新潟県武術連盟ホームページ

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「願立剣術物語」を読んでみました。


その本の始めの項にこういったものがあります。

「この伝は流れる水のごとし。少しも止むことなき剣術ぞ。たとえば光陰の移り行く如く、草の萌え出る如く少しもとどまることなし。中略・・・ほろほろと玉の形なりと云えり。」

これは防御した手は攻撃するために残し、攻撃した手は防御のために残すのだ・・・・なんて自分勝手に解釈しています。

光陰の「光」は攻撃、「陰」は防御。
それが移り行くがごとく繰り返されていく。
攻撃の手をいったん引っ込めれば、その次の展開はゼロに戻ってしまう。
ひっこめなければ、次の展開に隙間なく移ろっていける。
草が成長するときに、休むことなく延び続けていくように、いったん短くなってそれからまた延びるなんてことがないのと同じように、切れまなくかぎりなく展開していく。
相手が攻撃をためらい、お互いに動きが止まるときがあっても、こちらの手はもどることなく、そこにとどまり、相手の動きを待っている。次の展開を待っている。
こちらの意志は次の展開へ向けていつでも動き出すのを待っている。
気は滞ることはなく。草が萌えいずるがごとくひたすら相手に向けて延びていく。
転がり出したら止まらないボールのように・・・・。


これを対錬のときに使っていると、攻防が立体的になります。
そして自分の懐に丸い空間ができあがり、安心して攻防ができるようになりました。



心は満々たる水のごとく。
中略・・・・たとえば敵は水を防ぐ盾なり。この盾にも穴あれば水ひとり洩れ入るぞ。
敵の構えに穴なければ水は満々とて行きわたらんところもなく堪えたるなり。
この水を敵かきだしかきだしとすれども堪えたる水なれば去れども水押しだそうとすれども水のごとくなり。


心は満ち満ちた水のようであれ。
敵に少しでも隙があれば、そこから入り込んでいく。
敵に隙がなくてもどこまでも敵を覆い尽くしていく。
こちらの攻撃をいくら払いのけようとあがいても、こちらは満ち満ちた水なので、どこまでも侵入していって退けることはできない。

こんな解釈、してみました。

どんなに上手くこちらの攻撃をさばこうとしても、相手の手足がこちらに接触していれば、その接触している部分を置き去りにして、こちらの力は侵入していって相手を崩す。
それがいやで、どんなに硬くガードを固めても、その固めたガードごと崩してしまう。

対錬のとき、はじめはうまく相手に技がかかるが、次第に慣れてくると、相手はこちらの技の手順の先を読んで、かわしたり、ガードしたりしてくる。当然のことながら、相手も技をかけられれば痛いので、あらゆる手段を講じて技がかからないようにしてきます。
それでも、技がかかるように研究していくと、ついには相手ががどんな手段を講じても技がかかるようになってきます。どうやったらそんなことができるのか?それはその都度考えていくのですが、結局はこちらの力の成分を水のように使うこと。
ただし、水のような力を使うためには、全身・・・・すなわち指の先から足の先まで水の力を使うのに邪魔な要素を取り除いていく必要があります。これが十分取り除かれていないと、相手に防がれたり捌かれたりしてしまう。そう、その取り除いていく作業が「稽古」なのです。

特に対錬は、自分が水になるための稽古なのだと思っています。



伝というは別の儀にあらず。我が総体の病、筋骨の滞り角を削りたて幾度も病をおびき出しこころの偏り怒りをくだき思いをだまし、ただなんともなく無病の身となるなり。他人の病をよく知り、泥むところ恐れるところをわが身のごとくあらわし、師、その病を防ぐこと。師ももとこの病を愁い我にある所をもって直し申す儀。

こんなふうに解釈してみました。
我が門派に特別な教えなどない。術を発揮するために邪魔になる身体の姿勢、動きなど、すべて排除するために、何度も何度も型をやらせて、悪いところをおびき出しては、それを修正させ、弟子が悩んでいるところ、うまくいかないところを、師は自分の身体で再現してみせて、それを直すためにはどうすればいいかを教える。
師といえども、昔はいろいろと悩み、うまくいかないこともあった。その体験を踏まえてよく教えることが大切だ。

この項の表現はすごく面白くて、まさにそのとおりだなと思います。
武術の稽古は水になる稽古。
そのためには、自分の身体や動きに何かを付け足していくのではなく、どんどん無駄なものをおびきだして排除していく。術は獲得していくものではなく、自分の中の無駄を捨てていくこと。
対錬の型をやると、この辺の感覚がよくわかります。
また、先生の動きを真似てみるとよわかります。
先生の動きを真似て対錬の型をやると、まったくうまくいきません。
しかし、先生はその動きで、私たちにしっかりと技をかけることができます。
この謎を解くためにいろいろ工夫し、稽古していくのです。

何度やってもうまくいかないので、別の動きで代用してみたりすることはありますが、それでは技が浅くなってしまい、あるときにはかかり、あるときにはかからないなんてことになります。
ところが、先生の動きを会得して技をかけると、だれにでもかかるし、その基本を使えば、どんな技もできるようになります。

そうなるために、何度も何度も、自分の身体の動き、姿勢を細かく工夫し、思わず出てしまうような力みや反射が出ないようにして、稽古していくことが大切です。
悪いところをおびき出しながら稽古していくのです。
そのツールとして「型」があります。
「型」なくして稽古にはなりません。
「型」を使っておびき出すのです。

師の「型」というものは、ほんとにありがたい。

そんなことを思い出させてくれる項目です。


玉のきよくということ。かたち玉のごとし。少しも留まる事なし。
下り坂を走らしむに似たり、坂急なれば玉の走るにあらず。玉のこけ落ちるなり。
心の通いこの如く心急ぐときは玉のすべりを走るに似たり。彼これと移り、いちもつできて玉の角たつは、的になるほどに弓の上手の滑りその角をひしと討ち落とすべきひとつもなく、玉の走る事いずれを的とし、目付けと定め敵を討つべきかな。

こんなふうに解釈してみました。
玉のごとく清くあれということ。かたちは玉のようにする。すこしも留まることはない。
急な下り坂では玉は走らず転げおちてしまう。心がこんなふうに急ぐときは玉も滑り落ちていくのである。
彼これと心が急いで玉に角ができてしまうと敵の的になってしまう。弓の達人の角ができたところを討ち落とそうとしても、角がなく走り続けている玉を討つことができないように、玉が走っているのを討つためには、どこを的とし、どこを目印にして敵を打てばいいのか。

玉を急な坂から転がそうとしても、あまりにも急な坂だと滑り落ちてしまい、床にゴン!とぶつかってしまう。
そこに角ができ、そこを敵に討たれてしまう。
ところが走り続けている玉は常に移動しているので、狙い討ちをすることはできない。
直線的に等速で動くことにより、相手はこちらの動きに対応することができず、技がかかってしまう。
私はこれを攻撃技に応用します。
突きでも、できるだけ直線的で等速になるように討ちだします。
もう、こんな腰に構えたところから突きだす単純な突きでも、相手は防ぐことができず当たってしまいます。

玉を走らせる。

これは攻撃技の極意だと思います。



面向かいということ。敵を求めて向かうにはあらず
求めれば一物備わるなり。我が心の〇〇(虫食い)よくよく取りうけること肝要なり。玉の心なれば何れか我に向かわぬ処あらんや。玉は十方を放れ十方によく通観し万方明らかにせしめひとつも泥むことなし。しかも内清く留まるところなし。かく面向かいといえば敵先に立ち味方あとになりしからは敵の色に付くに似たり。ここのところまぎらわしく心得がたし。たとえば月の光さし入りたる戸をあける者あり。入光あり。何を先とし、何をあとにせんや。心の玉十方へ通りたる月の光十方に行きわたりたるなり。戸あくればすなわち面向かい何れか前後なるべけんや。

こんなふうに解釈しました。
面向かいということ。敵を求めて向かっていくのではない。
求めれば執着してしまう。玉のような心であれば、どこに相手に向かっていかないところがあるだろうか。
玉はどこにも執着することなく自然と進んでいくことにより、ひとつも迷うところがない。
このように面向かいというと敵が先に立っていて、そこに我が後から向かっていくいといったイメージがあるが、それでは敵に執着してしまうことになる。ここのところを説明すると、かなりまぎらわしくてわかりにくい。たとえば窓をあけると月の光が部屋に差し込んでくるように、どこから先に光が入ってくるということもなく、部屋の中を照らす。この光に前後などあろうはずもないではないか。

これはほんとに難解な項目ですね。
まず、「面向かい」って何?
私の解釈では、「敵に向かっていく」という意味かなって思っています。
とりあえず・・・・。
敵に向かっていくときに、勢い込んで攻め立てていくのではない。
やたら攻め立てて敵に向かっていくのは、「向かっていく」ことに執着するということ。
しかし、玉のようなイメージであれば、いったん転がり出したら、どの部分をとっても相手に向かっていかない部分などない。全身が相手に向かって向かっていく。ひとつも迷うところがない。
このように「相手に向かっていく」というと、敵がまず先に立っていて、そこにこちらが立ち向かっていくようなイメージがあるが、それでは「相手に向かっていく」ということに執着することになる。
攻める、守るは玉のような働きをしているこちらの身体が転がっていく過程で自然に現れることであって、勢いよく攻め込んで、攻めることに執着するのではない。
「立ち向かっていく」ということに執着しないで、玉が相手にむかってころがっていくような自然さで相手にむかっていくのがたいせつだと説いている。

こんな感じでいかがでしょうか。
今回はむづかしかったですね。



五体は天地の吊りものなり。片つりになきように心得るべし。頭の俯くも一物、仰ぐも一物、腰をひねり腹を出し肩を指し足を使いあるいは大股に行く、或いは踏ん張り、これ皆片吊りなり。物に取り付、そのとどまるところに閉じられ氷となり水の自由なる理を知らず。水の自由を知らんとならば、まず五体の病を去り、そのままの身のカネを定め、それを本の定規として手の上げ下げ身の内滞りなく左右前後の道を良く骨肉に覚え知るべし。火の熱きを身にふれ、その味を口に入れて知る如くなり。理にかかわらず詩に述べず唯一向かうに教えの道に入れば理は跡より来るぞ。

こんなふうに解釈しました。
身体は天地の間に吊り下げられたものだ。アンバランスにならないようにすることが大切だ。頭が俯くのも仰ぐのもアンバランス、腰を反って腹を突き出し肩を怒らせ、足を踏ん張って大股で歩く。これみなアンバランスである。なにかに執着し、氷のように固まり、水のように自由になることを知らない。
水の自由さを知ろうと思えば、まず身体の偏りを取り除き、そのままの身体の基準を定め、それを身体の定規として、手を上げ下げするときも、身体の中に無理が無いようにし、左右前後に動くときも無理なくスムーズに動けるように身体に憶えこませることが大切だ。
火に触れて熱いことを知り、なにかを口に入れて味を知るように稽古を重ねること。
まずは理論にこだわらず理屈を言わずに師匠の教えの通りに稽古すれば、理論はあとからわかってくるぞ。

吊り下げられた人形は地面を蹴り、踏ん張ることはできません。
また、腰をそらすことも肩を怒らすこともできません。
また天からつりさげられた人形の頭はは仰向かず俯かず、ただ首がまっすぐに伸びているだけです。

吊り下げられた人形のような姿勢で、吊り下げられて人形のような移動のしかたで動く。これが武術の基本です。腕を上げ下げするときも、体幹が邪魔することなく、スムーズに上げ下げできるようにする。前後左右に動くときも、体幹が邪魔することなく、瞬時に移動する。体幹から手足にうねる様にはずむように力を運ぶのは、武術の動きではない。

水が自然に流れていくように動くには、身体の各パーツがお互いに干渉することなく、同時に動くことによって、全身の動きがパワフルに瞬時に出現することが大切です。

それと身体の基準・・・・これは正中線のことだと思います。どんなときでも自分の正中線は崩さない。その正中線を崩さないで動くことによって、手足が素早く反応する。また、安定した正中線があれば、手足が柔らかくしかも、十分にその威力を発揮することができます。
不安定で崩れた正中線では、手足の力が十分に働かないし、動きも遅くなってしまう。地震のときに、身体が揺れてしっかりと歩くことができないように・・・・。
正中線こそ、身のカネであり、本の定規です。

しかし、このところの稽古で、必ずしも正中線が「身のカネ」である必要がないことに気がつきました。
それは肩、肘、背中、膝、脚、身体のいろいろなところに作りだすことができる。
それによって、同じ技を使っても効果が変わってくるのです。
ひとつの技、ひとつの動きの中でも、多彩に「身のカネ」を使いわけることによって様々な効果を生みだすことがわかりました。
武術ってほんとに面白いですね。



引導ということ肝要なり。他念なく師の教えによく付くを云えり。五体の内、右の手は総体の前手なり。
これ引導なり。心の向く方へ前手を伸ばし、スラスラと出るは足もそのせいに連〇〇〇(虫食い)

かたちに陰の添うがごとし。たとえば浮かべる舟を動かすがごとく、一方が動けば四方動かずというところなし。連れて一度に動くごとくは、百十万の人数も大将一人の下知に従わずば勝つことあるべからず。

一人の闘いにも一心中、五体にあるに居て手足左右前後を成す。万法多くと云えども方寸の一心より出でて一心に帰す。兵法も一人と闘うも一心、千万人と戦うも一心なり。百千の人数使うも手足を使う工夫あるべし。

一人と一人の用にばかり立つと心得たるは剣術の達者にはあらず。あるいは平家の巻を読み、いにしえの軍の目録をなど、書面多く知るばかりを軍法とは云うべからず。己に勝つことを知るものには敵なく、敵に勝つことを知る者には敵する者絶えずと古語に見たり。直に我が身一つの用いようをもって千万人を使えども同前の事あると心得るべし。

手足二つ足二つ身と合わせて五体なり。五の積もりをもって五人より一隊、また五人一曲五十人から五軍皆大将一人の下知によらずということなし。我我の働きをなし一人の下知に従わずば負けること疑いなし。

ことに五体の内前後左右我我一方になり、一方の下知によらず就中左の手を働かすこと、莫大の非なり。
兼ねて両手にて習う得たこと、左右我々にならざるためなり。至らずして片手にて習い付ければ右手ばかりよく行き、左身はあとに残り前後あって一円像の理にあらず。



こんなふうに解釈しました。
師の教え導きというものが大切だ。余計な考えを持たず、素直に師の教えに従うこと。身体のなかで右手は前に出ていく手である。右手が全身を導いていく。これは師の教え、導きである。心が向かう方へ右手をのばし、それにつられて足も出ていく。

それは陰が形にしたがっていくようなものである。
たとえば浮かんでいる舟を動かすように、一方を押せば四方が動く。これは百十万の人数を率いる大将が、命令ひとつで全体を動かすようなものである。

一対一の闘いでも、身体の中に中心となるものがあり、それが手足を左右前後に動かす。
いろいろ戦いの方法はあるが、全ては中心から出て、中心に帰っていく。
一対一の闘いも千万人が戦うような「いくさ」の場合も同じように、手足を動かす工夫から兵法を考えていくのである。

一対一の闘いの役にしかたたないような者は、剣術の達人ではない。
あるいは平家の書物を読み、昔の軍学書などを読んで知識を得るだけでは、兵法とは云わない。

「己に勝つことを知る者に敵はいない。」
「敵に勝つことを知る者には敵があとを絶たない。」

・・・・と、昔から云う。


自分の身体の使いようを千万人の使い方に応用すること。

手足2本、体幹部一つで、五体である。
5の倍数で戦隊を組み、その戦隊は大将の命令ひとつで動く。
それぞれが身勝手に動けば、いくさに負けることは目に見えている。

自分の身体のパーツがそれぞれ身勝手に動き、中心となるものを無視して動けば、特に左手が勝手に動いてしまえば、とりかえしのつかないミスを犯すことになる。

師から両手の動きを習ったのに、左右の手が教えのとおりに動かないのは、左右がバラバラになってしまっているからだ。特に右手にばかり意識が行って、右手ばかりが動くと、左手、左半身があとに残ってしまい、玉のような動きにはならない。



ここでは、自分の身体を動かす工夫ができていれば、大勢の人間を動かし、合戦にも勝つことができる!と力説していますが、現実はそんなにカンタンではありません。
・・・・みなさん、そう思いませんか?
人を動かすことの難しさは、社会の荒波にもまれているみなさんには良くわかると思います。

しかし、リーダーとなる人の命令が、兵士全てのためになり、なおかつ明確であれば、多くの兵士を動かすことは可能ですね。

これと同じように、動きの中で身体の中心をどこに置くのかを明確に意識しておければ、手足は思う存分働くことができます。
これが明確でないと、手足は全て中途半端な働きしかできず、それぞれがお互いの身体のパーツの動きを邪魔してしまうことになります。そうすれば、闘っても勝ち目はないでしょう。

意外とこういったことを意識して戦うことのできる人って、いないのではないかと思います。


右手が身体全体を先導して動く。
これは、身体全体をスムーズに素早く動かすことのコツだと思います。
相手に一番近いのは、構えた手の指先です。
その指先からいち早く反応して、そのあとそれに巻き込まれていくように身体を進めていくと、相手からは、これほどわかりにくい動きはない!と思われるでしょう。

それと、左右の手の動き、これが型でも、対錬でも、おろそかになりがちです。
たとえば、相手の突きを右手で受け流すとき、左手が教えられた位置にない。
師からは、きちんと左手の位置も教わったのに、いざ相手と攻防をすると、それができていない。
しかし、相手に作用している右手の働きは、左手の位置によって技化されているのである。
多くの人は、これが理解できていない。


それと、最後に一番大切な言葉があります。

「己に勝つことを知る者に敵はない」

これは自分の弱さを克服せよということです。
しかし、漠然とした精神論ではなく、どのような戦いの局面でも、自分の中心となるものを見失うなということです。からだのどの部分を中心に据えるかを明確に決め、どんな乱戦になってもその中心を崩さずキープし続ける強い意識を持てということです。戦いになると、どうしてもパニックになって何が何だかわからなくなって、めちゃくちゃに手足を振りまわしたあげく、「やはり武術なんて実戦の役に立たない」なんてぼやく人達のなんて多いことか・・・。
それは、武術が役にたたないのではなく、武術、そのものが使えていないだけの話で、武術を使わないで、武術が役にたたないなんて、なんとも滑稽な話ですね。

組織のリーダーにもこの言葉は役に立つものだと思います。
部下にリーダーが目指すビジョンが明確に伝わっていること。
その中心となるビジョンの実現のために、全員が動く。
そうすれば、リーダーが現場で指示すると、部下たちは指示以上の働きができるようになる。



私はこの項から、こんなことを学びました。




三拍子という病あり。眼にわたり心に通さで手の所作を成すこと。
敵の色に付き、変化表裏に付き、敵討つを見て討つ、あるいは受けはずし杯するは皆、三拍子なるほどに敵討って跡を追うなり。目をたのみ見て取り合いたるにはあらず。この病を去り怠けることなく独りをよく使うとき無病の身となって太刀を取ると、早く敵の討つも突くも通徹して明らかなり。

こんなふうに解釈してみました。
三拍子という病がある。目でばかり相手を追って動くこと。
敵の動きを眼で追って、いろいろな動きに対応しようとして動く。
あるいは受け流そうとし、あるいは押さえつけようとする。
これを三拍子といって、敵が動いてからそれを眼で追って動こうとする。
この病を自分の中からひたすら追いだして独りで動く時、相手の早い討ちも突きも身体が自然に反応して敵を倒すことができるものである。

散打(自由組み手)をするとよくわかるのですが、相手がどう動くのか見逃さないようにしようと思って、相手の動きを待っていると、どんどん相手のペースに巻き込まれてしまい、勝つことができません。
それよりも、相手の動きを待つよりも自分の正中線を崩さないように攻撃していく。そうすると、相手が色々な動きをしても、相手の攻撃を受け流し、自分の攻撃を入れることができます。
自分の正中線を崩さないように進んでいくと手足が勝手に相手の動きに対応してくれます。
正中線という基準線があると、相手の変化がよく見えます。よく見えればこちらの攻防動作も早くなるわけです。

相手がどんな動きをしても、自分の正中線を崩さない!という強い意志が大切。

相手の動きに惑わされようとしてしまう弱い自分に勝ち、ひたすら自分の正中線を護りながら動く。

いわゆる武術における「己に勝つ!」ということはこういうことだと思います。
現代武道における「己に勝つ!」というのとは、少しニュアンスが違いますね。
武術のほうが科学的(物理学的)な要素が強いと思います。

「己に勝って、流されない自分をキープしながら動く」


この項は、そういったことを教えているのだと思います。



肩根弓を射るに似たり。ただ弓は左構えなり。これは前構えなり。身体の構えロクにしてうなじの筋を張り、肩の付け根より落としさげ、前へ押しかけ両手を成すほど指を延ばし木尺を継ぐごとくせしめ、骨の鎖動かさず、また手を延ばすと及ぼすとの二つあり。敵の方にばかり長く及ぼし延ばしたるにはあらず。それは身の外なり。
身の内を一杯に滞りなく指延ばすなり。延ばせば向こうへ行くよりほかなきぞ。心も身も手も所作も討つもたるみなく物に一杯の気かなう剣術の性の位というなり。たとえば明鏡のごとく敵の所作、我が心の鏡に向かうと等しく、所作の真、明らかなる事、ものを言わんと思えば我知らず舌の自由をなすごとくなり。あるいは長き竹の本を少し動かせば竹の梢葉の先まで一度に動くごとくなり。


こんなふうに解釈してみました。
弓を射るのと同じ要領で剣術を使う。
ただ弓は左構えである。
剣術は前構え。
身の構えはどうであろうと、項を延ばすイメージで、肩は落として首からつりさげるようなイメージ。
前に押すようにして指を延ばし、木材をつなげるように骨格を固定し、身体全体の張力を使いながら指を延ばす。けして指だけが先行していくのではない。
こうやって延ばせば、身体は指につられて前に進んでいかざるを得ない。
心も身体も動作も途切れなく、ひたすら進んでいく・・・・・これを剣術の「性の位」という。
たとえば、鏡に相手が映るのと同じ。
相手の動作に自在に対応するということは、ものを言おうとするときに舌が動くのと同じ。
あるいは、長い竹の下の方を少し動かすと上の梢の先まで一度に動くのと同じことである。

一読して小手先だけで動くことを戒めている項かなとも思う。
しかし、「指を延ばす」という言葉に少しひっかかりを感じます。
しかもなにか身体全体を使って「指を延ばす」と言っているので、難解な文章になっています。

「指を延ばす」・・・・なぜ「指を伸ばす」ではないのか?

「延ばす」と「伸ばす」の違いは・・・・・。

「延ばす」というのはもともとあるものをそれ以上の長さにする。
「伸ばす」というのは縮んでいるものを伸ばして本来の長さにすることではないか。

いろいろ考えているうちに、「延ばす」というのは縮まないということ。
「伸ばす」というのは縮むこともあるということ。

運動線で考えれば、「延ばす」というのは戻らないということ。
「伸ばす」というのは戻ることもあるということ・・・・なんじゃないかなと思いました。

ひたすら自分指の運動線をもとに戻すことなく、前に延ばす。
そんなことを決めて動くと必然的に身体も前に進み、身体ごと前に進むしかなくなる。
ところが、指先あるいは小手先を前に伸ばしたり、ひっこめたりしていると身体の動きと剣の動きがばらばらになり、技を使うことができない。

運動線を元に戻さず、ひたすら延ばしていくと動作の途切れがなくなり、さらに技の切れが増していく。


今のところ、この項目から私が学んだものはこんなところです。



身の構え、太刀の構えは器物に水を入れ、敬って持つ心持ちなり。
乱りに太刀を上げ下げ身を歪め、角を皆、敵を討つ。
敵を押さえ受け開き、外るる事など大きに悪し。
総じて太刀先より動くことなし。
ただ、かいなばかりを遣うことぞ。
左右前後上中下段、丸く切れ切れにならぬように、よく勢いを続けて、上手の文字を書く如くなり。
能き手の文字を書くに、筆先を使い、分別智恵をもって書くにはあらずと見えたり。

こんなふうに理解してみました。
身の構え、太刀の構えは器に水を入れ、うやうやしく持つようにイメージするとよい。
やたらに太刀を動かし、身体をひねったり歪めたりするのであれば、敵はその隙を狙って討ってくるだろう。
敵を押さえつけて、相手が受けるのをこじ開けるようにして討ち、はずされてしまうなどは、おおいに悪い。
だいたいにおいて、まず剣先から動くことはない。
ただ、腕だけを使う。
左右前後上中下段、丸く切れ切れにならないようにスムーズに、勢いを止めないように、書の達人が文字を書くようにする。
書の達人が文字を書く時は、小手先を使い、頭の中でいろいろ考えて書くのではない。

刀をうやうやしく、かかげるときは、手の平を上にします。
この両手の平を上にするという動作は、とても不思議なことを起こします。
正座をして、手の平を上にして両腿の上に置くと、無駄な力が抜けて、なおかついい姿勢を保てます。
いすに腰かけてやはり手の平を両腿の上におくと、長時間いい姿勢を保てます。
何かの本で読んだのですが、陸上競技でもスターティングポジションをとる前に手の平を上にしてから、ポジションをとるといい記録が出るそうです。
つまり、手の平を上にすることにより、無駄な力が抜けるようなのです。
そして、その手の平に水を載せ、それをこぼさないで動くということは、小手先だけで動けば、その水がこぼれてしまうので、腕全体で動く、しかも途切れなく水平に動くことを要求されます。
途切れない、しかも水平な動きを、相手は受けることができません。
これは太極拳の対錬で左右搬欄のときに体験しています。
どんなに頑張っても、前もって準備していても、あっけなく倒されてしまいます。

とても不思議なことだと思います。
昔の剣術の動きには、こんな不思議なことを起こす智恵が詰まっています。




敵、我を討つべしと的に思うところ有りて著と打つは投げ礫のごとし。
性のつづきなく生き物にあらず。
根のなき草に似たり。
下手の的を見て矢を放つごとくその手前、虚なり。
矢坪の定めと云うは的を見て放つにはあらず。
我に定めたるところ有りて放つと見えたり。
下手の的に思う所いきたる的なれば、本より止まることなく行く道、月影のごとし。
一心総体に充満せしめ少しも性の続かぬ処なきゆえに毛頭も動くと一度に自他の隔たりなきも我が心に移り向かうほどに敵の的に思う所、我も知らず外るるなり。
心は少しも動かねども一杯に充ちたる勢なれば、敵、打てども砕けず押しとどめんとすれども滞ることなし。

こんなふうに解釈しました。
敵、我を討とうとするのは、的に石をあてるようなものだ。
なんの脈絡もなく、ただ目の前にあらわれたものめがけて打つ。
なんの根拠もなく、ただの当てずっぽうのようなものだ。
矢を討つのが下手な人が、的めがけて打つようなもので、狙いがさだまらない。
「矢坪の定め」という教えは、ただやみくもに的を見て、矢を放つことではない。
まず我の身体に崩れることのないところがあって、始めてうまく矢が的に当たるということを教えている。
下手な人が、的を見て思うところに放つその「的」は留まることのない、月が満ちたり、欠けたりするようなもので、それに向けて放っても当たるはずがない。
一心に基本の構えを崩さないように我が身体を整え、身体の各パーツが勝手に動きだすことのないように統一させ、的と自分が一体となった境地にいたってはじめて的に当たる。
敵は我の移り変わる動きの中の一点だけを見て打とうとしても、当てることはできず、自然とはづれてしまうのである。
心は少しも動かないけれども、身体一杯に統一された動きを滞りなくキープし続ければ、敵が打とうとしても砕けることはなく、押しとどめようとしても止めることはできない。

ただただいたずらに相手の突き蹴りに反応するのではなく、また目くらめっぽうに打ったり蹴ったりするのではない。
それは、動き続けているものに石を投げつけるようなもので、なかなか当たるものではない。
自分の動きのなかに、崩れない基本があり、それを基盤として手足、身体が動いていく。
そうすることにより、相手の動きをとらえやすくなる。
足もとがぐらつくのに、矢を的に当てれるはずもない。
身体がしっかり安定していないのに、的に矢を放っても当たるはずがない。
滞りなく不動の基本姿勢をキープしながら攻防動作を行うことにより、こちらは相手を打ちやすくなり、相手は動き続ける我を打つことができなくなる。

この項では、基本姿勢をキープしながら滞りなく動くことの大切さを説いている。
それにより、相手を打ちやすく、こちらは打たれにくくなる。

よく世間では、武術なんて実戦ではなんの役にも立たない。
気迫でめくらめっぽうに殴りかかるほうが、ケンカでは強い・・・とケンカ慣れした人たちは言うが、これに対して古の武術家が反論しているかのようで、とても感慨深い。

「おまえら、武術をなめんなよ」なんて、凄みのある眼光を発し、笑顔でぼそりとつぶやいているような、そんな姿が浮かんでくるような項目です。




上手の仕舞、謡の心に形かなうを見て能き思いれかなと云う人あり。
この思い入れということ剣術にたとえ見るに、敵を討たんと思い入るにもなし、討たれまじきと思うにてもなし。
身を捨てても身を立てても力を出しても怒っても喜びても死に身に思い切りても、その時を頼りには少しも成ることにてはなきと見えたり。
去りながら偽物の死身に思い切りても莫大の臆病者にはましなるべし。
さて思い切りと云う事は何事ぞ。
なれば天命自然なれば進めども死なず、退けども生きず。
有情の生死はことごとくその期あることを知るべし。
死ぬときもやすく、退くべきにもやすき人の偽物の思い切りと世話に人の云うなり。
上手の仕舞もただ平生の志、仕舞拍子に思い入れ深く寝ても覚めても志し不解怠ゆえにしまいには真のなんともなき心にいたるその時、思い入れ能きと人の云うべきかな。

太閣記に見えたり。
金春太夫、能を教えはじむる時、まず身の悪き癖をのみ直し待つるなり。
総じても悪き袖振り残りぬれば、よきに至るまで稽古をつくしつつ、よき品を強いて求めず。
ただ謡の理にかなうよう物し、おおさわやかにつつましやかに習うを稽古を積みかさねて自然の器にいたらん事をねがう。
学び実るもまたこの如く悪心を去る。
すなわち善心充足すとあり。

こんなふうに解釈してみました。
舞の上手な人は謡の心をよく表現している。
これを見て世間の人は「思い入れ」があるという。
この「思い入れ」ということを剣術にたとえると、敵を討つんだと意気込むことでもなく、討たれてたまるかと思うことでもない。
捨て身になっても、力んでも、怒っても喜んでも死に物狂いになっても、実戦のときには役に立たないと思う。
しかし、偽物の死に物狂いでも、臆病者よりはましだ。

それでは「思い切り」というのはどういうことを云うのか。
生死は天命に従うことなので、命運が尽きなければ進んでも死なないし、退いても死なない。
命ある者すべてには死期というものがある。
かんたんに「死んでやる!」とか「辞めてやる!」などと言う人は、世間では「偽物の思い切り」と云う。

上手な舞い手の人も、ただ普段の心掛け、舞やリズムにはまりきって、寝ても覚めても思い、常に稽古して怠けることがない。
そんなふうにしているうちに、無意識に舞が身についてきて、それを見た世間の人が「思い入れが良い人」と云う。
太閣記に書いてある。
金春太夫は、能を教え始めるときは、まず姿勢の悪いところを取り除くように指導する。
全体的に見て悪い動作があるならば、それが消え去るまで稽古をし、決してそれ以上の品格などは求めない。
そして謡の思いなどを良く理解させ、淡淡と地道に稽古を積み重ねて、ごく自然に舞うことができるようにする。
このようにして悪いところを無くし、良いところで満たせば、「学び」は結実するのである。


剣術において、日頃稽古もしないで、その場限りの「やけくそ」や「死に物狂い」などは何の役に立たない。
臆病者よりは、いくらかましだと云う程度か。
死に物狂いになろうが、必死になろうが、人間、死ぬときには死ぬし、生きるときには生きる。
どんな気構え、心構えも死期を左右することはできない。

しかし、そう言ってしまえば、剣術など稽古してしなくても死ぬときは死ぬんだから無意味なことなのかもしれない。しかし、死を迎えるにしても生きるにしても、いさぎよくありたい。偽物の「いさぎよさ」などすぐにメッキがはがれてしまい、見苦しさを露呈してしまう。
日頃の修練の結果を思う存分発揮し、誇り高く死にたい。

昔の武術家達はいつもそんな覚悟で日頃の修練を積んでいたんだと思う。

寝ても覚めても武術のことを思い、淡淡と地道に稽古を積み重ねていくことで、いざ実戦となったときに身体が自然に動き、実力を発揮することができる。

武術を教えるときは、悪い姿勢や、悪い動きを直してあげて、それ以上のことは求めない。
そうやっていくと、その技は正しいことだけで満ちて、自然の妙を会得できる。

この考え方は、独特だと思う。
カッコよくなるにはどうすればいいか・・・などをを教えるのではなく、悪いところのみを排除していく。
悪いところを排除していけば、正しいところだけで技は満たされ、自然と本人のものになっていく。
足していくのではなく、引いていくことで「自然さ」を身につけさせていく。

おおいに参考にしたいと思います。




万法一ということ。
一切ありとあらゆる程は我がただ一心なり。
月を指す指なり。
月、終には指すところの指はひっきょう我が一心。
剣術も計りなく敵を目付けにせしめ、間に合わせんとするは東西を知らんと雲にしるしを成す如くす。
剣去りて舷を刻むに似たり。限りなきは謀の道なり。
敵、色々変化し、飛び動けどもただ身のカネを計り滞る処の我にある。
病をつくし一筋に習いの道を行くこと肝要なり。
手足をつかい身をひねり、面をゆがめ杯するは腹の内に幾たりも有りて手を使う者独り、足を使う者独り、身をひねる者、独り。
この如く五体の内、めんめんのようにては万法は是一なりというにはあらず。
大公の曰く、凡そ兵の道を守りすぎることなかれ。
一を一者はよく独り行き独り来る。

こんなふうに解釈してみました。

全ての剣法は一に帰納するということ。
一切ありとあらゆるものは、我が一心の中にある。
それは月を指す指に似ている。
月を指す指こそが我が一心である。
剣術も敵の動きを追い、間に合わせようとするのは、流れる雲に印をつけて方角を知ろうとするようなものだ。
剣が襲いかかってきたあとに自分の進行方向を決めるようなものだ。
謀の道とは限りないものだ。
敵が色々変化し、飛び上がったりして動いても、ただ身のカネを定めて我が心中にとどめ置く。
敵の動きに惑わされるような病を捨てて、師の教えを一心に守っていくことが大切だ。
手足を使って、身体をひねったり、顔をそむけたりするのは、いろいろ考えすぎて、手を使うことも足を使うことも、身体をひねることも、動きがバラバラになる。
このように身体の各パーツがバラバラに動いてしまっては、万法一とは云えない。
大公が言った。「兵法を守りすぎてはいけない。」
万法一であることを会得した者は、よく独り行き、独り帰って来る。

流れる雲のように敵は変化し、襲いかかってくる。
しかし、その動きに間に合わせようとして、目で追っても間に合わない。
目で追ってそれに合わせようとして動いた瞬間には、もう敵は変化しているので、間に合わない。
では、どうすればよいのか?
師の教えを守ること・・・すなわち、相手に惑わされず基本の姿勢を崩さないこと。
これにより、相手の動きが見えて、見えた瞬間には手足が動いて技になっている。
身体が歪み、基本からはずれて、手足で小細工をしても、相手の動きには間に合わない。
師から学んだ基本姿勢を崩さないことにより、目は素早く相手の動きをとらえ、手足は俊敏に対応する。
なぜなら、普段の稽古で師の教えを守っていれば、当然、基本姿勢は崩れていない。
基本姿勢を崩さずに技を稽古しているのだから、実戦においても基本姿勢が崩れていなければ、手足は稽古と同じ時のように技を繰り出すことができる。

昔、よく、東京に散打の試合を見に行った。
最初は各流派の型の演武がある。
様々な流派が参加しているので、それぞれ特徴があって見ごたえがある。
次は防具をつけての散打。
いわゆる他流試合となる。

柳生心眼流の選手対フルコン空手の選手。
試合が始まった瞬間、心眼流の選手はフルコンの選手と同じ構え、同じフットワークを使いだした。

酔拳対少林拳。
酔拳の選手は、いきなり相手の前で型を演じ出した。
少林拳の選手はキックボクシングの動き。
打ち合った瞬間に、中途半端なキックボクシング同志の闘いとなった。

どの選手も師の教えにしたがっていない。
したがって、自流の技が出ない。
使えない。

したがって、日頃からテレビで見慣れているキックやフルコン空手のスタイルを真似て戦う。

このことを夢想願立の剣客は、数百年以上前に予想して警告していたのかもしれない。





何れの兵書にも敵の機を奪う時は勝ち、奪わるる時は負けと有り。
奪わんとすれば布いて悪し。
奪われまじと思うも悪し。
ただ我が成す処の技、正しく明らかなれば奪うべき心もなく奪わるべき物もなかるべし。
朝陽犯さずとも残星、光を奪わると云う古語のごとく也。
楠 兵庫の記に勢の多少には寄るべからず。
敵の機を奪う時は勝ち、敵に機を奪わる時は負けると有り。
よく心得るべき事也。

こんなふうに解釈してみました。

どの兵法書にも敵の隙を突く時は勝ち、突かれれば負けると書いてある。
しいて狙おうとすれば、うまくいかない。
狙われないようにするのも良くない。
ただ自分が行う技が正しく理にかなったものであれば、隙を狙うも狙わないも関係ない。
朝日が星の光を奪おうと思わなくても、自然に星は光を奪われるのと同じ。
楠 兵庫が書いたものに、兵法は兵の多さによるものではないとある。

敵の隙を突くときは勝ち、敵に隙を突かれる時は負けるとある。

よくよく心得て吟味するべし。



隙を狙うこともしないし、隙なく防御を固めるのではない。

技というものは、相手の隙を突くものではなく、相手に隙を作らせるもの。

正しい技というものは、それが正しく行われれば、こちらが意図しなくても、相手は隙を作り、そこにできた弱いところを討たれる。

技というものは、数打てば当たるといったものではなく、たとえひとつでも、それが正確に行われれば、相手は車に轢かれるように潰されてしまうものである。

技というものは、相手の目論見や謀略の裏をかくと言ったあいまいなものではなく、相手の生理的な反射や弱点を突くもの。
したがって、どんなに相手が戦略を考えようと、相手の思考から切り離された反射に働きかけるため、技がかかってしまうものである。

本当の技、術というものは、そういったものであるべきだ。


本来の技のありかたを説いた項だと思います。





敵の構え、青眼あるいは陽あるいは陰。
いかようの構えにてもあれ敵と面向かいの方へ我独りことの車を飛ばしむべし。
敵、押さえ入らんとし、あるいは車を手取りにせんとすれども水火の性のごとくなる天性の車輪なれば、敵押さえんと思う心の移る間もなく車は飛び行く。
押さえんとする者はたちまち輪の下になって砕けたるなり。
また討ち留めんすれども飛鳥の影を打たんとするがごとし。
はねのけんとすれども水のたたえたるごとくにて、されども水払えども水なり。
静かに携えんとすれば速きこと刃の上にさわるがごとし。
微かな、微かな。
これ吹毛利剣なり。
罪ある者は自滅して己が科を知る。
罪無き者はたとえ十万騎の敵、八方の刃の中にても苦しむことなく独りよく立つ者、善なり。

こんなふうに解釈してみました。
敵の構えが青眼であろうと陽あるいは陰の構えであろうと、敵の正面に向かって何ものにもとらわれず、自分という車を飛ばすべし。
敵がそれを抑えようとし、あるいは捕まえようとしても、この車は水や火のような性質を持っているので、敵が押さえようと思ったときには、すでに車は走ってそこにはいない。
それでも無理に押さえようとするならば、車の下敷きになって砕けてしまうだろう。
また、これを打ち留めようとしても、鳥の飛び立つ影を打つようなものである。
はねのけようとしても水のように払うことはできない。
静かにかかえようとしても、瞬時にして切れてしまう。
これを吹毛利剣という。
理にかなわない動きをする者は、その不合理さゆえに自滅する。
理にかなう者は、たとえどんなに敵が多くても苦しむことなく独りで戦うことができる。


最近の稽古で感じることが、この項に書かれてあります。
それは、稽古中にふと浮かんだイメージ。

川のような水流の中で、自分が一本の杭となり、それが水の流れを受け流しながらクルリクルリと回転している。自分の体軸が、相手の攻撃を受けながらその場で回転している。
あるいは、相手の間合いの中に自分という杭を立て、相手の攻撃の流れの中に身を置き、その流れを受けながら回転している。


そんなイメージが浮かんできて、そのイメージを持ちながら相手の間合いの中で、相手の攻撃を受け流していると、わずかな動きで相手の攻撃を受け流すことができ、しかも相手は大きく崩れるのです。

これが、「敵、押さえ入らんとし、あるいは車を手取りにせんとすれども水火の性のごとくなる天性の車輪なれば、敵押さえんと思う心の移る間もなく車は飛び行く」、あるいは「押さえんとする者はたちまち輪の下になって砕けたるなり」ということなのか。

なんとなくそんな気がしていますが、まだ少し何か手足の工夫が必要なのかもしれません。
それと、このイメージ、この感覚は太極拳の型の稽古から生まれてきたような気もします。
おおまかな予想では、このイメージがきっかけで、気功法と実戦がつながる糸口になる・・・・そんな感じもしています。


今回はおおまかな解釈になってしまいました。





文字はおおさわやかに書く。
敵の色につかざれば敵の太刀、我に当たる事は何ゆえぞ。
なれば外の色ばかり光内照らさざるの故なり。
内照らすというは内外一杯に行きわたらん故ぞ。
眼心身一致にせしめ明らかなれば所作無くも敵の討つべき便りもなくただ独り行くばかり也。
この伝の本は一の文字なり。
筆の道も筆先を回し動かすにては有るべからず。
たとえば一の字を引くに筆と手と心と一致せざれば心跡になり先になり書くほどの文字、死字なり。
筆と手と心の一致せしめ今の今を書く時は一の文字を引き、あるいは仮に墨を付けても皆いきおい有りて
よき手と云うなり。
字の形、善悪はなきと見えたり。

文字は小手先で書くのではなく、全身で書く。
敵の動きに捉われないのに、敵の太刀が我に当たってしまうのはなぜか。
それは、外の動きばかりに気を使い、自分の内側に意識が無いからである。
内側に意識を持つということは、内にも外にも意識を行きわたらせるということ。
眼と心と身体を一致させ、内外に意識を行きわたらせれば、特別な動きをしなくても、敵は討つことができず、
我はただ独りで行くだけである。

この流儀の根本は一の文字である。

筆の道も筆先をひねりまわして動かすのではない。
たとえば一の文字を引くのに筆と手と心が一致しなければ、心があとになったり先になったり書くほどの文字は死に文字である。

筆と手と心を一致させ、何の予測もせず、今の今に動きを任せれば、たとえ途中で墨を付け足しても、いきおいがあって良い筆使いというものだ。
字の形は、外見の良し悪しで決めるものではない。


よく書道家の動きをテレビで見たりすると、手首をあまり使わず、身体の芯で筆を運んでいる感じがします。
小手先だけで書いてはいない。
身体全体で書いています。
まして横棒一本で数字の「一」を書く場合、その腕前の良し悪しがすぐにわかってしまう。

武術においても同じで、小手先の技は、ただスピードと反射神経に頼るもので、相手のスピードと腕力がこちらを上回れば、相手は勝ち、こちらは負けるだけのことです。
相手が上を打てば、これをかわし、下を打てばこれを打ち落とす。
相手がこう来ればこう返すなどと考えて準備していれば、相手はやすやすとこちらの予測を裏切り、攻撃をしてくるでしょう。
それならば、こうすればいい、ああすればいいなどと言うのは、相手の攻撃が当たってからの話しなので、無意味なこと。

ならば、どうするか?

書道家のように身体の芯ごと動けばいいということなのか?
残念ながら、それでは解決になりません。
相手の素早い攻撃に対して、いちいち身体の芯で動こうなどと考えていては間に合いません。

それではどうするか?

まず自分の芯を動かさないこと。
垂直に起立させて崩さないこと。
そうすると視野が広くなり、相手の攻撃の起こり際が見えてきます。
できるだけ視野を広げて、少しの変化に素早く反応するのです。
そのときの手の動きは、重心移動が伴っていません。
芯で手を動かさず、肘から先のみで動かします。
身体の芯は丹田にとどまったままです。
そうすると逆に丹田の重みが手に伝わり、肘から先のみの手の動きに重みが乗ってきます。
そうすると、素早くかつ重い手の動きになります。
そして、相手が崩れたら、芯を保ちながら重心を水平に移動させて敵を打つ。
相手のちょこまかとした動きにつられて、自分の重心を崩されてはいけません。

そんなことを教えているのだと思います。


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