日以上)。華麗な大きなバラが数日で散ってしまうのとは大違い。次の日の朝(つまりは今朝)は、オレンジ色のバラは少し大きく広がっていた。蕾も少し膨らんで赤みがかっている。DSC03875 posted by (C)solar08Macの前に座っている以外の時間はほとんどキッチンで過ごすので、このバラたちとつき合う時間がとても長い。目と心をなごませてくれるんだね、バラ(というか植物)は。花がしおれたら、大きな枝はまた挿し木にしてみよっと(庭の挿し木でついたバラの数、4本)。フラワーセンターで売り物にならないらしい(枝ほとんどゼロ)バラの苗を元の値段の3分の1で買ってきた。ベランダの鉢に植えて、毎日、芽(シュート)の様子を見ている。こうやって情けない状態の植物を元気にするのも、おもしろい。未来があるからかな。そういえば、バラの花も、蕾を見るのが好きだ。これから花になろうっていう、人間で言えば18ぐらいの若者かな。満開の花は、すぐに盛りを過ぎて、後は朽ち果てるばかりだから、死を予感させるからか、あんまり好きではない。わたし自身は盛りなんて、大昔のことで(そもそも盛りがあったのかどうかもわかんない。子育てで終わったからな)、もう朽ち果てもいいところ。朽ち果てのプロセスの時間がこんなに長いなんて!!
2016/05/27
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どこかで聞いたり読んだりした発言、誰かがなにげなく言った言葉が、頭のどこかにいつまでもこびりついている。大事なことは忘れるし、大切な言葉もとんと浮かばないし、思い出のほとんどすら、もはや忘却の彼方にかすんでしまっているというのに、いくつかの言葉だけが肌のシミのように、いつまでの残っている。その一つが大昔、三十年以上も前に、藤本義一という人、あるいは彼の奥様が雑誌のインタビューで言ったこと。彼(または奥様)は「忙しい、忙しい」と言わないようにしている。彼によると、「わたし、忙しくって」という人は、そう言うことで、さも自分が勤勉だったり、重要だったりしているような気分になるのではないかという。なるほどね、たしかにそういう面があるわ。彼は、「忙しい」と周囲に言うと、周囲に無意識に心の負担をあたえるので、たとえ本当に忙しくても、口に出して「忙しい」とは言わないのだそうだ。この文を読んでいらい、わたしも「忙しい」と他人に言うことはなくなった。まあね、実際、忙しいと思うことはほとんどないんだけど。たとえ、することがたくさんあっても、忙しいという感覚ではなくて、「あれをしてから、これをして、そのあとあれをしよう。これとこれとは後回し」という感覚。そもそも、他人に「わたし忙しいの」なんて、言う必要はない。藤本氏が言ったとおり、「忙しい」と他人に言うことで、知らず知らずにネガティブな気分を与えてしまうことはあるだろう。もう一つ、心にとまった言葉は、インドでのこと。事の背景は話せば長くなる。今から10年前、友だち夫婦(夫ドイツ人、妻日本人)のご子息がロンドン在住のインド女性と結婚することになって、結婚式をインド(ラジスターン州の町)で盛大に(数日かけて!)あげることになった。お嫁さんのご両親もロンドン在住だったが、親戚その他が山ほどインドにいるので、お嫁さん側のお客は何百人にもなる。それで、ドイツ・日本側のお客の数をせめて20人ぐらいにはするために、わたしたちもかり出された(というか、結婚式出席にひっかけて、数週間のインド旅行をした)。で、結婚式が行なわれる町(お嫁さんの実家がある町)の駅にドイツ側からの出席者数人といっしょに到着したときのこと。お嫁さんの妹(イギリスで学業を終えて戻っていた)が下働きの男性たちを引き連れて、わたしたちを出迎えてくれた。下働きの男性たちは、わたしたちのスーツケースなどの荷物を運ぶため。インドは下働きと上働き、その中間などなど、階層がかなりはっきり区別されていて、ショックを受ける。で、この若い女性(新婦の妹)がわたしたちを出迎えたときに、友人夫婦(新郎の両親)に言った一言がいまだに、彼女のきれいな微笑み顔といっしょにしみついている。「ストレスいっぱいなの」の一言。どうして、これが頭に残ったのだろう。たぶんだけれど、その瞬間に、この言葉とそれを発した人の状況と、下働きの貧しそうな男性たちの姿、駅の状況、ひいてはインドの一般状況(道路で暮らす大量の人々、観光地で目の当たりにする貧富の大きな差などなど)との間に違和感を感じたからなんだろうな。このやさしくてきれいで、若い恵まれたお嬢さん(お父様と同じく医学を学んだ)がインドの駅で「ストレスで大変」と笑みを浮かべながら言うと、なんだかブラックユーモアみたいに聞こえる。友人(新郎の父親、とても穏やかなドイツ人)は息子の小姑になる、この女性にやさしく「それはたいへんだね」と言葉をかけていた。この出来事があっていらい、わたしは「ストレス」なるものに、懐疑的になってしまった。ストレスってなんだ?少なくとも、わたしは自分では「ストレスがたまる」などと周囲に向かっては言わないようにしている。ま、実際、能天気だから、ストレス感じないからだけど。たしかに、娘の会社での働かせられ方を見ていると(下っ端なのに、会社の引っ越しを少ない予算で一人で実行しなければならなかった。しかも本来の役目の傍らで)、ストレス過剰で倒れるんじゃないかと心配になるから、ストレスが実際に存在するのはわかる。本来は動物である人間が、これだけ自然から離れて、コンクリートの中で一日中コンピュータの画面に向かっていたら、それだけでもストレスになるだろうし。ほかにも頭にこびりついている、何気ない言葉があるはず、これから思い起こしてみよっと。
2016/05/13
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葉っぱから餡子まで、手作り桜餅 posted by (C)solar08二週間前の土曜日も雨だった。雨の中をトボトボと15分くらい歩いて、住宅地内の小さな小道に出かけた。ここに八重桜がたくさんあることを突き止めていたからだ。ここの八重桜の樹は背が低目だから、わたしでも葉が採れるかもしれない。と思ったのは軽はずみで、手が届く所には葉はなかった。見回したら、ある集合住宅の庭の隅の大きな八重桜は低いところからも枝を伸ばしている。集合住宅なので庭はオープン。あたりに人影がない(雨だもんね)のを確かめてから、すっと入って、低い枝から葉をすばやく採った。ついでに、花も。残念ながら花も満開で、しおらしい蕾から開き立ての若い花はほとんどなかった。でも、ぜいたくは言ってられない。誰にもあやしまれない内に退散しなければ。そういえば、この住宅の隣の建物は、大昔、留学生としてここに来たときに最初に住んだ私設学生寮だった。三階の角の部屋。今は隣りに高級住宅がたくさん建っているけれど、わたしがここに住んだときには、高級住宅があった土地は石炭置き場だった。毎日、窓から目の前の暗い石炭置き場を眺めては、「なんでこんな寂しいところに来ちゃったんだろう」とため息をついていたっけ。まさか、ここが永住の町になろうとは、あの頃は思わなかった。寂しい町なんかじゃないの。桜の葉っぱに熱湯をかけてから、塩漬けした。花も塩漬け。花の方が葉よりもずっと香りが強いこともわかった。それから二週間後の土曜日、この八重桜より手前の広場で開かれている青空市に行った。昔、インタビューしたことがあるエコ農業のミヒャエルのスタンドで、つやつやしたカブを見つけた(日本と同じ品種はたまにしか手に入らない)。「トーキョー」という名の品種。一本(一束じゃなくて、一個)150円以上だって。高いとは思ったけれど、二本買って来た。葉っぱがとっても新鮮でおいしそう。隣のシュタイナー農業のスタンドでは、ぶっとくて短い練馬大根があったので、これも買った。カブの葉は茹でて一部はみそ汁に入れ、残りはそのまま、カブは刻み昆布といっしょに甘酢づけ、大根の葉は刻んで熱湯をかけて塩でもんで、炊きたてのご飯に混ぜた。大根おろしも作って、卵焼きに添えた。ささやかランチ posted by (C)solar08ささやかだけど、こういうランチが一番おいしい。肉のローストとか赤ワイン煮とかもいいけれど、究極的にはこういう野菜いっぱい、油なしのご飯がおいしい。午後は、さっき行った青空市の場所で開かれるフリーマーケットに出かけた。最初のスタンドでアンチークのお皿のセットを眺めていたら、そのスタンドを出している「おばさん」から「ミーネコ」と呼ばれた。よくよくその顔を見たら、あらあら30年も前から知っている友だちだった。昔はすらっとしていたのが、横に倍増していたから、彼女だとはわからなかったんだ。彼女の出産後に一度だけ見た赤ちゃんは、もう16才の若者になっているって。時のたつのは速すぎる。共通の友だち二人がもう他界してしまった。「でも、わたしたちはまだしっかり生きているのよ」とほがらかに笑う彼女は、長い間やっていたB&Bができなくなって、今はその日暮らしなんだそうだけれど、わたしよりも明るい。フリーマーケットのあるスタンドで、日本の煎茶のセットを見つけた。「これ古いの?」とスタンドの女性に聞いたら、半年前にご主人が日本に行って、持って帰ったものだそう。きっと取引先などからお土産にもらったのかもしれない。「高いらしいけれど、わたしはお茶は飲まないから」とのことで、5ユーロ(650円ぐらい)でいいというので、すぐさま買ってきた。前の晩につけておいた小豆を煮て、餡子をつくった。またも雨の日曜日、白玉粉(というかもち米の粉)と小麦粉を混ぜて、白く焼いて(桜の花の塩漬けそのせた)、餡子をくるんで、塩抜きした桜の葉で巻いた。フリーマーケットのお茶 posted by (C)solar08白玉粉の割合が多かったためか、とってもモチモチの桜餅になった。葉はかなり苦い。熱湯で1分ぐらい煮ればいいのかな。でももっと香りが飛んでしまいそうな気がする。香りはほのかだけれど、それなりに桜餅。同時につくった練りようかん(のつもり)は単なる水ようかんになってしまった。あー。
2016/05/01
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自家製ウスターソース posted by (C)solar08子牛のロースト用に人参、タマネギ、セロリなどをワインで煮て漉して、ブラウンソースを作った。こういうとき、いつも「もったいない」と思うのは、大量に出る野菜のカス。野菜を煮たかす posted by (C)solar08食物繊維がたっぷりだし、そもそも食べられるものを捨てるというのが、気に入らない。何かの料理のフィリングにしようかしら、それともシチューに混ぜ込む?でもな、味がもう抜けているかも。前に日本のネットで見た、自家製ウスターソースを思い出した。で、この野菜のカスにトマトペーストやトマトケチャップ、カルダモン、ショウガ、クローブ、コリアンダーの実その他のスパイスを入れて、グツグツ煮た。ちょっと残っていた、そばの汁の出汁の残りも入れてしまった。不思議なことに、なんとなくウスターソースっぽい香りがただよう。ウスターソースっぽい香りって、どのスパイスが決め手なのか、わからない。カルダモンかな。このままでもいいらしいけれど、あまりに食物繊維がいっぱいなので、またしても網の目の細かいザルで漉した。漉すだけでも30分以上かかる、フーッ。今回は野菜カスは捨てた。二度使ったんだから、いいよね。なんとなくウスターソースっぽいものが、できたぞ。自家製ウスターソース posted by (C)solar08本当はこれをもっと煮詰めると、トンカツソースみたいなドロドロソースになるらしいけれど、もうここでストップ。ビンに詰めたら、たった300mlぐらいにしかならなかった。味も匂いも、かなりウスターソースっぽい。このソース、とっても便利。トンカツやお好み焼きにかけるだけでなく、肉料理のブラウンソースの味にパンチを効かせることもできるし、サワークリームと混ぜて、魚料理にかけたら、とてもおしゃれな味になった。市販のウスターソースより味が複雑なので、使い道も多様かもしれない。どれだけ冷蔵庫の中で日持ちするか不安なので、時々出しては沸騰させて使っている。市販のソースは室温で数年たっても黴びなかった。あれは一体?
2016/04/20
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桜は満開、コブシは散り始め、ツツジもそここで咲いている。お天気は今ひとつ冴えないけれど、春はきているらしい。寝室の窓の目の前に枝を広げている街路樹のカエデも新芽を吹いている。シジュウカラやフィンチが声をきそって囀って、にぎやか。いいな、こういう瞬間をあと何年、楽しませてもらえるんだろう。カエデの薄緑色の新芽を見て、思い出した。「国策」に合わないことをして、独房に入れられたある方が書いた本のことを。刑務所に閉じ込められていると、見えるものはコンクリートばかりなのだそうだ。一つだけ目を癒してくれる「自然」は階段だか廊下にある、たった一本の観葉植物だそうだ。独房からどこかに移動するときに、この観葉植物の緑を目にすることが、楽しみだったとその方は書かれていた(と記憶している)。この本のほとんどは忘れてしまったけれど、この部分がとても印象に残った。この方が観葉植物を目にして、心いっぱいに吸い込もうとするのは、たぶん、山を歩いて喉が乾ききって、やっと清流にたどりついて水を飲むときのような気持ちなのではないかと。わたしも街路樹の新芽を見ると、喉がうるおされるような想いがする。刑務所生活に関してもう一つ印象に残っているのは、この方の本だったか、別のやはり「国策」と合わないことをして刑務所に入れられた学者が書いた本だったか忘れたけれど、刑務所暮らしでのただ一つの楽しみは、毎日の食事だということ。そして、甘い物にものすごく感激した、甘いお菓子が楽しみだったと著者は書いていた。甘味というのはとても魅力的だ。すぐに燃えてエネルギー源になるから、自然と体が欲しがるようにできているのだろう。BFは2才のときに、旧ソ連領から雪の中をさまよい、空から攻撃がくる中を、何年もかかって逃げてきた(そういう運命になったのは、もちろんナチがしたことが悪いし、ドイツ軍自身が自国の市民の逃亡を阻止したという経過もある。自分たちが先に逃げた)。逃亡中はいつも空腹で、おがくず入りスープまで食べて飢えをしのいだそうだ(おがくずにしみこんでいた機械油の匂いがしたそうだ)。あるとき、草原で集めたスイバを、母親がどこかの村の青空市で売るのに付き添っていたとき、BFはよその人がリンゴを食べて、その芯を地面に捨てたのを目にした。すかさずBFは、そのリンゴの芯にかけよって、拾って食べたのだそうだ。その瞬間に口いっぱに広がる甘味への感激は、今でも忘れられないそうだ。ちょっとした甘味、小さな緑。ふだん、当然のようにある間はありがたいとも思わないけれど、なくなったら、とても恋しくなる存在。なくなってはじめて、ありがたさを悟る存在。こんなことを考えて、ぼんやり街路樹を窓から見ていたら、ギャーギャーという美しくない声がして、姿はとても美しいカケスがカエデにとまった。カケスはカササギと類縁関係がある。どちらも姿が優雅で美しいけれど、声がなー、やっぱりカラスの仲間なんだよね。カケスは日本では山に行かないと見えないけれど、こちらでは町でも見られる。ただし、大きな木があればの話。都市の緑、木々も減り、野鳥も激減しているらしい。身近にもそれを実感する。野鳥も木々も、なくなってからやっと、そのありがたさを実感するのかもしれない。哀しいな。
2016/04/04
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