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秋の章
相手のあごでも、水月でも、どこでもいい。
きちんとそこを狙い、かわされたときや防御されたときのことなどもいっさい考えず、その一点を一撃で粉砕しようと、おもいっきり打ち出された拳は、容易にかわすことも、受けることもできないものだ。
その拳は、横に逃げれば、横に追い、ブロックすれば、ブロックごとぶち壊す。では、この拳に勝つにはどうすればいいか・・・・。
それは、逃げない、かわさない、ブロックしないことである。
そこを思いっきり打たせることが大切。
相手がターゲットの方向に狙いを定め、打ち出すとき、拳の軌道を修正できる範囲では、こちらも動いてはいけない。相手が拳を打ち出して、もう軌道修正ができなくなるその瞬間まで、動作を起こさず、そのぎりぎりの境界線のところで動作をおこすのである。
そのときには、もはや、横にかわす動作も、後ろに逃げる動作も間に合わない。ほんの数ミリ、相手の拳の軌道から、僅かに斜めにずれて、相手とすれ違う動作・・・・これしか間にあわない。
そして、まさにすれ違おうとした、その瞬間に技が決まるのである。
昔、忍者ものの漫画や映画なんかで、敵とすれ違った瞬間、バッタと敵が倒れているなんてシーンを何回となく見たが、これは、けっして作り事の世界ではなく、武術においては極めて合理的な戦い方で、きわめてリアリティーのあることなのだと、最近、気がついた。
やっと、こんな単純なことに気がついた私は、まだまだ武術の世界では、ひよっこもいいところなのだろう。
套路は人を球にする。
套路には、色々な技のエッセンスが封じ込められていて、それを解凍して、使えるようにしていくのは、武術の稽古の楽しみではあるが、もうひとつ、套路の重要な役割として、武術のカラダをつくりあげるということがある。
一寸、拳が動けば、全身が一寸動く・・・といえばいいか、一寸の拳の動きのなかに全身の動きをのせるというべきか、そういった動きをするカラダを造るのが套路の目的の一つであり、重要な要素であると思う。
もっと別な言い方をすれば、人の形をしながら、球体の働きをするカラダを造るということになるだろうか・・・。
球は、一箇所に力を加え、動かそうとすると全体が同時に動く。
力を加えたその部分だけが動くのではなく、全体がごろんと転がるというか、全体が同時に動くのだ。
そして、その球体に意志があれば、その力を加え押しつづけている者の体ごと巻き込んでしまう。
あるいは、相手の押してくる位置によっては、相手の体ごと潰してしまう。横から斜めに勢いよく、押されれば、相手は力を横にそらされてしまい、後ろを向かされてしまうだろう。
また、その球体が自らの意志で前進し、様々な角度の回転で相手と接触すれば、相手は触れただけで、上方へ、後方へ、前方へと弾き飛ばされてしまうだろう。
このような球体のようなカラダというのは、簡単に言えば、カラダの一点が動けば、同時に、すべてが動くという体である。
もっと具体的に言えば、相手の左上段突きに対してこちらは、右内受けで防御したとしよう。
そしたら、相手から見たときに、相手の左突きに対して自分が右前腕部を垂直に立てて自分の攻撃を受けたその瞬間には、自分の左半身は、全く相手の視野から消えて見えなくなっているという状態である。
すなわち、内受けのために右前腕部を立てる、それと同時に左半身は後方に開かれ、それと同時に腰も膝もまわっているということである。
このまま相手が押し続ければ、相手は完全に後ろ向きにされてしまうだろう。押してこなくても、左の背中はさらしてしまっているのであり、当然右の攻撃をすることもできないばかりか、相手の攻撃を最も近い位置でまともに食ってしまうということになる。
もちろん、人間のからだは、球体ではない。
しかし、武術においては、球体の働きをする体を要求される。
ここで、邪魔になるのが、カラダの各関節であり、特に上半身の手首、肘、肩、腰などの独立した屈伸運動をする関節である。
これらの関節の独立した動きをコントロールし、全体の動きのなかに溶かし込んでいかなければならない。
一つの関節が動くときに、ほかの関節が同時に動かなければ、体は球体の働きをしない。
したがって、私は、部分的な屈伸運動などをともなうウエイトトレーニングは、好ましくないと思っている。
また、全体の動きのなかで、ある部分の力が弱いからと言って、その部分の筋肉に負荷を掛け、強化するやりかたは、武術のからだづくりにおいては、弊害になるとさえ考えている。
あくまでも、武術の動きをくりかえし、全体の動きの中に、筋肉、関節の動きを渾然一体と溶け込ませていくなかで、技の精妙さも増し、カラダも強くなっていく。
あの、ゆったりと柔らかく行う太極拳でさえ、長年、套路で功をつんでいけば、太極拳用の筋肉が発達していくものなのである。
套路における攻撃も防御も、細心の注意を払って、全体が動く動きになるように、動きそのものを練っていくことにより、人間の姿をした、摩訶不思議な球体がつくられていくのである。
そして、それこそが套路によって得えられる武術のカラダなのである。
ブルース・リーのコップ
昔、ブルース・リーが映画「サイレント・フルート」のなかでこんなことを言っていたのを思い出す。
人から教えを請うときは、自分のコップの中をからにしなければならない。どんなにおししいアップル・ジュースでも、自分のコップの中に水が入っていればまずくなり、むりに全部注ごうとすればあふれでてしまう。
正確な言葉は覚えていないが、内容は、こんな内容だったと思う。
大切なものを自分のものにするときは、自分のなかを空にして、一旦全部受け入れ、それから自分なりのエッセンスを加えれば、美味しいアップルジュースができあがる。
えてして人は自分のコップの中身を空にしたがらない。
おれのつくったグレープジュースのほうが、そのアップルジュースよりもうまいんだというプライドを捨てられない。
でも、アップルジュースの味も試してみたい。
そうして、少し、入れてみる。
まずい、なんだこれは・・・。
やっぱ、グレープがいいや!
でも、そのひとは知らない。
それは、アップルジュースの味ではなくて、グレープと交じり合った濁った味だということを・・・・。
ほんとうのアップルジュースを飲みたいと思うなら、まず、自分のなかにグレープジュースを捨てるべきだ。
グレープを捨てないで、アップルはまずいというのは滑稽以外のなにものでもない。
20年以上グレープを飲み続け、コップのなかにもこびりついているグレープの味をしっかりおとす。
これが、武術における套路の役割。
そして、空のコップに新鮮なアップルジュースを注ぐのも套路の役割。
套路を学び、武術を学ぶためには、自分のなかを一旦、空にすること。それは、師を敬い、友を尊重し、武術に謙虚になる、ものごと全てを敬うこころ。
敬い、謙虚であることが、武術の学ぶ姿勢。
ひいては、多くのことを学ぶための、もっとも合理的な姿勢である。
そうして、ほんとうのアップルジュースの味を知り、捨てるのも自由、オレンジジュースにかえてみるのも自由。
でも、そのたびに自分のコップの中身を捨てるべきだ。
そうでないと、物事の本当の味はわからない。
しっかり、ひとつひとつ味わいながら、捨てながら選びながら行くのが学ぶものの道である。
そして、ほんとうに気に入った味に出会ったなら、そこに自分なりの味付けをし、オリジナルジュースをつくる。
アップルの味、グレープの味、オレンジの味、それらの濁りなき純粋の味を知らなければ、濁った味のなかをさまようだけ・・・。
いろいろなことを学び、成長したいと思うなら、人を敬い、素直なこころを持つことが、大切。
道徳の問題を突き詰めていけば、合理的な姿勢にたどり着く。
こころと体は、こんなところでもリンクしている。
足の感覚
武術をやっていて一番変わるのが、足の感覚だと思う。
当然足というものは、先ず、足の裏が地面に接地し、その上で足首が支え、その上で膝が支え、その上で股関節が支え、その上で腰が上半身を支える。
しかし、武術を長年やっていると、足の裏や足首が膝を支えているというよりも、膝から下、つまり、脛、足首、足の裏を自然に脱力しながら、地面にむかって垂らしているという感覚になる。
そして、股関節と骨盤の間が非常にゆるくなり、ブラブラになり、上半身と別々に空間に浮かんでいるという感覚になる。
そして、足の裏の真中から上に向けて空気のホースのようなものを通そうと意識すると、全身が緩んでいながら、両足の真芯の上に上半身を乗っけて非常に絶妙のバランスを身体のなかに保っているという不思議な感覚が生じるようになります。
そうなったら、歩いているときも、自分の感覚からも、敵の感覚からもあるくという感覚、情報を我が体のなかから、読み取ることは不可能になってくるでしょう。
そのとき、はじめて武術の歩法は、ひとつの高度な段階にいたるのだと思います。
そうです、そして、この足の使い方が、相手の意識のなかで瞬間移動を出現させるのです。
師匠から学ぶということ。
ずっと頭の隅において考えていたことがある。
なぜ、師匠に稽古をつけてもらうとき、師匠の懐が深いと感じてしまうんだろう。
私の身長は177センチ、師匠は160センチくらい。
手足もどう見たって私のほうが長い。
それなのに、どうがんばっても自分の攻撃は師匠に届きそうもない。
まるで師匠のからだの前方に特別な空間があって、その空間を通り越して師匠の体に触れることすらできないかのようだ。
しかし、その空間は、私の攻撃をはじきとばすわけでもなく、潰すわけでもなく、何か特別な、柔らかいような、暖かいような、それでいて浸入を阻むような一種独特な空間である。
いろいろ、師匠の動きを観察して、指の使い方、胸の使い方、重心の移動のしかた、肩の状態など、いろいろ分析して、そのしくみは理論的にはわかった。
そして、套路でその動きを身につけようと努力して、指の正しい方向、手のひらのくぼませ方、小指側の筋肉の使い方、腰の回し方、タイミング、肩関節を縦回転中心に行う、正中線が動いてから垂れ下がっていた肘が前方に動き出すなど・・・・いろいろ考えたことなどを身につけようと何回も套路を繰り返し練習した。
あるとき、それらのことが体のなかでバランスをとりながら調和したとき、やっと師匠の動きを体現することができた。
しかし、実際に攻防のなかでそれを試してみると、ある人に対しては師匠の動きそっくりに対応できても、ある人にたいしては、まったくそのような動きができなかった。
また、そのときの自分の精神状態にもよって、できたりできなかったりした。
そして、いろいろ考えた結果、体というものは心が支配しているものだということが、いまさらながらわかった。
師匠の体の動きを細かく分析していって、それを一個一個体現することは可能であるが、それを、自由に心も体も変化する相手に対して思い通りに対応させることは極めて難しい。
それができるのは、その複雑な体の動きを統括して発動させるだけの「心のありよう」なのだと思う。
結局、一瞬にして、複雑な動きを体現するためには、心がなんらかの統一性と自在性をかねそなえた状態になければいけないのである。
その心を所有するのは、その人の人格であり、思想であり、生き方であると思う。
やはり、師匠から技を学ぶということは、師匠の人間性、生き方を学ぶということだと思う。
基本の凄さ
正拳突きって凄い技だな~と最近つくづく思います。
正拳突きって腰に拳をかまえてそこから繰り出しますよね。
これってすごいアイディアだと思います。
ボクシングのように顎の前あたりに拳を構えるのってよく拳が見えるでしょ。最初から自分の視野に拳が入っているわけです。
でも、腰に構えられたり、腰の付近からいきなり顔面を突かれたらさばききれないことが多いのです。戦いのときは、どうしても相手の表情や視線を観察しようとしますから、腰に構えられた拳は視野にはいりにくく、拳が動き始めた瞬間を視野にとらえるのが遅くなります。また、腰に構えられた拳が、真っ直ぐにではなく、空間を斜め上に切り裂きながら眼前に浮かび上がってくると、距離+角度の計算に時間がかかってしまい、なかなか反応がしにくくなってしまうのです。
もちろん、この技を成功させるためには、正中線の感覚がしっかりしている事、予備動作が無いこと、肘がきちんと落ちている事、肩の上下運動を殺していて、肩関節を落とすことによって腕全体が浮かび上がるような動きができることが最低条件になりますが、熟練された正拳突きは、相手が防御しようとしても当たってしまいます。これは、昔の武術家達の智恵の結晶だと思います。
どうして、現代の空手や拳法をやる人達は、こんな素晴らしい正拳突きを捨てて、ストレートやフック、アッパーなどと取り替えてしまったのでしょうか?
ほとんどの拳法や空手の型が腰に拳を構えなさいと教えているのに見事に大勢の修行者達が無視している。
とても不思議なことだと思います。
極彩色の「空」
般若心経に「色即是空 空即是色」とあります。
私は、別に仏教徒ではありませんので、この経文については、一般的な知識しか持ち合わせていませんが、どうも、最近、このフレーズが気になっています。
このフレーズの意味は、形あるものは止まらず、移ろっていくから実体があるようでないという意味だと思います。いっときとして、固定して変わらぬものなど存在しないのだ。だから、形あるものの実体は無く、実体のないものが形を作っていくが、その実、この世は全て移ろっていくため、実体というものが存在しない。すなわち空なのだ。
こういったことを説いているのだと思います。
「空」・・・・なんてむなしい響き、音感なのでしょうか。
「空」・・・・イメージするのは、何も無いということ。
うつろで空虚であるということ。
さだまらない。
無色無臭。
そこはかとない寂しさ。
無気力な感じ。
宮本武蔵は、「空」の境地を目指し、そこに到達しました。
太極拳をはじめとする中国内家拳の極意も「空」と言い、「虚」の大切さを説きます。
しかし、「空」のイメージが一般的には、「何も無い」とか、「からっぽ」というものであるかぎり、それを頭の中から払拭しなければ、錯覚の悟り、あるいは、実力なき厭世者、知ったかぶりの隠遁者になるだけです。
私にとって「空」とは極彩色のダイナミックな世界です。
赤、青、黄色、ありとあらゆる色がひしめきあい、まじりあい、とうとうと流れていく世界です。
人は、「色」を求めていかなければ、「空」になれないと思います。残念ながら人は「空即是色」を目指していけない生き物であり、「色即是空」を目指さなければ、邪道に陥りやすいいきものだと思います。
武術において、私の求める「空」とは、相手と自分との間に多面的に「色」を同時展開させうる「水」のイメージです。
私は極彩色の世界をめざします。
雨の色も空の青も、雪の白も、木々の緑も、全ての色が流れていく、そんな美しい色の数々を身体のなかに通していき、自分の客観的な意識と現実との間のぎりぎりとのところ、あるかないかの意識の端の端で、「空」を感じることができればいいのだ思っています。
そして、最終的には、自分の「空」のイメージが「映像」から、「姿なき作用そのもの」に変化していくことを目指しています。
書かざる経文
家で夜、テレビを見ている。
音楽を聴いている。
ふっと、部屋の窓のサッシに自分の姿が映る。
身体が無意識に武術の動きをはじめる。
こうだった。
このかたち。
ああ見えた。師匠の動き。
こんな雰囲気。
こんな形。
この動きって、こんな風に見えるんだ。
基本に忠実に姿勢をとり、基本に忠実に動いてみる。
しかし、これは、文字の世界。
文字どおりに動いてみる。
それなりに力はでる。
それなりに集中する。
でも、師匠の動きとは何かが違う。
師匠の動きに基本の定規をあててみる。
はみでているところが見えてくる。
そこを真似してみる。
ぜんぜんだめ、できない。
基本にもどってみる。
それなりに力は出る。
しかし、師匠の技の威力から程遠い。
基本からはずれて師匠の動きを真似てみる。
ぜんぜんだめ。
心を静めてもう一回イメージしてみる。
師匠の動きや身体の印象のなかで、自分の意識にひっかかってくるもの。
・・・・・・。
・・・・・・・。
やがて浮かんでくる。
それは、たとえば、肩の位置や、足の角度、力の抜け方といったものではなく、小指などの、身体の小さな骨の角度や普段意識しない部分の小さな筋肉に向けられる意識だったりする。
そこを捉える。
おもいきりそこを意識して動いてみる。
全部の動きがその瞬間から師匠の動きのイメージと重なってくる。
小さな感覚が、体全体の動きを統率し、今までと違った動きにかわってくる。
あらためて感じる。
外側から見ると基本から外れているが、身体の内部は、まさに基本どおりだ。
師匠の言葉を思い出す。
「大きい関節に技をかけても通用しないときは、だんだん小さな関節に技をかけていけばいい。これが関節技の基本だ。」
今にしてやっとその意味がわかった。
小さな関節は、あいての身体全体の動きを制御してしまう。
ということは、自分のからだにかんしても同じことなのだ。
基本というものは、当てはめて使ったら、今度は使いこなすようにしなければならない。
基本の質が変化することが武術上達の道だと思う。
朝、稽古をする。
拳を打つ。
柔らかいからだで打つ。
硬いからだで打つ。
大きく打つ。
小さく打つ。
突きがどこにもおさまらない。
イメージを使う。
師匠の身体の動き、表情までも頭に思い浮かべる。
その動きのなかにある独特のニュアンスを嗅ぎ取る。
自分のからだの動きのなかにその動きのニュアンスを取り込む。
どうやら、突きのおさまりが良くなってきた。
拳が自分の前方の空間の一点におさまりはじめる。
トン、トン、トン、どんどんおさまっていく。
そこしか、拳のおさまる空間がない。
しかし、明確なものをあらわしてこない。
その空間の感触が鈍い。
ダン!だん!繰り返すたびにその感触ははっきりしてくるが、まだ純度が低い。
朝に夕に「武術」という書かざる経文を読んでいる。
師匠の身体と二度出会う。
いにしえの武術家達は、さまざまな体の動かし方を発明してきました。
その数あるものの中からなにを重視し、なにを多用するかは、流派によって異なるところですし、場合によっては師匠によっても異なります。
身体操作という視点から見れば、その武術という身体操作の集合体というフィールドのなかから、師匠というモチーフを見出し、それをひたすら稽古していくことが、武術を学ぶ、習うということだと思います。
しかし、初心者のうちは、そのフィールドが存在することさえ気がつかず、ただただ師匠の真似をするだけにとどまってしまいます。しかし、中級者になると、師匠の動きを究明していくうえにおいて、そのフィールドの存在に気がついてくるものです。
そして、そのフィールドの存在を知ったうえで、あらためて師匠の動きと出会うのです。
そして、そのフィールドのなかのどの部分を師匠は使っているのか、どこを重視しているのか、だんだん見えるようになってきます。
上級者においては、師匠の動きができるというだけでなく、師匠が使ってない技術をそこに取り入れて、オリジナルのモチーフを作り出します。
そして、それを磨いていって、動けばすべて技になるという次元に到達するのだと思います。
稽古においては、師匠の身体と二度出会うのです。
そして、二度目に出会ったときは、すでに自分の身体も生まれ変わろうとしています。
それは、今まで知らなかった新たな身体との出会いでもあるのです。
贅沢三昧
相手の目の前に立ったとき
風になれる。
水になれる。
火になれる。
光になれる。
影になれる。
空気になれる。
地に沈む。
空間に浮かぶ。
天に吊り下げられる。
澄み切った力を感じる。
これほどの贅沢があるだろうか?
それゆえに武術は生死を越えて
いにしえの人々を魅了してきたのだ。
腰の拳
あらゆる拳法において、基本は拳を腰に構えてからの突きでありましょう。
この道において、基本こそ奥義と言われるように、拳を腰に構えて突きをだす、というこのこと事態、素晴らしい奥義だと思います。
ボクシングにおいて、拳を顎の前に構え、それから顔面へのパンチを打ちだすとき、あきらかにボディーブローのときとは、重心の移動の仕方、状態の動かし方が違います。
しかし、腰に構えた拳から繰り出される突きは、上段突きであろうと、中段突きであろうと、上体の位置や動かし方が変わらない。
したがって、どこに拳が繰り出されてくるのか予測が困難なのです。
もっと、研究すれば、そこに突きがくるとわかっているのに受けれない・・・。
攻撃がどこにくるのか予測できない。
また、予測できたとしても、受けれない。
これが、奥義でなくて何が奥義か?
ということなんですが、わかってくれる人にはわかる・・・・・・。
自然の中へ・・・・。
どうしたって無理なんですよ。
自然を相手に、自分があれをしたい、これをしたいなんて欲張って動いたとしても・・・・。
まったく無力なんです。
こっちの都合に合わせてくれません。
下手すりゃ命まで獲られてしまいます。
小さいんです、人間って。
弱いんです、本当に。
ルールに従うしかないんです。
それは、体験から学んでいくものです。
どうすれば、自然っていうものが、自分の居場所を認めてくれるか?
知ってましたか?
人間って、自然界では仲間はずれになってるってこと・・・。
仲間にはいるには、それなりの仁義ってもんが必要なんです。
それは、体験しなきゃわからない。
本やテレビで、わかるってもんでもないんです。
人は、無意識に自然には、なれない生き物だと思います。
だから、武術・・・・・。
有意識の極地に無意識をつくる。
始まりは終わりだということ。
武術の技って、いつ始まっていつ終わったのかわかんない。
始まりは、見えないんです。
終わりは、いきなりです。
どっからどうなって・・・どうなった?
わかんない。
実際、そうなんです。
それが武術です。
太極拳もそう。
いつのまにか始まっていて、いつのまにか終わっている。
始まりは終わりのあとにきて、終わりは、はじまりの先にくる。
これが、自然の循環というものとリンクする。
生きていることが稽古
生きてるってことが稽古だと思う。
呼吸をしてるってことが稽古だと思う。
頭を首のつながりとはずし。
肩と首のつながりとはずし。
肩と腕のつながりとはずし。
腰と背骨のつながりとはずし。
腰と膝のつながりとはずし。
膝と足首のつながりとはずし。
足の甲とかかとのつながりとはずし。
そんなことをいちいち考えていれば、
身体を使っていること事態が、
肉体を持っているってこと事態が稽古になるんだと思います。
めんどうくさいと思いますか?
武術家って人種は、そんなことどもが、とても面白いと思える人達のことを言うのです。
「物好きだ」と言ってしまえば、彼らは霧の中に隠れてしまうだけ・・・・。
からだことば
前足を消さないとだめです。
手で身体を消すんです。
中身の起こりが動作の準備です。
始まったときには、終わってないといけないんです。
腕には手首の関節も肘も肩もないんです。
肩甲骨から先、これ一本です。
膝から崩れ落ちてください。
骨盤から崩れ落ちるんです。
身体を閉じてパッと開くんです。
その間に腹から前へ出る。
下半身を置き去りにして、上半身を伸ばす。
力ずくで相手がくるから、技が出ていくんです。
技できたら、もうこちらは、それ以上技をかけていくことはできないんです。
でも、相手の技が未熟だからその割れ目に染み込んでいって技が出てくるんです。
完成度の高い技に対しては、もうこちらは何もやることがないんです。
今日、稽古の最中に私がつかった言葉の数々を並べてみました。
これらの言葉は、日常会話のなかでは、ほとんど出てこない言葉達です。でも、身体の世界では、充分通用する言葉だと思います。
私の身体のなかから出てきた言葉です。
こんな言葉を使ったコミニュケーションが出来る仲間達を持っていることを幸せだと思っています。
話しの途中が途中だけ現れるということ。
そう、結局は日差しのように相手の中にはいっていくってことなんですよ。
おしまい。
こんなふうに相手に語りかけるのが武術だと思います。
前後の説明もなにもない。
導入部分もたとえ話もなにもない。
挨拶もないし、自己紹介もない。
いきなり結論を話す。
なんの脈絡も無く・・・。
そうすると相手は思わずつぶやく。
「あっそう・・・・・・?????・・・・って何が?」
このときの「あっそう・・・」が大切です。
そう言わせるのが大切なんです。
いきなり、「日差しのように入れ!」では、相手は「えっ!?」となってしまう。
つまりからだと気持ちが防御反応をおこして固まってしまうのです。
それ以上、話しても相手は「なんだこいつ!」って思ってしまってまともに話を聞いてもらえない。
ところが、「そう、結局は・・・・」ってその前にあたかも会話を続けていたかのように話しかけると相手はその言葉の意味を探そうとするのです。ここで相手の意識は私の心の中にではなく、自分の心の中に向ってしまいます。
そうしたら、相手は私のしたこと自体の意味を把握できなくなります。
つまり、こちらがきわめて理屈に合わない会話をしかけているということを忘れて、はてなんのことだったかなあ?と自分の中を捜し始めるのです。
これが術です。
これを身体で行うのが武術という術です。
術の存在を無視して武術を語る。
こういったことに心と身体が防御反応をおこすのは、武術を学ぶ者としてはあたりまえのことだと思うのですが、どうも、世間ではこれを「頑固者」というらしいのです。
武術の突き
突きの極意って受けても当たるってことしょ。
破壊力云々の以前の問題として・・・・。
受けても間に合わない、受けてたと思ったんだけど当たってる。
これって突きが見えないってことですよね。
でも人の目に見えないほどの突きなんてないでしょ。
思わぬ角度からってこともあるけど、真正面からの突きだったら
たいがい手が出て止めるでしょ。
武術の突きって、たとえば、そこを打つよ、この右拳でね、ってあらかじめ宣言しておいても当たっちゃうんです。
しかも素早いって感じの突きじゃなくって、なんだかもっそりとした突きなんだけど、相手には見えているようで見えていない。
目が錯覚しちゃうんですよ。
脳が錯覚するといったほうがいいのかな?
人間の身体が突くときにどんな動きをするか・・・・いえいえいえ個人レベルの癖なんてもんじゃなくて、人間というか現代人というか、そういった生き物としての癖を見て、どうしても予測しちゃうんですよ。
その予測をはずれた身体の動かし方をされると目から入ってくる情報を脳が処理できない、つまり思考停止の状態になってしまうんです。
それで受けようと思っても間に合わなかったり力がはいらなかったりして当たってしまうんです。
でも、どうしたら、そんな変な動きができるのか?
まあ、突きの場合で言えば、肘と手首を使わないことですね。
肘と手首が動くから突いてくるぞってわかっちゃうんです。
それと突こうと思わないことです。
手のひらに水をすくってそれがこぼれないように、相手の身体のところまで一気にもっていく。
そして相手の身体のところまで持ってきたら、一気に水をこぼす。
ジャ~ってね。
こんな感じでやると突きは突きじゃなくなって、相手に当たるんです。
これが、武術の突きなんです。
ちゃかぽこちゃかぽこ
ちゃかぽこちゃかぽこやっていて、やれ当たっただのかすっただのと言って喜んでいるようなものを武術とは言わない。
師翁がその著書にこんなことを書いていたのを最近思い出します。
やれコンビネーションがどうのヒットアンドアウエーがどうのペース配分を考えて・・・・・なんてことは武術には関係ないんだということがわかりかけてきたからです。
なぜなら、武術はそこまでいかないうちに勝負がついてしまうからです。
一瞬、触れた瞬間に全部終わってしまうからです。
ちょうど月の光が部屋の中を照らすように、草木が伸びる瞬間を見せないように、わかった瞬間には終わっているからです。
そんなことができる体になるためには、肩が死んでいなければなりません。
肩を殺すためには首筋の力を抜いたまま顎が引かれた状態でいなければなりません。
首筋の力を抜いたまま顎を引くには、後頭部が伸びていなければなりません。
後頭部を伸ばすためには、脳天を天井から糸で吊り下げられているイメージが必要です。
吊り下げられているイメージを持つには、自分が運命に操られているという自覚が必要です。
しかし、そこには虚無の世界のにおいがするので、自分のことは自分で決めるという覚悟がないと無気力になってしまいます。
それだけでは、自分のなかに矛盾を感じてしまうので、自分のなかには自分の運命と戦う自由もあるんだという野心と、その野心を持つことじたいが自分の運命なんだという悟りが必要です。
このように肉体の要求を満たしていこうとすれば、結局は心の中につながっていきます。
人間の身体と心のこういったつながりを明らかにしていくのが武術だと思います。
そして自分の身体の中と外を自由に行き来することができれば、達人と呼ばれる人種になれるのでしょう。
輪と和
手も足もどんな風に動いたって自由なんです。
肩が背中が胸が輪を保っていれば・・・・。
武術っていうのは、あくまで肉体の理論でいうならば、この輪を保つために、しかも力を抜いて保つためには、身体がどう動けばいいかってことを教えているだけなんです。
手が右へ行こうが左に行こうが前に行こうが関係ありません。
要はそのとき、輪を保つために身体をどう動かせばいいかってことだけなんですから・・・。
輪を保つこと・・・・力を抜いて輪を保つことは、やはり人間関係においても大切なことです。
四角四面につっぱるのではなく、流されるままに生きるのではなく、とにかく輪を保つのです。
自分をしっかりと持ちながら、全体の流れに乗るのです。
これが輪を保つということです。
そして「輪」は「和」につながります。
「輪」が「和」につながったとき、はじめて武術は武道になるのであり、「輪」すら保てない格闘競技の選手達を、私はどうしても「武道家」と呼ぶことはできません。
武術の突きは突きではない。
突きの極意って受けても当たるってことしょ。
破壊力云々の以前の問題として・・・・。
受けても間に合わない、受けてたと思ったんだけど当たってる。
これって突きが見えないってことですよね。
でも人の目に見えないほどの突きなんてないでしょ。
思わぬ角度からってこともあるけど、真正面からの突きだったら
たいがい手が出て止めるでしょ。
武術の突きって、たとえば、そこを打つよ、この右拳でね、ってあらかじめ宣言しておいても当たっちゃうんです。
しかも素早いって感じの突きじゃなくって、なんだかもっそりとした突きなんだけど、相手には見えているようで見えていない。
目が錯覚しちゃうんですよ。
脳が錯覚するといったほうがいいのかな?
人間の身体が突くときにどんな動きをするか・・・・いえいえいえ個人レベルの癖なんてもんじゃなくて、人間というか現代人というか、そういった生き物としての癖を見て、どうしても予測しちゃうんですよ。
その予測をはずれた身体の動かし方をされると目から入ってくる情報を脳が処理できない、つまり思考停止の状態になってしまうんです。
それで受けようと思っても間に合わなかったり力がはいらなかったりして当たってしまうんです。
でも、どうしたら、そんな変な動きができるのか?
まあ、突きの場合で言えば、肘と手首を使わないことですね。
肘と手首が動くから突いてくるぞってわかっちゃうんです。
それと突こうと思わないことです。
手のひらに水をすくってそれがこぼれないように、相手の身体のところまで一気にもっていく。
そして相手の身体のところまで持ってきたら、一気に水をこぼす。
ジャ~ってね。
こんな感じでやると突きは突きじゃなくなって、相手に当たるんです。
これが、武術の突きなんです。
祈るように歌うように稽古する。
今日、祈るように歌う女の娘を見ました。
テレビでね。
その娘の名は平原綾香。
その瞳はとても澄んでいて、自分のなかの何か透明なものを見つめながら歌っているようでした。
武術をはじめた動機は強くなりたいといことからでした。
でも、今は違います。
私も彼女と同じように自分のなかの澄み切った部分が全体に広がるような、そんな自分に出会いたいからやっているのです。
いつも、自分のなかのその澄み切った部分に祈るように稽古しています。
透明で清らかですがすがしい空気。
そんな空気で自分の心と身体を満たしたい。
しかし、現実の私は汚れきっています。
それに対する抵抗感も嫌悪感もありません。
それは世間の垢ではなく、鎧です。
鎧が重くなればなるほど、私の力は強くなり、抵抗力も攻撃力も増していきます。
しかし、一方ではそんな力じゃない力が欲しい。
重いとか硬いとか速いとか、そんなこととは全然べつの次元にある力が欲しいんです。
濁りとは無縁の世界。
どこまでも透明で、感情すら入り込めない心の世界。
とても難しいけど確かにサムライとよばれた人達のなかに存在した世界。
その世界を自分のなかに呼び込むためにわずかの隙間から、自分の透明な部分に祈りをささげる。
その祈りとは、言葉ではなく稽古。
「あめつちの経文を読む」がごとく、今日も稽古、明日も稽古。
自分のなかの透明な部分に向けて祈りをささげつづけています。
丹田の転がし方
いざっていうとき脱力なんかできない!なんて声をよくききますが、やっぱそのとおりだと思うんです。
人間の身体って怖かったり怒ったりするとどうしても力入っちゃうんですよね。
でも、どうせ力はいっちゃうなら丹田にはいっちゃうように訓練するのが稽古だと思うんですよ。
つまり、恐怖も怒りも迷いも全部丹田に封じ込めちゃうんです。
あとは丹田が考えてくれるんです。
それで、丹田って脳から遠いじゃないですか。
そうしたら、意識のうえでは、遠くでだれかが自分の身体を操作しているような感覚になるでしょ。
そうしたら、自分の脳もある程度クールになれて落ちついた判断ができると思うんですよね。
いわゆる自分の感情の避雷針として丹田って使えばいいと思うんです。
それと丹田ってボールですよね。
正面から相手の攻撃を受けるとき、ガチッってやっちゃいますよね。肩も腕も腹筋も・・・。
それじゃ、もう技なんてもんじゃなくなるじゃないですか。
そんなときは、丹田を腰の奥に飲み込んでおいて、受ける瞬間に骨盤の前に押し出すんですよ。
あっ、極端にやったらだめですよ。
腰痛めちゃいますからね。
気持ち、ちょっとそんな気持ちでいんです。
それで上体を伸ばしつつ下半身を沈めるんです。
そうすると相手の攻撃はボールにはじかれたように上へ飛ばされたり、ボールに巻き込まれてつぶされるように下に崩れてしまうんです。そう、これはまさに丹田の仕業!
丹田がゴロゴロと転がって相手の攻撃をはじいたりつぶしたりした結果ですね。
あと、右斜め前方に身体をさばきたいなら、骨盤を右に傾ければ、丹田というボールはゴロンと右に転がりますから、筋肉のバネを使わなくても体は自然に右斜めに動きます。
左も同じ。骨盤を左に傾け、丹田を左に転がせばいいんです。
このやりかたのメリットは、はずみを消して体が移動できること。
とかく緊張すると固まってしまう脇腹の筋肉を無理なく動かすことができること。
こんな風に丹田を前後左右に転がすことができれば、早くて強い身体を得られるのではないかと思います。
肘を沈めるということ
今日は「肘を沈める」ということについてです。
リラックスして立ちます。
両腕は、脇の下にダラッと垂らして・・・。
手の甲が正面を向くようにしましょう。
そうすれば肘の骨は真後ろに向きます。
歩き出しましょう。
そのまま手の甲を前に向けて腕を振りながら・・・・。
もちろん、肘は真後ろ。
そして、腕を振るというよりも、両肘を交互に前方に進めていくイメージで・・・。
気がつきませんか?
右肘を前方に進めると、右半身ごと前方に進んでいくのが・・・。
左肘も同じ。
左肘が左半身を持っていってしまう。
さらに肘が重くて下に引っ張られているというイメージをもつと、あたかも肩関節など無いかのように、肘が自分の半身を持っていってしまうんです。
手の甲を前に向けるのは、肘の骨が常に真後ろか真下に向くようにするための方便です。
慣れてくれば、手の甲はどこを向いていてもかまいません。
このように肘の意識をコントロールすれば、肘は胴体と直結するんです。つまり肩を消すことができるんです。
そして肩の力みを消すには、肘を沈めるように意識すればいいんです。
肘を持ち上げたり、つぱったりしたら、あっという間に肩がもりもり張ってきます。
これをいわゆる「肩肘はった体」といい、闘うときは、お互いに肩肘張って力ずくの闘いになるわけです。
そして、この肘の意識を突きに使えば、相手は受けても当たります。たとえ当てることができなくても相手は崩れてしまいます。
また防御に使えば、身体は肘の陰に瞬時に隠れ、相手は受けられたという意識も無いまま身体を泳がせてしまうでしょう。
歩くことに応用すれば、人ごみの中をぶつからずにすいすいと歩くことができるでしょう。
肩というのは力みや気配が強くでちゃうんです。
そいつを静めて沈めておく必要があります。
これはこそこそとするためではなく、肩によって限定され、部分的な動きや力になってしまうのを、それを消すことによって開放的、
全体的な動きを一瞬にしてやってしまおうという非常に効率的なテクニックなのです。
中国武術ではこれを「沈肩墜肘」といいます。
肘の刀
刀って重いじゃないですか。
だからそんな重いもの抜いて戦おうなんて思ったら、無理じゃないですか。テレビのチャンバラみたいに自由自在に丁丁発止なんて無理でしょ。
逆に自分の身体が刀に振り回されちゃいますよね。
それなら、もっと軽いほうがいいでしょ。
でも、軽いと威力ないと思うんですよ。
重いほうが物理的にいっても威力あるでしょ。
でも、やっぱ重いから自分が振り回されちゃう。
でも、その振り回され方を工夫したのが剣術だと思うんです。
どうやって刀にふりまわされたら、うまく相手のところまでいって振り下ろすことができるか。
刀を抜いて振りかぶった瞬間、重いでしょ。
だから、なんとか刀がへんなところに落ちないように上手く相手のところまで運ばなきゃなんない。
でも、そんな簡単にはいかない。
だって相手だって刀で斬り付けてくるわけですから。
そんとき、自分のからだをどうやって刀のまわりに巡らせるか?
これが「術」ですよね。
よく、武士が刀を抜いた以上、相手を斬らなければならないなんてことを聞きますが、本当は刀が重いんで、お互い抜いた以上、斬らないと刀の持って行き場がないってことなんだとおもいます。
えっ?鞘におさめればいいって?
そりゃ無理ですよ。
相手も納めてくれればいいですけど、斬りかかってきたらどうするんですか?
やっぱ、刀の重さに身体ごと連れられていって相手のところに落とすしかないんです。
えっ?寸止めすればいいって?
でも寸止めした瞬間に斬られたらどうすんの?
いかん、いかん、きりがない。
拳法の場合は、刀は肘に相当すると思うんです。
戦いの間は、やはり肘が重いという意識が必要です。
肘の重みが術を作るんです。
そして、肘のまわりを身体が巡るんです。
肘が重いと思うことは、刀を抜いたと同じことだと思います。
刀と違うところは、肘の意識を消したり現したりすることによって
相手を打たずに済むところです。
でも、肘が一旦、前方の空間に向けてすべりだしたら、自分でよほど無理な力を使ってブレーキをかけないと自分の技を止めることはできないでしょう。
だから、拳法を学ぶ者はやたらと肘が重いなんて思っちゃだめなんです。もしかしたら、知らないうちに相手を倒しているかもしれないですから・・・・。
がはははっ!
変な話なっちゃってごめんなさいね。
そんじゃ!
言葉の落とし穴
「それならそうゆうふうに説明してくれればいいのに!」って言っちゃう人・・・・・。
これって問題外ですよね。
技も何もまともにできない人の弟子になる人はいませんね。
どんな立派な理論を並べ立てても、できなきゃ無意味なわけです。
できない人の弟子になろうなんていう人は、よっぽどのバカか暇人なんです。
技ができるから弟子になったんでしょ?
それでその技を教わろうとしているんでしょ?
それでわからなかったら自分で考えて工夫してなんとか真似すればいいわけで、それを「あんたの教え方がわかりにくいから、おれは技ができないんだ」なんて甘ったれるのもいい加減にしろ!って言いたくなっちゃいます。
だって義務教育やってんじゃないもの。
いやならやめろ!ってことじゃないですか。
本気で技を習おうと思ったなら、師匠のどんなささいな言葉やしぐさからでもいくらでも多くのことを学ぶことができる。
たとえ矛盾した教え方でも、その背景にあるその矛盾した言葉を言わざるをえない状況を分析すれば、そこでまた一歩、技の深遠な世界に足を踏み入れることができるじゃないですか。
あのときは師匠はこうしろと言った。
でも、今日は正反対のことを言っている。
いい加減にしてくれ!と思うか、なぜ正反対の言葉を言われたのかと考えるか・・・。
もうその時点で人間に対する洞察力に雲泥の差が出てしまう。
技というものは身体の多面的な要素が同時展開するもので、理論的に説明すれば、「これをすると同時にこれをしないで、べつの方向から動き出すことによって別の方向への力を作る」などという説明になるだろう。しかし、頭でこの説明しているとおりのことを理解できて、たとえそのとおりに身体を動かすことができても、全体として見たら全然違っていたなんてことはざらにあるのです。
それは、言葉というのは多面的に同時進行しながら動いている身体のほんの一部分を切とっているだけで、そこに立体的な全体的な動き全部を把握して提示するだけの力がないのです。
言葉が表現できるのは、本物のなかのほんの限られた一部分にすぎないのです。
だからといって言葉を並べ立てれば、全体の動きのニュアンスが消えてしまいます。
簡単な言葉で説明してもらったほうが自分その状況に入り込める余地ができるので、かえってわかりやすいってこともあるわけです。
基本だけできればいいんです。
武術において基本ほど重要なものはありません。
稽古とは基本を身に付けること。
それ以外にはありません。
たとえ、その門派によって様々なカリキュラムが組まれていたとしても、それは基本の重要さを認識させるための手段に過ぎません。
したがって、基本さえ身についていれば、数多く伝わっている套路や対錬も、その場限りの座興になってしまいます。
もちろん、初心者には基本なんてできるはずありません。
意味なんて理解できないし、基本どおりの動きや姿勢なんてできっこありません。
でも、これが基本なんだということを、無条件に身体に覚えこませることが大切です。
ここで屁理屈を言う人がでてきます。
「わからない!どうしてこんなことをずっとやっていなければならないのか!もっとわかりやすく説明してくれ!もっとわかりやすく教えてくれたっていいじゃないか!」
だめです。
武術の理合いとは、頭で理解するものではないし、理論的に説明したって身体が思うように動かない。
要は感覚なんです。
この感覚ってのは、やっぱ理屈じゃどうにも自分のもんにならないんです。
たとえて言えば、上着を着るときに、本当なら第一ボタンを第一ボタンのボタンホールにはめるのですが、意図的に第二ボタンのボタンホールのなかに入れてしまう。
そうすると速く下までたどり着くことができるでしょう。
この不自然でなおかつ合理的なもの・・・・それが基本です。
できないときのお楽しみ
できないときの楽しみをもてる人だけが武術を学ぶ資質を持つんです。
できない!どうしてもできない!どんなに真似をしようとしても、なんか決定的に違う!
武術を真剣に学んでいれば、だれだってしょっちゅう思うことなんです。
このときに、「やっぱりおれには才能がないんだ」とか「師匠が丁寧に教えないから悪いんだ」とか思っちゃうんです。
前者は自虐的で後者は他虐的です。
いやいや、変じゃないんです。
人間だれしもこういった傾向は持っていると思うんです。
でも、武術を学ぶ資質を持った人は、そんなふうに思わない。
やっぱり簡単にできるほど武術は単純ではないな。
簡単に人には真似ができないのが武術なんだ。
それほどのものを私は学んでいるんだ.
やっぱり奥が深いな。
でも、もう考えられることはすべて試してみたし、身体の動かし方もこれ以上どうしようもない。
一旦ここを離れるしかない。
できることに磨きをかけてみよう。
そうこうしているうちに、そのうち何か見つかるはずだ。
武術の資質を持っている人はそんなふうに考える。
楽天的で気長で、自分の潜在意識が答えを出してくれることを信じている。
しかし、武術の資質のない人は待てない。
すぐに結論を出したがる。
自分に才能があるかないか。
師匠の教え方がうまいかどうか。
そして、その結果はほとんどの場合NO!
もう、やめていくしかないんです。
もっと気長に、できないことを悩むことすら楽しいと感じることができなければ、とても武術の稽古などできないのです。
わたしは、「できない」とき、思い切ってその意識を捨てます。
ほとんど武術の稽古から離れてしまうこともあります。
でも、意識のうえではしっかりと「武術の稽古をしている」という認識があり、でも実際は、全然稽古をしていないという場合があります。
それでもいいと思っています。
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