イマ解きの眼

イマ解きの眼

2015年02月12日
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「 いつもはなんだか頼りない~。でもその日、わたしたち家族の将来をまっすぐ語る、わたしの知らない~がいた。」「XXXの窓口」に相談に来て、真剣な~を見て惚れ直しちゃう~の配偶者。」 と言うCFがある。 これがTV画面から流れる時、いつも不快な思いをする。 「割れ鍋に綴(閉 か?)じ蓋」といって「その程度の~にはその程度の~の配偶者がいる」と言う意味の諺がある。 思いの外頼り甲斐があったと言うことを発見して惚れ直したと言う意味がある。もしくは私が連れ添ったことで頼れる~になったという自己満足がある。  何れにしてもその配偶者優位の目線で製作されていることがそう思わせるのだとおもう。 結果が家族が手をつないで帰るからよいではないかと思われるかも知れない。 しかし問題の本質はそこではない。 配偶者を見直すという視点は一方的な決めつけと言うものがあり、従来、「~性はかくあるべきものだ」というステレオタイプの概念に支配されたものがCF内の配偶者の頭にあることを意味する。そんな視点で現代の家族をCFの製作者が捉えているのだと思うと薄ら寒い思いがする。
 時代を先取り世間をリードする役割があるとマスコミ側に自負心があるのならそれにそぐわないこと請け合いである。  最近の女性アイドルグループの新曲で「らしくない」 と言うのがあるそうだ。 本題とは直接関係ないが話題の一つとして記述しておきたい。
 この国において男女雇用機会均等法で就業の機会が法律上で特定の職業をのぞき女性の深夜作業禁止等の区別はあるものの一般的な差別はなくなって久しい。 現実には私が若い頃に比べ表面上は男尊女卑の風潮はなくなっているように見える。
しかし、表題の「~らしくない」 とか「~くせに」と言う言葉は死語にはなっていない。 前者はやや陰を潜めつつあるが後者の「~くせに」と言う言葉は根強く残っているように感じる。 むしろこれからも生き残っていきそうに思う。 前者の「~らしくない」と言う言葉は「そうあるべきだ」という決めつけが前提となっている。
その決めつけに従うかその決めつけが有効であることがその人やその属する人たちにとって好ましい場合それが強調されその締め付けが行われることになる。
それを誰が決めるのかと言うのが本来問題になるべきだが従来はその考え方に立脚することはなく盲従あるのみだった。 日本では戦前には前史の遺物である儒教の影響が残っておりその内容に則した考え方が規範として通用していた。 家父長制というのがその現れであり旧憲法下でもそれが色濃く規定されていた。 その具体的反映が「イエ(家)」制度だった。 
 そこでの命題は「上意下達」「寄らしむべし、知らしむるべからず」と言って一部の権力者が恣意的に決めたことにただ従えと言ったおよそ民主主義と相反する考え方があったのである。 その表徴化したものがこのCFといえるのではないか? CFは時代を映すと言われているのだ。





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最終更新日  2015年02月12日 20時29分56秒
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