新潟県武術連盟ホームページ

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八卦掌のページ



八卦掌の正中線は2本あると考えています。
ひとつは自分の体の中心を通るもの。
もうひとつは自分でイメージした円の中心から地上に伸びる垂直の線。
その線は、地面に描かれた円の中心から発し、推磨掌の前手の人差し指をつらぬいて天に向かう。
そして、相手の攻撃に従ってその第2の正中線は水平に移動し、その移動距離と方向はおもに前手によってコントロールされる。
前手が動けば、つま先の方向もそれに連れて角度を変え、つま先の角度が変われば自分の体全体が一瞬にして角度を変える。
かくして、自分のからだは、空間に想定した第2の正中線を中心に角度を変え、相手の死角に入り込んでいく。
これが、八卦掌の転身、換歩の技術である。

この技術の特徴は、たとば、相手の正面に立ち、相手の顔を正面から見ているとき、相手の横顔を見たいと思ったら、あるいは、相手の後頭部、あるいは、相手の頭頂部、あるいは、相手の顔を下から見たいと思ったら、相手の腕をとり、ねじり、ひっくり返し、仰向かせ俯かせようと努力をするよりも、自分の体を移動させることによって、相手の顔なら顔の、頭なら頭の見たい部分を見るというところにある。
攻撃という現実に対して、その現実をどうにかしようと思わないで、自分から変化し、移動し、その現実を利用できるように、自分の物の見方、考え方自体を、もっとも有効に働くところにまで移動させることである。

自分の肉体を通る正中線は、自分の肉体を存続させ自分の欲望を満足させるものであり、善でもなければ悪でもない。
しかし、自分が描いた円の正中線は、善であり、整ったものでなければならない。
それは、たとえば、武術家にとっては、仁(人を思いやる優しい心)義(ひとの踏み行うべき筋道、道理)・礼(人間の存在自体を尊ぶ心)智(うわべだけの知識だけではなく、実際にこころとからだで蓄えた知恵)・信(人の言葉を軽んじない、尊重する心)を身につけるということになるだろうか。
経営者なら、事業を堅実に運営し、あるいは利益を出し、社員の生活を豊かにし、社会に貢献すること。
あるいは、そのための具体的な数字や目標金額でもいい。
あるいは、自分の生活に張りがでるように、仕事が頑張れるように
何年か先に行くことに決めたハワイ旅行の計画であったり、そのために必要な旅費の金額だったり・・・。
こういった目標や、夢がいわゆる八卦掌における第2の正中線に相当するものだと思う。

人間の肉体の中心を通る正中線上には、人間の肉体にとって非常に重要なポイントが並べられている。これは、生存のために必要なポイントであり、人間本来の欲望のあるところである。

その欲望を第2の正中線に照射し、それが具体的な方法を伴って、現実に許容される形で地面から屹立するとき、はじめて自分の思いが現実のものになるのだ。

八卦掌に込められたメッセージ・・・・現実に対して自分の居場所を変化させよ!現実は、必ずしも、いつでも不機嫌な顔をして君を見ているだけではない。
自分の欲しいものと、善なる目標が、いつでもしっかり重なっていくように歩いていくならば、必ず、現実は君に美しい顔を見せてくれるだろう。

八卦掌は、いつも私にこんなことをささやいてくれています。

八卦掌は、とても素晴らしい武術です。
是非、みなさんにもお勧めしたい。



 八卦掌賛歌

武術と呼ぶにはスケールが大きすぎる
宗教と呼ぶにはあまりにも透明すぎる
円圏をまわると心とからだが洗われてくる
転掌するとふくよかな渦が体を包む
八卦掌は、はじめから武術の向こうにいざなう

こういう男にないたいとか
こういう生き方をしたいなどと
そんなことを目標にいきがっているのか?
そんなものはあくまでも幻なんだ
つかもうとすれば遠ざかり
とどまろうとすれば目がくらみ
かえって生きることを不自由にする
君の目標を物や事や数字にすれば
その行程は君の自由になり
生き方も信念も
ただただその道のりのなかで手にはいる

一点を軸としてそのまわりをまわる
やがてこころとからだは円からはみだして
らせん状に昇っていく
中心が点ならば、君のエナジーは珠を求める龍のように
天空高く舞い上がる
中心が円ならば、珠は結晶をなさず
円は円のまま螺旋にならず
頼りなく地に漂うのみ
君よ龍になりたくば地面の一点を追え
やがて体はばらばらに統一され
心と体は境界線を越えていく
そう、そのとき君は龍になる。




八卦掌~自然と人間の交差点


部屋の蛍光灯の明かりをつけたとき、光は部屋のどこから照らし始めるか見えますか?
いつから冬がおわり、いつから春がはじまり、いつから夏になるのでしょうか?
風が頬にあたるとき、いつ吹いた風が自分の頬にさわったのか?なんてわかりますか?
風が木の枝を揺らすとき、その風が木の枝に触れる瞬間が見えますか?
身体が寒いと感じたとき、いつその寒さが自分の身体のなかにやってきたのかわかりますか?

どれもこれも、いつのまにかとできごとで、そこに人間の意識の入り込む隙間はない。

武術のいう「無」と言い、「無心」「無意識」というものは、あくまでも精神的なことかと思っていましたが、それだけではなく、きわめて精緻な技術的な裏付けがあることがわかりました。
身体をつかって行う武術である以上、いかに精神的に悟りの境地にあろうとも、身体の技術がなく、やすやすと倒されているようではお話になりません。
したがって、技も「無」になる技術が必要となってくると思います。では、技が「無」になるというのはどういうことか?
相手に触れずに倒すとか、気合をかけて、あるいは、気功法で・・・・・などということではなく、明るくなったと思ったときには光が生じているように、風が心地良いと感じたときには、風が頬に触れているように、春だな~と思ったら、もうすでに春になっているように、寒いなあと思ったら、寒さのなかに身体があるように、そんな、なんとなくそうなっていると思ったときには、もう技がかかっているような技・・・・・これが「無」の技、姿が消えてしまった技、すなわち、「無心の技」という技術だと思います。

もっと、技術的に説明すると、始まりが見えない動き、部分的な圧力を感じさせない圧力、速いと感じさせない速さ、強いと感じさせない強さ、相手の感覚の裏側に入り込んでいく力、こういったものだと思います。
なぜ、こういった技術を「無」というのかというと、始まりと終わりが感じられない・・・・つまり、相手の意識がこちらの技の存在やそのしくみを認識できないから、それを「無」と言うのです。
だから、達人に技をかけられると、「いつのまにか倒されていた」と思ってしまうのです。

四季も気温も天候も自然も、なんとなく移ろい、なんとなく変化していきます。
人間のように、突くにしても蹴るにしても、意識が生じてそこから動作が始まるというような、0から1、1から2へと始まるようなものではありません。
それは、遠い昔に始まってから、それ以来、いつも留まることもなく、始まることもなく、終わることもなく、移ろっていきます。
そのなかには、全ての始まりが確かにあり、すべてのおわりさえも確かに含んでいる。
しかし、人間の意識は、人間であるがゆえに、それを感じ取ろうとし、結局はその瞬間をつかみきれずに一喜一憂している。

これは、円ではなく、螺旋であり、続いてきたものであり、止まる瞬間のないものだからです。

四季といった場合、人は確かに認識し、その法則性を理解したつもりになりますが、それはあくまでも平面的に捉えようとしているのであり、四季という円が二度とくりかえさない時間のうえに乗っかって流れていくという認識が乏しいため、自然の全てを把握しようとすればするほど、はずれていってしまうのです。

これは、私がひとりで考えたことではありません。
古の武術家達の残した言葉にもとづいて、考えていることです。

八卦掌において、転換式を使いながらぐるぐる円をまわりますが、一回目の円と二回目の円では意味が違うのです。
転換することによって別の次元の円に変わるのです。
八卦掌の技は、いたずらに敵まわりをぐるぐるまわるのではありません。敵の意識のなかに固定した自分の身体を置かないためです。
寒いと感じたときは、すでに寒さが身体のなかに入っているように、明るいと思ったときには、すでに光のなかにあるように光も風も温度も季節も固定した実体をさらすことがないように、瞬間、瞬間に移ろい行くために円を描くのです。
そして、その円の規則性を相手が固定された形式だというふうに認識しだしたら、それは移ろいではなく固定になってしまう。だから転換し、別方向に円を描くのです。
そして、当然、右回りの円と左回りの円では、同じ円でも相手の意識では全然違うものになってしまいます。
それは技の攻防の仕方を具体的に学んだ人ならば、容易にわかることです。
ぎゃくに相手を想定しなければ、最初から実感できないものです。
教条的、思想的な「おしえ」を植え付けられ、東洋的雰囲気で理解をうながされても、雰囲気はつかめても実感が伴いません。
あくまでも武術は、人と人との間から全てが始まるのです。

話が脱線しました。話を八卦掌にもどします。

八卦掌は、そこで平円だけでなく、立体的な円や、螺旋を加えます。
そうしたら、もう、こちらの存在は相手の意識のなかに実体として映像を結ばなくなってしまいます。
これが八卦掌の技です。
もちろん、こんな机上の理論で八卦掌の極意が会得できるわけではなく、きちんと身体を使い、意識を使い、実際の攻防の技を学んでいく中でやっと達することができるものだと思います。

武術というものは、人と人が攻撃と防御を行うなかで、人と人との間で生じるものは何か?そこには、どんなしくみや法則があるんだろうか?人間の身体のしくみ、動きのしくみ、意識やこころの扱い方を学んでいくもので、さらにそこから考えて、人って何だろう?
強いって何?暴力って、憎しみって何?優しさって慈しむとはどういう感じなんだろうとか考える。
さらに技の極意って何?技がかかるってどういうこと?
そんなことを考えていくうちに、人間にとっての自然とは何か?
自然というものは、人間の意識にしか存在しないんだとか、不自然だから自然を感じるんだとか、だんだん哲学的な分野まで思索が進んでいきます。しかも、身体の感覚を伴った状態で・・・。

しかも、武術の攻防を通してそういったことを考えていくと、人間の意識以外のところで流れている自然のなかかから、そういったことを感じていくことができるとような気がします。

「感じ」といって馬鹿にしてはいけません。
ひょっとしたら、それは、武術を学んでいる者しかわからない、自然現象と哲学との交差点かもしれないのです。

八卦掌の「八卦」というのは、八卦掌が生まれるまえからあった「易経」の教えであり、「易経」とは自然と人間のかかわりかたや、移ろい行く森羅万象のしくみを書いた書物で、董 海川師(創始者)は、この技の特徴から考え、なんとなく移ろっていき、とらえどころのない、それでいて森羅万象の法則性を備えている、この門派に「八卦」の名前をつけたのです。
決して、「易経」が高度な哲学だったから、かっこいいと思ってつけたのではなく、自分の技の特徴をよく表現しているものだからつけたのです。

八卦すなわち、自然です。
自然すなわち移ろいです。
移ろいすなわち、変化、無窮の円転、螺旋です。

八卦掌は、哲学から生まれた武術ではなく、武術から生まれた哲学です。
したがって、武術からしか八卦掌というの哲学の門は開かないのだと思います。



八卦掌~直線のむこうにひろがる世界


八卦掌というものは、ひたすら円を描き、敵のまわりを歩き回るというふうに想像する人たちは多いようですが、私はそうは思いません。
武術において、円とは直線の向こう側に広がる世界であり、最初から円というものは存在しないと思うのです。

八卦掌が、なぜ円を描くのか?
相手が目が回って自分を攻撃できなくなるから、あるいは、自分が攻撃しやすくなるからなんて考えるのは、ちょっとどうかと思います。
そんなこと少し考えれば、簡単にわかるはずです。
自分が相手の円の動きに目をまわしてしまわないようにするためには、相手の後からついていくことです。
相手のうしろについていくだけでなく、走っていって、相手の後頭部をポカンとなぐれば済むことです。
こんなのは足の速さの問題です。
武術の技がどうのこうのというようなレベルのお話ではありません。

八卦掌が円を描くのは、直線で相手に近づいていって、相手の攻撃があまりにも遅いため、自分の歩みが、相手の後まで通り抜けてしまった結果、そのまま通り過ぎていかずに、折り返して、折り返して、相手の動きよりももっと速くて大きい次元に身を置いてしまうため、相手の動きに対応していった結果、円を描くはめになっていた。
これが八卦掌の「走圏」の技術だと思います。

直線をつきつめていくと円になり、円をつきつめていくと直線になる。すべては、正反対のものからはじまり、正反対のものに戻っていく。
私は八卦掌から、そんなあたりまえでしかも全ての真実にあてはまる根本的なことを学びました。



稽古で感じる八卦の羅針盤


八卦掌の套路を練る。
心気を静め、走圏を行う。
呼吸が丹田にエネルギーを集め始め、肺のかわりに丹田が働きだす。やがて、丹田にエネルギーが満ちてくると、そのエネルギーは流出する場所を求めて、指先に流れ出す。
推磨掌の前手の指先は天を指す。
丹田から発生したエネルギーはその指先を経て、天に渦を巻いて昇っていく。
身は円転し、気は天に昇る。
丹田の気はいよいよ充実し、躍動する命を円周上に運ぶ。

かつて師翁は言われた。
「日々の稽古は、天地(あめつち)の経を読むがごとく」と・・・・。

季節は梅雨を迎え、陽剛の気はその勢いを蓄えて、やがてくる夏に備えている。
今、この季節のなかで、八卦掌という経文なき経を読んでいると、野生のエネルギーが満ちてくるのを感じる。

「不息自強」
季節はまもなく「乾卦」の季節を迎えようとしている。





四季を巡る八卦掌の足


八卦掌の基本は円周上を歩くことです。
春夏秋冬、ひたすら歩くことを鍛錬します。

新潟は、冬になると雪がいっぱいつもります。
雪が積もるとぼこりぼこりと足を差し込みながら、円周上を歩く。
やわらかい雪なら、すぐにつるつるになり、すべりやすい足場になる。硬い雪なら、丹田に込めた気をいっそう強く持たないと、重心と呼吸が不安定になります。
遅かれ早かれ、円周上の雪は踏み固められ、つるつるにすべるようになっていく。
私はそのうえを足が滑らないように歩いていこうと頑張っていました。
しかし、どんなに踏ん張ろうが、つっぱろうが、歩いていけばいくほど、雪はつるつるの地面を作り、私の体をひっくり返そうとするのです。
じっさい、何度ころび、すべり、しりもちをついたことでしょうか。
あるとき、もう、すべらないようにすることはやめにしました。
滑らないで居ることが、はたしていいことなのか?と考えるようになったからです。
足をふんばり、ころばないように、ころばないように意識することによって体ががちがちにこわばっていく。
これでは、武術の体とは言えません。

それなら、転ばないことをやめよう。
滑らないことをやめよう。
それよりも、こわばらない体でいることにしよう。
そこに居ついてしまわない足をつくろう。

それ以来、私の膝から下は、地面に執着しないようになりました。
膝から下が地面に執着しなくなっても、つるつるの雪の上ではやはり滑る。
しかし、膝から上が崩れなくなった。
つまり、膝から下は滑っても、膝から上はすべっていない状態。
滑った膝から下の部分は地面への執着をはなれているため、余計な力がはいらないため、すばやく、態勢を整える。
膝から上は、膝から下に執着していないため、膝から下が滑ったという事態とは無関係に浮いている。
つまり、この態勢では、滑ってもころばないし、こと膝から上に関しては、滑ったという事態に陥らないというか、すべったことになっていない。
これは、すべっているけど、すべっていないという状態だ。

今は、梅雨時です。
やわらかい地面のうえで円周上を歩きます。
雨の降った日は、歩くたびに地面がぐちゃぐちゃと音を立て、ぬかるみのようになってしまいます。
スニーカーを履いて歩きます。
できるだけ、くつの裏には、凹凸の深い溝ができているものを選んでいます。
やはり、滑ります。
でも、冬を経てきた私は、滑ってもすべりません。
稽古を終えます。
アスファルトの上で、くつの裏のふかい溝にはまった泥を落とします。いっぱい、泥が溝につまっています。

あるとき、ふと思いました。
足の裏が活発に動くから、溝は泥に食い込むのだと・・・。
足の裏が働かなければ、泥は溝に食い込まないのではないかと・・・。
いろいろ足の裏を意識しました。
足のうらが、ゆがんだり、まがったり、ねじれたりしないように、地面に足の裏を平らに置いていくように意識しました。
まだまだ、泥は溝に食い込みますが、以前よりは、だいぶ少なくなりました。
最近、アスファルトの上でひとりでニンマリとしています。
まちがいなく、私は変なおじさんに見えるでしょう。

足の裏が地面からの執着をはなれていきます。
そうすると、体捌きのときの体の動かし方が、根本的につくりかえられていきます。

今、私が八卦掌を稽古している場所は、おおげさにいうとミステリーサークルのように雑草がはえていません。
私の足が、しゃにむに踏み固めてきたからです。
しかし、八卦掌の歩法に精通すれば、やがては、そこからも草がはえてくるのでは・・・・・なんて思っています。

「武術は、天地(あめつち)の経を読むが如し」

ただ、いたずらに経文を読んできただけの私も、このごろやっとその意味がわかるようになってきました。

武術は、やはり「あめつち」のなかで育っていくのだと思いました。




ドラゴンへの道


八卦掌の鍛錬は、円周上を歩くことです。

進みながら、戻っていけばいいんだと思います。
生きていけば、選択肢は広がっていくのです。
でも、都会にいて田舎が恋しくなるように、海を泳いでいて、遠くに見える山を眺めているように、広がっていく先で人は、戻りたくなってしまうのです。
しかし、時間だけは戻りません。
経験し、積み上げてきたものは消えません。
同じ風景に戻ってきたと思っても、やはり違う自分が違う風景に出会っているのです。

螺旋なのです。

戻ってきて、円週上を歩いてきたと思っても、螺旋の上を歩いてきたのです。

いつも過去を振り返りながら歩いている人は、いつか見た風景に出会うと、そこに戻りたい、そこがやっぱりいいと思って立ち止まってしまうのですが、いつも前を見て進みつづけてく人は、前見た風景に出会うとき、同じ風景なのに新しい世界が見えてきて、そこから広い世界をもとめて歩き出していくのです。

空間がひとつ上になり、視野が地上から浮いてくるのです。
以前この場所を通ったときは、こうしてみよう、こうやったらどうか、こんなになったから次はこうだといろいろ考えていました。
しかし、今ここにたどりついたときは、こうなったからこうなった。こうしようと思ったけど、こうやってしまった。こうやってしまったら、結局、前とおんなじになってしまった。
この次からは、こうなってしまうから、ここはこう曲がってみようとか、ここでこうかんがえる自分というものは、いったいどんな癖をもっているんだろうとか、どうしてここでこうなってしまうんだろうとか、やはり、視野が自分の上に昇っているのです。
自分の行動を見ることによって、自分というものの本質を探ろうとしていきます。
そして、他人を見ます。
他の人はどうなんだろう?
人ってなんだろう?
社会って何?
自然とは?宇宙とは?
そして、自分のなかにまたそれらを見出し、また自分のなかを探求していく。

螺旋は一見して円に見えますが、間違いなく、時空を経て昇っていきます。

これが八卦掌の階(きざはし)・・・・ドラゴンへの道です。

揺れ動き、自信を無くしながら歩いている弱き自分にこの道を説く!
揺れ動くことは悪くない。螺旋というモチーフをイメージしながら歩いていけば、揺れ動くたびに、いつしか、その揺れが本物の螺旋となり、自分のあるく道が「ドラゴンへの道」に変わっていくのだと・・・・。




円周上を回る。



八卦掌の套路を練る。
八卦掌の修練は、ひたすら円周上をまわる。
円周上で技を繰り出す。

日によって時々、獰猛な思いが頭をもたげる。
敵がこうきたら、こう。
こうくるまえに、こう。
すでに戦いが始まる前にこうなっていなければ・・・・・。
ここまで発想をひろげておかないと視野がせまい。
もっと、もっと、既成概念をとっぱらっておかないと、今まで積み重ねてきたものすべてが一瞬のうちに水の泡となる。
敵のなにげない、全く修練もされてない暴力に、一瞬のうちにやられてしまうことも充分ある。
それは、敵に負けたのではなく、自分の弱さに負けたのだ。
所詮、戦いは、胆力、と意識のひろがりと、発想の転換によって戦うのだ。
こころと知恵で戦う。
技だけあってもどうしようもない。

円周上をまわる。

今の自分の意識の隙間はどこにあるのだろうか?
こころの奥の奥にまで降りていって、くまなく探す。
神経質に探す。
自分の弱さはどこだ?
自分の盲点はどこだ?

円周上をまわる。
視点が換わる。

必死になって自分の弱さを探している自分の弱さに気づく。
愚かなことだと思う。
弱さを探すことは、敵の攻撃の影におどらされること。
敵の影を見ようとしては、遅くなってしまう。
そんな遅さは、武術に必要ない。
自分の影を探すということは、ひいては敵の攻撃の影を探すということ。
これでは、武術とは言えない。

円周上をまわる。
視点が換わる。

仕事のことが頭をよぎる。
発想したことを行動に移すことこそが仕事に意味をもたせる。
そのための段取り。
計画、行動しつづけていくための情熱。
疲弊する神経、こまごまと生じてくる雑事やトラブル。
仲間意識と野心とのバランス。
衰えるところと栄えるところの見方。
全進する意欲の維持。
仕事仲間の身の上のこと。
全体的なチームワークのこと。
全体のなかの自分の役割のこと。
全てが、今、心の中から、この円の、この空間の中に溢れ出してくる。

円周上をまわる。
視点が換わる。

今、答えなど出ない。
姿勢を正す。
気を丹田に充実させる。
湧き出してくるものをそのままに、空間に漂わせながら、自分の身体は、そのまま円周上をまわる。

今、答えなど出ない。
出ても、それは、今の答えに過ぎず、そのときの、そうなったときの答えにはなりえない。

気が全身に働き出す。
呼吸が深くなる。

そのときに出る答えは、おなかの底から出てくる。
そうなるために武術を日ごろ稽古している。






湧き上がってくるものは湧き上がってくるままでいい。


八卦掌の套路を練る。
八卦掌の技は、円周上をまわりながら繰り出す。
基本は円周上を歩くことだ。

早朝、まだ薄暗いときに起きて、円周上をまわる。
いろいろな思いが頭をよぎる。

あの人は、ああ言ったけど、ほんとうにそのとおりに考えていんだろうか?価値観や立場が違えば考え方も変わる。
流されないためには、自分独自の分析が必要だ。
流されないこと。
その裏づけはデータ-だ。
その場の状況が自分のあたまのなかでクリアであること。
できるだけ未来の読みきれるところまで読んでいく。
それができていて、つまり頭の中が整理されていてはじめて、自信を持って発言し、行動できる。
柔軟な対応は、その場限りの対応ではなく、その先の読み込みにもとずくものである。
つまり、目的がはっきりしていて、はじめて柔軟な対応ができるのだ。

やるときめたら、やる。
しかし、人のどんな好意でも、ギブアンドテイクの原則にもとづいて受けなければ、人と人との間に生じる柔らかな関係を保つことができない。

ああ、あの商品の納期、遅れてるんだよな~。
頭が痛い。
やってられないな~。
ときどき、細かなことがおろそかになる。
細かい計算が苦手で、他の人に迷惑かけることが多いんだよな~。

どうしてもねたむ心が起きてくる。
どうして、ライバルのあいつに追い抜かれなきゃいけないのか?
あいつ、ちょっとやりかたが汚いんだよな~。
商売は、誠実さが大事なんだ。
でも、その誠実さを看板にすることって自分を甘やかすことにもなるんだよな。

いいときは生きがいを感じ、悪いときは、自己嫌悪に陥る。
いいときは、大得意!
人にもいっぱい優しさをあげられる。
あたまもクリアに働く。

悪いときは余裕がない。
トラブル、クレーム、無気力、無力感、劣等感が、まるでボディーブローのようにダメージとして心身に蓄積されていく。
周りが見えない。
頭の中を整理する余裕も無い。
不機嫌でいやな奴になっていく。

円周上をまわっている。
ぶつぶつぶつぶつと心がつぶやく。

ねたみ、そねみ、怒り、怠け心、自分の中の陰が、円周上の湧き上がってくる。

私は、あえて、それらを止めない。
そのままそのまま、いそいで醜い思いを消そうとも思わないし、弱い心、泣き言、戒めの言葉、なにもかも、そのままそのまま。

円周上を歩いている。
日が昇り、周りが明るくなる。

細い木枝の間にくもの巣が光って見える。
おおきな蜘蛛がカナブンを捉えている。

蚊が飛んでくる。虫除けスプレーをしてない衣服の上から容赦なく刺す。
痒い、痒い、とても痒い。
すずめのさえずる声。
からすの鳴き声。
せみが鳴きだした。
蜂が花の間を舞っている。
日の光が蜘蛛の巣を銀色に照らす。
眠っていたものが、いっせいに動き出した。
鳥は鳥で、私とは関係なくさえずり、せみはせみで私とは関係なく鳴き、蜘蛛は蜘蛛で、私とは関係なく餌をとり、蚊は、私の不快感とは関係なく、無心に刺す。
すべてが、私とは関係なく営まれ、全部がいっせいに始まっていく。

そして、すべての一部は、同時にすべてと一体なんだと思う。
そして、同時にべつべつに存在し、同時に働いているから、活力に満ちている。

円周上をまわっている。

私は、自然のなかで、蜘蛛や蜂や蚊がいることを邪魔だと思って套路を練っているのではなく、彼らの棲みかのなかに場所を借りて、套路を練らせてもらっているのだ。
武術を屋外で稽古するときは、「俺様は、人間様だ」と思って稽古しても上達しない。
自然のなかのほんのひと隅を借りて稽古させてもらっているんだと思ってやったほうが上達が早い。

円周上をあるいている。

自分が自然と一体になっているのを感じる。
もう、つぶやきは聞こえてこない。
自然の活力が自分のものになっている。





八卦掌は捻じらない。


八卦掌においては、いかに胴体を捻らずに動くかがポイントだと思います。
手や足は捻っても胴体は捻らない。

胴体を捻って動いていたんでは、とても相手の攻撃を受けてくるっと回転して攻撃するなんて芸当はできないからです。

遅すぎて、相手に後頭部を殴られるか、それとも、「いきなりなんだ?」って思われて間合いをはずされてしまうからです。
これが双換掌だ!なって勢いよくやたって、回転し終わったときには、相手は遠くから怪訝な顔で眺めているなんてことはよくあることです。

だから、胴体は捻らない。
捻らないで回転できれば速いのです。
たちまち、相手の死角にはいりこんでいきます。

それができるようになるために套路があるのです。
套路は、そういった身体をつくるために練るのです。





平起平落なんて知らない。


私は八卦掌において平起平落などと習ったことはない。
知らないのである。
足の裏を平らに地面から離し、平らに地面につける。
踵からさきでも、つま先から先でもいけない。
どうも八卦掌の初心者は、最初にそんなことを苦心して学ぶらしい。
その目的は何であろう?
私はそんなこと習っていないので、知るよしもないが、おそらく足首や、足の裏が地面を蹴らないようにするためではないかと思われる。

いやいや、そうではない。
それだから素人は困る。
などとおっしゃるかたもいらっしゃるかもしれないが、何も知らないものが、何を言っても無駄だと聞き流していただいても結構。
とにかく、この場においては、私の独断と偏見で話をしているので、ご了承願いたい。

私の考えでは、足の裏のどこから地面に着こうが、どこから離れようが、その足の裏の作用が膝から上に影響をおよぼさなければいいのだと思う。
八卦掌の走圏の目的は、丹田を手足の動きとは関係なく水平にしかも安定して動かすことができるような身体をつくることではないかと思う。

八卦掌の動きは、上下、斜め左右と色々な角度に身体を運ぶ。
きわめて不安定な状態になりやすい。
なぜ、そんな不安定な動きをするのかといえば、丹田からの力、重みをどのような体勢からでも発揮できるようにするためである。
八卦掌の最大の特徴は、円を描こうが、線を描こうが、螺旋になろうが、その運動線のすべてに丹田の重みが塗り込められていることである。
しかし、重みがあるからといって、遅いわけでもなく、安定も求めるが手足の不安定ささえ、丹田の重みや威力を増幅させるのに使う。
しかし、勘違いしないで欲しいのは、丹田がおもりで、手足がチェーンのようなものだというイメージは違うと思う。
なぜなら、チェーンはゆがみ、たわむので瞬間的に力を発動できない。たわんでから発しても武術においては遅すぎる。

八卦掌の動きは、形意拳や太極拳と比べても、手足の動きがバラエティーに富んでいる。
したがって、普通なら安定しない。
手技、足技を使っても花びらが舞うようなうすっぺらな動きになってしまうか、くねくねとうねってトグロを巻いている間に、敵に後あたまをポカンと殴られるのがオチである。

形意拳や太極拳の丹田の安定は、足に頼る部分が多い。
つまり、足の安定性をある程度利用しているのである。
しかし、八卦掌は、丹田の安定を足の安定性に頼らない。
だから、八卦掌の足は自由で、複雑な動きができるのである。
丹田の安定を足の動きから開放する。
あるいは手の動きから開放する。
開放することによって、丹田の重みを手足にダイレクトに伝えるのである。
手足から丹田を開放しないで、ひらひら、うねうねと舞っても、それは踊りにはなっても、武術にはならない。

自転車に乗る練習をするのには、最初、補助輪を使う。
その方が安定するからだ。
しかし、補助輪なしで乗れる人に比べれば、動きは制限される。
安定してはいるが、自由度が少ない。
しかし、身体が安定するということを憶えてくれば、不安定のなかでも安定する方法をさがすことができる。
つまり、補助輪をはずし、わざと不安定な状態をつくりだし、そのなかで身体がバランスをとることを学ぶのである。

形意拳や太極拳がいつでも補助輪を使いやすい状態であるのに比べて、八卦掌は補助輪をとりはずしてしまった自転車に乗る。

平起平落・・・・補助輪なしで走る自転車をいきなり初心者に押し付けている・・・・私にはどうしても、そんな窮屈な印象を拭えない。
最初はやはり腰を沈め、足で地面を踏みしめてノッシノッシと水平に歩く稽古をしたほうが初心者には向いているのではないかと思う。

もともと、八卦掌の入門者は他の武術の使い手だったことを思い出すべきである。
つまり、補助輪つきの自転車を人並み以上に乗りこなせる人達ばかりであったはずだ。
何も武術の経験のない人達が、はじめて八卦掌を学ぶのなら、補助輪つきの自転車からはじめるのが妥当だと思う。



八卦掌好!


円を巡る・・・・・。
円を巡る・・・・・・。
円を巡る・・・・・・・・・。

隙なく、眼前の敵と闘いながら、自分の思いが円のなかに映し出されるのを待つ。
やがて円のなかにスクリーンが現れ、とがめることもなく、恥らうこともなく、いやなことでも、辛い思い出も、悩んでることも、これからのことでもぜ~~~~~んぶそのまま見つめて、それらを捕まえようと思うこともなく、消そうと思うこともなく、学ぼうとか、何かを期待しようなんてことも思わないで、ただただ現れては消えるものを見ている。

やがて、それらは腎にとりこまれ、背中を通して、前手の人差し指と中指から天に向かって昇っていく。
いくつもの思いが、指先から天に昇っていく。

この稽古を終えても、いやなことは容赦なくわが身にふりかかり、不安、心配、劣等感、ふがいなさ、悲しさは、消えてなくなることはない。
しかし、それらの負の感情は、知らず知らすのうちにわが身の負担と感じなくなる。
生きている以上は、当然のことだと、なんの気負いもなく感じられる。
そしてそれを乗り越えていくのが当然なんだと思えてくる。

武術は、確かに現代の無用の長物かもしれないが、わたしとしては、こんなことでけっこう重宝しているのです。





八卦掌からうつろうことの不思議さを学ぶ。


まだ薄暗い朝。
天にかかっている月を眺め、八卦掌の形をとる。
歩き始めると同時に敵が円の中心にあらわれる。
すきなく手足がそろうように意識で体中を点検する。
敵の動きは千変万化といえども、主導権はこちらにある。

回るに連れて体は敵と戦い、意識はいろいろなことに思いをはせる。
きのうのだれかの言葉、態度、うれしかったこと、悲しかったこと、腹立たしい思い、仕事のこと・・・・。
あれを今日のうちにしておかなきゃ、あれはもう手遅れかもしれない、これからはこんな感じで仕事をすすめていこう。
今日は金曜日、あしたは会社は休みでも仕事になるなあ。
朝、晴れていれば釣りに行こう。
どんな釣りかたをしようかな。
楽しみだなあ。

月影が薄らぎ、まわりが明るくなり、朝風が吹き、霧がたちこめ、乳白色の青空がすがたをあらわす。

右回り、左回り、転換し、円転し、まわりの風景がかわっていくにつれて、思いもこころもうつろっていき、円周上のうしろのほうにいろいろな自分が置き去りになっていく。

無心にならなければならないなんて以前は思っていたが、今では全部自分のなかのものを洗いざらい円周上に吐き出して、一分前の自分さえ今の自分ではなく、将来のことを決めようと考えている自分ですら、今の自分ではなくなっていることを感じる。

体中に新鮮な空気の力が充満し、走圏が終わる頃には爽快な思いだけがのこる。

無心にならないことが無心への近道なんだと思う。




八卦掌の誘惑


質実剛健を目指してきました。
ちゃらちゃらと技のおもちゃ箱をひっくり返すより、いぶし銀のような技をバカのひとつ憶えのように、一回コッキリ繰り出して全てが終わるようなそんな技を目指してきました。

しかし、その先に進んでいくととても怪しいものが見えてきました。
印象で言えば「軽佻浮薄」・・・・。
とても非現実的で、そんな技使えるわけないじゃん!とだれもが卑下するようなピラピラした色紙のような技の数々・・・。

そこには、もう行き着くところがない者がたどり着かざるを得ないようなそんな魅惑的な世界が広がっています。

相手の突きを受け流すとき、自分のつま先は相手のつま先とすれちがってはいるが、お互いに反対方向に向いています。
相手の突きをさえぎるとき、自分のつま先は相手のつま先とすれちがってはいるが、相手のつま先の方向と交差する方向に向いています。
相手の突きを巻き込むとき、自分のつま先は、相手と同じ方向を向いています。

ここからが、あぶない世界の入り口です。
下手をすれば、絵に描いた餅のような架空の世界に迷い込み、武術の実力はあっというまに消え去ってしまうでしょう。残るのは夢想の世界で自己満足しているオタク化した自分・・・・・。
上手くいけば、触れただけではじき飛んでしまう実力を有しながらも、それをストレートに現さずに、自分の芸術的感覚で技をまとめ上げる絶対的な余裕をもった「芸術家」としての自分が生まれる。

最近そんな世界を徘徊していますが、また、もどらなければならないでしょう。
まだ少し、自分の足が地面についていないのを感じます。
また、もどり、またべつのものを引っさげて戻ってくる。
そしたら、また自分の軽さを感じて戻っていく。
そしたら、また自分の重さをかついできて、またひらひらと舞い踊る。

その繰り返し、繰り返し・・・・・。
どこまで昇れるか解りませんが、せめて死ぬまでには、本物の芸術を体現できるように、本物の「武芸」の片鱗を体現できるようになりたいと思っています。



八卦掌の3段階


八卦掌の走圏は、下盤、中盤、上盤と3段階に分かれている。
初心者が行うべきは、下盤のカンフーである。
重心を低くし、できるだけ足腰に負担がかかるように鍛錬する。
これにより、足腰の強靭さ、安定性、バランス感覚を養う。
人によっては、最初から8の字を書いて歩いたり、四角に歩いたり、真っ直ぐ歩いたり、変化を持たせて、初心者が飽きないようにして教える人もいるが、私としては、ただひたすら円を書いて歩くことをお勧めしたい。
千変万化の八卦掌、さまざまに捻り、回転し、沈み、浮く・・・・。これらの複雑な技術を駆使する八卦掌ゆえ、しっかりとした足腰が必要とされる。
それを養う方法は、できるだけ単純なほうが、じっくりときたえることができるので、単調に円をまわるだけのほうが、こころの鍛錬にもなり、初心者には適していると思う。
また、単純に円をまわることにより、歩きながら禅を組んでいるような気持になり、精神修養の面においても効果を得ることができる。
八卦掌の戦い方は、転身変化しながらも、相手を自分のふところのなかにいれて翻弄するようなやりかたを用いる。
そのためには、人間的にも懐の深い人間にならなければ、この技法を使うことは難しい。
走圏の苦練は、そういったものも養ってくれると思う。




私の持論



八卦掌におけるショウ泥歩・・・。

後ろ足に重心を乗せるのは簡単だが、前足を進めるときに重心を乗せることは難しい。

しかし、それができれば、前足に泥の重さを運びながら移動する感覚が生じる。

その感覚を使い、腕の形を保ちながら脱力すれば、相手の攻撃は当然のようにはづれ、自分の

攻撃は相手の視野の外から襲いかかる。

これが八卦掌のショウ泥歩の効用であり、基本中の基本である。

どの門派であろうと、基本がもっとも実戦的であるという私の持論は間違いないと思っている。






のっしのっしの学び方



師匠がのっしのっしと歩く。

私ものっしのっしと真似して歩く。

しかし、いくら真似してのっしのっしと歩いても、やっぱり師匠ののっしのっしとは違う。

なぜそんなに違うのか?

もういちど師匠ののっしのっしを見る。

すると、師匠はのっしのっしと歩いてはいるが、頭の位置がぶれないですーっと平らに動いて

いくのがわかる。

でも、だれだってのっしのっしと歩けば、頭の位置も上下する。

頭も腰も肩もゆっさゆっさと動くのだ。

でも、たしかに師匠はのっしのっしと歩き、頭の位置は水平に動くのだ。

なぜなんだろう?

できないから、いつでもどこでも気がついたときは考えている。

あるとき、思いつく。

まずは、のっしのっしはやめて、すーっと水平に歩けるように工夫する。

四苦八苦してやっとできるようになる。

それから、のっしのっしの研究に入る。

いつまでもできないで月日だけが流れる。

あるとき、足の甲に重心を乗せながら歩くと、身体が移動するその瞬間だけで攻撃になること

に気がつく。

歩く動作、歩を進めること自体が、衝撃とエネルギーを持った攻撃になるのだ。

そこで、それを意識しながら歩くと、いつのまにかのっしのっしとなっている。

それでいて頭の位置も水平にうごいている。

身体が移動する・・・・それ自体が技となる。

のっしのっしは、基本中の基本であり、もっとも実戦的な技である。

そんなことの繰り返しで技を身につけてきた。

師匠ののっしのっしを真似しようとすることが、知らず知らずに高度な実戦的技術を身につけ

ることにつながっていた。


ジャンルを問わず、伝統技術は、いつだってこんなふうに伝わっていくんだと思う。






八卦掌



これほど奇妙な拳法はない。
龍のごとくうねり、くるくると円周上を舞う。
だれも思いつかないような技・・・・。
これを創始した人の頭の中はどうなっているのだろう?

しかし、この奇妙な技の基本は、ただ円周上を歩くこと。
ただただひたすら歩く。
のっしのっしと熊のように・・・。

ただのっしのっしといっても重心を上下してはいけない。
重心を上下させずにのっしのっしと歩くのだ。

歩く、歩く、ひたすら歩く。

歩いているうちに脚が痛くなる。
肩が痛くなる。
頭の中がその痛みでいっぱいになる。

それを乗り越えると意識が全身にひろがって座禅を組んでいるときと同じような感覚になる。

そうだ、八卦掌は歩く禅なのだ。

お寺の境内の樹齢百数十年のイチョウの大木を円の中心に据えて歩く。

そうするとなんだか木が語りかけてくるようだ。

「ああだこうだとぐちゃぐちゃ考えるな。歩けばわかる。百錬は一走に如かず。」





丸め込まれて憶えた八卦掌



八卦掌を教えていただいたのは、師匠が檀家さんの家に御経をあげに行く直前でした。

「よ~し、八卦掌、憶えようね。」

すでにお参りの支度をして袈裟をつけている師匠が、サッサッサと型をやってみせてくれて、「はい、憶えたね~。カンタン、カンタン、私が帰ってくるまでには憶えておいてよ~」と、あの複雑な八卦掌の型を、「なんかのついでにやっといて~」的なニュアンスで言い置いて、お出かけになられました。

そのときは、私とNさんの二人だけしかいなかったので、2人でいろいろ思い出しながら稽古しました。

しかし、8本の型のうち、どうしても最後の「八仙過海」の歩法だけがわからなくなりました。

あ~だこ~だと言っているうちに師匠が帰ってきて、「どう?憶えたでしょ?カンタンじゃん!」とあっさり言われました。

「先生、どうしても八仙過海の歩法がわかりません」と私が言うと、「そんなもん、こうやってこうやって、これで終わりじゃん!カンタン、カンタン、できる、できる!」と、見るからに複雑な歩法を下駄履きのままやってみせてくれました。

また、しばらく私とNさんとあ~でもない、こ~でもないとやっているうちになんとなくわかってきてできるようになりました。

すると師匠がトレーナーに着替えて出てこられて、「どう?やってみて」と言われたのでやってみると「いや~ほんとにまいっちゃうよ。君ら教えるとす~ぐ憶えるからね。なんていうか、教えるはりあいがないよね。」と感心されました。

考えてみれば、いつも技を教わるときはこんな感じです。

どんな複雑な技も、「カンタン、カンタン!」と私たちに暗示をかけて、サラッと憶えさせてしまう。

これも立派な技だなぁ~と思います。

でも、これは、武術の技というよりは、営業のテクニックに近いようなそんな気もしないでもありません。

知らないうちに丸め込まれている私とNさんでした。





雪上八卦掌



いっとき、ほとんど私とNさんしか稽古に来ていないときがあった。
それでもいろいろ二人で研究し、工夫しながら稽古していた。

ところが、Nさんが仕事の都合で稽古に来れなくなってしまい、私一人だけになってしまった。

正真正銘まったくのひとり。

朝、お寺に行くとほんとにひとり・・・・。

先生曰く、「ひとりなんだから、思う存分稽古して、何時までいてもいいんだよ。」

もちろん、稽古は大好きだ。
思う存分稽古もしたい。

しかし・・・しかし・・・・だ。

~~~~~~~~~~~~~~さ・み・し・い~~~~~~~~~~~~~。

ちょうど雪の降りつもる時期で、お寺の境内もぎっしりと雪で覆いつくされ、そんななかで私はひとり・・・・・・・。

そのとき、私は思いついた。


八卦掌をやろう!


ちょうど雪が積もっているし、八卦掌の稽古をすれば、複雑な歩法の足跡がついてジャッキーの「蛇拳」のワンシーンみたいになるじゃないか!

八卦掌の型をひたすら雪の上で稽古した。

長靴がぬかるんで、脚が上がらなくなってきた。
雪も靴の中にはいってきて冷たい。
靴下も濡れてぐちゃぐちゃだ。

何回も円周上を歩いているうちに、雪の上にミステリーサークルみたいなものができてきた。

ふふふ、これはおもしろい!

しかし、おもしろがっている場合ではない。
雪を踏みしめているうちに足もとがツルツルピカピカになってきた。

す、すべる!

ころぶ!

あ、あぶない!

しかし、私はここで負けるわけにはいかない!

ころびながら稽古を続けた。

すると面白いことがおきてきた。
たしかに足は滑ってまともには歩けない。
しかし、上半身が崩れなくなってきて、滑っても転ばなくなった。

下半身・・・・もっと言うと膝から下は崩れたり滑ったりするが、膝から上は崩れなくなった。

ふふふ、これはおもしろい!


これぞ、「雪上八卦掌」のクンフー(工夫して得られた力)だ!


しんしんと雪が降る鉛色の空を仰いで、ひとり雄たけびをあげていた。


そうなってから、普段の生活のなかで雪道を歩いていても、転ばなくなった。

そして、これは春になってからわかったこのなのだが、苔むして滑りやすくなったお寺の石畳の上で形意拳をやっても転ばなくなっていた。

そのときは、


これぞ八卦掌がうまくなると形意拳がうまくなる実例だぁ~!


・・・・とは叫ばなかった。
Nさんも稽古に来れるようになり、他の門人たちも稽古に来ていたからだ。


あれから数十年・・・・・あの冬の1人稽古を忘れない。




















































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