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師の教え
私が入門したてのころ、師匠がこんなことを話してくれました。
「所詮、実戦では、ここで、今、君らに教えてる技なんて役に立たないんだ。要は、さばきと身のこなしだ。
それと絶対に勝つという自信だ。
拳法をやる者なら、すべてに勝たなきゃ。
仕事にも、病気にも、それから女性にもね。
でも、私は全てのことに勝つ自信はあるけれど、たったひとつ勝てないものがある。
それは女性だね。これだけは、どうしても勝てない。
でも、勝つ自信、これは大事だよ。」
当時は、技を教わりに来てるのに、それが実戦では使えないと言われ、勝つ自信がないから武術を習いたいのに、勝つ自信が大切だと言われ、おまけに女性には弱いんだと自信をなくしておられる。
これでは、わけがわからない。
質問しても、「な~に、大丈夫だって、心配しなくたって。ここでやっていれば、ちゃんと強くしてあげるよ。はっはっはっは!」
と言われるだけ。
そのわりに、ほとんどほとんど技も教えてくれず、ほったらかしにされているのはなぜだろう?
いよいよ私は、こんな師匠についていって大丈夫なんだろうかと不信感をつのらせました。
しかし、いつも春風が吹いているようなあの温顔を見ていると、やはり、人間的に魅力のある人だなあと思い、いろいろ不安や疑問はあるけれど、とりあえずついていってみようと思い、休まず道場に通っていました。
今、あのとき師匠が話してくれた言葉を思い出すと、なるほど、そういうことだったかとよくわかります。
技を習っても実戦では使えないというのは、技そのものが大事なのではなく、技を習うことによって培われた、体の使い方が大事なんだよ、それが実戦のとき体に身についているかどうかが大事なんであって、技そのものをいくら集めたって、いくらいっぱい憶えたって、実戦には役に立たない。その根本的なところが大事なんだ。
という意味だったのです。
それから「勝つ自信」ということについては、「絶対に勝つという信念」ということならもっとわかりやすく、当時の私でも理解できたかもしれませんが、師匠は「勝つ自信」とおっしゃられた。
そこに意味があると思います。
「すべてにおいて勝つという信念が必要だ」というのと
「すべてにおいて勝つ自信が大事だ」というのとでは大きな違いがあるのです。
「勝つという信念」といった場合には、これから起こることがらについての思いであり、「勝つ自信」といった場合には、もうすでに勝つことはわかっているという、未来すら決定してしまった過去の
ような二ユアンスを持っています。
もうすでに、勝つことはわかっているんだ。
あとは、やりかたを選ぶだけなんだということです。
これは、ものごとをひとつのくくりとして見るやりかたです。
「勝つこと」について追いかけているのではなく、すでに「勝ったことがら」に対して、その中身をどう料理しようかという考え方です。
すでに結果をイメージして、そこに過程をあてはめていくという考え方です。
これは、武術のからだの使い方にも共通した考え方で、技をかける場合、格闘技の技のように体のパーツを連動的に動かしてつかっていくのではなく、ばらばらに空間にあてはめていくという、技を施した結果からだのパーツが空間のどの部分に存在していなければならないか?そのあるべき空間に体のパーツを同時に、あるいはばらばらにあてはめていく、これによって、相手のからだが反応できずに技がかかっていくという「術」の理論と共通しています。
これは私の仕事、営業の仕事にも応用できる考え方で、この顧客には、今回、これくらい買ってもらえばいいかな。
これくらいが限度だろうな、なんて思ってやっていると、結局はそれ以下しかできなかったり、せいぜいできても、ちょっと上回るくらいしかできませんが、今までの倍、売ってみようと思えば、その金額の売上げをするには、なにが必要だろうか?どんなものをつくって売ればいいんだろうか?その顧客に対する接しかたまで変えなければいけません。
そうこうして、そうなるために必要なことがらをそろえていけば、最初からこんなくらいだろうと、やっていくよりも、結果的にはそれを大きく上回る成果が出るものです。
師匠は「勝つとうい信念」という言葉を使わずに「勝つ自信」と言う言葉わ使われた。
技を習い、何年も稽古してきて、やっとこの意味がわかってきました。
もっと、早く気がついてもよさそうなものですが、自分の未熟さをかみしめるばかりです。
教えないという教え方
今日は、私の師匠の教え方についてお話いたしましょう。
はっきり言って私の師匠は、ほとんど弟子をほったらかしです。
こんなことを書くと師匠の怒られそうですが、事実は事実です。
でも、たまに忘れたころに教えてくれます。
そのときの様子は、だいたいこんな風です。
あるとき、私たち(弟子の面々)が太極拳の套路を稽古していると、こう言われました。
「君たち、若いんだからもっと重心を落として、足腰の筋肉がパンパンに張って筋肉痛になるくらいにまで低くしないとだめなんだよ。楽して稽古したって強くなんないよ。」
あるとき、私たちが重心を低くして足腰を震わせながら稽古していると、「君ら、棒立ちのままでも稽古できなくてはいけないよ。重心が低いのも、いいにはいいんだけれども、棒立ちのまんまでも、座ったまんまでも太極拳ができるようにならなきゃね。」
あるとき形意拳の稽古をしているときに、こう言われました。
「君たち若いんだから、、もっと思い切っていこうよ。そんな手足が縮こまっているようではだめだ。もっと思い切ってね。」
あるとき、思い切って形意拳の稽古をしているときに言われました。「君ら、力じゃないんだよ。力じゃ。形意拳はね、気持ちでもっていくんだよ。気持ちでね。」
あるとき、八卦掌の套路を稽古しているときに、こう言われました。「君ら、もっともっと重心を落としてね、こうやってのっしのっしと歩くんだ。泥の中をこうしてね、汗をぼとぼとかきながらね、こうやってやっていくとね、強くなるんだよね。」
あるとき、八卦掌をのっしのっしとやっていると、こう言われました。「八卦掌はね、もっとはやくね、さーっと歩くんだ。肩に力が入りすぎだよ。肩の力をぬいてね、さーっと行く。」
同じことをやっていても、教えてくれるときはいつもアドバイスのしかたが違います。
細かいことは言いません。
肘の角度がどうの拳の位置がどうのとか、いっさい説明はありません。
それはなぜだかわかりますか?
教えることがいつも違うのは、私たちの技の進歩の度合いが、いつも変化しているからです。
進んでいるときもあれば、下手になっているときもある。
気持ちがちぢこまっているときもあれば、おおざっぱになっているときもある。
そんなとき、そのときの私たちにもっともふさわしい言葉をかけてくださるので、昨日言ったことと今日言ったことがたとえ正反対でも、なんら不思議はありません。
マニュアルどおりに、プログラムどおりに教えても意味はないのです。なぜなら、私達、毎日の変化の中に生きているのですから、その変化の具合を見て、そのときの状態に見合ったアドバイスこそが、適切なアドバイスなのです。
身体の細かい位置や角度を教えないのは、武術において、一挙手一頭足には、実に様々な意味と用途が含まれているのであり、ことこまかに規定することは、それらの多様な用途を狭め、限定していくことになるからです。
だから、同じ技のお手本を見せるときでも、ある日は前の手の位置がひくかったり、ある日は、高かったりします。
でも師匠は、いつもこう言います。
「こんなふうに、こんな感じでね。」と・・・・・。
普通なら、師匠がこんな感じなら、なんていいかげんな人だと思うでしょう。
実は、ほんとは技がうまくないんじゃないかとか、本当にこの師匠でいいんだろうか?とか・・・・・。
でも、私は、いつも師匠の言うことが違っていても、いつもやり方が違っていても、師匠の実力に舌を巻くことはあっても、師匠を疑うことはありません。
なぜなら、師匠の言われることは、いつも違っても、いつも核心をついたものであり、やりかたがそのときそのときで違っていても、そのすべてが技であることを理解しているからです。
そして、師匠が技を説明するときに「こんなふうに」とか「こうもってきてね」「こうやってね」「思い切って気持ちで持っていく」などと、きわめて簡素で、感覚的な言葉しか使わないのは、技というものが非常に多くの多面的な要素をふくんでいるために、言葉を多く、しかも理論的にしてしまうと、かえって局部的、限定的にしか教えられないということがわかっているからです。
人は、理論をこと細かに教えられると、丸暗記をするように頭の中にいれてしまいます。
なるほど、師匠の技のしくみは、こうなって、こうなっているから、こういう風にできるんだなと、そのときは納得しますが、はらのそこから理解していない。理屈ではわかるけど、身体で理解できていない。動けない。
これでは、技は身につかないのです。
今、このときに、このときだけに必要な言葉を短くポ~ンと投げかけられる。そんなとき、人は考えるのです、ああでもない、こうでもないと、悩んで試行錯誤をするのです。
そうやって、苦労してやっていると、あるとき、ふっと身体の感覚が理解して、技ができるようになる。
これが、技を学ぶということであり、会得するということだと思います。
そして、やがて自分が人に教える立場になったとき、こう思うのです。「やっぱ、こんな感じってしか言いようがない。」
こうやって受け継がれていくのが、真の武術だと思います。
この前の稽古のときも、師匠はほったらかしでした。
でも稽古している私達の近くで、お歳を召された母上様の話し相手をされたり、庭の草花の手入れをしたり、なにげない様子で日曜日の穏やかな時間を過ごしておられました。
師匠の立ち姿、動きそのものが技であり、その春風駘蕩とした表情も、なにげない私達のたいする気配りも、その生き方も、全ては教えであり、武術そのものであると思いました。
このように「教えない教え」というものがあることも、教えないということが実に多くの教えになるということも、私は師匠から学びました。私は、この師匠にめぐり合い、武術を教えていただいていることを誇りに思っています。
しかし、かく言う言葉多き、この私。
まだまだ、修行が足りないのでしょうね。
サンダルの教え
私の師匠は、屋内で稽古するときはスリッパを履いています。
屋外で稽古するときはサンダルを履いています。
屋内で稽古するとき、師匠のスリッパは、「シュッ、ダ、ダン!」という音をたてます。
屋外で稽古するとき、師匠のサンダルは、「ズザ~ッ、ダ、ダン!」と音をたてます。
以前は、なんてものぐさな師匠なんだろうと思っていましたが、長年師匠の技を見てきていると、これが「すり足」という技術なのだということがわかってきました。
私は屋内で稽古するときは素足で、屋外で稽古するときはスニーカーを履いています。
しかし、屋内ですり足を使うときはスリッパのほうがやりやすいし、屋外ですり足を使うときはサンダルのほうがやりやすい。
すり足というのは、重心のありかがわかりずらいため、相手がどのタイミングで自分の間合いのなかに入ってくるのをつかまえればいいのかわからない。
それでいて重心が安定していて、ぶれずに動いているので、下手に手を出すと自分の重心までさらわれてしまうというすごい技術なのだ。
本当に巧妙に「すり足」という技術を使われたら、相手は反応ができず、指をくわえて見ているしかない。
そして、ぼ~っとしているうちに、見事に技をかけられてしまう。
とくにサンダルを履いて稽古していると、すり足になりやすい。
そして、長年サンダルで稽古していれば、サンダルをはかなくてもすり足になってしまう。
サンダルこそは、すり足養成のためのトレーニングマシンだったのだ。
いいにはいいんだけれども・・・・。
だいじなのはね、これね、これ!
ピシュッと行く。
ね、これ、こういうふうに、ね、ピシュっと、これ、ここが大事ね、ここ・・・・。
これは、だめね、これはだめなんだ。
こんなふうにいくとね、力が分散されてしまう。
そうじゃない、キュッと、ピシッとね、こういうふうにいかなきゃ!
う~ん、いいにはいいんだけどね、もうちょっとね、キュッとね、ピシッといくとよくなると思うね。
いいにはいいんだよ、でもね、もうちょっとね、なんていうか気合をいれてね、ピシッ!
ピシッといくとね、もっとよくなると思うんだよね。
もっと、ピシッとね!
そうそう!そう!ピシッとね!
師匠が技を教えてくれるときの説明の仕方を文章で書くとこんなふうになる。
どこにも「発勁」とか「気」とか「経絡」なんて専門用語は出てこない。
「力学的には」とか「物理的に」とか全然出てこない。
そんな理論的な説明や、丁寧にいろんな言葉を並べた説明のしかたよりも、「ピシュ!」の一言のほうがより丁寧な説明だと思う。
言葉は、ときとして、多く並べれば多く並べるほど、わからなくなるときがある。
これは武術にかぎったことではない。
仕事や、人生が充実しているとき、笑顔で「忙しいね~」なんて言う一言。
これは多くの気持ちを語っているでしょ?
何もかもいやになって、ため息混じりに「うれしくて涙がでるよ」なんて一言、その人の人柄さえも現すでしょ?
言葉って、勘違いしてる人、多いと思うけど、多く語れば語るほど、自分の意志とか気持ちが伝わらなくなっていってしまうものなんだよ。
だから、自分のいろいろな思いや、複雑な気持ちなんかを伝えるときはさ、単純な言葉であればあるほどいい。
万感の思いを、できるだけ素直に表したいなら、言葉の中でももっと単純な擬態語や擬声語をひとこと・・・・思いをこめてつぶやけばいい。
大人達は、あまりにも多くの屁理屈と経験談を若者達につぶやくものだから、結局、子供は何をどうしたらいいかわからなくなり、とにかく理屈だけ並べていればいいのだろうと
いう甘い人間ができあがる。
師匠にはだまされないぞ。
クンフーで養った動きが、日常動作と渾然一体となったとき、心も身体も稽古のときとかわりがなくなって、言葉さえもクンフーが効いてくる。
師匠の姿、立ち居ふるまい、発した言葉、すべてにおいて稽古のときとかわりない。
稽古のときは鬼のように厳しく、ふだんはニコニコと優しいとか、稽古のときと仕事のときの顔つき目つきが違うとか、そういうこともありだと思うけど、私の師匠はすべてにおいてかわりない。
かつて師匠は言われた。
「男にはいくつもの顔がある。仕事をしているときの顔、武術を教えているときの顔、父親としての顔、夫としての顔、み~んな違って当然なんだ。世間ではよく二重人格なんて言葉を聞くけど、わたしの場合は、何重人格だかわからない。」
ああ、なるほどな、私にだっていくつもの顔がある。
それでいいんだなと、最近までは思っていた。
な~んか、それっておとなじゃん!って思っていた。
でも、最近、師匠を見ていると、それよりかっこいいことあるじゃん!なんて思った。
いっつもおんなじ。
どんなときでも、おだやかな笑顔、歯に衣着せぬことば・・・・。かんたんに歳だから・・と弱音を吐くところ。
おいおい、楽しくやろうよ!っていう雰囲気、おれなんか絶対だいじょぶなんだから!っていう自信・・・。
奥さんにたいしても、会社の人達にたいしても、壇家のひとたちにも、弟子達にも、み~んなおんなじ顔で接している。
ひとがらにつなぎめがない。
技がどうのこうのなんて段階は、とっくの昔に越えて、武術がそのひとがらと渾然一体となっている。
あぶない、あぶない、師匠の言葉はあまりにもカッコよすぎて、生身の師匠のすごさを見逃してしまう。
師匠の言葉にはだまされないように、師匠の技とひとがらを学んでいきたい。
来る者拒まず、去る者追わず。
来るもの拒まず、去るもの追わず」
これが私の師匠の方針です。
私もそれが一番いいと思います。
ですから、私は見学させてほしいという人には本当の技を見せません。
無条件で入門したいという人にはお見せします。
それでいやになったらいつでもやめてくださいと言います。
所詮、武術の技は見たってわからないんです。
わかるような技なら、技とは言えない。
どうなってるのかわからないから技なんです。
私は別にカルチャー教室のセンセイじゃない。
体験入門とかで、良いか悪いかお試しいただいて、それでOKなら、どうぞ!なんてそんな通信販売やテレビショッピングみたいなことはできません。
体と気持ちごとぶつかってくる人には、ほんとうのことを教えます。
しかし、それを会得できるかどうかは保障できません。
それが本物かどうか見分けがつく人は、わたしの稽古について来れるだろうし、見分けがつかない人は途中であきらめてしまうでしょう。
すべては、あなたのセンスにかかっている。
いいとか悪いとかじゃなく、武林の星のもとに生まれてきたかどうか?
ただそれだけのことです。
武林の星のもとに生まれてこなかったからといって、あなたを否定しているわけではありません。
そんなことは、現代社会においてほとんど価値のないものだと思います。
しかし、物事の価値というものは客観的なものと主観的なものがある。
主観的に自分の価値を高めたいのなら、武術は最高の手段だと思うのです。
師匠と道場の役割
道場を構えているからには、自分の技の根本的なものが不変でなければなりません。昨今の情報に流されて、自分の基本的なものを変えてはいけないのです。
技の根本原則といってもいい。
時代が代ろうが、格闘技がもてはやされようが、自分の技の根本原則を変えてはいけません。
弟子達は、いろいろ浮き足立ちます。
それはあなたの教え方が悪いわけではありません。
まわりにあまりにもいろんな情報があふれているために、いろいろ試してみたいし、いろいろ考えてみたいのです。
なんてくだらないことをやって楽しんでいるんだなんて、押さえつけてはいけません。
なんてくだらないことで悩んでいるんだなんて、馬鹿にしてはいけません。
なんておろかな勘違いをしているんだ、なんて見放してはいけません。
道場といものは、迷う自由があるのです。
勘違いする自由があるのです。
悩む自由も、うぬぼれる自由もあるのです。
私はそれが道場だと思います。
しかし、弟子達がただ勝手に悩み、勝手に苦しみ、勝手にうぬぼれていても、あなたの基本は不変でなければならない。
どんなときも、どんな弟子に教えるときでも、あなたの原則を示してあげればよいのです。
そうしてはじめて弟子たちは安心して四苦八苦できるのです。
なぜならば、もどってくるところがあるからです。
どんなに真似をしようとしてもできない。
どんなに理論を研究してもわからない。
しかし、いつでも師匠の言うことは同じで、技の原則もかわらない。
そんな師匠ならば弟子は安心してついていけるのです。
でもできないから、いろいろ考える。できないから、それをできるまでねばって考えたり稽古したりするよりも、まったく別の角度や方向から考えたらひょっとしたらできるんじゃないかと、他派の先生のところに見学しに行ったり教えを請うたりする。
その先生が武術の本物の継承者なら、完全に煙にまかれるか、できとうにあしらわれるでしょう。
未熟な先生なら、いろいろ理論をまくしたて、頭だけがわかったような感じにしてくれるでしょう。
または、いろいろな専門書を読み漁る。
哲学、力学、物理学、スポーツ心理学などなど、理屈と数字が師匠の動きを解明してくれるんじゃないかなと思い、読書にふける。
そして、秩序だった動きを考えて、師匠の動きになるように組み立ててみる。
でも、それは無理・・・。
たとえ秩序だった動きが解明できても、身体が理論どおりに動くかどうかは別の問題です。
このように師匠の動きができないから、理論的に整理して順番どおり組み立てていけば、最終的にはできるようになる!というのが今風の考え方です。
足が前に進んで0.3秒後に手が動きはじめ、足が下りて地面についた0.2秒後に重心が着地して、その着地の0.1秒前には手首をかえしてその1秒後に後ろ足に重心がかかる・・・・・なんてことできると思いますか?
虎のようなイメージで、ここはこの経絡を使って、ここで一気に意識を丹田に落とし掌から気が出ているようなイメージで、人差し指と親指の間には小さなピンポン玉がはさまっているような、股関節もゆるめておく感じで、そうすれば力の成分がこのように合成され、あいての神経は対応できなくなり、技がかかってしまうのです・・・・・でも、そんなこと説明されたってできますか?
できないですよ。
そんなことは、できたひとがあとから分析して、そのばらばらに解剖したものをひとつひとつ説明しているにすぎない。
つまり、そういったことをすればできるなんて思ってやってみても、底の浅い、可能性の少ないものができるだけですから・・・。
そうやって弟子達は悩みます。
でも、できない。
師匠に教えてください!とお願いすれば、いつものとおり、「そんなの簡単なんだって!別に難しいことじゃない。こうやってさっと受けて、こうやってパッと返せば、もうこれでいいんだ。余計なことは、いっさいいらない。ただ、これだけ!」といつものとおりにやってみせてくれるでしょう。
でも、できない。
でも、安心するじゃないですか・・・・。
いつも同じことを言われる、いつもおんなじ動きで、いつも同じような雰囲気で技がかかる。
それを見たら、また混乱して、ほかの道場に行って、もっとわかりやすく教えてくれるところはないか探し回ることになるでしょう。
そしてなんだかんだ迷った揚句に、あらためてその動きのすごさに気が付く。
これは一筋縄じゃいかない動きなんだ。
そう思ったときにはじめて、師匠の技のすごさがわかってくる。
かわらない動きのすごさ、智恵のすごさには、やはり安心感をおぼえる。
たとえどんなに道がはずれても、ここにもどってくればいい。
そのもどってくるところがあなたの道場であり、あなたの技です。
学ぶ者にとってこれほど心強いものはありません。
だから、自信をもってゆったりしていればいい。
弟子に媚びることなど何もない。
思う存分悩んで、おおきくなってもらえればいいのです。
それが師匠としての役割です。
道場としての役割です。
技~伝授の風景
ははははっ!なんていうかなぁ~。
君ら格好だけはいいねぇ~。
ん~ん、いいにはいいんだけどね~。
なんていうか、きみら~かっこだけなんだよね~。
もっとさぁ~こう、力をいれてね、グッと気合っていうかさぁ、気持ちなんだよね。
こう、ここまでさ、ぬいといて、こうグッと、気持ち、これ一発で倒すんだと言う気持ちでね、
そう、気持ち大事なんだよね、こう、気でもってグッともっていかなきゃだめなんだよね。
こうだよ、こう、グッと!気だね、気持ちで持っていくんだよ!
こうやって師匠が技を教えてくれます。
やってみます。
うあっ!で、できね~!と思ってしまいます。
思い切ってやったら、なおさら突きの重みが出ない。
腰も回らない!
気合をいれて思い切ってやったら、なんだかからだが壊れそうになってきた。
息もぜいぜいいってきた。
こんなことやってたら身体がもたない。
す、すみません、先生、もう一度お願いします。
汗だくになりながらもう一度教えてもらいます。
な~んだ、こんなの簡単じゃないか。
だいいち、私だからこんなに親切に教えるけど、私の先生なんか何も教えなかったよ。
一回だけやってみせて「~君、わかったね。」ってギロって睨み付けられれば、もう、わかろうがわかるまいが「はいっ!わかりましたっ!」っていうしかなかったんだ。
それから比べたら、わたしなんか親切なもんだ。
出血大サービスだよ!
いいかい、いくよ。
こんなもんね、パッといく。
もう一回いくよ、パッとね。
パッとされるたびに師匠の拳が私の腹の中になんの抵抗もなくめりこんで、私のからだがくの字に折れ曲がった。
うわっ!こんどはグッとじゃなくて、パッとかよ!
腹も痛いが、あたまもいてぇ~!
混乱と錯綜のなかで、ひたすらそのときの「グッ」と「パッ」とのイメージを頭の中で何回も何回も再生しながら身体を動かしていく。
ああでもない、これとも違う。
どうやったら、あのときのイメージと自分の動きが重なるのか?
どうやったら、あのときの威力を出せるか?ではなく、大事なのは、どうやったらあのときの師匠の動きを真似することができるのか?である。
何回やってもできない。
もう一度、細部にわたって細かく思い出して真似をしてみる。
そういえば、思い切ってと言っているわりには、肩が水平になっていた。
だいたいあんなふうに思い切ってやっている感じなのに、肩が動いていないんてことあるんだろうか?
気持ちで持っていくなんて、あんな思い切った動きに見えるのに肩や腰や膝を動きが小さいのはなぜなんだろう?動きが小さいのに全体の動きの雰囲気が大きく見えるのはなぜなんだろう?
そういえば、胴体がこんな感じで動いていた。
小指がこんな感じで曲がっていた。
そういえば、膝がこんな感じで開いていた。
やってみよう!
そう、これだ!
だんだん師匠の動きに近くなってきた。
そう、いいぞ!
だんだん重なってくる。
これだこれだ、こういうことだったのか!
でも、まだ、重ならない部分がある。
ん~ん、どうしたら・・・・・?
まだ完全に満足できないまま、それでもそうやって掴んだ感じを出すように稽古相手に試してみる。
できる。こんなに簡単に相手に威力が伝わる。
相手が受けようがかわそうが関係ない。
相手の防御とは関係なく突きが入る。
面白い!
なんでこんなことがおきるんだ?
ここではじめて理論的に考える。
なるほど、肩が動かないから、相手は反応が遅れる。
股関節が開くから重心が瞬間的に落ちる・・・。
だから、こんなことが起こるんだ。
そうだとすれば、この動きを利用すれば、この技も面白くなるんじゃないか?
この技も同じ理屈なら、今までよりももっと威力が出るはずだ。
これを関節技に応用すれば・・・。
投げ技に応用すれば・・・・。
できる、できる。
他の技もこの感じを使ってやってみると、どんどん面白いことになっていく。
でも、まだまだ師匠の動きと重なっていない部分がある。
こいつをどうするかだ。
ん~ん、悩む・・・・。
そこんとこ、もう少し・・・・。
これさえわかれば、もっと面白いことになってくるはずだ。
こんなふうにして私は技を学んできました。
師匠の談話1
今日は師匠の談話を書きます。
武術家として社会人としてどのような心持ちで生きていけばよいかを説かれたものです。
きょうはかの有名な剣豪塚原卜伝の話をしましょう。
ある武術の達人は、暴れ馬の後ろに立っても、ひょいひょいと馬の蹴り足をかわして怪我ひとつ負わないという。
それを聞いた塚原卜伝は、「そんなのは武術の達人でもなんでもない。本当の達人だったら、暴れ馬の後ろになんかわざわざ立たない。」
塚原卜伝の言うようにね、おれはこんなことができる、すごいだろうなんてやらないんだね。
そんな意味もないことをわざわざやって、威張ってみたって意味がない。
本当の武術の達人なら、危ないところには最初から近づかない。
そういう気持ちでね、みんなも武術をやっていってください。
師匠の談話2
一休さんの言葉にこんなのがある。
今日ほめて明日悪く言う人の口
泣くも笑うもうその世の中
人間なんていうものは、だいたい自分に甘いものなんだ。
それが証拠に自分の欠点をあげろと言われても、そんなに出てこない。
そのかわり他人の欠点をあげるとなるといくつもいくつもあげられる。
要は自分の悪いところは見えないけれど、人の欠点ばかりは多く目につく。
そんないいかげんな人たちが、自分たちの都合で、今日ほめようが明日けなそうが関係ないじゃないか。所詮はうその世の中(真実が見えない人間の世の中)なんだから、そんなにカッカしなさんな。
みんなには、そんな気持ちで世の中を渡っていって欲しいね。
師匠の談話3
昔の人の言葉でこういうものがある。
おれがおれがのがを捨てて
おかげおかげのげで暮せ
人生を生きている以上、「おれが」っていうのはしょうがない。
「おれが」っていうのがなくなってしまうと、人間、しょんぼりしてしまう。
ただなんでもかんでも「おれが、おれが」っていうのはよくない。
会社でストレスがたまって家に帰ったらまだ晩御飯ができてない。
そうすると奥さんに言うよね。
「おれがこんなに疲れて帰ってきているのに、まだ晩めしもできてない。いったい君は何をしてるんだ!」
そうすると奥さんも腹がたってきて「何言ってるのよ、お父さん!私だって一生懸命やっているのよ!家のことなんか何もしないくせに!」なんて喧嘩になる。
でもね、「おれは今会社でいろいろあって苦しいんだけど、お母さんが家のことやってくれているから安心して頑張れるよ。」と言えば、奥さんだって「いやいや、お父さんが一生懸命働いてくれているから、私たち家族が生活できるのよ」ってことになる。
君らも家に帰ったら奥さんにこう言ってごらん。
「やあ、今日拳法の稽古に行ってきて疲れたよ。でもこうやって稽古に行ってこられるのも、おかあさんが家をしっかり守っておれを送り出してくれるからだ。おかあさんのおかげだよ。
ありがとう。」
そうしたら奥さんも「お父さん、おつかれさま。ビールでも飲んで疲れをとってね」なんていうふうになる。
感謝の気持ちを持つこと。
おれがおれがじゃなくて、奥さんのおかげで・・・・・
まわりの人たちのおかげで・・・・・。
「おかげ」ということを意識して感謝の気持ちを大切にしないといけない。
また、こんな言葉もある。
人生は苦楽を共にする。
とくに夫婦の場合はそうだね。
「おれは今まで苦しかったけれど、お母さんが支えてくれたおかげでなんとか頑張ってこれたよ。ありがとう。」
「お母さんのおかげでいろいろ楽しかったよ。ありがとう。」
「何言ってるのよ、お父さんがいるから楽しいんじゃないの。ありがとうね。」
こんな風に夫婦が仲良く「おかげ」「おかげ」で感謝の気持ちを持って苦楽を共にしていけば、人生の苦難も乗り越えていける。
君らは、こんな話、武術とは関係ないと思っているかもしれない。
しかし、大事なことなんだ。
いやいや、浄土真宗の話でもない。
あくまでも一般的な話。
塚原卜伝のように謙虚に、一休さんのいうように人の言うことにカッカしないで、「おかげおかげ」で感謝の気持ちを持ってやっていく。
他人の言うことは気にしなくてもいい。
ただ、世の中というものはそういうもんだということを踏まえて武術をやっていくと素晴らしい達人になれるよ。
恐るべき師匠の言葉
基本的に師匠は技を教えるとき否定語は使わない。
どちらかというと誉めて伸ばす教え方なのかもしれない。
「それはちがう」
「それはだめだ」
という言葉は、聞いたことがない。
「いいねぇ~。」
「いいよ~。」
という言葉は多く使われる。
私は、やはり誉められて伸びるタイプなので、師匠の教え方は私に合っている。
どんどん図に乗って、どんどん稽古する。
あと、こういう言い方もされる。
「いいねぇ~。いいにはいいんだけれども、もっとこうしたほうが良くなると思うね。」
なんて柔らかい言い方なんだ!
と思って、さらに稽古に熱が入る。
「おお、よくなったねぇ~。いいよ~。」
師匠に誉められると、「いや~そんなことないですよ」とは言いながらも内心では、「おれってすごいのかぁ~」なんて思ってしまう。
きわめて単純な性格と言えるだろう。
しかし、時として師匠の「いいねぇ~」は心にグサッと突きささることもある。
「いいねぇ~。ほんとかっこだけはいいんだよな。」
こういうときは、愕然とする。
「そうかぁ、中身をもっと吟味してうまくならなければ!」
もう、こうなってくると師匠の術中にはまったようなもんだ。
ひたすら、自分で工夫して稽古するようになる。
私は基本的にがっちりと稽古のやりかたを決められて、そのメニューどおりにやらされるのは好きではない。
どうなったら自分の技が一流になったと言えるのか?
どんな技ができれば、強くなったと言えるのか?
どんな人柄を目指せば、武術家らしくなったと自分を納得させられるのか?
何も悩むことはない。
目の前の師匠の技ができればいいし、師匠の仁徳から学べばいい。
カンタン明瞭、一目瞭然!
そのためにどんな稽古をすればいいのか?
それを自分で考えていけばいい。
そのやりかたが間違っていれば、師匠の技ができないし、正しければできる。
いろいろ考えることは大変だが、答えが目の前にあるのだから、それができるように自分で工夫し、考えていけばよい。
ただ、それだけのことだ。
師匠の「いいねぇ~」に生涯浮かれながら武術に励んでいくのみだ。
しかし、そんな師匠も時として残酷な言葉を使われる。
「お~い、ちょっとそれはかわいそうなんじゃないか?」
この言葉はさすがに人を立ち直れなくさせる。
もうかなり前の話だ。
長野から仕事の関係で新潟に引っ越してくることになったA君。
長野である武術の団体所属しており、太極拳で準師兄(日本武道でいうところの初段くらい)をもらっているとのこと。そこで新潟に来ても太極拳をやりたいということで、西忍寺にやってきた。
そこで、師匠はA君に「準師兄もらってるんだったら、ちょっと太極拳やってみてくれる?」
と言い、A君は誇らしげな表情で「はい、わかりました!」と言って型を始めました。
私が見たところでは、とても準師兄なんてレベルではない。
これは、なんかピノキオが踊っているみたいだなぁ~と思った。
まあ、彼の属している団体は大きいから、先生もよく教えないし、昇級審査も甘いものなんだろうと思った。
師匠は黙って・・・・というよりはうなって見ていたが、彼が型を終えて開口一番「ん~ん、いくらなんでも、それはちょっとかわいそうなんじゃないか?」
私は、師匠は「いいにはいいんだけれども・・・・」くらいのレベルで言葉を選んでくるかと思ったが、「かわいそう」は意外だった。
これには、A君も頭を掻いて「私、あんまり最近稽古してなくて・・・・・」と言い訳みたいなことを言っていたが、師匠は「かわいそう」を連発し、「それじゃ、あんまりにもA君、きみがかわいそうだよね」と言われたときには、A君もどんな顔していいかわからなくなって顔が真っ赤になってきた。
しかし、彼に本当の熱意があるのならば、ここで「それじゃ一からやり直します!教えてください!」くらいのことは言うだろうと思ったが、それはなかった。
A君の心は「きみがかわいそうだ!」という師匠の言葉に打ちのめされてしまったのだろう。
かわいそうなA君・・・・・。
師匠の武術に対する厳格さは、こんなところにひょっこり顔をのぞかせる。
A君が二度と来なかったのは言うまでもない。
のっしのっしの教え
師匠がのっしのっしと歩く。
私ものっしのっしと真似して歩く。
しかし、いくら真似してのっしのっしと歩いても、やっぱり師匠ののっしのっしとは違う。
なぜそんなに違うのか?
もういちど師匠ののっしのっしを見る。
すると、師匠はのっしのっしと歩いてはいるが、頭の位置がぶれないですーっと平らに動いて
いくのがわかる。
でも、だれだってのっしのっしと歩けば、頭の位置も上下する。
頭も腰も肩もゆっさゆっさと動くのだ。
でも、たしかに師匠はのっしのっしと歩き、頭の位置は水平に動くのだ。
なぜなんだろう?
できないから、いつでもどこでも気がついたときは考えている。
あるとき、思いつく。
まずは、のっしのっしはやめて、すーっと水平に歩けるように工夫する。
四苦八苦してやっとできるようになる。
それから、のっしのっしの研究に入る。
いつまでもできないで月日だけが流れる。
あるとき、足の甲に重心を乗せながら歩くと、身体が移動するその瞬間だけで攻撃になること
に気がつく。
歩く動作、歩を進めること自体が、衝撃とエネルギーを持った攻撃になるのだ。
そこで、それを意識しながら歩くと、いつのまにかのっしのっしとなっている。
それでいて頭の位置も水平にうごいている。
身体が移動する・・・・それ自体が技となる。
のっしのっしは、基本中の基本であり、もっとも実戦的な技である。
そんなことの繰り返しで技を身につけてきた。
師匠ののっしのっしを真似しようとすることが、知らず知らずに高度な実戦的技術を身につけ
ることにつながっていた。
ジャンルを問わず、伝統技術は、いつだってこんなふうに伝わっていくんだと思う。
師匠の凄技
当道場では、毎年忘年会をやります。
たまにみんなの都合が悪くて集まれないときもあって、そのときは年を改めて新年会をやります。
以前は、温泉旅館などで派手にやったものですが、ここ数年は、おとなしく西忍寺でやっています。
といっても先生のお宅でたらふく飲み食いさせていただき、夜中までああでもないこうでもないと騒いでいるだけという、先生や奥さまにお世話になりっぱなしの会です。
数年前の忘年会で、とても印象深いできごとがありましたのでお話しましょう。
その年は、私と女房、1歳(当時)の息子で参加させていただきました。
うちの息子は人見知りがひどく、泣きわめくのではないかと心配でした。
あらかじめ先生にはそのことをお話しておきましたが、先生は「そんなのな~~~~んにも心配ないよ。安心して来なさい。」と言われましたが、先生やみんなに迷惑をかけるかもしれないと思い、少し憂鬱な気分になりました。
そんな心配をしながら、西忍寺の駐車場に着くと、先生が突然現れ、「お~よく来た、よく来たね~」と言いながら、あっという間に息子を抱いて、あの階段を一気に昇り、ご自宅のほうへ連れ去ってしまいました。
私たち夫婦は、あまりの突然の出来事に呆然としました。
息子にしてみれば、いきなり何がおこったかわからないまま知らない人にさらわれて知らないところに連れてこられたわけですから、これは号泣するに違いないと思いました。
まあ、とにかく急いで行ってみようということで、先生のご自宅におじゃましてみると、とうの息子はきょとんとしたまま、先生に抱かれていました。
そうです。
あまりに突然のできごとに、何が何だかわからずに泣く機会すら奪われていたのです。
私はこのとき、このときの先生の行動こそが、武術の真髄だと思いました。
いわゆる「先先の先」というやつです。
息子が泣こうと身構える、あるいは、泣こうと思う前に予測不能な行動でその機会を奪ってしまう。
まさに達人のなせる技です。
今更ながら、先生は凄い!と思いました。
やはり先生の技は凄い!
西忍寺に入門してから数年たったころ、先生から「他の流派も研究しておいたほうがいいよ」と言われたので、わりといろいろなところに見学に行ったり、セミナーに行ったりしてたんです。
東京のセミナーなんかに行くと、思わず「これはすごい技だ!」とびっくりしてしまうような技を教えてもらい、これでおれは強くなった!と何度となく思ったものです。
セミナーで習う技は、すごくわかりやすく、何度かやってみると、カンタンに大きな効果が発揮されます。
しかも、なんか洗練された動きで、かっこいい。
一時期には、先生から習う技よりもかっこよくてわかりやすいので、先生の技そっちのけでセミナーの技だけを稽古していたときもありました。
しかし、道場でその技を稽古しているうちに、最初は上手くいっているんですが、だんだんうまくいかなくなり、結局はあきらめてやらなくなってしまう・・・・・なんてことが何回もありました。
しかし、そんなはずはないといろいろ迷って稽古しているうちに、また別のセミナーに行ってまた別の「かっこよくてすごい技」を習ってくると、また気を取り直してその技を稽古しました。
先生はそれを見て「いいねぇ~、いいよ~。でも、なんていうか君らのは格好だけなんだよね。」と大笑いされていました。
しかし、私は内心「今は格好だけだけど、いつかはものにして先生よりすごい技を身につけてやる!」といきがっていました。
でもいくらやっても、セミナーの技は身につきません。
「やはり、東京みたいに優れた武術家の集まっているところで、セミナーではなく、弟子入りして習わないと本物の技は身につかないのか!」
そんなもやもやした気持ちで稽古していいたころ、ふと師匠から習った技をもう一度見直してみようと思いました。
私は入門してから今まで先生からならった技の全てをノートに書き留めておいていました。
それで、もう一度先生の技をノートを見ながら再現して稽古してみました。
驚いたことに、どれひとつとして「かっこよくてスゴイ技」はありませんでした。
動作の順番をノートを見ながら確認し、そのときの先生から言われたコツなども参考にしてやってみても、どれひとつとして満足に相手に技がかかりません。
先生からそれらの技をかけられたときの感触、動きのイメージなどを思いだし、物まねをするように動いても、相手に技はかかりません。
しかし、確かに先生にそれらの技をかけられると、私はいとも簡単に技にかかってしまう。
しかし、その技を私がかけるとかからない。いや、かかったときがあっても、先生の動きとは違う、自分勝手に変形させてものになってしまう。
先生の動きを真似すると、どうしても技がかからないのです。
セミナーの技も私はノートに書いておくのですが、それを見て相手に技をかけると見事にかかってしまう。
しかし、だんだん稽古相手も要領がわかってくるとあらかじめ力を入れておいて頑張るので、かからなくなってしまう。
先生から習った技は、それ以前の問題で、最初からかからない。
たとえかかったとしても、相手が遠慮してかかったふりをしてくれた場合のみです。
じゃあ、先生の技は使えないのかというと、そうではなく、反抗的な私たちにも、先生はちゃんとかけることができるんです。
これってスゴイことではありませんか?
いや、それってただ先生の教え方が悪いだけなんじゃないの?って思われるかもしれませんが、私はそうは思わないんです。
セミナーでは、キチンと理論武装がされており、受講者が満足してくれるような魅力的な表現で教えてくれます。
しかし、先生の教え方は「こうきたらこうしてバーンっていく!」とか「ここまでもってきたら一気に打つ!」とかいう抽象的な表現しかしません。
そして質問をしても「ここで、気でもってガーンってやればいいんだよ!」ぐらいの感じでしか答が返ってきません。
たしかにどちらがわかりやすい教え方かというのは、わかりきったことです。
しかし、わかりやすい武術ってどうなんでしょうか?
わかりやすいってことは、だれにでも真似されてしまうということですし、わかりやすく教えられるってことは、頭だけの理解で、身に着くところまでいかないうちに満足してしまうってことだと思うんです。
それにわかりやすい技って、一回見られたら、カンタンに対策をたてられてしまうってことですよね。
武術の技って、そんなカンタンに見破られてしまうようなものでは困るし、懇切丁寧に説明されても、知識が増えるだけで、からだに身につけることまではいきません。
人間って、人から教えられたものは、自分で試行錯誤して「そういうことだったのか!」って自分の言葉と身体を使って再発見したものでないと身に着かないものなんです。
そうでなければ、ただの浅い記憶で終わってしまいます。
そういったことを考えると、武術の技ってわかりにくい、習いにくいほうが優れた技だと言えるのかも・・・・。
最近では、やっと少し先生の動きのまま技をかけることができるようになり、そうやってできた技は、たとえ相手が技の手順や仕組みを理解していて、それに対策をたてたり、力ずくで抵抗してもかかる技になりました。
しかし、私は今でも先生の全ての技を会得できているわけではなく、その反面、先生から習った技の凄さに感動し続けて現在に至っています。
なんかいろいろとりとめのない話になりましたが、ふとそんなことを書いてみたくなってブログに書きました。
先生には大変失礼なことばかり書いてしまい、大変申し訳ございませんでした。
今更ながら、こう思います。
「先生から習った技は、他のどんな流派よりもカッコよくてスゴイ技ばかりだ」と・・・・・・。
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